魏書

卷108之二 禮志四之二

卷108之二 禮志四之二

世宗景明二年夏六月、秘書丞孫恵蔚が上言した。「臣が聞くに、国の大礼は明祀を崇ぶるに過ぎず、祀の大なるものは禘祫に過ぎない。それ故に祖を厳かにし宗を敬い、養いを追い孝を継ぎ、聖霊を合せて享け、昭穆を審諦にし、遷毀には恒を有し、尊卑を制し、定体を有する。誠慤は中に著わり、百順は外に応ずる。これによりて惟王は制を創め、邦を建つるの典と為し、仲尼は述定して、刊すべからざるの式と為す。秦に至りて詩書を燔し、鴻籍は泯滅す。漢氏興りて求め、遺篆を拾綴し、淹中の経は、孔安の得る所、唯だ卿大夫士饋食の篇有るのみ。而して天子諸侯享廟の祭、禘祫の礼は尽く亡ぶ。曲台の記は、戴氏の述ぶる所、然れども多く尸灌の義を載せ、牲献の数を載せ、而して行事の法、備物の体は、具する蔑有り。今の取証する所、唯だ王制一簡、公羊一冊有るのみ。此の二書を考へ、以て其の旨を求む。自余の経伝は、時に片記有りと雖も、正を取るに至りては、依攬すべき無し。是を以て両漢の淵儒、魏晋の碩学、咸く斯の文に拠り、以て朝典と為す。然れども持論に深浅有り、及び義に精浮有り、故に伝記一なりと雖も、意を探るに乖舛す。伏して惟うに孝文皇帝は、乾元に合徳し、霊に応じて載を誕し、玄思は微に洞し、神心は古に暢ひ、礼は商周を括し、楽は韶濩を宣べ、六籍は幽にして重ねて昭らかに、五典は淪れて復た顕はれ、二経を和中に挙げ、一の姬公を洛邑にす。陛下は叡哲淵凝にして、欽明道極にし、必世の期に応じ、功成の会に属し、文を継ぎ則を垂るるは、実に下武なり。而して祫禘の二殷は、国の大事、蒸嘗の合享は、朝の盛礼。此れ先皇の留めしむる所、聖懐の以て永く慕う所なり。臣聞く、司宗初めて開き、礼を清廟に致すと。敢へて愚管を竭し、輒へて懐ふ所を陳ぶ。謹んで王制を案ずるに曰く、『天子は犆礿、祫禘、祫嘗、祫烝す』と。鄭玄曰く『天子諸侯の喪畢けば、先君の主を祖廟に合して之を祭る、之を祫と謂ふ。後に因りて以て常と為す』、『魯の礼、三年喪畢けて太祖に祫し、明年春に羣廟に禘す、爾より後の自ら、五年にして再び殷祭し、一祫一禘す』と。春秋公羊魯文二年、『八月丁卯、大事を太廟に有り』。伝に曰く、『大事とは何ぞ。大祫なり。大祫とは何ぞ。合祭なり。毀廟の主は、太祖に陳ぶ。未だ毀廟せざるの主は、皆升り、太祖に合食す。五年にして再び殷祭す』と。何休曰く、『陳ぶとは、就きて太祖の前に陳列す。太祖は東に郷ひ、昭は南に郷ひ、穆は北に郷ひ、其の余の孫は王父に従ふ。父を昭と曰ひ、子を穆と曰ふ』。又曰く、『殷とは盛なり、三年祫、五年禘を謂ふ。禘の祫に異なる所以は、功臣皆祭るなり。祫は猶ほ合なり、禘は猶ほ諦なり、審諦にして遺失無し』。記伝の文を察し、何・鄭の祫禘の義を、略く聞くを得べし。然らば則ち三年喪畢けて、太祖に祫祭し、明年春祀に、羣廟に遍く禘す。此れ礼の正なり、古の道なり。又案ずるに魏氏の故事、魏明帝は景初三年正月に崩じ、五年正月に至り、二十五晦を積みて大祥と為す。太常孔美・博士趙怡等は以て禫は二十七月に在りと為し、其の年四月に到り、礼に依りて応に祫すべしと為す。散騎常侍王肅・博士楽詳等は以て禫は祥月に在りと為し、其の年二月に到り、宜しく応に祫祭すべしと為す。孔王異議有りと雖も、六八制を殊にするも、喪畢の祫、明年の禘に至りては、其の議一なり。陛下永く孝思を惟ひ、心に因りて即ち礼し、鄭を取り王を捨て、禫は此の晦に終り、来月中旬、礼応に大祫すべし。六室の神祏、太祖に升食す。明年春享、咸く羣廟に禘す。茲より以後、五年を以て常と為す。又古の祭法、時祫並びに行はれ、天子は先づ祫し後に時し、諸侯は先づ時にし後に祫す。此れ古に於て当たり、今に於ては則ち煩し。且つ礼に升降有り、事に文節有り、時に通ずるの制は、聖人違はざるなり。当に祫すべきの月は、宜しく時祭を減じ、以て要省に従ふべし。然れども大礼久しく廃れ、羣議或は殊なり、臣を以て之を観るに、理怪むる無きに在り。何となれば、心制既に終り、二殷惟だ始まる、祫禘の正は、実に斯に在り。若し停めて之を闕き、唯だ時祭を行はば、七聖合享を聞かず、百辟盛事を覩ず、何を以て令問を宣昭し、後昆に式を垂れんや。皇朝は三代に同等し、治は終古に邁る、而して徽典を昔人に缺き、鴻美を往志に慚づ、此れ礼の行はざる所、情の許さざる所なり。臣学は深を鈎せず、思は遠くを経ず、徒に章句を閲し、蔑爾として立つ所無し。但だ聖時に沢を飲み、天造に恩を銘す、是を以て妄りに区区を尽くし、塵露有らんことを冀ふ。陳ぶ所蒙く允さば、請ふ礼官に付し、儀注を集定せしめん」と。

原文世宗景明二年夏六月,祕書丞孫惠蔚上言:「臣聞國之大禮,莫崇明祀,祀之大者,莫過禘祫,所以嚴祖敬宗,追養繼孝,合享聖靈,審諦昭穆,遷毀有恒,制尊卑,有定體,誠慤著於中,百順應於外。是以惟王創制,為建邦之典;仲尼述定,為不刊之式。暨秦燔詩書,鴻籍泯滅。漢氏興求,拾綴遺篆,淹中之經,孔安所得,唯有卿大夫士饋食之篇。而天子諸侯享廟之祭、禘祫之禮盡亡。曲臺之記,戴氏所述,然多載尸灌之義,牲獻之數,而行事之法,備物之體,蔑有具焉。今之取證,唯有王制一簡,公羊一冊。考此二書,以求厥旨。自餘經傳,雖時有片記,至於取正,無可依攬。是以兩漢淵儒、魏晉碩學,咸據斯文,以為朝典。然持論有深淺,及義有精浮,故令傳記雖一,而探意乖舛。伏惟孝文皇帝,合德乾元,應靈誕載,玄思洞微,神心暢古,禮括商周,樂宣韶濩,六籍幽而重昭,五典淪而復顯,舉二經於和中,一姬公於洛邑。陛下叡哲淵凝,欽明道極,應必世之期,屬功成之會,繼文垂則,實惟下武。而祫禘二殷,國之大事;蒸嘗合享,朝之盛禮。此先皇之所留心,聖懷以之永慕。臣聞司宗初開,致禮清廟,敢竭愚管,輒陳所懷。謹案王制曰:『天子犆礿、祫禘、祫嘗、祫烝。』鄭玄曰『天子諸侯之喪畢,合先君之主於祖廟而祭之,謂之祫。後因以為常』,『魯禮,三年喪畢而祫於太祖,明年春禘於羣廟,自爾之後,五年而再殷祭,一祫一禘』。春秋公羊魯文二年:『八月丁卯,大事于太廟。』傳曰:『大事者何?大祫也。大祫者何?合祭也。毀廟之主,陳於太祖。未毀廟之主,皆升,合食于太祖。五年而再殷祭。』何休曰:『陳者,就陳列太祖前。太祖東鄉,昭南鄉,穆北鄉,其餘孫從王父。父曰昭,子曰穆。』又曰:『殷,盛也,謂三年祫,五年禘。禘所以異於祫者,功臣皆祭也。祫猶合也,禘猶諦也,審諦無所遺失。』察記傳之文,何、鄭祫禘之義,略可得聞。然則三年喪畢,祫祭太祖,明年春祀,遍禘羣廟。此禮之正也,古之道也。又案魏氏故事,魏明帝以景初三年正月崩,至五年正月,積二十五晦為大祥。太常孔美、博士趙怡等以為禫在二十七月,到其年四月,依禮應祫。散騎常侍王肅、博士樂詳等以為禫在祥月,至其年二月,宜應祫祭。雖孔王異議,六八殊制,至於喪畢之祫,明年之禘,其議一焉。陛下永惟孝思,因心即禮,取鄭捨王,禫終此晦,來月中旬,禮應大祫。六室神祏,升食太祖。明年春享,咸禘羣廟。自茲以後,五年為常。又古之祭法,時祫並行,天子先祫後時,諸侯先時後祫。此於古為當,在今則煩。且禮有升降,事有文節,通時之制,聖人弗違。當祫之月,宜減時祭,以從要省。然大禮久廢,羣議或殊,以臣觀之,理在無怪。何者?心制既終,二殷惟始,祫禘之正,實在於斯。若停而闕之,唯行時祭,七聖不聞合享,百辟不覩盛事,何以宣昭令問,垂式後昆乎?皇朝同等三代,治邁終古,而令徽典缺於昔人,鴻美慚於往志,此禮所不行,情所未許。臣學不鈎深,思無經遠,徒閱章句,蔑爾無立。但飲澤聖時,銘恩天造,是以妄盡區區,冀有塵露。所陳蒙允,請付禮官,集定儀注。」

詔して曰く、「礼は古に循ふを貴ぶ、何ぞ必ずしも改作せん。且つ先聖久しく遵ひ、綿代恒典、豈に朕の冲闇、宜しく之を革くべきや。且つ礼祭の議は、国の至重、先代の碩儒、論或は一ならず。八坐・五省・太常・国子に付し参定して以て聞かしむべし」と。七月、侍中・録尚書事・北海王詳等言ふ、「旨を奉り集議す。僉く以て禘祫の設けは、前代の彝典、恵蔚の陳ぶる所、旧義に允る有りと為す。請ふ前に依り剋く清宮を敬享し、其の時祭を省むるを求むるは、理実に宜しく爾るべし。但だ之を解注に求め、下は列国に逼り、兼ねて時奠の敬、事難しく輒ち省むべからず。請ふ仲月を移し、吉を択び重ねて聞かしめん」と。制して可とす。

原文詔曰:「禮貴循古,何必改作。且先聖久遵,綿代恒典,豈朕冲闇,所宜革之。且禮祭之議,國之至重,先代碩儒,論或不一。可付八坐、五省、太常、國子參定以聞。」七月,侍中、錄尚書事、北海王詳等言:「奉旨集議,僉以為禘祫之設,前代彝典,惠蔚所陳,有允舊義。請依前剋敬享清宮,其求省時祭,理實宜爾。但求之解注,下逼列國,兼時奠之敬,事難輒省。請移仲月,擇吉重聞。」制可。

十一月壬寅、伊水の陽に円丘を改築す。乙卯、仍び事有り。

原文十一月壬寅,改築圓丘於伊水之陽。乙卯,仍有事焉。

延昌四年正月、世宗崩じ、肅宗即位す。三月甲子、尚書令・任城王澄奏し、太常卿崔亮上言す、「秋七月応に太祖に祫祭すべし。今世宗宣武皇帝の主は廟に入ると雖も、然れども烝嘗の時祭は、猶ほ別に寢室にす。殷祫に至りては、宜しく古典を存すべし。礼を案ずるに、三年喪畢けて、太祖に祫し、明年春に羣廟に禘す。又杜預も亦云ふ、卒哭して除き、三年喪畢けて禘すと。魏の武宣后は太和四年六月に崩じ、其の月既に葬り、服を除き即ち吉す。四時行事す、而して猶ほ未だ禘せず。王肅・韋誕並びに以て今除き即ち吉す、故に特に時祭すと為す。禘祫に至りては、宜しく古礼を存すべしと。高堂隆も亦た肅の議の如し、是に於て停めて殷祭せず。仰ぎ尋ぬるに太和二十三年四月一日、高祖孝文皇帝崩じ、其の年十月廟を祭り、景明二年秋七月太祖に祫し、三年春羣廟に禘す。亦た三年にして乃ち祫す。謹んで古礼及び晋魏の議に準ひ、並びに景明の故事に、愚謂ふ来秋七月、祫祭応に停むべく、宜しく三年終るを待ちて乃ち後に祫禘すべし」と。詔して曰く、「太常古今を援引し、並びに証拠有り、請に依るべし」と。

原文延昌四年正月,世宗崩,肅宗即位。三月甲子,尚書令、任城王澄奏,太常卿崔亮上言:「秋七月應祫祭于太祖,今世宗宣武皇帝主雖入廟,然烝嘗時祭,猶別寢室,至於殷祫,宜存古典。案禮,三年喪畢,祫於太祖,明年春禘於羣廟。又案杜預亦云,卒哭而除,三年喪畢而禘。魏武宣后以太和四年六月崩,其月既葬,除服即吉。四時行事,而猶未禘。王肅、韋誕並以為今除即吉,故特時祭。至於禘祫,宜存古禮。高堂隆亦如肅議,於是停不殷祭。仰尋太和二十三年四月一日,高祖孝文皇帝崩,其年十月祭廟,景明二年秋七月祫於太祖,三年春禘於羣廟。亦三年乃祫。謹準古禮及晉魏之議,并景明故事,愚謂來秋七月,祫祭應停,宜待三年終乃後祫禘。」詔曰:「太常援引古今,並有證據,可依請。」

熙平二年三月癸未、太常少卿元端が上言して言う、「謹んで礼記祭法を案ずるに、『有虞氏は黄帝を禘し嚳を郊し、顓頊を祖とし堯を宗とす。夏后氏も亦た黄帝を禘し鯀を郊し、顓頊を祖とし禹を宗とす。殷人は嚳を禘し冥を郊し、契を祖とし湯を宗とす。周人は嚳を禘し稷を郊し、文王を祖とし武王を宗とす』と。鄭玄の注に云う、『禘郊祖宗とは、祭祀を以て配食するを謂うなり。有虞氏以上は尚徳にして、禘郊祖宗、配に有徳者を用う。夏より以下は、稍々其の姓を以て之に代う』と。是の故に周人は后稷を以て始祖と為し、文武を以て二祧と為す。周世に訖るまで、配祭毀さず。礼を案ずるに、嚳は廟無きも、禘祭に配食す。謹んで詳らかにす、聖朝は太祖道武皇帝を以て円丘に配し、道穆皇后劉氏を以て方沢に配す。太宗明元皇帝を以て上帝に配し、明密皇后杜氏を以て地祇に配す。又た顓祖献文皇帝を以て雩祀に配す。太宗明元皇帝の廟既に毀つ、上帝地祇、配祭に式有り。国の大事は、祀と戎とのみ、廟配の事重し、敢えて専決せず、請う羣官を召し集議して以て聞かしむ」と。霊太后令して曰く「請に依れ」と。

原文熙平二年三月癸未,太常少卿元端上言:「謹案禮記祭法:『有虞氏禘黃帝而郊嚳,祖顓頊而宗堯。夏后氏亦禘黃帝而郊鯀,祖顓頊而宗禹。殷人禘嚳而郊冥,祖契而宗湯。周人禘嚳而郊稷,祖文王而宗武王。』鄭玄注云:『禘郊祖宗,謂祭祀以配食也。有虞氏以上尚德,禘郊祖宗,配用有德者。自夏以下,稍用其姓代之。』是故周人以后稷為始祖,文武為二祧。訖於周世,配祭不毀。案禮,嚳雖無廟,配食禘祭。謹詳聖朝以太祖道武皇帝配圓丘,道穆皇后劉氏配方澤;太宗明元皇帝配上帝,明密皇后杜氏配地祇;又以顯祖獻文皇帝配雩祀。太宗明元皇帝之廟既毀,上帝地祇,配祭有式。國之大事,唯祀與戎,廟配事重,不敢專決,請召羣官集議以聞。」靈太后令曰「依請」。於是太師、高陽王雍,太傅、領太尉公、清河王懌,太保、領司徒公、廣平王懷,司空公、領尚書令、任城王澄,侍中、中書監胡國珍,侍中、領著作郎崔光等議:「竊以尚德尊功,其來自昔,郊稷宗文,周之茂典。仰惟世祖太武皇帝以神武纂業,克清禍亂,德濟生民,功加四海,宜配南郊。高祖孝文皇帝大聖膺期,惟新魏道,刑措勝殘,功同天地,宜配明堂。」令曰:「依議施行。」

七月戊辰、侍中・領軍将軍・江陽王継が表を上りて言う、「臣功緦の内、太祖道武皇帝の後、臣に於いて始めて曾孫なり。然れども道武皇帝は業を伝えて窮まり無く、四祖三宗、功徳最も重く、天に配し郊祀し、百世遷さず。而るに曾玄の孫、烝嘗の薦、廟庭に於いて拜するに預からず。霜露の感、階席に於いて奠に陪するを闕く。今七廟の後、直ちに帰胙の霊を隔つるに非ざるのみ。五服の孫も亦た出身の敍に霑わず。之を墳史に校するも然らず、之を人情に験するも未だ允ならず。何となれば、礼に云う、祖は上に遷り、宗は下に易わる。臣の曾祖は帝なり、世数未だ遷らず、便ち疏にして庶族に同じくし、而して孫祭に預からず。斯れ之を屈と為す、今古に罕なり。昔堯は九族を敦くし、周は本枝を隆くす、故に能く磐石維城と為り、侮を外に禦う。今臣の親とする所、生を見て隔棄せらる、豈に以て根本を楨幹し、公族を隆建する所以ならんや。伏して見るに高祖孝文皇帝は令を著して銓衡し、曾祖の服を取り、以て資蔭と為し、今に至るまで之を行い、相伝えて絶えず。而るに況んや曾祖帝と為りて、而して録せられざるをや。伏して願わくは天鑒、以て照臨する有らんことを、皇恩をして洽穆ならしめ、宗人をして咸敍せしめん。請う外に付して博議し、永く定準と為さん」と。霊太后令して曰く「八座に付して礼官を集め議定して以て聞かしめよ」と。

原文七月戊辰,侍中、領軍將軍、江陽王繼表言:「臣功緦之內,太祖道武皇帝之後,於臣始是曾孫。然道武皇帝傳業無窮,四祖三宗,功德最重,配天郊祀,百世不遷。而曾玄之孫,烝嘗之薦,不預拜於廟庭;霜露之感,闕陪奠於階席。今七廟之後,非直隔歸胙之靈;五服之孫,亦不霑出身之敍。校之墳史則不然,驗之人情則未允。何者?禮云,祖遷於上,宗易於下。臣曾祖是帝,世數未遷,便疏同庶族,而孫不預祭。斯之為屈,今古罕有。昔堯敦九族,周隆本枝,故能磐石維城,禦侮於外。今臣之所親,生見隔棄,豈所以楨幹根本,隆建公族者也。伏見高祖孝文皇帝著令銓衡,取曾祖之服,以為資蔭,至今行之,相傳不絕。而況曾祖為帝,而不見錄。伏願天鑒,有以照臨,令皇恩洽穆,宗人咸敍。請付外博議,永為定準。」靈太后令曰:「付八座集禮官議定以聞。」

四門小学博士王僧奇等議す、「孝経を案ずるに曰く、『后稷を郊祀して以て天に配し、文王を明堂に宗祀して以て上帝に配す』と。然らば則ち太祖遷さざるは、王業の初基を尊ぶなり。二祧毀たざるは、不朽の洪烈を旌すなり。其の旁枝遠胄、豈に四廟の親と同じくし得んや。故に礼記婚義に曰く、『古者婦人嫁する先だつこと三月、祖廟未だ毀たずんば、公宮に教う。祖廟既に毀ちては、宗室に教う』と。又た文王世子に曰く、『五廟の孫、祖廟未だ毀たずんば、庶人と雖も冠娶必ず告げ、死すれば必ず赴き、親を忘れざるなり。親未だ絶たずして庶人に列するは、賤しくして能無きなり』と。鄭注に云う、『君に赴告するなり。実は四廟にして五を言うは、顕考始封の君子を容るるが故なり』と。鄭君其の四廟を別つ、理二祭に協う。而して四廟なる者は、当世服属の内に在り、以て子孫の位に与るべし。若し廟毀ち服尽きなば、豈に此の例に同じくし得んや。敢えて愚昧を竭くし、請う四廟を以て断と為さん」と。

原文四門小學博士王僧奇等議:「案孝經曰:『郊祀后稷以配天,宗祀文王於明堂,以配上帝。』然則太祖不遷者,尊王業之初基,二祧不毀者,旌不朽之洪烈。其旁枝遠胄,豈得同四廟之親哉?故禮記婚義曰:『古者婦人先嫁三月,祖廟未毀,教於公宮。祖廟既毀,教于宗室。』又文王世子曰:『五廟之孫,祖廟未毀,雖庶人冠娶必告,死必赴,不忘親也。親未絕而列於庶人,賤無能也。』鄭注云:『赴告於君也。實四廟言五者,容顯考為始封君子故也。』鄭君別其四廟,理協二祭。而四廟者,在當世服屬之內,可以與於子孫之位,若廟毀服盡,豈得同於此例乎?敢竭愚昧,請以四廟為斷。」

国子博士李琰之議す、「祭統を案ずるに曰く、『太廟に事有らば、羣昭羣穆咸在り』と。鄭氏注す、『昭穆咸在りとは、同宗父子皆来るを謂う』と。古礼の制、是の如く其れ広し。而して当今の儀注、唯だ親廟四に限る、愚窃に疑う。何を以て之を明らかにせん。設い世祖の子男今に存する者有らば、既に身は戚蕃たり、重子と号せらる、門外に賓たるを得て、碑鼎の事に預からざるを得んや。又た宜に因りて法を変ずるは、礼に其の説有り。記に言う、『五廟の孫、祖廟未だ毀たずんば、庶人と為り、冠娶必ず告げ、死すれば必ず赴く』と。注に曰く、『実は四廟にして五を言うは、顕考始封の君子を容るるなり』と。今太祖の廟在るに因り、仍て其の曾玄の侍祠を通すは、彼の古記と甚だ符会す。且つ国家議親の律は、指して天子の玄孫を取るも、乃ち旁ら時后に準ぜず。助祭に至りては、必ず世主と相倫と謂い、将に均一にし難からん。寿に短長有り、世に延促有り、終に当に何の時か齊同を得べし。謂う宜しく入廟の制は、率ね議親の条に従うべし。祖祧の裔は、各其の玄孫を尽くすを聴くべし。之をして堂壇に駿奔せしめ、禘礿を肅承せしめば、則ち情理差通す。宜しく復た各例を為し、事々をして舛駁せしむべからず」と。

原文國子博士李琰之議:「案祭統曰:『有事於太廟,羣昭羣穆咸在。』鄭氏注:『昭穆咸在,謂同宗父子皆來。』古禮之制,如是其廣,而當今儀注,唯限親廟四,愚竊疑矣。何以明之?設使世祖之子男於今存者,既身是戚蕃,號為重子,可得賓於門外,不預碑鼎之事哉?又因宜變法,禮有其說。記言:『五廟之孫,祖廟未毀,為庶人,冠娶必告,死必赴。』注曰:『實四廟而言五者,容顯考始封之君子。』今因太祖之廟在,仍通其曾玄侍祠,與彼古記,甚相符會。且國家議親之律,指取天子之玄孫,乃不旁準於時后。至於助祭,必謂與世主相倫,將難均一。壽有短長,世有延促,終當何時可得齊同。謂宜入廟之制,率從議親之條;祖祧之裔,各聽盡其玄孫。使得駿奔堂壇,肅承禘礿,則情理差通。不宜復各為例,令事事舛駁。」

侍中・司空公・領尚書令・任城王澄、侍中・尚書左僕射元暉奏す、「臣等琰之等の議を参量するに、始封の君子と為すも、又た祭統に曰く、『太廟に事有らば、羣昭羣穆咸在りて、而して其の倫を失わず』と。鄭注に昭穆を云うは、同宗父子皆来るなり。未だ毀たず及び同宗と言うは、則ち四廟の辞を共にす。未だ絶たず及び父子と云うは、五属の称を崇むるを明らかにす。天子諸侯、継立殊無し、吉凶の赴、同じく四廟に止む。祖祧存るも、親級弥遠く、告赴拜薦、典記文無し。斯れ祖上に遷るに由り、仁親の義疏なるを見、宗下に易わるに由り、五服の恩断つるを著す。江陽の今帝に於けるや、親を計れば枝宗三易し、世を数うれば廟応に四遷す、吉凶尚お告聞せず、拜薦寧んぞ輒ち預かるを容れんや。高祖孝文皇帝聖徳玄覧し、古に師いて政を立て、陪拜は四廟に止め、哀恤は緦宗より断つ。即ち之人情、冥然として一に符す。之を礼典に推す、事難きに在りて違う。此れ所謂明王相沿り、今古革めざる者なり」と。

原文侍中、司空公、領尚書令、任城王澄,侍中、尚書左僕射元暉奏:「臣等參量琰之等議,雖為始封君子,又祭統曰:『有事於太廟,羣昭羣穆咸在,而不失其倫。』鄭注云昭穆,謂同宗父子皆來也。言未毀及同宗,則共四廟之辭。云未絕與父子,明崇五屬之稱。天子諸侯,繼立無殊,吉凶之赴,同止四廟。祖祧雖存,親級彌遠,告赴拜薦,典記無文。斯由祖遷於上,見仁親之義疏;宗易於下,著五服之恩斷。江陽之於今帝也,計親而枝宗三易,數世則廟應四遷,吉凶尚不告聞,拜薦寧容輒預。高祖孝文皇帝聖德玄覽,師古立政,陪拜止於四廟,哀恤斷自緦宗。即之人情,冥然符一;推之禮典,事在難違。此所謂明王相沿,今古不革者也。」

太常少卿の元端が議して曰く、「礼記祭法に云う、『王は七廟を立てる。曰く考廟、曰く王考廟、曰く皇考廟、曰く顕考廟、曰く祖考廟、遠廟は祧と為し、二祧有り』と。而して祖考は功重を以て遷さず、二祧は盛徳を以て毀たず。迭遷の義は、其れ四廟に在り。祭統に云う、『祭に十倫の義有り、六は親疎の殺を見る』と。『夫れ祭に昭穆有り、昭穆は父子遠近・長幼親疎の序を別つ所以にして、乱るること無し』、是の故に倫有り。注に云う、『昭穆咸く在り、同宗の父子皆来る』と。指す謂いは、当廟の父子を群と為し、昭穆に繫がらざるなり。若し一公十子有らば、便ち群公子と為る。豈に数公を待ちて立ちて称するを俟たんや。文王世子に『五廟の孫、祖廟未だ毀たず』と云う。雖た援引すべき所有りと雖も、然れども朝議と同じからず。若し其の議に依らば、匪直に太祖の曾玄のみならず、諸廟の子孫、悉く預くべきに応ず。既に正拠無く、窃かに太広と謂う。臣等の愚見、僧奇等の議と同じくせんことを請う」と。

原文太常少卿元端議:「禮記祭法云:王立七廟,曰考廟,曰王考廟,曰皇考廟,曰顯考廟,曰祖考廟,遠廟為祧,有二祧。而祖考以功重不遷,二祧以盛德不毀。迭遷之義,其在四廟也。祭統云:祭有十倫之義,六曰見親疏之殺焉。『夫祭有昭穆,昭穆者所以別父子遠近、長幼親疏之序,而無亂也』,是故有倫。注云:『昭穆咸在,同宗父子皆來。』指謂當廟父子為羣,不繫於昭穆也。若一公十子,便為羣公子,豈待數公而立稱乎?文王世子云『五廟之孫,祖廟未毀』,雖為有所援引,然與朝議不同。如依其議,匪直太祖曾玄,諸廟子孫,悉應預列。既無正據,竊謂太廣。臣等愚見,請同僧奇等議。」

霊太后の令して曰く、「議親律注に云う、『唯だ当世の属籍に当たるのみならず、歴として先帝の五世を謂う』と。此れ乃ち親親の義篤く、骨肉の恩重きことを明らかにするなり。尚書は遠く諸孫に及び、太広として疑いを致す。百僚助祭するも、狭しと得て言わんや。祖廟未だ毀たず、曾玄壇堂の敬に預からざるは、便ち是れ宗人の昵きにして、反って附庸に外れ、王族の近き、更に群辟に疏んずるなり。先朝の旧儀、草創未だ定まらず、律憲を刊制し、之を垂れて朽ちず。琰の援拠、甚だ情理に允す。依り執る所に可なり」と。

原文靈太后令曰:「議親律注云:『非唯當世之屬籍,歷謂先帝之五世。』此乃明親親之義篤,骨肉之恩重。尚書以遠及諸孫,太廣致疑。百僚助祭,可得言狹也!祖廟未毀,曾玄不預壇堂之敬,便是宗人之昵,反外於附庸,王族之近,更疏於羣辟。先朝舊儀,草創未定,刊制律憲,垂之不朽。琰之援據,甚允情理。可依所執。」

十二月丁未、侍中・司空公・領尚書令・任城王澄、度支尚書崔亮奏して曰く、「謹んで礼記を案ずるに、曾子問いて曰く、『諸侯旅見して天子に礼を成さざる者幾つ』と。孔子曰く、『四、太廟の火・日蝕・后の喪・雨服を沾し容を失えば則ち廃す』と。臣等謂う、元日の万国賀は、応に是れ諸侯旅見の義なり。若し禘して朝会を廃せば、孔子応に五と云うべくして独り四を言う、朝賀を廃さざることを明らかにするなり。鄭玄礼注に云う、『魯礼、三年喪畢きて、太祖に祫し、明年春、群廟に禘す』と。又鄭志に、魯礼を検するに、春秋昭公十一年夏五月、夫人帰氏薨ず。十三年五月大祥、七月釈禫し、公劉子及び諸侯と平丘に会し、八月帰り、祫に及ばず。冬、公晋に如く、明らかに十四年春、帰りて祫し、明らかに十五年春乃ち禘す。経に曰く、『二月癸酉、武宮に事有り』と。伝に曰く、『武公に禘す』と。謹んで明堂位を案ずるに、『魯は王礼なり』と。喪畢きて祫禘す、退理有るに似たり。古礼を詳かに考うるに、祭事を以て元会を廃する者未だ有らず。礼に『吉事は先ず日に近し』と云う。脱し吉ならざれば、容は三旬を改めて筮うべし。尋ねて摂太史令趙翼等列称するに、正月二十六日祭も亦吉なりと。禘祀を中旬十四日に移し、時祭を二十六日に移すことを請う。猶曰く春禘、又退義に非ず。祭は則ち疏怠の譏無く、三元は順軌の美有らん。既に成旨を被る、宜しく即ち宣行すべし。臣等伏して度るに、国の大事は、祀と戎に在り。君挙げれば必ず書す、後誚を貽すを恐る。輒ち古籍を訪引し、窃かに未だ安からざる有り。臣等学通経に缺け、識古を稽へず、枢納に備位し、可否必ず陳す。見る所を冒して陳し、伏して裁衷を聴く」と。霊太后令して曰く、「執る所の如くに可なり」と。

原文十二月丁未,侍中、司空公、領尚書令、任城王澄,度支尚書崔亮奏:「謹案禮記:曾子問曰:諸侯旅見天子,不得成禮者幾?孔子曰:四,太廟火、日蝕、后之喪、雨沾服失容則廢。臣等謂元日萬國賀,應是諸侯旅見之義。若禘廢朝會,孔子應云五而獨言四,明不廢朝賀也。鄭玄禮注云:『魯禮,三年喪畢,祫於太祖,明年春,禘羣廟。』又鄭志:檢魯禮,春秋昭公十一年夏五月,夫人歸氏薨。十三年五月大祥,七月釋禫,公會劉子及諸侯于平丘,八月歸,不及於祫;冬,公如晉,明十四年春,歸祫,明十五年春乃禘。經曰:『二月癸酉,有事於武宮。』傳曰:『禘於武公。』謹案明堂位曰:『魯,王禮也。』喪畢祫禘,似有退理。詳考古禮,未有以祭事廢元會者。禮云『吉事先近日』,脫不吉,容改筮三旬。尋攝太史令趙翼等列稱,正月二十六日祭亦吉。請移禘祀在中旬十四日,時祭移二十六日,猶曰春禘,又非退義。祭則無疏怠之譏,三元有順軌之美。既被成旨,宜即宣行。臣等伏度國之大事,在祀與戎。君舉必書,恐貽後誚。輒訪引古籍,竊有未安。臣等學缺通經,識不稽古,備位樞納,可否必陳。冒陳所見,伏聽裁衷。」靈太后令曰:「可如所執。」

初め、世宗永平・延昌年中、明堂を建てんと欲す。而して議者或いは五室と云い、或いは九室と云い、頻りに年饑に属し、遂に寝す。是に至りて復た之を議し、詔して五室に従う。元叉の政を執るに及び、遂に九室に改めて営む。世乱に値ひ成らず、宗配の礼、竟に設くる所無し。

原文初,世宗永平、延昌中,欲建明堂。而議者或云五室,或云九室,頻屬年饑,遂寢。至是復議之,詔從五室。及元叉執政,遂改營九室。值世亂不成,宗配之禮,迄無所設。

神龜初め、霊太后の父司徒胡国珍薨じ、太上秦公を贈る。時に其の廟制を疑う。太学博士王延業議して曰く。

原文神龜初,靈太后父司徒胡國珍薨,贈太上秦公。時疑其廟制。太學博士王延業議曰:

博士盧観議す。

原文博士盧觀議:

侍中・太傅・清河王懌議す。

原文侍中、太傅、清河王懌議:

懌又た議して曰く、「古は七廟、廟堂皆別なり。光武已来、異室同堂なり。故に先朝の祀堂令に云う、『廟は皆四栿五架、北廂に坐を設け、東は昭、西は穆』と。是を以て相国廟を構うるに、唯だ一室を制し、祖考を同祭す。比来諸王廟を立つる者、自ら私造を任じ、公令に依らず、或いは五或いは一、参差して準無し。要す新令を議行し、然る後に其の法制を定むべし。相国の廟は、已に一室を造り、実に朝令に合す。宜しく即ち此れに依り、其の享祀を展ぶべし」と。詔して懌の議に依う。

原文懌又議曰:「古者七廟,廟堂皆別。光武已來,異室同堂。故先朝祀堂令云:『廟皆四栿五架,北廂設坐,東昭西穆。』是以相國構廟,唯制一室,同祭祖考。比來諸王立廟者,自任私造,不依公令,或五或一,參差無準。要須議行新令,然後定其法制。相國之廟,已造一室,實合朝令。宜即依此,展其享祀。」詔依懌議。

天平四年四月、七帝の神主既に太廟に遷り、太社の石主将に社宮に遷らんとす。礼官云う幣を用うべしと。中書侍郎裴伯茂時に祖祀の文を為す。伯茂故事に拠り、太和中社宮に遷るに、高祖は牲を用いて幣を用いず。遂に以て奏聞す。時に議者或いは大戴礼を引き、遷廟は幣を用う、今社を遷すは宜しく殊なるべからずとす。伯茂尚書召誥に拠り、牲を用うべしとす。詔遂に之に従う。

原文天平四年四月,七帝神主既遷於太廟,太社石主將遷於社宮。禮官云應用幣。中書侍郎裴伯茂時為祖祀文,伯茂據故事,太和中遷社宮,高祖用牲不用幣,遂以奏聞。于時議者或引大戴禮,遷廟用幣,今遷社宜不殊。伯茂據尚書召誥,應用牲。詔遂從之。

武定六年二月、将に斉献武王の廟を営まんとし、室数・形制を議定す。兼度支尚書崔昂・司農卿盧元明・秘書監王元景・散騎常侍裴献伯・国子祭酒李渾・御史中尉陸操・黄門侍郎李騫・中書侍郎陽休之・前南青州刺史鄭伯猷・秘書丞崔劼・国子博士邢峙・国子博士宗恵振・太学博士張毓・太学博士高元寿・国子助教王顕季等議して曰く、「礼を案ずるに、諸侯は五廟、太祖及び親廟四。今献武王は始封の君、便ち是れ太祖、既に親廟に通ず、五室を立つるを容れず。且つ帝王の親廟も亦四を過ぎず。今宜しく四室二間、両頭各一頰室、夏頭徘徊鵄尾とすべし。又礼図を案ずるに、諸侯は止だ南門を開く。而して二王後祔祭の儀法、執事は廟の東門の外に列す。既に東門有り、一門に非ざることを明らかにす。献武の礼数既に隆く、物を備えて殊等なり。今廟に準拠し、宜しく四門を開くべし。内院南面は三門を開き、余面及び外院は四面皆一門。其の内院の牆は四面皆歩廊を架す。南に出でて夾門し、各一屋を置き、以て礼器及び祭服を置く。内外の門牆は並びに赭堊を用う。廟の東門の道の南に斎坊を置き、道の北に二坊を置く。西は典祠廨並びに厨宰と為し、東は廟長廨並びに車輅を置く。其の北は犠牲を養う所と為す」と。詔して之に従う。

原文武定六年二月,將營齊獻武王廟,議定室數、形制。兼度支尚書崔昂、司農卿盧元明、祕書監王元景、散騎常侍裴獻伯、國子祭酒李渾、御史中尉陸操、黃門侍郎李騫、中書侍郎陽休之、前南青州刺史鄭伯猷、祕書丞崔劼、國子博士邢峙、國子博士宗惠振、太學博士張毓、太學博士高元壽、國子助教王顯季等議:「案禮,諸侯五廟,太祖及親廟四。今獻武王始封之君,便是太祖,既通親廟,不容立五室。且帝王親廟,亦不過四。今宜四室二間,兩頭各一頰室,夏頭徘徊鵄尾。又案禮圖,諸侯止開南門,而二王後祔祭儀法,執事列於廟東門之外。既有東門,明非一門。獻武禮數既隆,備物殊等。準據今廟,宜開四門。內院南面開三門,餘面及外院,四面皆一門。其內院牆,四面皆架為步廊。南出夾門,各置一屋,以置禮器及祭服。內外門牆,並用赭堊。廟東門道南置齋坊;道北置二坊,西為典祠廨并厨宰,東為廟長廨并置車輅;其北為養犧牲之所。」詔從之。

校勘記

原文校勘記