金史

志第八: 河渠 黄河 漕渠

黄河

金が初めて宋を平定したとき、両河の地はすべて劉に与えられた。劉豫が滅びると、黄河はことごとく金の境内に入った。数十年の間、あるときは決壊し、あるときは塞がれ、流路は定まらなかった。金人は官を設け属僚を置き、その事を主管させた。黄河沿いの上下に合わせて二十五の埽があり、六つは河南に、十九は河北にあり、各埽には散巡河官一員を置いた。雄武、滎沢、原武、陽武、延津の五埽は汴河の事をも兼ね、河陰に黄汴都巡河官一員を置いてこれを管轄させた。懐州、孟津、孟州及び城北の四埽は沁水の事をも兼ね、懐州に黄沁都巡河官一員を置いてこれを臨んだ。崇福上下、衛南、淇上の四埽は衛南都巡河官に属し、新郷に駐在した。武城、白馬、書城、教城の四埽は浚滑都巡河官に属し、教城に駐在した。曹甸都巡河官は東明、西佳、孟華、淩城の四埽を総轄した。曹済都巡河官は定陶、済北、寒山、金山の四埽を司った。よって都巡河官は合わせて六員であった。後にまた特に崇福上下埽都巡河官を設け、石橋使を兼ねさせた。すべての巡河官は、皆都水監が廉潔を基準に推挙し、埽兵一万二千人を統率し、毎年薪百十一万三千余束、草百八十三万七百余束を用い、杭や杙の木材はこれに含まれず、これが河川防備の恒常的な制度であった。

大定八年六月、黄河が李固渡で決壊し、水は曹州城を破壊し、単州の境で分流した。九年正月、朝廷は都水監梁粛を派遣して視察させた。河南統軍使の宗室宗敘が言うには、「大河が決壊・氾濫するのは、河道に土砂が堆積し、水を受け容れられないためである。今、曹州、単州はその被害を受けたが、両州はもともと水利を生業としており、害される農田はわずかである。今、河を旧河道に戻そうとすれば、大規模な工役の費用がかかるだけでなく、結局成功し難い。たとえ塞ぐことができたとしても、他日、長雨や洪水があれば、また決壊するであろう。そうなれば山東の河川被害は曹州・単州の比ではない。また、黄河沿いの数州の地で、急に大規模な工役を起こせば、人心が動揺し、宋人が隙に乗じて辺境の禍を仕掛けることを恐れる」と。そして梁粛もまた言うには、「新河の水が六分、旧河の水が四分であり、今もし新河を塞げば、二つの水が再び一つに合流する。増水・氾濫に遇えば、南に決壊すれば南京に害を及ぼし、北に決壊すれば山東、河北が皆その被害を受ける。李固の南に堤防を築き、決壊・氾濫を防ぐ方が便利である」と。尚書省がこれを上奏すると、皇帝はこれに従った。十年三月、宗敘を参知政事に任命し、皇帝は彼に諭して言った、「卿は先般河南統軍であった時、黄河の堤防・埽の利害について述べたが、朕の意に甚だ合っていた。朕は常に思うに、百姓が何か賦役を課されるとき、役人が互いに奸計を巡らし、もし早く計画せずに期限が迫って徴収すれば、民は十倍の費用を増すことになる。しかし、その徴収した物資は、あるいは何年も放置され、腐朽して再び用いることができなくなり、我が民の数十万の財産を、すべて廃物にしてしまう。この害は小さくない。卿はすでに朝政に参与したから、この類のことはすべてその弊を革め、利益のあることを選んで実行せよ」と。十一年、黄河が王村で決壊し、南京、孟州、衛州の境界は多くその被害を受けた。十二年正月、尚書省が奏上した、「検視官の言うには、水は東南に向かって流れ、その勢いは甚だ大きい。河陰の広武山から黄河に沿って東へ、原武、陽武、東明等の県、孟州、衛州等の州まで堤防を増築することができる。一日の役夫は一万一千人、工期は六十日で完了する」と。詔を下して太府少監張九思、同知南京留守事の紇石烈邈(小字は阿補孫)を派遣し、工事を監督させた。十三年三月、尚書省の要請により孟津、滎沢、崇福の埽堤を修築して水害に備えることとし、皇帝は雄武以下の八埽にも同様に対処するよう命じた。十七年秋七月、大雨が降り、黄河が白溝で決壊した。十二月、尚書省が奏上した、「河川堤防を修築するのに、一日の役夫一万一千五百人、六十日で完工する」と。詔を下して十八年二月一日に六百里以内の軍夫を動員し、併せて職官の人力の半分を徴発し、残りは民夫を徴発することを許し、尚書工部郎中張大節、同知南京留守事高蘇に工事を監督させた。先に、祥符県陳橋鎮の東から陳留潘崗までの、黄河堤道四十余里を県官がその事を兼務していたが、南京の役所が言上し、専任の埽官を設けることを請うた。十九年九月、京埽巡河官一員を設けた。二十年、黄河が衛州及び廷津京東埽で決壊し、水は帰徳府まで広がった。検視官の南京副留守石抹輝者が言うには、「河水は今年の秋の長雨による急激な増水のため、遂に旧河道を失い、勢いはますます南に向かっている」と。宰臣がこれを上奏した。そこで衛州埽の下から帰徳府の南北両岸に接続して堤防を増築し、激流の勢いを防ぐこととし、工事総量は百七十九万六千余、一日の役夫二万四千余、工期七十日で完工と見積もった。そこで帰徳府に巡河官一員を新設し、埽兵二百人を置き、かつ詔を下して頻繁に役夫を徴発した地域には今年の税賦を免除した。二十一年十月、黄河が旧河道に移ったため、堤防を築いて備えるよう命じた。

二十六年八月、黄河が衛州の堤防を決壊させ、その城を破壊した。皇帝は戸部侍郎王寂、都水少監王汝嘉を駅伝で急行させ、防備の措置を計画させた。しかし王寂は被災した民を救済せず、専ら群衆を集めて網で魚を獲り官物を取ることを事とし、民は甚だ怨み憎んだ。皇帝はこれを聞いて嫌悪した。まもなく、黄河の勢いは氾濫して大名に及んだ。皇帝はそこで戸部尚書劉瑋を派遣して工部の事を行わせ、状況に応じて計画させ、王寂を蔡州防禦使に左遷した。冬十月、皇帝は宰臣に言った、「朕の聞くところでは、亡宋では河防に一歩ごとに一人を配置したという。河防軍の数を増設することができるであろう」と。ある日、また言った、「近頃聞くところでは、河水が氾濫し、その害を受けた民は、資産がすべて空になったという。今また官を被災した路分に派遣して推排(資産調査)させるのは、どういうことか」と。右丞張汝霖が言うには、「今推排を行う者は皆、被災した場所ではない」と。皇帝は言った、「そうであっても、それは必ずその隣接する道であろう。既に水辺に隣接して住んでいれば、驚き動揺して避難した者はいないであろうか。その資産を計算しても、余りがあるはずがあろうか。まだ何のために推排するのか」と。十一月、また宰臣に言った、「河が衛州で決壊する前に、すでに言上した者がいた。決壊した後、役所は何故朕に知らせなかったのか」と。その理由を尋ねるよう命じた。

二十七年春正月、尚書省が言上した、「鄭州河陰県の聖後廟は、前代に河水が禍いとなったとき、たびたび祈禱すると応験があり、かつて封号と廟額を加えられた。今、祈禱したところ、河は遂に安らかに流れるようになった。褒賞を加えることを請う」と。皇帝はその請いに従い、特に昭応順済聖後という号を加え、廟を霊徳善利之廟と名付けた。

二月、衛州新郷県令張虡・丞唐括唐古出・主簿温敦偎喝は、河水が城に入り閉塞して救護する功績があったため、皆それぞれに昇進・賞賜を受けた。御史台が言うには、「従来、沿河の京・府・州・県の官は管内の河防が欠損するのを坐視し、特に意に介さない。もし沿河の京・府・州・県の長官・次官の官が皆、名銜に管勾河防事を加え、任内において規画措置に才能があり大患を防ぐことができた者、あるいは守護が謹厳でなくて疏虞を来たした者については、臨時に上奏して賞罰を議するようにせよ。」上はこれに従い、なお毎年河水が氾濫する時節に、工部の官一員に沿河を巡視させることを命じた。そこで南京府及び所属の延津・封丘・祥符・開封・陳留・胙城・杞県・長垣、帰徳府及び所属の宋城・寧陵・虞城、河南府及び孟津、河中府及び河東、懐州河内・武陟、同州朝邑、衛州汲・新郷・獲嘉、徐州彭城・蕭・豊、孟州河陽・温、鄭州河陰・滎沢・原武・汜水、浚州衛、陝州閿郷・湖城・霊宝、曹州済陰、滑州白馬、睢州襄邑、滕州はい、単州単父、解州平陸、開州濮陽、済州嘉祥・金郷・鄆城の四府・十六州の長官・次官を皆提挙河防事とし、四十四県の令・佐を皆管勾河防事とした。初め、衛州は河水によって破壊されたため、蘇門を増築し、その州治を遷すことを命じた。至元二十八年、水が治まり、居民が少しずつ戻ったが、皆遷ることを喜ばなかった。そこで大理少卿康元弼を派遣してこれを視察させた。元弼が戻って奏上した。「旧州に復業する民は甚だ多く、かつ南使の駅道・館舎の所在であり、以前は水備をしなかったために被害を受けた。もしただその堤防の薄く欠けた所を修繕すれば、憂いがなく、遷治に比べて費用が数倍省け、民情に従って旧城を修治する方が便宜である。」そこで州を遷さず、なお今後河防官司が怠慢で備えを失う者は、皆重く罪に処することを勅した。

二十九年五月、河が曹州小堤の北で溢れた。六月、上は有司に諭旨して言った。「近頃五月二十八日に河が溢れたと聞くが、報告文書がこのように遅滞している。水事は最も急であり、工事は緩めることができない。少しでも時を緩めれば、固護することが難しくなる。」十二月、工部が言うには、「河堤を営築するのに、用工六百八万余り、埽兵軍夫を用いるほか、四百三十余万工は民夫を用いるべきである。」そこで詔を下して、役所から五百里以内の州・府に差雇し、夫を差さない地では均しく雇銭を徴収し、物力によって科することを命じた。毎工あたり銭百五十交のほか、日ごとに官銭五十文・米一升半を支給する。なお彰化軍節度使内族裔・都水少監大齢寿に提控五百人を率いて往来し弾圧することを命じた。先に、河南路提刑司が言うには、「沿河の居民は多く困乏して逃散するが、河防の差役が煩重なためである。思うに、水患を防ぐものは堤埽に過ぎず、もし土功を実情に基づいて計量し、薪槁・樁杙を時宜に応じて徴斂すれば、また何が難しいことがあろうか。今春の堤防築造において、都水監は初めに取土を甚だ近くと見積もったが、その工事が始まると数倍も遠くなり、人夫は工期に間に合わないことを恐れて高価で土を買い、一隊の間で千貫に至ることも多い。また許州では初めに薪槁十八万余束を科したが、その後また四万四千束を配賦した。これらは皆、常歳必用の物であり、農閑期に均しく科すれば輸納しやすい。今後堤埽の工事を興すには、本監に実情を計度させ、一年分の使用物料を量り、数に応じて税を折納させ、あるいは和買させ、冬月に三限に分けて輸納させるのが便宜である。」詔して尚書省に詳議して奏聞させた。

明昌元年春正月、尚書省が奏上した。「臣らは考えるに、今後凡そ工役を興すには、先ず土を運ぶ距離の遠近を量り、高さを増築し、功程を定め期限を立て、榜示して人々に先に知らせ、力役を増加させないようにすべきである。また河防に用いる物資については、都水監に毎年八月以前に、先ず旧貯の物を拘籍した外の実際に欠乏する数及び次年春の工事の多寡を移報させ、転運司に計置させ、冬の三月に分限して輸納させる。もし水勢が常ならず、夏秋に暴漲して危急であれば、則ち隣接する埽分の防備の物を用い、不足すれば則ちまた近隣の州県で和買する。しかしまた、人戸が道途泥濘で運納が困難なことを考慮し、ただ税内において他物に科折し、さらに価を増して当官で支払い、違反者は皆律に照らして論じ、なお所属の提刑司の正官一員に馳驛して監視・体究させる。このようにすれば、役作に程があり、河も備えを失わない。」制してこれを許可した。四年十一月、尚書省が奏上した。「河平軍節度使王汝嘉らが言うには、『大河の南岸には旧来分流の河口があり、もし疏導できれば、その勢いを十分に泄らすことができる。また長堤の以北にもおそらく帰納・排瀹できる所があるであろう。官を委ねて視察させてほしい。済北埽の以北には月堤を創設すべきである。』臣らはその言うところに従うのが宜しいと考える。その本監の官は皆、河防に熟練しているのでこの職に注されているのであり、汝嘉らと共に往き相視させ、異議を免れさせるべきである。もし大河の南北でどうしても開挑・帰納できないならば、その月堤は見積もり通りに興修すべきである。」上はこれに従った。

十二月、都水監官に黄河の堤防を修築することを提控させ、及び大名府に正千戸一員を差し、甲軍二百人を率いて弾圧・勾当させることを命じた。

五年春正月、尚書省が奏上した。「都水監丞田櫟が本監の官とともに黄河の利害を講議し、かつて状を上言した。前代は古堤の南決に遇うごとに、多く南・北清河を経て分流し、南清河北下には枯河数道あり、河水がその中に流れる者は長く七八分に至り、北清河はすなわち済水の故道にして、三二分を容れるのみである。今河水が北に趨き、長堤を齧いて流れる者十余箇所あり、而して堤外は率ね積水多く、恐らくは元の料に依り長堤を増修し月堤を創築するは難からん。北岸の牆村に於て河を決して梁山濼の故道に入れ、旧に依り南・北両清河の分流を作るべし。然れども北清河の旧堤は歳久しく完からず、年限を立てて大堤を増築すべく、而して梁山の故道には多く屯田軍戸あり、亦宜しく遷徙すべし。今は先ず南岸の王村・宜村の両処に於て堤を決し水を導き、長堤を固護するを得しめんと擬す。姑く宜しく旧に仍うべく、もし疏導能わざれば、即ち上に依り開決し、四道に分ち、水勢を見るを俟ち宜しきに随い料理すべし。」尚書省は櫟等の言う所が明昌二年の劉瑋等の案視した利害と異なり、及び陳言人馮徳輿をして櫟と対面せしむるも、亦合わざる者有り、工部に送り議せしむ。復た言う。「若し遽かに牆村に於て疏決せば、北清河に瀕する州県二十余処の縁、両岸連亙千有余里、その堤防は素より修備せず、恐らくは屯する所の軍戸も亦卒に徙し難からん。今年は先ず南岸の延津県堤に於て堤を決し水を泄し、その北岸の長堤は白馬以下、定陶以上、並びに宜しく功を加えて築護すべく、庶幾くは以て将来の患を遏し得べし。若し定陶以東の三埽の棄堤は則ち必ずしも修せず、旧き圧河口を決するに止め、積水を導きて東南に行かしめ、堤北の張彪・白塔両河の間に流れしめ、水を礙る軍戸は遷徙せしむべく、及び梁山濼の故道に分屯する者も、亦当に預め安置すべし。」宰臣が奏して曰く。「若し遽かに櫟等の擬する所に従わば、恐らくは既に更張し、利害細ならず。比に河平軍節度使王汝嘉を召して同に計議せしめ、先ず幹済官両員を行戸工部事とし覆視せしめ、同じければ則ち就きて実に用工物を計り、州県の遠近を量りて丁夫を調し、その春工を督趣する官は即ち今歳の守漲に充て、及び本監官と同に経久の利を議せしむべし。」詔して大名府事を知る内族裔・尚書戸部郎中李敬義を行戸工部事に充て、参知政事胥持国を以て都提控とす。又た奏して德州防禦使李献可・尚書戸部郎中焦旭を差し、山東に於て水の経る所の州県に城堤を築護せしめ、及び北清河両岸の旧に堤有る処に別に丁夫を率い修築せしめ、亦就きて河防の計を講究せしむ。

他日、上は宋の閻士良の述べたる『黄河利害』一帙を以て、参知政事馬琪に付して曰く。「此の書の言う所も亦用うべき者有り、今以て卿に賜う。」二月、上は平章政事守貞に諭して曰く。「王汝嘉・田櫟は専ら河防を管し、此れ国家の重事なり。朕比に其の曾て南岸に行き視るや否やを問うに、乃ち称して『未だせず』と。又た水決して能く南岸を行くやと問うに、又た云う『知るべからず』と。且つ水の北に趨くこと久しく、去年より便ち経画すべし、今かくの如く職に称せざるや!旨を諭して往きて心を尽くして固護せしめ、失備を致すこと無く、及び経久の計を講究せしむべし。稍く違慢に渉らば、当に並びに罪を治すべし。」三月、行省並びに行戸工部及び都水監官各々河防の利害事を言う。都水監は元より南岸の王村・宜村の両処に於て河勢を開導せんと擬し、北より来る水勢が宜村堤を去ること稍く緩やかなるに縁り、唯だ王村岸の向上数里に臥巻し、以て一河を開決し作すべく、且つ犯す所の城市村落無し。又た北岸の牆村に於て疏決せんと擬し、旧に依り両清河に分ち梁山の故道に入れ、北清河の両岸は素より小堤有りて完からず、復た大堤を築くべし。尚書省は謂う。「黄河の水勢を以て、若し牆村に於て決注せば、則ち山東州県の膏腴の地及び諸塩場は必ず淪溺せられん。設い壞堤を修築すと雖も、而して又た吞納尽さず、功役至って重く、虚しく山東の民を困し、徙るに益無きのみならず、而して又た之を害せん。況んや長堤は已に護を加え、復た南岸に於て水勢を疏決し、已に河を決して梁山濼に入るの議を寢し、水の経る城邑は已に勧率して護城堤を作し、先に修めし所の清河の旧堤は宜しく遣わして之を罷むべし。監丞田櫟が定陶以東の三埽の棄堤は修すべからずと言い、止めて『旧き圧河口を決して以て漸水を導き堤北の張彪・白塔両河の間に入れ、凡そ水沖に当たる屯田戸は須らく遷徙せしむべし』と言う。臣等の見る所、止めて堤前に木岸を作り以て之を備うべく、その間の居人は未だ遷徙すべからず、夏秋の水勢の泛溢に至りては、権りに之を避けしめ、水落つれば則ち各々旧業に復すべし、此れ亦戸工部の言う所なり。」上曰く。「地の相去ること此の如く其れ遠し、彼の中の利害、安んぞ悉く知るを得ん。惟だ行省に委ねて心を尽くして措画せしむるべし。」四月、田櫟の河防事を言うを以て、上は旨を参知政事持国に諭して曰く。「此の事は惟だ卿を責むるのみならず、卿等の同心規画を要し、朕が心を労せしめざらんと爾。櫟の言う如く、堤を築くに二十万工を用い、歳に五十日を役し、五年にして畢るべし、此の役の大なる、古より未だ有らざる所なり。況んや其の成否未だ知るべからず、就仮令成る可しと雖も、恐らくは行い難からん。軍戸四千を遷徒するは則ち難しと為さず、然れども其の水特ちに決し、尚ほ帰する所を知らず、儻し潰走有らば、何を以てか枝梧せん。若し南岸の両処に疏決せしめ、其の水を南に趨かしめば、或いは分ちて其の勢を殺すを得ん。然れども水の形勢、朕親しく見ず、条画し難く、卿と雖も亦然り。丞相・左丞は皆此れに熟せず、百官を集めて詳議し以て行うべし。」百官咸に謂う。「櫟の言う所は長堤を棄て、新堤を起さず、河を放ちて梁山の故道に入れ、南北両清河を分流せしめ、省費息民の長久之計と為す。臣等以為う、黄河の水勢は常に非ず、変易定め無く、人力を以て斟酌し、指使すべからず。況んや梁山濼は淤填已に高く、而して北清河は窄狭にして能く吞伏せず、兼ねて経る所の州県の農民廬井一に非ず、大河をして北に入り清河せしめば、山東は必ず其の害を被らん。櫟は又た乞う、都水監の符をして州府運司に下し、其の用度を専らにし、其の任責を委ね、一切軍期に同じくし、仍ち執政を委ねて提控せしむべしと。縁今監官は已に添設し、又た外監署司に於ては多く沿河の州府長官を以て之を兼領せしめ、及び令佐に河防を管勾せしむ。其の或いは怠慢なるは已に軍期に同じく断罪の的決の法有り、凡そ櫟の言う所は用うべき無し。」遂に其の議を寢す。

八月、河の陽武の故堤に決し、封丘を灌ぎて東するを以て、尚書省が奏上した。「都水監・行部官に固護を失う有り。」詔して同知都転運使高旭・武衛軍副都指揮使女奚列奕(小字韓家奴)を命じ同に往きて規措せしむ。尚書省が奏上した。「都水監官は前来に犯有り、已に戒諭し、之をして常に切に固護せしむ。今王汝嘉等は殊に意を加えず、既に水勢の南に趨くを見て、預め経画せず、留守司の累報を承け、輒ち遷延を為し、以て民を害するに至る。即ち是れ故に制旨に違い、私罪当に的決すべし。」詔して汝嘉等各々官を削ること二階、杖七十を以て職を罷む。

上は宰臣に謂ひて曰く、「李愈が河決の事を論じて、大臣を遣はして往かしめ、以て人心を慰むべしと謂へり、其の言良し是なり。向に河北の決するを慮り、堤防を措畫し、猶嘗て行省を置けり、況んや今方に横潰して害を為すに、而して止だ小官を差すのみにては、恐らくは衆望を失はん、国家より之を観るに、山東の地は河南より重しと雖も、然れども民は皆赤子なり、何ぞ彼此の間あらんや。」乃ち参知政事馬琪をして往かしめ、仍便宜に事に従ふことを許す。上曰く、「李愈は罪無しと為すを得ず、都水監の官は提刑司の統摂に非ずと雖も、若し留守司と便宣を以て民を率ひ固く護り、或は省部に申し聞けしむるも、亦何ぞ朕をして之を聞かしめざらんや。徒らに水勢を張惶するのみにして経畫無く、其の已に決するに及びて、乃ち王汝嘉と一たび往き之を視て還るも、亦未だ嘗て施行する所有らず。王村河口を開導せし月を問へば、則ち四月の終と對ふ、其の實は六月なり、月日尚ほ知らず、提刑司の官は當に是くの如くすべきか。」尋ち戸部員外郎何格をして浸されたる民を賑濟せしむ。時に行省参知政事胥持國・馬琪言ふ、「已に光祿村に至り堤口を周視す。其の河水浸漫するを以て、堤岸陷潰し、十餘里外に至りて乃ち土を取ることを得。而して堤面窄狹にして、僅かに數歩を可くす、人力施すべからず、窮力を以て暫く成すことを得ると雖も、終に當に復た毀れん。而して中道淤澱し、地に高低有り、流泄するを得ず、且つ水退き、新灘も亦開鑿難し。其の孟華等四埽と孟陽堤道とは、汴河東岸に沿ひ、但だ功を施すことを得べき者は、即ち悉く力を修護に盡くし、將に農隙を以て役を興し、凍を畢へて工を成さば、則ち京城害を為すに至らじ。」参知政事馬琪言ふ、「都水外監の員數冗多にして、每事相倚り、或は復た功を邀ひ、議論紛紜として一ならず、官事を隳廢す。都水監掾を罷め、勾當官二員を設けんと擬す。又自昔より都・散巡河官を選用するに、止だ監官の辟舉に由るのみにして、皆諸司の人なり、或は老疾有り、倉庫の繁を避け、賄を行ひ請托して、以て多く職に稱せざるに致す。都巡河を升めて從七品と作し、應に縣令兼舉人に入るべき者の内より選注する外、散巡河は舊に依り、亦諸司及び丞簿廉舉人の内より選注し、並びに年六十以下にして精力能幹なる者を取らん。到任一年にして、提刑司に委ねて體察せしめ、若し職に稱せざれば、即日に之を罷めよ。守禦方有りて、河水の安流を致せば、任滿に從ひ、本監及び提刑司より保申し、量りて之を升除せん。凡そ河橋司使副も亦此に同じく選注せんと擬す。」繼いて胥持國も亦以て言ふと爲す、乃ち其の請に從ふ。閏十月、平章政事守貞曰く、「馬琪の河防の事を措畫するに、未だ功役の數を見ず、之に加ふるに積歲功を興す、民力將に困らんとす、今持國復た病む、請ふ別に材幹有る者を遣はして往き之を議らしめん。」上曰く、「堤防救護若し能く成功せば、則ち財力固より敢へて惜しまず。第だ財殫力屈し、成りて復た毀るるを恐るるのみ、重困を如何。」宰臣對へて曰く、「盡く力を以て固く護らば、縱ひ害を爲すも亦輕く、若し恬然として顧みざれば、則ち害を爲す滋だ甚し。」上曰く、「無乃か是に因りて盜賊を致すことあらんや。」守貞曰く、「宋は河決を以て役を興し、亦嘗て盜賊を致せり、然れども多くは凶歉に生ず。今時平らかに歲豐なり、少しく差役有るも、未だ必ずしも此に至らじ。且つ河防の役は、理當然なり、今の當に役すべき者は猶ほ可なりと爲す。薪芻を科征するに至りては、有無を問はず、輸を督すること迫切なれば則ち產業を破りて以て之を易ふ、民の益々困るを恐るるのみ。」上曰く、「役夫は須らく近地より差取すべし、若し遠く之を調ぶれば、民益々艱苦ならん、但だ津濟することを得ば可なり。然れども當に馬琪の至るを俟ちて而して後之を議らん。」庚辰、琪行省より還り、入見し、言ふ、「孟陽河堤及び汴堤は已に填築補修し、水汴城を犯すこと能はず。今より河勢北に趨り、來歲春首に中道に於て疏決せんと擬す、以て南北兩岸の危を解かん。凡そ工を計ること八百七十餘萬

臣は前期を乞ひて再び河上に往き監視せん。」上以て言ふ所を尚書省に付し、而して河堤を檢覆し並びに漲を守る官等の罪を治むること差有り。他日、尚書省事を奏す、上語河防の事に及び、馬琪奏して言ふ、「臣敢へて心を盡くさざるに非ず、然れども智力の及ばざる所有るを恐る。若し別に官を差して相度せしめば、儻ひ奇畫有らば、亦未だ知るべからず。如し適に臣の策と同じからば、方に來りて功を興すも、亦庶幾くは稍く朝延の憂顧を寬ぐるあらん。」上之を然りとし、翰林待制奧屯忠孝をして權尚書戶部侍郎と爲し、太府少監溫昉をして權尚書工部侍郎と爲し、戶・工部の事を行はしめ、河防を修治せしめ、且つ之に諭して曰く、「汝二人は皆朕の素より識る所なり、以て故に委任し、朕が意に副はんことを冀ふ。如し錯失有らば、亦汝を容れず。」

承安元年七月、勅して自今より河に沿ひ傍側の州・府・縣の官は部除する者と雖も皆員闕を令むること勿れ。泰和二年九月、御史台の官に勅して曰く、「河防の利害は初め卿等の事に與らず、然れども台官は問はざる所無し、應に體究すべき者は亦之を體究せよ。」五年二月、崔守真の言ふ所に依りて、「黃河危急なり、芻槁の物料は折稅と云ふと雖も、每年五六次に下らず、或は和買と名づくるも、而して未だ嘗て其の直を還さず。」勅して右三部司正郭澥・御史中丞孟鑄を委ねて講究して以て聞かしむ。澥等言ふ、「大名府・鄭州等處は承安二年以來、科する所の芻槁未だ價を給せざる者、錢二十一萬九千餘貫を計ふ。」遂に各處の見錢を以て能幹の官を差し各州縣の清強の官と一一之を酬はしめ、續いて按察司に體究せしむ。

宣宗貞祐二年十一月壬申、上は参知政事侯摯を遣わし、宜村にて河神を祭らしむ。三年四月、単州刺史顔盞天澤言う、「守禦の道は、大河を決して北流を徳・博・観・滄の境に至らしむべし。今その故堤宛然として猶在り、工役労せず、水は下に就かば必ず漂没の患無からん。而して難ずる者は、若し滄塩場を犯して国利を損ずるを以て説とせずんば、必ず河北の良田を浸没するを以て解とせん。臣嘗て河側の故老の言を聞く、水勢散漫なれば、則ち浅くして馬を以て渉るべからず、深くして舟を以て済うべからず、これ守禦の大計なり。若し日を以て民田を浸すと曰わば、則ち河徙の後、淤れて沃壤と為り、正に耕墾に宜しく、収穫常に倍す、利孰かこれより大ならん。若しこの計を失わば、則ち河南一路兵食足らず、而して河北・山東の民皆瓦解せん」と。詔して議するを命ず。四年三月、延州刺史温撒可喜言う、「近世河故道を離れ、衛より東南に流れ、徐・邳より海に入る、これにより、河南の地狭し。臣窃かに見るに、新郷県西の河水を決して東北に至らしむべく、其の南に旧堤有り、水溢るる能わず、五十余里を行きて清河に合わば、則ち浚州・大名・観州・清州・柳口より海に入る、これ河の故道なり、皆旧堤有り、其の缺罅を補う足る。かくの如くすれば則ち山東・大名等路、皆河南に在り、而して河北諸郡も亦其の半を得、退いて以て禦備の計と為すに足り、進んで以て恢復の基を壮んずるに足らん」と。又言う、「南岸の居民、既に其の河夫を籍して河堰を修築し、戍屋を営作し、又芻糧を転輸せしめ、賦役繁殷にして、他所に倍し、夏秋の租税、猶未だ論ぜず、乞うらくは其の稍緩なる者を減じ、以て民力を寛にせん」と。事を尚書省に下す、宰臣謂う、「河流東南なること旧し。一旦之を決せば、恐らくは故道容れず、衍溢して出で、数河に分かれ、復た収むべからず。水分かれば則ち浅狭にして渡り易く、天寒なれば輒ち凍り、禦備愈難し、此れ甚だ不可なり」と。詔して但だ南岸郡県居民の賦役を量宜して減ずるを令す。五年夏四月、枢密院に勅し、河に沿う要害の地に、石岸を壘ね、仍く撒星樁・陷馬塹を置きて以て敵に備えしむ。

漕渠

金は燕に都す、東に潞水を去ること五十里、故に閘を以て高良河・白蓮潭諸水を節し、以て山東・河北の粟を通ず。凡そ諸路河に瀕するの城は、則ち倉を置きて以て傍郡の税を貯え、若し恩州の臨清・歴亭、景州の将陵・東光、清州の興済・会川、献州及び深州の武強、是れ六州諸県皆倉を置くの地なり。其の漕を通ずるの水は、旧黄河は滑州・大名・恩州・景州・滄州・会州の境を行き、漳水は東北にて禦河と為り、則ち蘇門・獲嘉・新郷・衛州・浚州・黎陽・衛県・彰徳・磁州・洺州の饋を通じ、衡水は則ち深州を経て滹沱に会し、以て献州・清州の餉を来たし、皆信安海壖に合す。流を溯りて通州に至り、通州より閘に入り、十余日にして後に京師に至る。其他若し覇州の巨馬河、雄州の沙河、山東の北清河、皆其の灌輸の路なり。然れども通州より上は、地峻にして水留まらず、其の勢浅きに易く、舟膠して行かず、故に常に陸挽の事に徙り、人頗る之を艱しむ。世宗の世、言者盧溝金口を開きて以て漕運を通ぜんことを請い、衆を役すること数年、竟に成功無く、事は『盧溝河』に見ゆ。其の後も亦閘河或いは通じ或いは塞がり、而して但だ車挽を以てす。其の制は、春運は氷消を以て行い、暑雨に畢る。秋運は八月を以て行い、冰凝に畢る。其の綱将に発せんとす。乃ち衆を合せ、以て載する所の粟を苴して之を封じ、先ず以て卸す所の地に付し、封ずる所の様と同じきを視て則ち受く。凡そ綱船は前期三日を以て修治し、日ごとに一綱を装し、装し畢りて三日を以て啓行す。道里を計りて溯流・沿流を分ちて限と為し、受くる所の倉に至り、三日を以て卸し、又三日を以て収付を給す。凡そ漕を挽く脚直は、水運塩は毎石百里四十八文、米は五十文一分二厘七毫、粟は四十文一分三毫、銭は則ち毎貫一文七分二厘八毫。陸運傭直は、米は毎石百里百十二文一分五毫、粟は五十七文六分八厘四毫、銭は毎貫三文九厘六毫。余物は毎百斤百里を行く、平路は則ち春冬百三十一文五分、夏秋百五十七文八分、山路は則ち春冬百四十九文、夏秋二百一文。凡そ使司院務の課を納むる傭直は、春冬九十文三分、夏秋百十四文。諸民戸官船を射賃して漕運する者は、其の脚直を十分を率と為し、初年二分を克ち、二年一分八厘を克ち、三年一分七厘を克ち、四年一分五厘を克ち、五年以上一分を克つ。

初め、世宗大定四年八月、山東大熟するを以て、詔して其の粟を移し以て京師を実す。十月、上近郊に出で、運河湮塞するを見、召して其の故を問う。主者云う、戸部経画を為さざるに由る所と。上戸部侍郎曹望之を召し、責めて曰く、「河有りて加うるに浚わず、百姓をして陸運甚だ労せしむ、罪汝等に在り。朕即ち罪を加うるを欲せず、宜しく悉く力を漕渠を通ぜしむべし」と。五年正月、尚書省奏す、夫数万を調うべしと。上曰く、「方に春なり、民を労すべからず、宮籍監戸・東宮親王人従・及び五百内裏の軍夫に令して浚治せしめよ」と。二十一年、八月を以て京城の儲積広からず、詔して河に沿う恩献等六州の粟百余万石を運じて通州に至らしめ、輦して京師に入る。明昌三年四月、尚書省奏す、「遼東・北京路の米粟素より饒なり、宜しく航海を以て山東に達すべし。昨東京近海の地を按視するに、大務清口より並びに咸平銅善館に皆倉を置き粟を貯え以て漕運を通ずべく、若し山東・河北荒歉なれば、即ち運じて以て相済うべし」と。制して可とす。承安五年、辺河倉州県は、菽二十万石を折納せしむべく、漕して以て京に入れ、品級を験して馬を養うを俸内に帯支し、仍く麦十万石を漕し、各々本色を支う。乃ち都水監丞田櫟に命じ、運糧河道を相視せしむ。

泰和元年、尚書省は景州漕運司の管轄する六河倉において、歳稅が六万石を下らず、その徴発する州県は近くても二百里を下らず、官吏が賄賂を取って遅延・妨害し、民は苦しみに耐え難く、たとえ近くに官が監視していても同様であったと上奏した。そこで監察御史一員を派遣して往来し、糾察させた。五年、皇帝は覇州に至り、旧漕河が浅く流れが悪いため、尚書省に命じて山東・河北・河東・中都・北京の軍夫六千人を徴発し、これを改めて開鑿させた。屯田戸の土地を犯す場合は、官が対価を与える。民田の場合は多くその価を償った。六年、尚書省は、およそ漕河の経由する地域において、州県の官は自分に関係ないと考え、多く浅く滞らせ、綱戸に浅瀬を避けて荷を移し載せることを名目として、奸弊が百出する状況を上奏した。ここにおいて遂に定制を定め、およそ漕河の経由する地域では、州府の官の官銜内に皆「提控漕河事」を帯びさせ、県官には「管勾漕河事」を帯びさせ、綱運を催促・検査し、堤岸を営み護らせた。該当する府は三つ:大興・大名・彰德。州は十二:恩・景・滄・清・献・深・衛・浚・滑・磁・洺・通。県は三十三:大名・元城・館陶・夏津・武城・歴亭・監清・呉橋・将陵・東光・南皮・清池・靖海・興済・会川・交河・楽寿・武強・安陽・湯陰・監漳・成安・滏陽・内黄・黎陽・衛・蘇門・獲嘉・新郷・汲・潞・武清・香河・漷陰。

十二月、通済河に巡河官一員を創設し、天津河と同一の官署とし、漕河の閘と岸を統括して管理させ、ただ天津河巡河官と称し、都水監に隷属させた。八年六月、通州刺史張行信が言上した:「船は通州から閘に入り、凡そ十余日を経てようやく京師に至るが、官は五日分の運搬費用しか支給しない。」そこでこれを増給した。

貞祐三年、汴に遷都した後、陳・潁の二州が水に臨んでいるため、民船を借りて漕運を行おうとしたが、不便であった。そこで観州漕運司の例に倣い提挙官を設置し、船戸を募集して籍に登録し、戸部の勾当官に命じて往来し巡視監督させた。四年、右丞侯摯の建言に従い、沁水を開削して糧運を便利にした。皇帝はまた京師の転輸の労苦を思い、尚廄の牛と官車を出させてその労力を助けさせた。興定四年十月、皇太子に諭して言った:「中京の運糧護送官は、その人を選ぶべきである。万一失策があれば、枢密官もまた罪があるであろう。その船は毛花輦の造った両頭船を用いるべきであり、なお軍を渡す時のような旗幟を掲げ、敵に糧であると知らせてはならない。」陝西行省の把胡魯が言上した:「陝西は毎年糧を運んで関東を助けているが、民力は次第に疲弊している。もし舟で渭水から黄河に入り、順流而下すれば、民力を緩和することができる。」そこで偵候を厳重にさせ、もし警報があれば、皆南岸に繋留させるよう命じた。当時、朝廷は邳・徐・宿・泗の軍需物資を、京東の県が陸送するのに毎年十余万石を要し、民は甚だ苦しんでいた。元光元年、遂に帰徳府に通済倉を設置し、都監一員を設け、東郡の粟を受け入れることとした。定国軍節度使李複亨が言上した:「河南に駐蹕し、兵は欠くことができず、糧は多ければ多いほど良い。近年、少しでも不足すれば即ち陝西に仰ぐが、陝西は土地が肥沃で毎年豊作であり、十万石の援助は難しくない。ただ車で運ぶ費用で既に半分を失い、民はどうして耐えられようか。大船二十隻を造り、大慶関から渡って黄河に入り、東は湖城に至らせ、往還は数日を過ぎず、篙工は百人を超えず、船は皆三百五十斛を容積できるようにすれば、これは百人が数日で七千斛を運ぶことになる。夏から秋にかけて三千余万斛を漕運でき、しかも滞りの憂いがない。」皇帝はこれに従った。当時また霊璧県の潼郡鎮に倉都監及び監支納を設置した。長直溝を開削し、万安湖から舟運で汴を経て泗に至り、粟を貯蔵するためであった。

盧溝河

大定十年、盧溝を開削して京師の漕運を通じることを議し、皇帝は喜んで言った:「このようにすれば、諸路の物資は直ちに京師に到達でき、利益はこれより大きいものがあろうか。」命じて工事を計算させたところ、千里以内の民夫を役する必要があり、皇帝は被災地を免除し、百官の従者を役務に助けさせた。その後、宰臣に勅して言った:「山東は凶作である。工役を興せば農作を妨げ、怨みを招かないであろうか。河を開くのは本来民を利するためであるのに、かえって怨みを取るのはよくない。しばらくこれを中止せよ。」十一年十二月、省臣が再び開削を上奏した。金口から疏導して京城の北の壕に入れ、東は通州の北に至り、潞水に入れる計画で、工期は八十日と計算された。十二年三月、皇帝は人を遣わして再調査させ、戻って奏上した:「五十日で足りる。」皇帝は宰臣を召して責めて言った:「残りの三十日は徒らに農を妨げ工を費やすだけである。卿らはどうしてこの点を考慮しなかったのか。」渠が完成すると、地勢が高く険しく、水性が濁っていた。険しいため奔流が渦を巻き岸を齧って崩れやすく、濁っているため泥が堆積して塞がり、沈澱物が浅瀬を成し、舟に耐えられなかった。その後、皇帝は宰臣に言った:「盧溝を分けて漕渠としたが、結局功を奏さなかった。もし本当に実行できれば、南路の諸貨は皆京師に至り、価格は安くなるであろう。」平章政事駙馬の元忠が言った:「河道に通じた者を求めて、その地を巡視させてください。」結局実行できずに中止された。二十五年五月、盧溝が上陽村で決壊した。先に、顕通寨で決壊し、詔を下して中都三百里内の民夫を発して塞がせたが、この時また決壊した。朝廷は工事と物資を無駄にすることを恐れ、遂にしばらく修治しないよう命じた。二十七年三月、宰臣が「孟家山の金口閘は都城を見下ろし、高さ一百四十余尺あり、ただ射糧軍で守っているだけでは、頼りにならない恐れがある。もし暴漲に遇い、ある者が奸を為せば、その害は小さくない。もし固く塞ぐならば、灌漑している稻田は皆陸地となり、禾麦を植えても荒地ではない。そうでなければ更に重閘を設け、なお岸上に埽官の役所及び埽兵の住居を置けば、ほぼ憂いがなくなるであろう」と上奏した。皇帝はその言を是とし、使者を遣わして塞がせた。夏四月丙子、詔を下して盧溝の水神を安平侯に封じた。二十八年五月、詔を下して盧溝河は旅人の往来する要津であるから、石橋を建てるよう命じた。実行されないうちに世宗が崩御した。章宗の大定二十九年六月、また渡河する者が水流の急なのを苦にするとの理由で、詔を下して舟を造らせ、その後さらに石橋を建てるよう命じた。明昌三年三月に完成し、勅を下して広利と命名した。有司が、車駕の経行する所、使客商旅の要路であるから、官が東西の廊を建て、人を住まわせるよう請うた。皇帝は言った:「必ずしもそうする必要はない。民間が自ら行うべきである。」左丞の守貞が言った:「ただ豪右に占拠される恐れがあります。況んや利を貪る者は多く東岸に止まるので、もし官が築けば東西両岸ともに整い、また見晴らしにも便利です。」遂にこれに従った。

六月、盧溝の堤が決壊し、詔を下して速やかにこれを塞ぎ、氾濫して害を為さないようにせよと命じた。右拾遺の路鐸が上疏して言った:「水勢に従って分流させて流れを良くすべきであり、必ずしも玄同口以下、丁村以上の旧堤を補修する必要はありません。」皇帝は宰臣にこれを議させ、遂に工部尚書の胥持国及び路鐸に命じて共同でその堤道を検視させた。

滹沱河

大定八年六月、滹沱河が真定を侵犯したため、河北西路及び河間・太原・冀州の民夫二万八千人を徴発し、その堤岸を修繕完成させるよう命じた。十年二月、滹沱河に巡河官二員を創設した。十七年、滹沱河が白馬崗で決壊し、有司がこれを上奏した。詔を下して使者を遣わして固く塞がせ、真定五百里内の民夫を徴発し、十八年二月一日に工事を開始させ、同知真定尹の鶻沙虎、同知河北西路転運使の徐偉に監護させた。

漳河

大定二十年(一一八〇年)春正月、詔して有司に漳河の閘を修護せしめ、所要の工物一切は全て官より給し、民を擾すことなからしむ。明昌二年(一一九一年)六月、漳河及び盧溝の堤皆決す、詔して速やかに之を塞がしむ。四年(一一九三年)春正月癸未、有司言う、漳河の堤埽を修するに計り三十八万余工を要すと、詔して盧溝河の例に依り、水害に遭い食を欠く人を招き夫に充て、官より銭米を支給し、不足すれば則ち水に礙げられたる人戸を調発し、上に依り支給せしむ。