陳書

卷六 本紀第六 後主

卷六 本紀第六 後主

後主は諱いみなを叔寶しゅくほうといい、字あざなは元秀、小字は黃奴、高宗の嫡長子である。梁の承聖二年十一月戊寅に江陵に生まれた。翌年、江陵が陥落し、高宗は関右に遷り、後主を穰城に留めた。天嘉三年、京師に帰り、安成王の世子に立てられた。天康元年、寧遠將軍を授けられ、佐史を置かれた。光大二年、太子中庶子となり、まもなく侍中に遷り、その他の官はもとのままとした。太建元年正月甲午、皇太子に立てられた。

原文後主諱叔寶,字元秀,小字黃奴,高宗嫡長子也。梁承聖二年十一月戊寅生于江陵。明年,江陵陷,高宗遷關右,留後主于穰城。天嘉三年,歸京師,立為安成王世子。天康元年,授寧遠將軍,置佐史。光大二年,為太子中庶子,尋遷侍中,餘如故。太建元年正月甲午,立為皇太子。

太建十四年

原文太建十四年

十四年正月甲寅、高宗が崩御した。乙卯、始興王叔陵が叛逆を起こし、誅殺された。丁巳、太子は太極前殿において皇帝の位に即いた。詔して曰く、「上天が禍を降し、大行皇帝が忽然として万国を棄てられた。攀り号し擗踊しても、及ぶところがない。朕は哀煢をもって、宝歴を嗣ぎ膺ける。巨川を渉るが如く、渡る術を知らず、まさに群公に頼り、寡薄を匡うるを用いんとす。遺徳を播き、億兆に覃べ被わんことを思い、凡そ遠近の者、皆ともに維新に与らしむ。天下を大赦すべし。在位の文武及び孝悌力田で父の後を継ぐ者には、並びに爵一級を賜う。孤老鰥寡で自ら存することができない者には、穀物を人ごとに五斛こく、帛を二匹賜う」。癸亥、侍中・翊前將軍・丹陽尹の長沙王叔堅を驃騎將軍・開府儀同三司・揚州刺史とし、右衛將軍蕭摩訶を車騎將軍・南徐州刺史とし、鎮西將軍・荊州刺史の樊毅を征西將軍に進号し、平南將軍・豫州刺史の任忠を鎮南將軍に進号し、護軍將軍の沈恪を特進・金紫光祿大夫とし、平西將軍の魯廣達を安西將軍に進号し、仁武將軍・豐州刺史の章大寶を中護軍とした。乙丑、皇后を尊んで皇太后とし、宮を弘範といった。景寅、冠軍將軍の晉熙王叔文を宣惠將軍・丹陽尹とした。丁卯、弟の叔重を始興王に立て、昭烈王の祭祀を奉じさせた。己巳、妃の沈氏を皇后に立てた。辛未、皇弟の叔儼を尋陽王に、皇弟の叔慎を岳陽王に、皇弟の叔達を義陽王に、皇弟の叔熊を巴山王に、皇弟の叔虞を武昌王に立てた。壬申、侍中・中權將軍・開府儀同三司の鄱陽王伯山を中權大將軍に進号し、軍師將軍・尚書左僕射の晉安王伯恭を翊前將軍・侍中に進号し、翊右將軍・中領軍の廬陵王伯仁を安前將軍に進号し、鎮南將軍・江州刺史の豫章王叔英を征南將軍に進号し、平南將軍・湘州刺史の建安王叔卿を安南將軍に進号した。侍中・中書監・安右將軍の徐陵を左光祿大夫とし、太子少傅を領させた。甲戌、無㝵大會を太極前殿に設けた。

原文十四年正月甲寅,高宗崩。乙卯,始興王叔陵作逆,伏誅。丁巳,太子即皇帝位于太極前殿。詔曰:「上天降禍,大行皇帝奄棄萬國,攀號擗踊,無所迨及。朕以哀煢,嗣膺寶歷,若涉巨川,罔知攸濟,方賴群公,用匡寡薄。思播遺德,覃被億兆,凡厥遐邇,咸與惟新。可大赦天下。在位文武及孝悌力田為父後者,並賜爵一級。孤老鰥寡不能自存者,賜穀人五斛、帛二匹。」癸亥,以侍中、翊前將軍、丹陽尹長沙王叔堅為驃騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史,右衛將軍蕭摩訶為車騎將軍、南徐州刺史,鎮西將軍、荊州刺史樊毅進號征西將軍,平南將軍、豫州刺史任忠進號鎮南將軍,護軍將軍沈恪為特進、金紫光祿大夫,平西將軍魯廣達進號安西將軍,仁武將軍、豐州刺史章大寶為中護軍。乙丑,尊皇后為皇太后,宮曰弘範。景寅,以冠軍將軍晉熙王叔文為宣惠將軍、丹陽尹。丁卯,立弟叔重為始興王,奉昭烈王祀。己巳,立妃沈氏為皇后。辛未,立皇弟叔儼為尋陽王,皇弟叔慎為岳陽王,皇弟叔達為義陽王,皇弟叔熊為巴山王,皇弟叔虞為武昌王。壬申,侍中、中權將軍、開府儀同三司鄱陽王伯山進號中權大將軍,軍師將軍、尚書左僕射晉安王伯恭進號翊前將軍、侍中,翊右將軍、中領軍廬陵王伯仁進號安前將軍,鎮南將軍、江州刺史豫章王叔英進號征南將軍,平南將軍、湘州刺史建安王叔卿進號安南將軍。以侍中、中書監、安右將軍徐陵為左光祿大夫,領太子少傅。甲戌,設無㝵大會於太極前殿。

三月辛亥、詔して曰く、「躬み推して勧めとなすは、義前経に顕れ、力農して賞を見るは、事往誥に昭らかなり。これ乃ち国儲の資とするところ、民命の属する所、豊儉隆替、これより由らざるはない。賦に入るは古より、輸〓は惟だ旧なり、沃饒は十金に貴び、磽确は三易に至る。腴塉既に異なり、盈縮同じからず。詐偽日々に興り、簿書歳ごとに改まる。稻田使者は、西京より著わり、実ならざれば峻刑、東漢に聞く。老農は祇応を懼れ、俗吏は因りて以て文を侮る。耒を輟むこと群を成し、游手伍を為す。永く言えば妨蠹、良に太息すべし。今陽和節に在り、膏沢下に潤う。宜しく春耨を展べ、以て秋坻を望むべし。其れ新たに塍畎を辟き、蒿萊を進墾する有らば、広袤度量するを得ず、征租悉く皆停免すべし。私業久しく廃するも、咸く占作を許し、公田荒縦するも、亦た肆勤に随うべし。儻し良守耕を教え、淳民酒を載せ、此の督課有らば、賞擢を議すべし。外に格を為して班下すべく、朕が意に称えよ」。癸亥、詔して曰く、「夫れ国を体し野を経るは、長世氓を字す。因革儻に殊なり、弛張或いは異なるとも、俊乂を旁求し、爰に側微に逮るまで、用いて和羹に適し、是れ以て大厦を隆くするに至っては、上智中主、皆この術より由る。朕は寡薄を以て、景祚を嗣ぎ膺く。哀疚躬に在り、情慮惛舛すと雖も、宗社の任重く、黎庶れいしょの務殷く、自ら安んじて拱黙する由なし。敢えて康済を忘れず、登りて髦彥を顕わし、式く周行を備うる所以を思う。但だ空しく宵夢を労し、屡しく史卜を勤む。五就も来たらず、(五)〔八〕能も至らず。是れ用いて(甲)〔申〕旦に凝慮し、景夜に懐を損う。豈に玉を食い桂を炊くを以て、因るなくして自ら達せざらんや?将に宝を懐いて邦に迷い、咸く独善を思わんとするか?内外の衆官九品以上の者は、各一人を薦すべく、以て彙征の旨に会せしむべし。且つ備えを取るは実に難く、長を挙ぐるは或いは易し。小大の用、施す所を明言し、南箕北斗の如く、名にして実に非ざるを得ざれ。其れ能を負い気に仗い、当時に擯壓せられ、賓戯を著して以て自ら憐れみ、客嘲を草して以て志を慰むる有らば、人生一世、逢遇誠に難し。亦た宜しく此の幽谷を去り、茲の天路に翔り、銅駝に趨いて以て国を観、金馬を望んで来庭し、便ち当に彼の方円に随い、之を矩矱に飭すべし」。又詔して曰く、「昔、睿后民を宰り、哲王宇を御す。徳は汪濊と称し、明は普く燭す能うと雖も、猶復た己を紆めて言を乞い、情を降ろして道を訪う。高く岳牧に諮り、下に輿臺を聴く。故に政は神明の若く、事に悔吝無き能う。朕は丕緒を纂承し、大業を隆くせんことを思う。常に九重已に邃く、四聰未だ広からざるを懼る。昌言を聴かんと欲して、痺足を疲れず、廷折に逢えば、批鱗を憚ること無からん。而して口柔の辞、儻ひ在位に聞こえ、腹誹の意、或いは具僚に隠るる有らば、理を弘めて至公とし、帝載を緝熙する所以に非ざるなり。内外の卿士文武衆司、若し政術に周く智有り、治体を練る心有り、民俗の疾苦を救い、禁網の疏密を弁ずる者は、各忠讜を進れ、隠諱すること無かれ。朕将に己を虚しくして聴受し、善を択びて行い、深く物情を鑒み、我が王度を匡うることを庶幾う」。己巳、侍中・尚書左僕射・新たに除く翊前將軍の晉安王伯恭を安南將軍・湘州刺史とし、新たに除く翊左將軍・永陽王伯智を尚書僕射とし、中護軍の章大寶を豐州刺史とした。

原文三月辛亥,詔曰:「躬推為勸,義顯前經,力農見賞,事昭往誥。斯乃國儲是資,民命攸屬,豐儉隆替,靡不由之。夫入賦自古,輸〓惟舊,沃饒貴于十金,磽确至於三易,腴塉既異,盈縮不同。詐偽日興,簿書歲改。稻田使者,著自西京,不實峻刑,聞諸東漢。老農懼於祇應,俗吏因以侮文。輟耒成群,游手為伍,永言妨蠹,良可太息。今陽和在節,膏澤潤下,宜展春耨,以望秋坻。其有新辟塍畎,進墾蒿萊,廣袤勿得度量,征租悉皆停免。私業久廢,咸許占作,公田荒縱,亦隨肆勤。儻良守教耕,淳民載酒,有茲督課,議以賞擢。外可為格班下,稱朕意焉。」癸亥,詔曰:「夫體國經野,長世字氓,雖因革儻殊,弛張或異,至於旁求俊乂,爰逮側微,用適和羹,是隆大厦,上智中主,咸由此術。朕以寡薄,嗣膺景祚,雖哀疚在躬,情慮惛舛,而宗社任重,黎庶務殷,無由自安拱默,敢忘康濟,思所以登顯髦彥,式備周行。但空勞宵夢,屢勤史卜,五就莫來,(五)〔八〕能不至。是用(甲)〔申〕旦凝慮,景夜損懷。豈以食玉炊桂,無因自達?將懷寶迷邦,咸思獨善?應內外眾官九品已上,可各薦一人,以會彙征之旨。且取備實難,舉長或易,小大之用,明言所施,勿得南箕北斗,名而非實。其有負能仗氣,擯壓當時,著賓戲以自憐,草客嘲以慰志,人生一世,逢遇誠難,亦宜去此幽谷,翔茲天路,趨銅駝以觀國,望金馬而來庭,便當隨彼方圓,飭之矩矱。」又詔曰:「昔睿后宰民,哲王御宇,雖德稱汪濊,明能普燭,猶復紆己乞言,降情訪道,高咨岳牧,下聽輿臺,故能政若神明,事無悔吝。朕纂承丕緒,思隆大業,常懼九重已邃,四聰未廣,欲聽昌言,不疲痺足,若逢廷折,無憚批鱗。而口柔之辭,儻聞於在位,腹誹之意,或隱於具僚,非所以弘理至公,緝熙帝載者也。內外卿士文武眾司,若有智周政術,心練治體,救民俗之疾苦,辯禁網之疏密者,各進忠讜,無所隱諱。朕將虛己聽受,擇善而行,庶深鑒物情,匡我王度。」己巳,以侍中、尚書左僕射、新除翊前將軍晉安王伯恭為安南將軍、湘州刺史,新除翊左將軍、永陽王伯智為尚書僕射,中護軍章大寶為豐州刺史。

夏四月景申、皇子の永康公胤を皇太子に立て、天下の父の後を継ぐ者に爵一級を賜い、王公以下帛を賚うこと各差有り。庚子、詔して曰く、「朕は区宇に臨御し、黔黎を撫育す。方に澆薄を康済し、繁費を蠲省せんと欲す。奢僭衷に乖き、実に防断すべし。鏤金銀薄及び庶物の化生する土木人綵花の類、並びに布帛の幅尺短狭軽疏なるものは、並びに財を傷り業を費やし、尤も蠹患を成す。又、僧尼道士、邪を挟み左道にて、経律に依らず、民間の淫祀祅書諸珍怪事は、詳かに条制を為し、並びに皆禁絶すべし」。癸卯、詔して曰く、「中歳に淮・泗を克定し、爰に青・徐に渉る。彼の土の酋豪は、並びに罄誠款を輸し、親戚を分遣し、以て質任と為す。今、旧土淪陷し、復た異域と成る。南北阻遠にして、未だ会同を得ず。其の分乖を念い、殊に愛恋有り。夷狄は吾が民、斯の事一なり。何ぞ独り譏禁して、彼を離析せしめん?外に即ち任子館及び東館並びに保任を帯びて外に在る者を検し、並びに衣糧を賜い、之に酒食を頒ち、其の郷路に遂わしむべし。之く所阻遠なれば、便ち船仗を発遣し衛送し、必ず安達せしむべし。若し已に仕宦に預かり、及び別に事義有りて去るを欲せざる者は、亦た其の意に随うべし」。

原文夏四月景申,立皇子永康公胤為皇太子,賜天下為父後者爵一級,王公已下賚帛各有差。庚子,詔曰:「朕臨御區宇,撫育黔黎,方欲康濟澆薄,蠲省繁費,奢僭乖衷,實宜防斷。應鏤金銀薄及庶物化生土木人綵花之屬,及布帛幅尺短狹輕疏者,並傷財廢業,尤成蠹患。又僧尼道士,挾邪左道,不依經律,民間淫祀祅書諸珍怪事,詳為條制,並皆禁絕。」癸卯,詔曰:「中歲克定淮、泗,爰涉青、徐,彼土酋豪,並輸罄誠款,分遣親戚,以為質任。今舊土淪陷,復成異域,南北阻遠,未得會同,念其分乖,殊有愛戀。夷狄吾民,斯事一也,何獨譏禁,使彼離析?外可即檢任子館及東館並帶保任在外者,並賜衣糧,頒之酒食,遂其鄉路,所之阻遠,便發遣船仗衛送,必令安達。若已預仕宦及別有事義不欲去者,亦隨其意。」

六月癸酉の朔日、明威将軍・通直散騎常侍の孫瑒を中護軍とした。

原文六月癸酉朔,以明威將軍、通直散騎常侍孫瑒為中護軍。

秋七月辛未、天下に大赦を行った。この月、江水の色が血のように赤く、京師から荊州に至るまでそうであった。

原文秋七月辛未,大赦天下。是月,江水色赤如血,自京師至于荊州。

八月癸未の夜、天に風水が相撃つような音がした。乙酉の夜もまた同様であった。丙戌、使持節・都督縁江諸軍事・安西将軍の魯広達を安左将軍とした。

原文八月癸未夜,天有聲如風水相撀。乙酉夜亦如之。景戌,以使持節、都督緣江諸軍事、安西將軍魯廣達為安左將軍。

九月丙午、無礙大会を太極殿に設け、身及び乗輿御服を捨て、天下に大赦を行った。辛亥の夜、天の東北に虫が飛ぶような音がし、次第に西北へ移った。乙卯、太白が昼間に現れた。丙寅、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史の長沙王叔堅を司空とし、征南将軍・江州刺史の豫章王叔英は本号のまま開府儀同三司とした。

原文九月景午,設無㝵大會於太極殿,捨身及乘輿御服,大赦天下。辛亥夜,天東北有聲如蟲飛,漸移西北。乙卯,太白晝見。景寅,以驃騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史長沙王叔堅為司空,征南將軍、江州刺史豫章王叔英即本號開府儀同三司。

至徳元年

原文至德元年

至徳元年春正月壬寅、詔して曰く、「朕は寡薄をもって、鴻基を嗣ぎ守る。哀惸切慮し、疹恙纏織し、俗を訓うるに方少なく、下に臨むに算靡く、懼ること氷を践むに甚だしく、慄くこと朽を馭するに同じ。而して四気は流れ易く、三光は遄く至る。纓紱は陛に列し、玉帛は庭に充つ。具物は新たならず、節序は旧を疑う。前徳を緬思し、昔辰を永慕し、軒闥に対して心を哽え、扆筵を顧みて気を慓す。思うに、以て遺構を仰ぎ遵い、薄躬を俯して励まし、九流を陶鑄し、百姓を休息せしめ、寛簡を用いて弘め、陽和に協せんことを取らん。可に天下に大赦し、太建十五年を改めて至徳元年と為すべし」。征南将軍・江州刺史・新たに除された開府儀同三司の豫章王叔英を中衛大将軍とし、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史の長沙王叔堅を江州刺史とし、征東将軍・開府儀同三司・東揚州刺史の司馬消難は進めて車騎将軍の号とし、宣恵将軍・丹陽尹の晉熙王叔文を揚州刺史とし、鎮南将軍・南豫州刺史の任忠を領軍将軍とし、安左将軍の魯広達を平南将軍・南豫州刺史とし、祠部尚書の江総を吏部尚書とした。癸卯、皇子の深を立てて始安王とした。

原文至德元年春正月壬寅,詔曰:「朕以寡薄,嗣守鴻基,哀惸切慮,疹恙纏織,訓俗少方,臨下靡筭,懼甚踐冰,慄同馭朽。而四氣易流,三光遄至,纓紱列陛,玉帛充庭,具物匪新,節序疑舊,緬思前德,永慕昔辰,對軒闥而哽心,顧扆筵而慓氣。思所以仰遵遺構,俯勵薄躬,陶鑄九流,休息百姓,用弘寬簡,取協陽和。可大赦天下,改太建十五年為至德元年。」以征南將軍、江州刺史、新除開府儀同三司豫章王叔英為中衛大將軍,驃騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史長沙王叔堅為江州刺史,征東將軍、開府儀同三司、東揚州刺史司馬消難進號車騎將軍,宣惠將軍、丹陽尹晉熙王叔文為揚州刺史,鎮南將軍、南豫州刺史任忠為領軍將軍,安左將軍魯廣達為平南將軍、南豫州刺史,祠部尚書江總為吏部尚書。癸卯,立皇子深為始安王。

二月丁丑、始興王叔重を揚州刺史とした。

原文二月丁丑,以始興王叔重為揚州刺史。

夏四月戊辰、交州刺史の李幼栄が馴象を献上した。己丑、前軽車将軍・揚刺史の晉熙王叔文を江州刺史とした。

原文夏四月戊辰,交州刺史李幼榮獻馴象。己丑,以前輕車將軍、揚州刺史晉熙王叔文為江州刺史。

秋八月丁卯、驃騎将軍・開府儀同三司の長沙王叔堅を司空とした。

原文秋八月丁卯,以驃騎將軍、開府儀同三司長沙王叔堅為司空。

九月丁巳、天の東南に虫が飛ぶような音がした。

原文九月丁巳,天東南有聲如蟲飛。

冬十月丁酉、皇弟の叔平を立てて湘東王とし、叔敖を臨賀王とし、叔宣を陽山王とし、叔穆を西陽王とした。戊戌、侍中・安右将軍・左光禄大夫・太子少傅の徐陵が卒した。癸丑、皇弟の叔儉を立てて南安王とし、叔澄を南郡王とし、叔興を沅陵王とし、叔韶を岳山王とし、叔純を新興王とした。

原文冬十月丁酉,立皇弟叔平為湘東王,叔敖為臨賀王,叔宣為陽山王,叔穆為西陽王。戊戌,侍中、安右將軍、左光祿大夫、太子少傅徐陵卒。癸丑,立皇弟叔儉為南安王,叔澄為南郡王,叔興為沅陵王,叔韶為岳山王,叔純為新興王。

十二月丙辰、頭和国が使いを遣わして方物を献上した。司空の長沙王叔堅は罪有りて免ぜられた。戊午の夜、天が西北から東南にかけて開け、その内は青黄色で、隆隆として雷の音のようであった。

原文十二月景辰,頭和國遣使獻方物。司空長沙王叔堅有罪免。戊午夜,天開自西北至東南,其內有青黃色,隆隆若雷聲。

至徳二年

原文至德二年

二年春正月丁卯、分かちて大使を遣わし風俗を巡省させた。平南将軍・豫州刺史の魯広達は進めて安南将軍の号とした。癸巳、天下に大赦を行った。

原文二年春正月丁卯,分遣大使巡省風俗。平南將軍、豫州刺史魯廣達進號安南將軍。癸巳,大赦天下。

夏五月戊子、尚書僕射の永陽王伯智を平東将軍・東揚州刺史とし、軽車将軍・江州刺史の晉熙王叔文を信威将軍・湘州刺史とし、仁威将軍・揚州刺史の始興王叔重を江州刺史とし、信武将軍・南琅邪彭城二郡太守の南平王嶷を揚州刺史とし、吏部尚書の江総を尚書僕射とした。

原文夏五月戊子,以尚書僕射永陽王伯智為平東將軍、東揚州刺史,輕車將軍、江州刺史晉熙王叔文為信威將軍、湘州刺史,仁威將軍、揚州刺史始興王叔重為江州刺史,信武將軍、南琅邪彭城二郡太守南平王嶷為揚州刺史,吏部尚書江總為尚書僕射。

秋七月戊辰、長沙王叔堅を侍中・鎮左将軍に任ず。壬午、太子に元服を加え、在位の文武官には帛を賜い各々差等あり、孝悌力田にして父の後を継ぐ者には各々爵一級を賜い、鰥寡癃老にして自ら存すること能わざる者には人ごとに穀五斛を賜う。

原文秋七月戊辰,以長沙王叔堅為侍中、鎮左將軍。壬午,太子加元服,在位文武賜帛各有差,孝悌力田為父後者各賜一級,鰥寡癃老不能自存者人穀五斛。

九月癸未、太白昼に見ゆ。

原文九月癸未,太白晝見。

冬十月己酉、詔して曰く、「耕鑿自ら足るは、乃ち淳風と曰い、貢賦の興るは、其の来尚し。蓋し庚極に務むる由りて、已むを得ずして行うなり。但だ法令滋く章なり、姦盗多く有り、俗は澆詐を尚び、政は惟良鮮し。朕は日旰夜分、一物の失所するを矜み、辜を泣き己を罪し、三千の未だ措かざるを愧ず。望訂初めて下るや、強きをして蔭を兼ね出さしむ、聞くに貧富均しく起ち、単弱重ねて弊すと。斯れ豈に窮を振い暍を扇ぐの意ならんや。是れ乃ち下吏の箕斂の苛なるなり。故に云う『百姓足らざれば、君孰れか与に足らん』と。太建十四年より以来の望訂租調逋未入の者は、並びに悉く原除す。事に在る百僚は、庶務を弁断するに、必ず取捨平允にして、公に便して民を害し、己が声績を為し、政道を妨紊すること無きべし」。

原文冬十月己酉,詔曰:「耕鑿自足,乃曰淳風,貢賦之興,其來尚矣。蓋由庚極務,不獲已而行焉。但法令滋章,姦盜多有,俗尚澆詐,政鮮惟良。朕日旰夜分,矜一物之失所,泣辜罪己,愧三千之未措。望訂初下,使彊蔭兼出,如聞貧富均起,單弱重弊,斯豈振窮扇暍之意歟?是乃下吏箕斂之苛也。故云『百姓不足,君孰與足』。自太建十四年望訂租調逋未入者,並悉原除。在事百僚,辯斷庶務,必去取平允,無得便公害民,為己聲績,妨紊政道。」

十一月景寅、大赦天下す。壬申、盤盤国使いを遣わして方物を献ず。戊寅、百済国使いを遣わして方物を献ず。

原文十一月景寅,大赦天下。壬申,盤盤國遣使獻方物。戊寅,百濟國遣使獻方物。

至徳三年

原文至德三年

三年春正月戊午朔、日蝕有り。庚午、鎮左将軍長沙王叔堅を以て即ち本号の開府儀同三司と為し、征西将軍・荊州刺史樊毅を護軍将軍と為し、守吏部尚書・著作を領す陸瓊を吏部尚書と為し、金紫光禄大夫袁敬に特進を加う。

原文三年春正月戊午朔,日有蝕之。庚午,以鎮左將軍長沙王叔堅即本號開府儀同三司,征西將軍、荊州刺史樊毅為護軍將軍,守吏部尚書、領著作陸瓊為吏部尚書,金紫光祿大夫袁敬加特進。

三月辛酉、前豊州刺史章大宝兵を挙げて反す。

原文三月辛酉,前豐州刺史章大寶舉兵反。

夏四月庚戌、豊州義軍主陳景詳大宝を斬り、首を京師に伝う。

原文夏四月庚戌,豐州義軍主陳景詳斬大寶,傳首京師。

秋八月戊子夜、老人星見ゆ。己酉、左民尚書謝伷を以て吏部尚書と為す。

原文秋八月戊子夜,老人星見。己酉,以左民尚書謝(伸)〔伷〕為吏部尚書。

九月甲戌、特進・金紫光禄大夫袁敬卒す。

原文九月甲戌,特進、金紫光祿大夫袁敬卒。

冬十月己丑、丹丹国使いを遣わして方物を献ず。

原文冬十月己丑,丹丹國遣使獻方物。

十一月己未、詔して曰く、「宣尼は上哲を誕膺し、体は至聖に資り、憲章の典を祖述し、天地と並びて徳を合わし、雅頌の奥を楽正し、日月とともに明らかにし、後昆の訓範を垂れ、生民の耳目を開く。梁季湮微にして、霊寝処を忘れ、茂草と為ること三十余年、敬仰すること在るが如く、永く惟って愾息す。今雅道雍熙し、由庚所を得たり。断琴故履、零落して追わず、笥を閲し書を開くも、因循復する無し。外は礼典に詳らかにすべく、旧廟を改築し、蕙房桂棟、咸しく惟新せしめ、芳蘩潔潦、時に饗奠すべし」。辛巳、輿駕長干寺に幸し、大赦天下す。

原文十一月己未,詔曰:「宣尼誕膺上哲,體資至聖,祖述憲章之典,並天地而合德,樂正雅頌之奧,與日月而偕明,垂後昆之訓範,開生民之耳目。梁季湮微,靈寢忘處,鞠為茂草,三十餘年,敬仰如在,永惟愾息。今雅道雍熙,由庚得所,斷琴故履,零落不追,閱笥開書,無因循復。外可詳之禮典,改築舊廟,蕙房桂棟,咸使惟新,芳蘩潔潦,以時饗奠。」辛巳,輿駕幸長干寺,大赦天下。

十二月丙戌、太白昼に見ゆ。辛卯、皇太子太学に出で、孝経を講じ、戊戌、講畢る。辛丑、先師に釈奠し、礼畢りて、金石の楽を設け、王公卿士を会宴す。癸卯、高麗国使いを遣わして方物を献ず。

原文十二月丙戌,太白晝見。辛卯,皇太子出太學,講孝經,戊戌,講畢。辛丑,釋奠于先師,禮畢,設金石之樂,會宴王公卿士。癸卯,高麗國遣使獻方物。

是歳、蕭巋死し、子琮代わりて立つ。

原文是歲,蕭巋死,子琮代立。

至徳四年

原文至德四年

四年の春正月甲寅の日、詔して曰く、「堯は諫鼓を施し、禹は昌言を拝す。これを異等に求めしは、久しく前に著し、淹滞を挙げしは、また昔の典に聞く。これ乃ち治道の深き規、帝王の切なる務なり。朕は寡昧を以て、鴻緒を丕承す。未だ虚己を明らかにせず、日旰に興懐す。万機多く紊れ、四聰達せず。蹇諤を聞かんと思い、その謀計を採らんとす。王公以下、各おの知る所を薦め、旁ら管庫に詢い、爰に輿皁に及び、一介能有る者、片言用ゆ可き者、朕親しく聴覧を加え、啓沃に佇たん」と。中権大将軍・開府儀同三司鄱陽王伯山は鎮衛将軍に進号し、中衛大将軍・開府儀同三司豫章王叔英は驃騎大将軍に進号し、鎮左将軍・開府儀同三司長沙王叔堅は中軍大将軍に進号し、安南将軍晋安王伯恭は鎮右将軍に進号し、翊右将軍宜都王叔明は安右将軍に進号す。

原文四年春正月甲寅,詔曰:「堯施諫鼓,禹拜昌言,求之異等,久著前𣑨,舉以淹滯,復聞昔典,斯乃治道之深規,帝王之切務。朕以寡昧,丕承鴻緒,未明虛己,日旰興懷,萬機多紊,四聰弗(遠)〔達〕,思聞蹇諤,採其謀計。王公已下,各薦所知,旁詢管庫,爰及輿皁,一介有能,片言可用,朕親加聽覽,佇於啟沃。」中權大將軍、開府儀同三司鄱陽王伯山進號鎮衛將軍,中衛大將軍、開府儀同三司豫章王叔英進號驃騎大將軍,鎮左將軍、開府儀同三司長沙王叔堅進號中軍大將軍,安南將軍晉安王伯恭進號鎮右將軍,翊右將軍宜都王叔明進號安右將軍。

二月景戌の日、鎮右将軍晋安王伯恭を特進となす。景申の日、皇弟叔謨を立てて巴東王とし、叔顕を臨江王とし、叔坦を新会王とし、叔隆を新寧王となす。

原文二月景戌,以鎮右將軍晉安王伯恭為特進。景申,立皇弟叔謨為巴東王,叔顯為臨江王,叔坦為新會王,叔隆為新寧王。

夏五月丁巳の日、皇子莊を立てて会稽王となす。

原文夏五月丁巳,立皇子莊為會稽王。

秋九月甲午の日、輿駕玄武湖に幸し、艫艦を肆ほし武を閲し、群臣を宴して詩を賦す。戊戌の日、鎮衛将軍・開府儀同三司鄱陽王伯山を東揚州刺史とし、智武将軍岳陽王叔慎を丹陽尹となす。丁未の日、百済国使いを遣わし方物を献ず。

原文秋九月甲午,輿駕幸玄武湖,肆艫艦閱武,宴群臣賦詩。戊戌,以鎮衛將軍、開府儀同三司鄱陽王伯山為東揚州刺史,智武將軍岳陽王叔慎為丹陽尹。丁未,百濟國遣使獻方物。

冬十月癸亥の日、尚書僕射江総を尚書令とし、吏部尚書謝伷を尚書僕射となす。

原文冬十月癸亥,尚書僕射江總為尚書令,吏部尚書謝伷為尚書僕射。

十一月己卯の日、詔して曰く、「惟れ刑は暴を止め、惟れ徳は物を成す。三才はこれに資り、百王改めず。然るに世に抵角無く、時に犯鱗鮮し。渭橋の驚馬、廷争を聞かず、桃林の逸牛、その旨を見ず。剽悍軽侮と雖も、理は鉗釱に従うべく、憃愚杜黙は、宜しく矜弘に肆すべし。政は良哉に乏しく、明は則哲に慚ず。諸れを刑措に求め、安んぞ得可けんや。是を用いて寤寐に属して軫懐し、黼扆を負いて於邑す。復た茲に合璧輪缺し、連珠緯舛う。黄鐘呂を献じ、和気始めて萌し、玄英中を告げ、履長御するに在り。時に因り過を宥し、抑も乃ち斯を得ん。大いに天下を赦す可し」と。

原文十一月己卯,詔曰:「惟刑止暴,惟德成物,三才是資,百王不改。而世無抵角,時鮮犯鱗,渭橋驚馬,弗聞廷爭,桃林逸牛,未見其旨。雖剽悍輕侮,理從鉗釱,憃愚杜默,宜肆矜弘,政乏良哉,明慚則哲,求諸刑措,安可得乎?是用屬寤寐以軫懷,負黼扆而於邑。復茲合璧輪缺,連珠緯舛,黃鍾獻呂,和氣始萌,玄英告中,履長在御,因時宥過,抑乃斯得。可大赦天下。」

禎明元年

原文禎明元年

禎明元年春正月景子の日、安前将軍衡陽王伯信を鎮前将軍に進号し、安東将軍・呉興太守廬陵王伯仁を特進とし、智武将軍・丹陽尹岳陽王叔慎を湘州刺史とし、仁武将軍義陽王叔達を丹陽尹となす。戊寅の日、詔して曰く、「柏皇・大庭は、曩日に淳和を鼓し、姬王・嬴后は、末載に澆風を被る。刑書已に鑄り、善化融けず、礼義既に乖き、姦宄斯に作る。何ぞ其れ淳朴反らず、浮華競いて扇ぐ者ぞ。朕は中に居て物を御し、納隍を睠に在り。頻りに天網を恢め、屡く三辺を絶つ。元元の黔庶、終に五辟に罹る。蓋れ乃ち康哉寡薄、抑も法令章を滋す。是を用いて当宁怡ばず、此の向隅の意を矜む。今三元具に序し、万国辰に朝す。霊芝は始陽に献じ、膏露は聿歳に凝る。春に従い令を施し、乾に仰ぎ徳を布き、九有と思いを同じくし、七政を惟新せん。大いに天下を赦し、至徳五年を改めて禎明元年と為す可し」と。乙未の日、地震有り。癸卯の日、鎮前将軍衡陽王伯信を鎮南将軍・西衡州刺史となす。

原文禎明元年春正月景子,以安前將軍衡陽王伯信進號鎮前將軍,安東將軍、吳興太守廬陵王伯仁為特進,智武將軍、丹陽尹岳陽王叔慎為湘州刺史,仁武將軍義陽王叔達為丹陽尹。戊寅,詔曰:「柏皇、大庭,鼓淳和於曩日,姬王、嬴后,被澆風於末載,刑書已鑄,善化匪融,禮義既乖,姦宄斯作。何其淳朴不反,浮華競扇者歟?朕居中御物,納隍在睠,頻恢天網,屢絕三邊,元元黔庶,終罹五辟。蓋乃康哉寡薄,抑焉法令滋章。是用當宁弗怡,矜此向隅之意。今三元具序,萬國朝辰,靈芝獻於始陽,膏露凝於聿歲,從春施令,仰乾布德,思與九有,惟新七政。可大赦天下,改至德五年為禎明元年。」乙未,地震。癸卯,以鎮前將軍衡陽王伯信為鎮南將軍、西衡州刺史。

二月丁未の日、特進・鎮右将軍晋安王伯恭を中衛将軍に進号し、中書令建安王叔卿を中書監となす。丁卯の日、詔して至徳元年より望訂の租調逋未入の者を、並びにこれを原ゆ。

原文二月丁未,以特進、鎮右將軍晉安王伯恭進號中衛將軍,中書令建安王叔卿為中書監。丁卯,詔至德元年望訂租調逋未入者,並原之。

秋八月癸卯の日、老人星見ゆ。丁未の日、車騎将軍蕭摩訶を驃騎将軍となす。

原文秋八月癸卯,老人星見。丁未,以車騎將軍蕭摩訶為驃騎將軍。

九月乙亥の日、驃騎将軍・開府儀同三司豫章王叔英を驃騎大将軍となす。庚寅の日、蕭琮の署する所の尚書令・太傅安平王蕭巖、中軍将軍・荊州刺史義興王蕭瓛、その都官尚書沈君公を遣わし、荊州刺史陳紀の許に詣り降を請う。辛卯の日、巖等文武男女十万余口を率いて江を済つ。甲午の日、大いに天下を赦す。

原文九月乙亥,以驃騎將軍、開府儀同三司豫章王叔英為驃騎大將軍。庚寅,蕭琮所署尚書令、太傅安平王蕭巖,中軍將軍、荊州刺史義興王蕭瓛,遣其都官尚書沈君公,詣荊州刺史陳紀請降。辛卯,巖等率文武男女十萬餘口濟江。甲午,大赦天下。

冬十一月乙亥の日、揚州の呉郡を割きて呉州を置き、銭塘県を割きて郡と為し、これに属せしむ。景子の日、蕭巖を平東将軍・開府儀同三司・東揚州刺史とし、蕭瓛を安東将軍・呉州刺史となす。丁亥の日、驃騎大将軍・開府儀同三司豫章王叔英を兼ねて司徒となす。

原文冬十一月乙亥,割揚州吳郡置吳州,割錢塘縣為郡,屬焉。景子,以蕭巖為平東將軍、開府儀同三司、東揚州刺史,蕭瓛為安東將軍、吳州刺史。丁亥,以驃騎大將軍、開府儀同三司豫章王叔英兼司徒。

十二月景辰の日、前鎮衛将軍・開府儀同三司・東揚州刺史鄱陽王伯山を鎮衛大将軍・開府儀同三司とし、前中衛将軍晋安王伯恭を中衛将軍・右光禄大夫となす。

原文十二月景辰,以前鎮衛將軍、開府儀同三司、東揚州刺史鄱陽王伯山為鎮衛大將軍、開府儀同三司,前中衛將軍晉安王伯恭為中衛將軍、右光祿大夫。

禎明二年

原文禎明二年

二年春正月辛巳の日、皇子恮を立てて東陽王とし、恬を銭塘王となす。是の月、散騎常侍周羅〓を遣わし兵を帥い峡口に屯せしむ。

原文二年春正月辛巳,立皇子恮為東陽王,恬為錢塘王。是月,遣散騎常侍周羅〓帥兵屯峽口。

夏四月戊申の日、群鼠無数あり、蔡洲の岸より石頭に渡り淮水を渡りて、青塘の両岸に至り、数日にして死に、流れに随ひて江に出づ。戊午の日、左民尚書蔡徴を以て吏部尚書と為す。是の月、郢州えいしゅうの南浦の水黒きこと墨の如し。

原文夏四月戊申,有群鼠無數,自〔蔡〕洲岸入石頭渡淮,至于青塘兩岸,數日死,隨流出江。戊午,以左民尚書蔡徵為吏部尚書。是月,郢州南浦水黑如墨。

五月壬午の日、安前将軍廬陵王伯仁を以て特進と為す。甲午の日、東冶に鉄を鑄くに、物赤色にして数斗の如きものあり、天より鎔所に墜ち、聲隆隆として雷の如く有り、鉄飛び出で牆外に民家を燒く。

原文五月壬午,以安前將軍廬陵王伯仁為特進。甲午,東冶鑄鐵,有物赤色如數斗,自天墜鎔所,有聲隆隆如雷,鐵飛出牆外燒民家。

六月戊戌の日、扶南国使いを遣はして方物を献ず。庚子の日、皇太子胤を廃して呉興王と為し、軍師将軍・揚州刺史始安王深を立てて皇太子と為す。辛丑の日、平南将軍・江州刺史南平王嶷、鎮南将軍に進号す。忠武将軍・南徐州刺史永嘉王彥、安北将軍に進号す。会稽王莊、翊前将軍・揚州刺史と為る。宣恵将軍・尚書令江総、中権将軍に進号す。雲麾将軍・太子詹事袁憲、尚書僕射と為る。尚書僕射謝伷、特進と為る。寧遠将軍・新たに除せられたる吏部尚書蔡徴、安右将軍に進号す。甲辰の日、安右将軍魯広達を以て中領軍と為す。丁巳の日、大風西北より至りて濤水を激し石頭城に入り、淮渚暴溢し、舟乗を漂没す。

原文六月戊戌,扶南國遣使獻方物。庚子,廢皇太子胤為吳興王,立軍師將軍、揚州刺史始安王深為皇太子。辛丑,平南將軍、江州刺史南平王嶷進號鎮南將軍;忠武將軍、南徐州刺史永嘉王彥進號安北將軍;會稽王莊為翊前將軍、揚州刺史;宣惠將軍、尚書令江總進號中權將軍;雲麾將軍、太子詹事袁憲為尚書僕射;尚書僕射謝伷為特進;寧遠將軍、新除吏部尚書蔡徵進號安右將軍。甲辰,以安右將軍魯廣達為中領軍。丁巳,大風至自西北激濤水入石頭城,淮渚暴溢,漂沒舟乘。

冬十月己亥の日、皇子蕃を立てて呉郡王と為す。辛丑の日、度支尚書・大著作を領く姚察を以て吏部尚書と為す。己酉の日、輿駕莫府山に幸し、大いに校獵す。

原文冬十月己亥,立皇子蕃為吳郡王。辛丑,以度支尚書、領大著作姚察為吏部尚書。己酉,輿駕幸莫府山,大校獵。

十一月丁卯の日、詔して曰く、「獄を議し刑を緩むるは、皇王の垂範する所、残を勝ち殺を去るは、仁人の心を用ゆる所なり。画冠既に息みてより、刻吏斯に起こり、法令章を滋し、手足措く所無し。朕区宇に君臨し、澆末に当たり、軽重の典、政に在りて未だ康からず、小大の情、言を興して多く愧づ。茲の狴犴を眷み、軫哀矜有り、日に克ちて大政殿に於て獄を訊うべし」。壬申の日、鎮南将軍・江州刺史南平王嶷を以て征西将軍・郢州刺史と為し、安北将軍・南徐州刺史永嘉王彥を以て安南将軍・江州刺史と為し、軍師将軍南海王虔を以て安北将軍・南徐州刺史と為す。景子の日、皇弟叔栄を立てて新昌王と為し、叔匡を太原王と為す。是の月、隋、晋王広に衆軍を遣はして来たり伐ち、巴・蜀・沔・漢より下流広陵に至るまで、数十道倶に入り、江に縁る鎮戍、相継ぎて奏聞す。時に新たに除せられたる湘州刺史施文慶・中書舎人沈客卿、機密を掌りて事を用ひ、並びに抑へて言はざるにより、故に備禦無し。

原文十一月丁卯,詔曰:「夫議獄緩刑,皇王之所垂範,勝殘去殺,仁人之所用心。自畫冠既息,刻吏斯起,法令滋章,手足無措。朕君臨區宇,屬當澆末,輕重之典,在政未康,小大之情,興言多愧。眷茲狴犴,有軫哀矜,可克日於大政殿訊獄。」壬申,以鎮南將軍、江州刺史南平王嶷為征西將軍、郢州刺史,安北將軍、南徐州刺史永嘉王彥為安南將軍、江州刺史,軍師將軍南海王虔為安北將軍、南徐州刺史。景子,立皇弟叔榮為新昌王,叔匡為太原王。是月,隋遣晉王廣眾軍來伐,自巴、蜀、沔、漢下流至廣陵,數十道俱入,緣江鎮戍,相繼奏聞。時新除湘州刺史施文慶、中書舍人沈客卿掌機密用事,並抑而不言,故無備禦。

禎明三年

原文禎明三年

三年春正月乙丑の朔、霧気四塞す。是の日、隋総管賀若弼北道より広陵より京口に済ひ、総管韓擒虎横江に趨き、採石に済ひ、南道より将に弼軍に会せんとす。景寅の日、採石戍主徐子建馳せて啓し変を告ぐ。丁卯の日、公卿を召し入れて軍旅を議す。戊辰の日、内外戒厳し、驃騎将軍蕭摩訶・護軍将軍樊毅・中領軍魯広達を並びに都督と為し、南豫州刺史樊猛を遣はして舟師を帥ひ白下に出だし、散騎常侍皋文奏をして兵を将ひ南豫州を鎮めしむ。庚午の日、賀若弼南徐州を攻め陥す。辛未の日、韓擒虎又た南豫州を陥し、文奏敗れて還る。是に至りて隋軍南北道並びに進む。後主、驃騎大将軍・司徒豫章王叔英を遣はして朝堂に屯し、蕭摩訶をして楽遊苑に屯せしめ、樊毅をして耆闍寺に屯せしめ、魯広達をして白土岡に屯せしめ、忠武将軍孔範をして宝田寺に屯せしむ。己卯の日、鎮東大将軍任忠呉興より入り赴き、仍く朱雀門に屯す。辛巳の日、賀若弼進みて鍾山に拠り、白土岡の東南に頓す。甲申の日、後主衆軍を遣はして弼と合戦せしむるに、衆軍敗績す。弼勝に乗じて楽遊苑に至る。魯広達猶ほ散兵を督して力戦すれども、拒ぐこと能はず。弼進みて宮城を攻め、北掖門を焼く。是の時韓擒虎衆を率ひ新林より石子岡に至り、任忠出でて擒虎に降り、仍く擒虎を引きて朱雀航を経て宮城に趣き、南掖門より入る。ここに於て城内の文武百司皆遁出し、唯だ尚書僕射袁憲殿内に在り。尚書令江総・吏部尚書姚察・度支尚書袁権・前度支尚書王瑗・侍中王寬省中に居る。後主兵の至るを聞き、宮人十余を従へ後堂景陽殿より出で、将に自ら井に投ぜんとす。袁憲側に侍し、苦諫すれども従はず。後閤舎人夏侯公韻又た身を以て井を蔽ふ。後主之と争ふこと久しくして、方に得て入る。夜に及びて、隋軍に執へらる。景戌の日、晋王広入りて京城を拠る。

原文三年春正月乙丑朔,霧氣四塞。是日,隋總管賀若弼自北道廣陵濟京口,總管韓擒虎趨橫江,濟採石,自南道將會弼軍。景寅,採石戍主徐子建馳啟告變。丁卯,召公卿入議軍旅。戊辰,內外戒嚴,以驃騎將軍蕭摩訶、護軍將軍樊毅、中領軍魯廣達並為都督,遣南豫州刺史樊猛帥舟師出白下,散騎常侍皋文奏將兵鎮南豫州。庚午,賀若弼攻陷南徐州。辛未,韓擒虎又陷南豫州,文奏敗還。至是隋軍南北道並進。後主遣驃騎大將軍、司徒豫章王叔英屯朝(室)〔堂〕,蕭摩訶屯樂遊苑,樊毅屯耆闍寺,魯廣達屯白土岡,忠武將軍孔範屯寶田寺。己卯,鎮東大將軍任忠自吳興入赴,仍屯朱雀門。辛巳,賀若弼進據鍾山,頓白土岡之東南。甲申,後主遣眾軍與弼合戰,眾軍敗績。弼乘勝至樂遊苑,魯廣達猶督散兵力戰,不能拒。弼進攻宮城,燒北掖門。是時韓擒虎率眾自新林至于石子岡,任忠出降於擒虎,仍引擒虎經朱雀航趣宮城,自南掖門而入。於是城內文武百司皆遁出,唯尚書僕射袁憲在殿內。尚書令江總、吏部尚書姚察、度支尚書袁權、前度支尚書王瑗、侍中王寬居省中。後主聞兵至,從宮人十餘出後堂景陽殿,將自投于井,袁憲侍側,苦諫不從,後閤舍人夏侯公韻又以身蔽井,後主與爭久之,方得入焉。及夜,為隋軍所執。景戌,晉王廣入據京城。

三月己巳の日、後主王公百司と俱に建鄴より発し、長安に入る。隋仁寿四年十一月壬子の日、洛陽に薨ず。時に年五十二。大将軍を追贈し、長城県公に封じ、謚して煬と曰ふ。河南洛陽の芒山に葬る。

原文三月己巳,後主與王公百司發自建鄴,入于長安。隋仁壽四年十一月壬子,薨於洛陽,時年五十二。追贈大將軍,封長城縣公,謚曰煬,葬河南洛陽之芒山。

【史評】

原文【史評】

史臣侍中鄭国公魏徴曰く、

原文史臣侍中鄭國公魏徵曰:

高祖は壟畝より抜き起こり、雄桀の姿有り。始め下藩を佐け、英奇の略を奮ひ、節を弭めて南海にあり、職として静乱を思ふ。旗を援けて北に邁り、義は勤王に在り、侯景を既成に掃ひ、梁室を已墜に拯ふ。天網絶えて復た続き、国歩屯して更に康なり、百神主有り、旧物を失はず。魏王の漢鼎祚を延ぶる、宋武の晋乗輿を反す、懋績鴻勳、以て尚ぶる無し。時に当たり内難未だ弭がず、外鄰勍敵有り、王琳上流に作梗し、周・齊江・漢に搖蕩し、首を畏れ尾を畏れ、存する若く亡ぶる若し。此を図らずして、遽に天歴を移す。皇靈の睠有るも、何ぞ其れ速やかなるや。然れども志度弘遠にして、懷抱豁如たり。或いは士を仇讎に取り、或いは才を亡命に擢き、其の金を受くる過を掩ひ、其の堯に吠ゆる罪を宥し、心腹爪牙に委ぬれば、咸く能く其の死力を得たり。故に乃ち機を決して百勝し、此の三分を成す。諸を方に鼎峙の雄にせば、以て権・備に慚ざるに足れり。

原文高祖拔起壟畝,有雄桀之姿。始佐下藩,奮英奇之略,弭節南海,職思靜亂。援旗北邁,義在勤王,掃侯景於既成,拯梁室於已墜。天網絕而復續,國步屯而更康,百神有主,不失舊物。魏王之延漢鼎祚,宋武之反晉乘輿,懋績鴻勳,無以尚也。于時內難未弭,外鄰勍敵,王琳作梗於上流,周、齊搖蕩於江、漢,畏首畏尾,若存若亡,此之不圖,遽移天歷,雖皇靈有睠,何其速也?然志度弘遠,懷抱豁如,或取士於仇讎,或擢才於亡命,掩其受金之過,宥其吠堯之罪,委以心腹爪牙,咸能得其死力,故乃決機百勝,成此三分,方諸鼎峙之雄,足以無慚權、備矣。

世祖は天姿叡哲にして、清明躬に在り、早く経綸に預り、民の疾苦を知り、令典を択ばんと思ひ、庶幾く至治に至らんとす。徳刑並びに用ひ、艱虞を戡濟し、群凶首を授け、彊鄰震懾す。忠厚の化遠くに及ぶ能はざれども、恭儉の風以て訓を垂るるに足る。若し明察を尚ばざれば、則ち文を守るの良主なり。

原文世祖天姿叡哲,清明在躬,早預經綸,知民疾苦,思擇令典,庶幾至治。德刑並用,戡濟艱虞,群凶授首,彊鄰震懾。雖忠厚之化未能及遠,恭儉之風足以垂訓,若不尚明察,則守文之良主也。

臨川は成王より年長く、太甲より過微なり。宣帝は周公の親有れども、伊尹の志無く、明辟復せず、桐宮遂に往く。罪を加へんと欲すれば、其れ辞無からんや。

原文臨川年長於成王,過微於太甲。宣帝有周公之親,無伊尹之志,明辟不復,桐宮遂往,欲加之罪,其無辭乎!

高宗は爰に田に在りしより、雅量宏廓にして、登庸御極して、民其の厚きに帰す。恵を以て下を使ひ、寛を以て衆を容る。智勇奮ひ争ひ、師出でて名有り、旆を揚げ麾を分ち、風行き電掃す。土を辟きて千里、奄に淮・泗を有ち、戦勝攻取の勢、近古未だ之れ有らざるなり。既にして君侈り民労し、将驕り卒堕ち、帑藏空竭し、師徒を折衄す。ここに於て秦人方に彊く、遂に兵を江上に窺ふ。李克以爲く、呉の先づ亡ぶるは、数戦数勝に由るなりと。数戦すれば則ち民疲れ、数勝すれば則ち主驕る。驕れる主を以て疲れたる民を御するは、未だ亡びざる者無し。言ふこと信なるかな。高宗は始め寛大を以て人を得、終に驕侈を以て敗を致す。文・武の業、茲に墜つ。

原文高宗爰自在田,雅量宏廓,登庸御極,民歸其厚。惠以使下,寬以容眾。智勇爭奮,師出有名,揚旆分麾,風行電掃,辟土千里,奄有淮、泗,戰勝攻取之勢,近古未之有也。既而君侈民勞,將驕卒墮,帑藏空竭,折衄師徒,於是秦人方彊,遂窺兵於江上矣。李克以為吳之先亡,由乎數戰〔數勝〕,數戰則民疲,數勝則主驕,以驕主御疲民,未有不亡者也。信哉言乎!高宗始以寬大得人,終以驕侈致敗,文、武之業,墜于茲矣。

後主は深宮の中に生まれ、婦人の手で育てられた。既に邦国の衰微に遭いながら、農耕の艱難を知らなかった。初めは危険を恐れ、幾度か哀れみの詔を発したが、後には次第に安んじて集まり、再び淫侈の風を煽った。諸公を賓礼しても、ただ文酒に情を寄せるのみで、群小に昵近し、皆に衡軸を委ねた。謀議ぼうぎの及ぶところ、遂に骨鯁の臣はなく、権要の所在、みな侵漁の吏でない者はなかった。政刑は日に乱れ、尸素の徒が朝廷に満ち、耽荒して長夜の飲み事にふけり、嬖寵は豔妻の孽と同じく、危亡を憂えず、上下相い蒙り、衆叛親離し、機に臨んで悟らず、自ら井戸に投じて、苟くも生きんことを冀い、これをもって全からんことを求むるを見れば、まさに民もまた下なるかな。

原文後主生深宮之中,長婦人之手,既屬邦國殄瘁,不知稼穡艱難。初懼阽危,屢有哀矜之詔,後稍安集,復扇淫侈之風。賓禮諸公,唯寄情於文酒,昵近群小,皆委之以衡軸。謀謨所及,遂無骨鯁之臣,權要所在,莫匪侵漁之吏。政刑日紊,尸素盈朝,耽荒為長夜之飲,嬖寵同豔妻之孽,危亡弗恤,上下相蒙,眾叛親離,臨機不寤,自投於井,冀以苟生,視其以此求全,抑亦民斯下矣。

遠く列辟を観るに、武を纂ぎ嗣いで興る者は、その始めは皆、日月と斉しく明らかにし、天地と合して徳をなさんと欲し、五帝を高く視て、三王に俯して協わんとした。しかしながら、初めなきはなく、終わりを克つ者は少ない。その故は何ぞや。皆、中庸の才をもち、移しうる性を懐き、口には仁義を存し、心は嗜慾に怵れる。仁義は物に利して道遠く、嗜欲は性を遂げて身に便なり。身に便なるは久しく違うべからず、道遠きは固く志し難し。佞諂の輩は、顔色を承け候い、その好むところに因りて、これを悦ばしめ導くこと、坂を下りて丸を走らすが如く、流れに順いて壅きを決するに譬えん。霊辰象に感応し、明徳を降生せしむるにあらざれば、誰かその楽しむところを遺して、百姓を以て心とせんや。これが成・康・文・景が千載にして稀に遇うる所以であり、癸・辛・幽・厲が代なくして有らざる所以である。毒は宗社に被り、身は戮辱に嬰り、天下の笑いとなる。痛ましからずや。古人に言あり、亡国の主は、多く才芸有りと。梁・陳及び隋を考うるに、信じて虚論にあらず。されば則ち、教義の本を崇めず、偏に淫麗の文を尚び、徒らに澆偽の風を長ずるのみで、乱亡の禍を救うこと無きなり。

原文遐觀列辟,纂武嗣興,其始也皆欲齊明日月,合德天地,高視五帝,俯協三王,然而靡不有初,克終蓋寡,其故何哉?並以中庸之才,懷可移之性,口存於仁義,心怵於嗜慾。仁義利物而道遠,嗜欲遂性而便身。便身不可久違,道遠難以固志。佞諂之倫,承顏候色,因其所好,以悅導之,若下阪以走丸,譬順流而決壅。非夫感靈辰象,降生明德,孰能遺其所樂,而以百姓為心哉?此所以成、康、文、景千載而罕遇,癸、辛、幽、厲靡代而不有,毒被宗社,身嬰戮辱,為天下笑,可不痛乎!古人有言,亡國之主,多有才蓺,考之梁、陳及隋,信非虛論。然則不崇教義之本,偏尚淫麗之文,徒長澆偽之風,無救亂亡之禍矣。

史臣曰く、後主は昔、儲宮に在りしとき、早く令徳を標し、及び南面して業を継ぎしは、実に天人の望に允う。礼楽刑政に至っては、皆故典に遵い、深く六芸を弘め、広く四門を辟くを加えた。ここを以て、待詔の徒は争って金馬に趨り、稽古の秀は雲のごとく石渠に集まった。かつ梯山航海して、朝貢する者往々にして歳ごとに至った。魏の正始・晋の中朝以来、貴臣は識治ある者ありといえども、皆文学を以て相い処り、庶務に関すること稀で、朝章大典の方、参議するのみであった。文案簿領は、皆小吏に委ね、浸して俗を成し、陳に至るまで及んだ。後主は因循し、改革に遑あらず、故に施文慶・沈客卿の徒、専ら軍国の要務を掌り、姦黠左道、裒刻を以て功とし、自ら身の栄えを取り、国計を存せず。ここを以て朝経は墮廢し、禍は隣国に生じた。これまた運百六に鐘し、鼎玉遷変するに、唯だ人事の昌ならざるのみならず、蓋し天意然るなり。

原文史臣曰:後主昔在儲宮,早標令德,及南面繼業,寔允天人之望矣。至於禮樂刑政,咸遵故典,加以深弘六藝,廣辟四門,是以待詔之徒,爭趨金馬,稽古之秀,雲集石渠。且梯山航海,朝貢者往往歲至矣。自魏正始、晉中朝以來,貴臣雖有識治者,皆以文學相處,罕關庶務,朝章大典,方參議焉,文案簿領,咸委小吏,浸以成俗,迄至于陳。後主因循,未遑改革,故施文慶、沈客卿之徒,專掌軍國要務,姦黠左道,以裒刻為功,自取身榮,不存國計,是以朝經墮廢,禍生鄰國。斯亦運鐘百六,鼎玉遷變,非唯人事不昌,蓋天意然也。