陳書

卷二 本紀第二 高祖下

卷二 本紀第二 高祖下

永定元年

原文永定元年

永定元年冬十月乙亥、高祖は皇帝の位に即くこと南郊にて、柴燎を焚き天に告げて曰く、「皇帝臣霸先はせん、敢えて玄牡を用い皇皇后帝に昭告す。梁氏は以て圮剝薦臻し、歴運極まり有り、欽んで天の応に若く、以て霸先に命ず。夫れ烝民を肇むるより、乃ち司牧を樹つ。賢を選び能に与するも、未だ嘗て其の姓を厥ださず。放勛・重華の世は、咸く受終に意無く、当塗・典午の君は、揖譲に心有りと雖も、皆英才を以て万乗に処り、高勲を以て四海を御するが故に、能く大いに黔首を庇い、区県に光宅す。梁の末運有りて、仍なお葉遘屯し、獯醜憑陵し、久しく神器を移す。承聖は外に在りて、夏を祀る能わず、天未だ禍を悔い改めず、復ふくた寇逆に罹る。嫡嗣廃黜せられ、宗枝僭詐す。天地蕩覆し、紀綱泯絶す。霸先爰に初め投袂し、大いに横流を拯い、重ねて義兵を挙げ、実に多難を戡んとす。王を廃し帝を立てるは、寔に厥の功有り、国を安んじ社を定むるは、用いて其の力を尽くす。是れ小康を謂い、方に大道を期す。既にして煙雲表色し、日月瑞を呈し、緯東井に聚まり、龍譙邦に見ゆ。旧を除き新を布しくは、既に玄象を彰し、虞に遷り夏に事うるは、且く謳訟に協えり。九域八荒、衷款を布くことを同じくし、百神群祀、皆誠願有り。梁帝は万邦に高謝し、大寶を授く。霸先自ら菲薄を惟ただい、徳を譲り嗣がず、再び三たびに至るも、辞して許さるるを得ず。僉に百姓は主を須い、万機曠うる難しと為し、皇霊眷命するは、謙拒す可からずとす。天の威を畏れ、用いて嘉祚を膺け、永く夙志を言えば、慚徳無からんや。敬って元辰を簡び、壇に升り禅を受け、上帝に類を告げ、用いて民心に答え、永く我が有陳に保たん。惟れ明霊は是れ饗え!」先づ是れ氛霧有りて、昼夜晦冥す、是の日に至りて、景気清晏たり、識者は天道有るを知れり。礼畢わり、輿駕宮に還り、太極前殿に臨む。詔して曰く、「五徳更運は、帝王の天を御する所以なり。三正相因は、夏・殷の世を宰る所以なり。色辞翰を分ち、時文質を異にし、揖譲征伐、用いること迄に参差すと雖も、徳を育み民を振るうは、義一揆に帰す。朕は寡昧を以て、時に艱危に属し、国歩屡屯し、天維三絶す。肆に勤めて先后し、厥の横流を拯い、将帥の功を藉り、兼ねて猛士の力をし、天下を一匡し、黔黎を再造す。梁氏は天祿永終し、歴数攸に在るを以て、能に与するの典に遵い、大命を朕躬に集む。顧みるに惟うに菲徳、辞して亮かならず、天睠に従い、俯いて民心に協い、文祖に終を受け、上帝に升禋し、跡を百王に継ぎ、万宇に君臨す。川水に渉るが若く、攸に済うるを知らず。寶業初めて建ち、皇祚惟新たり。思うに恵沢を俾し、億兆に覃被せしめん。大いに天下を赦す可し。梁の太平二年を改めて永定元年と為す。民に爵二級、文武二等を賜う。鰥寡孤独自ら存する能わざる者は人ごとに穀五斛こく。逋租宿債は、皆復た収むること勿れ。其の郷里の清議に犯し贓汚淫盗する者有らば、皆先注を洗除し、之と更始せしむ。長徒敕繫は、特みな之を原ゆるう。亡官失爵、禁錮奪労は、一に旧典に依れ。」又詔して曰く、「礼は杞・宋を陳べ、詩は二客を詠ず。臣とせざるの重さ、歴代斯に敦し。梁氏は人祇に欽若し、憲章昔に在り、河を済み璧を沈め、万邦に高謝す。茅賦の加わる所は、宜しく旧典に遵うべし。其れ江陰郡を以て梁主に奉じ江陰王と為し、梁の正朔を行い、車旗服色は一に前準に依り、宮館資待は務めて優隆を尽くすべし。」又詔して梁の皇太后を江陰国太妃と為し、皇后を江陰国妃と為す。又詔して百司に位に依り職を摂せしむ。

原文永定元年冬十月乙亥,高祖即皇帝位于南郊,柴燎告天曰:「皇帝臣霸先,敢用玄牡昭告于皇皇后帝:梁氏以圮剝荐臻,歷運有極,欽若天應,以命于霸先。夫肇有烝民,乃樹司牧,選賢與能,未常厥姓。放勛、重華之世,咸無意於受終,當塗、典午之君,雖有心於揖讓,皆以英才處萬乘,高勳御四海,故能大庇黔首,光宅區縣。有梁末運,仍葉遘屯,獯醜憑陵,久移神器,承聖在外,非能祀夏,天未悔禍,復罹寇逆,嫡嗣廢黜,宗枝僭詐,天地蕩覆,紀綱泯絕。霸先爰初投袂,大拯橫流,重舉義兵,實戡多難,廢王立帝,寔有厥功,安國定社,用盡其力。是謂小康,方期大道。既而煙雲表色,日月呈瑞,緯聚東井,龍見譙邦,除舊布新,既彰玄象,遷虞事夏,且協謳訟,九域八荒,同布衷款,百神群祀,皆有誠願。梁帝高謝萬邦,授以大寶,霸先自惟菲薄,讓德不嗣,至于再三,辭弗獲許。僉以百姓須主,萬機難曠,皇靈眷命,非可謙拒。畏天之威,用膺嘉祚,永言夙志,能無慚德。敬簡元辰,升壇受禪,告類上帝,用答民心,永保于我有陳。惟明靈是饗!」先是氛霧,晝夜晦冥,至于是日,景氣清晏,識者知有天道焉。禮畢,輿駕還宮,臨太極前殿。詔曰:「五德更運,帝王所以御天,三正相因,夏、殷所以宰世,雖色分辭翰,時異文質,揖讓征伐,迄用參差,而育德振民,義歸一揆。朕以寡昧,時屬艱危,國步屢屯,天維三絕,肆勤先后,拯厥橫流,藉將帥之功,兼猛士之力,一匡天下,再造黔黎。梁氏以天祿永終,歷數攸在,遵與能之典,集大命于朕躬。顧惟菲德,辭不獲亮,式從天睠,俯協民心,受終文祖,升禋上帝,繼跡百王,君臨萬宇,若涉川水,罔知攸濟。寶業初建,皇祚惟新,思俾惠澤,覃被億兆。可大赦天下,改梁太平二年為永定元年。賜民爵二級,文武二等。鰥寡孤獨不能自存者人穀五斛。逋租宿債,皆勿復收。其有犯鄉里清議贓汙淫盜者,皆洗除先注,與之更始。長徒敕繫,特皆原之。亡官失爵,禁錮奪勞,一依舊典。」又詔曰:「禮陳杞、宋,詩詠二客,弗臣之重,歷代斯敦。梁氏欽若人祇,憲章在昔,濟河沈璧,高謝萬邦,茅賦所加,宜遵舊典。其以江陰郡奉梁主為江陰王,行梁正朔,車旗服色,一依前準,宮館資待,務盡優隆。」又詔梁皇太后為江陰國太妃,皇后為江陰國妃。又詔百司依位攝職。

景子、輿駕鍾山に幸し蔣帝廟を祠る。戊寅、輿駕華林園に幸し、親しく詞訟を覧し、囚徒を赦すに臨む。己卯、大使を分遣し四方を宣労し、璽書を下し州郡を敕して曰く、「夫れ四王革代は、商・周の天に応ずる所以なり。五勝相推は、軒・羲の運に当たる所以なり。梁の徳造らず、喪乱積年し、東夏崩騰し、西都蕩覆す。蕭勃は紀を干し、唯だ趙倫に非ず、侯景は天に滔き、劉載に踰えり。貞陽は反かえ篡し、賊約兵を連ね、江左累ねて鮮卑に属し、金陵久しく梁国に非ず。氤氳混沌の世より、龍図鳳紀の前に、東漢興平の初め、西朝永嘉の乱、天下分崩すも、未だ梁朝の若き有らざるなり。朕は虚薄を以て、興運に当たるに属し、昔より登庸し、首に諸越を清め、徐門浪泊、征行せざる靡く、海を浮かび山に乗り、所在戡定す。風塵に愬い冒し、師旅を騁馳し、六たび梁祀を延べ、十たび彊寇を翦る。豈に人謀と曰わんや、皆天啓に由る。梁氏は天祿斯に改まり、期運永終するを以て、欽んで唐・虞に若く、其の鼎玉を推す。朕は東西退譲し、手を拝し辞を陳べ、舜の子を箕山の陽に避け、支伯を滄洲の野に求む。而るに公卿敦逼し、率土翹惶し、天命稽う難く、遂に嘉祚を享く。今月乙亥、太壇に礼を升し、遷桐を言念すれば、但だ慚徳有り。梁氏将末より、月を頻りに亢陽し、火運斯に終わり、秋霖奄かに降る。翌日礼を成し、円丘宿設し、埃雲晚に霽れ、星象夜に張る。朝景重輪し、三危の膏露に泫ち、晨光合璧し、五色の卿雲を帯ぶ。顧みるに惟うに寡薄、弥く休祉に慚じ、昧旦丕顕し、方に至治を思う。卿等は旄を擁し方岳に在り、相い任うるは股肱、符を剖き名守たり、方に恤隠を寄す。王歴惟新たり、念うに欣慶有らんことを、民瘼を深く求むるを想い、務めて廉平に在り、愛恵を以て孤貧を撫し、威刑を以て彊猾を御せよ。若し萑蒲の盗有り、或いは戎商を犯し、山谷の酋、擅に彊く幽険なれば、皆肆赦に従い、咸く知聞せしめよ。如し或いは迷途せば、無貸に在らしむ。今使人を遣わし往旨を具え宣ぶ。善政まさを念い思え、此の虚懐に副えよ。」

原文景子,輿駕幸鍾山祠蔣帝廟。戊寅,輿駕幸華林園,親覽詞訟,臨赦囚徒。己卯,分遣大使宣勞四方,下璽書敕州郡曰:「夫四王革代,商、周所以應天,五勝相推,軒、羲所以當運。梁德不造,喪亂積年,東夏崩騰,西都蕩覆。蕭勃干紀,非唯趙倫,侯景滔天,踰於劉載。貞陽反篡,賊約連兵,江左累屬於鮮卑,金陵久非於梁國。有自氤氳混沌之世,龍圖鳳紀之前,東漢興平之初,西朝永嘉之亂,天下分崩,未有若於梁朝者也。朕以虛薄,屬當興運,自昔登庸,首清諸越,徐門浪泊,靡不征行,浮海乘山,所在戡定。冒愬風塵,騁馳師旅,六延梁祀,十翦彊寇,豈曰人謀,皆由天啟。梁氏以天祿斯改,期運永終,欽若唐、虞,推其鼎玉,朕東西退讓,拜手陳辭,避舜子於箕山之陽,求支伯於滄洲之野,而公卿敦逼,率土翹惶,天命難稽,遂享嘉祚。今月乙亥,升禮太壇,言念遷(坰)〔桐〕,但有慚德。自梁氏將末,頻月亢陽,火運斯終,秋霖奄降。翌日成禮,圓丘宿設,埃雲晚霽,星象夜張。朝景重輪,泫三危之膏露,晨光合璧,帶五色之卿雲。顧惟寡薄,彌慚休祉,昧旦丕顯,方思至治。卿等擁旄方岳,相任股肱,剖符名守,方寄恤隱。王曆惟新,念有欣慶,想深求民瘼,務在廉平,愛惠以撫孤貧,威刑以御彊猾。若有萑蒲之盜,或犯戎商,山谷之酋,擅彊幽險,皆從肆赦,咸使知聞。如或迷途,俾在無貸。今遣使人具宣往旨,念思善政,副此虛懷。」

庚辰、詔して仏牙を杜姥宅より出だし、四部を集め無遮大会を設け、高祖親しく闕前に出で礼拝す。初め、斉の故僧統法献、烏纏国に於いて之を得、常に定林上寺に在り。梁の天監末、摂山慶雲寺の沙門慧興の保蔵する所と為り、慧興将に終らんとす、以て弟慧志に属す。承聖末、慧志密かに高祖に送る。是に至りて乃ち出づ。

原文庚辰,詔出佛牙於杜姥宅,集四部設無遮大會,高祖親出闕前禮拜。初,齊故僧統法獻於烏纏國得之,常在定林上寺,梁天監末,為攝山慶雲寺沙門慧興保藏,慧興將終,以屬弟慧志,承聖末,慧志密送于高祖,至是乃出。

辛巳、皇考を追尊して景皇帝と曰い、廟号を太祖とす。皇妣董太夫人を安皇后と曰う。前夫人銭氏を追謚して号を昭皇后と為し、世子克を孝懐太子と為す。夫人章氏を立て皇后と為す。癸未、景帝の陵を尊び瑞陵と曰い、昭皇后の陵を嘉陵と曰い、梁初の園陵の故事に依う。刪定郎を立て、律令を治定せしむ。戊子、景皇帝の神主を遷し太廟に祔す。辛卯、中権将軍・開府儀同三司・丹陽尹王沖を以て左光禄大夫と為す。癸巳、皇兄梁の故散騎常侍・平北将軍・兗州刺史長城県公道譚を追贈して驃騎大将軍・太尉と為し、始興郡王に封ず。弟梁の故侍中・驃騎将軍・南徐州刺史武康県侯休先を車騎大将軍・司徒と為し、南康郡王に封ず。

原文辛巳,追尊皇考曰景皇帝,廟號太祖;皇妣董太夫人曰安皇后。追謚前夫人錢氏號為昭皇后,世子克為孝懷太子。立夫人章氏為皇后。癸未,尊景帝陵曰瑞陵,昭皇后陵曰嘉陵,依梁初園陵故事。立刪定郎,治定律令。戊子,遷景皇帝神主祔于太廟。辛卯,以中權將軍、開府儀同三司、丹陽尹王沖為左光祿大夫。癸巳,追贈皇兄梁故散騎常侍、平北將軍、兗州刺史長城縣公道譚驃騎大將軍、太尉,封始興郡王;弟梁故侍中、驃騎將軍、南徐州刺史武康縣侯休先車騎大將軍、司徒,封南康郡王。

是の月、西討都督周文育・侯安都、郢州えいしゅうに於いて敗績し、王琳に囚わる。

原文是月,西討都督周文育、侯安都於郢州敗績,囚于王琳。

十一月丙申(の日)、詔して曰く、「東都の齊國は、義は親賢にあり、西漢の城陽は、事は功烈を兼ねる。散騎常侍・使持節・都督會稽等十郡諸軍事・宣毅將軍・會稽太守長城縣侯蒨は、学は清優を尚び、神宇は凝正にして、文は礼楽に参じ、武は妖氛を定め、心力謀猷、家を治め国を為し、旄を擁して守と作り、期月にして成る有り、関河の彼に譬え、功は蕭(何)・寇(恂)を踰え、萑蒲の盗は自ら耕農に反り、篁竹の豪は用て声朔を稟く。朕は虚寡を以て、興運に属すべく、彼の三尺を提げ、四門に賓す。王業艱難、この子に頼る。宜しく上爵を隆くし、是の元功に称すべし。臨川郡王に封ずべし、邑二千戸。兄の子梁の中書侍郎頊は始興王の封を襲ぎ、弟子梁の中書侍郎曇朗は南康王の封を襲ぐ。礼秩は正王と同じくすべし」。己亥(の日)、甘露が鍾山の松林に降り、巌谷に満つ。庚子(の日)、開善寺の沙門これを採りて献じ、勅して群臣に頒賜す。丙辰(の日)、鎮西將軍・南豫州刺史徐度を鎮右將軍・領軍將軍と為す。庚申(の日)、京師に大火有り。

原文十一月景申,詔曰:「東都齊國,義乃親賢,西漢城陽,事兼功烈。散騎常侍、使持節、都督會稽等十郡諸軍事、宣毅將軍、會稽太守長城縣侯蒨,學尚清優,神宇凝正,文參禮樂,武定妖氛,心力謀猷,為家治國,擁旄作守,期月有成,辟彼關河,功踰蕭、寇,萑蒲之盜,自反耕農,篁竹之豪,用稟聲朔。朕以虛寡,屬當興運,提彼三尺,賓于四門,王業艱難,賴乎此子,宜隆上爵,稱是元功。可封臨川郡王,邑二千戶。兄子梁中書侍郎頊襲封始興王,弟子梁中書侍郎曇朗襲封南康王,禮秩一同正王。」己亥,甘露降于鍾山松林,彌滿巖谷。庚子,開善寺沙門採之以獻,敕頒賜群臣。景辰,以鎮西將軍、南豫州刺史徐度為鎮右將軍、領軍將軍。庚申,京師大火。

十二月庚辰(の日)、皇后太廟を謁す。

原文十二月庚辰,皇后謁太廟。

永定二年

原文永定二年

二年春正月乙未(の日)、詔して曰く、「夫れ官を設け職を分つは、事に因りて軽重有り、羽儀車馬は、時に随いて隆替す。晉の五校は、笳を鳴らして途を啓き、漢の九卿は、伝呼並びに迾(列)す。虞の官夏の礼、豈に同科と曰わんや、殷の朴周の文、固より恒格無し。朕はこの宝歴を膺け、天工に代わり、官方に留意し、庶くは時に衷くことを允まことせんとす。梁の天監中、左右驍騎は朱衣直閤を領し、並びに儀従を給せられ、北徐州刺史昌義之が首めてこの職と為る。乱離歳久しく、朝典存せず、後生年少、旧則を聞くことを希まれにす。今左右驍騎を去るに、宜しく文武を通すべく、文官には則ち腹心を用い、武官には則ち功臣を用い、給する所の儀従は、太子の二衛率と同じくすべし。此の外の衆官は、尚書詳らかに条制を為すべし」。車騎將軍・開府儀同三司侯瑱は司空に進位し、中權將軍・開府儀同三司・新たに左光禄大夫を除かれた王沖は太子少傅と為る。左衛將軍徐世譜は護軍將軍と為り、南兗州刺史呉明徹は安南將軍に進号し、衡州刺史歐陽頠は鎮南將軍に進号す。辛丑(の日)、輿駕親しく南郊に祠る。詔して曰く、「朕は命を受けて君臨し、初めて星琯を移し、孟陬の嘉月、泰壇に礼を備え、景候は昭華、人祇は允に慶び、億兆を思いて令し、咸く惟新に与らしめんとす。且つ往代の祅氛、今に於いて猶梗さまたげ有り、軍機未だ息まず、徴賦咸く繁く、事已むを得ず、久しく下弊を知る。黔黎を言念し、寝食を忘れず。夫れ罪の軽重無く、已に発覚し未だ発覚せざるもの、今の昧爽以前に在るは、皆赦除すべし。西寇は王琳以下より、並びに返迷を許し、一も問う所無し。近く募る所の義軍は、本と西寇に擬す、並びに宜しく解遣し、家に留まり業に附くべし。晩訂の軍資未だ送らざる者は並びに停め、元年の軍糧逋余する者は其の半を原す。州郡県の軍戍は並びに輒みだりに使を民閒に遣わすことを得ず、務めて優養を存すべし。若し侵擾有らば、厳しく法制を為すべし」。乙巳(の日)、輿駕親しく北郊に祠る。甲辰(の日)、振遠將軍・梁州刺史張立表して称す、去る乙亥歳八月、丹徒・蘭陵二県界の遺山の側に、一旦濤水に因りて涌き生じ、沙漲し、周旋千余頃、並びに膏腴にして、墾植に堪えたりと。戊午(の日)、輿駕親しく明堂に祠る。

原文二年春正月乙未,詔曰:「夫設官分職,因事重輕,羽儀車馬,隨時隆替,晉之五校,鳴笳啟途,漢之九卿,傳呼並迾,虞官夏禮,豈曰同科,殷朴周文,固無恆格。朕膺茲寶歷,代是天工,留念官方,庶允時衷。梁天監中,左右驍騎領朱衣直閤,並給儀從,北徐州刺史(唱)〔昌〕義之(初)首為此職。亂離歲久,朝典不存,後生年少,希聞舊則。今去左右驍騎,宜通文武,文官則用腹心,武官則用功臣,所給儀從,同太子二衛率。此外眾官,尚書詳為條制。」車騎將軍、開府儀同三司侯瑱進位司空,中權將軍、開府儀同三司、新除左光祿大夫王沖為太子少傅。左衛將軍徐世譜為護軍將軍,南兗州刺史吳明徹進號安南將軍,衡州刺史歐陽頠進號鎮南將軍。辛丑,輿駕親祠南郊。詔曰:「朕受命君臨,初移星琯,孟陬嘉月,備禮泰壇,景候昭華,人祗允慶,思令億兆,咸與惟新。且往代祅氛,于今猶梗,軍機未息,徵賦咸繁,事不獲已,久知下弊,言念黔黎,無忘寢食。夫罪無輕重,已發覺未發覺,在今昧爽以前,皆赦除之。西寇自王琳以下,並許返迷,一無所問。近所募義軍,本擬西寇,並宜解遣,留家附業。晚訂軍資未送者並停,元年軍糧逋餘者原其半。州郡縣軍戍並不得輒遣使民閒,務存優養。若有侵擾,嚴為法制。」乙巳,輿駕親祠北郊。甲辰,振遠將軍、梁州刺史張立表稱去乙亥歲八月,丹徒、蘭陵二縣界遺山側,一旦因濤水涌生,沙漲,周旋千餘頃,並膏腴,堪墾植。戊午,輿駕親祠明堂。

二月壬申(の日)、南豫州刺史沈泰、齊に奔る。辛卯(の日)、詔して車騎將軍・司空侯瑱に水歩の衆軍を総督せしめ、以て齊寇を遏とどめしむ。

原文二月壬申,南豫州刺史沈泰奔于齊。辛卯,詔車騎將軍、司空侯瑱總督水步眾軍以遏齊寇。

三月甲午(の日)、詔して曰く、「罰は嗣に及ばず、是れ自古の通典、罪は疑わしきは惟軽くす、方策に布く。沈泰は反覆して行い無く、遐邇の知る所、昔に微功有り、仍朝寄に荷い、符を剖きて名郡に任じ、轂を推して累藩に至る。漢口にて班師し、還りて方岳に居り、良田四百を踰える有り、食客三千に止まらず、富貴顕栄、政に此の如くあるべし。鬼其の盈を害し、天其の魄を奪い、故無く猖狂し、自ら獯醜に投ず。復た人を知るは則ち哲なりと雖も、惟だ帝其れ難し、光武は龐萌に蔽わる有り、魏武は于禁を知らず、但だ朝廷に我人の負くる無からしむるのみ。其の部曲ぶきょくの妻児は各々復業を令し、所在及び軍人に若し恐脅侵掠する者有らば、皆劫を以て論ずべし。若し男女の口(人)人の蔵する所と為る者有らば、並びに詣臺して申訴するを許すべし。若し臨川王及び節将に随いて立効するを楽む者は、悉く皆聴許すべし」。乙卯(の日)、高祖後堂に幸して訟を聴き、還りて橋上にて山水を観、詩を賦して群臣に示す。是の月、王琳、梁の永嘉王蕭莊を郢州に立てる。

原文三月甲午,詔曰:「罰不及嗣,自古通典,罪疑惟輕,布在方策。沈泰反覆無行,遐邇所知,昔有微功,仍荷朝寄,剖符名郡,推轂累藩,漢口班師,還居方岳,良田有逾於四百,食客不止於三千,富貴顯榮,政當如此。鬼害其盈,天奪之魄,無故猖狂,自投獯醜。雖復知人則哲,惟帝其難,光武有蔽於龐萌,魏武不知於于禁,但令朝廷無我負人。其部曲妻兒各令復業,所在及軍人若有恐脅侵掠者,皆以劫論。若有男女口為人所藏,並許詣臺申訴。若樂隨臨川王及節將立效者,悉皆聽許。」乙卯,高祖幸後堂聽訟,還於橋上觀山水,賦詩示群臣。是月,王琳立梁永嘉王蕭莊于郢州。

夏四月甲子(の日)、輿駕親しく太廟に祠る。乙丑(の日)、江陰王薨ず。詔して太宰を遣わし弔祭せしめ、司空に監護して喪事をせしむ。凶礼の須いる所、随いて備辨す。梁の武林侯蕭諮の息(子)季卿を以て嗣と為し江陰王とす。丙寅(の日)、輿駕石頭に幸し、司空侯瑱を餞る。戊辰(の日)、重雲殿の東の鴟尾に紫煙天に属す。五月乙未(の日)、京師地震す。癸丑(の日)、齊の広陵南城主張顕和・長史張僧那各々其の部を率いて入附す。辛酉(の日)、輿駕大荘厳寺に幸して身を捨つ。壬戌(の日)、群臣表を奉りて還宮を請う。

原文夏四月甲子,輿駕親祠太廟。乙丑,江陰王薨,詔遣太宰弔祭,司空監護喪事,凶禮所須,隨由備辦。以梁武林侯蕭諮息季卿嗣為江陰王。景寅,輿駕幸石頭,餞司空侯瑱。戊辰,重雲殿東鴟尾有紫煙屬天。五月乙未,京師地震。癸丑,齊廣陵南城主張顯和、長史張僧那各率其所部入附。辛酉,輿駕幸大莊嚴寺捨身。壬戌,群臣表請還宮。

六月己巳(の日)、詔して司空侯瑱・領軍將軍徐度に舟師を率いて前軍と為さしめ、以て王琳を討たしむ。

原文六月己巳,詔司空侯瑱、領軍將軍徐度率舟師為前軍,以討王琳。

秋七月戊戌(の日)、輿駕石頭に幸し、親しく填(侯瑱)等を送る。己亥(の日)、江州刺史周迪、工塘に於いて王琳の将李孝欽・樊猛・余孝頃を擒とらう。甲辰(の日)、吏部尚書謝哲を遣わし王琳を諭す。甲寅(の日)、嘉禾一穂六岐五城に生ず。初め、侯景の平らぎし時、火太極殿を焚く。承聖中、議いて之を営まんと欲し、独り一柱を闕く。至るに是に樟木有り、大さ十八囲、長さ四丈五尺、流れ泊てて陶家の後渚に至る。監軍鄒子度以て聞く。詔して中書令沈衆に起た部尚書を兼ねさせ、少府卿蔡儔に将作大匠を兼ねさせ、太極殿を起てしむ。

原文秋七月戊戌,輿駕幸石頭,親送填等。己亥,江州刺史周迪擒王琳將李孝欽、樊猛、余孝頃于工塘。甲辰,遣吏部尚書謝哲諭王琳。甲寅,嘉禾一穗六岐生五城。初,侯景之平也,火焚太極殿,承聖中議欲營之,獨闕一柱,至是有樟木大十八圍,長四丈五尺,流泊陶家後渚,監軍鄒子度以聞。詔中書令沈眾兼起部尚書,少府卿蔡儔兼將作大匠,起太極殿。

八月丙寅(の日)、広梁郡を以て陳留郡と為す。辛未(の日)、詔して臨川王蒨に西討せしむ。舟師五万を以て京師より発し、輿駕冶城寺に幸して親しく之を送る。前開府儀同三司・南豫州刺史周文育、前鎮北將軍・南徐州刺史・新たに開府儀同三司を除かれた侯安都等、王琳の所より逃れ帰り、自ら廷尉に劾し、即日に引見し、並びに之を宥す。戊寅(の日)、詔して文育等の本官を復す。壬午(の日)、皇子立を追封して豫章王と為し、諡して献と曰う。権を長沙王と為し、諡して思と曰う。長女を永世公主と為し、諡して懿と曰う。謝哲命に反り、王琳、湘川に還り鎮するを請う。詔して衆軍を追いて其の伐を緩ます。癸未(の日)、西討の衆軍大雷より至る。丁亥(の日)、信威將軍・江州刺史周迪を開府儀同三司と為し、平南將軍に進号す。南徐州の領する南蘭陵郡を改め、復た東海郡と為す。

原文八月景寅,以廣梁郡為陳留郡。辛未,詔臨川王蒨西討,以舟師五萬發自京師,輿駕幸冶城寺親送焉。前開府儀同三司、南豫州刺史周文育,前鎮北將軍、南徐州刺史、新除開府儀同三司侯安都等於王琳所逃歸,自劾廷尉,即日引見,並宥之。戊寅,詔復文育等本官。壬午,追封皇子立為豫章王,諡曰獻;權為長沙王,諡曰思;長女為永世公主,諡曰懿。謝哲反命,王琳請還鎮湘川,詔追眾軍緩其伐。癸未,西討眾軍至自大雷。丁亥,以信威將軍、江州刺史周迪為開府儀同三司,進號平南將軍。改南徐州所領南蘭陵郡復為東海郡。

冬十月庚午(の日)、鎮南將軍・開府儀同三司周文育を遣わし衆軍を都督して豫章より出で、余孝勱を討たしむ。乙亥(の日)、輿駕荘厳寺に幸し、金光明経の題を発す。丁酉(の日)、仁威將軍・高州刺史黄法𣰋を開府儀同三司と為し、鎮南將軍に進号す。甲寅(の日)、太極殿成る。匠各々復を給す。

原文冬十月庚午,遣鎮南將軍、開府儀同三司周文育都督眾軍出豫章,討余孝勱。乙亥,輿駕幸莊嚴寺,發金光明經題。丁酉,以仁威將軍、高州刺史黃法𣰋為開府儀同三司,進號鎮南將軍。甲寅,太極殿成,匠各給復。

十二月庚申、侍中・安東将軍臨川王蒨が百官を率いて前殿に朝し、上に牛酒を奉った。甲子、輿駕は大荘厳寺に幸し、無遮大会を設け、乗輿法物を捨てた。群臣は法駕を備えて奉迎し、即日輿駕は宮に還る。景寅、高祖は太極殿東堂において群臣を宴し、金石の楽を設け、路寝の成りしを告げた。壬申、呉郡の塩官・海塩・前京の三県を割きて海寧郡を置き、揚州に属せしむ。安成の所部広興六洞を以て安楽郡を置く。景戌、寧遠将軍・北江州刺史熊曇朗を以て開府儀同三司と為し、平西将軍に進号す。丁亥、詔して曰く、「梁の時の旧仕、乱離に播越し、始めて朝廷に還りし者、多く未だ銓序せず。又た起兵已来、軍勳甚だ衆し。選曹は即ち文武の簿及び節将にして九流に応ずる者の条を上ぐべし、其の擬する所を量れ」と。ここにおいて材に随ひて擢用する者五十余人あり。

原文十二月庚申,侍中、安東將軍臨川王蒨率百僚朝前殿,拜上牛酒。甲子,輿駕幸大莊嚴寺,設無〓大會,捨乘輿法物。群臣備法駕奉迎,即日輿駕還宮。景寅,高祖於太極殿東堂宴群臣,設金石之樂,以路寢告成也。壬申,割吳郡鹽官、海鹽、前京三縣置海寧郡,屬揚州。以安成所部廣興六洞置安樂郡。景戌,以寧遠將軍、北江州刺史熊曇朗為開府儀同三司,進號平西將軍。丁亥,詔曰:「梁時舊仕,亂離播越,始還朝廷,多未銓序。又起兵已來,軍勳甚眾。選曹即條文武簿及節將應九流者,量其所擬。」於是隨材擢用者五十餘人。

永定三年

原文永定三年

三年春正月己丑、青龍東方に見ゆ。丁酉、鎮南将軍・広州刺史欧陽頠を以て本号のまま開府儀同三司と為す。是の夜大雪、旦に及び、太極殿前に龍跡の見ゆるあり。甲午、広州刺史欧陽頠表して称す、白龍州の江南岸に見え、長さ数十丈、大さ八九囲、州城西の道を歴て天井崗に入る。仙人羅浮山寺の小石楼に見え、長さ三丈許、通身潔白、衣服楚麗なりと。辛丑、詔して曰く、「南康・始興王の諸妹は、既に封爵有り、礼に依れば止だ藩主なり。此の二王は、恒情に殊なる有り、宜しく礼数を隆くすべし。諸主の儀秩及び尚主は、並びに皇女と同じくすべし」と。戊申、詔して臨川王蒨に揚・徐二州の辞訟を省せしむ。

原文三年春正月己丑,青龍見于東方。丁酉,以鎮南將軍、廣州刺史歐陽頠即本號開府儀同三司。是夜大雪,及旦,太極殿前有龍跡見。甲午,廣州刺史歐陽頠表稱白龍見于州江南岸,長數十丈,大可八九圍,歷州城西道入天井崗。仙人見于羅浮山寺小石樓,長三丈所,通身潔白,衣服楚麗。辛丑,詔曰:「南康、始興王諸妹,已有封爵,依禮止是藩主。此二王者,有殊恆情,宜隆禮數。諸主儀秩及尚主,可並同皇女。」戊申,詔臨川王蒨省揚、徐二州辭訟。

二月辛酉、平西将軍・桂州刺史淳于量を以て開府儀同三司と為し、鎮西大将軍に進号す。壬午、司空侯瑱衆軍を督して江より合州に入り、斉の舟艦を焚く。

原文二月辛酉,以平西將軍、桂州刺史淳于量為開府儀同三司,進號鎮西大將軍。壬午,司空侯瑱督眾軍自江入合州,焚齊舟艦。

三月景申、侯瑱合肥より至り、衆軍捷を献ず。

原文三月景申,侯瑱至自合肥,眾軍獻捷。

夏閏四月庚寅、詔して曰く、「廩を開き絶ゆるを賑ひ、民を育つるは大惠なり。方を巡り患ひを恤ふは、前王の令典なり。朕斯の季俗に当たり、此の楽推に膺り、君徳未だ孚かず、民瘼猶ほ甚だし。重ねて此の多壘、弥く納隍を疚む。良に四聡達せず、千里応ぜざるに由る。博施の仁、何ぞ或ひは爽かならん。残弊の軌、此の未だ康ならざるを致す。呉州・縉州は去歳蝗旱し、郢田は呪はるるも、鄭渠終に涸れ、室に盈積の望み靡き、家に填壑の嗟き有り。百姓足らず、兆民何に頼らん。近く已に中書舎人江徳藻を遣わし命を銜みて東陽に至らしめ、令長二千石と民の疾苦を問ひ、仍って台倉の見米を以て分ち恤ふ。徳既に飽くに非ざるも、庶幾くは阻飢を慰めん」と。甲午、詔して前代に依り西省学士を置き、伎術者を以て兼ねて之に預からしむ。丁酉、鎮北将軍徐度を遣わし衆を率いて南皖口に城せしむ。是の時久しく雨降らず、景午、輿駕鍾山に幸して蒋帝廟を祠り、是の日降雨し、月晦に至るまで及ぶ。

原文夏閏四月庚寅,詔曰:「開廩賑絕,育民之大惠,巡方恤患,前王之令典。朕當斯季俗,膺此樂推,君德未孚,民瘼猶甚,重茲多壘,彌疚納隍。良由四聰弗達,千里勿應。博施之仁,何其或爽?殘弊之軌,致此未康。吳州、縉州去歲蝗旱,郢田雖呪,鄭渠終涸,室靡盈積之望,家有填壑之嗟。百姓不足,兆民何賴?近已遣中書舍人江德藻銜命東陽,與令長二千石問民疾苦,仍以入臺倉見米分恤。雖德非既飽,庶微慰阻飢。」甲午,詔依前代置西省學士,兼以伎術者預焉。丁酉,遣鎮北將軍徐度率眾城南皖口。是時久不雨,景午,輿駕幸鍾山祠蔣帝廟,是日降雨,迄于月晦。

五月景辰朔、日食有り。有司奏す、旧儀に御前殿にては、朱紗袍・通天冠を服すと。詔して曰く、「此れ乃ち前代承用する所、意同じからず。合朔は太陽を仰ぎ助く、宜しく袞冕の服を備ふべし。今より已去、永く准と為すべし」と。景寅、扶南国使いを遣わし方物を献ず。乙酉、北江州刺史熊曇朗軍中に都督周文育を殺し、兵を挙げて反す。王琳其の将常衆愛・曹慶を遣わし兵を率いて余孝勱を援けしむ。

原文五月景辰朔,日有食之,有司奏:舊儀,御前殿,服朱紗袍、通天冠。詔曰:「此乃前代承用,意有未同。合朔仰助太陽,宜備袞冕之服。自今已去,永可為准。」景寅,扶南國遣使獻方物。乙酉,北江州刺史熊曇朗殺都督周文育于軍,舉兵反。王琳遣其將常眾愛、曹慶率兵援余孝勱。

六月戊子、儀同侯安都左里に於いて衆愛等を破り、琳の従弟襲・主帥羊暕等三十余人を獲る。衆愛遁走す。庚寅、廬山の民之を斬り、首を伝えて京師に至る。甲午、衆師凱旋す。詔して曰く、「曇朗逆を噬み、罪誅に容れず。命を分ちて衆軍をし、仍って掩討に事へしむ。方に梟磔を加へ、以て刑憲を明らかにせん」と。臨川王蒨を徴して往きて皖口に城柵を置かしめ、銭道戢をして守らしむ。丁酉、高祖豫せず。兼太宰・尚書左僕射王通を遣わし疾を以て太廟に告げしめ、兼太宰・中書令謝哲をして大社・南北郊に告げしむ。辛丑、高祖疾小瘳ゆ。故司空周文育の柩建昌より至る。壬寅、高祖素服して東堂に哭し、哀しみ甚だし。癸卯、高祖獄訟を臨み訊く。是の夜、熒惑天尊に在り。高祖疾又た甚だし。景午、璿璣殿に崩ず。時に年五十七。遺詔して臨川王蒨を追ひ入りて纂せしむ。甲寅、大行皇帝太極殿西階に遷殯す。

原文六月戊子,儀同侯安都敗眾愛等於左里,獲琳從弟襲、主帥羊暕等三十餘人,眾愛遁走,庚寅,廬山民斬之,傳首京師。甲午,眾師凱歸。詔曰:「曇朗噬逆,罪不容誅,分命眾軍,仍事掩討,方加梟磔,以明刑憲。」徵臨川王蒨往皖口置城柵,以錢道戢守焉。丁酉,高祖不豫,遣兼太宰、尚書左僕射王通以疾告太廟,兼太宰、中書令謝哲告大社、南北郊。辛丑,高祖疾小瘳。故司空周文育之柩至自建昌。壬寅,高祖素服哭于東堂,哀甚。癸卯,高祖臨訊獄(省)訟。是夜,熒惑在天尊。高祖疾又甚。景午,崩于璿璣殿,時年五十七。遺詔追臨川王蒨入纂。甲寅,大行皇帝遷殯于太極殿西階。

秋八月甲午、群臣上諡して武皇帝と曰ひ、廟号高祖とす。景申、万安陵に葬る。

原文秋八月甲午,群臣上諡曰武皇帝,廟號高祖。景申,葬萬安陵。

高祖は智を以て物を綏め、武を以て乱を寧げ、英謀独り運らし、人皆及ぶ莫く、故に能く征伐四克し、静難夷凶す。大麓に升るの日に至り、阿衡の任に居り、恒に寛政を崇め、愛育を本と為す。発調し軍儲を須ふる有れば、皆事の息むべからざるに出づ。加ふるに儉素自ら率ひ、常膳数品を過ぎず、私饗曲宴は皆瓦器蚌盤、肴核庶羞は裁ちて充足するを令するのみ、虚費を為さず。初め侯景を平げ、及び紹泰を立つるに、子女玉帛は皆将士に班つ。其の閨房に充つる者は、衣に重綵せず、飾に金翠無く、哥鍾女楽は前に列せず。践祚に及びては、弥く恭儉を厲ます。故に隆功茂徳、天下を光有す。

原文高祖智以綏物,武以寧亂,英謀獨運,人皆莫及,故能征伐四克,靜難夷凶。至升大麓之日,居阿衡之任,恆崇寬政,愛育為本。有須發調軍儲,皆出於事不可息。加以儉素自率,常膳不過數品,私饗曲宴,皆瓦器蚌盤,肴核庶羞,裁令充足而已,不為虛費。初平侯景,及立紹泰,子女玉帛,皆班將士。其充闈房者,衣不重綵,飾無金翠,哥鍾女樂,不列於前。及乎踐祚,彌厲恭儉。故隆功茂德,光有天下焉。

【論】

原文【論】

陳吏部尚書姚察曰く、高祖は英略大度、応変方無く、蓋し漢高・魏武の亜たり。西都盪覆するに及び、誠天人の貫く所。王僧辯は伊尹の才を闕き、空しく桐宮の憤を結び、貞陽は秦兵の送を仮り、穆嬴の泣を思はざりき。高祖乃ち玄機に蹈みて末運を撫し、勢隙に乗じて横流を拯ひ、王跡の基く所、此より始まる。何ぞ黎を戡ひ陑に升るの捷に至るのみならんや。故に慎徽時序の世、変声改物の辰に於いて、兆庶帰して以て謳歌し、炎靈去ること釋負の如し。前に代を方ふるに、何ぞ其れ美なること。

原文陳吏部尚書姚察曰:高祖英略大度,應變無方,蓋漢高、魏武之亞矣。及西都盪覆,誠貫天人。王僧辯闕伊尹之才,空結桐宮之憤,貞陽假秦兵之送,不思穆嬴之泣。高祖乃蹈玄機而撫末運,乘勢隙而拯橫流,王跡所基,始自於此,何至戡黎升陑之捷而已焉。故於慎徽時序之世,變聲改物之辰,兆庶歸以謳歌,炎靈去如釋負,方之前代,何其美乎!