魏書

卷108之四 禮志四之四

卷108之四 禮志四之四

世宗永平四年(511年)冬十二月、員外将軍・兼尚書都令史の陳終徳に祖母の喪があった。斉衰三年の喪服を着ようとしたが、世襲の爵位の重みがないため、諸父(伯父・叔父)を凌ぐことはできず、もし他の孫たちと同じにすれば、後継ぎとしての祖に対する義に背く恐れがあるとして、詳しい正しい判断を求めた。国子博士の孫景邕・劉懐義・封軌・高綽、太学博士の袁昇、四門博士の陽寧居らが議して言うには、「嫡孫が祖の後を継ぎ、重い喪を担って三年喪に服することは、身分の上下によって二様にあるわけではない。終徳は諸父に先んずべきである」。太常卿の劉芳が議して言うには、「喪服は士の正礼であり、その中には天子・諸侯・卿大夫の事柄を含み、時にまた庶人と同じ場合もあるが、いずれも別に明示されている。伝重(宗廟の主を継ぐこと)については、士以上であり、古くは卿士から庶人にまで通じるものと考えるのは誤りである。どうして明らかになるか。『礼稽命徴』に『天子の元士は二廟、諸侯の上士も二廟、中士・下士は一廟』とある。一廟とは、祖と父(禰)が同じ廟を共にするのである。『祭法』にはまた『庶人は廟を持たない』とある。このように分明であるのに、どうして庶人に通じることがあろうか。伝重とは宗廟の主を指すのであって、庶人が寝(居室)で祭祀を行うことを言うのではない。また累世にわたって嫡子を継いでこそ、嫡子・嫡孫と言えるのである。そうでなければ、祖を継ぐことはできない。また鄭玄が別に『変除』を説き、五世の長子のために斬衰を着るとしている。魏晋以来、この礼は行われなくなった。『喪服経』には嫡孫が祖のために重い喪を担って三年に服するという正文はなく、ただ長子のために三年、嫡孫のために期(一年)とあるのみである。伝及び注によって嫡孫伝重の義を説いている。今の世では既に嫡子のために斬衰を着ることがなく、卑位の嫡孫が諸叔を凌いで重い喪を担わないことから、そのことが分かる。また終徳の資階を基準に古に比べれば、下士に登っておらず、官にある庶人であり、またこのような礼はない。旧典を考証し、今の世に照らせば、この規範は稀に行われるものである。かつ諸叔が存命であり、喪主は存在するので、諸孫に準じて期服を着ることが妥当である」。

原文世宗永平四年冬十二月,員外將軍、兼尚書都令史陳終德有祖母之喪,欲服齊衰三年,以無世爵之重,不可陵諸父,若下同眾孫,恐違後祖之義,請求詳正。國子博士孫景邕、劉懷義、封軌、高綽,太學博士袁昇,四門博士陽寧居等議:「嫡孫後祖,持重三年,不為品庶生二,終德宜先諸父。」太常卿劉芳議:「案喪服乃士之正禮,含有天子、諸侯、卿大夫之事,其中時復下同庶人者,皆別標顯。至如傳重,自士以上,古者卿士,下通庶人。以為差謬。何以明之?禮稽命徵曰:『天子之元士二廟,,下通庶人。以為差謬。何以明之?禮稽命徵曰:『天子之元士二廟,諸侯之上士亦二廟,中、下士一廟。』一廟者,祖禰共廟。祭法又云『庶人無廟』。既如此分明,豈得通於庶人也?傳重者主宗廟,非謂庶人祭於寢也。兼累世承嫡,方得為嫡子嫡孫耳。不爾者,不得繼祖也。又鄭玄別變除,云為五世長子服斬也。魏晉以來,不復行此禮矣。案喪服經無嫡孫為祖持重三年正文,唯有為長子三年,嫡孫期。傳及注因說嫡孫傳重之義。今世既不復為嫡子服斬,卑位之嫡孫不陵諸叔而持重,則可知也。且準終德資階,方之於古,未登下士,庶人在官,復無斯禮。考之舊典,驗之今世,則茲範罕行。且諸叔見存,喪主有寄,宜依諸孫,服期為允。」

景邕らがまた議して言うには、「喪服は士を主としているが、必ず庶人を含んでいる。どうして論じるか。大夫以上については、各条に標示列挙し、庶人に至っては含んで述べず、士の制度と同じと比定し、疑うことはない。ただ庶人が国君のために(服する)場合のみ、これは義服の軽重を明らかにするものであって、孫と祖の関係には関わらない。また曾祖から国を受け継ぎ、廃疾の祖父であっても、伝えるべき重みはなく、それでも三年服するのであり、必ずしも世襲の重みによるものではない。霜や露に感じるように、異なる認識も皆感じるところであり、重い喪を承けて主たる後継ぎとなることは、廟と寝とを区別するものであり、嫡孫の制度は、本来異なるものである。また古くは卿以下、皆承襲を区別せず、末代になって僭越が生じたのであり、通典に語ることはできない。それゆえ『春秋』は世襲の卿を譏り、『王制』は大夫は世襲しないと称する。これが明らかな訓戒である。喪服の経文には、嫡孫が祖のために三年とすることの正文はないが、祖が嫡孫のために期とすることはある。祖が嫡孫のために自分に服させるのに、自分が庶孫と同じく祖のために期服を着ることは、義としてよろしいか。祖に三年服することは、近世になって変わることはなかった。古を基準にすれば、士の官は二百石以上を超えず、終徳は即ち古の廟士である。仮に終徳が朝列に加わっていなくとも、志仁と言うならば、必ずこれを行うべきである。ましてや官歴が士の流れにあり、訓章(礼法)が行われる時に当たり、庶叔の嫌疑によって、その嫡としての重い地位を替えることは、成人の善とは言えない」。劉芳がまた議して言うには、「国子博士らが言う、喪服は士を主としているが、必ず庶人を含むというのは、本来も一篇の内で全く庶人と同じでないと言うのではなく、嫡孫が伝重することは、専ら士以上であると言うのである。この経・伝の正文は、庶人に及ばないことは明らかである。戴徳の『喪服変除』に『父が長子のために斬衰を着るのは、天子から士に至るまで』とある。これらは皆、士以上になって初めて嫡子があるという明らかな根拠である。また承重とは、その者が代わって宗廟の主となることを指し、廟主は全く寝のことを言わない。これもその証拠である。引き合いに出された大夫が世襲しないというのは、これは『公羊伝』『穀梁伝』といった近儒の小道の書の説であり、『左氏伝』『詩経』『易経』『尚書』『論語』にはいずれも典拠がある。あるいは未だ悟っていないのであろう。許叔重(許慎)の『五経異義』に、今の『春秋』公羊・穀梁説では卿大夫が世襲するのは、権力が一姓に集中することを言い、周の尹氏、斉の崔氏を指す。しかし古い『春秋』左氏説では卿大夫は皆世禄を得るとする。伝に『官族』とあり、『易経』に『旧徳を食む』とある。旧徳とは、父の旧い禄を食むことを言う。『尚書』に『世々に汝の労を選び、予は汝の善を絶たず』とある。『詩経』に『惟れ周の士、顕はれずや弈世』とある。『論語』に『滅びた国を興し、絶えた世を継ぐ』とある。国とは諸侯を指し、世とは卿大夫を指す。これらは皆、正経および『論語』における士以上の世襲の明らかな証拠であり、士は皆世禄である。八品は一命である。これは確かである。しかしこの根拠を見るに、綱は見えたが、目は照らしていないと言えよう。晋の官品令に定められた九品は、皆正品のみで従品がなく、故に第八品を古の下士に準じた。今の皇朝の官令には皆正従があり、もしその員外の資を以てすれば、第十六品である。どうして正八品の士と言えようか。古今を推し考証し、謹んで前の議の通りとする」。

原文景邕等又議云:「喪服雖以士為主,而必下包庶人。何以論之?自大夫以上,每條標列,逮於庶人,含而不述,比同士制,不復疑也。唯有庶人為國君,此則明義服之輕重,不涉於孫祖。且受國於曾祖,廢疾之祖父,亦無重可傳,而猶三年,不必由世重也。夫霜感露濡,異識咸感,承重主嗣,寧甄寢廟,嫡孫之制,固不同殊。又古自卿以下,皆不殊承襲,末代僭踰,未可以語通典。是以春秋譏於世卿,王制稱大夫不世,此明訓也。喪服,經雖無嫡孫為祖三年正文,而有祖為嫡孫期,豈祖以嫡服己,己與庶孫同為祖服期,於義可乎?服祖三年,此則近世未嘗變也。準古士官不過二百石已上,終德即古之廟士也。假令終德未班朝次,苟曰志仁,必也斯遂。況乃官歷士流,當訓章之運,而以庶叔之嫌,替其嫡重之位,未是成人之善也。」芳又議:「國子所云,喪服雖以士為主,而必下包庶人。本亦不謂一篇之內全不下同庶人,正言嫡孫傳重,專士以上。此經、傳之正文,不及庶人明矣。戴德喪服變除云:『父為長子斬,自天子達於士。』此皆士以上乃有嫡子之明據也。且承重者,以其將代己為宗廟主,廟主了不云寢,又其證也。所引大夫不世者,此公羊、穀梁近儒小道之書,至如左氏、詩、易、尚書、論語皆有典證,或是未寤。許叔重五經異義云,今春秋公羊、穀梁說卿大夫世位,則權并一姓,謂周尹氏、齊崔氏也。而古春秋左氏說卿大夫皆得世祿。傳曰『官族』,易曰『食舊德』,舊德,謂食父故祿也。尚書曰:『世選爾勞,予不絕爾善。』詩云:『惟周之士,不顯弈世。』論語曰:『興滅國,繼絕世。』國謂諸侯,世謂卿大夫也。斯皆正經及論語士以上世位之明證也,士皆世祿也。八品者一命,斯乃信然。但觀此據,可謂覩其綱,未照其目也。案晉官品令所制九品,皆正無從,故以第八品準古下士。今皇朝官令皆有正從,若以其員外之資,為第十六品也,豈得為正八品之士哉?推考古今,謹如前議。」

景邕らがまた議して言うには、「喪服の正文では、大夫以上については、事毎に明らかに列挙し、ただ庶人のみ、含んで言わない。これは下に通じる義であり、了然として疑いがない。また官族とは、世々その功績があることを言い、旧徳を食むとは、徳侯者が世襲することを言い、滅びた国を興し、絶えた世を継ぐとは、主に諸侯卿大夫で罪なく誅殺・絶えた者を指す。また金貂七毦(高官の飾り)、楊氏四公(楊震一族の四公)のようなものであっても、位をもって相承したとしても、どうして世禄と言えようか。晋の太康年間(280–289年)、令史の殷遂が父の殷祥が継ぐべき(祖母の喪に)及ばなかったため、還って祖母に三年喪を求めようとした。当時の政(礼制)には、父に代わって追服するという条文はなく、また三年を許さない制度もなかった。これが晋代の成規である」。尚書の邢巒が劉芳の議に依るよう上奏した。詔して言うには、「嫡孫が祖母のために(三年喪に服することは)、礼令に根拠があり、士人の間で通行している。どうしてわざわざ疑いを呈して請う必要があろうか。国子博士らの議の通りとせよ」。

原文景邕等又議:「喪服正文,大夫以上,每事顯列,唯有庶人,含而不言。此通下之義,了然無惑。且官族者,謂世為其功;食舊德者,謂德侯者世位;興滅國,繼絕世,主謂諸侯卿大夫無罪誅絕者耳。且金貂七毦,楊氏四公,雖以位相承,豈得言世祿乎?晉太康中,令史殷遂以父祥不及所繼,求還為祖母三年。時政以禮無代父追服之文,亦無不許三年之制,此即晉世之成規也。」尚書邢巒奏依芳議。詔曰:「嫡孫為祖母,禮令有據,士人通行,何勞方致疑請也。可如國子所議。」

延昌二年(513年)春、偏将軍の乙龍虎が父の喪に服し、二十七ヶ月の休暇を与えられたが、龍虎は閏月も数えに入れ、役所に出仕を求めて来た。領軍の元珍が上言して言うには、「違制律を案ずるに、三年の喪に服しているのに哀悼を冒して仕官を求める者は、五歳刑である。龍虎は二十七ヶ月を満たさずに宿衛を請うている。律に依って五歳刑を科すべきである」。三公郎中の崔鴻が駁して言うには、「三年の喪は、二十五ヶ月で大祥となる。諸儒には祥月の下旬で禫(除服の祭)を行うと言う者も、二十七ヶ月と言う者もあり、それぞれにその義がある。どちらが聖人の旨に叶うか分からない。龍虎が喪に服して既に二十六ヶ月である。もし王粛・杜預の説に依れば、既に禫を過ぎて吉に復する月である。もし鄭玄の二十七ヶ月説に依れば、禫の期間中には既に職務に従事できる。礼に『祥の日に素琴を鼓す』とある。そうすると大祥の後は、喪事は終わったのである。既に職務に従事できるのであれば、出仕を求めることがどうしてできないのか。もし府の判決のようにするならば、禫中に琴を鼓することもまた罪があるのか。経律に求めれば、理として実に妥当ではない」。下して更に詳しく弁明させた。

原文延昌二年春,偏將軍乙龍虎喪父,給假二十七月,而虎并數閏月,詣府求上。領軍元珍上言:「案違制律,居三年之喪而冒哀求仕,五歲刑。龍虎未盡二十七月而請宿衞,依律結刑五歲。」三公郎中崔鴻駁曰:「三年之喪,二十五月大祥。諸儒或言祥月下旬而禫,或言二十七月,各有其義,未知何者會聖人之旨。龍虎居喪已二十六月,若依王、杜之義,便是過禫即吉之月。如其依鄭玄二十七月,禫中復可以從御職事。禮云:『祥之日鼓素琴。』然則大祥之後,喪事終矣。既可以從御職事,求上何為不可?若如府判,禫中鼓琴,復有罪乎?求之經律,理實未允。」下更詳辨。

珍はまた上言して言う、「士虞礼を案ずるに、三年の喪は、期にして小祥、また期にして大祥、中月にして禫す。鄭玄は云う『中は猶お間なり』、『喪より此に至るまで、凡そ二十七月』と。また礼に言う、『祥の日に素琴を鼓す』。鄭は云う、『琴を鼓するは、楽を存するなり』と。孔子は祥の後五日、琴を弾じて成らず、十日にして笙歌を成す。鄭注と鄭志及び踰月して歌うべしと、皆みな身自ら逾月にして可為なり。これは楽を存するを謂うなり、所謂楽に非ず。楽とは、工をして之を為さしむるなり。晋の博士許猛が三験を解いて曰く、黍離・麦秀の歌を案ずるに、小雅に曰く『君子歌を作す、惟だ哀を告げんと以てす』、魏詩に曰く『心の憂い矣、我歌ひ且つ謡う』。若し斯の類、豈に之を金石の楽と謂うべけんや。是の故に徒歌を謡と謂い、徒吹を和と謂う。記に曰く、『音に比して之を楽しみ、干戚羽毛に及ぶを楽と謂う』。若し夫れ礼楽の金石に施し、声音に越する者は、此れ乃ち所謂楽なり。素琴に至りては、以て終わりを示し笙歌を以て哀を省みる者は、則ち楽に非ず。間伝に云う、大祥に衰を除き、杖して素縞麻衣す、大祥の服なり。雑記注に云う、『玄衣黄裳、則ち是れ禫祭、黄は、未だ大吉ならざるなり』。檀弓に云う、『祥にして縞、是の月禫し、月を徙めて楽す』。鄭志に、趙商問い、鄭玄答えて云う、祥は大祥を謂い、二十五月。是の月禫は、二十七月を謂う、上祥の月を謂うに非ず。月を徙めて楽す。許猛が六徴を釈して曰く、楽とは、自ら八音克諧の楽を謂うなり。二十八月に在りて、工の金石の楽を奏するを謂うのみ。而して駁して云う、『大祥の後は、喪事終わる』。脱し此の駁く如くせば、禫復た焉くにか施さん。又駁して云う、『禫中に琴を鼓すれば、復た罪有らんや』。然らば禫は則ち黄裳、未だ大吉ならざるなり、琴を鼓して楽を存するは、礼に許す所に在り。若し工をして八音を奏せしめ、融然として韻を成さば、既に月を徙めず、罪せずんば伊何ぞ。又駁して云う、『禫中に既に御職事に従うを得ば、上を求むる何ぞ為す可からざらん』。龍虎を検するに、居喪二十六月、始めて是れ素縞麻衣なり、大祥の中に在りて、何をか禫と謂うや。三年閏を没す、理として疑う無し。麻衣体に在り、仕を冒して栄を求めんは、実に大なる尤なり、其の罪焉くにか捨てん。又省みるに王・杜に依り、禫祥同月、全く鄭義に乖く。喪凶尚お遠くして、而して速やかに除かんと欲す、何ぞ怱怱たる者ぞ。下府愚かに量るに、鄭を得たり。何となれば、礼記に云う、『吉事は尚お近日を尚び、凶事は尚お遠日を尚ぶ』。又論語に云う、『喪は其の易なるより寧ろ戚せよ』。而して服限三年、痛み終身を尽くす。中月の解、二義を容るる雖も、尚お遠きを尚び寧ろ戚せよ。又王・杜の義を検するに、魏末晋初に起こる。及び越騎校尉程猗、王肅に賛成し、鄭の禫二十七月の失を駁し、六徴三験を為し、晋の武帝に上言して曰く、『夫れ礼は国の大典、兆民の日用する所、豈に二たるべけんや。今服禫する者各各相同じからず、聖世一統の謂に非ず。鄭玄は二十七月禫と説く、甚だ大義に乖く。臣毎に鄭の失を難じ、六に徴有り、三に験有り、初め臣が難を破りて玄説を通ずる者未だ有らず』。猗の意の如くは、鄭義廃せりと謂う。太康の中、許猛上言して鄭を扶け、六徴を釈し、三験を解き、以て鄭の禫二十七月を得たりと為し、猗及び王肅を失たりと為す。而して博士宋昌等、猛の鄭を扶くるを衷と議し、晋武之に従う。王・杜の義、是に於いて敗る。王・杜の義の敗るるを見るは、晋武其の行う可からざるを知る故なり。而して上省は猗に同くして王を賛し、鄭の成軌を虧かんと欲す、窃に未だ安からず。更に異義無く、還って前の処に従う」と。

原文珍又上言:「案士虞禮,三年之喪,期而小祥,又期而大祥,中月而禫。鄭玄云『中猶間也』,『自喪至此,凡二十七月』。又禮言:『祥之日鼓素琴。』鄭云:『鼓琴者,存樂也。』孔子祥後五日,彈琴而不成,十日而成笙歌。鄭注與鄭志及踰月可以歌,皆身自逾月可為。此謂存樂也,非所謂樂。樂者,使工為之。晉博士許猛解三驗曰:案黍離、麥秀之歌,小雅曰「君子作歌,惟以告哀」,魏詩曰「心之憂矣,我歌且謠」。若斯之類,豈可謂之金石之樂哉?是以徒歌謂之謠,徒吹謂之和。記曰:『比音而樂之,及干戚羽毛謂之樂。』若夫禮樂之施於金石,越於聲音者,此乃所謂樂也。至於素琴,以示終笙歌以省哀者,則非樂矣。間傳云:大祥除衰,杖而素縞麻衣,大祥之服也。雜記注云:『玄衣黃裳,則是禫祭,黃者,未大吉也。』檀弓云:『祥而縞,是月禫,徙月樂。』鄭志:趙商問,鄭玄答云:祥謂大祥,二十五月。是月禫,謂二十七月,非謂上祥之月也。徙月而樂。許猛釋六徵曰:樂者,自謂八音克諧之樂也。謂在二十八月,工奏金石之樂耳。而駁云:『大祥之後,喪事終矣。』脫如此駁,禫復焉施?又駁云:『禫中鼓琴,復有罪乎?』然禫則黃裳,未大吉也,鼓琴存樂,在禮所許。若使工奏八音,融然成韻,既未徙月,不罪伊何!又駁云:『禫中既得從御職事,求上何為不可?』檢龍虎居喪二十六月,始是素縞麻衣,大祥之中,何謂禫乎?三年沒閏,理無可疑。麻衣在體,冒仕求榮,實為大尤,罪其焉捨!又省依王、杜,禫祥同月,全乖鄭義。喪凶尚遠,而欲速除,何怱怱者哉?下府愚量,鄭為得之。何者?禮記云:『吉事尚近日,凶事尚遠日。』又論語云:『喪與其易寧戚。』而服限三年,痛盡終身。中月之解,雖容二義,尚遠寧戚。又檢王、杜之義,起於魏末晉初。及越騎校尉程猗贊成王肅,駁鄭禫二十七月之失,為六徵三驗,上言於晉武帝曰:『夫禮國之大典,兆民所日用,豈可二哉。今服禫者各各不同,非聖世一統之謂。鄭玄說二十七月禫,甚乖大義。臣每難鄭失,六有徵,三有驗,初未能破臣難而通玄說者。』如猗之意,謂鄭義廢矣。太康中,許猛上言扶鄭,釋六徵,解三驗,以鄭禫二十七月為得,猗及王肅為失。而博士宋昌等議猛扶鄭為衷,晉武從之。王、杜之義,於是敗矣。王、杜之義見敗者,晉武知其不可行故也。而上省同猗而贊王,欲虧鄭之成軌,竊所未寧。更無異義,還從前處。」

鴻また駁して曰く、「三年の喪を案ずるに、閏を没するの義、儒生学士、猶お或いは諸れを病む。龍虎は戎馬の郷より生まれ、稽古の訓を受けず、数月にして成年と成り、便ち違緩を懼る。其の本を原れば、栄を貪り位を求むるに非ずして、而して義方を以て責めんと欲す、未だ便ち爾るべからず。且つ三年の喪は、再期にして大祥、中月にして禫す。鄭玄は中以って間と為し、王・杜は是の月の中と為す。鄭も未だ必ずしも経旨に会せずと為さず、王・杜豈に必ず聖意に乖かんや。既に諸儒先聖を探賾し、後賢見るに同じからず、晋武後には宋昌・許猛の駁に従い、鄭の禫議に同じくすと雖も、然れども初め亦た程猗に従い、王・杜の言を賛成せり。二論得否、未だ知るべからず。聖人大祥の後、素琴を鼓し、笙歌を成す者は、喪事既に終わり、餘哀の中に在りて、楽を存する可き故なり。而して楽府は必ず干戚羽毛を以てし、之を金石に施し、然る後に楽と為す、楽は必ず工をして之を為さしむ。庶民凡品、祥前に於いて琴を鼓すれば、罪無からんや。律の防ぐ所、豈に必ず貴士の為めのみならん、亦た凡庶に及ぶ。府の此の義、弥だ通ぜず。魯人朝に祥して暮に歌う、孔子以て月を踰れば則ち可なりと為す。爾らば則ち大祥の後は、喪事已に終わり、琴を鼓し笙歌す、経礼の許す所。龍虎皇宮に宿衛せんと欲す、豈に刑五年に合せんと欲せん。仮令鄭義の如くせば、二十七月にして禫し、二十六月十五升・布深衣・素冠・縞紕及び黄裳・綵纓を以て居する者は、此れ則ち三年の餘哀、服数の内に在らず。衰絰は則ち之を地に埋め、杖は則ち之を隠処に棄つ、此れ喪事終わるに非ずや。府大祥の後を以て、喪事の終わりと為さず、何ぞ復た素琴を以て終わりを示すを言うを得ん。喪事は遠日を尚ぶ、誠に鄭義の如し。龍虎未だ二十七月を尽くさずして宿衛を請う、実に怱怱たり、戚の理に於いて、情を責むるに合す。便ち深衣素縞の時を以てして、罪を杖絰苫塊の日に同じくせんは、礼憲に未だ允ならず。律意を詳しくするに、喪を冒して仕を求むるは、斬焉たる草土の中に在るを謂い、衰を除き杖したる後を謂うに非ず。又龍虎具に居喪の日月を列ね、隠冒する所無し、府応に礼を以て之に告げ、遣りて月を終わらしむべし。便ち彼の昧識を幸い、罪を加えんと欲す、豈に礼を遵い風を敦くし、民を愛するの致す所ならんや。正に鄭義の如くせば、龍虎の罪亦た刑に合せず、怱怱の失、宜しく鞭五十を科すべし」と。

原文鴻又駁曰:「案三年之喪,沒閏之義,儒生學士,猶或病諸。龍虎生自戎馬之鄉,不蒙稽古之訓,數月成年,便懼違緩。原其本非貪榮求位,而欲責以義方,未可便爾也。且三年之喪,再期而大祥,中月而禫。鄭玄以中為間,王、杜以為是月之中。鄭亦未為必會經旨,王、杜豈於必乖聖意。既諸儒探賾先聖,後賢見有不同,晉武後雖從宋昌、許猛之駁,同鄭禫議,然初亦從程猗,贊成王、杜之言。二論得否,未可知也。聖人大祥之後,鼓素琴,成笙歌者,以喪事既終,餘哀之中,可以存樂故也。而樂府必以干戚羽毛,施之金石,然後為樂,樂必使工為之。庶民凡品,於祥前鼓琴,可無罪乎?律之所防,豈必為貴士,亦及凡庶。府之此義,彌不通矣。魯人朝祥而暮歌,孔子以為踰月則可矣。爾則大祥之後,喪事已終,鼓琴笙歌,經禮所許。龍虎欲宿衞皇宮,豈欲合刑五歲。就如鄭義,二十七月而禫,二十六月十五升、布深衣、素冠、縞紕及黃裳、綵纓以居者,此則三年之餘哀,不在服數之內也。衰絰則埋之於地,杖則棄之隱處,此非喪事終乎?府以大祥之後,不為喪事之終,何得復言素琴以示終也。喪事尚遠日,誠如鄭義。龍虎未盡二十七月而請宿衞,實為怱怱,於戚之理,合在情責。便以深衣素縞之時,而罪同杖絰苫塊之日,於禮憲未允。詳之律意,冒喪求仕,謂在斬焉草土之中,不謂除衰杖之後也。又龍虎具列居喪日月,無所隱冒,府應告之以禮,遣還終月。便幸彼昧識,欲加之罪,豈是遵禮敦風,愛民之致乎?正如鄭義,龍虎罪亦不合刑,怱怱之失,宜科鞭五十。」

三年七月、司空・清河王懌の第七叔母である北海王妃劉氏が薨じ、司徒・平原郡開国公高肇の兄の子である太子洗馬員外が亡くなり、ともに上言して、出入りの際に依然として鼓吹を奏するか否かを知らず、礼官に下して議決を請うた。太学博士封祖冑が議して言うには、「喪大記に云う、期九月の喪は、既に葬れば酒を飲み肉を食い、人と楽しみを共にせず。五月三月の喪は、葬に比べて、酒を飲み肉を食い、人と楽しみを共にせず。世叔母・故主・宗子には、ただ酒を飲み肉を食うと云うのみで、人と楽しみを共にせずとは言わない。鄭玄が云う、『義服は恩軽し』。これをもって推すに、義服の葬には楽の理あり得ることを明らかにする。また礼に、『大功は言うも議せず、小功は議するも楽に及ばず』とある。言論の間においてすら尚お及ばないのであるから、その声作については、明らかに得ざるなり。たとえまた功緦であろうとも、楽は止むべきなり」。四門博士蔣雅哲が議して言うには、「およそ三司の尊き者、開国の重き者は、その王服において、皆厭絶すべきものあり。もし尊さ同じく体敵であれば、疎遠であっても尚お楽を徹すべきなり。もし同じからざれば、子姓の喪で嫡でない者は、殯の後は、義として楽を闕くべからず」。国子助教韓神固が議して言うには、「羽旄は以て耳目の適を展べ、絲竹は以て遊宴の歓を肆うすべし、故に楽は貴縣にあり、哀あれば則ち廃す。至りて徳儉礼の如く、升降数あり、文物は旂旗の明を昭らかにし、錫鸞は行動の響となる、〔鳴鐃は以て衆を警し、声笳は以て路を清むるは、以て等列を弁じ〕、貴賤を明らかにするものであり、その間に哀楽を措くものではない。威儀鼓吹は旧に依って為すを允当と謂う」。

原文三年七月,司空、清河王懌第七叔母北海王妃劉氏薨,司徒、平原郡開國公高肇兄子太子洗馬員外亡,並上言,未知出入猶作鼓吹不,請下禮官議決。太學博士封祖冑議:「喪大記云:期九月之喪,既葬飲酒食肉,不與人樂之;五月三月之喪,比葬,飲酒食肉,不與人樂之;世叔母、故主、宗子,直云飲酒食肉,不言不與人樂之。鄭玄云:『義服恩輕。』以此推之,明義服葬容有樂理。又禮:『大功言而不議,小功議而不及樂。』言論之間,尚自不及,其於聲作,明不得也。雖復功緦,樂在宜止。」四門博士蔣雅哲議:「凡三司之尊,開國之重,其於王服,皆有厭絕。若尊同體敵,雖疏尚宜徹樂。如或不同,子姓之喪非嫡者,既殯之後,義不闕樂。」國子助教韓神固議:「夫羽旄可以展耳目之適,絲竹可以肆遊宴之娛,故於樂貴縣,有哀則廢。至若德儉如禮,升降有數,文物昭旂旗之明,錫鸞為行動之響,〔鳴鐃以警眾,聲笳以清路者,所以辨等〕列,明貴賤,非措哀樂於其間矣。謂威儀鼓吹依舊為允。」

兼儀曹郎中房景先が駁して曰く、「祖冑の議を案ずるに、功緦に喪あれば鼓吹作さずとし、雅哲の議は斉衰卒哭すれば簫管必ず陳すとし、これを軽重に準ずれば、理用未だ安からず。聖人は情を推して服を制し、服に拠りて心に副う、何ぞ虞生の奠を神宮に拝し、衰麻を襲いて楽を奏するを容れんや。大燧一たび移れば哀情頓に尽き、心を反して求めば、豈に礼を制するの意ならんや。もし言う如く、義服は恩軽く、既に虞して楽すとすれば、正服一期は何を以て断つか。或いは義服尊く、正服卑しきも、この比の如きは、復た何の品節か。雅哲の議する所、公子の喪で嫡でない者は、殯の後は義として楽を闕くべからず。案ずるに古には尊降有りと雖も、楽を作すの文を見ず、未だ詳らかにせず、この拠りて竟に何の典にあるか。然れども君の臣に対するは、本より服体無く、但だ恩誠相い感じて、隠惻を存するに致る。是を以て仲遂卒垂れて、笙籥入らず。智悼殯に在りて、杜蕢明らかに言う。豈に大倫の痛み、既に殯して楽すべけんや。又神固等の議する所、笳鼓は楽の限りに在らず、鳴鐃は以て衆を警し、声笳は以て路を清むるは、以て等列を弁じ貴賤を明らかにするのみで、哀恤に居りと雖も、施して廃せずと為す。粗くこれを言えば、通ずる可きに似たりと雖も、諸の正典を考うれば、符合せず。案ずるに詩に云う『鍾鼓既に設く』、『鼓鍾伐鼛す』、又云う『鼓鍾を論うに於て、辟雍を楽ますに於て』。言は則ち相い連なり、豈に楽ならざらんや。八音の数、本より笳の名無し、推してこれに類すれば、簫管の比なり、豈に名称小しく殊なるを以て、楽と為さざるべけんや。もし王公位重く、威飾崇むべく、鼓吹公給にして私に辞すべからざれば、魏絳和戎して金石の賞を受け、鍾公勳茂くして五熟の賜を蒙る。もし功を審らかにして賞に膺れば、君命必ず行わるべく、豈に嘉牢を斉殯の時に陳べ、鍾磬を祔の後に撃つべけんや。二三を尋究すれば、拠る所未だ有らず。国子は職文学を兼ね、令問の帰する所、宜しく明らかに典謨に拠り、曲く斟酌を尽くし、必ず衷に由り、以て深惑を弁ずべし。何ぞ総議並びに申し、析剖する所無く、更に得失を詳らかにし、典に拠りて正議すべからん」。

原文兼儀曹郎中房景先駁曰:「案祖冑議以功緦有喪,鼓吹不作;雅哲議齊衰卒哭,簫管必陳,準之輕重,理用未安。聖人推情以制服,據服以副心,何容拜虞生之奠於神宮,襲衰麻而奏樂。大燧一移,哀情頓盡,反心以求,豈制禮之意也。就如所言,義服恩輕,既虞而樂,正服一期,何以為斷?或義服尊,正服卑,如此之比,復何品節?雅哲所議,公子之喪非嫡者,既殯之後,義不闕樂。案古雖有尊降,不見作樂之文,未詳此據,竟在何典?然君之於臣,本無服體,但恩誠相感,致存隱惻。是以仲遂卒垂,笙籥不入;智悼在殯,杜蕢明言。豈大倫之痛,既殯而樂乎?又神固等所議,以為笳鼓不在樂限,鳴鐃以警眾,聲笳而清路者,所以辨等列,明貴賤耳,雖居哀恤,施而不廢。粗而言之,似如可通,考諸正典,未為符合。案詩云『鍾鼓既設』,『鼓鍾伐鼛』,又云『於論鼓鍾,於樂辟雍』。言則相連,豈非樂乎?八音之數,本無笳名,推而類之,簫管之比,豈可以名稱小殊,而不為樂。若以王公位重,威飾宜崇,鼓吹公給,不可私辭者,魏絳和戎,受金石之賞,鍾公勳茂,蒙五熟之賜;若審功膺賞,君命必行,豈可陳嘉牢於齊殯之時,擊鍾磬於〈疑〉祔之後?尋究二三,未有依據。國子職兼文學,令問所歸,宜明據典謨,曲盡斟酌,率由必衷,以辨深惑。何容總議並申,無所析剖,更詳得失,據典正議。」

秘書監・国子祭酒孫惠蔚、太学博士封祖冑等が重ねて議して言うには、「司空は体に衰麻を服し、心に惨切を懐く、その声楽に於ては、本より作る理無し、但だ鼓吹公儀に致りて疑論有るのみ。案ずるに鼓吹の制は、蓋し古の軍声、献捷の楽にして、常に用いるものに非ず。重位茂勳有る者にして乃ち備作を得。これを金石に方し、管絃に準ずれば、その音奏たるや、小しく殊ると曰うと雖も、然れどもその大体、楽と異ならず。是を以て礼に云う、『鼓は五声に当たること無く、五声和せざるを得ず』。窃かに惟うに今、台司の儀を加うるは、蓋し兼ねて威華を広めんと欲するなり。もし哀有りてこれを用い、吉に変わること無ければ、便ちは一人の年、悲楽並びに用いることとなり、礼情に求めれば、理に於て未だ尽きず。二公は公よりこれを受くると雖も、これを用いるは私に非ず、出入声作も亦以て己を娯ます。今既に喪有り、心楽に在らず、笳鼓の事、明らかに聞かんと欲するに非ざれば、その寧戚の義に従い、廃して作さず。但だ礼は公卿出入の儀を崇ぶ、至りては采斉に趨い、肆夏に行き、和鑾の声、佩玉の飾有る者は、以て槐鼎の至貴を顕わし、宰輔の重きを彰わすなり。今二公地尊親に処り、儀百辟に殊なり、鼓吹の用、全く去るを容れず。礼に懸けて楽しまざる有り、今これを陳べて以て威儀を備え、作さずして以て哀痛を示す。理を述べ情を節す、愚謂うに允当と為す」。詔して曰く、「国子の後の議に従う可し」。

原文祕書監、國子祭酒孫惠蔚,太學博士封祖冑等重議:「司空體服衰麻,心懷慘切,其於聲樂,本無作理,但以鼓吹公儀,致有疑論耳。案鼓吹之制,蓋古之軍聲,獻捷之樂,不常用也。有重位茂勳,乃得備作。方之金石,準之管絃,其為音奏,雖曰小殊,然其大體,與樂無異。是以禮云:『鼓無當於五聲,五聲不得不和。』竊惟今者,加台司之儀,蓋欲兼廣威華,若有哀用之,無變於吉,便是一人之年,悲樂並用,求之禮情,於理未盡。二公雖受之於公,用之非私,出入聲作,亦以娛己。今既有喪,心不在樂,笳鼓之事,明非欲聞,其從寧戚之義,廢而勿作。但禮崇公卿出入之儀,至有趨以采齊,行以肆夏,和鑾之聲,佩玉之飾者,所以顯槐鼎之至貴,彰宰輔之為重。今二公地處尊親,儀殊百辟,鼓吹之用,無容全去。禮有懸而不樂,今陳之以備威儀,不作以示哀痛。述理節情,愚謂為允。」詔曰:「可從國子後議。」

清河王懌の生母羅太妃が薨じ、表して斉衰三年を申べ行うことを求む。詔して礼官に博議せしむ。侍中・中書監・太子少傅崔光が議して言うには、「喪服大功章に云う、公の庶昆弟母の為にす。伝に曰く、『先君余尊の厭う所、大功を過ぐるを得ず』。記に、『公子其の母の為に練冠麻衣縓縁、既に葬ればこれを除く』。伝に曰く、『何を以て五服の中に在らざるや?君の服せざる所、子も亦敢えて服せざるなり』。これ皆公侯の枝子、父兄を藉りて以て称と為し、その母本妾、猶おこれを君に繫ぐ、子貴を以て夫人と為すを得ざる者を謂う。至りて応・韓の宇を啓くが如きは、厥の母固より自ら内主の尊を申べ、凡・蔣別に封ぜらるれば、その親も亦君妣の重を尽くすを容る。若し然らば、便ち所謂周公礼を制して子姪共に尊ぶ。漢世諸王の国に、太后と称し、宮室百官、周制京邑、自ら天子の式に一傍うべく、而して公庶の軌を用いず。魏氏已来、群臣微と称すと雖も、然れども嘗て出でて民土に臨むを得、恐らく亦未だ必ずしも近きを捨て遠きを行い、功衰と練麻とを服せざるにあらざらん。羅太妃王母の尊に居ること二十許載、両裔藩后並びに大邦を建て、子孫盈第し、臣吏国に満ち、堂堂たる列辟、礼楽備陳し、吉慶凶哀宜しく情典に称すべし。則ち傍らこれを公第にすべからず、仍り先の厭に拘るべからず。愚謂うに、遠く春秋子貴の文に準え、上り周漢侯王の体に祔え、母后の尊を成し、帝妾の賤を蠲ぎ、疏喪の極慕を申べ、功練の軽悲に擬すべし。誠に此の如くせば、則ち三年の喪、自達に乖かず、巨創の痛み、中に遂う有り、寧んぞ過哀を成し、情礼俱に允ならん」。時に議者同じからず、詔して大功を服せしむ。

原文清河王懌所生母羅太妃薨,表求申齊衰三年。詔禮官博議。侍中、中書監、太子少傅崔光議:「喪服大功章云:公之庶昆弟為母。傳曰:『先君餘尊之所厭,不得過大功。』記:『公子為其母練冠麻衣縓緣,既葬除之。』傳曰:『何以不在五服中也?君之〔所不服,子亦不敢服也。』此皆謂公侯枝子,藉父兄以為稱,其母本妾,猶繫之於君,不得以子貴為夫人者也。至如應、韓啟宇,厥母固自申內主之尊;凡、蔣別封,其親亦容盡君妣之重,若然,便所謂周公制禮而子姪共尊。漢世諸王之國,稱太后,宮室百官,周制京邑,自當一傍天子之式,而不用公庶之軌。魏氏已來,雖羣臣稱微,然嘗得出臨民土,恐亦未必捨近行遠,服功衰與練麻也。羅太妃居王母之尊二十許載,兩裔藩后,並建大邦,子孫盈第,臣吏滿國,堂堂列辟,禮樂備陳,吉慶凶哀宜稱情典。則不應傍之公第,仍拘先厭。愚謂可遠準春秋子貴之文,上祔周漢侯王之體,成母后之尊,蠲帝妾之賤,申疏喪之極慕,擬功練之輕悲。誠如此:則三年之喪,無乖於自達;巨創之痛,有遂乎在中,寧成過哀,情禮俱允。」時議者不同,詔服大功。〕

時にまた清河国の官人が服喪の制について疑義を抱き、太学博士の李景林ら二十一人が議して言うには、「礼文に拠れば、君主が母のために三年喪に服する場合、臣下はそれに従って期喪に服する。今、司空(清河王元懌)は先帝によって厭降されたため、自らの限りない悲しみを伸べることができない。礼に依拠すれば大功の喪に服すべきであり、喪服の厭降の例に照らしても、厭降に従うという条文はない。今、太妃はすでに六宮の称を捨て、太妃の号を加えられ、封君の母として一国を尊崇されている。臣下は固より期喪に服すべきであり、王の服喪が厭降によって屈したからといって、さらに降すべきではない。礼には軽いものに従って重いものとする場合があり、その義はここに包含される」。太学博士の封偉伯ら十人が議して言うには、「臣下が君主に従って服喪する場合、君主より一等降ずる。君主が母のために三年喪に服すれば、臣下は期喪である。今、司空は上は先帝に厭降され、下は大功に就いているので、臣下の従服はこれ以上であることは許されない。しかし礼文は残欠しており、正条としての規定がない。ひそかに情理に附会すれば、小功とすべきであると考えられる。これにより君臣の服喪がその序を失わず、昇降の差が礼の意にかなうであろう」。清河国郎中令の韓子熙が議して言うには、

原文〔時又疑清河國官從服之制,太學博士李景林等二十一人議:「按禮文,君為母三年,臣從服期。今司空自為先帝所〕厭,不得申其罔極。依禮大功,據喪服厭降之例,並無從厭之文。今太妃既捨六宮之稱,加太妃之號,為封君之母,尊崇一國。臣下固宜服期,不得以王服厭屈,而更有降。禮有從輕而重,義包於此。」太學博士封偉伯等十人議:「案臣從君服,降君一等。君為母三年,臣則期。今司空以仰厭先帝,俯就大功,臣之從服,不容有過。但禮文殘缺,制無正條,竊附情理,謂宜小功。庶君臣之服,不失其序,升降之差,頗會禮意。」清河國郎中令韓子熙議:

尚書の李平が上奏し、次のように論じた。「礼によれば、臣は君の党のために、妻は夫の党のために、ともに従服し、それぞれ君・夫より一等降ずる。故に君が三年喪に服すれば、臣は期喪に服する。今、司空たる臣元懌は尊属による厭降の礼によって、その限りない悲しみの心を奪われているが、国の臣下は厭降の及ぶところではなく、従って降すべき理はないはずである。礼記大伝に『軽いものに従って重いものとする』とあり、鄭玄の注に『公子の妻がその皇姑(夫の母)のために服する』とある。すでに舅(夫の父)が婦を厭降しない以上、厭降されない者は、本来の服喪に戻って服すべきであることを明らかにしている。これがその例である」。詔して言うには、「礼には服喪がないものに従って服喪がある場合もあり、何も軽いものに従って重いものとする場合だけではない。元懌は今自ら厭降されたため、その過ぎ去った隙間(喪の期間)を伸べることができないのである。衆臣には古来、厭降を疑う論はなく、軽いものに従うという根拠がある。どうしてその本来の制度を伸べることができないのか。尚書及び景林らの議に従うべし」。まもなく詔して言うには、「先に清河国の臣下が君母のために期喪に服することを決したが、礼事は至って重いため、改めて審議した。今、正しい根拠はなく、章句に背いて新たな条項を作ることはできない。しかし君主の服喪が既に短く、臣下の服喪が依然として長い。礼は人情に縁り、厭降に遇えば服を変える必要がある。以前の判決に戻し、葬儀が終われば除喪することを可とする」。

原文尚書李平奏,以謂:「禮,臣為君黨,妻為夫黨,俱為從服,各降君、夫一等。故君服三年,臣服一期。今司空臣懌自以尊厭之禮,奪其罔極之心,國臣厭所不及,當無隨降之理。禮記大傳云『從輕而重』,鄭玄注云『公子之妻為其皇姑』。既舅不厭婦,明不厭者,還應服其本服。此則是其例。」詔曰:「禮有從無服而有服,何但從輕而重乎?懌今自以厭,故不得申其過隙,眾臣古無疑厭之論,而有從輕之據,曷為不得申其本制也。可從尚書及景林等議。」尋詔曰:「比決清河國臣為君母服期,以禮事至重,故追而審之。今更無正據,不可背章生條。但君服既促,而臣服仍遠。禮緣人情,遇厭須變服。可還從前判,既葬除之。」

四年春正月丁巳の夜、世宗(宣武帝)が式乾殿で崩御した。侍中・中書監・太子少傅の崔光、侍中・領軍将軍の于忠と詹事の王顯、中庶子の侯剛が東宮で粛宗(孝明帝)を奉迎し、万歳門から入り、顕陽殿に至り、長く哭踊した後に復した。王顯は明るくなるのを待って即位の礼を行おうとした。崔光が王顯に言うには、「天子の位は一時も空けてはならない。どうして明るくなるのを待つのか」。王顯は言う、「中宮(皇太后)に奏上する必要がある」。光は言う、「帝が崩じて太子が立つのは、国の常典である。何ぞ中宮の命令を必要としようか」。崔光と于忠は小黄門の曲集に命じて兼官を置いて行事を行わせた。ここにおいて崔光が太尉を兼ね、黄門郎の元昭が侍中を兼ね、王顯が吏部尚書を兼ね、中庶子の裴儁が吏部郎を兼ね、中書舎人の穆弼が謁者僕射を兼ねた。崔光らは粛宗に哭を止めさせ、東の序に立たせた。于忠と元昭が粛宗を扶けて西に向かわせ、十数声哭させて止め、太子の服を着せた。太尉の崔光が策を奉り璽綬を進めると、粛宗は跪いて受け、皇帝の袞冕服を着て太極前殿に御した。太尉の崔光らは西の階から降り、夜直の群官が庭中で北面して稽首し万歳を称えた。

原文四年春正月丁巳夜,世宗崩于式乾殿。侍中、中書監、太子少傅崔光,侍中、領軍將軍于忠與詹事王顯,中庶子侯剛奉迎肅宗於東宮,入自萬歲門,至顯陽殿,哭踊久之,乃復。王顯欲須明乃行即位之禮。崔光謂顯曰:「天位不可暫曠,何待至明?」顯曰:「須奏中宮。」光曰:「帝崩而太子立,國之常典,何須中宮令也。」光與于忠使小黃門曲集奏置兼官行事。於是光兼太尉,黃門郎元昭兼侍中,顯兼吏部尚書,中庶子裴儁兼吏部郎,中書舍人穆弼兼謁者僕射。光等請肅宗止哭,立於東序。于忠、元昭扶肅宗西面哭十數聲,止,服太子之服。太尉光奉策進璽綬,肅宗跽受,服皇帝衮冕服,御太極前殿。太尉光等降自西階,夜直羣官於庭中北面稽首稱萬歲。

熙平二年十一月乙丑、太尉・清河王の元懌が上表して言うには、「臣は聞く、百王が尊ぶところは、礼にまさるものはなく、礼の中で重いものは、喪紀がその極みであると。世代による沿革があり、損益は同じからず、遺風余烈は、高き行いとして終に在る。至っては前賢往哲も、商搉(検討)に異同がある。あるいはともに経文を証しつつ、情と別緒を論じ、あるいは各々所見を言いつつ、事柄の端緒を討究する。憲章を祖述していても、人は自ら名家を成し、論議は紛綸として、理は群正に帰する。時によって宗とされるものに従わないことはなく、各々一代の典となり、上より下に達し、遵用しないことはない。これにより叔孫通の儀礼は漢朝で専擅し、王粛の礼は晋世に独行した。いわゆる軌文を共同し、四海を画一するものである。至っては折旋俯仰の儀、哭泣昇降の節、去来閫巷の容、出入閨門の度に至るまで、なお礼官に諮問し、儒士を博く訪ね、翰紙に載せ、通法に著す必要がある。弁答が乖殊で、証拠が明らかでなければ、即ち疵謬を詆訶し、糾劾して罪とする。これは簡牒に成文として、具に閲して知ることができるものである。未だ皇王が範を垂れながら国に一定の章がなく、英賢が治を賛えながら家に異同の式を制するなどということは聞いたことがない。しかるに流風を作則とし、永く来世に貽そうとしている。学官は建てられたが、庠序は修められず、古今を稽考するも、その任に専らなるものはない。及び宗室の喪礼、百僚の凶事、冠服の制裁、日月の軽重に至っては、率ね博士一人に軽々しく議させている。広陵王の元恭と北海王の元顥がともに庶母のために服喪したが、恭は重喪を治めて廬に居り、顥は斉衰の期喪で堊室に居た。親しさを論ずれば恭・顥ともに帝孫であり、貴さを語れば二人ともに蕃国である。両者の服喪の証拠が何の經典に拠るのか知らない。たちまち舛駁となり、裁正する者がない。懿王(広陵王?)のような近親の戚ですら尚おかくの如し。これより以降、どうして極まりがあろうか。歴観するに漢魏の喪礼諸儀は、巻数百に盈つ。あるいは当時の名士が往復して成規とし、あるいは一代の詞宗が較然として則とした。況んや堂堂たる四海、藹藹たる林の如き衆多の者がありながら、喪礼を参差ならしめ、帝族に始まるとは、万国を儀刑し、四海を綴旒する所以ではない。臣は官を忝くし台傅に備わり、喉唇の位にあるが、国の鈞を秉ってこのような爽缺を致すことができない。具瞻の誚り、罪を逃れるところがない。謹んで恭・顥の二国の相同からざる状を略挙し、以て喪紀の乖異なる失を明らかにする。公卿枢納、内外の儒学を集めて博議し定制を立て、天下に班行せられたい。礼に異なる準がなく、得失の帰するところがあり、併せて事に因りて広め、永く条例と為すことを庶幾む。塵を岳にし河に沾うて、微かに万一に酬いんことを」。霊太后は令して言うには、「礼は政の本である。どうしてこのように同じからざることがあろうか。表に依って議を定むべし」。事は張普惠伝にある。

原文熙平二年十一月乙丑,太尉、清河王懌表曰:「臣聞百王所尚,莫尚於禮,於禮之重,喪紀斯極。世代沿革,損益不同,遺風餘烈,景行終在。至如前賢往哲,商搉有異。或並證經文,而論情別緒;或各言所見,而討事共端。雖憲章祖述,人自名家,而論議紛綸,理歸羣正。莫不隨時所宗,各為一代之典,自上達下,罔不遵用。是使叔孫之儀,專擅於漢朝;王肅之禮,獨行於晉世。所謂共同軌文,四海畫一者也。至乃折旋俯仰之儀,哭泣升降之節,去來閫巷之容,出入閨門之度,尚須疇諮禮官,博訪儒士,載之翰紙,著在通法。辯答乖殊,證據不明,即詆訶疵謬,糾劾成罪。此乃簡牒成文,可具閱而知者也。未聞有皇王垂範,國無一定之章;英賢贊治,家制異同之式。而欲流風作則,永貽來世。比學官雖建,庠序未修,稽考古今,莫專其任。暨乎宗室喪禮,百僚凶事,冠服制裁,日月輕重,率令博士一人輕爾議之。廣陵王恭、北海王顥同為庶母服,恭則治重居廬,顥則齊期堊室。論親則恭、顥俱是帝孫,語貴則二人並為蕃國,不知兩服之證,據何經典。俄為舛駁,莫有裁正。懿王昵戚,尚或如斯。自茲已降,何可紀極。歷觀漢魏,喪禮諸儀,卷盈數百。或當時名士,往復成規;或一代詞宗,較然為則。況堂堂四海,藹藹如林,而令喪禮參差,始於帝族,非所以儀刑萬國,綴旒四海。臣忝官台傅,備位喉脣,不能秉國之鈞,致斯爽缺。具瞻所誚,無所逃罪。謹略舉恭、顥二國不同之狀,以明喪紀乖異之失。乞集公卿樞納,內外儒學,博議定制,班行天下。使禮無異準,得失有歸,并因事而廣,永為條例。庶塵岳沾河,微酬萬一。」靈太后令曰:「禮者為政之本,何得不同如此!可依表定議。」事在張普惠傳。

神亀元年九月、尼となった高皇太后(孝文帝の后、宣武帝の母)が瑶光寺で崩御した。粛宗(孝明帝)は詔して言うには、「崇憲皇太后は、徳は坤儀に協い、徴符は月晷に符し、方に壼化を融かさんとしたが、奄に崩殂に至った。朕は幼くして荼蓼(苦難)を集め、夙に徳訓に憑り、及び翕虣(叛乱鎮定)して難を定むるは、是れ謨謀に頼るところである。夫れ礼は情に沿いて制し、義は事に循いて立つ。特に入れ替わりの斉衰三月と為し、以て追仰の心を伸ぶべし」。有司が奏上して言うには、「旧事を案ずるに、皇太后崩御の儀礼は、復魄より斂葬に至るまで、百官が哭臨し、その礼は甚だ多い。今、尼太后は既に俗の尊を委ね、道法に憑って居られる。凶事は簡速であり、配極の典に依らず、庭局は狭隘で、百官の位を容れるに非ず。但だ昔より逕(直接)に奉接し、義は君臣を成し、終始の情礼は、理として廃絶すべきではない。輒ち故式に準じ、別紙の如く儀礼を立てる。内外の群官は、権りに常服を改め、単衣に邪巾をし、墓まで奉送し、列位して哭拝し、事畢わって除する。京師に止まり、更に下に宣べず」。詔して可とする。

原文神龜元年九月,尼高皇太后崩於瑤光寺。肅宗詔曰:「崇憲皇太后,德協坤儀,徵符月晷,方融壼化,奄至崩殂。朕幼集荼蓼,夙憑德訓,及翕虣定難,是賴謨謀。夫禮沿情制,義循事立,可特為齊衰三月,以申追仰之心。」有司奏:「案舊事,皇太后崩儀,自復魄斂葬,百官哭臨,其禮甚多。今尼太后既存委俗尊,憑居道法。凶事簡速,不依配極之典;庭局狹隘,非容百官之位。但昔逕奉接,義成君臣,終始情禮,理無廢絕。輒準故式,立儀如別。內外羣官,權改常服,單衣邪巾,奉送至墓,列位哭拜,事訖而除。止在京師,更不宣下。」詔可。

十一月、侍中・国子祭酒・儀同三司の崔光が上言した。「台(尚書省)の祠部曹からの符(公文書)を受けました。文昭皇太后の改葬に際し、至尊(皇帝)・皇太后・群臣の服制の軽重を議するものです。四門博士の劉季明の議は云う。『喪服の記を案ずるに、「改葬には緦(し、五等喪服の最軽)を着る」と云うが、本文には根拠がなく、注解に至っては、乖異して同じくありません。馬融・王粛は、本来三年の喪服がある者(子が父など)は、鄭玄の説では三度重ねると云います。しかし後来の諸儒は、馬融に符合する者が多く、鄭玄に与する者は少ない。今は馬融・王粛ら諸儒の議に依り、至尊は緦を着るべきです。記を案ずるに、「外宗は君夫人のため、猶内宗のごとし」とあります。鄭注に云う。「君のためには斬衰(ざんすい、最重喪服)を着、夫人のためには斉衰(さいすい、次重喪服)を着る。親の服をもって至尊に服することを敢えてしないためである」と。今、皇太后は上は宗廟を奉じ、下は朝臣に臨むとはいえ、姑としての喪に至っては、期(き、一年)を過ぎることは得ず、計らうに服すべきはないはずです。その清河王・汝南王の母の喪服は三年ですが、これもまた緦を着るべきです。その余の王公百官は、君の母・妻のためには、ただ期のみであり、並びに服すべきではありません』と。また太常博士の鄭六の議は云う。『謹んで喪服及び中代(漢代)の雑論を検するに、記に云う「改葬には緦を着る」。鄭注に「臣が君のため、子が父のため、妻が夫のため。親しく屍柩を見る、服なくしては可ならず、故に緦を着る」。三年の喪の者でも緦を着るならば、期以下の者は服がないことになります。窃かに謂うに、鄭氏は緦を着る旨を得ていますが、三月と云うのは誤りです。臣の見る所に依れば、康成(鄭玄)の緦を着る説に依り、既に葬れば除くことを請います』と。愚(崔光)はこれを允当と為す。」詔して可とした。

原文十一月,侍中、國子祭酒、儀同三司崔光上言:「被臺祠部曹符,文昭皇太后改葬,議至尊、皇太后、羣臣服制輕重。四門博士劉季明議云:『案喪服,記雖云「改葬緦」,文無指據,至於注解,乖異不同。馬融、王肅云本有三年之服者,鄭及三重。然而後來諸儒,符融者多,與玄者少。今請依馬、王諸儒之議,至尊宜服緦。案記:「外宗為君夫人,猶內宗。」鄭注云:「為君服斬,夫人齊衰,不敢以親服至尊也。」今皇太后雖上奉宗廟,下臨朝臣,至於為姑,不得過期,計應無服。其清河、汝南二王母服三年,亦宜有緦。自餘王公百官,為君之母妻,唯期而已,並應不服。』又太常博士鄭六議云:『謹檢喪服并中代雜論,記云:「改葬緦。」鄭注:「臣為君,子為父,妻為夫。親見屍柩,不可以無服,故服緦。」三年者緦,則期已下無服。竊謂鄭氏得服緦之旨,謬三月之言。如臣所見,請依康成之服緦,既葬而除。』愚以為允。」詔可。

二年正月二日の元会(元旦の朝賀)に、高陽王元雍は、霊太后が臨朝し、太上秦公(胡国珍)の喪制が未だ終わっていないことを理由に、百戯(各種芸能)と絲竹の楽を罷めようとした。清河王元懌は、万国が慶賀のために集まり、天子が臨んで饗するのだから、備え設けるべきであると為した。太后は侍中の崔光にこれを訪ねた。光は元雍の執る所に従った。元懌は光に謂って「宜しく経典を以て証とすべきである」と言った。光は礼記の「縞冠玄武、子姓の冠」を根拠にし、父母に重喪があれば、子は純粋な吉事を為さないとした。安定公(胡国珍)は親しく外祖父であり、また師の恩もあり、太后は公除(喪服を公務中だけ除くこと)を許さず、衰麻(喪服)を体に着けていた。正月朔日には、家に還って哭臨し、至尊(皇帝)の輿駕は奉慰した。記に云う「朋友の墓に、宿草有りて而も哭せず」。これは則ち朋友には期年(一年)の哀があるということである。子貢が云う。夫子(孔子)が顔淵を喪うこと、子を喪うが如くして服無し。子路を喪うもまた然り。顔淵の喪には、練肉(供物)を饋(おく)り、夫子はこれを受け、琴を弾じて後にこれを食した。子の哀しみとすれば、則ち一期の間は容れ、楽を挙げないのである。孔子は既に大練(喪服の軽減)の後、五日にして琴を弾じた。父母の喪である。これにより夫子を喪うことは父を喪うが如くして服無し。心喪三年は、これにより制せられた。古義は追い難いとはいえ、近頃発せられる詔には、毎に師・祖の尊さを言う。これは則ち一期の内に、猶余哀有りということである。且つ礼に、母に喪服有れば、声の聞こえる所、子は楽を挙げず。今、太后には更に別宮が無く、居られる嘉福殿は、太極殿から大遠からず。鼓鐘を宮に於いて鳴らせば、声は外に聞こえる。況んや内に密邇しているにおいてをや。君の卿佐は、是を股肱と謂う。股肱或いは虧けば、何の痛みか之に如かん。智悼子の喪未だ葬らざるに、杜蕢が晋の平公を諫めた所以である。今、相国(胡国珍)は既に安厝(仮葬)されたとはいえ、僅かに三月のみ。陵墳未だ乾かず。元懌は理証を以て然りと為し、乃ち元雍の議に従った。

原文二年正月二日元會,高陽王雍以靈太后臨朝,太上秦公喪制未畢,欲罷百戲絲竹之樂。清河王懌以為萬國慶集,天子臨享,宜應備設。太后訪之於侍中崔光,光從雍所執。懌謂光曰:「宜以經典為證。」光據禮記「縞冠玄武,子姓之冠」,父母有重喪,子不純吉。安定公親為外祖,又有師恩,太后不許公除,衰麻在體。正月朔日,還家哭臨,至尊輿駕奉慰。記云:「朋友之墓,有宿草焉而不哭。」是則朋友有期年之哀。子貢云:夫子喪顏淵,若喪子而無服,喪子路亦然。顏淵之喪,饋練肉,夫子受之,彈琴而後食之。若子之哀,則容一期,不舉樂也。孔子既大練,五日彈琴,父母之喪也。由是喪夫子若喪父而無服。心喪三年,由此而制。雖古義難追,比來發詔,每言師、祖之尊。是則一期之內,猶有餘哀。且禮,母有喪服,聲之所聞,子不舉樂。今太后更無別宮,所居嘉福,去太極不為大遠。鼓鍾于宮,聲聞于外,況在內密邇也。君之卿佐,是謂股肱,股肱或虧,何痛如之!智悼子喪未葬,杜蕢所以諫晉平公也。今相國雖已安厝,裁三月爾,陵墳未乾。懌以理證為然,乃從雍議。

孝静帝の武定五年正月、斉献武王(高歓)が薨じた。時に凶問を秘した。六日、孝静皇帝は太極東堂に於いて哀を挙げ、斉衰三月を服した。将に窆(ほう、埋葬)せんとするに及び、中練(喪服軽減の一過程)に至った。斉文襄王(高澄)は自ら発喪の月より(服することを)請うた。帝は侍中の陸子彰を使わし詔を挙げ、三度往って敦め諭したが、王は固く執り、詔は許さなかった。乃ち薨じた月に従った。

原文孝靜武定五年正月,齊獻武王薨,時祕凶問。六日,孝靜皇帝舉哀於太極東堂,服齊衰三月。及將窆,中練。齊文襄王請自發喪之月,帝使侍中陸子彰舉詔,三往敦喻,王固執,詔不許。乃從薨月。

太祖の天賜三年十月、占いを授けて著作郎の王宜弟に兵法を造らせた。

原文太祖天賜三年十月,占授著作郎王宜弟造兵法。

高宗の和平三年十二月、歳除(大晦日)の大儺の礼に因り、遂に兵を燿(かがや)かし武を示した。更に制を為し、歩兵を南に陳べ、騎士を北に陳べ、各々鐘鼓を撃ちて、以て節度と為した。その歩兵の衣る所は、青・赤・黄・黒で別けて部隊と為した。盾・矟・矛・戟を相次いで周回転易し、以て相い赴き就かしめた。飛龍・騰蛇の変有り、函箱・魚鱗・四門の陳を為し、凡そ十余の法有り。跽(き、跪く)起き前却し、節に応ぜざるは無かった。陳べ畢りて、南北二軍皆鼓角を鳴らし、衆尽く大いに譟した。各々騎将六人を令して去来し挑戦せしめ、歩兵は更に進退して以て相い拒み撃たしめ、南は敗れ北は捷(か)ち、以て盛観と為した。自ら後は踵(うし)いて以て常と為した。

原文高宗和平三年十二月,因歲除大儺之禮,遂燿兵示武。更為制,令步兵陳於南,騎士陳於北,各擊鍾鼓,以為節度。其步兵所衣,青赤黃黑別為部隊。盾矟矛戟相次周回轉易,以相赴就。有飛龍騰蛇之變,為函箱魚鱗四門之陳,凡十餘法。跽起前却,莫不應節。陳畢,南北二軍皆鳴鼓角,眾盡大譟。各令騎將六人去來挑戰,步兵更進退以相拒擊,南敗北捷,以為盛觀。自後踵以為常。

高祖の太和十九年五月甲午、皇太子の元恂に廟に於いて冠礼を加えた。丙申、高祖は光極堂に臨み、太子が入見し、帝自ら詔した。事は恂伝に在り。六月、高祖は光極堂に臨み、群官を引見した。詔して曰く。「比(ちか)く子の恂に冠を加うるに、礼に闕有り。往きし失いを思い、更に将来に順うべきである。礼は古今殊なる制、三代異なる章有り。近く恂に冠を加うる礼に三失有り。一、朕と諸儒と同じく誤る。二、諸儒朕に違う。故に三誤有らしむ。今、中原に兆(きざ)し建ち、百礼惟れ新たなり。而して此の三失有り、殊に以て愧歎す。春秋に、襄公将に衛に至らんとし、同姓の国を以て、其の年幾ばくかを問い、而して冠礼を行えり。古者は皆、地に灌(そそ)ぎ神を降し、或いは楽を作して以て神を迎えたり。昨は楽を作すことを失えり。廟庭に至り、朕は意を以て拜礼を行えり。神を降すことを得ずと雖も、理に於いて猶差(やや)完し。司馬彪云う、漢帝に四冠有り。一は緇布、二は進賢、三は武弁、四は通天冠。朕は家語の冠頌篇を見るに、四加冠は、公なり。家語は正経に非ずと雖も、孔子の言は経と何の異なることか有らん。諸儒は司馬彪の志を忽せにし、致して天子の子にして、而して士の冠礼を行わしむ。此れ朝廷の失いなり。冠礼は朕は賓有りと為す。諸儒は皆賓無しと為す。朕既に之に従い、復た失い有らしむ。孔の云う所の『斐然として章を成す』、其れ斯れを謂うか。」太子太傅の穆亮等は拜謝した。高祖曰く。「昔、裴頠が冠儀を作りしに、四有ることを知らず。裴頠尚お知らず、卿等復た何を愧じんや。」

原文高祖太和十九年五月甲午,冠皇太子恂於廟。丙申,高祖臨光極堂,太子入見,帝親詔之。事在恂傳。六月,高祖臨光極堂,引見羣官。詔曰:「比冠子恂,禮有所闕,當思往失,更順將來。禮古今殊制,三代異章。近冠恂之禮有三失,一,朕與諸儒同誤,二,諸儒違朕,故令有三誤。今中原兆建,百禮惟新,而有此三失,殊以愧歎。春秋,襄公將至衞,以同姓之國,問其年幾,而行冠禮。古者皆灌地降神,或有作樂以迎神。昨失作樂。至廟庭,朕以意而行拜禮,雖不得降神,於理猶差完。司馬彪云,漢帝有四冠:一緇布,二進賢,三武弁,四通天冠。朕見家語冠頌篇,四加冠,公也。家語雖非正經,孔子之言與經何異。諸儒忽司馬彪志,致使天子之子,而行士冠禮,此朝廷之失。冠禮朕以為有賓,諸儒皆以為無賓,朕既從之,復令有失。孔所云『斐然成章』,其斯之謂。」太子太傅穆亮等拜謝。高祖曰:「昔裴頠作冠儀,不知有四,裴頠尚不知,卿等復何愧。」

正光元年秋、粛宗(孝明帝)が元服を加え、時に年十一。既に冠し、太廟を拝し、大赦して元を改めた。官に其の注有り。

原文正光元年秋,肅宗加元服,時年十一。既冠,拜太廟,大赦改元。官有其注。

輿服の制は、秦漢已降、損益知るべし。魏氏は百王の末に居り、分崩の後に接し、典礼の用、故に闕有り。太祖の世に制せし所の車輦は、古式を参采すと雖も、多く旧章に違う。今、案じてこれを書き、以て一代の迹を存す。

原文輿服之制,秦漢已降,損益可知矣。魏氏居百王之末,接分崩之後,典禮之用,故有闕焉。太祖世所制車輦,雖參采古式,多違舊章。今案而書之,以存一代之迹。

乗輿の輦輅:龍輈十六、四衡、轂は朱班、繍輪、雕虬・文虎・盤螭の飾り有り。龍首は扼を銜み、鸞爵は衡に立ち、円蓋に華蟲、金雞は羽を樹て、蛟龍は游蘇す。太常十有二斿を建て、日月升龍を画く。郊天祭廟には則ちこれに乗ず。

原文乘輿輦輅:龍輈十六,四衡,轂朱班,繡輪,有雕虬、文虎、盤螭之飾。龍首銜扼,鸞爵立衡,圓蓋華蟲,金雞樹羽,蛟龍游蘇。建太常十有二斿,畫日月升龍。郊天祭廟則乘之。

乾象輦:羽葆、円蓋に華蟲、金雞は羽を樹て、二十八宿、天階雲罕、山林雲気・仙聖賢明・忠孝節義・遊龍・飛鳳・朱雀・玄武・白虎・青龍・奇禽異獸、以て飾りと為すべき者は皆亦図す。太皇太后・皇太后・皇后、郊廟を助祭するには則ちこれに乗ず。

原文乾象輦:羽葆,圓蓋華蟲,金雞樹羽,二十八宿,天階雲罕,山林雲氣、仙聖賢明、忠孝節義、遊龍、飛鳳、朱雀、玄武、白虎、青龍、奇禽異獸可以為飾者皆亦圖焉。太皇太后、皇太后、皇后助祭郊廟則乘之。

大樓輦:輈十二、玉飾を以て加え、衡輪は雕綵し、輦輅と同じく、牛十二を駕す。

原文大樓輦:輈十二,加以玉飾,衡輪雕綵,與輦輅同,駕牛十二。

小樓輦:輈八、衡輪の色数は大樓輦と同じく、牛十二を駕す。天子・太皇太后・皇太后の郊廟にも亦これに乗ず。

原文小樓輦:輈八,衡輪色數與大樓輦同,駕牛十二。天子、太皇太后、皇太后郊廟,亦乘之。

象輦:左右に鳳凰、白馬、仙人は前却飛行し、象二頭を駕す。羽葆旒蘇、龍旂旍麾、其の飾りは乾象と同じ。太皇太后・皇太后の郊廟を助祭する副乗なり。

原文象輦:左右鳳凰,白馬,仙人前却飛行,駕二象。羽葆旒蘇,龍旂旍麾,其飾與乾象同。太皇太后、皇太后助祭郊廟之副乘也。

馬輦は重級であり、その装飾はすべてこれに同じくする。繢漆の直轅六つ、左右に騑駕する。天子が籍田や小祀の時に、これに乗る。

原文馬輦:重級,其飾皆如之。繢漆直輈六,左右騑駕。天子籍田、小祀時,則乘之。

臥輦は、その装飾はすべてこれに同じくする。丹漆、六頭の馬を駕する。

原文臥輦:其飾皆如之。丹漆,駕六馬。

遊観輦は、その装飾もこれに同じくする。十五頭の馬を駕し、すべて白馬で朱色の鬣と尾である。天子が法駕で行幸し、巡狩し、小祀の時に、これに乗る。

原文遊觀輦:其飾亦如之。駕馬十五匹,皆白馬朱髦尾。天子法駕行幸、巡狩、小祀時,則乘之。

七宝旃檀刻鏤輦は、金薄で文様を浮き彫りにする。

原文七寶旃檀刻鏤輦:金薄隱起。

馬輦は、天子の三駕が乗るものであり、あるいは副乗とする。

原文馬輦:天子三駕所乘,或為副乘。

緇漆の蜀馬車は、金薄で華虫の文様を浮き彫りにする。

原文緇漆蜀馬車:金薄華蟲隱起。

軺軒は、四頭の馬を駕し、金銀で文様を浮き彫りにする。出る時は挽き、解いて合わす。

原文軺軒:駕駟,金銀隱起。出挽解合。

歩輓は、天子が小駕で遊宴する時に乗るものであり、また副乗とする。

原文步挽:天子小駕遊宴所乘,亦為副乘。

金根車は、羽葆、旒があり、轅と輪に文様を描き、車首に華飾、綵軒に交落し、左右に騑がある。太皇太后、皇太后、皇后が郊廟の助祭、籍田、先蠶の時に、これに乗る。長公主、大貴、公主、封君、諸王妃は皆乗ることができるが、右の騑のみである。

原文金根車:羽葆,旒,畫輈輪,華首,綵軒交落,左右騑。太皇太后、皇太后、皇后助祭郊廟,籍田先蠶,則乘之。長公主、大貴、公主、封君、諸王妃皆得乘,但右騑而已。

太祖の初め、皇太子と皇子は皆鸞輅に立って乗り、轅に龍首を描き、朱輪に繡轂、綵蓋に朱裏、龍旂に九斿、雲楱を描く。皇子が封ぜられるとこれを賜い、皆四頭の馬を駕する。

原文太祖初,皇太子、皇子皆鸞輅立乘,畫輈龍首,朱輪繡轂,綵蓋朱裏,龍旂九斿,畫雲楱。皇子封則賜之,皆駕駟。

また軺車がある。緇漆、紫幰に朱裏、一頭の馬を駕し、副乗とする。

原文又有軺車:緇漆,紫幰朱裏,駕一馬,為副乘。

公安車は、緇漆、紫蓋に朱裏、轅に朱雀・青龍・白虎を描き、龍旂八斿、三頭の馬を駕する。軺車は王と同じである。

原文公安車:緇漆,紫蓋朱裏,畫輈,朱雀、青龍、白虎,龍旂八斿,駕三馬。軺車與王同。

侯車は、公と同じである。七斿、紫蓋に青裏、二頭の馬を駕する。副車もこれに同じくする。

原文侯車:與公同。七斿,紫蓋青裏,駕二馬。副車亦如之。

子車は、緇漆、草蠡文、六斿、皂蓋に青裏、一頭の馬を駕する。副車もこれに同じくする。

原文子車:緇漆,草蠡文,六斿,皂蓋青裏,駕一馬。副車亦如之。

(欠)および公・侯・子が郊天に陪列する時は、これに乗る。宗廟の小祀には、軺軒に乗るのみである。高祖の太和年間に至り、詔して儀曹令の李韶に車輅の監造を命じ、すべて古式に従わせた。

原文〈闕〉及公、侯、子陪列郊天,則乘之。宗廟小祀,乘軺軒而已。至高祖太和中,詔儀曹令李韶監造車輅,一遵古式焉。

太祖天興二年、礼官に命じて古事を採集させ、三駕の鹵簿を制定した。第一は大駕と称し、五輅を設け、太常を立て、属車八十一乗を従える。平城令・代尹・司隸校尉・丞相が奉引し、太尉が陪乗し、太僕が御従する。軽車と介士、千乗万騎が魚麗雁行の陣をなす。前駆には、皮軒・闒戟・芝蓋・雲罕・指南があり、後殿には豹尾がある。葭を鳴らし唱え、上下に鼓吹を奏する。軍戎・大祠の際にはこれを設ける。第二は法駕と称し、属車三十六乗を従える。平城令・代尹・太尉が奉引し、侍中が陪乗し、奉車都尉が御する。巡狩・小祠の際にはこれを設ける。第三は小駕と称し、属車十二乗を従える。平城令・太僕が奉引し、常侍が陪乗し、奉車郎が御する。遊宴・離宮の際にはこれを設ける。二至(冬至・夏至)に郊天地を祀り、四節に五帝を祠る際には、あるいは公卿が行事を執り行うが、ただ四月の郊天のみは、帝が常に親しく行い、楽に鍾懸を加え、迎送の節と為す。

原文太祖天興二年,命禮官捃採古事,制三駕鹵簿。一曰大駕,設五輅,建太常,屬車八十一乘。平城令、代尹、司隸校尉、丞相奉引,太尉陪乘,太僕御從。輕車介士,千乘萬騎,魚麗雁行。前驅,皮軒、闒戟、芝蓋、雲罕、指南;後殿,豹尾。鳴葭唱,上下作鼓吹。軍戎、大祠則設之。二曰法駕,屬車三十六乘。平城令、代尹、太尉奉引,侍中陪乘,奉車都尉御。巡狩、小祠則設之。三曰小駕,屬車十二乘。平城令、太僕奉引,常侍陪乘,奉車郎御。遊宴離宮則設之。二至郊天地,四節祠五帝,或公卿行事,唯四月郊天,帝常親行,樂加鍾懸,以為迎送之節焉。

天賜二年の初め、大駕の魚麗雁行を改め、方陳の鹵簿と為す。歩騎を列ね、内外四重とし、標を列ね旌を立て、門を通じ四方に達し、五色の車旗各々その方に処す。諸王の導従は鉀騎の内にあり、公は幢の内にあり、侯は歩矟の内にあり、子は刀盾の内にあり、五品の朝臣使は輿乗の前両廂に列し、官の卑しき者は先に引く。王公侯子の車の旒・麾・蓋、信幡及び散官の構服は、全て純黒と為す。

原文天賜二年初,改大駕魚麗雁行,更為方陳鹵簿。列步騎,內外為四重,列標建旌,通門四達,五色車旗各處其方。諸王導從在鉀騎內,公在幢內,侯在步矟內,子在刀盾內,五品朝臣使列乘輿前兩廂,官卑者先引。王公侯子車旒麾蓋、信幡及散官構服,一皆純黑。

肅宗熙平元年六月、中侍中劉騰らが奏上して言う、「中宮の僕が列車の輿が朽ち敗れたと刺す。昔の旧都より、礼物は頗る異なり、京に遷って以来、未だ更に造るを復さず。礼官を集めて、その制を裁するを請う」。霊太后は令して曰く、「尚書に付して量議せしめよ」。太常卿穆紹、少卿元端、博士鄭六・劉臺龍らの議、「周礼を案ずるに、王后の五輅あり。重翟は錫面に朱緫し、厭翟は勒面に繢緫し、安車は彫面に鷖緫し、皆容蓋あり。翟車は貝面に組緫し、握あり。輦車は組輓し、翣と羽蓋あり。重翟は、后が王に従い祭祀するに乗ずる所。厭翟は、后が王に従い賓客を饗する諸侯に乗ずる所。安車は、后が王に朝見するに乗ずる所。翟車は、后が出でて桑するに乗ずる所。輦車は、後宮中に乗ずる所。謹んで周礼の聖制、不刊の典と為し、その礼文尤も備わる。孔子云う『其れ或いは周を継ぐ者は、百世と雖も知るべきなり』と、その法踰え難きを以てす。これを以て言えば、後王の輿服典章は、多く周の式に放つ。文質時とともに変ずるも、輅の名は存すべく、彫飾異なるも、理として全く捨つる無し。当今聖后朝に臨み、親しく庶政を覧る。輿駕の式は、宜しく典礼を備うべし。臣等学通経に缺け、叨かに議の末に参ず。輒ち短見を率い、宜しく周礼に準じて五輅を備え造り、彫飾の制は、時に随い増減すべし」。

原文肅宗熙平元年六月,中侍中劉騰等奏:「中宮僕刺列車輿朽敗。自昔舊都,禮物頗異,遷京已來,未復更造。請集禮官,以裁其制。」靈太后令曰:「付尚書量議。」太常卿穆紹,少卿元端,博士鄭六、劉臺龍等議:「案周禮王后之五輅:重翟錫面朱緫,厭翟勒面繢緫,安車彫面鷖緫,皆有容蓋;翟車貝面組緫,有握;輦車,組輓,有翣,羽蓋。重翟,后從王祭祀所乘;厭翟,后從王賓饗諸侯所乘;安車,后朝見於王所乘;翟車,后出桑則乘;輦車,后宮中所乘。謹以周禮聖制,不刊之典,其禮文尤備。孔子云『其或繼周者,雖百世可知也』,以其法不可踰。以此言之,後王輿服典章,多放周式。雖文質時變,輅名宜存,彫飾雖異,理無全捨。當今聖后臨朝,親覽庶政,輿駕之式,宜備典禮。臣等學缺通經,叨參議末,輒率短見,宜準周禮備造五輅,彫飾之制,隨時增減。」

太学博士王延業の議、「周礼を案ずるに、王后に五輅あり。重翟は王に従い祠るに以てし、厭翟は王に従い賓客を饗するに以てし、安車は王に朝見するに以てし、翟車は親桑に以てし、輦車は宮中に乗ずる所。また漢の輿服志に云う、秦は天下を併せ、三代の礼を閲し、或いは曰く殷の瑞山車、金根の色、殷人は以て大輅と為す。ここにおいて始皇は金根の車を作る。漢は秦の制を承け、御して乗輿と為す。太皇太后・皇太后は皆金根車に御し、交絡・帷裳を加う。法駕に非ざれば則ち紫罽軿車に乗じ、雲𣝛文に輈を画き、黄金を塗りて五末・蓋爪と為し、左右騑し、三馬を駕す。阮諶の礼図は併せて秦漢以来の輿服を載せ、亦云う、金根輅は、皇后法駕これに乗じ、以て礼婚し廟に見ゆ。桑輅は、后法駕これに乗じ以て親桑す。安車は、后小駕これに乗じ以て助祭す。山軿車は、后行すれば則ちこれに乗ず。紺罽軿車は、后小行すれば則ちこれに乗じ、以て公主・邑君・王妃・公侯夫人を哭す。入閤輿は、后閤に出入し、宮中小遊すれば則ちこれに乗ず。晉の先蠶儀注に、皇后は雲母安車に乗じ、六騩を駕す。周・秦・漢・晉の車輿儀式を案ずるに、互いに図書に見え、名号小異なるも、その大較略々相い依擬す。金根車は秦の造るより起これども、即ち殷の遺制なり。今の乗輿五輅は、これが象なり。華飾典麗、容観荘美なり。司馬彪は以て孔子の所謂く殷の輅に乗ずとは、即ちこれを謂うなりと為す。阮氏の図を案ずるに、桑車も亦雲母を以て飾る。晉の雲母車はこれ即是なり。一に周の翟車とその用正に同じ。安車は既に名周制と同じく、又用重翟と同じ。山軿車は、図を案ずるに紫を以てこれを飾る。紺罽軿車は、制用厭翟に異なるも、而して実に用同じ。今に於いて入閤輿と輦は、その用又同じ。図を案ずるに、今の黒漆画扇輦は、周の輦車とその形相似たり。窃に以為う、秦は周の制を滅ぼし、百事創革し、官名軌式、殊異ならざる莫し。漢魏は因循し、踵を継ぎ仍って旧きに依る。時に損益有るも、而して古に反する能わず。良に聖去ること久遠、典儀殊に缺け、時移り俗易わり、物事変に随うに由る。賢哲を経るも、祖襲して改むること無し。伏して惟うに皇太后叡聖淵凝し、万物を照臨し、動くこと典故に循い、則を後王に貽す。今輒ち管見を竭くし、これ周礼に稽え、漢晉に考え、諸の図史を採り、時事に験し、以て宜しく漢晉に依るべしと為す。法駕は則ち金根車に御し、四馬を駕し、交絡帷裳を加う。雲母車に御し、四馬を駕し、以て親桑す。その法駕に非ざれば則ち紫罽軿車に御し、三馬を駕す。小駕は則ち安車に御し、三馬を駕し、以て助祭す。小行は則ち紺罽軿車に御し、三馬を駕し、以て公主・王妃・公侯夫人を哭す。宮中出入は則ち画扇輦車に御す。旧事を案ずるに、周礼に比すれば、唯だ王に従い賓客を饗し及び王に朝見するの乗を闕く。窃に以為う、古者は諸侯に朝会の礼有り、故に饗に従うの儀有り。今その事無く、宜しく省略に従うべし。又今の皇居は、宮掖相逼し、仮令朝見有りとすとも、理として駟を結ぶ無く、即ち事を考実すれば、亦宜しく闕廃すべし。又公主及び王妃を哭することは、周礼に無き所、今に施すは、実に事要に合す。損益同じからず、用捨時に随う。三代異制、その道然り。又金根及び雲母は、駕馬或いは三或いは六、経礼にこれを訪うも、六を駕すの文無し。今の乗輿は、又皆四を駕す。義古典に符し、宜しく仍って四を駕すべし。その余の小駕は、宜しく三を駕すに従うべし。その制用形飾は、備えて図志に見ゆ」。

原文太學博士王延業議:「案周禮,王后有五輅,重翟以從王祠,厭翟以從王饗賓客,安車以朝見于王,翟車以親桑,輦車宮中所乘。又漢輿服志云:秦并天下,閱三代之禮,或曰殷瑞山車,金根之色,殷人以為大輅,於是始皇作金根之車。漢承秦制,御為乘輿。太皇太后、皇太后皆御金根車,加交絡、帷裳,非法駕則乘紫罽軿車,雲𣝛文畫輈,黃金塗五末,蓋爪,左右騑,駕三馬。阮諶禮圖并載秦漢已來輿服,亦云:金根輅,皇后法駕乘之,以禮婚見廟;桑輅,后法駕乘之以親桑;安車,后小駕乘之以助祭;山軿車,后行則乘之;紺罽軿車,后小行則乘之,以哭公主、邑君、王妃、公侯夫人;入閤輿,后出入閤、宮中小遊則乘之。晉先蠶儀注:皇后乘雲母安車,駕六騩。案周、秦、漢、晉車輿儀式,互見圖書,雖名號小異,其大較略相依擬。金根車雖起自秦造,即殷之遺制,今之乘輿五輅,是其象也,華飾典麗,容觀莊美。司馬彪以為孔子所謂乘殷之輅,即此之謂也。案阮氏圖,桑車亦飾以雲母,晉之雲母車即是,一與周之翟車其用正同。安車既名同周制,又用同重翟。山軿車,案圖飾之以紫。紺罽軿車,雖制用異於厭翟,而實同用。於今入閤輿與輦,其用又同。案圖,今之黑漆畫扇輦,與周之輦車其形相似。竊以為秦滅周制,百事創革,官名軌式,莫不殊異。漢魏因循,繼踵仍舊,雖時有損益,而莫能反古。良由去聖久遠,典儀殊缺,時移俗易,物隨事變。雖經賢哲,祖襲無改。伏惟皇太后叡聖淵凝,照臨萬物,動循典故,貽則後王。今輒竭管見,稽之周禮,考之漢晉,採諸圖史,驗之時事,以為宜依漢晉:法駕,則御金根車,駕四馬,加交絡帷裳;御雲母車,駕四馬,以親桑;其非法駕則御紫罽軿車,駕三馬;小駕則御安車,駕三馬,以助祭;小行則御紺罽軿車,駕三馬,以哭公主、王妃、公侯夫人;宮中出入,則御畫扇輦車。案舊事,比之周禮,唯闕從王饗賓客及朝見於王之乘。竊以為古者諸侯有朝會之禮,故有從饗之儀。今無其事,宜從省略。又今之皇居,宮掖相逼,就有朝見,理無結駟,即事考實,亦宜闕廢。又哭公主及王妃,周禮所無,施之於今,實合事要。損益不同,用捨隨時,三代異制,其道然也。又金根及雲母,駕馬或三或六,訪之經禮,無駕六之文。今之乘輿,又皆駕四,義符古典,宜仍駕四。其餘小駕,宜從駕三。其制用形飾,備見圖志。」

司空領尚書令任城王元澄、尚書左僕射元暉、尚書右僕射李平、尚書齊王蕭寶夤、尚書元欽、尚書元昭、尚書左丞盧同、右丞元洪超、考功郎中劉懋、北主客郎中源子恭、南主客郎中游思進、三公郎中崔鴻、長兼駕部郎中薛悅、起部郎中杜遇、左主客郎中元韡、騎兵郎中房景先、外兵郎中石士基、長兼右外兵郎中鄭幼儒、都官郎中李秀之、兼尚書左士郎中朱元旭、度支郎中谷穎、左民郎中張均、金部郎中李仲東、庫部郎中賈思同、國子博士薛禎、邢晏、高諒、奚延、太學博士邢湛、崔瓚、韋朏、鄭季明、國子助教韓神固、四門博士楊那羅、唐荊寶、王令儁、吳珍之、宋婆羅、劉燮、高顯邕、杜靈儁、張文和、陳智顯、楊渴侯、趙安慶、賈天度、艾僧㯹、呂太保、王當百、槐貴ら五十人が、議して次のように考えた。「皇太后が称制して朝政に臨み、みずから万機を親裁され、天地を郊祀し、宗廟の礼を行われる際に乗られる車は、至尊と同じであるべきであり、別に新たに造るべきではない。周礼や魏・晋の制度には文辞はあるが、形制は明らかでない。仮に造ろうとしても、古制に合わず、一代の典とすることはできないであろう。臣らは太常と国子の二つの議に疑義を抱き、改めて群官を集め、皆で今の議に従うものである。ただ恩裁を仰ぐ。」霊太后は令して言う。「群官が後の議を折衷したのであれば、その通り奏上せよ。」

原文司空領尚書令任城王澄、尚書左僕射元暉、尚書右僕射李平、尚書齊王蕭寶夤、尚書元欽、尚書元昭、尚書左丞盧同、右丞元洪超、考功郎中劉懋、北主客郎中源子恭、南主客郎中游思進、三公郎中崔鴻、長兼駕部郎中薛悅、起部郎中杜遇、左主客郎中元韡、騎兵郎中房景先、外兵郎中石士基、長兼右外兵郎中鄭幼儒、都官郎中李秀之、兼尚書左士郎中朱元旭、度支郎中谷穎、左民郎中張均、金部郎中李仲東、庫部郎中賈思同、國子博士薛禎、邢晏、高諒、奚延、太學博士邢湛、崔瓚、韋朏、鄭季明、國子助教韓神固、四門博士楊那羅、唐荊寶、王令儁、吳珍之、宋婆羅、劉燮、高顯邕、杜靈儁、張文和、陳智顯、楊渴侯、趙安慶、賈天度、艾僧㯹、呂太保、王當百、槐貴等五十人,議以為:「皇太后稱制臨朝,躬親庶政,郊天祭地,宗廟之禮,所乘之車,宜同至尊,不應更有製造。周禮、魏晉雖有文辭,不辨形制,假令欲作,恐未合古制,而不可以為一代典。臣以太常、國子二議為疑,重集羣官,並從今議,唯恩裁決。」靈太后令曰:「羣官以後議折中者,便可如奏。」

太祖天興元年の冬、詔して儀曹郎董謐に朝覲・饗宴・郊廟・社稷の儀礼を撰定させた。六年、また有司に詔して冠服を制定させ、品秩に従ってそれぞれ差等をつけたが、時事に追われて余裕がなく、多く古礼を失った。世祖は四方を経営し、留意するいとまがなく、代々武力を事とし、便宜と習熟によるものを取ったに過ぎない。高祖の太和年間に至って、初めて旧典を考証し、冠服を制定し、百官六宮にそれぞれ差等と順序をつけたが、早世して昇遐されたため、まだ周到には行き渡らなかった。粛宗の時、また侍中崔光・安豊王元延明および朝廷の名学に詔してさらにこれを議させ、条章はおおよそ整備された。

原文太祖天興元年冬,詔儀曹郎董謐撰朝覲、饗宴、郊廟、社稷之儀。六年,又詔有司制冠服,隨品秩各有差,時事未暇,多失古禮。世祖經營四方,未能留意,仍世以武力為事,取於便習而已。至高祖太和中,始考舊典,以制冠服,百僚六宮,各有差次。早世升遐,猶未周洽。肅宗時,又詔侍中崔光、安豐王延明及在朝名學更議之,條章粗備焉。

熙平元年九月、侍中儀同三司崔光が上表した。「詔を奉じて五時の朝服を定めますが、案ずるに北京(平城)および遷都以来、この制度はなく、ただちに礼官に命じて詳細に根拠を考証させます。」太学博士崔瓚が議して言う。「周礼および礼記には、三冠六冕があり、用いる場面によって区別され、璅玉や五綵の配飾もそれぞれ異なるが、気候や春夏に従って変えることは全くない。ただ月令に青旂・赤玉・黑衣・白輅があり、四時に従って変えるとあるが、弁冕を改めて玄黄を用いることは列挙されていない。これによって推すと、五時の冠は、礼に明文がなく、正典に求めても経書による証拠は難しい。案ずるに司馬彪の続漢書輿服志および祭祀志に云う。五郊で気を迎える儀式は、永平年間以来、礼讖と月令の迎気服色により、元始の故事を採用し、洛陽に五郊の兆域を設けた。また云う。五郊の衣と幘は、それぞれ方色と同じである。また続漢書礼儀志に云う。立春には、京都の百官は皆青衣を着し、青幘を服する。秋夏も皆その色の通りである。漢より魏・晋に至るまで、五郊で気を迎える際は、幘を用いて服に従い、色を改めて気に随った。この制度は因循され、相承して改められず、冠冕は従来のままで、変えたと聞かない。今、皇魏は前代を憲章し、宜しきに従って損益する。五時の冠は、愚考するに漢・晋のように幘を用いるのが妥当である。」霊太后は令して言う。「太傅は博学で通暁し、前代の事績に多く通じ、朝儀を総覧し、その事柄に詳しい。ただちに諮問訪問し、疑いを決せよ。」二年九月、太傅・清河王元懌・給事黄門侍郎韋延詳が奏上した。「謹んで前の勅命を案ずるに、五時の朝服を制定するに当たり、かつて国子にその旧式を訪ねた。太学博士崔瓚らが議して言う。『漢より魏・晋に至るまで、五郊で気を迎える際は、幘を用いて服に従い、色を改めて気に随った。この制度は因循され、相承して改められず、冠冕は従来のままで、変えたと聞かない。今、皇魏は前代を憲章し、宜しきに従って損益する。五時の冠は、漢・晋のように幘を用いるのが妥当である。』尚書は礼式が経典に拠らないとして、議事に諮ることを請い、勅を奉じて臣らに付され、考決を加えるよう命じられた。臣らは考えるに、帝王の服章は、万世の則となるものであり、軽々しく裁断すべきではない。改めて礼官を集め、下省で定議を請うことを願い、勅を蒙り聴許された。謹んで門下および学官以上四十三人を集め、史伝を尋ね考証し、古を量り今に校して、国子の前議と同じである。幘は服に従って変え、冠冕は改めない。また四門博士臣王僧奇・蔣雅哲の二人は、五時の冠冕は衣に従って変えるべきだと考える。臣らは国子の前議に従うのが妥当であると考える。」霊太后は令して言う。「議に依れ。」

原文熙平元年九月,侍中儀同三司崔光表:「奉詔定五時朝服,案北京及遷都以來,未有斯制,輒勒禮官詳據。」太學博士崔瓚議云:「周禮及禮記,三冠六冕,承用區分,璅玉五綵,配飾亦別,都無隨氣春夏之異。唯月令有青旂、赤玉、黑衣、白輅,隨四時而變,復不列弁冕改用之玄黃。以此而推,五時之冠,禮既無文,若求諸正典,難以經證。案司馬彪續漢書輿服及祭祀志云:迎氣五郊,自永平中以禮讖并月令迎氣服色,因采元始故事,兆五郊於洛陽。又云五郊衣幘,各如方色。又續漢禮儀志:立春,京都百官,皆著青衣,〈闕〉服青幘。秋夏悉如其色。自漢逮于魏晉,迎氣五郊,用幘從服,改色隨氣。斯制因循,相承不革,冠冕仍舊,未聞有變。今皇魏憲章前代,損益從宜。五時之冠,愚謂如漢晉用幘為允。」靈太后令曰:「太傅博學洽通,多識前載,既綜朝儀,彌悉其事。便可諮訪,以決所疑。」二年九月,太傅、清河王懌、給事黃門侍郎韋延詳奏:「謹案前敕,制五時朝服,嘗訪國子議其舊式。太學博士崔瓚等議:『自漢逮于魏晉,迎氣五郊,用幘從服,改色隨氣。斯制因循,相承不革,冠冕仍舊,未聞有變。今皇魏憲章前代,損益從宜。五時之冠,謂如漢晉用幘為允。』尚書以禮式不經,請訪議事,奉敕付臣,令加考決。臣以為帝王服章,方為萬世則,不可輕裁。請更集禮官下省定議,蒙敕聽許。謹集門下及學官以上四十三人,尋考史傳,量古校今,一同國子前議。幘隨服變,冠冕弗改。又四門博士臣王僧奇、蔣雅哲二人,以為五時冠冕,宜從衣變。臣等謂從國子前議為允。」靈太后令曰:「依議。」

校勘記

原文校勘記