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遼史
列傳第四十五: 二國外記
高麗
高麗は国を有つて以来、伝承の次第の久近、人民と土田については、歴代それぞれその志を有つている。然れども高麗は遼と相終始すること二百余年である。
太祖皇帝の神冊年間、高麗は使節を遣わして宝剣を進めた。天賛三年、来朝して貢物を献じた。太宗の天顕二年、来朝して貢物を献じた。会同二年、晋より上尊号の冊を受け、使節を遣わして往きて報じた。
聖宗の統和三年秋七月、諸道に詔して各々戎器を完備せしめ、以て高麗を東征するに備えしむ。八月、遼沢が沮洳なるを以て、師を罷む。十年、東京留守蕭恒徳を以て高麗を伐たしむ。十一年、王治は朴良柔を遣わし表を奉じて罪を請う。詔して女直国の鴨淥江以東数百里の地を取って之を賜う。十二年、入貢す。三月、王治は使節を遣わし俘虜の生口を請う。詔して続いて之を還し、仍って使節を遣わして撫諭す。十二月、王治は妓楽を進む。詔して却く。十三年、治は李周楨を遣わして来貢し、又鷹を進む。十月、李知白を遣わして貢を奉ず。十一月、使節を遣わして治を冊して王と為す。童子十人を遣わして来り本国の語を学ばしむ。十四年、王治は表して婚姻を乞う。東京留守駙馬蕭恒徳の女を以て下嫁す。六月、使節を遣わして来り起居を問う。是より以降、至る者時に限らず。
十五年、韓彦敬来り聘幣を納め、駙馬蕭恒徳の妻越国公主の薨を弔う。十一月、治薨ず。其の姪誦は王同穎を遣わして来告す。十二月、使節を遣わして祭を致し、詔して其の姪誦に国事を権知せしむ。十六年、使節を遣わして誦を冊して王と為す。二十年、誦は使節を遣わして宋を伐つ捷を賀す。七月、来り本国の地里図を貢す。二十二年、南伐の事を以て之に詔諭す。二十三年、高麗は宋と和するを聞き、使節を遣わして来賀す。二十六年、龍鬚草席を進め、及び中京城を賀す。二十七年、承天皇太后崩ず。使節を遣わして国哀を報ず。二十八年、誦は魏守愚等を遣わして来祭す。三月、使節来り葬に会す。
五月、高麗西京留守康肇其の主誦を弑し、擅に誦の従兄詢を立てる。八月、聖宗自ら将として高麗を伐ち、宋に報じ、引進使韓𣏌を遣わして詢に宣問す。詢は表を奉じて師を罷むるを乞う。許さず。十一月、大軍鴨淥江を渡る。康肇は銅州に於いて拒戦し、之を敗る。肇復た出で、右皮室詳穩耶律敵魯肇等を擒え、奔るを数千里に追い、棄てし所の糧餉・鎧仗を獲、銅・霍・貴・寧等の州皆降る。詢は表を上して朝を請う。之を許し、軍士の俘掠を禁ず。政事舎人馬保祐を以て開京留守と為し、安州団練使王八を副留守と為す。太子太師乙澟騎兵一千を将いて、保祐等を送り京に赴かしむ。守将卓思正我が使者韓喜孫等十人を殺し、兵を領いて出でて拒ぎ、保祐等復た還る。乙澟兵を領いて之を撃つ。思正遂に西京に奔る。之を囲むこと五日、克たず、城西の仏寺に駐蹕す。高麗礼部郎中渤海陀失来降す。排押・盆奴を遣わして開京を攻む。京西に於いて敵に遇い、之を敗る。詢は城を棄て遁走す。遂に開京を焚き、清江に至りて還る。二十九年正月、師を班す。降りし諸城復た叛く。貴州南嶺谷に至り、大雨連日、霽れて乃ち渡るを得、馬駝皆疲乏し、甲仗多く遺棄す。鴨淥江に次ぎ、俘えし人を以て諸陵廟に分置し、余は内戚・大臣に賜う。
開泰元年、詢は蔡忠順を遣わして来り臣と称することを旧の如く乞う。詔して詢の親朝を求む。八月、田拱之を遣わして表を奉じ、病を称して朝す能わずとす。詔して復た六州の地を取る。二年、耶律資忠高麗に使して地を取らしむ。未だ幾ばくもせず還る。三年、資忠復た使し、前に如く地を索む。五月、詔して国舅詳穩蕭敵烈・東京留守耶律団石等に鴨淥江に浮梁を造らしめ、保・宣義・定遠等の州に城す。四年、北府宰相劉慎行を命じて都統と為し、枢密使耶律世良を副と為し、殿前都点検蕭虚烈を都監と為す。慎行は家を辺上に挈き、師期を緩ませしむ。追いて之を還し、世良・虚烈を以て兵を総べて高麗を伐たしむ。五年、世良等高麗と郭州西に戦い、之を破る。六年、枢密使蕭合卓を都統と為し、漢人行宮都部署王継忠を副と為し、殿前都点検蕭虚烈を都監と為して進討す。蕭合卓興化軍を攻めて克たず、師還る。七年、詔して東平郡王蕭排押を都統と為し、蕭虚烈を副統と為し、東京留守耶律八哥を都監と為し、復た高麗を伐たしむ。十二月、蕭排押之と茶・陀二河の間に戦う。我が軍利あらず、天雲・右皮室二軍溺没する者衆く、天雲軍詳穩海里・遥輦帳詳穩阿果達・客省使酌古・渤海詳穩高清明等皆陣に没す。八年、詔して排押の高麗を討つ罪を数え、之を釈す。功有る将校を加え、戦没将校の妻を益封し、其の子弟を録す。南皮室軍校功有るを以て、衣物銀絹を差等有りて賜い、金帛を出して肴里・涅哥の二奚軍に賜う。八月、郎君曷不呂等を遣わして諸部の兵を率い、大軍に会して同しく高麗を討たしむ。詢は使節を遣わして来り方物を貢するを乞う。九年、資忠還る。詢の降表を以て進め、詢の罪を釈す。
太平元年、詢薨ず。使節を遣わして来り嗣位を報ず。即ち使節を遣わして王欽を冊して王と為す。九年、欽に物を賜う。十一年、聖宗崩ず。使節を遣わして哀を告ぐ。七月、使節来り慰奠す。
興宗重熙七年、来貢す。十二年三月、尊号を加うるを以て、来賀す。十三年、使節を遣わして来貢す。十四年三月、又来貢す。十五年、入貢す。八月、王欽薨ず。使節を遣わして来告す。十六年、来貢す。明年、又来貢す。十九年、復た貢す。六月、使節を遣わして来り夏を伐つ捷を賀す。二十二年、入貢す。二十三年四月、王徽其の子に官を請う。詔して検校太尉を加う。
興宗崩ず。道宗即位す。清寧元年八月、使節を遣わして国哀を報じ、先帝の遺留物を以て之に賜う。十一月、使節来り葬に会す。二年・三年、皆来貢す。四年春、使節を遣わして太皇太后の哀を報ず。五月、使節来り葬に会す。咸雍七年・八年、来貢す。十二月、仏経一蔵を以て徽に賜う。九年・十年、来貢す。大康二年三月、皇太后崩ず。使節を遣わして哀を報ず。六月、使節来り弔祭す。四年、王徽鴨淥江以東の地を賜うるを乞う。許さず。九年八月、王徽薨ず。徽の子三韓国公勳を以て国事を権知せしむ。十二月、勳薨ず。大安元年、勳の子運を冊して国王と為す。二年、使節を遣わして来り封冊を謝す。三年、来貢す。四年三月、歳貢を免ず。五年・六年、連ねて貢す。九年、王運に羊を賜う。十年、運薨ず。子昱は使節を遣わして来告す。即ち賻贈す。寿隆元年、来貢す。十一月、王昱病む。其の子顒に命じて国事を権知せしむ。二年、来貢す。三年三月、王昱薨ず。五年、王顒封冊を乞う。六年、顒を封じて三韓国公と為す。
七年、道宗が崩御し、天祚帝が即位し、乾統元年と改元した。道宗の哀報が伝わり、使者が来て慰問と奠祭を行った。十二月、使者を派遣して来賀した。五年、三韓國公の王顒が薨去し、子の王俁が使者を派遣して来告した。八年、王俁を三韓國公に封じ、その父の王顒に国王を追贈した。十二月、使者を派遣して来謝した。九年、来貢した。天慶二年、王俁の母が薨去し、来告した。使者を派遣して致祭し、起復させた。三年、使者を派遣して致祭を謝し、また起復を謝した。十年、金を防ぐために高麗に兵を乞うたが、金人がこれを責めた。ここに至って遼国は滅亡した。
西夏
西夏は、本来魏の拓跋氏の後裔であり、その地は赫連国である。遠祖の思恭は、唐末に賜姓されて李姓となり、五代を経て宋に至るまで、代々その地を有した。李継遷に至って初めて強大となり、夏・銀・綏・宥・静の五州を占拠し、境沿いに七鎮を置き、その東西二十五駅、南北十余駅であった。子の徳明は、仏書に通暁し、法律に通じ、かつて太一金鑑訣・野戦歌を観覧し、番書十二巻を製し、また符篆のような文字を製した。
その習俗は、白い窄衫を着、氈冠を戴き、冠の後ろに紅い結び紐を垂らす。自ら嵬名と号し、官を文武に分けて設ける。その冠は金縷で貼り付け、間に雲文を起し、銀紙で貼り、緋衣を着け、金塗銀の帯を締め、蹀躞・解錐・短刀・弓矢を佩び、靴を穿き、禿髪で、耳に重環を付け、紫の旋襴を六重に着る。出入りには馬に乗り、青蓋を張り、二旗を前に立てて導き、従者は百余騎である。民庶は青緑の衣を着る。楽の五音を革めて一音とし、礼の九拝を裁って三拝とする。凡そ出兵に先立ち卜うこと四つあり。一つは炙勃焦、艾で羊の肩甲骨を灼く。二つは擗筭、竹を地に擗いて数を求め、蓍を揲るが如し。三つは呪羊、その夜に羊を牽き、香を焚いてこれを祷り、また穀火を野に焚き、翌朝羊を屠り、腸胃が通れば吉とし、羊の心に血があれば敗とする。四つは矢撃絃、その声を聴き、勝負及び敵の来る期を知る。病者は医薬を用いず、巫者を召して鬼を送る。西夏語では巫を「厮」という。あるいは他の室に遷し、これを「閃病」という。仇を報ずることを喜び、喪があれば人を伐たず、甲葉を背に負ってこれを識す。仇が解けたら、鶏・豚・犬の血を酒に和し、髑髏の中に貯めてこれを飲み、乃ち誓って曰く、「若し復た仇を報ずれば、穀麦は収穫せず、男女は禿癩し、六畜は死に、蛇が帳に入る」と。力が小さくて復仇できない者は、壮婦を集め、牛羊酒食を以て饗し、仇家に趨って火を放ち、その廬舎を焼く。俗に曰く、女兵に敵するは不祥なりと、すなわち避けて去る。官に訴えれば、官は舌弁気直の人を選んで和断官とし、その屈直を聴く。人を殺した者は、命の代価として銭百二十千を納める。
土産は大麦・蓽豆・青稞・𢇲子・古子蔓・鹹地蓬実・蓯蓉苗・小蕪荑・席鶏草子・地黄葉・登廂草・沙葱・野韭・拒灰蓧・白蒿・鹹地松実。
民は年十五で丁となる。二丁ある者は、一人を取って正軍とする。負擔雑使一人を抄とし、四丁で両抄とする。余りの者は他の丁を射ることができ、皆戦闘を習う。正軍は馬・駱駝各一頭、各家は自ら一帳を置く。団練使以上は、帳・弓・矢各一、馬五百匹、槖駝一頭、旗鼓五つ、槍・剣・棍棒・粆袋・雨氈・渾脱・鍬・钁・箭牌・鉄笊籬各一。刺史以下は、人各一駝、箭三百、毛幕一。余りの兵は三人で一幕を共にする。砲手二百人あり、号して「潑喜」という。勇健なる者は号して「撞令郎」という。糧食を齎すこと一旬を過ぎず。昼は煙を挙げ塵を揚げ、夜は煹火を候とする。若し人馬を獲れば、これを射て、号して殺鬼招魂という。あるいは草で人を縛ってこれを射つ。出軍には単日を用い、晦日を避ける。虚寨を多く立て、伏兵を設ける。重甲を衣、善馬に乗り、鉄騎を前鋒とし、鈎索を用いて絞聯し、馬上で死んでも落ちない。
その民俗は勇悍であり、衣冠・騎乗・土産物品・子孫の伝国も、またおおよそその大概を知るのみである。
初め、西夏は宋に臣事すること多年、賜姓されて趙姓となった。遼の聖宗統和四年に至り、李継遷が宋に叛き、初めて遼に附き、特進検校太師・都督夏州諸軍事を授かり、遂に李姓に復した。十月、使者を派遣して来貢した。六年、入貢した。七年、来貢し、王子帳の耶律襄の女を義成公主に封じて、継遷に降嫁した。八年正月、来謝した。三月、また来貢した。九月、継遷が使者を派遣して宋の捕虜を献じた。十月、宋軍を破ったことを来告した。十二月、宋の麟・鄜等州を陥したことを来告し、使者を派遣して継遷を夏国王に封じた。九年二月、使者を派遣して宋を伐った捷報を告げた。四月、李知白を派遣して封冊を謝した。七月、綏・銀二州を復したことを来告した。十月、継遷は宋から授かった敕命を、使者を派遣して上った。この月、定難軍節度使の李継捧が来附し、開府儀同三司・検校太師・兼侍中を授かり、西平王に封じられ、なお推忠効順啓聖定難功臣を賜った。十二月、継遷が密かに宋に附いたので、韓徳威を派遣して詔を以てこれを諭した。十年二月、韓徳威が還り、継遷が故を託して出ず、霊州に至って俘掠して還ったことを奏上した。西夏が使者を派遣して徳威の俘掠を奏し、詔を賜って撫諭した。十月、来貢した。十二年、入貢した。十三年、宋師を破り、使者を派遣して来告した。十四年、また来貢した。十五年三月、宋兵を破ったことを来告し、継遷を西平王に封じた。六月、使者を派遣して封冊を謝した。十六年、来貢した。十八年、継遷の子の徳明に朔方軍節度使を授けた。十九年、李文冀を派遣して来貢した。六月、宋の恒・環・慶三州を陥したことを奏上し、詔を賜って褒美した。二十年、使者を派遣して馬・駱駝を進めた。六月、劉仁勗を派遣して霊州を陥したことを告げた。二十一年、継遷が薨じ、その子の徳昭が使者を派遣して来告した。六月、継遷に尚書令を追贈し、西上閤門使の丁振を派遣して弔慰した。八月、徳昭が使者を派遣して弔贈を謝した。二十二年三月、徳昭が使者を派遣して継遷の遺留物を上った。七月、徳昭を西平王に封じた。十月、使者を派遣して封冊を謝した。二十三年、宋の青城を陥し、来告した。二十五年、徳昭の母が薨じ、使者を派遣して弔祭し、起復させた。二十七年、承天皇太后が崩御し、使者を派遣して夏に哀報した。二十八年、使者を派遣して徳昭を夏国王に冊封した。開泰元年、徳昭が使者を派遣して良馬を進めた。二年、引進使の李延弘を派遣して夏国王の李徳昭及び義成公主に車馬を賜った。太平元年、来貢した。十一年、聖宗が崩御し、夏に哀報した。徳昭が使者を派遣して賻幣を進めた。
興宗が即位すると、興平公主を李元昊に降嫁し、元昊を駙馬都尉とした。重熙元年、夏国が使者を派遣して来賀した。李徳昭が薨じ、その子夏国公元昊を冊して王とした。二年、来貢した。十二月、夏国の使者が沿路で私的に鉄を売買することを禁じた。七年、来貢した。李元昊は興平公主と不仲であり、公主が薨じると、北院承旨耶律庶成を派遣して詔を奉じてこれを問いただした。九年、宋が郭禎を派遣して夏を伐つことを報じてきた。十年、夏国が捕虜にした宋の将軍および生口を献上した。十一年、使者を派遣して宋が師を興して夏を伐った理由を問いただした。十二月、吐渾が夏に馬を売ることを禁じ、辺境沿いに障塞を築いてこれを防いだ。十二年正月、同知析津府事耶律敵烈・枢密都承旨王惟吉を派遣して夏国に宋と和するよう諭した。二月、元昊は尊号を加えられたことを以て、使者を派遣して来賀した。耶律敵烈らが夏国より使いして帰還し、元昊が兵を罷めたことを奏上し、使者を派遣して宋に報じた。四月、夏国が使者を派遣して馬・駱駝を進上した。七月、元昊が上表して宋を伐つことを請うたが、従わなかった。十月、夏人が党項を侵し、延昌宮使高家奴を派遣してこれを譴責した。十三年四月、党項および山西部族節度使屈烈が五部を率いて西夏に叛いて入ったので、詔して諸道の兵を徴発してこれを討たせた。六月、阻卜の酋長烏八がその子を遣わして元昊の派遣した求援使窊邑改を捕らえて来た。八月、夏の使者が実情を答えなかったので、これを拘束した。使者が再び来たが、事の次第を問うても実情を答えなかったので、笞刑に処した。十月、元昊が上表して罪を謝し、叛党を収集して献上したいと請うたので、これを許した。方物を進上し、北院枢密副使蕭革を派遣してこれを迎えさせた。元昊がみずから党項三部を率いて来降したので、叛徒を受け入れて盟に背いたことを詰問すると、元昊は罪に伏した。初め、夏人が蕭胡覩を捕らえていたが、この時、捕らえられた者を帰還させてほしいと請うた。詔して留め置いた夏の使者もまたその国に還した。十二月、胡覩が帰還し、また使者を派遣して来貢した。
十七年、元昊が薨じ、その子諒祚が使者を派遣して来告し、父の遺留物を献上した。鉄不得国が本部の軍を以て夏国を攻撃するのを助けたいと乞うたが、許さなかった。十八年、再び夏を伐つことを議し、その賀正使を留めて帰さず、北院枢密副使蕭惟信を派遣して夏を伐つことを宋に告げた。六月、夏国が使者を派遣して来貢したが、これを留めた。七月、親征した。八月、河を渡ると、夏人は遁走した。九月、蕭惠が夏人に敗れた。十月、招討使耶律敵古が阻卜軍を率いて賀蘭山に至り、元昊の妻およびその官属を捕らえた。その軍三千が来て抵抗したが、これを殲滅した。詳穏蕭慈氏奴・南剋耶律斡里が陣に没した。十九年正月、使者を派遣して夏に罪を問いただした。夏の将軍洼普らが金粛城を攻撃したが、耶律高家奴らがこれを撃破し、洼普は傷を負って遁走し、猥貨乙霊紀を殺した。三月、殿前都点検蕭迭里得が夏軍と三角川で戦い、これを破った。招討使蕭蒲奴・北院大王宜新らが師を率いて夏を伐ち、都部署別古得が監戦となった。五月、蕭蒲奴らが夏の境内に入ったが、敵に遭遇せず、軍を放って捕虜を掠奪して帰還した。夏国の洼普が来降した。十月、李諒祚の母が使者を派遣して旧に依って臣と称することを乞うた。十二月、諒祚が母の訓示の通り上表した。二十年二月、使者を派遣して党項の叛戸を要求した。五月、蕭爻括が夏より使いして帰還し、諒祚の母の上表を進呈した。党項に代わって権宜的に馬・駱駝・牛・羊などの物を進めることを乞い、また唐隆鎮を求め、なお築いた城邑を罷めることを乞うた。詔を以てこれに答えた。六月、元昊の妻を捕らえ、および捕虜にした夏人を蘇州に置いた。二十一年十月、諒祚が使者を派遣して辺備を弛めることを乞うたので、爻括を派遣して詔を奉じてこれを諭した。二十二年七月、諒祚が降表を進上し、林牙高家奴を派遣して詔を奉じて慰撫諭示した。二十三年正月、方物を貢した。五月、馬・駱駝を進上することを乞うたので、詔して毎年貢ぐように命じた。七月、諒祚が使者を派遣して婚を請うた。十月、誓表を進上した。二十四年、興宗が崩じ、使者を派遣して夏に哀を報じた。
道宗が即位し、清寧元年、使者を派遣して来賀した。九月、先帝の遺物を夏に賜った。四年四月、使者を派遣して会葬した。九年正月、民が夏に銅を売ることを禁じた。咸雍元年五月、来貢した。三年十一月、使者を派遣して回鶻の僧・金仏・梵覚経を進上した。十二月、諒祚が薨じた。四年二月、諒祚の子秉常が使者を派遣して哀を報じたので、即時に使者を派遣して弔祭した。秉常が父の遺物を献上した。十月、秉常を冊して夏国王とした。十二月、来貢した。五年七月、使者を派遣して封冊を謝した。閏十一月、秉常が印綬を賜ることを乞うた。九年、使者を派遣して来貢した。大康二年正月、仁懿皇后が崩じ、使者を派遣して夏に哀を報じ、皇太后の遺物を賜った。使者を派遣して来弔祭した。五年、来貢した。八年二月、使者を派遣して捕らえた宋の将軍張天益を献上した。大安元年十月、秉常が使者を派遣してその母の哀を報じた。二年十月、秉常が薨じ、使者を派遣してその子乾順に国事を知るよう詔した。十二月、李乾順が使者を派遣してその父秉常の遺物を献上した。四年七月、乾順を冊して夏国王とした。五年六月、使者を派遣して封冊を謝した。八年六月、夏が宋に侵されたので、使者を派遣して援を乞うた。寿隆三年六月、宋人が要地に壁塁を築いたので、使者を派遣して来告した。四年六月、援を求めた。十一月、枢密直学士耶律儼を宋に使いさせ、夏と和するようほのめかした。夏がまた使者を派遣して援を求めた。五年正月、詔して乾順に抜思母等部を伐たせた。十一月、夏は宋人が兵を罷めたので、使者を派遣して来謝した。六年十一月、使者を派遣して公主を尚ぐることを請うた。七年、道宗が崩じ、使者を派遣して夏に哀を告げた。使者を派遣して来慰奠した。
天祚が即位し、乾統元年、夏が使者を派遣して来賀した。二年、また公主を尚ぐることを請うた。また宋に侵されたとして、李造福・田若水を派遣して援を求めた。三年、また使者を派遣して公主を尚ぐることを請うた。十月、使者がまた来て援を求めた。四年・五年、李造福らが至り、援を乞うた。族女の南仙を成安公主に封じて乾順に降嫁した。六年正月、牛温舒を宋に使いさせ、侵した夏の地を返還するよう命じた。六月、李造福を派遣して来謝した。八年、乾順は成安公主が子を産んだので、使者を派遣して来告した。九年、宋が地を返還しないことを以て来告した。十年、李造福らを派遣して来貢した。天慶三年六月、来貢した。保大二年、天祚が播遷すると、乾順が兵を率いて来援したが、金の師に敗れ、乾順はその国に臨むことを請うた。六月、使者を派遣して乾順を冊して夏国皇帝としたが、天祚は捕らえられて金に帰した。
論
論じて曰く、高麗・西夏の遼に事えること、たとえ婚を請い公主を下嫁したことがあっても、どうしてその固い志を得ることができようか。三韓は接壤し、反覆は知りやすい。涼州は遠方を負い、叛徒を受け入れ疆土を侵し、隙あらば動く。貢使が往くや、事の紛争は随って生ず。師を興して罪を問い、しばしば親征を煩わす。勝を取ること固より多けれども、敗れることもまた悔いを遺す。昔、呉の趙咨が魏に対して言ったことく、「大国には征伐の兵あり、小国には備禦の固きあり」というが、果たしてそうであろうか。先王の遠方を柔らげるは、徳を以てし力に非ざるは、尚しきことである。遼が亡び、二国に援を求むるも、たとえ師を出すことができても、どうして金の敵であろうか。