巻108之一

天にあるものにおいて日月より明らかなるはなく、人にあるものにおいて礼儀より明らかなるはない。先王はこれをもって上を安んじ民を治め、風化を成すに用い、もしこれを失うことあらば、この亡ぶこと及ぶ。聖人は、人に尊敬・哀思・嗜慾・喜怒の情あるにより、上下・隆殺・長幼・衆寡の節を制し、人心に本づき、神道に会し、故に三才をして惟れ穆ならしめ、百姓をして允に諧わしむ。しかるに淳朴と浮薄とは世によって異なり、質朴と文飾とは設けを異にし、損益相 なお い、時に随いて範を作す。秦は儒経を滅ぼし、漢はその弊を承け、三代の礼は、蓋し糸の如し。劉氏(後漢)中興し、頗る周の典に率い、魏晋の世には、抑々知るべきあり。

永嘉の擾攘より以来、神州は蕪穢し、礼壊楽崩し、人神殲殄す。太祖(道武帝)南に燕趙を定むるも、日暇あらず、世を仍いて征伐し、務めて疆宇を恢めんとす。馬上にてこれを治むと雖も、制作に遑あらず、経国の軌儀に至っては、互いにその大なるものを挙ぐるも、但し事多く粗略にして、且つ兼ねて闕遺あり。高祖(孝文帝)古に稽え、旧則に率い、前王を斟酌し、その令典を択び、朝章国範、煥乎として復た振う。早年に世を厭い、叡慮未だ従わず、然らずんば劉氏(漢)・馬氏(後漢)の跡、何ぞ足れりて数えん。世宗(宣武帝)優遊として上に在り、玄門に意を致し、儒業文風、顧みて未だ洽からず、墜ちたる礼、淪びたる声、これによりて往く。肅宗(孝明帝)已降、魏の道衰羸し、太和の風、世を仍いて凋落し、以て海内傾圮し、綱紀泯然たるに至る。嗚呼、魯は周礼を秉りて国以て克く固く、斉の臣は器を撤して降人謀を折る。身を治むるは造次に忘るるを得ず、国を治むるは庸ぞ須臾に忽にせんや。初め皇始より起こり、武定に迄るまで、朝廷典礼の跡、故に総べてこれを録す。

太祖登国元年、代王の位に即くこと牛川にて、西に向かって祭を設け、天に告げて礼を成す。

天興元年、 平城 へいじょう に都を定め、皇帝の位に即き、壇兆を立てて天地に告祭す。祝して曰く、「皇帝臣珪敢て玄牡を用い、皇天后土の霊に昭告す。上 天命 てんめい を降し、乃ち我が祖宗の世に王たりし幽都を眷みたまう。珪徳なきを以て、前に緒を纂ぎ戎し、黎元を寧んぜんと思い、天罰を龔行せんとす。劉顯を殪し、衛辰を屠り、 慕容 ぼよう を平げ、中夏を定む。群下進むを勧め、位を正し尊に居し、以て天人の望に副うべしと謂う。珪天時人謀、久しく替うべからざるを以て、謹んで礼官に命じ、吉日を択びて皇帝の璽綬を受く。惟れ神祇其れ魏室に丕祚し、永く四方を綏んぜんことを。」事畢り、有司に詔して行次を定め、服色を正さしむ。群臣奏す、国家は黄帝の後に継ぐ、宜しく土徳と為すべし、故に神獣牛の如く、牛は土畜、又黄星顕曜す、其の符なりと。ここにおいて始めて土徳に従い、数に五を用い、服は黄を尚び、犠牲は白を用う。天を祀る礼は周典を用い、夏四月を以て西郊に親祀し、徽幟加うることあり。

二年正月、帝親しく南郊にて上帝を祀り、始祖神元皇帝を以て配す。壇を通四陛と為し、壝埒を三重と為す。天位其の上に在り、南面し、神元は西面す。五精帝は壇内に在り、壝内に四帝、各其の方に在り、一帝は未に在り。日月五星・二十八宿・天一・太一・北斗・司中・司命・司祿・司民は中壝内に在り、各其の方に因る。其の余の従食する者一千余神を合せ、餟は外壝内に在り。藉は藁秸を用い、玉は四珪を用い、幣は束帛を用い、牲は黝犢を用い、器は陶匏を用う。上帝・神元は犢各一を用い、五方帝は犢一を共用し、日月等は牛一を共用す。祭畢り、牲体の左を壇南の巳の地に燎き、陽に従うの義なり。其の地を瘞むる壇兆の制は、南郊と同じ。明年正月辛酉、天を郊す。癸亥、北郊に地を瘞み、神元竇皇后を以て配す。五岳名山は中壝内に在り、四瀆大川は外壝内に在り。后土・神元后は、牲玄牡一を共用し、玉は両珪を用い、幣は束帛を用い、五岳等は牛一を用う。祭畢り、牲体の右を壇の北の亥の地に瘞み、陰に従うなり。乙丑、京師畿内の五歳刑以下を赦す。其の後、冬至には円丘にて上帝を祭り、夏至には方沢にて地を祭り、用いる牲幣の属は、二郊と同じ。

冬十月、平文・昭成・献明の廟成る。歳五祭、二至・二分・臘を用い、牲は太牢を用い、常に宗正兼 太尉 たいい を遣わして祀官を率い侍祀せしむ。太社・太稷・帝社を宗廟の右に置き、方壇四陛と為す。祀は二月・八月を用い、戊を用い、皆太牢なり。句龍を以て社に配し、周棄を以て稷に配し、皆司有りて侍祀す。祖神を立て、常に正月上未を以てし、端門内に藉を設け、祭牲は羊・豕・犬各一を用う。又神元・思帝・平文・昭成・献明の五帝廟を宮中に立て、歳四祭、正・冬・臘・九月を用い、牲は馬・牛各一を用い、太祖親しく宮中に祀る。星神を立て、一歳一祭、常に十二月を用い、馬薦各一、牛豕各二、雞一を用う。太祖の初め、両つの彗星見ゆ、劉后、占者をしてこれを占ましむるに、曰く「これを祈れば則ち当に天下を掃定すべし」と。后これに従う、故に其の祀を立てる。又□□神十二を立て、歳一祭、常に十一月を用い、各牛一・雞三を用う。又王神四を立て、歳二祭、常に八月・十月を用い、各羊一を用う。又献明以上の立てし所の天神四十所を置き、歳二祭、亦八月・十月を用う。神尊きは馬を以てし、次は牛を以てし、小は羊を以てし、皆女巫行事す。又雲中及び 盛楽 せいらく の神元旧都にて神元以下七帝を祀り、歳三祭、正・冬・臘を用い、馬牛各一を用い、祀官侍祀す。明年春、帝始めて籍田に躬耕し、先農を祭り、羊一を用う。日を東郊に祀り、騂牛一を用う。秋分に月を西郊に祭り、白羊一を用う。

天賜二年夏四月、復た西郊にて天を祀り、方壇一を為し、其上に木主七を置く。東は二陛と為し、等無し。周垣四門、門各其の方色に依りて名と為す。牲は白犢・黄駒・白羊各一を用う。祭の日、帝大駕に御し、百官及び賓国諸部の大人畢く従いて郊所に至る。帝は青門内近く南壇の西に立ち、内朝臣は皆帝の北に位し、外朝臣及び大人は咸く青門の外に位し、后は六宮を率い黒門より入り、青門内近く北に列し、並びに西面す。廩犠令は牲を掌り、壇前に陳ぶ。女巫は鼓を執り、陛の東に立ち、西面す。帝の十族の子弟七人を選び酒を執らしめ、巫の南に在り、西面し北上す。女巫壇に升り、鼓を揺る。帝拝し、后は肅拝し、百官内外尽く拝す。祀訖り、復た拝す。拝訖り、乃ち牲を殺す。酒を執る七人は西に向かい、酒を以て天神の主に灑ぎ、復た拝す、此の如きこと七たび。礼畢りて返る。是より以降、歳一祭。

太宗永興三年三月、帝は武周・車輪の二山に禱る。初め清河王紹は太祖に寵有り、性凶悍なり、帝は毎に義を以てこれを責むるも、従わず。帝は其の変を懼れ、乃ち山上にて天地神祇に福を祈る。即位の壇兆に及び、後因って以て常祀と為し、歳一祭、牲は牛を用い、帝は皆親しく之れにし、常日無し。

翌年、太祖廟を白登山に建立した。毎年一回祭祀を行い、太牢を供え、皇帝自ら参列したが、定まった月はなかった。皇天上帝を併せ祀り、山神を配祀とし、旱魃の際には祈願し、多く効果があった。この年、詔を下して郡国に、太祖が巡幸した行宮の地に各々壇を立て、太牢を用いて祭祀を行い、毎年一回祭祀とし、皆牧守が侍祀するようにした。また宮中に太祖の別廟を立て、年に四回祭祀を行い、牛・馬・羊を各一頭用いた。さらに宮内に天・日・月の神及び諸小神二十八所を増設し、年に二回祭祀を行い、各々羊一頭を用いた。後二年、白登の西、太祖がかつて遊行した地に、昭成帝・献明帝・太祖の廟を立て、常に九月と十月の境に、皇帝自ら祭祀を行い、犠牲に馬・牛・羊を用い、また自ら貙劉の礼を行った。別に天神など二十三の神を廟の左右に置き、その神の大きいものには馬を、小さいものには羊を用いた。華陰公主は皇帝の姉であり、元紹が叛逆した際、保護の功績があったため、別にその廟を太祖廟の垣の後ろに立て、祭祀の際に供物を薦めた。また雲中・盛楽・金陵の三箇所に、各々太廟を立て、四季に祀官が侍祀した。

泰常三年、四郊に五精帝の兆域を設け、遠近に五行の数に依った。各々方壇で四陛とし、埒壝を三重とし、四門を通した。太皡など及び諸佐神を随えて配祀した。黄帝を侑祭し、常に立秋の前十八日に行った。残る四帝は、各々四立の日に祭祀した。犠牲は各々牛一頭を用い、有司がこれを主宰した。また六宗・霊星・風伯・雨師・司民・司禄・先農の壇は、皆別の兆域を持ち、祭祀には定まった日があり、犠牲には少牢を用いた。立春の日、有司を遣わして東郊で春を迎え、祭祀には酒・脯・棗・栗を用い、犠牲と幣帛はなかった。また桑乾水の北に五岳四瀆の廟を立て、春秋に有司を遣わして祭祀を行い、犠牲と幣帛があった。四瀆には犠牲のみを用い、古の望秩に準じた。その他の山川及び海若などの神で州郡にあるものは、合わせて三百二十四所あり、毎年十月、祀官を遣わして州鎮を遍く祭祀した。水旱の災害や疫病があれば、牧守が各々その管轄内で祈願し、その祭祀には皆犠牲を用いた。王畿内の諸山川は、皆祭祀の順序を列ねて祭り、もし水旱があれば祈願した。

翌年八月、帝が白登廟で嘗祭を行い、熟饌を薦めようとした時、神異があった。太廟博士の許鍾が上言して言うには、「臣は聞く、聖人は帝を饗え、孝子は親を饗えると。伏して惟うに、陛下の孝誠の極みは、神明に通じている。近頃太祖廟で、車騎の音声があり、北門から入り、殷殷轞轞と響き、門闕を震動させ、執事者は皆粛然として慄いた。これは国祚が永く隆盛となる兆しであり、天下に告げ、聖徳の深遠さを皆に知らしめるべきである。」

辛未、代に幸し、雁門関に至り、恒岳を望祀した。後二年九月、橋山に幸し、有司を遣わして黄帝・唐堯の廟を祀った。翌年正月、南巡して恒岳に至り、太牢を用いて祭祀した。 洛陽 らくよう に幸し、使者を遣わして太牢を用いて嵩高・華岳を祀った。還って太行に登った。五月、洛陽から帰還し、通過した諸山川を群祀した。後三年二月、国学で孔子を祀り、顔淵を配祀した。

神䴥二年、帝が 蠕蠕 じゅんじゅん を征討しようとし、郊祀の儀礼を簡略化した。四月、小駕で天神を祭祀し、終わると、帝は自ら軍を率いた。大勝して帰還し、祖廟と禰廟に至って報告し、群神に遍く告げた。

九月、密皇太后の廟を ぎょう に建立した。后の故郷である。祀官として太常博士・斎郎三十余人を置き、侍祀させ、年に五回祭祀を行った。

太延元年、恒岳・華岳・嵩岳の上に廟を立て、各々侍祀九十人を置き、歳時に水旱を祈祷した。その春秋の泮涸には、官を遣わして 刺史 しし を率い、犠牲を用いて祭祀し、玉幣があった。

魏の先祖が幽都に居住していた時、烏洛侯国の西北に石を穿って祖宗の廟を造った。その後南遷し、その地は遠く隔たった。真君年間、烏洛侯国が使者を遣わして朝献し、石廟は以前のままであり、民が常に祈請し、神験があると述べた。その年、 中書 ちゅうしょ 侍郎の李敞を石室に遣わし、天地に告祭し、皇祖と先妣を配祀した。祝文は曰く、「天子燾謹んで敞らを遣わし、駿足・一元大武を用いて敢えて皇天の霊に昭告す。開闢の初めより、我が皇祖を彼の土田に祐け給う。億年を歴載し、遂に南遷せり。惟れ祖惟れ父、 中原 ちゅうげん に光宅す。凶醜を克く翦ぎ、四辺を拓定す。冲人業を纂ぎ、徳声彰えず。豈に幽遐と謂わんや、稽首して来王す。旧廟の毀れず亡びざることを具に知る。悠悠たる懐い、余光を希い仰ぐ。王業の興り、皇祖より起る。綿綿たる瓜瓞、時に惟れ多祜なり。敢えて丕功を以て、天に配饗せん。子子孫孫、福祿永く延えん。」敞らは祭祀を終えると、樺の木を斬って立て、犠牲の体を置いて帰還した。後に立てた樺の木が生長して林となり、その民は益々神として奉じた。皆、魏国が霊祇の応を感得したと謂った。石室は南、代京からおよそ四千余里である。

翌年六月、 司徒 しと の崔浩が奏議した。「神祀は多く経典に合わず、祀典に宜しいとされる祭祀を案ずるに、凡そ五十七所である。その他重複及び小神は、皆廃止を請う。」奏は許可された。

十一年十一月、世祖が南征し、恒山を経由し、太牢を用いて祭祀した。河・済を渡り、少牢を用いて祭祀した。岱宗を過ぎ、太牢を用いて祭祀した。魯に至り、太牢を用いて孔子を祭った。遂に江に臨み、瓜歩に登って帰還した。

文成皇帝が即位し、二年正月、有司を華岳に遣わし、廟を修築し碑を建立させた。数十人が山上にいた時、虚空の中に音声があるかのように聞こえ、その声は万歳と称したという。

和平元年正月、帝が東巡した。橋山を歴て、黄帝を祀り;遼西に幸し、医無閭山を望祀した。遂に海沿いに西南へ進み、冀州に幸し、北は中山に至り、恒岳を過ぎ、その神を礼拝して戻った。翌年、帝が南巡し、石門を過ぎ、使者を遣わして玉璧と犠牲を用い、恒岳を礼拝した。

四月に旱魃があり、詔を州郡に下し、その管轄内の神は大小を問わず、悉く酒掃し酒脯を供えるようにした。豊作の後は、各々本来の秩に従い、犠牲を用いて祭祀するようにした。ここに至り、群祀で先に廃止されていたものは皆復活した。

顕祖の皇興二年、青徐が既に平定されたので、中書令兼太常の高允を遣わし、玉幣を用いて東岳に祀り、太牢を用いて孔子を祀らせた。

高祖の延興二年、有司が奏上したところ、天地五郊・ 社稷 しゃしょく 以下及び諸神は、合わせて一千七十五所あり、年間に用いる犠牲は七万五千五百頭である。顕祖は生命を深く哀れみ、詔して曰く、「朕は天を承け神に事え、以て群品を育むが、咸秩する処広く、用いる犠牲甚だ衆し。夫れ神は聰明正直にして、徳と信を饗える。何ぞ必ずしも犠牲に在らんや。易に曰く、『東隣の牛を殺すは、西隣の礿祭に如かず、実に其の福を受く。』もし誠の感に著るものあらば、行潦の菜羹と雖も、以て大嘏を致すべし。何ぞ必ずしも多く殺し、然る後に祉福を獲んや。其れ有司に命じ、天地・宗廟・社稷の祭祀に非ざれば、皆犠牲を用いること無からしめよ。」ここにおいて群祀は悉く酒脯を用いるようになった。

先に、 長安 ちょうあん の牧守は常に周の文王・武王の廟で祭祀を行っていた。四年、地を掘って犠牲を埋めたところ、廟の玉が現れた。四月、詔を下して東陽王丕に文・武二廟を祭らせた。廟の玉が露出して見えたため、もしそのまま埋め戻せば、あるいは愚かな民が盗みを働く恐れがあるとして、近くの役所に命じてこれを府庫に収蔵させた。

六月、顕祖は西郊の旧例について、毎年木主を七つ増やし、世代が変われば新たに兆域を設けるが、その事は神明に対して益がないとして、初めて前の儀礼を改め、木主七つを定めて置き、郊外の場所に碑を立てた。

太和二年、旱魃があった。帝は苑中において皇天・日月五星に自ら祈り、祭祀の夕方に大雨が降ったので、京師に赦令を下した。

三年、帝は北苑で祈り、また苑中で星辰を祈った。

六年十一月、帝は自ら七廟を祀ろうとし、有司に命じて礼に基づき儀式を整えさせた。そこで群官が議して言うには、「昔、有虞氏が親しく虔しく祭祀すると、祖考が来臨された。殷の宗(高宗)が自ら謁すると、大いなる福が降った。大魏の七廟の祭祀は、先朝の旧例に依り、多くは親謁しない。今、陛下の孝誠が内から発し、親しく祭祀を行うことを思い、古の王者の礼の常典に合致する。臣らは謹んで旧章を案じ、併せて漢魏の故事を採り、祭服・冠履・牲牢の具、罍洗・簠簋・俎豆の器、百官の助祭の位次、楽官の節奏の引、昇降進退の法を撰し、別に親拜の儀として集めた」。詔して許可した。そこで帝は自ら祭祀を行った。その後、四時の常祀は皆、帝が親しく行った。

十年四月、帝は初めて法服を着て輦に乗り、西郊で祭祀を行った。

十二年閏九月、帝は自ら南郊に円丘を築いた。

十三年正月、帝は大駕をもって円丘で祭祀を行った。五月庚戌、車駕は方沢で祭祀を行った。壬戌、高祖は皇信堂に臨み、群臣を引見した。詔して言うには、「礼記祭法に『有虞氏は黄帝を禘す』と称する。大伝に『その祖の出づる所を禘す』と言い、また『王ならざれば禘せず』と称する。論語に『禘は既に灌ぐより』と言う。詩頌に『長発、大禘なり』とある。爾雅に『禘は大祭なり』と言う。夏殷の四時祭は、礿・禘・烝・嘗であり、周は禘を礿に改めた。祭義に『春禘・秋嘗』と称するのも、夏殷の祭である。王制に『犆礿・祫禘・祫嘗・祫烝』と称する。その礼の伝わる文はこのようである。鄭玄が禘を解釈すると、天子が円丘を祭ることを禘と言い、宗廟の大祭もまた禘と言う。三年に一度祫祭、五年に一度禘祭を行う。祫は則ち群れの毀廟の主を太廟に合せ、合わせて祭る。禘は則ち百官の配食者にまで及び、審らかに諦めて祭る。天子は先に禘祫を行い、後に時祭を行う。諸侯は先に時祭を行い、後に禘祫を行う。魯の礼は、三年の喪が終わって祫を行い、明年に禘を行う。円丘・宗廟の大祭はともに禘と称し、祭に両禘があるのは明らかである。王肅が禘祫を解釈すると、天子諸侯は皆、宗廟において禘を行うと言い、天を祭る祭ではない。郊祀で后稷を祀るのは禘と称さず、宗廟を祀るのを禘と称する。禘・祫は一つの名であり、合わせて祭る故に祫と称し、審らかに諦める故に禘と称するのであって、二つの祭の名ではない。三年に一度祫、五年に一度禘とは、総じて互いに挙げたものであり、故に五年に再び殷祭と称するのであって、一禘一祫とは言わない。断じて知ることができる。礼文の大略、諸儒の説は、尽くここに具わる。卿らは便ちにその是非を議せよ」。

尚書 しょうしょ 游明根・左丞郭祚・中書侍郎封琳・著作郎崔光らが対えて言うには、「鄭氏の義によれば、禘は大祭の名である。大祭で円丘を祭るのを禘と言うのは、五精星辰を審らかに諦めるためである。大祭で宗廟を祭るのを禘と言うのは、その昭穆を審らかに諦めるためである。円丘は常に合祭するので祫と言わず、宗廟は時に合祭する故に祫と言う。これが則ち宗廟では祫禘を並行し、円丘では一禘のみである。宜しく宗廟においてともに禘祫の礼を行うべし。二つの礼は異なる故に名が殊なる。礼に依れば、春は犆礿を廃し、嘗と烝においては祫を行うのであって、三時に皆、禘祫の礼を行わない」。 中書監 ちゅうしょかん 高閭・儀曹令李韶・中書侍郎高遵ら十三人が対えて称するには、「円丘を禘祭する禘は鄭義と同じであり、その宗廟の禘祫の祭は王義と同じである。鄭義と同じとする者は、有虞氏が黄帝を禘したが、黄帝は虞の廟にある帝ではなく、廟に在らざれば、円丘でなくて何であろうか。また大伝がその出づる所の祖を称えるのも、また廟にある文ではない。論語が『禘は既に灌ぐより』と言うのは、事は灌に拠るようである。爾雅が『禘は大祭なり』と称し、頌の『長発、大禘なり』は殷王の祭である。これらは皆、諸侯の礼ではなく、諸侯には禘はない。礼は夏殷のみで、夏祭を禘と称するが、また宗廟の禘ではない。魯は天子の儀を行い、専ら円丘の禘を行うことを敢えず、殷の禘を改め、その禘の名を宗廟に取り、先に祫があったために、遂に両名が生じた。王氏の義に拠れば、祫して禘祭する故に禘祫と言い、総じて再殷祭と称し、異ならないことを明らかにする。禘祫は一つの名である。その禘祫は一時に止まり、一時に止まるのは、祭は数多く行うことを欲せず、数多ければ則ち みだり になるからである。一年に三度禘を行うのは、愚かには過数であると為す」。

帝は言う、「尚書・中書らは、二家の義に拠り、禘祫について詳しく論じた。然れども行事に取って衷を得るには、猶お未だ允ならざるものがある。監らは禘祫を名と為し、義は王氏と同じとし、円丘を禘祭する事は鄭と同じである。間然とする所はない。尚書らは鄭氏と同じとし、両名両祭として、併存併用するが、理に未だ称せざるものがある。ともに二義に拠り、一時に禘祫を行い、而して二時の禘を欠くのは、事に従い難きものがある。夫れ先王が礼を制するは、内には人子の情に縁り、外には尊卑の序に協う。故に天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟とし、数が尽きれば則ち毀ち、主を太祖の廟に蔵し、三年にして祫祭する。世が尽きれば則ち毀ち、終わり有るの義を示し、三年にして祫し、追遠の情を申べる。禘祫は既に一つの祭であるのに、分けて両つと為すのは、事に拠る所がない。毀廟は三年に一度祫し、また四時を尽くさず、礼において欠ける。七廟の四時常祭は、祫は則ち三年に一度の祭であり、また四時を究めず、情において簡略である。王は禘祫を一つの祭と為し、王義は長である。鄭は円丘を禘と為し、宗廟の大祭と同名とし、義も亦た当たりである。今、互いに鄭・王の二義を取る。禘祫は併せて一名と為し、王に従う。禘は円丘を祭る大祭の名と為し、上下ともに用い、鄭に従う。若し数多ければ則ち黷となるを以てすれば、五年に一度禘し、祫を改めて禘に従う。五年に一度禘すれば、則ち四時尽く禘し、今の情に称する。禘は則ち礼文に依り、先に禘し、後に時祭する。便ちに施行し、之を令に著し、永く世の法と為せ」。

高閭が言うには、「書経に『肆類于上帝、禋于六宗』とある。六宗の祭祀については、礼に明文がなく、その名称・位階・祭壇・場所は、歴代疑問とされてきた。漢・魏・晋の諸儒の異説は、天地四時とするもの、六者の間とするもの、易の六子とするもの、風雷の類とするもの、星辰の属とするもの、世代の宗とするもの、宗廟の尚ぶところとするもの、社稷五祀とするものなど、凡そ十一家に及ぶ。晋以来、聖代に至るまで、論者は多いが皆何か欠けており、詳らかに究めることができなかった。そこで互いに承け継いで、別に六宗の兆域を立て、総べて一位としてこれを祭ってきた。先ごろ臣らに評議して折衷を求め、祀典に附するよう命ぜられた。臣らは旨を承り、往時の説を披き究めたところ、それぞれに理がある。較べて論ずれば、長短互いにあり、もし偏って一家を用いれば、事に差錯あるかもしれない。衆に疑わしきは多きに従い、今惑うところは古に仍う。先に別に処した六宗の兆域に依り、総べて一祀としてこれを祭ることを請う。」帝が言うには、「朝令を詳定するに、祭祀は事の首たるもの。疑わしきを以て疑わしきに従うのでは、何を以て正しきを取るというのか。昔の石渠・虎閤の議は、皆類を準えて義を引き、事を原いて情を証し、故に百家の要を通じ、累世の疑を定めることができた。況んや今は文に拠るべきものがあり、本を推すべきものがあるのに、評して定めずして、その致すところはどこにあるのか。朕自ら尚書の文を覧るに、『肆類上帝、禋於六宗』と称し、文は相連属し、理は一事の如し。上帝には肆と称して禋はなく、六宗には禋と言ってその名を別たない。これによって推すに、上帝と六宗とは当に一時の祀であって、別祭の名ではない。肆類は独り祭りの目ではなく、焚煙は他祀の用ではない。六宗とは、必ずや天皇大帝及び五帝の神明であろう。禋は帝を祭る事であるから、禋を称して他のものを関し、故に六を称してこれを証するのである。然らば肆類上帝、禋于六宗とは、一つの祭りであり、互いに挙げてこれを成すのである。今円丘を祭れば、五帝はそこにおり、その牲幣ともに禋する故に、肆類上帝、禋于六宗と称するのである。一祭にして六祀備わる。六祭既に備われば、復た別に六宗の位を立てる煩わしさはない。便ちこれに依って令に附し、永く定法とすべきである。」

十四年八月、詔して曰く、「丘沢の初志、配尚宜しく定むべし。五徳相襲い、分敍常あり。然れども異同の論、往漢に著わり、未詳の説、今史に疑わしい。群官百辟、議すべしその応ずる所を、必ず衷に合わしめ、以て万代の式と成すべし。」

中書監 ちゅうしょかん 高閭が議して以爲うには、「帝王の作、百代知るべく、運代相承け、書伝験うべし。祚命長短あり、徳政優劣あれども、受終厳祖し、殷に上帝を薦ぐるに至っては、その致すところ一なり。故に敢えてその前載を述べ、その大略を挙ぐ。臣聞く、尊に居り極に据わり、明命に允応する者は、莫し中原を以て正統とし、神州を以て帝宅とせざるは。苟も位名全うし、化迹流洽すれば、則ち専ら世数を以て与奪とし、善悪を以て是非とせず。故に堯舜禅揖し、一身尚ぶ所異なり。魏 しん 相代わり、少しく紀運殊なり。桀紂至虐も、承歴の敍を廃せず。厲惠至昏も、周 しん の録を闕かず。五徳の論を計るに、漢の劉に始まり、一時の議、三家別を致す。故に張蒼は漢を以て水徳とし、賈誼・公孫臣は漢を以て土徳とし、劉向は漢を以て火徳とす。水徳とする者は、正に嘗て水溢の応有りを以てし、則ち運代相承の数を推さず。土徳とする者は、則ち亡秦歴を継ぎ、相即ち次と為すを以てし、逆順の異を推さず。火徳とする者は、赤帝斬蛇の符を懸証し、秦の暴を棄て、悪を越えて善を承け、世次を以て正とせず、故に周を承くを以て火徳とす。これより厥後、乃ち以て常と為す。魏は漢を承く、火土を生ず、故に魏は土徳。 しん は魏を承く、土金を生ず、故に しん は金徳。趙は しん を承く、金水を生ず、故に趙は水徳。燕は趙を承く、水木を生ず、故に燕は木徳。秦は燕を承く、木火を生ず、故に秦は火徳。秦の未だ滅びざるや、皇魏未だ神州を克たず。秦氏既に亡びて、大魏玄朔に制を称す。故に平文の廟、始めて『太祖』と称し、以て受命の証を明らかにす、周の岐の陽に在るが如し。若し しん を継げば、 しん 亡びて已久し。若し秦を棄てれば、則ち中原寄る所有り。これを推して言えば、秦を承くるの理、事明らかなる験なり。故に魏を以て秦を承け、魏を土徳とす。又五緯表験し、黄星彩を曜き、氏を考へ実を定むれば、軒轅に徳を合わし、土を承ぎ未を祖とす、事著わりなり。又秦・趙及び燕は、明聖に非ざれども、各々正号して赤県し、中土を統べ、天を郊し地を祭り、肆類咸く秩あり、刑を明にし礼を制し、旧章を失わず。岱を奄い河を踰え、境淮漢に被る。齷齪たる辺方、僭擬の属の若くは非ず、遠くは孫権・劉備の如く、近くは劉裕・道成の如き、事蛮夷に係り、中夏に関せず。伏して惟うに、聖朝、徳天地に配し、道四海に被り、乾を承け暦を統べ、功百王に侔う。光格唐虞に同じく、享祚周漢に流れ、正位中境し、万方を奄有す。今若し三家を併せ棄て、遠く しん 氏を承くれば、則ち中原正次の実を蔑ろにす。これを存するは此れに損無くして、彼に成り有り。これを廃するは今に益無くして、事に傷り有り。臣愚かに以爲うには、宜しく尚黄に従い、土徳と定むべし。又前代の君、明賢の史は、皆その褒むべきに因りてこれを褒め、貶すべきに因りてこれを貶す。今議者は偏に絶つべきの義に拠りて、全うすべきの礼を録せず。論ずる所の事大なり、万葉に垂る。宜しく並びに中秘の群儒を集め、人人別に議し、その長ずる所を択び、理を悉くすべし。」

秘書丞の臣下李彪、著作郎の崔光らが議して、『尚書の閭の議は、秦氏に近いことを継ぐものである。臣らは国史を職掌し、前代の書を広く覧るにつけ、この正統の次第を惜しみ、かの非正統の系緒を慨く。ここに仰いで帝の始めを推し、遠く百王を尋ねる。魏は国を建て民を治めて以来、その兆しは古に振るい、黄帝を祖とし暦を制し、その跡は因って連綿としている。しかしこの帝業は、神元皇帝を首とする。案ずるに神元皇帝と晋の武帝は、往来して和好した。桓帝・穆帝に至っては、洛陽の都が破れ滅亡した。二帝は劉聡・石勒を挫く志を持ち、晋氏を存続せんと思い、常に劉琨を助け、 并州 へいしゅう ・冀州に威を伸ばした。これにより晋室は扶救の仁を感戴し、越石(劉琨)は代王に封じる請いを深くした。平文皇帝・太祖(道武帝)は、苻氏・石氏に対抗し、ついに燕氏を平定し、中原の地を大いに造った。すなわち司馬氏の祚は郟鄏(洛陽)で終わり、元氏は雲中・代の地で天命を受けたのである。周が滅びてから漢が正号を称するまで、およそ六十年、その符瑞はなお赤色を尚んだ。後に張蒼・賈誼の異議があったが、一時疑われたものの、ついに火徳に従い、周氏を継いだ。虐げる嬴秦を共工に比べ、暴虐な項羽を呉広と同様に蔑んだ。近くは謬偽を除き、遠くは神正に即したのであり、このように明らかなのである。どうして白蛇を斬っただけのことがあり、彫雲が空しく結ばれることがあろうか。晋が傾き滅んで以来、登国に至って国号を始めるまで、またおよそ六十余年の歳月が経ち、物の色や旗幟は多く黒に従った。これまた自然に合い応じ、漢の始めと玄妙に同じなのである。かつて秦は天下を併せ、法度を革創し、漢はその制度を因襲し、少しも変易しなかった。それでもなお五運を推し仰ぎ、ついに隆盛なる周を継いだ。ましてや劉氏・石氏・苻氏・慕容燕などは、世業が短促で狭く、綱紀が立たなかった。魏はその弊を受け継ぎ、自ら常典を持っているのであり、どうして漢が木徳を承けたのと異なり、晋を捨てて土徳となろうか。皇統は崇高極まりなく、運を承けることは至って重い。必ずや天の緒を推し協わせ、王の次第を考審すべきであり、僭窃を混ぜ、強狡を参ずることはできない。神元皇帝は既に晋の武帝と同時代であり、桓帝・穆帝は懐帝・愍帝の時代に接している。晋室が滅んだとき、平文皇帝から始めて大いになり、廟号を太祖としたのも、また理由がある。晋を継いで徳を定めること、誰が不可と言えよう。しかるにこの偽僭の次第に従おうとするのは、まさに惑いではないか。臣らが慺慺として惜しむ所以であり、どうかご垂察ご採択あらんことを』と上奏した。詔を下して群官に議させた。

十五年正月、 侍中 じちゅう 司空 しくう ・長楽王穆亮、侍中・尚書左 僕射 ぼくや ・平原王陸叡、侍中・吏部尚書・中山王王元孫、侍中・尚書・駙馬都尉・南平王馮誕、 散騎常侍 さんきじょうじ ・都曹尚書・新泰侯游明根、 散騎常侍 さんきじょうじ ・南部令鄧侍祖、秘書中散李愷、尚書左丞郭祚、右丞・覇城子 えい 慶、中書侍郎封琳、中書郎・泰昌子崔挺、中書侍郎賈元寿らが言上した。『臣らは詔勅を受け、 中書監 ちゅうしょかん 高閭・秘書丞李彪ら両名の議した皇魏の行次について共に議する。尚書高閭は、石氏が晋を承けて水徳とし、燕が石を承けて木徳とし、秦が燕を承けて火徳とし、大魏が秦の次で土徳となるとし、いずれも地勢で中夏を占めることを以て、正統を得た徴証とした。皇魏が国号を建てた事績は、秦の末期に接し、晋が既に滅亡した後、天命は我に在る。故に中原に寄る所あり、即ちこれを承けたのである。彪らは、神元皇帝が晋の武帝と同時代であり、桓帝・穆帝の二帝がなお旧好を修め、平文皇帝より始まり、太祖に至るまで、秦・趙と抗衡し、ついに慕容氏を平定した。晋の祚は秦の地で終わり、大魏は雲中・朔方の地で興った。漢が秦を棄てて周を承げた義に拠り、皇魏が晋を承けて水徳となるとする。両家の論は、大略このようである。臣らは謹んで共に参酌して論じるに、伏して思うに皇魏は代々北辺に王たり、下って魏・晋に至り、趙・秦・二燕は地勢で中華を占めたとはいえ、その徳と祚は微かで浅く、ともに推挙して叙することは、理に適っていない。また国家は徳を積み修めること長く、道は万載に光る。彪らは東観を職掌とし、図史を詳しく究め、拠るところの理は、その致すところ奪い難い。今、彪らの議に従い、晋を承けて水徳とすべきである』。詔して曰く、『近きを越えて遠きを承ぐは、心情として安んじられない。しかし次第を考え時を推すに、はなはだ継ぎ難い。朝賢の議する所、朕どうして違背し奪うことができようか。よろしく水徳に依るべく、祖を申に臘を辰とせよ』。

四月、明堂の造営を始め、太廟を改めて営んだ。詔して曰く、『祖は功有り、宗は徳有り。功徳の厚くない者は、みだりに祖宗の名を擅にし、二祧の廟に居ることはできない。仰ぎて惟うに先朝の旧事は、舛駁して同じからず、取って準とし難い。今、先志に述べ遵い、礼典を詳らかに具え、祖宗の号を制し、将来の法を定めんとす。烈祖(道武帝)には創基の功が有り、世祖(太武帝)には開拓の徳が有る。祖宗と為すに宜しく、百世遷さず。しかし遠祖の平文皇帝の功は昭成皇帝より多くはないのに、廟号を太祖とした。道武帝の業を建てた勲は、平文皇帝より高く、廟号を烈祖とした。功を比べ徳を較べるに、未だ允当でないと思われる。朕は今、道武を奉り尊んで太祖とし、顕祖(献文帝)とともに二祧とし、その余は次第に遷す。平文が既に遷されれば、廟は唯六つとなり、今より七廟とすれば、一つは主無きこととなる。ただ朕の身においてこの事を行うほかはなく、これまた臣子の言い難きところである。生には必ず終わり有り、人の常理である。朕は不徳を以て、洪緒を忝くも承け、もし宗廟の霊により、首領を全うして地に没し、昭穆の次第を得ることができれば、心願は畢わる。必ずしも予め設けることはできず、もし文を垂れることができれば、後世に示して必ず遷すことを令せよ』。 司空 しくう 公・長楽王穆亮らが奏言した。『昇平の会は、事は今に在り。功を推し徳を考うるに、実に明旨の如し。但し七廟の祀は、備わって行わるること日久しく、一つを欠くべきではなく、虚しく待つべきではない。臣らの愚見では、先に尊び祀った通りにし、文を垂れて後世に示すことができる。理はこのようであり、敢えて言わざるを得ない』。詔して曰く、『理は或いはこのようである。比来間隙有り、当に文を為して相示すべし』。

八月壬辰、郡国に時果を薦むべきもの有れば、並びに京師に送り、以て廟饗に供えしむることを詔す。

また詔して曰く、『礼に云う、外より至る者は、主なければ立たず。先朝以来、正月の吉日に、朝廷に幕を設け、中に松柏の樹を置き、五帝の坐を設く。これは既に祖配すべきもの無く、古典に揆うるに、実に取る所無し。この祀りを去るべし。また探策の祭は、既に礼典に非ず、悉く罷むべし』。

戊午、詔して曰く、『国家は先朝以来、諸神を饗祀すること、凡そ一千二百余処に及ぶ。今、群祀を減省し、務めて簡約に従わんとす。昔、漢の高祖の初め、祀る所の衆神及び寝廟は、今日より少なくなかった。元帝・成帝の際に至り、匡衡が論を執り、乃ち減省を得た。後に光武帝の世に至り、礼儀始めて備わり、饗祀に序有り。凡そ祭は数多くすべからず、数多ければ則ち みだり なり、黷れば則ち敬ならず。神は聰明正直にして、煩わしい祀りを待たないのである』。また詔して曰く、『明堂・太廟には、並びに祖宗を祀り、配祭配享すること、ここに備わる。白登・崞山・鶏鳴山の廟は、唯だ有司に行事を遣わすのみ。馮宣王(馮熙)は先后(文明太后)を生み、また長安に在官した因縁により、廟を立てることは常等に異なるべきである。雍州に勅し、時に供祭せしむべし』。また詔して曰く、『先に恒に水火の神四十余名及び城北の星神有り。今、円丘の下に、既に風伯・雨師・司中・司命を祭り、明堂に門・戸・井・竈・中霤を祭り、毎神皆これ有り。この四十神は計らうに立つ須い無く、悉く罷むべし』。

甲寅の日、群官を集め、詔して曰く、「近頃、朝日と夕月の礼について論じたところ、皆、二分の日を用いて東西の郊で礼を行おうと欲する。然るに月には閏月があり、運行は常の基準に依らない。もし一様に分日に依れば、或いは月が東に出るのに、礼を西で行うこととなり、情理を尋ねれば、施行すべからざるものなり。昔、秘書監の薛謂らが嘗てこの事を論じ、朝日は朔に、夕月は朏にすべしと為した。卿らは朔朏と二分と、いずれを是と為すか」と。尚書の游明根が対えて曰く、「旧式を考案し、衆議を推校するに、朏月に従うべし」と。

十一月己未朔、帝は太和廟において禫祭を釈す。帝は袞冕を着け、祭に与る者は朝服を着る。既にして帝は黒介幘を冠り、素紗の深衣を着て、山陵を拝し、還って宮に入る。庚申、帝は親しく斎宮の冠服及び郊祀の俎豆を省みる。癸亥冬至、円丘を祭らんとし、帝は袞冕・剣・舄を着け、侍臣は朝服を着る。太和廟に辞し、円丘に至り、登って柴燎を祭り、遂に明堂を祀り、大合する。既にして太和廟に還り、乃ち入る。甲子、帝は袞冕を着けて太和廟に辞し、太華殿に臨み、群官を朝す。既にして帝は通天冠を冠り、絳紗袍を着て、饗礼に臨む。帝は感慕し、楽懸を設けて作さず。丁卯、廟を遷し、冕服を陳列し、帝は躬ら之を省みる。既にして帝は袞冕を着け、太和廟に辞し、太廟に至り、百官は陪従す。神主を斎車に奉じて、新廟に至る。有司は神主を太廟に升せしめ、諸王侯牧守・四海の蕃附、各その職に依り来祭す。

十六年正月戊午、詔して曰く、「夫れ四時の享祀は、人子の常道なり。然れども祭薦の礼は、貴賤同じからず。故に邑有るの君は、首時に祭り、田無きの士は、仲月に薦む。況や七廟の重きにおいて、中節を用いんや。頃より蒸嘗の礼、頗る旧義に違う。今、仰ぎて遠式に遵い、此の孟月を以て、太廟に犆礿せんとす。但し朝典初めて改まり、衆務殷く湊し、斎潔に遑あらず、遂に今日に及ぶ。又、神を接ぎ祖を饗うるには、必ず日を択ばざるべからず。今、礼律未だ宣べず、有司或いは此れを知らず。太常に勅して、日を剋して以て聞かしむべし」と。

二月丁酉、詔して曰く、「夫れ聖を崇び徳を祀るは、遠代の通典なり。秩□□□は、中古の近規なり。故に三五の至仁は、唯だ徳を以て配享し、夏殷の私己は、稍々其の姓を用う。且つ法を民に施すは、祀るに明典有り、功を立て恵を垂るるは、祭るに恒式有り。斯れは異代同途、弈世共軌なり。今、遠く明令に遵い、旧則を憲章し、祀令に比すれば、已に之を決す。其の孟春に応に祀るべき者は、頃に事殷なるを以て、遂に今日に及ぶ。仍びて仲月を以て饗祀せしむべし。凡そ祀令に在る者は、其の数五有り。帝堯は則天の功を樹て、巍巍の治を興す、平陽に祀るべし。虞舜は太平の風を播き、無為の化を致す、広寧に祀るべし。夏禹は洪水の災を禦ぎ、天下の利を建つ、安邑に祀るべし。周文公は礼楽を制し、範を万葉に垂る、洛陽に祀るべし。其の宣尼の廟は、已に中省に在り、別に有司に勅すべし。饗薦の礼は、文公已上より、当界の牧守に令し、各随所近く、祀事を摂行せしめ、皆清酌尹祭を用うべし」と。

丙午、有司に詔して吉亥を剋し、小駕を備え、躬ら千畝に臨ましむ。官別に勅有り。

癸丑、帝は宣文堂に臨み、儀曹尚書劉昶・鴻臚卿游明根・行儀曹事李韶を引き、策を孔子に授け、文聖の おくりな を崇む。ここにおいて昶らは廟に就きて事を行ふ。既にして、帝は中書省に斎し、親しく廟に拝祭す。

九月甲寅朔、明堂に大享し、玄室に文明太后を祀る。帝親しく之が詞を為す。

十月己亥、詔して曰く、「夫れ先王礼を制するは、以て万代を経綸し、法を後昆に貽す所以なり。乃ち天を郊り祖を享くるに至りては、配祭せざる莫く、然れども節有り。白登の廟は、為有りて興り、昭穆次ならず。故に太祖には三層の宇有り、已降には方丈の室無し。又、常に季秋を用い、躬駕して虔を展べ、祀礼或いは褻慢の失有り、嘉楽頗る野合の譏に渉る。今、授衣の旦に明堂を享祭し、玄冬の始に太廟に烝を奉る。若し復た白登に致斎せば、便ち一月再駕と為り、事褻瀆を成す。二理を回詳し、一を省くべしと謂ふ。白登の高きは、未だ九室の美に若かず。幃次の華は、未だ清廟の盛の如くならず。将に彼の東山の祀を廃し、此の二享の敬を成さんと欲す。具に有司に勅し、但だ内典神する者を令し、祭事を摂行せしむべし。献明・道武は各廟称有り、具に旧式に依うべし」と。太宗諸帝より、昔より殿宇無く、因りて之を停む。

十八年、南巡す。正月、殷の比干の墓に次り、太牢を以て祭る。

三月、詔して西郊の祭天を罷む。

十九年、帝南征す。正月、車駕淮を済ぎ、太常に命じて祭を致さしむ。又詔して岱岳を祀らしむ。

二月癸亥、詔して曰く、「太和廟已に就けりと知る。神儀霊主、宜しく時に奉寧すべし。三月三日己巳を剋し、内に奉りて正廟に遷すべし。其の金墉を出づるの儀は、一に代都太和を出づるの式に準ず。新廟に入るの典は、近く金墉に至るの軌に依うべし。其の威儀鹵簿は、代廟を出づるが如し。百官の奉遷は、宜しく之を省くべし。但だ朝官四品已上、侍官五品已上及び宗室を令し奉迎せしむべし」と。

六月、相州刺史高閭表を上りて言ふ、「伏して惟ふに、太武皇帝は孝思の深誠を発し、渭陽の遠感に同じくし、鄴土が舅氏の故郷なるを以て、帰魂の旧宅有るが故に、密皇后の為に城内に廟を立て、歳時祭祀し、廟戸十家を置き、斎宮三十人を置く。春秋の烝嘗には、冠服を着して事に従い、刺史は威儀を具え、親しく薦酌を行い、升降揖譲は、七廟と儀を同じくし、礼畢れば、会を撤して罷む。今、廟殿は虧漏し、門牆は傾毀し、簠簋は故く敗れ、礼を行うに闕有り。臣は職司を備へ、目に親しく覩る。若し七廟惟新、明堂初制、配饗の儀、京邑に備はるを以てすれば、便ち応に罷壞し、其の常祭を輟むべし。若し功高く特立するを以てすれば、宜しく其の霊宇を新にすべし。敢へて所見を陳べ、伏して恩裁を請ふ」と。詔して之を罷む。

十一月庚午、帝は委粟山に行幸し、円丘の制定を議した。己卯、帝は合温室におり、咸陽王禧、 司空 しくう 公穆亮、吏部尚書・任城王澄および礼制を議論する官を引見した。詔して曰く、「公卿を朝に集め、円丘の礼について論じようとする。今、短き日影は極まり、長き日はまさに至らんとす。周官を案ずるに、昊天上帝を円丘に祀るは、礼の大なる者なり。両漢の礼には参差あり、魏晋もまた未だ一ならず。我が魏氏は、上は三皇に参じ、下は叔世(末世)を考うるも、近代の円丘を都で祭る礼は、復た周官を考へずして、不刊の法令となさず。この円丘を祭る礼を以て卿等に示し、諸賢とともにその衷を考へんと欲す」と。帝曰く、「夕牲の礼は、依拠すべき準則なく、近く代都に在りて、既にその議を立てたり。牲を殺し神に祼すは、誠に一日の事なり、終に夕べに牲を殺し、明くるを待ちて祭ることは無し」と。員外 散騎常侍 さんきじょうじ 劉芳対えて曰く、「臣謹みて周官牧人の職を案ずるに、正に夕べに牲を展べるの礼有り、実に牲を殺す事無し」と。秘書令李彪曰く、「夕べに牲を殺さざるは、誠に聖旨の如し。未だ廟に告ぐるや否やを審らかにせず。臣聞く、魯人将に上帝に事あらんとすれば、必ず先ず泮宮に事あり、注に曰く、『先人』と。これを推すに、廟に告ぐる応有るべし」と。帝曰く、「卿の言は理有り。但だ朕は先に郊配を以てし、告ぐるを廃せんと意欲す。而して卿の引証は拠り有り、卿の議に従うべし」と。

帝また曰く、「円丘の牲は、色に常の準則無し。古事を推し覧るに、乖互して一ならず。周家は騂を用い、解釈に是を尚ぶと言う。晋代は拠る所を知らず。舜の禹に命ずるや、悉く堯の辞を用い、復た玄牡を以て后帝に告ぐと言う。今我が国家は、時に夏正を用う。牲色に至りては、未だ何れを準とするか知らず」と。秘書令李彪曰く、「古に玄を用いるを観るに、天玄の義を取るに似たり。臣謂う、宜しく玄を用うべし。五帝に至りては、各々その方の色に象り、亦たその義有り」と。帝曰く、「天は何時か玄ならざる、地は何時か黄ならざる。意は玄に従わんと欲す」と。

また曰く、「我が国家は常に鼓を鳴らして衆を集む。易に称す、二至の日には、商旅行わず、后は方(四方)を省みず、以て微陽・微陰を助く、と。今もし旧に依りて鼓を鳴らさば、寢鼓の義を闕くこと無からんや」と。員外郎崔逸曰く、「臣、周礼を案ずるに、祭るべき日の当たるには、靁鼓靁鼗、八面にして作(鳴)らしむ、猶ほ陽を妨げず。臣窃かに謂う、鼓を以て衆を集むるは、古義を妨げず」と。

癸未、詔す。三公は衮冕八章、太常は鷩冕六章を用い、以て陪薦に用う、と。

甲申、長至(冬至)に、委粟山にて昊天を祀り、大夫を以て祭る。〈〉

二十年、河陰に方澤を立て、 なお 使者を遣わし太牢を以て漢の光武帝及び明帝・章帝の三帝の陵を祭らしむ。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻108之一