漢書
卷八十七 揚雄伝 第五十七
上
揚雄、字は子雲、 蜀 郡成都の人である。その先祖は周の伯僑という者に出自し、支族として初めて晋の揚の地に采邑を食み、それによって氏としたが、伯僑が周のどの分家かはわからない。揚は河と汾の間にあり、周が衰えると揚氏はある者は侯と称し、揚侯と号した。晋の六卿が権力を争い、 韓 ・ 魏 ・ 趙 が興り、范氏・中行氏・知伯が衰えた時に当たり、揚侯を逼迫したので、揚侯は 楚 の巫山に逃れ、そこで家を定めた。楚漢が興ると、揚氏は江を遡り、 巴 の江州に住んだ。そして揚季は廬江太守にまで官位が至ったが、漢の元鼎年間に仇を避けて再び江を遡り、㟭山の南の郫という地に住んだ。田一壥、宅一区があり、代々農桑を業とした。季から雄に至るまで、五世の間一子しか伝わらなかったので、雄には蜀に他の揚氏はいない。
雄は若い頃から学問を好み、章句の解釈にはこだわらず、訓詁を通じるだけで、広く書物を読み、見ないものはなかった。人となりは簡素でゆったりとしており、吃音で激しく話すことができず、黙して深遠な思索を好み、清静で作為がなく、欲が少なく、富貴に焦らず、貧賤を悲しまず、廉潔な節操を飾って当世に名声を求めなかった。家産は十金を超えず、一石の蓄えも乏しかったが、平然としていた。生来大らかな度量を持ち、聖哲の書でなければ好まず、自分の意に合わなければ、たとえ富貴であっても仕えようとしなかった。ただ、かつて辞賦を好んだ。
これより先、蜀には司馬相如がおり、賦を作って非常に雄大で優雅であったので、雄は心にそれを壮とし、賦を作るたびに常にそれを模範として手本とした。また、屈原の文章が相如を凌ぐのに、世に容れられず、『離騷』を作って自ら江に身を投げて死んだことを怪しみ、その文章を悲しみ、読むたびに涙を流さないことはなかった。君子は時を得れば大いに道を行い、得なければ龍蛇のように隠れるべきで、遇うか遇わぬかは天命である、どうして身を沈める必要があろうか、と考えた。そこで書を作り、しばしば『離騷』の文を拾ってそれに反論し、㟭山から江の流れに投げ入れて屈原を弔い、名付けて『反離騷』とした。また、『離騷』に倣って重ねて一篇を作り、名付けて『広騷』とした。さらに、『惜誦』以下から『懷沙』までを一卷にまとめ、名付けて『畔牢愁』とした。『畔牢愁』と『広騷』は文章が多いので載せず、ただ『反離騷』だけを載せる。その文は次のとおりである。
周氏の連綿たる裔よ、あるいは鼻祖は汾の隅にあり、霊なる宗族初め伯僑を諜ぎて、末流に揚侯に至る。淑きは周楚の豊かな功業よ、既に皇波を離れて超然たり、江の潭に因りて記を往きて、欽みて楚の湘纍を弔う。
ただ天の軌道開かれざるを、何ぞ純潔にして紛れを離るる! 紛れ多くしてその淟涊を累ね、暗くしてその繽紛を累ぬ。
漢十世の陽朔の時よ、招搖星は周の正月に紀す、正しき皇天の清き法則を、后土の方貞を度る。図りて纍の彼の洪大なる族を承け、また纍の昌んなる辞を覧る、鉤矩を帯びて衡を佩き、欃槍を履みて綦と為す。素より初めその麗服を貯えしを、何ぞ文は肆にして質は䪥なる! 娵娃の珍しき髢を資りて、九戎に鬻ぎて頼みを索む。
鳳凰は蓬萊の渚に翔るを、豈に鴐鵞の能く捷せんや! 驊騮を騁せて曲囏を為すを、驢騾は連蹇して足を 斉 う。枳棘の榛榛たるを、蝯貁擬いて敢えて下らざる、霊脩既に椒・蘭の唼佞を信ずるを、吾が纍忽焉として早く睹ざるや?
襟には菱や荷の緑の衣をかけ、芙蓉の赤い裳をまとっているが、芳しい香りは強烈でも人に知られず、むしろ折り畳んで奥の部屋にしまっておくほうがよい。閨中では容姿が競い合ってしなやかで、互いに美しさを競っているが、多くの美女たちの嫉妬を知っているならば、どうしてわざわざ蛾眉を誇示する必要があろうか。
神龍が深淵に潜むのは、慶雲を待って飛翔しようとするためである。春風が吹き渡らないならば、誰が龍の居場所を知ることができようか。私の屈原が多くの芳草を愛でるのを哀れに思い、輝く芳苓を風に揺らすが、晩夏に霜が降りて、ついに枯れ衰えてその栄えを失ってしまった。
長江と湘江を渡って南へ行き、雲のように蒼天の彼方へと走り去ろう。江の淵の溢れる水を駆け巡り、重華に裁きを求めようとする。心中の煩悶を述べようとするが、重華が私の屈原を相手にしてくれないのではないかと恐れる。陽侯の白波を越えていっても、果たして私の屈原だけが認められようか。
精米と秋菊を捧げて、天寿を延ばそうとしたが、汨羅のほとりで自ら身を投げ、太陽が西山に沈むのを恐れた。扶桑の手綱を解き放ち、馬を自由に駆けさせたが、鸞皇は飛び去って連れていかず、飛廉と雲師だけがついて行ったのではないか。
薛芷と若蕙を巻き、湘水の淵に投げ入れようとした。申椒と菌桂を束ね、江湖に漬け込もうとした。椒稰を費やして神を招き、さらに瓊茅を探し求めたが、霊氛の言葉に背いて従わず、かえって江辺で身を沈めてしまった。
屈原は既に傅説に縋りついたのに、どうして信じずに行ってしまったのか。ただ恐れたのは、鷤䳏が鳴き始め、百草に先立って芳しさを失うことだけだった。
屈原はかつて 虙 妃を捨て、さらに瑤台の逸女を思った。雄鴆を遣わして媒としようとしたが、どうして百回も離れ離れになって一度も結ばれなかったのか。雲霓のたなびく車に乗り、崑崙を望んで流れを巡った。四方の果てを見回して思いを馳せたが、どうして必ずしもあの高丘の神女を求める必要があろうか。
鸞車の幽かな姿が失われたなら、八龍の長い列を駕してどうするのか。江辺に臨んで涙をぬぐうばかりで、どうして『九招』や『九歌』があろうか。聖哲が遭遇する運命は、もとより時の天命によるものである。たとえ嘆息して胸を痛めても、私は霊脩が屈原のために改心することはないだろうと恐れる。昔、仲尼が魯を去ったとき、ゆっくりと歩みを進めて周遊したが、結局は古都に戻ってきた。どうして必ずしも湘水の淵や急流に身を投げる必要があろうか。漁父の飲食に混じり、沐浴して衣を振るう清らかさを捨て、許由や老耼の尊んだものを棄てて、彭咸の遺した道を踏むとは。
成帝の時。
孝成帝の時、客が揚雄の文章が司馬相如に似ていると推薦した。上(皇帝)はちょうど甘泉宮の泰 畤 と汾陰の后土を郊祀して、後継ぎを求めようとしており、揚雄を召し出して承明殿で待 詔 させた。正月、上に従って甘泉宮に行き、帰還後に『甘泉賦』を奏上して諷諫した。その文は次のとおりである。
漢朝の十代目(成帝)の時、天を郊祀しようとし、泰畤を定め、神の嘉祥を和らげ、明号を尊び、三皇と符契を合わせ、五帝の功績を記録し、子孫を慈しみ福を賜い、業績を広げ統治を開いた。そこで群臣に命じ、吉日を選び、霊辰を合わせ、星のように整列して天の運行のように進んだ。 詔 して招搖星と太陰星に命じ、鉤陳星を伏せて兵士に当たらせ、堪輿(天地)に属して壁壘を築かせ、夔(一つ足の怪物)や魖(山の精)を打ち払い、獝狂(悪鬼)を鞭打った。八神が奔走して警蹕し、殷轔(車の音)を響かせて軍装を整えた。蚩尤の類が干将の剣を帯び玉戚(玉の斧)を執り、飛び散り走り回った。整然と集まり絡み合い、風のように駆け雲のように進み、奮い立って四方に広がった。並び連なり列をなし、鱗のように雑然とし、柴虒(不揃いな様)が入り混じり、魚は跳ね鳥は目を動かした。翕赫(光の盛んな様)曶霍(速い様)として、霧が集まり覆い合い、半分散らばり照り輝き、鮮やかに文様を成した。
そこで天子は鳳凰の車に乗り、華芝(飾り)で覆い、四頭の蒼い螭(竜)と六頭の素の虯(竜)を駆り、蠖略(曲がりくねる様)蕤綏(垂れ下がる様)として、灕虖(しずくの落ちる様)幓纚(長く垂れる様)であった。陰を閉ざし、突然陽が開け、清い霄(空)を昇り浮かぶ影を越えて、何と多くの旗旐が高く掲げられてなびいていることか!流星の旄(飾り)が電光のように照らし、皆翠蓋(翡翠の蓋)と鸞旗(鸞鳥の旗)を掲げた。中営に一万騎を集め、玉車千乗を並べた。音は轟き響いて陸離(入り乱れる様)とし、軽やかに先立ち疾雷より速く遺風(残り風)を追い越した。高い丘の連なりを登り、曲がりくねった清澄な空を超えた。椽欒(山名)に登って天門に至り、閶闔(天門)を駆けて凌兢(恐れおののく所)に入った。
この時はまだ甘泉宮に到着しておらず、通天台の高く聳える様を望んだ。下は陰が潜んで寒々しく、上は大きく紛れて互いに錯綜し、真っ直ぐに聳え立って天に届き、その高さは測り知れなかった。平原は広々として壇曼(平坦で広い様)であり、林の間に新しい雉(垣)を並べた。並閭(棕櫚)と茇䒷(草の名)を集め、繁茂して際限がなかった。高い丘陵は駊騀(険しい様)で、深い溝は嶔巖(険しい岩)となって谷を成した。離宮が続き離れ、互いに照らし合い、封巣・石関が延々と連なっていた。
そこで大夏(宮殿)は雲や波のように奇怪で、高く聳えて観るべきものとなり、仰ぎ見て高く視れば、目が眩んで何も見えない。広大で茫漠として、東西の果てしなさを指し示し、ただうろうろと彷徨い、魂は遥かでぼんやりと乱れた。軨軒(窓)に寄りかかって周りを見渡せば、忽ち広大で際限がない。翠玉の樹は青々と茂り、壁の馬や犀の像は瞵㻞(光り輝く様)である。金人(金属製の人像)が力強く鐘虡(鐘つり台)を支え、嵌巖巖(高く聳える様)として龍の鱗のようであり、光り輝く燎燭の光を揚げ、炎の光に乗って喜び、帝居(天帝の居所)である懸圃に匹敵し、泰壹(天帝)の威神を象った。洪臺(高台)が突出して独り聳え、北極星に届くほど高く、列宿(星々)がその上の軒に施され、日月がようやく中央の梁を通り、雷が鬱律(こもる様)として岩間から突き出し、電光が忽ちに垣根を走った。鬼魅でさえも自らは戻れず、途中で転落してしまう。倒景(下界の影)を経て飛梁(空中の橋)を断ち切り、蔑蠓(小さな虫)のように浮かんで天をかすめた。
左に欃槍(彗星)右に玄冥(北方の神)を配し、前に 熛 闕(赤い宮門)後ろに応門(正門)を置いた。西海と幽都(北方の地)を陰(北側)にし、醴泉が涌き出て川を生じた。蛟龍が東の崖で連蜷(身をくねらせる様)とし、白虎が昆侖で敦圉(威厳のある様)としている。高光宮で曲がり流れる様を見渡し、西清(西の清らかな所)で方皇(彷徨う様)と遊んだ。前殿は崔 巍 (高く聳える様)で、和氏の玉のように瓏玲(透き通って美しい)、浮き柱の飛んだ榱(垂木)を高く掲げ、神がひそかに傾きを支え、閌閬閬(広々とした様)として寥廓(広大で空虚)、紫宮(天帝の宮殿)のように崢巆(高く険しい)。並び交錯して曼衍(広がる様)とし、㟎嶵𡽁隗(山の険しい様)として互いに絡み合う。雲閣に乗って上下し、紛れて蒙籠(覆われる様)として一つにまとまる。紅い采(彩り)の流離(きらめく様)を引きずり、翠の気が冤延(長く伸びる様)に漂う。琁室(玉の部屋)と傾宮(傾いた宮殿)を襲(重ね)い、高く登って遠くを望めば、厳かに淵に臨むようである。
旋風が激しく駆け巡り、桂や椒を打ち払い、栘楊(楊柳の一種)を鬱蒼と茂らせた。香りが芳しく満ち溢れ、薄櫨(斗栱)を打って栄えんとする。薌(香り)が呹肸(速く広がる様)に根元にまとわり、声が轟き響いて鐘を伝い、玉戸を押し開けて金鋪(金の飾り金具)を揺らし、蘭や蕙と穹窮(芎藭・薬草)の香りを放った。惟弸彋(風の音)が吹き抜け、次第に暗暗(暗く静かな様)として靚深(静かで深い)。陰陽清濁の音が穆羽(調和する様)に相和し、夔(伝説の楽官)や伯牙が琴を調べるようである。般(公輸般)や倕(伝説の工匠)がその剞劂(彫刻刀)を棄て、王爾(伝説の工匠)がその鉤繩(曲尺と墨縄)を投げ出す。たとえ征僑や偓佺(ともに仙人)であっても、なおぼんやりと夢のようである。
そこで事態が変わり物が化し、目は驚き耳は惑う。天子は静かに、珍しい台や閑静な館の、琁題(玉の軒)や玉英(玉の飾り)が蜵蜎蠖濩(屈曲して深い様)の中にあって、ただ心を澄ませ魂を清め、精神を蓄え思いを巡らせ、天地を感動させ、三神(天地人)に福を迎えるためのことを考えられた。そこで皋陶や伊尹のような人物を求め探し、人倫の魁となり、甘棠の恵み(召公の善政)を含み、東征の志(周公の東征)を抱く者と共に、陽霊の宮に揃った。薜荔を敷いて席とし、瓊枝を折って芳香とし、清い雲の流れる霞を吸い、若木の露の精華を飲み、礼神の苑に集まり、頌祇の堂に登った。光輝く長い旓(旗の飾り)を立て、華やかな覆いの威厳を示し、琁璣(北斗七星)に登って下を見下ろし、視線を三危(西方の山)に遊ばせ、多くの車を東の丘に並べ、玉の車輪を放って下り駆け、龍淵を漂って九垠(地の果て)に還り、地の底を覗いて上り返った。風が傱傱(速い様)として車轄(車の軸)を支え、鸞鳳が紛れその御蕤(飾り)を動かし、弱水の濎濴(浅く澄む様)を渡り、不周山の逶蛇(曲がりくねる様)を踏み、西王母が欣然として上寿(長寿を祝う)するのを思い、玉女を退け虙妃(伏羲の妃)を遠ざけた。玉女はその清らかな瞳で楽しげに見つめたが、虙妃はその蛾眉(美しい眉)を施すことができなかった。まさに道徳の精剛(精髄)を掴み取り、神明と同等の資質を得ようとした。
そこで敬って柴を焚き宗廟で祈った。香を焚いて皇天を祀り、泰壹(天帝)を招き寄せた。洪頤(旗の名)を掲げ、霊旗を立てた。薪を蒸して焜(明るく)上らせ、配藜(炎の広がる様)四方に施し、東は倉海(東海)を照らし、西は流沙(西方の砂漠)を輝かせ、北は幽都(北方の地)を明るくし、南は丹厓(南方の赤い崖)を暖めた。玄瓚(黒い玉の杓)は觩䚧(曲がる様)とし、秬鬯(黒黍の酒)は泔淡(満ち溢れる様)で、肸嚮(香りが広がる様)豊融(豊かに満ちる様)として、懿懿芬芬(芳しい様)である。炎が黄龍を感じさせ、熛(炎)が碩麟(大きな麒麟)を呼び起こし、巫咸(神巫)を選んで帝閽(天帝の門番)を呼び叫び、天庭を開いて群神を招き入れた。儐(導く者)が暗藹(多く集まる様)として清壇に降り、瑞祥が穰穰(豊かな様)として山のように積もった。
そこで祭祀が終わり功績は大きく、車を回して帰り、三巒(甘泉宮の観名)を過ぎて棠棃(宮名)に休んだ。天の門が開き地の境が開け、八荒(八方の果て)が和し萬国が調和した。長平(坂名)に登れば雷鼓が磕(轟く音)と鳴り、天の声が起こって勇士は奮い立ち、雲は飛び揚がり雨は滂 沛 (土砂降りの様)に降り、すべての徳が輝いて萬世にわたって美しい。
乱(結びの辞)に曰く、高く尊い円丘は、天を隠すほどに隆起し、登り降りは峛崺(曲がりくねる様)で、単(広大な)埢垣(囲い)である。増宮(重なる宮殿)は嵾差(不揃いな様)で、並んで嵯峨(高く険しい様)であり、岭巆嶙峋(山の険しい様)で、洞(深く)として涯がない。上天の縡(事)は、杳旭卉(深遠で広大な様)であり、聖皇は穆穆(静かで厳かな様)で、まことにそれに応える。神を招いて郊祀をし、神の依り代となり、招搖星の周りを徘徊し、霊が遅𨒈来る。輝光が眩燿(まばゆく輝く様)して、その福を大きくし、子々孫々、長く限りない。
甘泉宮はもともと 秦 の離宮であり、すでに豪華で贅沢であったが、武帝がさらに通天・高光・迎風の宮を増築した。宮外の近くには洪厓・旁皇・儲胥・弩阹があり、遠くには石関・封巒・枝鵲・露寒・棠棃・師得があり、遊覧のための建物は奇抜で壮大で、木材を磨かずに彫刻せず、壁を塗ったまま絵を描かず、周の宣王が考証し、殷の般庚が遷都したもの、夏が宮室を低くし、唐虞が三等の制度で棌椽を用いたようなものではない。しかもその建造はすでに久しく、成帝が造ったものではないので、諫めようとすれば時機を失し、黙っていればやめられず、そこで推し進めて称揚し、帝室の紫宮に比べ、これは人力のなせるものではなく、鬼神の仕業と言ってもよいとした。またこの時、趙昭儀が大いに寵愛されており、成帝が甘泉宮に行くたびに、常に法に従って従い、属車の間の豹尾の中にいた。そこで揚雄は車騎の多さ、参麗の駕を盛んに述べ、天地を感動させ、三神の福を迎えるものではないとした。また「玉女を屏け、虙妃を退ける」と言って、斎戒・粛清のことを微かに戒めた。賦が完成して奏上すると、天子は異なるものと感じた。
その三月、后土を祭ろうとし、天子は群臣を率いて大河を渡り、汾陰に集まった。祭りが終わると、介山に遊行し、安邑を回り、龍門を顧み、塩池を覧し、歴観に登り、西岳に登って八荒を望み、殷周の廃墟を跡づけ、はるかに唐虞の風を思った。揚雄は、川に臨んで魚を羨むより帰って網を結ぶ方がよいと考え、帰還後、『河東賦』を上奏して勧めた。その文は次のとおりである。
その年暮春、后土を埋めて祭り、霊祇を礼拝し、東郊で汾陰を謁し、これによって崇高を刻み、鴻業を垂れ、祥を発し、祉を降ろし、神明を敬うことは、盛大で輝かしく、越えて載せることができないほどである。そこで群臣に命じ、法服を整え、霊輿を整え、翠鳳の駕六を撫で、先景の乗り物を整え、奔星の流れる旗を揺らし、天狼の威弧を引き絞った。輝く日の玄旄を張り、左𦇨を揚げ、雲梢を被った。電鞭を奮い、雷輜を駆り、洪鐘を鳴らし、五旗を建てた。羲和が日を司り、顔倫が輿を奉じ、風が発し、飇が払い、神が騰り、鬼が走る。千乗は霆のように乱れ、万騎は屈橋し、嘻嘻旭旭として、天地は稠㟼である。丘を簸り、巒を跳ね、渭を湧かせ、涇を躍らせた。秦の神は下って恐れ、跖の魂は沴を負い、河の霊は矍踼し、華を𤓯み、衰を蹈んだ。ついに陰宮に至り、穆穆として肅肅として、蹲蹲たる様子であった。
霊祇がすでに郷に向かい、五位が時に叙され、絪縕として玄黄となり、その後に継ごうとした。そこで霊輿は安らかに歩み、周流して容与し、介山を覧した。文公を嗟き、推を愍み、龍門で大禹に勤め、豁瀆に沈𦸜を灑ぎ、九河を東瀕に播いた。歴観に登って遥かに望み、浮遊して経営した。往昔の遺風を楽しみ、虞氏の耕したことを喜んだ。帝唐の嵩高を瞰し、隆周の大寧を眽んだ。低回して去ることができず、行きて陔下と彭城を睨んだ。南巣の坎坷を濊ぎ、豳岐の夷平を易えた。翠龍に乗って河を超え、西岳の嶢崝に登った。雲䬠䬠として来迎し、澤滲灕として下降し、鬱蕭條として幽藹であり、滃汎沛として豐隆である。南北で風伯を叱り、西東で雨師を呵し、天地に参じて独立し、廓盪盪として双なし。
逝くに従って帰り来たり、函夏の大漢を以てすれば、彼らはどうして功を比べるに足りようか。乾坤の貞兆を建て、群龍を悉く総べてこれに従わせよう。鉤芒を麗とし、蓐收を駆り、玄冥及び祝融を服させよう。衆神を敦めて式道とし、六経を奮って頌を攄こう。穆の緝熙を隃え、清廟の雝雝を過ぎ、五帝の遐迹を軼し、三皇の高蹤を躡ろう。すでに平盈より発軔すれば、誰が路遠くして従えないと言えようか。
その十二月の羽猟に、揚雄は従った。昔の二帝三王の時代には、宮館・台榭・沼池・苑囿・林麓・藪澤は、郊廟を奉り、賓客を御し、庖厨を充たすのに十分であり、百姓の膏腴な穀土や桑柘の地を奪わなかった。女には余分な布があり、男には余分な粟があり、国家は殷富で、上下ともに足りていた。だから甘露が庭に降り、醴泉が唐に流れ、鳳凰が樹に巣くい、黄龍が沼に遊び、麒麟が囿に至り、神爵が林に棲んだ。昔、禹は益を虞の官に任じて上下が和し、草木が茂った。成湯は田猟を好んで天下が用足りた。文王の囿は百里で、民はまだ小さいと思った。斉の宣王の囿は四十里で、民は大きいと思った。民を豊かにするか奪うかの違いである。武帝は上林苑を広く開き、南は宜春・鼎胡・御宿・昆吾に至り、南山に沿って西に至り、長揚・五柞に至り、北は黄山を巡り、渭に沿って東に至り、周囲は数百里に及んだ。昆明池を穿ち滇河に象り、建章・鳳闕・神明・馺娑、漸台・泰液を営み、方丈・瀛洲・蓬萊のように海水が周流するのを象った。遊観は侈靡で、妙を窮め麗を極めた。三垂をかなり切り取って斉民に与えたが、羽猟の田車・戎馬・器械・儲偫・禁禦の営みは、なお泰奢で麗しく誇示し、堯・舜・成湯・文王の三驅の意ではなかった。また後世が再び前の好みを修め、泉台を折衷しないことを恐れ、そこで『校猟賦』によって風刺した。その文は次のとおりである。
ある人は戯農を称えるが、帝王の弥文であろうか。論者は否と言い、それぞれもまた時に応じて適宜であり、必ずしも同条で共貫する必要はない。では泰山の封禅が、どうして七十二儀を得たのか。創業して統を垂れる者は皆その爽を見ず、遠近の五帝三皇、誰がその是非を知るだろうか。そこで頌を作って言う。麗なるかな神聖、玄宮に処す。富はすでに地と侔訾し、貴は正に天と比崇す。斉の桓公は扶轂させるに足らず、楚の厳王は驂乗とするに足らず。三王の阸薜を狭め、高く挙げて大いに興す。五帝の寥廓を歴め、三皇の登閎に渉る。道徳を建てて師とし、仁義を友として朋とする。
そこで玄冬季月、天地は隆烈で、万物は内で権輿し、外で徂落する。帝は霊の囿で田猟しようとし、北垠を開き、不周の制を受け、顓頊・玄冥の統を終始させようとした。そこで虞人に命じて沢を典とさせ、東は昆鄰に延び、西は闛闔に馳せた。儲積を共偫し、戍卒が道を挟み、叢棘を斬り、野草を夷し、汧・渭より御し、酆・鎬を経営し、章皇して周流し、日月を出入し、天と地は杳である。そこで虎路三嵕を以て司馬とし、百里を囲んで経て殿門とした。外は正南で極めて海に至り、邪に虞淵を界とし、鴻濛沆茫として、崇山を碣とした。営を合わせ囲みを会し、それから先に白楊の南、昆明霊沼の東に置いた。賁育の類は、盾を蒙り羽を負い、鏌邪を杖として羅する者は万を数え、その他は垂天の畢を荷い、竟壄の罘を張り、日月の朱竿を靡かせ、彗星の飛旗を曳いた。青雲を紛とし、紅蜺を繯とし、昆侖の虚に属し、渙として天星の羅の如く、浩として濤水の波の如く、淫淫として与与として、前後で要遮した。欃槍を闉とし、明月を候とし、熒惑が司命し、天弧が発射し、鮮扁陸離として、駢衍佖路した。徽車軽武、鴻絧緁獵、殷殷軫軫として、陵に被り阪に縁り、冥を窮め遠を極める者は、相与に高原の上に迾し、羽騎は営営として、昈分殊事し、繽紛として往来し、轠轤として絶えず、光の如く滅する如き者は、青林の下に布いた。
そこで天子は、陽の朝が初めて玄宮から出るのに合わせて、鴻鐘を撞き、九旒の旗を立て、六頭の白虎を配し、霊輿を載せ、蚩尤が車輪を並べ、蒙公が先駆けとなった。天を貫くほどの旗を立て、星を払うほどの旗を翻し、雷鳴が轟き稲妻が走り、火を吐き鞭を振るう。兵士たちが集まり溶け合い、広々として散り散りになり、八鎮を巡って関所を開く。飛廉と雲師が、息を吸い込み風を率い、鱗のように並び、龍の羽のように集まる。秋秋と蹌蹌として、西園に入り、神光を切る。平楽を望み、竹林をまっすぐ進み、恵の園を踏み荒らし、蘭の庭を踏みしめる。烽火を上げて烈火とし、手綱を取る者は鞭を振るい、四方に千駟の兵車を駆け巡らせ、騎兵一万の軍勢を配置する。虎のように猛る陣形は、縦横に絡み合い、疾風のように泣き雷のように激しく、轟音が響き渡り、天地が揺れ動く。広々と散り散りになり、寂寥として数千里の外にまで及ぶ。
さて、壮士たちは慷慨として、それぞれの郷里を離れ別々の方向へ、東西南北に、欲望のままに駆け回る。青い猪を引きずり、犀や牦牛を踏み倒し、浮き足立つ麋を蹴倒す。巨大な狿を斬り、黒い猿を捕らえ、虚空を飛び越え、連なった木々を阻む。夭蟜を跳び越え、澗門で遊び、もやもやと入り乱れ、山谷はそのために風が巻き起こり、林や藪はそのために塵が立ち上る。そして獲夷の徒に至っては、松柏を倒し、疾棃を掌中にする。蒙蘢を狩り、軽やかに飛ぶ者を轢く。般首を踏み、長い蛇を帯のように巻きつける。赤い豹を鉤で引っ掛け、象や犀を捕らえる。山の峰や谷を越え、唐陂を超える。車騎は雲のように集まり、登り降りは暗く覆われ、泰山と華山が旗の飾りとなり、熊耳山が垂れ飾りとなる。木は倒れ山は回り、広がって天の外のようであり、大溥に漂い、宇宙内を彷徨う。
そこで天は清く日は穏やかになり、逢蒙が目を見開き、羿氏が弦を引き絞る。皇帝の車は静かに進み、光は天地を純粋に照らし、月の御者(望舒)が手綱を緩め、翼を広げるようにゆっくりと上蘭に至る。囲みを移し陣形を変え、次第に部隊を踏みしだく。曲隊は堅固で重厚に、それぞれ行伍に従って整列する。壁塁は天を旋回し、神の鞭が電撃のように打ち下ろし、それに逢えば粉砕され、近づけば破壊され、鳥は飛ぶ暇もなく、獣は通り過ぎることもできず、軍は驚き師は駭き、野を削り地を掃う。そして䍐車が飛び揚がり、武騎が疾走する。飛豹を踏みつけ、嘄陽を絹で縛る。天宝を追い、一方から出現させる。轟音に応じ、流れる光を撃つ。野は尽き山は窮まり、その雌雄をことごとく包み込み、深く広く、遥かに綱の中で笑い叫ぶ。三軍は茫然とし、窮屈で行き詰まり、ただ猛禽が縄を越えるのや、犀や兕が突き当たるのや、熊や羆が掴み合うのや、虎や豹が慌てふためくのを見るのみで、ただ角を突きつけ額を注ぎ込み、縮こまって恐れおののき、魂は亡び魄は失せ、車輪の輻に触れ首を関わらせる。むやみに発射して的に中て、進退して獲物を踏みしめ、傷は広がり車輪は平らにし、丘のように積み重なり陵のように集まる。
そこで禽獣は尽きて勢いが衰え、互いに靖冥の館に集まり、珍池に臨む。岐山と梁山の水を注ぎ、江河の水を溢れさせ、東は目が届く限り見渡し、西は果てしなく広がり、随侯の珠と和氏の璧が、その岸辺を輝かせる。玉石は高く聳え、青くきらめき、漢水の女神が水中に潜み、怪物は暗く深く、その形を尽くして語ることはできない。玄鸞と孔雀、翡翠が栄えを垂れ、王雎が関関と鳴き、鴻雁が嚶嚶と鳴く。群れ遊ぶその中で、噍噍と虫が鳴く。鳧や鷖や振鷺が、上下に砰礚と音を立て、その声は雷霆のようである。そこで文身の技を持つ者を使わし、水の中の鱗虫と格闘させ、堅い氷を凌ぎ、厳しい淵を犯し、岩を探り岸を押しのけ、蛟や螭を探し求め、獱や獺を踏みつけ、黿や鼉を押さえ、霊蠵を捕らえる。洞穴に入り、蒼梧から出て、巨大な鱗に乗り、大きな魚に騎る。彭蠡湖に浮かび、有虞に目を向ける。夜光の流離を槌で打ち、明月の珠の胎を割り、洛水の虙妃を鞭打ち、屈原と彭胥に饗応する。
ここにおいて、鴻生と鉅儒が、高軒と冕冠を並べ、様々な衣裳をまとい、唐の典を修め、『雅』『頌』を正し、前に揖譲する。光は明るく輝き、響き渡って神のようであり、仁の声は北狄に恵みを与え、武の義は南隣を動かす。このため、旃裘の王や、胡貉の長は、珍品を携えて来朝し、手を挙げて臣と称する。前は囲口に入り、後は盧山に陣を敷く。群公や常伯、楊朱や墨翟の徒は、慨然として称えて言う。「なんと崇高なことか、その徳は。たとえ唐・虞・大夏・成周の隆盛があっても、どうしてこれほどまでに奢ることができようか!太古に東嶽を覲見し、梁基で禅を行ったのも、この世を捨てて、他に誰と為すことができようか?」
上(皇帝)はなお謙譲して承諾せず、まさに上は三霊の流れを狩り、下は醴泉の湧き出る水を決め、黄龍の穴を開き、鳳凰の巣を覗き、麒麟の苑に臨み、神雀の林を幸いする。雲夢沢を奢り、孟諸沢を侈り、章華台を非とし、霊台を是とし、めったに離宮に行かず観遊を止め、土木の仕事を飾らず、木工を彫らず、民を農桑に従わせ、怠らないよう勧め、男女を同列にして違わないようにする。貧窮の者が広く満ち溢れる豊かさに浴さないことを恐れ、禁苑を開き、公の蓄えを散じ、道徳の苑を創り、仁恵の楽しみを広げ、神明の苑で弋射を駆け巡らせ、群臣の有無を観覧する。雉や兎を放し、罝罘を収め、麋鹿や柴草を百姓と共有する。これこそがこの境地に至る所以である。そこで醇なる洪鬯の徳を厚くし、豊かな盛世の規を加え、三皇に労を加え、五帝に勤めを勧める。これもまた至極ではないか!そこで祗庄で雍穆な徒は、君臣の節を立て、賢聖の業を崇め、まだ苑囿の麗しさや、遊猟の奢侈に心を向ける暇もなく、車を回し轅を返し、阿房宮を背にし、未央宮に戻る。
下
翌年、上(皇帝)は胡人に多くの禽獣を誇示しようとし、秋に右扶風に命じて民を発し南山に入らせ、西は襃斜から、東は弘農まで、南は漢中に至るまで、網や罝罘を張り巡らせ、熊・羆・豪猪・虎・豹・狖・玃・狐・兎・麋・鹿を捕らえ、檻車に載せ、長楊の射熊館に輸送した。網を周阹とし、その中に禽獣を放し、胡人に手で組み伏せさせ、自ら獲物を取らせ、上は自ら臨観した。この時、農民は収穫することができなかった。雄(揚雄)は射熊館に従って行き、帰還後、『長楊賦』を上奏した。ただ筆墨によって文章を成し、故に 翰 林を借りて主人とし、子墨を客卿として諷諫した。その文辞は以下の通りである。
子墨客卿が翰林主人に問うて言う。「聞くところによれば、聖主が民を養うのは、仁を浸み渡らせ恩を遍く行き渡らせ、行動は自己のためではないと。今年の長楊での狩りは、まず右扶風に命じ、左に太華山、右に襃斜山を置き、巀嶭を打ち込んで弋とし、南山を曲げて罝とし、林莽に千乗の兵車を並べ、山隅に万騎の騎兵を列ね、軍を率いて阹を踏みつけ、戎に獲物を賜り胡を捕らえる。熊や羆を扼え、豪猪を引きずり、木や槍を積み重ねて、儲胥とする。これは天下の窮まりない観覧、極みの観覧である。とはいえ、農民を大いに擾乱してもいる。三十日余り、その労苦は極まったが、功績は図られず、識らない者は、外から見ればこれを娯楽の遊びとし、内から見れば乾豆の事(祭祀)とは思わないだろう。これで民のためと言えようか!そもそも人君は玄默を以て神とし、澹泊を以て徳とする。今、遠くに出て楽しみ威霊を露わにし、たびたび動揺させて車甲を疲弊させる。これは本来、人主の急務ではない。私はひそかに疑問に思う。」
翰林主人が言う。「ああ、それを言うのか!客よ、あなたは一つを知って二つを見ず、外を見て内を識らない者と言えよう。私はかつて倦むほど語ったが、一二に詳しくはできない。大略を挙げるので、客よ自らその要点を覧ぜよ。」
客が言った。「はい、はい。」
主人が言った。「昔、強秦があった。その国土は封豕のように貪欲で、その民は窫窳のように暴虐であった。鑿歯の徒が互いに牙をすり合わせて争い、豪傑たちは糜沸雲擾のごとく騒ぎ立ち、民衆はこれによって安寧を得られなかった。そこで上帝(天帝)が 高祖 ( 劉邦 )を顧みられ、高祖は命を受け、北斗と北極星に従い、天関を運行し、巨海を横切り、昆侖を駆け巡り、剣を提げて叱咤し、その指揮する所の城は打ち破られ、邑は陥落し、将軍は降伏し、旗は降ろされ、一日の戦いは数え切れないほどであった。このような苦労のさなか、髪は乱れたまま梳く暇もなく、空腹でも食事する暇もなく、兜には蚤や虱がわき、甲冑には汗が染み込み、万民のために皇天に命を請うたのである。そして民の屈したところを伸ばし、民の乏しいところを救い、億載の未来を計画し、帝業を広げ、七年の間に天下は密やかに治まったのである。
聖文(文帝)の時代に至ると、風に随い流れに乗り、まさに至寧に心を傾け、自ら節倹を実践し、綈衣は破れず、革靴は穴が開かず、大きな宮殿には住まず、木器には文様がなかった。そこで後宮では玳瑁を軽んじて珠璣を疎んじ、翡翠の飾りを退け、彫琢の技巧を除き、華美で淫靡なものを嫌って近づかず、芳香を斥けて用いず、管弦の宴遊の音楽を抑え止め、鄭衛の妖しい声を聞くのを憎んだ。これによって玉衡が正しく太階が平らかになったのである。
その後、熏鬻が暴虐を働き、東夷が横暴に叛き、 羌 戎が睚眦し、閩越が互いに乱を起こし、遠方の民衆がこれによって不安を抱き、中国はその災難を被った。そこで聖武(武帝)は勃然と怒り、その軍旅を整え、衛青・霍去病らに命じた。汾沄沸渭の勢いで、雲のごとく集まり電光のごとく発し、疾風のごとく騰り波のごとく流れ、機が驚くほど蜂のごとく疾走し、速さは流星のごとく、撃つことは雷霆のごとくで、轒轀を砕き、穹廬を破り、沙幕に脳髄を散らし、余吾に骨を砕いた。ついに王庭を狩り場とした。駱駝を駆り、積み藁を焼き、 単于 を分裂させ、属国を磔裂し、坑谷を平らげ、鹵莽を抜き、山石を削り、屍を踏みつけ輿や下僕を蹂躙し、老弱を捕虜にし、矛先の傷跡や金鏃の深い傷を負った者が数十万人に及び、皆、額を地につけ顎を上げ、地に伏して蛾のようにうずくまり、二十余年たっても、まだ息をひそめて恐れていた。天の兵が四方から臨み、幽都をまず攻め、戈を返して邪な者を指し、南越を相討たせ、節を靡かせて西征し、 羌 僰を東へ駆り立てた。これによって遠方の風俗の異なる、隣接せず徒党を組まない地域でさえ、上仁でも教化できず、茂徳でも鎮撫できなかった者たちは、皆、足を上げ手を挙げ、その珍宝を献上することを請い、海内を淡然とさせ、永遠に辺境の城の災いや、戦争の患いをなくしたのである。
今、朝廷は純粋な仁を以て、道に従い義を顕わし、書林を併せ包み、聖なる風は雲のごとく靡く。英華は沈み浮かび、八区に洋溢し、天が覆うすべての所に、濡れない者はない。士で王道を語らない者がいれば、樵夫でさえ笑う。だから思うに、事は盛んなもので滅びないものはなく、物は盛んなもので衰えないものはない。だから平穏であっても険しさを忘れず、安泰であっても危険を忘れない。そこで時に豊作の年に出兵し、車輿を整え軍を鼓舞し、五莋で軍を奮い立たせ、長楊で馬を訓練し、狡獪な獣に対して力を試し、敏捷な禽に対して武を競う。そして南山に登り、烏弋を見下ろし、西では月窟を圧倒し、東では日域を震わせる。また、後世が一時の事柄に迷い、常にこれをもって国家の大事とし、淫らに狩猟にふけり、衰微して防ぎ止められなくなることを恐れる。だから車は軔を安定させず、日はまだ旌旗を靡かせず、従者は彷彿として、委れて連なり帰還する。これもまた太宗(文帝)の功業を奉じ、文武(文帝・武帝)の法度に従い、三王の田猟を復活させ、五帝の虞に戻すためである。農民が耰を止めず、工人が機から下りず、婚姻は時に従い、男女が違うことがないようにする。慈愛と友愛を表に出し、簡易を行い、労苦を憐れみ、力役を休ませる。百歳の老人に会い、孤弱を存問し、彼らを率いて苦楽を共にする。その後に鐘鼓の楽を並べ、鞀磬の調和を鳴らし、碣磍の虡を建て、拮隔して鳴球を鳴らし、八列の舞を舞う。允鑠を酌み、楽胥を肴とし、廟中の雍雍たる声を聞き、神人の福祐を受ける。歌は頌に投じ、吹奏は雅に合う。その勤めがこのようであるから、真の神が労うのである。今まさに元符を待ち、梁甫の基壇に禅り、泰山の高さを増し、光栄を将来に延ばし、過去の栄誉と比べようとしているのであって、ただ淫らに見物し浮ついた観覧をし、稲田を駆け巡り、梨や栗の林を巡り歩き、柴草を踏みつけ、衆庶に誇示し、猿や狖の収穫を盛大にし、麋鹿の獲物を多くしたいだけではないのだ。かつて盲目の者は咫尺も見えなかったが、離婁は千里の隅を照らした。客はただ胡人が我が禽獣を獲るのを愛でるだけで、我々がすでに彼らの王侯を獲たことを知らないのである。」
言葉が終わらないうちに、墨客が席から降りて再拝稽首し、言った。「なんと壮大な体系でしょうか。確かに私のような者の及ぶところではありません。今日、蒙が開け、広々として明らかになりました。」
哀帝の時
哀帝の時、丁氏、傅氏、董賢が権力を握り、これに付き従った者たちの中には、家を起こして二千石にまで至る者もいた。当時、揚雄はちょうど『太玄』を草稿中であり、自らを守るものがあり、淡泊としていた。ある者が揚雄を嘲って、玄がまだ白い(官位が低い)と言ったので、揚雄はこれを解き、『解嘲』と号した。その文は次のとおりである。
客が揚子(揚雄)を嘲笑して言った。「私は聞く、上古の士は、人の綱紀であり、生まれなければそれまでだが、生まれたからには上は人君を尊び、下は父母を栄えさせ、人の圭を分け、人の爵を担い、人の符を懐き、人の禄を分け、青綬を垂らし紫綬を引き、その車の轂を朱丹に染めた。今、あなたは幸いにも明るく盛んな世に遭い、忌憚のない朝廷に身を置き、群賢と共に列をなし、金門を経て玉堂に上る日もあったというのに、かつて一つの奇策を画き、一つの献策を出すことができず、上は人主を説得し、下は公卿と談じることができない。目は曜星のごとく、舌は電光のごとく、縦横に論じ、論ずる者に匹敵する者がいないのに、顧みて『太玄』五千文を作り、枝葉が繁茂し、ただ十数万言を説くだけで、深いものは黄泉に入り、高いものは蒼天に出で、大きいものは元気を含み、細かいものは倫理を超えている。しかしながら、その地位は侍郎を超えず、抜擢されてやっと給事黄門に過ぎない。思うに、玄がまだ白いのではないか?なぜ官位がこんなに落ちぶれているのか?」
揚子は笑ってこれに応えて言った。「客はただ私の車の轂を朱丹に染めたいだけだが、一度つまずけば私の一族を赤くする(滅ぼす)ことになるのを知らない。昔、周の網が解け結び目がほどけ、群鹿が争って逃げ、十二に分裂し、六七に合し、四分五裂し、併せて戦国となった。士には常の君がなく、国には定まった臣がなく、士を得る者は富み、士を失う者は貧しくなった。翼を矯めて羽ばたき、意のままに存するところに赴いた。だから士の中には、自ら袋を膨らませて(仕官を求めて)出る者もいれば、壁を穿って遁れる者もいた。このため、騶衍は頡亢して世の資けを取り、孟軻は連蹇であっても、なお万乗の師となった。
今、大漢は東に東海を控え、西に渠搜を控え、南に番禺を控え、北に陶塗を控えている。東南には一つの尉を置き、西北には一つの候を置く。綱紀は糾墨で戒め、刑罰は質鈇で制し、礼楽で教化し、『詩』『書』で風化し、歳月をかけて養い、倚廬で結ぶ。天下の士は、雷の動き雲の合うように、魚鱗のように雑然と集まり、皆八つの区域に営み、家々は自らを稷や契と思い、人々は自らを咎繇と思い、縰を戴き纓を垂れて談ずる者は皆阿衡に擬し、五尺の童子も晏嬰や夷吾と比べられるのを恥じる。権勢の道にある者は青雲に入り、道を失う者は溝渠に委ねられ、朝に権を握れば卿相となり、夕に勢いを失えば匹夫となる。譬えば江湖の雀や勃解の鳥のようで、雁が乗って集まっても多しとせず、双鳧が飛んでも少なしとしない。昔、三仁が去って殷は虚しくなり、二老が帰って周は盛んになり、子胥が死んで呉は滅び、種・蠡が存して越は覇を唱え、五羖が入って秦は喜び、楽毅が出て 燕 は懼れ、范雎は折摺によって穰侯を危うくし、蔡澤は噤吟しながらも唐挙を笑った。故に事ある時には、 蕭何 ・ 曹参 ・子房・陳平・周勃・ 樊噲 ・ 霍光 でなければ安んじることができず、事なき時には、章句の徒が相与に坐して守るだけで、患うこともない。故に世が乱れれば、聖哲が馳騁しても足りず、世が治まれば、庸夫が高枕して余りがある。
上古の士は、ある者は縄を解かれて宰相となり、ある者は粗衣を脱いで太傅となり、ある者は夷門に倚って笑い、ある者は江潭を横切って漁をし、ある者は七十度説いても遇わず、ある者は立ち話の間に封侯され、ある者は千乗の君を陋巷に枉げ、ある者は帚彗を擁して先駆けした。これによって士は自らの舌を信じ筆を奮うことができ、隙を塞ぎ瑕を踏んで屈することがなかった。今や県令は士を請わず、郡守は師を迎えず、群卿は客を揖せず、将相は眉を俛せず、言が奇なる者は疑われ、行が殊なる者は罪を得る。これによって談じようとする者は舌を宛じて声を固め、行おうとする者は足を擬して跡に投じる。仮に上古の士が今の世にいたとしても、策が甲科でなく、行いが孝廉でなく、挙げられ方が方正でなければ、ただ抗疏して時宜に是非を説き、上は待 詔 を得、下は聞いて罷められるのみで、どうして青紫の高位を得られようか。
かつて私が聞くところによれば、炎々たるものは滅び、隆隆たるものは絶える。雷や火を見れば、盈ち実っているように見えるが、天はその声を収め、地はその熱を蔵する。高明の家には、鬼がその室を覗く。掴み取る者は亡び、黙々たる者は存する。位極まる者は宗族が危うく、自ら守る者は身が全うされる。故に玄を知り黙を知ることは、道を守る極みである。清く静かであることは、神を遊ばせる庭である。寂しく寞たることは、徳を守る宅である。世は異なり事は変わるが、人の道は変わらない。彼と我とが時を入れ替われば、どうなるか分からない。今、あなたは鴟梟を持って鳳凰を笑い、蝘蜓を執って亀龍を嘲る。これもまた病んでいるとは言えないか。あなたはただ私の『玄』が尚白であることを笑うが、私もまたあなたの病が甚だしく、臾跗や扁鵲に遭わないことを悲しむ。
客が言った。「それでは『玄』がなければ名を成すことができないのか。范雎や蔡澤以下はどうして『玄』が必要なのか。」
揚子が言った。「范雎は魏の亡命者で、脅を折られ髂を引き裂かれ、徽索を免れ、肩をすくめて背を踏まれ、這いずって嚢に入り、万乗の主を激昂させ、涇陽を界り穰侯を抵えて代わった。これは時宜に適っていたからだ。蔡澤は山東の匹夫で、頤を頷かせ鼻を折り、涕涙を流し唾を飛ばし、西の強秦の相に揖し、その咽を扼し、その気を炕め、その背に附してその位を奪った。これは時運によるものだ。天下が定まり、戦争が治まり、都を雒陽に置いた時、 婁敬 は輅を委ね輓を脱ぎ、三寸の舌を振るって動かぬ策を建て、中国を挙げて 長安 に遷した。これは適切だったからだ。五帝が典を垂れ、三王が礼を伝え、百世変わらなかったが、 叔孫通 は枹鼓の間から起き、甲を解き戈を投げて、遂に君臣の儀礼を作った。これは得策だったからだ。『甫刑』は廃れ、秦の法は酷烈で、聖なる漢が権宜の制を立て、蕭何が律を作った。これは当然だった。故に、唐虞の世に蕭何の律を作れば、背くことになる。夏殷の時に叔孫通の儀礼を作れば、惑うことになる。成周の世に婁敬の策を建てれば、誤りとなる。金日磾・張安世・許広漢・史高の間に范雎・蔡澤の説を談じれば、狂気となる。蕭何が規矩を定め曹参がそれに従い、留侯が策を画き、陳平が奇計を出し、功は泰山の如く、響きは阺隤の如し。ただその人の知恵が豊かだからだけでなく、またその時が為すべき時であったからだ。故に、為すべき時に為すべきことを為せば従順であり、為すべからざる時に為すべからざることを為せば凶である。藺相如先生は章台で功を収め、四皓は南山で栄を採り、公孫弘は金馬門で業を創り、驃騎将軍霍去病は祁連山で跡を発し、司馬長卿は卓氏から財を窃み、東方朔は細君に名を割いた。私は誠にこの数公と並ぶことはできない。故に黙然として独り私の『太玄』を守るのだ。」
揚雄は、賦というものは、それを以て風刺するためにあり、必ず類を推して言い、極めて麗靡な辞を尽くし、閎侈で鉅衍にし、人をして加えることができないように競い、その後で正に帰するが、しかし覧る者は既に過ちを犯している、と考えた。昔、武帝が神仙を好んだ時、司馬相如が『大人賦』を上奏して、風刺しようとしたが、帝はかえって縹縹として陵雲の志を抱いた。これによって言えば、賦は勧めて止めさせることはできない、ということは明らかである。また、頗る俳優の淳于髡や優孟の徒に似て、法度の存するところではなく、賢人君子の詩賦の正しいあり方ではない。そこで筆を止めて再び作らなかった。そして深く渾天について思索を巡らし、三度模して四つに分け、八十一に極めた。傍らには三度模して九つの拠り所とし、七百二十九の贊に極めた。これもまた自然の道である。故に『易』を観る者は、その卦を見て名づけ、『玄』を観る者は、その画を数えて定める。『玄』の首が四重であるのは、卦ではなく、数である。その用は天元から推して一晝一夜の陰陽の数度や律暦の紀を推し、九九の大運で、天と終始を共にする。故に玄は三方・九州・二十七部・八十一家・二百四十三表・七百二十九贊に分かれ、三巻に分かれて一・二・三と言い、『泰初暦』と相応じ、また顓頊の暦にも合う。三策で𢶅り、休咎で関わり、象類で絣ぎ、人事で播き、五行で文り、道徳仁義礼知で擬する。主なく名なく、要は『五経』に合い、苟くもその事でなければ、文は虚しく生じない。それがあまりに曼漶で知り難いため、『首』・『衝』・『錯』・『測』・『攡』・『瑩』・『数』・『文』・『掜』・『図』・『告』の十一篇があり、皆『玄』の体を解剥し、その文を離散させたもので、章句は尚存しない。『玄』の文は多いため、ここには著さない。観る者は知り難く、学ぶ者は成し難い。客が『玄』が余りに深すぎて、衆人の好まないところを難じたので、揚雄がこれを解き、『解難』と号した。その辞に曰く。
客が揚子を難じて言った。「凡そ著書する者は、衆人の好む所のためにする。美味は口に合うことを期し、巧みな音声は耳に調うことを期する。今、あなたは抗げる辞と幽い説を掲げ、閎い意と眇かな指を示し、独り有無の際に馳騁し、大鑪を陶冶し、群生を旁薄するが、歴覧する者は多年になるが、全く悟らない。ひたすら精神をここに費やし、学者をあちらで煩わせる。譬えば、画く者が形なくして画き、弦を弾く者が声なくして弾くようなもので、殆うく不可ではないか。」
揚子(揚雄)が言った。「なるほど。宏大な言論や崇高な議論、幽微な道理については、一般の見る者と同様に理解することは難しい。昔の人は天象を観察し、地の度数を見極め、人の法則を考察した。天は麗しく広大であり、地は広く深い。昔の人の言葉は、玉のようであり金のようである。彼らはわざと難解にしたのだろうか? 勢いやむを得なかったのである。あの翠色の虯や緋色の螭が天に登ろうとするとき、必ず蒼梧の淵で身を聳やかすのを見ないか? 浮雲を階とせず、疾風を翼とせず、虚しく上昇することはできず、膠葛の空を掴み、九閎の天に騰ることはできない。日月の運行が千里に及ばなければ、六合を照らし、八紘を輝かすことはできない。泰山の高さが嶕嶢でなければ、雲を湧き起こし、蒸気を散らすことはできない。だからこそ、伏羲氏が『易』を作ったとき、天地を網羅し、八卦を経とし、文王が六爻を付け加え、孔子がその象を配列し、その辞を解釈して、初めて天地の奥義を発揮し、万物の基礎を定めたのである。『典』『謨』の篇や『雅』『頌』の声が、温かく純粋で深く潤いがなければ、大いなる功業を称え、輝かしい光を明らかにすることはできない。そもそも、胥靡が宰となり、寂寞が尸となる。大いなる味は必ず淡く、大いなる音は必ず希である。大いなる言葉は叫叫として響き、大いなる道は低回として曲がりくねる。だから、微妙な音声は衆人の耳と同じにはできず、美しい形姿は世俗の目に混じることはできず、広がりのある言葉は凡人の聴覚に合わせることはできない。今、弦楽器を弾く者が、弦を高く張り、徽を急かせて、流行を追い、好みに合わせれば、座っている者は期せずして付和雷同する。しかし、『咸池』を奏で、『六莖』を弾き、『蕭韶』を発し、『九成』を詠じるように試みれば、誰も和することはない。だから、鍾子期が死ぬと、伯牙は弦を絶ち琴を壊して、衆人と共に演奏しようとはしなかった。獿人が亡くなると、匠石は斧を止めて、妄りに削ろうとはしなかった。師曠が鐘を調律するのは、後世に知音者が現れるのを待つためである。孔子が『春秋』を作ったのは、君子が前もって見てくれることを期待してのことである。老耼(老子)には遺言があり、『我を知る者を貴ぶのは希である』と言った。これこそが彼の操守ではなかったか!」
揚雄は諸子百家がそれぞれ自分の知恵を駆使して勝手に走り回り、おおむね聖人を誹謗し、奇怪で迂遠な説を立て、弁論を分析し詭弁を弄して、世の事柄をかき乱しているのを見た。それは小さな弁論ではあるが、結局は大道を破壊し、時に衆人を惑わせ、彼らが自分の聞くことに溺れて、自分が間違っていることに気づかないようにさせている。また、太史公( 司馬遷 )が六国を記録し、楚漢の時代を経て、麟の出現で終わるまでを記したが、聖人と同様ではなく、是非が経書とかなり食い違っている。それで、時々揚雄に質問する人がいたので、常に法則に従って応え、十三巻に編纂し、『論語』に倣って、『法言』と名付けた。『法言』の文章は多くは掲載されていないが、ただその目次を記す。
天が民を生み出したとき、彼らは無知蒙昧で、情性のままに振る舞い、聡明さが開けず、道理によって教え導かれた。そこで『学行』第一を撰する。
周の時代から孔子に至り、王道が完成したが、その後、誇大な章句が生まれ、正道から乖離し、諸子百家が微細な点を論じた。そこで『吾子』第二を撰する。
物事には本質と真実があり、それを億万の事柄に応用して施すが、行動がすべてを成就することはできず、その根本は自らにある。そこで『修身』第三を撰する。
茫漠たる天道は、昔の聖人たちが考察したところであり、過ぎれば中庸を失い、及ばなければ到達せず、欺くことはできない。そこで『問道』第四を撰する。
神妙な心は恍惚として捉えがたく、万物の方々を経緯に治め、事柄はすべて道徳・仁・義・礼に関係する。そこで『問神』第五を撰する。
明哲は煌々と輝き、傍らを照らして限りがなく、不測の事態には謙遜して対処し、天命を保つ。そこで『問明』第六を撰する。
仮の言葉でも天地に遍く行き渡り、神明を賛美し、幽玄で広大であり、浅近な言葉を超越する。そこで『寡見』第七を撰する。
聖人は聡明で深遠な知恵を持ち、天を継いで霊妙を測り、群倫の中で最も優れ、あらゆる規範を経ている。そこで『五百』第八を撰する。
政治を立てて民衆を鼓舞し、天下を動かして教化するには、中和に勝るものはなく、中和が発揮されるのは、民情に明るいことにある。『先知』第九を撰す。
仲尼(孔子)以来、国君・将相・卿士・名臣は優劣さまざまだが、すべて聖人の基準で一律に論じる。『重黎』第十を撰す。
仲尼の後、漢の道に至るまで、德行では顔回・閔子騫、股肱の臣では蕭何・曹参、および名将の尊卑の条理に至るまで、称述し品評する。『淵騫』第十一を撰す。
君子は終始を全うして名声を聞こえさせ、行動を規律に従わせ、傍らに聖人の法則を開く。『君子』第十二を撰す。
孝は親を安んじることに勝るものはなく、親を安んじることは神を安んじることに勝るものはなく、神を安んじることは四方の民の歓心を得ることに勝るものはない。『孝至』第十三を撰す。
贊
贊に曰く、これは揚雄の自序である。初め、揚雄は四十余歳の時、蜀から来て京師に遊学し、大司馬車騎将軍の王音がその文雅を奇として、門下史に召し、待 詔 に推薦した。一年余りして、羽獵賦を奏上し、郎に任じられ、給事黄門となり、 王莽 ・劉歆と並んだ。哀帝の初め、また董賢と同官となった。成帝・哀帝・平帝の間、王莽・董賢はいずれも三公となり、権勢は人主を凌いだ。彼らが推薦する者は皆抜擢されたが、揚雄は三代にわたり官を移らなかった。王莽が帝位を 簒奪 すると、談説の士で符命を用いて功徳を称え封爵を得た者が甚だ多かったが、揚雄はまた侯とならず、年老いて長く下位にあったため大夫に転じた。勢利に恬淡であったのはこのようであった。実に古を好み道を楽しみ、その志は文章を以て後世に名を成さんことにあり、経書では『易』に勝るものはないと考えて『太玄』を作り、伝では『論語』に勝るものはないと考えて『法言』を作り、史篇では『倉頡』に優るものはないと考えて『訓纂』を作り、箴では『虞箴』に優るものはないと考えて『州箴』を作り、賦では『離騷』より深遠なものはないと考えてこれを反転拡充し、辞賦では司馬相如より麗しいものはないと考えて『四賦』を作った。いずれもその根本を斟酌し、それらに依拠して馳騁したのである。内面に心を用い、外面に求めず、当時の人々は皆これを軽んじた。ただ劉歆と范逡のみがこれを敬い、桓譚は絶倫であると考えた。
王莽の時
王莽の時、劉歆と甄豊は皆上公となった。王莽は既に符命によって自立し、即位した後、その根源を断ち前事を神聖化しようとしたが、甄豊の子の甄尋と劉歆の子の劉棻がまた符命を献上した。王莽は甄豊父子を誅し、劉棻を四裔に流した。供述に関連する者は、便宣に逮捕し請奏を待たなかった。時に揚雄は天禄閣で校書していたが、治獄の使者が来て、揚雄を逮捕しようとした。揚雄は自ら免れられないことを恐れ、閣上から身を投げて落下し、ほとんど死にかけた。王莽はこれを聞いて言った。「揚雄は平素から関与していない。どうしてここにいるのか。」間もなくしてその事情を問うと、劉棻がかつて揚雄に奇字の作り方を学んだことがあったが、揚雄はその情を知らなかったのである。 詔 して問わないこととした。しかし京師ではこれについて語った。「惟寂寞なるが故に、自ら閣より投ず。爰に清静なるを愛でて、符命を作る。」
揚雄は病を理由に免官されたが、また大夫に召された。家は元より貧しく、酒を好み、人の来訪は稀であった。時に好事の者が酒肴を載せて遊学に従うことがあり、鉅鹿の侯芭は常に揚雄に従って住み、その『太玄』・『法言』を授かった。劉歆もかつてこれを見て、揚雄に言った。「空しく自ら苦しむのみだ。今の学者は禄利があるが、それでも尚『易』を明らかにすることができない。まして『玄』をどうしようか。後人がこれで醤油壺の蓋にするのではないかと恐れる。」揚雄は笑って応じなかった。七十一歳、天鳳五年に卒去した。侯芭が墳墓を築き、三年間喪に服した。
その時、大 司空 の王邑と納言の厳尤が揚雄の死を聞き、桓譚に言った。「あなたはかつて揚雄の書を称賛していたが、果たして後世に伝わるだろうか。」桓譚は言った。「必ず伝わるでしょう。ただ、あなたと私がそれを見ることはできません。凡人は身近なものを軽んじて遠いものを貴ぶもので、揚子雲(揚雄)の禄位や容貌を実際に見て、それが人を感動させられなかったので、その書を軽んじるのです。昔、老聃が虚無についての言論を二篇著し、仁義を軽んじ、礼学を非難しましたが、それでもそれを好む者は、なお五経よりも優れていると考えました。漢の文帝・景帝や司馬遷でさえもそのようなことを言っています。今、揚子の書は文義が非常に深遠であり、その論は聖人に背かないものです。もし時君に遇い、賢知の人々に閲覧され、称賛されることがあれば、必ず諸子を超えるでしょう。」