序
天地の形に似て生まれしもの、人を最霊と称す。その父子の道を知り、君臣の義を識るをもって、禽獣に異なる所以なり。伝に曰く、「人の生まるるに三あり、事うること一の如し」と。されば君臣父子、その道殊ならず。父は父たらざるべからず、子は子たらざるべからず、君は君たらざるべからず、臣は臣たらざるべからず。故に曰く、君は猶天のごとし、天に仇なすべけんや。ここをもって罪あれば刑に帰し、危うきを見ては命を授け、忠貞を竭くして節を立て、難に臨んで苟も免れざるなり。故にその風を聞く者は、慷慨を懐い、千載の後も、臣と為らんと願わざるは莫し。これその生栄え死哀しまれ、前哲に貴ばるるを取る所以なり。質を委ね名を策すに至り、卿を代え禄を世うし、出でては心膂の寄せを受け、入りては帷幄の謀に参じ、身は機衡に処しながら、趙高の姦宄を肆にし、世に権寵を荷いながら、王莽の桀逆を行い、生霊の仇疾する所となり、犬豕すらその余を食わざる者あり。社を薦げ宮を汚すと雖も、必ず誅すべき釁を彰し、棺を斲ち骨を焚くと雖も、篡殺の咎を明らかにす。もって既往を懲らすべけれども、未だ深く将来を誡むるに足らず。昔、孔子春秋を修めしに、乱臣賊子懼るるを知れり。抑々これ名を求むるを得ざらしめ、蓋いんと欲して却って彰れしむる者なり。今故にその罪名を正し、以て篇首に冠す。後の君子、作者の意を見んことを庶う。
宇文化及〈弟 智及〉
宇文化及は、左翊衛大将軍 宇文述の子なり。性兇険にして、法度に循わず、肥馬に乗り弾丸を挟み、道中を馳騖するを好み、ここにより長安、これを軽薄公子と謂う。煬帝、太子たる時、常に千牛を領し、臥内に出入りす。累遷して太子僕に至る。数たび貨賄を受納するをもって、再三官を免ぜらる。太子これを嬖昵し、俄かにして復職す。またその弟 士及をして南陽公主に尚せしむ。化及ここにより益々驕り、公卿の間に処し、言辞遜らず、多く陵轢す。人の子女・狗馬・珍玩を見れば、必ず請託してこれを求む。常に屠販の者と遊び、以てその利を規る。煬帝即位し、太僕少卿を拝し、旧恩を恃み、貪冒ことのほか甚だし。大業初、煬帝 榆林に幸す。化及と弟 智及、禁を違えて突厥と交市す。帝大いに怒り、これを数ヶ月囚う。青門外に還り至り、これを斬りて後に入城せんと欲す。衣を解き髪を辮るも、公主の故をもって、久しくして乃ち釈し、智及とともに述に賜いて奴と為す。述薨じたる後、煬帝これを追憶し、遂に化及を起して右屯衛将軍と為し、智及を将作少監と為す。
是の時、李密 洛口に拠る。煬帝懼れ、淮左に留まり、敢えて都に還らざりき。駕に従う驍果多くは関中人、久しく客旅に羈り、帝に西意なきを見て、謀りて叛き帰らんと欲す。時に武賁郎将 司馬徳戡、驍果を総領し、東城に屯す。風聞に兵士叛かんと欲すと、未だこれを審らかにせず、校尉 元武達を遣わし陰に驍果を問わしむ。その情を知り、因りて謀りて逆を構う。共に善くする所の武賁郎将 元礼・直閤 裴虔通、互いに扇惑して曰く、「今聞く、陛下 丹陽に宮を築かんと欲し、勢還らざらんと。所部の驍果、帰らんと思わざる莫し。人々耦語し、並びに逃げ去らんと謀る。我これを言わんと欲すれども、陛下の性忌み、兵の走るを聞くを悪む。即ち先ず事に誅せらるるを恐る。今知りて言わざれば、その後事発すれば、又た我を族滅すべし。進退戮せらるるに為り、将に之を如何せん」と。虔通曰く、「上実に爾り、誠に公の為に之を憂う」と。徳戡、両人に謂いて曰く、「我聞く、関中陷没し、李孝常 華陰を以て叛く。陛下その二弟を収め、尽くこれを殺さんとす。吾等が家属西に在り、安んぞこの慮り無からんや」と。虔通曰く、「我が子弟既に壮んなり、誠に自ら保たず、正に旦暮に誅に及ばんことを恐れ、計出す所無し」と。徳戡曰く、「同じく相憂うるは、当に共に計を為して取るべし。驍果若し走らば、これと俱に去るべし」と。虔通等曰く、「誠に公の言の如し、生を求むるの計、これに易うる無し」と。因りて遞に相招誘す。又た転じて内史舍人 元敏・鷹揚郎将 孟秉、符璽郎 李覆・牛方裕、直長 許弘仁・薛良、城門郎 唐奉義、医正 張愷等に告げ、日夜聚博し、刎頸の交わりを約し、情相款昵し、言に回避無く、座中に於いて輒ち叛計を論じ、並びに相然許す。時に李孝質禁中に在り、驍果をしてこれを守らしむ。中外交通し、謀る所益々急なり。趙行樞なる者は、楽人の子、家産巨万、先ず智及に交わり、勲侍 楊士覧なる者は、宇文の甥、二人同じく智及に告ぐ。智及素より狂悖、これを聞きて喜び、即ち共に徳戡を見、三月十五日を期して兵を挙げ同く叛き、十二衛の武馬を劫い、居人の財物を虜掠し、党を結んで西に帰らんとす。智及曰く、「然らず。当今天実に隋を喪わしめ、英雄並び起り、同心叛く者已に数万人、因りて大事を行い、これ帝王の業なり」と。徳戡これを然りとす。行樞・薛良、化及を以て主と為さんことを請う。相約既定まりて、方に化及に告ぐ。化及性本より駑怯、初め聞きて大いに懼れ、色動き汗を流す。久しくして乃ち定まる。
夜明けに至り、孟秉が甲騎を率いて化及を迎えた。化及は事の成否を知らず、戦慄して言を発することができず、謁見に来る者があれば、ただ頭を低くして鞍に凭り、『罪過』と答えるのみであった。時に士及は公主の邸宅におり、このことを知らなかった。智及は家僮の莊桃樹を遣わして邸宅に赴かせて彼を殺させようとしたが、桃樹は忍びず、彼を捕らえて智及のもとに連れて行くと、久しくしてようやく釈放された。化及が城門に至ると、德戡が迎えて謁し、朝堂に導き入れ、丞相と号した。帝を江都門から出して群賊に見せしめよと命じ、そのまま再び引き入れた。令狐行達を遣わして宮中で帝を弑し、また朝臣で己に与しない者数十人および諸外戚を捕らえ、老若を問わず害し、ただ秦孝王の子の浩だけを留め、これを立てて帝とした。
十余日後、江都の人々の舟船を奪い、水路から西へ帰還した。顯福宮に至ると、宿公の麥孟才・折衝郎将の沈光らが化及を撃とうと謀ったが、かえって害された。化及はここにおいて六宮を占拠し、その自らの供養は一切、煬帝の旧例の通りであった。常に帳中で南面して端坐し、事を申し上げる者があっても、黙然として答えない。下牙の時になって初めて啓状を取り上げ、奉義・方裕・良・愷らと共に参決した。徐州まで行くと水路が通じず、再び人々の車牛を奪い、二千両を得て、宮人と珍宝をことごとく載せた。その戈甲戎器は、悉く軍士に負わせた。道遠く疲労極まり、三軍は初めて怨み始めた。德戡は失望し、密かに行樞に言った、『君は大いに我を誤らせた。当今の乱を撥ねるには、必ず英賢を藉りねばならぬ。化及は庸暗で、群小が側におり、事は必ず敗れるであろう。どうすべきか』。行樞は言った、『我々次第である。廃するのは何の難事か』。そこで共に李本・宇文導師・尹正卿らと謀り、後軍一万余の兵をもって化及を襲撃して殺し、改めて德戡を主と立てようとした。弘仁がこれを知り、密かに化及に告げたので、德戡およびその支党十余人をことごとく捕らえ、皆殺した。兵を率いて東郡に向かうと、通守の王軌が城を以て降った。
元文都が越王侗を推して主とし、李密を太尉に拝し、化及を撃たせた。密は徐勣を遣わして黎陽倉を占拠させた。化及は河を渡り、黎陽県を保ち、兵を分けて勣を包囲した。密は清淇に壁し、勣と烽火をもって相応じた。化及が倉を攻める度に、密は常に兵を率いてこれを救った。化及は数戦して利あらず、その將軍の于弘達が密に捕らえられ、侗のもとに送られて鑊で烹られた。化及は糧尽き、永濟渠を渡り、密と童山で決戦したが、遂に汲郡に入って軍糧を求め、また使者を遣わして東郡の吏民を拷掠し米粟を責め立てた。王軌はこれを怨み、城を以て李密に帰した。化及は大いに懼れ、汲郡から将として衆を率い、北の諸州を図らんとした。その将の陳智略が嶺南の驍果一万余人を率い、張童兒が江東の驍果数千人を率い、皆叛いて李密に帰した。化及にはなお衆二万がおり、北へ魏県に走った。張愷らはその将の陳伯と謀って去らんとしたが、事が覚り、化及に殺された。腹心は次第に尽き、兵勢は日に日に迫り、兄弟には他に計る所なく、ただ集まって酣宴し、女楽を奏した。酔った後、智及をとがめて言った、『私は初め知らなかった。汝が計を為し、強いて我を立てさせたからだ。今、向かう所成ることなく、士馬は日に散じ、主を殺した名を負い、天下に受け入れられない。今、滅族せんとしているのは、豈に汝のためでないことがあろうか』。その両子を抱いて泣いた。智及は怒って言った、『事が捷した日には、少しもとがめず、その将に敗れんとするに及んで、乃ち罪を帰そうとするのか。何故私を殺して建德に降らぬのか』。兄弟は数度相争い、言に長幼なく、醒めてはまた飲み、これを常とした。その衆多く亡くなり、自ら必ず敗れると知ると、化及は嘆いて言った、『人生、故に死すべきもの、豈に一日も帝とならぬことがあろうか』。ここにおいて浩を鴆殺し、魏県で皇帝を僭称し、国号を許とし、建元を天寿とし、百官を署置した。
魏州の元寶藏を攻めたが、四十日も陥とせず、かえって敗れ、千余人を亡失した。そこで東北の聊城に向かい、海曲の諸賊を招撫せんとした。時に士及を遣わして濟北を巡行させ、糧餉を求めた。大唐は淮安王神通を遣わして山東を安撫し、併せて化及を招いた。化及は従わず、神通は進軍してこれを包囲したが、十余日で陥とせず退いた。竇建德が衆を悉く挙げてこれを攻めた。先に、齊州の賊帥王薄はその宝物が多いと聞き、偽って来て投附した。化及はこれを信じ、共に居守した。ここに至り、薄は建德を引き入れて城に入れ、生け捕りに化及し、その衆を悉く虜にした。先に智及・元武達・孟秉・楊士覽・許弘仁を捕らえ、皆斬った。そして轞車に化及を載せて河間に至り、君を殺した罪を数え上げ、二子の承基・承趾も皆斬り、その首を突厥の義成公主に伝え、虜庭に梟した。士及は濟北から西へ長安に帰った。
智及は幼少より頑にして凶であり、人と群れをなして闘うことを好み、共に遊び処する者は皆、不逞の徒であり、集まって闘鶏し、鷹や狗を放つことを習った。初め父の功により、爵を濮陽郡公に賜った。蒸淫醜穢、為さざる所なく、その妻の長孫は妬んで述に告げた。述は隠してはいたが、大いにこれを憤り、些細な過ちにも必ず鞭箠を加えた。弟の士及は公主を娶っていることを恃み、また軽んじて忽せにした。ただ化及だけが何事にも庇い助け、父が再三殺そうとするのを、常に救って免れさせたので、ここにおいて頗る親昵した。遂に化及を勧めて人を蕃に入れ、密かに交易させた。事が発覚し、誅に当たったが、述は独り智及の罪悪を証し、化及のために命を請うた。帝は両者を釈放した。述が死の際に、表を抗してその凶暴なることを言い、必ずや家を破るであろうと述べた。帝は後に述を思い、智及を将作少監に授けた。
その江都における殺逆の事は、智及の謀であった。化及が丞相となると、左僕射とし、十二衞大將軍を領させた。化及が僭号すると、齊王に封じた。竇建德が聊城を破り、捕らえて斬り、その党十余人也と共に、皆屍を暴き首を梟した。
司馬德戡
江都に従駕し、左右備身の驍果一万人を率い、城内に営した。隋末の大乱に乗じて、驍果を率いて謀反を企てた。その詳細は化及の事績に記されている。煬帝を捕らえた後、その党の孟秉らと共に化及を推戴して丞相とした。化及はまず徳戡を温国公に封じ、邑三千戸を賜い、光禄大夫を加え、なお本来の兵を統率させた。化及は内心甚だ彼を忌み嫌った。数日後、化及が諸将を任命し、士卒を分配するにあたり、徳戡を礼部尚書に任じた。外見上は栄転を示すが、実はその兵権を奪ったのである。これにより憤慨し、得た賞賜の品物をすべて智及に賄賂として贈り、智及に取り成しを頼んだ。徐州に至り、舟を捨て陸路に移り、徳戡に後軍を率いさせた。そこで趙行枢・李本・尹正卿・宇文導師らと謀り、化及を襲撃しようとし、使者を孟海公のもとに遣わし、外からの援軍として結ぼうとした。遷延して発せず、使者の返報を待っていた。許弘仁・張愷がこれを知り、化及に告げた。そこで化及はその弟の士及に狩猟と偽らせて後軍に至らせた。徳戡は事が露顕したことを知らず、出営して拝謁したところ、捕らえられ、その党類も共に捕えられた。化及が責めて言うには、「公と力を合わせて共に海内を平定し、万死の中より出でた。今ようやく事が成り、共に富貴を守らんと願うのに、公はまた何故に反するのか」と。徳戡は言う、「そもそも暗愚の主君を殺したのは、その毒害に苦しんだからである。足下を推戴したのに、かえってそれより甚だしい。物情に迫られ、已むを得なかったのだ」と。化及は答えず、幕下に送ることを命じ、絞め殺した。時に三十九歳であった。
裴虔通
裴虔通は河東の人である。初め、煬帝が晋王であった時、親信として従い、次第に昇進して監門校尉となった。煬帝が即位すると、旧来の側近を抜擢し、宣恵尉を授け、監門直閤に遷った。累次征役に従い、通議大夫に至った。司馬徳戡と共に乱を謀り、先んじて宮門を開き、騎兵で成象殿に至り、将軍独孤盛を殺し、帝を西閤で捕らえた。化及は虔通を光禄大夫・莒国公とした。化及が兵を率いて北進する際、徐州を鎮守させた。化及が敗れた後、大唐に帰順し、直ちに徐州総管を授けられ、辰州刺史に転じ、長蛇男に封ぜられた。まもなく隋朝を弑逆した罪により、官籍から除名され、嶺表に流されて死んだ。
王充
王充は字を行満といい、もとは西域の人である。祖父の支頽䅶は新豊に移り住んだ。頽䅶が死ぬと、その妻は若くして寡婦となり、儀同の王粲と野合し、瓊という子を産んだ。王粲は遂に彼女を娶って側室とした。王充の父の収は幼くして孤児となり、母に従って王粲に嫁ぎ、王粲は彼を愛して養育したため、王姓を名乗った。官は懐・汴二州の長史に至った。王充は巻き毛で豺の声を持ち、猜疑心が深く多詭詐で、書伝を窺い、特に兵法を好み、亀策や推歩・盈虚に通暁していたが、人に語ることはなかった。
開皇年間、左翊衛となり、後に軍功により儀同に任ぜられ、兵部員外郎を授けられた。上奏に巧みで、法律に明るく習熟していたが、文墨を弄び、心の内を高下させた。或いは駁難する者があれば、王充は利口で非を飾り、議論が鋭く立ち上がり、衆人はその不可を知りながらも屈服させることができず、明弁と称された。
煬帝の時、累進して江都郡丞に至った。時に帝はしばしば江都に行幸したが、王充は主君の顔色を窺うことに巧みで、阿諛して旨に順い、毎度入朝して事を奏上すると、帝はこれを良しとした。また郡丞として江都宮監を兼ね、池や台を彫飾し、密かに遠方の珍物を献上して帝に媚びた。これにより帝はますます彼を昵近した。
大業八年、隋が乱れ始めると、王充は内心僥倖を抱き、身を低くして士を礼遇し、密かに豪傑を結び、多くの人心を収めた。江淮の間の人は元来軽悍であり、また盗賊の群れが起こり、多くの人が法を犯し、獄に繋がれ罪に当たる者がいたが、王充はすべて枉法してこれを釈放し、私恩を樹てた。楊玄感が反乱を起こすと、呉人の朱爕・晋陵人の管崇が江南で兵を起こしてこれに応じ、将軍を自称し、十数万の衆を擁した。帝は将軍の吐万緒・魚倶羅を遣わして討たせたが、勝つことができなかった。王充は江都で一万余人を募り、頻りにこれを撃破した。毎度勝利を得ると、必ず功を部下に帰し、得た戦利品はすべて士卒に分け与え、自身は何も受け取らなかった。これにより人々は争って彼に用いられ、功績が最も多かった。
十年、斉郡の賊帥孟譲が長白山から諸郡を寇掠し、盱眙に至り、十数万の衆を擁した。王充は兵を以てこれを防ぎ、弱兵を見せて弱さを示し、都梁山に拠って五つの柵を保ち、相持って戦わなかった。後に賊の弛緩に乗じて、出兵して奮撃し、大いにこれを破り、勝に乗じて賊をことごとく滅ぼした。孟譲は数十騎で遁走し、斬首一万人、六畜や軍資はことごとく獲られなかったものはなかった。帝は王充に将帥の才略があると認め、初めて兵を率いることを命じ、諸々の小盗を討たせた。向かうところすべてこれを破った。しかし性質は矯偽で、善を詐り、自ら勤苦して声聞を求めることができた。
十一年、突厥が雁門で帝を包囲すると、王充は江都の人々をことごとく発し、難に赴かんとした。軍中にあって、髪を振り乱し顔を垢だらけにし、悲泣して度を失い、昼夜甲を解かず、草を敷いて臥した。帝はこれを聞き、己を愛するものと思い、ますます信任した。
李密が興洛倉を攻め陥とし、東都に進逼し、官軍が数度退却し、光禄大夫の裴仁基が武牢で李密に降ったことを知ると、帝はこれを憎み、大いに兵を発して討たんとした。中詔を発して王充を将軍とし、洛口において李密を防がせた。前後百余戦、互いに勝敗があった。王充は軍を率いて洛水を渡り、倉城に迫った。李密と戦い、王充は敗績し、水に赴いて溺死した者は一万余人に及んだ。時に天寒く大雪が降り、兵士は既に水を渡り、衣はすべて濡れ、道上で凍死した者はまた数万人に及び、河陽に至る頃にはわずか千数に過ぎなかった。王充は自ら獄に繋がって罪を請うた。越王侗は使者を遣わしてこれを赦し、都に還るよう召し還した。亡散した兵を収め合わせ、また一万余人を得て、含嘉城中に屯し、再び出撃しようとはしなかった。
宇文化及が江都において帝を弑すると、王充は太府卿元文都、将軍皇甫無逸、右司郎盧楚と共に楊侗を奉じて主君とした。楊侗は王充を吏部尚書に任じ、鄭国公に封じた。やがて楊侗が元文都と盧楚の謀略を採用し、李密を太尉・尚書令に拝すると、李密はこれに臣下として称し、また兵を率いて黎陽において宇文化及を防ぎ、使者を遣わして勝利を報告した。人々は皆喜んだが、王充のみは麾下の諸将に向かって言った、「文都の輩は、刀筆の吏に過ぎぬ。その情勢を観るに、必ずや李密に捕らえられるであろう。しかも我が軍人はしばしば李密と戦い、その父兄子弟を殺害すること前後すでに多く、一旦その下に立たば、我らは生き残れぬであろう」と。この言葉を以て衆を激怒させた。元文都はこれを知って大いに恐れ、盧楚らと謀り、王充が内に入る機会に乗じ、伏兵を置いてこれを殺そうとした。期日が定まった頃、将軍段達がその女婿張志を遣わし、盧楚の謀略を王充に告げた。王充は夜間に兵を率いて宮城を包囲し、将軍費曜、田世闍らが東太陽門外でこれと戦った。費曜の軍は敗れ、王充は遂に門を攻めて入り、皇甫無逸は単騎で遁走した。盧楚を捕らえてこれを殺した。時に宮門はまだ閉ざされていたが、王充は門を叩いて楊侗に言上させた、「元文都らは皇帝を捕らえて李密に降らんとし、段達がこれを知って臣に告げました。臣は敢えて謀反を企てたのではなく、反逆者を誅しただけです」と。元文都は変事を聞いて入り、楊侗を乾陽殿に奉じて、兵を陳べてこれを守護した。将帥に命じて城壁に登らせて難を防がせたが、兵は敗れ、また元文都を捕らえてこれを殺した。楊侗は命じて門を開け王充を入れさせた。王充はすべての人を遣わして宿衛の者を代えさせ、それから入謁し、頓首して涙を流しながら言った、「文都らは無状にも、互いに屠害を謀り、事急なればこそこのようにしたのであり、敢えて国に背くものではありません」と。楊侗はこれと盟を結んだ。王充は間もなく韋節らを遣わして楊侗を諷し、自らを尚書左僕射・総督内外諸軍事に拝するよう命じさせた。またその兄の王惲を内史令に任じ、禁中に入居させた。
間もなく、李密が宇文化及を破って帰還したが、その精兵と良馬は多く戦死し、士卒は皆疲弊していた。王充はその疲弊に乗じてこれを撃とうとしたが、人心が一つにならぬことを恐れ、鬼神を仮託し、周公の夢を見たと言って、洛水のほとりに祠を立て、巫を遣わして宣言させた、「周公は僕射が急ぎ李密を討つことを欲し、大功があるであろう、さもなければ兵は皆疫病で死ぬであろう」と。王充の兵は楚の者が多く、俗に妖妄を信じるので、この言葉を以てこれを惑わした。衆は皆戦いを請うた。王充は精鋭を選び練り、二万余人、馬千頭を得て、営を洛水の南に移した。李密の軍は偃師の北山上にあった。時に李密は宇文化及に勝利を得たばかりで、王充を軽んじる心があり、壁塁を設けなかった。王充は夜間に二百余騎を遣わし北山に潜り込ませ、渓谷に伏せさせ、軍に命じて馬に秣を与え早朝の食事をさせた。やがて夜明け前に渡河し、人馬を駆って進み、夜明け頃に李密に迫った。李密は兵を出して応戦したが、陣がまだ列を成さぬうちに両軍が合戦し、伏兵が山を覆って現れ、ひそかに北の原に登り、高みから駆け下りて李密の陣営を圧した。陣営の中は乱れ、防ぐ者なく、即座に入って火を放った。李密の軍は大いに驚き潰走し、その将張童児、陳智略を降し、進んで偃師を陥れた。初め、王充の兄の王偉と子の王玄応は宇文化及に従って東郡に至り、李密がこれを捕らえて城中に囚っていたが、この時に至り、ことごとくこれを捕らえた。また李密の長史邴元真の妻子、司馬鄭虔象の母および諸将の子弟を捕らえ、皆これを慰撫し、それぞれに密かにその父兄を呼ばせた。兵を洛口に進めると、邴元真、鄭虔象らが倉城を挙げてこれに応じた。李密は数十騎で遁走し、王充はその衆をことごとく収めた。そして東は海に至り、南は江に至るまで、悉く帰順してきた。王充はまた韋節を遣わして楊侗を諷し、自らを太尉に拝させ、官属を置き、尚書省をその府とした。間もなく自ら鄭王と称した。その将高略に命じて師を率い寿安を攻めさせたが、利あらずして引き揚げた。また師を率いて穀州を包囲攻撃したが、三日で退いた。翌年、自ら相国と称し、九錫の器物を受けた。この後は楊侗に朝見しなくなった。
道士の桓法嗣という者がおり、自ら図讖を解すると言い、王充はこれを寵愛した。法嗣は孔子の閉房記を以て、一人の丈夫が一つの干を持って羊を追う絵を描いた。法嗣は言った、「楊は隋の姓なり。干一は王の字なり。羊の後に居るは、相国が隋に代わって帝となることを明らかにするなり」と。また『荘子』の人間世篇と徳充符篇の二篇を取って献上した。法嗣は解釈して言った、「上篇は世を言い、下篇は充を言う、これ即ち相国の名なり。明らかに人間に徳を被らせ、符命に応じて天子となるべきことを示すなり」と。王充は大いに喜んで言った、「これ天命なり」と。再拝してこれを受けた。即座に法嗣を諫議大夫とした。王充はまた雑鳥を網で捕らえ、帛に書いてその首に結び付け、自ら符命であると言って放鳥した。あるいは弾射して鳥を得て献上する者があれば、官爵を授けた。やがて楊侗を別宮に廃し、僭って皇帝の位に即き、元号を開明と建て、国号を鄭とした。大唐が秦王を遣わして衆を率いてこれを包囲すると、王充は頻りに兵を出したが、戦えば不利であり、都外の諸城は相次いで降伏した。王充は窮迫し、使者を遣わして竇建徳に救援を請うた。建徳は精兵を率いてこれを救援した。師が武牢に至ると、秦王に撃破され、建徳を捕らえて城下に至らせた。王充は包囲を突破して出ようとしたが、諸将にこれに応じる者なく、自ら潜んで逃れる所なきを知り、ここに出て降伏した。長安に至り、仇敵の独孤修徳に殺された。
段達
段達は、武威郡姑臧県の人である。父の段厳は、北周の朔州刺史であった。段達は北周において、年わずか三歳で襄垣県公の爵を襲封した。成長すると、身長八尺、美しい鬚髯を持ち、弓馬に巧みであった。
大業初年、藩邸時代の旧臣として、左翊衛将軍に拝された。吐谷渾征伐に従い、進んで金紫光禄大夫となった。帝が遼東を征した時、百姓は労役に苦しみ、平原の祁孝徳、清河の張金称らが共に衆を集めて群盗となり、城邑を攻め陥し、郡県は防ぐことができなかった。帝は段達にこれを撃たせたが、しばしば張金称らに挫かれ、失うところ多く、諸賊はこれを軽んじ、段姥と号した。後に鄃県令楊善会の計略を用い、改めて賊と戦い、ようやく勝利を得た。京師に還り、公事に坐して免官された。
翌年、帝が遼東を征した時、段達は涿郡に留守した。間もなくまた左翊衛将軍に拝された。高陽の魏刀児が衆十余万を集め、自ら歴山飛と号し、燕・趙を寇掠した。段達は涿郡通守の郭絢を率いてこれを撃破した。当時盗賊が既に多く、官軍は激戦を厭い、段達は機に乗じて決勝することができず、ただ慎重に自らを守り、兵を頓挫させ糧食を費やすばかりで、多く勝利を得られず、当時の人々は皆これを怯懦であると言った。
帝が江都にて崩御すると、達は元文都らと共に越王侗を推戴して主君とし、開府儀同三司に任じ、納言を兼ね、陳国公に封ぜられた。元文都らが王充を誅殺せんと謀った際、達は密かに王充に告げ、内応となった。事が発覚すると、越王侗は元文都を王充に引き渡し、王充は達に大いに恩を感じ、特に尊崇重用された。李密を破った後、達らは越王に王充に九錫を加え器物を備えるよう勧め、やがて禅譲を促した。王充が帝号を僭称すると、達を司徒とした。東都が平定されると、罪に坐して誅殺され、妻子は籍没された。
史臣が曰く、化及は凡庸で臆病な下才であり、累代の恩に背き、王充は器量の小さい小人で、時に幸いして遇され、共に抜擢を受け、旧臣を超える礼遇を受けた。既に崩壊の時期に属しながら、身を致し命を尽くすことができず、利に乗じ便に因り、先んじて綱紀を犯すことを図り、不逞の輩を率い、専ら乱の階梯となった。根本を抜き源を塞ぎ、冠を裂き冕を毀った。或いは自らが兵乱の首謀者となり、或いは自ら毒殺を行い、その罪は指鹿の故事に深く、事態は熊蹯を食らう故事に切迫し、天地の容れざるところ、人神の共に憤るところとなった。故に梟と獍のごとき凶悪な首魁は相次いで誅戮され、蛇や豚のごとき醜い類は踵を継いで誅滅され、当年の忠義を快くし、来葉への明らかな戒めを垂れた。嗚呼、人臣たる者はこれを殷鑑とせざるべけんや。これを殷鑑とせざるべけんや。