高宗文成皇帝は、 諱 を濬といい、恭宗景穆皇帝の長子である。母は閭氏といい、真君元年六月に東宮で生まれた。帝は幼少より聡明で物事に通じ、世祖(太武帝)に寵愛され、常に側近くに置かれ、世嫡皇孫と号された。五歳の時、世祖が北巡した際、帝はその後を従い、虜の帥が一人の奴隷を縛り上げて罰を加えようとしたのに出逢った。帝はこれに向かって言った、「奴は今、我に遭ったのだ。汝はこれを釈放すべきである。」帥は命に従って縄を解いた。世祖はこれを聞き、「この児は小さいながらも、天子たることを自らに処そうとしている」と言い、その器量を奇異とした。成長して後は、風格が並外れ、大政があるごとに、常に可否の参決に与った。
興安元年
正平二年十月戊申、永安前殿において皇帝の位に即き、大赦を行い、年号を改めた。
興安元年冬十月、驃騎大將軍の元壽楽を太宰・ 都督 中外諸軍事・録 尚書 事に任じた。尚書の長孫渇侯を 尚書令 とし、儀同三司を加えた。
十一月丙子、二人(元壽楽と長孫渇侯)が権力を争い、共に死を賜った。癸未、広陽王の建が薨じ、臨淮王の譚が薨じた。甲申、皇妣(母)が薨じた。 太尉 の張黎と 司徒 の古弼は、議が旨に合わないとして、外都大官に左遷された。平南将軍の宋子侯周忸は爵を進めて楽陵王とし、南部尚書・章安子の陸麗は平原王とし、文武の官は各々位一等を加えられた。壬寅、景穆太子を追尊して景穆皇帝とし、皇妣を恭皇后とし、保母の常氏を尊んで保太后とした。隴西の屠各(部族名)の王景文が叛き、詔して統万鎮将・南陽王の恵寿にこれを討伐平定させた。
十二月戊申、恭皇后を金陵に祔葬した。乙卯、初めて仏法を復興した。丁巳、楽陵王の周忸を太尉とし、平原王の陸麗を 司徒 とし、鎮西将軍の杜元宝を 司空 とした。保達国と沙獵国が各々使者を遣わして朝献した。戊寅、建業公の陸俟は爵を進めて東平王とし、広平公の杜遺は爵を進めて王とした。癸亥、詔して営州に蝗害があったため、倉を開いて賑恤した。甲子、太尉・楽陵王の周忸は罪有りとして、死を賜った。濮陽公の閭若文は爵を進めて王とした。
興安二年
二年春正月辛巳、 司空 の杜元宝は爵を進めて京兆王とした。広平王の杜遺が薨じた。尚書 僕射 ・東安公の劉尼は爵を進めて王とした。建寧王の崇の子の麗を立てて済南王とした。癸未、詔して民との雑調十五を定めた。丙戌、尚書・西平公の源賀は爵を進めて王とした。
二月己未、 司空 ・京兆王の杜元宝が謀反を企て、誅殺された。建寧王の崇とその子の済南王の麗は元宝に引き入れられたとして、各々死を賜った。乙丑、京師より五千人を発して天淵池を穿った。この月、劉義隆の子の劭がその父を殺して自ら立った。
三月壬午、保太后を尊んで皇太后とした。安豊公の閭虎皮は爵を進めて河間王とした。乙未、疏勒国が使者を遣わして朝献した。
夏五月乙酉、崞山に行幸した。辛卯、宮中に還った。この月、劉劭の弟の駿が劭を殺して自ら立った。
閏月乙亥、太皇太后 赫連 氏が崩じた。
秋七月辛亥、陰山に行幸した。濮陽王の閭若文と征西大将軍・永昌王の仁が謀反を企てた。乙丑、仁に 長安 において死を賜い、若文は誅殺された。己巳、車駕は宮中に還った。この月、南郊に馬射台を築いた。
八月辛未、渴槃陁国が使者を遣わして朝貢した。戊戌、詔して曰く、「朕は眇身をもって、大業を纂承し、慈恵和順を宣べ、万宇を寧んじ済わすことができぬことを懼れ、夙夜兢兢として、淵谷に臨むが如しである。然るに即位以来、百姓は晏安し、風雨は順序を得、辺境には事無く、多くの祥瑞が兼ねて現れ、数え称えるに及ばない。また苑内において方寸の玉印を得た。その文に『子孫長寿』とあり、群公卿士は皆『 休 きかな』と言う。豈に朕一人がこの応を克く臻すことができようか、実に天地祖宗の降したる祐によるのである。兆庶と共にこの嘉慶を思うに、民に大酺三日を令し、諸の殊死以下の罪は各々一等を降すべし。」九月壬子、南郊において武を閲した。
冬十一月辛酉、信都・中山に行幸し、風俗を観察した。
十二月、河間郡鄚県の民で賊盗を為す者を誅し、男子で年十五以下の者は生口とし、従臣に班賜して各々差等有り。甲午、車駕宮に還る。庫莫奚・契丹・罽賓等十余国各々使いを遣わして朝貢す。北平公長孫敦の王爵を復す。
興光元年
興光元年春正月乙丑、 侍中 河南公伊馛を 司空 と為す。
二月甲午、帝道壇に至り、登りて図籙を受け、礼畢りて京師を曲赦し、班賞各々差等有り。
夏六月丙寅、陰山に行幸す。
秋七月庚子、皇子弘生まる。辛丑、大赦し、年を改む。
八月甲戌、趙王深薨ず。乙亥、車駕宮に還る。乙丑、皇叔虎頭・龍頭薨ず。
九月庚申、庫莫奚国名馬を献ず、一角有り、状麟の如し。是の月、都城門を閉じ、三日間大索し、姦人亡命数百人を獲る。
冬十一月、北鎮将房杖 蠕蠕 を撃ち、其の将豆渾と句等を虜にし、馬千余匹を獲る。戊戌、中山に行幸し、遂に信都に幸す。
十二月丙子、還りて霊丘に幸し、温泉宮に至る。庚辰、車駕宮に還る。出于国・叱万単国各々使いを遣わして朝献す。
太安元年
太安元年春正月辛酉、世祖及び恭宗の神主を太廟に奉る。車騎大将軍・楽平王抜罪有り、死を賜う。
二月癸未、武昌王提薨ず。
三月己亥、詔して曰く、「今始めて世祖・恭宗の神主を太廟に奉り、又西苑に於いて群神を遍秩す。朕大慶を以て百僚を饗賜す。而るに犯罪の人のみ独り即ち刑戮に就くは、群生を子育し、衆庶に矜及する所以に非ず。夫れ聖人の教えは、近きより及び遠し。是を以て周文は寡妻に刑し、兄弟に至りて以て家邦を御す。化苟くも近きに従わば、恩も亦た然るべし。其れ京師の死囚已下を曲赦せよ」と。
夏六月壬戌、詔して皇子の名を弘と曰う。京城を曲赦し、年を改む。癸酉、詔して曰く、「夫れ治を為す者は、宜しきに因りて以て官を設け、賢を挙げて以て職に任ず。故に上下和平し、民怨謗無し。若し官其の人に非ず、姦邪位に在らば、則ち政教陵遅し、凋薄に至る。黜陟を明らかに思うは、以て治道を隆くせんと為すなり。今尚書穆伏真等三十人を遣わし、州郡を巡行し、風俗を観察せしむ。其の境に入り、農墾殖せず、田畝多く荒るれば、則ち徭役時にあらず、力を廃するなり。耆老蔬食を飯い、少壮衣褐無ければ、則ち聚斂煩数にして、財に匱するなり。閭里空虚にして、民多く流散すれば、則ち綏導方無く、恩に疎かなるなり。盗賊公行し、劫奪息まずば、則ち威禁設けず、刑に失するなり。衆謗並び興り、大小怨み嗟き、善人隠伏し、佞邪途に当たれば、則ち法混淆し、政に昏きなり。諸此の比の如きは、黜して之を戮せよ。政に善き者は、褒めて之を賞せよ。其れ阿枉して自ら申す能わざる有らば、使いに詣りて告状するを聴け。使者検治す。若し信じて清能、衆の称美する所なるも、誣告して以て直を求めば、其の罪を反せしめよ。使者財を受け、断察平らかならざれば、公車に詣りて上訴するを聴け。其れ父母に孝せず、尊長に順ぜず、吏として姦暴なる、及び盗賊を為す者は、各々具に名を以て上らしめよ。其れ容隠する者は、匿す所の罪を以て之を罪せよ」と。是の月、遮逸国使いを遣わして朝貢す。戊寅、帝犢倪山に畋う。甲申、宮に還る。
秋七月丙辰、河西に行幸す。
八月丁亥、車駕宮に還る。
冬十月、波斯国及び疏勒国並びに使を遣わして朝貢す。庚午、遼西公常英を太宰と為し、爵を進めて王とす。
太安二年
二年春正月乙卯、皇后 馮氏 を立てる。
二月丁巳、皇子弘を立てて皇太子と為し、天下に大赦す。丁零数千家井陘山に亡匿し、聚まって寇盗と為る。詔して定州 刺史 許宗之・ 并州 刺史乞仏成龍に討たしめて之を平らぐ。
夏六月、羽林郎于判・元提等謀反を図り、誅せらる。
秋八月甲申、河西に畋猟す。是の月、平西将軍・漁陽公尉眷北に伊吾を撃ち、其の城を克ち、大いに獲て還る。
九月辛巳、河東公閭毗・零陵公閭紇並びに爵を進めて王と為す。
冬十月甲申、車駕宮に還る。甲午、京師を曲赦す。
十有一月、尚書・西平王源賀改めて隴西王に封ぜらる。嚈噠国・普嵐国並びに使を遣わして献を朝す。劉駿の濮陽太守姜龍駒・新平太守楊伯倫、各郡を棄て吏民を率いて来降す。
太安三年
三年春正月壬戌、崞山に畋猟す。戊辰、宮に還る。粟特国・于闐国各使を遣わして朝貢す。漁陽公尉眷を徴し、太尉に拝し、爵を進めて王と為し、尚書事を録す。
夏五月庚申、松山に畋猟す。己巳、宮に還る。皇弟新成を封じて陽平王と為す。
六月癸卯、陰山に行幸す。
秋八月、陰山の北にて狩猟を行う。己亥、宮に還る。
冬十月、東巡を行わんとし、詔して太宰常英に遼西の黄山に行宮を起つことを命ず。
十一月、蛮王の文虎龍、千余家を率いて内附す。
十二月、州鎮五つに蝗害あり、民飢う。使者を使わして倉を開き、もってこれを賑う。是の月、于闐・扶餘など五十余国、各使いを遣わして朝献す。
太安四年
四年春正月丙午朔、初めて酒禁を設く。乙卯、広寧の温泉宮に行幸し、遂に東巡して平州に至る。庚午、遼西の黄山宮に至り、数日遊宴し、高年に親しく対し、疾苦を労問す。
二月丙子、碣石山に登り、滄海を観る。山下にて群臣を大饗し、賞を班ち爵を進むること各差あり。碣石山を改めて楽遊山と為し、壇を築き行を記して海濱にす。戊寅、南幸して信都に至り、広川にて畋遊す。
三月丁未、中山にて馬射を観る。過ぐる所の郡国に復除一年を賜う。丙辰、車駕宮に還る。太華殿を起つ。乙丑、東平王陸俟薨ず。
夏五月壬戌、詔して曰く、「朕位に即きて今に至るまで、屡々寛大の旨を下し、煩苛を蠲除し、諸の不急を去り、物をして其の所を得せしめ、人をして其の業に安んぜんと欲す。然るに牧守百里、恩意を宣揚すること能わず、欲を求めて厭うこと無く、官物を断截して己に入れ、課調をして懸少ならしめ、深文極墨にして、罪を民に委ぬ。苛くして咎を免れんことを求め、曾て改めて懼れず。国家の制、賦役は乃ち軽し。比年已来、雑調減省す。然るに所在の州郡、咸に逋懸有り。職に在るの官、綏導を失するに非ずして、貪穢過度せば、誰か之を致さしむるや。今より後、常調充たず、民業に安んぜずば、民を宰むるの徒、死罪を加うべし。天下に申告して、朕が意に称えよ」。
六月丙申、松山にて狩猟を行う。
秋七月庚午、河西に行幸す。
九月乙巳、宮に還る。辛亥、太華殿成る。丙寅、群臣を饗し、天下に大赦す。
冬十月甲戌、北巡す。陰山に至り、故塚毀廃せる有り。詔して曰く、「昔、姫文枯骨を葬り、天下仁に帰す。今より後、墳隴を穿毀する者有らば、これを斬れ」。劉駿の将殷孝祖、清水の東に両城を修む。詔して鎮西将軍天水公封敕文らにこれを撃たしむ。辛卯、車駕車輪山に次す。石を累ねて行を記す。
十一月、詔して征西将軍皮豹子ら三将、三万騎をして助けて孝祖を撃たしむ。車駕漠を度る。蠕蠕絶跡して遠遁す。其の別部の烏朱賀頹・庫世頹、衆を率いて来降す。
十二月、征東将軍・中山王託真薨ず。
太安五年
五年春正月己巳の朔、征西将軍皮豹子が地を略して高平に至り、孝祖を大いに破り、五千余級を斬獲す。
二月己酉、侍中・ 司空 ・河南公伊馛薨ず。
三月庚寅、京師の死罪以下の者を曲赦す。
夏四月乙巳、皇弟の子推を封じて京兆王とす。
五月、居常国使いを遣わして朝献す。
六月戊申、行幸して陰山に至る。
秋八月庚戌、遂に雲中に幸す。壬戌、宮に還る。
九月戊辰、詔して曰く、「褒賞は必ず功ある者に於いて行い、刑罰は罪ある者を審らかにす、これは古今の同じくするところ、由来の常式なり。牧守民に莅み、百姓を侵食し、以て家業を営み、王賦充たず、歳満ちて職を去ると雖も、前の逋を計い、其の刑罪を正すべし。而るに主者は督察を失い、弾正を加えず、罪ある者をして優游して免るるを得せしめ、罪なき者をして妄りに其の辜を受く、是れ姦邪の路を啓き、貪暴の心を長ずるなり、豈に情を原き罪を処し、以て天下を正すと謂わんや。今より諸の遷代する者は、職に在る殿最を列ね、制に案じて治罪せよ。挙ぐるを克くする者は之に爵寵を加え、愆ある者は之に刑戮を肆せしめ、能ふと否とを殊貫せしめ、刑賞差えなからしむ。主者は明らかに条制を為し、以て常楷と為せ。」儀同三司敦煌公李宝薨ず。
冬十二月戊申、詔して曰く、「朕洪業を承け、群有を統御し、政化を恢めんと思い、以て兆民を済わんとす。故に薄く賦斂して其の財を実たせ、軽く徭役して其の力を紡ぎ、百姓をして業を修め、人匱乏せざらしめんと欲す。而るに六鎮・雲中・高平・二雍・秦州、遍く災旱に遇い、年穀収めず。其れ開倉廩して以て之を賑せ。流徙する者有らば、諭して桑梓に還らしめよ。他界に市糴せんと欲せば、関傍の郡と為り、其の交易の路を通ぜしめよ。若し典司の官、分職均しからずして、上恩下に達せず、下民時に贍わざらしむるは、重罪を加え、縱す所有る無からしめよ。」
和平元年
和平元年春正月甲子の朔、大赦し、元を改む。庚午、詔して 散騎常侍 馮闡を劉駿に使わす。
二月、衛将軍・楽安王良、東雍・吐京・六壁諸軍を督して西に趣き河西に至り、征西将軍皮豹子等、河西諸軍を督して南に趨り石楼に至り、以て河西の叛胡を討つ。
夏四月戊戌、皇太后常氏、寿安宮に崩ず。五月癸酉、昭太后を広寧鳴鶏山に葬る。
六月甲午、詔して征西大将軍・陽平王新成等に統万・高平諸軍を督して南道より出で、南郡公李惠等に涼州諸軍を督して北道より出でしめ、吐谷渾の什寅を討たしむ。崔浩の誅せらるるや、史官遂に廃す、是に至りて復た置く。河西の叛胡、長安に詣でて罪を首し、使者を遣わして之を安慰す。
秋七月乙丑、劉駿が使者を遣わして朝貢した。壬午、河西に行幸した。
八月、西征の諸軍は西平に至り、什寅は南山に走って保った。
九月、諸軍は河を渡ってこれを追ったが、瘴気に遇い、多く疫病にかかり、そこで軍を引き返した。家畜二十余万を獲た。庚午、輿駕は宮に還った。
冬十月、居常王が馴象三頭を献上した。
十有一月、詔して散騎侍郎盧度世・員外郎朱安興を劉駿に使わした。
和平二年
二年春正月乙酉、詔して曰く、「刺史は民を治め、万里の表(模範)である。近頃は毎度発調(徴発)の際に、民に逼迫して仮貸(借金)させ、大商人や富商は時利を狙い、十日ほどの間に利益を十倍以上に増やす。上下通同し、分かちて屋を潤す(私腹を肥やす)。故に編戸の家は凍餒に苦しみ、豪富の門は日に兼積(蓄え)を増す。為政の弊、これに過ぐるはない。一切これを禁絶せよ。犯す者は十疋以上は皆死罪とする。天下に布告し、皆に禁を知らしめよ」。
二月辛卯、中山に行幸した。丙午、 鄴 に至り、ついで信都に幸した。
三月、劉駿が使者を遣わして朝貢した。輿駕の過ぎる所では、皆高年者に親しく対面し、民の疾苦を問うた。詔して民で年八十以上の者は、一子を役に従わせないとした。霊丘の南に山があり、高さ四百余丈である。そこで詔して群官に山の峰を仰ぎ射させたが、これを越える者はなかった。帝は弓を引き絞って矢を放つと、山を出ること三十余丈、山の南を過ぎること二百二十歩に至り、ついに石に刊して銘を勒(刻)した。この月、 并 州・肆州の五千人を発して河西の猟道を治めさせた。辛巳、輿駕は宮に還った。
夏四月乙未、侍中・征東大将軍・河東王閭毗が薨じた。五月癸未、詔して南部尚書黄盧頭・李敷らに諸州の考課を行わせた。
秋七月戊寅、皇弟小新成を済陰王に封じ、征東大将軍を加え、平原に鎮させた。天賜を汝陰王に封じ、征南大将軍を加え、虎牢に鎮させた。万寿を楽浪王に封じ、征北大将軍を加え、和龍に鎮させた。洛侯を広平王に封じた。壬午、山北を行巡した。
八月戊辰、波斯国が使者を遣わして朝献した。丁丑、輿駕は宮に還った。
冬十月、詔して仮員外 散騎常侍 游明根・員外郎昌邑侯和天徳を劉駿に使わした。博陵の深沢・章武の束州で、盗賊が県令を殺害したが、州軍が討伐して平定した。広平王洛侯が薨じた。
和平三年
三年春正月壬午、車騎大将軍・東郡公乙渾を太原王とした。癸未、楽浪王万寿が薨じた。
二月癸酉(の日)、崞山にて狩猟を行い、ついで旋鴻池にて漁を見物した。
三月甲申(の日)、劉駿が使者を遣わして朝貢した。高麗・蓰王・契嚙・思厭於師・疏勒・石那・悉居半・渴槃陁の諸国がそれぞれ使者を遣わして朝献した。
夏六月庚申(の日)、行幸して陰山に至る。詔して将軍陸真に雍州の叛 氐 仇傉檀らを討たせ、これを平定させた。
秋七月壬寅(の日)、河西に行幸した。九月壬辰(の日)、征西大将軍・常山王 拓跋 素が 薨去 した。
冬十月丙辰(の日)、詔して曰く、「朕は大業を継承し、万国を統御し、南面して拱手し、政務を群司に委ね、治道を明らかにして、寧一を致さんと欲する。三代の隆盛は、みな年齢を崇尚せざるはなかった。今、選挙の官は多く順序を以てせず、班白(年老いた者)を後ろに置き、晩進(新参者)を先に居らしめる。これいわゆる彝倫の攸敍(常道の秩序)なるや!諸曹の選補は、おのおのまず労旧(功労ある旧臣)の才能を尽くすべきである。」この月、詔して員外 散騎常侍 游明根、員外郎・昌邑侯和天徳を劉駿のもとに使わした。
十一月壬寅(の日)、輿駕(天子の車駕)は宮中に還った。
十二月乙卯(の日)、戦陣の法十余条を制定した。大儺(鬼払いの儀式)に因って兵を耀かし、飛龍・騰蛇・魚麗の変(陣形の変化)あり、もって威武を示した。戊午(の日)、零陵王閭拔が薨去した。
和平四年
四年春三月乙未(の日)、京師の民で七十歳以上の者に太官の厨食(宮中の食事)を賜い、その年を終わらせた。皇子胡仁が薨じ、追封して楽陵王とした。乙巳(の日)、詔して曰く、「朕は旧典に則り、職を分かち官を設け、治化を敷揚し、諸々の功績を明らかにせんと欲する。然るに職にある者は皆、顕擢を蒙り、事任を委ねられている。自らを励み誠を尽くし、務めて徭役を省き、兵民を優逸ならしめ、家に給え人に贍(豊か)からしむべきである。今、内外の諸司・州鎮の守宰が、兵民を侵して使役し、労役は一つではない。今より後、みだりに召役し、雇いを強いて定めに従わざるは、皆枉法と同じく論ずる。」
夏四月癸亥(の日)、上は西苑に行幸し、自ら虎三頭を射た。五月壬辰(の日)、侍中・漁陽王尉眷が薨去した。壬寅(の日)、行幸して陰山に至る。
秋七月壬午(の日)、詔して曰く、「朕は毎年、秋の閑月に、群官に命じて平らかな地で武を講ぜしめる。行幸する所には必ず宮壇を立て、糜費の功は、労損一つではない。旧来の通りとすべきで、何ぞ必ずしも改作せんや。」
八月丙寅(の日)、ついで河西にて狩猟を行った。詔して曰く、「朕は時に順って狩猟するが、従官の殺獲が過度で、禽獣をことごとく尽くし、合囲せざるの義に背いている。従官及び典囲の将校に勅せよ、今より後、濫殺を聴さず。その狩猟で獲た皮肉は、別に頒賚せよ。」壬申(の日)、詔して曰く、「以前、民が飢寒に遭い、自ら存済できず、男女を売り買いする者があったので、ことごとくその家に還すよう仰せ出した。ところが、勢力に因縁し、或いは私に行って請託し、互いに通容し、時に応じて検査せず、良家の子女がなお奴婢となっている。今、精しく究め、贖い取ることを聴さず、犯せば罪を加える。もしなお検査して還さざるは、その父兄の上訴を聴き、人を掠うをもって論ずる。」
九月辛巳(の日)、車駕は宮中に還った。
冬十月、定・相二州に霜が降りて穀物を害したため、民の田租を免じた。この月、詔して員外 散騎常侍 游明根、 驍 騎将軍・昌邑子婁内近、寧朔将軍・襄平子李五鱗を劉駿のもとに使わした。
十二月辛丑(の日)、詔して曰く、「名位が異なれば礼も数が異なり、もって等級を殊にし、軌儀を示す。今、喪葬嫁娶の大礼が備わらず、貴勢豪富が度を越えて奢靡にふけり、いわゆる典憲を式昭(明らかに示)すものではない。有司はこれがための条格を作り、貴賤に章(区別)あり、上下ことごとく序(秩序)あらしめ、これを令に著せよ。」壬寅(の日)、詔して曰く、「夫れ婚姻は、人道の始めである。ここをもって夫婦の義は三綱の首であり、礼の重きものはこれに過ぎるはない。尊卑高下は、区別せしめるべきである。然るに中代以来、貴族の門は多く法に率わず、或いは利財賄に貪り、或いは私好に因縁し、苟合に在りて、選択する所なく、貴賤を分かたず、巨細同じく貫き、清化を塵穢し、人倫を虧損する。将に何を以てか典謨を宣示し、来裔に垂れん。今、制す。皇族・師傅・王公侯伯及び士民の家は、百工・伎巧・卑姓と婚姻してはならず、犯す者は罪を加える。」
和平五年
五年春正月丁亥、皇弟の雲を任城王に封ず。
二月、詔して州鎮十四が去歳に虫害・水害ありしを以て、倉を開きて賑恤す。
夏四月癸卯、頓丘公李峻、爵を進めて王と為す。
閏月戊子、帝は旱の故を以て、膳を減じ躬を責む。是の夜、澍雨大いに降る。
五月庚申、劉駿死し、子の子業僭立す。
六月丁亥、行幸して陰山に至る。
秋七月辛丑、北鎮の游軍、大いに蠕蠕を破る。壬寅、行幸して河西に至る。
九月辛丑、車駕宮に還る。
冬十月、琅邪王司馬楚之薨ず。
十二月、南秦王楊難當薨ず。吐呼羅国、使いを遣わして朝献す。
和平六年
六年春正月丙申、大赦天下す。
二月丁丑、行幸して樓煩宮に至る。高麗・蓰王・對曼諸国、各使いを遣わして朝献す。
三月戊戌、相州刺史西平郡王吐谷渾権薨ず。乙巳、車駕宮に還る。
夏四月、破洛那国が汗血馬を献じ、普嵐国が宝剣を献じた。
五月癸卯、帝は太華殿において 崩御 した。時に年二十六。六月丙寅、尊 諡 を文成皇帝とし、廟号を高宗と上った。八月、雲中の金陵に葬った。
【論】
史臣が曰く、世祖は四方を経略し、内は頗る虚耗した。既にして国に釁あり時に艱難あり、朝野は楚楚たり。高宗は時に消息し、静をもってこれを鎮め、威を養い徳を布き、中外を懐緝す。自ら機悟深裕にして、矜済を心とせるに非ざれば、亦た何ぞ能く此の如くならんや。君人の度有りと謂うべし。
校勘記