隋書

卷八十四列傳第四十九 北狄

突厥

突厥の先祖は、平涼の雑胡(雑居する胡族)であり、姓は阿史那氏である。後魏の太武帝が沮渠氏を滅ぼした時、阿史那は五百家を率いて茹茹(柔然)に奔り、代々金山に居住し、鉄器製作に長じていた。金山の形状は兜鍪かぶとのようであり、俗に兜鍪を「突厥」と呼ぶので、これをもって号とした。ある説では、その先祖は西海のほとりに国を建てていたが、隣国に滅ぼされ、男女の老少を問わず皆殺しにされた。一人の子供に至り、殺すに忍びず、足を切り腕を断ち、大沢の中に棄てた。一頭の牝狼がおり、毎度肉を咥えてその者の所へ来たので、この子供はそれを食べ、死なずに済んだ。その後、遂に狼と交わり、狼は孕んだ。あの隣国は、再び人を遣わしてこの子供を殺させようとしたが、狼がその側にいた。使者が殺そうとした時、その狼は神が憑いたかのように、忽然として海東に至り、山上に止まった。その山は高昌の西北にあり、下に洞穴がある。狼がその中に入ると、平坦な土地と茂った草に出会い、土地の広さは二百余里であった。その後、狼は十人の男児を産み、その一人が阿史那氏を姓とし、最も賢かったので、遂に君長となり、故に牙門に狼頭の纛(旗印)を建て、本を忘れないことを示したのである。

阿賢設という者がおり、部落を率いて穴中より出で、代々茹茹に臣事した。大葉護の代に至り、種類は次第に強盛となった。後魏の末年に当たり、伊利可汗という者がおり、兵をもって鉄勒を撃ち、これを大いに破り、五万余家を降伏させ、遂に茹茹に求婚した。茹茹の主阿那瓌は大いに怒り、使者を遣わしてこれを罵った。伊利はその使者を斬り、衆を率いて茹茹を襲い、これを破った。卒し、弟の逸可汗が立ち、また茹茹を破った。病みて将に卒せんとする時、その子の摂図を捨て、その弟の俟斗を立て、木杆可汗と称した。木杆は勇猛で智謀多く、遂に茹茹を撃ち滅ぼし、西では挹怛を破り、東では契丹を走らせ、北方の戎狄は悉くこれに帰服し、中夏と抗衡した。後に西魏の軍と共に東魏に侵入し、太原に至った。

その習俗は畜牧を事とし、水草に随って逐い、常にその処に定住しない。穹廬(ゲル)の氈帳に住み、髪を振り乱し衣を左前に合わせ、肉を食し酪を飲み、身には裘褐(皮衣や粗布)を衣とし、老を賤しみ壮を貴ぶ。官には葉護があり、次に設、次に特勤、次に俟利発、次に吐屯発があり、下は小官に至るまで、凡そ二十八等あり、皆世襲である。角弓、鳴鏑、甲、矟、刀、剣を持つ。騎射に長じ、性質は残忍である。文字はなく、木に刻んで契(割符)とする。月が将に満ちんとするのを待ち、たびたび寇抄を行う。謀反・叛・殺人をした者は皆死に、淫を行う者は勢(陰茎)を切り腰斬にする。闘いで人の目を傷つけた者は女をもって償い、女がなければ婦財(嫁入り道具の財貨)を納め、肢体を折った者は馬を納め、盗みをした者は贓物の十倍を償う。死者があると、屍を帳中に停め、家人親属は多く牛馬を殺してこれを祭り、帳の周りを廻り号呼し、刀で面を劃き、血と涙が交わって流れ下り、七度で止める。そこで日を選んで屍を馬上に置いて焼き、灰を取って葬る。木を表(墓標)として塋(墓域)とし、その中に屋を立て、死者の形儀および生前に経た戦陣の様子を図画する。かつて一人を殺すごとに、一石を立て、千百に至るものもある。父兄が死ぬと、子弟はその群母(父の妾)や嫂を妻とする。五月中、多く羊馬を殺して天を祭る。男子は樗蒲を好み、女子は踏鞠を行い、馬の酪を飲んで酔いを取り、歌い呼び合って相対する。鬼神を敬い、巫覡を信じ、兵死(戦死)を重んじて病終を恥じ、おおよそ匈奴と習俗を同じくする。

木杆は在位二十年で卒し、またその子の大邏便を捨ててその弟を立て、これを佗鉢可汗という。佗鉢は摂図を爾伏可汗とし、その東面を統べさせ、またその弟の褥但可汗の子を歩離可汗とし、西方に居らせた。当時、佗鉢は控弦する者数十万を擁し、中国はこれを憚り、周・斉は争って姻好を結び、府蔵を傾けてこれに事えた。佗鉢はますます驕り、毎度その下に謂いて曰く、「我が南にいる二つの児(北周・北斉)は常に孝順である。どうして貧しさを患わんや」と。斉に沙門の惠琳という者がおり、掠われて突厥の中に入り、そこで佗鉢に謂いて曰く、「斉国が富強であるのは、仏法があるからです」と。そこで因縁果報のことを説いて聞かせた。佗鉢はこれを聞いて信じ、一つの伽藍を建て、使者を斉氏に聘わせ、『淨名経』『涅槃経』『華厳経』等の経典および『十誦律』を求めた。佗鉢もまた躬自ら斎戒し、塔を繞り行道し、内地に生まれなかったことを恨んだ。在位十年、病みて将に卒せんとする時、その子の菴羅に謂いて曰く、「我れ聞く、親しきは父子に過ぐるは莫しと。我が兄はその子を親しまず、地を我に委ねた。我が死んだら、汝は大邏便を避けるべきである」と。佗鉢が卒すると、国中では大邏便を立てようとしたが、その母が賤しいため、衆は服さなかった。菴羅の母は貴く、突厥は平素よりこれを重んじていた。摂図が最後に到り、国中に謂いて曰く、「もし菴羅を立てるならば、我れ兄弟を率いてこれに事えよう。もし大邏便を立てるならば、我れ必ず境を守り、利刃長矛をもって相待とう」と。摂図は年長でかつ雄雄しく、国人は皆これを憚り、敢えて拒む者なく、遂に菴羅を嗣と立てた。大邏便は立つことができず、心に菴羅に服せず、毎度人を遣わして罵り辱めた。菴羅はこれを制することができず、そこで国をもって摂図に譲った。国中で相与に議して曰く、「四可汗の子の中で、摂図が最も賢い」と。そこで迎え立て、号して伊利俱盧設莫何始波羅可汗とし、一号して沙鉢略という。都斤山に治めた。菴羅は降って独洛水に居り、第二可汗と称した。大邏便はそこで沙鉢略に請うて曰く、「我と爾は共に可汗の子であり、各々父の後を承けている。爾は今極めて尊く、我れ独り位無し。何ぞや」と。沙鉢略はこれを患い、阿波可汗とし、もとの部衆を統領させて帰らせた。

沙鉢略は勇猛で衆を得、北夷は皆これに帰附した。高祖こうそ(隋の文帝)が禅を受けると、これを甚だ薄く待遇したので、北夷は大いに怨んだ。折しも営州刺史の高寶寧が乱を起こし、沙鉢略はこれと軍を合わせ、臨渝鎮を攻め陥とした。上(文帝)は辺境に沿って保鄣(堡塁)を修め、長城を峻(高く)し、これに備えさせ、なお重将を命じて幽州・へい州に出鎮させた。沙鉢略の妻は、宇文氏の女で、千金公主といい、自ら宗祀が絶滅したことを傷み、毎度隋を復讐する志を懐き、日夜沙鉢略にこれを言った。ここにおいて衆を悉くして寇と為し、控弦の士四十万を擁した。上は柱国の馮昱に命じて乙弗泊に屯させ、蘭州総管の叱李長叉に臨洮を守らせ、上柱国の李崇に幽州に屯させ、達奚長儒に周槃を拠らせたが、皆虜に敗れた。ここにおいて兵を縦って木硤・石門の両道より来寇し、武威・天水・安定・金城・上郡・弘化・延安の六畜(家畜)はことごとく尽きた。天子は震怒し、詔を下して曰く、

ここにおいて河間王の楊弘・上柱国の豆盧勣・竇榮定・左僕射の高熲・右僕射の虞慶則を並べて元帥とし、塞を出てこれを撃たせた。沙鉢略は阿波・貪汗の二可汗らを率いて来たり拒戦したが、皆敗走して遁げ去った。当時、虜は飢えが甚だしく、食を得ることができず、ここにおいて骨を粉にして糧とし、また災疫多く、死者極めて衆かった。

やがて沙鉢略は阿波のぎょう悍(勇猛で強悍)なのを忌み、その先に帰ったのに乗じて、その部を襲撃し、これを大いに破り、阿波の母を殺した。阿波は帰るに所なく、西に奔って達頭可汗に至った。達頭は、名を玷厥といい、沙鉢略の従父おじであり、旧より西面可汗であった。やがて大いに怒り、阿波に兵を率いて東に向かわせ、その部落でこれに帰するもの将に十万騎に及び、遂に沙鉢略と相攻撃した。また貪汗可汗という者がおり、平素より阿波と睦まじかったが、沙鉢略はその衆を奪ってこれを廃し、貪汗は亡奔して達頭に至った。沙鉢略の従弟の地勤察は別に部落を統べ、沙鉢略と隙があったので、また衆を率いて叛き阿波に帰した。連兵やまず、各々使者を闕に詣らせ、和を請い援を求めたが、上は皆許さなかった。

時に千金公主が上書し、一子の例に倣うことを請うたので、高祖は開府徐平和を遣わして沙鉢略のもとに使わした。晋王広は当時并州を鎮守しており、その隙に乗ずることを請うたが、上は許さなかった。沙鉢略は使者を遣わして書を送り、曰く、「辰年九月十日、天より生まれし大突厥天下の賢聖天子、伊利俱盧設莫何始波羅可汗、大隋皇帝に書を致す。使人開府徐平和至り、辱くも言語を告げ、具に聞く。皇帝は婦父なり、即ちは翁なり、此れは女夫なり、即ちは児の例なり。両境は殊なるれども、情義は一なり。今、親旧を重ね、子々孫々、乃至万世断えず、上天証と為し、終に違負せじ。此の国の所有する羊馬は、皆な皇帝の畜生なり、彼に繒綵有れば、皆な此の物なり、彼此に何の異なる有らんや」と。高祖は報書して曰く、「大隋天子、大突厥伊利俱盧設莫何沙鉢略可汗に書を貽す。書を得て、大いに好心此に向かう有るを知る。既に沙鉢略の婦翁なれば、今日沙鉢略を見ること児に異ならず。即ち親旧の厚意を以て、常に使わす外に、今特に大臣虞慶則を遣わして彼に往きて女を見、また沙鉢略を見ん」と。沙鉢略は兵を陳べ、其の宝物を列ね、坐して慶則を見、病を称して起つ能わず、且つ曰く、「我が父伯以来、人に拜せず」と。慶則は責めて之を諭す。千金公主は私に慶則に謂ひて曰く、「可汗は豺狼の性なり、過ぎて争へば、将に人を齧らんとす」と。長孫晟が説き諭すと、摂図は辞屈し、乃ち頓顙して璽書を跪いて受け、以て首に戴く。既にして大いに慚じ、其の群下因りて相聚ひ慟哭す。慶則は又た臣と称することを遣わすと、沙鉢略は其の属に謂ひて曰く、「何をか臣と名づく」と。報えて曰く、「隋国に臣と称するは、猶此の奴と称するが如きのみ」と。沙鉢略曰く、「大隋天子の奴と為るを得るは、虞僕射の力なり」と。慶則に馬千匹を贈り、并せて従妹を以て之に妻とす。

時に沙鉢略は既に達頭に困らせられ、又た東は契丹を畏れ、使者を遣わして急を告げ、部落を率いて漠南に度り、白道川内に寄居することを請うた。詔有りて之を許す。詔して晋王広に兵を以て之を援けさせ、衣食を与え、車服鼓吹を賜う。沙鉢略は因りて西に阿波を撃ち、破りて之を擒る。而して阿抜国の部落は虚に乗じて其の妻子を掠む。官軍は為に阿抜を撃ち、之を敗り、獲たる所は悉く沙鉢略に与ふ。沙鉢略大いに喜び、乃ち約を立て、磧を以て界と為す。因りて上表して曰く、

高祖詔を下して曰く、「沙鉢略は漠北に称雄し、世年を多く歴たり、百蠻の大なる、此に過ぐるは莫し。往には雖も和すとも、猶二国なりしが、今君臣と作り、便ち一体と成る。情深く義厚し、朕甚だ之を嘉す。天の休を荷ひ、海外截たり、豈朕が薄徳の能く此を致す所ならんや。已に有司に勅し郊廟に肅告せしむ。宜しく普く天下に頒ち、咸く知聞せしむべし」と。是より詔答諸事に并せて其の名を称せず以て之を異にす。其の妻可賀敦周千金公主は、姓を楊氏と賜ひ、属籍に編し、大義公主と改封す。窟含真を策拜して柱国と為し、安国公に封じ、内殿に宴し、皇后に引見し、賞労甚だ厚し。沙鉢略大いに悦び、是より歳時貢献絶えず。

七年正月、沙鉢略は其の子を遣わして方物を入貢し、因りて恒・代の間に獵することを請う。又た之を許し、仍ち人を遣わして其の酒食を賜う。沙鉢略は部落を率ひ再拝して賜を受く。沙鉢略一日に手ずから鹿十八頭を殺し、尾舌を齎して以て献ず。還りて紫河鎮に至るに、其の牙帳は火の為に焼かる。沙鉢略之を悪み、月余りにして卒す。上は為に朝を廃すること三日、太常を遣わして弔祭す。物五千段を贈る。

初め、摂図は其の子雍虞閭の性愞なるを以て、遺令して其の弟葉護処羅侯を立てしむ。雍虞閭は使者を遣わして処羅侯を迎へ、将に之を立たんとす。処羅侯曰く、「我が突厥は木杆可汗以来、多く弟を以て兄に代はり、庶を以て嫡を奪ひ、先祖の法を失ひ、相敬畏せず。汝当に位を嗣ぐべし、我憚らず汝に拜せん」と。雍虞閭又た使者を遣わして処羅侯に謂ひて曰く、「叔は我が父と、根を共にし体を連ぬ、我は枝葉なり。寧ろ我主と作り、根本をして反つて枝葉に同じくせしめ、叔父の尊をして我が卑稚に下らしめんや。又た亡父の命、其れ廃すべけんや。願くは叔疑ふこと勿れ」と。相譲ること五六、処羅侯竟に立ち、是を葉護可汗と為す。雍虞閭を以て葉護と為す。使者を遣わして上表し状を言ふ。上之に鼓吹幡旗を賜ふ。

処羅侯は頤長く背僂み、眉目疎朗、勇にして謀有り。隋の賜へる旗鼓を以て西征し阿波を征す。敵人は隋兵の助けを得たりと以為ひ、多く来り降附し、遂に阿波を生擒す。既にして上書し阿波の死生の命を請ふ。上下其の議す。左僕射高熲進みて曰く、「骨肉相い残すは、教の蠹なり。存養して以て寛大を示すべし」と。上曰く、「善し」と。熲因りて觴を奉り進みて曰く、「軒轅以来、獯粥多く辺患と為る。今遠く北海を窮め、皆な臣妾と為る。此の盛事、振古未だ聞かず。臣敢へて再拝して寿を上ぐ」と。

其の後処羅侯又た西征し、流矢に中りて卒す。其の衆は雍虞閭を奉りて主と為す。是を頡伽施多那都藍可汗と為す。雍虞閭は使者を遣わして闕に詣る。物三千段を賜ふ。毎歳使者を遣わして朝貢す。時に流人楊欽有りて亡びて突厥の中に入り、謬りて彭国公劉昶と宇文氏が謀反し、大義公主に令して兵を発し辺を擾はしむと云ふ。都藍は欽を執りて以て聞かしめ、并せて葧布・魚膠を貢ぐ。其の弟欽羽設の部落強盛なり。都藍は之を忌みて撃ち、陣に首を斬る。其の年、其の母弟褥但特勤を遣わして于闐の玉杖を献ず。上は褥但を拝して柱国・康国公と為す。明年、突厥部落の大人相率ひて使者を遣わし馬万匹、羊二万口、駝・牛各五百頭を貢ぐ。尋て使者を遣わし縁辺に市を置き、中国と貿易することを請ふ。詔して之を許す。

陳を平げたる後、上は陳叔宝の屏風を以て大義公主に賜ふ。主は心恒に平らかならず、因りて屏風に書して詩と為し、陳の亡ぶを敍して自ら寄す。其の辞に曰く、「盛衰朝暮に等しく、世道浮萍の若し。栄華実に守り難く、池臺終に自ら平らかなり。富貴今何くにか在る、空しく丹青を写す事のみ。盃酒恒に楽無く、弦歌詎か声有らんや。余本より皇家の子、飄流して虜庭に入る。一朝成敗を覩て、懐抱忽ち縦横す。古来共に此の如し、我独り名を申すに非ず。唯だ明君の曲有り、偏に遠嫁の情を傷む」と。上聞きて之を悪み、礼賜益だ薄し。公主復た西面突厥の泥利可汗と連結す。上其の変を為さんことを恐れ、将に之を図らんとす。会に主の従ふ胡と私通する有り、因りて其の事を発し、詔を下して之を廃黜す。都藍従はざらんことを恐れ、奇章公牛弘を遣わして美妓四人を将ひて以て之を啗はしむ。時に沙鉢略の子曰く染干、号して突利可汗、北方に居り、使者を遣わして婚を求む。上は裴矩に令して之に謂はしめて曰く、「当に大義主を殺す者にして、方に婚を許すべし」と。突利然りと以為ひ、復た之を譖る。都藍因りて怒を発し、遂に帳中に公主を殺す。都藍は達頭可汗と隙有り、数相征伐す。上之を和解し、各兵を引いて去る。

十七年、突利は使者を遣わして来朝し、娘を迎えさせた。帝は彼を太常に留め置き、六礼を教習させ、宗女の安義公主を妻として与えた。帝は北夷を離間せんと欲し、故に特にその礼を厚くし、牛弘・蘇威・斛律孝卿を相次いで使者として遣わした。突厥は前後して使者を遣わして入朝すること三百七十輩に及んだ。突利は本来北方に居たが、主を尚ぶが故に、南に移って度斤の旧鎮に住み、賜与は優厚であった。雍虞閭は怒って曰く、「我は大可汗なり。反って染干に如かず」と。ここにおいて朝貢は遂に絶え、数たび辺境の患いとなった。十八年、詔してしょく王秀をして霊州道より出撃せしむ。明年、また漢王諒を元帥とし、左僕射高熲に将軍王詧・上柱国趙仲卿を率いさせて並びに朔州道より出撃せしめ、右僕射楊素に柱国李徹・韓僧寿を率いさせて霊州より出撃せしめ、上柱国燕栄をして幽州より出撃せしめて、これを撃たしめた。雍虞閭は玷厥と兵を挙げて染干を攻め、その兄弟子姪を尽く殺し、遂に河を渡り、蔚州に入った。染干は夜に五騎を以て隋の使者長孫晟と共に帰朝した。帝は染干と雍虞閭の使者因頭特勤とをして相い弁詰せしめ、染干の言辞が理に適っていたので、帝は乃ち厚くこれを待遇した。雍虞閭の弟都速六はその妻子を棄て、突利と共に帰朝した。帝はこれを嘉した。勅して染干と都速六に摴蒲をさせ、少しずつ宝物を輸して以てその心を慰めた。

夏六月、高熲・楊素は玷厥を撃ち、大いにこれを破った。染干を意利珍豆啓民可汗に拝した。華言で「意智健」という。啓民は上表して恩を謝して曰く、「臣は既に立てられ、また官名を改む。昔日の姦心は、今悉く除去し、至尊に奉事して、法に違わざらん」と。帝は朔州に大利城を築きて以てこれに居住せしめた。この時安義公主は既に卒していたので、帝は宗女の義成公主を以てこれに妻せしめ、部落の帰する者甚だ衆かった。雍虞閭またこれを撃つ。帝は復た塞内に入ることを命じた。雍虞閭は侵掠止まず、河南に遷り、夏・勝二州の間に在り、徒を発して塹を数百里掘り、東西河に拒ぎ、尽く啓民の畜牧の地となった。ここにおいて越国公楊素をして霊州より出撃せしめ、行軍総管韓僧寿をして慶州より出撃せしめ、太平公史万歳をして燕州より出撃せしめ、大将軍姚弁をして河州より出撃せしめて、都藍を撃たしめた。

師は未だ塞を出でざるに、都藍はその麾下に殺され、達頭は自立して歩迦可汗となった。その国大いに乱れた。太平公史万歳をして朔州より出撃せしめてこれを撃たしめ、大斤山にて達頭に遇い、虜は戦わずして遁走し、追撃して首虜二千余人を斬った。晋王広は霊州より出撃し、達頭は遁逃して去った。尋いでその弟子の俟利伐をして磧東より啓民を攻撃せしむ。帝はまた兵を発して啓民を助け要路を守らしめ、俟利伐は退走して磧に入った。啓民は上表して陳謝して曰く、「大隋の聖人莫縁可汗は、百姓を憐み養うこと、天の覆わざる無きが如く、地の載せざる無きが如し。諸姓は威恩に蒙り、赤心を以て帰服し、並びに部落を将いて聖人可汗に帰投して来たるなり。或いは南に長城に入り、或いは白道に住み、人民羊馬、山谷に徧満す。染干は譬えば枯木の枝葉を重ね起こし、枯骨の皮肉を再生するが如く、千万世長く大隋と羊馬を典とせん」と。

仁寿元年、代州総管韓洪は恒安にて虜に敗れ、庶人に廃せられた。詔して楊素を雲州道行軍元帥とし、啓民を率いて北征せしむ。斛薛等の諸姓は初め啓民に附き、ここに至って叛した。素は軍を河北に駐め、突厥の阿勿思力俟斤等の南渡に値い、啓民の男女六千口・雑畜二十余万を掠めて去る。素は上大将軍梁默に軽騎を率いさせてこれを追撃し、転戦六十余里、俟斤を大破し、人畜を悉く得て啓民に帰した。素はまた柱国張定和・領軍大将軍劉昇をして別路より邀撃せしめ、並びに多く斬獲して還った。兵は既に河を渡り、賊は復た啓民の部落を掠む。素は驃騎范貴を率いて窟結谷の東南に奮撃し、復たこれを破り、八十余里を追奔した。この歳、泥利可汗及び葉護は倶に鉄勒に敗られ、歩迦は尋いでまた大いに乱れ、奚・霫の五部は内に従い、歩迦は吐谷渾に奔った。啓民は遂にその衆を有し、歳毎に朝貢を遣わした。

大業三年四月、煬帝は榆林に幸し、啓民及び義成公主は行宮に来朝し、前後して馬三千匹を献じた。帝は大いに悦び、物一万二千段を賜う。啓民は上表して曰く、「以前、聖人先帝莫縁可汗の存在せしめし日に、臣を憐み、臣に安義公主を賜い、種々少しも短少無かりき。臣の種末は聖人先帝に憐み養われ、臣の兄弟は姤悪し、相共に臣を殺さんとす。臣当時に去る処無く、上を見れば只天を見、下を見れば只地を見、実に聖人先帝の言語を憶い、命を投げて来たる。聖人先帝は臣を見て、大いに臣を憐み、死命を以て養い活かし、前に勝りて、臣をして大可汗に作らしめて坐せしめたり。その突厥の百姓は、死者を除き、還って聚り百姓を作るなり。至尊は今還た聖人先帝の如く、天下四方を捉えて坐すなり。還た臣及び突厥の百姓を養い活かし、実に少しも短少無し。臣今聖人及び至尊の養い活かす事を憶想し、具に奏すべくも尽くし難く、並びに至尊の聖心に在り。臣今は旧日の辺地の突厥可汗に非ず、臣は即ち至尊の臣民なり。至尊臣を憐む時は、乞うらくは大国の服飾法用に依り、一同華夏ならんことを。臣今部落を率い、敢えて以て上聞す。伏して願わくは天慈、請う所に違わざらんことを」と。表が奏上され、帝はその議を下し、公卿は請う所に依ることを請うた。帝は以て不可と為し、乃ち詔を下して曰く、「先王は国を建つるに、夷夏は風を殊にす。君子は民を教うるに、俗を変えんことを求めず。断髪文身、咸くその性に安んじ、旃裘卉服、各おの宜しきを尚ぶ。これに因りてこれを利するは、その道弘大なり。何ぞ必ずしも諸を化して衽を削り、長纓を以て縻さんや。豈に性を遂げるの至理ならんや、包含の遠度に非ざるなり。衣服同じからず、既に要荒の序を弁じ、庶類区別す、弥く天地の情を見る」と。仍って璽書を以て啓民に答え、磧北未だ静かならず、猶お征戦を須うるも、但だ好心孝順ならしむるを以てす、何ぞ必ずしも衣服を変更せんやと為した。

帝は法駕にて千人の大帳に臨み、啓民及びその部落の酋長三千五百人を饗応し、賜物二十万段を賜い、その下の者にはそれぞれ差等があった。また詔を下して曰く、「徳は天地に合し、覆載する所以に遺すことなく、功は区宇に格し、声教の咸く洎る所以なり。梯山航海に至り、正朔を受くるを請い、冠を襲ぎ辮を解き、彼の臣民と同じからん。是の故に王会は貢を納れ、義は前冊に彰れ、呼韓入臣は、殊礼を以て待たる。突厥の意利珍豆啓民可汗は志は沈毅を懐き、世に藩職を修む。往者身を挺てて難に違ひ、足を抜きて仁に帰す。先朝は此の款誠を嘉し、徽号を授く。其の甲兵の衆を資け、其の破滅の余を収め、既に亡びたる国に祀を復し、存せざる地に絶を継がしむ。斯れ固より施は均しく亭育し、沢は要荒に漸す者なり。朕は薄徳を以て、祗びて霊命を奉じ、遠猷を播き、令緒を光融せんことを思ふ。是を以て親しく朔野に巡り、藩服を撫寧す。啓民は深く誠心を委ね、入りて朝覲を奉じ、其の種落を率ゐ、軒墀に拝首す。丹款を言念し、良に嘉尚すべし。宜しく栄数を隆くし、恒典を優にするに式らむ。路車・乗馬・鼓吹・幡旗を賜ふべく、拝を賛して名を称せず、位は諸侯王の上に在らしむべし」と。帝は親しく雲内に巡り、金河を溯りて東し、北に啓民の居る所に幸す。啓民は觴を奉じて寿を上け、跪伏して甚だ恭し。帝は大いに悦び、詩を賦して曰く、「鹿塞に鴻旗駐まり、龍庭に翠輦廻る。氊帳は風を望みて挙がり、穹廬は日に向ひて開く。呼韓は頓顙して至り、屠耆は接踵して来たる。索辮は羶肉を擎げ、韋韝は酒杯を献ず。何ぞ漢天子の如からん、空しく単于台に上る」と。帝は啓民及び主に金甕各一、及び衣服被褥錦綵を賜ひ、特勤以下にはそれぞれ差等があった。

先に、高麗は密かに使者を啓民の所に通ぜしめしが、啓民は誠を推して国に奉じ、境外の交を隠すことを敢へず。是の日、高麗の使人を将ひて見えしむ。勅して牛弘に旨を宣べて之に謂はしめて曰く、「朕は啓民の誠心国に奉ずるを以て、故に親しく其の所に至る。明年当に涿郡に往かん。爾還る日、高麗王に語りて知らしめよ、宜しく早く来朝すべし、自ら疑懼すること勿れ。存育の礼は、当に啓民と同じくすべし。如し或は朝せずんば、必ずや啓民を将ひて彼の土に巡行せん」と。使人は甚だ懼れた。啓民は仍ひて扈従して塞に入り、定襄に至り、詔して藩に帰らしむ。

明年、東都に朝し、礼賜益々厚し。是の歳、疾にて終る。上之が為に朝を廃すること三日、其の子咄吉世を立て、是を始畢可汗と為す。表して公主を尚ぐるを請ふ。詔して其の俗に従ふ。十一年、東都に来朝す。其の年、車駕汾陽宮に避暑す。八月、始畢其の種落を率ゐて入寇し、帝を雁門に囲む。詔して諸郡に兵を発して行在所に赴かしむ。援軍方に至るや、始畢引き去る。是より朝貢遂に絶ゆ。明年、復た馬邑を寇す。唐公兵を以て之を撃ち走らす。

隋末乱離し、中国人之に帰する者無數、遂に大いに強盛し、勢中夏を陵ぐ。蕭皇后を迎へ、定襄に置く。薛挙・竇建德・王世充・劉武周・梁師都・李軌・高開道の徒、尊号を僭すと雖も、皆北面して臣と称し、其の可汗の号を受く。使者往来し、道に相望む。

西突厥

西突厥は、木杆可汗の子大邏便なり。沙鉢略と隙有り、因りて二つに分かれ、漸く以て強盛す。東は都斤に拒ぎ、西は金山を越え、龜茲・鐵勒・伊吾及び西域諸胡悉く之に附く。大邏便は処羅侯に執はる。其の国は鞅素特勤の子を立て、是を泥利可汗と為す。卒し、子達漫立ち、号して泥撅処羅可汗と為す。其の母向氏は、本中国人、達漫を生みて泥利卒す。向氏は又其の弟婆実特勤に嫁す。開皇末、婆実向氏と共に入朝し、達頭の乱に遇ひ、遂に京師に留まり、毎に之を鴻臚寺に舎す。処羅可汗は居るに恒の処無し、然れども多くは烏孫の故地に在り。復た二の小可汗を立て、分ちて統ぶる所の部を統ぶ。一は石国の北に在り、以て諸胡国を制す。一は龜茲の北に居り、其の地名は応娑と曰ふ。官に俟発・閻洪達有り、以て国事を評議す。自余は東国と同じ。毎に五月八日、相聚ひて神を祭り、歳に重臣を遣はして其の先世の居ます所の窟に致祭せしむ。

大業の初めに当たり、処羅可汗は撫御に道無く、其の国多く叛き、鐵勒と屡相攻め、大いに鐵勒に敗れし。時に黄門侍郎裴矩は敦煌に在りて西域を引致す。国乱るるを聞き、又処羅其の母氏を思ふを知り、因りて之を奏す。煬帝は司朝謁者崔君肅を遣はし書を齎して之を慰諭す。処羅は甚だ踞り、詔を受けて肯へて起たず。君肅処羅に謂ひて曰く、「突厥は本一国なり、中分かれて二と為り、自ら相仇敵す。毎歳交兵し、数十年を積むも而も能く相滅すること莫きは、明らかに啓民と処羅国其の勢敵するを知るなり。今啓民其の部落を挙げ、兵且つ百万、入りて天子に臣す。甚だ丹誠有る者は何ぞや。但だ可汗を切に恨みて独り制すること能はざるを以て、故に卑く天子に事へて以て漢兵を借り、二の大国を連ね、可汗を滅ぼさんと欲するのみ。百官兆庶咸く之を許すを請ふ。天子違はず、師出すに日有り。顧みるに可汗の母向氏は、本中国人、京師に帰し、賓館に処る。天子の詔を聞き、可汗の滅ぶるを懼れ、旦夕闕を守り、哭泣悲哀す。是を以て天子憐み焉、其の為に策を輟む。向夫人又匍匐して謝罪し、因りて使を発して以て可汗を召し、内属に入らしめ、恩礼を加ふるを乞ひ、啓民と同じからしむ。天子之に従ふ、故に使を此に遣はす。可汗若し藩と称し詔を拝せば、国乃ち永く安く、而して母は延寿を得ん。然らざれば、則ち向夫人は天子を誑かすと為り、必ず当に取り戮して首を虜庭に伝へ、大隋の兵を発し、北蕃の衆を資け、左に提げ右に挈ち、以て可汗を撃たん。死亡は則ち日無からん。奈何ぞ両拝の礼を惜しみて慈母の命を剿り、一句の臣と称するを吝しみて匈奴国を喪はんや」と。処羅之を聞き、矍然として起ち、涕を流して再拝し、跪きて詔書を受く。君肅又処羅に説きて曰く、「啓民内附し、先帝之を嘉し、賞賜極めて厚し、故に兵強く国富むに致る。今可汗後れて附く、之と寵を争はんとせば、須らく深く天子に結び、自ら至誠を表すべし。既に道遠く以て、未だ朝覲を得ずんば、宜しく一功を立て、以て臣節を明らかにすべし」と。処羅曰く、「如何」と。君肅曰く、「吐谷渾は、啓民の少子莫賀咄設の母家なり。今天子又義成公主を以て啓民に妻せり。啓民は天子の威を畏れて之と絶つ。吐谷渾も亦憾み漢に因る故に、職貢修めず。可汗若し之を誅すを請はば、天子必ず許さん。漢其の内を撃ち、可汗其の外を攻め、之を破ること必せり。然る後に身自ら入朝し、道路阻むこと無く、因りて老母を見る、亦可からずや」と。処羅大いに喜び、遂に使を遣はして朝貢す。

帝が西狩を行わんとした六年、侍御史韋節を遣わして処羅を召し、車駕と大斗抜谷において会するよう命じた。その国の人々は従わず、処羅は使者に謝し、他の事由を以て辞退した。帝は大いに怒ったが、どうすることもできなかった。ちょうどその酋長射匱が使者を遣わして求婚してきたので、裴矩は因みに奏上して言うには、「処羅が朝貢しないのは、強大な勢力を恃んでいるからです。臣は計略を以てこれを弱め、その国を分裂させれば、容易に制御できるでしょう。射匱は、都六の子、達頭の孫であり、代々可汗となり、西面を君臨してきました。今、その職を失い、処羅に附隷していると聞きます。故に使者を遣わして来たのは、援助を結ぼうとするからです。その使者を厚く礼遇し、大可汗に拝するならば、突厥の勢力は分かれ、両者ともに我に従うでしょう」と。帝は言った、「公の言う通りである」。そこで裴矩を遣わして朝夕館に至らせ、微かに諭し説かせた。帝は仁風殿においてその使者を召し、処羅が従順でない意を述べ、射匱に好意があると称え、我は彼を大可汗に立て、兵を発して処羅を誅するよう命じ、その後で婚姻を結ぶであろうと言った。帝は桃竹の白羽箭一本を取って射匱に賜り、因みにこれに対して言った、「この事は速やかに行うべきで、箭のように疾くせよ」。使者が帰る途中、処羅の地を通った。処羅は箭を気に入り、留めようとしたが、使者は詭計を用いて免れた。射匱はこれを聞いて大いに喜び、兵を興して処羅を襲い、処羅は大敗し、妻子を棄て、左右数千騎を率いて東へ走った。途中でまた劫掠を受け、高昌の東に遁れ、時羅漫山に保った。高昌王麴伯雅が状況を上奏したので、帝は裴矩に向氏の親族と側近を率いさせ、玉門関の晋昌城に馳せ至らせた。矩は向氏を使者として処羅の所に遣わし、朝廷の広大な養育の義を説き、丁寧に諭し説いたので、遂に入朝した。しかし常に怏怏たる色があった。

七年の冬、処羅は臨朔宮において朝見した。帝はこれを饗した。処羅は稽首して謝して言うには、「臣は西面の諸蕃を総べながら、早くに来朝して拝することができず、今参見が遅くなりました。罪責は極めて深く、臣の心中は悚懼し、言い尽くせません」と。帝は言った、「かつては突厥と互いに侵擾し、安住することができなかった。今や四海は既に清く、一家と異なることはない。朕は皆を存養し、その性霊を遂げさせたい。譬えば天上にはただ一つの太陽が照臨し、すべてが寧帖である。もし二つ三つの太陽があれば、万物はどうして安んじられようか。近頃、処羅が総摂する事柄が煩雑で、早く相見えることができないのも知っていた。今日処羅に会い、懐抱は豁然として喜ばしい。処羅もまた豁然とすべきで、煩わしく気にかけるには及ばない」。翌年の元会において、処羅は寿を上って言った、「天より以下、地より以上、日月の照らす所、ただ聖人可汗のみあり。今は大いなる日なり。願わくは聖人可汗、千歳万歳、常に今日の如くであらんことを」。詔してその累弱なる者一万余口を留め、その弟達度闕に会寧郡で牧畜させた。

処羅は高麗征伐に従い、曷薩那可汗の号を賜り、賞賜は甚だ厚かった。十年正月、信義公主を嫁がせ、錦綵の袍千具、綵一万匹を賜った。帝はその故地を回復させようとしたが、遼東の役のため、まだその暇がなかった。常に巡幸に従った。江都の乱において、化及に従って河北に至った。化及が敗れんとする時、京師に奔って帰ったが、北蕃の突厥によって害された。

鉄勒

鉄勒の祖先は、匈奴の苗裔である。種類が最も多い。西海の東より、山谷に依拠し、往々として絶えることがない。独洛河の北には僕骨、同羅、韋紇、抜也古、覆羅があり、並びに俟斤と号し、蒙陳、吐如紇、斯結、渾、斛薛などの諸姓があり、勝兵は二万ほどである。伊吾より西、焉耆の北、白山に傍うては、契弊、薄落職、乙咥、蘇婆、那曷、烏讙、紇骨、也咥、於尼讙などがあり、勝兵は二万ほどである。金山の西南には薛延陀、咥勒児、十槃、達契などがあり、一万余の兵である。康国の北、阿得水に傍うては、訶咥、曷嶻、撥忽、比干、具海、曷比悉、何嵯蘇、抜也未渇達などがあり、三万ほどの兵である。得嶷海の東西には蘇路羯、三索咽、蔑促、隆忽などの諸姓があり、八千余である。拂菻の東には恩屈、阿蘭、北褥九離、伏嗢昏などがあり、二万人近くである。北海の南には都波などがある。姓氏はそれぞれ別であるが、総じて鉄勒と称する。君長はおらず、東・西両突厥に分属する。恒常の住所はなく、水草に随って流移する。人性は凶忍で、騎射に長け、貪婪は特に甚だしく、寇抄を以て生業とする。西辺に近い者は、やや農耕を行い、牛羊多くして馬は少ない。突厥が国を持つようになって以来、東西に征討するに、皆その力を資とし、以て北荒を制した。

開皇の末、晋王広が北征し、啓民を納れ、歩迦可汗を大破したので、鉄勒はここに分散した。大業元年、突厥の処羅可汗が鉄勒諸部を撃ち、その物産に厚く税を斂め、また薛延陀などを猜忌し、変を為すことを恐れ、遂にその魁帥数百人を集め、尽く誅した。ここにおいて一時に反叛し、処羅を拒ぎ、遂に俟利発俟斤契弊歌楞を立てて易勿真莫何可汗とし、貪汗山に居らせた。また薛延陀の内俟斤、字は也咥なる者を立てて小可汗とした。処羅可汗が既に敗れた後、莫何可汗は初めて強大となった。莫何は勇毅にして人倫を絶し、甚だ衆心を得て、隣国に憚られ、伊吾、高昌、焉耆諸国は皆これに附した。

その俗は大抵突厥と同じであるが、ただ夫は婚礼を終えると、直ちに妻の家に就き、産乳して男女を得るのを待って、その後家に帰る。死者は埋殯する。これがその異なる点である。大業三年、使いを遣わして方物を貢ぎ、これより絶えることがなかったという。

奚は本来庫莫奚といい、東部胡の種である。慕容氏に破られ、遺落した者は松、漠の間に竄匿した。その俗は甚だ不潔であるが、射獵に長け、寇鈔を好む。初め突厥に臣従したが、後やや強盛となり、五部に分かれた。一は辱紇王、二は莫賀弗、三は契箇、四は木昆、五は室得という。各部ごとに俟斤一人がその帥となる。水草に随い逐うことは、突厥に頗る似る。阿会氏があり、五部の中で最も盛んで、諸部は皆これに帰した。常に契丹と相攻撃し、虜獲した財畜によって賞を得た。死者は葦の薄で屍を裹み、樹上に懸ける。突厥が藩を称して以来、また使いを遣わして入朝したが、或いは通じ或いは絶え、最も信義がなかった。大業の時、毎年使いを遣わして方物を貢いだ。

契丹〈室韋〉

契丹の祖先は、庫莫奚と種は異なるが同類であり、並びに慕容氏に破られ、共に松、漠の間に竄した。その後やや大きくなり、黄龍の北数百里に居た。その俗は靺鞨に頗る似る。寇盗を好む。父母が死んで悲哭する者は、壮でないとされ、ただその屍を山樹の上に置き、三年を経た後に、その骨を収めて焚く。因みに酒を地に注いで祝して言うには、「冬月の時は、陽に向かって食え。我が射獵する時は、我をして多く猪鹿を得させよ」と。その無礼で頑嚚なことは、諸夷の中で最も甚だしい。

後魏の時代に、高句麗に侵され、部落一万余口が内附を求め、白貔河に留まった。その後、突厥に逼迫され、また一万家を高句麗に寄寓した。開皇四年、諸莫賀弗を率いて来朝した。五年、その衆を悉くして塞に款き、高祖はこれを容れ、故地に居住することを許した。六年、その諸部が相攻撃し、久しく止まず、また突厥と相侵したため、高祖は使者を遣わして責めた。その国は使者を闕に詣らせ、頓顙して罪を謝した。その後、契丹の別部である出伏らが高句麗に背き、衆を率いて内附した。高祖はこれを容れ、渴奚那頡の北に安置した。開皇末、その別部四千余家が突厥に背いて来降した。上方は突厥と和好しており、遠人の心を失うことを重んじ、悉くに糧を与えて本に還らせ、突厥に勅してこれを撫納させた。固く辞して去らなかった。部落は漸く衆を成し、遂に北に徙って水草を逐い、遼西の正北二百里に当たり、紇臣水に依拠して居住した。東西五百里に亘り、南北三百里、十部に分かれた。兵の多いものは三千、少ないものは千余、寒暑を逐い、水草に随って畜牧した。征伐あるときは、酋帥相い議し、兵を興し衆を動かすに符契を合わせた。突厥の沙鉢略可汗は吐屯潘垤を遣わしてこれを統べさせた。

室韋は、契丹の類である。その南にあるものを契丹と為し、北にあるものを号して室韋と為し、五部に分かれ、相い総一せず、いわゆる南室韋、北室韋、鉢室韋、深末怛室韋、太室韋である。並びに君長なく、人民貧弱にして、突厥は常に三吐屯を以てこれを総領した。

南室韋は契丹の北三千里に在り、土地は卑湿にして、夏に至れば則ち西北の貸勃、欠対の二山に向かって移り、草木多く、禽獣に富み、また蚊蚋多く、人皆な巣居して、その患を避く。漸く二十五部に分かれ、毎部に余莫弗瞞咄有り、酋長の如し。死すれば則ち子弟代わり立ち、嗣絶すれば則ち賢豪を択びてこれを立てる。その俗、丈夫は皆な髪を被き、婦人は髪を槃し、衣服は契丹と同じ。牛車に乗り、籧篨を以て屋と為し、突厥の氈車の状の如し。水を渡れば則ち薪を束ねて筏と為し、あるいは皮を以て舟と為す。馬には則ち草を織りて韉と為し、繩を結びて轡と為す。寝れば則ち屈めて屋と為し、籧篨を以て上を覆い、移れば則ち載せて行く。猪皮を以て席と為し、木を編みて藉と為す。婦女は皆な膝を抱いて坐す。気候は寒多く、田収は甚だ薄く、羊無く、馬少なく、猪牛多し。酒を造り食を噉むこと、靺鞨と同じ俗なり。婚嫁の法は、二家相い許せば、婿輒ち婦を盗み去り、然る後に牛馬を送って娉と為し、更に家に帰す。娠有るを待ちて、乃ち相い随って舎に還る。婦人は再嫁せず、以て死人の妻は共に居し難しと為す。部落共に大棚を為し、人死すれば則ち屍を其上に置く。喪に居すること三年、年唯だ四哭す。その国には鉄無く、高句麗に取り給う。貂多し。

南室韋より北に十一日行きて北室韋に至る。九部落に分かれ、吐紇山を繞って居住す。その部落の渠帥は号して乞引莫賀咄と為し、毎部に莫何弗三人有りてこれを貳す。気候最も寒く、雪深くして馬を没す。冬は則ち山に入り、土穴の中に居し、牛畜多く凍死す。麞鹿に富み、射猟を務めとし、肉を食い皮を衣う。氷を鑿ち、水中に没して魚鼈を網射す。地は積雪多く、坑穽に陥るを懼れ、木に騎りて行く。俗皆な貂を捕らえて業と為し、狐狢を以て冠と為し、魚皮を以て衣と為す。

また北に千里行きて、鉢室韋に至る。胡布山に依りて住み、人衆は北室韋より多く、幾部落なるかを知らず。樺皮を以て屋を蓋い、その余は北室韋と同じ。

鉢室韋より西南に四日行きて、深末怛室韋に至る。水に因りて号と為す。冬月は穴居して、太陰の気を避く。

また西北数千里にして、大室韋に至る。径路険阻にして、言語通ぜず。特に貂及び青鼠多し。

北室韋は時に使者を遣わして貢献す。余は至る者無し。

史臣曰く、四夷の中国を患うること久し。北狄は特に甚だし。種落実に繁く、迭りに辺塞に雄たり、年代遐邈にして、一時に非ず。五帝の世には、則ち獯粥有り。その三代に在りては、則ち獫狁有り。両漢に逮れば、則ち匈奴有り。当塗・典午には、則ち烏丸・鮮卑有り。後魏及び周には、則ち蠕蠕・突厥有り。これらはその酋豪、相い継ぎて互いに君長と為る者なり。皆な畜牧を業と為し、侵鈔を資と為し、倏として来たり忽として往き、雲の飛び鳥の集まるが如し。智謀の士は、廟堂の上に和親を議し、折衝の臣は、塞垣の下に奮撃を論ず。然れども事に恒規無く、権に定勢無く、親疎はその強弱に因り、服叛はその盛衰に在り。衰えば則ち塞に款き顙を頓ち、盛えば則ち弓を彎げて寇掠し、屈申態を異にし、強弱相反す。正朔の及ばざる所、冠帯の加えざる所、唯だ利を視るのみにして、盟誓を顧みず。互いに救譲せず、驕黠にして憑陵するに至りては、和親約結の謀、行師用兵の事、前史これを論ずること備わりたれば、故に詳らかにして究めず。蠕蠕の衰微に及び、突厥始めて大いに至り、木杆に至りて、遂に朔野に雄たり。東は東胡の旧境に極まり、西は烏孫の地を尽くし、彎弓数十万、代陰に列処し、南向して周・斉に臨む。二国これに抗うること能わず、争って盟好を請い、和親を結ばんことを求む。乃ち周と合従し、終に斉国を亡ぼす。高祖鼎を遷すや、その徒孔熾にして、その衆力を負い、将に秦郊を蹈まんとす。内自ら相図り、遂に乖乱を以てし、達頭可汗は遠く遁れ、啓民は塞下を保たんことを願う。ここにおいて亡を推し存を固め、その旧地に返し、余燼を討つのを助け、部衆遂に強し。仁寿に卒するまで、侵さず叛かず、始畢に及びては、未だ臣礼を虧かさず。煬帝これを撫するに道に非ざれば、始めて雁門の囲み有り。俄かに群盗並び興るに属し、ここにおいて漸く以て雄盛となり、豪傑名号を建つるも、請好して民を息まざるは莫し。ここにおいて官司を分置し、中国を総統し、子女玉帛、道に相継ぎ、使者の車、往来轍を結ぶ。古より蕃夷の驕僭、斯くの如き甚だしきは未だ有らざるなり。聖哲期に膺り、氛祲を掃除するに及び、時変に暗くして、猶お旅拒を懐き、その群醜を率い、屡々亭鄣を隳し、我が雲・代を残毀し、我が太原を揺蕩し、涇陽に於いて肆掠し、渭汭に於いて馬を飲ます。聖上奇謀潜かに運び、神機密かに動き、遂に百世羈縻せざるの虜を一挙にして滅ぼし、瀚海・龍庭の地を画して九州と為し、幽都窮発の民を編戸に隷す。実に帝皇の及ばざる所、書契の未だ聞かざる所なり。これに由りて言えば、天道に盛衰有りと雖も、亦た人事の工拙なり。加うるに為して恃まず、有りて居らず、天地の含容に類し、陰陽の化育に同じ。斯れ乃ち大道の行わるるなり、固より称うるを得ず。

この作品は全世界において公有領域に属する。作者の没後100年以上が経過し、かつ作品が1931年1月1日より前に出版されたためである。