◎文學上
○蕭韓家奴、李澣
遼は松漠より興り、太祖は兵をもって方内を経略し、礼文の事は固より未だ遑あらず。太宗の汴に入り、晉の図書・礼器を取って北に帰り、然る後に制度漸く以て修め挙げらる。景宗・聖宗の間に至りては、則ち科目聿に興り、士に下僚より擢げられて侍従に昇る者あり、驍驁に儒を崇ぶるの美なり。但し其の風気は剛勁にして、三面敵に隣り、歳時に蒐浯を務めと為し、而して典章文物は、古に視るに猶闕けり。然れども二百年の業、数君子之を為に綜理せざれば、則ち後世悪くんぞ考述せん。『文學傳』を作す。
蕭韓家奴は、字は休堅、涅剌部の人、中書令安摶の孫なり。少くより学を好み、弱冠にして南山に入り書を読み、経史を博覧し、遼・漢の文字に通ず。統和十四年始めて仕う。家に一牛有り、駆策に任せず、其の奴善き価を得て之を鬻ぐ。韓家奴曰く、「己を利して人を誤るは、吾が欲する所に非ず」と。乃ち直ちに帰り牛を取り返す。二十八年、右通進と為り、南京の栗園を典す。重熙初め、三司使事を同知す。四年、天成軍節度使に遷り、彰湣宮使に徙る。帝語らうに、其の才を以てし、命じて詩友と為す。嘗て従容として問うて曰く、「卿外に居りて異聞有りや」と。韓家奴対えて曰く、「臣惟だ栗を炒るを知る:小なる者熟すれば、則ち大なる者は必ず生く;大なる者熟すれば、則ち小なる者は必ず焦る。大小を均しく熟せしめて、始めて尽く美しと為す。其の他を知らず」と。蓋し嘗て栗園を掌りし故に、栗に托して以て諫めを諷す。帝大笑す。詔して『四時逸樂賦』を作らしむ、帝善しと称す。
時に詔して天下に治道の要を言わしむ。制問す:「徭役は旧に加えず、征伐も亦常には有らず、年穀既に登り、帑廩既に実るに、而るに民重く困す。豈に吏と為る者の慢く、民と為る者の惰なるか。今の徭役何れか最も重き。何れか尤も苦しき。何れをか蠲省すれば則ち便益と為る。補役の法何を以てか復すべし。盗賊の害何を以てか止むべし。」韓家奴対えて曰く:
臣伏して見るに、比年以來、高麗未だ賓せず、阻卜猶強く、戦守の備え誠に已むべからず。乃ち者富民を選びて辺を防がしめ、自ら糧糗を備えしむ。道路修阻にして、動もすれば歳月を淹る。屯所に比至するに、費已に半を過ぐ。只牛単轂、還る者鮮し。其の丁無きの家は、直を倍して傭僦し、人其の労を憚り、半途に亡竄す。故に戍卒の食多く給する能わず。人に仮せんと求むれば、則ち其の息を十倍し、子を鬻ぎ田を割りて償う能わざる者有り。或いは役を逋って帰らず、軍に在りて物故すれば、則ち復た少壮を以て補う。其の鴨淥江の東の戍役、大率此の如し。況んや渤海・女直・高麗合従連衡し、時に征討せず。富者は軍に従い、貧者は偵候す。之に水旱を加え、菽粟登らず、民以て日々困す。蓋し勢之を然らしむるなり。
方今最も重き役は、西戍に過ぐる無し。如し西戍無くば、凶年に遇うと雖も、困弊此に至らざるべし。若し能く西戍を稍々近く徙せば、則ち往来労せず、民深き患無からん。議者徙すは便ならずと謂う。一には威名を損じ、二には侵侮を召し、三には耕牧の地を棄つと。臣謂う、然らずと。阻卜諸部は、自ら来り之れ有り。曩時北は臚朐河に至り、南は辺境に至るまで、人多く散居し、統壹する所無く、惟だ往来し抄掠す。太祖の西征に及び、流沙に至り、阻卜風望して悉く降り、西域諸国皆願いて入貢す。因って種落を遷し、内に三部を置き、以て吾が国を益し、城邑を営まず、戍兵を置かず、阻卜累世寇を為すを敢えず。統和の間、王太妃師を出して西域にし、土を拓く既に遠く、降附亦衆し。自後一部或いは叛き、隣部之を討ち、力を同じくして相い制せしめ、正に遠人を馭するの道を得たり。及んで可敦に城し、境を数千里に開くや、西北の民、徭役日々増し、生業日々殫く。警急既に救う能わず、叛服亦復恒ならず。広地の名有るも空しく、而して地を得るの実無し。若し土を貪りて已まず、漸く虚耗に至らば、其の患言うに勝えざる者有らん。況んや辺情は深く信ずべからず、亦頓に絶つべからず。得て益と為さず、捨てて損と為さず。国家の大敵は、惟だ南方に在り。今連和すと雖も、他日を保し難し。若し南方に変有らば、屯戍遼邈にして、卒に赴援し難し。我進めば則ち敵退き、我還れば則ち敵来る。慮わざるべからず。方今太平已久しく、正に恩を以て諸部を結び、罪を釈して地を帰し、内には戍兵を徙して以て堡障を増し、外には約束を明らかにして以て疆界を正すべし。毎部各々酋長を置き、歳ごとに職貢を修めしむ。叛すれば則ち之を討ち、服すれば則ち之を撫す。諸部既に安んずれば、必ず釁を生ぜず。是くの如くせば、則ち臣其の久しくして変無きを保つと雖も能わず、其の必ず深く入り侵掠せざるを知る。或いは地を棄つは則ち威を損ずと云う。殊不知、費を殫くし財を竭して、以て用無きの地を貪り、彼の小部をして大国に抗衡せしむ。万一敗有らば、威を損ずること豈に浅からんや。或いは又云う、沃壤は遽に棄つべからずと。臣以為う、土は沃と雖も、民久しく居る能わず、一旦敵来らば、則ち内徙免れず。豈に吾が土と指して之を惜しむべけんや。
夫れ帑廩は部に随いて有ると雖も、此れ特に関急部民を周し、一偏の恵にして、均しく天下を済す能わず。如し均しく天下を済さんと欲せば、則ち当に民困の由を知り、而して其の隙を窒ぐべし。盤遊を節し、驛傳を簡にし、賦斂を薄くし、奢侈を戒む。数年を期せば、則ち困む者は蘇り、貧しき者は富むべし。蓋し民は国の本、兵は国の衛なり。兵を調せざれば則ち軍役を曠る、之を調すれば則ち国本を損ず。且つ諸部皆補役の法有り。昔補役始めて行わるるや、居る者行く者、類皆富実なり。故に累世戍に従い、更代するに易し。近歳辺虞数え起り、民多く匱乏す。既に役事に任せず、補うに随い缺くに随う。苟も上戸無くば、則ち中戸之に当たる。日を曠け年を弥て、其の窮益甚だし。以って代わるを艱しとする所以なり。惟だ補役のみ此くの如くなるに非ず、辺に在る戍兵も亦然り。譬えば一抔の土、豈に尋丈の壑を填めんや。長久の便を為さんと欲せば、遠戍の疲兵をして故郷に還らしめ、其の徭役を薄くし、人々給足せしむるに若かず。則ち補役の道故に復すべし。
臣又聞く、昔より国家を有する者は、盗無き能わずと。比年以來、群黎雕弊し、剽窃に利し、良民往往凶暴に化す。甚だしきは人を殺して忌憚無く、亡命して山沢にし、乱を基き禍を首むるに至る。所謂、民困窮を以て、皆盗賊と為る者は、誠に聖慮の如し。今本根を芟夷せんと欲せば、願わくは陛下徭役を軽くし省き、民をして農を務めしめよ。衣食既に足れば、教化に安習し、而して法を犯すを重んずれば、則ち民礼義に趨き、刑罰用いること罕なり。臣聞く、唐太宗群臣に治盗の方を問う。皆曰く、「厳刑峻法」と。太宗笑いて曰く、「寇盗の所以に滋すは、賦斂度無く、民聊生する無きに由る。今朕内に嗜欲を省み、外に遊幸を罷め、海内を安静せしむれば、則ち寇盗自ずから止まん」と。此れに由りて之を観るに、寇盗の多寡は、皆衣食の豊儉、徭役の重軽に由る。
今宜しく可敦城を近き地に徙し、西南副都部署烏古敵烈・隗烏古等の部と声援相接せしむ。黒嶺の二軍を罷め、並びに開州・保州を、皆東京に隷せしむ。東北の戍軍及び南京総管の兵を益す。壁壘を増修し、候尉相い望み、楼櫓を繕完し、城隍を浚治し、以て辺防と為す。此れ方今の急務なり。願わくは陛下之を裁せよ。
翰林都林牙に抜擢され、国史の編修を兼ねた。なお詔を下して諭して曰く、「文章の職は国の光華にして、才なくしては用いず。卿の文学をもって、時に大儒たり、ここをもって卿に翰林の職を授く。朕の起居は悉く実録とせよ」と。ここより日ごとに親信を受け、毎に侍入するときは座を賜う。佳日に遇えば、帝と酒を飲み詩を賦し、もって相酬酢し、君臣相得ること比類なし。韓家奴は知ることを言わざるなく、諧謔するも規諷を忘れず。
韓家奴は毎に帝の猟を見るに、諫めざること未だ嘗てあらず。時に司有りて秋山に猟することを奏し、熊虎数十人を傷死せしむ。韓家奴これを冊に書す。帝見て、これを去るを命ず。韓家奴既に出で、復た書す。他日、帝これを見て曰く、「史筆かくの如くあるべし」と。帝韓家奴に問ふ、「我が国家創業以来、孰れか賢主と為すや」と。韓家奴穆宗を以て対ふ。帝これを怪しみて曰く、「穆宗は酒を嗜み、喜怒常なく、人を視ること猶ほ草芥の如し。卿何を以て賢と謂ふや」と。韓家奴対へて曰く、「穆宗は暴虐なりと雖も、徭を省み賦を軽くし、人その生を楽しむ。穆の世を終ふるまで、罪なくして戮せられ、未だ今日の秋山の傷死者の過ぐるはあらず。臣故に穆宗を以て賢と為す」と。帝默然たり。
詔して耶律庶成とともに遙輦可汗より重熙以来の事跡を録し、集めて二十巻と為し、これを進む。十五年、復た詔して曰く、「古の天下を治むる者は、礼義を明らかにし、法度を正す。我が朝の興り、世に明徳有り。中外向化すと雖も、然れども礼書未だ作らず、後世に示すこと無し。卿は庶成とともに古に酌み今に準ひ、礼典を制すべし。事或いは疑はしきは、北・南院とともに議せよ」と。韓家奴既に詔を受け、博く経籍を考へ、天子より庶人に達するまで、情文制度世に行はれ、古に繆らざるものを撰び成して三巻と為し、これを進む。又詔して諸書を訳さしむ。韓家奴は帝に古今の成敗を知らしめんと欲し、『通歴』・『貞観政要』・『五代史』を訳す。時に帝その老なるを以て、朝謁に任ぜず、帰徳軍節度使に拝す。善治を以て聞こゆ。帝使いを遣はして問労す。韓家奴表して謝す。召して国史を修めしむ。卒す。年七十二。『六義集』十二巻世に行はる。
李澣、初め晋に仕えて中書舎人と為る。晋滅びて遼に帰す。太宗崩じ世宗立つに当たり、恟渙定まらず、澣は高勛等十余人とともに南京に羈留す。久しくして、従ひて上京に帰り、翰林学士を授く。穆宗即位し、累遷して工部侍郎と為る。時に澣の兄濤汴に在りて翰林学士と為り、密かに人を遣はして澣を召す。澣書を得、医を求めて南京に托し、服を易へ夜に出で、汴に遁れ帰らんと欲す。涿に至り、僥巡の者に得られ、これを南京に送り、吏に下す。澣獄吏の熟寝するを伺ひ、衣帯を以て自経す。死せず、これを防ぐこと愈よ厳し。械して上京に赴かしむ。自ら潢河の中流に投ず。鉄索に牽掣せられ、又死せず。上京に抵るに及び、帝これを殺さんと欲す。時に高勛已に枢密使と為り、救ひてこれを止む。屡に上に言ふて曰く、「澣は本より恩に負くに非ず、母年八十なるを以て、省覲に急なるが故に罪を致す。且つ澣は文学に富み、方今少く倫比有り。若し留めて詞命を掌らしめば、国体を増光すべし」と。帝の怒り稍く解け、仍ひて奉国寺に禁錮するを令す。凡そ六年、艱苦万状。会ひ上太宗の功德碑を建てんと欲す。高勛奏して曰く、「李澣に非ざれば筆を秉る者無し」と。詔してこれに従ふ。文成りて以て進む。上悦び、囚を釈す。尋ねて礼部尚書・宣政殿学士を加へ、卒す。
論じて曰く、統和・重熙の間、務めて文治を修む。而して韓家奴の対策は、落落として累数百言、概ね諸行事に施すべく、亦た遼の晁・賈か。李澣は詞章を以て称せらるると雖も、其の進退論ずるに足らず。