世宗永平四年(511年)冬十二月、員外将軍・兼 尚書 都令史の陳終徳に祖母の喪があった。斉衰三年の喪服を着ようとしたが、世襲の爵位の重みがないため、諸父(伯父・叔父)を凌ぐことはできず、もし他の孫たちと同じにすれば、後継ぎとしての祖に対する義に背く恐れがあるとして、詳しい正しい判断を求めた。国子博士の孫景邕・劉懐義・封軌・高綽、太学博士の袁昇、四門博士の陽寧居らが議して言うには、「嫡孫が祖の後を継ぎ、重い喪を担って三年喪に服することは、身分の上下によって二様にあるわけではない。終徳は諸父に先んずべきである」。太常卿の劉芳が議して言うには、「喪服は士の正礼であり、その中には天子・諸侯・卿大夫の事柄を含み、時にまた庶人と同じ場合もあるが、いずれも別に明示されている。伝重(宗廟の主を継ぐこと)については、士以上であり、古くは卿士から庶人にまで通じるものと考えるのは誤りである。どうして明らかになるか。『礼稽命徴』に『天子の元士は二廟、諸侯の上士も二廟、中士・下士は一廟』とある。一廟とは、祖と父(禰)が同じ廟を共にするのである。『祭法』にはまた『庶人は廟を持たない』とある。このように分明であるのに、どうして庶人に通じることがあろうか。伝重とは宗廟の主を指すのであって、庶人が寝(居室)で祭祀を行うことを言うのではない。また累世にわたって嫡子を継いでこそ、嫡子・嫡孫と言えるのである。そうでなければ、祖を継ぐことはできない。また鄭玄が別に『変除』を説き、五世の長子のために斬衰を着るとしている。魏晋以来、この礼は行われなくなった。『喪服経』には嫡孫が祖のために重い喪を担って三年に服するという正文はなく、ただ長子のために三年、嫡孫のために期(一年)とあるのみである。伝及び注によって嫡孫伝重の義を説いている。今の世では既に嫡子のために斬衰を着ることがなく、卑位の嫡孫が諸叔を凌いで重い喪を担わないことから、そのことが分かる。また終徳の資階を基準に古に 比 べれば、下士に登っておらず、官にある庶人であり、またこのような礼はない。旧典を考証し、今の世に照らせば、この規範は稀に行われるものである。かつ諸叔が存命であり、喪主は存在するので、諸孫に準じて期服を着ることが妥当である」。
景邕らがまた議して言うには、「喪服は士を主としているが、必ず庶人を含んでいる。どうして論じるか。大夫以上については、各条に標示列挙し、庶人に至っては含んで述べず、士の制度と同じと比定し、疑うことはない。ただ庶人が国君のために(服する)場合のみ、これは義服の軽重を明らかにするものであって、孫と祖の関係には関わらない。また曾祖から国を受け継ぎ、廃疾の祖父であっても、伝えるべき重みはなく、それでも三年服するのであり、必ずしも世襲の重みによるものではない。霜や露に感じるように、異なる認識も皆感じるところであり、重い喪を承けて主たる後継ぎとなることは、廟と寝とを区別するものであり、嫡孫の制度は、本来異なるものである。また古くは卿以下、皆承襲を区別せず、末代になって僭越が生じたのであり、通典に語ることはできない。それゆえ『春秋』は世襲の卿を譏り、『王制』は大夫は世襲しないと称する。これが明らかな訓戒である。喪服の経文には、嫡孫が祖のために三年とすることの正文はないが、祖が嫡孫のために期とすることはある。祖が嫡孫のために自分に服させるのに、自分が庶孫と同じく祖のために期服を着ることは、義としてよろしいか。祖に三年服することは、近世になって変わることはなかった。古を基準にすれば、士の官は二百石以上を超えず、終徳は即ち古の廟士である。仮に終徳が朝列に加わっていなくとも、志仁と言うならば、必ずこれを行うべきである。ましてや官歴が士の流れにあり、訓章(礼法)が行われる時に当たり、庶叔の嫌疑によって、その嫡としての重い地位を替えることは、成人の善とは言えない」。劉芳がまた議して言うには、「国子博士らが言う、喪服は士を主としているが、必ず庶人を含むというのは、本来も一篇の内で全く庶人と同じでないと言うのではなく、嫡孫が伝重することは、専ら士以上であると言うのである。この経・伝の正文は、庶人に及ばないことは明らかである。戴徳の『喪服変除』に『父が長子のために斬衰を着るのは、天子から士に至るまで』とある。これらは皆、士以上になって初めて嫡子があるという明らかな根拠である。また承重とは、その者が代わって宗廟の主となることを指し、廟主は全く寝のことを言わない。これもその証拠である。引き合いに出された大夫が世襲しないというのは、これは『公羊伝』『穀梁伝』といった近儒の小道の書の説であり、『左氏伝』『詩経』『易経』『尚書』『論語』にはいずれも典拠がある。あるいは未だ悟っていないのであろう。許叔重(許慎)の『五経異義』に、今の『春秋』公羊・穀梁説では卿大夫が世襲するのは、権力が一姓に集中することを言い、周の尹氏、斉の崔氏を指す。しかし古い『春秋』左氏説では卿大夫は皆世禄を得るとする。伝に『官族』とあり、『易経』に『旧徳を食む』とある。旧徳とは、父の旧い禄を食むことを言う。『尚書』に『世々に汝の労を選び、予は汝の善を絶たず』とある。『詩経』に『惟れ周の士、顕はれずや弈世』とある。『論語』に『滅びた国を興し、絶えた世を継ぐ』とある。国とは諸侯を指し、世とは卿大夫を指す。これらは皆、正経および『論語』における士以上の世襲の明らかな証拠であり、士は皆世禄である。八品は一命である。これは確かである。しかしこの根拠を見るに、綱は見えたが、目は照らしていないと言えよう。晋の官品令に定められた九品は、皆正品のみで従品がなく、故に第八品を古の下士に準じた。今の皇朝の官令には皆正従があり、もしその員外の資を以てすれば、第十六品である。どうして正八品の士と言えようか。古今を推し考証し、謹んで前の議の通りとする」。
景邕らがまた議して言うには、「喪服の正文では、大夫以上については、事毎に明らかに列挙し、ただ庶人のみ、含んで言わない。これは下に通じる義であり、了然として疑いがない。また官族とは、世々その功績があることを言い、旧徳を食むとは、徳侯者が世襲することを言い、滅びた国を興し、絶えた世を継ぐとは、主に諸侯卿大夫で罪なく誅殺・絶えた者を指す。また金貂七毦(高官の飾り)、楊氏四公(楊震一族の四公)のようなものであっても、位をもって相承したとしても、どうして世禄と言えようか。晋の太康年間(280–289年)、令史の殷遂が父の殷祥が継ぐべき(祖母の喪に)及ばなかったため、還って祖母に三年喪を求めようとした。当時の政(礼制)には、父に代わって追服するという条文はなく、また三年を許さない制度もなかった。これが晋代の成規である」。尚書の邢巒が劉芳の議に依るよう上奏した。詔して言うには、「嫡孫が祖母のために(三年喪に服することは)、礼令に根拠があり、士人の間で通行している。どうしてわざわざ疑いを呈して請う必要があろうか。国子博士らの議の通りとせよ」。
延昌二年(513年)春、偏将軍の乙龍虎が父の喪に服し、二十七ヶ月の休暇を与えられたが、龍虎は閏月も数えに入れ、役所に出仕を求めて来た。領軍の元珍が上言して言うには、「違制律を案ずるに、三年の喪に服しているのに哀悼を冒して仕官を求める者は、五歳刑である。龍虎は二十七ヶ月を満たさずに宿衛を請うている。律に依って五歳刑を科すべきである」。三公郎中の崔鴻が駁して言うには、「三年の喪は、二十五ヶ月で大祥となる。諸儒には祥月の下旬で禫(除服の祭)を行うと言う者も、二十七ヶ月と言う者もあり、それぞれにその義がある。どちらが聖人の旨に叶うか分からない。龍虎が喪に服して既に二十六ヶ月である。もし王粛・杜預の説に依れば、既に禫を過ぎて吉に復する月である。もし鄭玄の二十七ヶ月説に依れば、禫の期間中には既に職務に従事できる。礼に『祥の日に素琴を鼓す』とある。そうすると大祥の後は、喪事は終わったのである。既に職務に従事できるのであれば、出仕を求めることがどうしてできないのか。もし府の判決のようにするならば、禫中に琴を鼓することもまた罪があるのか。経律に求めれば、理として実に妥当ではない」。下して更に詳しく弁明させた。
珍はまた上言して言う、「士虞礼を案ずるに、三年の喪は、期にして小祥、また期にして大祥、中月にして禫す。鄭玄は云う『中は猶お間なり』、『喪より此に至るまで、凡そ二十七月』と。また礼に言う、『祥の日に素琴を鼓す』。鄭は云う、『琴を鼓するは、楽を存するなり』と。孔子は祥の後五日、琴を弾じて成らず、十日にして笙歌を成す。鄭注と鄭志及び踰月して歌うべしと、皆みな身自ら逾月にして可為なり。これは楽を存するを謂うなり、所謂楽に非ず。楽とは、工をして之を為さしむるなり。晋の博士許猛が三験を解いて曰く、黍離・麦秀の歌を案ずるに、小雅に曰く『君子歌を作す、惟だ哀を告げんと以てす』、魏詩に曰く『心の憂い矣、我歌ひ且つ謡う』。若し斯の類、豈に之を金石の楽と謂うべけんや。是の故に徒歌を謡と謂い、徒吹を和と謂う。記に曰く、『音に比して之を楽しみ、干戚羽毛に及ぶを楽と謂う』。若し夫れ礼楽の金石に施し、声音に越する者は、此れ乃ち所謂楽なり。素琴に至りては、以て終わりを示し笙歌を以て哀を省みる者は、則ち楽に非ず。間伝に云う、大祥に衰を除き、杖して素縞麻衣す、大祥の服なり。雑記注に云う、『玄衣黄裳、則ち是れ禫祭、黄は、未だ大吉ならざるなり』。檀弓に云う、『祥にして縞、是の月禫し、月を徙めて楽す』。鄭志に、趙商問い、鄭玄答えて云う、祥は大祥を謂い、二十五月。是の月禫は、二十七月を謂う、上祥の月を謂うに非ず。月を徙めて楽す。許猛が六徴を釈して曰く、楽とは、自ら八音克諧の楽を謂うなり。二十八月に在りて、工の金石の楽を奏するを謂うのみ。而して駁して云う、『大祥の後は、喪事終わる』。脱し此の駁く如くせば、禫復た焉くにか施さん。又駁して云う、『禫中に琴を鼓すれば、復た罪有らんや』。然らば禫は則ち黄裳、未だ大吉ならざるなり、琴を鼓して楽を存するは、礼に許す所に在り。若し工をして八音を奏せしめ、融然として韻を成さば、既に月を徙めず、罪せずんば伊何ぞ。又駁して云う、『禫中に既に御職事に従うを得ば、上を求むる何ぞ為す可からざらん』。龍虎を検するに、居喪二十六月、始めて是れ素縞麻衣なり、大祥の中に在りて、何をか禫と謂うや。三年閏を没す、理として疑う無し。麻衣体に在り、仕を冒して栄を求めんは、実に大なる尤なり、其の罪焉くにか捨てん。又省みるに王・杜に依り、禫祥同月、全く鄭義に乖く。喪凶尚お遠くして、而して速やかに除かんと欲す、何ぞ怱怱たる者ぞ。下府愚かに量るに、鄭を得たり。何となれば、礼記に云う、『吉事は尚お近日を尚び、凶事は尚お遠日を尚ぶ』。又論語に云う、『喪は其の易なるより寧ろ戚せよ』。而して服限三年、痛み終身を尽くす。中月の解、二義を容るる雖も、尚お遠きを尚び寧ろ戚せよ。又王・杜の義を検するに、魏末晋初に起こる。及び越騎 校尉 程猗、王肅に賛成し、鄭の禫二十七月の失を駁し、六徴三験を為し、晋の武帝に上言して曰く、『夫れ礼は国の大典、 兆 民の日用する所、豈に二たるべけんや。今服禫する者各各相同じからず、聖世一統の謂に非ず。鄭玄は二十七月禫と説く、甚だ大義に乖く。臣毎に鄭の失を難じ、六に徴有り、三に験有り、初め臣が難を破りて玄説を通ずる者未だ有らず』。猗の意の如くは、鄭義廃せりと謂う。太康の中、許猛上言して鄭を扶け、六徴を釈し、三験を解き、以て鄭の禫二十七月を得たりと為し、猗及び王肅を失たりと為す。而して博士宋昌等、猛の鄭を扶くるを衷と議し、晋武之に従う。王・杜の義、是に於いて敗る。王・杜の義の敗るるを見るは、晋武其の行う可からざるを知る故なり。而して上省は猗に同くして王を賛し、鄭の成軌を虧かんと欲す、窃に未だ安からず。更に異義無く、還って前の処に従う」と。
鴻また駁して曰く、「三年の喪を案ずるに、閏を没するの義、儒生学士、猶お或いは諸れを病む。龍虎は戎馬の郷より生まれ、稽古の訓を受けず、数月にして成年と成り、便ち違緩を懼る。其の本を原れば、栄を貪り位を求むるに非ずして、而して義方を以て責めんと欲す、未だ便ち爾るべからず。且つ三年の喪は、再期にして大祥、中月にして禫す。鄭玄は中以って間と為し、王・杜は是の月の中と為す。鄭も未だ必ずしも経旨に会せずと為さず、王・杜豈に必ず聖意に乖かんや。既に諸儒先聖を探賾し、後賢見るに同じからず、晋武後には宋昌・許猛の駁に従い、鄭の禫議に同じくすと雖も、然れども初め亦た程猗に従い、王・杜の言を賛成せり。二論得否、未だ知るべからず。聖人大祥の後、素琴を鼓し、笙歌を成す者は、喪事既に終わり、餘哀の中に在りて、楽を存する可き故なり。而して楽府は必ず干戚羽毛を以てし、之を金石に施し、然る後に楽と為す、楽は必ず工をして之を為さしむ。庶民凡品、祥前に於いて琴を鼓すれば、罪無からんや。律の防ぐ所、豈に必ず貴士の為めのみならん、亦た凡庶に及ぶ。府の此の義、弥だ通ぜず。魯人朝に祥して暮に歌う、孔子以て月を踰れば則ち可なりと為す。爾らば則ち大祥の後は、喪事已に終わり、琴を鼓し笙歌す、経礼の許す所。龍虎皇宮に宿衛せんと欲す、豈に刑五年に合せんと欲せん。仮令鄭義の如くせば、二十七月にして禫し、二十六月十五升・布深衣・素冠・縞紕及び黄裳・綵纓を以て居する者は、此れ則ち三年の餘哀、服数の内に在らず。衰絰は則ち之を地に埋め、杖は則ち之を隠処に棄つ、此れ喪事終わるに非ずや。府大祥の後を以て、喪事の終わりと為さず、何ぞ復た素琴を以て終わりを示すを言うを得ん。喪事は遠日を尚ぶ、誠に鄭義の如し。龍虎未だ二十七月を尽くさずして宿衛を請う、実に怱怱たり、戚の理に於いて、情を責むるに合す。便ち深衣素縞の時を以てして、罪を杖絰苫塊の日に同じくせんは、礼憲に未だ允ならず。律意を詳しくするに、喪を冒して仕を求むるは、斬焉たる草土の中に在るを謂い、衰を除き杖したる後を謂うに非ず。又龍虎具に居喪の日月を列ね、隠冒する所無し、府応に礼を以て之に告げ、遣りて月を終わらしむべし。便ち彼の昧識を幸い、罪を加えんと欲す、豈に礼を遵い風を敦くし、民を愛するの致す所ならんや。正に鄭義の如くせば、龍虎の罪亦た刑に合せず、怱怱の失、宜しく鞭五十を科すべし」と。
三年七月、 司空 ・清河王懌の第七叔母である北海王妃劉氏が薨じ、 司徒 ・平原郡開国公高肇の兄の子である太子洗馬員外が亡くなり、ともに上言して、出入りの際に依然として鼓吹を奏するか否かを知らず、礼官に下して議決を請うた。太学博士封祖冑が議して言うには、「喪大記に云う、期九月の喪は、既に葬れば酒を飲み肉を食い、人と楽しみを共にせず。五月三月の喪は、葬に比べて、酒を飲み肉を食い、人と楽しみを共にせず。世叔母・故主・宗子には、ただ酒を飲み肉を食うと云うのみで、人と楽しみを共にせずとは言わない。鄭玄が云う、『義服は恩軽し』。これをもって推すに、義服の葬には楽の理あり得ることを明らかにする。また礼に、『大功は言うも議せず、小功は議するも楽に及ばず』とある。言論の間においてすら尚お及ばないのであるから、その声作については、明らかに得ざるなり。たとえまた功緦であろうとも、楽は止むべきなり」。四門博士蔣雅哲が議して言うには、「およそ三司の尊き者、開国の重き者は、その王服において、皆厭絶すべきものあり。もし尊さ同じく体敵であれば、疎遠であっても尚お楽を徹すべきなり。もし同じからざれば、子姓の喪で嫡でない者は、殯の後は、義として楽を闕くべからず」。国子助教韓神固が議して言うには、「羽旄は以て耳目の適を展べ、絲竹は以て遊宴の歓を肆うすべし、故に楽は貴縣にあり、哀あれば則ち廃す。至りて徳儉礼の如く、升降数あり、文物は旂旗の明を昭らかにし、錫鸞は行動の響となる、〔鳴鐃は以て衆を警し、声笳は以て路を清むるは、以て等列を弁じ〕、貴賤を明らかにするものであり、その間に哀楽を措くものではない。威儀鼓吹は旧に依って為すを允当と謂う」。
兼儀曹郎中房景先が駁して曰く、「祖冑の議を案ずるに、功緦に喪あれば鼓吹作さずとし、雅哲の議は斉衰卒哭すれば簫管必ず陳すとし、これを軽重に準ずれば、理用未だ安からず。聖人は情を推して服を制し、服に拠りて心に副う、何ぞ虞生の奠を神宮に拝し、衰麻を襲いて楽を奏するを容れんや。大燧一たび移れば哀情頓に尽き、心を反して求めば、豈に礼を制するの意ならんや。もし言う如く、義服は恩軽く、既に虞して楽すとすれば、正服一期は何を以て断つか。或いは義服尊く、正服卑しきも、この比の如きは、復た何の品節か。雅哲の議する所、公子の喪で嫡でない者は、殯の後は義として楽を闕くべからず。案ずるに古には尊降有りと雖も、楽を作すの文を見ず、未だ詳らかにせず、この拠りて竟に何の典にあるか。然れども君の臣に対するは、本より服体無く、但だ恩誠相い感じて、隠惻を存するに致る。是を以て仲遂卒垂れて、笙籥入らず。智悼殯に在りて、杜蕢明らかに言う。豈に大倫の痛み、既に殯して楽すべけんや。又神固等の議する所、笳鼓は楽の限りに在らず、鳴鐃は以て衆を警し、声笳は以て路を清むるは、以て等列を弁じ貴賤を明らかにするのみで、哀恤に居りと雖も、施して廃せずと為す。粗くこれを言えば、通ずる可きに似たりと雖も、諸の正典を考うれば、符合せず。案ずるに詩に云う『鍾鼓既に設く』、『鼓鍾伐鼛す』、又云う『鼓鍾を論うに於て、辟雍を楽ますに於て』。言は則ち相い連なり、豈に楽ならざらんや。八音の数、本より笳の名無し、推してこれに類すれば、簫管の比なり、豈に名称小しく殊なるを以て、楽と為さざるべけんや。もし王公位重く、威飾崇むべく、鼓吹公給にして私に辞すべからざれば、魏絳和戎して金石の賞を受け、鍾公勳茂くして五熟の賜を蒙る。もし功を審らかにして賞に膺れば、君命必ず行わるべく、豈に嘉牢を斉殯の時に陳べ、鍾磬を祔の後に撃つべけんや。二三を尋究すれば、拠る所未だ有らず。国子は職文学を兼ね、令問の帰する所、宜しく明らかに典謨に拠り、曲く斟酌を尽くし、必ず衷に由り、以て深惑を弁ずべし。何ぞ総議並びに申し、析剖する所無く、更に得失を詳らかにし、典に拠りて正議すべからん」。
秘書監・国子祭酒孫惠蔚、太学博士封祖冑等が重ねて議して言うには、「 司空 は体に衰麻を服し、心に惨切を懐く、その声楽に於ては、本より作る理無し、但だ鼓吹公儀に致りて疑論有るのみ。案ずるに鼓吹の制は、蓋し古の軍声、献 捷 の楽にして、常に用いるものに非ず。重位茂勳有る者にして乃ち備作を得。これを金石に方し、管絃に準ずれば、その音奏たるや、小しく殊ると曰うと雖も、然れどもその大体、楽と異ならず。是を以て礼に云う、『鼓は五声に当たること無く、五声和せざるを得ず』。窃かに惟うに今、台司の儀を加うるは、蓋し兼ねて威華を広めんと欲するなり。もし哀有りてこれを用い、吉に変わること無ければ、便ちは一人の年、悲楽並びに用いることとなり、礼情に求めれば、理に於て未だ尽きず。二公は公よりこれを受くると雖も、これを用いるは私に非ず、出入声作も亦以て己を娯ます。今既に喪有り、心楽に在らず、笳鼓の事、明らかに聞かんと欲するに非ざれば、その寧戚の義に従い、廃して作さず。但だ礼は公卿出入の儀を崇ぶ、至りては采斉に趨い、肆夏に行き、和鑾の声、佩玉の飾有る者は、以て槐鼎の至貴を顕わし、宰輔の重きを彰わすなり。今二公地尊親に処り、儀百辟に殊なり、鼓吹の用、全く去るを容れず。礼に懸けて楽しまざる有り、今これを陳べて以て威儀を備え、作さずして以て哀痛を示す。理を述べ情を節す、愚謂うに允当と為す」。詔して曰く、「国子の後の議に従う可し」。
清河王懌の生母羅太妃が薨じ、表して斉衰三年を申べ行うことを求む。詔して礼官に博議せしむ。 侍中 ・ 中書 監・太子少傅崔光が議して言うには、「喪服大功章に云う、公の庶昆弟母の為にす。伝に曰く、『先君余尊の厭う所、大功を過ぐるを得ず』。記に、『公子其の母の為に練冠麻衣縓縁、既に葬ればこれを除く』。伝に曰く、『何を以て五服の中に在らざるや?君の服せざる所、子も亦敢えて服せざるなり』。これ皆公侯の枝子、父兄を藉りて以て称と為し、その母本妾、猶おこれを君に繫ぐ、子貴を以て夫人と為すを得ざる者を謂う。至りて応・韓の宇を啓くが如きは、厥の母固より自ら内主の尊を申べ、凡・蔣別に封ぜらるれば、その親も亦君妣の重を尽くすを容る。若し然らば、便ち所謂周公礼を制して子姪共に尊ぶ。漢世諸王の国に、太后と称し、宮室百官、周制京邑、自ら天子の式に一傍うべく、而して公庶の軌を用いず。魏氏已来、群臣微と称すと雖も、然れども嘗て出でて民土に臨むを得、恐らく亦未だ必ずしも近きを捨て遠きを行い、功衰と練麻とを服せざるにあらざらん。羅太妃王母の尊に居ること二十許載、両裔藩后並びに大邦を建て、子孫盈第し、臣吏国に満ち、堂堂たる列辟、礼楽備陳し、吉慶凶哀宜しく情典に称すべし。則ち傍らこれを公第にすべからず、仍り先の厭に拘るべからず。愚謂うに、遠く春秋子貴の文に準え、上り周漢侯王の体に祔え、母后の尊を成し、帝妾の賤を蠲ぎ、疏喪の極慕を申べ、功練の軽悲に擬すべし。誠に此の如くせば、則ち三年の喪、自達に乖かず、巨創の痛み、中に遂う有り、寧んぞ過哀を成し、情礼俱に允ならん」。時に議者同じからず、詔して大功を服せしむ。
時にまた清河国の官人が服喪の制について疑義を抱き、太学博士の李景林ら二十一人が議して言うには、「礼文に拠れば、君主が母のために三年喪に服する場合、臣下はそれに従って期喪に服する。今、 司空 (清河王元懌)は先帝によって厭降されたため、自らの限りない悲しみを伸べることができない。礼に依拠すれば大功の喪に服すべきであり、喪服の厭降の例に照らしても、厭降に従うという条文はない。今、太妃はすでに六宮の称を捨て、太妃の号を加えられ、封君の母として一国を尊崇されている。臣下は固より期喪に服すべきであり、王の服喪が厭降によって屈したからといって、さらに降すべきではない。礼には軽いものに従って重いものとする場合があり、その義はここに包含される」。太学博士の封偉伯ら十人が議して言うには、「臣下が君主に従って服喪する場合、君主より一等降ずる。君主が母のために三年喪に服すれば、臣下は期喪である。今、 司空 は上は先帝に厭降され、下は大功に就いているので、臣下の従服はこれ以上であることは許されない。しかし礼文は残欠しており、正条としての規定がない。ひそかに情理に附会すれば、小功とすべきであると考えられる。これにより君臣の服喪がその序を失わず、昇降の差が礼の意にかなうであろう」。清河国郎中令の韓子熙が議して言うには、
尚書の李平が上奏し、次のように論じた。「礼によれば、臣は君の党のために、妻は夫の党のために、ともに従服し、それぞれ君・夫より一等降ずる。故に君が三年喪に服すれば、臣は期喪に服する。今、 司空 たる臣元懌は尊属による厭降の礼によって、その限りない悲しみの心を奪われているが、国の臣下は厭降の及ぶところではなく、従って降すべき理はないはずである。礼記大伝に『軽いものに従って重いものとする』とあり、鄭玄の注に『公子の妻がその皇姑(夫の母)のために服する』とある。すでに舅(夫の父)が婦を厭降しない以上、厭降されない者は、本来の服喪に戻って服すべきであることを明らかにしている。これがその例である」。詔して言うには、「礼には服喪がないものに従って服喪がある場合もあり、何も軽いものに従って重いものとする場合だけではない。元懌は今自ら厭降されたため、その過ぎ去った隙間(喪の期間)を伸べることができないのである。衆臣には古来、厭降を疑う論はなく、軽いものに従うという根拠がある。どうしてその本来の制度を伸べることができないのか。尚書及び景林らの議に従うべし」。まもなく詔して言うには、「先に清河国の臣下が君母のために期喪に服することを決したが、礼事は至って重いため、改めて審議した。今、正しい根拠はなく、章句に背いて新たな条項を作ることはできない。しかし君主の服喪が既に短く、臣下の服喪が依然として長い。礼は人情に縁り、厭降に遇えば服を変える必要がある。以前の判決に戻し、葬儀が終われば除喪することを可とする」。
四年春正月丁巳の夜、世宗(宣武帝)が式乾殿で 崩御 した。侍中・ 中書監 ・太子少傅の崔光、侍中・領軍将軍の于忠と詹事の王顯、中庶子の侯剛が東宮で粛宗(孝明帝)を奉迎し、万歳門から入り、顕陽殿に至り、長く哭踊した後に復した。王顯は明るくなるのを待って即位の礼を行おうとした。崔光が王顯に言うには、「天子の位は一時も空けてはならない。どうして明るくなるのを待つのか」。王顯は言う、「中宮(皇太后)に奏上する必要がある」。光は言う、「帝が崩じて太子が立つのは、国の常典である。何ぞ中宮の命令を必要としようか」。崔光と于忠は小黄門の曲集に命じて兼官を置いて行事を行わせた。ここにおいて崔光が 太尉 を兼ね、黄門郎の元昭が侍中を兼ね、王顯が吏部尚書を兼ね、中庶子の裴儁が吏部郎を兼ね、中書舎人の穆弼が謁者 僕射 を兼ねた。崔光らは粛宗に哭を止めさせ、東の序に立たせた。于忠と元昭が粛宗を扶けて西に向かわせ、十数声哭させて止め、太子の服を着せた。太尉の崔光が策を奉り璽綬を進めると、粛宗は跪いて受け、皇帝の袞冕服を着て太極前殿に御した。太尉の崔光らは西の階から降り、夜直の群官が庭中で北面して稽首し万歳を称えた。
熙平二年十一月乙丑、太尉・清河王の元懌が上表して言うには、「臣は聞く、百王が尊ぶところは、礼にまさるものはなく、礼の中で重いものは、喪紀がその極みであると。世代による沿革があり、損益は同じからず、遺風余烈は、高き行いとして終に在る。至っては前賢往哲も、商搉(検討)に異同がある。あるいはともに経文を証しつつ、情と別緒を論じ、あるいは各々所見を言いつつ、事柄の端緒を討究する。憲章を祖述していても、人は自ら名家を成し、論議は紛綸として、理は群正に帰する。時によって宗とされるものに従わないことはなく、各々一代の典となり、上より下に達し、遵用しないことはない。これにより叔孫通の儀礼は漢朝で専擅し、王粛の礼は晋世に独行した。いわゆる軌文を共同し、四海を画一するものである。至っては折旋俯仰の儀、哭泣昇降の節、去来閫巷の容、出入閨門の度に至るまで、なお礼官に諮問し、儒士を博く訪ね、翰紙に載せ、通法に著す必要がある。弁答が乖殊で、証拠が明らかでなければ、即ち疵謬を詆訶し、糾劾して罪とする。これは簡牒に成文として、具に閲して知ることができるものである。未だ皇王が範を垂れながら国に一定の章がなく、英賢が治を賛えながら家に異同の式を制するなどということは聞いたことがない。しかるに流風を作則とし、永く来世に貽そうとしている。学官は建てられたが、庠序は修められず、古今を稽考するも、その任に専らなるものはない。及び宗室の喪礼、百僚の凶事、冠服の制裁、日月の軽重に至っては、率ね博士一人に軽々しく議させている。広陵王の元恭と北海王の元顥がともに庶母のために服喪したが、恭は重喪を治めて廬に居り、顥は斉衰の期喪で堊室に居た。親しさを論ずれば恭・顥ともに帝孫であり、貴さを語れば二人ともに蕃国である。両者の服喪の証拠が何の經典に拠るのか知らない。たちまち舛駁となり、裁正する者がない。懿王(広陵王?)のような近親の戚ですら尚おかくの如し。これより以降、どうして極まりがあろうか。歴観するに漢魏の喪礼諸儀は、巻数百に盈つ。あるいは当時の名士が往復して成規とし、あるいは一代の詞宗が較然として則とした。況んや堂堂たる四海、藹藹たる林の如き衆多の者がありながら、喪礼を参差ならしめ、帝族に始まるとは、万国を儀刑し、四海を綴旒する所以ではない。臣は官を忝くし台傅に備わり、喉唇の位にあるが、国の鈞を秉ってこのような爽缺を致すことができない。具瞻の誚り、罪を逃れるところがない。謹んで恭・顥の二国の相同からざる状を略挙し、以て喪紀の乖異なる失を明らかにする。公卿枢納、内外の儒学を集めて博議し定制を立て、天下に班行せられたい。礼に異なる準がなく、得失の帰するところがあり、併せて事に因りて広め、永く条例と為すことを庶幾む。塵を岳にし河に沾うて、微かに万一に酬いんことを」。霊太后は令して言うには、「礼は政の本である。どうしてこのように同じからざることがあろうか。表に依って議を定むべし」。事は張普惠伝にある。
神亀元年九月、尼となった高皇太后(孝文帝の后、宣武帝の母)が瑶光寺で崩御した。粛宗(孝明帝)は詔して言うには、「崇憲皇太后は、徳は坤儀に協い、徴符は月晷に符し、方に壼化を融かさんとしたが、奄に崩殂に至った。朕は幼くして荼蓼(苦難)を集め、夙に徳訓に憑り、及び翕虣(叛乱鎮定)して難を定むるは、是れ謨謀に頼るところである。夫れ礼は情に沿いて制し、義は事に循いて立つ。特に入れ替わりの斉衰三月と為し、以て追仰の心を伸ぶべし」。有司が奏上して言うには、「旧事を案ずるに、皇太后崩御の儀礼は、復魄より斂葬に至るまで、百官が哭臨し、その礼は甚だ多い。今、尼太后は既に俗の尊を委ね、道法に憑って居られる。凶事は簡速であり、配極の典に依らず、庭局は狭隘で、百官の位を容れるに非ず。但だ昔より逕(直接)に奉接し、義は君臣を成し、終始の情礼は、理として廃絶すべきではない。輒ち故式に準じ、別紙の如く儀礼を立てる。内外の群官は、権りに常服を改め、単衣に邪巾をし、墓まで奉送し、列位して哭拝し、事畢わって除する。京師に止まり、更に下に宣べず」。詔して可とする。
十一月、侍中・国子祭酒・儀同三司の崔光が上言した。「台(尚書省)の祠部曹からの符(公文書)を受けました。文昭皇太后の改葬に際し、至尊(皇帝)・皇太后・群臣の服制の軽重を議するものです。四門博士の劉季明の議は云う。『喪服の記を案ずるに、「改葬には緦(し、五等喪服の最軽)を着る」と云うが、本文には根拠がなく、注解に至っては、乖異して同じくありません。馬融・王粛は、本来三年の喪服がある者(子が父など)は、鄭玄の説では三度重ねると云います。しかし後来の諸儒は、馬融に符合する者が多く、鄭玄に与する者は少ない。今は馬融・王粛ら諸儒の議に依り、至尊は緦を着るべきです。記を案ずるに、「外宗は君夫人のため、猶内宗のごとし」とあります。鄭注に云う。「君のためには斬衰(ざんすい、最重喪服)を着、夫人のためには斉衰(さいすい、次重喪服)を着る。親の服をもって至尊に服することを敢えてしないためである」と。今、皇太后は上は宗廟を奉じ、下は朝臣に臨むとはいえ、姑としての喪に至っては、期(き、一年)を過ぎることは得ず、計らうに服すべきはないはずです。その清河王・汝南王の母の喪服は三年ですが、これもまた緦を着るべきです。その余の王公百官は、君の母・妻のためには、ただ期のみであり、並びに服すべきではありません』と。また太常博士の鄭六の議は云う。『謹んで喪服及び中代(漢代)の雑論を検するに、記に云う「改葬には緦を着る」。鄭注に「臣が君のため、子が父のため、妻が夫のため。親しく屍柩を見る、服なくしては可ならず、故に緦を着る」。三年の喪の者でも緦を着るならば、期以下の者は服がないことになります。窃かに謂うに、鄭氏は緦を着る旨を得ていますが、三月と云うのは誤りです。臣の見る所に依れば、康成(鄭玄)の緦を着る説に依り、既に葬れば除くことを請います』と。愚(崔光)はこれを允当と為す。」詔して可とした。
二年正月二日の元会(元旦の朝賀)に、高陽王元雍は、霊太后が臨朝し、太上秦公(胡国珍)の喪制が未だ終わっていないことを理由に、百戯(各種芸能)と絲竹の楽を罷めようとした。清河王元懌は、万国が慶賀のために集まり、天子が臨んで饗するのだから、備え設けるべきであると為した。太后は侍中の崔光にこれを訪ねた。光は元雍の執る所に従った。元懌は光に謂って「宜しく経典を以て証とすべきである」と言った。光は礼記の「縞冠玄武、子姓の冠」を根拠にし、父母に重喪があれば、子は純粋な吉事を為さないとした。安定公(胡国珍)は親しく外祖父であり、また師の恩もあり、太后は公除(喪服を公務中だけ除くこと)を許さず、衰麻(喪服)を体に着けていた。正月朔日には、家に還って哭臨し、至尊(皇帝)の輿駕は奉慰した。記に云う「朋友の墓に、宿草有りて而も哭せず」。これは則ち朋友には期年(一年)の哀があるということである。子貢が云う。夫子(孔子)が顔淵を喪うこと、子を喪うが如くして服無し。子路を喪うもまた然り。顔淵の喪には、練肉(供物)を 饋 り、夫子はこれを受け、琴を弾じて後にこれを食した。子の哀しみとすれば、則ち一期の間は容れ、楽を挙げないのである。孔子は既に大練(喪服の軽減)の後、五日にして琴を弾じた。父母の喪である。これにより夫子を喪うことは父を喪うが如くして服無し。心喪三年は、これにより制せられた。古義は追い難いとはいえ、近頃発せられる詔には、毎に師・祖の尊さを言う。これは則ち一期の内に、猶余哀有りということである。且つ礼に、母に喪服有れば、声の聞こえる所、子は楽を挙げず。今、太后には更に別宮が無く、居られる嘉福殿は、太極殿から大遠からず。鼓鐘を宮に於いて鳴らせば、声は外に聞こえる。況んや内に密邇しているにおいてをや。君の卿佐は、是を股肱と謂う。股肱或いは虧けば、何の痛みか之に如かん。智悼子の喪未だ葬らざるに、杜蕢が晋の平公を諫めた所以である。今、相国(胡国珍)は既に安厝(仮葬)されたとはいえ、僅かに三月のみ。陵墳未だ乾かず。元懌は理証を以て然りと為し、乃ち元雍の議に従った。
孝静帝の武定五年正月、斉献武王( 高歓 )が薨じた。時に凶問を秘した。六日、孝静皇帝は太極東堂に於いて哀を挙げ、斉衰三月を服した。将に窆(ほう、埋葬)せんとするに及び、中練(喪服軽減の一過程)に至った。斉文襄王(高澄)は自ら発喪の月より(服することを)請うた。帝は侍中の陸子彰を使わし詔を挙げ、三度往って敦め諭したが、王は固く執り、詔は許さなかった。乃ち薨じた月に従った。
太祖の天賜三年十月、占いを授けて著作郎の王宜弟に兵法を造らせた。
高宗の和平三年十二月、歳除(大晦日)の大儺の礼に因り、遂に兵を 燿 かし武を示した。更に制を為し、歩兵を南に陳べ、騎士を北に陳べ、各々鐘鼓を撃ちて、以て節度と為した。その歩兵の衣る所は、青・赤・黄・黒で別けて部隊と為した。盾・矟・矛・戟を相次いで周回転易し、以て相い赴き就かしめた。飛龍・騰蛇の変有り、函箱・魚鱗・四門の陳を為し、凡そ十余の法有り。跽(き、跪く)起き前却し、節に応ぜざるは無かった。陳べ畢りて、南北二軍皆鼓角を鳴らし、衆尽く大いに譟した。各々騎将六人を令して去来し挑戦せしめ、歩兵は更に進退して以て相い拒み撃たしめ、南は敗れ北は 捷 ち、以て盛観と為した。自ら後は 踵 いて以て常と為した。
高祖の太和十九年五月甲午、皇太子の元恂に廟に於いて冠礼を加えた。丙申、高祖は光極堂に臨み、太子が入見し、帝自ら詔した。事は恂伝に在り。六月、高祖は光極堂に臨み、群官を引見した。詔して曰く。「 比 く子の恂に冠を加うるに、礼に闕有り。往きし失いを思い、更に将来に順うべきである。礼は古今殊なる制、三代異なる章有り。近く恂に冠を加うる礼に三失有り。一、朕と諸儒と同じく誤る。二、諸儒朕に違う。故に三誤有らしむ。今、 中原 に 兆 し建ち、百礼惟れ新たなり。而して此の三失有り、殊に以て愧歎す。春秋に、襄公将に衛に至らんとし、同姓の国を以て、其の年幾ばくかを問い、而して冠礼を行えり。古者は皆、地に 灌 ぎ神を降し、或いは楽を作して以て神を迎えたり。昨は楽を作すことを失えり。廟庭に至り、朕は意を以て拜礼を行えり。神を降すことを得ずと雖も、理に於いて 猶差 完し。司馬彪云う、漢帝に四冠有り。一は緇布、二は進賢、三は武弁、四は通天冠。朕は家語の冠頌篇を見るに、四加冠は、公なり。家語は正経に非ずと雖も、孔子の言は経と何の異なることか有らん。諸儒は司馬彪の志を忽せにし、致して天子の子にして、而して士の冠礼を行わしむ。此れ朝廷の失いなり。冠礼は朕は賓有りと為す。諸儒は皆賓無しと為す。朕既に之に従い、復た失い有らしむ。孔の云う所の『斐然として章を成す』、其れ斯れを謂うか。」太子 太傅 の穆亮等は拜謝した。高祖曰く。「昔、裴頠が冠儀を作りしに、四有ることを知らず。裴頠尚お知らず、卿等復た何を愧じんや。」
正光元年秋、粛宗(孝明帝)が元服を加え、時に年十一。既に冠し、太廟を拝し、大赦して元を改めた。官に其の注有り。
輿服の制は、秦漢已降、損益知るべし。魏氏は百王の末に居り、分崩の後に接し、典礼の用、故に闕有り。太祖の世に制せし所の車輦は、古式を参采すと雖も、多く旧章に違う。今、案じてこれを書き、以て一代の迹を存す。
乗輿の輦輅:龍輈十六、四衡、轂は朱班、繍輪、雕虬・文虎・盤螭の飾り有り。龍首は扼を銜み、鸞爵は衡に立ち、円蓋に華蟲、金雞は羽を樹て、蛟龍は游蘇す。太常十有二斿を建て、日月升龍を画く。郊天祭廟には則ちこれに乗ず。
乾象輦:羽葆、円蓋に華蟲、金雞は羽を樹て、二十八宿、天階雲罕、山林雲気・仙聖賢明・忠孝節義・遊龍・飛鳳・朱雀・玄武・白虎・青龍・奇禽異獸、以て飾りと為すべき者は皆亦図す。太皇太后・皇太后・皇后、郊廟を助祭するには則ちこれに乗ず。
大樓輦:輈十二、玉飾を以て加え、衡輪は雕綵し、輦輅と同じく、牛十二を駕す。
小樓輦:輈八、衡輪の色数は大樓輦と同じく、牛十二を駕す。天子・太皇太后・皇太后の郊廟にも亦これに乗ず。
象輦:左右に鳳凰、白馬、仙人は前却飛行し、象二頭を駕す。羽葆旒蘇、龍旂旍麾、其の飾りは乾象と同じ。太皇太后・皇太后の郊廟を助祭する副乗なり。
馬輦は重級であり、その装飾はすべてこれに同じくする。繢漆の直轅六つ、左右に騑駕する。天子が籍田や小祀の時に、これに乗る。
臥輦は、その装飾はすべてこれに同じくする。丹漆、六頭の馬を駕する。
遊観輦は、その装飾もこれに同じくする。十五頭の馬を駕し、すべて白馬で朱色の鬣と尾である。天子が法駕で行幸し、巡狩し、小祀の時に、これに乗る。
七宝旃檀刻鏤輦は、金薄で文様を浮き彫りにする。
馬輦は、天子の三駕が乗るものであり、あるいは副乗とする。
緇漆の蜀馬車は、金薄で華虫の文様を浮き彫りにする。
軺軒は、四頭の馬を駕し、金銀で文様を浮き彫りにする。出る時は挽き、解いて合わす。
歩輓は、天子が小駕で遊宴する時に乗るものであり、また副乗とする。
金根車は、羽葆、旒があり、轅と輪に文様を描き、車首に華飾、綵軒に交落し、左右に騑がある。太皇太后、皇太后、皇后が郊廟の助祭、籍田、先蠶の時に、これに乗る。長公主、大貴、公主、封君、諸王妃は皆乗ることができるが、右の騑のみである。
太祖の初め、皇太子と皇子は皆鸞輅に立って乗り、轅に龍首を描き、朱輪に繡轂、綵蓋に朱裏、龍旂に九斿、雲楱を描く。皇子が封ぜられるとこれを賜い、皆四頭の馬を駕する。
また軺車がある。緇漆、紫幰に朱裏、一頭の馬を駕し、副乗とする。
公安車は、緇漆、紫蓋に朱裏、轅に朱雀・青龍・白虎を描き、龍旂八斿、三頭の馬を駕する。軺車は王と同じである。
侯車は、公と同じである。七斿、紫蓋に青裏、二頭の馬を駕する。副車もこれに同じくする。
子車は、緇漆、草蠡文、六斿、皂蓋に青裏、一頭の馬を駕する。副車もこれに同じくする。
(欠)および公・侯・子が郊天に陪列する時は、これに乗る。宗廟の小祀には、軺軒に乗るのみである。高祖の太和年間に至り、詔して儀曹令の李韶に車輅の監造を命じ、すべて古式に従わせた。
太祖天興二年、礼官に命じて古事を採集させ、三駕の鹵簿を制定した。第一は大駕と称し、五輅を設け、太常を立て、属車八十一乗を従える。 平城 令・代尹・司隸 校尉 ・丞相が奉引し、太尉が陪乗し、太僕が御従する。軽車と介士、千乗万騎が魚麗雁行の陣をなす。前駆には、皮軒・闒戟・芝蓋・雲罕・指南があり、後殿には豹尾がある。葭を鳴らし唱え、上下に鼓吹を奏する。軍戎・大祠の際にはこれを設ける。第二は法駕と称し、属車三十六乗を従える。平城令・代尹・太尉が奉引し、侍中が陪乗し、奉車都尉が御する。巡狩・小祠の際にはこれを設ける。第三は小駕と称し、属車十二乗を従える。平城令・太僕が奉引し、常侍が陪乗し、奉車郎が御する。遊宴・離宮の際にはこれを設ける。二至(冬至・夏至)に郊天地を祀り、四節に五帝を祠る際には、あるいは公卿が行事を執り行うが、ただ四月の郊天のみは、帝が常に親しく行い、楽に鍾懸を加え、迎送の節と為す。
天賜二年の初め、大駕の魚麗雁行を改め、方陳の鹵簿と為す。歩騎を列ね、内外四重とし、標を列ね旌を立て、門を通じ四方に達し、五色の車旗各々その方に処す。諸王の導従は鉀騎の内にあり、公は幢の内にあり、侯は歩矟の内にあり、子は刀盾の内にあり、五品の朝臣使は輿乗の前両廂に列し、官の卑しき者は先に引く。王公侯子の車の旒・麾・蓋、信幡及び散官の構服は、全て純黒と為す。
肅宗熙平元年六月、中侍中劉騰らが奏上して言う、「中宮の僕が列車の輿が朽ち敗れたと刺す。昔の旧都より、礼物は頗る異なり、京に遷って以来、未だ更に造るを復さず。礼官を集めて、その制を裁するを請う」。霊太后は令して曰く、「尚書に付して量議せしめよ」。太常卿穆紹、少卿元端、博士鄭六・劉臺龍らの議、「周礼を案ずるに、王后の五輅あり。重翟は錫面に朱緫し、厭翟は勒面に繢緫し、安車は彫面に鷖緫し、皆容蓋あり。翟車は貝面に組緫し、握あり。輦車は組輓し、翣と羽蓋あり。重翟は、后が王に従い祭祀するに乗ずる所。厭翟は、后が王に従い賓客を饗する諸侯に乗ずる所。安車は、后が王に朝見するに乗ずる所。翟車は、后が出でて桑するに乗ずる所。輦車は、後宮中に乗ずる所。謹んで周礼の聖制、不刊の典と為し、その礼文尤も備わる。孔子云う『其れ或いは周を継ぐ者は、百世と雖も知るべきなり』と、その法踰え難きを以てす。これを以て言えば、後王の輿服典章は、多く周の式に放つ。文質時とともに変ずるも、輅の名は存すべく、彫飾異なるも、理として全く捨つる無し。当今聖后朝に臨み、親しく庶政を覧る。輿駕の式は、宜しく典礼を備うべし。臣等学通経に缺け、叨かに議の末に参ず。輒ち短見を率い、宜しく周礼に準じて五輅を備え造り、彫飾の制は、時に随い増減すべし」。
太学博士王延業の議、「周礼を案ずるに、王后に五輅あり。重翟は王に従い祠るに以てし、厭翟は王に従い賓客を饗するに以てし、安車は王に朝見するに以てし、翟車は親桑に以てし、輦車は宮中に乗ずる所。また漢の輿服志に云う、秦は天下を併せ、三代の礼を閲し、或いは曰く殷の瑞山車、金根の色、殷人は以て大輅と為す。ここにおいて始皇は金根の車を作る。漢は秦の制を承け、御して乗輿と為す。太皇太后・皇太后は皆金根車に御し、交絡・帷裳を加う。法駕に非ざれば則ち紫罽軿車に乗じ、雲𣝛文に輈を画き、黄金を塗りて五末・蓋爪と為し、左右騑し、三馬を駕す。阮諶の礼図は併せて秦漢以来の輿服を載せ、亦云う、金根輅は、皇后法駕これに乗じ、以て礼婚し廟に見ゆ。桑輅は、后法駕これに乗じ以て親桑す。安車は、后小駕これに乗じ以て助祭す。山軿車は、后行すれば則ちこれに乗ず。紺罽軿車は、后小行すれば則ちこれに乗じ、以て公主・邑君・王妃・公侯夫人を哭す。入閤輿は、后閤に出入し、宮中小遊すれば則ちこれに乗ず。 晉 の先蠶儀注に、皇后は雲母安車に乗じ、六騩を駕す。周・秦・漢・ 晉 の車輿儀式を案ずるに、互いに図書に見え、名号小異なるも、その大較略々相い依擬す。金根車は秦の造るより起これども、即ち殷の遺制なり。今の乗輿五輅は、これが象なり。華飾典麗、容観荘美なり。司馬彪は以て孔子の所謂く殷の輅に乗ずとは、即ちこれを謂うなりと為す。阮氏の図を案ずるに、桑車も亦雲母を以て飾る。 晉 の雲母車はこれ即是なり。一に周の翟車とその用正に同じ。安車は既に名周制と同じく、又用重翟と同じ。山軿車は、図を案ずるに紫を以てこれを飾る。紺罽軿車は、制用厭翟に異なるも、而して実に用同じ。今に於いて入閤輿と輦は、その用又同じ。図を案ずるに、今の黒漆画扇輦は、周の輦車とその形相似たり。窃に以為う、秦は周の制を滅ぼし、百事創革し、官名軌式、殊異ならざる莫し。漢魏は因循し、踵を継ぎ仍って旧きに依る。時に損益有るも、而して古に反する能わず。良に聖去ること久遠、典儀殊に缺け、時移り俗易わり、物事変に随うに由る。賢哲を経るも、祖襲して改むること無し。伏して惟うに皇太后叡聖淵凝し、万物を照臨し、動くこと典故に循い、則を後王に貽す。今輒ち管見を竭くし、これ周礼に稽え、漢 晉 に考え、諸の図史を採り、時事に験し、以て宜しく漢 晉 に依るべしと為す。法駕は則ち金根車に御し、四馬を駕し、交絡帷裳を加う。雲母車に御し、四馬を駕し、以て親桑す。その法駕に非ざれば則ち紫罽軿車に御し、三馬を駕す。小駕は則ち安車に御し、三馬を駕し、以て助祭す。小行は則ち紺罽軿車に御し、三馬を駕し、以て公主・王妃・公侯夫人を哭す。宮中出入は則ち画扇輦車に御す。旧事を案ずるに、周礼に比すれば、唯だ王に従い賓客を饗し及び王に朝見するの乗を闕く。窃に以為う、古者は諸侯に朝会の礼有り、故に饗に従うの儀有り。今その事無く、宜しく省略に従うべし。又今の皇居は、宮掖相逼し、仮令朝見有りとすとも、理として駟を結ぶ無く、即ち事を考実すれば、亦宜しく闕廃すべし。又公主及び王妃を哭することは、周礼に無き所、今に施すは、実に事要に合す。損益同じからず、用捨時に随う。三代異制、その道然り。又金根及び雲母は、駕馬或いは三或いは六、経礼にこれを訪うも、六を駕すの文無し。今の乗輿は、又皆四を駕す。義古典に符し、宜しく仍って四を駕すべし。その余の小駕は、宜しく三を駕すに従うべし。その制用形飾は、備えて図志に見ゆ」。
司空 領 尚書令 任城王元澄、尚書左僕射元暉、尚書右僕射李平、尚書齊王蕭寶夤、尚書元欽、尚書元昭、尚書左丞盧同、右丞元洪超、考功郎中劉懋、北主客郎中源子恭、南主客郎中游思進、三公郎中崔鴻、長兼駕部郎中薛悅、起部郎中杜遇、左主客郎中元韡、騎兵郎中房景先、外兵郎中石士基、長兼右外兵郎中鄭幼儒、都官郎中李秀之、兼尚書左士郎中朱元旭、度支郎中谷穎、左民郎中張均、金部郎中李仲東、庫部郎中賈思同、國子博士薛禎、邢晏、高諒、奚延、太學博士邢湛、崔瓚、韋朏、鄭季明、國子助教韓神固、四門博士楊那羅、唐荊寶、王令儁、吳珍之、宋婆羅、劉燮、高顯邕、杜靈儁、張文和、陳智顯、楊渴侯、趙安慶、賈天度、艾僧㯹、呂 太保 、王當百、槐貴ら五十人が、議して次のように考えた。「皇太后が称制して朝政に臨み、みずから万機を親裁され、天地を郊祀し、宗廟の礼を行われる際に乗られる車は、至尊と同じであるべきであり、別に新たに造るべきではない。周礼や魏・晋の制度には文辞はあるが、形制は明らかでない。仮に造ろうとしても、古制に合わず、一代の典とすることはできないであろう。臣らは太常と国子の二つの議に疑義を抱き、改めて群官を集め、皆で今の議に従うものである。ただ恩裁を仰ぐ。」霊太后は令して言う。「群官が後の議を折衷したのであれば、その通り奏上せよ。」
太祖天興元年の冬、詔して儀曹郎董謐に朝覲・饗宴・郊廟・ 社稷 の儀礼を撰定させた。六年、また有司に詔して冠服を制定させ、品秩に従ってそれぞれ差等をつけたが、時事に追われて余裕がなく、多く古礼を失った。世祖は四方を経営し、留意するいとまがなく、代々武力を事とし、便宜と習熟によるものを取ったに過ぎない。高祖の太和年間に至って、初めて旧典を考証し、冠服を制定し、百官六宮にそれぞれ差等と順序をつけたが、早世して昇遐されたため、まだ周到には行き渡らなかった。粛宗の時、また侍中崔光・安豊王元延明および朝廷の名学に詔してさらにこれを議させ、条章はおおよそ整備された。
熙平元年九月、侍中儀同三司崔光が上表した。「詔を奉じて五時の朝服を定めますが、案ずるに北京(平城)および遷都以来、この制度はなく、ただちに礼官に命じて詳細に根拠を考証させます。」太学博士崔瓚が議して言う。「周礼および礼記には、三冠六冕があり、用いる場面によって区別され、璅玉や五綵の配飾もそれぞれ異なるが、気候や春夏に従って変えることは全くない。ただ月令に青旂・赤玉・黑衣・白輅があり、四時に従って変えるとあるが、弁冕を改めて玄黄を用いることは列挙されていない。これによって推すと、五時の冠は、礼に明文がなく、正典に求めても経書による証拠は難しい。案ずるに司馬彪の続漢書輿服志および祭祀志に云う。五郊で気を迎える儀式は、永平年間以来、礼讖と月令の迎気服色により、元始の故事を採用し、 洛陽 に五郊の兆域を設けた。また云う。五郊の衣と幘は、それぞれ方色と同じである。また続漢書礼儀志に云う。立春には、京都の百官は皆青衣を着し、青幘を服する。秋夏も皆その色の通りである。漢より魏・晋に至るまで、五郊で気を迎える際は、幘を用いて服に従い、色を改めて気に随った。この制度は因循され、相承して改められず、冠冕は従来のままで、変えたと聞かない。今、皇魏は前代を憲章し、宜しきに従って損益する。五時の冠は、愚考するに漢・晋のように幘を用いるのが妥当である。」霊太后は令して言う。「太傅は博学で通暁し、前代の事績に多く通じ、朝儀を総覧し、その事柄に詳しい。ただちに諮問訪問し、疑いを決せよ。」二年九月、太傅・清河王元懌・給事黄門侍郎韋延詳が奏上した。「謹んで前の勅命を案ずるに、五時の朝服を制定するに当たり、かつて国子にその旧式を訪ねた。太学博士崔瓚らが議して言う。『漢より魏・晋に至るまで、五郊で気を迎える際は、幘を用いて服に従い、色を改めて気に随った。この制度は因循され、相承して改められず、冠冕は従来のままで、変えたと聞かない。今、皇魏は前代を憲章し、宜しきに従って損益する。五時の冠は、漢・晋のように幘を用いるのが妥当である。』尚書は礼式が経典に拠らないとして、議事に諮ることを請い、勅を奉じて臣らに付され、考決を加えるよう命じられた。臣らは考えるに、帝王の服章は、万世の則となるものであり、軽々しく裁断すべきではない。改めて礼官を集め、下省で定議を請うことを願い、勅を蒙り聴許された。謹んで門下および学官以上四十三人を集め、史伝を尋ね考証し、古を量り今に校して、国子の前議と同じである。幘は服に従って変え、冠冕は改めない。また四門博士臣王僧奇・蔣雅哲の二人は、五時の冠冕は衣に従って変えるべきだと考える。臣らは国子の前議に従うのが妥当であると考える。」霊太后は令して言う。「議に依れ。」
校勘記