陳書
巻三 本紀第三 世祖
世祖文皇帝は 諱 を蒨、 字 を子華といい、始興昭烈王の長子である。幼少より沈着聡明にして識量あり、容姿は美しく、経史に留意し、挙動は方正雅やかで、事あるごとに必ず礼法に従った。 高祖 は彼を大いに愛し、常に「この児は我が宗族の英秀なり」と称した。梁の太清の初め、二つの日が闘う夢を見た。一つは大きく、一つは小さい。大きい方は光滅して地に墜ち、色は正しく黄で、その大きさは斗のようであった。世祖はそれゆえ三分の一を取って懐に収めた。 侯景 の乱の時、郷里の多くは山や湖に依って寇掠を行ったが、世祖のみは家を保って犯されるところがなかった。時に乱は日々に甚だしくなり、ついに臨安に避地した。高祖が義兵を挙げると、侯景は使者を遣わして世祖と衡陽献王を捕らえようとした。世祖は密かに小刀を袖に隠し、入見する機会に乗じて景を害さんことを期したが、到着するやすぐに吏に属せられたため、その事は行われなかった。高祖の大軍が石頭を包囲すると、景はたびたび害を加えようとしたが、ちょうど景が敗れたので、世祖はようやく出て高祖の陣営に赴くことができた。
初めて官に就き、呉興太守となった。時に宣城の劫帥紀機・郝仲らがそれぞれ千余人の衆を集め、郡境を侵暴したので、世祖はこれを討ち平らげた。承聖二年、信武将軍に任じられ、南徐州を監した。三年、高祖が広陵を北征するに当たり、世祖を前軍とし、戦うごとに勝利を収めた。
高祖が王僧弁を討たんとするに先立ち、まず世祖を召して謀った。時に僧弁の女婿杜龕が呉興に拠り、兵衆は甚だ盛んであった。高祖は密かに世祖に長城に還り、柵を立てて龕に備えさせた。世祖が収めた兵はわずか数百人で、戦備もまた少なかった。龕はその将杜泰に精兵五千を率いさせ、虚に乗じて急襲させた。将士は顔を見合わせて色を失ったが、世祖は言笑自若として、部署分掌をますます明らかにした。そこで衆心はようやく定まった。泰は柵内の人が少ないと知り、日夜苦攻した。世祖は将士を激勵し、自ら矢石に当たり、数十日相持したので、泰はついに退走した。高祖が 周文育 に兵を率いて龕を討たせると、世祖はこれと軍を併せて呉興に向かった。時に龕の兵はなお多く、要衝を断ち拠り、水軍と歩軍が連陣して結びついていた。世祖は将軍劉澄・蔣元挙に命じて衆を率いて龕を攻めさせた。龕軍は大敗し、窮迫して降伏を請うた。
東揚州 刺史 張彪が兵を起こして臨海太守王懷振を包囲した。懷振は使者を遣わして救援を求めたので、世祖は周文育とともに軽兵を率いて会稽に赴き、彪を掩おうとした。後に彪の将沈泰が門を開いて世祖を迎え入れた。世祖はその部曲と家族をことごとく収容した。彪が到着すると、またこれを破って走らせ、若邪の村民が彪を斬り、その首を伝えた。功により持節・ 都督 会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍・会稽太守に任じられた。山越は深く険しく、みな帰順しなかったので、世祖は分かち命じて討撃させ、ことごとく平定し、威と恵は大いに振るった。
高祖が禅を受けると、臨川郡王に立てられ、邑二千戸を賜り、侍中・安東将軍に拝された。周文育・ 侯安都 が沌口で敗れた時、高祖は 詔 して世祖に入衛させ、軍の蓄えと武備とをすべて委ねた。まもなく命じて兵を率いて南皖に城を築かせた。
永定三年
永定三年六月丙午、高祖崩御し、遺詔して世祖を召し入れて継がしめた。甲寅、南皖より至り、中書省に入って居た。皇后の令に曰く、「昊天は弔わず、上玄は禍を降す。大行皇帝は奄かに万国を捐て、率土は哀号し、普天は喪に服するが如し。窮酷煩冤、及びふべき所なし。諸孤は藐爾として、国に反る期なく、長主を立てて、宇県を寧んずるを須つ。侍中・安東将軍・臨川王蒨は、体は景皇より出で、属は惟だ猶子たり、牧野に殊功を建て、戡黎に盛業を敷き、納麓時叙の辰、負扆乗機の日、並びに時に雍くを佐け、是れ草創に同じ。祧祏の繫ぐ所、遐邇の宅心する所、宜しく大宗に奉じ、宝録を嗣ぎ膺け、七廟の奉ずる有らしめ、兆民を寧晏せしむべし。未亡人は余息を仮延し、此の百罹に嬰る。纏綿を尋繹し、言を興して感絶す。」世祖は固く辞譲し、三たびに至った。群公卿士が固く請うたので、その日、太極前殿において皇帝の位に即いた。詔して曰く、「上天は禍を降し、奄かに邦家に集る。大行皇帝は万国を離れ、率土は心崩れ、考妣を喪うが若し。龍図宝歴、眇かに朕躬に属す。運は擾攘に鍾り、事は機務に切なり。南面には主を須ち、西譲は礼軽し。今便ち景命に膺り、四海に光宅す。大いに天下を赦すべし。罪の軽重を問わず、悉く皆蕩滌す。逋租宿債、吏民の愆負は、復た収むること勿れ。文武内外、量りに爵叙を加う。孝悌力田にして父の後たる者は、爵一級を賜う。庶くは祗畏を心にし、公卿は力を畢くして、残を勝ち殺を去り、百年を待たず。言を興して号哽し、深く慟絶を増す。」また詔して州郡に悉く奔赴を停めしめた。
秋七月丙辰、皇后を尊んで皇太后とした。己未、鎮南将軍・開府儀同三司・広州刺史歐陽頠を征南将軍に進号し、平南将軍・開府儀同三司周迪を鎮南将軍に進号し、平南将軍・開府儀同三司・高州刺史黄法𣰋を安南将軍に進号した。庚申、鎮南大将軍・開府儀同三司・桂州刺史 淳于量 を征南大将軍に進号した。辛酉、侍中・車騎将軍・ 司空 侯瑱を 太尉 とし、鎮西将軍・開府儀同三司・南 豫 州刺史侯安都を 司空 とし、侍中・中権将軍・開府儀同三司王沖を特進・左光禄大夫とし、鎮北将軍・南徐州刺史 徐度 を侍中・中撫軍将軍・開府儀同三司とした。壬戌、侍中・護軍将軍徐世譜を特進・安右将軍とし、侍中・忠武将軍 杜稜 を領軍将軍とした。乙丑、重雲殿に災いあり。
八月癸巳、平北将軍・南徐州刺史留異を安南将軍・縉州刺史とし、平南将軍・北江州刺史魯悉達を安左将軍に進号した。庚戌、皇子伯茂を始興王に封じ、昭烈王の後を奉ぜしめた。始興嗣王頊を安成王に徙封した。
九月辛酉、皇子伯宗を皇太子に立て、王公以下に帛を賜うこと各差あり。乙亥、妃沈氏を立てて皇后とした。
冬十一月乙卯、王琳が大雷を寇す。詔して太尉侯瑱・ 司空 侯安都・儀同徐度に衆を率いてこれを防がしめた。
天嘉元年
天嘉元年春正月癸丑、詔して曰く、「朕は寡昧を以て、洪業を嗣ぎ纂ぐ。哀惸疚に在り、治道は昭かならず。仰いで惟うに前徳は、幽顕に遐く暢けり。恭しく己をして言わしめ、庶幾くは改むること無からん。宏図懋軌と雖も、日月方に弘まらんとす。而して清廟は廓然たり、聖霊は浸く遠し。永往を感尋し、言を瞻みて極まり無し。今四象は運周し、三元は献を告ぐ。華夷胥に洎き、玉帛駿奔す。遺沢を 覃 べんことを思い、之を億兆に播かん。大いに天下を赦す。永定四年を改めて天嘉元年と為す。鰥寡孤独にして自ら存立すること能わざる者は、穀を賜うこと人五斛。孝悌力田にして殊行異等の者は、爵一級を加う。」甲寅、分かち使者を遣わして四方を宣労す。辛酉、輿駕親しく南郊に祠り、詔して曰く、「朕は式に上玄を饗し、虔しく牲玉を奉ず。高禋の礼畢り、誠敬兼ねて弘し。且つ陰霾は辰を浹し、褰霽は日に在り。雲物は韶朗、風景は清和、慶は人祇を動かし、忭は庶俗に流る。黎元をして此の多祐に同じからしめんことを思う。民に爵一級を賜うべし。」辛未、輿駕親しく北郊に祠る。日に冠あり。
二月辛卯、老人星が現れた。乙未、高州刺史紀機が軍中より叛き宣城に帰還し、郡を占拠して王琳に応じたが、涇県令賀当遷が討伐してこれを平定した。丙申、太尉侯瑱が梁山において王琳を破り、博望において斉軍を破り、斉の将軍劉伯球を生け捕りにし、その資材・蓄え・船艦をことごとく収め、捕虜・斬首は万を数えた。王琳およびその主君蕭莊は斉に奔った。
戊戌、詔して曰く、「五運は次々に来たり、三霊は命を眷み、皇王これに因って改創し、殷・周これをもって推挙を楽しむ。朕は暦を統べ基を承け、鼎の運を大いに隆盛にし、理を期する所は属し、数と祚はここに在り。豈に僥倖の至る所ならんや、寧ろ卜祝の求むべきか。故に知る、神器の重きは、必ず符命に在り。これをもって逐鹿は譏りを遺し、断蛇は業を定め、乱臣賊子は、異なる世も同じく尤む。王琳は識は挈瓶に暗く、智は衛足に慚じ、紀を干し常を乱し、自ら顛沛を遺す。而して縉紳君子は多く縶維せられ、涇渭合流し、蘭鮑同肆すと雖も、その理を求めれば、或いは脅従する者あらん。今九罭既に設けられ、八紘斯く掩われ、天網恢恢、舟を吞むも漏らす。至りて伏波の遊説、永く漢の蕃と作し、延寿の脱帰、終に魏の守りと為るが如きは、器は秦・虞を改め、材は 晋 ・楚に通じ、行蔵用捨、亦た豈に恒なる有らんや。宜しく寛仁を加え、以て雷作を彰すべし。其の衣冠士族、凶党に預かる者は、悉く皆原宥せよ。将帥戦兵も亦た同じく眚を肆し、並びに才に随って銓引し、庶幾くは力用を収めん」と。又詔して、師旅以来、将士王事に死する者、並びに贈謚を加う。己亥、詔して曰く、「日に凶渠肆虐し、衆軍進討し、舟艦輸積、権に民丁を倩い、師出経時、役労日久。今気祲廓清し、宜しく甄被有るべし。丁身を蠲復すべし。夫妻三年、役に在りて不幸なる者は、其の妻子を復す」と。庚子、使者を分遣し 璽 書を齎して四方を宣労す。乙巳、太尉侯瑱を遣わして湓城に鎮ましむ。庚戌、高祖第六子昌を以て驃騎将軍・湘州牧と為し、立てて衡陽王とす。
三月丙辰、詔して曰く、「喪乱以来、十余 載 、編戸凋亡し、万に一を遺さず、中原の氓庶、蓋し幾ばくも無しと云う。頃者寇難仍接し、算斂繁多し、且つ興師已来、千金日費し、府蔵虚竭し、杼軸歳空し。近く置く所の軍資は、本戎備に充つ。今元悪克殄し、八表已に康く、兵戈静戢し、息肩方に在り。余黎を思いて、此の寛賦に陶せんとす。今歳の軍糧は通じて三分の一を減ず。 尚書 四方に申し下し、朕が哀矜の意を称せよ。守宰明らかに勧課を加え、務めて農桑を急にし、庶幾くは鼓腹含哺、復た此の日に在らん」と。蕭莊の署する所の郢州刺史孫瑒、州を挙げて内附す。丁巳、江州刺史周迪、南中を平らげ、賊率熊曇朗を斬り、首を京師に伝う。先ず是れ、斉軍魯山城を守る。戊午、斉軍城を棄てて走る。詔して南 豫 州刺史程霊洗をしてこれを守らしむ。甲子、荊州の天門・義陽・南平、郢州の武陵の四郡を分かち、武州を置く。其の刺史は沅州を督し、武陵太守を領し、武陵郡に治す。其の都尉の部する所の六県を沅州と為す。別に通寧郡を置き、刺史を以て太守を領せしめ、都尉城に治し、旧都尉を省く。安南将軍・南兗州刺史・新たに除する右衛将軍呉明徹を以て安西将軍・武州刺史と為し、偽郢州刺史孫瑒を安南将軍・湘州刺史と為す。丙子、衡陽王昌 薨 ず。丁丑、詔して曰く、「蕭莊の偽署する文武官属、朝に還る者は、量りて録序を加えよ」と。
夏四月丁亥、皇子伯信を立てて衡陽王と為し、献王の後を奉ぜしむ。乙未、安南将軍荀朗を以て安北将軍・合州刺史と為す。
五月乙卯、桂陽の汝城県を改めて盧陽郡と為す。衡州の始興・安遠の二郡を分かち、東衡州を置く。
六月辛巳、皇祖妣景安皇后の謚を改めて景文皇后と曰う。壬辰、詔して曰く、「梁孝元遭離多難し、霊櫬播越す。朕昔北面を経る、常倫に異なる有り。使を遣わして迎接し、以て近路を次ぐ。江寧既に旧塋なり、宜しく即ち安卜すべし。車旗礼章、悉く梁典を用い、魏の漢献帝を葬る故事に依れ」と。甲午、故始興昭烈王妃を追策して孝妃と曰う。丁酉、開府儀同三司徐度を以て侍中・中軍将軍と為す。辛丑、国哀周忌、上太極前殿に臨み、百僚陪哭す。京師殊死以下を赦す。是の月、梁元帝を江寧に葬る。
秋七月甲寅、詔して曰く、「朕は眇身を以て大宝に当たらんと属し、負荷至重く、憂責実に深し。而して庶績未だ康からず、胥怨猶結ぶ。賢良に佇み咨り、夢想より発す。一言入聴し、片善求む可き有る毎に、何ぞ嘗て褒獎抽揚せず、紳帯に緘書せざらんや。而るに傅巖虚しく往き、穹谷尚淹れ、蒲幣空しく陳し、旌弓至らず。豈に当に則哲に乖き有りて、草沢の遺才を使わしむるや。将に時運澆流し、今古に逮ばざるか。側食長く懐い、寝興増歎す。新安太守陸山才啓有り、梁前征西従事中郎蕭策、梁前尚書中兵郎王暹を薦む。並びに世冑清華、羽儀著族、或いは文史足用し、或いは孝徳称す可く、並びに宜しく之を朝序に登し、次を以てせずして擢くべし。王公以下、其れ各賢良を進挙し、淪屈を申薦せよ。庶幾くは衆才必ず萃り、大廈成る可く、棫樸載歌せしめ、由庚詠に在らしめん」と。乙卯、詔して曰く、「自ら頃喪乱し、編戸播遷す。余黎を言念すれば、良に哀惕す可し。其の亡郷失土、食を逐い流移する者は、今年内其の適楽に随い、来歳は僑旧を問わず、悉く籍に著せしめ、土断の例に同じくせよ」と。丙辰、皇子伯山を立てて鄱陽王と為す。
八月庚辰、老人星見ゆ。壬午、詔して曰く、「菽粟の貴きは、珠玉に重し。自ら頃寇戎し、游手者衆し。民は分地の業を失い、士は佩犢の譏有り。朕は黔庶を哀矜し、弊俗を康んぜんと念い、阻饑を思いて 俾 し、方に富教を存せんとす。麦の用と為るは、要切斯く甚だし。今九秋節に在り、万実収む可し。其れ遠近に班宣し、並びに播種せしめよ。守宰親臨して勧課し、務めて時を以てせしめよ。其れ尤も貧しき有るは、量りて種子を与えよ」と。癸未、世祖景陽殿に臨みて訟を聴く。戊子、詔して曰く、「汚樽土鼓、誠に則ち追い難し。画卵彫薪、或いは易革す可し。梁氏末運、奢麗已に甚だし。芻豢は胥史に厭き、哥鍾は管庫に列し、土木は朱丹の采を被り、車馬は金玉の珍を飾り、欲を逐い澆流し、遷訛遂に遠し。朕は諸生より、頗る内足す。而して家は朴素に敦く、室は浮華靡さず。時俗を観覧し、常に扼腕す。今妄りに時乗を仮り、区極に臨馭す。淪季に当たらんと属し、治道を聞かんとす。菲食卑宮、自ら儉陋に安んじ、此の薄俗をして、淳風に獲反せしめん。維れ彫鏤淫飾、兵器及び国容の須うる所に非ざるもの、金銀珠玉、衣服雑玩、悉く皆禁断せよ」と。甲午、周の将賀若敦、馬歩一万を率い、奄に武陵に至る。武州刺史呉明徹拒ぐ能わず、軍を引きて巴陵に還る。丁酉、上正陽堂に幸して武を閲す。
九月癸丑(の日)、彗星が現れた。乙卯(の日)、周の将軍独孤盛が水軍を率いて巴・湘へ向かおうとし、賀若敦と水陸ともに進軍したため、太尉侯瑱が尋陽より出撃してこれを防いだ。辛酉(の日)、儀同徐度に命じて軍勢を率いさせ、巴丘において侯瑱と合流させた。丙子(の日)、太白星が昼間に見えた。丁丑(の日)、詔を下して侯瑱の諸軍に巴・湘へ進軍討伐させた。
十月癸巳(の日)、侯瑱が楊葉洲において独孤盛を襲撃して破り、その船艦をことごとく鹵獲した。盛は兵を収めて岸に登り、城を築いて守りを固めた。丁酉(の日)、詔を下して 司空 侯安都に命じて軍勢を率いさせ、侯瑱と合流して南征させた。
十二月乙未(の日)、詔を下して曰く、「古より春夏の二気の候には、重罪を決断せず。陽気和らぎて恵みを施し、天の秩序はこれ広大なるを以て、法網を寛げ刑罰を慎み、仁義は養育に叶う。これ前代の王者が天象と地法に則り、法を立て訓戒を垂れた所以である。朕は澆季(末世)に当たり、民の疾苦を思い求め、哀れみ憐れむ心にて、憂いは納隍(城壕に落ちた者を救う思い)に甚だしく、常に旧軌を遵奉し、以て風化を長ぜんと欲す。今より孟春より夏首(夏の初め)に至るまで、大辟の罪人で事実が認められた者は、暫く執行を停止すべし」。己亥(の日)、周の巴陵城主尉遅憲が降伏した。巴州刺史侯安鼎を派遣してこれを守らせた。庚子(の日)、独孤盛が残兵を率いて楊葉洲より密かに遁走した。
天嘉二年
二年春正月庚戌(の日)、天下に大赦を行った。雲麾将軍・晋陵太守杜稜を侍中・領軍将軍とした。辛亥(の日)、始興王伯茂を宣恵将軍・揚州刺史とした。乙卯(の日)、合州刺史裴景徽が斉に奔った。辛未(の日)、周の湘州城主殷亮が降伏し、湘州が平定された。
二月丙戌(の日)、太尉侯瑱を車騎将軍・湘州刺史とした。庚寅(の日)、湘州諸郡を曲赦した。
三月乙卯(の日)、太尉・車騎将軍・湘州刺史侯瑱が薨じた。丁丑(の日)、鎮東将軍・会稽太守徐度を鎮南将軍・湘州刺史とした。
夏四月、荊州の南平・宜都・羅・河東の四郡を分けて南荊州を置き、河東郡に鎮守させた。安西将軍・武州刺史呉明徹を南荊州刺史とした。庚寅(の日)、安左将軍魯悉達を安南将軍・呉州刺史とした。辛卯(の日)、老人星が現れた。
秋七月丙午(の日)、周の将軍賀若敦が自ら撤退して帰還し、人馬の死者は十のうち七、八に及んだ。武陵・天門・南平・義陽・河東・宜都の諸郡がことごとく平定された。
九月甲寅(の日)、詔を下して曰く、「周の王業が開けんとする時、望みは渭水の畔に載せられ、漢の暦運が融和するや、道は圮上(橋の上)に通じた。もし精気を辰宿(星々)に発し、霊験が名山より降り、風雲に感応し、夢寐に求むるものあらば、これこそ舟楫と塩梅(調味料)の如く互いに表裏をなし、長く世を保ち国を建つるに、あるいは然らずということはない。銘を太常(旗)に刻み徳を記し、清廟に従祀して、以て後来に伝え、不朽に垂れる所以である。前帝(高祖武帝)は区宇を経営し、品物を裁成し、霊験を選び給い、光栄をもって宝命(帝位)を受けられた。英明が深く発し、幽顕(陰陽)が協従したが、また文武の賢能が王業を輔翼宣揚した。故大司馬・驃騎大将軍侯瑱、故 司空 周文育、故平北将軍・開府儀同三司侯安都、故中護軍 杜僧明 、故領軍将軍徐度は、或いは艱難を構え、夷険(平穏と危険)を経綸し、或いは鋒を摧き刃を冒し、義に殉じて生を遺し、或いは明哲にて規を協え、帷幄に綢繆し、或いは荊を披き汗馬の労をとり、終始勤勉であった。誠を尽くし力を悉くし、屯泰(困難と安泰)をこれに以てした。朕は寡昧をもって、大なる統緒を受け継ぎ、永くその勲烈を言い、典訓を弘めんと思い、故実に遵い盛軌を揚げしむべし。並びに高祖の廟庭に配食せしめ、この大なる謀猷を、永く宗廟に伝えしむ」。丙辰(の日)、侍中・中権将軍・特進・左光禄大夫・開府儀同三司王沖を丹陽尹とした。丹陽尹沈君理を左民尚書とし、歩兵 校尉 を領せしめた。
冬十月乙巳(の日)、霍州西山の蛮が部落を率いて内属した。
十一月乙卯(の日)、高麗国が使いを遣わして方物を献上した。甲子(の日)、武昌・国川を竟陵郡とし、流民を安んじた。
十二月辛巳(の日)、安東将軍・呉郡太守孫瑒を中護軍とした。甲申(の日)、始興国の宗廟を京師に立て、王者の礼を用いた。太子中庶子虞荔・御史中丞孔奐が国用不足を理由に、海塩の専売税及び酒の専売に関する条項を立てるよう上奏し、詔により共に施行された。これに先立ち、縉州刺史留異が王琳らに応じて反乱を起こした。丙戌(の日)、詔を下して 司空 侯安都に命じて軍勢を率いてこれを討伐させた。
天嘉三年
三年春正月庚戌(の日)、帷宮を南郊に設け、幣帛を捧げて胡公(舜の後裔)に告げ、天に配祀した。辛亥(の日)、輿駕みずから南郊を親祠した。詔を下して曰く、「朕は宝図(帝位)を負荷し、星琯(歳月)は幾度も巡った。兢兢業業として、治定せんことを庶幾すれども、徳化は信じられず、俗弊はますます甚だしい。永くこれを念い、日夜忘れず。陽気和らぎて気を布き、上玄(天)に昭かに事え、みずから犠牲と玉帛を奉り、誠を饗敬に兼ね、黎元(民)と共にこの寛恵を被らんと思う。普く民に爵一級を賜うべし。孝悌力田の者には、別に一等を加える」。辛酉(の日)、輿駕みずから北郊を親祠した。
閏二月己酉(の日)、百済王余明を撫東大将軍とし、高句麗王高湯を寧東将軍とした。江州刺史周迪が兵を挙げて留異に呼応し、湓城を襲い、 豫 章郡を攻めたが、いずれも陥落させなかった。辛亥(の日)、南荊州刺史呉明徹を安右将軍とした。甲子(の日)、五銖銭を改鋳した。
三月丙子(の日)、安成王 陳頊 が周より到着し、詔により侍中・ 中書監 ・中衛将軍を授けられ、佐史を置いた。丁丑(の日)、安右将軍呉明徹を安南将軍・江州刺史とし、諸軍を督して南討させた。甲申(の日)、天下に大赦を行った。庚寅(の日)、 司空 侯安都が桃支嶺で留異を破り、異は身一つで晋安に奔り、東陽郡が平定された。
夏四月癸卯(の日)、東陽郡を曲赦した。乙巳(の日)、斉が使者を遣わして来朝した。
六月丙辰(の日)、侍中・中衛将軍安成王陳頊を驃騎将軍・揚州刺史とした。会稽・東陽・臨海・永嘉・新安・新寧・晋安・建安の八郡を以て東揚州を置いた。揚州刺史始興王陳伯茂を鎮東将軍・東揚州刺史とし、征北将軍・ 司空 ・南徐州刺史侯安都を侍中・征北大将軍とした。
秋七月己丑(の日)、皇太子が妃王氏を納れた。在位の文武官に帛を賜い、それぞれ差等があった。孝悌力田で父の後を継ぐ者には爵二級を賜った。
九月戊辰の朔日、日食があった。侍中・都官尚書到仲挙を尚書右 僕射 ・丹陽尹とした。丁亥(の日)、周迪が降伏を請い、詔により安成王陳頊に諸軍を督してこれを招納させた。
この年、周が立てた梁王蕭詧が死に、子の蕭巋が代わって立った。
天嘉四年
四年春正月丙子(の日)、干陀利国が使者を遣わして方物を献じた。甲申(の日)、周迪が城を棄てて逃走し、閩州刺史陳宝応がこれを容れたため、臨川郡が平定された。壬辰(の日)、平西将軍・郢州刺史 章昭達 を護軍将軍とし、仁武将軍・新州刺史華皎の号を進めて平南将軍とし、鎮南将軍・開府儀同三司・高州刺史黄法𣰋を鎮北大将軍・南徐州刺史とし、安西将軍・臨川太守を領する周敷を南 豫 州刺史とし、中護軍孫瑒を鎮右将軍とした。高州を廃して江州に隷属させた。
二月戊戌(の日)、征南将軍・開府儀同三司・広州刺史欧陽頠の号を進めて征南大将軍とした。庚戌(の日)、侍中・ 司空 ・征北大将軍侯安都を征南大将軍・江州刺史とした。庚申(の日)、平南将軍華皎を南湘州刺史とした。
三月辛未(の日)、鎮南将軍・開府儀同三司徐度を侍中・中軍大将軍とした。辛巳(の日)、詔して周迪討伐の将士で王事に死した者を贈った。
夏四月辛丑(の日)、無遮大会を太極前殿に設けた。乙卯(の日)、侍中・ 中書監 ・中衛将軍・驃騎将軍・揚州刺史安成王陳頊を開府儀同三司とした。
五月丁卯(の日)、安前将軍・右光禄大夫徐世譜が卒した。
六月癸巳(の日)、太白星が昼間に現れた。 司空 侯安都に死を賜った。
七月丁丑(の日)、鎮北大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史黄法𣰋を鎮南大将軍・江州刺史とした。
九月壬戌、開府儀同三司・広州刺史の欧陽頠が 薨去 した。癸亥、京師を曲赦した。辛未、周迪が再び臨川を寇し、詔して護軍の章昭達に衆を率いてこれを討たしめた。
十一月辛酉、章昭達は周迪を大破し、その党与を悉く擒え、迪は身を脱して潜竄した。
十二月丙申、天下に大赦した。詔して護軍将軍の章昭達に建安に進軍し、陳宝応を討たしめた。信威将軍・益州刺史の余孝頃に会稽・東陽・臨海・永嘉の諸軍を督せしめ、東道よりこれに会せしめた。癸丑、前安南将軍・江州刺史の呉明徹を鎮前将軍とした。
天嘉五年
五年春正月庚辰、吏部尚書・右軍将軍を領する袁枢を丹陽尹とした。辛巳、輿駕みずから北郊を親祠した。乙酉、江州の湓城に火災があり、焼死者二百余人を出した。
三月丁丑、征南大将軍・開府儀同三司・桂州刺史の淳于量を中撫軍大将軍とした。壬午、詔して故護軍将軍の周鉄虎を高祖の廟庭に配食せしめた。
夏四月庚子、周が使いを遣わして来朝した。
五月庚午、南丹陽郡を廃止した。この月、周と斉がともに使いを遣わして来朝した。
六月丁未、夜、白気二道あり、北斗の東南より出でて地に属した。
秋七月丁丑、詔して曰く、「朕は寡昧を以て、重きを負うに属し、星籥(歳月)は亟に改まり、冕旒(帝位)は 曠 しからず、仰いで璿衡(天道)に協し、玉燭(四季の和)を用いて調え、傍ら蒼生を慰め、黔首を安んずる能わず。兵に寧歳無く、民に有年乏しく、移風の道未だ弘からず、習俗の患猶お在り、致して氓多く網に触れ、吏繁く筆削し、獄犴(牢獄)章を滋し、物の犯すに由るとは雖も、囹圄淹滞し、亦た或いは冤有り。念うに 俾 て隍(濠)に納れ、 載 ち扆(屏風)を負うを労し、加うるに膚湊(体調)適せず、摂衛(養生)虧け有り、 比 ごろ微痊(少し快癒)を得、思うに寛恵を 覃 ぼさんとす。京師を曲赦すべし」。
九月、西城を築城した。
冬十一月丁亥、左衛将軍の程霊洗を中護軍とした。己丑、章昭達が建安において陳宝応を破り、宝応と留異を擒えて京師に送り、晋安郡が平定された。甲辰、護軍将軍の章昭達を鎮前将軍・開府儀同三司とした。
十二月甲子、建安・晋安の二郡を曲赦した。陳宝応を討つ将士で王事に死した者は、ともに 棺槥 を与え、本郷に送還し、その家を復(免税)した。瘡痍未だ瘳えざる者は、その医薬を与えた。癸未、斉が使いを遣わして来朝した。
天嘉六年
六年春正月甲午、皇太子に元服を加え、王公以下に帛を賜うこと各差有り、孝悌力田にして父の後を継ぐ者には爵一級を賜い、鰥寡孤独にして自ら存し得ざる者には穀人五斛を賜った。庚戌、領軍将軍の杜稜を翊左将軍・丹陽尹とし、丹陽尹の袁枢を吏部尚書とし、衛尉卿の沈欽を中領軍とした。
三月乙未、詔して侯景以来乱に遭い建安・晋安・義安郡に移された者を、並びに本土に還ることを許し、その略取されて奴婢となった者は、釈放して良民とす、と。
夏四月甲寅、侍中・ 中書監 ・中衛将軍・驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史安成王陳頊を 司空 となす。辛酉、彗星見ゆ。周(北周)使いを遣わして来聘す。
秋七月癸未、大風西南より至り、広さ百余歩、霊台の候楼を激しく壊す。甲申、儀賢堂故なくして自ら壊る。丙戌、臨川太守駱文牙、周迪を斬り、首を京師に伝え、朱雀航に梟す。丁酉、太白昼に見ゆ。
八月丁丑、詔して曰く「梁室多故、禍乱相尋い、兵甲紛紜として、十年解けず、不逞の徒虐しくして生氣を流し、無頼の属暴にして徂魂に及ぶ。江左肇基、王者の攸に宅する所、金行水位の主、木運火徳の君、時に四代を更え、歳二百を逾ゆ。若し其の経綸王業、縉紳民望、忠臣孝子、何れの世か才無からん、而して零落して山丘に、変移して陵谷に、或いは皆剪伐せられ、侵残せられざる莫し。玉杯民間に得られ、漆簡世載に伝わるも、復た五株の樹無く、千年の表罕に見ゆ。大祚光啓してより、恭惟揖讓、爰に朕躬に及び、聿に祖武を脩む、雖復旂旗服色、猶ほ杞・宋の邦を行ふが如し、車駕巡遊する毎に、眇かに河・雒の路を瞻る、故に喬山の祀、蘋藻虧けず、驪山の墳、松柏恆に守る。唯だ戚藩の旧壟、士子の故塋、掩殣未だ周からず、樵牧猶ほ衆し。或いは親属流隸し、負土期無く、子孫冥滅し、手植何に寄せん。漢高無忌に留連し、宋祖子房に惆悵す、丘墓哀を生じ、性靈共に惻む者なり。朕の以て言を興し永日し、幽泉を慰めんと思う所以なり。維れ前代の王侯、古よりの忠烈、墳冢発掘せられ後絶えて無き者は、検行し脩治すべし、墓中の樹木は、樵採することを得ず、庶幾くは幽顕咸く暢き、朕が意に称せん」と。己卯、皇子伯固を立てて新安郡王と為し、伯恭を晋安王と為し、伯仁を廬陵王と為し、伯義を江夏王と為す。
九月癸未、 豫 章郡を罷む。是の月、新たに大航を作る。
冬十月辛亥、齊(北齊)使いを遣わして来聘す。
十二月乙卯、皇子伯礼を立てて武陵王と為す。丁巳、鎮前将軍・開府儀同三司章昭達を鎮南将軍・江州刺史と為し、鎮南大将軍・江州刺史黄法𣰋を中衛大将軍と為し、中護軍程霊洗を宣毅将軍・郢州刺史と為し、軍師将軍・郢州刺史 沈恪 を中護軍と為し、鎮東将軍・呉興太守呉明徹を中領軍と為す。戊午、東中郎将・呉郡太守鄱陽王伯山を平北将軍・南徐州刺史と為す。癸亥、詔して曰く「朕自ら民牧の重に居り、王公の上に託す、其の寡昧を顧み、治道に鬱す。加うるに屡たび聴覧を虧き、事多く壅積し、冤滞申べ靡く、幽枉鑑みず。茲の罪隸を念うに、納隍に甚だし。而して恵沢未だ流れず、愆陽累月す、今歳序云暮し、元正向かって肇まらんとす、幽圄の内をして、時に和を被らしめんと欲す、曲げて京師を赦すべし」と。
天康元年
天康元年春二月丙子、詔して曰く「朕寡徳を以て、洪緒を纂承し、日昃劬労し、景業を弘めんと思うも、政道多昧にして、黎庶未だ康からず、兼ねて疹患時に淹く、亢陽累月す、百姓何の咎か有らん、寔に朕が躬に由る、茲を念うに茲に在り、痛み疾首の如し。大いに天下を赦し、天嘉七年を改めて天康元年と為すべし」と。
三月己卯、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史・ 司空 安成王陳頊を 尚書令 と為す。
夏四月乙卯、皇孫至沢生まる、在位の文武絹帛を賜うこと各差有り、父の後を為す者爵一級を賜う。癸酉、世祖疾甚だし。是の日、有覚殿に崩ず。遺詔して曰く「朕疾苦弥留し、遂に不救に至る、脩短命有り、復た何をか言わん。但だ王業艱難、頻歳軍旅、生民多弊、愧惕を忘るる無かれ。今方隅乃ち定まり、俗教未だ弘まらず、便ち大漸に及び、以て遺恨と為す。社稷任重し、太子即ち君臨すべし、王侯将相、善く相輔翊し、内外協和し、朕が意に違うこと無かれ。山陵務むく儉速を存すべし。大斂竟りて、群臣三日に一臨す、公除の制、率い旧典に依れ」と。
六月甲子、群臣上謚して文皇帝と曰い、廟号を世祖とす。丙寅、永寧陵に葬る。
世祖は艱難より起こり、百姓の疾苦を知る。国家の資用は、務めて儉約に従う。常に調斂する所、事已むを得ざる者は、必ず咨嗟して色を改め、諸身に在るが若し。主者奏決するに、妙に真偽を識り、下姦を容れず、人自ら励むことを知れり。一夜の内に刺閨して外事を取り分判する者、前後相続く。毎に鶏人漏を伺い、更籤を殿中に伝うるに、乃ち送る者に勅して必ず籤を階石の上に投げ、鎗然として声有らしめ、「吾眠ると雖も、亦た驚覚せしむるなり」と云う。始終の梗概、此の若き者多し。
【論】
陳の吏部尚書姚察曰く、世は継体守文、宗枝統を承くると称し、得失の間、蓋し亦た詳かなり。大抵奉じて墜とさざるを以て賢能と為し、橈して易うるを以て不肖と為す。其れ前軌を光揚し、曾構を克荷する有るは、固より以て少なし。世祖は初め発跡より、功庸顕著にして、乱を寧げ寇を静め、首として大業を佐く。国禍奄に臻るに及び、入りて宝祚を承け、兢兢業業として、其れ朽を馭するが若し。加うるに儒術を崇尚し、文義を愛悦し、善を見ては及ばざるが如くし、人を用うるには己に由るが如くし、恭儉を以て身を御し、勤労を以て物を済し、昔より允文允武の君、東征西怨の后、賓実の跡、聯類と為すべし。杖聰明、鑒識を用うるに至りては、斯れ則ち永平の政、前史其れ諸れを論ず。