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金史
列傳第六十一: 忠義三 徒單航 完顏陳和尚 楊沃衍 烏古論黑漢 陀滿胡土門 姬汝作 愛申 禹顯 張邦憲 劉全
列傳第六十一 忠義三 ○徒單航 完顏陳和尚 楊沃衍 烏古論黑漢 陀滿胡土門 姬汝作 愛申馬肩龍(附) 禹顯 張邦憲 劉全
徒單航
徒單航、一名は張僧、駙馬樞密使某の子なり。父は九駙馬と号し、衛王北辺に事有りし時、都元帥に改授せられ、仍って平章を権むるも、甚だ人望に允わず。張僧時に吏部侍郎たり、力めて其の父に帥職を辞せんことを勧め、遂に平章を拝す。至甯元年、胡沙虎弑逆し、航を安州刺史に降す。会に北兵大いに城下に至り、声言して「都城已に失守せり、汝速かに降るべし」と曰う。航其の民に謂いて曰く、「城守厳しと雖も、万一攻破せられば、汝輩孑遺無かるべし。我家両世駙馬、国厚恩を受く、決して降る可からず。汝輩計将に安くか出ださん」と。其の民曰く、「太守屈せず、我輩亦何ぞ忍びて降らん、願わくば以て死守せん」と。航乃ち尽く家財を出だして以て軍民を犒い、軍民皆尽力して備禦す。又五日、城危うし、航度るに支うる可からずと、其の妻孥に謂いて曰く、「今事急し、惟だ死あるのみ」と。乃ち先ず其の妻子を縊り、其の家人に謂いて曰く、「我死すれば即ち屋を撤きて之を焚け」と。遂に自縊死す。城破れ、人猶力戦し、曰く、「太守既に死す、我輩独り降る可からず」と。死者甚だ衆し。
完顏陳和尚
完顏陳和尚、名は彝、字は良佐、亦た小字を以て行わる、豊州の人なり。系は蕭王の諸孫に出づ。父は乞哥、泰和の南征に、功を以て同知階州軍事を授けられ、及び宋階州を復すや、乞哥嘉陵江に戦歿す。貞祐中、陳和尚年二十余、北兵に掠められ、大帥甚だ之を愛し、帳下に置く。時に陳和尚の母豊州に留まり、従兄安平都尉斜烈之に事えて甚だ謹し。陳和尚北に在ること歳余、母を省するを托し、還るを乞う。大帥卒を以て之を監し豊に至らしむ、乃ち斜烈と与に監卒を劫殺す。馬を奪いて其の母を奉じて南奔す、大兵覚り、騎を合わせて之を追う、他路よりして免るることを得たり。既にして馬を失い、母老いて行く能わず、鹿角車に載せ、兄弟共に挽き、南して河を渡る。宣宗之を奇とす。
斜烈世官を以て都統を授けられ、陳和尚試みに補はれて護衛と為り、未幾奉禦に転ず。及び斜烈寿・泗元帥府事を行い、陳和尚自ら随うことを奏し、詔して以て宣差提控に充てしめ、金符を佩かしむ。斜烈太原の王渥を辟きて経歴と為す。渥字は仲澤、文章論議雷淵・李献能と上下し、故に師友之を得たり。陳和尚天資高明、雅好みて文史を好み、自ら禁衛に居る日より、人以て秀才と之を目す。是に至り、渥以て『孝経』・『小学』・『論語』・『春秋左氏伝』を授け、略く其の義を通ず。軍中事無ければ、則ち窓下に牛毛の細字を作すこと、寒苦の士の如く、其の世味を視ること漠然たり。
正大二年、斜烈帥職を落とし、例にて総領と為り、方城に屯す。陳和尚随いて往き、凡そ兄の軍中の事皆預め之を知る。斜烈時に病に在り、軍中の李太和なる者、方城鎮防軍の葛宜翁と相毆ち、陳和尚に訴う、宜翁事直からず、即ち量りて之を笞つ。宜翁素より兇悍、理屈を以て杖を受くるを恥じ、竟に鬱鬱として以て死に、其の妻に語を留めて、必ず陳和尚に報いんとす。妻陳和尚を訟えて私忿を以て官を侵し、故に其の夫を殺すとし、台省に訴え、近侍に訴え、薪を積みて龍津橋の南にし、報いを得ざれば、則ち自焚して以て其の夫に謝せんと約す。以て故に陳和尚獄に繋がる。議者陳和尚を疑う、禁近に狃い、兵閫の重きに倚りて、必ず横恣に法を違うべしと、当に大辟に処すべしと。奏上すれども、久しく決する能わず。陳和尚獄中に書を聚めて之を読み、凡そ十有八月。明年、斜烈病癒え、詔して兵を提げて西し、朝に入る、哀宗其の甚だ瘦せたるを怪しみ、問うて曰く、「卿寧ろ方城の獄未だ決せざる故か。卿但だ行け、吾今之を赦さん」と。台諫復た言有るを以て、敢えて赦さず。未幾、斜烈卒す。上聞き、始めて馳せて陳和尚を赦し、曰く、「有司汝を奏して私忿を以て人を殺すとす。汝の兄死す、吾が一名将を失う。今汝の兄の故を以て、法を曲げて汝を赦す、天下必ず我を議う者有らん。他日、汝奮発して功名を立て、国家汝の力を得て、始めて我を以て妄りに赦さずと為さん」と。陳和尚且に泣き且に拝し、悲しみ左右を動かし、一言を出す能わずして謝と為す。乃ち白衣を以て紫微軍都統を領し、年を踰えて忠孝軍提控に転ず。
五年、北兵大昌原に入る、平章合達誰か前鋒と為る可き者を問う、陳和尚出でて命に応ず。先ず已に沐浴し衣を易え、将に就木せんとするが若き者、甲を擐ぎて馬に上り顧みず。是の日、四百騎を以て八千の衆を破り、三軍の士踴躍して戦わんことを思う、蓋し軍興して二十年より始めて此の捷有り。奏功第一、手詔褒諭し、定遠大将軍・平涼府判官を授け、世襲謀克とす。一日にして名天下に動く。
忠孝一軍、皆回紇・乃満・羌・渾及び中原俘はれし者罪を避けて来帰する者、鷙狠にして淩突し、号えて制し難しとす。陳和尚之を禦するに方有り、坐作進退皆程式に中り、過ぐる所の州邑常に料の給する所の外秋毫も犯さず、街曲の間復た喧雑せず、毎戦すれば則ち先ず登り陣を陥れ、疾きこと風雨の若く、諸軍之を倚りて以て重しと為す。六年、衛州の勝有り。八年、倒回穀の勝有り。刑徒より四五遷せずして禦侮中郎将と為る。
副樞移剌蒲阿持重の略無く、嘗て一日夜二百里を馳せて小利に趨り、軍中敢えて諫め止むる者莫し。陳和尚私に同列に謂いて曰く、「副樞大将軍を以て剽略の事と為し、今日生口三百を得、明日牛羊一二千を得、士卒喘ぎて死する者は則ち復た計わず。国家数年に積む所、一旦必ず是の人に由りて破除し尽くさるべし」と。或いは以て蒲阿に告ぐ、一日、酒を置きて諸将を会し飲ましむ、酒陳和尚に行き至る、蒲阿曰く、「汝曾て我が短長し、又国家の兵力我に由りて尽く壞さるべしと謂えり、誠に有りや否や」と。陳和尚飲み畢り、徐かに曰く「有り」と。蒲阿其の懼るる容無きを見て、漫に好語を為して雲う、「過ち有らば当面論ぜよ、後言無かれ」と。
九年正月、三峰山の敗戦により、鈞州に逃れた。城が陥落し、大軍が入城すると、直ちに軍を放って巷戦を展開した。陳和尚は隠れ場所に走って避難し、殺戮掠奪がやや収まってから出て来て、自ら言うには、「我は金国の大将なり、事を申し上げたい」と。兵士が数騎で彼を挟み、行帳の前に連れて行った。その姓名を問うと、曰く、「我は忠孝軍総領の陳和尚なり。大昌原の勝利は我によるもの、衛州の勝利も我によるもの、倒回谷の勝利も我によるものなり。我が乱軍の中で死ねば、人は我が国家に背いたと言うであろう。今日明白に死ねば、天下必ず我を知る者あらん」と。時に彼を降伏させようと、足の脛を斬り折っても屈せず、口元を耳まで裂かれても、血を噴きながら叫び、死ぬまで絶えなかった。大将はその義を感じ、馬乳酒を捧げて祭り、祝して曰く、「好男子よ、他日に再生せば、必ず我が汝を得んことを」と。時に年四十一。この年六月、詔して鎮南軍節度使を追贈し、褒忠廟に塑像を立て、石に刻んでその忠烈を記した。
斜烈は名を鼎、字を國器といい、畢里海世襲の猛安である。二十歳で、戦いに長じることで知られた。寿州・泗州元帥から安平都尉に転じ、商州を鎮守し、威望は甚だ重く、賢を敬い士に下り、古の賢将の風があった。初めて商州に至った時、一日、伏兵を捜索し、大竹林の中で歐陽修の子孫を得て、問うてこれを知り、その族属と郷里の者三千余人を皆釈放して帰した。
楊沃衍
楊沃衍、一名を斡烈といい、兀林答の姓を賜わり、朔州静辺官荘の人で、本来は唐括迪剌部族に属した。若い頃、嘗て北辺の屯田小吏を務め、時に大元の兵が国境に入り、朝廷の命により唐括族を内地に移すこととなったが、沃衍は留まって移らず、本部族で従うことを願う者を率いて朔州南山の茶杞溝に立て籠もり、数千の衆を得て、沃衍を推して招撫使とし、その溝を府と号した。故に残破した鎮県の徒党が日に集まり、官軍はこれを制することができなかった。また大軍と戦い、連戦して小勝を得たが、食糧が乏しくなると、遂に略奪を行った。官軍がこれを捕らえようとすると、戦いを拒んで下らず、転じて寧州・隩州・武州・朔州・甯辺州などの諸州を転々とし、民はこれを患いとした。朝廷が人を遣わして招くと、沃衍は直ちに衆を率いて帰順した。時に宣宗が丁度南遷し、淇門に駐在し、これを聞いて甚だ喜び、遂に武州刺史とした。
武州は屡々残破しており、沃衍が州に入って間もなく、大軍が攻めて来た。二十七昼夜死戦して陥落させることができず、ようやく退いた。時に貞祐二年二月である。既にして朝廷は武州は結局守れないと考え、沃衍にその軍民を移して岢嵐州に駐屯させ、武州の功により本州防禦使に抜擢した。間もなく岢嵐を節鎮に昇格させ、沃衍を節度使とし、仍って詔を下して諭して曰く、「卿は国に尽くして忠であり、累ねて労績あり。今特に三品に昇進せしむ。恩もまた厚し。其れ益々忠勤を励まし、宣撫司と和睦して以て軍民を安んぜよ」と。沃衍は詔を受けるや、直ちに身を以て国に許し、曰く、「人として王事に死せずして家に死するは、大丈夫に非ざるなり」と。
三年、旨を奉じて涇州・邠州・隴州の三州に屯田し、沃衍はその軍九千人を十翼五都統に分け、自ら統率する者はその四分の一であった。この冬、西夏の四万余騎が定西州を包囲した。元帥右都監完顔賽不は沃衍に提控軍事を命じ、兵を率いて夏人と戦い、斬首すること二千近く、生擒数十人、馬八百余匹を獲、器械もこれに相応し、残りは悉く遁走した。詔して陝西行省に功を視て官賞せしめた。
興定元年春、上は沃衍が累ねて戦功あるを以て、今の姓を賜った。間もなく、遙授で通遠軍節度使・兼鞏州管内観察使とした。この冬、詔して陝西行省に宋を伐たしめ、沃衍は元帥左都監内族白撒・通遠軍節度使溫蒂罕婁室・同知通遠軍節度使事烏古論長壽・平西軍節度副使和速嘉兀迪と共に兵五千を率いて鞏州塩川より出撃し、故城に至って夏兵三百に逢い、これを撃退した。また西和州に入り岐山堡に至り、兵六千、凡そ三隊に遇い、軍を分遣して撃ち、北に逐うこと三十余里、斬首四百級、生け捕り十人・馬二百匹・甲仗は数え切れず。間もなく散関も得た。二年正月、捷報が至り、上は大いに喜び、詔して沃衍の官を一階遷し、遙授で知臨洮府事とした。三年、武休関の勝利は、沃衍の功が多かった。詔して特に一官を遷した。
元光元年正月、遙授で中京留守とした。六月、元帥右監軍に進拝し、仍って世襲で納古胡裏愛必剌謀克とした。二年春、北兵の遊騎数百が延安を掠めて南に至った。沃衍は兵を率いてこれを追い、野猪嶺で戦い、四人を捕獲して還った。間もなく、兵が大挙して至り、徳安寨に駐屯したが、またこれを撃退した。未だ幾ばくもせず、大軍が鳳翔を攻めて還り、道すがら保安を通った。沃衍は提控完顔查剌を遣わして石楼臺でこれを破り、前後して馬二百・符印数十を獲た。詔して有司に論賞せしめた。初め、野猪嶺に兵ありと聞き、沃衍は陀満胡土門と歩軍で会戦することを約した。胡土門は宿将で、常に沃衍を軽んじていたが、この時に期に遅れた。沃衍が戦いから還り、諸将と会して胡土門を斬ろうとしたが、諸将が哀願したので釈放した。時に大軍の勢い益々振るい、陝西行省が檄を飛ばして沃衍に清野を命じたが、従わず、曰く、「我若し清野せば、明年民何を以て食を得んや」と。遂に大澗を隔てて勢いを保ち、民に麦作を終わらせしめた。正大二年、元帥左監軍に進拝し、遙領で中京留守とした。
八年冬、平章合達・参政蒲阿が鄧州より西に向かい、沃衍は豊陽川より五朵山下で彼らに遇い、禹山の戦いは如何であったかと問うた。合達曰く、「我が軍は勝ちたりと雖も、大兵は已に散漫として京師に向かえり」と。沃衍憤然として云う、「平章・参政は国恩厚きを蒙り、兵権を握りながら、事機を失い、戦って防ぐこと能わず、乃ち兵を縦して深入せしむ。尚何をか言わんや」と。
三峰山の敗戦に際し、沃衍は鈞州に逃れた。その部曲の白留奴・呆劉勝が既に降伏し、大帥に請うて、鈞州に入り沃衍を招降したいと願った。大帥は留奴を人質に取り、勝をして鈞州に入り沃衍に会わせ、大帥の意を伝え、降伏すれば大官を授けると告げさせた。沃衍は善言をもってこれを慰撫し、前に進ませ、剣を抜いてこれを斬り、曰く、「我は微賤より身を起こし、国恩大なるを蒙る。汝は以て此れを以て我を汚さんとするか」と。遂に部曲に後事を遺言し、汴京を望んで拝し且つ哭して曰く、「朝廷に見る面目無し。惟だ一死あるのみ」と。即ち自縊した。部曲が火を放ち、寓居していた屋をも併せて焼き、従って死する者十余人。沃衍の死する時、年五十二。
初め、大軍が西夏を破り、長駆して至り、関輔千里皆洶洶として安からず、智者と雖も之を如何ともすること能わなかった。沃衍とその部将劉興哥なる者が兵を率いて邠州・隴州の間を往来し、屡戦屡勝したので、故に大軍は急に東下することができなかった。
興哥は、鳳翔虢県の人で、群盗より起こり、人は「熱劉」と呼んだ。後に清化で戦死した。大軍が至り、酒を捧げて弔い、西州の耆老がこれを語ると、涙を流すまでになった。
烏古論黑漢
烏古論黑漢は、初め親軍より入仕し、嘗て唐州・鄧州元帥府の把軍官を務めた。天興二年、唐州刺史内族斜魯が病没した。鄧州総帥府は蒲察都尉に唐州の事を代行させた。宋軍が二度にわたって唐州を包囲し、また唐州の糧食の多くが鄧州に取られたので、以て食糧が乏しくなった。六月、万戸夾穀定住を帰徳に入らせ、軍糧を奏請したが、返答がなかった。七月、鎮防軍の馮総領・甄改住が変を起こし、蒲察都尉を殺した。時に朝廷への道が阻まれ、帥府が承制して黒漢に刺史を代行させ帥府事を行わせた。
やがて鎮防軍に宋に帰順しようとする謀りごとがあり、時に裕州大成山の聶都統が率いる一軍五百人が州内にいたが、ただ彼らだけは宋に帰することを望まず、鎮防軍と敵対し、鎮防軍は勝てず、老幼を棄てて棗陽に奔った。宋人はこのため唐州の虚実を知った。ちょうど鄧州の帥(長官)移剌瑗が城を挙げて宋に帰順し、黒漢に書を送って招いたが、黒漢はその使者を殺して返答しなかった。宋の王安撫が兵を率いて唐州を攻め、鄂司の王太尉が続いて到着し、攻撃はますます激しくなった。黒漢は哀宗が蔡州に遷ったと聞き、人を遣わして救援を求め、上(哀宗)は権参知政事兀林答胡土に兵を率いて赴かせることを命じた。宋人は伏兵を設け、その半数を城内に入れてから遮って撃ち、胡土は大敗し、わずか三十騎で帰還した。
城中の食糧が尽き、人々は互いに食らい合い、黒漢はその愛妾を殺して兵士に食わせると、兵士たちは争って妻子を殺した。官はたびたび集まって降伏を議したが、黒漢と聶都統はますます強く反対した。馮総領はひそかに城を出て王安撫と会飲し、明日宋軍が入城することを約した。馮が帰ると、宋軍は入城できず、聶都統が馮を議事に招き、その座中で斬った。その党類も皆死んだ。総領の趙醜児という者は初め馮と共謀していたが、内心安からず、西門を開いて宋軍を入れた。黒漢は大成山軍を率いて巷戦し、辰の刻から午の刻まで戦い、宋軍は大敗して退き、殺傷は数えきれなかった。宋人は城下で趙醜児を大呼し、力を合わせて大成山軍を殺すことを約した。大成軍は敗れ、宋人は黒漢を捕らえ、脅して降伏させようとしたが、黒漢は屈せず、殺された。脱走して生き延びた者は十余人で、総領の移剌望軍、女奚烈軍、醜児は蔡州に走り、皆昇進と恩賞を得たが、後いずれも甲午の難(蔡州陥落)で死んだ。
陀満胡土門
陀満胡土門、字は子秀、策論進士である。累官して翰林待制となった。貞祐二年、知中山府に遷る。三年、知臨洮府に改め、兼ねて本路兵馬都総管を務めた。叛賊蘭州の程陳僧らが夏人を誘って侵入させ、臨洮を包囲すること凡そ半月、城中の兵は数千で食糧も持ちそうになく、皆危ぶんだ。胡土門は日々順逆と禍福を説き聞かせ、皆自ら奮い立った。そこで内応しようとするその党類二十人を捕らえ、斬り、首を城外に投げ捨てた。賊は四面から攻めてきたので、夜に出撃して賊の陣営を襲い、夏兵は大いに乱れ、金軍がこれに乗じ、遂に大勝し、夏人は逃げ去った。
四年、知河中府事となり、権河東南路宣撫副使を兼ねた。十月、元帥右監軍に進み、前職を兼ねた。興定二年、絳陽軍節度使となり、兼ねて絳州管内観察使を務めた。十月、元帥左監軍に遷り、行元帥府事を管し、兼ねて知晉安府・河東南路兵馬都総管となった。ここにおいて、城壁を修築し、甲冑兵器を整え、秣と食糧を蓄積して、戦守に備えた。民は喜ばず、行省の胥鼎がこれを聞き、書を送って言った。「元帥は初め河中を鎮め、恵みと慈愛は民にあり、晉安に移られては、遠近喜び仰ぎます。去年、兵が侵入し、平陽は守れず、河東で保全されたのはただ絳のみです。これは公が座して計略をめぐらし勝利を制し、威徳が平素より著しいため、声気を動かさずして憂いなきに至ったのです。近ごろ伝聞するところでは、政を治めることあまりに剛毅で、徴税が重すぎると、鼎はひどく憂えます。古人に言う、下を統御するに寛大でなければ人は多く禍を恐れ、人を用いるに疑いがあれば士は心を尽くさない、と。まして大軍が近くにあり、隣境はすでに虚しく、小人は動きやすい、誠に考えないわけにはいきません。願わくは公、謙虚をもって下に接し、忠孝をもって人を結び、賞罰を明らかにし、賦税を公平にし、上は聖主の宵旰(夜遅くまで)の憂いを分かち、下は河東の長城としての託けとなられますように。」胡土門は書を得て、民が従わずあるいは変を生じることを恐れ、上言した。「臣はもと卑小な材で、重い任を辱く受け、まさに城壕と碑(防塁)を治め、秣と食糧を蓄えて防禦の計としようとしたところ、小民は始めを慮るのが難しく、臣の政令がやや急であるため、皆怨みの言葉があり、遂に行省の憂いを招きました。訓諭を聞いて以来、身の置き所がなく、内には自ら悔い改め、外には寛撫を加え、どうにか少しは衆心を慰めようとしました。ところが近ごろ朝命により軍を分けて河を渡らせると、またやかましく帥臣が兵を増やして守らず、かえって河南を助け、我らを見捨てようとしていると言い立てます。人心がこのようでは、恐らく一朝にして他変を生じるでしょう。以前、李革が平陽にいた時、人は安んぜず、李革は隠忍して言わず、ついに敗北に至りました。臣は実に拙く誤り多く、人を服させるすべがありません。敢えて胥鼎の書を上聞し、ただ朝廷に図っていただきます。」朝廷は胥鼎の言により、吏部尚書守顏閭山を遣わして彼と代えさせた。ある者は言う、胡土門は計略をもって晉安を去ろうとし、大いに役事を起こし、恣意的に殺戮を行い、わざと民心を失おうとしたので、胥鼎がそのことを言及したのだ、と。間もなく、晉安は守りを失い、死んだ者は数百万人に及び、遂に河東を失った。
三年八月、太常卿に改め、権簽樞密院事・知帰徳府事を兼ねた。元光二年二月、上書が事実に合わない罪に坐し、一官を削られた。正大三年七月、再び臨洮府総管となった。四年五月、城が破られ捕らえられ、降伏を誘われても応ぜず、跪かせられても従わず、刀でその膝と脛を乱打したが、終に屈せず、遂に殺された。五年、詔して中京留守を追贈し、褒忠廟に像を立て、その子孫を録用した。その妻の烏古論氏も節を守って死に、伝がある。
姬汝作
姬汝作、字は欽之、汝陽の人、全州節度副使端修の姪孫である。父の懋は、蔭官により部掾に試用され、転じて尚書省令史となった。汝作は書を読み義理を知り、性格は豪放で、細かい行いには拘らず、平素は才量をもって称された。正大末、兵を避けて崧山に移り、郷隣数百家を保護し、衆は長として彼に事えた。後に交牙山の砦に移り住んだところ、近侍局使烏古論四和が西山を撫諭することになり、便宜により汝作を北山招撫使に任じ、銀符を佩かせ、そこで汝州に遷入させた。
初め、汝州が破壊された後、天興元年正月、同知宣徽院事張楷が防禦使に任じられ、汴から襄・郟県の土兵百余りを率いて青陽垛に入った。時に呼延實という者が青陽砦の事務を統領していた。実は趙城の人で、もと楊沃衍の部曲であり、戦功により宝昌軍節度使に至ったが、汝州の西山に閑居していた。張楷は自ら衆を服させられぬと推し量り、州の事務を実に託し、まもなく鄧州に行って恆山公武仙に従った。後に大元の兵が至り、城は破られ、数千人を殺し、そこで降伏を許し、張宣差という者に州事を管轄させた。三月、鈞州の潰軍の柳千戸という者が州に入り、張は逃げ去り、柳は遂にこれを占拠した。間もなく、城は再び破られた。汝作が至った時、北兵は去っていたが、ただ空城であった。汝作は散亡した者を招集し、再び市井を立てた。北兵はたびたび招いたが従わず、数度戦って互いに勝敗があった。やがて北兵が再び攻めてきたので、汝作は自ら士卒を督励し、死をもって拒んだ。兵が退くと、間道を通じて奏上を入れ、哀宗は宣諭した。「この州には険固な守りに頼るべきものはない。汝はよく国のために命を用いた。今、同知汝州防禦使を授け、便宜を以て事を行え。」
この時、この州は南は鄧州に通じ、西は洛陽に接し、東は汴京に至り、使者の伝達する所であり、三方面の供給を賄い、音信を伝達していた。しかし呼延実が青陽に在って総帥となり、汝作の城を守る功績を妬み、互いに譲らず、州の事は動くごとに彼に制せられた。実は州を山中に遷そうと欲し、他日必ず大軍に破られると言った。汝作は「倉中の糧はなお多く、四方から潰れた軍が日々到着する。この輩は百死を経ており、激すれば皆用いることができる。朝廷は我にこの州を守らせているのに、総帥はこれを棄てようとするとは、何たる心か」と考えた。讒言と離間が行われた後、互いに図る隙が生じた。詳議官の楊鵬がこれを解き、「外難が未だ解けぬのに私憤を顧みる」と語り、その言葉は甚だ諄く切実であった。実は遂に山に還り、鵬は汝作に奏上を納めて、この州を死守することを乞い、軍民の心を堅くするよう勧めた。その冬、襄・郟で戦い、百余りの馬を得て、士気は頗る振るい、遂に汝作を総帥とし、もはや実と関わらなくなった。
天興二年六月、哀宗が蔡州に在り、使者を遣わして兵を徴発し入援させた。州人は偵察騎兵に悩まされ、農事は尽く廃れ、城中の糧もまた尽きようとしていた。この月、中京が破れ、配下の者たちが密かに唇亡びて歯寒しの憂いを議し、城を以て降ることを計ったが、汝作を恐れて敢えて言わず、遂に州を山中に遷すことを以てこれを告げた。汝作は怒って曰く、「我が家の父祖は百年禄を食み、今朝廷はまた州事と帥職を我に委ねた。我は生けるは金の民、死するは金の鬼である。汝らが山中に避けようとするのは、降伏を欲するのではないか。再び遷すと言う者あれば、我必ずこれを斬らん」と。
八月、塔察が大軍を率いて蔡を攻め、汝州を経過した。州人の梁皋が乱を起こし、旧吏の温沢・王和ら七八人と共に直ちに州庁舎に入り、汝作は備えをしなかったため、遂に殺害された。時に宣使の石珪が洛陽の破れた所以と強伸の死節の事を究明しており、路が阻まれたため、汝州の駅に留まっていた。梁皋は汝作を殺した後、走って珪に告げて曰く、「汝作は私的に糧斛を蓄え、軍民を恤れまず、衆怒を買って殺されました。皋は汝作の官職を図るものではなく、ただ宣使の裁きを仰ぎます」と。珪は恐れ、乃ち皋を権汝州防禦使・行帥府事に任じた。脱走して蔡に入り、皋が汝作を殺した事を上聞した。哀宗は甚だ嗟惜し、近侍の張天錫を遣わして汝作に昌武軍節度使を贈り、子孫に世襲の謀克を許し、仍って詔して峴山の帥呼延実・登封の帥范真に力を併せて皋を討たせた。天錫は峴山が遠いのを避け、先ず范真と約し、真は麾下の李某なる者を往かせ、軍民を撫諭することを名目とした。皋は軍士を率いて東門で迎えたが、朝廷が己を図っていることを知り、密かに備えをした。李は躊躇して敢えて発しなかった。皋は天錫を望崧楼に宿泊させ、食中に密かに毒を入れ、天錫は遂に中毒して死んだ。皋は後に大元の兵に殺された。
楊鵬、字は飛卿、詩を能くした。
愛申
愛申、その族と名は逸す。或いは曰く、一名は忙哥。元は虢県の鎮防軍であり、累功して軍中の総領に遷った。李文秀が秦州を占拠すると、宣宗は詔して鳳翔軍にこれを討たせ、軍は秦州城を包囲した。時に愛申は軍中に在り、罪有って当に死すべきところであった。宣宗が枢帥に問うと、その名を知る者が奏上して、この人は将帥の材であり、忠実にして倚るべしと。宣宗は命じて馳せてこれを赦し、以て徳順節度使・行元帥府事とした。正大四年春、大兵が西より来たり、徳順を以て坐夏の所としようとした。徳順には軍がなく、人々は甚だ危ぶんだ。愛申は鳳翔の馬肩龍(舜卿)なる者が事を謀るに与し得ると識り、乃ち書を遺わしてこれを招いた。肩龍は書を得て行かんと欲したが、鳳翔総管の禾速嘉国鑒は大兵が方に進み、我が城は恃むべくも、徳順は決して守れぬとして、往くことを勧めなかった。肩龍曰く、「愛申は平生我を識らず、一見して知己と許した。我は徳順が守れぬことを知る。往けば必ず死すべし。然れども知己の故に、これがために死せざるを得ないのだ」と。乃ち行嚢を挙げて族父に付し、明らかに死別とし、危険を冒して去った。既に至り、数日も経たぬうちに包囲を受け、城中にはただ義兵郷軍八九千人がいるのみで、大兵は天下の勢いを挙げてこれを攻めた。愛申は舜卿に鳳翔総管府判官を仮とし、守禦を一に共にした。凡そ百二十昼夜攻められ、力尽きて乃ち破れ、愛申は剣を以て自ら剄し、時に年五十三。軍中は肩龍を生け捕りにすることを募ったが、その終わりを知らなかった。台諫に徳順の死事者に官を贈るべきと建言する者があり、以て中外を勧めた。詔して各々官を贈り、褒忠廟に配食させた。
馬肩龍(付)
肩龍、字は舜卿、宛平の人。先世は遼の大族であり、興中府を知る者あり、故に人は興中馬氏と号した。祖父の大中は、金の初めに科挙に登第し、全・錦両州を節度した。父の成誼は、明昌五年に登第し、仕えて京兆府路統軍司判官となった。肩龍は太学に在って賦の名声があった。宣宗の初め、宗室の従坦が人を殺したと誣告され、死に置かんとしていた。人は敢えてその冤罪を言わなかったが、肩龍が上書し、大略に「従坦は将帥の材あり、少なきは其の右に出ずる者なし。臣は一介の書生、世に用いられず、願わくは従坦に代わって死し、留めて天子の将兵たらしめん」と。書が奏上され、詔問して「汝は従坦と交分厚きか」と。肩龍対えて曰く、「臣は従坦を知るも、従坦は未だ臣を識らず。従坦は冤罪なりと人、敢えて言わず。臣は死を以てこれを保つ」と。宣宗は感悟し、従坦を赦し、肩龍を東平録事に授け、行省に委ねて試験させた。宰相の侯摯と語り合わず、数ヶ月留めて罷め帰らせた。将に河を渡らんとする時、排岸官と紛争し、篋中を捜索され、軍馬糧料の名数及び利害数事を得て、奸人の偵伺者と疑われ、帰徳の獄に繋がれて根底から取り調べられた。丁度従坦が至り、立ちどころに救い出した。正大三年、鳳翔に客とし、元帥の愛申に深く器重された。ここに至り、同じく難に死した。
禹顕
禹顕、雁門の人。貞祐初年、上党公張開に隷属し、累戦の功を以て義勝軍節度使・兼沁州招撫副使を授けられた。元光二年四月、大帥の達児泬・按察児が河東を攻め、張開は顕を遣わして龍猪谷を扼させ、挟撃してこれを破り、元帥の韓光国を擒にし、輜重甲仗を甚だ多く獲て、祁県まで追撃して還り、歴たる州県は悉くこれを回復した。顕は三百人の兵を将いて襄垣を守り、八年間遷らなかった。大帥は嘗て河朔の歩騎数万を集めてこれを攻め、数四に至っても抜くことができなかった。既にして、玉女寨に戦い、大いに獲るところがあった。開が朝廷に言上し、権元帥右都監とした。正大六年冬十二月、軍内に変あり、城は破られて擒にされた。帥はその義を重んじ、害を加えようとしなかった。初めは鉄縄でこれを繋いだが、既にして密かに旧部曲二十人と共に遁走し、上党公の軍が再び振るうと聞き、将にこれに従わんとした。大兵が四方より追って来た。顕は丁度釜を負う一兵と相失い、山寺に飯を乞うた。僧が走ってこれを報じたため、捕らえられて屈せず死し、時に年四十一。
張邦憲
秦州の人張邦憲、字は正叔、正大年間の進士に登第し、永固令となった。天興二年、兵を避けて徐州にいた。卓翼が兵を率いて城に至り、邦憲は捕らえられ、将にこれを北に駆り立てようとした。邦憲罵って曰く、「我は進士なり、誤って朝廷に用いられて邑長となった。汝ら曹に従って反逆できようか」と。遂に遇害した。
劉全
劉全なる者は、彭城の民である。郷鄰数百を率いて兵を避けて沫溝に至り、推されて砦主となった。北兵が徐に至り、その老幼を尽く俘虜にし、全の父もまたその中にいた。北兵はこれを人質として全を招いた。全はその人を縛って徐州に送り、因って密かにその父を奪い帰った。徐帥の益都はその忠を嘉し、制を承けて以て昭信校尉とし、遥かに彭城県尉を領させた。後に国用安に遇い、その己に附かぬことを怒られ、殺害された。