隋書

巻085

卷八十五 列傳第五十 宇文化及 司馬德戡 裴虔通 王充 段達

卷八十五 列傳第五十 宇文化及 司馬德戡 裴虔通 王充 段達

原文卷八十五列傳第五十 宇文化及 司馬德戡 裴虔通 王充 段達 ► 原跋

序

原文序

天地の形に似て生まれしもの、人を最霊と称す。その父子の道を知り、君臣の義を識るをもって、禽獣に異なる所以なり。伝に曰く、「人の生まるるに三あり、事うること一の如し」と。されば君臣父子、その道殊ならず。父は父たらざるべからず、子は子たらざるべからず、君は君たらざるべからず、臣は臣たらざるべからず。故に曰く、君は猶天のごとし、天に仇なすべけんや。ここをもって罪あれば刑に帰し、危うきを見ては命を授け、忠貞を竭くして節を立て、難に臨んで苟も免れざるなり。故にその風を聞く者は、慷慨を懐い、千載の後も、臣と為らんと願わざるは莫し。これその生栄え死哀しまれ、前哲に貴ばるるを取る所以なり。質を委ね名を策すに至り、卿を代え禄を世うし、出でては心膂の寄せを受け、入りては帷幄の謀に参じ、身は機衡に処しながら、趙高の姦宄を肆にし、世に権寵を荷いながら、王莽の桀逆を行い、生霊せいれいの仇疾する所となり、犬豕すらその余を食わざる者あり。社を薦げ宮を汚すと雖も、必ず誅すべき釁を彰し、棺を斲ち骨を焚くと雖も、篡殺の咎を明らかにす。もって既往を懲らすべけれども、未だ深く将来を誡むるに足らず。昔、孔子春秋を修めしに、乱臣賊子懼るるを知れり。抑々これ名を求むるを得ざらしめ、蓋いんと欲して却って彰れしむる者なり。今故にその罪名を正し、以て篇首に冠す。後の君子、作者の意を見んことを庶う。

原文夫肖形天地,人稱最靈,以其知父子之道,識君臣之義,異夫禽獸者也。傳曰:「人生在三,事之如一。」然則君臣父子,其道不殊,父不可以不父,子不可以不子,君不可以不君,臣不可以不臣。故曰君猶天也,天可讎乎!是以有罪歸刑,見危授命,竭忠貞以立節,不臨難而苟免。故聞其風者,懷夫慷慨,千載之後,莫不願以為臣。此其所以生榮死哀,取貴前哲者矣。至於委質策名,代卿世祿,出受心膂之寄,入參帷幄之謀,身處機衡,肆趙高之姦宄,世荷權寵,行王莽之桀逆,生靈之所讎疾,犬豕不食其餘。雖薦社污宮,彰必誅之釁,斵棺焚骨,明篡殺之咎,可以懲夫既往,未足深誡將來。昔孔子修春秋,而亂臣賊子知懼,抑使之求名不得,欲蓋而彰者也。今故正其罪名,以冠於篇首,庶後之君子見作者之意焉。

宇文化及〈弟 智及〉

原文宇文化及〈弟智及〉

宇文化及は、左翊衛大将軍 宇文述の子なり。性兇険にして、法度に循わず、肥馬に乗り弾丸を挟み、道中を馳騖するを好み、ここにより長安ちょうあん、これを軽薄公子と謂う。煬帝ようだい、太子たる時、常に千牛を領し、臥内に出入りす。累遷して太子僕に至る。数たび貨賄を受納するをもって、再三官を免ぜらる。太子これを嬖昵し、俄かにして復職す。またその弟 士及をして南陽公主に尚せしむ。化及ここにより益々驕り、公卿の間に処し、言辞遜らず、多く陵轢す。人の子女・狗馬・珍玩を見れば、必ず請託してこれを求む。常に屠販の者と遊び、以てその利を規る。煬帝即位し、太僕少卿を拝し、旧恩を恃み、貪冒ことのほか甚だし。大業たいぎょう初、煬帝 榆林に幸す。化及と弟 智及、禁を違えて突厥と交市す。帝大いに怒り、これを数ヶ月囚う。青門外に還り至り、これを斬りて後に入城せんと欲す。衣を解き髪を辮るも、公主の故をもって、久しくして乃ち釈し、智及とともに述に賜いて奴と為す。述薨じたる後、煬帝これを追憶し、遂に化及を起して右屯衛将軍と為し、智及を将作少監と為す。

原文宇文化及,左翊衞大將軍述之子也。性兇險,不循法度,好乘肥挾彈,馳騖道中,由是長安謂之輕薄公子。煬帝為太子時,常領千牛,出入臥內。累遷至太子僕。數以受納貨賄,再三免官。太子嬖昵之,俄而復職。又以其弟士及尚南陽公主。化及由此益驕,處公卿間,言辭不遜,多所陵轢。見人子女狗馬珍玩,必請託求之。常與屠販者遊,以規其利。煬帝即位,拜太僕少卿,益恃舊恩,貪冒尤甚。大業初,煬帝幸榆林,化及與弟智及違禁與突厥交市。帝大怒,囚之數月。還至青門外,欲斬之而後入城,解衣辮髮,以公主故,久之乃釋,并智及並賜述為奴。述薨後,煬帝追憶之,遂起化及為右屯衞將軍,智及為將作少監。

是の時、李密 洛口に拠る。煬帝懼れ、淮左に留まり、敢えて都に還らざりき。駕に従う驍果多くは関中人、久しく客旅に羈り、帝に西意なきを見て、謀りて叛き帰らんと欲す。時に武賁郎将 司馬徳戡、驍果を総領し、東城に屯す。風聞に兵士叛かんと欲すと、未だこれを審らかにせず、校尉こうい 元武達を遣わし陰に驍果を問わしむ。その情を知り、因りて謀りて逆を構う。共に善くする所の武賁郎将 元礼・直閤 裴虔通、互いに扇惑して曰く、「今聞く、陛下 丹陽に宮を築かんと欲し、勢還らざらんと。所部の驍果、帰らんと思わざる莫し。人々耦語し、並びに逃げ去らんと謀る。我これを言わんと欲すれども、陛下の性忌み、兵の走るを聞くを悪む。即ち先ず事に誅せらるるを恐る。今知りて言わざれば、その後事発すれば、又た我を族滅すべし。進退戮せらるるに為り、将に之を如何せん」と。虔通曰く、「上実に爾り、誠に公の為に之を憂う」と。徳戡、両人に謂いて曰く、「我聞く、関中陷没し、李孝常 華陰を以て叛く。陛下その二弟を収め、尽くこれを殺さんとす。吾等が家属西に在り、安んぞこの慮り無からんや」と。虔通曰く、「我が子弟既に壮んなり、誠に自ら保たず、正に旦暮に誅に及ばんことを恐れ、計出す所無し」と。徳戡曰く、「同じく相憂うるは、当に共に計を為して取るべし。驍果若し走らば、これと俱に去るべし」と。虔通等曰く、「誠に公の言の如し、生を求むるの計、これに易うる無し」と。因りて遞に相招誘す。又た転じて内史舍人 元敏・鷹揚郎将 孟秉、符璽郎 李覆・牛方裕、直長 許弘仁・薛良、城門郎 唐奉義、医正 張愷等に告げ、日夜聚博し、刎頸の交わりを約し、情相款昵し、言に回避無く、座中に於いて輒ち叛計を論じ、並びに相然許す。時に李孝質禁中に在り、驍果をしてこれを守らしむ。中外交通し、謀る所益々急なり。趙行樞なる者は、楽人の子、家産巨万、先ず智及に交わり、勲侍 楊士覧なる者は、宇文の甥、二人同じく智及に告ぐ。智及素より狂悖、これを聞きて喜び、即ち共に徳戡を見、三月十五日を期して兵を挙げ同く叛き、十二衛の武馬を劫い、居人の財物を虜掠し、党を結んで西に帰らんとす。智及曰く、「然らず。当今天実に隋を喪わしめ、英雄並び起り、同心叛く者已に数万人、因りて大事を行い、これ帝王の業なり」と。徳戡これを然りとす。行樞・薛良、化及を以て主と為さんことを請う。相約既定まりて、方に化及に告ぐ。化及性本より駑怯、初め聞きて大いに懼れ、色動き汗を流す。久しくして乃ち定まる。

原文是時李密據洛口,煬帝懼,留淮左,不敢還都。從駕驍果多關中人,久客羈旅,見帝無西意,謀欲叛歸。時武賁郎將司馬德戡總領驍果,屯於東城,風聞兵士欲叛,未之審,遣校尉元武達陰問驍果,知其情,因謀構逆。共所善武賁郎將元禮、直閤裴虔通互相扇惑曰:「今聞陛下欲築宮丹陽,勢不還矣。所部驍果莫不思歸,人人耦語,並謀逃去。我欲言之,陛下性忌,惡聞兵走,即恐先事見誅。今知而不言,其後事發,又當族滅我矣。進退為戮,將如之何?」虔通曰:「上實爾,誠為公憂之。」德戡謂兩人曰:「我聞關中陷沒,李孝常以華陰叛,陛下收其二弟,將盡殺之。吾等家屬在西,安得無此慮也!」虔通曰:「我子弟已壯,誠不自保,正恐旦暮及誅,計無所出。」德戡曰:「同相憂,當共為計取。驍果若走,可與俱去。」虔通等曰:「誠如公言,求生之計,無以易此。」因遞相招誘。又轉告內史舍人元敏、鷹揚郎將孟秉,符璽郎李覆、牛方裕,直長許弘仁、薛良,城門郎唐奉義,醫正張愷等,日夜聚博,約為刎頸之交,情相款昵,言無迴避,於座中輒論叛計,並相然許。時李孝質在禁,令驍果守之,中外交通,所謀益急。趙行樞者,樂人之子,家產巨萬,先交智及,勳侍楊士覽者,宇文甥,二人同告智及。智及素狂悖,聞之喜,即共見德戡,期以三月十五日舉兵同叛,劫十二衞武馬,虜掠居人財物,結黨西歸。智及曰:「不然。當今天實喪隋,英雄並起,同心叛者已數萬人,因行大事,此帝王業也。」德戡然之。行樞、薛良請以化及為主,相約既定,方告化及。化及性本駑怯,初聞大懼,色動流汗,久之乃定。

義寧二年三月一日、徳戡、宣言して衆に告げんと欲すれども、人心未だ一ならざるを以て恐れ、更に譎詐を思いて以て驍果を脅やんとし、許弘仁・張愷に謂いて曰く、「君は良医、国家任使す。言を出して衆を惑わさば、衆必ず信ぜん。君備身府に入り、識る者に告げ、陛下聞く、驍果叛かんと欲すと説き、多く毒酒を醸し、因りて享会に尽くこれを鴆殺し、独り南人と此れに留まらんとす、と」と。弘仁等この言を宣布す。驍果これを聞き、遞に相告語し、謀叛愈々急なり。徳戡計既に行わるるを知り、遂に十日を以て故人を総召し、為す所を諭す。衆皆伏して曰く、「唯だ将軍の命に従わん」と。その夜、奉義城門を閉ずるを主り、乃ち虔通と相知り、諸門皆鑰を下さず。夜三更に至り、徳戡東城内に兵を集め、数万人を得、火を挙げて城外と相応ず。帝声有るを聞き、是れ何事ぞと問う。虔通偽りて曰く、「草坊焼かれ、外人救火す、故に諠囂するのみ」と。中外隔絶し、帝これを然りと為す。孟秉・智及城外に千余人を得、候衛武賁 馮普楽を劫い、共に兵を布き分かち郭下の街巷を捉う。五更中に至り、徳戡虔通に兵を授け、以て諸門の衛士を換えしむ。虔通因りて自ら門を開き、数百騎を領し、成象殿に至り、将軍 独孤盛を殺す。武賁郎将 元礼遂に兵を引き進み、宿衛する者皆走る。虔通兵を進め、左閤を排し、永巷に馳せ入り、問うて曰く、「陛下安くにか在る」と。美人出で、方に指して云く、「西閤に在り」と。従いて往きて帝を執る。帝虔通に謂いて曰く、「卿我が故人に非ずや。何の恨みか有って反す」と。虔通曰く、「臣敢えて反せず。但だ将士帰らんと思うのみ。陛下を奉じて京師に還らんとす」と。帝曰く、「汝と帰らん」と。虔通因りて兵を勒してこれを守る。

原文義寧二年三月一日,德戡欲宣言告眾,恐以人心未一,更思譎詐以脅驍果,謂許弘仁、張愷曰:「君是良醫,國家任使,出言惑眾,眾必信。君可入備身府,告識者,言陛下聞說驍果欲叛,多醞毒酒,因享會盡鴆殺之,獨與南人留此。」弘仁等宣布此言,驍果聞之,遞相告語,謀叛逾急。德戡知計既行,遂以十日總召故人,諭以所為。眾皆伏曰:「唯將軍命!」其夜,奉義主閉城門,乃與虔通相知,諸門皆不下鑰。至夜三更,德戡於東城內集兵,得數萬人,舉火與城外相應。帝聞有聲,問是何事。虔通偽曰:「草坊被燒,外人救火,故諠囂耳。」中外隔絕,帝以為然。孟秉、智及於城外得千餘人,劫候衞武賁馮普樂,共布兵分捉郭下街巷。至五更中,德戡授虔通兵,以換諸門衞士。虔通因自開門,領數百騎,至成象殿,殺將軍獨孤盛。武賁郎將元禮遂引兵進,宿衞者皆走。虔通進兵,排左閤,馳入永巷,問:「陛下安在?」有美人出,方指云:「在西閤。」從往執帝。帝謂虔通曰:「卿非我故人乎!何恨而反?」虔通曰:「臣不敢反,但將士思歸,奉陛下還京師耳。」帝曰:「與汝歸。」虔通因勒兵守之。

夜明けに至り、孟秉が甲騎を率いて化及を迎えた。化及は事の成否を知らず、戦慄して言を発することができず、謁見に来る者があれば、ただ頭を低くして鞍に凭り、『罪過』と答えるのみであった。時に士及は公主の邸宅におり、このことを知らなかった。智及は家僮の莊桃樹を遣わして邸宅に赴かせて彼を殺させようとしたが、桃樹は忍びず、彼を捕らえて智及のもとに連れて行くと、久しくしてようやく釈放された。化及が城門に至ると、德戡が迎えて謁し、朝堂に導き入れ、丞相と号した。帝を江都門から出して群賊に見せしめよと命じ、そのまま再び引き入れた。令狐行達を遣わして宮中で帝を弑し、また朝臣で己に与しない者数十人および諸外戚を捕らえ、老若を問わず害し、ただ秦孝王の子の浩だけを留め、これを立てて帝とした。

原文至旦,孟秉以甲騎迎化及。化及未知事果,戰慄不能言,人有來謁之者,但低頭據鞍,答云「罪過」。時士及在公主第,弗之知也。智及遣家僮莊桃樹就第殺之,桃樹不忍,執詣智及,久之乃見釋。化及至城門,德戡迎謁,引入朝堂,號為丞相。令將帝出江都門以示羣賊,因復將入。遣令狐行達弒帝於宮中,又執朝臣不同己者數十人及諸外戚,無少長害之,唯留秦孝王子浩,立以為帝。

十余日後、江都の人々の舟船を奪い、水路から西へ帰還した。顯福宮に至ると、宿公の麥孟才・折衝郎将の沈光らが化及を撃とうと謀ったが、かえって害された。化及はここにおいて六宮りっきゅうを占拠し、その自らの供養は一切、煬帝の旧例の通りであった。常に帳中で南面して端坐し、事を申し上げる者があっても、黙然として答えない。下牙の時になって初めて啓状を取り上げ、奉義・方裕・良・愷らと共に参決した。徐州まで行くと水路が通じず、再び人々の車牛を奪い、二千両を得て、宮人と珍宝をことごとく載せた。その戈甲戎器は、悉く軍士に負わせた。道遠く疲労極まり、三軍は初めて怨み始めた。德戡は失望し、密かに行樞に言った、『君は大いに我を誤らせた。当今の乱を撥ねるには、必ず英賢を藉りねばならぬ。化及は庸暗で、群小が側におり、事は必ず敗れるであろう。どうすべきか』。行樞は言った、『我々次第である。廃するのは何の難事か』。そこで共に李本・宇文導師・尹正卿らと謀り、後軍一万余の兵をもって化及を襲撃して殺し、改めて德戡を主と立てようとした。弘仁がこれを知り、密かに化及に告げたので、德戡およびその支党十余人をことごとく捕らえ、皆殺した。兵を率いて東郡に向かうと、通守の王軌が城を以て降った。

原文十餘日,奪江都人舟楫,從水路西歸。至顯福宮,宿公麥孟才、折衝郎將沈光等謀擊化及,反為所害。化及於是入據六宮,其自奉養一如煬帝故事。每於帳中南面端坐,人有白事者,默然不對。下牙時,方收取啟狀,共奉義、方裕、良、愷等參決之。行至徐州,水路不通,復奪人車牛,得二千兩,並載宮人珍寶。其戈甲戎器,悉令軍士負之。道遠疲極,三軍始怨。德戡失望,竊謂行樞曰:「君大謬誤我。當今撥亂,必藉英賢,化及庸暗,羣小在側,事將必敗,當若之何?」行樞曰:「在我等爾,廢之何難!」因共李本、宇文導師、尹正卿等謀,以後軍萬餘兵襲殺化及,更立德戡為主。弘仁知之,密告化及,盡收捕德戡及其支黨十餘人,皆殺之。引兵向東郡,通守王軌以城降之。

元文都が越王侗を推して主とし、李密を太尉に拝し、化及を撃たせた。密は徐勣を遣わして黎陽倉を占拠させた。化及は河を渡り、黎陽県を保ち、兵を分けて勣を包囲した。密は清淇に壁し、勣と烽火をもって相応じた。化及が倉を攻める度に、密は常に兵を率いてこれを救った。化及は数戦して利あらず、その將軍の于弘達が密に捕らえられ、侗のもとに送られて鑊で烹られた。化及は糧尽き、永濟渠を渡り、密と童山で決戦したが、遂に汲郡に入って軍糧を求め、また使者を遣わして東郡の吏民を拷掠し米粟を責め立てた。王軌はこれを怨み、城を以て李密に帰した。化及は大いに懼れ、汲郡から将として衆を率い、北の諸州を図らんとした。その将の陳智略が嶺南の驍果一万余人を率い、張童兒が江東の驍果数千人を率い、皆叛いて李密に帰した。化及にはなお衆二万がおり、北へ魏県に走った。張愷らはその将の陳伯と謀って去らんとしたが、事が覚り、化及に殺された。腹心は次第に尽き、兵勢は日に日に迫り、兄弟には他に計る所なく、ただ集まって酣宴し、女楽を奏した。酔った後、智及をとがめて言った、『私は初め知らなかった。汝が計を為し、強いて我を立てさせたからだ。今、向かう所成ることなく、士馬は日に散じ、主を殺した名を負い、天下に受け入れられない。今、滅族せんとしているのは、豈に汝のためでないことがあろうか』。その両子を抱いて泣いた。智及は怒って言った、『事が捷した日には、少しもとがめず、その将に敗れんとするに及んで、乃ち罪を帰そうとするのか。何故私を殺して建德に降らぬのか』。兄弟は数度相争い、言に長幼なく、醒めてはまた飲み、これを常とした。その衆多く亡くなり、自ら必ず敗れると知ると、化及は嘆いて言った、『人生、故に死すべきもの、豈に一日も帝とならぬことがあろうか』。ここにおいて浩を鴆殺し、魏県で皇帝を僭称せんしょうし、国号を許とし、建元を天寿とし、百官を署置した。

原文元文都推越王侗為主,拜李密為太尉,令擊化及。密遣徐勣據黎陽倉。化及渡河,保黎陽縣,分兵圍勣。密壁清淇,與勣以烽火相應。化及每攻倉,密輒引兵救之。化及數戰不利,其將軍于弘達為密所擒,送於侗所,鑊烹之。化及糧盡,渡永濟渠,與密決戰於童山,遂入汲郡求軍糧,又遣使拷掠東郡吏民以責米粟。王軌怨之,以城歸於李密。化及大懼,自汲郡將率眾圖以北諸州。其將陳智略率嶺南驍果萬餘人,張童兒率江東驍果數千人,皆叛歸李密。化及尚有眾二萬,北走魏縣。張愷等與其將陳伯謀去之,事覺,為化及所殺。腹心稍盡,兵勢日蹙,兄弟更無他計,但相聚酣宴,奏女樂。醉後,因尤智及曰:「我初不知,由汝為計,強來立我。今所向無成,士馬日散,負殺主之名,天下所不納。今者滅族,豈不由汝乎?」持其兩子而泣。智及怒曰:「事捷之日,都不賜尤,及其將敗,乃欲歸罪。何不殺我以降建德?」兄弟數相鬬鬩,言無長幼,醒而復飲,以此為恒。其眾多亡,自知必敗,化及歎曰:「人生故當死,豈不一日為帝乎?」於是鴆殺浩,僭皇帝位於魏縣,國號許,建元為天壽,署置百官。

魏州の元寶藏を攻めたが、四十日も陥とせず、かえって敗れ、千余人を亡失した。そこで東北の聊城に向かい、海曲の諸賊を招撫せんとした。時に士及を遣わして濟北を巡行させ、糧餉を求めた。大唐は淮安王神通を遣わして山東を安撫し、併せて化及を招いた。化及は従わず、神通は進軍してこれを包囲したが、十余日で陥とせず退いた。竇建德が衆を悉く挙げてこれを攻めた。先に、齊州の賊帥王薄はその宝物が多いと聞き、偽って来て投附した。化及はこれを信じ、共に居守した。ここに至り、薄は建德を引き入れて城に入れ、生け捕りに化及し、その衆を悉く虜にした。先に智及・元武達・孟秉・楊士覽・許弘仁を捕らえ、皆斬った。そして轞車に化及を載せて河間に至り、君を殺した罪を数え上げ、二子の承基・承趾も皆斬り、その首を突厥の義成公主に伝え、虜庭に梟した。士及は濟北から西へ長安に帰った。

原文攻元寶藏於魏州,四旬不剋,反為所敗,亡失千餘人。乃東北趣聊城,將招攜海曲諸賊。時遣士及徇濟北,求餽餉。大唐遣淮安王神通安撫山東,并招化及。化及不從,神通進兵圍之,十餘日不剋而退。竇建德悉眾攻之。先是,齊州賊帥王薄聞其多寶物,詐來投附。化及信之,與共居守。至是,薄引建德入城,生擒化及,悉虜其眾。先執智及、元武達、孟秉、楊士覽、許弘仁,皆斬之。乃以轞車載化及之河間,數以殺君之罪,并二子承基、承趾皆斬之,傳首於突厥義成公主,梟於虜庭。士及自濟北西歸長安。

智及は幼少より頑にして凶であり、人と群れをなして闘うことを好み、共に遊び処する者は皆、不逞の徒であり、集まって闘鶏し、鷹や狗を放つことを習った。初め父の功により、爵を濮陽郡公に賜った。蒸淫醜穢、為さざる所なく、その妻の長孫は妬んで述に告げた。述は隠してはいたが、大いにこれを憤り、些細な過ちにも必ず鞭箠を加えた。弟の士及は公主を娶っていることを恃み、また軽んじて忽せにした。ただ化及だけが何事にも庇い助け、父が再三殺そうとするのを、常に救って免れさせたので、ここにおいて頗る親昵した。遂に化及を勧めて人を蕃に入れ、密かに交易させた。事が発覚し、誅に当たったが、述は独り智及の罪悪を証し、化及のために命を請うた。帝は両者を釈放した。述が死の際に、表を抗してその凶暴なることを言い、必ずや家を破るであろうと述べた。帝は後に述を思い、智及を将作少監に授けた。

原文智及幼頑凶,好與人羣鬬,所共遊處,皆不逞之徒,相聚鬬雞,習放鷹狗。初以父功,賜爵濮陽郡公。蒸淫醜穢,無所不為。其妻長孫,妬而告述,述雖為隱,而大忿之,纖芥之愆,必加鞭箠。弟士及恃尚主,又輕忽之。唯化及每事營護,父再三欲殺,輒救免之,由是頗相親昵。遂勸化及遣人入蕃,私為交易。事發,當誅,述獨證智及罪惡,而為化及請命。帝因兩釋。述將死,抗表言其凶勃,必且破家。帝後思述,授智及將作少監。

その江都における殺逆の事は、智及の謀であった。化及が丞相となると、左僕射ぼくやとし、十二衞大將軍を領させた。化及が僭号すると、齊王に封じた。竇建德が聊城を破り、捕らえて斬り、その党十余人也と共に、皆屍を暴き首を梟した。

原文其江都殺逆之事,智及之謀也。化及為丞相,以為左僕射,領十二衞大將軍。化及僭號,封齊王。竇建德破聊城,獲而斬之,并其黨十餘人,皆暴屍梟首。

司馬德戡

原文司馬德戡

司馬德戡は、扶風雍の人である。父の元謙は、周に仕えて都督ととくとなった。德戡は幼くして孤となり、屠豕を以て自らを給した。桑門の釋粲という者がおり、德戡の母の和氏と通じ、遂に彼を撫育して教え、書計を解かしめた。開皇かいこう年中、侍官となり、次第に遷って大都督となった。楊素に従って漢王諒を討ちに出て、内營左右に充てられ、進止便僻で、俊辯多く姦計に長じ、素は大いにこれを善くした。勲功により儀同三司を授けられた。大業三年、鷹揚郎将となった。遼左討伐に従い、位を正議大夫に進め、武賁郎将に遷った。煬帝は甚だこれを昵した。

原文司馬德戡,扶風雍人也。父元謙,仕周為都督。德戡幼孤,以屠豕自給。有桑門釋粲,通德戡母和氏,遂撫教之,因解書計。開皇中,為侍官,漸遷至大都督。從楊素出討漢王諒,充內營左右,進止便僻,俊辯多姦計,素大善之。以勳授儀同三司。大業三年,為鷹揚郎將。從討遼左,進位正議大夫,遷武賁郎將。煬帝甚昵之。

江都に従駕し、左右備身の驍果一万人を率い、城内に営した。隋末の大乱に乗じて、驍果を率いて謀反を企てた。その詳細は化及の事績に記されている。煬帝を捕らえた後、その党の孟秉らと共に化及を推戴して丞相とした。化及はまず徳戡を温国公に封じ、邑三千戸を賜い、光禄大夫を加え、なお本来の兵を統率させた。化及は内心甚だ彼を忌み嫌った。数日後、化及が諸将を任命し、士卒を分配するにあたり、徳戡を礼部尚書に任じた。外見上は栄転を示すが、実はその兵権を奪ったのである。これにより憤慨し、得た賞賜の品物をすべて智及に賄賂として贈り、智及に取り成しを頼んだ。徐州に至り、舟を捨て陸路に移り、徳戡に後軍を率いさせた。そこで趙行枢・李本・尹正卿・宇文導師らと謀り、化及を襲撃しようとし、使者を孟海公のもとに遣わし、外からの援軍として結ぼうとした。遷延して発せず、使者の返報を待っていた。許弘仁・張愷がこれを知り、化及に告げた。そこで化及はその弟の士及に狩猟と偽らせて後軍に至らせた。徳戡は事が露顕したことを知らず、出営して拝謁したところ、捕らえられ、その党類も共に捕えられた。化及が責めて言うには、「公と力を合わせて共に海内を平定し、万死の中より出でた。今ようやく事が成り、共に富貴を守らんと願うのに、公はまた何故に反するのか」と。徳戡は言う、「そもそも暗愚の主君を殺したのは、その毒害に苦しんだからである。足下を推戴したのに、かえってそれより甚だしい。物情に迫られ、已むを得なかったのだ」と。化及は答えず、幕下に送ることを命じ、絞め殺した。時に三十九歳であった。

原文從至江都,領左右備身驍果萬人,營於城內。因隋末大亂,乃率驍果謀反,語在化及事中。既獲煬帝,與其黨孟秉等推化及為丞相。化及首封德戡為溫國公,邑三千戶,加光祿大夫,仍統本兵。化及意甚忌之。後數日,化及署諸將,分配士卒,乃以德戡為禮部尚書,外示美遷,實奪其兵也。由是憤怨,所獲賞物皆賂於智及,智及為之言。行至徐州,捨舟登陸,令德戡將後軍,乃與趙行樞、李本、尹正卿、宇文導師等謀襲化及,遣人使于孟海公,結為外助。遷延未發,以待使報。許弘仁、張愷知之,以告化及,因遣其弟士及陽為遊獵,至于後軍。德戡不知事露,出營參謁,因命執之,并其黨與。化及責之曰:「與公戮力共定海內,出於萬死。今始事成,願得同守富貴,公又何為反也?」德戡曰:「本殺昏主,苦其毒害。推立足下,而又甚之。逼於物情,不獲已也。」化及不對,命送至幕下,縊而殺之,時年三十九。

裴虔通

原文裴虔通

裴虔通は河東の人である。初め、煬帝が晋王であった時、親信として従い、次第に昇進して監門校尉となった。煬帝が即位すると、旧来の側近を抜擢し、宣恵尉を授け、監門直閤に遷った。累次征役に従い、通議大夫に至った。司馬徳戡と共に乱を謀り、先んじて宮門を開き、騎兵で成象殿に至り、将軍独孤盛を殺し、帝を西閤で捕らえた。化及は虔通を光禄大夫・莒国公とした。化及が兵を率いて北進する際、徐州を鎮守させた。化及が敗れた後、大唐に帰順し、直ちに徐州総管を授けられ、辰州刺史に転じ、長蛇男に封ぜられた。まもなく隋朝を弑逆しいぎゃくした罪により、官籍から除名され、嶺表に流されて死んだ。

原文裴虔通,河東人也。初,煬帝為晉王,以親信從,稍遷至監門校尉。煬帝即位,擢舊左右,授宣惠尉,遷監門直閤。累從征役,至通議大夫。與司馬德戡同謀作亂,先開宮門,騎至成象殿,殺將軍獨孤盛,擒帝于西閤。化及以虔通為光祿大夫、莒國公。化及引兵之北也,令鎮徐州。化及敗後,歸於大唐,即授徐州總管,轉辰州刺史,封長蛇男。尋以隋朝殺逆之罪,除名,徙於嶺表而死。

王充

原文王充

王充は字あざなを行満といい、もとは西域の人である。祖父の支頽䅶は新豊に移り住んだ。頽䅶が死ぬと、その妻は若くして寡婦となり、儀同の王粲と野合し、瓊という子を産んだ。王粲は遂に彼女を娶って側室とした。王充の父の収は幼くして孤児となり、母に従って王粲に嫁ぎ、王粲は彼を愛して養育したため、王姓を名乗った。官は懐・汴二州の長史に至った。王充は巻き毛で豺の声を持ち、猜疑心が深く多詭詐で、書伝を窺い、特に兵法を好み、亀策や推歩・盈虚に通暁していたが、人に語ることはなかった。

原文王充字行滿,本西域人也。祖支頹䅶,徙居新豐。頹䅶死,其妻少寡,與儀同王粲野合,生子曰瓊,粲遂納之以為小妻。其父收幼孤,隨母嫁粲,粲愛而養之,因姓王氏,官至懷、汴二州長史。充捲髮豺聲,沉猜多詭詐,頗窺書傳,尤好兵法,曉龜策推步盈虛,然未嘗為人言也。

開皇年間、左翊衛となり、後に軍功により儀同に任ぜられ、兵部員外郎を授けられた。上奏に巧みで、法律に明るく習熟していたが、文墨を弄び、心の内を高下させた。或いは駁難する者があれば、王充は利口で非を飾り、議論が鋭く立ち上がり、衆人はその不可を知りながらも屈服させることができず、明弁と称された。

原文開皇中,為左翊衞,後以軍功拜儀同,授兵部員外。善敷奏,明習法律,而舞弄文墨,高下其心。或有駁難之者,充利口飾非,辭義鋒起,眾雖知其不可而莫能屈,稱為明辯。

煬帝の時、累進して江都郡丞に至った。時に帝はしばしば江都に行幸したが、王充は主君の顔色を窺うことに巧みで、阿諛して旨に順い、毎度入朝して事を奏上すると、帝はこれを良しとした。また郡丞として江都宮監を兼ね、池や台を彫飾し、密かに遠方の珍物を献上して帝に媚びた。これにより帝はますます彼を昵近した。

原文煬帝時,累遷至江都郡丞。時帝數幸江都,充善候人主顏色,阿諛順旨,每入言事,帝善之。又以郡丞領江都宮監,乃雕飾池臺,陰奏遠方珍物以媚於帝,由是益昵之。

大業八年、隋が乱れ始めると、王充は内心僥倖を抱き、身を低くして士を礼遇し、密かに豪傑を結び、多くの人心を収めた。江淮の間の人は元来軽悍であり、また盗賊の群れが起こり、多くの人が法を犯し、獄に繋がれ罪に当たる者がいたが、王充はすべて枉法してこれを釈放し、私恩を樹てた。楊玄感が反乱を起こすと、呉人の朱爕・晋陵人の管崇が江南で兵を起こしてこれに応じ、将軍を自称し、十数万の衆を擁した。帝は将軍の吐万緒・魚倶羅を遣わして討たせたが、勝つことができなかった。王充は江都で一万余人を募り、頻りにこれを撃破した。毎度勝利を得ると、必ず功を部下に帰し、得た戦利品はすべて士卒に分け与え、自身は何も受け取らなかった。これにより人々は争って彼に用いられ、功績が最も多かった。

原文大業八年,隋始亂,充內懷徼倖,卑身禮士,陰結豪俊,多收眾心。江淮間人素輕悍,又屬盜賊羣起,人多犯法,有繫獄抵罪者,充皆枉法出之,以樹私恩。及楊玄感反,吳人朱爕、晉陵人管崇起兵江南以應之,自稱將軍,擁眾十餘萬。帝遣將軍吐萬緒、魚俱羅討之,不能剋。充募江都萬餘人,擊頻破之。每有剋捷,必歸功於下,所獲軍實,皆推與士卒,身無所受。由此人爭為用,功最居多。

十年、斉郡の賊帥孟譲が長白山から諸郡を寇掠し、盱眙に至り、十数万の衆を擁した。王充は兵を以てこれを防ぎ、弱兵を見せて弱さを示し、都梁山に拠って五つの柵を保ち、相持って戦わなかった。後に賊の弛緩に乗じて、出兵して奮撃し、大いにこれを破り、勝に乗じて賊をことごとく滅ぼした。孟譲は数十騎で遁走し、斬首一万人、六畜や軍資はことごとく獲られなかったものはなかった。帝は王充に将帥の才略があると認め、初めて兵を率いることを命じ、諸々の小盗を討たせた。向かうところすべてこれを破った。しかし性質は矯偽で、善を詐り、自ら勤苦して声聞を求めることができた。

原文十年,齊郡賊帥孟讓自長白山寇掠諸郡,至盱眙,有眾十餘萬。充以兵拒之,而羸師示弱,保都梁山為五柵,相持不戰。後因其懈弛,出兵奮擊,大破之,乘勝盡滅賊,讓以數十騎遁去,斬首萬人,六畜、軍資莫不盡獲。帝以充有將帥才略,始遣領兵,討諸小盜,所向皆破之。然性矯偽,詐為善,能自勤苦,以求聲譽。

十一年、突厥が雁門で帝を包囲すると、王充は江都の人々をことごとく発し、難に赴かんとした。軍中にあって、髪を振り乱し顔を垢だらけにし、悲泣して度を失い、昼夜甲を解かず、草を敷いて臥した。帝はこれを聞き、己を愛するものと思い、ますます信任した。

原文十一年,突厥圍帝於雁門,充盡發江都人,將往赴難。在軍中,反首垢面,悲泣無度,曉夜不解甲,藉草而臥。帝聞之,以為愛己,益信任之。

十二年、江都通守に遷った。時に厭次の人格謙が数年盗賊をなし、兵十数万を擁し、豆子䴚の中にいた。王充は師を率いてこれを破り斬り、威は群賊に振るった。また盧明月を撃ち、南陽でこれを破り、斬首数万、虜獲は極めて多かった。後に江都に還ると、帝は大いに喜び、自ら杯酒を執ってこれを賜った。時に王充はまた帝が内寵を好むことを知り、江淮の良家に美女がおり、共に後宮に備えたいと願っているが、自ら進む由がないと述べた。帝はますます喜び、密かに諸女を閲視させ、姿質が端麗で法相に合う者を選び、正庫および京に上納すべき物を以て聘納させた。用いた費用は数え切れず、帳簿には勅別用と記し、その実を顕さなかった。気に入った者がいれば、王充に厚く賞を与え、或いは気に入らない者でも、また彼に賜った。後に船で東京に送るよう命じたが、道路上に賊が起こり、使者は苦役に耐え、淮泗の中で船を沈めて溺死させた者は、前後十数回に及んだ。或いは発覚することもあったが、王充はこれを秘し、また急いで簡閲して進上させた。この後ますます親昵されるようになった。

原文十二年,遷為江都通守。時厭次人格謙為盜數年,兵十餘萬,在豆子䴚中。充帥師破斬之,威振羣賊。又擊盧明月,破之於南陽,斬首數萬,虜獲極多。後還江都,帝大悅,自執杯酒以賜之。時充又知帝好內,乃言江淮良家有美女,並願備後庭,無由自進。帝逾喜,因密令閱視諸女,姿質端麗合法相者,取正庫及應入京物以娉納之。所用不可勝計,帳上云勑別用,不顯其實。有合意者,則厚賞充;或不中者,又以賚之。後令以船送東京,而道路賊起,使者苦役,於淮泗中沉船溺之者,前後十數。或有發露,充為秘之,又遽簡閱以供進。是後益見親昵。

李密が興洛倉を攻め陥とし、東都に進逼し、官軍が数度退却し、光禄大夫の裴仁基が武牢で李密に降ったことを知ると、帝はこれを憎み、大いに兵を発して討たんとした。中詔を発して王充を将軍とし、洛口において李密を防がせた。前後百余戦、互いに勝敗があった。王充は軍を率いて洛水を渡り、倉城に迫った。李密と戦い、王充は敗績し、水に赴いて溺死した者は一万余人に及んだ。時に天寒く大雪が降り、兵士は既に水を渡り、衣はすべて濡れ、道上で凍死した者はまた数万人に及び、河陽に至る頃にはわずか千数に過ぎなかった。王充は自ら獄に繋がって罪を請うた。越王侗は使者を遣わしてこれを赦し、都に還るよう召し還した。亡散した兵を収め合わせ、また一万余人を得て、含嘉城中に屯し、再び出撃しようとはしなかった。

原文遇李密攻陷興洛倉,進逼東都,官軍數却,光祿大夫裴仁基以武牢降于密,帝惡之,大發兵,將討焉。發中詔遣充為將軍,於洛口以拒密,前後百餘戰,互有勝負。充乃引軍渡洛水,逼倉城。李密與戰,充敗績,赴水溺死者萬餘人。時天寒大雪,兵士既渡水,衣皆霑濕,在道凍死者又數萬人,比至河陽,纔以千數。充自繫獄請罪,越王侗遣使赦之,召令還都。收合亡散,復得萬餘人,屯於含嘉城中,不敢復出。

宇文化及が江都において帝を弑すると、王充は太府卿元文都、将軍皇甫無逸、右司郎盧楚と共に楊侗を奉じて主君とした。楊侗は王充を吏部尚書に任じ、鄭国公に封じた。やがて楊侗が元文都と盧楚の謀略を採用し、李密を太尉・尚書令しょうしょれいに拝すると、李密はこれに臣下として称し、また兵を率いて黎陽において宇文化及を防ぎ、使者を遣わして勝利を報告した。人々は皆喜んだが、王充のみは麾下の諸将に向かって言った、「文都の輩は、刀筆の吏に過ぎぬ。その情勢を観るに、必ずや李密に捕らえられるであろう。しかも我が軍人はしばしば李密と戦い、その父兄子弟を殺害すること前後すでに多く、一旦その下に立たば、我らは生き残れぬであろう」と。この言葉を以て衆を激怒させた。元文都はこれを知って大いに恐れ、盧楚らと謀り、王充が内に入る機会に乗じ、伏兵を置いてこれを殺そうとした。期日が定まった頃、将軍段達がその女婿張志を遣わし、盧楚の謀略を王充に告げた。王充は夜間に兵を率いて宮城を包囲し、将軍費曜、田世闍らが東太陽門外でこれと戦った。費曜の軍は敗れ、王充は遂に門を攻めて入り、皇甫無逸は単騎で遁走した。盧楚を捕らえてこれを殺した。時に宮門はまだ閉ざされていたが、王充は門を叩いて楊侗に言上させた、「元文都らは皇帝を捕らえて李密に降らんとし、段達がこれを知って臣に告げました。臣は敢えて謀反を企てたのではなく、反逆者を誅しただけです」と。元文都は変事を聞いて入り、楊侗を乾陽殿に奉じて、兵を陳べてこれを守護した。将帥に命じて城壁に登らせて難を防がせたが、兵は敗れ、また元文都を捕らえてこれを殺した。楊侗は命じて門を開け王充を入れさせた。王充はすべての人を遣わして宿衛の者を代えさせ、それから入謁し、頓首して涙を流しながら言った、「文都らは無状にも、互いに屠害を謀り、事急なればこそこのようにしたのであり、敢えて国に背くものではありません」と。楊侗はこれと盟を結んだ。王充は間もなく韋節らを遣わして楊侗を諷し、自らを尚書左僕射・総督内外諸軍事に拝するよう命じさせた。またその兄の王惲を内史令に任じ、禁中に入居させた。

原文宇文化及殺帝於江都,充與太府卿元文都、將軍皇甫無逸、右司郎盧楚奉侗為主。侗以充為吏部尚書,封鄭國公。及侗取元文都、盧楚之謀,拜李密為太尉、尚書令,密遂稱臣,復以兵拒化及於黎陽,遣使告捷。眾皆悅,充獨謂其麾下諸將曰:「文都之輩,刀筆吏耳。吾觀其勢,必為李密所擒。且吾軍人每與密戰,殺其父兄子弟,前後已多,一旦為之下,吾屬無類矣。」出此言以激怒其眾。文都知而大懼,與楚等謀,將因充入內,伏甲而殺之。期有日矣,將軍段達遣其女婿張志以楚謀告之。充夜勒兵圍宮城,將軍費曜、田世闍等與戰於東太陽門外。曜軍敗,充遂攻門而入,無逸以單騎遁走。獲楚,殺之。時宮門尚閉,充令扣門言於侗曰:「元文都等欲執皇帝降于李密,段達知而以告臣。臣非敢謀反,誅反者耳。」文都聞變入,奉侗於乾陽殿,陳兵衞之。令將帥乘城以拒難,兵敗,又獲文都殺之。侗命開門以納充,充悉遣人代宿衞者,乃入謁,頓首流涕而言曰:「文都等無狀,謀相屠害,事急為此,不敢背國。」侗與之盟。充尋遣韋節等諷侗,令拜為尚書左僕射、總督內外諸軍事。又授其兄惲為內史令,入居禁中。

間もなく、李密が宇文化及を破って帰還したが、その精兵と良馬は多く戦死し、士卒は皆疲弊していた。王充はその疲弊に乗じてこれを撃とうとしたが、人心が一つにならぬことを恐れ、鬼神を仮託し、周公の夢を見たと言って、洛水のほとりに祠を立て、巫を遣わして宣言させた、「周公は僕射が急ぎ李密を討つことを欲し、大功があるであろう、さもなければ兵は皆疫病で死ぬであろう」と。王充の兵は楚の者が多く、俗に妖妄を信じるので、この言葉を以てこれを惑わした。衆は皆戦いを請うた。王充は精鋭を選び練り、二万余人、馬千頭を得て、営を洛水の南に移した。李密の軍は偃師の北山上にあった。時に李密は宇文化及に勝利を得たばかりで、王充を軽んじる心があり、壁塁を設けなかった。王充は夜間に二百余騎を遣わし北山に潜り込ませ、渓谷に伏せさせ、軍に命じて馬に秣を与え早朝の食事をさせた。やがて夜明け前に渡河し、人馬を駆って進み、夜明け頃に李密に迫った。李密は兵を出して応戦したが、陣がまだ列を成さぬうちに両軍が合戦し、伏兵が山を覆って現れ、ひそかに北の原に登り、高みから駆け下りて李密の陣営を圧した。陣営の中は乱れ、防ぐ者なく、即座に入って火を放った。李密の軍は大いに驚き潰走し、その将張童児、陳智略を降し、進んで偃師を陥れた。初め、王充の兄の王偉と子の王玄応は宇文化及に従って東郡に至り、李密がこれを捕らえて城中に囚っていたが、この時に至り、ことごとくこれを捕らえた。また李密の長史邴元真の妻子、司馬鄭虔象の母および諸将の子弟を捕らえ、皆これを慰撫し、それぞれに密かにその父兄を呼ばせた。兵を洛口に進めると、邴元真、鄭虔象らが倉城を挙げてこれに応じた。李密は数十騎で遁走し、王充はその衆をことごとく収めた。そして東は海に至り、南は江に至るまで、悉く帰順してきた。王充はまた韋節を遣わして楊侗を諷し、自らを太尉に拝させ、官属を置き、尚書省をその府とした。間もなく自ら鄭王と称した。その将高略に命じて師を率い寿安を攻めさせたが、利あらずして引き揚げた。また師を率いて穀州を包囲攻撃したが、三日で退いた。翌年、自ら相国と称し、九錫の器物を受けた。この後は楊侗に朝見しなくなった。

原文未幾,李密破化及還,其勁兵良馬多戰死,士卒皆倦。充欲乘其敝而擊之,恐人不一,乃假託鬼神,言夢見周公,乃立祠於洛水之上,遣巫宣言周公欲令僕射急討李密,當有大功,不則兵皆疫死。充兵多楚人,俗信妖妄,故出此言以惑之。眾皆請戰。充簡練精勇,得二萬餘人,馬千餘,遷營於洛水南。密軍偃師北山上。時密新得志於化及,有輕充之心,不設壁壘。充夜遣二百餘騎潛入北山,伏溪谷中,令軍秣馬蓐食。既而宵濟,人奔馬馳,遲明而薄密。密出兵應之,陣未成列而兩軍合戰,其伏兵蔽山而上,潛登北原,乘高下馳,壓密營。營中亂,無能拒者,即入縱火。密軍大驚而潰,降其將張童兒、陳智略,進下偃師。初,充兄偉及子玄應隨化及至東郡,密得而囚之於城中,至是,盡獲之。又執密長史邴元真妻子、司馬鄭虔象之母及諸將子弟,皆撫慰之,各令潛呼其父兄。兵次洛口,邴元真、鄭虔象等舉倉城以應之。密以數十騎遁逸,充悉收其眾。而東盡于海,南至于江,悉來歸附。充又令韋節諷侗,拜為太尉,署置官屬,以尚書省為其府。尋自稱鄭王。遣其將高略帥師攻壽安,不利而旋。又帥師攻圍穀州,三日而退。明年,自稱相國,受九錫備物,是後不朝侗矣。

道士の桓法嗣という者がおり、自ら図讖としんを解すると言い、王充はこれを寵愛した。法嗣は孔子の閉房記を以て、一人の丈夫が一つの干を持って羊を追う絵を描いた。法嗣は言った、「楊は隋の姓なり。干一は王の字なり。羊の後に居るは、相国が隋に代わって帝となることを明らかにするなり」と。また『荘子』の人間世篇と徳充符篇の二篇を取って献上した。法嗣は解釈して言った、「上篇は世を言い、下篇は充を言う、これ即ち相国の名なり。明らかに人間に徳を被らせ、符命に応じて天子となるべきことを示すなり」と。王充は大いに喜んで言った、「これ天命なり」と。再拝してこれを受けた。即座に法嗣を諫議大夫とした。王充はまた雑鳥を網で捕らえ、帛に書いてその首に結び付け、自ら符命であると言って放鳥した。あるいは弾射して鳥を得て献上する者があれば、官爵を授けた。やがて楊侗を別宮に廃し、僭って皇帝の位に即き、元号を開明と建て、国号を鄭とした。大唐が秦王を遣わして衆を率いてこれを包囲すると、王充は頻りに兵を出したが、戦えば不利であり、都外の諸城は相次いで降伏した。王充は窮迫し、使者を遣わして竇建徳に救援を請うた。建徳は精兵を率いてこれを救援した。師が武牢に至ると、秦王に撃破され、建徳を捕らえて城下に至らせた。王充は包囲を突破して出ようとしたが、諸将にこれに応じる者なく、自ら潜んで逃れる所なきを知り、ここに出て降伏した。長安に至り、仇敵の独孤修徳に殺された。

原文有道士桓法嗣者,自言解圖讖,充昵之。法嗣乃以孔子閉房記,畫作丈夫持一干以驅羊。法嗣云:「楊,隋姓也。干一者,王字也。居羊後,明相國代隋為帝也。」又取莊子人間世、德充符二篇上之,法嗣釋曰:「上篇言世,下篇言充,此即相國名矣。明當德被人間,而應符命為天子也。」充大悅曰:「此天命也。」再拜受之。即以法嗣為諫議大夫。充又羅取雜鳥,書帛繫其頸,自言符命而散放之。或有彈射得鳥而來獻者,亦拜官爵。既而廢侗於別宮,僭即皇帝位,建元曰開明,國號鄭。大唐遣秦王率眾圍之,充頻出兵,戰輒不利,都外諸城相繼降款。充窘迫,遣使請救於竇建德,建德率精兵援之。師至武牢,為秦王所破,擒建德以詣城下。充將潰圍而出,諸將莫有應之者,自知潛竄無所,於是出降。至長安,為讎人獨孤修德所殺。

段達

原文段達

段達は、武威郡姑臧県の人である。父の段厳は、北周の朔州刺史であった。段達は北周において、年わずか三歳で襄垣県公の爵を襲封した。成長すると、身長八尺、美しい鬚髯を持ち、弓馬に巧みであった。

原文段達,武威姑臧人也。父嚴,周朔州刺史。達在周,年始三歲,襲爵襄垣縣公。及長,身長八尺,美鬚髯,便弓馬。

高祖こうそ(楊堅)が丞相であった時、大都督として親信の兵を率い、常に左右に置かれた。帝位に即くと、左直斎となり、累進して車騎将軍に遷り、兼ねて晋王(楊広)の参軍となった。高智恵、李積らの乱が起こると、段達は衆一万を率いて方州と滁州を平定し、縑千段を賜り、進んで儀同となった。また宣州において汪文進らを破り、開府を加えられ、奴婢五十口、綿絹四千段を賜った。仁寿じんじゅ初年、太子左衛副率となった。

原文高祖為丞相,以大都督領親信兵,常置左右。及踐阼,為左直齋,累遷車騎將軍,兼晉王參軍。高智惠、李積等之作亂也,達率眾一萬,擊定方、滁二州,賜縑千段,遷進儀同。又破汪文進等於宣州,加開府,賜奴婢五十口,緜絹四千段。仁壽初,太子左衞副率。

大業初年、藩邸時代の旧臣として、左翊衛将軍に拝された。吐谷渾征伐に従い、進んで金紫光禄大夫となった。帝が遼東を征した時、百姓は労役に苦しみ、平原の祁孝徳、清河の張金称らが共に衆を集めて群盗となり、城邑を攻め陥し、郡県は防ぐことができなかった。帝は段達にこれを撃たせたが、しばしば張金称らに挫かれ、失うところ多く、諸賊はこれを軽んじ、段姥と号した。後に鄃県令楊善会の計略を用い、改めて賊と戦い、ようやく勝利を得た。京師に還り、公事に坐して免官された。

原文大業初,以蕃邸之舊,拜左翊衞將軍。征吐谷渾,進位金紫光祿大夫。帝征遼東,百姓苦役,平原祁孝德、清河張金稱等並聚眾為羣盜,攻陷城邑,郡縣不能禦。帝令達擊之,數為金稱等所挫,亡失甚多。諸賊輕之,號為段姥。後用鄃令楊善會之計,更與賊戰,方致剋捷。還京師,以公事坐免。

翌年、帝が遼東を征した時、段達は涿郡に留守した。間もなくまた左翊衛将軍に拝された。高陽の魏刀児が衆十余万を集め、自ら歴山飛と号し、燕・趙を寇掠した。段達は涿郡通守の郭絢を率いてこれを撃破した。当時盗賊が既に多く、官軍は激戦を厭い、段達は機に乗じて決勝することができず、ただ慎重に自らを守り、兵を頓挫させ糧食を費やすばかりで、多く勝利を得られず、当時の人々は皆これを怯懦であると言った。

原文明年,帝征遼東,以達留守涿郡。俄復拜左翊衞將軍。高陽魏刀兒聚眾十餘萬,自號歷山飛,寇掠燕、趙。達率涿郡通守郭絢擊敗之。于時盜賊既多,官軍惡戰,達不能因機決勝,唯持重自守,頓兵饋糧,多無剋獲,時皆謂之為怯愞。

十二年、帝が江都宮に幸すると、詔して段達と太府卿元文都に東都を留守させた。李密が洛口を占拠し、兵を放って城下を侵掠すると、段達は監門郎将龐玉、武牙郎将霍挙と共に内兵を率いて出てこれを防いだ。頗る功があり、左驍衛大将軍に遷った。王充が敗れた後、李密はまた進んで北芒を占拠し、上春門に来ると、段達は判左丞郭文懿、尚書韋津と共に兵を出してこれを防いだ。段達は賊の勢いが盛んなのを見て、陣を成さずに逃走し、李密に乗ぜられ、軍は大いに潰え、韋津は陣中に没した。これによって賊の勢いは日増しに盛んとなった。

原文十二年,帝幸江都宮,詔達與太府卿元文都留守東都。李密據洛口,縱兵侵掠城下,達與監門郎將龐玉、武牙郎將霍舉率內兵出禦之。頗有功,遷左驍衞大將軍。王充之敗也,密復進據北芒,來至上春門,達與判左丞郭文懿、尚書韋津出兵拒之。達見賊盛,不陣而走,為密所乘,軍大潰,津沒於陣。由是賊勢日盛。

帝が江都にて崩御すると、達は元文都らと共に越王侗を推戴して主君とし、開府儀同三司に任じ、納言を兼ね、陳国公に封ぜられた。元文都らが王充を誅殺せんと謀った際、達は密かに王充に告げ、内応となった。事が発覚すると、越王侗は元文都を王充に引き渡し、王充は達に大いに恩を感じ、特に尊崇重用された。李密を破った後、達らは越王に王充に九錫を加え器物を備えるよう勧め、やがて禅譲を促した。王充が帝号を僭称すると、達を司徒しととした。東都が平定されると、罪に坐して誅殺され、妻子は籍没された。

原文及帝崩於江都,達與元文都等推越王侗為主,署開府儀同三司,兼納言,封陳國公。元文都等謀誅王充也,達陰告充,為之內應。及事發,越王侗執文都於充,充甚德於達,特見崇重。既破李密,達等勸越王加充九錫備物,尋諷令禪讓。充僭尊號,以達為司徒。及東都平,坐誅,妻子籍沒。

史臣が曰く、化及は凡庸で臆病な下才であり、累代の恩に背き、王充は器量の小さい小人で、時に幸いして遇され、共に抜擢を受け、旧臣を超える礼遇を受けた。既に崩壊の時期に属しながら、身を致し命を尽くすことができず、利に乗じ便に因り、先んじて綱紀を犯すことを図り、不逞の輩を率い、専ら乱の階梯となった。根本を抜き源を塞ぎ、冠を裂き冕を毀った。或いは自らが兵乱の首謀者となり、或いは自ら毒殺を行い、その罪は指鹿の故事に深く、事態は熊蹯を食らう故事に切迫し、天地の容れざるところ、人神の共に憤るところとなった。故に梟と獍のごとき凶悪な首魁は相次いで誅戮され、蛇や豚のごとき醜い類は踵を継いで誅滅され、当年の忠義を快くし、来葉への明らかな戒めを垂れた。嗚呼、人臣たる者はこれを殷鑑とせざるべけんや。これを殷鑑とせざるべけんや。

原文史臣曰:化及庸愞下才,負恩累葉,王充斗筲小器,遭逢時幸,俱蒙奬擢,禮越舊臣。既屬崩剝之期,不能致身竭命,乃因利乘便,先圖干紀,率羣不逞,職為亂階,拔本塞源,裂冠毀冕。或躬為戎首,或親行鴆毒,釁深指鹿,事切食蹯,天地所不容,人神所同憤。故梟獍凶魁,相尋葅戮,蛇豕醜類,繼踵誅夷,快忠義於當年,垂炯戒於來葉。嗚呼,為人臣者可不殷鑒哉!可不殷鑒哉!