盧思道
盧思道、字は子行、范陽の人である。祖父の陽烏は、魏の秘書監であった。父の道亮は、隠居して仕官しなかった。思道は聡明で爽やか、俊才で弁が立ち、通達して束縛されない性格であった。十六歳の時、中山の劉松に遇い、劉松が他人のために作った碑銘を、思道に見せた。思道がそれを読むと、理解できないところが多く、そこで感激し、戸を閉めて読書に励み、河間の邢子才に師事した。後に思道が再び文章を作り、劉松に見せると、劉松はまたよく理解できなかった。思道はそこで慨然として歎息して言った。「学ぶことの益があるとは、決して無駄ではないのだな。」そこで魏收のところへ行って珍しい書物を借り、数年の中に、才学ともに優れるようになった。しかし操行を守らず、人を軽んじ侮ることを好んだ。北斉の天保年間、『魏史』がまだ世に出ないうちに、思道は先にそれを暗誦していたため、これによって大いに鞭打ちの辱めを受けた。前後してたびたび罪を犯し、それによって官位が昇進しなかった。その後、左僕射の楊遵彦が朝廷に彼を推薦し、官途に就いて司空行参軍となり、長く員外散騎侍郎を兼ね、中書省に直した。文宣帝が崩御した時、当時の文士たちがそれぞれ挽歌を十首ずつ作り、その善いものを選んで用いた。魏收、陽休之、祖孝徵らは一二首を得るに過ぎなかったが、ただ思道だけが八首を得た。故に当時の人は「八米の盧郎」と称した。後に省中の言葉を漏洩したため、出されて丞相西閤祭酒となり、太子舍人、司徒録事参軍を歴任した。官に就くたびに、多く譴責と辱めを受けた。後に庫の銭を擅用した罪で、免官されて家に帰った。かつて薊北において悵然として感慨し、五言詩を作って意を表したが、人々はこれを巧みであるとした。数年後、再び京畿主簿となり、主客郎、給事黄門侍郎を歴任し、文林館に待詔した。周の武帝が北斉を平定すると、儀同三司を授けられ、長安に赴くことを命ぜられ、同輩の陽休之ら数人とともに『聴蟬鳴篇』を作ったが、思道の作ったものは、詞意が清らかで切実であり、当時の人に重んじられた。新野の庾信は諸々の同作者の作品を遍く覧て、深くこれを賞賛した。まもなく、母の病気のため郷里に帰り、同郡の祖英伯および従兄の昌期、宋護らが兵を挙げて乱を起こすのに遭遇し、思道はこれに加わった。周は柱国の宇文神挙を派遣してこれを討伐平定し、罪は法に照らすべきもので、すでに死の中にあった。神挙は平素からその名を聞いていたので、彼を引き出し、露布を作るよう命じた。思道は筆を取ってたちまち完成させ、文章に加筆する点がなく、神挙はこれを賞して許した。後に掌教上士に任ぜられた。高祖(隋の文帝)が丞相であった時、武陽太守に遷ったが、これは彼の好むところではなかった。『孤鴻賦』を作ってその心情を寄せて言うには、
余が志学の歳(十五歳)、郷里より京師に遊学し、早くも識者知音に遇い、数多の公卿の眷顧を受けた。弱冠の年に達し、ようやく朝廷の列に加わると、談論する者の過誤によって、遂に虚名を窃むこととなった。通人たる楊令君(楊遵彦)、邢特進(邢子才)以下は、皆分庭して礼を致し、履を倒して相接し、剪拂吹噓して、その光価を長じた。しかし元来の才能は駑鈍拙劣であり、性格は実に疎懶であり、勢利や貨殖には淡泊で営まなかった。朝市に籠絡されて三十年近くになるが、独往の心は未だかつて懐抱を去ったことはない。摂生を誤って調和を失い、少し気疾がある。符節を分けて坐嘯し、東原の太守となる。洪河のほとり、沃野が望みに満ち、喧噪な事務は既に屏け、魚鳥を隣とする。群れを離れた鴻が、網を張る者に捕らえられ、野人が馴らし飼育し、余に貢いだ。これを池庭に置き、朝夕賞玩し、既に憂いを銷すのに用い、兼ねて軽い病気を和らげる。『大易』は「鴻漸于陸」と称し、羽儀の盛んなことである。『揚子』は「鴻飛冥冥」と言い、高く飛翔することである。『淮南子』は「東に帰して碣石に至る」と云い、湿った暑さを避けることである。平子(張衡)の賦は「南に寓して衡陽に至る」と言い、厳しい寒さを避けることである。その雅やかな歩みと清らかな音声、遠大な心と高尚な趣きは、鵷鸞以下の鳥において、その比を見ることは稀である。しかし羽を傷つけられて牆陰にあり、影を伴って独り立ち、秕稗をついばみ、鶏や鴨と伍をなすとは、悲しいことではないか。余の五十の年が、忽焉として既に至った。永く身の事を言えば、慨然として緒が多い。そこでこの賦を作り、聊か自ら慰めることとする。その詞は次のようである。
この孤鴻は、羽蟲の中でも奇なるものを擅にし、実に清高の気を稟け、遠く遼碣の東に生まれた。柔らかな羽毛が将に落ちんとする時、和やかに鳴いて順風に乗り、厚い氷と雲の中、翼を矯めて天空を排す。島嶼の綿邈たるを出で、霜露の溟濛たるを犯し、魚を驚かす密網に掛かることを驚き、雁を落とす虚弓を畏れた。もしその斗柄が東を指し、女夷が月を司る時節には、遥かに寒門に集まり、遂に軽く玄闕に挙がる。天高く気肅なる時、草木が時節に従って揺れ落ちる時には、既に淮浦にて儔と嘯き、また江湄にて吭を弄ぶ。赤霄を摩して淩厲し、丹気に乗って威夷たり、商飆の嫋嫋たるに逆らい、陽景の遲遲たるを玩ぶ。彭蠡はまさに春、洞庭は初めて緑なり、羽翮を整え、群れをなして浮き浴する。雪の如き羽を振るって風に臨み、霜の如き毛を掩って旭を候い、江湖の菁藻に飽き、原野の菽粟に飫う。行くこと離離として高く逝き、響き噰噰として相続き、斉国の冰紈のごとく潔く、密山の華玉のごとく皓い。もしまた朝に清露に沐し、足を安んじて徐歩し、夕べに芳洲に息し、頸を延べて流れに乗る。寒さを避けて競い逐い、沅水に浮かんで宿り、暑さを避けて言い帰り、絶漠を雲のごとく飛ぶ。玄鵠を望んで侶と為し、硃鷺に比べて相依る。天衢の冥漠たるに倦み、河渚の芳菲たるに降る。忽ち羅人の網を設け、虞者の機を懸るるに値い、永く寥廓に辞し、跡を蹈んで重囲に入る。始めは籠樊に窘束され、刀俎を憂憚し、躯を靡き命を絶ち、その所を失うことを恨んだ。終わりには園庭に馴狎し、池禦に棲托し、稻粱を恵みと為し、その容與を恣にする。ここにおいて羽を翕せ頸を宛て、気を屏け声を銷し、煙霞の高き想いを滅し、江海の幽かな情を悶える。いつか首を驤やかせ翼を奮い、上りて太清を淩ぎ、翥き舞い鼓舞し、遠く層城に薄らぐであろうか。悪禽はこれを見て貴ばず、小鳥は顧みて軽んじる。どうして地を控えて無恥でありえよう、天を沖して再び栄えることなどあろうか。そもそも図南の羽は、偉大にして羨むべきものがあり、睫に棲む蟲は、微細であっても賤しむに足らず、各々天壌においてその性に遂い、企み懐いて交戦することはない。咸池の楽を聴かず、太牢の薦を饗せず、晨雞と匹として共に飲み、野鳧と偶として同に膳す。声を揚げて顕聞を求めず、寧ろ体を校えて求見せず、聊か形を沼沚に寓し、且つ心を溏澱に夷らす。栄辱を斉しくして晏如たり、君子の余眄を承る。
開皇の初め、母が老齢であることを理由に、上表して職務の解除を請い、優詔をもってこれを許された。思道は才地を恃んで、多く人を陵轢したため、これによって官途は淪滯した。既にしてまた『労生論』を著し、当時を指摘して切った。その詞は次のようである。
『莊子』に曰く、「大塊我を労するに生を以てす」と。誠にこの言うところである。余の年五十、羸老雲のごとく至り、昔を追い想うに、その生は勤めであった。そこでこの論を著し、時に因って言うこととする。
郡を罷めて屏居していた時、客が余を訪ねて来た。しばらくして、眉を上げて言うには、「生は天地の大徳であり、人は生あるものの中最も霊なるものである。それゆえに両儀に配し、群品の中で貴ばれるのである。美醜愚智の弁別は、天と地のように懸け隔たり、己を行い身を立てる違いは、海に入り山に登るようである。今、あなたは右地(高貴な家柄)に生まれ、九代にわたる卿族であり、天が俊才を授け、万夫の仰ぐところであり、学問は流略を綜べ、孔門の游・夏を慕い、文辞は麗則を窮め、漢代の卿(司馬相如)・雲(揚雄)を擬する。行蔵には節があり、進退は礼に従い、諂わず驕らず、慍ることなく懌することもなく、貴賤の間に偃仰し、語黙の際に従容たることは、何と裕福なことか。下走の欣羡するところである。」
余は莞爾として笑ひて曰く、「未だ之を思はざるか。何ぞ言ふ所の過ぎたるや。子其れ清耳せよ、請ふ左右に為りて之を陳ぜん。夫人の生くるや、皆未だ生なきに若かず。余が生に在りては、労亦勤しきに止まり、紈綺の年、教義に膺を伏し、行ひを規し歩を矩し、善に従ひて登る。巾冠の後、纓を濯ぎ署を受け、仁義を韁鎖とし、朝市に籠絆す。翹陸の本性を失ひ、江湖の遠情を喪ひ、此の風波に淪ち、倒躓に溺れ、憂労総べて至り、事一揆に非ず。何ぞ則ち。地胄高華、既に管庫に嫌を致し、才識美茂、亦愚庸に嫉を受く。篤學強記、聾瞽焉に側目し、清言河の瀉くが如く、木訥是を以て心を疚む。豈徒に蟲春漿を惜しみ、鴟腐鼠を吝むのみならんや、江都に相ひて永歎し、長沙に傅りて帰らず、固より亦魯臧倉に値ひ、楚靳尚に逢ひ、趙壹之が為に哀歌し、張升是に於て慟哭す。有齊の季、休明に遇はず、脰を申べて鞅に就き、跡を屏して地無し。段珪・張讓、金貝是を視、賈謐・郭淮、腥臊饜ふ可し。淫刑を以て逞し、禍池魚に近く、耳悪来の讒を聴き、足龍逢の血を践む。周氏の末葉、仍て僻王に値ひ、笏を斂めて階に升り、汗流れて背に浹く、莒客の焦原に踵躋する、茲に匹するに険に非ず、齊人の手馬尾を執る、此に方るに未だ危しからず。若し乃ち羊腸・句注の道、鞍に据へ策を振ひ、武落・雞田の外、風に櫛り雨に沐し、三旬九食、敢へて弊を称せず、此の役と為る、蓋し其の小小なる者耳。今泰運肇めて開け、四門以て穆し、冕旒上に契を司り、夔・龍下に命を佐け、岐伯・善卷、幽憂に徇ふを恥ぢ、卞隨・務光、木石に従ふを悔ゆ。余が年秋方に在り、已に知命に迫り、情礼退く宜しく、晏安を獲ず。一葉風に従ふも、鄧林の攢植を損せず、雙鳧退きて飛ぶも、渤澥の游泳を虧かさず。田を耕し井を鑿ち、晩に息み晨に興き、南山の朝雲を候ひ、北堂の明月を攬る。氾勝九穀の書、其の節制を観、崔實四人の令、之を奉りて周旋す。晨に蓑笠を荷ひ、白屋黄冠の伍、夕に穀稼を談じ、体を沾し足を塗るの倫。濁酒樽に盈ち、高歌席に満ち、恍兮惚兮、天地一指。此れ野人の楽なり、子或は是を以て余を羨むか。」
客曰く、「吾子の事、既に之を聞けり。他人心有り、又請ふ其の梗概を論ぜん。」余答へて曰く、「雲飛び泥沈み、卑高異なる等、円行き方止まり、動息殊なる致。是を以て霄を摩し海を運ぶ、軽く罻羅を藪澤にし、五衢四照、忽ち斤斧を山林にす。余晩に昌辰に値ひ、遂に其の弱尚を成し、人事の隕獲を観、時路の邅危を睹る。玄冬修夜、静言長想、以て累歎悼心し、涕を流し鼻を酸ます可し。人の百年、脆促已に甚だしく、奔駒流電、辞と為す可からず。顧みて周章を慕ふ、数紀の内、窮通栄辱、事道ふに足らず。而して識有る者鮮く、識無き者多し、褊隘凡近、軽険躁薄。家に居れば則ち人面獣心、孝ならず義ならず、門を出ずれば則ち諂諛讒佞、愧無く恥無し。身を退き足を知る、伯陽の炯戒を忘れ、力を陳べて列に就く、周任の格言を棄つ。悠悠たる遠古、斯の患已に積み、近代に迄る、此の蠹尤も深し。範卿捴讓の風、搢紳嗣がず、『夏書』昏墊の罪、執政安んず。朝露未だ晞かず、小車董・石の巷に盈ち、夕陽将に落ちんとし、皁蓋閻・竇の裡に填す。皆脂の如く韋の如く、俯僂匍匐し、悪を啖ひて媚を求め、痔を舐めて自ら親しむ。美言諂笑、其の愉楽を助け、詐泣佞哀、其の喪紀を恤む。近く旨酒を通じ、遠く文蛇を貢ぎ、豔姬美女、委するに脱屣の如く、金銑玉華、棄つるに遺跡に同じ。鄧通路を失ふに及び、一簪の賄無く餘り、梁冀誅に就く、五侯の貴将に起らんとす。向の官を求め職を買ひ、晩に謁し晨に趨り、刺促塵を望むの旧游、伊優堂に上るの夜客、始めは則ち亡魂褫魄、牛兄の獣に遇ふが若く、心戦ひ色沮み、葉公の龍を見るに似たり。俄にして掌を抵ひ眉を揚げ、高く視り闊く歩み、侶を結びて廉公の第を棄て、手を携へて聖卿の門に哭す。華轂塵を生じ、来ること激矢の如く、雀羅暫く設け、去ること絶弦に等し。飴蜜甘からず、山川未だ阻まず、千変万化、鬼出で神入る。此れを為す者皆衣冠士族、或は藝能有り、仁ならざるを恥ぢず、義ならざるを畏れず、友朋に愧靡く、妻子に慚莫し。外に厚貌を呈し、内に百心を蘊む、繇是れば則ち青を紆し紫を佩き、州を牧し郡を典とし、冠幘人を劫し、厚く自ら封殖す。妍歌妙舞、鼎を列ね鐘を撞き、耳絲桐に倦み、口珍旨に飫ふ。素論以て非と為すと雖も、而して時宰之を責めず、末俗蚩蚩、此の如きの敝有り。余は則ち時に違ひて薄宦し、息を屏して窮居し、甚だしく駆馳を恥ぢ、深く乾没を畏る。心死灰の若く、勢利を営まず、家儋石無く、囊錢を費やさず。偶影官に聯り、将に数十載、駑拙笑を致し、軽生是を以て労を告ぐるなり。真人宇を禦ふるに、雕を斫ちて樸と為し、人栄辱を知り、時に反りて邕熙たり。風力の上宰、内に文教を敷き、方・邵の重臣、外に武節を揚ぐ。大道に被らされ、淳風を以て洽ひ、挙する必ず才を以てし、爵濫りに授くること無し。斯の首鼠を稟くる、衣簪に預からず、阿党比周、掃地して俱に尽き、軽薄の儔、影を滅し跡を竄す。礫石瑜瑾に変じ成り、莨莠芝蘭に化す。曩に俗を扇ぎ時を攪し、耳を駭し目を穢せし者、今悉く聞かず見ず、余を侮る敢へる莫し。『易』に曰く、'聖人作して万物睹る'と、斯れ之を謂ふか。」
歳餘りして、征せられ、詔を奉じて陳の使を郊労す。頃にして、母憂に遭ふ、未だ幾ばくもあらず、起きて散騎侍郎と為り、内史侍郎の事を奏す。時に六卿を置くを議し、将に大理を除かんとす。思道奏上して曰く、「省に駕部有り、寺に太僕を留め、省に刑部有り、寺に大理を除く、是れ則ち畜産を重んじて刑名を賤しむ、誠に未だ可からず。」又た殿庭は杖罰の所に非ざるを陳べ、朝臣笞罪を犯せば、請ふ贖を以て論ぜんと、上悉く之を嘉納す。是歳、京師に卒す、時に年五十二。上甚だ之を惜しみ、使を遣りて弔祭す。集三十巻有り、時に行はる。子赤松、大業中、官河東長史に至る。
從父兄 昌衡
昌衡は字を子均という。父の道虔は、魏の尚書僕射である。昌衡の小字は龍子、風神は淡雅にして、容止は法とすべきものがあり、広く経史に渉り、草行書に巧みであった。従弟の思道は小字を釋奴といい、宗族の中ではともに英妙と称された。故に幽州ではこれについて語って曰く、「盧家の千里、釋奴・龍子」と。十七歳の時、魏の済陰王元暉業が召して太尉参軍事に補し、兼ねて外兵参軍とした。斉氏が禅を受けると、平恩令・太子舎人を歴任した。まもなく僕射祖孝徴に推薦され、尚書金部郎に遷った。孝徴は毎度曰く、「吾れ盧子均を用いて尚書郎となす、自ら幽州に愧じずと謂う」と。その後、散騎侍郎を兼ね、周の使者を迎え労った。武帝が斉を平らげると、司玉中士を授け、大宗伯斛斯徴とともに礼令を修めた。開皇初年、尚書祠部侍郎に拝された。高祖はかつて大いに群下を集め、自ら功績を陳べさせたが、人々は皆競って進み出たが、昌衡のみは言うところがなかった。左僕射高熲は目を留めて異とした。陳の使者賀徹・周濆が相次いで来聘し、朝廷は毎度昌衡に接対させた。まもなく、出でて徐州総管長史となり、甚だ能名があった。吏部尚書蘇威はこれを考課して曰く、「徳は人表たり、行いは士則たり」と。論者はこれを美談とした。かつて浚儀に行き至り、乗っていた馬が他の牛に触れられ、これにより死した。牛の主は陳謝し、価直を返還せんと求めたが、昌衡はこれに謂って曰く、「六畜相触るるは、自ら常理に関わる、これ豈に人情ならんや、君何ぞ謝さん」と。拒んで受けなかった。性は寛厚にして校めず、皆この類いである。転じて寿州総管長史となった。総管宇文述は甚だこれを敬い、州務を委ねた。歳余りして、金州刺史に遷った。仁寿年中、詔を奉じて節を持ち河南道巡省大使となり、還るに及び、奉使が旨に称するをもって、儀同三司を授けられ、物三百段を賜った。昌衡は自ら年が懸車にあるをもって、表を上って骸骨を乞うたが、優詔して許さず。大業初年、征されて太子左庶子となり、洛陽に行き詣でる途中、道に卒した。時に七十二歳。子に宝素・宝胤あり。
李孝貞
李孝貞は、字を元操といい、趙郡柏人の人である。父の希礼は、斉の信州刺史であり、世々著姓であった。孝貞は少くして学を好み、文を属する能があった。斉において司徒府参軍事に釈褐した。簡静にして妄りに賓客を通ぜず、従兄の儀曹郎中騷・太子舎人季節・博陵の崔子武・范陽の盧詢祖と断金の契りを結んだ。後に射策甲科をもって給事中に拝された。当時、黄門侍郎高乾和が親要として用いられ、孝貞に婚を求めた。孝貞はこれを拒んだため、ここに隙を生じ、陰にこれを譖し、出でて太尉府外兵参軍とした。後に中書舎人・博陵太守・司州別駕を歴任し、また散騎常侍を兼ね、周への聘使副となり、還って給事黄門侍郎を除かれた。周の武帝が斉を平らげると、儀同三司・少典祀下大夫を授けられた。宣帝が即位すると、吏部下大夫に転じた。高祖が丞相となった時、尉遅迥が相州に乱を起こすと、孝貞は韋孝寛に従ってこれを撃ち、功により上儀同三司を授けられた。開皇初年、馮翊太守に拝されたが、廟諱を犯したため、ここに字を称した。後数年して、蒙州刺史に遷り、吏民これを安んじた。ここより文筆に留意せず、人がその故を問うと、慨然として歎じて曰く、「五十の年、倏焉として過ぎ、鬢に素髪垂れ、筋力すでに衰え、宦意文情、一時に尽きたり、悲しいかな」と。然れども毎暇日には、輒ち賓客を引き弦歌し酒に対し、終日歓をなした。征されて内史侍郎に拝され、内史李徳林とともに文翰に参典した。然れども孝貞には劇務を幹する用なく、頗る不理と称され、上譴怒して、御史に勅してその事を劾せしめ、ここにより出でて金州刺史となった。官に卒す。著すところの文集二十巻、世に行わる。子に允玉あり。
孝貞の弟孝威もまた雅望あり、大業年中、官は大理少卿に至る。
薛道衡
薛道衡は、字を玄卿といい、河東汾陰の人である。祖父の聡は、魏の済州刺史。父の孝通は、常山太守。道衡は六歳にして孤となり、専精好学した。十三歳の時、『左氏伝』を講じ、子産が鄭を相する功を見て、『国僑賛』を作り、頗る詞致あり、見る者これを奇とした。その後、才名益々著しく、斉の司州牧・彭城王浟が兵曹従事に引き立てた。尚書左僕射弘農の楊遵彦は一代の偉人、見て嗟賞した。奉朝請を授けられた。吏部尚書隴西の辛術と語り、歎じて曰く、「鄭公業亡びず」と。河東の裴讞はこれを見て曰く、「鼎河朔に遷りてより、吾れ関西孔子はその人に値うこと稀なりと謂えり、今また薛君に遇う」と。武成が相となると、記室に召され、即位するに及び、累遷して太尉府主簿となった。歳余りして、散騎常侍を兼ね、周・陳二国の使者に接対した。武平初年、詔して諸儒とともに『五礼』を修定せしめ、尚書左外兵郎を除かれた。陳の使者傅縡が斉に聘すに、道衡をして主客郎を兼ねてこれに接対せしめた。縡は詩五十韻を贈り、道衡これに和し、南北これを称美した。魏収曰く、「傅縡の謂うところ、蚓を以て魚に投ずるなり」と。文林館に待詔し、范陽の盧思道・安平の李徳林と斉名し親善した。また本官をもって中書省に直し、まもなく中書侍郎に拝され、なお太子侍読に参じた。後主の時、漸く親用を見るに至り、当時頗る附会の譏りあり。後に侍中斛律孝卿とともに政事に参預し、道衡は備周の策を具陳したが、孝卿用いる能わず。斉の滅亡に及び、周の武帝は御史二命士に引き立てた。後に郷里に帰り、州主簿より入って司禄上士となった。
高祖(文帝)が宰相であった時、元帥梁睿に従って王謙を討ち、陵州刺史を摂行した。大定年間(北周静帝の年号)に儀同の位を授かり、邛州刺史を摂行した。高祖が禅譲を受けて即位すると、事に坐して除名された。河間王楊弘が突厥を北征する際、召されて軍書を掌り、還って内史舎人に任ぜられた。その年、散騎常侍を兼ね、陳への主使として聘問した。道衡は因みに奏上して言う、「江東は蕞爾たる一隅に過ぎず、僭越して擅権すること久しきに至る。実に永嘉の乱以後、華夏が分崩したことに由る。劉淵、石勒、符健、姚萇、慕容氏、赫連勃勃の輩は、妄りに名号を窃み、尋いでまた滅亡した。魏氏は北より南に至るも、遠略に遑あらず。周、斉が両立し、務めて兼併に在りたるが故に、江表は誅罰を逃れ、年祀を積むに至った。陛下は聖徳天に挺出し、光栄をもって宝祚を膺け、霊威を三代に比し、九州を平一せんとす。豈に区区たる陳をして、久しく天網の外に在らしめんや。臣今使を奉ずるに当たり、藩臣たるを責めんことを請う」と。高祖は言う、「朕は暫く含養し、度外に置く。言辞を以て相折することなかれ、朕が意を識れ」と。江東は風雅を好み篇什を愛し、陳主は特に雕虫の技を愛した。道衡が作る所ある毎に、南人はこれを吟誦せざるはなかった。八年(開皇八年、588年)に陳を伐つに及び、淮南道行台尚書吏部郎を授かり、文翰を兼ねて掌った。王師が江に臨むや、高熲が夜、幕下に坐してこれに謂う、「今段の挙、江東を克定するや否や。君試みにこれを言え」と。道衡答えて言う、「凡そ大事の成敗を論ずるには、先ず至理を以てこれを断ずるを須う。《禹貢》に載する所の九州は、本より王者の封域なり。後漢の季、群雄競い起こり、孫権兄弟遂に呉楚の地を有つ。晋武帝命を受けて、尋いで即ちこれを吞併す。永嘉南遷して、重ねてこの分割をなす。爾来より以来、戦争息まず、否終わって斯く泰るは、天道の恒なり。郭璞云う、'江東偏王三百年にして、還って中国と合す'と。今数将に満たんとす。運数を以て言えば、その必ず克つこと一なり。徳有る者は昌え、徳無き者は亡ぶ。古より興滅は、皆この道に由る。主上躬ら恭倹を履み、庶政を憂労す。叔宝(陳後主)は峻宇雕牆に、酒に酣え色に荒ぶ。上下心を離し、人神ともに憤る。その必ず克つこと二なり。国を為すの体は、任寄に在り。彼の公卿は、備員のみ。小人施文慶を抜き政事に委ね、尚書令江総は唯だ詩酒に事うるのみ。本より経略の才に非ず。蕭摩訶、任蛮奴はこれが大将たり、一夫の用に過ぎず。その必ず克つこと三なり。我は道有りて大なり、彼は徳無くして小なり。その甲士を量るに、十万を過ぎず。西は巫峡より東は滄海に至るまで、これを分かてば勢懸けて力弱く、これを聚めば此れを守りて彼を失う。その必ず克つこと四なり。席捲の勢、その疑い無きに在り」と。熲忻然として言う、「君の成敗を言う、事理分明なり。吾今豁然たり。本より才学を以て相期す、意わざらんや籌略乃ち爾ることを」と。還って吏部侍郎に任ぜられた。後に人物を抽擢するに坐し、蘇威に党し、人を任ずるに意故有りとの言有りて、除名され、嶺表に配防された。晋王広(後の煬帝)時に揚州に在り、陰に人をして道衡に揚州路より従うを諷せしめ、将にこれを留めんと奏せんとした。道衡は王府を楽しまず、漢王諒の計を用い、遂に江陵道より出でて去った。尋いで詔有りて征還され、直ちに内史省に在った。晋王是れよりこれを銜み、然れどもその才を愛し、猶ほ頗る礼を見せた。後数年を経て、内史侍郎を授かり、上儀同三司を加えられた。
道衡は毎に文を構うるに至れば、必ず空齋に隠坐し、壁を蹋んで臥し、戸外に人あるを聞けば便ち怒り、その沈思すること此の如しであった。高祖は毎に言う、「薛道衡の作文書は我が意に称う」と。然れども迂誕を以てこれを誡めた。後、高祖はその称職を善しとし、楊素、牛弘に謂う、「道衡は老いたり。駆使勤労す。宜しくその硃門に戟を陳えしむべし」と。ここにおいて上開府に進位し、物百段を賜うた。道衡は功無きを以て辞す。高祖は言う、「爾久しく階陛に労し、国家の大事は皆爾宣行す。豈に爾が功に非ざらんや」と。道衡久しく枢要に当たり、才名益々顕れ、太子諸王争い相い交わり、高熲、楊素は雅く相い推重し、声名籍甚しく、一時に競うもの無し。
仁寿年中、楊素が朝政を専ら掌る。道衡は既に素と善しとす。上(文帝)は道衡に久しく機密を知らしむるを欲せず、因みに出して襄州総管を検校せしむ。道衡は久しく駆策を蒙り、一旦違離するに、悲恋に勝えず、これを言うに哽咽す。高祖愴然として容を改め言う、「爾が光陰は晚暮に及び、侍奉誠に労す。朕は爾を将摂せしめ、兼ねて萌俗を撫ぜんと欲す。今爾の去るは、朕が一臂を断つが如し」と。ここにおいて物三百段、九環の金帯、並びに時服一襲、馬十匹を賚い、慰勉してこれを遣わした。任に在りて清簡、吏民その恵を懐う。
煬帝嗣位し、番州刺史に転ず。歳余りを経て、表を上りて致仕を求む。帝は内史侍郎虞世基に謂う、「道衡将に至らんとす。当に秘書監を以てこれを持て成すべし」と。道衡既に至り、『高祖文皇帝頌』を上る。その詞に曰く、
太始太素、荒茫たる造化の初め。天皇地皇、杳冥たる書契の外。その道絶え、その跡遠し。言談の詣らざる所、耳目の追わざる所。穴に入り巣に登り、鶉居鷇飲するに至りては、羽族に異ならず、毛群に類を取る。亦た何ぞ人霊を貴び、何ぞ心識を用いん。羲・軒已降、爰に唐・虞に暨ぶ。則ち乾象を象りて法度を施し、人文を観て天下を化す。然る後に帝王の位重んず可く、聖哲の道尊ばるる為す。夏後、殷、周の国、禹、湯、文、武の主、功は生民を済い、声は『雅頌』に流る。然れども三五に陵替し、干戈に徳を慚ず。秦は閏位に居り、刑名を任じて政本と為し、漢は霊図を執り、霸道を雑えて業と為す。当塗興りて三方峙ち、典午末にして四海乱る。九州の封域は、鯨鯢の群れの窟穴。五都の遺黎は、戎馬の足の蹴踏。玄行(水徳の北魏)嵩・洛を定め、木運(木徳の西魏・北周)崤・函に据うと雖も、未だ滄海の流を正さず、詎んぞ昆山の燎を息まんや!千齢の旦暮に協い、万葉の一朝に当たる者は、其れ大隋に在るか。
高祖文皇帝は、聖を誕し霊を降すや、赤光室を照らし、神を韜み跡を晦ますや、紫気天に騰る。龍顔日角の奇、玉理珠衡の異は、図籙に著り、儀表に彰かなり。而して帝系は霊長にして、神基は崇峻、邠・岐の累徳に類し、豊・沛の勃起に異なり。俯して歴試を膺け、揆を納れて賓門に至り、位は六卿を長じ、望は百辟に高し、猶ほ重華の太尉たるが如く、文命の司空を任ずるに若し。蒼暦将に尽きんとし、率土糜沸し、玉弩天を驚かし、金芒野を照らす。奸雄禍を挺し、河朔に拠りて海岱に連なり、猾長悪を縦にし、白馬を杜ぎ成皋を塞ぐ。庸・蜀は命に逆らい、銅梁の険に憑り、鄖・黄は背誕し、金陵の寇を引く。三川已に震い、九鼎将に飛ばんとす。高祖龍躍鳳翔し、足を濡らし手を授け、赤伏の符に応じ、玄狐の籙を受け、百下百勝の将を命じ、九天九地の師を動かし、共工を平らげて蚩尤を殄し、犬契窳を翦りて鑿歯を戮す。二十八将を煩わさず、五十二征を仮らず、未だ時に逾ざるに、妖逆咸く殄び、区宇に於ける氛霧を廓め、黎元を塗炭より出だす。天柱傾きて還り正し、地維絶えて更に紐る。殊方稽顙し、牛馬の内向するを識り、楽師地に伏し、鐘石の声変ずるを懼る。万姓推すを楽む所以にして、三霊ここに於いて改卜す。壇場已に備わり、猶ほ五譲の心を弘くし、億兆違う難く、方に四海の請に従う。宝祚に光臨し、郊丘に礼を展べ、六代を舞いて天神を降し、四圭を陳べて上帝を饗う。乾坤交泰し、品物咸く亨る。前王の令典を酌み、徽号を改易し、庶萌の子来に因り、都邑を移創す。天文は上に朱鳥に当たり、地理は下に黒龍に拠り、位を正し方を弁じ、影を日月に揆い、内宮外座は、辰象に法を取る。政教を魏闕に懸け、群後を明堂に朝し、旧を除き新を布き、風を移し俗を易う。天街の表、地脈の外、獯獫孔熾にして、其の来る久し、横行十万、樊噲ここに於いて辞を失い、歩を提げて五千、李陵ここに於いて所以に陷没す。周・齊両盛、競って旄頭を結び、狄後を漠北に娉すも、未だ其の侵擾を息ます足らず、珍藏を山東に傾くるも、能く其の貪暴を止めず。炎霊祚を啓き、聖皇宇を馭す、天策を帷扆に運び、神威を沙朔に播く、柳室・氈裘の長、皆な臣隷と為り、瀚海・蹛林の地、尽く池苑に充つ。三呉・百越、九江五湖、地は南北に分かれ、天は内外を隔て、黄旗紫蓋の気を談じ、龍蟠獣拠の険に恃み、恒に僭偽の君有り、妄りに帝王の号を窃む。時は五代を経、年は三百を移す、爰に皇情を降し、永く大道を懐い、彼の黎献を湣み、独り匪人と為るを。今上利建は唐に在り、則哲は代に居り、地は宸極に憑り、天は神武を縦にし、脤を受けて車を出し、一挙に平定す。ここに於いて八荒外無く、九服大同し、四海を家と為し、万里を宅と為す。乃ち牛を休め馬を散じ、武を偃げ文を修む。
自ら華夏乱離し、綿積年代、人戦争の具を造り、家澆偽の風を習い、聖人の遺訓存する莫く、先王の旧典咸く墜つ。爰に秩宗を命じ、『五礼』を刊定し、太子に申敕し、六楽を改正す。玉帛樽俎の儀、節文乃ち備わり、金石匏革の奏、雅俗始めて分かる。而して政術に心を留め、聴覧に神を垂れ、早朝晏罷し、寝を廃し食を忘れ、百姓の未だ安からざるを憂え、一物の失する所を懼る。先王の道を行い、夜思いて旦を待ち、百王の弊を革め、朝及び夕に及ばず。一の善事を見れば、喜び容旨に彰け、一の愆犯を聞けば、歎き予在りに深し。賦を薄くし徭を軽くし、農を務め穀を重んじ、倉廩に紅腐の積有り、黎萌に阻饑の慮無し。天性弘慈にして、聖心惻隱、恩は禽獣に加わり、胎卵ここに於いて獲全し、仁は草木に沾い、牛羊ここに於いて所以に践まず。憲章重典、刑名大辟に至るまで、法を申して情を屈し、決断は俄頃に於いてす、故に能く彝倫攸叙し、上下斉粛なり。左右諂諛の路を絶ち、縉紳勢力の門無し。小心翼翼、天地に事えて敬し、終日乾乾、亢極に誡慎す。黎萌を徳化に陶し、風俗を太康に致す、公卿庶尹、遐邇嶽牧、僉に以て天平地成、千載の嘉会、登封降禅、百王の盛典と為し、宜しく其の金泥玉検、礼を介丘に展べ、声を飛ばし実を騰せ、常に称首と為すべしとす。天子為して恃まず、成して居らず、沖旨凝邈、固く辞して許さず。而して休むと雖も休まず、上徳は徳とせず、更に乃ち誠を岱岳に潔くし、愆咎に遜謝す。方に知る六十四卦、謙捴の道尊きを為し、七十二君、告成の義小なるを、巍巍蕩蕩、以て称うるを得ざるを。而して深誠至徳、穹壌に感達し、和気薫風、宇宙に充溢す。二儀福を降し、百霊祉を薦く、日月星象、風雲草樹の祥、山川玉石、鱗介羽毛の瑞、歳に見え月に彰け、勝え紀す可からず。振古未だ有らざる所、図籍載せざる所、目に見えざる所、耳に未だ聞かざる所に至るまで。古語に聖人作れば、万物睹る、神霊滋き、百宝用いる、と称す、此れ其の効なり。
既にして心を姑射に遊ばし、屣を脱ぐの志已に深く、鼎を荊山に鑄し、天に昇るの駕遂に遠し。凡そ黎献に在るは、具に惟れ帝臣、慕び深く考妣を考へ、哀み弓剣に纏わり、塗山幽峻、復た玉帛の礼無く、長陵寂寞、空しく衣冠の遊を見る。若し乃ち精を降し熛怒し、名を帝籙に飛ばし、運を開き図を握り、業を創し統を垂るるは、聖徳なり、乱を撥き正に反し、国を済い人を寧んじ、六合八紘、文を同じくし軌を共にすは、神功なり、玄酒陶匏、雲和孤竹、上帝を禋祀し、尊極天に配すは、大孝なり、伯を偃げ戈を戢め、礼を正し楽を裁ち、民を寿域に納れ、俗を福林に駆るは、至政なり。四維を張りて万宇に臨み、三皇に侔ひて五帝に並ぶ、豈に直だ周・漢を錙銖し、魏・晉を麼麽するのみならんや。五行の舞と雖も、毎に清廟に陳べ、九徳の歌と雖も、楽府に絶ゆる無けれど、而して玄功暢洽、形器に局せず、懿業遠大、豈に揄揚に尽くさんや。
臣軽生多幸、命興運に偶し、事に趨ること紫宸、馳駆すること丹陛、一たび天闕に辞し、奄に鼎湖に隔たり、空しく攀龍の心有り、徒らに蓐蟻の意を懐く。庶くは毫翰に憑り、敢えて贊述を希わん!昔え海を堙むの禽は大地に増さず、河に泣くの士は洪流に益せず、其の心の存する所を尽くし、其の力の及ぶ所を望み、輒ち斯の義に縁り、覚えず斐然たり。乃ち頌を作ること曰く。
悠久なる邃古、遥かなる季世、四海九州、万王千帝。三代の後、その道はますます替わり、爰に金行に逮り、その弊に勝えず。戎狄は夏を猾し、群凶は慝を縦し、号を窃み名を淫し、十有余国。威を恃み暴を逞し、礼に悖り徳を乱し、五嶽塵飛し、三象霧塞す。玄精は暦を啓き、跡を幽方に発し、寇偽を併吞し、独り雄強を擅にす。祀を載すること二百、祚を前王に比し、江湖尚お阻み、区域未だ康ならず。句呉・閩越、河朔・渭涘、九県瓜分し、三方鼎跱す。狙詐息まず、干戈競い起り、東夏は平らかなりと雖も、乱離瘼し。五運は期に葉い、千年は旦を肇く、赫たり高祖、人霊の攸に賛する所。聖徳は迥かに生じ、神謀は独断し、悪を癉し善を彰し、凶を夷し難を静む。宗伯は儀を撰し、太史は日を練り、孤竹の管、雲和の瑟。礼を上玄に展し、煙を太一に飛ばし、珪璧朝会し、山川望秩す。星景を占揆し、邦畿を移建し、下は赤壤に憑り、上は紫微に葉う。政を衢室に布き、法を象魏に懸け、帝宅は天府、本を固くし威を崇む。匈河・瀚海、龍荒・狼望、種落陸梁し、時に亭障を犯す。皇威は遠く懾し、帝徳は遐く暢し、顙を稽ぎ誠に帰し、臣と称して内向す。呉越の提封、斗牛の星象、年代を積み、自ら君長と称す。大風は未だ繳せず、長鯨は網を漏らし、鉞を天人に授け、豁然として清蕩す。日に戴き斗に戴き、太平太蒙、礼教は周く被り、書軌は大同す。禹の跡を復し、舜の功を成し、礼は以て上を安んじ、楽は以て風を移す。庶績を憂労し、黔首を矜育し、三面は羅を解き、万方は咎を引く。民を軌物に納れ、時を仁寿に駆り、神化は隆平、生霊は熙阜す。虔心恭己し、天に奉じ地に事え、協気は横流し、休徴は紹いて至る。壇場は幸を望み、雲亭は位を虚しくし、推して居らず、聖道は弥く粋なり。跡を姫文に斉しくし、嗣聖に登発し、道は漢光に類し、宝命を伝え荘す。来を知り往を蔵し、玄覧幽鏡、鼎業は霊長、洪基は隆盛なり。崆峒に道を問い、汾射は窅然、禦弁は遐逝し、雲に乗りて上仙す。哀は率土に纏わり、痛は穹玄に感ず、沢は万葉に流れ、以て百年を教う。尚お睿図を想い、永く聖則を惟う、道は幽顕に洽し、仁は動植に沾う。爻象は陳べず、乾坤将に息まんとす、微臣頌を作し、以て罔極を申す。
帝、之を覧めて悦ばず、顧みて蘇威に謂ひて曰く、「道衡は先朝を致美す、此れ『魚藻』の義なり」と。ここに於て司隸大夫に拝し、将に之を罪に置かんとす。道衡は悟らず。司隸刺史房彦謙は素より相善くし、必ず禍に及ぶを知り、之を勧めて賓客を杜絶し、辞を卑くし気を下すべしとすれども、道衡は用ふる能はず。会議して新令を議し、久しく決する能はず、道衡は朝士に謂ひて曰く、「向使ひ高熲死せずば、令は決して当に久しく行はるべし」と。人有りて之を奏す、帝怒りて曰く、「汝は高熲を憶ふか」と。執法者に付して之を勘す。道衡は自ら大過に非ずと為し、憲司を促して早く断ぜしむ。奏する日に及び、帝の之を赦さんことを冀ひ、家人に勅して饌を具へ、以て賓客の来り候ふ者に備へしむ。奏するに及び、帝は自尽せしむるを令す。道衡は殊に意にせず、未だ訣を引く能はず。憲司重ねて奏す、縊して之を殺す、妻子は且末に徙す。時に年七十。天下之を冤とす。集七十巻有り、世に行はる。
従弟 孺
子五人あり、収最も知名れ、族父孺に出継す。孺は清貞孤介にして、流俗に交はらず、経史に渉歴し、才思有り、大文を為さずと雖も、所有の詩詠は、詞致清遠なり。開皇中、侍御史・揚州総管司功参軍と為る。毎に方直を以て自ら処し、府僚多く之を便とせず。満つるに及び、転じて清陽令・襄城郡掾と為り、官に卒す。経る所並びに恵政有り。道衡と偏へに相友愛し、収初めて生るるや、即ち孺と為りて後とし、孺の宅に養はる。成長に至るまで、殆ど本生を識らず。太常丞胡仲操は嘗て朝堂に在りて、就きて孺に刀子を借りて爪甲を割く。孺は仲操を雅士に非ずと為し、竟に之を与へず。其の妄りに交はるを肯ぜず、清介独行するは、皆此の類なり。
道衡の兄の子邁は、官選部郎に至り、従父弟道実は、官礼部侍郎・離石太守に至り、並びに当世に知名る。従子徳音は、雋才有り、起家して游騎尉と為る。魏澹を佐けて『魏史』を修め、史成りて、著作佐郎に遷る。及び越王侗が東都に称制し、王世充の号を僭するや、軍書羽檄は、皆其の手に出づ。世充平らぎ、罪を以て伏誅せらる。所有の文筆は、多く時に行はる。
【論】
史臣曰く、二三子は斉の季に有り、皆辞藻を以て聞こえ、爰に周・隋を歴て、咸に推重せらる。李は一代の俊偉と称し、薛は則ち時の令望、霊蛇を握りて以て俱に照らし、逸足を騁せて以て並びに駆り、文雅縦横、金声玉振す。静かに言ひて揚榷すれば、盧は二子の右に居る。李・薛は青を紆へ紫を拖き、思道は官途寥落たり、窮通は命有りと雖も、抑亦細行を護らざるに致る所なり。