宣聖廟
礼官が唐の『開元礼』を参酌し、釈奠の儀数を定め擬す:文宣王・兗国公・鄒国公の每位に籩豆各十・犧尊一・象尊一・簠簋各二・俎二・祝板各一、皆案を設く。七十二賢・二十一先儒の每位に各籩一・豆一・爵一、両廡に各象尊二を設く。総じて籩・豆各一百二十三、簠簋各六、俎六、犧尊三、象尊七、爵九十四を用う。その尊には皆坫有り。罍二、洗二、篚勺各二、冪六。正位並びに従祀の尊・罍・俎・豆の席を藉くに、約三十幅を用い、尊席には葦を用い、俎・豆の席には莞を用う。牲は羊・豕各三、酒二十瓶を用う。礼は三献を行い、祭酒・司業・博士を以て充つ。分献官二、読祝官一、太官令一、捧祝官二、罍洗官一、爵洗官一、巾篚官二、礼直官十一、学生は儒服を以て陪位す。楽は登歌を用い、大楽令一員(本署官充)、楽工三十九人。迎神は、三たび姑洗宮の『来寧之曲』を奏す。その辞に曰く、「上都隆化し、廟堂新たに作る。神の来格するや、威儀具陳す。穆穆として凝旒し、巍然として聖真たり。斯文の伊始、群方の視る所」。初献の盥洗は、姑洗宮の『静寧之曲』。その辞に曰く、「偉いかな素王、風猷至粹たり。二千年を垂れ、斯文墜ちず。涓辰維良、爰に祀事を修む。庭に沃盥し、厳禋の礼備わる」。升階は、南呂宮の『粛寧之曲』。その辞に曰く、「巍乎たる聖師、道全く徳隆し。五常を修明し、教えを垂れて窮まり無し。儒宮を増崇し、遹に遺風を追う。厳祀申して虔に、登降に容有り」。奠幣は、姑洗宮の『和寧之曲』。その辞に曰く、「天、聖人を生み、堯舜に賢れり。之を仰げば弥高く、磨けども而も磷せず。新廟成るを告げ、宮牆数仞たり。使いを遣わして祠を陳ぶ、斯文復た振う」。降階は、姑洗宮の『安寧之曲』。その辞に曰く、「霊を尼丘に稟け、芳を闕里に垂る。生民以来、孰か夫子の如き。新祠巋然たり、四方の視る所。觴を酹ぎて成るを告げ、祗に典礼を循う」。兗国公の酌献は、姑洗宮の『輯寧之曲』。その辞に曰く、「聖師の門、顔惟上に居る。其れ殆ど幾に庶く、是れ配饗に宜し。桓圭袞衣、厳しき儀象有り。之を神祠に載せ、吾が党に光を増す」。鄒国公の酌献は、姑洗宮の『泰寧之曲』。その辞に曰く,「周の衰え有り、王綱既に墜つ。是に真儒を生み、宏才世に命ぜらる。言いて経と為り、醇乎として仁義たり。力を以て聖功を扶け、同じく万祀を垂る」。亜・終献は、姑洗宮の『咸寧之曲』。その辞に曰く,「於昭たる聖能、天と立ちて極を立つ。其の流れを承くる有り、皇仁帝徳。豈に立言のみならんや、経を訓じて王国とす。我が文明を煥かにし、祀を典めて千億」。送神は、姑洗宮の『来寧之曲』。その辞に曰く,「吉蠲して饎と為し、孔恵孔時にして。正辞嘉言、神の格思う。是れ饗い是れ宜しく、神保聿ち帰す。惟時に祀を肇め、太平の極致」。
武成王廟
泰和六年、詔して昭烈武成王廟を闕庭の右、麗沢門内に建つ。その制は一に唐の旧に遵い、礼は三献、官は四品官以下を以てし、儀は中祀と同じく、二月上戊を用う。七年、完顔匡等言う、「我が朝創業の功臣、礼は宜しく配祀すべし」と。ここに於て、秦王宗翰を子房と同じく武成王に配し、而して管仲以下を降す。又、楚王宗雄・宗望・宗弼等を進めて武成王の坐に侍らしめ、韓信以下を降して廡に立たしむ。又、王猛・慕容恪等二十余人を黜け、而して金臣遼王斜也等を増す。その祭、武成王・宗翰・子房は各羊一・豕一、余は共用して羊八、豕無し。宣宗汴に遷り、余は会朝門内闕庭の右に廟を営み制の如くし、春秋上戊の祭は仍って旧の如し。
諸前代帝王
諸神雑祠・長白山
諸神雑祠・大房山
大定二十一年、勅して山陵の地大房山の神を保陵公に封じ、冕八旒・服七章・圭・冊・香・幣を用い、使副に節を持たせて行礼せしめ、全て長白山を冊封する儀礼の如くとする。その冊文は云う:「皇帝かく曰く、古の邦を建て都を設くるは、必ず名山大川を以て形勝と為す。我が国既に燕に鼎を定む、西を顧み郊圻に、巍然たり大房、秀撥混厚、雲雨の出づる所、万民の瞻る所、祖宗の陵寝是に於いて依る。惟れ岳鎮を仰ぐに古に秩序有り、皆祀典に載す。矧んや茲の大房、礼闕くべけんや?其の爵号服章をして侯伯の上に列せしめ、庶くは以て称うるに足らしむ。今某官某を遣わし、物を備え冊命して神を保陵公と為す。有司を申敕し、歳時奉祀せしむ。其の封域の内、樵採弋獵するを得ざるを禁ず。令と為すに著す。」是の後、山陵に使を遣わし行礼畢り、山陵官は一献の礼を以て致奠す。
諸神雑祠・混同江
大定二十五年、有司が言う:「昔、太祖が遼を征した時、策馬して径ちに渡り、江神が順を助け、霊応昭著であった。宜しく祠宇を修し、封爵を加賜すべし。」乃ち神を興国応聖公に封じ、長白山の儀礼の如く致祭し、冊礼は保陵公の故事の如くとする。その冊文は云う:「昔我が太祖武元皇帝、天の明命を受け、遼季の荒茀を掃い、師を成して以て出で、大江に至る。浩浩たる洪流、舟せずして済る。穆満の江を渡りて黿粱に面し、光武の河を済みて水氷るも、今より之を観れば言うに足らざるなり!執徐の歳、四月孟夏、朕時を邁りて旧邦に臨み、江に臨みて永歎し、芸祖の基を開くを仰ぎ、江神の霊に効るを佳とし、上都に至り止まり、議す所以に尊崇の典を。蓋し古者は五嶽は三公を視、四瀆は諸侯を視る。唐に至り以来、遂に帝王の尊称を享く。直ちに後世の弥文のみならず、徳を崇げ功に報いる理も亦当然なる者有り。矧んや茲の江源は長白に出で、帝郷を経営し、実に興運に相う。上公の号を錫へずんば、則ち以て神休に昭答する無からん。今某官某を遣わし、節を持ち物を備え冊命して神を興国応聖公と為す。有司を申命し、歳時奉祀せしむ。於戲!廟貌を厳にし、封爵を正す、礼亦至れり!惟れ神其れ霊長の徳を衍べ、用て我が国家を輔け億万年ならしめ、神亦廟食を享くこと窮まり無からん、豈休ならずや!」
諸神雑祠・嘉廕侯
大定二十五年、勅して上京の護国林神を護国嘉廕侯に封じ、毳冕七旒、服五章、圭は信圭と同じとし、使を遣わして廟に詣らせ、三献の礼を以て祭告す。その祝文は曰く:「蔚たり彼の長林、実に邑を壮にす、広袤百里、惟れ神之を主る。廟貌厳然たり、侯封是を享く、時に蠲潔を歆み、厥の滋栄を相う。」是の後、月の七日毎に、上京の幕官一名が行香し、令と為すに著す。
諸神雑祠・瀘溝河神
大定十九年、有司が言う:「瀘溝河の水勢が泛決し民田を齧む。官をして神号を封冊せしむることを乞う。」礼官は祀典に載せざるを以て、難しとする。已にして、特に安平侯に封じ、廟を建つ。二十七年、旨を奉じ、毎歳本県の長官に委ねて春秋に致祭せしむ、令の如し。
諸神雑祠・昭応順済聖後
大定十七年、都水監が言う:「陽武上埽の黄河神聖後廟は、宜しく唐の仲春に五龍祠を祭る故事に依るべし。」二十七年春正月、尚書省が言う:「鄭州河陰県の聖後廟は、前代河水患を為し屡祷りて応有り、嘗て封号廟額を加えらる。今祷祈に因り、河遂に安流す。褒贈を加うることを乞う。」上其の請に従い、特に号を加えて昭応順済聖後と曰う。廟を霊徳善利の廟と曰う。毎歳本県の長官に委ねて春秋に致祭せしむ、令の如し。
諸神雑祠・鎮安公
旧名は旺国崖といい、太祖が遼を討伐した際にここに駐蹕したことがある。大定八年五月、静寧山と改名し、後に廟を建立した。明昌六年八月、冕服と玉冊をもって、山神を鎮安公に冊封した。冊文は次のとおりである。「皇帝が申す。古の名山は、みな祀典に列せられる。軒皇の世には、神霊として奉ぜられるものが七千あった。虞氏の時には、望秩の礼が五年ごとに行われた。およそ国に益あるものは、必ずその功に報いるのである。後王に至っては、徽冊をもってこれを申し、岳鎮の外に至るまで、封爵を加えることもあった。ゆえに太白には神応の称があり、終南には広恵の号がある。礼は義より起こり、事は時に偕う。載籍に伝わるものは、今に至ってもなお鑑とすべきである。朕は有夏を修和し、みな秩序あるも文なし。この静寧を顧みれば、秀峙して朔野にあり、崖沢は気を布き、幽かに坤元を賛し、風を導き雲を出して、乾造に符を協す。一方の表にして、万物の瞻るところ、南は都畿に直し、北は障徼を維ぐ。連延として広厚にして、宝蔵ここに興り、盤固として高明にして、謻宮ここに奠まる。昔、遼は恃んで以て国を富ませ、大定に至って更にこれに錫名す。洪惟世宗、功は列聖に昭らかに、亦越顕考、徳は生民に利あり。爰に歳時に即ち、駕言して臨幸し、兵革試みず、遠人輯寧す。雨暘常に調い、品匯蕃廡す。これ上帝無疆の貺、亦た英霊有相の符なり。比に輿情に即ち、載せて故事を修む。先皇帝の駐蹕の地を顧み、累世承平の風を揖す。遺休を迓ぎ続け、式に神祐を甄り、肆に象徳を以て号を畀え、仍ち台を班して儀を闡く。宇像一新し、采章具挙す。今、使某・副某を遣わし、節を持ち物を備え、神を冊命して鎮安公と為し、仍ち歳時の奉祀を敕す。嗚呼!容典焜燿し、精明感通す。惟れ永億年、我が昌運を翊く。神その職を受くれば、豈に偉ならずや。」
諸神雑祠・瑞聖公
即ち麻達葛山なり、章宗はここに生まれた。世宗はこの山の勢いが広がり気が清らかなのを愛で、故に章宗にこれを名付けさせた。後に胡土白山と改名し、廟を建立した。明昌四年八月、冕服と玉冊をもって、山神を瑞聖公に封じた。廟を建立し、撫州の有司に命じ、春秋の二仲に、日を選んで祭祀を行うことを常例とした。その冊文は次のとおりである。「皇帝が申す。国家の興りは、命暦の属する所なり。天地の元化、惟れ時に符を合す。山川百神、職を受けざるはなし。粹精薦瑞し、明聖継生す。殊禎に丕応を著し、幽賛に昌期を啓く。信猶の典を裒対し、望秩の文を咸修す。嘉すらくは乃ち名山、この勝地に奠まり、下は乾分に綿き、上は枢輝に直す。析木の津を盤え、中原の気に達す。氛昆を廓除し、泰和を函毓す。仰ぎ惟るに光烈昭垂し、徽音在るが如し。即ち高明にして清暑し、克く静寿にして仁を安んず。周廬安寧し、厚沢浹洽す。朕は祖武を祗循し、時に順い巡りを講じ、美号に感じて懐を興し、聖謨を佩して福を介す。言念う誕弥の初度、言う由るは翊衛の霊を効するに由る。然れども猶祀秩章なく、神居屋せず。功を報い徳を崇むるの義を尽くし、始を追い原を楽むの心に副う所以に非ず。爰に名称を飾り、載せて祠宇を新たにす。貞琰に忱辞を勒し、元亀に良日を涓ぎ、服采を彰して威を弁じ、庪県を潔くして祭を致す。茂実を闡揚し、多儀を敷繹す。今、使某・副某を遣わし、節を持ち物を備え、神を冊命して瑞聖公と為し、仍ち有司に歳時の奉祀を敕す。嗚呼!尚その聰明にして、この誠意を歆め。孚休惟れ永く、亦た寧からざる莫からん。」
諸神雑祠・貞献郡王廟
明昌五年正月、陳言者が謂う。「葉魯・穀神の二賢は女直文字を創制した。各々に名爵を封贈し、祠廟を建立することを乞う。女直・漢人の諸生に、孔子を拝した後にこれらを拝ませよ。」と。有司が謂う。「葉魯は祭祀を致し難く、若し金源郡貞献王穀神は既に太廟に配享している。亦た特に廟を立てるは難し。」と。旨有り、再議を令す。礼官が言う。「前代に創制文字の者が孔子廟に入る故事は無し。廟の後か左右に祠を置き、諸儒に就いて拝せしむるも、亦た害無し。」と。尚書省が謂う。「若し此くの如くせば、国家の功臣を厚くするの意に副わざるを恐る。」と。遂に詔して、蒼頡が盩厔に廟を立てた例に依り、官が上京納裏渾荘に廟を立て、本路の官一員に本千戸と春秋の祭祀を致すことを委ね、用いる諸物は宜しく之を給すべしと令す。
祈禜
大定四年五月、雨降らず。礼部尚書王競に命じて北嶽に雨を祈らしめ、定州の長貳官を以て亜献・終献を充てしむ。又、都門北郊に日を卜し、嶽鎮海瀆を望祀し、有司に行事せしめ、礼は酒脯醢を用う。後七日雨降らず、太社・太稷を祈る。又七日宗廟を祈り、雨降らず、仍ち嶽鎮海瀆に従うこと初めの祈りの如し。その神座を設け、樽罍を実くは、常儀の如し。その樽罍は瓢斉を用い、甘瓠を選び柢を去りて以て尊と為す。祝版は惟れ五嶽・宗廟・社稷は御署し、余は則ち否。後十日雨降らず、乃ち市を徒し、屠殺を禁じ、傘扇を断ち、土龍を造りて以て祈る。雨足れば則ち報祀し、龍を水中に送る。十七年夏六月、京畿久雨す。祈雨の儀に遵い、諸寺観に命じて道場を啓き祈祷せしむ。
拜天
金は遼の旧俗に因り、重五・中元・重九の日に拜天の礼を行う。重五は鞠場にて、中元は内殿にて、重九は都城の外にて。その制、木を刳りて盤と為し、舟の状の如く、赤を質とし、雲鶴の文を画く。架を為し高さ五六尺、その上に盤を置き、食物をその中に薦め、宗族を聚めてこれを拝す。若し至尊に至っては則ち常武殿に台を築きて拜天の所と為す。重五日の質明、陳設畢り、百官は班を球場楽亭の南に俟つ。皇帝は靴袍を着て輦に乗り、宣徽使が前導し、球場南門より入り、拜天臺に至り、輦を降りて褥位に至る。皇太子以下百官は皆褥位に詣る。宣徽が「拝せよ」と唱える。皇帝は再拝す。香を上け、又再拝す。排食拋盞畢り、又再拝す。福酒を飲み、跪いて飲み畢り、又再拝す。百官は陪拝し、皇太子以下を引きて先に出ず、皆前の導引の如し。皇帝は輦を回して幄次に至り、衣を更え、射柳・撃球の戯を行ふ。亦た遼の俗なり、金は因りて之を尚ぶ。凡そ重五日の拜天礼畢り、柳を插し、球場を両行と為し、射るに当たる者は尊卑の序に従い、各々帕を以てその枝を識し、地より約数寸去り、その皮を削ぎて之を白くす。先ず一人馳馬して前導し、後に馳馬して無羽の横鏃箭を以て之を射る。既に柳を断ち、又手を以て接ぎて馳せ去る者を上と為す。断ちて接ぎ去ること能わざる者は、これに次ぐ。或いはその青き処を断ち、及び中つれども断ち得ず、と能く中てざる者は、負と為す。毎に射るに、必ず鼓を伐ちて以てその気を助く。已にして球を撃つ。各々常に習う所の馬に乗り、鞠杖を持つ。杖は長さ数尺、その端は偃月の如し。その衆を分かちて両隊と為し、共に一つの球を争い撃つ。先ず球場の南に双桓を立て、板を置き、下に一孔を開きて門と為し、而して網を加えて囊と為す。能く鞠を奪い撃ちて網囊に入るる者を勝と為す。或いは曰く、「両端に対立して二門とし、互いに排撃し、各々門を出づるを以て勝と為す。」と。球は状小にして拳の如く、軽韌の木を以てその中を枵きて之を硃くす。皆以て蹺捷を習う所以なり。既に畢りて宴を賜う。歳を以て常と為す。
本国拜儀