遼史

列傳第十七: 蕭孝穆 蕭蒲奴 耶律蒲古 夏行美

○蕭孝穆(撒八、孝先、孝友)蕭蒲奴、耶律蒲古、夏行美

蕭孝穆

蕭孝穆、小字は胡獨堇、淳欽皇后の弟阿古只の五世孫。父は陶瑰、國舅詳穩となった。孝穆は廉潔謹厳にして礼法を有した。統和二十八年、累遷して西北路招討都監となる。開泰元年、遙授で建雄軍節度使となり、検校太保を加えられる。この年、術烈らが変を起こすと、孝穆はこれを撃退した。冬、軍を進めて可敦城に至る。阻卜が五群牧長の查剌、阿睹らと結び、内外相応せんと謀る。孝穆はこれを悉く誅し、厳に備禦を整えて待つと、余党は遂に潰走した。功により九水諸部安撫使に遷る。まもなく北府宰相に拝され、忠穆熙功臣を賜り、検校太師、同政事門下平章事となる。八年、京師に還る。太平二年、枢密院事を知り、漢人行宮都部署を充てる。三年、燕王に封ぜられ、南京留守、兵馬都総管となる。九年、大延琳が東京にて叛く。孝穆は都統としてこれを討ち、蒲水にて戦う。中軍が稍く退却するや、副部署蕭匹敵、都監蕭蒲奴が両翼より挟撃し、賊は潰走、手山の北にて追撃してこれを破る。延琳は城に走り込み、深溝を築いて自衛する。孝穆はこれを包囲し、重城を築き、楼櫓を起こして内外を通ぜしめず、城中は屋を撤いて炊爨する。その将楊詳世らが延琳を擒えて降る。遼東悉く平まる。東京留守に改め、佐国功臣を賜る。政を為すに寛簡を務め、流徙の民を撫納すれば、その民安んず。

興宗即位すると、秦に移封され、まもなくまた南京留守となる。重熙六年、進んで吳國王に封ぜられ、北院枢密使に拝される。八年、表を上って天下の戸口を籍し以て徭役を均しくすることを請い、また諸部及び舍利軍の利害を陳べる。従われる。これにより政賦稍く平らぎ、衆悦ぶ。九年、楚に移封される。時に天下事無く、戸口は蕃息し、上は春秋に富み、周が十県を取ったことに言及する毎に、慨然として南伐の志有り。群臣多くは旨に順う。孝穆諫めて曰く、「昔、太祖南伐し、終に功無きに終わる。嗣聖皇帝は唐を仆ち晉を立てたるも、後に重貴叛き、長駆して汴に入るも、鑾馭始めて旋るや、反って侵軼して来たる。その後連兵二十余年、僅かに和好を得て、蒸民は業を楽しみ、南北相通ず。今、国家を曩日に比すれば、富強と曰うと雖も、然れども勲臣宿将は、往々にして物故す。且つ宋人は罪無し、陛下は先帝の盟約を棄つべからず」。時に上意既に決し、書奏して報いられず。年老を以て骸骨を乞うも、許されず。十二年、また北院枢密使となり、斉に移封され、薨ず。大丞相、晉國王を追贈され、謚して貞と曰う。

孝穆は椒房の親と雖も、位高きに益々畏れを抱く。太后賜う有らば、輒ち辞して受けず。妻子驕れる色無し。人と交わるに、終始一貫す。薦め抜く所は皆忠直の士。嘗て人に語りて曰く、「枢密は賢を選びて用うれば、何事か済まざらん。若し自ら親しく煩碎に及べば、則ち大事は疑滞す」。蕭合卓が吏才を以て進みしより、その後転じてこれを效い、大體を知らず。嘆じて曰く、「風俗を移し易える能わず、爵位に安んずるは、臣子の道かくの如きか」。時に「國寶臣」と称され、著する文を目して『寶老集』と曰う。二子、阿剌、撒八、弟、孝先、孝忠、孝友、各々傳有り。

子 撒八

撒八、字は周隱。七歳、戚属を以て左右千牛衛大將軍を加えられる。重熙初、祗候郎君を補う。性廉介、風姿爽朗、球馬、馳射に長ず。帝宴飲する毎に、諧謔を喜ぶ。撒八は寵顧を承くるも、常に礼を以て自ら持し、時に人これを称す。柴冊礼の恩を以て、検校太傅、永興宮使を加えられ、左右護衛を総領し、点検司事を同知す。魏國公主を尚ぎ、駙馬都尉に拝され、北院宣徽使となり、仍って朝廷の禮儀を総知す。重熙末、出でて西北路招討使、武寧郡王となる。官に居るに治績を以て称せらる。清寧初に薨ず、年三十九、斉王を追封される。

弟 孝先

孝先、字は延寧、小字は海裏。統和十八年、祗候郎君を補う。南陽公主を尚ぎ、駙馬都尉に拝される。開泰五年、國舅詳穩となる。兵を将いて東鄙に城す。還りて、南京統軍使となる。太平三年、漢人行宮都部署となり、まもなく太子太傅を加えられる。五年、上京留守に遷る。母老を以て侍するを求め、また國舅詳穩となる。東京留守に改む。会に大延琳反し、数ヶ月包囲され、地を穴ぐって出づ。延琳平らぎ、上京留守となる。十一年、帝せず、欽哀、孝先を召して禁衛の事を総せしむ。興宗諒陰の時、欽哀、仁德皇后をしいす。孝先は蕭浞卜、蕭匹敵らと謀る所多し。欽哀摂政するに及び、遙授で天平軍節度使となり、守司徒しとを加えられ、政事令を兼ぬ。重熙初、楚王に封ぜられ、北院枢密使となる。孝先は椒房の親を以て、太后に重んぜらる。枢府に在りて、好悪自ら恣にし、権は人主を傾け、朝多くは側目す。三年、太后と孝先、廃立の事を謀る。帝これを知り、衛兵を勒して宮を出で、孝先を召し至らしめ、太后を廃するの意を諭す。孝先震懾して対ふ能わず。太后を慶州に遷す。孝先恒に郁郁として楽しまず。四年、晉に移封される。後に南京留守となり、卒す。謚して忠肅。

弟 孝友

孝友、字は撻不衍、小字は陳留。開泰初、戚属を以て小將軍となる。太平元年、大冊を以て、左武衛大將軍、検校太保を加えられ、孝友の名を賜う。重熙元年、累遷して西北路招討使となり、蘭陵郡王に封ぜられる。八年、進んで陳王となる。先に、蕭惠が招討使たりし時、専ら威を以て西羌を制し、諸夷多く叛く。孝友下車するや、厚く綏撫を加え、入貢する毎に、輒ちその賜物を増し、羌人安んず。久しくして、浸くに姑息と成り、諸夷桀驁の風遂に熾んず。議者その過中を譏る。十年、政事令を加えられ、效節宣庸定遠功臣を賜り、吳に移封される。後に兄孝穆、孝忠を葬るため、京師に還り、南院枢密使に拝され、翊聖協穆保義功臣を加賜され、趙に進封され、中書令に拝される。母憂に服す。起復して北府宰相となり、出でて東京留守を知る。会に夏を伐つ。孝友は枢密使蕭惠とともに河南にて利を失う。帝これを誅せんと欲すも、太后救いて免す。また東京留守となり、燕に移封され、上京留守に改め、秦に移封される。清寧初、尚父を加えられる。頃くして、また東京留守となる。明年、また北府宰相となる。帝親しく誥詞を制して以てこれを褒寵す。柴冊の恩を以て、遙授で洛京留守となり、純德功臣を益々賜り、致仕し、進んで豊國王に封ぜられる。子胡睹が首として重元の乱に与したるに坐し、誅せらる。年七十三。胡睹は『逆臣傳』に在り。

蕭蒲奴

蕭蒲奴、字は留隱、奚王楚不寧の後裔なり。幼くして孤貧、醫家に傭はれて牛を牧す。人の稼を傷け、數たび笞辱に遭ふ。醫者嘗て蒲奴の熟寐するに、蛇身を繞る有るを見て、之を異とす。以て讀書を教ふ。聰敏にして學を嗜む。數年ならずして經史を涉獵し、騎射を習ふ。既に冠し、意氣豪邁なり。開泰の間、選ばれて護衛に充て、稍く進用せらる。俄に罪に坐し、げいして烏古部に流さる。久しくして召し還され、累ね劇任に任じ、遷りて奚六部大王と為り、治績聲有り。太平九年、大延琳東京に據りて叛く。蒲奴都監と為り、右翼軍を將ひ、賊に遇ひて蒲水に戰ふ。中軍少しく卻く。蒲奴左翼軍と之を夾攻す。先づ高麗・女直の要衝を據り、して援を求めしむるを得ざらしめ、又賊を手山に破る。延琳城に走入す。蒲奴馬に介せずして馳せ、余賊を追殺す。已にして大軍東京を圍む。蒲奴諸の叛邑を討ち、吼山の賊を平げ、延琳堅守して敢へて出でず。既に擒へらるるに及び、蒲奴功を以て兼ねて侍中を加へらる。重熙六年、北阻卜副部署に改め、再び奚六部大王を授く。十五年、西南面招討使と為り、西征して夏國を伐つ。蒲奴兵二千を以て河橋に據り、巨艦數十艘を聚め、仍て大鉤を作る。人測る莫し。戰の日、舟を河に布き、綿亙三十餘里。人を遣はして上流に伺はしめ、浮物有れば輒ち之を取らしむ。大軍既に利を失ふも、蒲奴未だ知らず。適た大木流れに順ひて下り、勢ひ浮梁を壞らんとし、歸路を斷たんとす。舟を操る者爭ひて鉤して之を致し、橋壞れざるを得たり。明年、復た西征し、兵を懸けて深入し、大掠して還り、復た奚六部大王と為る。致仕し、卒す。

耶律蒲古

耶律蒲古、字は提隱、太祖の弟蘇の四世孫なり。武勇を以て稱せらる。統和の初、涿州刺史と為り、從ひて高麗を伐ち功有り。開泰の末、上京內客省副使と為る。太平二年、鴨淥江に城し、蒲古之を守る。鎮に在りて治績有り。五年、廣德軍節度使に改め、尋いで東京統軍使に遷る。政に蒞むこと嚴肅、諸部懾服す。九年、大延琳叛く。書を以て保州を結ぶ。夏行美其の人を執りて蒲古に送る。蒲古入りて保州に據り、延琳氣沮す。功を以て惕隱に拜せらる。十一年、子鐵に弒せらる。

夏行美

夏行美、渤海人なり。太平九年、大延琳叛く。時に行美渤海軍を保州に總ぶ。延琳人をして說かしめて俱に叛かんと欲す。行美執りて統軍耶律蒲古に送り、又賊黨百人を誘ひて之を殺す。延琳謀沮し、乃ち城を嬰して自ら守り、數月にして破る。功を以て同政事門下平章事を加へられ、錫賚甚だ厚し。明年、忠順軍節度使を擢てらる。重熙十七年、副部署に遷り、點檢耶律義先に從ひて蒲奴裏を討ち、其の酋陶得裏を獲て以て歸る。致仕し、卒す。上其の功を思ひ、使を遣はして家に祭らしむ。

論じて曰く、君子有らずんば、其れ能く國たるや。方に其の延琳を擒へ、遼東を定むるに、一時諸將の功偉なり。宜しく其の劍を撫で掌を抵ち、余勇を賈ひて以て天下を威すべし。蕭孝穆の南侵を諫むる、其の意防何ぞ其れ弘遠なるや。是れ豈に瞋目して語難する者の能く知る所ならんや。至りて風俗を移すを治の本と論じ、煩碎に親しむを大臣の體を失ふと為すは、又何ぞ其れ深切著明なるや。「國寶臣」と為る、宜なり。孝先仁德を弒するの謀に預り、猶ほ城社に依りて以て熏灌を逃る。國臣の蠹と為り、功有りと雖も何をか議せん。