李穆

李穆、字は顯慶、自ら隴西成紀の人と称し、漢の騎都尉李陵の後裔である。李陵は匈奴に没し、子孫は代々北狄に居住し、その後魏に従って南遷し、再び汧・隴に帰った。祖父の斌は都督ととくとして高平に鎮し、ここに家を定めた。父の文保は早くに卒し、李穆が貴くなると司空しくうを追贈された。李穆は風采・精神ともに聡明で、豪放磊落にして非凡な節操があった。周の太祖が初めて義旗を掲げると、李穆はただちに身を委ね、官に就いて統軍となった。永熙の末、魏の武帝を奉迎し、都督を授けられ、永平県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。また郷兵を率い、軍功を重ねて爵位は伯に進んだ。太祖に従って芒山で斉軍を撃つとき、太祖が戦場で落馬すると、李穆は包囲を突破して進み、馬策で太祖を打ちながら罵り、従騎を与えて包囲を突破してともに脱出した。賊はその軽侮ぶりを見て、太祖を貴人ではないと思い、追撃を緩めたため、難を免れることができた。やがて李穆と相対して泣き、左右の者を顧みて言うには、「我が事を成す者は、この人であろうか」と。ただちに関中を慰撫させ、赴くところ平定し、武衛将軍・儀同三司に抜擢され、安武郡公に進封され、邑千七百戸を加増され、鉄券を賜り、十死を恕された。まもなく開府を加えられ、侍中を兼ねた。初め、芒山の敗戦のとき、李穆は驄馬を太祖に与えた。太祖はそこで厩内の驄馬をすべて李穆に賜い、李穆の姉妹を皆郡県君に封じ、宗族や母方の親族にもそれぞれ差等をつけて頒賜した。太僕に転じた。于謹に従って江陵を破り、邑千戸を加増され、大将軍に進んだ。曲沔の蛮を撃ち破り、原州刺史を授けられ、嫡子の惇を儀同三司に任じた。李穆は二人の兄の賢・遠がともに創業の功臣であり、子弟が清要な官職に列なるのを深く恐れ、辞退して拝命しなかった。太祖は許さなかった。ほどなく雍州刺史に遷り、小塚宰を兼ねた。周元年、邑三千戸を加増され、以前の分と合わせて三千七百戸となった。また別に一子を升遷伯に封じた。李穆は兄の子の孝軌に譲ろうとし、許された。

宇文護が政権を執ると、李穆の兄の遠とその子の植がともに誅殺され、李穆は連座すべきところであった。以前より、李穆は植が家を保つ主でないことを知り、しばしば遠に除くよう勧めたが、遠は用いなかった。遠が刑に臨むとき、泣いて李穆に言うには、「顯慶よ、我は汝の言を用いなかったため、このようなことになった。これからどうすればよいのか」と。李穆はこれによって罪を免れ、除名されて民とされ、その子弟も免官された。植の弟の淅州刺史基は処刑されるべきところであったが、李穆は二人の子の命をもって基に代わることを請うた。宇文護はその義を感じて両者を釈放した。まもなく、開府儀同三司・直州刺史に任じられ、再び安武郡公の爵位を回復した。武成年間、子弟で免官・奪爵された者はすべて復された。ほどなく少保に任じられ、大将軍に進んだ。一年余りして小司徒しとに任じられ、柱国に進み、大司空に転じた。詔を奉じて通洛城を築いた。天和年間、申国公に進爵し、節を持って東境を綏撫し、武申・旦郛・慈澗・崇德・安民・交城・鹿盧などの諸鎮を築いた。建德初年、太保に任じられた。一年余りして原州総管として出向した。数年後、上柱国に進み、へい州総管に転じた。大象初年、邑は九千戸に加増され、大左輔に任じられ、総管はもとのままとした。

時に太史が奏上して言うには、遷都の事があるべきであると。上(文帝)は即位したばかりであり、甚だ難しく思った。李穆が上表して言うには、

帝王の居所は、時に従って興廃し、天道と人事、理として存するところがある。三皇より始まり、両漢に至るまで、一世にしてしばしば遷るものあり、革命して遷らざるはない。曹氏・司馬氏はともに洛水の陽にあり、魏・周はともに長安ちょうあんの内にあった。この四代は、およそ聞くところである。曹氏は則ち三家鼎立し、司馬氏は則ち四海まもなく分かれ、魏および周は、ようやく平定を得たが、事に追われて暇なく、古に師うとは言えない。往昔、周の運命将に尽きんとし、禍は華夏に生じ、廟堂の冠帯の士、しばしば奸回を目にし、士には野心を包蔵する者あり、人に柱石たる者は稀であった。四海万国、皆豺狼のごとく振る舞い、叛かず侵さざるは、百城に一つのみ。伏して惟うに、陛下は期運に膺かり聖を誕し、符籙を受け図録を受けて、初めは君人の徳を晦まし、将相の重きに俯従された。内には群凶を剪除し、崇朝のうちに大定し、外には巨猾を誅し、日にちを経ずして肅清した。大乱の民を変じて太平の俗と成し、百霊は符命し、兆民は謳歌する。幽顕ともに推戴し、日月積もり、ようやく箕山・潁水の志を屈し、初めて内外の請いに順った。神宗より天命を受けしより、道を弘め教えを設け、陶冶は陰陽と徳を合わし、覆育は天地と旨を同じくす。万物開闢の初め、八表光華の旦、視聴は革まり、風俗まさに移らんとす。帝室の天居たるに至っては、未だ経創を議せず、いわゆる大造を発明し、惟新を光賛するに非ず。漢より以来、喪乱の地たり、近代より以来、累葉の都とす。未だ嘗て亀を謀り筮を問い、星を瞻って鼎を定めず、いずくんぞ聖主の規に副い、大随の徳を表わさんや。窃かに神州の広き、福地の多きを以て、皇家の為に廟を興し寝を建つるに、上玄の意、別にこれ有るべし。伏して願わくは、遠く天人に順い、卜筮に取って決し、時に都邑を改め、区夏に光宅せんことを。子来の民に任せ、窮りなき業を垂れ、辰極に神宮を応じ、天壌に和気を順え、理康く物阜く、永く隆え長く世を保たん。臣は日桑楡に薄く、位軒冕に高し。邦を経め道を論ずるは、自ら顧みて缺然たり。丹赤の懐くところ、黙するを容れず。

上はもとより台城の制度が狭小なのを嫌い、また宮内に鬼妖が多いのを、蘇威がかつて遷都を勧めたが、上は受け入れなかった。太史の奏状に遇い、意は惑わされた。ここに至り、李穆の表を省みて、上は言うには、「天道は聡明にして、既に徴応あり。太師は民望たり、またこの請いに抗す。則ち可なり」と。遂いにこれに従った。一年余りして、詔を下して言うには、「礼制は凡品を制し、上智には拘わらず、法は小人に備え、君子を防がず。太師・上柱国・申国公は、器宇弘深、風猷遐曠、社稷の佐命、公を以て首と称す。位は帥臣極まり、才は人傑たり。万頃測るべからず、百煉ますます精し。乃ち伯玉の非なく、豈に顔回の貳あらんや。故に寥廓を自ら居とし、憲網に関わらず。然れども王者の教えを作すは、ただ善人を旌るにあり。法を去て道を弘め、年徳を崇ぶるを示す。今より以後、愆罪あれども、ただ謀逆に非ざれば、たとえ百死あろうとも、終に推問せず」と。

開皇六年に邸において薨去した。享年七十七。遺令に曰く、「吾は国恩を荷い、年齢と官位は既に極みに達し、足を啓いて泉下に帰するに、再び恨むところ無し。ついに玉鑾に陪して岱宗に至らず、金泥に預かって梁甫に祭ることを得ず。眷々たる光景、其れ斯れに在るか」と。詔して黄門侍郎を遣わして喪事を監護せしめ、賵として馬四匹、粟麦二千斛、布絹一千匹を賜う。使持節・冀定趙相瀛毛魏衛洛懐十州諸軍事・冀州刺史を追贈す。諡して明と曰う。石槨・前後部の羽葆鼓吹・轀輬車を以て賜う。百僚これを郭外に送る。詔して太常卿牛弘を遣わし哀冊を齎し、太牢を以て祭る。孫の筠が嗣ぐ。

穆の長子は惇。

惇の子は筠。

筠の父惇は、字を士獻といい、穆の長子である。周に仕え、官は安楽郡公・鳳州刺史に至り、穆に先立って卒す。筠は幼くして穆の功により、儀同に拝された。開皇八年、嫡孫として爵を襲ぐ。仁寿初年、叔父の渾が其の吝嗇を忿り、密かに兄の子善衡を遣わして賊に殺させた。盗賊を求めて獲ず、高祖大いに怒り、其の親族を尽く禁錮した。初め、筠は従父の弟瞿曇と隙有り、時に渾は力有り、遂に瞿曇が之を殺したと証言した。瞿曇は竟に坐して斬られ、而して善衡は免れた。四年、嗣を立てることを議す。邳公蘇威、筠が不義にして骨血相い殺すと奏し、其の封を絶つことを請う。上は許さず。

惇の弟は怡。

惇の弟怡は、官は儀同に至り、早く卒し、渭州刺史を追贈される。

怡の弟は雅。

怡の弟雅は、少にして識量有り。周の保定年中、屡々軍功により西安県男に封ぜられ、大都督に拝される。天和年中、元定に従い江西を征し、時に諸軍利あらず、遂に陳に没す。後に帰国を得、開府儀同三司に拝され、左右軍を領す。其の年、太子に従い西征して吐谷渾を討ち、雅は歩騎二千を率い、軍糧を洮河において督し、賊に躡われ、数日相い持す。雅之を患い、遂に偽り和し、虜の備え稍く解け、奇兵を縱ちて之を撃破す。奴婢百口を賜い、一子を封じて侯とす。後に斉州刺史に拝され、俄かに征還されて京に至る。数載を経て、瀛州刺史を授かる。高祖相と為り、胡に備えて霊州に鎮す。還りて大将軍を授かり、遷りて荊州総管と為り、邑八百戸を加えられる。開皇初年、爵を進めて公と為す。

雅の弟は恆。

雅の弟恆は、官は塩州刺史に至り、陽曲侯に封ぜられる。

恆の弟は榮。

恆の弟榮は、官は合州刺史・長城県公に至る。

榮の弟は直。

榮の弟直は、官は車騎将軍・帰政県侯に至る。

直の弟は雄。

直の弟の雄は、官は柱国・密国公・驃騎将軍に至る。

雄の弟に渾あり。

雄の弟の渾は最も名を知られる。渾は字を金才といい、穆の第十子である。姿形は瑰偉にして、美しい鬚髯を有す。周の左侍上士として起家す。尉遅迥が鄴にて反す。時に穆は并州にあり、高祖は其が遅迥に誘はるるを慮り、渾を駅馬に乗せて往きて腹心を布かしむ。穆は直ちに渾をして京に入り、高祖に熨斗を奉らしめて曰く、「願はくは威柄を執りて以て天下を熨安せん」と。高祖大いに悦ぶ。又渾を韋孝寬の所に詣らしめて穆の意を述べしむ。適に鄴を平ぐるに遇ひ、功を以て上儀同三司を授けられ、安武郡公に封ぜらる。開皇初め、象城府驃騎将軍を進授せらる。晋王広が藩に出づるに、渾は驃騎を以て親信を領し、従ひて揚州に往く。仁寿元年、左僕射楊素に従ひ行軍総管となり、夏州の北三百里より出で、突厥の阿勿俟斤を納遠川に破り、五百級を斬る。位を進めて大将軍と為り、左武衛将軍を拝し、太子宗衛率を領す。

初め、穆の孫の筠卒す。高祖嗣を立てんことを議す。渾は紹がんことを規り、其が妻の兄なる太子左衛率宇文述に謂ひて曰く、「若し襲封を得ば、当に国賦の半を以て毎歳公に奉らん」と。述之を利し、因りて入りて皇太子に白して曰く、「嗣を立てるには長を以てし、然らざれば則ち賢を以てす。今申明公の嗣絶ゆ。遍く其の子孫を観るに、皆無頼にして、以て栄寵に当るに足らず。唯だ金才のみ国に勳あり。此の人に非ざれば以て封を襲ぐべき者無しと謂ふ」と。太子之を許し、竟に高祖に奏し、渾を申国公に封じて穆の嗣を奉らしむ。大業初め、右ぎょう衛将軍に転ず。六年、詔有りて穆の封を追ひて郕国公と改む。渾仍く襲ぐ。累ねて光禄大夫を加ふ。九年、右驍衛大将軍に遷る。

渾既に父の業を紹ぎ、日に豪侈を増す。後房羅綺を曳く者百数を以てす。二歳の後、俸物を以て述に与へず。述大いに之を恚る。酔ひに因りて、乃ち其の友人於象賢に謂ひて曰く、「我竟に金才に売らる。死すとも忘れじ」と。渾亦其の言を知る。是より隙を結ぶ。後、帝遼東を討つ。方士安伽陀有り、自ら図讖に曉るると言ひ、帝に謂ひて曰く、「当に李氏有りて天子に応ずべし」と。海内の凡そ姓李なる者を尽く誅せんことを勧む。述之を知り、因りて渾を帝に誣構して曰く、「伽陀の言信に徴有り。臣と金才は夙に親し。其の情趣大いに異なるを聞く。常日数へて李敏・善衡等と共に、日夜屛語し、或は終夕寐まず。渾は大臣なり。家代隆盛、身禁兵を捉ふ。宜しく然るべからず。願はくは陛下之を察せよ」と。帝曰く、「公の言是なり。事を覓むべし」と。述乃ち武賁郎将裴仁基を遣はし表して渾の反を告げしむ。即日宿衛千余人を発して述に付し、渾等の家を掩ひ、左丞元文都・御史大夫裴蘊を遣はし雑治せしむ。案問数日、其の反状を得ず。実を以て奏聞す。帝納れず、更に述を遣はし窮治せしむ。述獄中に入り、敏の妻宇文氏を召し出して之に謂ひて曰く、「夫人は帝の甥なり。何ぞ賢夫無きを患へん。李敏・金才、名妖讖に当る。国家之を殺す、救ふ可からず。夫人自ら全きを求むべし。若し相語を用ひば、身当に坐せざらん」と。敏の妻曰く、「出づる所を知らず。唯だ尊長の之を教ふるに俟つ」と。述曰く、「李家の謀反を言ふ可し。金才嘗て敏に告げて云く、『汝図籙に応じ、当に天子と為るべし。今主上兵を好み、百姓を労擾す。此亦天の隋を亡ぼす時なり。正に当に汝と共に之を取らん。若し復た遼を渡らば、吾と汝必ず大将と為らん。毎軍二万余の兵、固より五万人なり。又諸房の子弟を発し、内外の親婭、並びに征に従ふを募らん。吾が家の子弟、決して主帥と為り、兵馬を分領し、諸軍に散じ、間隙を伺候し、首尾相応ぜん。吾と汝前に発し、御営を襲ひ取り、子弟響き起これば、各軍将を殺さん。一日の間、天下足して定まれり』と」と。述口自ら伝授し、敏の妻をして表を写さしめ、封じて上密と云ふ。述持ちて入り奏す。曰く、「已に金才の反状を得、並びに敏の妻の密表有り」と。帝之を覧みて泣きて曰く、「吾が宗社幾くんぞ傾かんとす。親家公に頼りて全きを得たり」と。是に於て渾・敏等の宗族三十二人を誅し、自余少長無く、皆嶺外に徙す。

渾の従父兄に威あり。

渾の従父兄の威は、開皇初め、蛮を平ぐる功を以て、官は上柱国・黎国公に至る。

穆の兄の子に詢あり。

詢は字を孝詢といふ。父は賢、周の大将軍。詢は沈深にして大略有り、頗る書記に渉る。周に仕へて納言上士と為り、俄に内史上士に転じ、兼ねて吏部を掌り、幹済を以て聞こゆ。建徳三年、武帝雲陽宮に幸す。司衛上士を拝し、留府の事を委ねらる。周の衛王直乱を作し、肅章門を焚く。詢内に於て火を益す。故に賊入るを得ず。帝聞きて之を善しとし、儀同三司を拝し、長安令に遷る。累ねて英果中大夫に遷る。屡ひ軍功を以て、位を加へて大将軍と為り、爵を平高郡公に賜ふ。

高祖丞相と為る。尉遅迥乱を作す。韋孝寬を遣はし之を撃たしむ。詢を以て元帥長史と為し、心膂を委ぬ。軍永橋に至る。諸将一せず。詢密かに高祖に啓し、重臣の監護を請ふ。高祖遂に高熲をして軍を監せしむ。熲と同心協力するは、唯だ詢のみなり。尉遅迥を平ぐるに及び、位上柱国に進み、隴西郡公に改封せられ、帛千匹を賜ひ、口馬を加へらる。

開皇元年、杜陽水を引きて三趾原を灌ぐ。詢其の役を督す。民其の利に頼る。尋いで襄州総管事を検校す。歳余り、顕州総管を拝す。数年、疾を以て京師に征還せらる。中使顧問絶えず。家に卒す。時に年四十九。上悼惜すること久し。諡して襄と曰ふ。子元方有りて嗣ぐ。

詢の弟に崇あり。

崇は字を永隆といふ。英果にして籌算有り、膽力人に過ぐ。周の元年、父賢の勳を以て、乃楽県侯に封ぜらる。時に年尚ほ小なり。爵を拝するの日、親族相賀す。崇独り泣きて下る。賢怪しみて之を問ふ。対へて曰く、「国に勳無くして、幼少にして侯に封ぜらる。主恩に報ぜんと当り、孝養を終ふるを得ず。是を以て悲しむなり」と。賢是より之を大いに奇とす。州主簿として起家す。其の好む所に非ず。官に就くを辞し、将兵都督を求めんことを請ふ。宇文護に随ひて斉を伐つ。功最もを以て、擢でられ儀同三司を授けらる。尋いで小司金大夫を除かれ、軍器監を治む。建徳初め、少侍伯大夫に遷り、少承御大夫に転じ、太子宮正を摂す。周の武帝斉を平ぐ。参謀議に引き、幼を以て開府を加授せられ、襄陽県公に封ぜられ、邑一千戸。尋いで広宗県公に改封せられ、太府中大夫に転じ、工部中大夫を歴へ、右司馭に遷る。高祖丞相と為る。左司武上大夫に遷り、上開府儀同大将軍を加授せらる。尋いで懐州刺史と為り、爵を郡公に進め、邑を二千戸に加ふ。尉遅迥反す。使を遣はし之を招く。崇初め相応ぜんと欲す。後叔父穆の并州を以て高祖に附くを知り、慨然として太息して曰く、「闔家富貴する者数十人、国に難有るに値ひ、竟に傾きを扶け絶えを継ぐ能はざるは、復た何の面目を以て天地の間に処らんや」と。韋孝寬亦之を疑ひ、倶に臥起す。其の兄詢時に元帥長史と為り、毎に之を諷諭す。崇是より亦心を帰す。尉惇を破るに及び、大将軍を拝す。既に尉遅迥を平ぐ。徐州総管を授けられ、尋いで位上柱国に進む。

開皇三年(五八三年)、幽州総管に任ぜられた。突厥が辺境を侵犯すると、崇はこれを撃破した。奚・霫・契丹らはその威略に畏れをなし、争って内附してきた。その後、突厥が大いに寇掠すると、崇は歩騎三千を率いてこれを防ぎ、十余日にわたって転戦したが、兵士は多く死に、ついに砂城に拠って守った。突厥はこれを包囲した。城はもともと荒廃しており、守備に耐えず、昼夜を分かたず力戦し、また食糧もなく、毎夜賊の陣営を襲って六畜を得、軍糧を継いだ。突厥はこれを恐れ、厚く備えを固め、毎夜陣を結んで待ち受けた。崇の軍は飢えに苦しみ、出撃すれば必ず敵に遭遇し、死亡してほとんど尽き、夜明け近くに城に逃げ帰った者は、なお百人ほどいたが、多くは重傷を負い、再び戦うことができなかった。突厥は彼らを降伏させようとし、使者を遣わして崇に言った、「もし降伏するならば、特勤に封ぜよう。」崇は必ず免れないと悟り、配下の士卒に命じて言った、「崇は軍を喪い、罪は死に当たる。今日、命を尽くして国家に謝する。我が死ぬのを見届けたならば、賊に降り、機会を見て散り散りになり、努めて故郷に帰れ。もし至尊(天子)にお目通りがあれば、崇のこの思いを伝えよ。」そして刃を挺てて賊に突撃し、さらに二人を殺した。賊は乱射して、崇は陣中に卒した。年四十八歳。・鄎・申・永・澮・亳の六州諸軍事・豫州刺史を追贈され、諡して壮といった。子の敏が後を嗣いだ。

崇の子、敏。

敏は字を樹生という。高祖(文帝)はその父が王事のために死んだことを以て、長く宮中で養育した。成長すると、広宗公の爵を襲い、左千牛より起家した。姿形が美しく、騎射に優れ、歌舞管絃、通じ解らぬものはなかった。開皇初年、周の宣帝の后(楊麗華)が楽平公主に封ぜられ、娘の娥英がおり、婿を選ぶに当たり、勅によって貴公子弟を弘聖宮に集め、日に百数人に及んだ。公主はみずから帷の中におり、皆に自己紹介をさせ、技芸を試させた。選に漏れた者は、すぐに退出させた。敏に至って意に合い、ついに婚姻が結ばれた。敏は一品の羽儀を仮に与えられ、礼は皇帝の娘を娶るのと同じであった。後に侍宴することになり、公主は敏に言った、「私は天下を至尊に与えた。ただ一人の娘婿である。汝のために柱国を求めよう。もし他の官を授けられたら、慎んで謝辞してはならない。」進んで上(文帝)に謁見すると、上はみずから琵琶を弾き、敏に歌舞させた。やがて大いに悦び、公主に言った、「李敏は何の官か。」公主は答えて言った、「一介の白丁でございます。」上はそこで敏に言った、「今、汝に儀同を授けよう。」敏は答えなかった。上は言った、「意に満たないか。今、汝に開府を授けよう。」敏はまた謝礼しなかった。上は言った、「公主は我に大功がある。どうしてその女婿に官を惜しむことがあろうか。今、卿に柱国を授けよう。」敏はようやく拝礼して舞踏した。そこで座中で詔を発して柱国を授け、本官のまま宿衛に任じた。後に避諱して、経城県公に改封され、邑一千戸を賜った。蒲・豳・金・華・敷州刺史を歴任したが、多くは職に就かず、常に京師に留まり、宮内を往来し、侍従して遊宴し、賞賜は功臣を超えていた。後に仁寿宮に行幸の際、岐州刺史に任ぜられた。

大業初年、衛尉卿に転じた。楽平公主が臨終に際し、煬帝に遺言して言った、「妾に子息はなく、ただ一女があるのみです。自分の死は憂いませんが、ただこの娘を深く憐れみます。今、湯沐邑を、どうか李敏に回していただきたい。」帝はこれに従った。ついに五千戸を食邑とし、屯衛将軍を摂任した。楊玄感の反乱後に大興城を築いたのは、敏の献策によるものであった。将作監に転じ、高麗征伐に従軍し、新城道軍将を領し、光禄大夫を加えられた。十年(六一四年)、帝が再び遼東を征したとき、敏を黎陽に派遣して輸送を監督させた。時に敏の一名が洪児であるという者がおり、帝は「洪」の字が讖(予言)に当たるのではないかと疑い、かつて面と向かって告げ、自決することを期待した。敏はこれによって大いに恐れ、しばしば李金才・李善衡らと人を退けて密談した。宇文述がこれを知って上奏し、ついに李渾と同じく誅殺された。年三十九歳。その妻の宇文氏も、数か月後に鴆毒を賜って死を遂げた。

梁睿。

梁睿は、字を恃徳といい、安定郡烏氏県の人である。父の梁禦は、西魏の太尉であった。睿は幼少より沈着で聡明、行いに慎みがあった。周の太祖(宇文泰)の時、功臣の子として数年間宮中で養育された。その後、諸子に命じて睿と遊び学ばせ、同じ師について共に学業に励み、情誼は甚だ睦まじかった。七歳で広平郡公の爵を襲い、累進して儀同三司に加えられ、邑五百戸を賜った。まもなく本州の大中正となった。魏の恭帝の時に開府を加えられ、五龍郡公に改封され、渭州刺史に任ぜられた。周の閔帝が禅譲を受けると、御伯に召された。間もなく中州刺史として出向し、新安を鎮守して斉に備えた。斉人が来寇すると、睿はこれを挫き、帝は甚だ賞賛した。大将軍に任ぜられ、蒋国公に爵位を進められ、入朝して司会となった。後に斉王宇文憲に従って洛陽らくようで斉の将軍斛律明月を防ぎ、毎戦功を立て、小塚宰に遷った。武帝の時、敷州刺史・涼安二州総管を歴任し、いずれも恵みある政績を挙げ、柱国に進んだ。

高祖(楊堅)が百官を総覧すると、代わって王謙を益州総管とした。漢川に至ったところで王謙が反乱を起こし、兵を派遣して始州を攻めたため、睿は進むことができなかった。高祖は睿を行軍元帥に命じ、行軍総管の于義・張威・達奚長儒・梁升・石孝義ら歩騎二十万を率いて討伐させた。時に王謙は開府の李三王らを通谷に守らせていたが、睿は張威を派遣してこれを撃破し、数千人を捕虜とし、龍門まで進軍した。王謙の将軍趙儼・秦会が十万の兵を擁し、険阻な地に拠って陣営を構え、周囲三十里に及んだ。睿は将士に命じて枚を銜ませて間道より出撃し、四方から奮撃して力戦の末これを破った。しょく人は大いに驚き、睿は鼓を鳴らして進軍した。王謙の将軍敬豪は剣閣を守り、梁岩は平林を防いだが、ともに恐れて降伏してきた。王謙はまた高阿那肱・達奚惎らに盛んな兵をもって利州を攻めさせた。睿が来ると聞き、惎は兵を分けて開遠を占拠した。睿は将士を顧みて言った、「この虜は要衝を占拠し、我が兵勢を抑えようとしている。我はその不意を衝けば、必ずこれを破ることができよう。」上開府の拓拔宗を剣閣に向かわせ、大将軍の宇文夐を巴西に派遣し、大将軍の趙達に水軍を率いて嘉陵に入らせた。睿は張威・王倫・賀若震・于義・韓相貴・阿那惠らを分遣して惎を攻撃させ、午の刻から申の刻にかけてこれを破った。惎は王謙のもとに逃げ帰った。睿は成都に迫り、王謙は達奚惎・乙弗虔に城を守らせ、みずから精兵五万を率いて城を背に陣を結んだ。睿がこれを撃つと、王謙は不利となり、城に入ろうとしたが、惎と虔は城を明け渡して降伏し、王謙を拒んで入れなかった。王謙は麾下三十騎を率いて遁走したが、新都県令の王宝に捕らえられた。睿は王謙を市中で斬り、剣南はことごとく平定された。上柱国に進み、総管はもとの通りであった。物五千段、奴婢一千口、金二千両、銀三千両、食邑千戸を賜った。

梁睿は当時西川に威を振るい、夷や獠は帰順したが、ただ南寧の酋帥爨震のみは遠方を恃んで臣従しなかった。梁睿は上疏して言うには、「ひそかに思うに、遠方を撫で長く駕すは王者の善き謀であり、俗を易え風を移すは国を有つ者の恒常の典である。南寧州は漢代の牂柯の地であり、近代に至ってより、分かち置いて興古・雲南・建寧・朱提の四郡と為す。戸口は殷盛にして、金宝は富饒、二河には駿馬・明珠あり、益寧には塩井・犀角を出す。晋の太始七年、益州の曠遠なるを以て、分かち置いて寧州と為す。偽梁の南寧州刺史徐文盛に至り、湘東に被りて征に赴き荊州す。時に東夏尚ほ阻まれて、未だ遠略に遑あらず。土民の爨瓚遂に一方を窃拠し、国家は遥かに刺史を授く。その子震、相承して今に至る。然るに震は臣礼多く虧き、貢賦は入らず、毎年の奉献は数十匹の馬を過ぎず。その処は益を去ること、路はただ一千、朱提の北境は即ち戎州と境界を接す。聞くところによれば、彼の人はその苛政に苦しみ、皇風を被らんことを思うという。伏して惟うに、大丞相は聖朝を匡贊し、区宇を寧済し、後を絶ち前を光らせ、方に万代を垂れんとす。土を辟け遠を服するは、今正にその時なり。幸いに平蜀の士衆に因り、重ねて師旅を興す煩わしからず。獠を押え既に訖れば、即ち請う南寧を略定せん。盧・戎より以来、軍糧は須らく給すべし、これを過ぐれば即ち蛮夷に於いて徴税し、以て兵馬を供す。その寧州・朱提・雲南・西爨には、並びに総管州鎮を置く。計らうに彼の熟蛮の租調は、城防の食儲を供うるに足る。一には以て蛮夷を粛し、二には軍国に裨益せん。今謹みて南寧州の郡県及び事意を件のごとく別にす。大都督杜神敬あり、昔曾て彼に使いしことあり、具に諳練する所あり、今並びに送り往く。」書は未だ答へず、また請うて曰く、「ひそかに思うに、遠方を柔げ邇を能くするは、前経に著わり、土を拓き疆を開くは、王者の務むる所なり。南寧州は漢代の牂柯の郡、その地は沃壌にして、多くは漢人、既に宝物に饒け、また名馬を出す。今若し往きて取らば、仍く州郡を置かば、一には遠く威名を振い、二には軍国に益あり。その処は交・広と相接し、路乃ち遥かならず。漢代にこれを開くは、本より越を討つための計なり。陳を伐つ日は、また一機なり、これを以て商量すれば、決して謂う須らく取るべしと。」高祖深くこれを納れたり、然れども天下初めて定まり、民心安からざるを恐れ、故にこれを許さず。後に竟に史万歳を遣わしてこれを討平せしむ、並びに梁睿の策に因るなり。

梁睿は威と恵を兼ねて著しく、民夷悦服し、声望ますます重く、高祖は陰にこれを憚る。薛道衡は軍に従いて蜀に在り、因りて入りて接宴し、梁睿を説いて曰く、「天下の望み、已に隋に帰す。」密かに勧進を令め、高祖大いに悦ぶ。禅を受くるに及び、顧み待すること弥く隆し。梁睿また平陳の策を上る、上これを善しとし、詔を下して曰く、「公の英風震動し、妙算縦横し、江南を清蕩する、宛然として見るべし。循環して三たび復す、但だ欣然とするのみ。公既に上才、若し戎律を管せば、一挙して大定す、固より疑いを在さず。但だ朕初めて天下に臨み、政道未だ洽わず、先に武事を窮むるを恐れ、未だ尽く善しと為さず。昔公孫述・隗囂は、漢の賊なり、光武其と通和し、皇帝と称す。尉佗の高祖に於ける、初め猶お臣とせず。孫晧の晋文に答うる、書尚ほ白と云う。或いは款服を尋ね、或いは即ち滅亡す。王者は体大なり、義は遵養に存す。陳国来朝すと雖も、未だ藩節を尽くさず、公の大略の如きは、誠に須らく罪を責むべし、尚ほ且く其の誅を緩めんと欲す、宜しく此の意を知るべし。淮海未だ滅せず、必ず師旅を興す、若し命じて永く襲わしむれば、終に当に相屈せん。身を以て国に許すを想う、辞を致すに足らず。」梁睿乃ち止む。

梁睿は当時突厥の方強きを見、辺患と為らんことを恐れ、また鎮守の策十余事を陳べ、上書してこれを奏して曰く、「ひそかに思うに、戎狄患いを為すは、其の来り久し。防遏の道は、古より難しと為す。周に上算無く、漢は下策を収むる所以は、其の倏として来り忽ち往き、雲の屯し霧の散ずるが如く、強ければ則ち其の塞を犯すに騁け、弱ければ又尽く除くべからざるが故なり。今皇祚肇めて興り、宇内寧一す、唯だ突厥の種類有るのみ、尚ほ辺梗と為る。此れ臣の所以に寝食を廃し、寤寐にこれを思うなり。昔匈奴未だ平らかならず、去病は宅を辞し、先零尚ほ在り、充国は自ら劾す。臣の才は古の烈に非ず、而れども志は昔の士を追う。謹みて北辺の城鎮烽候を安置し、及び人馬糧貯の戦守事意を件のごとく別にす。謹みて並びに図を上呈す、伏して惟うに裁覧あれ。」上嘉歎すること久しく、厚意を以て答う。

梁睿は当時自ら周代の旧臣と以て、久しく重鎮に居るを、内に自ら安からず、屡々朝に入ることを請う、ここにおいて征し還して京師とす。引見に及び、上この為に興り、梁睿を命じて殿に上らしめ、手を握りて極めて歓ぶ。梁睿退きて親しむ所に謂いて曰く、「功遂げて身退く、今其の時なり。」遂に病を謝して家にあり、門を闔して自ら守り、当代と交わらず。上版輿を賜い、毎に朝覲有れば、必ず三えいを令めて輿に上らしめて殿に至らしむ。梁睿初めて王謙を平げし始め、自ら威名太だ盛んなるを以て、時に忌まれるを恐れ、遂に大いに金賄を受けて以て自ら穢す。ここにおいて勲簿多く実を以てせず、朝堂に詣りて屈を称する者、前後百数。上有司を令めて其の事を案験せしむるに、主者は多く罪を獲たり。梁睿惶懼し、上表して陳謝し、大理に帰ることを請う。上慰諭してこれを遣わす。

十五年、上に従いて洛陽に至りて卒す、時に年六十五。諡して襄と曰う。子洋嗣ぐ、官は嵩・徐二州刺史・武賁郎将を歴る。大業六年、詔して追いて改めて封じて梁睿を戴公と為し、命じて洋を以て襲わしむ。

史臣曰く、

李穆・梁睿は皆周室の功臣、高祖の王業初めて基くに、倶に腹心の寄せを受く。故に穆は首に師傅に登り、睿は終に殊寵に膺る。其の機を見て動くを観れば、抑も亦た民の先覚なり。然れども方に魏朝の貞烈に比すれば、王陵に愧じ、晋室の忠臣に比すれば、終に徐広に慚ず。穆の子孫は、特ちに隆盛を為し、朱輪華轂、凡そ数十人、時に忌まれ、禍難遄かに及ぶ。之を得るに道に非ざれば、戒めざるべけんや。