漢書

第四巻 文帝紀 第四

孝文皇帝は、高祖の次男であり、母は薄姫といった。高祖十一年、陳豨を誅伐し、代の地を平定し、代王に立てられ、中都に都した。二十七年秋、高后が崩御し、諸呂が乱を謀り、劉氏を危うくしようとした。丞相陳平、太尉周勃、朱虚侯劉章らが共にこれを誅伐し、代王を立てようと謀った。詳細は高后紀、高五王伝にある。

原文孝文皇帝,高祖中子也,母曰薄姬。高祖十一年,誅陳豨,定代地,立為代王,都中都。二十七年秋,高后崩,諸呂謀為亂,欲危劉氏。丞相陳平、太尉周勃、朱虛侯劉章等共誅之,謀立代王。語在高后紀、高五王傳。

大臣たちは遂に人を遣わして代王を迎えた。郎中令張武らが議論し、皆言った。「漢の大臣たちは皆かつて高帝の時代の将軍であり、兵事に習熟し、謀略と欺瞞が多い。彼らの意図はこれだけではなく、ただ高帝と呂太后の威勢を恐れているだけです。今、すでに諸呂を誅伐し、新たに京師で血を流し、大王を迎えることを名目としていますが、実際には信用できません。病気と称して行かず、その変動を見守ることを願います。」中尉宋昌が進み出て言った。「群臣の議論は皆誤りです。そもそも秦がその政を失い、豪傑が一斉に立ち上がり、自らが天下を得たと思う者は数万に上りましたが、ついに天子の位に就いたのは劉氏であり、天下は望みを絶ちました。これが一つです。高帝が王子や子弟に封じた地は、犬の牙のように互いに制し合い、いわゆる盤石の宗族であり、天下はその強さに服しました。これが二つです。漢が興ると、秦の煩雑で苛酷な法律を除き、法令を簡約し、徳恵を施したので、人々は自ら安んじ、動揺させることが困難です。これが三つです。呂太后の厳しさをもってしても、諸呂を三王に立て、権力を擅にし専制しましたが、しかし太尉が一つの符節を持って北軍に入り、一声で兵士たちが皆左肩を袒げ、劉氏のために立ち、諸呂に背き、ついにこれを滅ぼしました。これは天が授けたものであり、人の力ではありません。今、大臣たちが変事を起こそうとしても、百姓たちは彼らに従わず、その党与がどうして専一になれましょうか。内には朱虚侯、東牟侯の親族がおり、外には呉、楚、淮南、琅邪、斉、代の強さを恐れています。今、高帝の子で残っているのは淮南王と大王だけであり、大王はまた年長で、賢聖で仁孝であり、天下に聞こえています。故に大臣たちは天下の心に従って大王を迎え立てようとしているので、大王は疑う必要はありません。」代王は太后に報告し、計略を決めかねていた。占いをすると、兆しに大横が出た。占い師は言った。「大横は庚庚として、私は天王となり、夏の啓のように光り輝く。」代王は言った。「寡人はすでに王となっているのに、また何の王になろうというのか。」占い師は言った。「いわゆる天王とは、天子のことです。」そこで代王は太后の弟の薄昭を遣わして太尉周勃に会わせ、周勃らは迎え立てる理由を詳しく述べた。薄昭が戻って報告して言った。「信用できます。疑うべき点はありません。」代王は笑って宋昌に言った。「果たして公の言う通りだった。」そこで宋昌に驂乗させ、張武ら六人に六乗の伝車に乗って長安に向かわせた。高陵に至って止まり、宋昌を先に長安に行かせて変動を見させた。

原文大臣遂使人迎代王。郎中令張武等議,皆曰:「漢大臣皆故高帝時將,習兵事,多謀詐,其屬意非止此也,特畏高帝、呂太后威耳。今已誅諸呂,新喋血京師,以迎大王為名,實不可信。願稱疾無往,以觀其變。」中尉宋昌進曰:「群臣之議皆非也。夫秦失其政,豪傑並起,人人自以為得之者以萬數,然卒踐天子位者,劉氏也,天下絕望,一矣。高帝王子弟,地犬牙相制,所謂盤石之宗也,天下服其彊,二矣。漢興,除秦煩苛,約法令,施德惠,人人自安,難動搖,三矣。夫以呂太后之嚴,立諸呂為三王,擅權專制,然而太尉以一節入北軍,一呼士皆袒左,為劉氏,畔諸呂,卒以滅之。此乃天授,非人力也。今大臣雖欲為變,百姓弗為使,其黨寧能專一邪?內有朱虛、東牟之親,外畏吳、楚、淮南、琅邪、齊、代之彊。方今高帝子獨淮南王與大王,大王又長,賢聖仁孝,聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王,大王勿疑也。」代王報太后,計猶豫未定。卜之,兆得大橫。占曰:「大橫庚庚,余為天王,夏啟以光。」代王曰:「寡人固已為王,又何王乎?」卜人曰:「所謂天王者,乃天子也。」於是代王乃遣太后弟薄昭見太尉勃,勃等具言所以迎立王者。昭還報曰:「信矣,無可疑者。」代王笑謂宋昌曰:「果如公言。」乃令宋昌驂乘,張武等六人乘六乘傳詣長安。至高陵止,而使宋昌先之長安觀變。

宋昌が渭橋に至ると、丞相以下が皆迎えた。宋昌が戻って報告すると、代王は進んで渭橋に至った。群臣が拝謁して臣と称し、代王は下車して拝礼した。太尉周勃が進み出て言った。「願わくは間を請いたい。」宋昌は言った。「言うことが公事なら、公の場で言いなさい。言うことが私事なら、王者に私事はありません。」太尉周勃は跪いて天子の璽を献上した。代王は辞退して言った。「邸宅に至ってから議論しよう。」

原文昌至渭橋,丞相已下皆迎。昌還報,代王乃進至渭橋。群臣拜謁稱臣,代王下拜。太尉勃進曰:「願請間。」宋昌曰:「所言公,公言之;所言私,王者無私。」太尉勃乃跪上天子璽。代王謝曰:「至邸而議之。」

閏月己酉、代邸に入った。群臣が従って至り、上奏して言った。「丞相臣平、太尉臣勃、大将軍臣武、御史大夫臣蒼、宗正臣郢、朱虚侯臣章、東牟侯臣興居、典客臣掲が再拝して大王の足下に申し上げます。子の弘らは皆孝恵皇帝の子ではなく、宗廟を奉ずるべきではありません。臣らは謹んで陰安侯、頃王后、琅邪王、列侯、二千石の官吏と議論し、大王は高皇帝の子であり、後継者となるべきです。願わくは大王が天子の位に即かれますように。」代王は言った。「高帝の宗廟を奉ずることは、重大な事です。寡人は不肖であり、これにふさわしくありません。願わくは楚王に計略を立てるよう請い、寡人は敢えて当たることはできません。」群臣は皆伏し、固く請うた。代王は西に向かって三度辞退し、南に向かって二度辞退した。丞相陳平らは皆言った。「臣らが考えますに、大王が高祖の宗廟を奉ずるのが最もふさわしく、天下の諸侯や万民も皆ふさわしいと思っています。臣らは宗廟と社稷のために計略を立て、軽んじることはできません。願わくは大王が臣らの言葉をお聞き入れください。臣らは謹んで天子の璽と符節を再拝して献上します。」代王は言った。「宗室の将相や王、列侯が寡人をふさわしいと思うなら、寡人は敢えて辞退しない。」遂に天子の位に即いた。群臣は順序に従って侍った。太僕嬰と東牟侯興居を先に遣わして宮殿を清め、天子の法駕で代邸を迎えさせた。皇帝はその日の夕方に未央宮に入った。夜に宋昌を衛将軍に拝し、南北軍を統率させ、張武を郎中令に拝し、殿中を行わせた。前殿に戻って座り、詔を下して言った。「丞相、太尉、御史大夫に詔す。近頃、諸呂が政事を執り権力を擅にし、大逆を謀り、劉氏の宗廟を危うくしようとしたが、将相、列侯、宗室、大臣がこれを誅伐し、皆その罪に伏した。朕は初めて即位したので、天下を赦し、民に爵位一級を賜い、女子には百戸ごとに牛と酒を与え、五日間酒宴を許す。」

原文閏月己酉,入代邸。群臣從至,上議曰:「丞相臣平、太尉臣勃、大將軍臣武、御史大夫臣蒼、宗正臣郢、朱虛侯臣章、東牟侯臣興居、典客臣揭再拜言大王足下:子弘等皆非孝惠皇帝子,不當奉宗廟。臣謹請陰安侯、頃王后、琅邪王、列侯、吏二千石議,大王高皇帝子,宜為嗣。願大王即天子位。」代王曰:「奉高帝宗廟,重事也。寡人不佞,不足以稱。願請楚王計宜者,寡人弗敢當。」群臣皆伏,固請。代王西鄉讓者三,南鄉讓者再。丞相平等皆曰:「臣伏計之,大王奉高祖宗廟最宜稱,雖天下諸侯萬民皆以為宜。臣等為宗廟社稷計,不敢忽。願大王幸聽臣等。臣謹奉天子璽符再拜上。」代王曰:「宗室將相王列侯以為其宜寡人,寡人不敢辭。」遂即天子位。群臣以次侍。使太僕嬰、東牟侯興居先清宮,奉天子法駕迎代邸。皇帝即日夕入未央宮。夜拜宋昌為衛將軍,領南北軍,張武為郎中令,行殿中。還坐前殿,下詔曰:「制詔丞相、太尉、御史大夫:間者諸呂用事擅權,謀為大逆,欲危劉氏宗廟,賴將相列侯宗室大臣誅之,皆伏其辜。朕初即位,其赦天下,賜民爵一級,女子百戶牛酒,酺五日。」

前元

原文前元

元年冬十月辛亥、皇帝は高廟で謁見した。車騎将軍薄昭を遣わして代から皇太后を迎えさせた。詔して言った。「以前、呂産が自ら相国を置き、呂禄が上将軍となり、擅に将軍灌嬰を遣わして兵を率い斉を撃たせ、劉氏に代わろうとした。灌嬰は滎陽に留まり、諸侯と合謀して呂氏を誅伐した。呂産が悪事を企てたので、丞相陳平と太尉周勃らが謀って呂産らの軍を奪った。朱虚侯劉章がまず呂産を捕らえて斬った。太尉周勃は自ら襄平侯通を率いて符節を持ち詔を承けて北軍に入った。典客掲が呂禄の印を奪った。太尉周勃の邑を一万戸増やし、金五千斤を賜う。丞相陳平、将軍灌嬰の邑をそれぞれ三千戸、金二千斤を賜う。朱虚侯劉章、襄平侯通の邑をそれぞれ二千戸、金一千斤を賜う。典客掲を陽信侯に封じ、金一千斤を賜う。」

原文元年冬十月辛亥,皇帝見于高廟。遣車騎將軍薄昭迎皇太后于代。詔曰:「前呂產自置為相國,呂祿為上將軍,擅遣將軍灌嬰將兵擊齊,欲代劉氏。嬰留滎陽,與諸侯合謀以誅呂氏。呂產欲為不善,丞相平與太尉勃等謀奪產等軍。朱虛侯章首先捕斬產。太尉勃身率襄平侯通持節承詔入北軍。典客揭奪呂祿印。其益封太尉勃邑萬戶,賜金五千斤。丞相平、將軍嬰邑各三千戶,金二千斤。朱虛侯章、襄平侯通邑各二千戶,金千斤。封典客揭為陽信侯,賜金千斤。」

十二月、趙幽王の子の遂を趙王に立て、琅邪王沢を燕王に移した。呂氏が奪った斉と楚の地は全て返還した。収帑相坐の律令を全て除いた。

原文十二月,立趙幽王子遂為趙王,徙琅邪王澤為燕王。呂氏所奪齊楚地皆歸之。盡除收帑相坐律令。

正月、有司が早く太子を立てるよう請うた。宗廟を尊ぶためである。詔して言った。「朕は徳がなく、上帝神明がまだ饗を受けず、天下の人民にはまだ安寧の志がない。今、天下の賢聖で徳のある人を広く求めて天下を譲ることができないのに、予め太子を立てるというのは、私の不徳を重ねるものである。天下をどうするというのか。そのままにしておけ。」有司は言った。「予め太子を立てるのは、宗廟と社稷を重んじ、天下を忘れないためです。」上は言った。「楚王は叔父であり、年齢が高く、天下の義理を多く見聞きし、国家の体制に明るい。呉王は朕にとって兄であり、淮南王は弟である。皆徳を持って朕を補佐しており、どうして予め立てないことがあろうか。諸侯王、宗室、兄弟、功臣の中で、多く賢く徳義のある者がおり、もし徳のある者を挙げて朕の終わりを補佐するなら、それは社稷の霊であり、天下の福である。今、選挙せずに、必ず子でなければならないと言うのは、人々が朕が賢く徳のある者を忘れて子に専念していると思わせ、天下を憂えるものではない。朕は甚だこれを取らない。」有司が固く請うて言った。「古くは殷周に国があり、治安は皆千年近く続き、天下を持つ者でこれより長いものはなく、この道を用いたのです。後継者を立てるには必ず子であり、その由来は遠いです。高帝が初めて天下を平定し、諸侯を建て、帝の太祖となりました。諸侯王や列侯で初めて国を受けた者も皆その国の祖となりました。子孫が継承し、世々絶えることなく、天下の大義です。故に高帝はこれを設けて海内を撫でました。今、ふさわしい者を建てるのをやめて諸侯や宗室から選び直すのは、高帝の志ではありません。改めて議論すべきではありません。子の啓が最も年長で、敦厚で慈仁です。請う、彼を立てて太子とせられたい。」上は遂にこれを許した。そこで天下の民で父の後継ぎとなる者に爵位一級を賜った。将軍薄昭を軹侯に封じた。

原文正月,有司請蚤建太子,所以尊宗廟也。詔曰:「朕既不德,上帝神明未歆饗也,天下人民未有轺志。今縱不能博求天下賢聖有德之人而嬗天下焉,而曰豫建太子,是重吾不德也。謂天下何?其安之。」有司曰:「豫建太子,所以重宗廟社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也,春秋高,閱天下之義理多矣,明於國家之體。吳王於朕,兄也;淮南王,弟也:皆秉德以陪朕,豈為不豫哉!諸侯王宗室昆弟有功臣,多賢及有德義者,若舉有德以陪朕之不能終,是社稷之靈,天下之福也。今不選舉焉,而曰必子,人其以朕為忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也。朕甚不取。」有司固請曰:「古者殷周有國,治安皆且千歲,有天下者莫長焉,用此道也。立嗣必子,所從來遠矣。高帝始平天下,建諸侯,為帝者太祖。諸侯王列侯始受國者亦皆為其國祖。子孫繼嗣,世世不絕,天下之大義也。故高帝設之以撫海內。今釋宜建而更選於諸侯宗室,非高帝之志也。更議不宜。子啟最長,敦厚慈仁,請建以為太子。」上乃許之。因賜天下民當為父後者爵一級。封將軍薄昭為軹侯。

三月、有司が皇后を立てるよう請うた。皇太后は言った。「太子の母の竇氏を皇后に立てよ。」

原文三月,有司請立皇后。皇太后曰:「立太子母竇氏為皇后。」

詔して言った。「今は春の和やかな時であり、草木や群生の物は皆自ら楽しむものがあるが、我が百姓の中の鰥寡孤独で窮困の人々は、あるいは死に瀕しているのに、誰もこれを省み憂えない。民の父母としてどうすべきか。その振貸する方法を議論せよ。」また言った。「老人は帛でなければ暖まらず、肉でなければ満腹しない。今年の初めに、時を定めずに人を遣わして長老を慰問し、また布帛や酒肉の賜り物がなければ、どうして天下の子孫がその親を孝養するのを助けられようか。今、官吏が粥を受けるべき者に支給するのに、あるいは古い粟を用いていると聞くが、どうして養老の意にかなうだろうか。具に令とせよ。」有司は県や道に命じ、八十歳以上の人に、月ごとに米一石、肉二十斤、酒五斗を賜い、九十歳以上の人には、さらに帛を人ごとに二匹、綿を三斤賜うよう請うた。賜り物や粥の米を支給すべき者は、長吏が閲覧し、丞または尉が届ける。九十歳に満たない者は、嗇夫や令史が届ける。二千石は都吏を派遣して巡回させ、ふさわしくない者は監督する。刑に処せられた者および耐以上の罪がある者は、この令を用いない。

原文詔曰:「方春和時,草木群生之物皆有以自樂,而吾百姓鰥寡孤獨窮困之人或阽於死亡,而莫之省憂。為民父母將何如?其議所以振貸之。」又曰:「老者非帛不煖,非肉不飽。今歲首,不時使人存問長老,又無布帛酒肉之賜,將何以佐天下子孫孝養其親?今聞吏稟當受鬻者,或以陳粟,豈稱養老之意哉!具為令。」有司請令縣道,年八十已上,賜米人月一石,肉二十斤,酒五斗。其九十已上,又賜帛人二疋,絮三斤。賜物及當稟鬻米者,長吏閱視,丞若尉致。不滿九十,嗇夫、令史致。二千石遣都吏循行,不稱者督之。刑者及有罪耐以上,不用此令。

楚元王交が薨去した。

原文楚元王交薨。

四月、斉と楚で地震があり、二十九の山が同日に崩れ、大水が溢れ出た。

原文四月,齊楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。

六月、郡国に献上物を持って来ることを禁じた。恵みを天下に施し、諸侯や四夷の遠近で歓喜が和んだ。そこで代から来た功績を修めた。詔して言った。「大臣たちが諸呂を誅伐し朕を迎えた時、朕は狐疑し、皆朕を止めたが、ただ中尉宋昌だけが朕を勧めたので、朕は宗廟を保つことができた。すでに宋昌を衛将軍に尊んだが、宋昌を壮武侯に封じる。朕に従った六人も、官は皆九卿に至った。」また言った。「列侯で高帝に従って蜀や漢に入った者は六十八人で、邑をそれぞれ三百戸増やす。二千石以上の官吏で高帝に従った潁川守尊ら十人は、食邑六百戸。淮陽守申屠嘉ら十人は、五百戸。衛尉足ら十人は、四百戸。」淮南王の舅の趙兼を周陽侯に封じ、斉王の舅の駟鈞を靖郭侯に封じ、故常山丞相蔡兼を樊侯に封じた。

原文六月,令郡國無來獻。施惠天下,諸侯四夷遠近驩洽。乃脩代來功。詔曰:「方大臣誅諸呂迎朕,朕狐疑,皆止朕,唯中尉宋昌勸朕,朕已得保宗廟。已尊昌為衛將軍,其封昌為壯武侯。諸從朕六人,官皆至九卿。」又曰:「列侯從高帝入蜀、漢者六十八人,益邑各三百戶;吏二千石以上從高帝潁川守尊等十人,食邑六百戶;淮陽守申屠嘉等十人,五百戶;衛尉足等十人,四百戶。」封淮南王舅趙兼為周陽侯,齊王舅駟鈞為靖郭侯,故常山丞相蔡兼為樊侯。

二年冬十月、丞相陳平が薨去した。詔して言った。「朕は聞く。古くは諸侯が千余国を建て、それぞれその地を守り、時に応じて貢ぎ物を納め、民は労苦せず、上下歓欣し、徳に背くことがなかったと。今、列侯は多く長安に住み、邑が遠く、官吏や兵卒の輸送費用が苦しく、また列侯もその民を教訓する方法がない。列侯に国に帰らせ、官吏や詔で止められた者は、太子を遣わせ。」

原文二年冬十月,丞相陳平薨。詔曰:「朕聞古者諸侯建國千餘,各守其地,以時入貢,民不勞苦,上下驩欣,靡有違德。今列侯多居長安,邑遠,吏卒給輸費苦,而列侯亦無繇教訓其民。其令列侯之國,為吏及詔所止者,遣太子。」

十一月癸卯の晦、日食があった。詔して言った。「朕は聞く。天が民を生み、そのために君を置いて養い治める。君主が徳がなく、政を布くのが均等でなければ、天は災いを示して治まらないことを戒める。今、十一月の晦に日食があり、天に現れた。災いとしてこれより大きいものがあろうか!朕は宗廟を保ち、微眇の身を士民君王の上に託し、天下の治乱は朕一人にあり、ただ二、三の執政は朕の股肱である。朕は下って群生を治め育てることができず、上って三光の明を累わせ、その不徳は大きい。令が至ったら、朕の過失と知見の及ばないところを全て考え、朕に啓告せよ。また賢良方正で直言極諫できる者を挙げ、朕の及ばないところを補わせよ。それぞれ職任を戒め、徭役の費用を省いて民に便利にせよ。朕はすでに遠くまで徳を行き渡らせることができないので、外の人に非があることを思い、設備を止めない。今、辺境の屯戍を罷めることはできず、また兵を整えて厚く衛らせるが、衛将軍の軍を罷めよ。太僕の現存する馬は必要なだけ残し、余りは全て伝置に与えよ。」

原文十一月癸卯晦,日有食之。詔曰:「朕聞之,天生民,為之置君以養治之。人主不德,布政不均,則天示之災以戒不治。乃十一月晦,日有食之,適見于天,災孰大焉!朕獲保宗廟,以微眇之身託于士民君王之上,天下治亂,在予一人,唯二三執政猶吾股肱也。朕下不能治育群生,上以累三光之明,其不德大矣。令至,其悉思朕之過失,及知見之所不及,饨以啟告朕。及舉賢良方正能直言極諫者,以匡朕之不逮。因各敕以職任,務省繇費以便民。朕既不能遠德,故贳然念外人之有非,是以設備未息。今縱不能罷邊屯戍,又飭兵厚衛,其罷衛將軍軍。太僕見馬遺財足,餘皆以給傳置。」

春正月丁亥、詔して言った。「農は天下の根本である。藉田を開き、朕自ら耕し率いて、宗廟の粢盛を供給する。民で県官に謫作され、種や食糧を貸し出してまだ納入していない者、納入がまだ完了していない者は、皆赦す。」

原文春正月丁亥,詔曰:「夫農,天下之本也,其開藉田,朕親率耕,以給宗廟粢盛。民謫作縣官及貸種食未入、入未備者,皆赦之。」

三月、有司が皇子を諸侯王に立てるよう請うた。詔して言った。「以前、趙幽王が幽閉されて死に、朕は甚だ憐れんだ。すでにその太子の遂を趙王に立てた。遂の弟の辟彊および斉悼恵王の子の朱虚侯劉章、東牟侯興居は功績があるので、王とすることができる。」そこで辟彊を河間王に、劉章を城陽王に、興居を済北王に立てた。そこで皇子の武を代王に、参を太原王に、揖を梁王に立てた。

原文三月,有司請立皇子為諸侯王。詔曰:「前趙幽王幽死,朕甚憐之,已立其太子遂為趙王。遂弟辟彊及齊悼惠王子朱虛侯章、東牟侯興居有功,可王。」乃遂立辟彊為河間王,章為城陽王,興居為濟北王。因立皇子武為代王,參為太原王,揖為梁王。

五月、詔して言った。「古く天下を治めるには、朝廷に進善の旌と誹謗の木があり、治道を通じて諫言を招いた。今、法に誹謗妖言の罪があり、これによって衆臣は情を尽くすことができず、上は過失を聞く由もない。どうして遠方の賢良を招くことができようか。これを除け。民があるいは上を祝詛し、互いに約束して後で互いに欺くことがあり、官吏は大逆とし、他の言葉があれば、官吏はまた誹謗とする。これは細民の愚かさであり、無知で死に至る。朕は甚だこれを取らない。今後、このようなことを犯す者は、取り調べないこととする。」

原文五月,詔曰:「古之治天下,朝有進善之旌,誹謗之木,所以通治道而來諫者也。今法有誹謗訞言之罪,是使眾臣不敢盡情,而上無由聞過失也。將何以來遠方之賢良?其除之。民或祝詛上,以相約而後相謾,吏以為大逆,其有他言,吏又以為誹謗。此細民之愚,無知抵死,朕甚不取。自今以來,有犯此者勿聽治。」

九月、初めて郡守と銅虎符と竹使符を作った。詔して言った。「農は天下の大本であり、民が頼って生きるものである。しかし民が本務に努めず末事に従事するので、生計が成り立たない。朕はそのようであることを憂え、故に今年、群臣を率いて農に従事し勧める。天下の民に今年の田租の半分を賜う。」

原文九月,初與郡守為銅虎符、竹使符。詔曰:「農,天下之大本也,民所恃以生也,而民或不務本而事末,故生不遂。朕憂其然,故今茲親率群臣農以勸之。其賜天下民今年田租之半。」

三年冬十月丁酉の晦、日食があった。

原文三年冬十月丁酉晦,日有食之。

十一月丁卯の晦、日食があった。詔して言った。「先日、列侯に国に帰るよう詔を遣わしたが、辞退して行かなかった。丞相は朕が重んじる者である。そこで丞相に率いて列侯を国に帰らせよ。」そこで丞相周勃を免職し、国に帰らせた。十二月、太尉潁陰侯灌嬰を丞相とした。太尉の官を罷め、丞相に属させた。

原文十一月丁卯晦,日有蝕之。詔曰:「前日詔遣列侯之國,辭未行。丞相朕之所重,其為遂率列侯之國。」遂免丞相勃,遣就國。十二月,太尉潁陰侯灌嬰為丞相。罷太尉官,屬丞相。

夏四月、城陽王劉章が薨去した。淮南王長が辟陽侯審食其を殺した。

原文夏四月,城陽王章薨。淮南王長殺辟陽侯審食其。

五月、匈奴が北地、河南に入り居り、寇とした。上は甘泉に行幸し、丞相灌嬰を遣わして匈奴を撃たせ、匈奴は去った。中尉の材官を衛将軍に属させ、長安に軍を置いた。

原文五月,匈奴入居北地、河南為寇。上幸甘泉,遣丞相灌嬰擊匈奴,匈奴去。發中尉材官屬衛將軍,軍長安。

上は甘泉から高奴に行き、そこで太原に行幸し、故群臣に会い、皆賜った。功を挙げ賞を行い、諸民の里に牛と酒を賜った。晋陽、中都の民の三年分の租を免除した。太原に遊び十余日留まった。

原文上自甘泉之高奴,因幸太原,見故群臣,皆賜之。舉功行賞,諸民里賜牛酒。復晉陽、中都民三歲租。留游太原十餘日。

済北王興居は帝が代に行ったと聞き、自ら匈奴を撃とうとして、反逆し、兵を発して滎陽を襲おうとした。そこで詔して丞相の兵を罷め、棘蒲侯柴武を大将軍とし、四将軍十万の衆を率いてこれを撃たせた。祁侯繒賀を将軍とし、滎陽に軍を置いた。秋七月、上は太原から長安に至った。詔して言った。「済北王は徳に背き上に反し、吏民を誤らせ、大逆である。済北の吏民で兵が至る前に自ら定まり、および軍や城邑を降伏させた者は、皆赦し、官爵を回復する。王興居と行き来した者も、赦す。」八月、済北王興居を虜にし、自殺した。興居に反逆した者を皆赦した。

原文濟北王興居聞帝之代,欲自擊匈奴,乃反,發兵欲襲滎陽。於是詔罷丞相兵,以棘蒲侯柴武為大將軍,將四將軍十萬眾擊之。祁侯繒賀為將軍,軍滎陽。秋七月,上自太原至長安。詔曰:「濟北王背德反上,詿誤吏民,為大逆。濟北吏民兵未至先自定及以軍城邑降者,皆赦之,復官爵。與王興居去來者,亦赦之。」八月,虜濟北王興居,自殺。赦諸與興居反者。

四年冬十二月、丞相灌嬰が薨去した。

原文四年冬十二月,丞相灌嬰薨。

夏五月、諸劉で属籍のある者を復し、家には何も与えない。諸侯王の子に邑をそれぞれ二千戸賜った。

原文夏五月,復諸劉有屬籍,家無所與。賜諸侯王子邑各二千戶。

秋九月、斉悼恵王の子七人を列侯に封じた。

原文秋九月,封齊悼惠王子七人為列侯。

絳侯周勃に罪があり、廷尉の詔獄に逮捕された。

原文絳侯周勃有罪,逮詣廷尉詔獄。

顧成廟を作った。

原文作顧成廟。

五年春二月、地震があった。

原文五年春二月,地震。

夏四月、盗銭鋳造の令を除いた。四銖銭を新たに造った。

原文夏四月,除盜鑄錢令。更造四銖錢。

六年冬十月、桃と李が花を咲かせた。

原文六年冬十月,桃李華。

十一月、淮南王長が謀反し、廃して蜀の厳道に遷し、雍で死んだ。

原文十一月,淮南王長謀反,廢遷蜀嚴道,死雍。

七年冬十月、列侯の太夫人、夫人、諸侯王の子および二千石の官吏に擅に徴捕することを禁じた。

原文七年冬十月,令列侯太夫人、夫人、諸侯王子及吏二千石無得擅徵捕。

六月癸酉、未央宮の東闕の罘罳が災害に遭った。

原文六月癸酉,未央宮東闕罘罳災。

八年夏、淮南厲王長の長子四人を列侯に封じた。

原文八年夏,封淮南厲王長子四人為列侯。

長星が東方に出た。

原文有長星出于東方。

九年春、大旱があった。

原文九年春,大旱。

十年冬、甘泉に行幸した。

原文十年冬,行幸甘泉。

将軍薄昭が死んだ。

原文將軍薄昭死。

十一年冬十一月、代に行幸した。春正月、上は代から帰還した。

原文十一年冬十一月,行幸代。春正月,上自代還。

夏六月、梁王揖が薨去した。

原文夏六月,梁王揖薨。

匈奴が狄道を寇とした。

原文匈奴寇狄道。

十二年冬十二月、黄河が東郡で決壊した。

原文十二年冬十二月,河決東郡。

春正月、諸侯王の女に邑をそれぞれ二千戸賜った。

原文春正月,賜諸侯王女邑各二千戶。

二月、孝恵皇帝の後宮の美人を出し、嫁ぐことを許した。

原文二月,出孝惠皇帝後宮美人,令得嫁。

三月、関所で伝を用いないこととした。

原文三月,除關無用傳。

詔して言った。「民を導く道は、本務に努めることにある。朕は自ら天下の農を率い、今に至るまで十年であるが、野は開墾されず、一年不作で、民に飢えた顔色がある。これは従事する者がまだ少なく、官吏が努めていないからである。朕は詔書を数回下し、毎年民に種を植えるよう勧めたが、功績が興らない。これは官吏が朕の詔を勤めず、民を勧めることが明らかでないからである。かつ朕の農民は甚だ苦しんでいるが、官吏はこれを省みない。どうして勧めることができようか。農民に今年の租税の半分を賜う。」

原文詔曰:「道民之路,在於務本。朕親率天下農,十年于今,而野不加辟,歲一不登,民有飢色,是從事焉尚寡,而吏未加務也。吾詔書數下,歲勸民種樹,而功未興,是吏奉吾詔不勤,而勸民不明也。且吾農民甚苦,而吏莫之省,將何以勸焉?其賜農民今年租稅之半。」

また言った。「孝悌は天下の大順である。力田は生計の根本である。三老は衆民の師である。廉吏は民の模範である。朕はこの二、三大夫の行いを甚だ嘉する。今、万家の県で、令に応じる者がいないと言うが、どうして実情だろうか。これは官吏が賢を挙げる道が備わっていないからである。謁者を遣わして三老、孝者に帛を人ごとに五匹、悌者、力田に二匹、廉吏で二百石以上で百石を率いる者に三匹を労賜せよ。また民の不便で安らかでないところを問い、戸口の率によって三老孝悌力田の常員を置き、それぞれその意を率いて民を導かせよ。」

原文又曰:「孝悌,天下之大順也。力田,為生之本也。三老,眾民之師也。廉吏,民之表也。朕甚嘉此二三大夫之行。今萬家之縣,云無應令,豈實人情?是吏舉賢之道未備也。其遣謁者勞賜三老、孝者帛人五匹,悌者、力田二匹,廉吏二百石以上率百石者三匹。及問民所不便安,而以戶口率置三老孝悌力田常員,令各率其意以道民焉。」

十三年春二月甲寅、詔して言った。「朕は自ら天下の農耕を率いて粢盛を供給し、皇后は自ら桑を採って祭服を奉ずる。その礼儀を具えよ。」

原文十三年春二月甲寅,詔曰:「朕親率天下農耕以供粢盛,皇后親桑以奉祭服,其具禮儀。」

夏、秘祝を除いた。詳細は郊祀志にある。五月、肉刑の法を除いた。詳細は刑法志にある。

原文夏,除祕祝,語在郊祀志。五月,除肉刑法,語在刑法志。

六月、詔して言った。「農は天下の根本であり、務めとしてこれより大きいものはない。今、身を尽くして従事するのに、租税の賦がある。これは本末に違いがないと言うものであり、農を勧める道が備わっていない。田の租税を除く。天下の孤寡に布帛綿をそれぞれ数賜う。」

原文六月,詔曰:「農,天下之本,務莫大焉。今廑身從事,而有租稅之賦,是謂本末者無以異也,其於勸農之道未備。其除田之租稅。賜天下孤寡布帛絮各有數。」

十四年冬、匈奴が辺境を寇とし、北地都尉卬を殺した。三将軍を遣わして隴西、北地、上郡に軍を置き、中尉周舍を衛将軍とし、郎中令張武を車騎将軍とし、渭北に軍を置き、車千乗、騎卒十万人。上は自ら軍を労い、兵を統率し、教令を申し、吏卒を賜った。自ら匈奴を征伐しようとしたが、群臣が諫め、聞き入れなかった。皇太后が固く上を止めたので、止めた。そこで東陽侯張相如を大将軍とし、建成侯董赫、内史欒布を皆将軍とし、匈奴を撃った。匈奴は逃げた。

原文十四年冬,匈奴寇邊,殺北地都尉卬。遣三將軍軍隴西、北地、上郡,中尉周舍為衛將軍,郎中令張武為車騎將軍,軍渭北,車千乘,騎卒十萬人。上親勞軍,勒兵,申教令,賜吏卒。自欲征匈奴,群臣諫,不聽。皇太后固要上,乃止。於是以東陽侯張相如為大將軍,建成侯董赫、內史欒布皆為將軍,擊匈奴。匈奴走。

春、詔して言った。「朕は犠牲と珪幣を執って上帝と宗廟に事えること、今に至るまで十四年である。日がますます長くなり、不敏不明で長く天下を撫で臨むので、朕は甚だ自ら愧じる。諸祀の壇場と珪幣を広く増やせ。昔、先王は遠く施してその報いを求めず、望祀してその福を祈らず、賢を右にし戚を左にし、民を先にし己を後にし、至明の極みであった。今、朕は祠官が祝釈するのを聞くに、皆福を朕の身に帰し、百姓のためではない。朕は甚だ愧じる。朕の不徳をもって、専らにその福を独り占めし、百姓はこれに関与しない。これは朕の不徳を重ねるものである。祠官に命じて敬意を表し、祈ることをしないようにせよ。」

原文春,詔曰:「朕獲執犧牲珪幣以事上帝宗廟,十四年于今。歷日彌長,以不敏不明而久撫臨天下,朕甚自媿。其廣增諸祀壇場珪幣。昔先王遠施不求其報,望祀不祈其福,右賢左戚,先民後己,至明之極也。今吾聞祠官祝釐,皆歸福於朕躬,不為百姓,朕甚媿之。夫以朕之不德,而專鄉獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德也。其令祠官致敬,無有所祈。」

十五年春、黄龍が成紀に現れた。上は詔を下して郊祀を議論させた。公孫臣が服色を明らかにし、新垣平が五廟を設けた。詳細は郊祀志にある。夏四月、上は雍に行幸し、初めて五帝を郊祀し、天下を赦し、名山大川でかつて祀られていたが絶えた者を修め、有司に時節に応じて礼を致させた。

原文十五年春,黃龍見於成紀。上乃下詔議郊祀。公孫臣明服色,新垣平設五廟。語在郊祀志。夏四月,上幸雍,始郊見五帝,赦天下,修名山大川嘗祀而絕者,有司以歲時致禮。

九月、詔して諸侯王、公卿、郡守に賢良で直言極諫できる者を挙げさせ、上は自ら策問し、言葉を傅えて納用した。詳細は晁錯伝にある。

原文九月,詔諸侯王公卿郡守舉賢良能直言極諫者,上親策之,傅納以言。語在晁錯傳。

十六年夏四月、上は渭陽で五帝を郊祀した。

原文十六年夏四月,上郊祀五帝于渭陽。

五月、斉悼恵王の子六人、淮南厲王の子三人を皆王に立てた。

原文五月,立齊悼惠王子六人、淮南厲王子三人皆為王。

秋九月、玉杯を得て、「人主延寿」と刻まれていた。天下に大酺を令し、明年に元号を改めた。

原文秋九月,得玉杯,刻曰「人主延壽」。令天下大酺,明年改元。

後元

原文後元

後元年冬十月、新垣平の詐りが発覚し、謀反し、三族を誅した。

原文後元年冬十月,新垣平詐覺,謀反,夷三族。

春三月、孝恵皇后張氏が薨去した。

原文春三月,孝惠皇后張氏薨。

詔して言った。「近年、数年連続して不作であり、また水害、旱害、疾疫の災いがある。朕は甚だ憂える。愚かで明らかでなく、その咎に達しない。思うに朕の政に失いがあり、行いが過ちがあるのか。あるいは天道が順調でなく、地利が得られず、人事が多く和を失い、鬼神が廃れて饗を受けないのか。どうしてこのようになるのか。百官の奉養が費やされ、無用の事が多いのか。どうして民の食糧がこれほど乏しいのか。田を測量しても減っておらず、民を計っても増えていない。口数で土地を量れば、古に比べてまだ余裕があるのに、食糧が甚だ不足している。その咎はどこにあるのか。百姓が末事に従事して農を害する者が多く、酒醪を作って穀物を浪費する者が多く、六畜の食料が多いのか。細大の義、朕はその中を得ることができない。丞相、列侯、二千石の官吏、博士と議論し、百姓を助けることができる者は、率意して遠く考え、隠すところなくせよ。」

原文詔曰:「間者數年比不登,又有水旱疾疫之災,朕甚憂之。愚而不明,未達其咎。意者朕之政有所失而行有過與?乃天道有不順,地利或不得,人事多失和,鬼神廢不享與?何以致此?將百官之奉養或費,無用之事或多與?何其民食之寡乏也!夫度田非益寡,而計民未加益,以口量地,其於古猶有餘,而食之甚不足者,其咎安在?無乃百姓之從事於末以害農者蕃,為酒醪以靡穀者多,六畜之食焉者眾與?細大之義,吾未能得其中。其與丞相列侯吏二千石博士議之,有可以佐百姓者,率意遠思,無有所隱。」

二年夏、雍の棫陽宮に行幸した。

原文二年夏,行幸雍棫陽宮。

六月、代王参が薨去した。匈奴と和親した。詔して言った。「朕はすでに明らかでなく、遠くまで徳を行き渡らせることができず、方外の国が安寧しない。四荒の外でその生を安んぜず、封圻の内で勤労して住まない。この二つの咎は、皆朕の徳が薄く遠くまで達しないからである。近年、匈奴が累年辺境を暴れ、多く吏民を殺し、辺臣や兵吏が入ってその内志を諭すことができず、朕の不徳を重ねる。長く難を結び兵を連ねるので、中外の国はどうして自ら安寧できようか。今、朕は夙興夜寐し、天下を勤労し、万民を憂苦し、そのために惻怛不安で、一日も心に忘れたことがない。故に使者を遣わし、冠蓋相望み、道に結徹し、朕の志を単于に諭した。今、単于は古の道に反し、社稷の安を計り、万民の利を便にし、新たに朕と共に細過を棄て、大道に偕にし、兄弟の義を結び、天下の元元の民を全うする。和親を定め、今年から始める。」

原文六月,代王參薨。匈奴和親。詔曰:「朕既不明,不能遠德,使方外之國或不寧息。夫四荒之外不安其生,封圻之內勤勞不處,二者之咎,皆自於朕之德薄而不能達遠也。間者累年,匈奴並暴邊境,多殺吏民,邊臣兵吏入不能諭其內志,以重吾不德。夫久結難連兵,中外之國將何以自寧?今朕夙興夜寐,勤勞天下,憂苦萬民,為之惻怛不安,未嘗一日忘於心,故遣使者冠蓋相望,結徹於道,以諭朕志於單于。今單于反古之道,計社稷之安,便萬民之利,新與朕俱棄細過,偕之大道,結兄弟之義,以全天下元元之民。和親以定,始于今年。」

三年春二月、代に行幸した。

原文三年春二月,行幸代。

四年夏四月丙寅の晦、日食があった。五月、天下を赦した。官奴婢を免じて庶人とした。雍に行幸した。

原文四年夏四月丙寅晦,日有蝕之。五月,赦天下。免官奴婢為庶人。行幸雍。

五年春正月、隴西に行幸した。三月、雍に行幸した。秋七月、代に行幸した。

原文五年春正月,行幸隴西。三月,行幸雍。秋七月,行幸代。

六年冬、匈奴の三万騎が上郡に入り、三万騎が雲中に入った。中大夫令免を車騎将軍として飛狐に屯させ、故楚相蘇意を将軍として句注に屯させ、将軍張武を北地に屯させ、河内太守周亜夫を将軍として細柳に次らせ、宗正劉礼を将軍として覇上に次らせ、祝茲侯徐厲を将軍として棘門に次らせ、胡に備えた。

原文六年冬,匈奴三萬騎入上郡,三萬騎入雲中。以中大夫令免為車騎將軍屯飛狐,故楚相蘇意為將軍屯句注,將軍張武屯北地,河內太守周亞夫為將軍次細柳,宗正劉禮為將軍次霸上,祝茲侯徐厲為將軍次棘門,以備胡。

夏四月、大旱があり、蝗があった。諸侯に入貢することを禁じた。山沢を弛めた。諸服御を減らした。郎吏員を損ねた。倉庾を発して民を振じた。民に爵を売ることを許した。

原文夏四月,大旱,蝗。令諸侯無入貢。弛山澤。減諸服御。損郎吏員。發倉庾以振民。民得賣爵。

七年夏六月己亥、帝は未央宮で崩御した。遺詔して言った。「朕は聞く。天下万物の萌生は、死なないものはない。死は天地の理であり、物の自然である。どうして甚だしく哀しむことがあろうか。当今の世は、皆生を嘉し死を悪み、厚葬して業を破り、重服して生を傷つける。朕は甚だこれを取らない。かつ朕はすでに徳がなく、百姓を助けることができない。今、崩御して、また重服して長く臨ませ、寒暑の数に罹らせ、人の父子を哀しみ、長老の志を傷つけ、その飲食を損ない、鬼神の祭祀を絶ち、朕の不徳を重ねる。天下をどうするというのか。朕は宗廟を保ち、眇眇の身を天下君王の上に託し、二十有余年である。天の霊に頼り、社稷の福により、方内は安寧し、兵革がない。朕はすでに不敏で、常に過行を畏れ、先帝の遺徳を羞じる。ただ年の久長を思い、終わらないことを懼れる。今、幸いに天年を得て高廟に再び供養される。朕の不明と嘉する、どうして哀しみ思うことがあろうか。天下の吏民に命じ、令が到着したら三日間出臨し、皆喪服を脱がせよ。婦を娶り女を嫁がせ祠祀し酒を飲み肉を食うことを禁じない。自ら喪事に服し臨む者は、皆践むな。姪帯は三寸を過ぎるな。布車および兵器を用いるな。民を発して宮殿中で哭臨させるな。殿中で臨むべき者は、皆朝晩にそれぞれ十五回音を挙げ、礼が終われば罷めよ。朝晩の臨時でない時は、擅に哭臨することを禁ずる。以下、大紅を十五日、小紅を十四日、纖を七日服し、喪服を脱げ。それ以外で令にない者は、皆この令に比類して従事せよ。天下に布告し、朕の意を明らかに知らしめよ。霸陵の山川はその故のままにし、改めるな。夫人以下から少使まで帰せ。」中尉周亜夫を車騎将軍とし、属国悍を将屯将軍とし、郎中令張武を復土将軍とし、近県の卒一万六千人を発し、内史の卒一万五千人を発し、臧郭を穿ち復土を将軍張武に属させた。諸侯王以下から孝悌力田までに金銭帛をそれぞれ数賜った。乙巳、霸陵に葬った。

原文七年夏六月己亥,帝崩于未央宮。遺詔曰:「朕聞之,蓋天下萬物之萌生,靡不有死。死者天地之理,物之自然,奚可甚哀!當今之世,咸嘉生而惡死,厚葬以破業,重服以傷生,吾甚不取。且朕既不德,無以佐百姓;今崩,又使重服久臨,以罹寒暑之數,哀人父子,傷長老之志,損其飲食,絕鬼神之祭祀,以重吾不德,謂天下何!朕獲保宗廟,以眇眇之身託于天下君王之上,二十有餘年矣。賴天之靈,社稷之福,方內安寧,靡有兵革。朕既不敏,常畏過行,以羞先帝之遺德;惟年之久長,懼于不終。今乃幸以天年得復供養于高廟,朕之不明與嘉之,其奚哀念之有!其令天下吏民,令到出臨三日,皆釋服。無禁取婦嫁女祠祀飲酒食肉。自當給喪事服臨者,皆無踐。姪帶無過三寸。無布車及兵器。無發民哭臨宮殿中。殿中當臨者,皆以旦夕各十五舉音,禮畢罷。非旦夕臨時,禁無得擅哭臨。以下,服大紅十五日,小紅十四日,纖七日,釋服。它不在令中者,皆以此令比類從事。布告天下,使明知朕意。霸陵山川因其故,無有所改。歸夫人以下至少使。」令中尉亞夫為車騎將軍,屬國悍為將屯將軍,郎中令張武為復土將軍,發近縣卒萬六千人,發內史卒萬五千人,臧郭穿復土屬將軍武。賜諸侯王以下至孝悌力田金錢帛各有數。乙巳,葬霸陵。

原文贊曰

孝文皇帝は即位して二十三年、宮室、苑囿、車騎、服御に増やすところがなかった。不便なことがあれば、すぐに弛めて民に利した。かつて露台を作ろうとし、工匠を召して計算させると、百金の値だった。上は言った。「百金は、中の人の十軒分の家産である。私は先帝の宮室を奉じ、常にこれを辱めることを恐れている。どうして露台など作れようか。」身には弋綈を着け、寵愛する慎夫人の衣は地を曳かず、帷帳には文繍がなく、敦朴を示し、天下に先んじた。霸陵を治めるに、全て瓦器を用い、金銀銅錫で飾ることを許さず、その山に因り、墳を起こさなかった。南越尉佗が自立して帝となったが、佗の兄弟を召して貴び、徳をもって懐け、佗は遂に臣と称した。匈奴と和親を結んだが、後に背いて入寇したので、辺境に備え守らせ、兵を発して深く入らず、百姓を煩わすことを恐れた。呉王が病と詐って朝見しなかったが、几杖を賜った。群臣の袁盎らの諫説は切実であったが、常に仮借して納用した。張武らが賄賂の金銭を受け取ったが、発覚すると、さらに賞賜を加え、その心を愧じさせた。専らに徳をもって民を化すことに務めた。それによって海内は殷富となり、礼義に興り、獄を断ずること数百、ほとんど刑措に至った。嗚呼、仁なるかな!

原文孝文皇帝即位二十三年,宮室苑囿車騎服御無所增益。有不便,輒弛以利民。嘗欲作露臺,召匠計之,直百金。上曰:「百金,中人十家之產也。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以臺為!」身衣弋綈,所幸慎夫人衣不曳地,帷帳無文繡,以示敦朴,為天下先。治霸陵,皆瓦器,不得以金銀銅錫為飾,因其山,不起墳。南越尉佗自立為帝,召貴佗兄弟,以德懷之,佗遂稱臣。與匈奴結和親,後而背約入盜,令邊備守,不發兵深入,恐煩百姓。吳王詐病不朝,賜以几杖。群臣袁盎等諫說雖切,常假借納用焉。張武等受賂金錢,覺,更加賞賜,以媿其心。專務以德化民,是以海內殷富,興於禮義,斷獄數百,幾致刑措。嗚呼,仁哉!