孝静皇帝、 諱 は善見、清河文宣王元亶の世子なり、母は胡妃と曰う。永熙三年、通直散騎侍郎に拝せられ、八月、驃騎大将軍・開府儀同三司となる。出帝既に関中に入り、斉献武王奉迎克わず、乃ち百僚と会議し、帝を推して肅宗の後を奉ぜしむ、時に年十一。
天平元年
冬十月丙寅、城東北に即帝位し、大赦天下し、永熙三年を改めて天平元年と為す。庚午、太師・趙郡王元諶を大司馬と為し、 司空 ・咸陽王元坦を 太尉 と為し、開府儀同三司高盛を 司徒 と為し、開府儀同三司高昂を 司空 と為す。壬申、太廟に事有り。詔して曰く、「安んずる所に能く遷るは、古よりの明典なり;居る所定まらざるは、往昔の成規なり。是を以て殷は八城に遷り、周は三地を卜す。吉凶数有り、隆替恒無し。事は変通に由りて起こり、理は已むを得ざるに出づる故なり。高祖孝文皇帝、乾象を式観し、俯いて人謀に協い、武州より発し、来りて嵩県に幸す。魏は旧国と雖も、其の命は惟れ新たなり。正光の季に及び、国歩甚だ棘く、喪乱已まず、寇賊交侵し、我が生民をして措手する所無からしむ。今遠く古式に遵い、深く時事を験し、亀を考い吉を襲い、宅を漳滏に遷す。庶幾くは洪基を克隆し、 宝暦 を再昌せんことを。主者は明らかに条格を為し、時に及んで発邁せよ」。丙子、車駕北して 鄴 に遷る。詔して斉献武王に留まって後を部分せしむ。司州を改めて洛州と為し、 衞 大将軍・ 尚書 令元弼を驃騎大将軍・儀同三司・洛州 刺史 と為し、 洛陽 を鎮守せしむ。詔して遷に従うの戸、百官に復を給すること三年、安居の人五年とす。
十有一月、兗州刺史樊子鵠・南青州刺史大野拔、瑕丘に拠りて反す。庚寅、車駕鄴に至り、北城相州の廨に居す。相州刺史を改めて司州牧と為し、魏郡太守を魏尹と為し、鄴の旧人を西径百里に徙して新たに遷るの人を居らしめ、鄴を分かち臨漳県を置き、魏郡・林慮・広平・陽丘・汲郡・黎陽・東濮陽・清河・広宗等の郡を以て皇畿と為す。
十有二月丁卯、燕郡王賀抜允薨ず。庚午、詔して内外厳を解き、百司悉く旧章に従い、従容雅服し、矛釤を以て事に従うことを得ず。丙子、 侍中 封隆之等五人を遣わして大使と為し、天下を巡諭せしむ。丁丑、畿内を赦す。閏月、蕭衍、元慶和を鎮北将軍・魏王と為し、入りて平瀬郷を拠る。宇文黒獺、出帝を害するに及び、乃ち南陽王宝炬を以て尊号を僭称せしむ。初めて四中郎将を置き、礓石橋に東中を、蒲泉に西中を、済北に南中を、洺水に北中を置く。
天平二年
二年春正月、宝炬の渭州刺史可朱渾道元、部を擁して来降す、斉献武王迎え納れ、其の廩食を賑う。己巳、詔して斉献武王を相国と為し、黄鉞を仮し、剣履上殿し、入朝趨らず、余は悉く旧の如しとす。王固く譲りて受けず。乙亥、兼尚書右 僕射 ・東南道行臺元晏、元慶和を討ち、破り走らす。
二月壬午、太尉・咸陽王元坦を 太傅 と為し、司州牧・西河王元悰を太尉と為す。己丑、前南青州刺史大野拔、樊子鵠を斬りて降る、兗州平ぐ。戊戌、蕭衍の司州刺史陳慶之、 豫 州を寇し、刺史堯雄撃ち走らす。
三月辛酉、 司徒 高盛を太尉と為し、 司空 高昂を 司徒 と為し、済陰王元暉業を 司空 と為す。斉献武王、山胡劉蠡升を討ち平げ、之を斬る。其の子南海王復た帝号を僭称す、献武王進みて撃ち、破り之を擒にし、其の弟西海王・皇后・夫人以下四百人、並びに逋逃の人二万余戸を獲る。辛未、旱の故を以て、詔して京邑及び諸州郡県に骸骨を収瘞せしむ。是の春、高麗・契丹並びに使を遣わして朝貢す。
夏四月、前青州刺史侯淵反し、青斉を攻掠す。癸未、済州刺史蔡儁討ち平げ之。壬辰、京師の見囚を降す。
五月、大旱し、城門・殿門及び省・府・寺・署・坊の門に人を澆ぐことを勒し、王公を簡べず、日限無く、雨を得て乃ち止む。
六月、元慶和、南 豫 州を寇し、刺史堯雄大いに之を破る。
秋七月甲戌、汝南王元悦の孫綽を琅邪王に封ず。
八月辛卯、 司空 ・済陰王元暉業、事に坐して免ぜらる。甲午、衆七万六千人を発して新宮を営む。
九月、斉献武王、治民の官多く法を奉ぜざるを以て、朝士清正なる者を選び、州別に一人を遣わし、疾苦を問わしむることを請う。丁巳、開府儀同三司・襄城王元旭を 司空 と為す。
冬十一月丁未、蕭衍の将柳仲礼が荊州を寇し、刺史王元これを撃破す。癸丑、円丘を祀る。甲寅、閶闔門に災あり、龍が 并州 の人家の井中に見ゆ。丙寅、詔して斉文襄王に起家して 散騎常侍 ・驃騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司・太原郡開国公と為し、食邑三千戸を賜う。
十二月壬午、車駕鄴の東に狩す。甲午、文武の百官、事に量りて各々禄を給す。
天平三年
三年春正月癸卯朔、前殿にて群臣を饗す。戊申、詔して百官に士を挙げしめ、才に称わざる者を挙げたるは両者を免ず。斉献武王、宝炬の西夏州を襲い、これを克つ。詔して斉献武王に九錫の礼を加えんとし、侍中元子思に敦諭せしむ。固辞によりて止む。
二月丁未、蕭衍の光州刺史郝樹、州を挙げて内附す。丁酉、詔して斉文襄王に使持節・ 尚書令 ・大行臺・大 都督 を加え、 鮮卑 ・ 高車 の酋庶を皆これに隷せしむ。
三月甲寅、開府儀同三司・華山王鷙を大司馬と為す。丁卯、陽夏太守盧公纂、郡を拠りて南に叛く、大 都督 元整これを破る。
夏四月丁酉、昌楽王誕薨ず。
五月癸卯、鰥寡孤独貧窮の者に衣物を賜うこと各々差あり。丙辰、録尚書事・西河王悰を司州牧と為す。戊辰、太尉高盛薨ず。
六月辛巳、趙郡王諶薨ず。
秋七月庚子、大赦天下す。蕭衍の夏州刺史田獨鞞・潁川防城 都督 劉鸞慶、並びに州を挙げて内附す。
八月、 并 ・肆・汾・建の四州に霜隕り、大いに飢う。
九月壬寅、定州刺史侯景を以て尚書右僕射・南道行臺を兼ねしめ、諸軍を節度して南討せしむ。丙辰、陽平の人路季礼、衆を聚めて反す。辛酉、御史中尉竇泰これを討ち平らぐ。
冬十一月戊申、詔して尚書に河北の流移飢人を巡検する使者を遣わすべし、邢陘・滏口の経る所、もし死屍あれば、即ちこれを蔵掩せよ。霊台の枯骨を通夢に感ずることなからしめ、広漢の露骸夜哭に聞ゆること時あらしむるなかれ。侯景、蕭衍の楚州を攻克し、刺史桓和を獲る。
十二月、 并 州刺史尉景を 太保 と為す。辛未、使者を遣わして板を以て老人に官を仮し、百歳以下各々差あり。壬申、大司馬・清河王亶薨ず。丁丑、斉献武王、 晋陽 より西討し、蒲津に次ぐ。 司徒 公・大 都督 高敖曹は上洛に趨き、車騎大将軍竇泰は潼関より入る。癸未、太傅・咸陽王坦を太師と為す。乙酉、勿吉国使いを遣わして朝貢す。
是歳、高麗国使いを遣わして朝貢す。
天平四年
四年春正月、十五日の相偷戯を禁ず。竇泰、利あらずして自殺す。丁巳、高敖曹、上洛を攻め、これを克ち、宝炬の驃騎大将軍・洛州刺史泉企を擒う。張説の説に従い、今『周書』に拠りて改む。汝陽王暹を以て録尚書事と為す。
夏四月辛未、七帝の神主を新廟に遷し、天下に大赦し、内外の百官普く一階を進む。先に、 滎陽 の人張儉ら大騩山に衆を聚めて反し、宝炬に通ず。壬辰、武衛将軍高元盛、これを討ち破る。
六月己巳、華林園に幸して訟を理す。辛未、詔して尚書に骸を掩い胾を埋め、囚徒を推録せしむ。壬午、閶闔門災あり。先に、蕭衍、益州刺史傅和に因りて好を通ぜんことを請う。
秋七月甲辰、兼 散騎常侍 李諧・兼吏部郎中盧元明・兼通直 散騎常侍 李鄴を遣わし、蕭衍に使せしむ。
八月、宝炬・宇文黒獺、陝州を寇し、城陥ち、刺史李徽伯、黒獺に殺さる。
九月、侍中元子思、その弟子華と謀りて西に入らんとし、並びに死を賜う。
閏月乙丑、衛将軍・右光禄大夫蔣天楽、反を謀り、誅せらる。京師の酒を酤うことを禁ず。
冬十月、咸陽王坦を以て録尚書事と為す。壬辰、斉献武王西討し、沙苑に至り、克たずして還る。己酉、宝炬の行台宮景寿・ 都督 楊白駒、洛州を寇す。大 都督 韓延、これを大破す。宝炬またその子大行台元季海・大 都督 独孤如願を遣わし、洛州を逼る。刺史広陽王湛、城を棄てて退還す。季海・如願、遂に金墉を拠る。潁州長史賀若微、刺史田迅を執して西に叛き、宝炬の 都督 梁回を引きて城を拠らしむ。宝炬またその 都督 趙継宗・右丞韋孝寛らを遣わし、 豫 州を攻め陥す。十有一月丙子、驃騎大将軍・儀同三司万俟普を以て太尉と為す。十有二月甲寅、蕭衍、使いを遣わし朝貢す。河間の人邢摩納・范陽の人盧仲礼ら、各々衆を聚めて反す。
是の歳、高麗・ 蠕蠕 国、並びに使いを遣わし朝貢す。
元象元年
元象元年春正月、巨象自ら碭郡の陂中に至る。南兗州、これを獲て鄴に送る。丁卯、大赦し、元を改む。大 都督 賀抜仁、宝炬の南汾州を攻む。己卯、これを抜き、その刺史韋子粲を擒う。行台任祥、 豫 州刺史堯雄らを率い、大行台侯景・ 司徒 高敖曹・大 都督 万俟受洛干らと北 豫 に於いて相会し、倶に潁州を討つ。梁回ら城を棄てて遁走す。潁州平ぐ。
二月、 豫 州刺史堯雄、揚州を攻め、これを抜き、宝炬の義州刺史韓顕・揚州長史丘岳を擒え、京師に送る。丙辰、兼 散騎常侍 鄭伯猷を遣わし、蕭衍に使せしむ。
三月、斉献武王固より大丞相を解かんことを請い、詔してこれに従う。
夏四月庚寅、畿内を曲赦す。壬辰、斉献武王、晋陽に還り、酒禁を開くことを請う。
六月壬辰、帝は華林都堂に幸して訴訟を聴く。この夏、山東に大水あり、蝦蟆樹上に鳴く。
秋七月乙亥、高麗国は使いを遣わして朝貢す。行台侯景・ 司徒 公高敖曹は宝炬の将独孤如願を金墉に囲み、宝炬・宇文黒獺ともに来りて救いに赴く。大 都督 厙狄干は諸将を率いて前駆し、斉献武王は衆を総べて継いで進む。
八月辛卯、河陰に戦い、これを大破す。その大 都督 ・儀同三司寇洛生ら二十余人を斬り、数万を俘獲す。 司徒 公高敖曹・大 都督 李猛・宋顕はともに戦没す。宝炬はその将長孫子彦を留めて金墉を守らしむ。壬辰、斉献武王は河を渡り、子彦は城を棄てて走る。
九月、大 都督 賀抜仁は邢摩納・盧仲礼らを撃ち、これを破り平らぐ。
冬十月、蕭衍は使いを遣わして朝貢す。
十一月庚寅、陸操を遣わして蕭衍に使わす。斉献武王来朝す。
十二月甲辰、晋陽に還る。
興和元年
興和元年春正月辛酉、 尚書令 孫騰を以て 司徒 となす。
三月甲寅朔、常山郡王巶の第二子曜を陳郡王に封ず。
夏五月、斉文襄王来朝す。甲戌、皇后高氏を立てる。乙亥、大赦天下す。この月、高麗国は使いを遣わして朝貢す。
六月乙酉、尚書左僕射司馬子如を以て山東黜陟大使とし、まもなく東北道大行台となし、勇士を差選す。庚寅、前潁州刺史奚思業を河南大使とし、勇士を簡発す。丁酉、蕭衍は使いを遣わして朝貢す。戊申、開府儀同三司・汝陽王暹薨ず。
秋七月丁丑、詔して斉献武王を相国・録尚書事・大行台となす。相国を固辞す。
八月壬辰、兼 散騎常侍 王元景・兼通直 散騎常侍 魏収を蕭衍に使わす。
九月甲子、畿内の民夫十万人を発して 鄴城 を城らしめ、四十日にして罷む。辛未、畿内の死罪以下を曲赦し、各差あり。
冬十一月癸亥、新宮が完成したことを以て、大赦を天下に下し、元号を改める。八十歳以上には綾帽及び杖を賜い、七十歳以上には帛を賜い、及び疾病により廃疾の者には粟帛を賜う。城を築いた夫役には、一年間の賦役免除を与える。
興和二年
二年春正月壬申、太保尉景を太傅と為し、驃騎大將軍・開府儀同三司厙狄干を太保と為す。丁丑、新宮に移り御し、大赦し、内外の百官に普く一階を進め、営構の主将には別に一階を優加する。
三月己卯、蕭衍が使者を遣わして朝貢す。
夏五月己酉、西魏の行臺宮延和・陝州刺史宮元慶が戸を率いて内属し、これを河北に置く。新たに附いた者には賑廩をそれぞれ差等あり。壬子、兼 散騎常侍 李象を遣わして蕭衍に使わす。
閏月己丑、皇兄景植を宜陽王に封じ、皇弟威を清河王に封じ、謙を潁川王に封ず。六月壬子、大司馬華山王鷙薨ず。
冬十月丁未、蕭衍が使者を遣わして朝貢す。
十二月乙卯、兼 散騎常侍 崔長謙を遣わして蕭衍に使わす。
是の歳、蠕蠕・高麗・勿吉國並びに使者を遣わして朝貢す。
興和三年
三年春二月甲辰、阿至羅の吐拔那渾が大いに部を率いて来降す。
三月己酉、梁州の人公孫貴賓が衆を聚めて反し、自ら天王と号す。陽夏鎮将が討ちこれを擒らう。
夏四月戊申、阿至羅國の主副伏羅越居の子去賓が来降し、高車王に封ぜらる。
六月乙丑、蕭衍が使者を遣わして朝貢す。
秋七月、斉の文襄王、 晉 陽に如く。己卯、宜陽王景植薨ず。
八月甲子(の日)、兼 散騎常侍 の李騫を派遣して蕭衍のもとに使わす。
冬十月癸卯(の日)、斉の文襄王が晋陽より来朝す。先に、詔して文襄王に群臣と麟趾閣において新制を議定せしめ、甲寅(の日)、天下に頒布す。己巳(の日)、夫役五万人を発して漳濱堰を築かしめ、三十五日にして罷む。癸亥(の日)、車駕は西山に狩す。
十有一月戊寅(の日)、宮に還る。丙戌(の日)、開府儀同三司・彭城王元韶を太尉と為し、度支尚書の胡僧敬を 司空 と為す。
この年、蠕蠕・高麗・勿吉国、並びに使を遣わして朝貢す。
興和四年
四年春正月丙辰(の日)、蕭衍、使を遣わして朝貢す。夏四月丙寅(の日)、兼 散騎常侍 の李絵を派遣して蕭衍のもとに使わす。乙酉(の日)、侍中・広陽王元湛を太尉と為し、尚書右僕射の高隆之を 司徒 と為し、太尉・彭城王元韶を録尚書事と為す。丁亥(の日)、太傅尉景、事に坐して驃騎大将軍・開府儀同三司に降る。辛卯(の日)、太保の厙狄干を太傅と為し、領軍将軍の婁昭を大司馬と為し、祖裔を尚書右僕射に封ず。
五月辛巳(の日)、斉の献武王来朝し、百官に月に一度政事を敷奏せしめ、仄陋を明らかに揚げ、諫言を納れ邪を屏い、自ら獄訟を理め、勤怠を褒黜すべしと請う。牧守に愆有らば、節級相坐すべし。椒掖の内においては、進御を序に以てすべし。後園の鷹犬は、悉く放棄すべしと。六月、晋陽に還る。丙申(の日)、前侍中・楽浪王元忠の爵位を復す。丁酉(の日)、陳留王元景皓・常山王元紹宗・高密王元永業の爵位を復す。
秋八月庚戌(の日)、開府儀同三司・吏部尚書の侯景を兼尚書僕射・河南行臺と為し、機に随い討防せしむ。
冬十月甲寅(の日)、蕭衍、使を遣わして朝貢す。斉の献武王、宝炬の玉壁を囲む。
十有一月壬午(の日)、師を班す。驃騎大将軍・開府儀同三司・青州刺史・西河王元悰薨ず。
十有二月辛亥(の日)、兼 散騎常侍 の陽斐を派遣して蕭衍のもとに使わす。
この年、蠕蠕・高麗・吐谷渾国、並びに使を遣わして朝貢す。
武定元年
武定元年春正月壬戌朔(の日)、大赦天下し、改元す。己巳(の日)、車駕は邯鄲の西山に蒐す。癸酉(の日)、宮に還る。
二月壬申(の日)、北 豫 州刺史の高仲密、虎牢を拠りて西に叛す。
三月、宝炬はその子の突と宇文黒獺を遣わして軍勢を率いて仲密を救援しに来た。庚子、河橋南城を包囲した。丙午、帝は自ら訴訟を聴いた。戊申、斉献武王が黒獺を討ち、邙山で戦い、これを大破し、宝炬の兄の子である臨洮王森、蜀郡王栄宗、江夏王昇、鉅鹿王闡、譙郡王亮、驃騎大将軍・儀同三司・太子詹事趙善、督将参僚ら四百余人を捕らえ、六万を捕虜とし斬首し、甲冑兵器・牛馬は数え切れなかった。 豫 ・洛二州が平定された。斉献武王は追撃して恒農に至り、引き返した。
夏四月、彭城王韶の弟の襲を武安王に封じた。
五月壬辰、虎牢を奪回したことを以て、天下の死罪以下の囚人を赦免した。乙未、吏部尚書侯景を 司空 とした。
六月乙亥、蕭衍が使者を遣わして朝貢した。戊寅、前員外散騎侍郎元長春を南郡王に封じた。
秋八月乙未、汾州刺史斛律金を大司馬とした。壬午、兼 散騎常侍 李渾を蕭衍に派遣した。この月、斉献武王は夫役五万を召集し、肆州北山に城を築かせ、西は馬陵戍から、東は土隥に至るまでとした。四十日で終わらせた。
冬十一月甲午、車駕は西山で狩猟を行った。乙巳、宮中に還った。
この年、吐谷渾・高麗・蠕蠕国がともに使者を遣わして朝貢した。
武定二年
二年春正月、地豆于国が使者を遣わして朝貢した。
二月丁卯、徐州の人劉烏黒が徒党を集めて反乱を起こした。行臺 慕容 紹宗を派遣してこれを討ち平定した。
三月、蕭衍が使者を遣わして朝貢した。旱魃のため、死罪以下の囚人を赦免した。丙午、開府儀同三司孫騰を太保とした。壬子、斉文襄王を大将軍とし、侍中を兼任させ、その文武の職務・賞罰の諸規定は、彼に諮問して決めることとした。 中書 監元弼を録尚書とし、左僕射司馬子如を 尚書令 とし、今上を右僕射とした。
夏四月、室韋国が使者を遣わして朝貢した。五月甲午、 散騎常侍 魏季景を蕭衍に派遣した。丁酉、太尉・広陽王湛が 薨去 した。
秋八月癸酉、 尚書令 司馬子如は事に坐して免官された。九月甲申、開府儀同三司・済陰王暉業を太尉とした。太師・咸陽王坦は事に坐して免官され、王として邸宅に帰った。
冬十月丁巳、太保孫騰・大司馬高隆之をそれぞれ括戸大使とし、合わせて逃亡戸六十万余りを捕捉した。
十一月、西河で地が陥没し、火が出た。甲申、 司徒 高隆之を 尚書令 とし、前大司馬婁昭を 司徒 とした。斉文襄王は晋陽に行った。庚子、車駕は円丘で祭祀を行った。辛丑、蕭衍が使者を遣わして朝貢した。壬寅、斉文襄王は献武王に従って山胡を討ち、これを破り、一万余戸を俘獲し、諸州に分配した。
この年、吐谷渾・高麗・蠕蠕・勿吉国が使者を遣わして朝貢した。
武定三年
三年春正月丙申、兼 散騎常侍 李奬を蕭衍に遣わして使節とした。丁未、齊獻武王は 并 州に 晉 陽宮を置き、配没の口を処することを請うた。
二月庚申、吐谷渾国はその従妹を奉じて後庭に備え、容華嬪として納れた。
夏五月甲辰、大赦を天下に下す。
秋七月庚子、蕭衍が使者を遣わして朝貢した。
冬十月、中書舍人尉瑾を蕭衍に遣わして使節とした。乙未、齊獻武王は邙山の俘虜を請い、その桎梏を解き、人間の寡婦に配することを求めた。
十二月、 司空 侯景を 司徒 と為し、中書令韓軌を 司空 と為す。戊子、太保孫騰を録尚書事と為す。
この年、高麗・吐谷渾・蠕蠕国が使者を遣わして朝貢した。
武定四年
四年夏五月壬寅、蕭衍が使者を遣わして朝貢した。
六月庚子、 司徒 侯景を河南大行臺と為し、機に応じて討伐防禦せしむ。
秋七月壬寅、兼 散騎常侍 元廓を蕭衍に遣わして使節とした。
八月、洛陽の漢魏石経を鄴に移す。齊獻武王は鄴より衆を帥いて西伐し、文襄王は 晉 州に会す。
九月、玉壁を囲みて之を挑むも、寶炬・黑獺は敢えて応ぜず。
冬十一月、斉の献武王( 高歓 )が病を得、軍を返す。文襄王(高澄)は晋陽に赴く。
この年、室韋・勿吉・地豆于・高麗・蠕蠕の国々が、ともに使者を遣わして朝貢した。
武定五年
五年春正月丙午、斉の献武王が晋陽で薨去したが、喪を秘して発せず。辛亥、 司徒 の侯景が反し、潁州刺史の司馬世雲が城を挙げてこれに応じた。侯景は潁城に入り拠り、 豫 州刺史の高元成・襄州刺史の李密・広州刺史の暴顕らを誘い捕らえた。(朝廷は) 司空 の韓軌、驃騎大将軍・儀同三司の賀抜勝・可朱渾道元、左衛将軍の劉豊らを派遣し、軍を率いてこれを討たせた。侯景は使者を遣わして宝炬(西魏の文帝)に降り、援軍を請うた。宝炬はその将の李景和・王思政に騎兵を率いて赴かせた。王思政らは潁川に入り拠ったので、侯景は出走して 豫 州に向かった。乙丑、蕭衍(梁の武帝)が使者を遣わして朝貢した。
二月、侯景は再び宝炬に背き、蕭衍に帰順した。蕭衍は侯景を河南大将軍に任じ、承制(皇帝の命令を受けて便宜を図る権限)を与えた。
夏四月壬申、大将軍斉の文襄王が来朝した。甲午、兼 散騎常侍 の李緯を蕭衍のもとに派遣した。
五月丁酉朔、天下に大赦を行った。戊戌、尚書右僕射・襄城王の元旭を太尉とした。甲辰、太原公(後の北斉の文宣帝高洋)を 尚書令 とし、 中書監 を領せしめ、その他の官職はもとのままとし、政事を諮問させた。青州刺史の尉景を大司馬とし、開府儀同三司の厙狄干を太師とし、録尚書事の孫騰を太傅とし、汾州刺史の賀仁を太保とし、 司空 の韓軌を 司徒 とし、領軍将軍の可朱渾道元を 司空 とし、 司徒 の高隆之に録尚書事をさせ、徐州刺史の慕容紹宗を尚書左僕射とし、高陽王の元斌を右僕射とした。戊午、大司馬の尉景が薨去した。
六月、 司徒 の韓軌・ 司空 の可朱渾道元らが潁州から軍を返した。乙酉、帝は東堂において斉の献武王のための哀悼の礼を行い、緦縗(喪服)を着た。詔して尚書右僕射・高陽王の元斌に大鴻臚卿を兼ねさせ、晋陽に赴かせて喪事を監護させた。太尉・襄城王の元旭に 尚書令 を兼ねさせ、詔を奉じて慰撫を行わせた。
秋七月戊戌、詔して王に仮黄鉞・使持節・相国・ 都督 中外諸軍事・斉王の璽紱、轀輬車・黄屋・左纛・前後羽葆・鼓吹・軽車介士を贈り、兼ねて九錫の礼を備えさせ、 諡 して献武王と曰うた。斉の文襄王を使持節・大丞相・ 都督 中外諸軍事・録尚書事・大行臺・勃海王とした。壬寅、詔して王に軍国を摂理させ、中使を派遣して敦諭した。
八月、斉の文襄王が入朝し、固く丞相の任を辞したので、詔して再び大将軍を授け、その他の官職はもとのままとした。甲申、斉の献武王を 鄴城 の西北に葬り、車駕は漳水のほとりで祖送の礼を行った。
九月、斉の文襄王は晋陽に帰還した。辛酉、蕭衍がその兄の子である貞陽侯の蕭淵明に軍を率いさせて徐州を寇し、寒山において泗水を堰き止めて彭城を灌漑し、侯景に応じようとした。
冬十月乙酉、尚書左僕射の慕容紹宗を東南道行臺とし、驃騎大将軍・儀同三司・大 都督 の高岳、潘相楽とともに蕭淵明を討たせた。
十一月、これを大破し、蕭淵明とその二人の子である蕭瑀・蕭道、将帥二百余人を生け捕りにし、捕虜と斬首は五万級に及び、凍え疲れて水に赴き死んだ者は数えきれなかった。
十二月乙亥、蕭淵明が宮闕に至ったので、帝は閶闔門に臨み、その罪を責めたが赦した。高岳らは軍を返して侯景を討った。
この年、高麗・勿吉の国がともに使者を遣わして朝貢した。
武定六年
六年春正月己亥、大 都督 高岳らが渦陽において侯景を大破し、捕虜斬首五万余人、その余は渦水に溺死し、水は流れを止めた。侯景は淮南に逃走した。己未、斉の文襄王が来朝し、寒山で捕らえた兵士を百官及び督将らに賜うことを請い、それぞれ差等があった。
二月己卯、蕭衍が使者を遣わして闕に款き和を乞い、併せて書を修めて斉の文襄王を弔った。文襄王は晋陽に還った。
三月癸巳、太尉・襄城王旭を大司馬とし、開府儀同三司高岳を太尉とした。辛亥、冬春の亢旱により、罪人を赦しそれぞれ差等があった。
夏四月甲子、吏部令史張永和・青州人崔闊らが偽って官を仮り、事が発覚し、糾検したところ、首謀者は六万余人であった。
秋八月甲戌、尚書左僕射慕容紹宗を大行臺とし、太尉高岳・ 司徒 韓軌・大 都督 劉豊らとともに潁川において王思政を討ち、洧水を引いてその城を灌いだ。
九月乙酉、蕭衍が使者を遣わして朝貢した。
冬十月戊申、侯景が江を渡り、蕭衍の弟子である臨賀王正徳を推して主とし、建業を攻撃した。
この年、高麗・室韋・蠕蠕・吐谷渾の国が並びに使者を遣わして朝貢した。
武定七年
七年春正月戊辰、蕭衍の弟子である北徐州刺史・封山侯蕭正表が鍾離を以て内属し、蘭陵郡開国公・呉郡王に封ぜられた。
三月丁卯、侯景が建業を攻克し、還って蕭衍を主とした。蕭衍の弟子である北兗州刺史・定襄侯蕭祗、相譚侯蕭退が来降した。蕭衍の江北の郡国は皆内属した。
夏四月、大行臺慕容紹宗・大 都督 劉豊が暴風に遇い、水に溺れて死んだ。甲辰、詔して斉の文襄王を相国・斉王とし、緑綟綬を賜い、拝礼の際に名を称せず、朝に入るに趨らず、剣を帯び履を履いて殿上に上り、冀州の勃海・長楽・安德・武邑、瀛州の河間の五郡を食邑とし、邑十五万戸、その余は元の如しとした。王は固く辞譲した。この月、侯景が蕭衍を殺し、その子綱を立てて主とした。
五月、斉の文襄王が衆を率いて鄴より潁川に赴いた。
六月丙申、潁州を攻克し、宝炬の大将軍・尚書左僕射・東道大行臺・太原郡開国公王思政、潁州刺史皇甫僧顕ら、及び戦士一万余人、男女数万口を擒えた。斉の文襄王は遂に洛州に至った。
秋七月、斉の文襄王が南征より帰還し、王思政の罪を赦すことを請う。
八月辛卯、詔して皇子長仁を立てて皇太子とす。斉の文襄王、邸にて薨ず。喪を秘して発せず。癸巳、大赦天下し、内外の百官並びに位二級を加う。甲午、斉王、晋陽に至る。
冬十月癸未、開府儀同三司・咸陽王元坦を太傅とす。甲午、開府儀同三司潘相楽を 司空 とす。
十二月甲辰、呉郡王蕭正表薨ず。己酉、 并 州刺史彭楽を 司徒 とす。
この年、蠕蠕・地豆于・室韋・高麗・吐谷渾の国、並びに使いを遣わして朝貢す。
武定八年
八年春正月辛酉、帝、東堂にて斉の文襄王のため哀悼の礼を挙行す。丁卯、詔して斉の文襄王に仮黄鉞・使持節・相国・ 都督 中外諸軍事・斉王の璽綬、轀輬車・黄屋・左纛・前後部羽葆・鼓吹・軽車介士を贈り、九錫の礼を備え、諡して文襄王と曰う。戊辰、詔して斉王を使持節・丞相・ 都督 中外諸軍事・録尚書事・大行台・斉郡王とし、食邑一万戸とす。甲戌、地豆于・契丹国、並びに使いを遣わして朝貢す。
二月甲申、斉の文襄王を葬る。車駕、漳水のほとりにて祖道の礼を行う。庚寅、 尚書令 高隆之を太保とす。
三月庚申、斉郡王の爵を進めて斉王とす。
夏四月乙巳、蠕蠕、使いを遣わして朝貢す。
五月甲寅、詔して斉王を相国とし、百揆を総べ、冀州の勃海・長楽・安德・武邑、瀛州の河間・高陽・章武、定州の中山・常山・博陵の十郡、二十万戸を封じ、九錫の礼を備う。斉国太妃を王太后とし、王妃を王后とす。丙辰、詔して帝位を斉国に帰し、即日に別宮に遜る。
斉の天保元年五月己未、帝を封じて中山王とし、邑一万戸とす。上書に臣と称せず、答詔に詔と称せず、天子の旌旗を載せ、魏の 正朔 を行い、五時の副車に乗る。王の諸子を県公に封じ、邑各一千戸とす。絹三万匹、銭一千万、粟二万石、奴婢三百人、水碾一具、田百頃、園一所を奉る。中山国に魏の宗廟を立てる。二年十二月己酉、中山王殂す。時に年二十八。三年二月、諡を奉じて孝静皇帝と曰い、漳水の西の山岡に葬る。その後これを発くに、陵崩れ、死者六十人。
【史評】
帝は文学を好み、容儀美なり。力を以て石獅子を挟んで牆を踰え、射て中らざるはなし。嘉辰宴会には、多く群臣に命じて詩を賦せしめ、従容として沈雅、孝文の風有り。斉の文襄王、事を嗣ぎ、甚だこれを忌み、大将軍中兵参軍崔季舒を中書黄門侍郎とし、監察して動静を知らしめ、小大皆な季舒に知らしむ。文襄、季舒に与える書に曰く、「癡人復た何に似たりや。癡勢小差せりや未だ」。帝嘗て鄴の東にて狩猟す。馳逐すること飛ぶが如し。監衛 都督 烏那羅受工伐、後より従いて帝に呼びて曰く、「天子走馬する莫れ、大将軍怒る」。文襄嘗て侍飲し、大いに觴を挙げて曰く、「臣澄、陛下に酒を勧む」。帝悦ばず、曰く、「古より亡びざる国無し、朕亦何ぞ此れを以て活かん」。文襄怒りて曰く、「朕!朕!狗脚の朕!」。文襄、季舒に命じて帝を三拳毆らしめ、奮衣して出づ。明日、文襄、季舒を使わして帝を労う。帝も亦謝す。絹を賜う。季舒敢えて受けず、以て文襄に啓す。文襄、一段を取らしむ。帝、百匹を束ねて之に与え、曰く、「亦た一段のみ」。
帝、憂辱に堪えず、謝霊運の詩を詠じて曰く、「韓亡びて子房奮い、秦帝して魯連耻ず。本自江海の人、忠義君子を動かす」。常侍侍講荀濟、帝の意を知り、乃ち華山王元大器・元瑾と密謀し、宮内に山を為し、而して地道を北城に作る。千秋門に至る。門者が地下の響動を覚え、以て文襄に告ぐ。文襄、兵を勒して宮に入り、曰く、「陛下何の意ぞ反するや。臣父子の功は 社稷 に存す、何ぞ陛下に負くところあらんや」。諸妃嬪を殺さんとす。帝、正色して曰く、「王自ら反せんと欲す、我に関すること何ぞ。我尚お身を惜しまず、況んや妃嬪をや」。文襄、牀より下りて叩頭し、大いに啼いて謝罪す。ここにおいて酣飲し、夜久しくして乃ち出づ。三日を居て、帝を含章堂に幽閉す。大器・瑾等は皆な市にて烹に処せらる。
文宣帝に禅譲せんとするに及び、襄城王元旭及び 司徒 潘相楽・侍中張亮・黄門郎趙彦琛らが入朝して奏事を求めし時、帝は昭陽殿にて彼らに会す。元旭曰く、「五行は順次に巡り、始めあり終わりあり。斉王の聖徳は欽明にして、万姓帰仰す。臣ら昧死して奏聞す、願わくは陛下、堯が舜に禅ぜしむるに則らんことを」と。帝は直ちに顔色を改めて答えて曰く、「この事は推譲すること久しく、謹んで遜避すべし」と。また云う、「もし然らば、詔書を作るを須いん」と。侍郎崔劭・裴譲之奏して云う、「詔は既に作り畢えたり」と。即ち楊愔に付し、帝に進む、凡そ十条。書し畢えて、帝曰く、「朕を何れの所に安んぜんとするか。また如何にして去らんとするか」と。楊愔対えて曰く、「北城に別に館宇あり、法駕を備え還し、常の仗衛に依りて去らん」と。帝乃ち御座を下り、歩みて東廊に就き、口に范蔚宗の後漢書賛を詠じて云う、「献生不辰、身播国屯。終我四百、永作虞賓」と。所司奏して発するを請う。帝曰く、「古人は遺簪弊履を念い、六宮と別れんと欲す。可ならんか」と。高隆之曰く、「今天下は猶お陛下の天下なり。況んや後宮においてをや」と。乃ち夫人妃嬪以下と訣別す。欷歔して涕を掩わざるは莫し。嬪趙国李氏、陳思王の詩を誦して云う、「王其れ玉体を愛し、倶に黄髪の期を享けんことを」と。皇后以下皆哭す。直長趙德、故犢車一乗を以て東上閤に候す。帝車に上る。趙德、車に超え上りて帝を支う。帝之を肘で突きて曰く、「朕は天を畏れ人に順い、位を相国に授く。何の物の奴ぞ、敢えて人を逼るや」と。趙德尚お下らず。雲龍門を出づるに及び、王公百官衣冠を正して拝辞す。帝曰く、「今日は常道郷公・漢献帝に減ぜず」と。衆皆悲愴し、高隆之は泣いて涙を灑ぐ。遂に北城下の司馬子如の南宅に入る。文宣帝の行幸するに及び、常に帝を自ら随えしむ。帝后は太原公主に封ぜられ、常に帝の為に食を嘗めて護視せり。竟に酖に遇いて崩ず。
校勘記