陳書
卷六 本紀第六 後主
後主は 諱 を叔寶といい、 字 は元秀、小字は黃奴、高宗の嫡長子である。梁の承聖二年十一月戊寅に江陵に生まれた。翌年、江陵が陥落し、高宗は関右に遷り、後主を穰城に留めた。天嘉三年、京師に帰り、安成王の世子に立てられた。天康元年、寧遠將軍を授けられ、佐史を置かれた。光大二年、太子中庶子となり、まもなく侍中に遷り、その他の官はもとのままとした。太建元年正月甲午、皇太子に立てられた。
太建十四年
十四年正月甲寅、高宗が崩御した。乙卯、始興王叔陵が叛逆を起こし、誅殺された。丁巳、太子は太極前殿において皇帝の位に即いた。 詔 して曰く、「上天が禍を降し、大行皇帝が忽然として万国を棄てられた。攀り号し擗踊しても、及ぶところがない。朕は哀煢をもって、宝歴を嗣ぎ膺ける。巨川を渉るが如く、渡る術を知らず、まさに群公に頼り、寡薄を匡うるを用いんとす。遺徳を播き、億兆に覃べ被わんことを思い、凡そ遠近の者、皆ともに維新に与らしむ。天下を大赦すべし。在位の文武及び孝悌力田で父の後を継ぐ者には、並びに爵一級を賜う。孤老鰥寡で自ら存することができない者には、穀物を人ごとに五斛、帛を二匹賜う」。癸亥、侍中・翊前將軍・丹陽尹の長沙王叔堅を驃騎將軍・開府儀同三司・揚州 刺史 とし、右衛將軍蕭摩訶を車騎將軍・南徐州刺史とし、鎮西將軍・荊州刺史の樊毅を征西將軍に進号し、平南將軍・ 豫 州刺史の任忠を鎮南將軍に進号し、護軍將軍の 沈恪 を特進・金紫光祿大夫とし、平西將軍の魯廣達を安西將軍に進号し、仁武將軍・豐州刺史の章大寶を中護軍とした。乙丑、皇后を尊んで皇太后とし、宮を弘範といった。景寅、冠軍將軍の 晉 熙王叔文を宣惠將軍・丹陽尹とした。丁卯、弟の叔重を始興王に立て、昭烈王の祭祀を奉じさせた。己巳、妃の沈氏を皇后に立てた。辛未、皇弟の叔儼を尋陽王に、皇弟の叔慎を岳陽王に、皇弟の叔達を義陽王に、皇弟の叔熊を巴山王に、皇弟の叔虞を武昌王に立てた。壬申、侍中・中權將軍・開府儀同三司の鄱陽王伯山を中權大將軍に進号し、軍師將軍・ 尚書 左 僕射 の 晉 安王伯恭を翊前將軍・侍中に進号し、翊右將軍・中領軍の廬陵王伯仁を安前將軍に進号し、鎮南將軍・江州刺史の 豫 章王叔英を征南將軍に進号し、平南將軍・湘州刺史の建安王叔卿を安南將軍に進号した。侍中・ 中書監 ・安右將軍の徐陵を左光祿大夫とし、太子少傅を領させた。甲戌、無㝵大會を太極前殿に設けた。
三月辛亥、詔して曰く、「躬み推して勧めとなすは、義前経に顕れ、力農して賞を見るは、事往誥に昭らかなり。これ乃ち国儲の資とするところ、民命の属する所、豊儉隆替、これより由らざるはない。賦に入るは古より、輸〓は惟だ旧なり、沃饒は十金に貴び、磽确は三易に至る。腴塉既に異なり、盈縮同じからず。詐偽日々に興り、簿書歳ごとに改まる。稻田使者は、西京より著わり、実ならざれば峻刑、東漢に聞く。老農は祇応を懼れ、俗吏は因りて以て文を侮る。耒を輟むこと群を成し、游手伍を為す。永く言えば妨蠹、良に太息すべし。今陽和節に在り、膏沢下に潤う。宜しく春耨を展べ、以て秋坻を望むべし。其れ新たに塍畎を辟き、蒿萊を進墾する有らば、広袤度量するを得ず、征租悉く皆停免すべし。私業久しく廃するも、咸く占作を許し、公田荒縦するも、亦た肆勤に随うべし。儻し良守耕を教え、淳民酒を載せ、此の督課有らば、賞擢を議すべし。外に格を為して班下すべく、朕が意に称えよ」。癸亥、詔して曰く、「夫れ国を体し野を経るは、長世氓を字す。因革儻に殊なり、弛張或いは異なるとも、俊乂を旁求し、爰に側微に逮るまで、用いて和羹に適し、是れ以て大厦を隆くするに至っては、上智中主、皆この術より由る。朕は寡薄を以て、景祚を嗣ぎ膺く。哀疚躬に在り、情慮惛舛すと雖も、宗社の任重く、黎庶の務殷く、自ら安んじて拱黙する由なし。敢えて康済を忘れず、登りて髦彥を顕わし、式く周行を備うる所以を思う。但だ空しく宵夢を労し、屡しく史卜を勤む。五就も来たらず、(五)〔八〕能も至らず。是れ用いて(甲)〔申〕旦に凝慮し、景夜に懐を損う。豈に玉を食い桂を炊くを以て、因るなくして自ら達せざらんや?将に宝を懐いて邦に迷い、咸く独善を思わんとするか?内外の衆官九品以上の者は、各一人を薦すべく、以て彙征の旨に会せしむべし。且つ備えを取るは実に難く、長を挙ぐるは或いは易し。小大の用、施す所を明言し、南箕北斗の如く、名にして実に非ざるを得ざれ。其れ能を負い気に仗い、当時に擯壓せられ、賓戯を著して以て自ら憐れみ、客嘲を草して以て志を慰むる有らば、人生一世、逢遇誠に難し。亦た宜しく此の幽谷を去り、茲の天路に翔り、銅駝に趨いて以て国を観、金馬を望んで来庭し、便ち当に彼の方円に随い、之を矩矱に飭すべし」。又詔して曰く、「昔、睿后民を宰り、哲王宇を御す。徳は汪濊と称し、明は普く燭す能うと雖も、猶復た己を紆めて言を乞い、情を降ろして道を訪う。高く岳牧に諮り、下に輿臺を聴く。故に政は神明の若く、事に悔吝無き能う。朕は丕緒を纂承し、大業を隆くせんことを思う。常に九重已に邃く、四聰未だ広からざるを懼る。昌言を聴かんと欲して、痺足を疲れず、廷折に逢えば、批鱗を憚ること無からん。而して口柔の辞、儻ひ在位に聞こえ、腹誹の意、或いは具僚に隠るる有らば、理を弘めて至公とし、帝載を緝熙する所以に非ざるなり。内外の卿士文武衆司、若し政術に周く智有り、治体を練る心有り、民俗の疾苦を救い、禁網の疏密を弁ずる者は、各忠讜を進れ、隠諱すること無かれ。朕将に己を虚しくして聴受し、善を択びて行い、深く物情を鑒み、我が王度を匡うることを庶幾う」。己巳、侍中・尚書左僕射・新たに除く翊前將軍の 晉 安王伯恭を安南將軍・湘州刺史とし、新たに除く翊左將軍・永陽王伯智を尚書僕射とし、中護軍の章大寶を豐州刺史とした。
夏四月景申、皇子の永康公胤を皇太子に立て、天下の父の後を継ぐ者に爵一級を賜い、王公以下帛を賚うこと各差有り。庚子、詔して曰く、「朕は区宇に臨御し、黔黎を撫育す。方に澆薄を康済し、繁費を蠲省せんと欲す。奢僭衷に乖き、実に防断すべし。鏤金銀薄及び庶物の化生する土木人綵花の類、並びに布帛の幅尺短狭軽疏なるものは、並びに財を傷り業を費やし、尤も蠹患を成す。又、僧尼道士、邪を挟み左道にて、経律に依らず、民間の淫祀祅書諸珍怪事は、詳かに条制を為し、並びに皆禁絶すべし」。癸卯、詔して曰く、「中歳に淮・泗を克定し、爰に青・徐に渉る。彼の土の酋豪は、並びに罄誠款を輸し、親戚を分遣し、以て質任と為す。今、旧土淪陷し、復た異域と成る。南北阻遠にして、未だ会同を得ず。其の分乖を念い、殊に愛恋有り。夷狄は吾が民、斯の事一なり。何ぞ独り譏禁して、彼を離析せしめん?外に即ち任子館及び東館並びに保任を帯びて外に在る者を検し、並びに衣糧を賜い、之に酒食を頒ち、其の郷路に遂わしむべし。之く所阻遠なれば、便ち船仗を発遣し衛送し、必ず安達せしむべし。若し已に仕宦に預かり、及び別に事義有りて去るを欲せざる者は、亦た其の意に随うべし」。
六月癸酉の朔日、明威将軍・通直 散騎常侍 の孫瑒を中護軍とした。
秋七月辛未、天下に大赦を行った。この月、江水の色が血のように赤く、京師から荊州に至るまでそうであった。
八月癸未の夜、天に風水が相撃つような音がした。乙酉の夜もまた同様であった。丙戌、使持節・ 都督 縁江諸軍事・安西将軍の魯広達を安左将軍とした。
九月丙午、無礙大会を太極殿に設け、身及び乗輿御服を捨て、天下に大赦を行った。辛亥の夜、天の東北に虫が飛ぶような音がし、次第に西北へ移った。乙卯、太白が昼間に現れた。丙寅、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史の長沙王叔堅を 司空 とし、征南将軍・江州刺史の 豫 章王叔英は本号のまま開府儀同三司とした。
至徳元年
至徳元年春正月壬寅、詔して曰く、「朕は寡薄をもって、鴻基を嗣ぎ守る。哀惸切慮し、疹恙纏織し、俗を訓うるに方少なく、下に臨むに算靡く、懼ること氷を践むに甚だしく、慄くこと朽を馭するに同じ。而して四気は流れ易く、三光は遄く至る。纓紱は陛に列し、玉帛は庭に充つ。具物は新たならず、節序は旧を疑う。前徳を緬思し、昔辰を永慕し、軒闥に対して心を哽え、扆筵を顧みて気を慓す。思うに、以て遺構を仰ぎ遵い、薄躬を俯して励まし、九流を陶鑄し、百姓を休息せしめ、寛簡を用いて弘め、陽和に協せんことを取らん。可に天下に大赦し、太建十五年を改めて至徳元年と為すべし」。征南将軍・江州刺史・新たに除された開府儀同三司の 豫 章王叔英を中衛大将軍とし、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史の長沙王叔堅を江州刺史とし、征東将軍・開府儀同三司・東揚州刺史の司馬消難は進めて車騎将軍の号とし、宣恵将軍・丹陽尹の 晉 熙王叔文を揚州刺史とし、鎮南将軍・南 豫 州刺史の任忠を領軍将軍とし、安左将軍の魯広達を平南将軍・南 豫 州刺史とし、祠部尚書の江総を吏部尚書とした。癸卯、皇子の深を立てて始安王とした。
二月丁丑、始興王叔重を揚州刺史とした。
夏四月戊辰、交州刺史の李幼栄が馴象を献上した。己丑、前軽車将軍・揚刺史の 晉 熙王叔文を江州刺史とした。
秋八月丁卯、驃騎将軍・開府儀同三司の長沙王叔堅を 司空 とした。
九月丁巳、天の東南に虫が飛ぶような音がした。
冬十月丁酉、皇弟の叔平を立てて湘東王とし、叔敖を臨賀王とし、叔宣を陽山王とし、叔穆を西陽王とした。戊戌、侍中・安右将軍・左光禄大夫・太子少傅の徐陵が卒した。癸丑、皇弟の叔儉を立てて南安王とし、叔澄を南郡王とし、叔興を沅陵王とし、叔韶を岳山王とし、叔純を新興王とした。
十二月丙辰、頭和国が使いを遣わして方物を献上した。 司空 の長沙王叔堅は罪有りて免ぜられた。戊午の夜、天が西北から東南にかけて開け、その内は青黄色で、隆隆として雷の音のようであった。
至徳二年
二年春正月丁卯、分かちて大使を遣わし風俗を巡省させた。平南将軍・ 豫 州刺史の魯広達は進めて安南将軍の号とした。癸巳、天下に大赦を行った。
夏五月戊子、尚書僕射の永陽王伯智を平東将軍・東揚州刺史とし、軽車将軍・江州刺史の 晉 熙王叔文を信威将軍・湘州刺史とし、仁威将軍・揚州刺史の始興王叔重を江州刺史とし、信武将軍・南琅邪彭城二郡太守の南平王嶷を揚州刺史とし、吏部尚書の江総を尚書僕射とした。
秋七月戊辰、長沙王叔堅を侍中・鎮左将軍に任ず。壬午、太子に元服を加え、在位の文武官には帛を賜い各々差等あり、孝悌力田にして父の後を継ぐ者には各々爵一級を賜い、鰥寡癃老にして自ら存すること能わざる者には人ごとに穀五斛を賜う。
九月癸未、太白昼に見ゆ。
冬十月己酉、詔して曰く、「耕鑿自ら足るは、乃ち淳風と曰い、貢賦の興るは、其の来尚し。蓋し庚極に務むる由りて、已むを得ずして行うなり。但だ法令滋く章なり、姦盗多く有り、俗は澆詐を尚び、政は惟良鮮し。朕は日旰夜分、一物の失所するを矜み、辜を泣き己を罪し、三千の未だ措かざるを愧ず。望訂初めて下るや、強きをして蔭を兼ね出さしむ、聞くに貧富均しく起ち、単弱重ねて弊すと。斯れ豈に窮を振い暍を扇ぐの意ならんや。是れ乃ち下吏の箕斂の苛なるなり。故に云う『百姓足らざれば、君孰れか与に足らん』と。太建十四年より以来の望訂租調逋未入の者は、並びに悉く原除す。事に在る百僚は、庶務を弁断するに、必ず取捨平允にして、公に便して民を害し、己が声績を為し、政道を妨紊すること無きべし」。
十一月景寅、大赦天下す。壬申、盤盤国使いを遣わして方物を献ず。戊寅、百済国使いを遣わして方物を献ず。
至徳三年
三年春正月戊午朔、日蝕有り。庚午、鎮左将軍長沙王叔堅を以て即ち本号の開府儀同三司と為し、征西将軍・荊州刺史樊毅を護軍将軍と為し、守吏部尚書・著作を領す陸瓊を吏部尚書と為し、金紫光禄大夫袁敬に特進を加う。
三月辛酉、前豊州刺史章大宝兵を挙げて反す。
夏四月庚戌、豊州義軍主陳景詳大宝を斬り、首を京師に伝う。
秋八月戊子夜、老人星見ゆ。己酉、左民尚書謝伷を以て吏部尚書と為す。
九月甲戌、特進・金紫光禄大夫袁敬卒す。
冬十月己丑、丹丹国使いを遣わして方物を献ず。
十一月己未、詔して曰く、「宣尼は上哲を誕膺し、体は至聖に資り、憲章の典を祖述し、天地と並びて徳を合わし、雅頌の奥を楽正し、日月とともに明らかにし、後昆の訓範を垂れ、生民の耳目を開く。梁季湮微にして、霊寝処を忘れ、茂草と為ること三十余年、敬仰すること在るが如く、永く惟って愾息す。今雅道雍熙し、由庚所を得たり。断琴故履、零落して追わず、笥を閲し書を開くも、因循復する無し。外は礼典に詳らかにすべく、旧廟を改築し、蕙房桂棟、咸しく惟新せしめ、芳蘩潔潦、時に饗奠すべし」。辛巳、輿駕長干寺に幸し、大赦天下す。
十二月丙戌、太白昼に見ゆ。辛卯、皇太子太学に出で、孝経を講じ、戊戌、講畢る。辛丑、先師に釈奠し、礼畢りて、金石の楽を設け、王公卿士を会宴す。癸卯、高麗国使いを遣わして方物を献ず。
是歳、蕭巋死し、子琮代わりて立つ。
至徳四年
四年の春正月甲寅の日、詔して曰く、「堯は諫鼓を施し、禹は昌言を拝す。これを異等に求めしは、久しく前に著し、淹滞を挙げしは、また昔の典に聞く。これ乃ち治道の深き規、帝王の切なる務なり。朕は寡昧を以て、鴻緒を丕承す。未だ虚己を明らかにせず、日旰に興懐す。万機多く紊れ、四聰達せず。蹇諤を聞かんと思い、その謀計を採らんとす。王公以下、各おの知る所を薦め、旁ら管庫に詢い、爰に輿皁に及び、一介能有る者、片言用ゆ可き者、朕親しく聴覧を加え、啓沃に佇たん」と。中権大将軍・開府儀同三司鄱陽王伯山は鎮衛将軍に進号し、中衛大将軍・開府儀同三司 豫 章王叔英は驃騎大将軍に進号し、鎮左将軍・開府儀同三司長沙王叔堅は中軍大将軍に進号し、安南将軍 晋 安王伯恭は鎮右将軍に進号し、翊右将軍宜都王叔明は安右将軍に進号す。
二月景戌の日、鎮右将軍晋安王伯恭を特進となす。景申の日、皇弟叔謨を立てて巴東王とし、叔顕を臨江王とし、叔坦を新会王とし、叔隆を新寧王となす。
夏五月丁巳の日、皇子莊を立てて会稽王となす。
秋九月甲午の日、輿駕玄武湖に幸し、艫艦を肆ほし武を閲し、群臣を宴して詩を賦す。戊戌の日、鎮衛将軍・開府儀同三司鄱陽王伯山を東揚州刺史とし、智武将軍岳陽王叔慎を丹陽尹となす。丁未の日、百済国使いを遣わし方物を献ず。
冬十月癸亥の日、尚書僕射江総を 尚書令 とし、吏部尚書謝伷を尚書僕射となす。
十一月己卯の日、詔して曰く、「惟れ刑は暴を止め、惟れ徳は物を成す。三才はこれに資り、百王改めず。然るに世に抵角無く、時に犯鱗鮮し。渭橋の驚馬、廷争を聞かず、桃林の逸牛、その旨を見ず。剽悍軽侮と雖も、理は鉗釱に従うべく、憃愚杜黙は、宜しく矜弘に肆すべし。政は良哉に乏しく、明は則哲に慚ず。諸れを刑措に求め、安んぞ得可けんや。是を用いて寤寐に属して軫懐し、黼扆を負いて於邑す。復た茲に合璧輪缺し、連珠緯舛う。黄鐘呂を献じ、和気始めて萌し、玄英中を告げ、履長御するに在り。時に因り過を宥し、抑も乃ち斯を得ん。大いに天下を赦す可し」と。
禎明元年
禎明元年春正月景子の日、安前将軍衡陽王伯信を鎮前将軍に進号し、安東将軍・呉興太守廬陵王伯仁を特進とし、智武将軍・丹陽尹岳陽王叔慎を湘州刺史とし、仁武将軍義陽王叔達を丹陽尹となす。戊寅の日、詔して曰く、「柏皇・大庭は、曩日に淳和を鼓し、姬王・嬴后は、末載に澆風を被る。刑書已に鑄り、善化融けず、礼義既に乖き、姦宄斯に作る。何ぞ其れ淳朴反らず、浮華競いて扇ぐ者ぞ。朕は中に居て物を御し、納隍を睠に在り。頻りに天網を恢め、屡く三辺を絶つ。元元の黔庶、終に五辟に罹る。蓋れ乃ち康哉寡薄、抑も法令章を滋す。是を用いて当宁怡ばず、此の向隅の意を矜む。今三元具に序し、万国辰に朝す。霊芝は始陽に献じ、膏露は聿歳に凝る。春に従い令を施し、乾に仰ぎ徳を布き、九有と思いを同じくし、七政を惟新せん。大いに天下を赦し、至徳五年を改めて禎明元年と為す可し」と。乙未の日、地震有り。癸卯の日、鎮前将軍衡陽王伯信を鎮南将軍・西衡州刺史となす。
二月丁未の日、特進・鎮右将軍晋安王伯恭を中衛将軍に進号し、中書令建安王叔卿を 中書監 となす。丁卯の日、詔して至徳元年より望訂の租調逋未入の者を、並びにこれを原ゆ。
秋八月癸卯の日、老人星見ゆ。丁未の日、車騎将軍蕭摩訶を驃騎将軍となす。
九月乙亥の日、驃騎将軍・開府儀同三司 豫 章王叔英を驃騎大将軍となす。庚寅の日、蕭琮の署する所の 尚書令 ・太傅安平王蕭巖、中軍将軍・荊州刺史義興王蕭瓛、その都官尚書沈君公を遣わし、荊州刺史陳紀の許に詣り降を請う。辛卯の日、巖等文武男女十万余口を率いて江を済つ。甲午の日、大いに天下を赦す。
冬十一月乙亥の日、揚州の呉郡を割きて呉州を置き、銭塘県を割きて郡と為し、これに属せしむ。景子の日、蕭巖を平東将軍・開府儀同三司・東揚州刺史とし、蕭瓛を安東将軍・呉州刺史となす。丁亥の日、驃騎大将軍・開府儀同三司 豫 章王叔英を兼ねて 司徒 となす。
十二月景辰の日、前鎮衛将軍・開府儀同三司・東揚州刺史鄱陽王伯山を鎮衛大将軍・開府儀同三司とし、前中衛将軍晋安王伯恭を中衛将軍・右光禄大夫となす。
禎明二年
二年春正月辛巳の日、皇子恮を立てて東陽王とし、恬を銭塘王となす。是の月、 散騎常侍 周羅〓を遣わし兵を帥い峡口に屯せしむ。
夏四月戊申の日、群鼠無数あり、蔡洲の岸より石頭に渡り淮水を渡りて、青塘の両岸に至り、数日にして死に、流れに随ひて江に出づ。戊午の日、左民尚書蔡徴を以て吏部尚書と為す。是の月、郢州の南浦の水黒きこと墨の如し。
五月壬午の日、安前将軍廬陵王伯仁を以て特進と為す。甲午の日、東冶に鉄を鑄くに、物赤色にして数斗の如きものあり、天より鎔所に墜ち、聲隆隆として雷の如く有り、鉄飛び出で牆外に民家を燒く。
六月戊戌の日、扶南国使いを遣はして方物を献ず。庚子の日、皇太子胤を廃して呉興王と為し、軍師将軍・揚州刺史始安王深を立てて皇太子と為す。辛丑の日、平南将軍・江州刺史南平王嶷、鎮南将軍に進号す。忠武将軍・南徐州刺史永嘉王彥、安北将軍に進号す。会稽王莊、翊前将軍・揚州刺史と為る。宣恵将軍・ 尚書令 江総、中権将軍に進号す。雲麾将軍・太子詹事袁憲、尚書僕射と為る。尚書僕射謝伷、特進と為る。寧遠将軍・新たに除せられたる吏部尚書蔡徴、安右将軍に進号す。甲辰の日、安右将軍魯広達を以て中領軍と為す。丁巳の日、大風西北より至りて濤水を激し石頭城に入り、淮渚暴溢し、舟乗を漂没す。
冬十月己亥の日、皇子蕃を立てて呉郡王と為す。辛丑の日、度支尚書・大著作を領く姚察を以て吏部尚書と為す。己酉の日、輿駕莫府山に幸し、大いに校獵す。
十一月丁卯の日、詔して曰く、「獄を議し刑を緩むるは、皇王の垂範する所、残を勝ち殺を去るは、仁人の心を用ゆる所なり。画冠既に息みてより、刻吏斯に起こり、法令章を滋し、手足措く所無し。朕区宇に君臨し、澆末に当たり、軽重の典、政に在りて未だ康からず、小大の情、言を興して多く愧づ。茲の狴犴を眷み、軫哀矜有り、日に克ちて大政殿に於て獄を訊うべし」。壬申の日、鎮南将軍・江州刺史南平王嶷を以て征西将軍・郢州刺史と為し、安北将軍・南徐州刺史永嘉王彥を以て安南将軍・江州刺史と為し、軍師将軍南海王虔を以て安北将軍・南徐州刺史と為す。景子の日、皇弟叔栄を立てて新昌王と為し、叔匡を太原王と為す。是の月、隋、晋王広に衆軍を遣はして来たり伐ち、巴・蜀・沔・漢より下流広陵に至るまで、数十道倶に入り、江に縁る鎮戍、相継ぎて奏聞す。時に新たに除せられたる湘州刺史施文慶・中書舎人沈客卿、機密を掌りて事を用ひ、並びに抑へて言はざるにより、故に備禦無し。
禎明三年
三年春正月乙丑の朔、霧気四塞す。是の日、隋総管賀若弼北道より広陵より京口に済ひ、総管韓擒虎横江に趨き、採石に済ひ、南道より将に弼軍に会せんとす。景寅の日、採石戍主徐子建馳せて啓し変を告ぐ。丁卯の日、公卿を召し入れて軍旅を議す。戊辰の日、内外戒厳し、驃騎将軍蕭摩訶・護軍将軍樊毅・中領軍魯広達を並びに 都督 と為し、南 豫 州刺史樊猛を遣はして舟師を帥ひ白下に出だし、 散騎常侍 皋文奏をして兵を将ひ南 豫 州を鎮めしむ。庚午の日、賀若弼南徐州を攻め陥す。辛未の日、韓擒虎又た南 豫 州を陥し、文奏敗れて還る。是に至りて隋軍南北道並びに進む。後主、驃騎大将軍・ 司徒 豫 章王叔英を遣はして朝堂に屯し、蕭摩訶をして楽遊苑に屯せしめ、樊毅をして耆闍寺に屯せしめ、魯広達をして白土岡に屯せしめ、忠武将軍孔範をして宝田寺に屯せしむ。己卯の日、鎮東大将軍任忠呉興より入り赴き、仍く朱雀門に屯す。辛巳の日、賀若弼進みて鍾山に拠り、白土岡の東南に頓す。甲申の日、後主衆軍を遣はして弼と合戦せしむるに、衆軍敗績す。弼勝に乗じて楽遊苑に至る。魯広達猶ほ散兵を督して力戦すれども、拒ぐこと能はず。弼進みて宮城を攻め、北掖門を焼く。是の時韓擒虎衆を率ひ新林より石子岡に至り、任忠出でて擒虎に降り、仍く擒虎を引きて朱雀航を経て宮城に趣き、南掖門より入る。ここに於て城内の文武百司皆遁出し、唯だ尚書僕射袁憲殿内に在り。 尚書令 江総・吏部尚書姚察・度支尚書袁権・前度支尚書王瑗・侍中王寬省中に居る。後主兵の至るを聞き、宮人十余を従へ後堂景陽殿より出で、将に自ら井に投ぜんとす。袁憲側に侍し、苦諫すれども従はず。後閤舎人夏侯公韻又た身を以て井を蔽ふ。後主之と争ふこと久しくして、方に得て入る。夜に及びて、隋軍に執へらる。景戌の日、晋王広入りて京城を拠る。
三月己巳の日、後主王公百司と俱に建鄴より発し、長安に入る。隋仁寿四年十一月壬子の日、洛陽に 薨 ず。時に年五十二。大将軍を追贈し、長城県公に封じ、謚して煬と曰ふ。河南洛陽の芒山に葬る。
【史評】
史臣侍中鄭国公魏徴曰く、
高祖 は壟畝より抜き起こり、雄桀の姿有り。始め下藩を佐け、英奇の略を奮ひ、節を弭めて南海にあり、職として静乱を思ふ。旗を援けて北に邁り、義は勤王に在り、 侯景 を既成に掃ひ、梁室を已墜に拯ふ。天網絶えて復た続き、国歩屯して更に康なり、百神主有り、旧物を失はず。魏王の漢鼎祚を延ぶる、宋武の晋乗輿を反す、懋績鴻勳、以て尚ぶる無し。時に当たり内難未だ弭がず、外鄰勍敵有り、王琳上流に作梗し、周・齊江・漢に搖蕩し、首を畏れ尾を畏れ、存する若く亡ぶる若し。此を図らずして、遽に天歴を移す。皇靈の睠有るも、何ぞ其れ速やかなるや。然れども志度弘遠にして、懷抱豁如たり。或いは士を仇讎に取り、或いは才を亡命に擢き、其の金を受くる過を掩ひ、其の堯に吠ゆる罪を宥し、心腹爪牙に委ぬれば、咸く能く其の死力を得たり。故に乃ち機を決して百勝し、此の三分を成す。諸を方に鼎峙の雄にせば、以て権・備に慚ざるに足れり。
世祖は天姿叡哲にして、清明躬に在り、早く経綸に預り、民の疾苦を知り、令典を択ばんと思ひ、庶幾く至治に至らんとす。徳刑並びに用ひ、艱虞を戡濟し、群凶首を授け、彊鄰震懾す。忠厚の化遠くに及ぶ能はざれども、恭儉の風以て訓を垂るるに足る。若し明察を尚ばざれば、則ち文を守るの良主なり。
臨川は成王より年長く、太甲より過微なり。 宣帝 は周公の親有れども、伊尹の志無く、明辟復せず、桐宮遂に往く。罪を加へんと欲すれば、其れ辞無からんや。
高宗は爰に田に在りしより、雅量宏廓にして、登庸御極して、民其の厚きに帰す。恵を以て下を使ひ、寛を以て衆を容る。智勇奮ひ争ひ、師出でて名有り、旆を揚げ麾を分ち、風行き電掃す。土を辟きて千里、奄に淮・泗を有ち、戦勝攻取の勢、近古未だ之れ有らざるなり。既にして君侈り民労し、将驕り卒堕ち、帑藏空竭し、師徒を折衄す。ここに於て秦人方に彊く、遂に兵を江上に窺ふ。李克以爲く、呉の先づ亡ぶるは、数戦数勝に由るなりと。数戦すれば則ち民疲れ、数勝すれば則ち主驕る。驕れる主を以て疲れたる民を御するは、未だ亡びざる者無し。言ふこと信なるかな。高宗は始め寛大を以て人を得、終に驕侈を以て敗を致す。文・武の業、茲に墜つ。
後主は深宮の中に生まれ、婦人の手で育てられた。既に邦国の衰微に遭いながら、農耕の艱難を知らなかった。初めは危険を恐れ、幾度か哀れみの詔を発したが、後には次第に安んじて集まり、再び淫侈の風を煽った。諸公を賓礼しても、ただ文酒に情を寄せるのみで、群小に昵近し、皆に衡軸を委ねた。謀議の及ぶところ、遂に骨鯁の臣はなく、権要の所在、みな侵漁の吏でない者はなかった。政刑は日に乱れ、尸素の徒が朝廷に満ち、耽荒して長夜の飲み事にふけり、嬖寵は豔妻の孽と同じく、危亡を憂えず、上下相い蒙り、衆叛親離し、機に臨んで悟らず、自ら井戸に投じて、苟くも生きんことを冀い、これをもって全からんことを求むるを見れば、まさに民もまた下なるかな。
遠く列辟を観るに、武を纂ぎ嗣いで興る者は、その始めは皆、日月と斉しく明らかにし、天地と合して徳をなさんと欲し、五帝を高く視て、三王に俯して協わんとした。しかしながら、初めなきはなく、終わりを克つ者は少ない。その故は何ぞや。皆、中庸の才をもち、移しうる性を懐き、口には仁義を存し、心は嗜慾に怵れる。仁義は物に利して道遠く、嗜欲は性を遂げて身に便なり。身に便なるは久しく違うべからず、道遠きは固く志し難し。佞諂の輩は、顔色を承け候い、その好むところに因りて、これを悦ばしめ導くこと、坂を下りて丸を走らすが如く、流れに順いて壅きを決するに譬えん。霊辰象に感応し、明徳を降生せしむるにあらざれば、誰かその楽しむところを遺して、百姓を以て心とせんや。これが成・康・文・景が千載にして稀に遇うる所以であり、癸・辛・幽・厲が代なくして有らざる所以である。毒は宗社に被り、身は戮辱に嬰り、天下の笑いとなる。痛ましからずや。古人に言あり、亡国の主は、多く才芸有りと。梁・陳及び隋を考うるに、信じて虚論にあらず。されば則ち、教義の本を崇めず、偏に淫麗の文を尚び、徒らに澆偽の風を長ずるのみで、乱亡の禍を救うこと無きなり。
史臣曰く、後主は昔、儲宮に在りしとき、早く令徳を標し、及び南面して業を継ぎしは、実に天人の望に允う。礼楽刑政に至っては、皆故典に遵い、深く六芸を弘め、広く四門を辟くを加えた。ここを以て、待詔の徒は争って金馬に趨り、稽古の秀は雲のごとく石渠に集まった。かつ梯山航海して、朝貢する者往々にして歳ごとに至った。魏の正始・晋の中朝以来、貴臣は識治ある者ありといえども、皆文学を以て相い処り、庶務に関すること稀で、朝章大典の方、参議するのみであった。文案簿領は、皆小吏に委ね、浸して俗を成し、陳に至るまで及んだ。後主は因循し、改革に遑あらず、故に施文慶・沈客卿の徒、専ら軍国の要務を掌り、姦黠左道、裒刻を以て功とし、自ら身の栄えを取り、国計を存せず。ここを以て朝経は墮廢し、禍は隣国に生じた。これまた運百六に鐘し、鼎玉遷変するに、唯だ人事の昌ならざるのみならず、蓋し天意然るなり。