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遼史
列傳第二十四: 耶律化哥 耶律斡臘 耶律速撒 蕭阿魯帶 耶律那也 耶律何魯掃古 耶律世良
耶律化哥、耶律斡臘、耶律速撒、蕭阿魯帶、耶律那也、耶律何魯掃古、耶律世良
耶律化哥は、字を弘隱といい、孟父楚國王の後裔である。騎射に優れていた。乾亨初年、北院林牙となった。統和四年、宋を南侵した際、化哥は間者を捕らえ、敵が海路より来襲することを知り、即座に平州の要地を占拠した。事が平定すると、上京留守に任ぜられ、北院大王に転じた。十六年、再び宋を侵し、先鋒となり、遂城において敵を破り、功により南院大王に転じ、まもなく北院樞密使に改められた。開泰元年、阻卜を討伐し、阻卜は輜重を捨てて遁走し、捕獲したものが甚だ多かった。帝はこれを嘉し、豳王に封じた。後に辺境の官吏が上奏して、化哥が朝廷に還って以来、糧食が乏しく馬が弱り、守る勢いでないと述べたので、上は再び化哥を遣わして西境を経略させた。化哥は辺境の将と共に深く侵入し、蕃部が命令に背き、翼只水に居ると聞くと、化哥はゆるやかに兵を進めた。敵は風の便りに奔り潰れ、羊馬及び輜重を獲た。路は白抜烈を経由し、阿薩蘭回鶻に遇い、これを掠奪した。都監の裏繼が至り、化哥に言うには、「君は誤りたり。この部は実に順効する者なり。」化哥は捕虜としたものを悉く返還した。諸蕃はこれにより帰附しなくなった。上はこれを按問させ、王爵を削った。侍中として大同軍節度使を遙領し、卒した。
耶律斡臘は、字を斯寧といい、奚叠剌部の人である。敏捷で力強く、騎射に優れていた。保寧初年、護衛に補せられた。車駕が頡山で狩猟した際、豪猪が叢莽に伏していたところ、帝が射て命中し、猪が突進して出た。御者は托滿が手綱を捨てて避け、廄人は鶴骨がこれをかばい、斡臘が再び射て斃した。帝は賞賛した。また赤山で狩猟した際、奔鹿が角を奮って前に突進し、路が狭く避ける余地がなく、まさに蹕を犯さんとした。斡臘は身をもってこれを防ぎ、鹿は触れて倒れた。帝は言った、「朕は狩猟により、二度危険に瀕したが、卿により免れることができ、初めて爾が心を知った。」護衛太保に遷った。樞密使耶律斜軫に従い、山西において宋将楊繼業の軍を破った。統和十三年秋、行軍都監となり、都部署奚王和朔奴に従い兀惹烏昭度を討伐し、数ヶ月してその城に至った。昭度は降伏を請うた。和朔奴はその捕虜掠奪を利し、四面より急攻を命じた。昭度は衆を率いて死守し、方に随って防禦した。城壁の塀に依り虚構の戦棚を構え、我が軍を誘って城壁に登らせ、俄かに支柱を撤去し、登った者は尽く覆された。和朔奴は下せぬと知り、退却しようとした。蕭恒德は言うに、師が久しく功なく、何を以て口実とせん、もし深く侵入し大いに掠奪すれば、なお空しく返るに勝ると。斡臘は言った、「深く侵入すれば、恐らく得る所は損ずる所に償わず。」恒德は従わず、地を略して東南に進み、高麗の北辺に沿って還った。道遠く糧絶え、人馬多く死んだ。詔して諸将の官を奪い、惟だ斡臘のみは以前の議論により免れた。まもなく同政事門下平章事を加えられ、東京留守となった。開泰年間に卒した。
耶律速撒は、字を阿敏といい、性質忠直簡毅にして、武事に練達していた。応暦初年、侍従となり、累遷して突呂不部節度使となった。霸、済、祥、順、聖の五州都総管を歴任し、俄かに敦睦宮太師となった。保寧三年、九部都詳穩に改めた。四年、党項を討伐し、屡々戦功を立て、手詔をもって労った。統和初年、皇太后が称制し、西辺がようやく定まった際、速撒は諸蕃を安集することを務め、利害あれば即ち具に以て上聞し、太后はますますこれを信任した。凡そ軍に臨むに、士卒と甘苦を共にし、獲たものは均しく将校に賜った。順なるを賞し逆なるを討ち、威信大いに振るった。辺境に二十年いて卒した。
蕭阿魯帶は、字を乙辛隱といい、烏隗部の人である。父は女古、糺詳穩に至って仕えた。阿魯帶は少より騎射を習い、兵法に通暁した。清寧年間に初めて仕え、累遷して本部司徒となり、烏古敵烈統軍都監に改めた。大安七年、山北副部署に遷った。九年、達理得、抜思母の二部が来侵したので、兵を率いてこれを撃退した。達理得が再び牛羊を劫略して去ったので、阿魯帶は兵を引きいて追い及び、掠奪したものを尽く獲て、渠帥数人を斬った。この冬、達理得らが三百余人をもって辺境を塞ぎ、再び戦ってこれを退け、二百余級を斬首し、金吾衛上將軍を加えられ、蘭陵縣公に封ぜられた。寿隆元年、功績を評定し、同中書門下平章事を加えられ、郡公に進爵し、西北路招討使に改めた。乾統三年、宋の捕虜で遣還すべき者を奴隷として留めた罪に坐し、免官された。後に征召されたが、老病を以て致仕し、卒した。
耶律那也は、字を移斯輦といい、夷離堇蒲古只の後裔である。父は斡、嘗て北克となり、夏を討伐に従い戦死した。季父の趙三は、初め宿直官となり、累遷して北面林牙に至った。咸雍四年、北院大王に任ぜられ、西南面招討使に改めた。大康年間、西北諸部が辺境を擾したので、討伐に赴かんと議したが、帝は趙三でなければならぬとし、遂に西北路招討使に任じ、兼ねて行軍都統とし、これを平定し、功により再び北院大王となった。那也は敦厚で才敏であった。上はその父の斡が王事に死したことを以て、九歳にして諸衛小將軍を加え、題裏司徒とし、まもなく召されて宿直官となった。大康三年、遙輦克となった。大安九年、倒塌嶺節度使となった。明年の冬、北阻卜の長磨古斯が叛いたので、招討都監耶律胡呂と共に精騎二千を率いて討伐に赴き、これを破った。那也は胡呂を推薦して漢人行宮副部署とした。寿隆元年、再び達理得、抜思母らを討伐して功があり、詔を賜って褒め称えられ、烏古敵烈部統軍使に改め、辺境は以て寧んじた。部民が留任を乞うたので、詔して再任を許した。乾統六年、中京留守に任ぜられ、北院大王に改め、薨じた。
那也は人となり廉潔で、民を治めることに長け、闘訟があるごとに自ら曲直を審らかにし、威厳を尚ばず、常に言った、「凡そ人を治めるには、本より是非を分別せんと欲するのであり、何事ぞ迫脅して以て名を立てんとする。」故に至る所、恵化を以て称された。
耶律何魯掃古は、字を烏古鄰といい、孟父房の後裔である。重熙末年、祗候郎君に補せられた。清寧初年、安州團練使を加えられた。大康年間、懐徳軍節度使、奚六部禿裏太尉を歴任した。詔して樞密官と共に東北辺境の事を措画し、左護衛太保に改めた。上に侍し、言うところ多く率易であったが、他に悪意なきを察し、以て故に上は優しくこれを許した。大安八年、西北路招討使事を知った。時に辺境の部族耶睹刮らが来侵したので、何魯掃古は北阻卜の酋豪磨古斯を誘ってこれを攻撃させ、捕獲甚だ多く、功により左僕射を加えられた。再び耶睹刮らを討伐したが、誤って磨古斯を撃ち、北阻卜はこれにより叛命した。都監張九を遣わしてこれを討たせたが、克たず、二室韋と六院部、特満群牧、宮分等の軍は俱に敵に陥った。何魯掃古は実情を上聞せず、この罪に坐して官を削られ、大杖にて決せられた。寿隆年間、累遷して惕隱となり、侍中を兼ね、保節功臣を賜った。道宗が崩ずると、宰相耶律儼と共に山陵の事を総べた。乾統年間、致仕し、卒した。
耶律世良、字は斡、六院部の人なり。才は敏給にして、國朝の典故及び世譜に練達す。上書して族弟の敵烈と嫡庶を爭ひ、帝始めて之を知る。時に北院樞密使韓德讓病み、帝問ふ、「孰か卿に代はるべき。」德讓曰く、「世良可なり。」北院大王耶律室魯復た北院の選を問ふ、德讓曰く、「世良に出でる者なし。」統和末、北院大王と為る。開泰初、大冊禮に因り、檢校太尉・同政事門下平章事を加ふ。時に邊部命を拒み、詔して北院樞密使耶律化哥に兵を將ゐしめ、世良を以て都監と為し、往きて之を禦がしむ。明年、化哥還り、兵を罷めんとす、世良上書して曰く、「化哥は事無しと為して還るも、師老ひ糧乏しきを思はず、敵人已に去る、焉んぞ能く久しく守らん。若し兵を益さば、克つ可し。」帝即ち化哥に命じて兵を益し、世良と與に之を追はしむ。安真河に至り、大破して還る。是より邊境以て寧し。功を以て岐に王し、北院樞密使を拜す。三年、烏古部に於て馬駝を選ばしむるを命ず。會ひて敵烈部の人夷剌其の酋長稍瓦を殺して叛き、鄰部皆應じ、巨母古城を攻め陷す。世良兵を率ゐて境を壓し、人を遣はして之を招く、數部降り、各故地に復す。四年、高麗を伐ち、副部署と為る。都統劉慎行逗留して期を失ひ、執へて京師に還し、世良獨り進兵す。明年、北都護府に至り、追兵を郭州に破る。暴疾に卒す。
論じて曰く、大の小を懷くるは德を以てし、之を制するは威を以てす。德懷くるに足らず、威制するに足らずして、人を服せんと欲するは難きかな。化哥は俘獲を利し、而して諸蕃附かず、何魯掃古誤りて磨古斯を撃ち、而して阻卜命に叛く、是れ皆一旦の功を喜び、後日の患を圖らざるなり、庸何ぞ議はん。若し斡臘の深入を戒め、速撒の安集を務むるは、亦た鐵中の錚錚者なるか。