隋書

巻四十五 列傳第十 文四子

房陵王

房陵王楊勇は、字を睍地伐といい、高祖こうそ(文帝)の長子である。周の時代に、太祖(楊忠)の軍功により博平侯に封ぜられた。高祖が政務を補佐するに及んで、世子に立てられ、大將軍・左司衛に拝され、長寧郡公に封ぜられた。洛州總管・東京小塚宰として出向し、旧斉の地を総統した。後に京師に召還され、上柱国・大司馬に進み、内史禦正を領し、諸禁衛は皆その管轄に属した。高祖が禅を受けると、皇太子に立てられ、軍国政事及び尚書が奏上する死罪以下の案件は、全て楊勇に参決させた。帝は山東の民が多く流亡していることを憂い、使者を派遣して検査し、また民を北辺に移して辺塞を充実させようとした。楊勇は上書して諫めて言う、「臣は思いますに、風俗を導くには漸進すべきであり、急激に改めることはできません。土地を恋い旧きを懐かしむのは、民の本来の心情であり、波のように迸り流離するのは、やむを得ないことです。斉の末期、主は暗く時は昏く、周が東夏を平定した後も、威虐が続き、民は命に堪えず、逃亡するに至りました。家郷を厭うのではなく、羈旅を願ったのです。加うるに去年三方で逆乱があり、陛下の仁聖により、区宇は粛清されましたが、鋒刃は収まったものの、瘡痍は未だ回復していません。もし数年を仮り、皇風を浴びれば、逃竄の徒は自然に本に帰るでしょう。北夷が猖獗し、嘗て辺烽を犯しましたが、今や城鎮は峻峙し、所在厳固です。何ぞ遷配を待ち、以て労擾を致さん。臣は庸虚をもって、誤って儲貳に当たり、寸誠の管見を、輒ち塵聞に及ぼします」と。帝はこれを見て嘉し、遂にその事を止めた。この後、時政に不便な点があれば、多く損益を加え、帝は常にそれを容れた。帝は嘗て従容として群臣に謂って言う、「前世の皇王は、嬖幸に溺れ、廃立の由って生ずる所となった。朕の傍らには姬侍がなく、五子は同じ母から生まれた。真の兄弟と言えよう。前代のように多くの内寵があり、孽子が忿諍する、亡国の道の如きことではあるまい」と。

楊勇は頗る学を好み、詞賦を作ることを解し、性は寛仁で和厚、率意任情、矯飾の行いがなかった。明克讓・姚察・陸開明らを引きいて賓友とした。楊勇は嘗てしょくの鎧を文飾したが、帝はこれを見て喜ばず、奢侈の漸となることを恐れ、これに因って戒めて言う、「我は聞く、天道は親無く、唯だ徳に与すと。歴代の帝王を観るに、奢華にして長久を得た者はない。汝は儲後たるべき者、もし上は天心に称せず、下は人意に合わざれば、何を以て宗廟の重きを承け、兆民の上に居らんや。我が昔日の衣服は、各々一物を留め、時々これを看て、以て自ら警戒す。今、刀子を汝に賜う。宜しく我が心を識るべし」と。

その後、冬至を経て、百官が楊勇に朝賀した。楊勇は楽を張り設けて賀を受けた。高祖はこれを知り、朝臣に問うて言う、「近く聞く、至節に内外の百官が相率いて東宮に朝すと。これは何の礼ぞ」と。太常少卿辛亶が対えて言う、「東宮に対しては賀するものであり、朝とは言えません」と。高祖は言う、「節を改めて賀を称するのは、正に三数十人で足り、情に逐って各々去るべきである。何ぞ有司が徴召し、一時に普く集まる因縁があろう。太子が法服を着け楽を設けてこれを待つとは。東宮がこのようでは、甚だ礼制に乖いている」と。ここに詔を下して言う、「礼には等差あり、君臣は雑ぜず。近代より以来、聖教は漸く虧け、俯仰情に逐い、因循して俗と成る。皇太子は上嗣に居るといえども、義は臣子を兼ねる。而るに諸方の嶽牧が、正冬に朝賀し、任土して貢を作り、別に東宮に上るは、事として典則に非ず。宜しく悉く停断すべし」と。ここより恩寵始めて衰え、漸く疑阻を生じた。時に高祖は宗衛侍官を選び、以て上臺の宿衛に入らせようとした。高熲が奏上して称する、「もし強者を尽く取れば、恐らく東宮の宿衛が劣り過ぎましょう」と。高祖は色をなして言う、「我は時に行動する。宿衛は雄毅なる者を得るを須いする。太子は東宮に徳を毓する。左右何ぞ強武を須いん。これは極めて敝れた法で、甚だ我が意に非ず。我が考えでは、常に交番の日に、分かれて東宮の上下に向かい、団伍を別たず、豈に好事ではなかろうか。我は前代を熟見している。公は旧風を仍って踵ぐに須いない」と。蓋し高熲の男が楊勇の女を娶っていることを疑い、この言を形して、以てこれを防ごうとしたのである。

楊勇は内寵多く、昭訓の雲氏は、特に嬖幸と称され、礼は嫡に匹敵した。楊勇の妃元氏は寵愛がなく、嘗て心疾に遇い、二日で薨じた。献皇后(独孤皇后)は他故ありと疑い、楊勇を甚だ責め望んだ。ここより雲昭訓が内政を専擅し、后はますます不平で、頗る人を遣わして伺察し、楊勇の罪過を求めた。晉王(楊広)はこれを知り、ますます自ら矯飾し、姬妾は員数を備えるのみで、唯だ蕭妃と共に居処した。皇后はこれにより楊勇を軽んじ、ますます晉王の德行を称えた。その後、晉王が来朝し、車馬侍従は皆倹素とし、朝臣を敬って接し、礼は極めて卑屈で、声名は籍甚し、諸王の冠たるものとなった。揚州に還るに臨み、内に入って皇后に辞し、因って進言して言う、「臣が鎮守するには限りがあり、まさに顔色に違わんとす。臣子の恋は、実に心に結ばれます。一旦階闥を辞すれば、侍奉する由なく、拜見の期は、杳然として未だ日なし」と。因って哽咽して流涕し、伏して興くことができなかった。皇后もまた言う、「汝は方鎮にあり、我又年老いり。今者の別れは、常の離れよりも切なるものがある」と。又た泫然として泣下し、相対して歔欷した。王は言う、「臣は性識愚下にして、常に平生の昆弟の意を守る。何の罪を知らずして、東宮の愛を失い、常に盛怒を蓄え、屠陷を加えんと欲す。毎に讒譖が投杼より生じ、鴆毒が杯勺に遇わんことを恐る。是を用いて勤憂積念し、危亡を履まんことを懼る」と。皇后は忿然として言う、「睍地伐は漸く耐え難し。我は彼のために元家の女を求め得て、基業の隆んなるを望んだのに、竟に夫婦を作ることを聞かず、専ら阿雲を寵愛し、あのような豚犬どもを生ませた。前の新婦は本来病痛無く、忽ち暴亡し、人を遣わして薬を投じ、この夭逝を致した。事は既にこの如し。我もまた窮治すること能わず。何ぞ因ってまた汝の処にこのような意を発するのか。我が生きている尚おこのようである。我が死後は、当に汝を魚肉とすべきか。毎に東宮に正嫡無きことを思うに、至尊が千秋萬歳の後、汝ら兄弟を遣わして阿雲兒の前に再拝問訊せしむるは、これは幾許の大苦痛ぞ」と。晉王はまた拝し、嗚咽して止むことができず、皇后もまた悲しみ自ら勝えなかった。この別れの後、皇后の意が移ったことを知り、始めて宗を奪わんとの計を構えた。因って張衡を引いて策を定め、褒公宇文述を遣わして深く楊約と交わり、越國公楊素に旨を告げさせ、具に皇后のこの言葉を言わせた。楊素は瞿然として言う、「但だ皇后が如何なるかを知らぬ。必ず言う如くならば、吾また何を為さん」と。後数日、楊素が入って宴に侍し、微かに晉王の孝悌恭儉、至尊に類することを称え、これを用いて皇后の意を揣った。皇后は泣いて言う、「公の言う通りである。我が兒は大いに孝順で、毎に至尊及び我が内使を遣わすと聞けば、必ず境首に迎える。違離に言及すれば、未だ嘗て泣かざるはない。又たその新婦もまた大いに憐れむべき者で、我が婢を行かせれば、常に之と同寢共食す。睍地伐が阿雲と相対して坐し、終日酣宴し、小人に昵近し、骨肉を疑阻するが如きでは無い。我が益々阿摐(楊広)を憐れむ所以は、常に暗地に之を殺されることを恐れるからである」と。楊素は既に意を知り、因って盛んに太子の不才を言った。皇后は遂に楊素に金を遺し、始めて廃立の意を有した。

勇はその謀略をかなり知り、憂慮して恐れ、計略の出づる所なし。新豊の人王輔賢が占候に能くするを聞き、召して之を問う。輔賢曰く、「白虹東宮の門を貫き、太白月を襲うは、皇太子廃退の象なり」と。銅鉄五兵を以て諸の厭勝を造る。又後園の内に庶人村を作り、屋宇卑陋にして、太子時に中に寝息し、布衣草褥、以て之に当たらんことを冀う。高祖其の安からざるを知り、仁寿宮に在りて、楊素をして勇を観察せしむ。素東宮に至り、偃息して未だ入らず、勇束帯して之を待つ。故に久しく進まず、以て勇を激怒せしむ。勇之を銜み、言色に形わる。素還り、勇怨望すと言い、恐らくは他の変有らんと、願わくは深く防察せんと。高祖素の譖毀を聞き、甚だ之を疑う。皇后又人を遣わして東宮を伺覘せしめ、繊介の事も皆聞奏し、因りて媒蘖を加え、其の罪を構成す。高祖邪議に惑わされ、遂に勇を疏忌す。乃ち玄武門より至徳門に至るまで候人を量り置き、以て動静を伺わしめ、皆事に随い奏聞せしむ。又東宮宿衛の人、侍官已上、名籍悉く諸衛府に属せしめ、健児有る者は、咸く屏去す。晋王又段達をして東宮の幸臣姬威に私にせしめ、財貨を遺し、太子の消息を取らしめ、密かに楊素に告げしむ。ここにおいて内外喧謗し、過失日々聞こゆ。段達姬威を脅して曰く、「東宮の罪過、主上皆之を知れり。已に密詔を奉じ、定めて廃立すべし。君能く之に靠らば、則ち大富貴なり」と。威遂に諾す。

九月壬子、車駕仁寿宮より至る。翌日、大興殿に禦し、侍臣に謂いて曰く、「我新たに京師に還る。応に懐を開き歓楽すべし。何の意ぞ知らず、翻って邑然として愁苦す」と。吏部尚書牛弘対えて曰く、「臣等職に称せざるに由り、故に至尊憂労す」と。高祖既に数たび讒譖を聞き、朝臣皆具に委ぬるを疑う。故に斯の問有り、太子の愆を聞かんことを冀う。弘此の対為す、大いに本旨に乖く。高祖因りて色を作し、東宮官属に謂いて曰く、「仁寿宮此れより遠からず。而るに我をして毎たび京師に還るに、厳に仗衛を備え、敵国に入るが如くせしむ。我患利の為に、衣を脱ぎて臥さず。昨夜近き廁を得んと欲し、故に後房に在り。恐らくは警急有らんと、還り移りて前殿に就く。豈に爾輩我が国家を壊さんと欲するに非ずや」と。ここにおいて唐令則等数人を執り、付す所の司に訊鞫せしむ。楊素をして東宮の事状を陳べしめ、以て近臣に告げしむ。素顕かに之を言いて曰く、「臣敕を奉じて京に向かい、皇太子に劉居士の余党を検校せしむ。太子詔を奉ずるや、乃ち色を作し奮厲し、骨肉飛騰し、臣に語りて雲う、『居士の党尽く法に伏す。我を遣わして何れの処にか窮討せしむ。爾右僕射と作り、委寄軽からず。自ら之を検校せよ。何ぞ我が事に関らん』と。又雲う、『若し大事遂げずば、我先ず誅せられん。今天子と作り、竟に乃ち我をして諸弟に如かざらしむ。一事以上、自由を得ず』と。因りて長歎して回視し雲う、『我大いに身の妨げるを覚ゆ』と」と。高祖曰く、「此の児嗣を承くるに堪えざること久し。皇后恒に我を勧めて之を廃せんとす。我布素の時に生まれ、復た是れ長子なれば、其の漸く改まるを望み、隠忍して今に至る。勇昔南兗州より来たりし時、衛王に語りて雲う、『阿娘我に一の好婦女を与えず、亦た是れ恨むべし』と。因りて皇后の侍児を指して曰く、『是れ皆我が物なり』と。此の言幾許の異事ぞ。其の婦初めて亡くなりし時、即ち以て斗帳を以て余が老嫗を安ず。新婦初めて亡くなりし時、我深く馬嗣明をして薬殺せしむるを疑う。我曾て之を責むるや、便ち懟えて曰く、『会に元孝矩を殺さん』と。此れ我を害せんと欲して遷怒するのみ。初め、長寧誕育するや、朕と皇后共に之を抱養す。自ら彼此を懐き、連ねて遣わし来たりて索む。且つ雲う、定興の女は、外に私合して生まる。想うに此の由来、何ぞ必ずしも其の体胤ならんや。昔晋の太子屠家の女を取る。其の児即ち屠割を好む。今儻や類に非ざらんか。便ち宗社を乱らん。又劉金驎は諂佞の人なり。定興を呼んで親家翁と作す。定興愚人、其の此の語を受く。我前に金驎を解くは、其の此の事の為なり。勇嘗て曹妙達を引き、定興の女と共に燕す。妙達外に在りて説きて雲う、『我今妃の酒を勧むるを得たり』と。直ちに其の諸子偏庶なるを以て、人の服せざるを畏れ、故に逆に之を縦え、天下の望みを収めんと欲するのみ。我徳堯・舜に慚ずと雖も、終に万姓を不肖の子に付せじ。我恒に其の害を加うるを畏れ、大敵を防ぐが如し。今之を廃し、以て天下を安んぜんと欲す」と。

左衛大将軍・五原公元旻諫めて曰く、「廃立は大事なり。天子に二言無し。詔旨若し行なわれば、後悔も及ばず。讒言は極まり無し。惟れ陛下之を察せよ」と。旻の辞直にして爭い強く、声色俱に厲し。上答えず。

是の時姬威又抗表して太子の非法を告ぐ。高祖威に謂いて曰く、「太子の事蹟、宜しく皆尽く言うべし」と。威対えて曰く、「皇太子由来臣と語るに、唯だ意は驕奢に在り。樊川より以て散関に至るまで、総べて苑と為さんことを欲す。兼ねて雲う、『昔漢武帝将に上林苑を起さんとす。東方朔之を諫む。朔に黄金百斤を賜う。幾許か可笑し。我実に金無くば輒ち此の等に賜わん。若し諫むる者有らば、正に之を斬るべし。百許人を殺すを過ぎず、自然に永く息まん』と。前に蘇孝慈左衛率を解かる。皇太子奮髯揚肘して曰く、『大丈夫会に一日有るべし。終に之を忘れず、決して快意すべし』と。又宮内の須うる所、尚書多く法を執りて与えず。便ち怒りて曰く、『僕射以下、吾会に一二人を戮し、我を慢るるの禍を知らしめん』と。又苑内に一小城を築き、春夏秋冬、役を作して輟まず。亭殿を営起し、朝に造りて夕に改む。毎に雲う、『至尊我が多き側庶を嗔る。高緯・陳叔宝豈に孽子ならんや』と。嘗て師姥をして吉凶を卜せしむ。臣に語りて曰く、『至尊の忌は十八年に在り。此の期促かなり』と」と。高祖泫然として曰く、「誰か父母生みしに非ざらん、乃ち此くに至るまで。我旧使の婦女有り、東宮を見せしむ。我に奏して雲う、『広平王をして皇太子の処に至らしむる勿れ。東宮婦を憎むは、亦た広平之を教う』と。元贊も亦其の陰悪を知り、我に勧めて左蔵の東に、両隊を加置せんとす。初め陳を平げし後、宮人の好き者は悉く春坊に配す。聞くに厭足を知らず、外に於いて更に求訪すと。朕近く《斉書》を覧るに、高歓其の兒子を縦うるを見て、忿憤に勝えず。安んぞ尤を效すべけんや」と。ここにおいて勇及び諸子皆禁錮せられ、部分其の党与を収む。楊素文を舞い巧みに詆し、鍛煉を以て其の獄を成す。勇是れより遂に敗る。

数日居りて、有司素の意を承け、奏して言う、左衛元旻身宿衛を備え、常に曲く勇に事え、情附托に存す。仁寿宮に在りし時、裴弘勇の書を朝堂にて旻に与う。題封して雲う、人をして見しむる勿れと。高祖曰く、「朕仁寿宮に在りし時、繊小の事有らば、東宮必ず知る。驛馬に疾し。之を怪しむこと久し。豈に此の徒に非ずや」と。武士を遣わし旻及び弘を執り、法に付して其の罪を治めしむ。

先に、楊勇はかつて仁寿宮に起居を参問して帰る途中、一本の枯れた槐の木を見かけ、その根や幹が蟠り錯綜し、太さは五、六囲ほどもあった。左右の者を顧みて言うには、「これは何の器物に用いるに堪えようか」と。ある者が答えて、「古い槐は特に火鑽りに適しております」と言った。当時、衛士は皆火打ち石を佩いていたので、楊勇は工匠に命じて数千枚を作らせ、左右の者に分け与えようとした。この時、それらが倉庫から発見された。また、薬蔵局に艾を数斛貯蔵していたのも、同様に捜索で見つかった。大将軍(楊素)は怪しみ、これについて姫威に問うた。威は言うには、「太子のこの意図は別に在ります。近ごろ長寧王以下に命じて、仁寿宮から帰る際、毎度急行させ、一宿で到着させております。常に千匹の馬を飼い、『城門を押さえに行くのだ』と言っておりますが、自然と餓死するでしょう」と。楊素は威の言葉で楊勇を詰問したが、勇は服さずに言うには、「私が聞くところでは、公家の馬は数万匹あるという。勇、忝くも太子の位に備わる者として、馬千匹を持つことが、果たして謀反というのか」と。楊素はまた、東宮の服飾や玩好の品で、過剰に装飾を施したと思われるものを発見し、ことごとく庭に並べて、文武の群官に示し、太子の罪状とした。高祖(文帝)は人を遣わしてそれらの物を楊勇に見せ、責め詰問させた。皇后(独孤皇后)もまた彼を責めて罪を問うた。高祖は使者を遣わして楊勇を責め問うたが、勇は服さなかった。太史令の袁充が進み出て言うには、「臣が天文を観ますに、皇太子は廃されるべきです」と。上(文帝)は言うには、「その天象は久しく現れていたが、群臣に敢えて言う者はいなかった」と。ここにおいて人をやって楊勇を召し出させた。楊勇は使者を見て驚き、「私を殺すのではないか」と言った。高祖は戎服を着て兵を陳列し、武徳殿に臨み、百官を集め、東側に立たせ、諸親族を西側に立たせ、楊勇とその諸子を殿庭に引き出して列ばせた。薛道衡に命じて楊勇を廃する詔を宣べさせた。その文に曰く、「太子の位は、実に国の根本である。もしその人に非ざれば、虚しく立てるべからず。古より儲副(太子)には、或いは不才の者があり、悪を長じて悔い改めず、なお器(国)を守らせたが、皆情に溺れて寵愛し、至理を失ったためであり、これによって宗廟社稷が傾き亡び、蒼生が塗炭の苦しみを受けた。このことを言えば、天下の安危は上嗣(太子)にかかっており、大業を世に伝えることは、豈に重からずや。皇太子勇は、地(序列)においては長子にあり、情においては鍾愛してきた。朕が初めて大位に登った時、直ちに春宮(太子宮)を建て、その徳業が日々新たになり、この重任を隆盛にすることを望んだ。しかしその性質識見は庸愚暗昧で、仁孝の聞こえはなく、小人に昵近し、奸佞を委任し、前後の過失罪悪は、具に記し難い。ただ、百姓は天の百姓である。朕は天命を恭しく受け、その安らかに育むことに当たる。たとえ子を愛そうとも、実に上霊(天)を畏れ、どうして不肖の子をもって天下を乱すことができようか。勇およびその男女で王・公主である者は、並びに庶人に廃すべし。ただ億兆の民を顧み、事やむを得ざるを思い、このことを言うに及んで、まことに深く愧歎する」と。薛道衡に命じて楊勇に言わせた。「汝の罪悪は、人神に見捨てられた。廃されずに済むことを求めることが、どうしてできようか」と。楊勇は再拝して言うには、「臣は都市に屍を晒し、将来の鑑戒とすべきです。幸いに哀憐を蒙り、性命を全うすることができました」と。言い終わると、涙が流れて衣襟を濡らし、やがて舞踏して去った。左右の者で憫み黙しない者はなかった。また詔を下して言うには、

ここにおいて群官を広陽門外に集め、詔を宣べて彼(元旻)を誅戮した。広平王の楊雄が詔に答えて言うには、「至尊が百姓のために骨肉の恩を断ち、無徳の者を廃黜されることは、実に大慶であり、天下幸甚です」と。そこで楊勇を内史省に移し、晋王広を皇太子に立て、なお楊勇を彼に付属させ、再び東宮に囚禁した。楊素に物三千段を賜い、元冑と楊約にはそれぞれ千段を、楊難敵には五百段を賜った。皆、楊勇を審問した功績への賞賜である。

時に文林郎の楊孝政が上書して諫めて言うには、「皇太子は小人に誤らされたのであり、訓誨を加えるべきで、廃黜すべきではありません」と。上(文帝)は怒り、その胸を鞭打った。間もなく貝州長史の裴肅が上表して称えるには、「庶人(楊勇)は罪を得て廃されて久しく、自ら克己して新たにすべきです。どうか一小国を封じてください」と。高祖は楊勇が廃されたことが、天下の心情に允っていないことを知り、裴肅を征して朝廷に入らせ、廃立の意図を具に陳述させた。

時に楊勇は自ら廃されたのはその罪に非ずと思い、頻りに上(文帝)に謁見を請い、面と向かって冤屈を申し立てようとした。しかし皇太子(楊広)がこれを阻み、奏聞させなかった。楊勇はそこで木に登って大声で叫び、その声が上(文帝)に聞こえるようにし、引見を得られることを望んだ。楊素はこれにより奏上して言うには、「楊勇の心情志操は昏乱し、癲鬼に憑かれており、再び収拾がつきません」と。上はこれを然りとし、楊勇は遂に謁見を得られなかった。楊素が誣陷して策謀し、その罪を構成したのは、多くこのような類いであった。

高祖が仁寿宮で病臥され、皇太子(楊広)を召して侍医薬にあたらせたが、その奸乱が宮闈に及び、事が高祖に聞こえた。高祖は床を叩いて言うには、「我が児を枉しく廃した」と。そこで楊勇を追い返そうと人を遣わした。使者を発するに及ばず、高祖は突然崩御し、喪を発さずに秘した。急いで柳述と元岩を捕らえ、大理獄に繋ぎ、高祖の勅書を偽造して、庶人(楊勇)に死を賜った。房陵王に追封したが、後嗣を立てることはしなかった。

楊勇には十人の男子がいた。雲昭訓が長寧王儼、平原王裕、安城王筠を生み、高良娣が安平王嶷、襄城王恪を生み、王良媛が高陽王該、建安王韶を生み、成姫が潁川王煚を生み、後宮が孝実、孝範を生んだ。

長寧王儼は、楊勇の長子である。誕生した当初、高祖に報告すると、高祖は言うには、「これは即ち皇太孫である。どうして生まれる場所が良くなかったのか」と。雲定興が奏上して言うには、「天が龍種を生むので、雲に因って出たのです」と。当時の人はこれを機敏な返答と思った。六歳で長寧郡王に封ぜられた。楊勇が敗れると、これに連坐して廃黜された。上表して宿衛を乞い、その言辞心情は哀切であり、高祖はこれを見て憫れんだ。楊素が進み出て言うには、「伏して願わくは聖心が蝮に手を噛まれた時と同じく、再び留意されるべきではありません」と。煬帝が即位すると、儼は常に従行させられ、道中で卒したが、実は毒殺したのである。諸弟は分かれて嶺外に移され、なお勅命によって在所で皆殺しにされた。

秦孝王

秦孝王楊俊は、字を阿祗といい、高祖(文帝)の第三子である。開皇元年に秦王に立てられた。二年春、上柱国・河南道行台尚書令しょうしょれい・洛州刺史に拝され、時に十二歳であった。右武衛大将軍を加えられ、関東の兵を領した。三年、秦州総管に遷る。隴右の諸州はすべてこれに隷属した。楊俊は仁恕慈愛で、仏道を崇敬し、沙門となることを請うたが、上(文帝)は許さなかった。六年、山南道行台尚書令に遷る。陳を伐つ役においては、山南道行軍元帥とされ、三十総管を督し、水陸十余万の兵を率いて漢口に屯し、上流の節度をなした。陳の将軍周羅睺・荀法尚らは、勁兵数万をもって鸚鵡洲に屯し、総管崔弘度はこれを撃つことを請うた。楊俊は殺傷を慮り、許さなかった。羅睺らもまた相率いて降伏した。ここにおいて使者を遣わして奏章を闕に奉り、涙を垂れて使者に謂いて曰く、「謬って推轂の任に当たり、尺寸の功もなく、これにより多く慚じるのみである」と。上はこれを聞いて善しとした。揚州総管四十四州諸軍事を授けられ、広陵に鎮した。歳余りして、へい州総管二十四州諸軍事に転ず。初めは頗る令聞があり、高祖はこれを聞いて大いに悦び、書を下して奨励した。その後、楊俊は次第に奢侈となり、制度に違犯し、銭を出して利息を求め、民吏はこれを苦しめた。上は使者を遣わしてその事を按問させ、これと連坐する者は百余りに及んだ。楊俊はなお悔い改めず、ここにおいて盛んに宮室を造営し、極めて侈麗を窮めた。楊俊は巧思があり、毎度自ら斤斧を運び、工巧の器を作り、珠玉をもって飾った。妃のために七宝の羃籬を作り、また水殿を作り、香を塗り粉壁とし、玉を砌き金を階とした。梁柱楣棟の間には、周囲に明鏡を配し、宝珠を間い、栄飾の美を極めた。毎度賓客・妓女とともにその上で弦歌した。楊俊は頗る内寵を好み、妃崔氏は性嫉妬深く、甚だこれを平らげず、遂に瓜の中に毒を進めた。楊俊はこれにより疾に遇い、京師に征還された。上はその奢侈放縱を以て、官を免じ、王として邸に就かせた。左武衛将軍劉升が諫めて曰く、「秦王には他に過ちはなく、ただ官物を費やして廨舎を営んだのみです。臣は容るべしと謂います」と。上は曰く、「法は違うべからず」と。劉升が固く諫めると、上は忿然として色を作り、劉升は乃ち止んだ。その後、楊素がまた進みて諫めて曰く、「秦王の過ちは、ここに至るべきにあらず、願わくは陛下これを詳らかにせられんことを」と。上は曰く、「我は五児の父なり、もし公の意の如くならば、何ぞ別に天子の児の律を制さざる。周公の為人を以てすら、尚お管・蔡を誅す。我は誠に周公に遠く及ばず、安んぞ法を虧くことを得んや」と。遂に許さず。

楊俊の疾が篤く、起つことができず、使者を遣わして表を奉り陳謝した。上はその使者に謂いて曰く、「我は力を関塞に戮し、この大業を創め、訓を作り範を垂れ、庶らく臣下にこれを守らしめて失わしめんとす。汝は吾が子として、これを敗らんと欲する、何を以てか汝を責めんとするを知らず」と。楊俊は慚怖し、疾ますます甚だしくなった。大都督ととく皇甫統が上表し、王の官を復することを請うたが、許されなかった。歳余りして、疾篤きを以て、また上柱国に拝された。二十年六月、秦邸において薨じた。上はこれを哭すること数声のみであった。楊俊の作りし侈麗の物は、悉く焚やせしめられた。勅して送終の具は、務めて儉約に従い、以て後の法とせしめた。王府の僚佐が碑を立てることを請うたが、上は曰く、「名を求めんと欲せば、一卷の史書足りる。何ぞ碑を用いん。もし子孫家を保つこと能わずんば、徒らに人の為に鎮石と作るのみである」と。

妃崔氏は王に毒を進めた故を以て、詔を下して廃絶し、その家に賜死した。子の楊浩は、崔氏の生みし者である。庶子に楊湛という。群臣議して曰く、「『春秋』の義は、母は子を以て貴く、子は母を以て貴しとす。貴きこと既に此の如し、罪は則ち知るべし。故に漢の時、栗姫に罪ありて、その子便ち廃せられ、郭后廃せられて、その子斯く黜せらる。大なること然り、小なるも亦た宜しく同じくすべし。今秦王の二子は、母皆罪ありて廃せられ、嗣を承うに合わず」と。ここにおいて秦国の官を以て喪の主とせしめた。楊俊の長女永豊公主は、年十二にして父の憂いに遭い、哀慕して礼を尽くし、喪を免かれた後、遂に魚肉を絶った。毎度忌日に至れば、輒ち流涕して食さず。開府王延という者あり、性忠厚にして、親信の兵を領すること十余年、楊俊は甚だこれを礼した。楊俊の疾あるに及んで、王延は恒に閤下に在り、衣も帯も解かず。楊俊の薨ずるや、勺飲も口に入れざること数日、羸頓して骨立した。上はこれを聞いて憫れみ、御薬を賜い、驃騎将軍を授け、宿衛を典せしめた。楊俊の葬る日、王延は号慟して絶えた。上は嗟異し、通事舎人をして弔祭せしめた。詔して王延を楊俊の墓の側に葬らしめた。

煬帝即位し、楊浩を立てて秦王とし、以て孝王の嗣を奉ぜしめた。楊湛を封じて済北侯とす。後に楊浩を河陽都尉とす。楊玄感の逆を作す際、左翊衛大将軍宇文述が兵を勒してこれを討ち、河陽に至り、楊浩に啓を修め、楊浩はまた宇文述の営に詣で、兵相往復す。有司が楊浩を劾し、諸侯として内臣と交通するを以て、竟に坐して廃免せらる。宇文化及が殺逆を始むるに当たり、楊浩を立てて帝とす。化及が黎陽に敗れ、北に走って魏県に至り、自ら僭偽の号を称し、ここにおいてこれを害した。楊湛はぎょう果にして、胆烈あり。大業初め、滎陽けいよう太守となり、楊浩に坐して免ぜられ、また化及に害せられた。

庶人楊秀

庶人楊秀は、高祖の第四子である。開皇元年、越王に立てられた。未だ幾ばくもせず、蜀に徙封され、柱国・益州刺史・総管、二十四州諸軍事に拝された。二年、上柱国・西南道行台尚書令に進位し、本官は元の如し。歳余りして罷められる。十二年、また内史令・右領軍大将軍となる。尋いでまた蜀に出鎮す。

楊秀は胆気あり、容貌瑰偉、美須髯、武藝多く、甚だ朝臣に憚られた。上は毎度献皇后に謂いて曰く、「楊秀は必ず悪をもって終わるべし。我在りては当に慮い無かるべし、兄弟に至っては必ず反す」と。兵部侍郎元衡が蜀に使いしに、楊秀は深く元衡と結び、左右を以て請う。既に京師に還り、左右を益すことを請うたが、上は許さず。大将軍劉噲が西爨を討つに当たり、高祖は上開府楊武通に兵を将いて継進せしめられた。楊秀は嬖人萬智光を楊武通の行軍司馬とせしめた。上は楊秀が人に任ずるに其の人に非ざるを以て、これを譴責した。ここにおいて群臣に謂いて曰く、「我が法を壊す者は、必ずや子孫にあらんか。譬えば猛獣の如し、物は害すること能わず、反って毛間の蟲に損い食われるのみである」と。ここにおいて遂に楊秀の統ぶる所を分かつ。

秀は次第に奢侈に走り、制度に違犯し、車馬や被服は天子に擬するものであった。及んで太子勇が讒毀により廃され、晉王広が皇太子となると、秀の心中は甚だ不平であった。皇太子は秀が終に後変を為すことを恐れ、密かに楊素に命じてその罪を求め譖言させた。仁壽二年、京師に召還され、上はこれに会うも語らわず。翌日、使者を遣わして厳しく譴責した。秀は謝して曰く、「国恩を忝くし、藩嶽に出臨すれど、法を奉ずること能わず、罪は万死に当たる」と。皇太子及び諸王は庭で涙を流して謝した。上は曰く、「近頃秦王は財物を糜費したので、我は父の道をもってこれを訓えた。今秀は生民を蠹害する、君の道をもってこれを糾すべきである」と。ここに執法者に付した。開府慶整は諫めて曰く、「庶人勇は既に廃され、秦王は既に薨じ、陛下の兒子多く無し、何ぞここに至るや。然れども蜀王の性は甚だ耿介なり、今重責を被り、自ら全うせざるを恐る」と。上は大いに怒り、その舌を断たんと欲す。ここに群臣に謂いて曰く、「秀を市に斬り、以て百姓に謝すべし」と。乃ち楊素・蘇威・牛弘・柳述・趙綽等に命じてこれを推治せしめた。太子は密かに偶人を作り、上及び漢王の姓字を書き、手を縛り心に釘を打ち、人をして華山の下に埋めさせ、楊素にこれを発見させた。又檄文を作りて曰く、「逆臣賊子、専ら威柄を弄び、陛下は唯虚器を守るのみ、一も知る所無し」と。甲兵の盛んなるを陳べ、「期を指して罪を問わん」と云う。これを秀の集中に置き、以て聞奏せしめた。上は曰く、「天下に寧く是れ有らんや」と。ここに庶人に廃し、内侍省に幽閉し、妻子と相見することを得ず、獠婢二人を給して駆使せしむ。これに連坐する者百余人。

秀は幽逼された後、憤懣として為す所を知らず、乃ち上表して曰く、「臣は多幸を以て、皇枝に聯慶し、天慈の鞠養を蒙り、九歳にして栄貴し、唯富楽を知るのみで、未だ憂懼を嘗めず。軽く愚心を恣にし、この刑網に陥り、山嶽を負う深きも、九泉に甘心す。天恩の尚お余漏を仮すとは謂わず、今に至る者に及びて、方に愚心は縦すべからず、国法は犯すべからざるを知り、膺を撫で咎を念い、自新するも及ばず。猶お分身竭命を望み、少しく慈造に答えんとすれど、但し霊祇祐さず、福祿消盡し、夫婦思を抱きて、相勝ち致さず。只恐らくは長く明世に辞し、永く泉壤に帰せんと、伏して願わくは慈恩、矜湣を賜い垂れ、残息未だ盡きざるの間、爪子と相見することを希う。一穴を賜い、骸骨をして所有せしめよ」と。爪子は即ちその愛子なり。上はここに詔を下してその罪を数えて曰く、

汝は地は臣子に居り、情は家国を兼ね、庸・蜀の要重を以て、鎮するに委ぬ。汝は乃ち紀を干し常を乱し、悪を懐き禍を楽み、二宮を䁹睨し、災釁に佇遅し、不逞を容納し、異端を結構す。我に和せざる有れば、汝便ち覘候し、我の起たざるを望み、便ち異心有り。皇太子は汝が兄なり、次に建立すべし、汝は妖言を仮託し、乃ちその位を終えざると雲う。妄りに鬼怪を称し、又た宮に入るを得ずと道い、自ら骨相は人臣に非ず、德業は重器を承くに堪うと言い、妄りに清城に聖出ずと道い、以て己を以てこれに当たらんと欲し、詐りに益州に龍見すと称し、吉兆に托言す。重ねて木易の姓を述べ、更に成都の宮を治め;妄りに禾乃の名を説き、以て八千の運に当たらんとす。横に京師の妖異を生じ、以て父兄の災を証し;妄りに蜀地の徵祥を造り、以て己身の籙に符す。汝は豈に国家の悪を得、天下の乱を欲せざらんや、輒ち白玉の珽を造り、又た白羽の箭を為し、文物服飾、豈に君有るに似んや、左道を鳩集し、符書厭鎮す。漢王は汝に於いて、親は則ち弟なり、乃ちその形像を画き、その姓名を書き、手を縛り心に釘を打ち、枷鎖杻械す。仍て雲う、西嶽華山慈父聖母神兵九億萬騎を請い、楊諒の魂神を収め、華山の下に閉じ、散蕩せしむる勿れと。我の汝に於ける、親は則ち父なり、複た雲う、西嶽華山慈父呈母を請い、開化楊堅夫妻と為すを賜い、心を回らし歓喜せしめよと。又た我が形像を画き、手を縛り頭を撮り、仍て雲う、西嶽神兵を請い楊堅の魂神を収めよと。かくの如き形状、我今楊諒・楊堅は汝が何の親なるかを知らず。凶慝を苞藏し、不軌を図謀す、是れ逆臣の跡なり;父の災を希い、以て身の幸と為す、是れ賊子の心なり;非分の望を懐き、毒心を兄に肆う、是れ悖弟の行いなり;弟に嫉妒し、悪無くして為さず、孔懐の情無し;制度に違犯し、壊乱の極みなり;多く不辜を殺し、豺狼の暴なり;民庶を剝削し、酷虐の甚だしきなり;唯財貨を求め、市井の業なり;専ら妖邪に事え、頑囂の性なり;負荷に克たず、不材の器なり。凡そ此の十者は、天理を滅し、人倫に逆らう、汝皆これを為す、不祥の甚だしきなり、禍患を免れ、長く富貴を守らんと欲するも、其れ得べけんや。

後にまたその子と同処することを聴す。

煬帝即位の後、禁錮は初めの如し。宇文化及のしいしいぎゃくに当たり、秀を立てて帝と為さんと欲すれど、群議許さず。ここにこれを害し、並びにその諸子を害す。

庶人諒

庶人諒、字は德章、一名は傑、開皇元年、漢王に立てらる。十二年、雍州牧となり、上柱国・右衛大将軍を加う。歳余りして、左衛大将軍に転ず。十七年、出でて并州総管となり、上は溫湯に幸してこれを送る。山より以東、滄海に至り、南は黄河に拒ぎ、五十二州ことごとくこれに隷す。特許して便宜を以てし、律令に拘わらず。十八年、遼東の役を起こし、諒を行軍元帥と為し、衆を率いて遼水に至るも、疾疫に遇い、利あらずして還る。十九年、突厥塞を犯す、諒を行軍元帥と為すも、竟に戎に臨まず。高祖甚だこれを寵愛す。諒は自ら居る所天下の精兵の処たるを以てし、太子の讒廢により、居常怏怏として、陰に異図有り。遂に高祖に諷して雲く、「突厥方に強く、太原即ち重鎮と為す、宜しく武備を修むべし」と。高祖これに従う。ここに大いに工役を発し、器械を繕治し、并州に貯納す。亡命を招傭し、左右の私人、殆ど数萬に将す。王頍は、梁の将王僧辯の子なり、少より倜儻にして、奇略有り、諒の諮議参軍と為る。蕭摩訶は、陳氏の旧将なり。二人倶に志を得ず、毎に鬱鬱として乱を思い、並びに諒に親善せらる。

蜀王が罪により廃されると、諒はますます自ら安んじることができなかった。ちょうど高祖が崩御し、召還に応じなかったので、ついに兵を起こして反逆した。総管司馬の皇甫誕が切に諫めたが、諒は怒り、彼を捕らえて獄につないだ。王頍が諒に説いて言うには、「王の統轄する将吏の家族は、すべて関西にあります。もしこの者たちを用いるならば、すなわち長駆して深く入り、直ちに京都を占拠すべきであり、いわゆる疾雷耳を掩うに及ばず、というものです。もしただ旧斉の地を割拠しようとするならば、東方の人々を任用すべきです。」諒は専ら決断できず、かえって二つの策を併用し、声高に言った、「楊素が反逆した、これを誅殺するのだ。」と。聞喜の人で総管府兵曹の裴文安が諒に説いて言うには、「井陘以西は、王の掌握の内であり、山東の兵馬もまた我が有する所です。宜しくこれを悉く発動すべきです。弱兵を分遣して要路に屯守させ、なお方角に従って地を攻略させます。その精鋭を率いて、直ちに蒲津に入ります。文安は先鋒を請い、王は大軍を率いてその後を継ぎ、風の如く行き電の如く撃ち、上に頓すれば、咸陽以東は指麾して平定できます。京師は震動し擾乱し、兵は集める暇がなく、上下相疑い、群情は離反し驚き、我が兵を陳べて号令すれば、誰か従わざる者がありましょう。旬日の間に、事は定めることができます。」諒は大いに喜んだ。ここにおいて配下に任じた大将軍余公理を太谷から出撃させ、河陽に向かわせた。大将軍綦良を滏口から出撃させ、黎陽に向かわせた。大将軍劉建を井陘から出撃させ、燕趙を攻略させた。柱国喬鐘葵を雁門から出撃させた。文安を柱国に任じ、紇単貴・王聃・大将軍茹茹天保・侯莫陳惠をして直ちに京師を目指させた。蒲津に至るまで百余里にならぬうちに、諒は突然計画を変え、紇単貴に命じて河橋を断ち切り、蒲州を守らせ、一方で文安を召還した。文安が到着して言うには、「兵機は詭速を旨とし、本来はその不意を衝こうとしたのです。王が既に行かず、文安がまた退けば、彼らの計略を成就させ、大事は去ります。」諒は答えなかった。王聃を蒲州刺史とし、裴文安を晉州刺史とし、薛粹を絳州刺史とし、梁菩薩を潞州刺史とし、韋道正を韓州刺史とし、張伯英を澤州刺史とした。煬帝は楊素に騎兵五千を率いさせ、蒲州において王聃・紇単貴を襲撃させ、これを撃破した。ここにおいて歩騎四万を率いて太原に向かった。諒は趙子開に命じて高壁を守らせたが、楊素がこれを撃退した。諒は大いに恐れ、蒿沢において楊素を迎え撃った。ちょうど大雨が降り、諒は軍を返そうとした。王頍が諫めて言うには、「楊素は懸軍であり、兵馬は疲弊しています。王が鋭卒を親しく率いてこれを撃てば、その勢い必ず挙がります。今敵を見て還るのは、人に怯懦を示し、戦士の心を阻み、西軍の気勢を益すことになります。願わくは王、必ず還らざらんことを。」諒は従わず、退いて清源を守った。楊素が進撃してくると、諒は兵を統率して官軍と大戦し、死者一万八千人を出した。諒は退いて并州を守り、楊素が進軍して包囲した。諒は窮地に陥り、楊素に降伏した。百官が諒の罪は死に当たると奏上したが、帝は言った、「終に兄弟少なく、情に忍びず、法を屈して諒の一死を恕さんと欲す。」ここにおいて名籍から除き庶民とし、その属籍を絶ち、ついに幽閉されて死んだ。子の顥は、これにより禁錮され、宇文化及が弑逆した際に、害に遇った。

【論】

史臣が言う。高祖の子五人、その天命を終えた者なし、異なるかな。房陵王は骨肉の親に資り、君臣の義をもって篤くし、経綸をめぐらし締構し、契闊し夷険を経て、軍を撫で国を監すること、凡そ二十年、三善と称されることは未だなかったが、視膳には欠けることがなかった。恩寵が既に変じ、讒言がこれを離間し、顧みて覆う慈しみは、たちまち人理から隔たり、父子の道は、遂に天性において滅びた。隋室の将に亡びんとする兆しは、衆庶皆これを知っていた。《慎子》に言う、「一匹の兎が街を走れば、百人がこれを追う。積もった兎が市にあれば、通り過ぎる者は顧みない。」と。どうして欲がないことがあろうか。分が定まっているからである。房陵王の分は久しく定まっていた。高祖が一朝にしてこれを易え、逆乱の源を開き、覬覦の望みを長じさせた。また維城の建設が始まり、その威重を崇め、寵を恃んで驕り、厚く自ら封植し、進めるに制を逾え、退けるに道をもってしなかった。俊は憂いにより卒したが、実にこれが由縁である。やがて天歩方に艱難に属し、讒人既に勝ち、尺布斗粟すら、肯えて相容れようとしなかった。秀は岷蜀の険阻を窺い、諒は晋陽の甲を起こし、この乱常の隙間を成した。蓋しまたこれを動かすもの有りてなり。《棠棣》の詩は徒らに賦せられ、有鼻の封は期無く、或いは囹圄に幽囚され、或いは鴆毒に顛殞した。本根既に絶え、枝葉畢く剪られ、十余年の後、宗社は淪没した。古より嫡を廃し庶を立て、族を覆し宗を傾ける者は多いが、その乱亡の禍を考うるに、隋の如く酷いものは未だなかった。《詩》に曰く、「殷の鑒遠からず、夏后の世に在り。」と。後に国を有ち家を有つ者は、深く戒めざるべけんや。