隋書

巻七十三 列傳第三十八 循吏

循吏

古来、人民を善く治める者は、仁をもって養い、義をもって使役し、礼をもって教え、その便に随って処遇し、その欲するところに因って与え、その好むところに従って勧める。父母が子を愛するが如く、兄が弟を愛するが如く、その飢寒を聞けば哀しみ、その労苦を見れば悲しむ。故に人は敬して喜び、愛して親しむ。子産が鄭国を治め、子賤が単父に居り、賈琮が冀州を治め、文翁がしょく郡となったごときは、皆その災患を恤れみ、忠厚をもって導き、これに因って利を与え、恵みを与えて費やさない。その輝きは千年を映し、芳しい名声は絶えず、それは何によるか。この道を用いるによるのである。されば五帝・三王は人を易えずして教化し、皆その教化する所によるのみ。故に無能の吏はあれど、化せざる人はない。高祖こうそ(文帝)は天命を受け図籍を撫で、凶悪を除き乱を静め、日暮れても食を忘れ、前王を超えんと考える。しかし詩書を重んぜず、道徳を尚ばず、専ら法令を任じ、厳しく察して下に臨む。吏は苟も免れんことを存し、寛恵を聞くことは稀で、時機に乗じて利を射る者は、多くは一切の手段をもって名を求めた。煬帝が継いで興ると、志は遠大な謀略にあり、車轍馬跡、将に天下に遍からんとし、綱紀は弛緩紊乱し、四維は張られず。その中で、侵漁に巧みで、剥奪に強く、億兆の命を絶ち、一人の求める所を遂げる者を、奉公と称し、即時に昇進させた。その中で、名節を顧み、綱紀を存し、攘奪の心を抑え、百姓の欲に従う者を、則ち附下と称し、直ちに誅戮に及ぼした。吏が侵漁して、その欲する所を得るならば、たとえその禁を重くしても、なお行う者がある。吏が清平で、その欲する所を失うならば、たとえその賞を高くしても、なお行わぬ者がある。ましてや上はその奸を賞し、下はその欲を得るにおいて、廉潔を求め得ることは、また難からぬか。彦光らは厳察の朝に立ち、昏狂の主に属し、心を執り平允にして、終に仁恕を行い、余風と遺愛は、没して忘れられず、寛恵の音は、以て来葉に伝えるに足る。故にその行いを列ねて、『循吏』の篇に繋ぐのである。

梁彦光

梁彦光、字は修芝、安定郡烏氏県の人である。祖父の茂は、魏の秦・華二州刺史であった。父の顕は、周の邢州刺史であった。彦光は幼少より聡明で、至誠の性があり、父は常に親しい者に言うには、「この子は風骨あり、必ずや我が宗族を興すであろう」と。七歳の時、父が重篤な病に罹り、医者が五石散を服用すれば治ると言った。時に紫石英を求め得なかった。彦光は憂い憔悴して為す所を知らず、ふと園中で一物を見る。彦光の識らぬもので、怪しんで持ち帰ると、即ち紫石英であった。親族は皆これを異とし、至孝の感ずる所と為した。魏の大統末年、太学に入り、経史を略く渉猟し、規律があり、急な時も必ず礼に依った。秘書郎に初任し、時に十七歳であった。周が禅譲を受けると、舎人上士に遷る。武帝の時、累進して小馭下大夫となった。母の喪で職を去り、礼を過ぎるほどに憔悴した。間もなく起用されて職務に就かせると、帝はその憔悴の甚だしいのを見て、長く嘆息し、頻りに慰諭を蒙った。後に小内史下大夫に転ず。建徳年間、御正下大夫となる。帝に従って斉を平定し、功により開府・陽城県公に授けられ、邑千戸を賜う。宣帝が即位すると、華州刺史に拝され、華陽郡公に進封され、邑五百戸を増やされ、陽城公の爵位を以て一子に転封させた。間もなく上大将軍に進み、御正上大夫に遷る。やがて柱国・青州刺史に拝されたが、帝の崩御に属し、その官に赴かなかった。高祖(文帝)が禅譲を受けると、岐州刺史と為し、岐州宮監を兼領し、邑五百戸を増やされ、前の分と合わせて二千戸となった。甚だ恵みある政績があり、嘉禾や連理の木が州境に現れた。開皇二年、帝が岐州に行幸し、その才能を喜び、詔を下して曰く、「賞は以て善を勧め、義は兼ねて物を訓う。彦光の操行は平直、識見は凝遠、岐下に政を布き、威恵は人に在り、廉慎の誉れは天下に聞こえる。三年の後、自ずから遷陟すべきであるが、その困窮を恐れ、且つ善を顕彰すべし。粟五百斛、物三百段、御傘一枚を賜うべし。庶幾くば朕が心に感ずる有りて、日にその美を増さんことを。四海の内、凡そ官人と曰う者は、高山を慕いて仰ぎ止み、清風を聞いて自ら励ますべし」と。間もなく、また銭五万を賜う。後数年して、相州刺史に転ず。彦光は以前岐州に在った時、その俗は頗る質朴で、静をもって鎮めると、全境大いに化され、考課の上奏は連続して最上となり、天下第一と為った。相部に居るに及んで、岐州の法の如くした。鄴都は雑多な習俗で、人多く変詐に長け、そのために歌を作り、その理化能わざるを称した。帝はこれを聞いて譴責し、遂に罪に坐して免官された。一年余りして、趙州刺史に拝された。彦光は帝に言うには、「臣が以前相州に待罪した時、百姓は臣を戴帽餳(帽子を被った飴)と呼びました。臣は自ら廃黜を分ち、再び衣冠の望みは無いと思いましたが、天恩が再び収録を垂れ給うとは思いませんでした。どうか再び相州と為し、弦を改め調を易え、その風俗を変えることができ、隆恩に答えたいと存じます」と。帝はこれに従い、再び相州刺史とした。豪猾の者は彦光が自ら請うて来たと聞き、嘲笑しない者はなかった。彦光が着任すると、奸悪隠れたることを摘発し、神明の如き有り様で、ここに狡猾の徒は、ひそかに逃げ去らぬ者はなく、全境大いに驚いた。初め、斉が滅亡した後、衣冠の士人は多く関内に移り、ただ技巧・商販及び楽戸の家のみが州城に移り住んで実とした。これにより人情は険詖で、妄りに風謡を起こし、官人を訴訟すること、万端千変であった。彦光はその弊を革めんと欲し、乃ち秩俸の物を以て、山東の大儒を招致し、毎郷に学を立て、聖哲の書でなければ教授させなかった。常に季月にこれらを召集し、自ら臨んで策試した。勤学で異等、聡明で令聞ある者は、堂に昇らせて饌を設け、その余は並んで廊下に坐らせた。諍訟を好み、業に惰り成すことなき者は、庭中に坐らせ、粗末な食器を設けた。大成に及んで、賓貢の礼を行い、また郊外で祖道の儀を行い、併せて財物を以て資助した。ここにおいて人は皆克励し、風俗は大いに改まった。滏陽の人焦通、性来酒に酔い、親に事える礼を欠き、従弟に訴訟された。彦光はこれを罪せず、州学に連れて行き、孔子廟で観覧させた。時に廟中には韓伯瑜が、母の杖が痛まず、母の力弱きを哀しみ、母に向かって悲泣する像があり、通は遂に感ずる所を悟り、悲しみ且つ愧じ、自らを容れる所無きが如かった。彦光は訓諭してこれを遣わした。後に過ちを改め行いを励み、遂に善士となった。徳を以て人を化すること、皆この類である。吏人は感悦し、諍訟は全く無かった。後数年して、官に卒し、時に六十歳。冀・定・青・瀛四州刺史を追贈され、諡して襄と曰う。子の文謙が嗣いだ。

文謙は弘雅にして父の風有り、上柱国の嫡子として、例により儀同を授けられた。開皇十五年、上州刺史に拝された。煬帝が即位すると、饒州刺史に転ず。一年余りして、鄱陽太守となり、天下第一と称された。戸部侍郎に召し拝された。遼東の役では、武賁郎将を領し、間もなく本官のまま太府・衛尉二少卿を兼ねて検校した。翌年、また武賁郎将を領し、盧龍道軍副となった。時に楊玄感が乱を起こし、その弟の武賁郎将玄縦は先に文謙に隷属していたが、玄感の反間が未だ至らぬうちに玄縦が逃走した。文謙はこれを覚らず、この罪に坐して桂林に配流防禦され、その地で卒した。時に五十六歳。

末子の文譲は、初め陽城県公に封ぜられ、後に鷹揚郎将となった。衛玄に従って東都で楊玄感を撃ち、力戦して死んだ。通議大夫を追贈された。

樊叔略

樊叔略は陳留の人である。父の歡は魏に仕えて南兗州刺史・阿陽侯となった。高氏が権力を専らにするに当たり、興復の計を謀ろうとしたが、高氏に誅殺された。叔略はまだ幼少の頃であり、腐刑に処せられ、殿省に給使された。身長九尺、志気凡ならず、高氏に甚だ忌まれた。内に自ら安んぜず、遂に関西に奔った。周の太祖はこれを見て器とし、左右に引き置いた。まもなく都督ととくを授けられ、爵を襲い侯となった。大塚宰宇文護が政を執ると、中尉に引き立てた。叔略は計数多く、時事に通暁していたため、護は次第に委任信任し、内外を兼ねて督せしめた。累遷して驃騎大將軍・開府儀同三司となった。護が誅された後、齊王憲が園苑監に引き立てた。当時憲は平素より関東を併呑する志があり、叔略は事に因りしばしば兵謀を進言したので、憲は甚だこれを奇とした。建德五年、武帝に従い齊を伐ち、叔略は精鋭を部率し、戦うごとに身先士卒した。功により上開府を加えられ、清郷縣公に進封され、邑千四百戸を賜った。汴州刺史に拝され、明決と号された。宣帝の時、洛陽らくように東京を営建するに当たり、叔略に巧思あるを以て、営構監に拝し、宮室の制度は皆叔略の定めるところであった。功未だ成らざるに帝崩じた。尉遅迥の乱に際し、高祖は叔略に大梁を鎮守せしめた。迥の将宇文威が来寇したが、叔略はこれを撃退した。功により大將軍に拝され、再び汴州刺史となった。高祖が禅を受けると、位上大將軍を加えられ、安定郡公に進爵した。州に在ること数年、甚だ声譽があった。鄴都の俗は薄く、難化と号されていたが、朝廷は叔略の所在著稱なるを以て、相州刺史に遷し、その政は当時第一であった。上は璽書を降してこれを褒め称え、物三百段、粟五百石を賜い、天下に班示した。百姓はこれがために語って曰く、「智無窮、清郷公。上下正、樊安定」と。司農卿に征拝されると、吏人は涙を流さぬ者なく、相い碑を立ててその德政を頌した。司農となって以来、凡そ種植のこと、叔略は別に條制を定め、皆人の意表に出た。朝廷に疑滯あり、公卿の決し得ざるところは、叔略が輒ち評理した。学術無きも、拠る所あるべく、然しながら師心獨見、暗に理に合う。甚だ上に親委せられ、高熲・楊素もまた礼遇した。叔略は司農たるも、往々にして九卿の事に参督した。性頗る豪侈にして、毎食必ず方丈、水陸を備えた。十四年、太山に祠るに従い、洛陽に行き至り、上は囚徒を録せしめた。具状して将に奏せんとし、晨起し、獄門に至り、馬上に於いて暴卒した。時に年五十九。上は悼惜すること久しく、亳州刺史を贈り、諡して襄と曰う。

趙軌

趙軌は河南洛陽の人である。父の肅は魏の廷尉卿であった。軌は少くして学を好み、行檢あり。周の蔡王が記室に引き立て、清苦を以て聞こえた。衛州治中に遷る。高祖が禅を受けると、齊州別駕に転じ、能名あり。その東隣に桑あり、その葚が家に落ちたが、軌は人を遣わして悉く拾い主に還し、その諸子を誡めて曰く、「吾はこれをもって名を求むるに非ず、意うに機杼の物に非ざれば、人を侵すを願わざるなり。汝等宜しく以って誡とすべし」と。州に在ること四年、考績連ねて最たり。持節使者郃陽公梁子恭が状を上すと、高祖はこれを嘉し、物三百段、米三百石を賜い、軌を征して朝に入らしめた。父老相送する者各涙を揮って曰く、「別駕は官に在り、水火も百姓と交わらず、是を以って敢えて壺酒を以って相送せず。公の清きこと水の若し、請う一杯の水を酌みて餞せん」と。軌は受けてこれを飲んだ。既に京師に至ると、詔して奇章公牛弘と共に律令格式を撰定せしむ。時に衛王爽が原州総管たり、上は爽の年少なるを見て、軌の所在に声あるを以て、原州総管司馬を授けた。道中夜行し、その左右の馬が逸れて田中に入り、人の禾を暴いた。軌は馬を駐めて明を待ち、禾の主を訪ねて直を酬いて去った。原州の人吏これを聞き、操を改めざる者なし。後数年、硤州刺史に遷り、萌夷を撫緝し、甚だ恩惠あり。まもなく壽州総管長史に転ず。芍陂に旧より五門堰あり、蕪穢して修めざりき。軌はここにおいて人吏に勧課し、更に三十六門を開き、田五千餘頃を灌漑し、人はその利に頼った。秩満して郷里に帰り、家に卒す。時に年六十二。子の弘安・弘智、並びに知名なり。

房恭懿

房恭懿は字を慎言といい、河南洛陽の人である。父の謨は齊の吏部尚書であった。恭懿は性沈深にして局量あり、從政に達す。齊に仕え、開府參軍事より釋褐し、歴て平恩令・濟陰守となり、並びに能名あり。會うこと齊亡び、調を得ず。尉遅迥の乱に、恭懿はこれに預かり、迥敗れて後、家に廢された。開皇初め、吏部尚書蘇威がこれを薦め、新豐令を授けられ、その政は三輔の最たり。上聞いてこれを嘉し、物四百段を賜うと、恭懿は得たる賜を以て窮乏に分け与えた。未だ幾ばくもせず、復た米三百石を賜うと、恭懿はまた貧人に賑わした。上聞いてこれを止めしめた。時に雍州諸縣令は毎朔朝謁し、上は恭懿を見れば、必ず榻前へ呼び寄せ、理人の術を訪ねた。蘇威が重ねてこれを薦め、超えて澤州司馬を授けられ、異績あり、物百段・良馬一匹を賜った。德州司馬に遷り、在職歳餘、盧愷が復た恭懿の政を天下の最と奏上した。上は甚だこれを異とし、復た百段を賜い、因って諸州の朝集使に謂って曰く、「房恭懿の如きは志體國に存し、我が百姓を愛養す、これは乃ち上天宗廟の佑助する所、豈に朕が寡薄にして能くこれを致さんや。朕即ち刺史として拝せん。豈に一州のみならんや、当今天下の模範とすべし、卿等宜しく師學すべし」と。上また曰く、「房恭懿の所在する処、百姓これを視ること父母の如し。朕もしこれを置きて賞せざれば、上天宗廟まさに我を責めん。内外の官人は宜しく我が意を知るべし」と。ここにおいて詔を下して曰く、「德州司馬房恭懿は百里を宰め出で、二籓を毗贊し、善政能官、倫伍に標映す。條を班し部を按ずるは、実に僉屬に允なり。方嶽に委ねば、声実俱に美なり。持節海州諸軍事・海州刺史とすべし」と。未だ幾ばくもせず、會うこと國子博士何妥が恭懿は尉遅迥の党なり、仕進すべからず、威・愷の二人は朋党を為し、曲く相薦挙すと奏す。上大いに怒り、恭懿遂に罪を得て、嶺南に配防せらる。未だ幾ばくもせず、征還されて京師に赴く途、洪州に行き至り、患いに遇い卒す。論者は今に至るもこれを冤とす。

公孫景茂

公孫景茂は字を元蔚といい、河間阜城の人である。容貌魁梧、少くして学を好み、経史に博く渉った。魏に在り、孝廉に察せられ、射策甲科、襄城王長史兼行參軍となった。太常博士に遷り、損益多く、時人これを書庫と称した。後、高唐令・大理正を歴て、俱に能名あり。齊滅びるに及び、周の武帝聞いて召見し、語りてこれを器とし、濟北太守を授けた。母憂のため職を去る。

開皇の初め、詔を下して朝廷に召し入れ、政治の術を問い、汝南太守に任じた。郡が廃止されると、曹州司馬に転じた。在職数年、老病を理由に致仕を願い出たが、優詔で許されなかった。まもなく息州刺史に遷り、法令は清静で、徳化が大いに行われた。時に平陳の役に属し、徴発された人々が道中で疾病にかかった者があれば、景茂は俸禄を削って粥や湯薬を用意し、分けて救済したので、これによって全活した者は数千に及んだ。上(文帝)はこれを聞いて賞賛し、天下に宣告するよう詔を下した。十五年、上が洛陽に行幸した際、景茂が謁見した。時に年七十七。上は殿上に昇らせて座らせ、その年齢を尋ねた。景茂は実年齢を答えた。上はその老齢を哀れみ、しばし嘆息した。景茂は再拝して言った、「呂望は八十で文王に遇い、臣は七十を過ぎて陛下に逢いました」。上は大いに喜び、物三百段を賜った。詔して言った、「景茂は身を修め己を潔くし、老いても節を損なわず、州牧として人を教化し、名声と実績が顕著である。年末の考課では、ただ一人称賛の首と為り、宜しく戎秩を昇め、兼ねて藩条を進むべし。上儀同三司、伊州刺史とせよ」。翌年、病気のため召還されると、官吏民衆が道で号泣した。病気が癒えると、再び致仕を願い出たが、また許されず、道州刺史に転じた。俸禄を全て用いて牛の子や鶏・豚を買い、孤弱で自活できない者に分け与えた。好んで単騎で民を巡り、家々に至り戸ごとに入り、百姓の産業を閲覧した。よく整えている者があれば、都会の時に至って褒め称えた。もし過失や悪事があれば、直ちに訓戒し導いたが、表には出さなかった。これによって人々は義と譲りを行い、有無は均しく通じ、男子は互いに耕作を助け、婦人は互いに従って紡績した。大きな村では数百戸あっても、皆一家の務めのようであった。その後、政事から退くことを請うと、上は優詔でこれを聴許した。仁寿年中、上明公楊紀が河北に出使し、景茂の気力が衰えていないのを見て、帰ってその様子を奏上した。そこでそのまま淄州刺史に任じ、馬車を賜り、近道を通って任地に赴かせた。前後歴任した職には、皆徳政があり、論者は良牧と称した。大業初年に官で卒した。年八十七。諡して康と言う。身が死んだ日、諸州の官吏民衆で喪に赴いた者は数千人、葬儀に及ばなかった者も皆、墳墓を望んで慟哭し、野辺で祭りをして去った。

辛公義

辛公義は、隴西狄道の人である。祖父の徽は、魏の徐州刺史。父の季慶は、青州刺史。公義は早く孤となり、母方の家に養われ、親から書伝を授けられた。周の天和年中、良家の子から選ばれて太学生となり、勤苦をもって著名となった。武帝の時、露門学に召し入れられ、道義を受けるよう命じられた。毎月、御前に集めて大儒と講論させ、幾度も嘆異され、同輩はこれを慕った。建徳初年、宣納中士を授けられた。斉平定に従い、累遷して掌治上士・掃寇将軍となった。高祖(楊堅)が丞相となると、内史上士を授けられ、機要に参与した。開皇元年、主客侍郎に任じ、内史舎人の事務を摂り、安陽県男の爵を賜い、邑二百戸を与えられた。陳の使者が来朝する度に、常に詔を奉じて接宴を担当した。駕部侍郎に転じ、江陵に使いして辺境を安輯させた。七年、諸馬牧を勾検する使いとなり、獲た馬は十余万匹に及んだ。高祖は喜んで言った、「ただ我が公義のみが、国に奉じて心を尽くす」。軍に従って陳を平定し、功により岷州刺史に任じられた。土地の風俗は病気を恐れ、一人でも病気があれば、即ち全家で避け、父子夫妻も互いに看護せず、孝義の道は絶え、これによって病者は多く死んだ。公義はこれを憂い、その風俗を変えようとした。そこで役人を分遣して管内を巡検させ、凡そ病気の者があれば、皆寝台で運ばせ、役所の正庁に安置した。暑い月の疫病の時には、病人は数百に至ることもあり、庁舎の廊下は全て満ちた。公義は自ら一つの榻を設け、独りその中に坐り、終日連夜、彼らに向かって政務を処理した。得た俸禄は全て薬を買うのに用い、医者を迎えて治療させ、自らその飲食を勧めた。そこで皆癒え、ようやくその親戚を呼び諭して言った、「死生は命によるもので、互いに接触することに関わらない。以前お前たちが棄てたので、死んだのである。今私が病人を集め、その中に坐臥しているが、もし感染すると言うなら、どうして死なずにいられようか、病人たちはまた癒えたのだ。お前たちは再びこれを信じてはならない」。諸病家の子孫は恥じて謝し去った。後に病気に遇う者があれば、争って刺史(使君)のもとに来るようになり、その家に親属がいなければ、留めて養った。初めて互いに慈愛するようになり、この風俗は遂に改まり、管内全体で慈母と呼んだ。後に牟州刺史に遷った。着任すると、先ず獄中に至り、牢の傍らに露坐して、自ら審問した。十余日の間に、判決は全て終わり、ようやく大庁に戻った。新たな訴訟を受けると、皆文案を作らず、当直の佐僚一人を遣わし、傍らに坐らせて訊問させた。事が尽くされず、拘禁すべき者があれば、公義は即ち庁舎に宿泊し、終に内室に戻らなかった。ある人が諫めて言った、「この事には程があり、使君は何故自ら苦しむのですか」。答えて言った、「刺史に徳がなく人を導くことができないのに、尚お百姓を牢獄につなぐことになる。どうして人を獄に禁じながら心自ら安んじることがあろうか」。罪人はこれを聞き、皆自ら服罪した。後に争訟しようとする者があれば、その郷里の父老が急いで互いに諭して言った、「これは些細な事だ、どうして使君を煩わせることができようか」。訴訟する者は多く互いに譲って止んだ。時に山東に長雨が降り、陳・汝から滄海に至るまで、皆水害に苦しんだ。公義の管内だけは、犬牙のように入り組んでいても、ただ損害がなかった。山から黄銀が出たので、獲て献上した。詔して水部郎の婁崱を公義のもとに遣わし、祈祷させた。すると空中に金石絲竹の響きが聞こえた。仁寿元年、追って揚州道黜陟大使を充てられた。章王楊暕は、その管内の官僚が法を犯すことを恐れ、州境に入る前に、あらかじめ公義に属するよう命じた。公義は答えて言った、「詔を奉じて私すべからず」。揚州に至ると、皆容赦せず、暕はこれを恨んだ。煬帝が即位すると、揚州長史王弘が入朝して黄門侍郎となり、公義の短所を言ったので、遂に官を去った。官吏民衆が宮門を守って冤罪を訴え、相継いで絶えなかった。後数年、帝は悟り、内史侍郎に任じた。母の喪に服した。間もなく、起用されて司隸大夫となり、右禦衛武賁郎将を検校した。征戦に従って柳城郡に至り卒した。時に年六十二。子に融がいる。

柳儉 郭絢 敬肅

柳儉は、字を道約といい、河東郡解県の人である。祖父の元璋は、魏の司州大中正・相州・華州の二州刺史を務めた。父の裕は、周の聞喜県令であった。儉は器量があり、行いを清く苦しく立て、州里の人々から敬われ、たとえ最も親しい間柄であっても、誰も軽んじ侮ろうとはしなかった。周代に宣納上士・畿伯大夫を歴任した。高祖(文帝)が禅譲を受けると、水部侍郎に抜擢され、率道県伯に封ぜられた。間もなく、広漢太守として出向し、非常に有能な名声があった。ほどなくして郡が廃止された。時に高祖は天下を有して間もなく、政治に精励し、良能の吏を厳選して牧宰(地方長官)として出向させたが、儉は仁明で著名であったため、蓬州刺史に抜擢された。訴訟者は庭で裁決して送り返し、文書を作らず、佐史を束ねるのもゆったりとしていただけであった。獄中に繋がれた囚人はいなかった。蜀王秀が益州を鎮守していた時、その事績を上奏し、邛州刺史に転任した。在職十数年、蛮夷は喜んで服従した。蜀王秀が罪を得た時、儉は彼と交際していたことで連座し、免職となった。郷里に帰る時は、ぼろ車と痩せた馬に乗り、妻子の衣食も足りず、見る者は皆嘆息して感服した。煬帝が位を嗣ぐと、彼を召し出した。当時は功臣が職に就き、州牧や郡守を領する者は皆軍功の資歴を帯びていたが、ただ儉だけが良吏から起用された。帝はその実績を嘉し、特に朝散大夫を授け、弘化太守に任じ、物百段を賜って派遣した。儉の清廉な節操はますます励んだ。大業五年に朝廷に入ると、郡国の長官が皆集まった。帝は納言の蘇威と吏部尚書の牛弘に言った。「その中で清廉な名声が天下第一の者は誰か。」威らは儉と答えた。帝が次を問うと、威は涿郡丞の郭絢と潁川郡丞の敬肅の二人を答えた。帝は儉に帛二百匹を賜い、絢と粛にはそれぞれ百匹を賜った。天下の朝集使に命じて郡邸まで送らせ、これを表彰した。論者はこれを称えた。大業末年に、盗賊が蜂起し、幾度も攻撃を受けたが、儉は人々と蛮夷を慰撫し結びつけ、ついに離反することなく、遂に全土を保全した。義兵が長安ちょうあんに至り、恭帝を立てると、儉は留守の李粲と共に州で喪服を着て、南を向いて慟哭した。その後、京師に帰ると、相国(李淵)は儉に物三百段を賜い、そのまま上大将軍に任じた。一年余り後、家で死去した。時に八十九歳であった。

郭絢は、河東郡安邑県の人である。家は元来寒微であった。初め尚書令しょうしょれい史となり、後に軍功により儀同に任ぜられ、数州の司馬・長史を歴任し、いずれも有能な名声があった。大業初年、刑部尚書の宇文弼が河北を巡省する時、絢を引き連れて副使とした。煬帝が遼東に出兵しようとした時、涿郡が要衝であるため、任に堪える者を尋ねた。絢に才幹と器量があると聞き、涿郡丞に任じた。官吏と民衆は喜んで服従した。数年後、通守に転任し、留守を兼ねて領した。山東で盗賊が起こると、絢はこれを追捕し、多くを打ち破り捕らえた。当時、諸郡に無事なものはなく、ただ涿郡だけが全土を保った。後に兵を率いて河間で竇建徳を撃ったが、戦死した。人々と官吏は彼を哭し、数ヶ月も止まなかった。

敬肅は、字を弘儉といい、河東郡蒲阪県の人である。若い時から貞介(堅固な節操)で知られ、州主簿として官途についた。開皇初年、安陵県令となり、有能な名声があり、秦州司馬に抜擢され、豳州長史に転任した。仁寿年間、衛州司馬となり、いずれも優れた実績があった。煬帝が位を嗣ぐと、潁川郡丞に転任した。大業五年、東都に朝集した時、帝は司隸大夫の薛道衡に天下の群官の評状を書かせた。道衡は肅について「心は鉄石の如く、老いてますます篤い」と評した。時に左翊衛大将軍の宇文述が権勢を握り、その所領が潁川にあったため、しばしば書簡を送って肅に依頼事をした。肅は封を開けることなく、すぐに使者に持って帰らせた。述の賓客に放縱な者がいれば、法をもってこれを糾し、少しも寛容にしなかった。これによって述は彼を恨んだ。八年、涿郡に朝集した時、帝は彼が年老いて治績の名声があるため、太守に抜擢しようと幾度も考えたが、いつも述に誹謗されて実現しなかった。大業末年、致仕を願い出ると、優詔をもってこれを許された。官を去る日、家に余財はなかった。一年余り後、家で死去した。時に八十歳であった。

劉曠

劉曠は、どこの人か知られていない。性格は謹厚で、常に誠実と恕をもって物事に対応した。開皇初年、平郷県令となり、単騎で任地に赴いた。争訟する者がいれば、丁寧に義理を説き明かし、法で糾弾せず、各自が自ら過ちを認めて去った。得た俸禄は、貧窮者に施し与えた。百姓はその徳化に感じ、互いに篤く励まし合い、「このような君がいるのに、どうして悪事を働けようか」と言った。在職七年、風俗と教化は大いに和合し、獄中に繋がれた囚人はおらず、争訟は絶えて止み、牢獄は皆草が生い茂り、庭には網を張れるほどであった。官を去る時、官吏と民衆は老若を問わず、路上で号泣し、数百里にわたって見送りが絶えなかった。臨潁県令に転任し、清廉な名声と善政は天下第一であった。尚書左僕射の高熲がその状況を言上すると、上(文帝)は彼を召し出し、引見して労い、「天下の県令は確かに多いが、卿だけが衆と異なり、まことに賞賛に値する」と言った。侍臣に向かって言った。「もし特別な賞を与えなければ、どうして勧められようか。」そこで優詔を下し、莒州刺史に抜擢した。

王伽

王伽は、河間郡章武県の人である。開皇末年、斉州行参軍となり、初め称すべきところはなかった。後に州の命令で流刑囚の李参ら七十余人を京師に護送することになった。当時の制度では、流人は皆枷をはめ鎖でつなぎ護送された。伽は滎陽けいようまで来た時、彼らの辛苦を哀れみ、皆を呼び寄せて言った。「卿らは既に国法を犯し、名教を損ない、身に縲絏(囚人の縄)をまとうのは、これが当然の務めである。今さらに護送の兵卒を煩わせるのは、民として心に愧じないのか。」参らは謝罪した。伽は言った。「汝らは憲法を犯したとはいえ、枷鎖もまた大いに辛苦である。私は汝らとこれを外し、京師に着いてから総集するが、期日に違わずに来られるか。」皆は拝礼して謝し、「必ず違わない」と言った。伽はそこで彼らの枷を全て外し、護送の兵卒を止め、期日を約して「某日に京師に着くべきである。もし遅れたり早すぎたりすれば、私が汝らのために死を受けよう」と言い、彼らを解放して去らせた。流人は皆喜び、期日通りに到着し、一人も離反しなかった。上(文帝)はこれを聞いて驚き、召し出して語り合い、久しく善しと称えた。そこで流人を皆召し出し、妻子を連れて共に入るよう命じ、殿庭で宴を賜って赦免した。そこで詔を下して言った。「およそ生きとし生けるものは、霊を宿し性を稟け、皆好悪を知り、是非を識る。もし至誠をもって臨み、明らかに勧導を加えれば、俗は必ず化に従い、人は皆善に遷る。かつては海内が乱離し、徳教が廃絶し、官人は慈愛の心がなく、兆庶は奸詐の意を抱き、それゆえに獄訟が止まず、風俗が薄く治め難かった。朕は上天より命を受け、万姓を安養し、聖法に従って徳をもって人を化そうと、朝夕孜々として、意はここにある。而るに伽は深く朕の意を識り、誠心をもって宣導した。参らは感悟し、自ら憲司(司法機関)に赴いた。これは明らかに、率土の人が教え難いのではなく、まことに官人が明示を加えず、罪に陥らせ、自ら新たになる由もなかったからである。もし官が皆王伽の類であり、人が皆李参の輩であれば、刑を措いて用いず、それどれほど遠いことであろうか。」そこで伽を雍県令に抜擢し、政治に有能な名声があった。

魏德深

魏德深は、もと巨鹿の人である。祖父の沖は、周に仕えて刑部大夫・建州刺史となり、弘農に家を定めた。父の毗は、郁林令であった。德深は初め文帝の挽郎となり、後に馮翊書佐・武陽司戸書佐を歴任し、才能によって貴郷長に昇進した。政治は清浄で、厳しくせずして治まった。ちょうど遼東の役があり、百様の税を徴収し、使者が往来して、その責務を郡県に課した。当時は王綱が弛緩紊乱し、官吏の多くは贓賄に走り、各地で徴斂が行われ、下民はその命に堪えなかった。ただ德深の一県のみが、有無相通じ、その力を尽きさせず、求められるものは皆供給し、百姓は煩わされず、大いに治まっていると称された。当時、盗賊が群起し、武陽の諸城は多く陥落したが、ただ貴郷だけが全うされた。郡丞の元寶藏は詔を受けて盗賊を追捕したが、戦いに利あらずと、必ず器械が尽き、その都度人々から徴発し、動もすれば軍法をもって事に当たり、このようなことが数度あった。その隣城では営造の際、皆が役所に集められ、吏人は互いに監督責め、昼夜喧騒しても、なお成し遂げられなかった。德深はそれぞれに任せたいことを問い、そのままに修築させ、官府は静寂として、常に何事もないようであった。ただ長吏に制約して、修築するものは余りの県を過度に勝る必要はなく、百姓を労苦させないようにした。しかし下の者は各自心を尽くし、常に諸県の最上となった。まもなく館陶長に転じた。貴郷の吏人はこれを聞き、互いにそのことを語り、皆すすり泣き涙を流し、声を成さなかった。赴任しようとする時には、城を傾けてこれを見送り、号泣の声は、道路上絶えなかった。館陶に到着すると、全境の老幼は皆その父母に会うようであった。狡猾な員外郎趙君実という者がおり、郡丞の元寶藏と深く交結し、前後の令長でその指麾を受けない者はなかった。德深が県に至ってから、君実は室内に引き籠もり、敢えて門を出ることはなかった。逃げ隠れていた者たちが、市の如く帰ってきた。貴郷の父老は艱難危険を冒して、朝廷に赴き德深の留任を請い、詔があってこれを許された。館陶の父老もまた郡に赴いて争い、貴郷の文書は偽りであると訴えた。郡は決断できなかった。ちょうど持節使者の韋霽・杜整らが到着し、両県が使者に訴えたので、貴郷に従うと裁断した。貴郷の吏人は歌い呼び満道に満ち、互いに慶賀した。館陶の衆庶は全境悲しみ哭き、それによって居住した者が数百家に及んだ。寶藏はその才能を深く妬んだ。ちょうど越王侗が郡に兵を徴し、寶藏は遂に德深に兵千人を率いて東都に赴かせた。まもなく寶藏は武陽を以て李密に帰順した。德深が率いる兵は、皆武陽の人であり、故郷が賊に従ったため、その親戚を思い、都門を出て東に向かい慟哭して戻った。ある人が彼らに言うには、「李密の兵馬は近く金墉におり、ここから二十余里である。汝らが必ず帰りたいなら、誰が禁じられようか、どうしてこのように自ら苦しむのか」と。その人々は皆涙を流して言うには、「我らは魏明府と共に来たので、棄て去るに忍びず、どうして道中の艱難のためであろうか」と。その人心を得ることこのようであった。後に賊と戦い、陣中に没した。貴郷・館陶の人々は今に至るもこれを懐かしんでいる。

時に櫟陽令の渤海の高世衡、蕭令の彭城の劉高、城皋令の弘農の劉熾がおり、皆恩恵があった。大業の末、長吏は多く贓汙であったが、衡・高及び熾は清節をますます励み、風教は大いに和し、獄に繋がれた囚人はなく、吏人に称えられた。

史臣が曰く、古語に云う、水を善くする者は、これを引いて平らかにし、人を善く化する者は、これを撫でて静かにする、と。水平らかならば堤防を損なうことなく、人静かならば憲章を犯さない。されば則ち俗を易え風を移し、教えに服し義に従うことは、明察に資することなく、必ず循良の者に藉るのである。彥光らは皆内に直道を懐き、至誠をもって物に接した。故に居るところ化し、去るとき思われるのである。景茂の悪を遏み善を揚げる、公義の疾病を撫で視る、劉曠の化の行われる所部、德深の愛の人心を結ぶこと、信臣・杜詩・鄭渾・硃邑と雖も、継ぐことはできないであろう。『詩』に云う、「愷悌たる君子は、人の父母なり」と。豈に徒言ならんや。恭懿の所在は特に異なり、屡々帝心に簡抜されたが、過ぎし一つの過ちを追って、遂に道路に流亡した。惜しいことかな。柳儉は官を去り、妻子養えず、趙軌は秩満し、水を酌んで離別を餞る。清いことよ。