遼史

列傳第四: 耶律ヤリツ敵剌 蕭ショウ痕篤 康默記 韓延徽 韓知古

列傳第四: 耶律ヤリツ敵剌 蕭ショウ痕篤 康默記 韓延徽 韓知古

耶律敵剌、蕭痕篤、康默記(延壽)、韓延徽(德樞、紹勛、紹芳、資讓)、韓知古(匡嗣、德源、德凝)

原文○耶律敵剌蕭痕篤康默記(延壽)韓延徽(德樞紹勛紹芳資讓)韓知古(匡嗣德源德凝)

耶律敵剌

原文耶律敵剌

耶律敵剌は、字あざなを合魯隱といい、遙輦氏の鮮質可汗カガンの子である。太祖が即位すると、敞穩の海裏と心を合わせて政務を補佐した。太祖はその忠実さを知り、礼儀を掌らせ、かつ軍事を委ねた。後に内乱平定の功により、轄裏に代わって奚六部吐裏となり、卒した。敵剌は騎射に優れ、礼文を好むところが多かった。

原文耶律敵剌,字合魯隱,遙輦鮮質可汗之子。太祖踐阼,與敞穩海裏同心輔政。太祖知其忠實,命掌禮儀,且諉以軍事。後以平內亂功,代轄裏為奚六部吐裏,卒。敵剌善騎射,頗好禮文。

蕭痕篤

原文蕭痕篤

蕭痕篤は、字を兀裏軫といい、叠剌部の人である。その祖先は遙輦氏に仕えた。痕篤は若い頃から気概があり、才能を以て自ら任じた。早くより太祖の帳下に属し、しばしば征討に従った。即位後、北府宰相に任ぜられた。痕篤は親に仕えて孝行であり、政務は寛大で簡素なことを尊んだ。

原文蕭痕篤,字兀裏軫,叠剌部人。其先相遙輦氏。痕篤少慷慨,以才能自任。早隸太祖帳下,數從征討。既踐阼,除北府宰相。痕篤事親孝,為政尚寬簡。

康默記

原文康默記

康默記は、本名を照という。若くして薊州の衙校となり、太祖が薊州を侵してこれを得、その才能を愛でて麾下に属させた。一切の蕃・漢に関わる事柄は、默記に委ねて折衷させたが、すべて上意に合った。当時諸部は新たに帰附し、法令制度が未だ整わなかったが、默記は律の意を推し量り、罪の重軽を論じて決し、毫厘も違わなかった。法網にかかった者は、人々自ら冤罪でないと思った。間もなく、左尚書に任ぜられた。神冊三年、初めて都を建てるにあたり、默記が工事を監督すると、人々は皆励んで赴き、百日で事を終えた。五年、皇都夷離畢となった。太祖が居庸関に出師した際、默記に漢軍を率いさせて長蘆の水寨に進逼させ、捕虜や斬首は甚だ多かった。天贊四年、渤海ホッカイに親征した際、默記は韓知古とともに従った。後に大諲譔が叛くと、諸将にこれを攻めさせた。默記は分かれて東門に迫り、驍勇を率いて先に登城した。陥落後、韓延徽とともに長嶺府を下した。軍が帰還すると、既に下した城邑の多くが叛いたため、默記は阿古只とともにこれを平定した。回跋城を破った後、太祖の山陵の造営が終わると、卒した。佐命功臣の一人である。

原文康默記,本名照。少為薊州衙校,太祖侵薊州得之,愛其材,隸麾下。一切蕃、漢相涉事,屬默記折衷之,悉合上意。時諸部新附,文法未備,默記推析律意,論決重輕,不差毫厘。罹禁網者,人人自以為不冤。頃之,拜左尚書。神冊三年,始建都,默記董役,人咸勸趨,百日而訖事。五年,為皇都夷離畢。會太祖出師居庸關,命默記將漢軍進逼長蘆水寨,俘馘甚眾。天贊四年,親征渤海,默記與韓知古從。後大諲譔叛,命諸將攻之。默記分薄東門,率驍勇先登。既拔,與韓延徽下長嶺府。軍還,已下城邑多叛,默記與阿古只平之。既破回跋城,歸營太祖山陵畢,卒。佐命功臣其一也。

孫 延壽

原文孫 延壽

孫延壽は、字を胤昌といい、若い頃から豪放であり、親しい者に言った。「大丈夫将となるは、辺境に節を尽くし、馬革に屍を包むべし」と。景宗は特に千牛衛大將軍を授けた。宋人が南京を攻めた時、諸将が既に陣を成すと、延壽はただ一人奮戦して陣前に撃ちかかり、敵は遂に大いに潰走した。功により遙授で保大軍節度使となった。乾亨三年に卒した。

原文孫延壽,字胤昌,少倜儻,謂其所親:「大丈夫為將,當效節邊垂,馬革裹屍。」景宗特授千牛衛大將軍。宋人攻南京,諸將既成列,延壽獨奮擊陣前,敵遂大潰。以功遙授保大軍節度使。乾亨三年卒。

韓延徽

原文韓延徽

韓延徽は、字を藏明といい、幽州安次県の人である。父の夢殷は、累官して薊・儒・順の三州刺史となった。延徽は若くして英邁であり、燕の帥劉仁恭はこれを奇異とし、召して幽都府文学・平州錄事參軍とし、馮道とともに祗候院に仕えさせ、幽州觀察度支使を授けた。後に守光が帥となると、延徽が使節として来たが、太祖はその屈しないことに怒り、留め置いた。述律后が諫めて言うには、「彼は節を守って撓まず、賢者である。どうして困窮させ辱しめようとするのか」と。太祖が召して語らせると、上意に合い、直ちに參軍事を命じた。党項トウコウ・室韋シツイを攻め、諸部落を服従させるにあたり、延徽の献策が多かった。そこで城郭を築き、市裏を分かち、漢人の降伏者を居住させることを請うた。また配偶を定め、開墾耕作を教え、生養させた。この故に逃亡する者は少なかった。

原文韓延徽,字藏明,幽州安次人。父夢殷,累官薊、儒、順三州刺史。延徽少英,燕帥劉仁恭奇之,召為幽都府文學、平州錄事參軍,同馮道祗候院,授幽州觀察度支使。後守光為帥,延徽來聘,太祖怒其不屈,留之。述律后諫曰:「彼秉節弗撓,賢者也,奈何困辱之?」太祖召與語,合上意,立命參軍事。攻党項、室韋,服諸部落,延徽之籌居多。乃請樹城郭,分市裏,以居漢人之降者。又為定配偶,教墾藝,以生養之。以故逃亡者少。

久しく居るうちに、慨然として郷里を懐かしみ、詩を賦して意を表し、遂に逃亡して唐に帰った。しばらくして他の将軍王緘と不和となり、難が及ぶことを恐れ、幽州に帰省し、旧友の王德明の家に匿れた。德明が行く先を尋ねると、延徽は言った。「私は再び契丹キタイに走ろう」と。德明はそうすべきでないと思った。延徽は笑って言った。「彼らは私を失えば左右の手を失うが如く、私に会えば必ず喜ぶであろう」と。到着すると、太祖は理由を尋ねた。延徽は言った。「親を忘れるは孝ならず、君を棄つるは忠ならず。臣は身を挺して逃げたとはいえ、臣の心は陛下に在りました。臣はこの故に再び参りました」と。上は大いに喜び、匣列という名を賜った。「匣列」は、遼語で「再び来る」という意味である。直ちに守政事令・崇文館大學士と命じ、内外の事柄をすべて参決させた。

原文居久之,慨然懷其鄉里,賦詩見意,遂亡歸唐。已而與他將王緘有隙,懼及難,乃省親幽州,匿故人王德明舍。德明問所適,延徽曰:「吾將復走契丹。」德明不以為然。延徽笑曰:「彼失我如失左右手,其見我必喜。」既至,太祖問故。延徽曰:「忘親非孝,棄君非忠。臣雖挺身逃,臣心在陛下。臣是以復來。」上大悅,賜名曰匣列。「匣列」,遼言復來也。即命為守政事令、崇文館大學士,中外事悉令參決。

天贊四年、渤海征討に従い、大諲譔が降伏を乞うた。その後再び叛くと、諸将とともにその城を破り、功により左僕射に任ぜられた。また康默記とともに長嶺府を攻め、これを陥落させた。師が帰還し、太祖が崩ほう御すると、哀哭して左右を感動させた。太宗の朝には、魯國公に封ぜられ、引き続き政事令となった。晋に使いして帰還後、南京三司使に改めた。世宗の朝には、南府宰相に遷り、政事省を建て、制度を整え、尽力する官吏と称された。天祿五年六月、河東の使者が冊礼の執行を請うたので、帝は延徽にその制度を定めさせた。延徽は、すべて太宗が晋帝を冊立した礼に従うべきであると奏上し、これに従った。応暦年間に致仕した。子の德樞が東平を鎮守した際、詔により毎年東に帰って省みることを許された。九年に卒し、七十八歳であった。上は聞いて震悼し、尚書令を追贈し、幽州の魯郭に葬り、代々崇文令公と称された。

原文天贊四年,從征渤海,大諲譔乞降。既而復叛,與諸將破其城,以功拜左僕射。又與康默記攻長嶺府,拔之。師還,太祖崩,哀動左右。太宗朝,封魯國公,仍為政事令。使晉還,改南京三司使。世宗朝,遷南府宰相,建政事省,設張理具,稱盡力吏。天祿五年六月,河東使請行冊禮,帝詔延徽定其制,延徽奏一遵太宗冊晉帝禮,從之。應歷中,致仕。子德樞鎮東平,詔許每歲東歸省。九年卒,年七十八。上聞震悼,贈尚書令,葬幽州之魯郭,世為崇文令公。

初め、韓延徽が南へ奔った時、太祖は白鶴が帳中から飛び出る夢を見た。彼が帰還すると、再び帳中に入った。翌朝、侍臣に言った、「延徽が至った。」やがて果たしてその通りであった。太祖の初年、諸事草創の折、都邑を営み、宮殿を建て、君臣の分を正し、名分を定め、法度を整然たらしめたのは、延徽の力である。佐命功臣の一人となった。子に徳枢。

原文初,延徽南奔,太祖夢白鶴自帳中出;比還,復入帳中。詰旦,謂侍臣曰:「延徽至矣。」已而果然。太祖初元,庶事草創,凡營都邑,建宮殿,正君臣定,名分,法度井井,延徽力也。為佐命功臣之一。子德樞。

子 徳枢

原文子 德樞

徳枢は年わずか十五歳の時、太宗がこれを見て、延徽に言った、「この児は卿が家の福、朕が国の宝、真の英物である。」元服前に左羽林大将軍を守り、特進太尉に遷った。当時、漢人で降伏し転徙する者は多く東平に寓居していた。丁歳に災害があり、饑饉と疫病が流行した。徳枢は往ってこれを撫字することを請い、遼興軍節度使を授かった。任地に着くと紛糾を整え、蠹害を剔り、恩恵を煦み、信義を孚かせ、農桑を勧め、教化を興し、一ヶ月で民は蘇息を得た。入朝して南院宣徽使となり、遙授で天平軍節度使、平・灤・営三州管内観察処置等使、門下平章事を兼ねた。やがて開府儀同三司・行侍中を加えられ、趙国公に封ぜられた。保寧元年に卒した。孫に紹勲・紹芳。

原文德樞年甫十五,太宗見之,謂延徽曰:「是兒卿家之福,朕國之寶,真英物也!」未冠,守左羽林大將軍,遷特進太尉。時漢人降與轉徙者,多寓東平。丁歲災,饑饉疾厲。德樞請往撫字之,授遼興軍節度使。下車整紛剔蠹,恩煦信孚,勸農桑,興教化,期月民獲蘇息。入為南院宣徽使,遙授天平軍節度使,平、灤、營三州管內觀察處置等使,門下平章事。已而加開府儀同三司、行侍中,封趙國公。保寧元年卒。孫紹勛、紹芳。

孫 紹勲

原文孫 紹勛

紹勲は、官は東京戸部使に至った。大延琳の反乱に遭い、捕らえられたが、その言葉は屈せず、賊は鋸でこれを解き、憤り罵って死に至った。

原文紹勛,仕至東京戶部使。會大延琳叛,被執,辭不屈,賊以鋸解之,憤罵至死。

孫 紹芳

原文孫 紹芳

紹芳は、重熙年間に参知政事となり、兼侍中を加えられた。当時、廷議で李元昊を征討しようとしたが、力を尽くして諫めたが聞き入れられず、出されて広徳軍節度使となった。敗報を聞き、嘔血して卒した。

原文紹芳,重熙間參知政事,加兼侍中。時延議征李元昊,力諫不聽,出為廣德軍節度使。聞敗,嘔血卒。

孫 資譲

原文孫 資讓

孫資譲は、寿隆初年に中書侍郎・平章事に拝された。ちょうど宋の徽宗が位を嗣いだ時、使者が来て報じたが、有司が記録を調べると「宝位に登る」の文があった。これに坐して出され崇義軍節度使となった。鎮を改めて遼興に移り、卒した。

原文孫資讓,壽隆初拜中書侍郎、平章事。會宋徽宗嗣位,遣使來報,有司按籍,有「登寶位」文,坐是出為崇義軍節度使。改鎮遼興,卒。

韓知古

原文韓知古

韓知古は、薊州玉田の人で、謀に長け識量があった。太祖が薊を平定した時、知古は六歳で、淳欽皇后の兄の欲穏に得られた。後に皇后が嬪となった時、知古はこれに従ったが、省見を得られなかった。久しくして、その才能を負い、怏怏として志を得ず、身を挺して庸保に逃れ、資用を供した。その子の匡嗣が太祖に親近を得、機会を捉えて言上した。太祖は召見して語り、賢しとして参謀議を命じた。神冊初年、遙授で彰武軍節度使となった。久しくして信任ますます篤く、漢児司事を総知し、諸国の礼儀を兼ねて主った。当時、儀法は疎闊であったが、知古は故典を援拠し、国俗を参酌し、漢儀と雑えてこれを作り、国人に知り易く行い易くした。間もなく左僕射に拝され、康黙記と共に漢軍を将いて渤海を征し功があり、中書令に遷った。天顕年間に卒し、佐命功臣の一人となった。子に匡嗣。

原文韓知古,薊州玉田人,善謀有識量。太祖平薊時,知古六歲,為淳欽皇后兄欲穩所得。後來嬪,知古從焉,未得省見。久之,負其有,怏怏不得志,挺身逃庸保,以供資用。其子匡嗣得親近太祖,因間言。太祖召見與語,賢之,命參謀議。神冊初,遙授彰武軍節度使。久之,信任益篤,總知漢兒司事,兼主諸國禮儀。時儀法疏闊,知古援據故典,參酌國俗,與漢儀雜就之,使國人易知而行。頃之,拜左僕射,與康默記將漢軍征渤海有功,遷中書令。天顯中卒,為佐命功臣之一。子匡嗣。

子 匡嗣

原文子 匡嗣

匡嗣は医術に長じ、長楽宮に直り、皇后はこれを猶子の如く見た。応暦十年、太祖廟詳穏ショウオンとなった。後に宋王喜隠が謀叛を企て、その供述が匡嗣に及んだが、上はこれを問わなかった。初め、景宗が藩邸にあった時、匡嗣と親善であった。即位すると、上京留守に拝した。間もなく、燕王に封ぜられ、南京留守に改めた。保寧末年、留守として枢密使を摂った。当時、耶律虎古が宋より使いして還り、宋人は必ず河東を取るであろうから、先んじて備えをなすべきだと述べた。匡嗣はこれを詆して言った、「そんなことがあろうか。」やがて宋人は果たして太原を取り、勝に乗じて燕に迫った。匡嗣は南府宰相の沙・惕隠テキンの休哥と共に宋を侵し、満城に軍した。陣を方に布いた時、宋人が降伏を請うた。匡嗣はこれを受け入れようとしたが、休哥が言った、「彼の軍気は甚だ鋭く、我を誘う疑いがある。士卒を整頓してこれを防ぐべきである。」匡嗣は聞かなかった。やがて宋軍が鼓噪して我が軍に迫り、衆は蹙き踏まれ、塵が天に漲った。匡嗣は倉卒に諸将に諭したが、その鋒に当たる者はなかった。衆が既に奔った時、伏兵が要路を扼しており、匡嗣は旗鼓を棄てて遁走し、その衆は易州の山に走った。ただ休哥のみが棄てられた兵械を収め、全軍して還った。帝は匡嗣を怒り、その罪を数えて言った、「汝は衆の謀に違い、深く敵境に入った、これが一つの罪。号令厳ならず、行伍整わず、これが二つの罪。我が師旅を棄て、身を挺して鼠竄した、これが三つの罪。偵候機を失い、守禦備えず、これが四つの罪。旗鼓を捐棄し、威を損ない国を辱めた、これが五つの罪である。」促してこれを誅ちゅうせんことを命じた。皇后が諸内戚を引き連れて徐ろにこれを開き解き、上は重ねてその請いに違うことを憚った。久しくして、威は稍々晴れ、杖罰してこれを免じた。やがて遙授で晋昌軍節度使となった。乾亨三年、西南面招討使に改め、卒した。睿智皇后はこれを聞き、使者を遣わして臨吊し、賻贈甚だ厚く、後に尚書令を追贈した。五子あり、徳源・徳譲(後に名を隆運と賜う)・徳威・徳崇・徳凝。徳源・徳凝は附伝し、その余は各々伝がある。

原文匡嗣以善醫,直長樂宮,皇后視之猶子。應歷十年,為太祖廟詳穩。後宋王喜隱謀叛,辭引匡嗣,上置不問。初,景宗在藩邸,善匡嗣。即位,拜上京留守。頃之,王燕,改南京留守。保寧末,以留守攝樞密使。時耶律虎古使宋還,言宋人必取河東,合先事以為備。匡嗣詆之曰:「寧有是!」已而宋人果取太原,乘勝逼燕。匡嗣與南府宰相沙、惕隱休哥侵宋,軍於滿城。方陣,宋人請降。匡嗣欲納之,休哥曰:「彼軍氣甚銳,疑誘我也。可整頓士卒以禦。」匡嗣不聽。俄而宋軍鼓噪薄我,眾蹙踐,塵起漲天。匡嗣倉卒諭諸將,無當其鋒。眾既奔,遇伏兵扼要路,匡嗣棄旗鼓遁,其眾走易州山,獨休哥收所棄兵械,全軍還。帝怒匡嗣,數之曰:「爾違眾謀,深入敵境,爾罪一也;號令不肅,行伍不整,爾罪二也;棄我師旅,挺身鼠竄,爾罪三也;偵候失機,守禦弗備,爾罪四也;捐棄旗鼓,損威辱國,爾罪五也。」促令誅之。皇后引諸內戚徐為開解,上重違其請。良久,威稍霽,乃杖而免之。既而遙授晉昌軍節度使。乾亨三年,改西南面招討使,卒。睿智皇后聞之,遣使臨吊,賻贈甚厚,後追贈尚書令。五子:德源,德讓,後賜名隆運,德威,德崇,德凝。德源、德凝附傳,余各有傳。

子 徳源

原文子 德源

徳源は、性愚かで貪欲であり、早くから景宗の邸に侍った。即位すると、近侍に列した。保寧年間、崇義・興国二軍節度使に官し、検校太師を加えられた。賄賂で名を知られ、徳譲が書を遺してこれを諫めたが、終に悔い改めなかった。この故に論ずる者はこれを軽んじた。後に同政事門下平章事を加えられ、遙摂で保寧軍節度使となった。乾亨初年に卒した。

原文德源,性愚而貪,早侍景宗邸。及即位,列近侍。保寧間,官崇義、興國二軍節度使,加檢校太師。以賄名,德讓貽書諫之,終不悛。以故論者少之。後加同政事門下平章事,遙攝保寧軍節度使。乾亨初卒。

子は徳凝。

原文子 德凝

徳凝は廉遜で廉謹であった。保寧年間(969-979年)に護軍司徒に遷る。開泰年間(1012-1021年)に累進して護衛太保、都宮使、崇義軍節度使となった。広徳に移鎮し、任期が満ちると、部民が留任を請うたので、これに従った。西南面招討使に改め、党項の隆益答が叛いたが、これを平定した。大同軍節度使に遷り、官において卒した。

原文德凝,廉遜廉謹。保寧中,遷護軍司徒。開泰中,累遷護衛太保、都宮使、崇義軍節度使。移鎮廣德,秩滿,部民請留,從之。改西南面招討使,党項隆益答叛,平之。遷大同軍節度使,卒於官。

子の郭三は、天徳軍節度使で終わる。孫の高家奴は、南院宣徽使で終わる。高十は、遼興軍節度使で終わる。

原文子郭三,終天德軍節度使。孫高家奴,終南院宣徽使;高十,終遼興軍節度使。