巻五 本紀第五 宣帝

陳書

巻五 本紀第五 宣帝 せんてい

高宗孝宣皇帝は いみな を頊といい、 あざな は紹世、小字は師利、始興昭烈王の第二子である。梁の中大通二年七月辛酉に生まれ、赤光が堂室に満ちた。少より寛大にして、智略多し。長ずるに及んで、容儀美しく、身長八尺三寸、手は膝を垂れて過ぐ。勇力あり、騎射を善くす。 高祖 こうそ 侯景 こうけい を平らげ、京口に鎮した時、梁の元帝が高祖の子姪を徴して入侍させると、高祖は高宗を江陵に赴かせ、累官して直閤将軍・中書侍郎となった。時に馬軍主の李総は高宗と旧知があり、常に同遊した。高宗が嘗て夜酒に酔い、灯を点けて眠ると、李総が丁度出て行き、すぐに戻って来て、高宗の身が大龍であるのを見、驚き恐れて、他の室に走り避けた。江陵陥落の後、高宗は関右に遷された。永定元年、遥かに始興郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜う。三年、世祖が位を嗣ぐと、安成王に改封された。天嘉三年、周より還り、侍中・ 中書監 ちゅうしょかん ・中衛将軍を授かり、佐史を置かれた。まもなく使持節・ 都督 ととく 揚南徐東揚南 北江五州諸軍事・揚州 刺史 しし を授かり、驃騎将軍に進号し、その他の官はもとの如し。四年、開府儀同三司を加えられる。六年、 司空 しくう に遷る。天康元年、 尚書 しょうしょ 令を授かり、その他の官はすべてもとの如し。 廃帝 はいてい が即位すると、 司徒 しと に拝され、驃騎大将軍に進号し、録尚書、 都督 ととく 中外諸軍事を兼ね、班剣三十人を給される。光大二年正月、太傅に進位し、 司徒 しと を領し、殊礼を加えられ、剣履上殿を許され、増邑して前の分と合わせて三千戸とし、その他の官はすべてもとの如し。十一月 甲寅 こういん 、慈訓太后が令を下し、廃帝を臨海王とし、高宗を以て大統を継がしむ。

太建元年

太建元年春正月甲午、皇帝の位に即く于太極前殿。 みことのり して曰く、「夫れ聖人天命を受け、王者中興するは、並びに懿徳によりて、方に元后と作る。高祖武皇帝は堯図を揖拝し、禹跡を経綸し、天に配するの業は、辰象を光らせて利貞とし、地に格つるの功は、川岳に侔ひて長遠なり。世祖文皇帝は上聖の姿を体し、下武の運に当たり、宮を築きて倹を示し、務むる所は唯だ徳にあり、鼎を定むる初基、其の謀れ斯に在り。朕は寡薄を以て、才聖賢に非ず、夙に前規に荷い、方に景祚を伝えんとす。復た親しく訓誨を承け、志藩維を守ると雖も、季子の高風を詠じ、城陽の遠託を思う。元儲国を紹ぎ、正位君臨してより、道に非ざる幾無く、刑措を聞かんと佇つ。豈図らんや王室造らざるに、頻りに乱階を謀り、天歩艱難にして、将に宝暦を傾けんとす。仰ぎ惟うに嘉命、爰に朕躬に集る。我が心貞確にして、蒼昊に堅く誓う。而して群辟啓請し、相諠う渭橋に、文母尊厳にして、心を懸くる長楽、 紱に対揚するは、殷湯の三辞に止まらず、春冬を履渉するは、何ぞ但だ代王の五譲のみならんや。今便ち天策を粛奉し、介圭を欽承す。滄溟に拠るが若くは、踰えて兢業を増さん。思う所以に雲行き雨施し、品物咸亨せんことを、当に黔黎と与に、普く斯の慶を同じくすべし。光大三年を改めて太建元年と為すべし。天下に大赦す。在位の文武に位一階を賜い、孝悌力田及び父後の為にせる者に爵一級を賜う。異等殊才は、並びに策序を加う。鰥寡孤独自ら存すること能わざる者は、人ごとに穀五斛を賜う。」と。太皇太后の尊号を復して皇太后と曰う。妃柳氏を立てて皇后と為し、世子叔宝を皇太子と為し、皇子南中郎将・江州刺史康楽侯叔陵を始興王と為し、昭烈王の祀を奉ぜしむ。乙未、輿駕太廟に謁す。 丁酉 ていゆう 、分かち命じて大使を四方に巡行せしめ、風俗を観省せしむ。征南大将軍・開府儀同三司・新たに除く中撫大将軍 章昭達 しょうしょうたつ は車騎大将軍に進号し、新たに除く中軍大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史 淳于量 じゅんうりょう は征北大将軍と為り、鎮北将軍・開府儀同三司・南徐州刺史・新たに除く鎮西将軍・郢州刺史黄法𣰋は征西大将軍に進号し、新たに除く安南将軍・開府儀同三司・湘州刺史呉明徹は鎮南将軍に進号し、鎮東将軍・揚州刺史・鄱陽王伯山は中衛将軍に進号し、尚書 僕射 ぼくや 沈欽は尚書左僕射と為り、度支尚書王勱は尚書右僕射と為り、護軍将軍 沈恪 しんかく は鎮南将軍・広州刺史と為る。 辛丑 しんちゅう 、輿駕親しく南郊に祠る。壬寅、皇子建安侯叔英を以て宣恵将軍・東揚州刺史と為し、 章王に改封す。豊城侯叔堅は長沙王に改封す。 癸卯 きぼう 、明威将軍周弘正を以て特進と為す。戊午、輿駕親しく太廟に祠る。

二月庚午、皇后太廟に謁す。辛未、皇太子太廟に謁す。乙亥、輿駕親しく藉田を耕す。

夏五月甲午、斉使いを遣わして来聘す。丁巳、吏部尚書・大著作を領す徐陵を以て尚書右僕射と為し、太子詹事・駙馬都尉沈君理を吏部尚書と為す。

秋七月辛卯、皇太子妃沈氏を納る。王公以下帛を賜うこと各差有り。丁酉、平東将軍・呉郡太守 しん 安王伯恭を以て中護軍と為し、安南将軍に進号す。

九月甲辰、新たに除く中護軍晋安王伯恭を以て中領軍と為す。

冬十月、新たに除く左衛将軍欧陽紇、広州に拠り兵を挙げて かえ す。辛未、車騎将軍・開府儀同三司章昭達に命じ衆を率いて之を討たしむ。壬午、輿駕親しく太廟に祠る。

太建二年

二年春正月乙酉、征西大将軍・開府儀同三司・郢州刺史黄法𣰋を以て中権大将軍と為す。景午、輿駕親しく太廟に祠る。

二月癸未、儀同章昭達、欧陽紇を擒えて都に送り、建康市に斬る。広州平ぐ。

三月景申、皇太后崩ず。景午、広・衡二州を曲赦す。 丁未 ていび 、天下に大赦す。又詔して、周迪・華皎を討つ已来、兵の交わる所有りて死亡する者有らば、並びに収斂せしめ、棺槥を給し、本郷に送還せしめよ。瘡痍未だ瘳えざる者は、各医薬を給せよ、と。

夏四月乙卯、臨海王伯宗 こう ず。戊寅、皇太后を万安陵に祔葬す。

閏月戊申の日、輿駕は太廟に謁した。己酉の日、太白が昼間に現れた。

五月乙卯の日、儀同黄法𣰋が瑞璧一つを献上した。壬午の日、斉が使者を遣わして弔問した。

六月戊子の日、新羅国が使者を遣わして方物を献上した。辛卯の日、大雨雹が降った。乙巳の日、大使を分遣して州郡を巡行させ、冤屈を省みて理めた。戊申の日、車騎将軍・開府儀同三司の章昭達は車騎大将軍に進号し、安南将軍・広州刺史の沈恪は鎮南将軍に進号した。

秋八月甲申の日、詔して曰く、「遠方を懐けるには徳をもってす、これ恒常の典なり。戎を去りて華に就くは、民の本志なり。近年、江辺では繈負の者が相従い、崎嶇として帰化し、亭候は絶えず。宜しくこれを卹養し、その誠心に答うべし。この荒境より自ら抜け出で、都邑および諸州鎮にある者は、遠近を問わず、ともに課役を蠲免す。もし旧土を克平し、我が侵された地を反せば、皆、郷里に還ることを許し、一切拘限せず。州郡県の長は明らかに甄別を加え、良田や廃村に、便に従って安住せしめよ。もしみだりに課訂することがあれば、直ちに民を擾したものとして論ずる。」また詔して曰く、「民は惟れ邦の本、典謨に著わる。国を治め民を愛するは、また通訓なり。朕は朝を聴きて罷むること晏く、日仄にまで劬労し、方に恵沢を流し、億兆に覃く被わんとす。梁の末季、政刑は廃缺し、条綱は弛紊し、僭盗はしきりに興り、役賦征徭は特に煩刻であった。大陳が宇を御するに及び、この余弊を拯い、扈を滅ぼし黎を戡んずるに、創改に遑あらず。年代が流れ、将に俗を成さんとするに、もし解張せずんば、物と与に措くところ無からん。夕べに惕み疚む思い、首疾と同じし。卑菲に従い、己を約して民を済わんことを思い、府帑は未だ充たずとも、君孰れと足らん。便ちこれを刪革し、その甚だ泰なるものを去り、永く定准たらんことを冀い、簡にして従い易からしめん。今より維作の田、水旱に値いて収穫を失えば、即ち在所に列し、上に言って折除す。軍士で年齢六十に登る者は、悉く放還を許す。巧手で役務中に死亡し、および老疾に至った者は、訂補を労せず。その籍に巧みに隠れた者、および王公百司がみだりに民を受けて程蔭とした者は、本属に解還し、恩を開いて首を聴く。職に在りて事を治むる身は、須らく互いに検示し、過失があって推挙せざれば、当局は罪に任ず。令長が代わる時は、解舍の戸数を具条し、後人に付度す。戸に増進あれば、即ち擢賞を加え、もし減散を致せば、事に依って准結す。能く荒田を墾起する者あれば、頃畝の多少を問わず、旧に依って税を蠲免す。」戊子の日、太白が昼間に現れた。

九月乙丑の日、 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮東将軍・呉興太守の 杜稜 どりょう を特進・護軍将軍とした。

冬十月乙酉の日、輿駕は親しく太廟を祠った。

十一月辛酉の日、高麗国が使者を遣わして方物を献上した。

十二月癸巳の夜、西北に雷声があった。

太建三年

三年春正月癸丑の日、尚書右僕射・大著作を領する徐陵を尚書僕射とした。辛酉の日、輿駕は親しく南郊を祠った。辛未の日、親しく北郊を祠った。

二月辛巳の日、輿駕は親しく明堂を祠った。丁酉の日、親しく藉田を耕した。

三月 丁丑 ていちゅう の日、天下に大赦した。天康元年より太建元年に至るまでの、 つぐな 余の軍糧・禄秩・夏調で未入のものは、悉くこれを ゆる 宥した。また詔して、逆を犯した者の子弟支属で逃亡して異境にある者は、悉く帰首を聴す。今、縶繫されている者は、量りて散釋すべし。その居宅ある者は、ともに追還す。

夏四月壬辰の日、斉が使者を遣わして聘問した。

五月戊申の日、太白が昼間に現れた。辛亥の日、遼東・新羅・丹丹・天竺・盤盤等国がともに使者を遣わして方物を献上した。

六月丁亥の日、江陰王蕭季卿は罪により免ぜられた。甲辰の日、東中郎将長沙王府諮議参軍の蕭彝を江陰王に封じた。

秋八月辛丑、皇太子自ら太学にて釈奠を行い、二傅・祭酒以下には帛を賜うこと各々差等あり。

九月癸酉、太白昼に見ゆ。

冬十月甲申、輿駕親しく太廟を祠る。乙酉、周使いを遣わして来聘す。己亥、丹丹国使いを遣わし方物を献ず。

十二月壬辰、車騎大将軍・ 司空 しくう 章昭達薨ず。

太建四年

四年春正月景午、雲麾将軍・江州刺史始興王叔陵を以て湘州刺史と為し、平南将軍に進号す。東中郎将・呉郡太守長沙王叔堅を宣毅将軍・江州刺史と為す。尚書僕射・大著作を領す徐陵を尚書左僕射と為す。 中書監 ちゅうしょかん 王勱を尚書右僕射と為す。庚申、丹陽尹衡陽王伯信を信威将軍・中護軍と為す。庚午、輿駕親しく太廟を祠る。

二月乙酉、皇子叔卿を立てて建安王と為し、東中郎将・東揚州刺史を授く。

三月壬子、 散騎常侍 さんきじょうじ 孫瑒を安西将軍・荊州刺史と為す。乙丑、扶南・林邑国並びに使いを遣わして来たり方物を献ず。

夏四月戊子、中権大将軍・開府儀同三司黄法𣰋を征南大将軍・南 州刺史と為す。

五月癸卯、尚書右僕射王勱卒す。

六月辛巳、侍中・鎮右将軍・右光禄大夫杜稜卒す。

秋八月辛未、周使いを遣わして来聘す。丁丑、景雲見ゆ。戊寅、詔して曰く、「国の大事は、脤を受けて戎を興すにあり。師は律を以て出で、廟に策を稟るは、以て九有を おさ 安し、七徳を克成せしむる所以なり。頃より群穢を掃滌し、諸夏を廓清するより以来、乃ち貔貅の戮力するも、亦帷幄の運籌するなり。左衽已に戡てりと雖も、干戈載せて戢む。呼韓来謁し、亭鄣警無し。但だ民に戦を教えざるは、是れ之を棄つと謂う。仁には必ず勇有り、武備を忘るる無かれ。磻溪の韜訣を伝え、穀城の神符を授け、文叔は戎規を懸けて制し、孟徳は頗る兵略を言う。朕既に暗合するを慚ず、良く皆披覧す。兼ねて昔督戎を経て、備嘗行陣し、斉は七歩を以てし、粛は三鼓を以てす。胸襟より得て、指掌に述べ可し。今並びに条制し、凡そ十三科、宜しく即ち班宣して、以て永き准と為すべし。」乙未、詔して湘・江二州の逋租を停め、無錫等十五県の流民は、並びに其の繇賦を蠲す。

(秋)九月庚子朔、日蝕有り。辛亥、大赦天下す。又詔して曰く、「善を挙げ諫に従うは、上に在るの明規なり。賢を進め言を謁するは、臣たるの令範なり。朕寡徳を以て、宝図を嗣ぎ守る。世隆平を襲うと雖も、治寧一に非ず。方を弁じ職を分ち、旰食早衣す。傍ら争臣を闕き、下に貢士無し。何ぞ其れ爾く闕くや、鮮く能く抗直す。豈に余独り運ぶのみならんや、讜言を薦むるに匪ず。鼓を公車に置くも、得失を論ずること罕なり。石を象魏に施すも、可否を陳ぶること莫し。朱雲檻を摧くは、良に逢わざる所。禽息楹に触るるは、又た値い難し。衣褐を以て見え、簦を檐いで遊ぶに至りては、或いは耆艾絶倫、或いは妙年異等、時に干して偶わず、左右之を誉むること莫く、黒貂弊を改め、黄金且に殫き、終に其の滞淹するは、太息す可し。又た貴きは百辟と為り、賤しきは十品有り。工拙並び騖り、勧沮分かたず、街謡徒に擁し、廷議斯に闕く。寔に朕の明ならざるに在りて、時に献替無し。永く至治を言う、何ぞ迺ち爽ゆるや。外に可く文武に通示すべし。凡そ厥の位に在る者、風化乖殊し、朝政紕蠹するは、正色直辞し、犯す有りて隠す無くせよ。兼ねて各々知る所を挙げ、才に随い明らかに試みよ。其の政に蒞むこと廉穢、職に在る能否は、分別して矢言し、茲に黜陟を俟て。」景寅、故 太尉 たいい 徐度 じょど ・儀同杜稜・儀同程霊洗を以て高祖廟庭に配食せしめ、故車騎将軍章昭達を世祖廟庭に配食せしむ。

冬十月乙酉、輿駕親しく太廟を祠る。戊戌、鎮南将軍・広州刺史沈恪を領軍将軍と為す。

十〔一〕月己亥夜地震す。

閏月辛未の日、詔して曰く、「姑熟は豊かで広く、荊河の地に比すべく、博望は関畿にあり、天険厳峻にして、龍山は南を指し、牛渚は北に臨む。熊繹の余城に対し、全琮の故塁に近く、良田美柘、畦畎相望み、連なる屋宇高き甍、阡陌繍の如し。梁末より兵災あり、凋残略く尽き、比来優寛に務むるも、未だ克く復せず。咫尺の封畿、宜しく殷阜を須うべし。且つ衆将の部下、多く上下に寄寓し、軍民雑俗、極めて蠹秏たり。今より罷任の徒あるは、部下を分留するを許す。其れ已に江外に在るも、亦た迎え還すべく、悉く南州の津裏に住ましめて安置せよ。有無交易し、市估を責めず。萊荒を墾闢するも、亦た租税を停む。台より鎮監一人を遣わし、刺史・津主と共に分明に檢押し、地を給し田を賦し、各頓舍を立てしむ。」

十二月壬寅の日、甘露樂遊苑に降る。甲辰の日、輿駕樂遊苑に幸し、甘露を採り、群臣を宴す。丁卯の日、詔して曰く、「梁氏の季、兵火荐臻し、承華焚蕩し、頓に遺構無し。宝命惟新にして、将に二紀に至る。頻りに戎旅に事とし、未だ脩繕に遑あらず。今工役差し閑なり、椽楹擬する有り。来歳開肇し、東宮を創築すべし。権に起部尚書・将作大匠を置き、以て監作を主とすべし。」

太建五年

五年春正月癸酉の日、征北大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史淳于量を中権大将軍と為す。宣恵将軍・ 章王叔英を南徐州刺史と為し、平北将軍に進号す。吏部尚書・駙馬都尉沈君理を尚書右僕射と為し、吏部を領す。辛巳の日、輿駕親しく南郊に祠る。甲午の日、輿駕親しく太廟に祠る。

二月辛丑の日、輿駕親しく明堂に祠る。乙卯の日、夜白気有り虹の如く、北方より北斗紫宮を貫く。

三月壬午の日、分ちて衆軍に命じ北伐す。鎮前将軍・開府儀同三司呉明徹を以て征討諸軍事を 都督 ととく す。景戌の日、西衡州馬角を生ずるを献ず。己丑の日、皇孫胤生まる。内外文武帛を賜うこと各差有り。父後たる者爵一級。北討大 都督 ととく 呉明徹衆十万を統べ、白下より発す。

夏四月癸卯の日、前巴州刺史魯広達斉の大峴城を克つ。辛亥の日、呉明徹秦州の水柵を克つ。庚申の日、斉兵十万を遣わし歴陽を援く。儀同黄法𣰋之を破る。辛酉の日、斉軍秦州を救う。呉明徹又之を破る。癸亥の日、詔す、北伐衆軍斉兵を殺す所の者、並びに埋掩せしむべし。 甲子 こうし の日、南譙太守徐槾石梁城を克つ。

五月 己巳 きし の日、瓦梁城降る。癸酉の日、陽平郡城降る。甲戌の日、徐槾廬江郡城を克つ。景子の日、黄法𣰋歴陽城を克つ。己卯の日、北高唐郡城降る。辛巳の日、詔す、征南大将軍・開府儀同三司・南 州刺史黄法𣰋をして歴陽に徙鎮せしむ。斉県を改めて郡と為せる者は並びに之を復す。乙酉の日、南斉昌太守黄詠斉昌の外城を克つ。景戌の日、廬陵内史任忠軍東関に次ぎ、其の東西二城を克ち、進みて蘄城を克つ。戊子の日、又譙郡城を克つ。秦州城降る。癸巳の日、瓜歩・胡墅二城降る。

六月庚子の日、郢州刺史李綜灄口城を克つ。乙巳の日、任忠合州の外城を克つ。庚戌の日、淮陽・沭陽郡並びに城を棄てて走る。癸丑の日、景雲見ゆ。 章内史程文季涇州城を克つ。乙卯の日、宣毅司馬湛陀新蔡城を克つ。癸亥の日、周使いを遣わし来聘す。黄法𣰋合州城を克つ。呉明徹師仁州に次ぐ。甲子の日、其の州城を克つ。是の月、明堂を治む。

秋七月乙丑の日、鎮前将軍・開府儀同三司呉明徹征北大将軍に進号す。戊辰の日、斉衆二万を遣わし斉昌を援く。西陽太守周炅之を破る。己巳の日、呉明徹軍峽口に次ぎ、其の北岸城を克つ。南岸守る者城を棄てて走る。周炅巴州城を克つ。淮北の絳城及び穀陽の士民、並びに其の渠帥を誅し、以て城を降す。景戌の日、呉明徹寿陽の外城を克つ。

八月乙未の日、山陽城降る。壬寅の日、盱眙城降る。戊申の日、南斉昌郡を罷む。壬子の日、戎昭将軍徐敬辯海安城を克つ。青州東海城降る。戊午の日、平固侯陳敬泰等晋州城を克つ。

九月甲子の日、陽平城降る。壬申の日、高唐太守沈善度馬頭城を克つ。甲戌の日、斉安城降る。景子の日、左衛将軍樊毅広陵楚子城を克つ。癸未の日、尚書右僕射・吏部を領す・駙馬都尉沈君理卒す。丁亥の日、前鄱陽内史魯天念黄城の小城を克つ。斉軍退き大城を保つ。戊子の日、南兗州の盱眙郡を割き譙州に属す。壬辰晦の日、夜明るし。黄城の大城降る。

冬十月甲午の日、郭默城降る。戊戌の日、中書令王瑒を以て吏部尚書と為す。己亥の日、特進・国子祭酒を領す周弘正を以て尚書右僕射と為す。乙巳の日、呉明徹寿陽城を克ち、王琳を斬り、首を京師に伝え、朱雀航に梟す。丁未の日、斉兵万人潁口に至る。樊毅之を撃ち走らす。辛亥の日、斉兵を遣わし蒼陵を援く。又之を破る。景辰の日、詔して曰く、「梁末懸瓠を得、寿陽を以て南 州と為す。今者克復し、還た 州と為すべし。黄城を以て司州と為し、治下を安昌郡と為し、滻湍を漢陽郡と為し、三城梁に依り義陽郡と為し、並びに司州に属す。」征北大将軍・開府儀同三司呉明徹を以て 州刺史と為し、車騎大将軍に進号す。征南大将軍・開府儀同三司・南 州刺史黄法𣰋を征西大将軍・合州刺史と為す。戊午の日、湛陀斉昌城を克つ。

十一月甲戌の日、淮陰城降る。庚辰の日、威虜将軍劉桃根朐山城を克つ。辛巳の日、樊毅済陰城を克つ。己丑の日、魯広達等北徐州を克つ。

十二月壬辰朔の日、詔して曰く、「古者反 ぜい 叛逆するは、尽く族を誅夷し、以て其の首級を蔵し、後世を誡む。比者戮する所は一身に止まり、子胤或いは存す。梟懸自ら足る。久しく武庫に帰し、長く月支に比するを容れず。惻隠の懐、仁有りて忍びず。維れ熊曇朗・留異・陳宝応・周迪・鄧緒等及び今の王琳の首、並びに親属に還し、以て広宥を弘む。」乙未の日、譙城降る。乙巳の日、皇子叔明を立て宜都王と為し、叔献を立て河東王と為す。壬午の日、任忠霍州城を克つ。

太建六年

六年春正月 壬戌 じんじゅつ 朔、詔して曰く、「王者は四海を家とし、万姓を子とす。一物方に乖けば、夕に惕みて猶お厲しく、六合未だ混ぜずば、旰食して彌く憂ふ。朕は鴻基を嗣ぎ纂ぎ、経略を弘めんと思ひ、上は景宿に符し、下は人謀に協ひ、将を命じ師を興して、大いに淪溺を拯はんとす。灰琯未だ周からずして、凱捷相継ぎ、地を拓くこと数千、城を連ぬること将に百。蠢く彼の餘黎、毒む茲の異境、江淮の年少、猶ほ剽掠有り、郷閭の無頼、陰私を摘出し、将帥軍人、刑典を顧みず。今、苛法を蠲除し、仁声を路に載せしむ。且つ肇元に告慶し、辺服来り荒す。始めて皇風を睹す。宜しく曲沢を覃くすべし。江右淮北の南司・定・霍・光・建・朔・合・ ・北徐・仁・北兗・青・冀、南譙・南兗の十五州、郢州の斉安・西陽、江州の斉昌・新蔡・高唐、南 州の歴陽・臨江郡の土民、罪の軽重無く、悉く皆原宥すべし。将帥職司、軍人の法を犯すは、自ら常科に依れ。」翊前将軍新安王伯固を以て中領軍と為し、号を安前将軍に進む。安前将軍・中領軍晋安王伯恭を安南将軍・南 州刺史と為す。壬午、輿駕親しく太廟を祠る。甲申、広陵金城降る。周、使いを遣わして来聘す。高麗国、使いを遣わして方物を献ず。

二月壬辰朔、日蝕有り。辛亥、輿駕親しく藉田を耕す。景辰、中権大将軍・開府儀同三司淳于量を征西大将軍・郢州刺史と為す。

三月癸亥、詔して曰く、「去歳南川頗る失稔を言ふ。督むる所の田租、今に於いて未だ即ちせず。 章等六郡の太建五年田租は、半ばを申して秋に至らしむべし。 章は又太建四年の檢首田税を逋ふ。亦申して秋に至らしむべし。南康一郡は、嶺下に応接し、民間尤も弊す。太建四年田租未だ入らざる者は、特ちに原除すべし。庶くは墾を脩めて廃せず、歳取方に実らんことを。」

夏四月庚子、彗星見ゆ。辛丑、詔して曰く、「情を戢めて善を懐くは、国の令図なり。弊を拯ひ危を救ふは、聖範の通訓なり。近く師を命じて薄伐し、義は民を済ふに在り。青・齊の旧隷、膠・光の部落、久しく凶戎を患ひ、争ひて有道に帰す。彼の農桑を棄て、其の衣食を忘る。而して大軍未だ接せず、中途に止憩す。朐山・黄郭、車営満ち布き、老を扶け幼を携へ、蓬流草跋す。既に其の本業を喪ひ、咸く遊手を事とし、饑饉疾疫、流離を免れず。大使を遣わし精く慰撫を加へ、仍て陽平倉穀を出だし、其の懸磬を拯ひ、 へい せて糧種に充てしむべし。士女を勧課し、近きに随ひて耕種せしむ。石鱉等の屯は、意に適ひて墾を脩めしむべし。」

六月壬辰、尚書右僕射・領国子祭酒周弘正卒す。乙巳、中衛将軍・揚州刺史鄱陽王伯山を征北将軍・南徐州刺史と為し、中護軍衡陽王伯信を宣毅将軍・揚州刺史と為す。

冬十一月乙亥、詔す、北討行軍の所、 へい せて復を給すること十年。

十二月癸巳、平南将軍・湘州刺史始興王叔陵、号を鎮南将軍に進む。戊戌、吏部尚書王瑒を尚書右僕射と為し、度支尚書孔奐を吏部尚書と為す。景午、安右将軍・左光禄大夫王通に特進を加ふ。

太建七年

七年春正月辛未、輿駕親しく南郊を祠る。乙亥、左衛将軍樊毅、潼州城を克つ。辛巳、輿駕親しく北郊を祠る。

二月戊申、樊毅、下邳・高柵等六城を克つ。

三月辛未、詔す、 ・二兗・譙・徐・合・霍・南司・定の九州及び南 ・江・郢の所部の江北に在る諸郡に雲旗義士を置き、大軍及び諸鎮の備防に往かしむ。戊寅、新たに除く征西大将軍・合州刺史・開府儀同三司黄法𣰋を 州刺史と為す。梁の東徐州を改めて安州と為し、武州を沅州と為す。譙州の鎮を新昌郡に移し、秦郡を以て之に属せしむ。盱眙・神農の二郡を還して南兗州に隷せしむ。

夏四月景戌、星大角に孛す。庚寅、 州を監す陳桃根、所部に於いて青牛を得て、之を献ず。詔して民に還すことを遣はす。甲午、輿駕親しく太廟を祠る。乙未、陳桃根又表を上りて織成羅及び錦被各二百首を上る。詔して雲龍門外に於いて之を焚かしむ。壬子、郢州瑞鍾六を献ず。

五月乙卯、譙州の秦郡を割きて還して南兗州に隷せしむ。北譙県を分ちて北譙郡を置き、陽平の所属する北譙・西譙の二県を領せしむ。合州の南梁郡を、譙州に隷入せしむ。

六月景戌、北討の将士王事に死する者の為に日を克ちて哀を挙ぐ。壬辰、尚書右僕射王瑒を尚書僕射と為す。己酉、雲龍・神獣門を改作す。

秋八月壬寅 にんいん 、西陽郡の治所を保城に移す。 癸卯 きぼう 、周が使者を派遣して来朝し聘問する。

閏九月壬辰 じんしん 都督 ととく 呉明徹が呂梁において斉軍を大破す。是の月、甘露頻りに楽遊苑に降る。 丁未 ていび 、輿駕楽遊苑に幸し、甘露を採り、群臣を宴し、詔して苑の龍舟山に甘露亭を立てしむ。

冬十月戊午 ぼご 、征北将軍・南徐州刺史鄱陽王伯山を以て征南将軍・江州刺史と為し、安前将軍・中領軍新安王伯固を南徐州刺史と為し、鎮北将軍に進号し、信威将軍・江州刺史長沙王叔堅を雲麾将軍・中領軍と為す。 己巳 きし 、皇子叔斉を立てて新蔡王と為し、叔文を立てて晋熙王と為す。

十一月庚戌 こうじゅつ 、征西大将軍・開府儀同三司・郢州刺史淳于量を以て中軍大将軍と為す。

十二月景辰(へいしん、丙辰)、新たに除された雲麾将軍・郢州刺史長沙王叔堅を平越中郎将・広州刺史と為し、東中郎将・東揚州刺史建安王叔卿を雲麾将軍・郢州刺史と為し、宣恵将軍宜都王叔明を東揚州刺史と為す。 壬戌 じんじゅつ 、尚書僕射王瑒を尚書左僕射と為し、太子詹事・揚州大中正陸繕を尚書右僕射と為し、国子祭酒徐陵を領軍将軍と為す。 甲子 こうし 、南康郡瑞鍾を献ず。

太建八年

八年春正月庚辰 こうしん 、西南に 紫雲見 あら わる。

二月壬申 じんしん 、車騎大将軍・開府儀同三司呉明徹、 司空 しくう に進位す。 丁丑 ていちゅう 、詔す、江東道太建五年以前の租税・夏調で民間に つぐな い在る者は、皆これを ゆる す。

夏四月甲寅 こういん 、詔して曰く、「元戎凱旋し、群師旅を振う。旌功策賞、宜しく饗宴有るべし。今月十七日、楽遊苑に幸し、絲竹の楽を設け、文武を大会すべし」。 己未 きび 、輿駕親しく太廟を祠る。

五月庚寅 こういん 、尚書左僕射王瑒卒す。

六月癸丑 きちゅう 、雲麾将軍・広州刺史長沙王叔堅を以て合州刺史と為し、平北将軍に進号す。 甲寅 こういん 、尚書右僕射陸繕を以て尚書左僕射と為し、新たに除された晋陵太守王克を尚書右僕射と為す。

秋八月丁卯 ていぼう 、車騎大将軍・ 司空 しくう 呉明徹を以て南兗州刺史と為す。

九月戊戌 ぼじゅつ 、皇子叔彪を以て淮南王と為す。

冬十一月乙酉 いつゆう 、平南将軍・湘州刺史長沙王叔堅を以て平西将軍・郢州刺史と為す。 丁酉 ていゆう 、江州の晋熙・高唐・新蔡の三郡を分かちて晋州と為す。 辛丑 しんちゅう 、冠軍将軍廬陵王伯仁を以て中領軍と為す。

十二月丁卯 ていぼう 、新たに除された太子詹事徐陵を以て右光禄大夫と為す。

太建九年

九年春正月辛卯、輿駕は親しく北郊を祠る。壬寅、湘州刺史・新たに中衛将軍を除された始興王叔陵を揚州刺史と為す。雲麾将軍建安王叔卿を湘州刺史と為し、平南将軍に進号す。

二月壬子、輿駕は親しく藉田を耕す。

夏五月丙子、詔して曰く、「朕は昧旦に衣を求め、日旰にして方に食し、億兆を弘め、用て俾乂に臻らんとす。然るに牧守民に蒞むも、廉平未だ洽わず、年常の租賦、多く逋餘を致す。即ち此の農を務むるに、宜しく寛省を弘むべし。太建已来より八年に訖るまでの流移叛戸の帯びる租調、七年八年の叛義丁、五年より八年に訖るまでの叛軍丁、六年七年の逋租田米粟夏調綿絹絲布麥等、五年より七年に訖るまでの逋貲絹は、皆悉く之を原すべし」。

秋七月乙亥、軽車将軍・丹陽尹江夏王伯義を合州刺史と為す。己卯、百済国使いを遣わし方物を献ず。庚辰、大雨、万安陵の華表を震わす。己丑、慧日寺の剎及び瓦官寺の重門を震わし、一女子門下に於いて震死す。

冬十月戊午、 司空 しくう 呉明徹、周の将梁士彦の衆数万を呂梁に於いて破る。

十二月戊申、東宮成る。皇太子新宮に移る。

太建十年

十年春正月己巳朔、中領軍廬陵王伯仁を平北将軍・南徐州刺史と為す。翊左将軍・右光禄大夫・太子詹事を領す徐陵を領軍将軍と為す。

二月甲子、北討の衆軍呂梁に於いて敗績す。 司空 しくう 呉明徹及び将卒已下、並びに周軍に獲らる。

三月辛未、武庫を震わす。丙子、衆軍に命を分ちて周に備えしむ。中軍大将軍・開府儀同三司淳于量を大 都督 ととく と為し、水陸諸軍事を総べしむ。明威将軍孫瑒に荊・郢の水陸諸軍事を 都督 ととく せしめ、鎮西将軍に進号す。左衛将軍樊毅を大 都督 ととく と為し、朱沛・清口より上り荊山に至るまでの淮に縁る衆軍を督せしめ、平北将軍に進号す。武毅将軍任忠に寿陽・新蔡・霍州等の衆軍を 都督 ととく せしめ、寧遠将軍に進号す。乙酉、大赦天下す。丁酉、中軍大将軍・開府儀同三司・護軍将軍淳于量を南兗州刺史と為し、車騎将軍に進号す。

夏四月庚戌、詔して曰く、「 さか 賞の言は訓誥に明らかなり。挟纊の美は撫巡に著し。近年薄伐し、淮・泗を廓清し、鋒を摧き果を致すに、文武力を畢くし、風を櫛ぎ雨を沐い、寒暑亟に離る。功を念う茲に在り、終食を忘るる無し。宜しく栄賞を班し、以て其の労に酬うべし。軍に在る者に応じ並びに爵二級を賜い、加えて賚卹を加え、選に付し即ち便ち量り処せしむべし」。又詔して曰く、「惟れ堯は葛衣鹿裘、則天を大と為し、伯禹は弊衣菲食、夫子『間然無し』と曰う。故に儉徳の恭、約を失う者は鮮し。朕宇宙に君臨し、十変の年籥、旰日休む勿く、乙夜寝を忘れ、予跂いて治を思うこと、巨川を済うが若し。茲を念う茲に在り、懍として朽を馭うに同じ。四海の富を貪るに非ず、黄屋の尊を念うに非ず、仁寿を導きて以て群生を寘き、労役を寧んじて以て諸己を奉ぜんとす。但だ梁季を承け、乱離斯の瘼、宮室禾黍、名有りて処亡し。輪奐未だ睹ざるも、頗る経営に事とし、泰を去り甚を去るも、猶お労費と為す。之に戎車屡出し、千金日損し、府帑未だ充たず、民征賦に疲るを加う。百姓足らざれば、君孰と与にか足らん。言を興し静かに念い、夕惕懐抱に懐い、訓を垂れ法を立つるも、良に多慚。雕を斲きて朴と為し、庶幾慕う可し。雉頭の服既に焚け、弋綈の衣方に襲う。損撤の制は、前に朕躬より自りす。草偃風行、以て俗を変えんことを冀う。応に御府堂署の営造する礼楽儀服軍器の外は、其の余悉く皆停息すべし。掖庭の常供・王侯妃主諸の俸卹有る者は、並びに各量り減ずべし」。丁巳、新たに鎮右将軍を除された新安王伯固を護軍将軍と為す。戊午、樊毅軍を遣わし淮北に度り清口に対し城を築く。庚申、大雨雹有り。壬戌、清口城守らず。

五月甲申、太白昼に見ゆ。

六月丁卯、大雨、大皇寺の剎・荘厳寺の露盤・重陽閣の東楼・千秋門内の槐樹・鴻臚府の門を震わす。

秋七月戊戌、新羅国使いを遣わし方物を献ず。乙巳、 散騎常侍 さんきじょうじ ・兼吏部尚書袁憲を吏部尚書と為す。

八月乙丑朔(一日)、秦郡を義州と改む。戊寅(十四日)、霜降り、稻菽を殺す。

九月壬寅(九日)、平北將軍樊毅を中領軍と為す。乙巳(十二日)、婁湖に方明壇を立つ。戊申(十五日)、中衛將軍・揚州刺史始興王叔陵に王官伯を兼ねさせて盟に臨ましむ。甲寅(二十一日)、輿駕婁湖に幸して誓いに臨む。乙卯(二十二日)、大使を分遣し、盟誓を以て四方に班下し、上下相い警戒せしむ。壬戌(二十九日)、宣惠將軍江夏王伯義を東揚州刺史と為す。

冬十月戊寅(十五日)、義州及び琅邪・彭城の二郡を罷む。建興を立て、建安・同夏・烏山・江乗・臨沂・湖熟等の六県を領せしめ、揚州に属す。戊子(二十五日)、尚書左僕射陸繕を尚書僕射と為す。

十一月辛丑(九日)、鎮西將軍孫瑒を郢州刺史と為す。

十二月乙亥(十三日)、合州廬江の蠻田伯興出でて樅陽を寇す。刺史魯廣達之を討ち平らぐ。

太建十一年

十一年春正月丁酉(六日)、龍南兗州永寧楼側の池中に見ゆ。

二月癸亥(二日)、輿駕親しく藉田を耕す。

三月丁未(十六日)、詔す。淮北の義人、戸口を率いて国に帰る者は、其の本属の旧名を建て、郡県を置立し、即ち近州に隷し、田宅を賦給し、喚訂一に預からず。

〔夏〕五月乙巳(十五日)、詔して曰く、「昔、軒轅は風后・力牧に命じ、放勛は稷・契・朱武に咨り、冕旒垂拱して、化隆平に致る。爰に漢の五曹を列ね、周の六職を分つに逮り、官を設け務を理むるに、各々司う所あり。亦幾くんば刑措き、卜世弥永く、並びに群才に頼り、以て庶績を康うす。朕日昃に劬労し、治要を弘めんと思うに、而して機事尚お擁し、政道未だ凝らず。夕に惕みて懐に在り、済う所を知らず。方に茲の舟楫に仗り、股肱に委成し、名を徴し実を責め、以て多士を寧んぜんと欲す。今より応に尚書曹・府・寺・内省監・司の文案は、悉く局に付して参議分判せしむ。其の軍国興造・徴発・選序・三獄等の事は、前に須らく詳断し、然る後に聞啓すべし。凡そ諸の弁決は、務め清乂ならしめ、法に約し制を守り、較かに画一の若くし、前後舛互し、自ら矛楯を為し、枉滞有らしむるを得ず。意を紆え文を舞わすは、糾聴知る所、赦す所靡し」と。甲寅(二十四日)、詔して曰く、「旧律は枉法にて財を受くるを以て坐と為すは重しと雖も、直法にて賄を容るるは其の制甚だ軽し。豈に彼の貪残を長ぜずして、其の舞弄を生ぜしめんや。事貨財に渉れば、寧く切ならざらんや。今、枉法せずして財を受くる者は、正盗に同じく科すべし」と。

六月庚辰(二十日)、鎮前將軍 章王叔英を鎮南將軍・江州刺史と為す。景戌(二十三日)、征南將軍・江州刺史鄱陽王伯山を中權將軍・護軍將軍と為す。

秋七月辛卯(五日)、初めて大貨六銖錢を用う。

八月甲子(八日)、青州義主朱顕宗等、率いる所の七百戸を率いて入附す。丁卯(十一日)、輿駕大壯観に幸して武を閲す。戊寅(二十二日)、輿駕宮に還る。

冬十月甲戌(十九日)、安前將軍・祠部尚書 しん 安王伯恭を軍師將軍と為し、尚書僕射陸繕を尚書左僕射と為す。

十一月辛卯(七日)、詔して曰く、「画冠犯さず、此の澆風を革め、孥戮是れ蹈む、薄俗に化す。朕粛として宝命を膺け、将に一紀に迄らんとす。邦を経め治を済わし、国を憂え民を愛し、日仄に劬労し、夜分に寢を輟むるも、而して淳に還り朴に反るの道、其の階靡く、雍熙の盛美、能く致すと云う莫し。遂に乃ち鞫訊の牒、聴覧に盈ち、舂釱の人、牢犴に煩わす。周成の刑措、漢文の断獄、杼軸空しく労し、邈焉として既に遠し。加うるに蕞爾たる醜徒、我が彭・汴を軼え、淮・汝の氓庶、王略に踵を企つ。兵を治め旅を誓い、義拯救に存す。芻を飛ばし粟を挽き、征賦頗る煩わしく、暑雨祁寒、寧く咨怨を忘れんや。兼ねて宿度乖舛し、次舎方に違う。若し曰の誡、責元首に帰す。愧心斯く積り、朽を馭するも懼れず。即ち建子の令月、微陽初めて動く。此の嘉辰に応じ、宜しく寛沢を播くべし。大いに天下を赦すべし」と。甲午(十日)、周、柱国梁士彦を遣わし衆を率いて肥口に至らしむ。戊戌(十四日)、周軍進みて寿陽を囲む。辛丑(十七日)、車騎將軍・開府儀同三司・南兗州刺史淳于量を上流水軍 都督 ととく と為す。中領軍樊毅に北討諸軍事を 都督 ととく せしめ、安北將軍を加う。 散騎常侍 さんきじょうじ ・左衛將軍任忠に北討前軍事を 都督 ととく せしめ、平北將軍を加う。前豊州刺史皋文奏に歩騎三千を率いしめて陽平郡に趣かしむ。癸卯(十九日)、任忠歩騎七千を率い秦郡に趣く。景午(二十二日)、新たに除したる仁威將軍・右衛將軍魯廣達衆を率いて淮に入る。是の日、樊毅水軍二万を領し東関より焦湖に入り、武毅將軍蕭摩訶歩騎を率いて歴陽に趣く。戊申(二十四日)、 州陥つ。辛亥(二十七日)、霍州又陥つ。癸丑(二十九日)、新たに除したる中衛大將軍・揚州刺史始興王叔陵を大 都督 ととく と為し、水歩の衆軍を総督せしむ。

十二月乙丑、南北兗州・ しん 州の三州、及び盱眙・山陽・陽平・馬頭・秦・歷陽・沛・北譙・南梁等九郡は、共に自ら抜けて京師に還る。譙州・北徐州はまた陥落す。ここより淮南の地は尽く周に没せらる。己巳、詔して曰く、「昔、堯・舜が上に在りし時は茅屋土階、湯・禹が君たりし時は藜杖韋帯なりき。甲帳珠絡、華榱璧璫に至りては、未だ雍熙ならず、ただ侈欲を聞くのみ。朕は前聖を企仰し、訟平を思求すれども、正道多く違ひ、澆風靡乂たり。今に至るまで貴里豪家は金鋪玉舄、貧居陋巷は彘食牛衣、物を称して施しを平らかにするは、何ぞ其れ遼遠なる。爟烽未だ息まず、役賦兼ねて労し、文吏姦貪にして、妄りに科格を動かす。重ねて旗亭関市に、税斂繁多にして、都内の銭を広めず、水衡の費を供せず、商賈を逼遏し、私蓄を営謀す。衆弊を靖懐し、宜しく事を改張すべし。王道を弘めずんば、安くんぞ民蠹を拯はん。今、宣勒すべし、主衣・尚方諸堂署等に、軍国の資須に非ざれば、衆物を繕造することを得ざらしむ。後宮僚列に、若し游長あらば、掖庭啓奏し、即ち皆量りて遣はすべし。大予の祕戲は礼経に会せず、楽府の倡優は雅正に合はず、並びに刪改すべし。市估津税、軍令国章は、更に詳定を須ひ、唯だ平 かな を務むべし。別観離宮、郊閑野外は、恒の饗宴に非ざれば、復た脩治する勿れ。並びに内外文武の車馬宅舍を勒し、皆儉約に循ひ、奢華を尚ぶ勿れ。我が厳規に違へば、抑も刑憲有らん。所由、具に条格を為し、標榜宣示して、朕が心を令喻せしむべし」。癸酉、平北将軍沈恪・電威将軍裴子烈を遣はして南徐州を鎮めしめ、開遠将軍徐道奴を遣はして柵口を鎮めしめ、前信州刺史楊宝安を遣はして白下を鎮めしむ。戊寅、中領軍樊毅を以て鎮西将軍・ 都督 ととく 荊郢巴武四州水陸諸軍事と為す。

太建十二年

十二年春正月戊戌、 散騎常侍 さんきじょうじ ・左衛将軍任忠を以て平南将軍・南 州刺史と為し、縁江の軍防事を督せしむ。

三月壬辰、平北将軍廬陵王伯仁を以て翊左将軍・中領軍と為す。

夏四月癸亥、尚書左僕射陸繕卒す。乙丑、宣毅将軍河東王叔献を以て南徐州刺史と為す。己卯、大雩を行う。壬午、雨降る。

五月癸巳、軍師将軍・尚書右僕射 しん 安王伯恭を以て尚書僕射と為す。

六月壬戌、大風、皋門の中闥を壊す。

秋八月己未、周の使持節・上柱国・鄖州総管 滎陽 けいよう 郡公司馬消難、鄖・随・温・応・土・順・沔・澴・岳等九州、魯山・甑山・沌陽・応城・平靖・武陽・上明・溳水等八鎮を以て内附す。詔して消難を以て使持節・侍中・大 都督 ととく ・総督安随等九州八鎮諸軍事・車騎将軍・ 司空 しくう と為し、随郡公に封じ、鼓吹・女楽各一部を給ふ。庚申、詔して鎮西将軍樊毅に沔・漢諸軍事を進めて督めしむ。平南将軍・南 州刺史任忠を遣はして衆を率ひて歴陽に趣かしめ、通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・超武将軍陳慧紀を前軍 都督 ととく と為し、南兗州に趣かしむ。戊辰、新たに除したる 司空 しくう 司馬消難を以て大 都督 ととく 水陸諸軍事と為す。庚午、通直 散騎常侍 さんきじょうじ 淳于陵、臨江郡を克つ。癸酉、智武将軍魯広達、郭默城を克つ。甲戌、大雨霖ふる。丙子、淳于陵、祐州城を克つ。

九月癸未、周の臨江太守劉顕光、衆を率ひて内附す。是の夜、天の東南に声有り、風水相撃つが如く、三夜にして乃ち止む。丙戌、安陸郡を改めて南司州と為す。丁亥、周の将王延貴、衆を率ひて歴陽を援く。任忠、之を撃ち破り、延貴等を生擒す。己酉、周の広陵義主曹薬、衆を率ひて入附す。

冬十月癸丑、大雨雹震ふ。

十一月己丑、詔して曰く、「朕、四海に君臨し、日旰くして劬労し、至治を弘めんと思ふも、未だ斯の道に臻らず。而して兵車驟に出で、軍費尤も煩はしく、芻漕控引し、賦を徴すること能はず。夏中亢旱して農を傷め、畿内最も甚だしく、民資を失ひ、歳取託る所無し。此れは政刑未だ理まらず、陰陽度を舛へ、黎元饑に阻まるればなり。君孰と足らん。靖言し念ひを興せば、余の責躬に在り。宜しく恵沢を布き、氓庶に溥く沾はしむべし。其の丹陽・呉興・ しん 陵・建興・義興・東海・信義・陳留・江陵等十郡、並びに諸署の即年の田税・禄秩は、並びに各半を原み、其の丁租は半ばを来歳の秋登に至るまで申すべし」。

十二月庚辰、宣毅将軍・南徐州刺史河東王叔献薨ず。

太建十三年

十三年春正月壬午、車騎将軍・開府儀同三司淳于量を以て左光禄大夫と為し、中権将軍・護軍将軍鄱陽王伯山を本号のまま開府儀同三司と為し、鎮右将軍・国子祭酒新安王伯固を揚州刺史と為し、軍師将軍・尚書僕射 しん 安王伯恭を尚書左僕射と為し、安右将軍・丹陽尹徐陵を 中書監 ちゅうしょかん と為し、太子詹事を領せしめ、吏部尚書袁憲を尚書右僕射と為す。庚寅、軽車将軍・衛尉卿宜都王叔明を以て南徐州刺史と為す。

二月甲寅、詔して司馬消難の部に属する周の大将軍田広等に封爵を賜ひ、各差有り。乙亥、輿駕、親ら藉田を耕す。

夏四月乙巳、衡州始興郡を分けて東衡州とし、衡州を西衡州とする。

五月景辰、前鎮西将軍樊毅を中護軍とする。

六月辛卯、新たに中護軍に任じられた樊毅を護軍将軍とする。

秋九月癸亥の夜、大風西北より至り、屋を発し樹を抜き、大雷震雹す。

冬十月癸未、 散騎常侍 さんきじょうじ ・丹陽尹毛喜を吏部尚書とし、護軍将軍樊毅を鎮西将軍・荊州刺史とする。鄱陽郡を改めて呉州とす。壬寅、丹丹国使いを遣わして方物を献ず。

十二月辛巳、彗星見ゆ。己亥、翊右将軍・衛尉卿沈恪を護軍将軍とする。

太建十四年

十四年春正月己酉、高宗( 陳頊 ちんきょ )御不 。甲寅、宣福殿に崩ず。時に年五十三。遺詔して曰く、「朕疾に遭ひてより、未だ浹旬せず、医薬瘳えず、便ち大漸に属す。終始定分、復た何をか言はん。但だ君として寰宇に臨むこと十有四載、誠に則ち休むと雖も休まず、日に慎みて一日の如くし、宗廟の重きを負ふを知り、王業の艱難を識る。而して辺鄙虞多く、生民未だ おさ まらず、方に四海を蕩清し、八荒を包吞せんと欲す。志有りて従ふ莫く、遺恨幽壤にあり。皇太子叔宝は体を継ぎて正嫡たり、年業韶茂、洪基を纂統し、社稷主有り。群公卿士・文武内外、俱に心力を罄くし、同く股肱を竭くし、往き事を送り居るに事へ、忠誠の節を尽くし、官に当たり職を奉じて、翼亮の功を引け。務めて協和に在りて、朕が意に違ふこと無かれ。凡そ厥の終制、事は省約に従へ。金銀の飾りは、須ひず壙に入るるに、明器の具は皆瓦を用ひしむべし。唯だ儉にして礼に合はしめ、奢りて度に乖くことを得ざらしむべし。日を以て月に易ふるは、既に通規有り、公除の制は、悉く旧准に依れ。位に在る百司は、三日に一たび臨み、四方の州鎮・五等の諸侯は、各おの守る所の職を守り、並びに奔赴を停めよ」。

二月辛卯、上って諡して孝宣皇帝と曰ひ、廟号を高宗とす。癸巳、顕寧陵に葬る。

高宗が在野の日、大度幹略有り、及び登庸するに及び、実に天人(天下の人)の望に かな へり。梁室喪乱し、淮南の地並びに斉に併呑されしを、高宗は太建の初め、旧境を復せんと志し、乃ち神略を運らし、律を授けて師を出だし、戦勝攻取に至り、献捷相継ぎ、遂に侵地を かえ し獲、功実に さか んなり。及び周斉を滅ぼし、勝に乗じて地を略し、還って江際に達せり。

【論】

史臣曰く、高宗は器度弘厚、亦た人君の量有り。世祖( 陳蒨 ちんせん )は冢嗣(嫡子)の仁弱なるを知り、宝位に伝ふべからずとし、高宗は地(地位)は姬旦(周公旦)に居り、世祖の情は太伯(泰伯)に存す。及んで弗悆(不 )に及び、大事咸く之に委ぬ。業を纂ぐに至りては、万機平理し、将を命じて師を出だし、淮南の地を克ち、土宇を開拓し、封疆を静謐す。国を享くること十余年、志大にして意逸す。呂梁にて 軍覆 くつがえ り、大いに師徒を喪ふ。江左の削弱するは、抑も此れに由る。嗚呼、蓋し徳は文( 文帝 ぶんてい 陳蒨)に逮はず、智は武(武帝 陳霸先 ちんばせん )に及ばず。得失我よりすと雖も、敵を禦ぐの略無かりき。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷005