金史

志第十六:礼八(宣聖廟・武成王廟・諸前代帝王・諸神雑祠(長白山・大房山・混同江・嘉廕侯・瀘溝河神・昭応順済聖後・鎮安公・瑞聖公・貞献郡王廟)・祈禜・拜天・本国拜儀)

宣聖廟

皇統元年二月戊子、熙宗が文宣王廟に詣でて奠祭を行い、北面して再拝し、儒臣を顧みて言うには、「善を為すには勉めざるべからず。孔子は位無きといえども、その道を以て尊ぶべく、万世をしてかくの如く高く仰がしむ」と。大定十四年、国子監が言うには、「歳ごとの春秋仲月上丁の日、文宣王に釈奠を行い、本監官房の銭六十貫を用い、ただ茶食等の物を造り、大小の楪に排設し、留守司の楽を用い、楽工を礼生と為し、倉場等の官を率いて陪位す。古礼に未だ合わず。伏して国家の承平日久く、典章文物は燦然として備具すべく、以て万世を光らす。況んや京師は首善の地として、四方の観仰する所なり。釈奠の器物・行礼の次序を擬し、下して詳定を行わんことを合す。兼ねて兗国公は聖教を親しく承けたる者、鄒国公は聖教を功を以て扶けたる者なり。宣聖像の左右に列すべし。今、孟子は燕服を以て後堂に在り、宣聖像の側に尚お一位を虚す。礼は宜しく孟子の像を宣聖の右に遷し、顔子と相対せしめ、冠冕を改塑し、法服を粧飾し、一に旧制に遵うべし」と。

礼官が唐の『開元礼』を参酌し、釈奠の儀数を定め擬す:文宣王・兗国公・鄒国公の每位に籩豆各十・犧尊一・象尊一・簠簋各二・俎二・祝板各一、皆案を設く。七十二賢・二十一先儒の每位に各籩一・豆一・爵一、両廡に各象尊二を設く。総じて籩・豆各一百二十三、簠簋各六、俎六、犧尊三、象尊七、爵九十四を用う。その尊には皆坫有り。罍二、洗二、篚勺各二、冪六。正位並びに従祀の尊・罍・俎・豆の席を藉くに、約三十幅を用い、尊席には葦を用い、俎・豆の席には莞を用う。牲は羊・豕各三、酒二十瓶を用う。礼は三献を行い、祭酒・司業・博士を以て充つ。分献官二、読祝官一、太官令一、捧祝官二、罍洗官一、爵洗官一、巾篚官二、礼直官十一、学生は儒服を以て陪位す。楽は登歌を用い、大楽令一員(本署官充)、楽工三十九人。迎神は、三たび姑洗宮の『来寧之曲』を奏す。その辞に曰く、「上都隆化し、廟堂新たに作る。神の来格するや、威儀具陳す。穆穆として凝旒し、巍然として聖真たり。斯文の伊始、群方の視る所」。初献の盥洗は、姑洗宮の『静寧之曲』。その辞に曰く、「偉いかな素王、風猷至粹たり。二千年を垂れ、斯文墜ちず。涓辰維良、爰に祀事を修む。庭に沃盥し、厳禋の礼備わる」。升階は、南呂宮の『粛寧之曲』。その辞に曰く、「巍乎たる聖師、道全く徳隆し。五常を修明し、教えを垂れて窮まり無し。儒宮を増崇し、遹に遺風を追う。厳祀申して虔に、登降に容有り」。奠幣は、姑洗宮の『和寧之曲』。その辞に曰く、「天、聖人を生み、堯舜に賢れり。之を仰げば弥高く、磨けども而も磷せず。新廟成るを告げ、宮牆数仞たり。使いを遣わして祠を陳ぶ、斯文復た振う」。降階は、姑洗宮の『安寧之曲』。その辞に曰く、「霊を尼丘に稟け、芳を闕里に垂る。生民以来、孰か夫子の如き。新祠巋然たり、四方の視る所。觴を酹ぎて成るを告げ、祗に典礼を循う」。兗国公の酌献は、姑洗宮の『輯寧之曲』。その辞に曰く、「聖師の門、顔惟上に居る。其れ殆ど幾に庶く、是れ配饗に宜し。桓圭袞衣、厳しき儀象有り。之を神祠に載せ、吾が党に光を増す」。鄒国公の酌献は、姑洗宮の『泰寧之曲』。その辞に曰く,「周の衰え有り、王綱既に墜つ。是に真儒を生み、宏才世に命ぜらる。言いて経と為り、醇乎として仁義たり。力を以て聖功を扶け、同じく万祀を垂る」。亜・終献は、姑洗宮の『咸寧之曲』。その辞に曰く,「於昭たる聖能、天と立ちて極を立つ。其の流れを承くる有り、皇仁帝徳。豈に立言のみならんや、経を訓じて王国とす。我が文明を煥かにし、祀を典めて千億」。送神は、姑洗宮の『来寧之曲』。その辞に曰く,「吉蠲して饎と為し、孔恵孔時にして。正辞嘉言、神の格思う。是れ饗い是れ宜しく、神保聿ち帰す。惟時に祀を肇め、太平の極致」。

承安二年、春丁、章宗親しく祀り、親王を以て亜・終献を摂せしめ、皇族陪祀し、文武群臣助奠す。上親しく賛文を為し、旧封公なる者は国公に昇め、侯なる者は国侯と為し、郕伯以下は皆侯に封ず。宣宗汴に遷り、廟を会朝門内に建て、歳祀は儀の如く、宣聖・顔・孟は各羊一・豕一、余は小祀と同じく、共用して羊八、豕無し。その諸州の釈奠は並びに唐儀に遵う。

武成王廟

泰和六年、詔して昭烈武成王廟を闕庭の右、麗沢門内に建つ。その制は一に唐の旧に遵い、礼は三献、官は四品官以下を以てし、儀は中祀と同じく、二月上戊を用う。七年、完顔匡等言う、「我が朝創業の功臣、礼は宜しく配祀すべし」と。ここに於て、秦王宗翰を子房と同じく武成王に配し、而して管仲以下を降す。又、楚王宗雄・宗望・宗弼等を進めて武成王の坐に侍らしめ、韓信かんしん以下を降して廡に立たしむ。又、王猛・慕容恪等二十余人を黜け、而して金臣遼王斜也等を増す。その祭、武成王・宗翰・子房は各羊一・豕一、余は共用して羊八、豕無し。宣宗汴に遷り、余は会朝門内闕庭の右に廟を営み制の如くし、春秋上戊の祭は仍って旧の如し。

諸前代帝王

三年に一度祭祀を行い、仲春の月に陳州において伏犧を、亳州において神農を、坊州において軒轅を、兗州において少昊を、開州において顓頊を、帰徳府において高辛を、平陽府において陶唐を、河中府において虞舜・夏禹・成湯を、京兆府において周の文王・武王を祭る。泰和三年、尚書省が奏上した:「太常寺の言うところでは、『開元礼』では帝嚳・堯・舜・禹・湯・文・武・漢の高祖こうその祝版に御署を請うとある。『開宝礼』では犧・軒・顓頊・帝嚳・陶唐・女媧・成湯・文・武に御署を請い、漢高祖以下の二十七帝には署しないとある。」平章政事の鎰・左丞の匡・太常博士の温蒂罕天興は言う:「方嶽の神はそれぞれ主宰する所があり、国家の頼るところであるから、御署を請うのは確かに適切である。しかし前古の帝王に至っては、遠く茫漠としており、中祀に列するのも既に厚遇であって、御署は必要ない。」参知政事の即康及び鉉は、三皇・五帝・禹・湯・文・武はいずれも世を垂れ教えを立てた君主であり、唐・宋でも祭祀には皆御署しており、今祝版を下して署しないのは、礼が尽くされていない恐れがあると考えた。外路で社稷及び釈奠文宣王を祭る例に止め、祝版を下さず、学士院に祝文を定撰させ、各処に頒布して常制とするのが良い。」勅命により、期日に従って祝版を下すが、署は請わないこととした。

諸神雑祠・長白山

大定十二年、有司が言う:「長白山は興王の地にあり、礼として尊崇すべきであり、爵位を封じ、廟宇を建てることを議すべきである。」十二月、礼部・太常・学士院が奏上し、勅旨を奉じて興国霊応王に封じ、即ちその山の北の地に廟宇を建てる。十五年三月、封冊の儀物を定めることを奏上し、冠は九旒、服は九章、玉圭・玉冊・函・香・幣・冊・祝を用いる。使・副各一名を遣わし、会寧府に赴かせる。行礼官は散斎二日、致斎一日とする。所司は廟中に儀式に従って陳設する。廟門外に玉冊・袞冕の幄次を設け、牙杖・旗鼓・従物等は一品の儀に準ずる。礼は三献を用い、嶽鎮を祭るのと同様とする。その冊文は云う:「皇帝かく曰く、両儀が分かれて以来、山嶽の神秀は各々その分野に鐘する。国将に興らんとする者は、天実に之を作す。神の休に対越するには、必ず祀事を以てす。故に王跡を肇く基に、岐陽の如き有り。山川に秩を望むは、虞の『典』に稽えよ。厥れ惟れ長白、我が金の徳を載せ、其の高きを仰ぎ止む、実に惟れ我が旧邦の鎮なり。混同流れ光り、源の従い出づる所。秩秩として幽幽たり、相うの道有り。列聖蕃衍し熾昌し、太祖に迄り、神武征応し、天下に敵無し、爰に神主を作す。肆に予沖人、聖緒を紹ぎ休み、四海の内、名山大川、靡くとして咸ず秩せざるは無し。矧んや王業の因る所、彼の旱麓を瞻れば、其の礼を儉かにすべけんや?服章爵号公侯の上に位せずんば、以て称うるに足らず。今某官某を遣わし、節を持ち物を備え、茲の山の神を冊命して興国霊応王と為し、仍て有司を敕し歳時奉祀せしむ。於戲!廟食の享、億万年に亙らん。維れ金の禎、山と極まり無からしめん、豈偉ならずや?」これより、毎年香を降し、有司に命じて春秋二仲に日を択びて致祭せしむ。明昌四年十月、袞冕・玉冊・儀物を備え、上は大安殿に御し、黄麾立仗八百人、行仗五百人を用い、更に冊して開天弘聖帝と為す。

諸神雑祠・大房山

大定二十一年、勅して山陵の地大房山の神を保陵公に封じ、冕八旒・服七章・圭・冊・香・幣を用い、使副に節を持たせて行礼せしめ、全て長白山を冊封する儀礼の如くとする。その冊文は云う:「皇帝かく曰く、古の邦を建て都を設くるは、必ず名山大川を以て形勝と為す。我が国既に燕に鼎を定む、西を顧み郊圻に、巍然たり大房、秀撥混厚、雲雨の出づる所、万民の瞻る所、祖宗の陵寝是に於いて依る。惟れ岳鎮を仰ぐに古に秩序有り、皆祀典に載す。矧んや茲の大房、礼闕くべけんや?其の爵号服章をして侯伯の上に列せしめ、庶くは以て称うるに足らしむ。今某官某を遣わし、物を備え冊命して神を保陵公と為す。有司を申敕し、歳時奉祀せしむ。其の封域の内、樵採弋獵するを得ざるを禁ず。令と為すに著す。」是の後、山陵に使を遣わし行礼畢り、山陵官は一献の礼を以て致奠す。

諸神雑祠・混同江

大定二十五年、有司が言う:「昔、太祖が遼を征した時、策馬して径ちに渡り、江神が順を助け、霊応昭著であった。宜しく祠宇を修し、封爵を加賜すべし。」乃ち神を興国応聖公に封じ、長白山の儀礼の如く致祭し、冊礼は保陵公の故事の如くとする。その冊文は云う:「昔我が太祖武元皇帝、天の明命を受け、遼季の荒茀を掃い、師を成して以て出で、大江に至る。浩浩たる洪流、舟せずして済る。穆満の江を渡りて黿粱に面し、光武の河を済みて水氷るも、今より之を観れば言うに足らざるなり!執徐の歳、四月孟夏、朕時を邁りて旧邦に臨み、江に臨みて永歎し、芸祖の基を開くを仰ぎ、江神の霊に効るを佳とし、上都に至り止まり、議す所以に尊崇の典を。蓋し古者は五嶽は三公を視、四瀆は諸侯を視る。唐に至り以来、遂に帝王の尊称を享く。直ちに後世の弥文のみならず、徳を崇げ功に報いる理も亦当然なる者有り。矧んや茲の江源は長白に出で、帝郷を経営し、実に興運に相う。上公の号を錫へずんば、則ち以て神休に昭答する無からん。今某官某を遣わし、節を持ち物を備え冊命して神を興国応聖公と為す。有司を申命し、歳時奉祀せしむ。於戲!廟貌を厳にし、封爵を正す、礼亦至れり!惟れ神其れ霊長の徳を衍べ、用て我が国家を輔け億万年ならしめ、神亦廟食を享くこと窮まり無からん、豈休ならずや!」

諸神雑祠・嘉廕侯

大定二十五年、勅して上京の護国林神を護国嘉廕侯に封じ、毳冕七旒、服五章、圭は信圭と同じとし、使を遣わして廟に詣らせ、三献の礼を以て祭告す。その祝文は曰く:「蔚たり彼の長林、実に邑を壮にす、広袤百里、惟れ神之を主る。廟貌厳然たり、侯封是を享く、時に蠲潔を歆み、厥の滋栄を相う。」是の後、月の七日毎に、上京の幕官一名が行香し、令と為すに著す。

諸神雑祠・瀘溝河神

大定十九年、有司が言う:「瀘溝河の水勢が泛決し民田を齧む。官をして神号を封冊せしむることを乞う。」礼官は祀典に載せざるを以て、難しとする。已にして、特に安平侯に封じ、廟を建つ。二十七年、旨を奉じ、毎歳本県の長官に委ねて春秋に致祭せしむ、令の如し。

諸神雑祠・昭応順済聖後

大定十七年、都水監が言う:「陽武上埽の黄河神聖後廟は、宜しく唐の仲春に五龍祠を祭る故事に依るべし。」二十七年春正月、尚書省が言う:「鄭州河陰県の聖後廟は、前代河水患を為し屡祷りて応有り、嘗て封号廟額を加えらる。今祷祈に因り、河遂に安流す。褒贈を加うることを乞う。」上其の請に従い、特に号を加えて昭応順済聖後と曰う。廟を霊徳善利の廟と曰う。毎歳本県の長官に委ねて春秋に致祭せしむ、令の如し。

諸神雑祠・鎮安公

旧名は旺国崖といい、太祖が遼を討伐した際にここに駐蹕したことがある。大定八年五月、静寧山と改名し、後に廟を建立した。明昌六年八月、冕服と玉冊をもって、山神を鎮安公に冊封した。冊文は次のとおりである。「皇帝が申す。古の名山は、みな祀典に列せられる。軒皇の世には、神霊として奉ぜられるものが七千あった。虞氏の時には、望秩の礼が五年ごとに行われた。およそ国に益あるものは、必ずその功に報いるのである。後王に至っては、徽冊をもってこれを申し、岳鎮の外に至るまで、封爵を加えることもあった。ゆえに太白には神応の称があり、終南には広恵の号がある。礼は義より起こり、事は時に偕う。載籍に伝わるものは、今に至ってもなお鑑とすべきである。朕は有夏を修和し、みな秩序あるも文なし。この静寧を顧みれば、秀峙して朔野にあり、崖沢は気を布き、幽かに坤元を賛し、風を導き雲を出して、乾造に符を協す。一方の表にして、万物の瞻るところ、南は都畿に直し、北は障徼を維ぐ。連延として広厚にして、宝蔵ここに興り、盤固として高明にして、謻宮ここに奠まる。昔、遼は恃んで以て国を富ませ、大定に至って更にこれに錫名す。洪惟世宗、功は列聖に昭らかに、亦越顕考、徳は生民に利あり。爰に歳時に即ち、駕言して臨幸し、兵革試みず、遠人輯寧す。雨暘常に調い、品匯蕃廡す。これ上帝無疆の貺、亦た英霊有相の符なり。比に輿情に即ち、載せて故事を修む。先皇帝の駐蹕の地を顧み、累世承平の風を揖す。遺休を迓ぎ続け、式に神祐を甄り、肆に象徳を以て号を畀え、仍ち台を班して儀を闡く。宇像一新し、采章具挙す。今、使某・副某を遣わし、節を持ち物を備え、神を冊命して鎮安公と為し、仍ち歳時の奉祀を敕す。嗚呼!容典焜燿し、精明感通す。惟れ永億年、我が昌運を翊く。神その職を受くれば、豈に偉ならずや。」

諸神雑祠・瑞聖公

即ち麻達葛山なり、章宗はここに生まれた。世宗はこの山の勢いが広がり気が清らかなのを愛で、故に章宗にこれを名付けさせた。後に胡土白山と改名し、廟を建立した。明昌四年八月、冕服と玉冊をもって、山神を瑞聖公に封じた。廟を建立し、撫州の有司に命じ、春秋の二仲に、日を選んで祭祀を行うことを常例とした。その冊文は次のとおりである。「皇帝が申す。国家の興りは、命暦の属する所なり。天地の元化、惟れ時に符を合す。山川百神、職を受けざるはなし。粹精薦瑞し、明聖継生す。殊禎に丕応を著し、幽賛に昌期を啓く。信猶の典を裒対し、望秩の文を咸修す。嘉すらくは乃ち名山、この勝地に奠まり、下は乾分に綿き、上は枢輝に直す。析木の津を盤え、中原の気に達す。氛昆を廓除し、泰和を函毓す。仰ぎ惟るに光烈昭垂し、徽音在るが如し。即ち高明にして清暑し、克く静寿にして仁を安んず。周廬安寧し、厚沢浹洽す。朕は祖武を祗循し、時に順い巡りを講じ、美号に感じて懐を興し、聖謨を佩して福を介す。言念う誕弥の初度、言う由るは翊衛の霊を効するに由る。然れども猶祀秩章なく、神居屋せず。功を報い徳を崇むるの義を尽くし、始を追い原を楽むの心に副う所以に非ず。爰に名称を飾り、載せて祠宇を新たにす。貞琰に忱辞を勒し、元亀に良日を涓ぎ、服采を彰して威を弁じ、庪県を潔くして祭を致す。茂実を闡揚し、多儀を敷繹す。今、使某・副某を遣わし、節を持ち物を備え、神を冊命して瑞聖公と為し、仍ち有司に歳時の奉祀を敕す。嗚呼!尚その聰明にして、この誠意を歆め。孚休惟れ永く、亦た寧からざる莫からん。」

諸神雑祠・貞献郡王廟

明昌五年正月、陳言者が謂う。「葉魯・穀神の二賢は女直文字を創制した。各々に名爵を封贈し、祠廟を建立することを乞う。女直・漢人の諸生に、孔子を拝した後にこれらを拝ませよ。」と。有司が謂う。「葉魯は祭祀を致し難く、若し金源郡貞献王穀神は既に太廟に配享している。亦た特に廟を立てるは難し。」と。旨有り、再議を令す。礼官が言う。「前代に創制文字の者が孔子廟に入る故事は無し。廟の後か左右に祠を置き、諸儒に就いて拝せしむるも、亦た害無し。」と。尚書省が謂う。「若し此くの如くせば、国家の功臣を厚くするの意に副わざるを恐る。」と。遂に詔して、蒼頡が盩厔に廟を立てた例に依り、官が上京納裏渾荘に廟を立て、本路の官一員に本千戸と春秋の祭祀を致すことを委ね、用いる諸物は宜しく之を給すべしと令す。

祈禜

大定四年五月、雨降らず。礼部尚書王競に命じて北嶽に雨を祈らしめ、定州の長貳官を以て亜献・終献を充てしむ。又、都門北郊に日を卜し、嶽鎮海瀆を望祀し、有司に行事せしめ、礼は酒脯醢を用う。後七日雨降らず、太社・太稷を祈る。又七日宗廟を祈り、雨降らず、仍ち嶽鎮海瀆に従うこと初めの祈りの如し。その神座を設け、樽罍を実くは、常儀の如し。その樽罍は瓢斉を用い、甘瓠を選び柢を去りて以て尊と為す。祝版は惟れ五嶽・宗廟・社稷は御署し、余は則ち否。後十日雨降らず、乃ち市を徒し、屠殺を禁じ、傘扇を断ち、土龍を造りて以て祈る。雨足れば則ち報祀し、龍を水中に送る。十七年夏六月、京畿久雨す。祈雨の儀に遵い、諸寺観に命じて道場を啓き祈祷せしむ。

拜天

金は遼の旧俗に因り、重五・中元・重九の日に拜天の礼を行う。重五は鞠場にて、中元は内殿にて、重九は都城の外にて。その制、木を刳りて盤と為し、舟の状の如く、赤を質とし、雲鶴の文を画く。架を為し高さ五六尺、その上に盤を置き、食物をその中に薦め、宗族を聚めてこれを拝す。若し至尊に至っては則ち常武殿に台を築きて拜天の所と為す。重五日の質明、陳設畢り、百官は班を球場楽亭の南に俟つ。皇帝は靴袍を着て輦に乗り、宣徽使が前導し、球場南門より入り、拜天臺に至り、輦を降りて褥位に至る。皇太子以下百官は皆褥位に詣る。宣徽が「拝せよ」と唱える。皇帝は再拝す。香を上け、又再拝す。排食拋盞畢り、又再拝す。福酒を飲み、跪いて飲み畢り、又再拝す。百官は陪拝し、皇太子以下を引きて先に出ず、皆前の導引の如し。皇帝は輦を回して幄次に至り、衣を更え、射柳・撃球の戯を行ふ。亦た遼の俗なり、金は因りて之を尚ぶ。凡そ重五日の拜天礼畢り、柳を插し、球場を両行と為し、射るに当たる者は尊卑の序に従い、各々帕を以てその枝を識し、地より約数寸去り、その皮を削ぎて之を白くす。先ず一人馳馬して前導し、後に馳馬して無羽の横鏃箭を以て之を射る。既に柳を断ち、又手を以て接ぎて馳せ去る者を上と為す。断ちて接ぎ去ること能わざる者は、これに次ぐ。或いはその青き処を断ち、及び中つれども断ち得ず、と能く中てざる者は、負と為す。毎に射るに、必ず鼓を伐ちて以てその気を助く。已にして球を撃つ。各々常に習う所の馬に乗り、鞠杖を持つ。杖は長さ数尺、その端は偃月の如し。その衆を分かちて両隊と為し、共に一つの球を争い撃つ。先ず球場の南に双桓を立て、板を置き、下に一孔を開きて門と為し、而して網を加えて囊と為す。能く鞠を奪い撃ちて網囊に入るる者を勝と為す。或いは曰く、「両端に対立して二門とし、互いに排撃し、各々門を出づるを以て勝と為す。」と。球は状小にして拳の如く、軽韌の木を以てその中を枵きて之を硃くす。皆以て蹺捷を習う所以なり。既に畢りて宴を賜う。歳を以て常と為す。

本国拜儀

金朝の拝礼の作法は、まず袖に手を隠してやや身をかがめ、少し後ろに退き、左膝を跪き、左右の肘を揺らし、舞踏の様な形をとる。凡そ跪く際、袖を揺らし、下は膝を払い、上は左右の肩に至るまで、これを四度行う。このように四度跪き、さらに手で右膝を押さえ、左膝のみを跪いて礼を成す。国語(女真語)で手を揺らして拝することを「撒速」という。承安五年五月、上(章宗)は関係官庁に諭旨を下して言った、「女直と漢人の拝礼の回数を互いに従うことができるように、適中を酌んで議定せよ」と。礼官が上奏して言った、「『周官』に九拝があり、第一は稽首、拝礼の中で最も重いもので、臣下が君主を拝する礼である。乞う、今後より、凡そ公服の時は漢拝を用い、もし便服の時は各自本来の習俗の拝礼を用いることとせられたい」と。主事の陳松が言った、「本朝の拝礼は、その来歴久しく、これは便服の時の拝礼である。公服の時は朝拝(漢拝)を用い、便服の時は本朝の拝礼に従うことを命ずることができる」と。平章政事の張萬公は拝礼は各自習熟したものを用いるのが便利であり、改める必要はないと言い、司空しくうの完顏襄は言った、「今、諸人の衣襟や髪型は皆本朝の制度に従っているのだから、本朝の拝礼に従うべきであり、陳松の言うことは正しい」と。上はそこで、公服の時は朝拝(漢拝)とし、諸色の人は便服の時は皆本朝の拝礼を用いることを命じた。