遼史

志第七: 地理志一

帝堯は天下を画して九州となす。舜は冀州・青州の地が広大なるを以て、幽州・へい州・營州を分ち、州を十有二となす。幽州は渤海・碣石の間に在り、并州の北に代・朔有り、營州は東は遼海に及ぶ。其の地は山を負い海を帯び、其の民は干戈を執り、武衛を奮い、風気剛勁、古より用武の地と為る。太祖は叠剌部の衆を以て遙輦氏に代わり、臨潢に起こり、皇都を建つ。東は渤海を併せ、城邑の居を得ること百有三。太宗は晋を立て、幽・涿・檀・薊・順・營・平・蔚・朔・雲・応・新・媯・儒・武・寰の十六州有り、ここに古の幽・并・營の境を割きてこれを跨有す。東は高麗に朝し、西は夏国を臣とし、南は石晋を子とし、趙宋を兄弟とし、呉越・南唐は航海して貢を輸す。噫、其れ盛んなり。

遼国其の先は契丹と曰い、本は鮮卑の地、遼沢の中に居し、榆関を去ること一千一百三十里、幽州を去ること又七百一十四里。南は黄龍を控え、北は潢水を帯び、冷陘は右に屏し、遼河は左に塹と為る。高原は多く榆柳有り、下湿は蒲葦に饒す。元魏の時に当たり、地数百里有り。唐に至り、大賀氏は扶餘・室韋・奚・靺鞨の区を蚕食し、地方二千余里。貞観三年、其の地を以て玄州を置く。尋いで松漠都督ととく府を置き、八部を建てて州と為し、各刺史を置く。達稽部は峭落州と曰い、紇便部は弾汗州と曰い、独活部は無逢州と曰い、芬阿部は羽陵州と曰い、突便部は日連州と曰い、芮奚部は徒河州と曰い、墜斤部は万丹州と曰い、伏部は匹黎・赤山の二州と曰う。大賀氏窟哥を以て使持節十州軍事と為す。州を分ち官を建つること、蓋しここに始まる。

五代に迨う、地を辟き東西三千里。遙輦氏は八部を更めて鳷利皆部・乙室活部・実活部・納尾部・頻没部・内会鶏部・集解部・奚嗢部と為し、属県四十有一。毎部刺史を設け、県に令を置く。太宗は皇都を上京と為し、幽州を南京に升め、南京を東京に改め、聖宗は中京に城し、興宗は雲州を西京に升む。ここに於て五京備わる。又征伐の俘戸を以て州を襟要の地に建て、多く旧居の名に因りて之を名づく。私奴を加えて投下州を置く。総じて京五、府六、州・軍・城百五十有六、県二百有九、部族五十有二、属国六十。東は海に至り、西は金山に至り、流沙に及び、北は臚朐河に至り、南は白溝に至り、幅員万里。

上京道

上京臨潢府、本は漢の遼東郡西安平の地。新莽は北安平と曰う。太祖は天梯・蒙国・別魯等の三山の勢を葦甸に取り、金齪箭を射て以て之を識し、之を龍眉宮と謂う。神冊三年之に城し、名づけて皇都と曰う。天顕十三年、名を更めて上京と為し、府を臨潢と曰う。淶流河は西北より南流し、京を三面に繞り、東は曲江に入る。其の北は東流して按出河と為る。又御河・沙河・黒河・潢河・鴨子河・他魯河・狼河・蒼耳河・輞子河・臚朐河・陰涼河・猪河・鴛鴦湖・興国惠民湖・広済湖・塩濼・百狗濼・火神澱・馬盂山・兎児山・野鵲山・塩山・鑿山・松山・平地松林・大斧山・列山・屈劣山・勒得山有り。唐の封ずる所の大賀氏勒得王の墓存す。戸三万六千五百、軍・府・州・城二十五を轄し、県十を統ぶ。

臨潢県。太祖天賛初め南に燕・薊を攻め、俘うる所の人戸を以て潢水の北に散居せしむ。県は潢水に臨む、故に以て名づく。地は種植に宜し。戸三千五百。

長泰県。本は渤海国長平県の民、太祖大諲譔を伐ち、先ず是の邑を得、其の人を京の西北に遷し、漢民と雑居せしむ。戸四千。

県。本は扶餘府強師県の民、太祖扶餘を下し、其の人を京西に遷し、漢人と雑処せしめ、地を分ち耕種せしむ。統和八年、諸宮提轄司の人戸を以て置く。長寧宮に隷す。戸二千。

保和県。本は渤海国富利県の民、太祖龍州を破り、尽く富利県の人を徒して京南に散居せしむ。統和八年、諸宮提轄司の人戸を以て置く。彰湣宮に隷す。戸四千。

潞県。本は幽州潞県の民、天賛元年、太祖薊州を破り、潞県の民を掠め、京東に布き、渤海人と雑処せしむ。崇徳宮に隷す。戸三千。

易俗県。本は遼東渤海の民、太平九年、大延琳遼東夷を結構して叛き、守りを囲みて年を経、乃ち降り、尽く京北に遷し、県を置きて之に居らしむ。是の年、又渤海叛人の家屬を徙して之を置く。戸一千。

遷遼県。本は遼東諸県の渤海人、大延琳叛き、其の謀勇なる者を択びて左右に置く。後ち城を以て降るも、之を戮し、其の家屬を京東北に徙す。故に名づく。戸一千。渤海県。本は東京の人、叛に因り、徙置す。

興仁県。開泰二年に設置。

宣化県。もとは遼東の神化県の民であり、太祖が鴨淥府を破り、その民をことごとく移して京の南に住まわせた。統和八年、諸宮提轄司の人戸をもって設置。彰湣宮に隷属。戸四千。

上京は、太祖が創業の地である。山を背にし海を抱き、天険は固めとするに足る。地は肥沃にして耕作に適し、水草は牧畜に便である。金齪一箭、二百年の基、壮なり。天顕元年、渤海を平定して帰り、郛郭を展げ、宮室を建て、天贊と名付けた。三大殿を建つ:開皇・安德・五鸞という。中に歴代帝王の御容があり、毎月の朔望・節辰・忌日に、東京の文武百官はみな赴いて祭りを致す。また内城の東南隅に天雄寺を建て、烈考宣簡皇帝の遺像を奉安した。この年太祖が崩じ、応天皇后は義節寺において腕を断ち、太祖陵に置く。すなわち寺に断腕楼を建て、碑を樹てた。太宗は晋を援立し、宰相馮道・劉煦らを遣わし、節を持ち、鹵簿・法服を具えてここに至り、太宗及び応天皇后の尊号を冊上した。太宗は詔して蕃部はみな漢制に依らしめ、開皇殿に御し、承天門を開いて礼を受け、よって皇都を上京と改めた。城の高さ二丈、敵楼を設けず、幅員二十七里。門、東は迎春・雁児という。南は順陽・南福という。西は金鳳・西雁児という。その北を皇城といい、高さ三丈、楼櫓あり。門、東は安東、南は大順、西は乾徳、北は拱辰という。中に大内あり。内の南門は承天といい、楼閣あり。東門は東華、西は西華という。これ内に通じ出入りする所である。正南街の東、留守司の衙、次いで塩鉄門、次いで南門、龍寺街。南は臨潢府といい、その側に臨潢県あり。県の西南に崇孝寺、承天皇后が建てる。寺の西に長泰県、また西に天長観。西南に国子監、監の北に孔子廟、廟の東に節義寺。また西北に安国寺、太宗が建てたる所。寺の東に斉天皇后の故宅、宅の東に元妃の宅あり、すなわち法天皇后が建てたる所なり。その南に具聖尼寺・綾錦院・内省司・麹院、贍国・省司の二倉あり、皆大内の西南に在り、八作司は天雄寺と対す。南城を漢城といい、南に横街に当たり、各々楼が対峙し、下に井肆を列ねる。東門の北に潞県、また東南に興仁県。南門の東に回鶻営、回鶻の商販が上京に留まり住むため、営を置きてこれに住まわせる。西南に同文駅、諸国の信使がこれに住む。駅の西南に臨潢駅、夏国の使を待つ。駅の西に福先寺。寺の西に宣化県、西南に定覇県、県の西に保和県。西門の北に易俗県、県の東に遷遼県。

周の広順年中、胡嶠の『記』に曰く:上京の西楼には、邑屋市肆あり、交易は銭を用いずして布を用いる。綾錦などの諸工作・宦者・翰林・伎術・教坊・角〓・儒・僧尼・道士あり。中国人は並・汾・幽・薊の者が多い。宋の大中祥符九年、薛映の『記』に曰く:上京は、中京より正北八十里で松山館に至り、七十里で崇信館、九十里で広寧館、五十里で姚家寨館、五十里で咸寧館、三十里で潢水の石橋を渡る。傍らに饒州あり、唐は契丹に嘗て饒濼州を置く、今は渤海人がこれに住む。五十里で保和館、黒水河を渡り、七十里で宣化館、五十里で長泰館。館の西二十里に仏舎・民居あり、すなわち祖州である。また四十里で臨潢府に至る。崇信館を過ぎてより乃ち契丹の旧境、その南は奚の地なり。西門に入る。門は金徳といい、内に臨潢館あり。子城の東門は順陽という。北に行きて景福門に至り、また承天門に至る。内に昭徳・宣政の二殿あり、氈廬と皆東を向く。臨潢の西北二百余里に涼澱と号す。饅頭山の南に在り、避暑の処。豊草多く、地を掘ること丈余れば即ち堅氷あり。

祖州、天成軍、上、節度。もとは遼右八部が代々裏地を有す。太祖は秋猟多くここに於いてし、始めて西楼を置く。後に因りて城を建て、祖州と号す。高祖こうそ昭烈皇帝・曾祖荘敬皇帝・祖考簡献皇帝・皇考宣簡皇帝の生まれたる地なるを以て、故に名づく。城の高さ二丈、敵棚なく、幅員九里。門、東は望京、南は大夏、西は液山、北は興国という。西北隅に内城あり。殿は両明といい、祖考の御容を奉安す。二儀といい、白金をもって太祖の像を鋳る。黒龍・清秘といい、各々太祖が微時の兵仗器物及び服御皮毳の類あり、これを存して後嗣に示し、本を忘れざらしむ。内の南門は興聖といい、凡そ三門、上に楼閣あり、東西に角楼あり。東は州廨及び諸宮の廨舎、綾錦院班院祗候の蕃・漢・渤海三百人、内府の取索に供給す。東南に横街あり、四隅に楼が対峙し、下に市肆を連ねる。東に長覇県、西に咸寧県あり。祖山あり、山に太祖天皇帝の廟あり、御靴なお存す。また龍門・黎谷・液山・液泉・白馬・独石・天梯の山あり。水は則ち南沙河・西液泉。太祖陵は山を鑿ちて殿と為し、明殿という。殿の南嶺に膳堂あり、時祭に備う。門は黒龍という。東偏に聖蹤殿あり、碑を立てて太祖の遊猟の事を述ぶ。殿の東に楼あり、碑を立てて太祖の創業の功を紀す。皆州の西五里に在り。天顕中太宗が建て、弘義宮に隷属。統べる県二、城一。長覇県。もとは龍州長平県の民、ここに移す。戸二千。

咸寧県。もとは長寧県。遼陽を破り、その民を移して設置。戸一千。

越王城。太祖の伯父於越王述魯が西に党項・吐渾を伐ち、その民を俘え、ここに放牧せしめ、因りて城を建つ。州の東南二十里に在り。戸一千。

懐州、奉陵軍、上、節度。もとは唐の帰誠州。太宗の行帳ここに放牧す。天賛中、太祖に従い扶余城を破り、龍泉府を下し、その人を俘え、寨を築きてこれに住ましむ。会同中、燕・薊を掠めて俘えたる者もまたここに置く。太宗崩じ、西山に葬り、懐陵という。大同元年、世宗は州を置きてこれに奉ず。この年、騎十余りあり、祖州の西五十里の大山中に猟し、太宗が白馬に乗り、独り白狐を追い、これを射て、一発にして斃すを見る。忽ち見えず、ただ狐と矢とを得たり。この日、太宗は欒城にて崩ず。後にその地に廟を建て、また州の鳳凰門に太宗が騎を馳せて狐を貫く像を絵す。穆宗害せられ、懐陵の側に葬り、鳳凰殿を建ててこれに奉ず。清涼殿あり、行幸避暑の所と為す。皆州の西二十里に在り。永興宮に隷属。統べる県二:

扶余県。もとは龍泉府。太祖は渤海の扶余県の降戸をここに移し、世宗が県を置く。戸一千五百。

顕理県。もとは顕理府の人、太祖が渤海を伐ち、その王大諲譔を俘え、民をここに移し、世宗が県を置く。戸一千。

慶州は玄寧軍、上州、節度使を置く。本来は太保山黒河の地であり、岩谷険峻である。穆宗が城を築き、黒河州と号し、毎年ここに来幸し、虎を射ち鷹を障み、軍国之事は多く大臣に委ねた。後にここでしいしいぎゃくに遇う。地が苦寒なるを以て、統和八年、州は廃止された。聖宗が秋の猟にて、その奇秀を愛で、慶州と建号した。遼国の五代祖勃突は、容貌常ならず、武略有り、力は百人に敵し、衆これを推して王と為す。勃突山に生まれ、因って名と為し、没し、山下に葬る。州より二百里。慶雲山は、本来黒嶺なり。聖宗が駐蹕し、愛羨して曰く、「我が万歳の後、当に此に葬らん」と。興宗は遺命に遵い、永慶陵を建つ。望仙殿・御容殿有り。蕃・漢の守陵三千戸を置き、並びに大内都総管司に隷す。州の西二十里。黒山・赤山・太保山・老翁嶺・饅頭山・興国湖・轄失濼・黒河有り。景福元年復置し、更に興聖宮に隷す。統県三。

玄徳県。本来は黒山黒河の地なり。景福元年、落帳人戸を括し、便に従い之に居らしむ。戸六千。孝安県。富義県。本来は義州、太宗が渤海の義州の民を此に遷す。重熙元年、義豊県に降格し、後に更名す。弘義宮に隷す。

泰州は徳昌軍、節度使を置く。本来は契丹二十部族の放牧の地なり。黒鼠族が累ねて通化州を犯し、民が禦ぐ能わざるに因り、遂に東南六百里を移り来たり、城を建てて之に居り、以て本族に近し。黒鼠は穴居し、膚黒く、吻鋭く、鼠に類す、故に以て名と為す。州は延慶宮に隷し、兵事は東北統軍司に属す。統県二。

楽康県。倚郭。興国県。本来は山前の民、罪に因り配遞して此に至り、興宗が県を置く。戸七百。

長春州は韶陽軍、下州、節度使を置く。本来は鴨子河の春猟の地なり。興宗重熙八年に置く。延慶宮に隷し、兵事は東北統軍司に隷す。統県一:長春県。本来は混同江の地なり。燕・薊の犯罪者は此に流配す。戸二千。

烏州は静安軍、刺史を置く。本来は烏丸の地、東胡の種なり。遼の北大王撥剌が占めて牧と為し、城を建つ、後に官収す。興聖宮に隷す。遼河・夜河・烏丸川・烏丸山有り。統県一:愛民県。撥剌王が軍に従い南征し、漢民を俘えて此に置く。戸一千。

永州は永昌軍、観察使を置く。承天皇太后の建つる所なり。太祖此に於いて南楼を置く。乾亨三年、皇子韓八の墓側に州を置く。東に潢河、南に土河、二水合流す、故に永州と号す。冬月牙帳多く此に駐す、之を冬捺缽と謂う。木葉山有り、上に契丹始祖廟を建つ、奇首可汗は南廟に、可敦は北廟に在り、二聖並びに八子の神像を絵塑す。相伝うるに、神人白馬に乗り、馬盂山より土河を浮かびて東に下り、天女青牛車に駕し、平地松林より潢河を泛かべて下る有り。木葉山に至り、二水合流し、相遇いて配偶と為り、八子を生む。其の後族属漸く盛んとなり、八部に分かる。毎に行軍及び春秋の時祭に、必ず白馬青牛を用い、本を忘れざるを示すと云う。興王寺、白衣観音像有り。太宗が石晋を援けて中国の主と為し、潞州より回り、幽州に入り、大悲閣に幸し、此の像を指して曰く、「我が夢に神人、石郎を送りて中国の帝と為さしむるを令す、即ち此なり」と。因って木葉山に移し、廟を建て、春秋告賽し、家神として尊ぶ。興軍必ず之に告げ、乃ち符を合し箭を諸部に伝う。又高澱山・柳林澱有り、亦た白馬澱と曰う。彰湣宮に隷す。統県三:長寧県。本来は顕徳府の県名なり。太祖渤海を平らげ、其の民を此に遷す。戸四千五百。

義豊県。本来は鉄利府義州なり。遼兵之を破り、其の民を南楼の西北に遷し、仍って義州と名づく。重熙元年、州を廃し、今の県に改む。州の西北一百里。又嘗て富義県と改め、泰州に属す。始末具に考うべからず、今両存す。戸一千五百。

慈仁県。太宗、皇子只撒古の亡きを以て、慈州墳西に置く。重熙元年、州廃止、今の県に改む。戸四百。

儀坤州は啓聖軍、節度使を置く。本来は契丹右大部の地なり。応天皇后の州を建つる所。回鶻の糯思之に居り、四世孫容我梅裏に至り、応天皇后述律氏を生み、太祖に適す。太祖四方を開拓し、渤海を平らげ、後に力有り。俘掠して伎芸有る者多く帳下に帰し、之を属珊と謂う。生まれたる地を以て州を置く。州に啓聖院を建て、中に儀寧殿有り、太祖天皇帝・応天地皇后の銀像在り。長寧宮に隷す。統県一。

広義県。本来は回鶻部の牧地なり。応天皇后、四征の俘を以て之に居らしめ、因って州県を建つ。統和八年、諸宮提轄司戸を以て来遠県を置き、十三年併入す。戸二千五百。

龍化州は興国軍、下州、節度使を置く。本来は漢の北安平県の地なり。契丹始祖奇首可汗此に居り、龍庭と称す。太祖此に於いて東楼を建つ。唐天復二年、太祖は叠烈部の夷離堇と為り、代北を破り、其の民を遷し、城を建てて之に居らしむ。明年、女直を伐ち、数百戸を俘えて実と為す。天祐元年、東城を増修し、制度頗る壮麗なり。十三年、太祖は城東の金鈴岡に於いて尊号を受け、大聖大明天皇帝と曰い、元を建てて神冊とす。天顕元年、東楼に崩ず。太宗節度使に昇格す。彰湣宮に隷し、兵事は北路女直兵馬司に属す。刺史州一、未詳。統県一:龍化県。太祖東は女直を伐ち、南は燕・薊を掠め、俘うる所を以て城を建て邑を置く。戸一千。

降聖州は開国軍、下州、刺史を置く。本来は大部落東楼の地なり。太祖春月の行帳多く此に駐す。応天皇后、夢に神人金冠素服、兵仗を執り、貌甚だ豊美、異獣十二之に随う。中に黒兔有り、躍りて後懐に入り、因りて娠有り、遂に太宗を生む。時に黒雲帳を覆い、火光室を照らし、声雷の如く有り、諸部之を異とす。穆宗州を建つ。四面各三十里、樵采放牧を禁ず。先ず延昌宮に属し、後に彰湣宮に隷す。統県一。

永安県。本来は龍原府慶州の県名なり。太祖渤海を平らげ、懐州の永安を破り、其の人を遷し此に寨を置き、県を建つ。戸八百。

饒州は匡義軍、中州、節度使を置く。本来は唐の饒楽府の地なり。貞観中に松漠府を置く。太祖故壘を完葺す。潢河・長水濼・没打河・青山・大福山・松山有り。延慶宮に隷す。統県三。

長楽県。もとは遼城県の名であった。太祖が渤海を討伐し、その民を移し、県を建てて居住させた。戸四千、うち一千戸は鉄を納める。

臨河県。もとは豊永県の人々で、太宗が兵を分けて渤海を討伐し、潢水の曲がりくねった地に移した。戸一千。安民県。太宗が渤海の諸邑から捕虜とした者を雑多に置いた。戸一千。頭下軍州

頭下軍州は、いずれも諸王・外戚・大臣および諸部が従征して捕虜・略奪した者、あるいは生口を置き、それぞれ団集して州県を建てて居住させたものである。横帳諸王・国舅・公主は州城を創立することを許され、それ以外は城郭を建てることはできない。朝廷が州県の額を賜う。その節度使は朝廷が任命し、刺史以下はすべて本主の部曲をもって充てる。官位九品以下および井邑商賈の家は、徴税はそれぞれ頭下に帰属する。ただし酒税の課税は上京塩鉄司に納める。

徽州、宣徳軍、節度。景宗の娘である秦晋大長公主が建てた。媵臣一万戸、宜州の北二百里にあり、これにより州城を建てた。北至上京七百里。節度使以下は、すべて公主の府署である。戸一万。

成州、長慶軍、節度。聖宗の娘である晋国長公主が上賜の媵臣戸をもって置いた。宜州の北一百六十里にあり、これにより州城を建てた。北至上京七百四十里。戸四千。

懿州、広順軍、節度。聖宗の娘である燕国長公主が上賜の媵臣戸をもって置いた。顕州の東北二百里にあり、これにより州城を建てた。西北至上京八百里。戸四千。

渭州、高陽軍、節度。駙馬都尉蕭昌裔が建てた。秦国王隆慶の娘である韓国長公主に尚し、賜わった媵臣をもって州城を建てた。顕州の東北二百五十里。遼の制度では、皇子の嫡生の者は、その女は帝女と同じである。戸一千。

壕州。国舅宰相が南征し、漢民を捕虜・略奪し、遼東西安平県の故地に居住させた。顕州の東北二百二十里にあり、西北至上京七百二十里。戸六千。

原州。もとは遼東北安平県の地である。顕州の東北三百里。国舅金徳が漢民を捕虜・略奪して城を建てた。西北至上京八百里。戸五百。

福州。国舅蕭寧が建てた。南征して漢民を捕虜・略奪し、北安平県の故地に居住させた。原州の北二十里にあり、西北至上京七百八十里。戸三百。

横州。国舅蕭克忠が建てた。部下の牧人が漢の故遼陽県の地に居住し、これにより州城を置いた。遼州の西北九十里にあり、西北至上京七百二十里。横山がある。戸二百。

鳳州。槀離国の故地で、渤海の安寧郡の境、南王府五帳の分地である。韓州の北二百里にあり、西北至上京九百里。戸四千。

遂州。もとは高州の地で、南王府五帳がここに放牧した。檀州の西二百里にあり、西北至上京一千里。戸五百。

豊州。もとは遼沢の大部落で、遙輦氏の僧隠の牧地であった。北至上京三百五十里。戸五百。

順州。もとは遼隊県の地である。横帳南王府が燕・薊・順州の民を捕虜・略奪し、城を建てて居住させた。顕州の東北一百二十里にあり、西北至上京九百里。戸一千。

閭州。羅古王の牧地にして、醫巫閭山に近し。遼州の西一百三十里に在り、西北より上京に至る九百五十里。戸一千。

松山州。本は遼澤の大部落にして、橫帳普古王の牧地。松山有り。北より上京に至る一百七十里。戸五百。州。橫帳陳王の牧地。南より上京に至る三百里。戸五百。

寧州。本は大賀氏の勒得山にして、橫帳管寧王の放牧地。豫州の東八十里に在り、西南より上京に至る三百五十里。戸三百。邊防城。

遼國西北界の防邊城は、屯戍に因りて立て、形勝を據るを務め、丁賦に資らざるなり。左の如く具列す:靜州、觀察。本は泰州の金山。天慶六年に升す。

鎮州、建安軍、節度。本は古の可敦城。統和二十二年、皇太妃奏して置く。諸部族二萬餘騎を選び屯軍に充て、專ら室韋・羽厥等國を捍禦し、凡そ征討有るも、抽移するを得ず。渤海・女直・漢人の配流の家七百餘戶、鎮・防・維の三州に分居す。東南より上京に至る三千餘里。

維州、刺史。防州、刺史。

河董城。本は回鶻の可敦城、語訛して河董城と為す。久しく廢し、遼人これを完うして邊患を防ぐ。高州界の女直、常に盜を為し、行旅を劫掠す。其の族を此に遷す。東南より上京に至る一千七百里。

靜邊城。本は契丹二十部族の水草地。北は羽厥に鄰り、每たび入りて盜を為す。城を建て、兵千餘騎を置きて之を防ぐ。東南より上京に至る一千五百里。

皮被河城。地は北邊を控へ、兵五百を此に置く。防托す。皮被河は回紇の北より出で、東南に羽厥を經て、臚朐河に入り、河董城の北に沿ひ、東流して沱漉河に合し、海に入る。南より上京に至る一千五百里。

招州、綏遠軍、刺史。開泰三年、女直戶を以て置く。西北路招討司に隷す。

塔懶主城。大康九年に置く。臚朐河に在り。