漢書

佞倖伝 第六十三

原文

漢が興って以来、へつらいで寵愛を受ける臣下は、高祖の時代には籍孺がおり、孝恵帝の時代には閎孺がいた。この二人は才能があったわけではなく、ただ柔らかく媚びることで貴く寵愛され、天子と寝起きを共にし、公卿たちもみな彼らを通じて取り次ぎを頼んだ。そのため孝恵帝の時代には、郎や侍中たちはみな鵔鸃の冠をかぶり、貝の帯を締め、白粉を塗り、閎孺や籍孺の仲間のようになっていた。二人は家族ごと安陵に移住した。その後、寵愛された臣下は、孝文帝の時代では士人では鄧通、宦官では趙談と北宮伯子がおり、孝武帝の時代では士人では韓嫣、宦官では李延年がおり、孝元帝の時代では宦官では弘恭と石顯がおり、孝成帝の時代では士人では張放と淳于長がおり、孝哀帝の時代では董賢がいた。孝景帝、昭帝、宣帝の時代には寵愛された臣下はいなかった。景帝には郎中令の周仁がいただけである。昭帝の時代、駙馬都尉の秺侯金賞が父の車騎將軍金日磾の爵位を継いで侯となったが、この二人の寵愛は平凡な程度を超えるものではなく、厚くはなかった。宣帝の時代、侍中中郎将の張彭祖は幼少時に帝が微賤であった時、同じ席で書を学び、帝が尊位につくと、彭祖は旧恩により陽都侯に封ぜられ、外出時には常に参乗し、愛幸と呼ばれた。この人物は謹直で、欠点はなかったが、妾に毒を盛られて死去し、封国は除かれた。

原文漢興,佞倖寵臣,高祖時則有籍孺,孝惠有閎孺。此兩人非有材能,但以婉媚貴幸,與上臥起,公卿皆因關説。故孝惠時,郎侍中皆冠鵔鸃,貝帶,傅脂粉,化閎、籍之屬也。兩人徙家安陵。其後寵臣,孝文時士人則鄧通,宦者則趙談、北宮伯子;孝武時士人則韓嫣,宦者則李延年;孝元時宦者則弘恭、石顯;孝成時士人則張放、淳于長;孝哀時則有董賢。孝景、昭、宣時皆無寵臣。景帝唯有郎中令周仁。昭帝時,駙馬都尉秺侯金賞嗣父車騎將軍日磾爵爲侯,二人之寵取過庸,不篤。宣帝時,侍中中郎將張彭祖少與帝微時同席研書,及帝即尊位,彭祖以舊恩封陽都侯,出常參乘,號爲愛幸。其人謹敕,無所虧損,爲其小妻所毒薨,國除。

鄧通

原文鄧通

鄧通は、蜀郡南安の人で、船を漕ぐ黄頭郎であった。文帝はかつて天に昇ろうとして夢を見たが、できず、一人の黄頭郎が押し上げて天に昇らせた。振り返って見ると、その男の衣服の後ろ裾に帯を通す穴が開いていた。目が覚めて漸台に行き、夢の中で密かに目に留めた推し上げた郎を探すと、鄧通を見つけ、その衣服の後ろに穴が開いており、夢で見た者であった。召し出して姓名を尋ねると、姓は鄧、名は通といった。鄧は登るに通じるので、文帝は大いに喜び、彼を尊重して寵愛し、日ごとにその寵愛は変わっていった。通もまた願い謹んで、外部との交際を好まず、たとえ休暇を賜っても、出たがらなかった。そこで文帝は通に巨万の金を数十回も賜り、官は上大夫にまでなった。

原文鄧通,蜀郡南安人也,以濯船爲黃頭郎。文帝嘗夢欲上天,不能,有一黃頭郎推上天,顧見其衣尻帶後穿。覺而之漸台,以夢中陰目求推者郎,見鄧通,其衣後穿,夢中所見也。召問其名姓,姓鄧,名通。鄧猶登也,文帝甚説,尊幸之,日日異。通亦願謹,不好外交,雖賜洗沐,不欲出。於是文帝賞賜通巨萬以十數,官至上大夫。

文帝は時折、通の家に行って遊んだが、通には他に技能がなく、人を推薦して取り立てることもできず、ただひたすら身を慎んで上に媚びるだけだった。上(文帝)は相の上手い者に通の相を見させたところ、「貧しく餓死する相です」と言った。上は言った。「通を富ませられるのは私である。どうして貧しいと言うのか。」そこで通に蜀の厳道の銅山を賜り、自分で銭を鋳造することを許した。鄧氏の銭は天下に流通し、その富はこのようなものであった。

原文文帝時間如通家遊戲,然通無他技能,不能有所薦達,獨自謹身以媚上而已。上使善相人者相通,曰:「當貧餓死。」上曰:「能富通者在我,何説貧?」於是賜通蜀嚴道銅山,得自鑄錢。鄧氏錢布天下,其富如此。

文帝はかつて癰を患い、鄧通は常に上(文帝)のために吸い出してやった。上は不機嫌になり、ふと尋ねた。「天下で私を最も愛する者は誰か。」通は言った。「太子に及ぶ者はないでしょう。」太子が病気見舞いに来ると、上は太子に癰を噛ませた。太子は癰を噛んだが、顔色が難しそうであった。後に通がかつて上(文帝)のために癰を噛んだことを聞き、太子は恥じ、これによって心の中で通を恨んだ。

原文文帝嘗病癰,鄧通常爲上嗽吮之。上不樂,從容問曰:「天下誰最愛我者乎?」通曰:「宜莫若太子。」太子入問疾,上使太子齰癰。太子齰癰而色難之。已而聞通嘗爲上齰之,太子慚,由是心恨通。

文帝が崩御し、景帝が即位すると、鄧通は免職され、家にいた。しばらくして、通が国境の外で密かに銭を鋳造したと告発する者がおり、役人に取り調べられると、かなりの証拠があった。ついに事件は決着し、すべて没収され、通の家にはなお数巨万の負債があった。長公主が鄧通に賜り物をしても、役人はすぐにそれを没収し、一本の簪さえ身につけさせなかった。そこで長公主は衣食を貸し与えるように命じた。結局、一文の銭も名義にできず、他人の家に寄食して死んだ。

原文及文帝崩,景帝立,鄧通免,家居。居無何,人有告通盜出徼外鑄錢,下吏驗問,頗有,遂竟案,盡沒入之,通家尚負責數巨萬。長公主賜鄧通,吏輒隨沒入之,一簪不得著身。於是長公主乃令假衣食。竟不得名一錢,寄死人家。

附 趙談

原文附 趙談

趙談は、星気(占星術)によって寵愛を受け、北宮伯子は長者として人を愛したので、親しく近づいたが、いずれも鄧通には及ばなかった。

原文趙談者,以星氣幸,北宮伯子長者愛人,故親近,然皆不比鄧通。

韓嫣

原文韓嫣

韓嫣は字を王孫といい、弓高侯の韓穨當の孫である。武帝が膠東王であった時、韓嫣は上(武帝)と共に学問を学び、互いに親愛の情を持った。上(武帝)が太子となると、ますます韓嫣を親しくした。韓嫣は騎射に優れ、聡明であった。上(武帝)が即位し、胡(北方異民族)を討伐しようとすると、韓嫣は先に兵術を習得していたので、それによってますます尊貴となり、官は上大夫に至り、賞賜は鄧通に匹敵した。

原文韓嫣字王孫,弓高侯穨當之孫也。武帝爲膠東王時,嫣與上學書相愛。及上爲太子,愈益親嫣。嫣善騎射,聰慧。上即位,欲事伐胡,而嫣先習兵,以故益尊貴,官至上大夫,賞賜擬鄧通。

当初、韓嫣は常に上(武帝)と共に寝起きしていた。江都王が入朝し、上(武帝)に従って上林苑で狩猟した。天子の車駕が道路を清めてまだ進まないうちに、先に韓嫣に副車に乗らせ、数十から百騎の騎兵を従えて走らせ、獣の様子を見させた。江都王がこれを見て、天子と思い、従者を退け、道端に伏して謁見した。韓嫣は走り去って顧みなかった。過ぎ去った後、江都王は怒り、皇太后に泣きつき、国に帰って宿衛(宮中の警護)に入り、韓嫣と同じようにしてほしいと請うた。太后はこれによって韓嫣を恨むようになった。

原文始時,嫣常與上共臥起。江都王入朝,從上獵上林中。天子車駕蹕道未行,先使嫣乘副車,從數十百騎馳視獸。江都王望見,以爲天子,辟從者,伏謁道旁。嫣驅不見。既過,江都王怒,爲皇太后泣,請得歸國入宿衛,比韓嫣。太后由此銜嫣。

韓嫣が侍する際、永巷(えいこう、後宮の通路・区域)への出入りが禁じられておらず、姦通の噂が皇太后に聞こえた。太后は怒り、使者を遣わして韓嫣に死を賜うた。上(武帝)が謝罪したが、ついに叶わず、韓嫣は遂に死んだ。

原文嫣侍,出入永巷不禁,以奸聞皇太后。太后怒,使使賜嫣死。上爲謝,終不能得,嫣遂死。

韓嫣の弟 韓説

原文嫣弟 説

韓嫣の弟の韓説もまた寵愛を受け、軍功によって案道侯に封ぜられたが、巫蠱の禍の時に戾太子によって殺された。子の韓増は龍雒侯に封ぜられ、大司馬、車騎將軍となり、独自の伝がある。

原文嫣弟説,亦愛幸,以軍功封案道侯,巫蠱時爲戾太子所殺。子增封龍雒侯、大司馬、車騎將軍,自有傳。

李延年

原文李延年

李延年は中山の人で、自身と父母兄弟は皆、もと倡優(しょうゆう、芸人)であった。延年は法に坐して腐刑(宮刑)に処せられ、狗監(くけん、猟犬を管理する官)に給事した。妹が上(武帝)の寵愛を得て、李夫人と号し、『外戚伝』に列せられている。延年は歌が上手く、新しい変声(変わり種の音楽)を作った。この時、上(武帝)はちょうど天地の祠を興そうとしており、楽を作ろうとし、司馬相如らに詩頌を作らせた。延年は常にその意を受けて、作られた詩に弦歌を付け、新しい声曲とした。そして李夫人が昌邑王を産むと、延年はこれによって貴ばれて協律都尉となり、二千石の印綬を佩び、上(武帝)と寝起きを共にし、その寵愛は韓嫣に並んだ。久しくして、延年の弟の李季が宮中人と淫乱な関係を持ち、出入りが驕り高ぶって勝手であった。李夫人が亡くなった後、その寵愛は衰え、上(武帝)は遂に延年の兄弟と宗族を誅殺した。

原文李延年,中山人,身及父母兄弟皆故倡也。延年坐法腐刑,給事狗監中。女弟得幸於上,號李夫人,列《外戚傳》。延年善歌,爲新變聲。是時,上方興天地祠,欲造樂,令司馬相如等作詩頌。延年輒承意弦歌所造詩,爲之新聲曲。而李夫人產昌邑王,延年由是貴爲協律都尉,佩二千石印綬,而與上臥起,其愛幸埒韓嫣。久之,延年弟季與中人亂,出入驕恣。及李夫人卒後,其愛弛,上遂誅延年兄弟宗族。

この後、寵臣は大抵が外戚の家の者であった。衞青や霍去病も皆寵愛を受けたが、しかしまた功績と能力によって自ら進んだ。

原文是後,寵臣大氐外戚之家也。衞青、霍去病皆愛幸,然亦以功能自進。

石顕

原文石顯

石顕は字を君房といい、済南の人である。弘恭は沛の人である。二人とも若い頃に法に坐して腐刑に処せられ、中黄門となり、選ばれて中尚書となった。宣帝の時、中書官に任じられ、弘恭は法令や故事に明るく習熟し、上奏を上手く行い、その職務にふさわしかった。弘恭が令となり、石顕が僕射となった。元帝が即位して数年後、弘恭が死ぬと、石顕が代わって中書令となった。

原文石顯字君房,濟南人;弘恭,沛人也。皆少坐法腐刑,爲中黃門,以選爲中尚書。宣帝時任中書官,恭明習法令故事,善爲請奏,能稱其職。恭爲令,顯爲僕射。元帝即位數年,恭死,顯代爲中書令。

この時、元帝は病気にかかり、政事に親しまず、音楽を大いに好んでいた。石顕が長く政務を司り、宦官で外に党派がなく、精励で専心して信頼できると考え、ついに政務を委ねた。事の大小にかかわらず、石顕を通じて上奏し決裁され、その寵愛と権勢は朝廷を傾け、百官は皆石顕を敬って仕えた。石顕は人となりが巧妙で物事に習熟し、君主の微かな意向を探り出すことができ、内心は深く邪悪で、詭弁を用いて人を中傷し、恨みや些細な怒りに逆らう者は、すぐに厳しい法を被せられた。初元年間、前将軍の蕭望之と光禄大夫の周堪、宗正の劉更生は皆給事中であった。蕭望之は尚書事を統轄し、石顕が専権し邪悪であることを知り、建議して言った。「尚書は百官の根本であり、国家の枢機である。通明で公正な者をもってこれに当たらせるべきである。武帝が後宮で遊宴したため、宦官を用いたのであって、古い制度ではない。中書宦官を廃止し、古に応じて刑人に近づかないようにすべきである。」元帝は聞き入れず、これによって大いに石顕と対立した。後に皆害され、蕭望之は自殺し、周堪と劉更生は罷免・禁錮され、再び進用されることはなかった。詳細は『望之伝』にある。後に太中大夫の張猛、魏郡太守の京房、御史中丞の陳咸、待詔の賈捐之が皆、封事を上奏し、あるいは召見されて、石顕の短所を言った。石顕は彼らの罪を探し求め、京房と賈捐之は棄市に処せられ、張猛は公車で自殺し、陳咸は罪に当たり、髪を剃られ城旦(刑徒)となった。また鄭県令の蘇建が石顕の私信を手に入れて上奏したが、後に別の事で死罪と論じられた。これ以降、公卿以下は石顕を恐れ、重ねた足跡のようにびくびくした。

原文是時,元帝被疾,不親政事,方隆好於音樂,以顯久典事,中人無外黨,精專可信任,遂委以政。事無小大,因顯白決,貴幸傾朝,百僚皆敬事顯。顯爲人巧慧習事,能探得人主微指,內深賊,持詭辯以中傷人,忤恨睚眥,輒被以危法。初元中,前將軍蕭望之及光祿大夫周堪、宗正劉更生皆給事中。望之領尚書事,知顯專權邪辟,建白以爲:「尚書百官之本,國家樞機,宜以通明公正處之。武帝游宴後庭,故用宦者,非古制也。宜罷中書宦官,應古不近刑人。」元帝不聽,由是大與顯忤。後皆害焉,望之自殺,堪、更生廢錮,不得復進用,語在《望之傳》。後太中大夫張猛、魏郡太守京房、御史中丞陳咸、待詔賈捐之皆嘗奏封事,或召見,言顯短。顯求索其罪,房、捐之棄市,猛自殺於公車,咸抵罪,髡爲城旦。及鄭令蘇建得顯私書奏之,後以它事論死。自是公卿以下畏顯,重足一跡。

石顕は中書僕射の牢梁、少府の五鹿充宗と党派を結んで友となり、これに付き従う者たちは皆、寵愛された地位を得た。民は歌って言った。「牢か石か、五鹿の客か!印はなんと連なり、綬はなんと長いことか!」彼らが官職を兼ねて権勢を占めていることを言ったのである。

原文顯與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗結爲黨友,諸附倚者皆得寵位。民歌之曰:「牢邪石邪,五鹿客邪!印何纍纍,綬若若邪!」言其兼官據勢也。

石顕は左将軍の馮奉世父子が公卿として著名であり、娘がまた昭儀として後宮にいるのを見て、心の中で彼らに付き従おうとし、昭儀の兄である謁者の馮逡が謹厳でよく整っており、帷幄に侍するにふさわしいと推薦して言った。天子が召見し、侍中にしようとしたところ、馮逡は間を請うて事を言った。上(天子)が馮逡の言う石顕の専権を聞くと、天子は大いに怒り、馮逡を罷免して郎官に戻した。その後、御史大夫が欠員となり、群臣は皆、馮逡の兄である大鴻臚の馮野王の行いと才能が第一であると推挙した。天子が石顕に問うと、石顕は言った。「九卿の中で馮野王に勝る者はいません。しかし馮野王は昭儀の実の兄です。臣は後世、必ず陛下が多くの賢人を超えて、後宮の親族を私的に三公にしたと非難することを恐れます。」上は言った。「よかろう。私はそのようには考えなかった。」そこで詔を下して馮野王を称賛したが、廃して用いなかった。詳細は『野王伝』にある。

原文顯見左將軍馮奉世父子爲公卿著名,女又爲昭儀在內,顯心欲附之,薦言昭儀兄謁者逡修敕宜侍帷幄。天子召見,欲以爲侍中,逡請間言事。上聞逡言顯顓權,天子大怒,罷逡歸郎官。其後御史大夫缺,群臣皆舉逡兄大鴻臚野王行能第一,天子以問顯,顯曰:「九卿無出野王者。然野王親昭儀兄,臣恐後世必以陛下度越眾賢,私後宮親以爲三公。」上曰:「善,吾不見是。」乃下詔嘉美野王,廢而不用,語在《野王傳》。

石顕は内心、自らが権力を擅にし、事柄の権柄を掌握していることを知り、天子がいつか側近の耳目を用いて、自分を離間する者が出ることを恐れた。そこで時折誠意を示し、一つの証拠を得て検証させようとした。石顕はかつて諸官に使いに行き、徴発することがあった。石顕は先に自ら申し出て、後で夜が明けて宮門が閉まるのを恐れるから、詔吏に門を開かせるよう請うた。上はこれを許した。石顕はわざと夜に帰還し、詔命と称して宮門を開けさせて入った。後に果たして上書して、石顕が命令を擅にし、詔を偽って宮門を開いたと告げる者があった。天子はこれを聞き、笑ってその上書を石顕に見せた。石顕はそこで泣いて言った。「陛下は小さな臣に過分なご寵愛をかけ、事を任せてくださいました。群下は臣を妬み、陥れようとしない者はおらず、このような事は一つや二つではありません。ただ明主のみがご存知です。愚かな臣は微賤な身です。誠に一身をもって万民の快とすることはできず、天下の怨みを担うことはできません。臣は枢機の職務をお返しし、後宮の掃除の役目を受け、死んでも恨みはありません。ただ陛下に哀れみとお許しを賜り、これをもって小さな臣の命を全うさせてください。」天子はもっともだと思い、彼を憐れみ、たびたび労い励まし、厚く賞賜を加え、賞賜と賄賂・贈り物は一億万に及んだ。

原文顯內自知擅權事柄在掌握,恐天子一旦納用左右耳目,有以間己,乃時歸誠,取一信以爲驗。顯嘗使至諸官有所征發,顯先自白,恐後漏盡宮門閉,請使詔吏開門。上許之。顯故投夜還,稱詔開門入。後果有上書告顯顓命矯詔開宮門,天子聞之,笑以其書示顯。顯因泣曰:「陛下過私小臣,屬任以事,群下無不嫉妒欲陷害臣者,事類如此非一,唯獨明主知之。愚臣微賤,誠不能以一軀稱快萬眾,任天下之怨,臣願歸樞機職,受後宮掃除之役,死無所恨,唯陛下哀憐財幸,以此全活小臣。」天子以爲然而憐之,數勞勉顯,加厚賞賜,賞賜及賂遺訾一萬萬。

初め、石顕は人々が騒ぎ、自分が前将軍の蕭望之を殺したと言っているのを聞いた。蕭望之は当代の名儒であり、石顕は天下の学士が自分を非難するのを恐れ、これを気に病んだ。この時、経学に明るく節義に優れた士、琅邪の貢禹が諫大夫であった。石顕は人をやって意向を伝え、深く結びつこうとした。石顕はそこで貢禹を天子に推薦し、九卿の地位を歴任し、御史大夫に至り、礼遇して事をなすこと甚だ手厚かった。議論する者はこれによって石顕を称え、蕭望之を妬んで讒言したのではないと思った。石顕が変詐を設けて自らを解き免れ、人主の信頼を得ることは、皆この類いであった。

原文初,顯聞眾人匈匈,言己殺前將軍蕭望之。望之當世名儒,顯恐天下學士姍己,病之。是時,明經著節士琅邪貢禹爲諫大夫,顯使人致意,深自結納。顯因薦禹天子,歷位九卿,至御史大夫,禮事之甚備。議者於是稱顯,以爲不妒譖望之矣。顯之設變詐以自解免取信人主者,皆此類也。

元帝の晩年、病が重くなり、定陶恭王が寵愛された。石顕は太子(後の成帝)を擁護し助けることに大いに力を尽くした。元帝が崩御し、成帝が初めて即位すると、石顕を長信中太僕に転任させ、秩禄は中二千石とした。石顕は後ろ盾を失い、権力から離れて数か月後、丞相と御史が条奏して石顕の旧悪と、その党派の牢梁、陳順を免官にした。石顕は妻子と共に故郷の郡に移され、憂い憤って食事もとらず、道中で病死した。石顕と交際して結びつき、石顕によって官を得た者は皆、罷免された。少府の五鹿充宗は左遷されて玄菟太守となり、御史中丞の伊嘉は雁門都尉となった。長安で謡われた。「伊は雁に移り、鹿は菟に移り、牢と陳を去れば実に賈なし。」

原文元帝晚節寢疾,定陶恭王愛幸,顯擁祐太子頗有力。元帝崩,成帝初即位,遷顯爲長信中太僕,秩中二千石。顯失倚,離權數月,丞相御史條奏顯舊惡,及其黨牢梁、陳順皆免官。顯與妻子徙歸故郡,憂滿不食,道病死。諸所交結,以顯爲官,皆廢罷。少府五鹿充宗左遷玄菟太守,御史中丞伊嘉爲雁門都尉。長安謠曰:「伊徙雁,鹿徙菟,去牢與陳實無賈。」

淳于長

原文淳于長

淳于長は字を子𡦗といい、魏郡元城の人である。若い頃、太后(王政君)の姉の子として黄門郎となったが、まだ寵愛を受けるには至らなかった。ちょうど大将軍の王鳳が病気になった時、淳于長は看病に当たり、朝晩支え助けて側に仕え、甥と舅の情けを大いに尽くした。王鳳が臨終の際、淳于長を太后と帝に託した。帝は淳于長の義理を嘉し、列校尉諸曹に拝し、水衡都尉侍中に遷り、衛尉九卿に至った。

原文淳于長字子𡦗,魏郡元城人也。少以太后姊子爲黃門郎,未進幸。會大將軍王鳳病,長侍病,晨夜扶丞左右,甚爲甥舅之恩。鳳且終,以長屬托太后及帝。帝嘉長義,拜爲列校尉諸曹,遷水衡都尉侍中,至衛尉九卿。

長い間が経ち、趙飛燕が寵愛を受けて高位に上ると、皇帝は彼女を皇后に立てようとしたが、皇太后は彼女の出身が卑賤であるとして難色を示した。長公主が東宮(皇太后の宮殿)との間を往復して取り次ぎを行った。一年余り後、趙皇后が立てられると、皇帝は大いにその功に感謝し、長公主の以前の功績を追って顕彰し、詔を下して言った。「以前、将作大匠の解萬年が昌陵の造営を上奏し、天下を疲弊させた際、侍中衛尉の長がたびたび、家を移した者を元の場所に戻すべきだと進言した。朕は長の言葉を公卿に下して議論させたところ、議する者たちは皆、長の計略に同意した。真っ先に最善の策を立て、民衆を安寧に導いた。長に関内侯の爵位を賜う。」その後、ついに定陵侯に封ぜられ、大いに信用され、その権勢は公卿を凌駕した。外では諸侯や州牧・郡守と交際し、賄賂や褒美として与えられた物も累計で巨万に上った。多くの妻妾を蓄え、音楽と女色にふけり、法度を遵守しなかった。

原文久之,趙飛燕貴幸,上欲立以爲皇后,太后以其所出微,難之。長主往來通語東宮。歲餘,趙皇后得立,上甚德之,乃追顯長前功,下詔曰:「前將作大匠解萬年奏請營作昌陵,罷弊海內,侍中衛尉長數白宜止徙家反故處,朕以長言下公卿,議者皆合長計。首建至策,民以康寧。其賜長爵關內侯。」後遂封爲定陵侯,大見信用,貴傾公卿。外交諸侯牧守,賂遺賞賜亦累巨萬。多畜妻妾,淫於聲色,不奉法度。

当初、許皇后は左道(邪法)を行った罪で廃され、長定宮に幽閉されていたが、その姉の靡は龍額思侯夫人で、寡婦となって暮らしていた。淳于長は靡と密通し、やがて彼女を側室にした。許皇后は靡を通じて淳于長に賄賂を贈り、婕妤に復帰したいと願った。淳于長は許皇后から金銭や乗り物、衣服、調度品などを前後合わせて千余万も受け取り、皇帝に取り次いで左皇后に立ててやると偽って約束した。靡が長定宮に入るたびに、淳于長は靡に手紙を託し、許皇后をからかい侮辱し、軽蔑して言わないことはなかった。手紙による連絡と賄賂の贈答は連年に及んだ。この時、皇帝の母方の叔父である曲陽侯の王根が大司馬票騎将軍として政務を補佐して数年が経ち、長く病に伏せり、たびたび引退を願い出ていた。淳于長は外戚として九卿の地位にあり、順序から言えば王根の後任となるはずだった。王根の兄の子である新都侯の王莽は内心、淳于長の寵愛を妬み、ひそかに淳于長が許靡を側室にし、長定宮からの賄賂を受け取っていると聞き知った。王莽が曲陽侯の看病をしていた時、機会を見て言った。「淳于長は将軍が長く病んでいるのを見て、内心喜び、自分が代わって政務を補佐するものと思い込み、役人たちの前で人事や配置について語り合っています。」そして彼の罪状をことごとく述べた。王根は怒って言った。「それならば、なぜ早く言わなかったのか。」王莽は言った。「将軍のお考えがわからなかったので、あえて申し上げませんでした。」王根は言った。「急いで東宮(皇太后)に報告せよ。」王莽は皇太后に拝謁を求めて、淳于長が驕り高ぶり、曲陽侯に取って代わろうとし、王莽の母の前で車に乗り、ひそかに長定宮の貴人(許皇后)の姉と通じ、その衣服や物品を受け取っていることを詳しく述べた。皇太后も怒って言った。「あの子がここまでとは!行って皇帝に報告しなさい!」王莽が皇帝に報告すると、皇帝は淳于長の官職を免じ、封国に帰らせた。

原文初,許皇后坐執左道廢處長定宮,而後姊靡爲龍額思侯夫人,寡居。長與靡私通,因取爲小妻。許后因靡賂遺長,欲求復爲婕妤。長受許后金錢乘輿服御物前後千餘萬,詐許爲白上,立以爲左皇后。靡每入長定宮,輒與靡書,戲侮許后,嫚易無不言。交通書記,賂遺連年。是時,帝舅曲陽侯王根爲大司馬票騎將軍,輔政數歲,久病,數乞骸骨。長以外親居九卿位,次第當代根。根兄子新都侯王莽心害長寵,私聞長取許靡,受長定宮賂遺。莽侍曲陽侯疾,因言:「長見將軍久病,意喜,自以當代輔政,至對衣冠議語署置。」具言其罪過。根怒曰:「即如是,何不白也?」莽曰:「未知將軍意,故未敢言。」根曰:「趣白東宮。」莽求見太后,具言長驕佚,欲代曲陽侯,對莽母上車,私與長定貴人姊通,受取其衣物。太后亦怒曰:「兒至如此!往白之帝!」莽白上,上乃免長官,遣就國。

当初、淳于長が侍中であった時、両宮(皇帝と皇太后)の使者を務め、親密な関係にあった。紅陽侯の王立だけが大司馬として政務を補佐する地位を得られず、王立は自分が淳于長に誹謗中傷されたのだと疑い、常に淳于長を激しく怨んでいた。皇帝はこのことを知っていた。そして淳于長が封国に帰ることになった時、王立の後継ぎである子の王融が淳于長に車騎の借用を願い出た。淳于長は珍宝を王融に託して王立に厚く贈り物をしたので、王立は淳于長のために取りなした。そこで天子は疑念を抱き、役所に下して取り調べさせた。役人が王融を捕らえようとすると、王立は王融に口封じのために自殺するよう命じた。皇帝はますます大きな奸計があると疑い、ついに淳于長を逮捕して洛陽の詔獄に投獄し、徹底的に取り調べさせた。淳于長は長定宮を侮辱し、左皇后を立てようと謀った罪状をことごとく認め、大逆の罪に当たるとして獄中で死んだ。妻子で連座すべき者は合浦に流罪とされ、母の若は故郷の郡に帰された。紅陽侯の王立は封国に帰った。将軍、卿、大夫、郡守で淳于長に連座して免職・罷免された者は数十人に上った。王莽はついに王根に代わって大司馬となった。長い時が経ち、淳于長の母と子の酺を長安に戻した。後に酺が罪を犯すと、王莽は再び彼を殺し、その家族を故郷の郡に移住させた。

原文初,長爲侍中,奉兩宮使,親密。紅陽侯立獨不得爲大司馬輔政,立自疑爲長毀譖,常怨毒長。上知之。及長當就國也,立嗣子融從長請車騎,長以珍寶因融重遺立,立因爲長言。於是天子疑焉,下有司案驗。史捕融,立令融自殺以滅口。上愈疑其有大奸,遂逮長系洛陽詔獄窮治。長具服戲侮長定宮,謀立左皇后,罪至大逆,死獄中。妻子當坐者徙合浦,母若歸故郡。紅陽侯立就國。將軍、卿、大夫、郡守坐長免罷者數十人。莽遂代根爲大司馬。久之,還長母及子酺於長安。後酺有罪,莽復殺之,徙其家屬歸故郡。

最初、淳于長は外戚として親しく近侍したが、その寵愛は富平侯の張放には及ばなかった。張放は常に皇帝と寝起きを共にし、ともに微行して出入りした。

原文始,長以外親親近,其愛幸不及富平侯張放。放常與上臥起,俱爲微行出入。

董賢

原文董賢

董賢は字を聖卿といい、雲陽の人である。父の董恭は御史となり、董賢を太子舎人に任じた。哀帝が即位すると、董賢は太子の官属に従って郎となった。二年余り後、董賢が殿下で漏刻(水時計)を伝える役をしていた時、その人は美しく整った容貌で自らを愛でていた。哀帝が遠くから彼を見て、その姿形を気に入り、見覚えがあると思って尋ねた。「あれは舎人の董賢か?」そこで呼び寄せて話をし、黄門郎に任命した。これによって寵愛を受けるようになった。父が雲中侯であると聞くと、その日に召し出して霸陵令とし、さらに光禄大夫に昇進させた。董賢への寵愛は日増しに深まり、駙馬都尉侍中となり、外出する時は陪乗し、宮中では左右に侍り、十日か一ヶ月の間に賜る物は累計で巨万に上り、その権勢は朝廷を震わせた。常に皇帝と寝起きを共にした。ある時昼寝をしていて、皇帝の袖の上に体を預けていた。皇帝が起きようとした時、董賢はまだ目を覚まさず、董賢を動かすのを忍びず、袖を切って起き上がった。その恩愛はこのようなものであった。董賢もまた性質が柔和でへつらいが巧みで、媚びを売って自分の地位を固めるのが上手かった。休暇を与えられても、出ようとせず、常に宮中に留まって医薬の世話をした。皇帝は董賢が帰宅しにくいと思い、詔を下して董賢の妻にも宮殿への通行証を与え、董賢の宿舎に留まらせ、まるで役人の妻子が官舎に住むようにした。さらに董賢の妹を召し出して昭儀とし、その位は皇后に次ぎ、その住まいを椒風と改名して、皇后の宮殿「椒房」と対になるようにした。昭儀と董賢とその妻は朝から晩まで宮中に上がり、ともに左右に侍った。昭儀と董賢の妻に賜る物もそれぞれ千万単位であった。董賢の父を少府に昇進させ、関内侯の爵位を賜い、食邑を与え、さらに衛尉に転任させた。また董賢の妻の父を将作大匠に、弟を執金吾に任じた。詔を下して将作大匠に董賢のため北闕の下に大きな邸宅を建てさせ、重層の殿堂と通りの門を設け、土木工事は技巧の限りを尽くし、柱や欄干に厚い錦をかぶせた。下は董賢の家の奴隷や下僕に至るまで皇帝からの賜り物を受け、武庫の禁兵器や上方(宮中の工房)の珍宝も与えられた。選りすぐりの品々の最上級はすべて董氏のものとなり、皇帝の乗り物や衣服はその次級品であった。そして東園の秘器(ひき、副葬品)や、真珠で飾った短衣、玉で覆った棺に至るまで、あらかじめ董賢に賜り、備わっていないものはなかった。また将作大匠に命じて董賢のため義陵(ぎりょう、哀帝の陵)の傍らに墓域を造営させ、内部に便房(べんぼう、副葬室)を設け、堅い柏の木で題湊(ていそう、棺を囲む木の壁)を組み、外に巡察道を設け、周囲の垣は数里に及び、門や楼閣、網代垣は非常に立派であった。

原文董賢字聖卿,雲陽人也。父恭,爲御史,任賢爲太子舍人。哀帝立,賢隨太子官爲郎。二歲餘,賢傳漏在殿下,爲人美麗自喜,哀帝望見,説其儀貌,識而問之,曰:「是舍人董賢邪?」因引上與語,拜爲黃門郎,由是始幸。問及其父爲雲中侯,即日徵爲霸陵令,遷光祿大夫。賢寵愛日甚,爲駙馬都尉侍中,出則參乘,入御左右,旬月間賞賜累巨萬,貴震朝廷。常與上臥起。嘗晝寢,偏藉上袖,上欲起,賢未覺,不欲動賢,乃斷袖而起。其恩愛至此。賢亦性柔和便辟,善爲媚以自固。每賜洗沐,不肯出,常留中視醫藥。上以賢難歸,詔令賢妻得通引籍殿中,止賢廬,若吏妻子居官寺捨。又召賢女弟以爲昭儀,位次皇后,更名其捨爲椒風,以配椒房雲。昭儀及賢與妻旦夕上下,並侍左右。賞賜昭儀及賢妻亦各千萬數。遷賢父爲少府,賜爵關內侯,食邑,復徙爲衛尉。又以賢妻父爲將作大匠,弟爲執金吾。詔將作大匠爲賢起大第北闕下,重殿洞門,木土之功窮極技巧,柱檻衣以綈錦。下至賢家僮僕皆受上賜,及武庫禁兵,上方珍寶。其選物上弟盡在董氏,而乘輿所服乃其副也。及至東園秘器,珠襦玉柙,豫以賜賢,無不備具。又令將作爲賢起塚塋義陵旁,內爲便房,剛柏題湊,外爲徼道,周垣數里,門闕罘罳甚盛。

皇帝は董賢を侯に封じたいと思ったが、まだ機会がなかった。折しも待詔の孫寵や息夫躬らが、東平王の劉雲とその后の謁が祠を祀って皇帝を呪ったと告発し、役所に下して取り調べさせたところ、皆その罪を認めた。皇帝はそこで息夫躬と孫寵を、董賢を通じて東平王の事件を告発した者ということにし、その功績によって詔を下して董賢を高安侯に、息夫躬を宜陵侯に、孫寵を方陽侯に封じ、それぞれ千戸の食邑を与えた。まもなく、さらに董賢に二千戸を加増して封じた。丞相の王嘉は内心、東平王の事件が冤罪であると疑い、息夫躬らをひどく憎み、たびたび諫争し、董賢が国の制度を乱しているとした。王嘉はついに時事について発言した罪で獄に下され、死んだ。

原文上欲侯賢而未有緣。會待詔孫寵、息夫躬等告東平王雲後謁祠祀祝詛,下有司治,皆伏其辜。上於是令躬、寵爲因賢告東平事者,乃以其功下詔封賢爲高安侯,躬宜陵侯,寵方陽侯,食邑各千戶。頃之,復益封賢二千戶。丞相王嘉內疑東平事冤,甚惡躬等,數諫爭,以賢爲亂國制度,嘉竟坐言事下獄死。

皇帝が即位した当初、祖母の傅太后と母の丁太后がともに存命で、両家は先んじて貴顕となった。傅太后の従弟の傅喜が先に大司馬として政務を補佐していたが、たびたび諫言して太后の意に背き、官を免ぜられた。皇帝の母方の叔父である丁明が代わって大司馬となり、やはり職務を担当したが、賢臣や寵臣をかなり害し、丞相の王嘉が死ぬと、丁明は彼を非常に哀れんだ。皇帝は次第に董賢を重用し、その地位を極めさせようとしたが、丁明がこのような態度をとるのを恨み、ついに詔書を下して丁明を免官した。その文は次のとおりである。「以前、東平王の劉雲は高位を貪り、祠祭で呪詛を行った。劉雲の後妻の兄である伍宏は医術をもって待詔の身分であり、校秘書郎の楊閎と結託して反逆を謀り、禍いは甚だ切迫していた。宗廟の神霊の加護により、董賢らがこれを上聞し、ことごとくその罪を罰した。将軍(丁明)の従弟で侍中奉車都尉の丁呉、および将軍の族父で左曹屯騎校尉の丁宣は、ともに伍宏および栩丹が諸侯王の后の親族であることを知りながら、丁宣は栩丹を御属に任用し、丁呉は伍宏と交際して親密にし、たびたび伍宏を称賛推薦した。伍宏は丁呉に附勢してその悪心を起こさせ、医術という技によって進出し、ほとんど社稷を危うくした。朕は恭皇后(丁太后)の故をもって、劉雲(の一族)を処罰するに忍びなかった。将軍は位が高く責任が重いのに、威厳を明らかにし正義を立てて未然に禍いを消し止めることができず、また劉雲や伍宏の悪を深く憎むこともせず、かえって君主を非難し、丁宣や丁呉に阿り、逆に劉雲らを痛惜して、群臣に冤罪を被せられたと公言し、さらに自ら見聞きして伍宏は医術に優れ死ぬのは惜しいと言い、董賢らが封を受けたのは極めて幸運だと言った。忠良を嫉み、功績のある者を誹謗するとは、ああ悲しいことだ。そもそも『君主や親に対して謀反の心を抱いてはならず、抱けば誅殺される』という。それゆえ季友が叔牙を毒殺したことを、『春秋』は賢明としている。趙盾が賊を討たなかったので、君主を弑したと称されるのである。朕は将軍が重い刑罰に陥るのを哀れみ、故に文書をもって戒める。将軍は過ちを改めず、さらに丞相の王嘉と結託し、王嘉に依拠する者を与えて、上を欺かせた。有司が法に基づき将軍を獄に下して処断しようと請うたが、朕は(母后の)親族としての恩情に思いを致し、忍ぶことができなかった。将軍の票騎将軍の印綬を上納させ、罷免して邸宅に帰らせよ。」こうして董賢が丁明に代わって大司馬衛将軍となった。任命の詔書にはこうある。「朕は天命を継ぎ、古を考察して汝を公の位に立て、漢朝の補佐とせんとす。往きて汝の心を尽くし、軍を統率し、遠方を安んじ、諸事を匡正し、まさにその中を執れ。天下の民衆は朕によって統制され、将軍は命を預かり、兵は威を示す。慎まざるべけんや!」

原文上初即位,祖母傅太后、母丁太后皆在,兩家先貴。傅太后從弟喜先爲大司馬輔政,數諫,失太后指,免官。上舅丁明代爲大司馬,亦任職,頗害賢寵,及丞相王嘉死,明甚憐之。上浸重賢,欲極其位,而恨明如此,遂冊免明曰:「前東平王雲貪慾上位,祠祭祝詛,雲後舅伍宏以醫待詔,與校秘書郎楊閎結謀反逆,禍甚迫切。賴宗廟神靈,董賢等以聞,咸伏其辜。將軍從弟侍中奉車都尉吳、族父左曹屯騎校尉宣皆知宏及栩丹諸侯王后親,而宣除用丹爲御屬,吳與宏交通厚善,數稱薦宏。宏以附吳得興其噁心,因醫技進,幾危社稷,朕以恭皇后故,不忍有雲。將軍位尊任重,既不能明威立義,折消未萌,又不深疾雲、宏之惡,而懷非君上,阿爲宣、吳,反痛恨雲等揚言爲群下所冤,又親見言伍宏善醫,死可惜也,賢等獲封極幸。嫉妒忠良,非毀有功,於戲傷哉!蓋『君親無將,將而誅之』。是以季友鴆叔牙,《春秋》賢之;趙盾不討賊,謂之弒君。朕閔將軍陷於重刑,故以書飭。將軍遂非不改,復與丞相嘉相比,令嘉有依,得以罔上。有司致法將軍請獄治,朕惟噬膚之恩未忍,其上票騎將軍印綬,罷歸就第。」遂以賢代明爲大司馬衛將軍。冊曰:「朕承天序,惟稽古建爾於公,以爲漢輔。往悉爾心,統辟元戎,折衝綏遠,匡正庶事,允執其中。天下之眾,受制於朕,以將爲命,以兵爲威,可不慎與!」

この時、董賢は二十二歳であった。三公の地位にありながら、常に給事中として宮中に仕え、尚書を管轄し、百官は董賢を通じて政事を上奏した。(董賢は)父の董恭が卿の位にあるのはふさわしくないとして、光禄大夫に転任させ、秩禄を中二千石とした。弟の董寛信が董賢に代わって駙馬都尉となった。董氏の親族はみな侍中や諸曹となり奉朝請の身分となり、その寵愛は丁氏や傅氏を上回った。

原文是時,賢年二十二,雖爲三公,常給事中,領尚書,百官因賢奏事。以父恭不宜在卿位,徙爲光祿大夫,秩中二千石。弟寬信代賢爲駙馬都尉。董氏親屬皆侍中諸曹奉朝請,寵在丁、傅之右矣。

翌年、匈奴の単于が来朝し、宴席で引見された時、群臣が前にいた。単于は董賢が若いのを怪しみ、通訳を通じて尋ねた。皇帝は通訳に命じて答えさせた。「大司馬は若年ではあるが、大いなる賢才をもってその地位にある。」単于はそこで立ち上がって拝礼し、漢が賢臣を得たことを祝賀した。

原文明年,匈奴單于來朝,宴見,群臣在前。單于怪賢年少,以問譯,上令譯報曰:「大司馬年少,以大賢居位。」單于乃起拜,賀漢得賢臣。

かつて、丞相の孔光が御史大夫であった時、董賢の父の董恭は御史として孔光に仕えていた。董賢が大司馬となり、孔光とともに三公となると、皇帝はわざわざ董賢に私的に孔光を訪問させた。孔光はもともと恭順で謹厳であり、皇帝が董賢を尊び寵愛したいと思っていることを知っていた。董賢が来訪すると聞くと、孔光は衣冠を整えて警戒し、門の外で待ち、董賢の車が見えると退いて中に入った。董賢が中門に至ると、孔光は閤の中に入り、(董賢が)車から降りてから、ようやく出て来て拝謁し、送迎は非常に謹んで、賓客と対等の礼を用いようとはしなかった。董賢が帰ると、皇帝はこのことを聞いて喜び、すぐに孔光の二人の兄の子を諫大夫と常侍に任命した。董賢はこれによって権勢が君主と並ぶほどになった。

原文初,丞相孔光爲御史大夫,時賢父恭爲御史,事光。及賢爲大司馬,與光並爲三公,上故令賢私過光。光雅恭謹,知上欲尊寵賢,及聞賢當來也,光警戒衣冠出門待,望見賢車乃卻入。賢至中門,光入閣,既下車,乃出拜謁,送迎甚謹,不敢以賓客均敵之禮。賢歸,上聞之喜,立拜光兩兄子爲諫大夫、常侍。賢由是權與人主侔矣。

この時、成帝の外戚である王氏は衰微していたが、ただ平阿侯の王譚の子の王去疾だけは、哀帝が太子であった時に庶子として寵愛を受け、即位すると侍中・騎都尉となっていた。皇帝は王氏に在位する者がいないのをみて、旧恩により王去疾を親しく近づけ、さらにその弟の王閎を中常侍に進めた。王閎の妻の父である蕭咸は、前将軍の蕭望之の子で、長らく郡守を務め、病気で免官となり、中郎将となっていた。兄弟がともに列していたので、董賢の父の董恭は彼らを羨み、婚姻関係を結びたいと思った。王閎は董賢の弟である駙馬都尉の董寛信のために蕭咸の娘を妻に求めようとした。蕭咸は恐れおののいて承諾できず、ひそかに王閎に言った。「董公が大司馬となり、任命の詔書に『允執其中』とある。これは堯が舜に禅譲する時の文であり、三公に対する故事ではない。これを見た長老たちは、心に恐れない者はいない。これはどうして一門の子孫が堪えうるものだろうか!」王閎は知略のある性格で、蕭咸の言葉を聞いて心にも悟るところがあり、帰って董恭に報告し、蕭咸が深く謙遜して身を卑下する意を伝えた。董恭は嘆いて言った。「我が家はどうして天下に背負い目があるというのか、人々にこのように畏れられるとは!」不満げであった。後に皇帝が麒麟殿で酒宴を設け、董賢父子と親族が宴飲し、王閎兄弟の侍中・中常侍がみな側にいた。皇帝は酒がまわったところで、ゆったりと董賢を見つめて笑いながら言った。「朕は堯が舜に禅譲した故事に倣いたいと思うが、どうか?」王閎が進み出て言った。「天下は高皇帝(劉邦)の天下であり、陛下の所有するものではありません。陛下は宗廟を継承され、子孫に永遠に伝えるべきです。統治の業は最も重く、天子に戯れ言はありません!」皇帝は黙って不機嫌になり、側近たちはみな恐れた。そこで王閎を退出させ、以後は再び侍宴させなかった。

原文是時,成帝外家王氏衰廢,唯平阿侯譚子去疾,哀帝爲太子時爲庶子得幸,及即位,爲侍中、騎都尉。上以王氏亡在位者,遂用舊恩親近去疾,復進其弟閎爲中常侍,閎妻父蕭咸,前將軍望之子也,久爲郡守,病免,爲中郎將。兄弟並列,賢父恭慕之,欲與結婚姻。閎爲賢弟駙馬都尉寬信求咸女爲婦,咸惶恐不敢當,私謂閎曰:「董公爲大司馬,冊文言『允執其中』,此乃堯禪舜之文,非三公故事,長老見者,莫不心懼。此豈家人子所能堪邪!」閎性有知略,聞咸言,心亦悟,乃還報恭,深達咸自謙薄之意。恭歎曰:「我家何用負天下,而爲人所畏如是!」意不説。後上置酒麒麟殿,賢父子親屬宴飲,王閎兄弟侍中、中常侍皆在側。上有酒所,從容視賢笑,曰「吾欲法堯禪舜,何如?」閎進曰:「天下乃高皇帝天下,非陛下之有也。陛下承宗廟,當傳子孫於亡窮。統業至重,天子亡戲言!」上默然不説,左右皆恐。於是遣閎出,後不得復侍宴。

董賢の邸宅が新築され、堅固に造られていたが、その外の大門が理由もなく自然に壊れた。董賢は心の中でこれを嫌った。数か月後、哀帝が崩御した。太皇太后(元帝の皇后で成帝の母、王政君)が大司馬の董賢を召し出し、東廂で引見し、喪事の手配について尋ねた。董賢は内心憂い、答えることができず、冠を脱いで謝罪した。太后は言った。「新都侯の王莽は以前、大司馬として先帝の大喪を奉送し、故事に通じている。私は王莽に君を補佐させることにしよう。」董賢は頓首して大いに幸いとした。太后は使者を遣わして王莽を召した。王莽が到着すると、太后の意を受けて尚書に命じ、董賢が皇帝の病気の際に自ら医薬に親しまなかったことを弾劾させ、董賢が宮殿の司馬門の中への出入りを禁じた。董賢はどうしてよいかわからず、宮門に行って冠を脱ぎ、裸足で謝罪した。王莽は謁者に命じ、太后の詔書を持たせて宮門の下で董賢に詔書を下した。「近頃以来、陰陽が調わず、災害が相次ぎ、民衆が罪なく苦しんでいる。そもそも三公は鼎の足のような補佐である。高安侯の董賢は事理に通じておらず、大司馬として衆人の心に合わず、遠方を制圧し安んずる者ではない。その大司馬の印綬を没収し、罷免して邸宅に帰らせよ。」その日、董賢は妻とともに自殺し、家族は恐れ慌てて夜のうちに葬った。王莽は彼が死を偽ったのではないかと疑い、有司が董賢の棺を発掘し、獄に至って検視するよう上奏した。王莽はさらに大司徒の孔光に示唆して上奏させた。「董賢は性質が巧みで諂い、奸悪を助けて封侯を得、父子で朝政を専断し、兄弟ともに寵愛を受け、多くの賞賜を受け、邸宅を造営し、墓穴を造り、限りなく模倣し、王制と異ならず、費用は万万を数え、国家は空虚となった。父子は傲慢で、ついには使者に対する礼すらせず、賜物を受けても拝礼せず、罪悪は明白に現れている。董賢は自殺して罪に伏したが、死後その父の董恭らは悔い改めず、さらに砂で棺に四季の色を描き、左に蒼龍、右に白虎を描き、上に金銀の日月を飾り、玉衣と珠璧で棺を飾り、至尊(皇帝)にもこれ以上はないほどであった。董恭らは幸いにも誅殺を免れたが、中原の地にいるべきではない。臣は請う、財物を没収して官府に帰属させよ。董賢のために官となった者はすべて免官とせよ。」父の董恭、弟の董寛信と家族は合浦に流罪となり、母は別に故郷の巨鹿郡に帰った。長安の中小民衆は騒ぎ、その邸宅に向かって泣き、ほとんど盗みを働こうとした。官府が董氏の財産を売り払った総額は四十三万万にのぼった。董賢は発掘されると、裸で屍体を検視され、そのまま獄中に埋められた。

原文賢第新成,功堅,其外大門無故自壞,賢心惡之。後數月,哀帝崩。太皇太后召大司馬賢,引見東廂,問以喪事調度。賢內憂,不能對,免冠謝。太后曰:「新都侯莽前以大司馬奉送先帝大行,曉習故事,吾令莽佐君。」賢頓首幸甚。太后遣使者召莽。既至,以太后指使尚書劾賢帝病不親醫藥,禁止賢不得入出宮殿司馬中。賢不知所爲,詣闕免冠徒跣謝。莽使謁者以太后詔即闕下冊賢曰:「間者以來,陰陽不調,災害並臻,元元蒙辜。夫三公,鼎足之輔也,高安侯賢未更事理,爲大司馬不合眾心,非所以折衝綏遠也。其收大司馬印綬,罷歸第。」即日賢與妻皆自殺,家惶恐夜葬。莽疑其詐死,有司奏請發賢棺,至獄診視。莽復風大司徒光奏:「賢質性巧佞,翼奸以獲封侯,父子專朝,兄弟並寵,多受賞賜,治第宅,造塚壙,放效無極,不異王制,費以萬萬計,國家爲空虛。父子驕蹇,至不爲使者禮,受賜不拜,罪惡暴著。賢自殺伏辜,死後父恭等不悔過,乃復以沙畫棺四時之色,左蒼龍,右白虎,上著金銀日月,玉衣珠璧以棺,至尊無以加。恭等幸得免於誅,不宜在中土。臣請收沒入財物縣官。諸以賢爲官者皆免。」父恭、弟寬信與家屬徙合浦,母別歸故郡巨鹿。長安中小民言雚嘩,鄉其第哭,幾獲盜之。縣官斥賣董氏財凡四十三萬萬。賢既見發,裸診其屍,因埋獄中。

董賢と親しかった官吏の沛の朱詡は自ら大司馬府を去ったことを申告し、棺と衣を買って董賢の屍体を収め葬った。王莽はこれを聞いて大いに怒り、別の罪をでっち上げて朱詡を打ち殺した。朱詡の子の朱浮は建武年間に貴顕となり、大司馬・司空に至り、侯に封ぜられた。一方、王閎は王莽の時代に牧守となり、在任中は治績を記録され、王莽が敗れると官を去った。世祖(光武帝)は詔を下して言った。「武王が殷を滅ぼした時、商容の里門に表彰の標を立てた。王閎は善行を修め謹み深く、兵乱が起こった時、官吏や民衆はただ彼の首を争って取ろうとしなかった。今、王閎の子を吏に補せよ。」王閎の子は墨綬の官に至り、任地で死去した。(以上は)蕭咸の外孫の話である。

原文賢所厚吏沛硃詡自劾去大司馬府,買棺衣收賢屍葬之。王莽聞之而大怒,以它罪擊殺詡。詡子浮建武中貴顯,至大司馬、司空,封侯。而王閎王莽時爲牧守,所居見紀,莽敗乃去官。世祖下詔曰:「武王克殷,表商容之閭,閎修善謹敕,兵起,吏民獨不爭其頭首。今以閎子補吏。」至墨綬卒官。蕭咸外孫云。

原文

評して言う。柔らかく美しい者が心を傾けさせるのは、女性の魅力だけではなく、男性の色香もある。籍孺・閎孺・鄧通・韓嫣の類は一人ではなく、董賢の寵愛は特に盛んであった。父子ともに公卿となり、人臣としての貴重さは二つとないと言えよう。しかし、正しい道によらずに進み、地位がその任に過ぎたため、最後まで全うできた者はなく、いわゆる愛することがかえって害することに十分であるというものだ。漢の世は元帝・成帝の時に衰え、哀帝・平帝の時に崩壊した。哀帝・平帝の時代、国には多くの禍いがあった。君主は病み後継ぎがなく、寵臣が補佐となり、鼎の足は強くなく、棟梁はわずかにたわんだ。一朝、帝が崩御すると、奸臣が命令を専断し、董賢は縊死し、丁氏・傅氏は流罪となり、罪は母后に及び、位を奪われ幽閉され廃された。過ちは、身近な寵愛する者に親しみ、任ずる者が仁賢でなかったことにある。ゆえに仲尼は『損者三友』を著し、王者は官職を私的に人に与えないのは、おそらくこのためであろう。

原文贊曰:柔曼之傾意,非獨女德,蓋亦有男色焉。觀籍、閎、鄧、韓之徒非一,而董賢之寵尤盛,父子並爲公卿,可謂貴重人臣無二矣。然進不由道,位過其任,莫能有終,所謂愛之適足以害之者也。漢世衰於元、成,壞於哀、平。哀、平之際,國多釁矣。主疾無嗣,弄臣爲輔,鼎足不強,棟干微撓。一朝帝崩,奸臣擅命,董賢縊死,丁、傅流放,辜及母后,奪位幽廢,咎在親便嬖,所任非仁賢。故仲尼著「損者三友」,王者不私人以官,殆爲此也。