『漢書』

巻二十七 五おこな志 第七

うえ

原文

経』にげんう。「天はしょうを垂れ、吉凶を現す。せい人はこれに象る。河から図が出、雒から書が出る。聖人はこれをすなわる」と。劉歆りゅうきんは、伏羲氏ふっきしが天を継いで王となり、河図を受け、これを則って画いたのが八卦であると考えた。が洪みずを治めたとき、雒書を賜り、これを法としてちんべたのが『洪範』である。聖人はその道を行い、その真実を宝とする。くだっていんの時代になると、箕子きしが父師の位にあってこれを司った。しゅうが殷を滅ぼした後、箕子を連れ帰り、武王は自ら謙虚に身を低くして彼に問うた。それゆえ経典に言う。「十三年、王は箕子を訪ねて言った。『ああ、箕子よ。天はひそかに下民を定め、その住まいを調させているが、私はそのつね道の秩序を知らない』と。箕子は言った。『私は昔、こんが洪水を防ぎめようとして五行のしたが序を乱したため、天帝は怒り、鯀に洪範九疇をあずかえず、常道は乱れたと聞いています。鯀はちゅう殺され、禹がその後を継いで興ると、天は禹に洪範九疇を授け、常道は秩序づけられました』」と。これが武王が箕子に雒書について問い、箕子が禹が雒書をた趣旨を答えたことである。

原文《易》曰:「天垂象,見吉凶,聖人象之;河出圖,雒出書,聖人則之。」劉歆以為虙羲氏繼天而王,受河圖,則而畫之,八卦是也;禹治洪水,賜雒書,法而陳之,洪範是也。聖人行其道而寶其真。降及于殷,箕子在父師位而典之。周既克殷,以箕子歸,武王親虛己而問焉。故經曰:「惟十有三祀,王訪于箕子,王乃言曰:『烏呼,箕子!惟天陰騭下民,相協厥居,我不知其彝倫逌敘。』箕子乃言曰:『我聞在昔,鯀讯洪水,汨陳其五行,帝乃震怒,弗畀洪範九疇,彝倫逌斁。鯀則殛死,禹乃嗣興,天乃錫禹洪範九疇,彝倫逌敘。』」此武王問雒書於箕子,箕子對禹得雒書之意也。

「第一は五行。第二は五事を用いることを慎む。第三は八まつりごとを用いて務めを厚くする。第四は五紀を用いて調和させる。第五は皇きわみを立てて用いる。第りくは三徳を用いて治める。第七は稽疑を用いてめいらかにする。第八はしるししょちょうを用いていをいたす。第九は五福を用いて導き、六極を畏れる」。これら六十五字はすべて雒書の本文であり、いわゆる天が禹に授けた九あらわしの大法で、常事が配列される順序である。河図と雒書は互いに経緯をなし、八卦と九章は互いに表裏をなすと考えられた。昔、殷の道が弛んだとき、文王は『周易』を演した。周の道が衰えたとき、孔子は『春秋』を述べた。それゆえ乾こんの陰ようは、『洪範』のとがめきゅうちょう(災いのきざし)を現し、天と人の道は明らかにけんいちじるとなった。

原文「初一曰五行;次二曰羞用五事;次三曰農用八政;次四曰協用五紀;次五曰建用皇極;次六曰艾用三德;次七曰明用稽疑;次八曰念用庶徵;次九曰嚮用五福,畏用六極。」凡此六十五字,皆雒書本文,所謂天乃錫禹大法九章常事所次者也。以為河圖、雒書相為經緯,八卦、九章相為表裏。昔殷道弛,文王演周易;周道敝,孔子述春秋。則乾坤之陰陽,效洪範之咎徵,天人之道粲然著矣。

漢が興り、しんが学問を滅ぼした後に続き、景帝けいてい武帝ぶていの時代に、董仲じょとうちゅうじょが公羊春秋を研究し、初めて陰陽を推しはかり、儒者の宗となった。宣帝せんてい元帝げんていの後、劉向りゅうきょうこく梁春秋を研究し、その福を数え、洪範によって伝え、仲舒とことなった。向の子の劉歆が左氏伝さしでんを研究するにいたって、その春秋のほぐ釈もすでに乖していた。五行伝ごぎょうでんについて述べると、またかなり異なっている。そこで董仲舒を踏襲し、劉向・劉歆を区別し、伝に眭孟すいもうこうまさかこうしょう京房きょうぼう谷永こくえい李尋りじんらが述べた事跡を記載し、王莽おうもうに至るまで、十二代を挙げて、春秋に附け、篇に著す。

原文漢興,承秦滅學之後,景、武之世,董仲舒治公羊春秋,始推陰陽,為儒者宗。宣、元之後,劉向治穀梁春秋,數其禍福,傳以洪範,與仲舒錯。至向子歆治左氏傳,其春秋意亦已乖矣;言五行傳,又頗不同。是以髓仲舒,別向、歆,傳載眭孟、夏侯勝、京房、谷永、李尋之徒所陳行事,訖於王莽,舉十二世,以傅春秋,著於篇。

五行

原文五行

経に曰く、「初めの一を五行と曰う。五行とは、一に水、二に火、三にもく、四にきん、五に土。水は潤下と曰い、火は炎上と曰い、木は曲直と曰い、金はじゅう革と曰い、土はここ稼穡かしょくと曰う」。

原文經曰:「初一曰五行。五行:一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土。水曰潤下,火曰炎上,木曰曲直,金曰從革,土爰稼穡。」

伝に曰く、「田猟でんりょうして宿しゅくせず、飲食してきょうせず、出入りしてせつせず、民の農時を奪い、及びぼうかんぼう有らば、則ち木曲直せず」。

原文傳曰:「田獵不宿,飲食不享,出入不節,奪民農時,及有姦謀,則木不曲直。」

よろこに曰く、木は東方である。易において、地上の木はかんである。王事においては、いぎぼうもまた観るべきものである。ゆえに行歩にはおびだまはいぎょくがあり、車に登るには和鸞わらんの節があり、田狩でんしゅには三駆さんくの制があり、飲食には享献きょうけんの礼があり、出入りには名があり、民を使うには時をもってし、務めは農くわを勧めるに在り、謀りは百姓を安んずるに在る。このようであれば、木はその性を得る。もしも田猟して馳騁ちていし宮室にかえらず、飲食してちんちんめんし法度を顧みず、みだりに繇役ようえきを興して民の時を奪い、姦詐かんさして民の財をそこなつければ、則ち木はその性をしつう。工匠が輪矢りんしを作る者が多く傷敗し、及び木がへんあやへんかいとなる、これが木が曲直しないということである。

原文說曰:木,東方也。於易,地上之木為觀。其於王事,威儀容貌亦可觀者也。故行步有佩玉之度,登車有和鸞之節,田狩有三驅之制,飲食有享獻之禮,出入有名,使民以時,務在勸農桑,謀在安百姓:如此,則木得其性矣。若乃田獵馳騁不反宮室,飲食沈湎不顧法度,妄興繇役以奪民時,作為姦詐以傷民財,則木失其性矣。蓋工匠之為輪矢者多傷敗,及木為變怪,是為木不曲直。

『春秋』せいこう十六年に「せい月、が降り、木に氷がついた」とある。劉歆は、上(天)の陽の施しが下に通じず、下(地)の陰の施しが上に達しないため、雨が降り、木に氷がついたのだと考えた。気がかんく、木が曲直(生たっとしないのである。劉向は、氷は陰気いんきが盛んで水が滞ったものであり、木は少陽ごとい陽気)で、貴臣やけい大夫たいふの象徴であると考えた。この人々にがいが及ぼうとすると、陰気が木に協力し、木が先に寒くなるので、雨に遭って氷がつくのである。この時、しゅくそん喬如しゅくそんきょうじょが出はしし、公子偃こうしえんが誅殺された。一説には、この時、しんきそん行父きそんこうほを捕らえ、また公をも捕らえた。これが捕らえられ辱めを受ける異変である。あるいは、今の長老が木氷を「木介もっかい」と呼ぶという。介とはよろいである。甲は兵(戦い)の象徴である。この年、晋にしのえんりょうの戦いがあり、そおうが目を傷つけられて敗れた。これは常に雨が降ることに属する。

原文春秋成公十六年「正月,雨,木冰」。劉歆以為上陽施不下通,下陰施不上達,故雨,而木為之冰,雰氣寒,木不曲直也。劉向以為冰者陰之盛而水滯者也,木者少陽,貴臣卿大夫之象也。此人將有害,則陰氣協木,木先寒,故得雨而冰也。是時叔孫喬如出奔,公子偃誅死。一曰,時晉執季孫行父,又執公,此執辱之異。或曰,今之長老名木冰為「木介」。介者,甲。甲,兵象也。是歲晉有鄢陵之戰,楚王傷目而敗。屬常雨也。

伝に言う。「法律をて、功臣を追いやり、太子を殺し、妾を妻とするならば、火は上に炎上しない」。

原文傳曰:「棄法律,逐功臣,殺太子,以妾為妻,則火不炎上。」

説に曰く。火は南方に配当され、光輝を揚げて明るさをなすものである。王者にとっては、南面して明るい方に向き、治めることである。『書経』に言う。「人を知れば則ちさとく、よく人をつかさどらしむ」。故に堯舜は群賢を挙げて朝廷にめいじ、四佞しねいを遠ざけて野にほうった。孔子は言う。「潤のしんじゅんのざん、膚受のふじゅのそ行われざるは、明なりとうべし」。賢と佞とを分別し、人を官するに序があり、旧章にしたがい、功勳をけい重し、適庶を殊別する。このようにすれば、火はその性を得るのである。もし道を信ずることにあつくなく、あるいは虚偽をかがやかし、讒夫ざんぷさかんになり、邪が正に勝つならば、火はその性を失う。上から降り、あるいは濫炎らんえんが妄りにこり、宗廟に災いし、宮館を焼く。たとえ師衆を興しても、救うことができない。これが火が上に炎上しないということである。

原文說曰:火,南方,揚光煇為明者也。其於王者,南面鄉明而治。《書》云:「知人則悊,能官人。」故堯舜舉群賢而命之朝,遠四佞而放諸野。孔子曰:「浸潤之譖、膚受之訴不行焉,可謂明矣。」賢佞分別,官人有序,帥由舊章,敬重功勳,殊別適庶,如此則火得其性矣。若乃信道不篤,或燿虛偽,讒夫昌,邪勝正,則火失其性矣。自上而降,及濫炎妄起,災宗廟,燒宮館,雖興師眾,弗能救也,是為火不炎上。

『春秋』桓公かんこう十四年に「八月壬申、御廩ぎょりんが災に遭った」とある。董仲舒は、これ以前に四国が共に魯をばつち、龍門で大いにこれを破ったことによるものと考えた。百姓の傷ついた者はまだ癒えず、怨み咎めはまだ回復していないのに、君臣ともに怠惰で、うちには政事を怠り、そとには四隣を侮っていた。宗廟を保守して天年を終えることができない者である。故に天が御廩に災いを与えて戒めたのである。劉向は、御廩とは、夫人や八妾が搗いた米を蔵めて宗廟に奉るものであると考えた。当時、夫人にいん行があり、さか心を抱いていた。天の戒めは、夫人は宗廟を奉るべからず、と言うようであった。桓公は悟らず、夫人とともにせいに会い、夫人が桓公を斉侯に讒言ざんげんしたため、斉侯が桓公を殺した。劉歆は、御廩とは、公が自ら耕した籍田せきでんの収穫で奉る粢盛しせいを蔵めるものであり、法度を棄て礼をぼすことのおう報であると考えた。

原文春秋桓公十四年「八月壬申,御廩災」。董仲舒以為先是四國共伐魯,大破之於龍門。百姓傷者未瘳,怨咎未復,而君臣俱惰,內怠政事,外侮四鄰,非能保守宗廟終其天年者也,故天災御廩以戒之。劉向以為御廩,夫人八妾所舂米之臧以奉宗廟者也,時夫人有淫行,挾逆心,天戒若曰,夫人不可以奉宗廟。桓不寤,與夫人俱會齊,夫人譖桓公於齊侯,齊侯殺桓公。劉歆以為御廩,公所親耕籍田以奉粢盛者也,棄法度亡禮之應也。

厳公げんこう(荘公)二十年「夏、斉に大災があった」。劉向は、斉の桓公が好色で、女の言葉を聞き入れ、妾を妻とし、適庶がたびたび変わったため、大災をしょういたと考えた。桓公は悟らず、死ぬと、適庶が争い、九月も経っても葬ることができなかった。『公羊伝くようでん』に言う、大災とは疫やまいである。董仲舒は、魯の夫人が斉で淫行を行い、斉桓公の姉妹で嫁がずにいた者が七人いたことによるものと考えた。国君は民の父母である。夫婦は生み育てる根本である。根本が傷つけば末(子孫)夭折ようせつする。故に天が災いを与えたのである。

原文嚴公二十年「夏,齊大災」。劉向以為齊桓好色,聽女口,以妾為妻,適庶數更,故致太災。桓公不寤,及死,適庶分爭,九月不得葬。公羊傳曰,大災,疫也。董仲舒以為魯夫人淫於齊,齊桓姊妹不嫁者七人。國君,民之父母;夫婦,生化之本。本傷則末夭,故天災所予也。

釐公きこう二十年「五月おのれ酉、西宮に災あり」。穀梁はこれを愍公びんこうの宮であるとし、諡で言うと疎遠になるので、西宮と呼んだ。劉向は、釐公が妾の母を夫人として立てて宗廟に入れたため、天が愍公の宮に災いを起こし、卑しい者を親しくすることを去り、宗廟の正礼を害するであろうと言わんとしたのだと考える。董仲舒は、釐公が楚から娶り、斉が媵女を送り、公を脅してその媵女を夫人に立てさせたためだと考える。西宮とは小寝であり、夫人の居所である。天が言わんとすることは、妾がどうしてこの宮にいるのか、誅して去らせるという意味である。天が災いを起こしたので、大げさに西宮と呼んだのだ。左氏は、西宮とは公の宮であると考える。西と言うからには東があると知れる。東宮は太子の居所である。宮と言っているので、区域全体が災いを受けたことを挙げている。

原文釐公二十年「五月己酉,西宮災」。穀梁以為愍公宮也,以諡言之則若疏,故謂之西宮。劉向以為釐立妾母為夫人以入宗廟,故天災愍宮,若曰,去其卑而親者,將害宗廟之正禮。董仲舒以為釐娶於楚,而齊媵之,脅公使立以為夫人。西宮者,小寢,夫人之居也。若曰,妾何為此宮!誅去之意也。以天災之,故大之曰西宮也。左氏以為西宮者,公宮也。言西,知有東。東宮,太子所居。言宮,舉區皆災也。

宣公せんこう十六年「夏、成周の宣榭せんしゃが火災に遭う」。榭とは楽器を蔵する場所であり、その名を宣べるものである。董仲舒と劉向は、十五年に王札子おうさつし召伯しょうはく毛伯もうはくを殺したのに、天子が誅することができなかったためだと考える。天の戒めは、行政命令を行うことができないなら、どうして礼楽を行いそれを蔵するのか、と言わんとしている。左氏の経文には「

原文宣公十六年「夏,成周宣榭火」。榭者,所以臧樂器,宣其名也。董仲舒、劉向以為十五年王札子殺召伯、毛伯,天子不能誅。天戒若曰,不能行政令,何以禮樂為而臧之?左氏經曰:「

成周の宣榭の火災は、人火である。人火を火と言い、天火を災と言う」とある。榭とは、武を講じる座おくである。

原文成周宣榭火,人火也。人火曰火,天火曰災。」榭者,講武之坐屋。

成公三年「二月甲子、新宮に災あり」。穀梁はこれを宣公の宮であるとし、諡を言わないのはつつしみのためだとする。劉向は、当時魯の三桓さんかんの子孫が初めて国政を執り、宣公が彼らを誅しようとしたが恐れてできず、大夫の公孫帰父を晋に遣わして謀った。帰らぬうちに宣公は死んだ。三家さんけ(三桓)が成公に帰父を讒言した。成公は父のうしながまだ葬られていないのに、讒言を聞き入れて父の臣を追放し、斉に奔らせた。それゆえ天が宣公の宮に災いを起こし、父の命令を用いないことの象を示したのだ。一説には、三家は親しいが礼を失っており、それは宣公があかしせきを殺して立ったのと同じである。礼を失って親しむことに対し、天が宣公の廟に災いを起こしたのは、三家を去らせようと示したのだ。董仲舒は、成公が喪にありながら哀せきの心がなく、しばしば兵を興して戦伐を行ったため、天がその父の廟に災いを起こし、子の道を失い、宗廟を奉じることができないことを示したのだとする。一説には、宣公が君を殺して立ったので、群祖の中に列すべきではないのだ。

原文成公三年「二月甲子,新宮災」。穀梁以為宣宮,不言諡,恭也。劉向以為時魯三桓子孫始執國政,宣公欲誅之,恐不能,使大夫公孫歸父如晉謀。未反,宣公死。三家譖歸父於成公。成公父喪未葬,聽讒而逐其父之臣,使奔齊,故天災宣宮,明不用父命之象也。一曰,三家親而亡禮,猶宣公殺子赤而立。亡禮而親,天災宣廟,欲示去三家也。董仲舒以為成居喪亡哀戚心,數興兵戰伐,故天災其父廟,示失子道,不能奉宗廟也。一曰,宣殺君而立,不當列於群祖也。

襄公じょうこう九年「春、そうに災あり」。劉向は、これより先に宋公が讒言を聞き入れ、その大夫の華弱かじゃくを追放して魯に出奔させたためだと考える。左氏伝によれば、宋の災害の時、楽喜が司じょうとなり、まず火の未だ至らぬところで小屋を取りやぶし、大屋に泥をどろり、もっこくるまならべ、綆(つるべの縄)かめを備え、水器を準備し、水溜りに水を貯め、土を積んで塗り、守備を整え、火の道筋を示し、正徒(役人)を準備した。郊外の保(村落)の民をして火事の現場に駆けつけさせた。また多くの官に命じて、それぞれその職務を慎重に行わせた。晋侯しんこうがこれを聞き、士弱に問うて言った。「宋の災害によって、天道があることを知ったというが、何故か?」士弱は答えて言った。「古の火正は、ある者は心(星)を食し、ある者は咮(星)を食し、それによって火の出入りを知った。それ故に咮を鶉火とし、心を大火とする。陶唐氏の火正である閼伯あつはくしょう丘に住み、大火をり、火によって時を定めた。相土がこれを継承したので、商は大火をつかさどる。商人はその禍敗の兆しが必ず火から始まるのを見て、それゆえ天道があることを知るのである。」公が言った。「必ずそう言えるのか?」答えて言った。「道によるものです。国が乱れて亡ぶ象があれば、知ることはできません。」解説に言う。古の火正とは、火官のことで、火星の祭祀を掌り、火政を行う。季春のこうくら、心星が東方に出て、咮・七星・鳥首が正に南方にある時、火を用いる。季秋、星が入ると、火を止める。天時に順い、民のはや苦を救うためである。帝嚳の時には祝融がおり、堯の時には閼伯がいた。民はその徳にらいり、死ぬと火の祖とし、火星に配して祭った。それ故に「ある者は心を食し、ある者は咮を食す」と言うのである。相土は、商の祖である契の曾孫で、閼伯の後を代わって火星を主った。宋はその子孫である。代々その占いを司ったので、火災を事前に知ることができた。賢君は変異を見て、道を修めて凶を除くことができる。乱君には亡ぶ象があっても、天は責警告しないので、必ずしも知れるとは限らないのである。

原文襄公九年「春,宋災」。劉向以為先是宋公聽讒,逐其大夫華弱,出奔魯。左氏傳曰,宋災,樂喜為司城,先使火所未至徹小屋,塗大屋,陳畚輂,具綆缶,備水器,畜水潦,積土塗,繕守備,表火道,儲正徒。郊保之民,使奔火所。又飭眾官,各慎其職。晉侯聞之,問士弱曰:「宋災,於是乎知有天道,何故?」對曰:「古之火正,或食於心,或食於咮,以出入火。是故咮為鶉火,心為大火。陶唐氏之火正閼伯,居商丘,祀大火,而火紀時焉。相土因之,故商主大火。商人閱其禍敗之釁必始於火,是以知有天道。」公曰:「可必乎?」對曰:「在道。國亂亡象,不可知也。」說曰:古之火正,謂火官也,掌祭火星,行火政。季春昏,心星出東方,而咮、七星、鳥首正在南方,則用火;季秋,星入,則止火,以順天時,救民疾。帝嚳則有祝融,堯時有閼伯,民賴其德,死則以為火祖,配祭火星,故曰「或食於心,或食於咮也」。相土,商祖契之曾孫,代閼伯後主火星。宋,其後也。世司其占,故先知火災。賢君見變,能修道以除凶;亂君亡象,天不譴告,故不可必也。

三十年「五月甲午、宋に災あり」。董仲舒は、伯姫が宋に嫁いで五年、宋の恭公が卒し、伯姫が幽居して節を守ること三十余年、さらに国家の患禍を憂い傷み、陰が積もって陽を生じたので、火が生じて災いとなったと考えた。劉向は、これに先立って宋公が讒言を聞き入れ太子のを殺したこと、火が炎上しないというばつに応じたのだと考えた。

原文三十年「五月甲午,宋災」。董仲舒以為伯姬如宋五年,宋恭公卒,伯姬幽居守節三十餘年,又憂傷國家之患禍,積陰生陽,故火生災也。劉向以為先是宋公聽讒而殺太子痤,應火不炎上之罰也。

左氏伝 昭公しょうこう六年「六月丙戌、ていに災あり」。この春三月、鄭人がけい書を鋳造した。士文伯しぶんぱくが言った。「火星が現れる。鄭は火事になるだろうか?火(火星)がまだ出ないうちに火を用いて刑器を鋳造し、争いの法を蔵している。火(火星)がこれを象徴している。火事にならないでどうしようか?」説に曰く、火星は周暦の五月に現れるが、鄭は三月に火を用いてていを鋳造し、刑罰のじょう文を刻んで民の契約とし、これが刑器であり争いの法である。ゆえに火星が現れ、五行の火と明るさを争って災いとなる。その象徴はそうであり、また法律を棄てるという占いでもある。経文に書かれていないのは、当時魯に報告しなかったからである。

原文左氏傳昭公六年「六月丙戌,鄭災」。是春三月,鄭人鑄刑書。士文伯曰:「火見,鄭其火乎?火未出而作火以鑄刑器,臧爭辟焉。火而象之,不火何為?」說曰:火星出於周五月,而鄭以三月作火鑄鼎,刻刑辟書,以為民約,是為刑器爭辟。故火星出,與五行之火爭明為災,其象然也,又棄法律之占也。不書於經,時不告魯也。

九年「夏四月、陳に火あり」。董仲舒は、陳の夏徴舒かちょうじょが君を殺し、楚の厳王げんおうが陳のために賊を討つと称し、陳国が門を開いてこれを待ったが、ついに陳を滅ぼしたことによる。陳の臣子の怨み憎しみは特にはなはだしく、陰が極まって陽を生じたので、火災を招いたと考えた。劉向は、これに先立って陳侯の弟の招が陳の太子の偃師を殺したこと、これらはすべて外部の事柄であり、その宮殿館舎によるものではないので、略記したのだと考えた。八年十月壬午、楚軍が陳を滅ぼした。春秋は蛮夷による中国の滅亡を認めないので、あらためて陳の火事を書いたのである。左氏の経文に「陳に災あり」とある。伝に「鄭の裨竈が言った。『五年後、陳は再びほうぜられ、封ぜられて五十二年でついに滅びる。』子産しさんがそのおさ由を尋ねると、答えて言った。『陳は水の属である。火は水の(配偶)であり、楚が相(助ける)ところである。今、火(火星)が出て陳に火事が起きたのは、楚を追い出して陳を建てるためである。妃は五をもって成る。ゆえに五年と言う。歳星が五度鶉火に至り、その後陳はついに滅び、楚がこれを有することになる。天の道である。』」説に曰く、顓頊は水をもって王となった。陳はその族である。今年の歳星は星紀にある。後五年は大梁にある。大梁はぼうである。金は水の宗(根本)である。その宗を得れば昌える。ゆえに「五年後陳は再び封ぜられる」という。楚の先祖は火正であった。ゆえに「楚が相(助ける)ところ」という。天は一をもって水を生じ、地は二をもって火を生じ、天は三をもって木を生じ、地は四をもって金を生じ、天は五をもって土を生じる。五つの位はすべて五をもって合し、陰陽が位を易える。ゆえに「妃は五をもって成る」という。そうすると水の大数は六、火は七、木は八、金は九、土は十である。ゆえに水は天一を以て火二の牡とし、木は天三を以て土十の牡とし、土は天五を以て水六の牡とし、火は天七を以て金四の牡とし、金は天九を以て木八の牡とする。陽の奇数は牡、陰の偶数は妃である。ゆえに「水は火の牡である。火は水の妃である」という。易において、かんは水であり中男、離は火であり中女、おそらくこれを取ったのであろう。大梁から四歳で鶉火に至り、四週して四十八歳、合わせて五度鶉火に至り、五十二年で陳はついに滅びる。火が盛んで水が衰える。ゆえに「天の道」というのである。哀公あいこう十七年七月己卯、楚が陳を滅ぼした。

原文九年「夏四月,陳火」。董仲舒以為陳夏徵舒殺君,楚嚴王託欲為陳討賊,陳國闢門而待之,至因滅陳。陳臣子尤毒恨甚,極陰生陽,故致火災。劉向以為先是陳侯弟招殺陳太子偃師,皆外事,不因其宮館者,略之也。八年十月壬午,楚師滅陳,春秋不與蠻夷滅中國,故復書陳火也。左氏經曰「陳災」。傳曰「鄭屓灶曰:『五年,陳將復封,封五十二年而遂亡。』子產問其故,對曰:『陳,水屬也。火,水妃也,而楚所相也。今火出而火陳,逐楚而建陳也。妃以五陳,故曰五年。歲五及鶉火,而後陳卒亡,楚克有之,天之道也。』」說曰:顓頊以水王,陳其族也。今茲歲在星紀,後五年在大梁。大梁,昴也。金為水宗,得其宗而昌,故曰「五年陳將復封」。楚之先為火正,故曰「楚所相也」。天以一生水,地以二生火,天以三生木,地以四生金,天以五生土。五位皆以五而合,而陰陽易位,故曰「妃以五成」。然則水之大數六,火七,木八,金九,土十。故水以天一為火二牡,木以天三為土十牡,土以天五為水六牡,火以天七為金四牡,金以天九為木八牡。陽奇為牡,陰耦為妃。故曰「水,火之牡也;火,水妃也」。於易,坎為水,為中男,離為火,為中女,蓋取諸此也。自大梁四歲而及鶉火,四周四十八歲,凡五及鶉火,五十二年而陳卒亡。火盛水衰,故曰「天之道也」。哀公十七年七月己卯,楚滅陳。

昭公十八年「五月壬午、宋・えい・陳・鄭に災あり」。董仲舒は、王室が乱れようとしている象徴で、天下が救おうとしないので、四カ国に災いがあり、四方が滅びることを言ったのだと考えた。また宋・衛・陳・鄭の君主はみな享楽にふけり、国政を顧みず、周王室と同じ行いをした。陽が節度を失えば火災が起こる。ゆえに同日に災いがあったのだ。劉向は、宋と陳は王者の後裔、衛と鄭は周の同姓であると考えた。当時、周の景王は老いており、劉子りゅうし単子たんしは王子の猛に仕え、尹氏いんし・召伯・毛伯は王子の晁に仕えていた。子の晁は楚の出である。そして宋・衛・陳・鄭もまた外では楚に附き、周王室を尊ぶ心を失っていた。三年後、景王が崩じ、王室が乱れた。ゆえに天は四カ国に災いを下した。天の戒めは言うようである、周を救わず、かえって楚に従い、世子せいしを廃し、正しくない者を立てて王室を害する、その罪は同じであると明らかにする、と。

原文昭十八年「五月壬午,宋、衛、陳、鄭災」。董仲舒以為象王室將亂,天下莫救,故災四國,言亡四方也。又宋、衛、陳、鄭之君皆荒淫於樂,不恤國政,與周室同行。陽失節則火災出,是以同日災也。劉向以為宋、陳,王者之後,衛、鄭,周同姓也。時周景王老,劉子、單子事王子猛,尹氏、召伯、毛伯事王子晁。子晁,楚之出也。及宋、衛、陳、鄭亦皆外附於楚,亡尊周室之心。後三年,景王崩,王室亂,故天災四國。天戒若曰,不救周,反從楚,廢世子,立不正,以害王室,明同罪也。

定公ていこう二年「五月、雉門と両観りょうかんが災害に遭った」。董仲舒と劉向は、これらはすべて奢せんえつせんえつあやま度であったためだと考える。この前に、季氏きしが昭公を追放し、昭公は国外で死んだ。定公がすなわ位した後、季氏を誅殺することもできず、またその邪説を用い、女楽じょがくにふけり、孔子を退しりぞけた。天の戒めは言うようである、高く顕著で奢侈・僭越な者を去れと。一説には、門と闕は、号令が出される所であるが、今、大聖人を捨てて有罪の者を放縦するので、号令を出す根拠が失われたのである。京房の易伝えきでんに言う:「君が道を思わないと、そのようは宮殿を焼く」。

原文定公二年「五月,雉門及兩觀災」。董仲舒、劉向以為此皆奢僭過度者也。先是,季氏逐昭公,昭公死于外。定公即位,既不能誅季氏,又用其邪說,淫於女樂,而退孔子。天戒若曰,去高顯而奢僭者。一曰,門闕,號令所由出也,今舍大聖而縱有罪,亡以出號令矣。京房易傳曰:「君不思道,厥妖火燒宮。」

哀公三年「五月辛卯、桓公廟と釐公廟が災害に遭った」。董仲舒と劉向は、この二つの廟は立てるべきでなく、礼に違はいしたものだと考える。哀公もまた季氏のため孔子を用いなかった。孔子は陳にいて魯の災害を聞き、言った:「それは桓公・釐公の廟であろうか!」と。桓公は季氏の出た祖であり、釐公は季氏を世襲の卿とした者であると考えたのである。

原文哀公三年「五月辛卯,桓、釐宮災」。董仲舒、劉向以為此二宮不當立,違禮者也。哀公又以季氏之故不用孔子。孔子在陳聞魯災,曰:「其桓、釐之宮乎!」以為桓,季氏之所出,釐,使季氏世卿者也。

四年「六月辛丑、はくやしろはくしゃが災害に遭った」。董仲舒と劉向は、亡国の社は、戒めとするためのものであると考える。天の戒めは言うようである、国が危うく滅亡しようとしているのに、戒めを用いないと。春秋時代の火災は、定公・哀公のへだで頻し、聖人を用いず驕慢な臣を放縦したので、国を亡ぼそうとしている、その不明は甚だしい。一説には、天が孔子を生んだのは、定公・哀公のためではなく、礼を失い不明であるため、火災がそれに応じたのであり、自然の象である。

原文四年「六月辛丑,亳社災」。董仲舒、劉向以為亡國之社,所以為戒也。天戒若曰,國將危亡,不用戒矣。春秋火災,屢於定、哀之間,不用聖人而縱驕臣,將以亡國,不明甚也。一曰,天生孔子,非為定、哀也,蓋失禮不明,火災應之,自然象也。

高后元年五月丙申、ちょうの叢台が災害に遭った。劉向は、この時、呂氏の娘が趙王の后となり、嫉妬深く、讒言をもって趙王を害そうとしていたと考える。趙王はそれに気づかず、ついに幽へい・殺害された。

原文高后元年五月丙申,趙叢臺災。劉向以為是時呂氏女為趙王后,嫉妒,將為讒口以害趙王。王不寤焉,卒見幽殺。

恵帝けいてい四年十月乙亥、未央宮の凌室が災害に遭った。丙子、織室が災害に遭った。劉向は、元年に呂太后りょたいこう趙王如意じょくおうにょいを殺し、その母戚夫人せきふじんを残酷に殺害したことと考える。この年の十月壬寅、太后は帝の姉魯元公主の娘を皇后に立てた。その乙亥に凌室の災害があった。翌日、織室の災害があった。凌室は飲食を供養する所であり、織室は宗廟の衣ふくを奉る所であり、春秋の御廩と同じ意義である。天の戒めは言うようである、皇后には宗廟を奉る徳がなく、祭祀をやそうとしていると。その後、皇后に子がなく、後宮の美人に男子が生まれると、太后は皇后にその子を名付けさせ、その母を殺した。恵帝が崩じ、ししが立ったが、怨言があったので、太后は彼を廃し、代わりに呂氏の子弘を少帝に立てた。大臣たちが共にしょしょりょを誅殺して文帝ぶんていを立てたおかげで、恵帝の后は幽閉・廃された。

原文惠帝四年十月乙亥,未央宮凌室災;丙子,織室災。劉向以為元年呂太后殺趙王如意,殘戮其母戚夫人。是歲十月壬寅,太后立帝姊魯元公主女為皇后。其乙亥,凌室災。明日,織室災。凌室所以供養飲食,織室所以奉宗廟衣服,與春秋御廩同義。天戒若曰,皇后亡奉宗廟之德,將絕祭祀。其後,皇后亡子,後宮美人有男,太后使皇后名之,而殺其母。惠帝崩,嗣子立,有怨言,太后廢之,更立呂氏子弘為少帝。賴大臣共誅諸呂而立文帝,惠后幽廢。

文帝の七年(紀元前173年)六月癸酉の日、未央宮の東闕とうけつにあった罘思ふしが災害に遭った。劉向は、東闕は諸侯を朝見させる門であり、罘思はその外側にあり、諸侯の象徴であると考えた。漢が興ってから、諸侯王を大いに封じ、連なる城は数十に及んだ。文帝が即位すると、かぎらは、これは古の制度に背いており、必ずやそむ逆を起こすだろうと考えた。これに先立って、済北王と淮南わいなんわいなんおうみな謀反を企て、その後、楚七国が兵を挙げて誅伐された。

原文文帝七年六月癸酉,未央宮東闕罘思災。劉向以為東闕所以朝諸侯之門也,罘思在其外,諸侯之象也。漢興,大封諸侯王,連城數十。文帝即位,賈誼等以為違古制度,必將叛逆。先是,濟北、淮南王皆謀反,其後吳楚七國舉兵而誅。

景帝の中五年(紀元前145年)八月己酉の日、未央宮の東闕が災害に遭った。これに先立って、栗太子りつたいしが廃されて臨こう王となり、罪によって中尉に召喚され、自殺した。丞相じょうしょう条侯じょうこう周亜夫しゅうあふは、上意に合わないとして病気を理由にまぬが官され、二年後に獄に下されて死んだ。

原文景帝中五年八月己酉,未央宮東闕災。先是,栗太子廢為臨江王,以罪徵詣中尉,自殺。丞相條侯周亞夫以不合旨稱疾免,後二年下獄死。

武帝の建元六年(紀元前135年)六月丁酉の日、遼東の高廟こうびょうが災害に遭った。四月壬子の日には、高園こうえん便殿べんでんが火災に見舞われた。董仲舒が答えて言った。「『春秋』の道は、過去を挙げて未きたを明らかにする。それゆえ、天下に物事があれば、『春秋』が挙げたものとたぐいどうるいのものを見て、その意図を精かすに探り、道理を貫通させて類推すれば、天地の変異も、国家の事柄も、明らかに見えて、疑う余地はない。『春秋』によれば、魯の定公・哀公の時代、季氏のあくはすでに熟しており、孔子の聖はまさに盛んであった。盛んな聖人をもって熟した悪を変えようとすれば、季孫の勢力は重く、魯君の力は軽いが、その勢いで成しすいげることができた。ゆえに定公二年五月、両観が災害に遭った。両観は礼を僭越した建造物であり、天がこれに災害を下したのは、『礼を僭越した臣下は除くことができる』と言わんがためである。すでに罪の徴候が見えた後に、除くことができると告げる、これが天意である。定公はこれを省みなかった。哀公三年五月に至り、桓宮かんきゅう釐宮りきゅうが災害に遭った。この二つは同じ事柄であり、意図するところは一つで、『貴いものを焼き払って不義を除く』と言わんがためである。哀公はこれを見ることができなかった。ゆえに四年六月、亳社が災害に遭った。両観、桓宮、釐宮の廟、亳社、この四つはすべて建つべきでないものであり、天はすべて建つべきでないものを焼き払って魯に示し、乱臣を去らせて聖人を用いようとしたのである。季氏が道に外れた行いをして久しい。これ以前に天が災害を示さなかったのは、魯に賢聖の臣がいなかったからであり、たとえ季孫を除こうとしても、その力が及ばなかったのである。昭公の時がそれである。定公・哀公の時代になって現れたのは、その時機が到来したからである。時機でなければ現れない、これが天の道である。今、高廟は遼東にあるべきではなく、高園の便殿は陵墓の傍らにあるべきでなく、礼によっても建つべきではない。魯で災害に遭ったものと同じである。それらが建つべきでないことは久しいが、陛下の時代になって天が災害を下したのは、おそらくその時機が到来したからであろう。昔、秦は滅亡した周の弊を受け継ぎながら、それを教化する術がなかった。漢は滅亡した秦の弊を受け継ぎ、またそれを教化する術がない。二つの弊を受け継いだ後、その末流を承け、猥雑さを併せ持つのは、治めるのがあら常に難しい。また、兄弟や親戚、骨肉の連なりが多く、驕慢で奢侈にふけり、勝手気ままな者が多い。いわゆる重難の時である。陛下はまさに大いなる弊の後に当たり、さらに重難の時に遭われた。非常に憂うべきことである。ゆえに天の災害は、陛下にこう語っているかのようである。『今の世は、弊が重く困難ではあるが、太平と至公をもってしなければ治めることはできない。諸侯にいて正道から最も遠く離れた親戚や貴い一族を見て、思い切って誅伐せよ。我が遼東の高廟を焼き払ったように。国中にいて傍らや近くにあり、貴いが正しくない近臣を見て、思い切って誅伐せよ。我が高園の便殿を焼き払ったように』と。外にあって正しくない者は、たとえ高廟のように貴くても、災害で焼き払われる。まして諸侯であろうか。内にあって正しくない者は、たとえ高園の便殿のように貴くても、焼き払われる。まして大臣であろうか。これが天意である。罪が外にある者は天が外に災害を下し、罪が内にある者は天が内に災害を下す。焼き払いが甚だしいのは罪が重いからであり、焼き払いが軽いのは罪が軽いからである。これが天意を受け止める道である。」

原文武帝建元六年六月丁酉,遼東高廟災。四月壬子,高園便殿火。董仲舒對曰:「春秋之道舉往以明來,是故天下有物,視春秋所舉與同比者,精微眇以存其意,通倫類以貫其理,天地之變,國家之事,粲然皆見,亡所疑矣。按春秋魯定公、哀公時,季氏之惡已孰,而孔子之聖方盛。夫以盛聖而易孰惡,季孫雖重,魯君雖輕,其勢可成也。故定公二年五月兩觀災。兩觀,僭禮之物,天災之者,若曰,僭禮之臣可以去。已見罪徵,而後告可去,此天意也。定公不知省。至哀公三年五月,桓宮、釐宮災。二者同事,所為一也,若曰燔貴而去不義云爾。哀公未能見,故四年六月亳社災。兩觀、桓、釐廟、亳社,四者皆不當立,天皆燔其不當立者以示魯,欲其去亂臣而用聖人也。季氏亡道久矣,前是天不見災者,魯未有賢聖臣,雖欲去季孫,其力不能,昭公是也。至定、哀乃見之,其時可也。不時不見,天之道也。今高廟不當居遼東,高園殿不當居陵旁,於禮亦不當立,與魯所災同。其不當立久矣,至於陛下時天乃災之者,殆亦其時可也。昔秦受亡周之敝,而亡以化之;漢受亡秦之敝,又亡以化之。夫繼二敝之後,承其下流,兼受其猥,難治甚矣。又多兄弟親戚骨肉之連,驕揚奢侈恣睢者眾,所謂重難之時者也。陛下正當大敝之後,又遭重難之時,甚可憂也。故天災若語陛下:『當今之世,雖敝而重難,非以太平至公,不能治也。視親戚貴屬在諸侯遠正最甚者,忍而誅之,如吾燔遼高廟乃可;視近臣在國中處旁仄及貴而不正者,忍而誅之,如吾燔高園殿乃可』云爾。在外而不正者,雖貴如高廟,猶災燔之,況諸侯乎!在內不正者,雖貴如高園殿,猶燔災之,況大臣乎!此天意也。罪在外者天災外,罪在內者天災內,燔甚罪當重,燔簡罪當輕,承天意之道也。」

以前、淮南王劉安りゅうあんが入朝した際、初めて皇帝の母方の叔父である太尉たいい武安侯ぶあんこう田蚡でんふんでんふんと謀反の言葉を交わした。その後、膠西于王、趙敬しゅく王、常山憲王はいずれもたびたび法をはんし、ある者は民家を滅ぼし、二千石の高官を毒殺した。そして淮南王と衡山こうざんこうざんおうはついに謀反を企てた。膠東王と江都こうと王はいずれもその謀略を知り、ひそかに武器を整備し、これに呼応しようとした。ついたちげんさく六年に至って、ようやく発覚し、罪に伏した。その時、田蚡はすでに死んでおり、誅殺に及ばなかった。皇帝は董仲舒の以前の言葉を思い出し、仲舒の弟子である呂歩舒りょほじょに斧鉞を持たせて淮南王の獄を処理させ、『春秋』の義に基づいて外部でせん断させ、上奏を請わなかった。事を奏上して戻った後、皇帝はそのすべてをこことした。

原文先是,淮南王安入朝,始與帝舅太尉武安侯田蚡有逆言。其後膠西于王、趙敬肅王、常山憲王皆數犯法,或至夷滅人家,藥殺二千石,而淮南、衡山王遂謀反。膠東、江都王皆知其謀,陰治兵弩,欲以應之。至元朔六年,乃發覺而伏辜。時田蚡已死,不及誅。上思仲舒前言,使仲舒弟子呂步舒持斧鉞治淮南獄,以春秋誼顓斷於外,不請。既還奏事,上皆是之。

太初元年十一月乙酉の日、未央宮のかしわ梁台で災害が発生した。以前、大ふうがその屋根を吹き飛ばし、夏侯始昌かこうししょうが先にその災害の日を予言していた。その後、江充こうじゅうによる巫蠱ふこの事件が起こり、衛太子えいたいしが巻き込まれた。

原文太初元年十一月乙酉,未央宮柏梁臺災。先是,大風發其屋,夏侯始昌先言其災日。後有江充巫蠱衛太子事。

征和二年の春、涿郡たくぐんの鉄官が鉄を鋳造した際、鉄が溶けてすべて飛び上がって行った。これは火の変異がこのようなことをさせたのである。その年の三月、涿郡太守の劉屈釐りゅうくつりが丞相となった。その翌月、巫蠱の事件が起こり、皇帝の娘である諸邑公主しょゆうこうしゅ陽石公主ようせきこうしゅ、丞相の公孫こうそんが、その子で太僕の敬声けいせい、平陽侯の曹宗そうそうらがみな獄に下されて死んだ。七月、使者の江充が太子の宮殿で蠱を掘り起こした。太子は母である皇后と相談し、自ら潔白を証明できないことを恐れ、江充を殺害し、兵を挙げて丞相の劉屈釐と戦った。死者は数万人に及び、太子は敗走し、で自殺した。翌年、屈釐はまたもや祝詛の罪に連座して腰斬に処せられ、妻は梟首きょうしゅにされた。成帝せいていの河平二年正月、沛郡はいぐんの鉄官が鉄を鋳造した際、鉄が流れ落ちず、ごうごうと雷のような音がし、また太鼓の音のようであった。職工十三人は驚いて逃げ出した。音が止み、戻って地面を見ると、地が数尺陥没し、炉は十に分かれ、一つの炉の中の溶けた鉄が流星のように散らばって飛び上がって行った。これは征和二年と同じ現象である。その夏、皇帝の母方の叔父五人に列侯が封じられ、五侯と呼ばれた。長兄の王鳳おうほうが大司馬大将軍となり、政権を執った。その二年後、丞相の王商おうしょうは王鳳と不和となり、王鳳は彼を讒言して免官させ、王商は自殺した。翌年、京兆尹の王章おうしょうは王商の忠直を訴え、王鳳が権力を専断していると述べた。王鳳は大逆の罪で王章を告し、獄に下して死なせ、妻子は合浦がっぽに流罪とした。その後、きょ皇后きょこうごうが巫蠱の罪に連座して廃され、趙飛えんちょうひえんが皇后となり、その妹が昭儀しょうぎとなった。彼女たちは皇子を害し、成帝はついに後継者を失った。皇后と昭儀はいずれも罪に伏した。一説には、鉄が飛ぶのは金の属性が革(変革)に従わないことによるという。

原文征和二年春,涿郡鐵官鑄鐵,鐵銷,皆飛上去,此火為變使之然也。其三月,涿郡太守劉屈釐為丞相。後月,巫蠱事興,帝女諸邑公主、陽石公主、丞相公孫賀、子太僕敬聲、平陽侯曹宗等皆下獄死。七月,使者江充掘蠱太子宮,太子與母皇后議,恐不能自明,乃殺充,舉兵與丞相劉屈釐戰,死者數萬人,太子敗走,至湖自殺。明年,屈釐復坐祝验要斬,妻梟首也。成帝河平二年正月,沛郡鐵官鑄鐵,鐵不下,隆隆如雷聲,又如鼓音,工十三人驚走。音止,還視地,地陷數尺,鑪分為十,一鑪中銷鐵散如流星,皆上去,與征和二年同象。其夏,帝舅五人封列侯,號五侯。元舅王鳳為大司馬大將軍秉政。後二年,丞相王商與鳳有隙,鳳譖之,免官,自殺。明年,京兆尹王章訟商忠直,言鳳顓權,鳳誣章以大逆罪,下獄死,妻子徙合浦。後許皇后坐巫蠱廢,而趙飛燕為皇后,妹為昭儀,賊害皇子,成帝遂亡嗣。皇后,昭儀皆伏辜。一曰,鐵飛屬金不從革。

昭帝しょうてい元鳳げんぽう元年、燕城えんじょうの南門で災害が発生した。劉向は、当時、燕王えんおうが邪悪な臣下を漢に通わせ、讒言と害悪を行い、謀反と乱を企てていたためだと考える。南門は、漢への通路である。天の戒めは、邪悪な臣下が往来し、漢に対して奸計と讒言を行い、滅亡の道を断つものである、と言っているようだ。燕王は悟らず、ついにその罪に伏した。

原文昭帝元鳳元年,燕城南門災。劉向以為時燕王使邪臣通於漢,為讒賊,謀逆亂。南門者,通漢道也。天戒若曰,邪臣往來,為姦讒於漢,絕亡之道也。燕王不寤,卒伏其辜。

元鳳四年五月丁丑の日、孝文廟こうぶんびょうの正殿で災害が発生した。劉向は、孝文帝は太宗の君主であり、成周の宣榭の火災と同じ意味合いがあると考える。以前、皇后の父である車騎将軍の上官安じょうかんあん、および安の父である左将軍の上官桀じょうかんけつが謀反を企て、大将軍の霍光かくこうがこれを誅殺した。皇后は霍光の外孫であり、幼くて知らず、その地位に留まった。霍光は皇后に子が生まれることを望み、皇帝の看病をする医者の言葉を借りて、後宮の他の者をすべて近づけさせず、皇后だけが専ら寝所に侍るようにした。皇后は六歳で立てられ、十三年で昭帝が崩御し、ついに後継者が絶えた。霍光が朝政を執ることは、周公しゅうこうが摂政したのと同じである。この年の正月、皇帝は元服し、『詩経』と『尚書』に通じ、そう明な性質を持っていた。霍光には周公の徳がなく、政権を執ること九年、周公よりも長く、皇帝がすでに成人したにもかかわらず政権を返さず、国の害となろうとしていた。それゆえ、正月に元服し、五月に災害が現れたのである。古代の宗廟はすべて城内にあったが、孝文廟は初めて城外に置かれた。天の戒めは、尊貴でありながら正しくない者を去らせよ、と言っているようだ。宣帝が即位した後も、霍光はなお摂政のままで、驕り高ぶって制度を超え、ついには妻の顕が許皇后を殺害したが、霍光は聞きながらも討伐せず、後に誅滅された。

原文元鳳四年五月丁丑,孝文廟正殿災。劉向以為孝文,太宗之君,與成周宣榭火同義。先是,皇后父車騎將軍上官安、安父左將軍桀謀為逆,大將軍霍光誅之。皇后以光外孫,年少不知,居位如故。光欲后有子,因上侍疾醫言,禁內後宮皆不得進,唯皇后顓寢。皇后年六歲而立,十三年而昭帝崩,遂絕繼嗣。光執朝政,猶周公之攝也。是歲正月,上加元服,通詩、尚書,有明悊之性。光亡周公之德,秉政九年,久於周公,上既已冠而不歸政,將為國害。故正月加元服,五月而災見。古之廟皆在城中,孝文廟始出居外,天戒若曰,去貴而不正者。宣帝既立,光猶攝政,驕溢過制,至妻顯殺許皇后,光聞而不討,後遂誅滅。

宣帝の甘露元年四月丙申の日、中山の太上皇廟が災害に遭った。甲しんの日、孝文廟が災害に遭った。元帝の初元三年四月乙未の日、孝武こうぶ園の白鶴館が災害に遭った。劉向は、これより先に前将軍のしょう望之しょうぼうしと光禄大夫の周堪しゅうかんが政務を補していたが、佞臣ねいしん石顕せきけん許章きょしょうらに讒言され、望之は自殺し、周堪は廃位・左遷されたためであると考えた。翌年、白鶴館が災害に遭った。園中五里の馳逐走馬の館は、山陵の昭穆の地にあるべきではなかった。天の戒めは言うようである、貴近で逸遊不正の臣を去らねば、忠良を害することになろう、と。後に許章は上林えんじょうりんえん烽火のろしの下を走馬して馳逐した罪に坐し、官を免ぜられた。

原文宣帝甘露元年四月丙申,中山太上皇廟災。甲辰,孝文廟災。元帝初元三年四月乙未,孝武園白鶴館災。劉向以為先是前將軍蕭望之、光祿大夫周堪輔政,為佞臣石顯、許章等所譖,望之自殺,堪廢黜。明年,白鶴館災。園中五里馳逐走馬之館,不當在山陵昭穆之地。天戒若曰,去貴近逸遊不正之臣,將害忠良。後章坐走馬上林下烽馳逐,免官。

永光四年六月甲戌の日、孝宣帝の杜陵園の東闕の南方が災害に遭った。劉向は、これより先に帝が再び周堪を徴用して光禄勲とし、および周堪の弟子のちょうちょうもうを太中大夫としたが、石顕らが再び讒言してやぶったため、皆外任に遷されたためであると考えた。この年、帝は再び周堪を徴して尚書を領させ、張猛を給事中としたが、石顕らは終に彼らを害しようとした。園陵は朝廷より小さく、闕は司馬門の中にあり、内臣たる石顕の象徴である。孝宣帝は親しくかつ貴い存在であり、闕は法令の出づる所である。天の戒めは言うようである、法令を去り、内臣で親しく貴い者は必ず国を害するであろう、と。後に周堪は進見する機会を得ることが稀となり、石顕を通じて事を言上し、事の決断は石顕の口から出た。周堪は病んで言葉を発することができなかった。石顕は張猛を誣告し、猛は公車で自殺した。成帝が即位すると、石顕はついに罪に伏した。

原文永光四年六月甲戌,孝宣杜陵園東闕南方災。劉向以為先是上復徵用周堪為光祿勳,及堪弟子張猛為太中大夫,石顯等復譖毀之,皆出外遷。是歲,上復徵堪領尚書,猛給事中,石顯等終欲害之。園陵小於朝廷,闕在司馬門中,內臣石顯之象也。孝宣,親而貴;闕,法令所從出也。天戒若曰,去法令,內臣親而貴者必為國害。後堪希得進見,因顯言事,事決顯口。堪病不能言。顯誣告張猛,自殺於公車。成帝即位,顯卒伏辜。

成帝の建始けんし元年正月乙丑の日、皇考廟が災害に遭った。初め、宣帝は昭帝の後を継いで父の廟を立てたが、礼に正しくなかった。この時、大将軍の王鳳が権力を専らにし朝政を擅にし、田蚡よりも甚だしく、国家を害しようとしていた。故に天は元年正月に象を現したのである。その後その勢いは次第に盛んとなり、五将が代々権力を握り、遂に無道に至った。

原文成帝建始元年正月乙丑,皇考廟災。初,宣帝為昭帝後而立父廟,於禮不正。是時大將軍王鳳顓權擅朝,甚於田蚡,將害國家,故天於元年正月而見象也。其後寖盛,五將世權,遂以亡道。

鴻嘉こうか三年八月乙卯の日、孝景廟の北闕が災害に遭った。十一月甲寅の日、許皇后が廃された。

原文鴻嘉三年八月乙卯,孝景廟北闕災。十一月甲寅,許皇后廢。

永始えいし元年正月癸丑の日、大官の凌室が災害に遭った。午の日、戾后園の南闕が災害に遭った。この時、趙飛燕が大いに寵愛され、許后が既に廃された後、帝が彼女を立てようとしていた。故に天は凌室に象を現し、これは恵帝四年の災害と同じ応報である。戾后は衛太子の妾であり、巫蠱の禍に遭い、宣帝が即位した後、追って尊号を加えたが、礼に正しくなかった。また戾后は微賤より起り、趙氏と同じである。天の戒めは言うようである、微賤で徳なき人は宗廟を奉ずるにらず、祭祀を絶ち、凶悪の禍が至るであろう、と。その六月丙寅の日、趙皇后ちょうこうごうは遂に立てられ、その姉妹は驕り妬み、皇子を賊害し、結局皆誅罰を受けた。

原文永始元年正月癸丑,大官凌室災。戊午,戾后園南闕災。是時,趙飛燕大幸,許后既廢,上將立之,故天見象於凌室,與惠帝四年同應。戾后,衛太子妾,遭巫蠱之禍,宣帝既立,追加尊號,於禮不正。又戾后起於微賤,與趙氏同。天戒若曰,微賤亡德之人不可以奉宗廟,將絕祭祀,有凶惡之禍至。其六月丙寅,趙皇后遂立,姊妺驕妒,賊害皇子,卒皆受誅。

永始四年(紀元前13年)四月癸未の日、長楽宮の臨華殿および未央宮の東司馬門が災害に遭った。六月甲午の日、孝文帝の霸陵園の東闕の南方が災害に遭った。長楽宮は、成帝の母である王太后の住まいであった。未央宮は、皇帝の住まいであった。霸陵は、太宗(文帝)の盛徳をたたえる陵園である。この時、太后の三人の弟が相次いで政権を握り、一族が官位に就いて朝廷を満たし、両宮(長楽宮と未央宮)の親属が国家を害そうとしていたので、天の象徴が繰り返し現れたのである。翌年、成都侯の王商が薨去こうきょし、弟の曲陽侯の王根が代わって大司馬となり政権を握った。その四年後、王根は老齢を理由に引退を願い出て、兄の子である新都侯の王莽を自らの後任として推薦し、ついに国を覆すこととなった。

原文永始四年四月癸未,長樂宮臨華殿及未央宮東司馬門災。六月甲午,孝文霸陵園東闕南方災。長樂宮,成帝母王太后之所居也。未央宮,帝所居也。霸陵,太宗盛德園也。是時,太后三弟相續秉政,舉宗居位,充塞朝廷,兩宮親屬將害國家,故天象仍見。明年,成都侯商薨,弟曲陽侯根代為大司馬秉政。後四年,根乞骸骨,薦兄子新都侯莽自代,遂覆國焉。

哀帝あいていの建平三年(紀元前4年)正月癸卯の日、桂宮の鴻寧殿が災害に遭った。これは、皇帝の祖母である傅太后の住まいであった。当時、傅太后は成帝の母(王太后)と同等の称号と尊位を得ようとしたが、大臣の孔光こうこう師丹したんらが政権を握り、それはできないことだとして、太后(の親族)は皆、官爵を免ぜられた。その後、太后は尊号を称した。その三年後、哀帝が崩御し、傅氏ふしは誅滅された。

原文哀帝建平三年正月癸卯,桂宮鴻寧殿災,帝祖母傅太后之所居也。時,傅太后欲與成帝母等號齊尊,大臣孔光、師丹等執政,以為不可,太后皆免官爵,遂稱尊號。後三年,帝崩,傅氏誅滅。

平帝の元始五年(紀元5年)七月己亥の日、高皇帝(劉邦)ゆる廟の殿門がことごとく災害に遭った。高皇帝の廟は長安城中にあったが、後に叔孫通しゅくそんとうが復道(空中回廊)を非難したため、渭水の北に原廟を再建したが、これは正規のものではなかった。この時、平帝は幼く、成帝の母である王太后が臨朝して政務を見、王莽に権限を委任していた。王莽は漢王朝を簒奪さんだつして断絶させようとし、高祖こうその宗廟を廃そうとしていたので、天の象徴が現れたのである。その冬、平帝は崩御した。翌年、王莽は摂政の地位に就き、それによって国を簒奪し、後に結局滅ぼされた。

原文平帝元始五年七月己亥,高皇帝原廟殿門災盡。高皇帝廟在長安城中,後以叔孫通譏復道,故復起原廟於渭北,非正也。是時平帝幼,成帝母王太后臨朝,委任王莽,將篡絕漢,墮高祖宗廟,故天象見也。其冬,平帝崩。明年,莽居攝,因以篡國,後卒夷滅。

(五行伝)に言う。「宮室を造営し、台や榭を飾り立て、内(宮中)で淫乱にふけり、親戚を犯し、父や兄を侮るならば、農作物は実らない」。

原文傳曰:「治宮室,飾臺榭,內淫亂,犯親戚,侮父兄,則稼穡不成。」

解説に言う。土は中央に位置し、万物を生み出すものである。それは王者にとっては、内事ないじ(宮中の事柄)にあたる。宮室、夫婦、親属もまた、互いに生み出す関係にある。古くは天子や諸侯において、宮殿や宗廟の大小や高さ低さには制があり、后や夫人、媵妾の数や昇進・降格には限度があり、九族の親疎や長幼には順序があった。孔子は言われた。「礼は、贅沢にするよりは、むしろ倹約である方がよい」。それゆえ、禹は宮室を質素にし、文王は正妻を手本とした。これが聖人が教化を明らかにする所以である。このようにすれば、土はその本性を得る。もしも贅沢で淫らで驕り高ぶるならば、土はその本性を失う。水害やかん害がなくても草木や百穀ひゃっこくが実らないのは、これが「稼穡不成」である。

原文說曰:土,中央,生萬物者也。其於王者,為內事。宮室、夫婦、親屬,亦相生者也。古者天子諸侯,宮廟大小高卑有制,后夫人媵妾多少進退有度,九族親疏長幼有序。孔子曰:「禮,與其奢也,寧儉。」故禹卑宮室,文王刑于寡妻,此聖人之所以昭教化也。如此則土得其性矣。若乃奢淫驕慢,則土失其性。亡水旱之災而草木百穀不孰,是為稼穡不成。

荘公二十八年「冬、大水が起こり麦とを失った」。董仲舒は、夫人の哀姜あいきょうが淫乱であったため、陰気に逆らったので、大水が起こったと考えた。劉向は、水害と旱害は記録すべきであり、水害と旱害を記さずに「

原文嚴公二十八年「冬,大水亡麥禾」。董仲舒以為夫人哀姜淫亂,逆陰氣,故大水也。劉向以為水旱當書,不書水旱而曰「

「大亡麥禾」とは、土の気が養われず、穀物が実らないことをいう。この時、夫人が二人の叔父と淫らな関係を持ち、内と外の区別がなくなり、また凶作と飢饉に遭いながら、一年のうちに三度も台を築いた。それゆえ、これに応じて穀物が実らず、台や榭を飾り立て、内に淫乱な行いがあったことへの罰であるという。ついに悔い改めず、四年で死に、禍は二世にまで及び、これは奢侈と淫乱の災いである。

原文大亡麥禾」者,土氣不養,稼穡不成者也。是時,夫人淫於二叔,內外亡別,又因凶飢,一年而三築臺,故應是而稼穡不成,飾臺榭內淫亂之罰云。遂不改寤,四年而死,禍流二世,奢淫之患也。

伝に曰く、「戦いを好み攻撃し、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵せば、則ち金は革に従わず」と。

原文傳曰:「好戰攻,輕百姓,飾城郭,侵邊境,則金不從革。」

(五行の)説によれば、金は西方に配当され、万物が成熟した後に殺気が始まる時である。ゆえに立秋には鷹やはやぶさが獲物を襲い、秋分にはわずかな霜が降りる。これは王事にたとえれば、軍を出し師をどうかし、しるし旄を握り鉞を杖とし、士卒に誓いを立て、威武を奮い起こして、叛逆を征伐しぼう乱を鎮めることである。《詩経》に「虔かに鉞を秉り、火の如く烈烈たり」とあり、また「載せて干戈を戢え、載せて弓矢をふくろにす」とある。動と静が義に応じ、「説びて難を犯し、民その死を忘る」のであり、金がその本性を得ているのである。もしどん欲で勝手気ままに振る舞い、ひたすら威勢を立てて勝とうとし、民の命を重んじないならば、金はその本性を失う。工匠が金鉄を鋳造する際、金鉄が冷え固まって流れず、うまく形にならないことが多く、また変怪が起こるのは、これが金が革(変革)に従わない状態である。

原文說曰:金,西方,萬物既成,殺氣之始也。故立秋而鷹隼擊,秋分而微霜降。其於王事,出軍行師,把旄杖鉞,誓士眾,抗威武,所以征畔逆止暴亂也。《詩》云:「有虔秉鉞,如火烈烈。」又曰:「載戢干戈,載櫜弓矢。」動靜應誼,「說以犯難,民忘其死。」金得其性矣。若乃貪欲恣睢,務立威勝,不重民命,則金失其性。蓋工冶鑄金鐵,金鐵冰滯涸堅,不成者眾,及為變怪,是為金不從革。

『左氏伝』に曰く、昭公八年「春、石が晋に言う」。晋の平公へいこう師曠しこうに問うと、答えて言った;「石は物言えぬものですが、神霊が時に憑依することがあります。事ぎょうを時節に合わずに行い、民衆の間に怨嗟の声がき起こると、言葉を発しないはずの物が言葉を発することがあります。今、宮殿が高く贅沢に造られ、民力が疲弊し尽くし、怨嗟の声が共に起こり、その本性を保てなくなっているのですから、石が物言うのも当然ではないでしょうか!」この時、晋侯はちょうどしきの宮を築いていた。叔向しゅくきょうは言った:「君子の言葉は、信頼できて証拠があるものだ。」劉歆は、金石は同類であると考え、これは金が従革せず、その本性を失ったものだと見なした。劉向は、石は白色であり、主を象徴し、しょうはくしょうに属すると考えた。

原文左氏傳曰昭公八年「春,石言於晉」。晉平公問於師曠,對曰;「石不能言,神或馮焉。作事不時,怨讟動於民,則有非言之物而言。今宮室崇侈,民力彫盡,怨讟並興,莫信其性,石之言不宜乎!」於是晉侯方築虒祁之宮。叔向曰:「君子之言,信而有徵。」劉歆以為金石同類,是為金不從革,失其性也。劉向以為石白色為主,屬白祥。

成帝の鴻嘉三年(前18年)五月乙亥の日、天水郡冀県の南山の大石が鳴り響き、その声は雷のように轟々とし、しばらくして止んだ。平襄県から二百四十里の範囲に聞こえ、野にわとりも皆鳴いた。石の長さは一丈三尺、幅と厚さはほぼ同じで、岸の脇に寄りかかっており、地面から二百余丈の高さにあった。民間ではこれを石鼓と呼んでいた。石鼓が鳴ると、戦乱が起こると言われた。この年、広漢郡の鉗子(刑徒)が牢獄を襲撃しようと謀り、死刑囚の鄭躬ていきゅうらを奪い出し、武器庫の兵器を盗んで役人や民衆を略奪し、刺繍の衣を着て自らを山君と称し、仲間は次第に広がった。翌年の冬になってようやく誅殺され、自首した者は三千余人に及んだ。その四年後、尉氏県の樊並はんへいらが謀反を企て、陳留太守の厳普げんふを殺害し、自ら将軍と称した。また、山陽さんようさんようぐんの逃亡者である蘇令それいらの仲間数百人が武器庫の兵器を盗み取り、四十余りの郡国を転々としたが、いずれも一年を経て誅殺された。この時、昌陵の造営が始まり、工事に従事する者は数万人に上り、郡国から役人や民衆五千余戸を移住させて陵邑に奉仕させた。工事は五年に及んでも完成せず、ついに昌陵の造営は中止され、移住した家々は元の地に戻された。石が鳴ったことは、晋で石がものを言ったのと同じ応報であり、師曠の言う「民力が尽き果てる」、伝に云う「百姓を軽んじる」という事態である。虒祁の離宮はこう都から四十里離れており、昌陵も郊外にあったが、いずれも城郭と同じ占いの対象であった。城郭は金に属し、宮室は土に属す。これは内外の区別によるものである。

原文成帝鴻嘉三年五月乙亥,天水冀南山大石鳴,聲隆隆如雷,有頃止,聞平襄二百四十里,野雞皆鳴。石長丈三尺,廣厚略等,旁著岸脅,去地二百餘丈,民俗名曰石鼓。石鼓鳴,有兵。是歲,廣漢鉗子謀攻牢,篡死罪囚鄭躬等,盜庫兵,劫略吏民,衣繡衣,自號曰山君,黨與娅廣。明年冬,乃伏誅,自歸者三千餘人。後四年,尉氏樊並等謀反,殺陳留太守嚴普,自稱將軍,山陽亡徒蘇令等黨與數百人盜取庫兵,經歷郡國四十餘,皆踰年乃伏誅。是時起昌陵,作者數萬人,徙郡國吏民五千餘戶以奉陵邑。作治五年不成,乃罷昌陵,還徙家。石鳴,與晉石言同應,師曠所謂「民力彫盡」,傳云「輕百姓」者也。虒祁離宮去絳都四十里,昌陵亦在郊野,皆與城郭同占。城郭屬金,宮室屬土,外內之別云。

伝に曰く、「宗廟を簡略にし、祠を祷らず、祭祀を廃し、天時に逆らえば、水は潤下せず」と。

原文傳曰:「簡宗廟,不禱祠,廢祭祀,逆天時,則水不潤下。」

説に曰く、水は北方に属し、万物を終わらせ蔵するものである。人道においては、命が終わり形が蔵せられると、精神は放たれ散逸する。聖人はこれに対して宗廟を設けて魂気を収め、春秋に祭祀を行い、孝道を全うするのである。王者が即位すれば、必ず天地を郊祀し、神祇に祈り、山川に望祭して序列を定め、百神を懐柔し、宗事しないものはない。斎戒を慎み、厳粛な敬意を尽くせば、鬼神はきょうを受け、多くの福助を得る。これが聖王が陰気に順って事を行い、神と人を和合させる所以である。号令を発するに至っても、また天時に奉じる。十二月がそれぞれの気を得れば、陰陽は調和し終始が成る。このようであれば水はその本性を得る。もし鬼神を敬わず、時を逆らうことを命じれば、水はその本性を失う。霧や水がとつ然湧き出し、百川が逆流して溢れ、郷邑を壊し、人民を溺れさせ、あるいは長雨が農作物を傷つける。これが水が潤下しない状態である。京房の易伝に曰く、「専断して知恵を働かせ、誅罰が道理を絶つと、その災いは水である。その水は、雨が人を殺し霜が降り、大風が吹き天が黄色くなる。飢饉があっても減らさないことを泰と言い、その災いは水で、水が人を殺す。有徳者を退けることをきょうと言い、その災いは水で、水が流れて人を殺し、水が引けば地に虫が生じる。罪を帰して解かないことを追非ついひと言い、その水は寒く、人を殺す。誅罰を追って解かないことを不理と言い、その水は五穀ごこくが実らない。大敗を解かないことを皆陰と言う。解とは赦すことである。王者は大敗にあたっては、首謀者を誅し、その衆を赦す。そうしなければ皆陰気を含み、その水は国邑に流れ込み、霜が降りて穀物を殺す」。

原文說曰:水,北方,終臧萬物者也。其於人道,命終而形臧,精神放越,聖人為之宗廟以收魂氣,春秋祭祀,以終孝道。王者即位,必郊祀天地,禱祈神祇,望秩山川,懷柔百神,亡不宗事。慎其齊戒,致其嚴敬,鬼神歆饗,多獲福助。此聖王所以順事陰氣,和神人也。至發號施令,亦奉天時。十二月咸得其氣,則陰陽調而終始成。如此則水得其性矣。若乃不敬鬼神,致令逆時,則水失其性。霧水暴出,百川逆溢,壞鄉邑,溺人民,及淫雨傷稼穡,是為水不潤下。京房易傳曰:「顓事有知,誅罰絕理,厥災水,其水也,雨殺人以隕霜,大風天黃。飢而不損茲謂泰,厥災水,水殺人。辟遏有德茲謂狂,厥災水,水流殺人,已水則地生蟲。歸獄不解,茲謂追非,厥水寒,殺人。追誅不解,茲謂不理,厥水五穀不收。大敗不解,茲謂皆陰。解,舍也,王者於大敗,誅首惡,赦其眾,不則皆函陰氣,厥水流入國邑,隕霜殺穀。」

桓公元年(前711年)「秋、大水」。董仲舒と劉向は、桓公が兄の隠公いんこうを弑したため、臣民が隠公を悼み桓公を軽んじたからだと考える。後に宋のとくがその君を弑した時、諸侯が会合して討伐しようとしたが、桓公は宋からの賄賂を受け取って帰国し、さらに宋を裏切った。諸侯はこれによって魯を攻め、その後も戦いを交えてきゅう敵となり、伏屍流血し、百姓の怨みはますます深まった。それゆえ十三年の夏に再び大水が起こったのである。一説には、夫人が驕慢で淫らであり、君を弑そうとして陰気が盛んになったが、桓公は悟らず、ついに弑殺されたのだという。劉歆は、桓公が許田きょでんを交換し、周公を祀らなかったことが、祭祀を廃した罰であると考える。

原文桓公元年「秋,大水」。董仲舒、劉向以為桓弒兄隱公,民臣痛隱而賤桓。後宋督弒其君,諸侯會,將討之,桓受宋賂而歸,又背宋。諸侯由是伐魯,仍交兵結讎,伏尸流血,百姓愈怨,故十三年夏復大水。一曰,夫人驕淫,將弒君,陰氣盛,桓不寤,卒弒死。劉歆以為桓易許田,不祀周公,廢祭祀之罰也。

厳公(荘公)七年(前687年)「秋、大水、麦の苗が失われた」。董仲舒と劉向は、厳公の母である文姜ぶんきょうが兄の斉の襄公と淫通し、共に威公(桓公)を殺害した。厳公は父の仇を捨て、再び斉の女を娶ろうとしたが、未だ迎え入れる前に先に彼女と淫通し、一年のうちに二度外出し、道中で会って逆乱を働いた。これは臣下が彼を軽んじた応報である。

原文嚴公七年「秋,大水,亡麥苗」。董仲舒、劉向以為嚴母文姜與兄齊襄公淫,共殺威公,嚴釋父讎,復取齊女,未入,先與之淫,一年再出,會於道逆亂,臣下賤之之應也。

十一年「秋、宋で大水が起こった」。董仲舒は、当時魯と宋が連年にわたって乗丘・鄑の戦いを繰り返し、百姓が愁怨し、陰気が盛んになったため、二国ともに水害に見舞われたと考えた。劉向は、当時宋の愍公が驕慢で、災害を見ても改めず、翌年家臣の宋万と博戯をし、婦人を側に置き、自慢して万を罵ったため、万が公を殺す応報が起こったと考えた。

原文十一年「秋,宋大水」。董仲舒以為時魯、宋比年為乘丘、鄑之戰,百姓愁怨,陰氣盛,故二國俱水。劉向以為時宋愍公驕慢,睹災不改,明年與其臣宋萬博戲,婦人在側,矜而罵萬,萬殺公之應。

二十四年、「大水が起こった」。董仲舒は、夫人の哀姜が淫乱で婦道に従わず、陰気が盛んになったためと考えた。劉向は、哀姜が初めて入内したとき、公が大夫や宗婦に会わせるのに幣を用い、また二人の叔父と淫通したが、公はそれを禁じることができなかった。臣下が彼女を軽んじたため、この年と翌年に相次いで大水が起こったと考えた。劉歆は、これ以前に宗廟を厳かに飾り、椽を刻み柱をしゅに塗って夫人を誇示したため、宗廟を簡略にした罰であると考えた。

原文二十四年,「大水」。董仲舒以為夫人哀姜淫亂不婦,陰氣盛也。劉向以為哀姜初入,公使大夫宗婦見,用幣,又淫於二叔,公弗能禁。臣下賤之,故是歲、明年仍大水。劉歆以為先是嚴飾宗廟,刻桷丹楹,以夸夫人,簡宗廟之罰也。

宣公十年「秋、大水が起こり、飢饉となった」。董仲舒は、当時連年にわたってしゅを討伐して邑を奪い、また報復を受け、戦いの怨みが結びつき、百姓が愁怨したためと考えた。劉向は、宣公が子赤を殺して立ったが、子赤は斉の出であるため、恐れて済西の田を斉に賄賂として与えた。邾子の貜且もまた斉の出であるのに、宣公は邾としばしば交戦した。臣下は斉の威を恐れ、邾との禍を創り出し、皆公の行いを軽んじてその正しさを認めなかったためと考えた。

原文宣公十年「秋大水,飢」。董仲舒以為時比伐邾取邑,亦見報復,兵讎連結,百姓愁怨。劉向以為宣公殺子赤而立,子赤,齊出也,故懼,以濟西田賂齊。邾子貜且亦齊出也,而宣比與邾交兵。臣下懼齊之威,創邾之禍,皆賤公行而非其正也。

成公五年「秋、大水が起こった」。董仲舒と劉向は、当時成公が幼弱で、政権が大夫にあり、この前の年に二度も軍を用い、翌年またうんに城を築いて私門を強くし、仲孫蔑と叔孫僑如が専断して宋や晋と会合したため、陰が陽に勝ったと考えた。

原文成公五年「秋,大水」。董仲舒、劉向以為時成幼弱,政在大夫,前此一年再用師,明年復城鄆以彊私家,仲孫蔑、叔孫僑如顓會宋、晉,陰勝陽。

襄公二十四年「秋、大水が起こった」。董仲舒は、この一年前に斉が晋を伐ち、襄公が大夫に師を率いて晋を救援させ、その後また斉を侵したが、国は小さく兵は弱く、強大な敵にしばしば立ち向かい、百姓が愁怨し、陰気が盛んになったためと考えた。劉向は、これ以前に襄公が隣国を侮ったため、邾がその南を伐ち、斉がその北を伐ち、きょがその東を伐ち、百姓が騒動し、その後また強大な斉を犯し続けたためと考えた。大水が起こり、飢饉となり、穀物が実らず、その災害は甚だしかった。

原文襄公二十四年「秋,大水」。董仲舒以為先是一年齊伐晉,襄使大夫帥師救晉,後又侵齊,國小兵弱,數敵彊大,百姓愁怨,陰氣盛。劉向以為先是襄慢鄰國,是以邾伐其南,齊伐其北,莒伐其東,百姓騷動,後又仍犯彊齊也。大水,饑,穀不成,其災甚也。

高后(呂后)三年の夏、漢中と南郡で大洪水が起こり、水が流れ出して四千余りの家が流された。四年の秋、河南かなんで大洪水が起こり、伊水と雒水が千六百余りの家を流し、汝水が八百余りの家を流した。八年の夏、漢中と南郡で再び洪水が起こり、六千余りの家が流された。南陽の沔水が一万余りの家を流した。この時は女主(呂后)ひとりで政治を行い、諸呂が相次いで王となっていた。

原文高后三年夏,漢中、南郡大水,水出流四千餘家。四年秋,河南大水,伊、雒流千六百餘家,汝水流八百餘家。八年夏,漢中、南郡水復出,流六千餘家。南陽沔水流萬餘家。是時女主獨治,諸呂相王。

文帝の後三年の秋、大雨が降り、昼夜を問わず三十五日間絶え間なく続いた。藍田の山から水が流れ出し、九百余りの家が流された。燕では、民家八千余りが崩壊し、三百余人が殺された。これに先立ち、趙の人物である新垣平しんえんへいが望気(気を望む術)によって寵愛を受け、皇帝のために渭水の北に五帝廟を建立し、周の鼎を出現させようとし、夏の四月に郊外で上帝を祀った。一年余り後に誅殺を恐れ、謀反を企てたが、発覚し、腰斬の刑に処され、三族が滅ぼされた。この時、二度にわたって公主を単于ぜんうに嫁がせ、贈り物は非常にほうかであったが、匈奴きょうどはますます驕り高ぶり、北辺を侵犯し、殺害・略奪は一万余人に及ぶこともあり、漢は連続して軍隊を派遣して征討し、辺境を守備した。

原文文帝後三年秋,大雨,晝夜不絕三十五日。藍田山水出,流九百餘家。燕,壞民室八千餘所,殺三百餘人。先是,趙人新垣平以望氣得幸,為上立渭陽五帝廟,欲出周鼎,以夏四月,郊見上帝。歲餘懼誅,謀為逆,發覺,要斬,夷三族。是時,比再遣公主配單于,賂遺甚厚,匈奴愈驕,侵犯北邊,殺略多至萬餘人,漢連發軍征討戍邊。

元帝の永光五年の夏から秋にかけて、大洪水が起こった。潁川、汝南じょなん、淮陽、廬江で雨が降り、村落の民家を壊し、また水が流れて人を殺した。この一年前に、役人が郡国廟の廃止を上奏していた。この年にはまた、順次に廃毀することを定め、太上皇と孝恵帝の寝廟を廃止し、いずれも再び修復されることはなく、博識の儒者はこれを古制に違背すると考えた。刑余の者である石顕が権力を握っていた。

原文元帝永光五年夏及秋,大水。潁川、汝南、淮陽、廬江雨,壞鄉聚民舍,及水流殺人。先是一年有司奏罷郡國廟,是歲又定迭毀,罷太上皇、孝惠帝寢廟,皆無復修,通儒以為違古制。刑臣石顯用事。

成帝の建始三年の夏、大洪水が起こり、三輔では霖雨が三十余日続き、十九の郡国で雨が降り、山谷から水が流れ出し、合わせて四千余人が殺され、官寺と民家八万三千余りが壊れた。元年に、役人が甘泉の泰畤と河東の后土を長安の南北郊に移すことを上奏した。二年には、また雍の五畤と郡国の諸々の旧祀、合わせて六か所を廃止した。

原文成帝建始三年夏,大水,三輔霖雨三十餘日,郡國十九雨,山谷水出,凡殺四千餘人,壞官寺民舍八萬三千餘所。元年,有司奏徙甘泉泰畤、河東后土于長安南北郊。二年,又罷雍五畤、郡國諸舊祀,凡六所。

中之上

原文中之上

経書に曰く、「はじは五事を用いる。五事とは、一に貌と曰い、二に言と曰い、三にと曰い、四にちょうと曰い、五に思と曰う。貌は恭と曰い、言は従と曰い、視は明と曰い、聴は聡と曰い、思はえいと曰う。恭は肅を作し、従はがいを作し、明はてつを作し、聡は謀を作し、叡は聖を作す。休徴きゅうちょうは、肅と曰えば時に雨の若く、乂と曰えば時に陽の若く、哲と曰えば時におうの若く、謀と曰えば時に寒の若く、聖と曰えば時に風の若し。咎徴は、狂と曰えばつねに雨の若く、僭と曰えば恒に陽の若く、舒と曰えば恒に奥の若く、きゅうと曰えば恒に寒の若く、もうと曰えば恒に風の若し」。

原文經曰:「羞用五事。五事:一曰貌,二曰言,三曰視,四曰聽,五曰思。貌曰恭,言曰從,視曰明,聽曰聰,思曰睿。恭作肅,從作艾,明作悊,聰作謀,睿作聖。休徵:曰肅,時雨若;艾,時陽若;悊,時奧若;謀,時寒若;聖,時風若。咎徵:曰狂,恆雨若;僭,恆陽若;舒,恆奧若;急,恆寒若;霿,恆風若。」

貌の不恭ふきょう

原文貌之不恭

伝に曰く、「貌が恭しくないことを、これを不肅ふしゅくと謂う。その咎は狂であり、その罰は恒雨こううであり、その極は悪である。時に服妖ふくよう有り、時にげつきげつ有り、時に鶏禍けいか有り、時に下体かたい上に生ずる有り、時にせいせいせいせい青祥せいしょう有り。ただ金木をれいす」。

原文傳曰:「貌之不恭,是謂不肅,厥咎狂,厥罰恆雨,厥極惡。時則有服妖,時則有龜孽,時則有雞禍,時則有下體生上之痾,時則有青眚青祥。唯金沴木。」

説に曰く、およそ草木の類を妖と謂う。妖は夭胎ようたいの如く、言うにまだ微かなり。虫豸ちゅうちの類を孽と謂う。孽は牙孽がげつなり。六畜りくちくに及べば、これを禍と謂い、その著しいことを言う。人に及べば、これを痾と謂う。痾は病の貌にして、浸み深まることを言う。甚だしければ異物いぶつ生ずるを眚と謂い、外より来るを祥と謂う。祥はていの如し。気相あい傷うを沴と謂う。沴は臨蒞りんりの如く、和せざる意なり。一事ごとに「時に則ち」と云うをもってこれを絶つ。必ずしもともに至らず、あるいは有り或は亡く、或は前に在り或は後に在ることを言うなり。

原文說曰:凡草物之類謂之妖。妖猶夭胎,言尚微。蟲豸之類謂之孽。孽則牙孽矣。及六畜,謂之禍,言其著也。及人,謂之痾。痾,病貌,言浸深也。甚則異物生,謂之眚;自外來,謂之祥。祥猶禎也。氣相傷,謂之沴。沴猶臨蒞,不和意也。每一事云「時則」以絕之,言非必俱至,或有或亡,或在前或在後也。

孝武の時、夏侯始昌は五経に通じ、五行伝を推しくし、以て族子ぞくしの夏侯勝に伝え、下って許商きょしょうに及び、皆教えし所の賢弟子けんでいしなり。その伝は劉向と同じく、唯だ劉歆の伝のみ独り異なる。貌の不恭は、これを不肅と謂う。肅は敬なり。内を恭と曰い、外を敬と曰う。人君じんくん己を行うに、体貌たいぼう恭しからず、怠慢たいまん驕蹇きょうけんならば、則ち万事ばんじを敬むことあたわず、失は狂易きょうえきに在り、故にその咎は狂なり。上まんにして下暴ならば、則ち陰気勝り、故にその罰は常雨じょううなり。水百穀を傷い、衣食いしょく足らず、則ち姦軌かんき並び作り、故にその極は悪なり。一に曰く、民多く刑せられ、或いは形貌しゅうしゅうあくなるも、亦是またこれなり。風俗狂慢きょうまんにして、節を変じ度を易うれば、則ちひょう軽奇怪ひょうきょうきかいの服とり、故に服妖有り。水類すいるい動ず、故に亀孽有り。易において、そんは鶏と為り、鶏は冠距かんきょ文武ぶんぶの貌有り。威儀と為さず、貌気毀すれば、故に鶏禍有り。一に曰く、水歳すいさいには鶏多く死し及び怪しきことを為すも、亦是なり。上威儀を失えば、則ち下に彊臣きょうしん有りて君上くんじょうを害する者あり、故に下体上に生ずる痾有り。木色もくしょく青なり、故に青眚青祥有り。およ貌傷そこなわる者は木気もっきを病む。木気病めば則ち金これに沴す。しょうしょうき相通あいつうずるなり。易に於て、しんは東方に在り、春と為り木と為るなり。は西方に在り、秋と為り金と為るなり。離は南方に在り、夏と為り火と為るなり。坎は北方に在り、冬と為り水と為るなり。春と秋は、日夜分ぶんかち、寒暑平たいらかなり。是を以て金木の気易やすく以て相変あいかわる。故に貌傷れば則ち秋陰常雨しゅういんじょううを致し、言傷れば則ち春陽常旱しゅんようじょうかんを致すなり。冬夏に至っては、日夜相反あいはんし、寒暑殊絶しゅぜつす。水火の気相併あいあわせず、故に視傷れば常に奥しく、聴傷れば常に寒しき者は、その気然しかるなり。これに逆らえば、その極は悪と曰い、これに順えば、その福は攸好徳ゆうこうとくと曰う。劉歆の貌伝に曰く、鱗虫りんちゅうの孽有り、羊禍ようか有り、鼻痾びあ有り。説以為おもうに、天文てんぶんに於て東方辰しん龍星りゅうせいと為るを以て、故に鱗虫と為る。易に於て兌は羊と為る。木は金の病まれる所と為り、故に羊禍を致し、常雨と同じく応ず、と。この説は是に非ず。春と秋は、気陰陽相敵あいてきし、木病み金盛せいんなり、故に能く相併す。唯だこの一事のみ耳。禍と妖痾祥眚は同類にして、独り異なることを得ず。

原文孝武時,夏侯始昌通五經,善推五行傳,以傳族子夏侯勝,下及許商,皆以教所賢弟子。其傳與劉向同,唯劉歆傳獨異。貌之不恭,是謂不肅。肅,敬也。內曰恭,外曰敬。人君行己,體貌不恭,怠慢驕蹇,則不能敬萬事,失在狂易,故其咎狂也。上嫚下暴,則陰氣勝,故其罰常雨也。水傷百穀,衣食不足,則姦軌並作,故其極惡也。一曰,民多被刑,或形貌醜惡,亦是也。風俗狂慢,變節易度,則為剽輕奇怪之服,故有服妖。水類動,故有龜孽。於易,巽為雞,雞有冠距文武之貌。不為威儀,貌氣毀,故有雞禍。一曰,水歲雞多死及為怪,亦是也。上失威儀,則下有彊臣害君上者,故有下體生於上之痾。木色青,故有青眚青祥。凡貌傷者病木氣,木氣病則金沴之,衝氣相通也。於易,震在東方,為春為木也;兌在西方,為秋為金也;離在南方,為夏為火也;坎在北方,為冬為水也。春與秋,日夜分,寒暑平,是以金木之氣易以相變,故貌傷則致秋陰常雨,言傷則致春陽常旱也。至於冬夏,日夜相反,寒暑殊絕,水火之氣不得相併,故視傷常奧,聽傷常寒者,其氣然也。逆之,其極曰惡;順之,其福曰攸好德。劉歆貌傳曰有鱗蟲之孽,羊禍,鼻痾。說以為於天文東方辰為龍星,故為鱗蟲;於易兌為羊,木為金所病,故致羊禍,與常雨同應。此說非是。春與秋,氣陰陽相敵,木病金盛,故能相并,唯此一事耳。禍與妖痾祥眚同類,不得獨異。

『史記』成公十六年、公が諸侯と周で会合したとき、単襄公たんじょうこうが晋の厲公れいこうが遠くを見つめ歩みが高いのを見て、公に告げて言った。「晋に乱が起こるだろう。」魯侯ろこうが言った。「敢えてお尋ねしますが、これは天道によるものですか、それとも人為によるものですか。」答えて言った。「私は瞽史こしではないので、どうして天道を知ることができましょうか。私は晋君の容態を見て、必ず禍いを招く者であると見たのです。そもそも君子は目で体の安定を定め、足はそれに従うものです。それゆえ、その容態を見てその心を知ることができるのです。目は礼儀の処し方を定め、足は目に従って歩みます。晋侯が遠くを見つめ足が高いのは、目が体に在らず、足が目に従って歩まないので、その心は必ず異なっているのです。目と体が互いに従わなければ、どうして長く続けられましょうか。諸侯を合わせることは、民の大事たいじです。ここにおいて存亡を観察するのです。だから国に咎めが無いならば、その君が会合にいる時、歩みと言葉、見ることと聞くことは必ず全て非難されることがなく、それによってその徳を知ることができるのです。遠くを見つめることを、その礼儀を絶つと言い、足が高いことを、その徳を棄てるという。言葉が爽やかでないことを、その信を反するといい、聞くことが淫らなことを、その名を離れるという。目は礼儀を処するため、足は徳を実践するため、口は信を守るため、耳は名を聞くためのものです。だから慎重でなければなりません。偏って喪えば咎めがあり、完全に喪えば国がそれに従います。晋侯は二つ(視遠と足高)を爽やかにしていません。私はそれゆえにそう言うのです。」後二年、晋人が厲公を殺した。凡そこの類は、皆、貌が恭しくない咎めであるという。

原文《史記》成公十六年,公會諸侯于周,單襄公見晉厲公視遠步高,告公曰:「晉將有亂。」魯侯曰:「敢問天道也?抑人故也?」對曰:「吾非瞽史,焉知天道?吾見晉君之容,殆必禍者也。夫君子目以定體,足以從之,是以觀其容而知其心矣。目以處誼,足以步目。晉侯視遠而足高,目不在體,而足不步目,其心必異矣。目體不相從,何以能久?夫合諸侯,民之大事也,於是虖觀存亡。故國將無咎,其君在會,步言視聽必皆無謫,則可以知德矣。視遠,曰絕其誼;足高,曰棄其德;言爽,曰反其信;聽淫,曰離其名。夫目以處誼,足以踐德,口以庇信,耳以聽名者也,故不可不慎。偏喪有咎;既喪,則國從之。晉侯爽二,吾是以云。」後二年,晉人殺厲公。凡此屬,皆貌不恭之咎云。

左氏伝:桓公十三年、楚の屈瑕くつかが羅を討伐し、鬭伯比とうはくひがこれを見送り、帰ってその御者に言った。「莫囂ばくごうは必ず敗れる。挙止が高く、心が固くないからだ。」急いで楚子そしに会って告げた。楚子は頼人らいじんに追わせたが、追いつかなかった。莫囂が行軍すると、ついに序列がなく、しかも備えを設けなかった。羅に至ると、羅人が軍を整えてこれを迎え撃ち、大敗した。莫囂は縊死した。

原文左氏傳:桓公十三年,楚屈瑕伐羅,鬥伯比送之,還謂其馭曰:「莫囂必敗,舉止高,心不固矣。」遽見楚子以告。楚子使賴人追之,弗及。莫囂行,遂無次,且不設備。及羅,羅人軍之,大敗。莫囂縊死。

釐公十一年、周が内史過ないしかを使者として晋の恵公に命(爵位を認める命令)を賜ったが、恵公は玉を受ける際に怠惰であった。過は帰って王に告げて言った。「晋侯は後継者がいなくなるでしょう!王が命を賜ったのに、瑞(玉)を受けることを怠るのは、先ず自ら棄てたのです。どうして継ぐものがありましょうか!礼は国の幹であり、敬は礼の車です。敬わなければ礼は行われず、礼が行われなければ上下が乱れます。どうして長く世を保てましょうか!」二十一年、晋の恵公が卒去し、子の懐公が立ったが、晋人がこれを殺し、代わりに文公ぶんこうを立てた。

原文釐公十一年,周使內史過賜晉惠公命,受玉,惰。過歸告王曰:「晉侯其無後乎!王賜之命,而惰於受瑞,先自棄也已,其何繼之有!禮,國之幹也;敬,禮之輿也。不敬則禮不行,禮不行則上下昏,何以長世!」二十一年,晉惠公卒,子懷公立,晉人殺之,更立文公。

成公十三年、晋侯が郤錡げききを魯に派遣して援軍を乞わせたが、職務を行うのに恭敬でなかった。孟獻子もうけんしが言った。「郤氏は滅びるだろう!礼は身の幹であり、敬は身の基礎である。郤子には基礎がない。しかも先君の嗣卿しきょうであり、師(軍隊)を求める命令を受けて、社稷を守ろうとしているのに、君命を怠って棄てるのです。滅びずしてどうするというのか!」十七年、郤氏は滅亡した。

原文成公十三年,晉侯使郤錡乞師于魯,將事不敬。孟獻子曰:「郤氏其亡乎!禮,身之幹也;敬,身之基也。郤子無基。且先君之嗣卿也,受命以求師,將社稷是衛,而惰棄君命也,不亡何為!」十七年,郤氏亡。

成公十三年、諸侯が王に朝見し、ついで劉康公りゅうこうこうに従って秦を討伐した。成肅公せいしゅくこうが社でしん(出兵の際の祭肉)を受けたが、恭敬でなかった。劉子が言った。「私は聞いている。民は天地の中和を受けて生まれる、これを命という。それゆえ礼義動作威儀の法則があり、それによって命を定める。能ある者はこれによって福を養い、能なき者はこれに敗れて禍を取る。だから君子は礼に勤め、小人は力に尽くす。礼に勤めることは敬を致すに如くはなく、力に尽くすことは篤実であるに如くはない。敬は神を養うことにあり、篤実は業を守ることにある。国の大事は、祀と戎(軍事)にある。祀には執膰しつはん(祭肉を執る)があり、戎には受賑じゅしん(出兵の祭肉を受ける)がある。これは神に対する大節である。今、成子が怠惰であるのは、その命を棄てたのだ。彼は帰らないのではないか!」五月、成肅公は卒去した。

原文成公十三年,諸侯朝王,遂從劉康公伐秦。成肅公受賑于社,不敬。劉子曰:「吾聞之曰,民受天地之中以生,所謂命也。是以有禮義動作威儀之則,以定命也。能者養以之福,不能者敗以取禍,是故君子勤禮,小人盡力。勤禮莫如致敬,盡力莫如惇篤。敬在養神,篤在守業。國之大事,在祀與戎。祀有執膰,戎有受賑,神之大節也。今成子惰,棄其命矣,其不反虖!」五月,成肅公卒。

成公十四年、衛の定公が苦成叔を饗応し、ねい恵子が相礼しょうれいした。苦成叔が傲慢な態度をとると、甯子は言った。「苦成の家は滅びるであろうか!古の人が饗応の食事を設けたのは、威儀を観察し禍福を省みるためであった。故に『詩経』に言う。『犀かくの杯は曲がり、旨い酒は柔らかだ。驕らず傲らず、万福が求め来る』と。今、あの方は傲慢である。これは禍を招く道である。」三年後、苦成の家は滅亡した。

原文成公十四年,衛定公享苦成叔,甯惠子相。苦成叔敖,甯子曰:「苦成家其亡虖!古之為享食也,以觀威儀省禍福也。故《詩》曰:『兕觥其觩,旨酒思柔,匪儌匪傲,萬福來求。』今夫子傲,取禍之道也。」後三年,苦成家亡。

襄公七年、衛の孫文子が魯に聘問し、魯君が壇に登ると彼も登った。叔孫穆子しゅくそんぼくしが相礼し、進み出て言った。「諸侯の会合では、我が君は衛君に後れることはなかった。今、あなたは我が君に後れず、我が君は何か過ちがあったか分からない。どうか少し落ち着いてください。」孫子は弁解せず、また悔い改める様子もなかった。穆子は言った。「孫子は必ず滅びる。臣下でありながら君のようであり、過ちを犯しても悔い改めない。これが滅亡の根源である。」十四年、孫子はその君を追放し、国外に叛いた。

原文襄公七年,衛孫文子聘于魯,君登亦登。叔孫穆子相,趨進曰:「諸侯之會,寡君未嘗後衛君,今吾子不後寡君,寡君未知所過,吾子其少安!」孫子亡辭,亦亡悛容。穆子曰:「孫子必亡。為臣而君,過而不悛,亡之本也。」十四年,孫子逐其君而外叛。

襄公二十八年、さいの景侯が晋から帰国する途中、鄭に入った。鄭伯ていはくが彼を饗応したが、景侯は敬意を払わなかった。子産は言った。「蔡君は免れないであろうか!先日ここを通った時、我が君は子展を東門に遣わして慰労させたが、彼は傲慢だった。私は『まだ改めるだろう』と言った。今、帰途に饗応を受けながら怠慢である。これは彼の本性である。小国の君主が大国に仕えながら、怠慢傲慢を本性としている。どうして死を免れようか?もし君が免れなければ、必ずその子によるものであろう。淫乱で父の道を尽くさない。このような者には必ず子による禍がある。」三十年、世子のはんに殺された。

原文襄公二十八年,蔡景侯歸自晉,入于鄭。鄭伯享之,不敬。子產曰:「蔡君其不免虖!日其過此也,君使子展往勞于東門,而敖。吾曰:『猶將更之。』今還,受享而惰,乃其心也。君小國,事大國,而惰敖以為己心,將得死虖?君若不免,必由其子。淫而不父,如是者必有子禍。」三十年,為世子般所殺。

襄公三十一年、魯公(襄公)が薨去した。季武子が公子のちょうを立てようとすると、穆叔ぼくしゅくは言った。「この人物は、喪に居ながら悲しまず、憂いの中にありながら喜びの表じょうをしている。これは法度に合わぬというものだ。法度に合わぬ人物で、患いをなさない者は稀である。もし果たして立てれば、必ず季氏の憂いとなるであろう。」武子は聞き入れず、ついに彼を立てた。葬儀に至るまで、三度喪服をたいえたが、喪服の襟は以前の喪服のようであった。これが昭公である。即位して二十五年、讒言を聞き入れて季氏を攻撃した。兵は敗れ、出奔し、国外で死んだ。

原文襄公三十一年,公薨。季武子將立公子裯,穆叔曰:「是人也,居喪而不哀,在慼而有嘉容,是謂不度。不度之人,鮮不為患,若果立,必為季氏憂。」武子弗聽,卒立之。比及葬,三易衰,衰衽如故衰。是為昭公。立二十五年,聽讒攻季氏。兵敗,出奔,死于外。

襄公三十一年、衛の北宮文子が楚の令尹の圍の儀礼作法を見て、衛侯えいこうに言った。「令尹は君主のようである。他に志があるのでしょう。たとえその志を遂げても、最後まで保つことはできません。」公が「あなたはどうして分かるのか」と問うと、答えて言った。「『詩経』に『威儀を敬い慎め、これ民の則りなり』とあります。令尹に威儀がなければ、民は則る所がありません。民が則らない者が民の上に立つことは、最後まで保てません。」

原文襄公三十一年,衛北宮文子見楚令尹圍之儀,言於衛侯曰:「令尹似君矣,將有它志;雖獲其志,弗能終也。」公曰:「子何以知之?」對曰:「《詩》云『敬慎威儀,惟民之則』,令尹無威儀,民無則焉。民所不則,以在民上,不可以終。

昭公十一年の夏、周の単子が戚で会合したとき、視線は下を向き、言葉はゆっくりであった。晋の叔向は言った。「単子は死ぬであろうか!朝見には定まった位置があり、会合には標識があり、衣には襟の合わせ目があり、帯には結び目がある。会合や朝見での言葉は必ず標識の位置まで聞こえるもので、それによって事の順序を明らかにするのである。視線は帯と襟の合わせ目を越えず、それによって容貌を整えるのである。言葉によって命令を伝え、容貌によってそれを明らかにする。これが欠ければ過失となる。今、単子は王官の長として、会合で命令を下す立場にあるのに、視線は帯の高さに届かず、言葉は一歩も届かず、容貌は整わず、言葉は明らかでない。整わず恭しさがなく、明らかでなく従順でない。守るべき気力が失われている。」十二月、単成公が死去した。

原文昭公十一年夏,周單子會於戚,視下言徐。晉叔向曰:「單子其死虖!朝有著定,會有表,衣有襘,帶有結。會朝之言必聞于表著之位,所以昭事序也;視不過結襘之中,所以道容貌也。言以命之,容貌以明之,失則有闕。今單子為王官伯,而命事於會,視不登帶,言不過步,貌不道容而言不昭矣。不道不恭,不昭不從,無守氣矣。」十二月,單成公卒。

昭公二十一年三月、蔡の平公が葬られたとき、蔡の太子の朱が位を失い、位は低い位置にあった。魯の大夫で葬儀にしん列した者が帰国して昭子しょうしに報告した。昭子は嘆いて言った。「蔡は滅びるであろうか!もし滅びないとしても、この君は必ず最後まで在位できない。《詩経》に『位を解かず、民の依りていこう所』とある。今、即位したばかりで低い位置に就いた。身もそれに従うことになろう。」十月、蔡侯さいこうの朱は楚に出奔した。

原文昭公二十一年三月,葬蔡平公,蔡太子朱失位,位在卑。魯大夫送葬者歸告昭子。昭子歎曰:「蔡其亡虖!若不亡,是君也必不終。《詩》曰『不解於位,民之攸塈。』今始即位而適卑,身將從之。」十月,蔡侯朱出奔楚。

晋のぎしょが諸侯の大夫たちをえきてきせんに集め、成周を築城しようとした。魏子が政務に臨んだとき、衛の彪傒ひょうけいが言った。「天子のために築城するという大事業なのに、位を越えて命令を下すのは、道理に合わない。大事が道理を犯せば、必ず大きな災いがある。晋が諸侯を失わないとしても、魏子は免れられないであろう!」このとき、魏献子ぎけんしは役務をかん簡子かんかんしに任せ、自らは大陸で狩猟をし、火災に遭って死んだ。

原文晉魏舒合諸侯之大夫于翟泉,將以城成周。魏子蒞政,衛彪傒曰:「將建天子,而易位以令,非誼也。大事奸誼,必有大咎。晉不失諸侯,魏子其不免虖!」是行也,魏獻子屬役於韓簡子,而田於大陸,焚焉而死。

定公十五年、邾の隠公が魯に朝見し、玉を高く捧げ持ち、その顔は上を向いていた。定公が玉を受け取る姿勢は低く、その顔はうつむいていた。子贛しこうがこれを見て言った。「礼によって観察すると、両君ともに死と亡びの兆しがあります。礼というものは、死生と存亡の根本です。左右に周旋し、進退し、俯仰する動作は、ここから取り入れられる。朝見・祭祀・喪事・軍事は、ここから観察される。今、正月に相朝見して、ともに法度に合わず、心はすでに失われています。嘉事よろこびごとが根本を失えば、どうして長く続けられましょうか。高く仰ぐのは驕り、低く俯くのは衰えです。驕りは乱に近く、衰えは病に近い。君(魯公)が主であるなら、先に亡びるのではないでしょうか!」

原文定公十五年,邾隱公朝於魯,執玉高,其容仰。公受玉卑,其容俯。子贛觀焉,曰:「以禮觀之,二君者皆有死亡焉。夫禮,死生存亡之體也。將左右周旋,進退俯仰,於是虖取之;朝祀喪戎,於是虖觀之。今正月相朝,而皆不度,心已亡矣。嘉事不體,何以能久?高仰,驕也;卑俯,替也。驕近亂,替近疾。君為主,其先亡虖!」

庶徴のうちの恒雨(常に雨が多いこと)について、劉歆は『春秋』に記される大雨のことと考え、劉向は大水のことと考えた。

原文庶徵之恆雨,劉歆以為春秋大雨也,劉向以為大水。

隠公九年「三月癸酉きゆうの日、大雨が降り、雷電が光った。庚辰こうしんの日、大雪が降った」。大雨とは、雨水のことである。震とは、雷のことである。劉歆は、三月癸酉の日は暦数上では春分の翌日に当たり、雷電が始まる時期であるから、雨は降るべきだが大雨は降るべきではないと考えた。大雨は、常雨(通常の雨)に対する罰である。雷電が始まってから八日目の間に大雪が降ったのは、常寒(通常の寒さ)に対する罰である。劉向は、周の三月は今の正月にあたり、雨水の節気に当たるので、雪が雨に混じることはあっても、雷電はまだ発するべきではないと考えた。すでに発したのであれば、雪が再び降るべきではない。いずれも節度を失っているので、これを異(災異)と呼ぶのである。『易』によれば、雷は二月に出現し、その卦はといい、万物が雷に従って地から出て、皆安楽であることを言う。八月に入り、その卦は帰妹きまいといい、雷が再び帰ることを言う。地に入れば根や核を養い、冬ごもりの虫を保ち隠して、盛んな陰気の害を避ける。地に出れば花や実を養い育て、隠れ伏しているものを発揚して、盛んな陽気の徳を宣べる。入れば害を除き、出れば利を興す。これは人君の象である。この時、隠公は弟の桓公が幼いため、代わって摂政として立った。公子翬こうしはいは隠公が位に居るのが久しいのを見て、そのまま即位するよう勧めた。隠公が許さなかったので、翬は恐れて言葉を変え、ついに桓公と共に隠公を殺した。天はその将に然らんとするのを見て、故に正月に大雨が降り雷電が光ったのである。これは陽気が陰気を閉じ込めず、危難に陥って出て万物を害することを示す。天の戒めは言うようである、君たる者が時を失い、賊のような弟と佞臣が乱を起こそうとしている、と。八日後に大雪が降ったのは、陰気が隙間を見つけて陽気に勝ち、簒奪殺害の禍いが成ろうとしていることを示す。公(隠公)は悟らず、後二年にして殺された。

原文隱公九年「三月癸酉,大雨,震電;庚辰,大雨雪」。大雨,雨水也;震,雷也。劉歆以為三月癸酉,於曆數春分後一日,始震電之時也,當雨,而不當大雨。大雨,常雨之罰也。於始震電八日之間而大雨雪,常寒之罰也。劉向以為周三月,今正月也,當雨水,雪雜雨,雷電未可以發也。既已發也,則雪不當復降。皆失節,故謂之異。於易,雷以二月出,其卦日豫,言萬物隨雷出地,皆逸豫也。以八月入,其卦曰歸妹,言雷復歸。入地則孕毓根核,保藏蟄蟲,避盛陰之害;出地則養長華實,發揚隱伏,宣盛陽之德。入能除害,出能興利,人君之象也。是時,隱以弟桓幼,代而攝立。公子翬見隱居位已久,勸之遂立。隱既不許,翬懼而易其辭,遂與桓共殺隱。天見其將然,故正月大雨水而雷電。是陽不閉陰,出涉危難而害萬物。天戒若曰,為君失時,賊弟佞臣將作亂矣。後八日大雨雪,陰見間隙而勝陽,篡殺之禍將成也。公不寤,後二年而殺。

昭帝の始元元年七月、大水と雨があり、七月から十月まで続いた。成帝の建始三年の秋、大雨が三十余日続いた。四年九月、大雨が十余日続いた。

原文昭帝始元元年七月,大水雨,自七月至十月。成帝建始三年秋,大雨三十餘日;四年九月,大雨十餘日。

『左氏伝』によれば、愍公二年、晋の献公けんこう太子申生しんせいに軍を率いさせた。公(献公)は申生に偏衣(へんい、左右異色の衣)を着せ、金の玦(けつ、環に欠け目のある玉)を佩かせた。狐突ことつは嘆いて言った。「時は事の徴である。衣は身の章である。佩はこころの旗である。故にその事を敬うならば、命は始め(春)に与える。その身を服させるならば、衣は純色じゅんしょくのものを着せる。その衷を用いるならば、佩は度(のり、常道)にかなったものを与える。今、命を時卒(冬の終わり)に与えるのは、その事を閉ざす(妨げる)ためである。尨服(もうふく、雑色の衣)を着せるのは、その身を遠ざけるためである。金の玦を佩かせるのは、その衷を棄てるためである。服で遠ざけ、時で閉ざす。尨(雑色)は涼しく、冬は殺伐さつばつである。金は寒く、玦は離れる。どうして頼ることができようか」。梁餘子養りょうよしようは言った。「軍を率いる者は、廟で命を受け、社で脤(しん、祭肉)を受け、常の服がある。それを得られずに雑色の服を着るのは、命(運命)が知れるというものだ。死んで不孝となるよりは、逃げる方がよい」。罕夷かんいは言った。「雑色は奇異で常ならず、金の玦は戻らない。君(献公)には心(殺意)がある」。後四年、申生は讒言によって自殺した。これは服妖(ふくよう、衣服の怪異)に近い。

原文左氏傳愍公二年,晉獻公使太子申生帥師,公衣之偏衣,佩之金玦。狐突歎曰:「時,事之徵也;衣,身之章也;佩,衷之旗也。故敬其事,則命以始;服其身,則衣之純;用其衷,則佩之度。今命以時卒,閟其事也;衣以尨服,遠其躬也;佩以金玦,棄其衷也。服以遠之,時以閟之,尨涼冬殺,金寒玦離,胡可恃也!」梁餘子養曰:「帥師者,受命于廟,受脤於社,有常服矣。弗獲而尨,命可知也。死而不孝,不如逃之。」罕夷曰:「尨奇無常,金玦不復,君有心矣。」後四年,申生以讒自殺。近服妖也。

『左氏伝』に言う、鄭の子臧しそうは鷸冠(いつかん、トキの羽根の冠)を集めることを好んだ。鄭の文公はこれを憎み、盗賊を使って彼を殺させた。劉向は、これは服妖に近いと考えた。一説には、子臧自身のことだけでなく、文公への戒めでもあったという。初め、文公は晋の文公に礼を尽くさず、また天子の命に背いてかつを伐ち、上を尊び敬うことをしなかった。その後、晋の文公が鄭を伐ち、国が滅亡寸前になった。

原文左氏傳曰,鄭子臧好聚鷸冠,鄭文公惡之,使盜殺之。劉向以為近服妖者也。一曰,非獨為子臧之身,亦文公之戒也。初,文公不禮晉文,又犯天子命而伐滑,不尊尊敬上。其後晉文伐鄭,幾亡國。

昭帝の時、昌邑王しょうゆうおう劉賀りゅうがは中大夫を長安に派遣し、そく注冠そくちゅうかんを多く作らせて大臣に賜り、また奴隷に冠をかぶせた。劉向はこれを服妖に近いものと考えた。当時、王の劉賀は狂乱で道理に背き、天子(昭帝)が病気であると聞いても、相変わらず狩猟や駆け回りにふけり、御者や料理人などの下僕と遊び暮らし、驕慢で敬意を払わなかった。冠は尊い身分の者が着用するもので、奴隷は賤しい身分の者である。劉賀が理由もなく普通でない冠を作るのは、尊い身分の象徴を冒涜する行為である。奴隷に冠をかぶせるのは、最高の尊貴から最も賤しい身分へと墜ちることを意味する。その後、昭帝が崩御し、子がなかったため、漢の大臣たちは劉賀を後継者として迎えた。即位すると、狂乱で無道となり、いさ言した夏侯勝らを縛り上げて殺した。そこで大臣たちは皇太后に上奏し、劉賀を庶人に落とした。劉賀が王であった時、また大白狗が方山冠ほうざんかんをかぶり尾がないのを見た。これは服妖であり、また犬禍けんかでもある。劉賀が郎中令の龔遂きょうすいに尋ねると、龔遂は言った。「これは天の戒めで、側近の者たちが皆、犬に冠をかぶせていることを言っているのです。それを取り除けば生き残り、取り除かなければ滅びます。」劉賀が廃されて数年後、宣帝が彼を列侯に封じたが、また罪を犯し、死後は後継者を立てることができなかった。これもまた犬禍で尾がないことの効験である。京房の易伝に言う。「行いが順当でないと、その咎として人の奴隷が冠をかぶり、天下が乱れ、君主に嫡子がなく、妾腹の子が拝される。」また言う。「君主が正しくないと、臣下が簒奪を欲し、その妖として犬が冠をかぶって朝廷の門から出る。」

原文昭帝時,昌邑王賀遣中大夫之長安,多治仄注冠,以賜大臣,又以冠奴。劉向以為近服妖也。時王賀狂悖,聞天子不豫,弋獵馳騁如故,與騶奴宰人游居娛戲,驕嫚不敬。冠者尊服,奴者賤人,賀無故好作非常之冠,暴尊象也。以冠奴者,當自至尊墜至賤也。其後帝崩,無子,漢大臣徵賀為嗣。即位,狂亂無道,縛戮諫者夏侯勝等。於是大臣白皇太后,廢賀為庶人。賀為王時,又見大白狗冠方山冠而無尾,此服妖,亦犬禍也。賀以問郎中令龔遂,遂曰:「此天戒,言在仄者盡冠狗也。去之則存,不去則亡矣。」賀既廢數年,宣帝封之為列侯,復有罪,死不得置後,又犬禍無尾之效也。京房易傳曰:「行不順,厥咎人奴冠,天下亂,辟無適,妾子拜。」又曰:「君不正,臣欲篡,厥妖狗冠出朝門。」

成帝の鴻嘉・永始の間、成帝は微行びこうして出遊するのを好み、従者には期門郎きもんろうの中から有能で力のある者を選び、また私的な奴隷や食客を加え、多い時は十余人、少ない時は五、六人とし、皆、白い衣にはだぬぎさくをし、刀剣を帯び持たせた。ある時は小さな車に乗り、御者がしとねの上に座り、ある時は皆が騎乗し、市街や郊外を出入りし、遠くは隣県まで行った。当時、大臣の車騎将軍王音おうおんや劉向らがたびたび強く諫めた。谷永は言った。「易経に『臣を得て家無し』と称するのは、王者は天下の臣となり、私的な家を持たないという意味です。今、陛下は万乗の極めて尊い身分を捨て、家人の賤しいことを楽しみ、高く美しい尊称を嫌い、匹夫の卑しい呼び名を好み、軽薄で義のない者を集めて私的な客とし、民間に私的な田を設け、私的な奴隷や車馬を北宮に蓄え、たびたび南面する君主の尊厳を離れ、深宮の堅固な守りを出て、身一つで小人たちと日夜つき従い、烏のように酔い飽きた官吏や民の家に集まり、乱れた服装で共に座り、さかなが入り混じって区別なく、むりに楽しみを求め、昼夜を問わず路上にいます。門戸を司り宿衛を奉ずる臣は、武器を執って空の宮殿を守り、公卿百官は陛下の所在を知らず、これが数年も続いています。昔、かくかくこうが無道であった時、神が降りて『爾に土田を賜う』と言いましたが、これは庶人として土田を受けることを意味します。諸侯でさえ夢に土田を得るのは、国を失う前兆とされるのに、まして王者が私的な田や財物を蓄え、庶人のことをするのはどうでしょうか。」

原文成帝鴻嘉、永始之間,好為微行出游,選從期門郎有材力者,及私奴客,多至十餘,少五六人,皆白衣袒幘,帶持刀劍。或乘小車,御者在茵上,或皆騎,出入市里郊野,遠至旁縣。時,大臣車騎將軍王音及劉向等數以切諫。谷永曰:「易稱『得臣無家』,言王者臣天下,無私家也。今陛下棄萬乘之至貴,樂家人之賤事;厭高美之尊稱,好匹夫之卑字;崇聚票輕無誼之人,以為私客;置私田於民間,畜私奴車馬於北宮;數去南面之尊,離深宮之固,挺身獨與小人晨夜相隨,烏集醉飽吏民之家,亂服共坐,溷肴亡別,閔勉遯樂,晝夜在路。典門戶奉宿衛之臣執干戈守空宮,公卿百寮不知陛下所在,積數年矣。昔虢公為無道,有神降曰『賜爾土田』,言將以庶人受土田也。諸侯夢得土田,為失國祥,而況王者畜私田財物,為庶人之事乎!」

左氏伝に言う、周の景王の時、大夫の賓起ひんきが雄鶏が自らその尾を断つのを見た。劉向はこれを鶏禍に近いものと考えた。この時、王には寵愛する子の子晁しちょうがおり、王と賓起は密かに彼を立てようと謀った。北山で狩りをし、兵衆を用いて嫡子の一派を殺そうとしたが、その前に王は崩御した。三人の王子が国を争い、王室は大混乱となった。その後、賓起は誅殺され、子晁は楚に奔って敗れた。京房の易伝に言う。「始めあって終わり無し、その妖として雄鶏自ら尾を噛み断つ。」

原文左氏傳曰,周景王時大夫賓起見雄雞自斷其尾。劉向以為近雞禍也。是時,王有愛子子晁,王與賓起陰謀欲立之。田于北山,將因兵眾殺適子之黨,未及而崩。三子爭國,王室大亂。其後,賓起誅死,子晁奔楚而敗。京房易傳曰:「有始無終,厥妖雄雞自齧斷其尾。」

宣帝の黄龍元年、未央殿の輅軨ろれいの中で雌鶏が雄に変化し、羽毛は変わったが鳴かず、群れを率いず、蹴爪けづめもなかった。元帝の初元年間、丞相府の史の家の雌鶏が雛を抱いていたが、次第に雄に変化し、鶏冠と蹴爪が生え、鳴き、群れを率いた。永光年間、雄鶏が角を生やしたものを献上した者がいた。京房の『易伝』に言う。「鶏は時を知る。時を知る者は死すべきである」。房は自分が時を知っていると思い、恐らく自分がそれに当たるのではないかと恐れた。劉向は、房が鶏の占いを誤ったと考えた。鶏は小さな家畜で、時を司り、人の起居に関わり、小臣が政務を執る事柄の象徴である。小臣が君主の威権を握り、正しい事柄を害することを言うのは、石顕のような者である。竟寧元年、石顕が罪に伏した。これがその効験である。一説には、石顕ごときがどうしてこれに当たりえようか。昔、武王が殷を討伐した時、牧野に至り、軍勢に誓って言った。「古人に言うところがある。『牝鶏めんどりは朝に鳴かず。牝鶏が朝に鳴けば、その家は尽きる』と。今、殷の王紂はただ婦人の言葉を用いている」。これによって論ずれば、黄龍、初元、永光の鶏の変異は、国家についての占いであり、妃后きこうの象徴である。孝元王皇后は甘露二年に男子を生み、太子に立てられた。妃は王禁の娘である。黄龍元年、宣帝が崩御し、太子が立ち、これが元帝である。王妃が皇后となろうとしたので、この年、未央殿の中で雌鶏が雄となったのは、その占いが正宮にあることを明らかにしたのである。鳴かず、群れを率いず、蹴爪がないのは、貴ぶことが始まったばかりで、尊ぶことがまだ成っていないからである。元帝の初元元年に至り、王皇后を立てようとして、先に婕妤とした。三月癸卯の制書に言う。「その婕妤の父、丞相少史の王禁を陽平侯に封じ、位は特進とする」。丙午、王婕妤を皇后に立てた。翌年正月、皇后の子を太子に立てた。それゆえこれに応じて、丞相府の史の家の雌鶏が雄となったのであり、その占いはすなわち丞相少史の娘のことである。雛を抱いていたのは、すでに子があることを明らかにしたのである。鶏冠と蹴爪が生え、鳴き、群れを率いたのは、尊ぶことがすでに成ったのである。永光二年、陽平けい侯の王禁が薨じ、子の鳳が侯を嗣ぎ、侍中衛尉となった。元帝が崩御し、皇太子が立ち、これが成帝である。皇后を尊んで皇太后とし、皇后の弟の鳳を大司馬大将軍とし、尚書事を領させ、上(皇帝)は政務を委ね、関与しなかった。王氏の権勢は鳳から始まった。それゆえ、鳳が爵位を受け始めた時に、雄鶏に角があったのは、威を作し、君に専断し、上を害し、国を危うくする者が、この人から始まることを明らかにしたのである。その後、群弟が代々権勢を握り、王莽に至って、ついに天下を簒奪した。即位五年にして、王太后がようやく崩御した。これがその効験である。京房の『易伝』に言う。「賢者が明夷の世にあり、時を知って傷つく。あるいは衆が位に在り、その妖は鶏が角を生ず。鶏が角を生ずるは、時の主が独りである」。また言う。「婦人が政に専断すれば、国は静かならず。牝鶏が雄のように鳴けば、主は栄えない」。それゆえ房は、自分もまた占いの中にあると考えたのである。

原文宣帝黃龍元年,未央殿輅軨中雌雞化為雄,毛衣變化而不鳴,不將,無距。元帝初元中,丞相府史家雌雞伏子,漸化為雄,冠距鳴將。永光中,有獻雄雞生角者。京房易傳曰:「雞知時,知時者當死。」房以為己知時,恐當之。劉向以為房失雞占。雞者小畜,主司時,起居人,小臣執事為政之象也。言小臣將秉君威,以害正事,猶石顯也。竟寧元年,石顯伏辜,此其效也。一曰,石顯何足以當此?昔武王伐殷,至于牧野,誓師曰:「古人有言曰『牝雞無晨;牝雞之晨,惟家之索。』今殷王紂惟婦言用。」繇是論之,黃龍、初元、永光雞變,乃國家之占,妃后象也。孝元王皇后以甘露二年生男,立為太子。妃,王禁女也。黃龍元年,宣帝崩,太子立,是為元帝。王妃將為皇后,故是歲未央殿中雌雞為雄,明其占在正宮也。不鳴不將無距,貴始萌而尊未成也。至元帝初元元年,將立王皇后,先以為婕妤。三月癸卯制書曰:「其封婕妤父丞相少史王禁為陽平侯,位特進。」丙午,立王婕妤為皇后。明年正月,立皇后子為太子。故應是,丞相府史家雌雞為雄,其占即丞相少史之女也。伏子者,明已有子也。冠距鳴將者,尊已成也。永光二年,陽平頃侯禁薨,子鳳嗣侯,為侍中衛尉。元帝崩,皇太子立,是為成帝。尊皇后為皇太后,以后弟鳳為大司馬大將軍,領尚書事,上委政,無所與。王氏之權自鳳起,故於鳳始受爵位時,雄雞有角,明視作威顓君害上危國者,從此人始也。其後群弟世權,以至於莽,遂篡天下。即位五年,王太后乃崩,此其效也。京房易傳曰:「賢者居明夷之世,知時而傷,或眾在位,厥妖雞生角。雞生角,時主獨。」又曰:「婦人顓政,國不靜;牝雞雄鳴,主不榮。」故房以為己亦在占中矣。

成公七年「正月、鼷鼠けいそが郊祀の牛の角を食った。別の牛を卜して用いようとすると、またその角を食った」。劉向は、これに近い青祥であり、また牛の禍いでもあると考え、敬わず、もうもうまいであることによって招かれたものとした。昔、周公が礼楽を制定し、周の道を成したので、成王は魯に命じて天地を郊祀させ、周公を尊んだ。成公の時に至り、三桓氏(三家)が初めて政権を専断し、魯はこれから衰えようとした。天は周公の徳を哀れみ、その将に敗亡の禍いあることを痛み、それゆえ郊祭において戒めを示したのである。鼠は小さな虫で、性来、窃盗する。鼷鼠はその中でもさらに小さいものである。牛は大きな家畜で、天を祭る尊い物である。角は兵の象徴で、上にあり、君主の威厳である。小さな鼷鼠が、最も尊い牛の角を食うのは、季氏のようなはいばいしんの窃盗の徒が、国命を執り、君主の威厳を傷つけ、周公の祭祀を害しようとする象徴である。別の牛を卜すると、鼷鼠がまたその角を食ったのは、天が重ねて告げたのである。成公は怠慢で昏乱であり、ついに君臣は晋に捕らえられることとなった。襄公の時に至り、晋が溴梁きくりょうの会を開き、天下の大夫は皆、君主の政権を奪った。その後、三桓氏は昭公を追放し、ついに国外で死に、周公の祭祀はほとんど絶えようとした。董仲舒は、鼷鼠が郊祀の牛を食うのは、皆、生贄の牛を養うのに謹んでいなかったからだと考えた。京房の『易伝』に言う。「天を祭るのに慎まなければ、その妖は鼷鼠が郊祀の牛の角を齧る」。

原文成公七年「正月,鼷鼠食郊牛角;改卜牛,又食其角」。劉向以為近青祥,亦牛禍也,不敬而傋霿之所致也。昔周公制禮樂,成周道,故成王命魯郊祀天地,以尊周公。至成公時,三家始顓政,魯將從此衰。天愍周公之德,痛其將有敗亡之禍,故於郊祭而見戒云。鼠,小蟲,性盜竊,鼷又其小者也。牛,大畜,祭天尊物也。角,兵象,在上,君威也。小小鼷鼠,食至尊之牛角,象季氏乃陪臣盜竊之人,將執國命以傷君威而害周公之祀也。改卜牛,鼷鼠又食其角,天重語之也。成公怠慢昏亂,遂君臣更執于晉。至于襄公,晉為溴梁之會,天下大夫皆奪君政。其後三家逐昭公,卒死于外,幾絕周公之祀。董仲舒以為鼷鼠食郊牛,皆養牲不謹也。京房易傳曰:「祭天不慎,厥妖鼷鼠齧郊牛角。」

定公十五年『正月、鼷鼠が郊牛こうぎゅうを食い、牛が死んだ』。劉向は、定公が季氏が昭公を追放した罪悪がそれほどであることを知りながら、孔子を親しく用いて夾谷きょうこくの会を開き、斉人が鄆・かん龜陰きいんの田を返還してきたという聖徳がこれほどであるのに、逆に季桓子きかんしを用い、女楽にふけって孔子を退けたのは、無道の極みであると考えた。『詩経』に『人にして儀なくば、死なずして何を為さん』とある。この年の五月、定公が薨去したのは、牛が死んだことの応報である。京房の易伝に『子たるもの子たらず、鼠その郊牛を食う』とある。

原文定公十五年「正月,鼷鼠食郊牛,牛死」。劉向以為定公知季氏逐昭公,罪惡如彼,親用孔子為夾谷之會,齊人來歸鄆、讙、龜陰之田,聖德如此,反用季桓子,淫於女樂,而退孔子,無道甚矣。《詩》曰:「人而亡儀,不死何為!」是歲五月,定公薨,牛死之應也。京房易傳曰:「子不子,鼠食其郊牛。」

哀公元年『正月、鼷鼠が郊牛を食った』。劉向は、天意が聖人を用いることに切迫しており、三家を追放しようとしているため、再び戒めが現れたのだと考えた。哀公は年少で、昭公の出来事を直接見ておらず、そのため敗亡の異変を見たのである。その後、哀公は悟らず、自ら越に奔った。これがその効験である。

原文哀公元年「正月,鼷鼠食郊牛」。劉向以為天意汲汲於用聖人,逐三家,故復見戒也。哀公年少,不親見昭公之事,故見敗亡之異。已而哀不寤,身奔於粵,此其效也。

昭帝の元鳳元年九月、燕に黄鼠こうそがその尾をくわえて王宮の端門たんもんの中で舞うことがあった。王剌王たんりつおうたんえんらつおうたん(えんらつおうたん))がそれを見に行くと、鼠は相変わらず舞っていた。王が役人に酒と干し肉を供えて祀らせたが、鼠は舞いをやめず、一日一夜で死んだ。これは黄祥こうしょうに近く、当時燕剌王えんらつおう旦が謀反を企てて死に至る前兆であった。その月、発覚して誅殺された。京房の易伝に『誅情を原さず、の妖鼠門に舞う』とある。

原文昭帝元鳳元年九月,燕有黃鼠銜其尾舞王宮端門中,王往視之,鼠舞如故。王使吏以酒脯祠,鼠舞不休,一日一夜死。近黃祥,時燕剌王旦謀反將死之象也。其月,發覺伏辜。京房易傳曰:「誅不原情,厥妖鼠舞門。」

成帝の建始四年九月、長安城の南に鼠が黄蒿こうこうや柏の葉をくわえて、民の塚の柏やにれの木の上にそうを作り、特に桐柏とうはくに多かった。巣の中には子はおらず、皆乾いた鼠の糞が数十個あった。当時、議臣たちは水害が起こる恐れがあると考えた。鼠は盗みをする小虫で、夜に出て昼は隠れるものだが、今は昼間に穴を離れて木に登っている。これは賤しい者が顕貴の位につこうとする象徴である。桐柏は衛思后えいしこうの園があった場所である。その後、趙皇后が微賤から至尊ちそんに登ったが、衛后と同類である。趙后は結局子がなく、害をなした。翌年には、とびが巣を焼き子を殺すという異変があった。天象が繰り返し現れたのは、非常に恐るべきことである。一説には、これらは皆王莽おうもうが位を簒奪する前兆だという。京房の易伝に『臣私禄しりょくくしへきせず、厥の妖鼠巣くう』とある。

原文成帝建始四年九月,長安城南有鼠銜黃蒿、柏葉,上民冢柏及榆樹上為巢,桐柏尤多。巢中無子,皆有乾鼠矢數十。時議臣以為恐有水災。鼠,盜竊小蟲,夜出晝匿;今晝去穴而登木,象賤人將居顯貴之位也。桐柏,衛思后園所在也。其後,趙皇后自微賤登至尊,與衛后同類。趙后終無子而為害。明年,有鳶焚巢,殺子之異也。天象仍見,甚可畏也。一曰,皆王莽竊位之象云。京房易傳曰:「臣私祿罔辟,厥妖鼠巢。」

文公十三年、『大室たいしつの屋壊る』。これは金が木を沴する(害する)に近く、木が動く兆候である。この前、冬に釐公が薨じ、十六ヶ月後にようやく神主しんしゅを作った。その後六月、また太廟たいびょう吉禘きってきを行い釐公を祭ったが、春秋はこれを非難している。経文に『大事を太廟にあり、釐公をせいす』とある。左氏の説によれば、太廟は周公の廟で、礼義をもって饗する所である。祀は国の大事である。太廟において国の大事を乱すことを憎んで、『大事』と言ったのである。躋は登ることで、釐公を愍公の上に登らせたのは、順序を逆にした祭祀である。釐公は愍公の庶兄しょけいではあるが、かつて愍公の臣下であった。臣下と子は同じ扱いであり、愍公の上に置くことはできない。また三年経たないうちに吉禘を行ったことは、前後して賢父聖祖の大礼を乱し、内には貌恭しからずして狂し、外には言従したがわずして僭すこととなった。そのためこの年は十二月から雨が降らず、秋七月まで続いた。その後も同様のことが三年続き、ついに太室の屋が壊れたのである。前の堂を太廟といい、中央を太室という。屋はその上にある重層の屋根で尊高いものであり、魯がこれより陵夷りょういし、周公の祭祀が廃れることの象徴である。穀梁伝こくりょうでん・公羊伝の経文には世室とあり、魯公伯きんろこうはくきんの廟である。周公の廟は太廟といい、魯公の廟は世室という。大事とは、祫祭こうさいのことである。釐公を躋すとは、先にでい(父)を祭り後に祖を祭ることである。

原文文公十三年,「大室屋壞」。近金沴木,木動也。先是,冬,釐公薨,十六月乃作主。後六月,又吉禘於太廟而致釐公,春秋譏之。經曰:「大事於太廟,躋釐公。」左氏說曰:太廟,周公之廟,饗有禮義者也;祀,國之大事也。惡其亂國之大事於太廟,故言大事也。躋,登也,登釐公於愍公上,逆祀也。釐雖愍之庶兄,嘗為愍臣,臣子一例,不得在愍上。又未三年而吉禘,前後亂賢父聖祖之大禮,內為貌不恭而狂,外為言不從而僭。故是歲自十二月不雨,至于秋七月。後年,若是者三,而太室屋壞矣。前堂曰太廟,中央曰太室;屋,其上重屋尊高者也,象魯自是陵夷,將墮周公之祀也。穀梁、公羊經曰,世室,魯公伯禽之廟也。周公稱太廟,魯公稱世室。大事者,祫祭也。躋釐公者,先禰後祖也。

景帝の三年(紀元前154年)十二月、呉の二つの城門が自然に傾き、大きな船が自然に覆った。劉向は、これは金が木を害する(金沴木)に近く、木が動く兆しであると考えた。この前に、呉王劉濞りゅうひりゅうひは太子が漢で死んだことを理由に、病気と称して朝見せず、密かに楚王劉戊りゅうぼりゅうぼと謀って反乱を企てていた。城は国に例えられる。その一つの門は楚門と名付けられ、もう一つの門は魚門と呼ばれた。呉の地では船を家とし、魚を食料としていた。天の戒めはこう言っているようである。『楚と謀ることは、国を傾け家を覆すことである』と。呉王は悟らず、正月に楚とともに兵を起こし、身は死に国は滅んだ。京房の『易伝』に言う。『上下ともに道理に背くと、その妖は城門が壊れる』と。

原文景帝三年十二月,吳二城門自傾,大船自覆。劉向以為近金沴木,木動也。先是,吳王濞以太子死於漢,稱疾不朝,陰與楚王戊謀為逆亂。城猶國也,其一門名曰楚門,一門曰魚門。吳地以船為家,以魚為食。天戒若曰,與楚所謀,傾國覆家。吳王不寤,正月,與楚俱起兵,身死國亡。京房易傳曰:「上下咸誖,厥妖城門壞。」

宣帝の時、大司馬霍禹かくうかくうの住む邸宅の門が自然に壊れた。当時、霍禹は内(朝廷内)では順わず、外(臣下として)では敬わず、戒めを見ても改めなかったので、ついに滅亡の誅罰を受けた。

原文宣帝時,大司馬霍禹所居第門自壞。時禹內不順,外不敬,見戒不改,卒受滅亡之誅。

哀帝の時、大司馬董賢とうけんとうけんの邸宅の門が自然に壊れた。当時、董賢は私的な寵愛によって高位に居り、賞賜は度を超え、驕り高ぶって不敬であり、臣下の道を大きく失い、戒めを見ても改めなかった。後に董賢夫妻は自殺し、家族は合浦に流された。

原文哀帝時,大司馬董賢第門自壞。時賢以私愛居大位,賞賜無度,驕嫚不敬,大失臣道,見戒不改。後賢夫妻自殺,家徙合浦。

言うことを従わないこと

原文言之不從

伝に言う。『言うことを従わない(言を従わず)ことを、これ「おさまらず」と言い、その咎は僭越にあり、その罰は常に陽であり、その極みは憂いである。時に詩妖しようあり、時に介虫かいちゅうの孽あり、時に犬禍あり、時に口舌こうぜつの痾あり、時に白眚はくせい白祥あり。ただ木が金を害する(木沴金)のみ』と。

原文傳曰:「言之不從,是謂不艾,厥咎僭,厥罰恆陽,厥極憂。時則有詩妖,時則有介蟲之孽,時則有犬禍,時則有口舌之痾,時則有白眚白祥。惟木沴金。」

「言之不従」の「従」は、順うことである。「是謂不乂」の「乂」は、治めることである。孔子は言う、「君子がその室に居て、その言葉が善からざれば、千里の外においてもこれに背く、ましてその近き者においてをや!」と。『詩』に云う、「せみの如くにいにいの如く、沸くが如くあつものの如し」と。これは、上の号令が民心に順わず、虚しく騒ぎ乱れれば、海内を治めることができず、たがかさにあることを失い、故にその咎は僭である。僭とは、差うことである。刑罰を妄りに加えれば、群陰ぐんいんが附かず、則ち陽気が勝ち、故にその罰は常に陽である。旱魃かんばつが百穀を損なえば、寇難こうなんがあり、上下ともに憂い、故にその極は憂いである。君が炕陽こうようにして暴虐であれば、臣は刑を畏れて柑口かんこうし、則ち怨謗えんぼうの気が歌謡に発し、故に詩妖がある。むしかいちゅうげつとは、小蟲で甲を持ち飛揚する類いを言い、陽気によって生ずるものである。春秋においてはしゅうと為し、今これをこうと言い、皆その類いである。易において、兌は口を為し、犬は吠えて守るが、信ずべからず、気が毀れる故に犬禍がある。一説には、旱年の歳には犬多く狂死し、また怪異を為す、これもまた同じである。人に及べば、多く口喉欬こうこうがいの病にかかる者があり、故に口舌痾こうぜつあがある。金色は白い、故に白眚白祥がある。凡そ「傷」と言うのは、金気を病むことである。金気が病めば、則ち木がこれを沴する。その極が憂いであるものは、これに順えば、その福を康寧こうねいと言う。劉歆が言うには、伝に曰く、時に毛蟲の孽有りと。説いて以て為すに、天文において西方の参は虎星と為し、故に毛蟲と為す。

原文「言之不從」,從,順也。「是謂不乂」,乂,治也。孔子曰:「君子居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者虖!」《詩》云:「如蜩如螗,如沸如羹。」言上號令不順民心,虛譁憒亂,則不能治海內,失在過差,故其咎僭。僭,差也。刑罰妄加,群陰不附,則陽氣勝,故其罰常陽也。旱傷百穀,則有寇難,上下俱憂,故其極憂也。君炕陽而暴虐,臣畏刑而柑口,則怨謗之氣發於歌謠,故有詩妖。介蟲孽者,謂小蟲有甲飛揚之類,陽氣所生也,於春秋為螽,今謂之蝗,皆其類也。於易,兌為口,犬以吠守,而不可信,言氣毀故有犬禍。一曰,旱歲犬多狂死及為怪,亦是也。及人,則多病口喉欬者,故有口舌痾。金色白,故有白眚白祥。凡言傷者,病金氣;金氣病,則木沴之。其極憂者,順之,其福曰康寧,劉歆言傳曰時有毛蟲之孽。說以為於天文西方參為虎星,故為毛蟲。

史記に、周の単襄公が晋の郤錡、郤犨げきちゅう郤至げきし、斉の国佐こくさと語り、魯の成公に告げて言うには、「晋に乱れ有らん、三郤さんげきそのこれに当たるか!夫れ郤氏は、晋の寵人ちょうじんなり、二卿にして五大夫、以て戒懼かいくすべし。高位は実に疾くくつがえり、厚味は実に腊毒せきどくなり。今郤伯げきはくの語は犯し、叔はし、季は伐す。犯すれば則ち人を陵ぎ、迂すれば則ち人を誣い、伐すれば則ち人をおおう。是の寵有りて、而して之に三怨をす、其れ誰か能く之を忍ばんや!斉の国子こくしも亦た将に与らんとす。淫乱の国に立ちて、而して尽言じんげんを好みて以て人の過ちを招くは、怨の本なり。唯だ善人のみ能く尽言を受く、斉に其れ有らんや?」と。十七年、晋は三郤を殺す。十八年、斉は国佐を殺す。凡そ此の属は、皆言不従の咎を言うものなり。

原文史記周單襄公與晉郤錡、郤犨、郤至、齊國佐語,告魯成公曰:「晉將有亂,三郤其當之虖!夫郤氏,晉之寵人也,二卿而五大夫,可以戒懼矣。高位實疾顛,厚味實腊毒。今郤伯之語犯,叔迂,季伐。犯則陵人,迂則誣人,伐則掩人。有是寵也,而益之以三怨,其誰能忍之!雖齊國子亦將與焉。立於淫亂之國,而好盡言以招人過,怨之本也。唯善人能受盡言,齊其有虖?」十七年,晉殺三郤。十八年,齊殺國佐。凡此屬,皆言不從之咎云。

晋の穆侯ぼくこうが条の役の時に太子を生み、之を仇と名づけ、その弟が千畝せんぽの戦いの時に生まれ、之を成師せいしと名づけた。師服しふくが言うには、「異なるかな、君の子に名づけることや!夫れ名は以て誼を制し、誼は以て礼を出だし、礼は以て政を体し、政は以て民を正す、是を以て政成りて民聴く。易われば則ち乱を生ず。嘉耦かぐうを妃と曰い、怨耦えんぐうを仇と曰うは、古の命なり。今君、太子を仇と名づけ、弟を成師と名づく、始めて乱を兆す、兄其れ替らんか!」と。仇が嗣ぎて立つに及び、是を文侯ぶんこうと為す。文侯卒し、子の昭侯しょうこう立つ。成師を曲沃きょくよくに封じ、桓叔かんしゅくと号す。後に晋人、昭侯を殺して桓叔をれんとすれど、かず。復た昭侯の子の孝侯こうこうを立てる。桓叔の子の厳伯げんぱく、之を殺す。晋人、其の弟の鄂侯がくこうを立てる。鄂侯、哀侯あいこうを生む。厳伯の子の武公ぶこう、復た哀侯及び其の弟を殺し、之を滅ぼして、代わりて晋国を有つ。

原文晉穆侯以條之役生太子,名之曰仇;其弟以千畝之戰生,名之曰成師。師服曰:「異哉,君之名子也!夫名以制誼,誼以出禮,禮以體政,政以正民,是以政成而民聽;易則生亂。嘉耦曰妃,怨耦曰仇,古之命也。今君名太子曰仇,弟曰成師,始兆亂矣,兄其替虖!」及仇嗣立,是為文侯。文侯卒,子昭侯立,封成師于曲沃,號桓叔。後晉人殺昭侯而納桓叔,不克。復立昭侯子孝侯,桓叔子嚴伯殺之。晉人立其弟鄂侯。鄂侯生哀侯,嚴伯子武公復殺哀侯及其弟,滅之,而代有晉國。

宣公六年、鄭の公子曼満まんまん王子伯廖はくりょうと語り、卿たらんと欲す。伯廖、人に告げて言うには、「徳無くして貪なれば、其れ周易の豊の離に在り、過ちを過ぎざるなり」と。一歳を間てて、鄭人、之を殺す。

原文宣公六年,鄭公子曼滿與王子伯廖語,欲為卿。伯廖告人曰:「無德而貪,其在周易豐之離,弗過之矣。」間一歲,鄭人殺之。

襄公二十九年、斉の高子容こうしようと宋の司徒しとが晋の知伯ちはくに会い、汝斉じょせいが相礼を為す。賓出でて、汝斉、知伯に語りて言うには、「二子皆将に免れざらん!子容は専なり、司徒は侈なり、皆亡家の主なり。専なれば則ちすみやかに及び、侈なれば将に其の力に以てつかれ、専なれば人実に之を敝らしめ、将に及ばん」と。九月、高子、燕に出奔す。

原文襄公二十九年,齊高子容與宋司徒見晉知伯,汝齊相禮。賓出,汝齊語知伯曰:「二子皆將不免!子容專,司徒侈,皆亡家之主也。專則速及,侈將以其力敝,專則人實敝之,將及矣。」九月,高子出奔燕。

襄公三十一年の正月、魯の穆叔が晋から帰国し、孟孝伯もうこうはくに告げて言った。「趙孟ちょうもうはまもなく死ぬであろう。その言葉は怠惰で、君主のようではない。しかも年齢はまだ五十に満たないのに、諄諄じゅんじゅんとして八、九十歳の者のようである。長くは生きられない。もし趙孟が死ねば、政を執る者は韓子かんしであろうか。あなたはどうして季孫に話さないのか。善をてることができる、君子である。」孝伯は言った。「人の一生はどれほどあるというのか。誰が怠惰でいられようか。朝には夕べのことを考えられないのに、どうして善を樹てる必要があろうか。」穆叔は人に告げて言った。「孟孫もうそんはまもなく死ぬであろう。私は趙孟の怠惰について話したが、彼はそれよりもさらにひどい。」九月、孟孝伯が卒去した。

原文襄公三十一年正月,魯穆叔會晉歸,告孟孝伯曰:「趙孟將死矣!其語偷,不似民主;且年未盈五十,而諄諄焉如八九十者,弗能久矣。若趙孟死,為政者其韓子虖?吾子盍與季孫言之?可以樹善,君子也。」孝伯曰:「民生幾何,誰能毋偷!朝不及夕,將焉用樹!」穆叔告人曰:「孟孫將死矣!吾語諸趙孟之偷也,而又甚焉。」九月,孟孝伯卒。

昭公元年、周が劉定公りゅうていこうを遣わして晋の趙孟を慰労させた。劉定公はついでに言った。「あなたは冠を戴いて諸侯に臨んでいる。どうして遠く禹の功績を継ぎ、大いに民を庇護しないのか。」趙孟は答えて言った。「この老いぼれは罪過を恐れるばかりで、どうして遠いことを思いやることができようか。我々は怠惰に食を貪り、朝には夕べのことを謀らない。どうして長く続けられようか。」劉子が帰国し、王に告げて言った。「諺にいう、老いて知恵がつくが、もうもうろくもまたそれに及ぶ、というのは、まさに趙孟のことを言うのであろう。晋の正卿として諸侯を主導しながら、隷属する者たちと同列にあり、朝には夕べのことを謀らず、神と人とを棄てている。神は怒り民は背く。どうして長く続けられようか。趙孟はもう一年も持たないであろう。」この年、秦の景公けいこうの弟の后子こうしが晋に亡命した。趙孟が尋ねた。「秦の君はどのような人物か。」后子は答えた。「無道である。」趙孟が言った。「滅びるであろうか。」后子は答えた。「なぜ滅びようか。一代が無道であっても、国はまだ衰えていない。国は天地の間にあって、それとともに立つものがある。数世代にわたって淫乱でなければ、滅びることはない。」趙孟が言った。「天はどうか。」后子は答えた。「

原文昭公元年,周使劉定公勞晉趙孟,因曰:「子弁冕以臨諸侯,盍亦遠績禹功,而大庇民乎?」對曰:「老夫罪戾是懼,焉能恤遠?吾儕偷食,朝不謀夕,何其長也?」劉子歸,以語王曰:「諺所謂老將知而耄及之者,其趙孟之謂虖!為晉正卿以主諸侯,而儕于隸人,朝不謀夕,棄神人矣。神怒民畔,何以能久?趙孟不復年矣!」是歲,秦景公弟后子奔晉,趙孟問:「秦君何如?」對曰:「無道。」趙孟曰:「亡虖?」對曰:「何為?一世無道,國未艾也。國于天地,有與立焉,不數世淫,弗能敝也。」趙孟曰:「天虖?」對曰:「

ある。」趙孟が言った。「どれくらいの期間か。」后子は答えた。「せんは聞く。国が無道であっても、年穀が穏やかに熟するのは、天がそれを助けているのであり、五年を経ないことは稀である。」趙孟は日陰を見て言った。「朝と夕べとが互いに及ばないのに、誰が五年を待てようか。」后子は退出して人に告げて言った。「趙孟はまもなく死ぬであろう。民を主導しながら歳月を遊び暮らし、日を怠っている。それでどれほど持つというのか。」冬、趙孟が卒去した。昭公五年、秦の景公が卒去した。

原文有焉。」趙孟曰:「其幾何?」對曰:「鍼聞國無道而年穀和孰,天贊之也,鮮不五稔。」趙孟視蔭,曰:「朝夕不相及,誰能待五?」后子出而告人曰:「趙孟將死矣!主民玩歲而愒日,其與幾何?」冬,趙孟卒。昭五年,秦景公卒。

昭公元年、楚の公子圍えいが会盟に参加し、服飾を設け衛兵を離れた。魯の叔孫穆子は言った。「楚の公子は美しい、君主のようだ。」伯州犁はくしゅうりは言った。「この行いについては、言葉を借りて我が君のものとしたのである。」鄭の行人こうじん子羽しうは言った。「借りたものは返さないであろう。」伯州犁は言った。「あなたはまず、子晢しせきが背き放縦になろうとしていることを憂えなさい。」子羽は言った。「借りて返さなければ、あなたは憂えないのか。」斉の国子は言った。「私はあの二人のことを気の毒に思う。」陳の公子招しょうは言った。「憂えなければどうして成し遂げられようか。あの二人は楽しんでいる。」衛の斉子せいしは言った。「もしも誰かがそれを知っているならば、たとえ憂えても害にはならない。」会合から退いた後、子羽は人に告げて言った。「斉、衛、陳の大夫たちは免れられないであろう。国子は他人のことを憂え、子招は憂いを楽しみ、斉子は憂えても害がないと言う。及ばないことを憂え、憂うべきことを楽しみ、憂えても害がないというのは、いずれも憂いを招く道である。泰誓たいせいに言う。『民の欲するところは、天必ずこれに従う。』三大夫は憂いの兆しを示した。至らないことがあろうか。言葉によって物事を知るというのは、まさにこのことを言うのであろう。」

原文昭公元年,楚公子圍會盟,設服離衛。魯叔孫穆子曰:「楚公子美矣君哉!」伯州犁曰:「此行也,辭而假之寡君。」鄭行人子羽曰:「假不反矣。」伯州犁曰:「子姑憂子晢之欲背誕也。」子羽曰:「假而不反,子其無憂虖?」齊國子曰:「吾代二子閔矣。」陳公子招曰:「不憂何成?二子樂矣!」衛齊子曰:「苟或知之,雖憂不害。」退會,子羽告人曰:「齊、衛、陳大夫其不免乎!國子代人憂,子招樂憂,齊子雖憂弗害。夫弗及而憂,與可憂而樂,與憂而弗害,皆取憂之道也。太誓曰:『民之所欲,天必從之。』三大夫兆憂矣,能無至乎!言以知物,其是之謂矣。」

昭公十五年、晋の籍談せきだんが周に赴き穆后の葬儀に参列した。喪が除かれて宴が催されると、王が言った。「諸侯は皆、王室を鎮め慰めるための貢ぎ物を捧げているのに、晋だけは何もない。これはどういうことか。」籍談が答えて言った。「諸侯が封ぜられた時、皆王室から明器(祭器)を授かりました。それ故に彝器(常設の祭器)を献上できるのです。晋は深山にあり、戎や翟と隣り合い、戎を拝礼する暇もありません。どうして器を献上できましょうか。」王は言った。「叔氏(籍談)はそれを忘れたのか。叔父である唐叔は、成王の同母弟であった。それなのに、分け前がないということがあろうか。昔、そなたの高祖は晋の典籍を司り、大正(長官)となった。それ故に籍氏と称するのだ。そなたは司典の後裔である。どうしてそれを忘れるのか。」籍談は答えることができなかった。賓客が出て行くと、王は言った。「籍父(籍談)は後を絶つであろう。典拠を数えながら、自分の祖先を忘れている。」籍談が帰国し、叔嚮しゅくきょうにこのことを話すと、叔嚮は言った。「王はその身を全うされないでしょう。私は聞く、楽しみとするものは必ずそれによって終わる、と。今、王は憂いを楽しんでおられる。もし憂いによって終わるならば、全うしたとは言えません。王は一年のうちに三年の喪が二つあるのに、この喪中に賓客を宴し、さらに彝器を求められた。憂いを楽しむこと、甚だしいです。三年の喪は、たとえ身分の高い者でも服喪を全うするのが礼です。王は服喪を全うされなかったとしても、宴楽は早すぎます。礼は、王の大いなる規範です。一つの行動で二つの礼を失い、大いなる規範がありません。言葉は典拠を考証するためのものであり、典拠は規範を記録するためのものです。規範を忘れて多くを語り典拠を挙げても、何の役に立つでしょうか。」

原文昭公十五年,晉籍談如周葬穆后,既除喪而燕,王曰:「諸侯皆有以填撫王室,晉獨無有,何也?」籍談對曰:「諸侯之封也,皆受明器於王室,故能薦彝器。晉居深山,戎翟之與鄰,拜戎不暇,其何以獻器?」王曰:「叔氏其忘諸乎!叔父唐叔,成王之母弟,其反亡分乎?昔而高祖司晉之典籍,以為大正,故曰籍氏。女,司典之後也,何故忘之?」籍談不能對。賓出,王曰:「籍父其無後乎!數典而忘其祖。」籍談歸,以語叔嚮。叔嚮曰:「王其不終乎!吾聞所樂必卒焉。今王樂憂,若卒以憂,不可謂終。王一歲而有三年之喪二焉,於是乎以喪賓燕,又求彝器,樂憂甚矣。三年之喪,雖貴遂服,禮也。王雖弗遂,燕樂已早。禮,王之大經也;一動而失二禮,無大經矣。言以考典,典以志經。忘經而多言舉典,將安用之!」

哀公十六年、孔丘(孔子)が卒去した。哀公がしのびごとを述べて言った。「昊天こうてんは憐れみ給わず、一人の長老をのこすことを惜しまれ、私一人を守ってくれる者を失わせた。」子贛(しこう、子貢)が言った。「君主は魯でその生涯を終えられないでしょう。夫子(孔子)はこう言われました。『礼を失えば昏くなり、名を失えば過ちを犯す。』志を失うことが昏さであり、言うべきことを失うことが過ちです。生きている時に用いることができず、死んでから誄を述べるのは、礼に合いません。『予一人』と称するのは、名分に合いません。君主はこの二つを失われました。」二十七年、哀公は邾に逃亡し、ついに越で亡くなった。

原文哀公十六年,孔丘卒,公誄之曰:「昊天不弔,不憖遺一老,俾屏予一人。」子贛曰:「君其不歿於魯乎?夫子之言曰:『禮失則昏,名失則愆。』失志為昏,失所謂愆。生弗能用,死而誄之,非禮也;稱『予一人』,非名也。君兩失之。」二十七年,公孫于邾,遂死於越。

庶徴(しょちょう、種々の兆し)のうち常に陽気が盛んなこと(恆陽)について、劉向は『春秋』に記される大旱だいかんのことであると考えた。その夏の旱魃に対して雩祀(うし、雨乞いの祭祀)を行うことを、大雩だいうと言う。二穀(主な穀物)に被害が及ばない旱魃を、不雨ふうと言う。京房の『易伝』に言う。「徳を用いようと欲しないことを張と言い、その災いは荒である。荒とは旱魃のことである。その旱魃は陰雲が出ても雨が降らず、変じて赤くなり、それによって除かれる。軍を出すのに時期を過ぎることを広と言い、その旱魃では作物が生えない。上下共におおわれることを隔と言い、その旱魃では天が赤く三月続き、時に雹が降って飛禽を殺す。上(君主)が妃を求めてることを僭と言い、その旱魃では三月間大いにおんかく雲がない。高い台や府に居ることを犯陰侵陽と言い、その旱魃では万物の根が枯れ死に、しばしば火災がある。庶位(多くの官位)が節度を超えることを僭と言い、その旱魃では水辺の物が枯れ、火によって傷つけられる。」

原文庶徵之恆陽,劉向以為春秋大旱也。其夏旱雩祀,謂之大雩。不傷二穀,謂之不雨。京房易傳曰:「欲德不用茲謂張,厥災荒。荒,旱也,其旱陰雲不雨,變而赤,因而除。師出過時茲謂廣,其旱不生。上下皆蔽茲謂隔,其旱天赤三月,時有雹殺飛禽。上緣求妃茲謂僭,其旱三月大溫亡雲。居高臺府,茲謂犯陰侵陽,其旱萬物根死,數有火災。庶位踰節茲謂僭,其旱澤物枯,為火所傷。」

釐公(僖公)二十一年「夏、大旱」。董仲舒と劉向は、斉の威公(桓公)が既に死に、諸侯が楚に従い、釐公(僖公)は特に楚の心を得ていたと考えた。楚が戦利品を献上しに来て、宋の捕虜を釐公(僖公)に与えた。外では強楚きょうそに頼り、陽気をたかめて衆を失い、さらに南門を造営し、民を労して役事を興した。諸々の旱魃や雨が降らないことについての説明は、ほぼ皆同じ説である。

原文釐公二十一年「夏,大旱」。董仲舒、劉向以為齊威既死,諸侯從楚,釐尤得楚心。楚來獻捷,釋宋之執。外倚彊楚,炕陽失眾,又作南門,勞民興役。諸雩旱不雨,略皆同說。

宣公七年「秋、大旱」。この夏、宣公は斉侯と共にらいを討伐した。

原文宣公七年「秋,大旱」。是夏,宣與齊侯伐萊。

襄公五年「秋、大雩(旱魃の大祭)が行われた」。これに先立って宋の魚石ぎょせきが楚に奔り、楚が宋を伐ち、彭城ほうじょうを取って魚石に封じた。鄭が中原諸国に背いて楚に附き、襄公は諸侯と共に彭城を囲み、鄭の虎牢に城を築いて楚を防いだ。この年、鄭伯が公子発を遣わして来聘し、大夫をして善道で呉と会わせた。外では二国と結び、内では鄭の聘問を得て、陽気が盛んになりすぎて民衆を動かす兆しがあった。

原文襄公五年「秋,大雩」。先是宋魚石奔楚,楚伐宋,取彭城以封魚石。鄭畔于中國而附楚,襄與諸侯共圍彭城,城鄭虎牢以禦楚。是歲鄭伯使公子發來聘,使大夫會吳于善道。外結二國,內得鄭聘,有炕陽動眾之應。

八年「九月、大雩が行われた」。この時、三軍を編成し、季氏が盛んになった。

原文八年「九月,大雩」。時作三軍,季氏盛。

二十八年「八月、大雩が行われた」。これに先立って、毎年のように晋が荀呉を、斉が慶封けいほうを遣わして来聘し、この夏には邾子が来朝した。襄公には陽気が盛んになりすぎて自らが大きくなる兆しがあった。

原文二十八年「八月,大雩」。先是,比年晉使荀吳、齊使慶封來聘,是夏邾子來朝。襄有炕陽自大之應。

昭公三年「八月、大雩が行われた」。劉歆は、昭公が即位した時十九歳であったが、なお童心があり、喪に居ても哀しまず、陽気が盛んになりすぎて衆を失ったと考えた。

原文昭公三年「八月,大雩」。劉歆以為昭公即位年十九矣,猶有童心,居喪不哀,炕陽失眾。

六年「九月、大雩が行われた」。これに先立って莒の牟夷ぼういが二邑を携えて魯に奔り、莒は怒って魯を伐ったが、叔弓が師を帥いてこれを防ぎ敗った。昭公は晋に入ることができた。外では大国と和し、内では二邑を得て、隣国に勝利したため、陽気が盛んになりすぎて民衆を動かす兆しがあった。

原文六年「九月,大雩」。先是莒牟夷以二邑來奔,莒怒伐魯,叔弓帥師,距而敗之,昭得入晉。外和大國,內獲二邑,取勝鄰國,有炕陽動眾之應。

十六年「九月、大雩を行った」。これに先立ち、昭公の母である夫人の帰氏きしが薨去したが、昭公は悲しみの色を示さず、また比蒲ひほで大規模な狩猟を行った。晋の叔嚮は言った。「魯は大喪があっても狩猟を廃止しない。国が喪を憂えず、君主を畏れない。君主に悲しみの容色がなく、親を顧みない。おそらく国を失うであろう。」三年の占いと同じである。

原文十六年「九月,大雩」。先是昭公母夫人歸氏薨,昭不慼,又大蒐于比蒲。晉叔嚮曰:「魯有大喪而不廢蒐。國不恤喪,不忌君也;君亡慼容,不顧親也。殆其失國。」與三年同占。

二十四年「八月、大雩を行った」。劉歆は、左氏伝によれば二十三年に邾の軍がよくを城し、帰途に魯の地を通った際、魯が邾の軍を襲撃して捕らえ、その三大夫を捕獲したことによるという。邾の人が晋に訴え出たため、晋人は我が国の行人(使者)である叔孫婼しゅくそんじゃくを拘束し、この春になってようやく帰した。

原文二十四年「八月,大雩」。劉歆以為左氏傳二十三年邾師城翼,還經魯地,魯襲取邾師,獲其三大夫。邾人愬于晉,晉人執我行人叔孫婼,是春乃歸之。

二十五年「七月の上辛じょうしんの日に大雩を行い、季辛きしんの日にもまた雩を行った」。旱魃が甚だしかったためである。劉歆は、当時、后氏こうしと季氏の間に確執があったことによるという。また、季氏の一族に淫らな妻が讒言を行い、季平子きへいしと族人を互いに憎悪させ、皆が共に平子を讒訴した。子家駒しかくが諫めて言った。「讒言する者が君のご威光を頼みにしています。これはいけません。」昭公はついに季氏を討伐したが、敗れて斉に逃亡した。

原文二十五年「七月上辛大雩,季辛又雩」,旱甚也。劉歆以為時后氏與季氏有隙。又季氏之族有淫妻為讒,使季平子與族人相惡,皆共譖平子。子家駒諫曰:「讒人以君徼幸,不可。」昭公遂伐季氏,為所敗,出奔齊。

定公十年「九月、大雩を行った」。これに先立ち、定公自ら軍を率いて鄭を侵し、帰還して中城ちゅうじょうを築城した。二大夫が軍を率いて鄆を包囲した。

原文定公十年「九月,大雩」。先是定公自將侵鄭,歸而城中城。二大夫帥師圍鄆。

厳公三十一年「冬、雨が降らなかった」。この年、一年のうちに三度も台を築き、奢侈にふけって民を顧みなかった。

原文嚴公三十一年「冬,不雨」。是歲,一年而三築臺,奢侈不恤民。

釐公二年に『冬十月、雨が降らない』とあり、三年に『春正月、雨が降らない、夏四月、雨が降らない』、『六月、雨が降る』とある。これに先立って、厳公の夫人が公子の慶父けいほと淫通し、二人の君主を殺害した。国人が彼らを攻撃すると、夫人は邾に逃れ、慶父は莒に逃亡した。釐公が即位すると、南で邾を破り、東で莒を破り、その大夫を捕らえた。これには旱魃の兆しが応じている。

原文釐公二年「冬十月不雨」,三年「春正月不雨,夏四月不雨」,「六月雨」。先是者,嚴公夫人與公子慶父淫,而殺二君。國人攻之,夫人遜于邾,慶父奔莒。釐公即位,南敗邾,東敗莒,獲其大夫。有炕陽之應。

文公二年に『十二月から雨が降らず、秋七月に至る』とある。文公が即位すると、天子が叔服しゅくふくを遣わして葬儀に参列させ、毛伯が爵位を授ける命を賜った。また戚で晋侯と会合した。公子の遂が斉に赴いて結納の品を納めた。さらに諸侯と盟約を結んだ。上は天子の信任を得、外には諸侯の支持を得て、勢い盛んに自らを大いなる者とし、釐公の廟を先公の上に昇格させた。大夫が初めて専権を振るうようになった。

原文文公二年,「自十有二月不雨,至于秋七月」。文公即位,天子使叔服會葬,毛伯賜命。又會晉侯于戚。公子遂如齊納幣。又與諸侯盟。上得天子,外得諸侯,沛然自大。躋釐公主。大夫始顓事。

十年に『正月から雨が降らず、秋七月に至る』とある。これに先立って、公子の遂が四か国と会合して鄭を救援した。楚が越椒えっしょうを遣わして来聘した。秦の人が葬儀の衣を贈ってきた。これには旱魃の兆しが応じている。

原文十年,「自正月不雨,至于秋七月」。先是公子遂會四國而救鄭。楚使越椒來聘。秦人歸襚。有炕陽之應。

十三年に『正月から雨が降らず、秋七月に至る』とある。これに先立って、曹伯そうはくきはく滕子とうしが来朝し、郕伯せいはくが亡命して来て、秦伯が遂を遣わして来聘し、季孫行父が諸及び鄆に城を築いた。二年の間に、五か国がこれにおもむき、国内で二つの邑に城を築いた。旱魃により人心を失った。一説には、雨が降らないのに五穀が皆熟したのは、異変であるという。文公の時代、大夫が初めて盟会を専断し、公孫敖こうそんごうが晋侯と会合し、また垂隴すいろうで諸侯と盟約を結んだ。それゆえ雨が降らないのに作物が生育するのは、陰気が気を出さずに私的に行われることを象徴し、施しが上から出ず、臣下が福を作り私的に成し遂げることを示している。一説には、雨が降らないのは常に陰気の罰に近く、君主が弱いためであるという。

原文十三年,「自正月不雨,至于秋七月」。先是曹伯、杞伯、滕子來朝,郕伯來奔,秦伯使遂來聘,季孫行父城諸及鄆。二年之間,五國趨之,內城二邑。炕陽失眾。一曰,不雨而五穀皆孰,異也。文公時,大夫始顓盟會,公孫敖會晉侯,又會諸侯盟于垂隴。故不雨而生者,陰不出氣而私自行,以象施不由上出,臣下作福而私自成。一曰,不雨近常陰之罰,君弱也。

恵帝五年の夏、大旱魃が起こり、長江や黄河の水が少なくなり、渓谷の流れが絶えた。これに先立って、民の男女十四万六千人を徴発して長安の城壁を築き、この年にようやく城が完成した。

原文惠帝五年夏,大旱,江河水少,谿谷絕。先是發民男女十四萬六千人城長安,是歲城乃成。

文帝の三年の秋、天下は旱魃に見舞われた。この年の夏、匈奴の右賢王うけんおう上郡じょうぐんに侵攻し、詔により丞相の灌嬰かんえいが車騎・騎士八万五千人を発して高奴に赴き、右賢王を撃って塞外に敗走させた。その秋、済北王の興居こうきょが反乱を起こし、大将軍を派遣して討伐させたところ、皆誅殺された。

原文文帝三年秋,天下旱。是歲夏,匈奴右賢王寇侵上郡,詔丞相灌嬰發車騎士八萬五千人詣高奴,擊右賢王走出塞。其秋,濟北王興居反,使大將軍討之,皆伏誅。

後六年の春、天下は大旱魃に見舞われた。これに先立って車騎・材官を発して広昌に駐屯させていたが、この年の二月に再び材官を発して隴西に駐屯させた。その後、匈奴が大挙して上郡・雲中うんちゅうに侵入し、烽火が長安まで届き、三将軍が辺境に駐屯し、また三将軍が京師けいしに駐屯した。

原文後六年春,天下大旱。先是發車騎材官屯廣昌,是歲二月復發材官屯隴西。後匈奴大入上郡、雲中,烽火通長安,三將軍屯邊,又三將軍屯京師。

景帝の中三年の秋、大旱魃に見舞われた。

原文景帝中三年秋,大旱。

武帝の元光六年の夏、大旱魃に見舞われた。この年、四将軍が匈奴を征討した。

原文武帝元光六年夏,大旱。是歲,四將軍征匈奴。

元朔五年の春、大旱魃に見舞われた。この年、六将軍が兵十余万を率いて匈奴を征討した。

原文元朔五年春,大旱。是歲,六將軍眾十餘萬征匈奴。

元狩げんしゅ三年(前120年)の夏、大旱魃があった。この年、天下の旧官吏を徴発して上林苑の棘を伐採させ、昆明池を掘らせた。

原文元狩三年夏,大旱。是歲發天下故吏伐棘上林,穿昆明池。

天漢元年(前100年)の夏、大旱魃があった。天漢三年(前98年)の夏、大旱魃があった。この前に貳師にし将軍(李広利)大宛だいえんを征伐して帰還していた。天漢元年には、罪人を徴発した。二年(前99年)の夏、三人の将軍が匈奴を征伐し、李陵が敗れて帰還しなかった。

原文天漢元年夏,大旱;其三年夏,大旱。先是貳師將軍征大宛還。天漢元年,發適民。二年夏,三將軍征匈奴,李陵沒不還。

征和元年(前92年)の夏、大旱魃があった。この年、三輔の騎士を徴発して長安の城門を閉ざし、大規模な捜索を行い、初めて巫蠱の罪を裁いた。翌年、衛皇后と皇太子(劉拠)が敗れた。

原文征和元年夏,大旱。是歲發三輔騎士閉長安城門,大搜,始治巫蠱。明年,衛皇后、太子敗。

昭帝の始元六年(前81年)、大旱魃があった。この前に大鴻臚(田広明)が益州を征伐し、軍隊を長年野営させていた。

原文昭帝始元六年,大旱。先是大鴻臚田廣明征益州,暴師連年。

宣帝の本始三年(前71年)の夏、大旱魃があり、東西数千里に及んだ。この前に五人の将軍が兵二十万を率いて匈奴を征伐していた。

原文宣帝本始三年夏,大旱,東西數千里。先是五將軍眾二十萬征匈奴。

神爵元年(前61年)の秋、大旱魃が起こった。この年、後将軍の趙充国ちょうじゅうこくが西羌を征討した。

原文神爵元年秋,大旱。是歲,後將軍趙充國征西羌。

成帝の永始三年(前14年)と四年(前13年)の夏、大旱魃が起こった。

原文成帝永始三年、四年夏,大旱。

『左氏伝』によれば、晋の献公の時代に童謡があった。「丙の日の朝、龍尾尾宿びしゅくが辰(日月の会合)に伏し、袀服(軍服)が整然とし、虢の旗を取る。鶉(鶉火星)が賁賁(ひかり輝き)、天策(策星)焞焞おぼろに、火中(鶉火星が南中する時)に軍を成し、虢公は奔る」と。この時、虢は小国で、夏陽のけわ阻な地に介在し、国の援助を頼みとして晋に対抗し、陽気を過度に高める(驕慢な)節度を持ち、臣下の心を失っていた。晋の献公がこれを討伐しようとし、卜偃ぼくえんに占って問うた。「私は成功するだろうか?」偃は童謡をもって答えて言った。「これを克ちます。十月の朔丙子の朝、日は尾宿にあり、月は策星にあり、鶉火星が南中する時、必ずこの時です。」冬十二月丙子の朔、晋軍は虢を滅ぼし、虢公の醜は周に逃れた。周の十二月は、夏の十月である。天を論ずる者は夏正(夏暦)を用いる。

原文《左氏傳》晉獻公時童謠曰:「丙之晨,龍尾伏辰,袀服振振,取虢之旂。鶉之賁賁,天策焞焞,火中成軍,虢公其奔。」是時虢為小國,介夏陽之阨,怙虞國之助,亢衡于晉,有炕陽之節,失臣下之心。晉獻伐之,問於卜偃曰:「吾其濟乎?」偃以童謠對曰:「克之。十月朔丙子旦,日在尾,月在策,鶉火中,必此時也。」冬十二月丙子朔,晉師滅虢,虢公醜奔周。周十二月,夏十月也。言天者以夏正。

『史記』によれば、晋の恵公の時代に童謡があった。「恭太子(申生)を改めて葬る、その後十四年、晋もまた昌えず、昌えるのはその兄にある」と。この時、恵公は秦の力を頼んで立ったが、立つと秦に背き、国内で二人の大夫を殺したため、国人は喜ばなかった。また、その兄である恭太子申生を改葬したが敬意を払わなかったので、詩妖(不吉な歌謡)が起こったのである。後に秦と戦い、秦に捕らえられ、立ってから十四年で死んだ。晋人は彼を絶ち、さらにその兄の重耳を立てた。これが文公であり、遂に諸侯の覇者となった。

原文《史記》晉惠公時童謠曰:「恭太子更葬兮,後十四年,晉亦不昌,昌乃在其兄。」是時,惠公賴秦力得立,立而背秦,內殺二大夫,國人不說。及更葬其兄恭太子申生而不敬,故詩妖作也。後與秦戰,為秦所獲,立十四年而死。晉人絕之,更立其兄重耳,是為文公,遂伯諸侯。

『左氏伝』の文公・成公の時代の童謡に曰く。「鴝鵒くぐい(きょくよく、九官鳥)よ鴝鵒よ、公が出でて辱めを受ける。鴝鵒の羽、公は外野におり、馬を贈りに行く。鴝鵒が跦跦(ちゅうちゅう、跳ねるさま)、公は乾侯におり、はかまと襦(じゅ、短い上着)を徴発する。鴝鵒の巣、遠くて遙か、裯父(昭公)は労苦に倒れ、宋父(定公)は驕る。鴝鵒よ鴝鵒よ、行く時は歌い、来る時は哭く」と。昭公の時代になると、鴝鵒が来て巣を作った。公は季氏を攻撃したが敗れ、斉に出奔し、外野に住み、次いで乾侯に滞在した。八年後、国外で死に、魯に帰って葬られた。昭公の名は裯。公子の宋が立ち、これが定公である。

原文左氏傳文、成之世童謠曰:「鴝之鵒之,公出辱之。鴝鵒之羽,公在外野,往饋之馬。鴝鵒跦跦,公在乾侯,徵褰與襦。鴝鵒之巢,遠哉搖搖,裯父喪勞,宋父以驕。鴝鵒鴝鵒,往歌來哭。」至昭公時,有鴝鵒來巢。公攻季氏,敗,出奔齊,居外野,次乾侯。八年,死于外,歸葬魯。昭公名裯。公子宋立,是為定公。

元帝の時代に童謡があった。『井戸の水が溢れ、かまどの煙を消し、玉堂を灌ぎ、金門を流れる』と。成帝の建始二年三月戊子に至り、北宮の中の井戸の水が次第に上昇し、南へ溢れ流れた。これは春秋の時代に先にカッコウの謡があり、後に来て巣を作るという応験があったのと同じである。井戸の水は陰を象徴し、かまどの煙は陽を象徴する。玉堂と金門は至尊の居所である。陰が盛んになって陽を滅ぼす象徴であり、ひそかに宮室に関する応報があることを示している。王莽は元帝の初元四年に生まれ、成帝の時代に侯に封ぜられ、三公として政を補佐し、ついに帝位を簒奪した。

原文元帝時童謠曰:「井水溢,滅灶煙,灌玉堂,流金門。」至成帝建始二年三月戊子,北宮中井泉稍上,溢出南流,象春秋時先有鴝鵒之謠,而後有來巢之驗。井水,陰也;灶煙,陽也;玉堂、金門,至尊之居:象陰盛而滅陽,竊有宮室之應也。王莽生於元帝初元四年,至成帝封侯,為三公輔政,因以篡位。

成帝の時代の童謡にこうある。『燕燕尾龚龚、張公子、時相見。木門倉琅根、燕飛來、啄皇孫、皇孫死、燕啄矢』。その後、帝は微行して出遊し、常に富平侯の張放とともに富平侯の家人と称し、河陽主のところに行って楽しみ、舞姫の趙飛燕を見て寵愛した。ゆえに『燕燕尾龚龚』とは、美しい姿をいう。『張公子』とは富平侯を指す。『木門倉琅根』とは宮門の銅環をいい、尊貴になろうとすることを言う。後に趙飛燕は皇后に立てられた。その弟の昭儀が後宮の皇子を害し、ついに皆罪に伏した。これが『燕飛來、啄皇孫、皇孫死、燕啄矢』というものである。

原文成帝時童謠曰:「燕燕尾龚龚,張公子,時相見。木門倉琅根,燕飛來,啄皇孫,皇孫死,燕啄矢。」其後帝為微行出遊,常與富平侯張放俱稱富平侯家人,過河陽主作樂,見舞者趙飛燕而幸之,故曰「燕燕尾龚龚」,美好貌也。張公子謂富平侯也。「木門倉琅根」,謂宮門銅鍰,言將尊貴也。後遂立為皇后。弟昭儀賊害後宮皇子,卒皆伏辜,所謂「燕飛來,啄皇孫,皇孫死,燕啄矢」者也。

成帝の時代の歌謡にまたこうある。『邪徑良田を敗り、讒口善人を乱す。桂樹華実せず、黄爵其の顛に巣くう。故に人の羨む所と為り、今人の憐れむ所と為る』。桂は赤色で、漢王朝の象徴である。華が実を結ばないのは、継嗣がないことである。王莽は自らを黄色の象徴と称し、黄色の雀(爵)がその頂に巣くうというのである。

原文成帝時歌謠又曰:「邪徑敗良田,讒口亂善人。桂樹華不實,黃爵巢其顛。故為人所羨,今為人所憐。」桂,赤色,漢家象。華不實,無繼嗣也。王莽自謂黃象,黃爵巢其顛也。

厳公(魯の荘公)十七年『冬、おおじか多し』。劉歆は毛虫の妖による災いと考えた。劉向は麋の色が青く、青祥に近いと考えた。麋というのは迷うという意味で、牝獣の淫らなものである。この時、厳公は斉の淫らな女を娶ろうとしていた。その象徴が先に現れ、天の戒めは『斉の女を娶るな、淫らで国を迷わすであろう』というものであった。厳公は悟らず、ついに彼女を娶った。夫人が入ると、二人の叔父(夫の弟たち)と淫らな関係を持ち、結局皆誅殺され、社稷(国家)が滅亡する寸前となった。董仲舒の指摘もほぼ同じである。京房の易伝に『正しきを廃し淫らなことを行えば、大いに明らかでなくなり、国に麋が多くなる』とある。また『震遂に泥み、厥の咎れ国に麋多し』ともある。

原文嚴公十七年「冬,多麋」。劉歆以為毛蟲之孽為災。劉向以為麋色青,近青祥也。麋之為言迷也,蓋牝獸之淫者也。是時,嚴公將取齊之淫女,其象先見,天戒若曰,勿取齊女,淫而迷國。嚴不寤,遂取之。夫人既入,淫於二叔,終皆誅死,幾亡社稷。董仲舒指略同。京房易傳曰:「廢正作淫,大不明,國多麋。」又曰:「震遂泥,厥咎國多麋。」

昭帝の時、昌邑王の劉賀が人の声で『熊』と言うのを聞き、見ると大きな熊がいた。左右の者は誰も見えず、郎中令の龔遂に問うた。龔遂は言った。『熊は山野の獣で、宮室に入ってくる。王だけがこれを見るのは、天が大王を戒めておられるのであり、恐らく宮室が空しくなり、危亡の象徴です』。劉賀は改悟せず、後に国を失った。

原文昭帝時,昌邑王賀聞人聲曰「熊」,視而見大熊。左右莫見,以問郎中令龔遂,遂曰:「熊,山野之獸,而來入宮室,王獨見之,此天戒大王,恐宮室將空,危亡象也。」賀不改寤,後卒失國。

『左氏伝』襄公十七年十一月甲午の条に、宋の国人が狂犬を追いかけ、狂犬が華臣かしんの家に入ったので、国人もそれに従って入った。華臣は恐れて、遂に陳へ逃亡した。これより先、華臣の兄のえつは宋の卿であったが、閲が亡くなると、華臣は賊を使って閲の家宰を殺害し、その妻を自分のものとした。宋の平公はこれを聞いて、「華臣は自分の宗族にさえ暴虐をふるい、宋国の政治を大いに乱している」と言い、彼を追放しようとした。左師の向戌しょうじゅつが「大臣が順逆をわきまえないのは、国の恥です。むしろ覆い隠すべきでしょう」と言ったので、平公はやめた。華臣は暴虐で道義に外れ、内心安らかでなかったため、犬の災いが到来し、逃亡するに至ったのである。

原文《左氏傳》襄公十七年十一月甲午,宋國人逐狾狗,狾狗入於華臣氏,國人從之。臣懼,遂奔陳。先是臣兄閱為宋卿,閱卒,臣使賊殺閱家宰,遂就其妻。宋平公聞之,曰:「臣不唯其宗室是暴,大亂宋國之政。」欲逐之。左師向戌曰:「大臣不順,國之恥也,不如蓋之。」公乃止。華臣炕暴失義,內不自安,故犬禍至,以奔亡也。

高后八年三月、高后は覇上で祓いを行い、帰途枳道を通りかかった時、倉犬のような物が現れ、高后の脇の下を掻き、忽ち見えなくなった。占うと、趙王如意の祟りであると言う。そこで脇の下の傷がもとで病に倒れ、崩御した。これより先、高后は如意を毒殺し、その母の戚夫人の手足を切り落とし、目を潰して人彘じんていとした。

原文高后八年三月,祓霸上,還過枳道,見物如倉狗,橶高后掖,忽而不見。卜之,趙王如意為祟。遂病掖傷而崩。先是高后鴆殺如意,支斷其母戚夫人手足,搉其服以為人彘。

文帝後五年六月、斉の雍城門の外で犬に角が生えた。これより先、帝の兄の斉悼恵王が亡くなった後、帝は斉の地を分割し、その庶子七人を皆王に立てた。兄弟が共に強力となり、驕慢な心があったため、犬の災いが現れたのである。犬は守衛の任に当たり、角は兵器の象徴で、前方にあり上を向くものである。犬に角が生えるはずがないのは、諸侯が兵を挙げて京師に向かうべきでないのと同じである。天が人に戒めを与えるのは早いが、諸侯は悟らなかった。後六年、呉・楚が反乱を起こし、済南せいなん・膠西・膠東の三国がこれに応じて兵を挙げ、斉に至った。斉王はなおも城を守って同盟を迷っていたが、三国はこれを包囲した。ちょうど漢が呉・楚を破り、それに乗じて四王を誅殺した。それゆえ、天狗が梁に降りて呉・楚が梁を攻め、犬が斉で角を生やして三国が斉を包囲したのである。漢はついに梁で呉・楚を破り、斉で四王を誅殺した。京房の易伝に言う、「政を執る者が過てば、下の者がこれを害そうとする。その妖は狗が角を生やす。君子が苟くも免れようとすれば、小人が陥れる。その妖は狗が角を生やす」。

原文文帝後五年六月,齊雍城門外有狗生角。先是帝兄齊悼惠王亡後,帝分齊地,立其庶子七人皆為王。兄弟並彊,有炕陽心,故犬禍見也。犬守御,角兵象,在前而上鄉者也。犬不當生角,猶諸侯不當舉兵鄉京師也。天之戒人蚤矣,諸侯不寤。後六年,吳、楚畔,濟南、膠西、膠東三國應之,舉兵至齊。齊王猶與城守,三國圍之。會漢破吳、楚,因誅四王。故天狗下梁而吳、楚攻梁,狗生角於齊而三國圍齊。漢卒破吳、楚於梁,誅四王於齊。京房易傳曰:「執政失,下將害之,厥妖狗生角。君子苟免,小人陷之,厥妖狗生角。」

景帝三年二月、邯鄲で犬と猪が交わった。はい乱の気が、犬と猪の災いに近づいたのである。この時、趙王遂ちょうおうすいが悖乱を起こし、呉・楚と謀って逆をなそうとし、使者を匈奴に遣わして援軍を求め、ついにその罪に伏した。犬は、兵革によって衆を失う兆しであり、猪は北方の匈奴の象徴である。逆らう言葉に耳を傾け、異類と交わることで、害が生じるのである。京房の易伝に言う、「夫婦の道が厳かでないと、その妖は狗と猪が交わる。これを反徳と言い、国に兵革がある」。

原文景帝三年二月,邯鄲狗與彘交。悖亂之氣,近犬豕之禍也。是時趙王遂悖亂,與吳、楚謀為逆,遣使匈奴求助兵,卒伏其辜。犬,兵革失眾之占;豕,北方匈奴之象。逆言失聽,交於異類,以生害也。京房易傳曰:「夫婦不嚴,厥妖狗與豕交。茲謂反德,國有兵革。」

成帝の河平元年、長安の男子石良せきりょう劉音りゅうおんが共に同居していたところ、人のような形をしたものがその家の中に現れ、それを打つと犬となり、走り去った。その後、数人が甲冑を着て兵器や弩を持って石良の家に来たので、石良らが格闘して撃つと、死んだ者も傷ついた者も皆犬であった。このことは二月から六月まで続いてやんだ。

原文成帝河平元年,長安男子石良、劉音相與同居,有如人狀在其室中,擊之,為狗,走出。去後有數人被甲持兵弩至良家,良等格擊,或死或傷,皆狗也。自二月至六月乃止。

鴻嘉年間、犬と豚が交尾した。

原文鴻嘉中,狗與彘交。

左氏伝によると、昭公二十四年十月癸酉の日、王子晁おうしちょうが成周の宝圭を黄河に沈め、神の助けを得ようとした。甲戌の日、渡し守が河岸でそれを見つけ、陰不佞いんふじょうが取って売ろうとしたところ、石に変わった。この時、王子晁は天子の位を簒奪し、万民は従わず、号令も行われなかったため、玉に異変が起こり、白祥に近い現象となった。癸酉に沈め、甲戌に現れたのは、神が受け入れなかった証拠である。玉が石に変わったのは、貴いものが賤しくなることを示す。二年後、子晁は楚に逃れて死んだ。

原文左氏昭公二十四年十月癸酉,王子晁以成周之寶圭湛于河,幾以獲神助。甲戌,津人得之河上,陰不佞取將賣之,則為石。是時王子晁篡天子位,萬民不鄉,號令不從,故有玉變,近白祥也。癸酉入而甲戌出,神不享之驗云。玉化為石,貴將為賤也。後二年,子晁奔楚而死。

史記によると、秦の始皇帝三十六年、鄭客ていかく関東かんとうから来て、華陰かいんに至り、素車白馬が華山から下りてくるのを見て、それが人でないと知り、道端で止まって待った。やがて到着し、璧を持って鄭客に言った。「私の代わりに鎬池君こうちくんに届けてくれ」と。そして「今年、祖龍そりゅうが死ぬ」と言い、忽然と消えた。鄭客が捧げた璧は、始皇帝二十八年に長江を渡った時に沈めた璧と同じものであった。周の王子晁の事件と同じ応報である。この年、石が東郡に落下し、民衆がその石に「始皇死して地分かる」と刻んだ。これらは皆、白祥であり、陽気が過剰で暴虐であり、号令が従われず、ひと陽が独り治め、群陰が付かないことによるものである。一説には、石は陰の類であり、陰が高い節操を持つと、臣下が君主を危うくするという、趙高ちょうこう李斯りしの象徴である。始皇帝は戒めを畏れず自ら省みず、かえって周囲の民衆を滅ぼし、その石を焼き払った。この年に始皇帝は死に、三年後に秦は滅亡した。

原文史記秦始皇帝三十六年,鄭客從關東來,至華陰,望見素車白馬從華山上下,知其非人,道住止而待之。遂至,持璧與客曰:「為我遺鎬池君。」因言「今年祖龍死」。忽不見。鄭客奉璧,即始皇二十八年過江所湛璧也。與周子晁同應。是歲,石隕于東郡,民或刻其石曰:「始皇死而地分。」此皆白祥,炕陽暴虐,號令不從,孤陽獨治,群陰不附之所致也。一曰,石,陰類也,陰持高節,臣將危君,趙高、李斯之象也。始皇不畏戒自省,反夷滅其旁民,而燔燒其石。是歲始皇死,後三年而秦滅。

孝昭帝の元鳳三年正月、泰山の萊蕪山らいぶさんの南で、数千人の声がごうごうと響いた。民衆が見ると、大きな石が自立し、高さ一丈五尺、周囲四十八囲、地中に八尺深く入り、三つの石が足となっていた。石が立った場所には、数千羽の白烏が集まっていた。眭孟は、石は陰の類であり、下民の象徴であり、泰山は岱宗の岳で、王者が易姓して代わることを告げる場所であるから、庶人が天子となる者が出るだろうと考えた。孟は罪に伏して誅殺された。京房の易伝に言う。「『復、崩れて来たりて咎なし』。上から下ることを崩といい、その応は泰山の石が頂から落ち、聖人が天命を受け、人君が虜となる」と。また言う。「石が人のように立つと、庶士が天下の雄となる。山に立つと同姓、平地に立つと異姓。水に立つと聖人、沢に立つと小人」と。

原文孝昭元鳳三年正月,泰山萊蕪山南匈匈有數千人聲。民視之,有大石自立,高丈五尺,大四十八圍,入地深八尺,三石為足。石立處,有白烏數千集其旁。眭孟以為石陰類,下民象,泰山岱宗之嶽,王者易姓告代之處,當有庶人為天子者。孟坐伏誅。京房易傳曰:「『復,崩來無咎。』自上下者為崩,厥應泰山之石顛而下,聖人受命人君虜。」又曰:「石立如人,庶士為天下雄。立於山,同姓;平地,異姓。立於水,聖人;於澤,小人。」

天漢元年三月、天から白い毛が降った。三年八月、天から白い牦牛もうぎゅうの毛が降った。京房の易伝に言う。「先に楽しみ後に憂いあり、その妖は天が羽を降らす」と。また言う。「邪人が進み、賢人が逃げると、天が毛を降らす」と。

原文天漢元年三月,天雨白毛;三年八月,天雨白氂。京房易傳曰:「前樂後憂,厥妖天雨羽。」又曰:「邪人進,賢人逃,天雨毛。」

『史記』周の威烈王の二十三年、九鼎が震動した。金が震動するのは、木が動かすためである。この時、周王室は衰微し、刑罰が重くて虐げ、号令に従わず、それによって金気が乱れた。鼎は宗廟の宝器である。宗廟が廃されようとし、宝鼎が移されようとしたので、震動したのである。この年、晋の三卿の韓・魏・趙が晋の君主を簒奪してその地を分け、威烈王は彼らを諸侯とすることを命じた。天子が同姓を憐れまず、その賊臣に爵位を与えたので、天下は心服しなくなった。後三世を経て、周は徳と国祚を秦に与えた。その後、秦はついに周を滅ぼし、九鼎を取った。九鼎の震動は、木が金を害し、民衆を失うことが甚だしかったのである。

原文史記周威烈王二十三年,九鼎震。金震,木動之也。是時周室衰微,刑重而虐,號令不從,以亂金氣。鼎者,宗廟之寶器也。宗廟將廢,寶鼎將遷,故震動也。是歲晉三卿韓、魏、趙篡晉君而分其地,威烈王命以為諸侯。天子不恤同姓,而爵其賊臣,天下不附矣。後三世,周致德祚於秦。其後秦遂滅周,而取九鼎。九鼎之震,木沴金,失眾甚。

成帝の元延元年正月、長安の章城門の門牡かんぼが自ら亡くなり、函谷関の次門の門牡も自ら亡くなった。京房の『易伝』に言う。「飢えても減らさないことを泰と言い、その災いは水であり、その咎は牡が亡くなることである。」妖しい言葉に言う。「関が動き牡が飛ぶ、君主は道を失った臣下が悪事を働く、その咎は乱臣が謀反を企てることである。」それ故に谷永が答えて言う。「章城門は路寝への通路であり、函谷関は山東の険阻を防ぐものである。城門と関は国を守る堅固なものである。その堅固さが去ろうとするので、門牡が飛んだのである。」

原文成帝元延元年正月,長安章城門門牡自亡,函谷關次門牡亦自亡。京房易傳曰:「飢而不損茲謂泰,厥災水,厥咎牡亡。」妖辭曰:「關動牡飛,辟為亡道臣為非,厥咎亂臣謀篡。」故谷永對曰:「章城門通路寢之路,函谷關距山東之險,城門關守國之固,固將去焉,故牡飛也。」

中之下

原文中之下

視ることが明らかでないこと

原文視之不明

伝に言う。「視ることが明らかでないことを不悊ふけつと言い、その咎は緩慢であり、その罰は常に暑く、その極みは病である。時に草妖があり、時に蠃虫らちゅうの孽があり、時に羊禍があり、時に目痾もくあがあり、時に赤眚せきせい赤祥がある。水が火を害するのみである。」

原文傳曰:「視之不明,是謂不悊,厥咎舒,厥罰恆奧,厥極疾。時則有草妖,時則有蠃蟲之孽,時則有羊禍,時則有目痾,時則有赤眚赤祥。惟水沴火。」

「視之不明,是謂不悊」とは、悊は知ることである。《詩経》に「爾の徳明らかならず、以て陪を亡ぼし卿を亡ぼす。爾の徳を明らかにせず、以て背を亡ぼし仄を亡ぼす」とある。これは、君主が明らかでなく、暗昧で蔽われわくわされると、善悪を知ることができず、親近の者に習い、同類を長び、功のない者が賞を受け、罪ある者が誅殺されず、百官が廃れて乱れ、その過失は緩慢にあるため、その咎は緩慢であるというのである。盛夏は日が長く、暑さは物を養うが、政が弛緩すると、その罰は常に暖かくなる。暖かいと冬が温かく、春夏が調和せず、民人を傷つけ病ませるため、極めて疾い災いとなる。誅罰が行われなければ霜が草を枯らさず、臣下のせいであれば殺すのに時を選ばないため、草の妖がある。およそ妖は、容貌では服に現れ、言葉では詩に現れ、聴覚では声に現れる。視覚では色に現れるもので、五色は物の大別であり、災いの兆しにあるため、聖人はこれを草の妖とし、とう治の明らかさを失ったことの表れとするのである。温暖な気候は虫を生じさせるため、裸虫らちゅうの孽があり、これはめいとうの類が死ぬべき時に死なず、生まれるべきでない時に生まれ、あるいは以前より多くなって災いとなることをいう。劉歆は、これは思心ししんの部類に属し、包容しないことによるものと考えた。易では、剛が柔を包むことを離とし、離は火であり目である。羊は上に角があり下にひづめがあり、剛が柔を包み、羊は目が大きくて明らかでなく、視気が毀れるため羊の禍がある。一説には、暑い年に羊が多く疫病で死に、また怪異となることもあり、これも同様である。人に及ぶと、目を病む者が多くなるため、目の病がある。火の色は赤いため、赤い災いの兆しと赤い祥がある。およそ視覚を損なうものは火気の病であり、火気が傷つけられると水がそれを乱す。その極めて疾い災いは、これに順じれば、その福は寿じゅと呼ばれる。劉歆の視伝には、羽虫の孽と鶏の禍がある。説明によれば、天文では南方のかいは鳥星であるため羽虫とし、禍もまた羽に従うため鶏とし、鶏は易では自ら巽にあるとする。この説は正しくない。

原文「視之不明,是謂不悊」,悊,知也。《詩》云:「爾德不明,以亡陪亡卿;不明爾德,以亡背亡仄。」言上不明,暗昧蔽惑,則不能知善惡,親近習,長同類,亡功者受賞,有罪者不殺,百官廢亂,失在舒緩,故其咎舒也。盛夏日長,暑以養物,政弛緩,故其罰常奧也。奧則冬溫,春夏不和,傷病民人,故極疾也。誅不行則霜不殺草,繇臣下則殺不以時,故有草妖。凡妖,貌則以服,言則以詩,聽則以聲。視則以色者,五色物之大分也,在於眚祥,故聖人以為草妖,失秉之明者也。溫奧生蟲,故有蠃蟲之孽,謂螟螣之類當死不死,未當生而生,或多於故而為災也。劉歆以為屬思心不容。於易,剛而包柔為離,離為火為目。羊上角下號,剛而包柔,羊大目而不精明,視氣毀故有羊禍。一曰,暑歲羊多疫死,及為怪,亦是也。及人,則多病目者,故有目痾。火色赤,故有赤眚赤祥。凡視傷者病火氣,火氣傷則水沴之。其極疾者,順之,其福曰壽。劉歆視傳曰有羽蟲之孽,雞禍。說以為於天文南方喙為鳥星,故為羽蟲;禍亦從羽,故為雞;雞於易自在巽。說非是。

庶徴の常に暖かいことについて、劉向は、春秋に氷がないと記されたことによるものと考えた。少し暖かいだけでは記されず、氷が全くない場合に初めて記されるのは、大きな事柄を挙げているのである。京房の易伝に「禄が遂に行われないことを欺という。その咎は暖かく、雨雪うせつ四至ししして温かい。臣が禄に安んじて安逸を楽しむことを乱といい、暖かくして虫が生じる。罪を知りながら誅しないことを舒といい、その暖かさは、夏には暑さが人を殺し、冬には物が花を咲かせ実を結ぶ。重い過ちを誅しないことを亡徴といい、その咎は寒くなるべき時に暖かく六日続く」とある。

原文庶徵之恆奧,劉向以為春秋亡冰也。小奧不書,無冰然後書,舉其大者也。京房易傳曰:「祿不遂行茲謂欺,厥咎奧,雨雪四至而溫。臣安祿樂逸茲謂亂,奧而生蟲。知罪不誅茲謂舒,其奧,夏則暑殺人,冬則物華實。重過不誅,茲謂亡徵,其咎當寒而奧六日也。」

桓公十五年「春、氷がない」。劉向は、周の春は現在の冬であると考えた。これに先立って隣国と連年戦争し、三度戦って二度敗れ、内では百姓を失い、外では諸侯を失い、誅罰を行うことができなかった。鄭伯の突が兄を簒奪して立ち、公(桓公)は彼と親しく交わり、同類を長く養い、善悪の罰を明らかにしなかったのである。董仲舒は、夫人が正しくなく、陰が節度を失ったことの象であると考えた。

原文桓公十五年「春,亡冰」。劉向以為周春,今冬也。先是連兵鄰國,三戰而再敗也,內失百姓,外失諸侯,不敢行誅罰,鄭伯突篡兄而立,公與相親,長養同類,不明善惡之罰也。董仲舒以為象夫人不正,陰失節也。

成公元年「二月、氷がない」。董仲舒は、ちょうど宣公の喪中であり、君臣に悲哀の心がなく、陽が亢進こうしんし、丘甲きゅうこうを作ったためであると考えた。劉向は、当時公が幼弱で、政が緩慢であったためであると考えた。

原文成公元年「二月,無冰」。董仲舒以為方有宣公之喪,君臣無悲哀之心,而炕陽,作丘甲。劉向以為時公幼弱,政舒緩也。

襄公二十八年「春、氷がない」。劉向は、これに先立って公が三軍を作り、侵陵して武力を用いる意思があり、これによって隣国が不和となり、その三つの辺境を伐たれ、兵災に十余年さらされ、それに飢饉が続き、百姓が怨望し、臣下の心が離れ、公は恐れて弛緩し、誅罰を行うことができなかった。楚にてきいてきの行いがあり、公には楚に従う心があり、善悪を明らかにしなかった応報であると考えた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。一説には、水旱の災害、寒暑の変化は天下皆同じであるため、「氷がない」のは天下が異なることであるという。桓公は兄を殺し君を弑し、外では宋の乱を成し、鄭と邑を交換し、周室に背いた。成公の時、楚が中国に横行し、王札子が召伯・毛伯を殺し、晋が天子の師を貿戎ぼうじゅうで破り、天子はいずれも討伐できなかった。襄公の時、天下の諸侯の大夫が皆国権を執り、君は制することができなかった。次第に日増しに甚だしくなり、善悪が明らかでなく、誅罰が行われなかった。周は緩慢さを失い、秦は急峻さを失ったため、周は衰えて寒い年がなくなり、秦は滅びて暖かい年がなくなったのである。

原文襄公二十八年「春,無冰」。劉向以為先是公作三軍,有侵陵用武之意,於是鄰國不和,伐其三鄙,被兵十有餘年,因之以饑饉,百姓怨望,臣下心離,公懼而弛緩,不敢行誅罰,楚有夷狄行,公有從楚心,不明善惡之應。董仲舒指略同。一曰,水旱之災,寒暑之變,天下皆同,故曰「無冰」,天下異也。桓公殺兄弒君,外成宋亂,與鄭易邑,背畔周室。成公時,楚橫行中國,王札子殺召伯、毛伯,晉敗天子之師于貿戎,天子皆不能討。襄公時,天下諸侯之大夫皆執國權,君不能制。漸將日甚,善惡不明,誅罰不行。周失之舒,秦失之急,故周衰亡寒歲,秦滅亡奧年。

武帝の元狩六年(前117年)の冬、氷が張らなかった。この前から、連年大将軍の衛青えいせい霍去病かくきょへいを派遣して祁連山を攻撃し、大砂漠を越え、単于を執拗に追撃し、首級を十余万も斬り、帰還すると盛大に慶賀とほう賞を行っていた。そこで、天下の労苦を憐れみ、この年に博士の褚大ちょだいら六人に節を持たせて天下を巡行させ、鰥寡(かんか:やもめと独り者)を慰問して賜物を与え、困窮している者には貸し与え、世に埋もれた隠逸の君子や独行の士を推挙して天子の行在所あんざいしょに赴かせた。郡や国で便宜を図るべき事があれば、丞相や御史に上申して奏聞させるようにした。天下の人々は皆喜んだ。

原文武帝元狩六年冬,亡冰。先是,比年遣大將軍衛青、霍去病攻祁連,絕大幕,窮追單于,斬首十餘萬級,還,大行慶賞。乃閔海內勤勞,是歲遣博士褚大等六人持節巡行天下,存賜鰥寡,假與乏困,舉遺逸獨行君子詣行在所。郡國有以為便宜者,上丞相、御史以聞。天下咸喜。

昭帝の始元二年(前85年)の冬、氷が張らなかった。この時、皇帝は九歳で、大将軍の霍光が政権を執り、初めて寛大で緩やかな政治を行い、民衆を喜ばせようとしていた。

原文昭帝始元二年冬,亡冰。是時上年九歲,大將軍霍光秉政,始行寬緩,欲以說下。

僖公三十三年(前627年)の「十二月、霜が降りたが草を枯らさなかった」という記事について、劉歆はこれを草の妖であると考えた。劉向は、これは現在の十月、周暦の十二月にあたるとする。易では、五のこうは天の位、君主の位である。九月に陰気が極まり、五の爻が天位に通じると、その卦ははくとなり、万物が剥落し、大いに殺伐とすることを始める。これは陰が陽の命に従い、臣下が君主の命令を受けてから殺伐とすることを明らかにしている。今、十月に霜が降りたのに草を枯らすことができないのは、君主の誅罰が行われず、緩慢であることの応である。この時、公子遂こうしすいが権力を専断し、三桓が初めて世襲の官職を得た。天の戒めはこう言っているようだ。この後、皆が乱を起こすであろう、と。文公は悟らず、その後、遂は子赤を殺し、三家は昭公を追放した。董仲舒の指摘もほぼ同じである。京房の易伝に言う。「臣下に緩慢な者がいることを『順ならざる』と言い、その異変は霜が草を枯らさないことである」。

原文僖公三十三年「十二月,隕霜不殺草」,劉歆以為草妖也。劉向以為今十月,周十二月。於易,五為天位,為君位,九月陰氣至,五通於天位,其卦為剝,剝落萬物,始大殺矣,明陰從陽命,臣受君令而後殺也。今十月隕霜而不能殺草,此君誅不行,舒緩之應也。是時公子遂顓權,三桓始世官,天戒若曰,自此之後,將皆為亂矣。文公不寤,其後遂殺子赤,三家逐昭公。董仲舒指略同。京房易傳曰:「臣有緩茲謂不順,厥異霜不殺也。」

書序に言う。「伊陟いちょく太戊たいぼの宰相となった時、亳に祥なる桑と穀が共に生えた」。伝に言う。「共に朝廷に生え、七日で両手で抱えるほど大きくなった。伊陟は徳を修めるよう戒めたところ、木は枯れた」。劉向は、殷の道が既に衰え、高宗(武丁)がその弊を受け継いで立ち上がり、涼陰(りょういん:喪に服する期間)の哀しみを尽くしたので、天下がこれに応じ、顕栄を得た後、政事に怠り、国が危うく滅びようとしていたので、桑と穀の異変が現れたのだと考えた。桑は喪(喪失)に通じ、穀は生(生長)に通じる。殺生の権柄が失われて臣下にあり、草の妖に近い。一説には、野の木が朝廷に生えて急激に成長するのは、小人が急に大臣の位に就き、国家を危うくし滅ぼすことの象徴であり、朝廷が空虚になることの応である。

原文書序曰:「伊涉相太戊,亳有祥桑穀共生。」傳曰:「俱生乎朝,七日而大拱。伊陟戒以修德,而木枯。」劉向以為殷道既衰,高宗承敝而起,盡涼陰之哀,天下應之,既獲顯榮,怠於政事,國將危亡,故桑穀之異見。桑猶喪也,穀猶生也,殺生之秉失而在下,近草妖也。一曰,野木生朝而暴長,小人將暴在大臣之位,危亡國家,象朝將為虛之應也。

書序にはまた言う。「高宗(武丁)が成湯を祭った時、はえ(ひち:飛ぶ雉)が鼎の耳に登って雊(く:鳴)いた」。祖己そきが言う。「先ず王にりて、その事を正すべし」。劉向は、雉が鳴くのは雄であり、赤色を主とする。易では、離は雉であり、雉は南方に属し、赤い祥に近い。劉歆は、羽虫(うちゅう:鳥類)の孽であると考えた。易に鼎の卦がある。鼎は宗廟の器であり、その器を主宰し宗廟を奉る者は長子である。野鳥が外から来て、宗廟の器の主となるのは、継嗣が替わろうとしていることである。一説には、鼎は三本足で三公の象徴であり、耳によって動く(持ち運ばれる)。野鳥が鼎の耳に居座るのは、小人が公の位に居座り、宗廟の祭祀を敗ることである。野木が朝廷に生え、野鳥が宗廟に入るのは、敗亡の異変である。武丁は恐れ驚き、忠賢の者に謀り、徳を修めて政事を正し、内では傅説ふえつを推挙して国政を授け、外では鬼方きほうを討伐して諸夏しょかを安んじた。それ故に木と鳥の妖を退け、百年の寿命を得ることができた。いわゆる「六沴(りくれい:六種の災い)が現れても、もしこのようにして共に防ぎ治めれば、五福が降り、下民に明らかになる」というものである。一説には、金が木に沴(れい:害)することを「木不曲直(もくふきょくちょく:木が曲直せず)」と言う。

原文書序又曰:「高宗祭成湯,有蜚雉登鼎耳而雊。」祖己曰:「惟先假王,正厥事。」劉向以為雉雊鳴者雄也,以赤色為主。於易,離為雉,雉,南方,近赤祥也。劉歆以為羽蟲之孽。易有鼎卦,鼎,宗廟之器,主器奉宗廟者長子也。野鳥自外來,入為宗廟器主,是繼嗣將易也。一曰,鼎三足,三公象,而以耳行。野鳥居鼎耳,小人將居公位,敗宗廟之祀。野木生朝,野鳥入廟,敗亡之異也。武丁恐駭,謀於忠賢,修德而正事,內舉傅說,授以國政,外伐鬼方,以安諸夏,故能攘木鳥之妖,致百年之壽,所謂「六沴作見,若是共御,五福乃降,用章于下」者也。一曰,金沴木曰木不曲直。

僖公三十三年「十二月、李梅が実をつけた」。劉向は、周の十二月は今の十月であると考え、李梅は本来ならば落葉すべき時期なのに、今は逆に花を咲かせ実をつけたのは、草の妖に近いものだとしている。先に花が咲き、後に実がなるが、『春秋』には花のことは書かず、重い方(実)を挙げている。陰が陽の事を成すもので、臣下が君主を専断して威福を振るう象徴である。一説には、冬は殺伐の時であるべきなのに、逆に生じるのは、驕った臣下が誅殺されるべきなのに、その罰が行われない象徴である。だから冬に花が咲くのは、臣下の邪な謀略に端緒があっても成就しない象徴であり、実がなるに至っては、成就してしまったのである。この時、僖公が死に、公子遂が権力を専断し、文公はそれに気づかず、後に子赤の変が起こった。一説には、君主が緩慢で怠惰すぎ、奥深い気が良くないと、花や実が再び生じる。董仲舒は、李梅が実をつけるのは、臣下が強くなることだとしている。記録に「花が咲くべきでない時に咲けば、大夫が変わる。実がなるべきでない時に実れば、相室(家宰)が変わる」とある。冬は水が王となり、木が相となるので、大臣を象徴する。劉歆は、あらゆる徴候はみな虫が災いの現れであり、思心(五事の一)の災いは蠃虫の災いであると考えた。李梅が実をつけるのは、草の妖に属する。

原文僖公三十三年「十二月,李梅實」。劉向以為周十二月,今十月也,李梅當剝落,今反華實,近草妖也。先華而後實,不書華,舉重者也。陰成陽事,象臣顓君作威福。一曰,冬當殺,反生,象驕臣當誅,不行其罰也。故冬華華者,象臣邪謀有端而不成,至於實,則成矣。是時僖公死,公子遂顓權,文公不寤,後有子赤之變。一曰,君舒緩甚,奧氣不臧,則華實復生。董仲舒以為李梅實,臣下彊也。記曰:「不當華而華,易大夫;不當實而實,易相室。」冬,水王,木相,故象大臣。劉歆以為庶徵皆以蟲為孽,思心蠃蟲孽也。李梅實,屬草妖。

恵帝五年十月、桃と李が花を咲かせ、棗が実をつけた。昭帝の時、上林苑の中の大きなりゅうの木が折れて地面に倒れていたが、ある朝、立ち上がり、枝葉を生じさせた。虫がその葉を食い、文字の形になり、「公孫病已びょういこうそんびょういりつ」とあった。また、昌邑王の国の社に枯れた木があり、再び枝葉を生じさせた。眭孟は、木は陰の類であり、下民の象徴であると考え、かつて廃絶された家の公孫氏が民間から出て天命を受けて天子となる者があるはずだと解した。昭帝はまだ若く、霍光が政権を握っていたが、孟の言葉を妖言として誅殺した。後に昭帝が崩御し、子がなかったため、昌邑王の賀を召して後を継がせたが、狂乱して道を失い、光は彼を廃し、代わりに昭帝の兄である衛太子の孫を立てた。これが宣帝である。帝の本名は病已であった。京房の『易伝』に「枯れた楊が若芽を出す、枯れた木が再び生じる、これは人君が子を失うことである」とある。

原文惠帝五年十月,桃李華,棗實。昭帝時,上林苑中大柳樹斷仆地,一朝起立,生枝葉,有蟲食其葉,成文字,曰「公孫病已立」。又昌邑王國社有枯樹復生枝葉。眭孟以為木陰類,下民象,當有故廢之家公孫氏從民間受命為天子者。昭帝富於春秋,霍光秉政,以孟妖言,誅之。後昭帝崩,無子,徵昌邑王賀嗣位,狂亂失道,光廢之,更立昭帝兄衛太子之孫,是為宣帝。帝本名病已。京房易傳曰:「枯楊生稊,枯木復生,人君亡子。」

元帝の初元四年、皇后の曾祖父である済南の東平陵とうへいりょう王伯おうはくの墓門のあずさの柱が突然、枝葉を生じ、上に向かって屋根を突き破って出た。劉向は、王氏が貴盛となり、漢王朝に代わる兆しであると考えた。後に王莽が帝位を簒奪し、自らこう説明した。「初元四年は、私(莽)が生まれた年である。漢の九世の火徳の厄年に当たり、この祥瑞が高祖(王莽の高祖父)の廟の門に起こった。門は開通を意味し、梓は子に通じる。これは王氏に賢子が現れ、祖統を開通させ、柱石たる大臣の地位から起こり、天命を受けて王となる符瑞である」。

原文元帝初元四年,皇后曾祖父濟南東平陵王伯墓門梓柱卒生枝葉,上出屋。劉向以為王氏貴盛將代漢家之象也。後王莽篡位,自說之曰:「初元四年,莽生之歲也,當漢九世火德之厄,而有此祥興於高祖考之門。門為開通,梓猶子也,言王氏當有賢子開通祖統,起於柱石大臣之位,受命而王之符也。」

建昭五年、兗州えんしゅう刺史の浩賞こうしょうは、民が私的に立てた社を禁じた。山陽郡橐たく県の茅郷ぼうきょうの社に大きなえんじゅの木があり、役人がこれを伐り倒したが、その夜、木は元の場所に再び立ち上がった。成帝の永始元年二月、河南の街の郵亭ゆうていちょの木に、人の頭のような枝が生じ、眉・目・ひげがすべて備わっていたが、髪はなかった。哀帝の建平三年十月、汝南郡西平せいへい県の遂陽郷すいようきょうの柱が地面に倒れ、人の形をした枝が生じた。体は青黄色で、顔は白く、頭にはわずかな髪があり、次第に大きくなり、全長六寸一分あった。京房の『易伝』に「王の徳が衰え、下の者が起こらんとすると、木が人の形をして生じる」とある。

原文建昭五年,兗州刺史浩賞禁民私所自立社。山陽橐茅鄉社有大槐樹,吏伐斷之,其夜樹復立其故處。成帝永始元年二月,河南街郵樗樹生支如人頭,眉目須皆具,亡髮耳。哀帝建平三年十月,汝南西平遂陽鄉柱仆地,生支如人形,身青黃色,面白,頭有务髮,稍長大,凡長六寸一分。京房易傳曰:「王德衰,下人將起,則有木生為人狀。」

哀帝の建平三年、零陵れいりょうに木が倒れていた。周囲は一丈六尺、長さは十丈七尺あった。民がその根元を九尺余り切り取ると、すべて枯れた。三月、その木は突然、元の場所に自立した。京房の『易伝』に「正しいことを捨てて淫らなことを行うと、その妖として木が自ら切り離された状態になる。妃后が専権を握ると、木が倒れて再び立ち上がり、切り枯れたものが再び生じる。天はこれを悪しきものとする」とある。

原文哀帝建平三年,零陵有樹僵地,圍丈六尺,長十丈七尺。民斷其本,長九尺餘,皆枯。三月,樹卒自立故處。京房易傳曰:「棄正作淫,厥妖木斷自屬。妃后有顓,木仆反立,斷枯復生。天辟惡之。」

元帝の永光二年八月、天から草が降り、その葉は互いに絡み合い、弾丸ほどの大きさであった。平帝の元始三年正月、天から草が降り、その様子は永光の時と同じであった。京房の易伝に言う、「君主が禄を惜しみ、信義が衰えて賢者が去ると、その妖として天から草が降る」。

原文元帝永光二年八月,天雨草,而葉相摎結,大如彈丸。平帝元始三年正月,天雨草,狀如永光時。京房易傳曰:「君吝於祿,信衰賢去,厥妖天雨草。」

昭公二十五年「夏、鴝鵒が来て巣を作った」。劉歆はこれを羽虫の孽(羽の生えた虫の災い)と考え、その色が黒いことから、また黒祥こくしょう(黒い凶兆)でもあり、目が見えず耳が聞こえないことへの罰であるとした。劉向は、蜚やがいることは「来る」と言わないのは、気によって生じたもので、いわゆる眚(せい、災い)であるが、鴝鵒が「来る」と言うのは、気によって招き寄せられたもので、いわゆる祥(しょう、兆し)であると考えた。鴝鵒は夷狄の穴に住む鳥で、中国に来て、穴を掘らずに巣を作るのは、陰が陽の位に居座ることであり、季氏が昭公を追放し、宮殿を離れて野外に住むことの象徴である。鴝鵒の白い羽は、旱魃の兆しである。穴に住み水を好み、黒色であることは、君主が急ぎ焦ることの応報である。天の戒めはこう言う、すでに民衆を失ったなら、急いで暴虐であってはならない。急ぎ暴虐であれば、陰が陽を操って君を追放し、宮殿を離れて野外に住むことになるであろう、と。昭公は悟らず、兵を挙げて季氏を包囲したが、季氏に敗れ、斉に逃亡し、遂に野外で死んだ。董仲舒の指摘もほぼ同じである。

原文昭公二十五年「夏,有鴝鵒來巢」。劉歆以為羽蟲之孽,其色黑,又黑祥也,視不明聽不聰之罰也。劉向以為有蜚有蛊不言來者,氣所生,所謂眚也;鴝鵒言來者,氣所致,所謂祥也。鴝鵒,夷狄穴藏之禽,來至中國,不穴而巢,陰居陽位,象季氏將逐昭公,去宮室而居外野也。鴝鵒白羽,旱之祥也;穴居而好水,黑色,為主急之應也。天戒若曰,既失眾,不可急暴;急暴,陰將持節陽以逐爾,去宮室而居外野矣。昭不寤,而舉兵圍季氏,為季氏所敗,出奔于齊,遂死于外野。董仲舒指略同。

景帝三年十一月、白い首の烏と黒い烏の群れが楚国の呂県で争い、白首の烏が勝てず、泗水に落ちて死んだものが数千に及んだ。劉向はこれを白黒の祥(凶兆)に近いと考えた。当時、楚王の戊は暴虐で道理に背き、申公しんこうを刑罰で辱め、呉王と謀反を企てていた。烏の群れが争うのは、軍隊が戦う象徴である。白い首のものは小さい、これは小さい者が敗れることを示している。水に落ちるのは、水辺の地で死ぬことを意味する。王戊は悟らず、遂に兵を挙げて呉に呼応し、漢と大戦し、敗走して丹徒に至り、越人に斬られ、水に落ちて死ぬという結果となった。京房の易伝に言う、「親族に逆らうと、その妖として白黒の烏が国中で争う」。

原文景帝三年十一月,有白頸烏與黑烏群鬥楚國呂縣,白頸不勝,墮泗水中,死者數千。劉向以為近白黑祥也。時楚王戊暴逆無道,刑辱申公,與吳王謀反。烏群鬥者,師戰之象也。白頸者小,明小者敗也。墮於水者,將死水地。王戊不寤,遂舉兵應吳,與漢大戰,兵敗而走,至於丹徒,為越人所斬,墮死於水之效也。京房易傳曰:「逆親親,厥妖白黑烏鬥於國。」

昭帝の元鳳元年、烏とかささぎが燕王の宮中の池の上で争い、烏が池に落ちて死んだ。これは黒祥に近い。当時、燕王の旦が乱を謀り、遂に改悟せず、罪に伏して死んだ。楚と燕はともに骨肉の藩臣であり、驕りと怨みによって謀反を企て、ともに烏と鵲が争って死ぬという凶兆があった。行いが同じで占いが一致するのは、これが天と人の関係を明らかに示す証拠である。燕では一羽の烏と鵲が宮中で争い、黒い(烏)が死んだ。楚では数万の烏が野外で争い、白い(首の烏)が死んだ。これは、燕では陰謀が未だ発動せず、ただ王が独り宮中で自殺したので、一羽の水色(黒)の鳥が死に、楚では陽気を過剰にし兵を挙げ、軍勢が野外で大敗したので、多くの金色(白)の烏が死んだという、天道の精妙な現れである。京房の易伝に言う、「征伐を専断し殺戮を働くと、その妖として烏と鵲が争う」。

原文昭帝元鳳元年,有烏與鵲鬥燕王宮中池上,烏墮池死,近黑祥也。時燕王旦謀為亂,遂不改寤,伏辜而死。楚、燕皆骨肉藩臣,以驕怨而謀逆,俱有烏鵲鬥死之祥,行同而占合,此天人之明表也。燕一烏鵲鬥於宮中而黑者死,楚以萬數鬥於野外而白者死,象燕陰謀未發,獨王自殺於宮,故一烏水色者死,楚炕陽舉兵,軍師大敗於野,故眾烏金色者死,天道精微之效也。京房易傳曰:「專征劫殺,厥妖烏鵲鬥。」

昭帝の時、鵜鶘ていこあるいは禿鶖とくしゅうが昌邑王の殿の下に集まり、王が人に命じて射殺させた。劉向は、水鳥で色が青いことから、青祥であると考えた。当時、王は馳騁に度を過ぎ、大臣を侮り慢にし、至尊(皇帝)を敬わず、服妖(衣服の乱れによる凶兆)の象があったので、青祥が現れたのである。野鳥が住処に入るのは、宮室が空しくなる前兆である。王は悟らず、ついに滅亡した。京房の易伝に言う、「有徳者を退けると、その咎は狂気にあり、その妖として水鳥が国中に集まる」。

原文昭帝時有鵜鶘或曰禿鶖,集昌邑王殿下,王使人射殺之。劉向以為水鳥色青,青祥也。時王馳騁無度,慢侮大臣,不敬至尊,有服妖之象,故青祥見也。野鳥入處,宮室將空。王不寤,卒以亡。京房易傳曰:「辟退有德,厥咎狂,厥妖水鳥集于國中。」

成帝の河平元年(前28年)二月庚子の日、泰山の山桑谷にカラスがいて、その巣を焼いた。男子の孫通らが山中で群れをなす鳥やカラスの声を聞き、見に行くと、巣が燃え落ち、すべて地面に落ちており、三羽のカラスの雛が焼け死んでいた。樹木は太さが四囲あり、巣は地面から五丈五尺の高さにあった。太守の平がこれを報告した。カラスの色は黒く、黒い災いの兆しに近く、貪欲で暴虐な類いである。《易経》に言う、「鳥がその巣を焼くのは、旅人が先に笑い後に号泣する」。泰山は岱宗であり、五嶽の長であり、王者が易姓して代わることを告げる場所である。天の戒めはこう言うようだ、貪虐な人物に近づいてはならず、その賊のような謀略を聞き入れれば、やがて巣を焼き自らの子を害し、世を絶やし姓を易える禍いが生じるだろう、と。その後、趙の飛燕が寵愛を受け、皇后に立てられ、弟は昭儀となり、姉妹が寵愛を独占した。後宮の許美人や曹偉能が皇子を生むと聞いて、昭儀は大いに怒り、皇帝に命じて奪い取らせて殺させ、皆その母も共に殺した。成帝が崩御すると、昭儀は自殺し、事は発覚し、趙皇后は誅殺された。これが「巣を焼き子を殺し、後に号泣する」ことの応報である。一説には、王莽が貪虐でありながら社稷の重責を任され、ついに易姓の禍いを成したという。京房の易伝に言う、「人君が暴虐であれば、鳥がその舎(巣)を焼く」。

原文成帝河平元年二月庚子,泰山山桑谷有觏焚其巢。男子孫通等聞山中群鳥觏鵲聲,往視,見巢萝,盡墮地中,有三觏鷇燒死。樹大四圍,巢去地五丈五尺。太守平以聞。觏色黑,近黑祥,貪虐之類也。《易》曰:「鳥焚其巢,旅人先笑後號咷。」泰山,岱宗,五嶽之長,王者易姓告代之處也。天戒若曰,勿近貪虐之人,聽其賊謀,將生焚巢自害其子絕世易姓之禍。其後趙蜚燕得幸,立為皇后,弟為昭儀,姊妹專寵,聞後宮許美人、曹偉能生皇子也,昭儀大怒,令上奪取而殺之,皆并殺其母。成帝崩,昭儀自殺,事乃發覺,趙后坐誅。此焚巢殺子後號咷之應也。一曰,王莽貪虐而任社稷之重,卒成易姓之禍云。京房易傳曰:人君暴虐,鳥焚其舍。」

鴻嘉二年(前19年)三月、博士が大射の礼を行ったとき、飛ぶキジが庭に集まり、階段を上って堂に登り鳴いた。後にキジはまた、太常・宗正・丞相・御史大夫ぎょしたいふ・大司馬車騎将軍の府にも集まり、また未央宮の承明殿の屋上にも集まった。当時、大司馬車騎将軍の王音と待詔の寵らが上言した。「天地の気は、類をもって相応じ、人君に譴責を告げるもので、非常に微かでありながら顕著です。キジは聴覚に優れ、先に雷の音を聞くので、月令に気を記すのに用いられます。経書には高宗の時にキジが鳴いた異変を載せ、禍を転じて福となす証拠を明らかにしています。今、キジが博士が礼を行う日に大衆が集まる中、飛来して庭に集まり、階段を上って堂に登り、万衆が仰ぎ見て驚き怪しみ、連日続きました。直接三公の府を経由し、太常・宗正という宗廟と骨肉の官を司る役所を経て、その後宮中に入りました。その滞在して人に告げ知らせる様は、極めて周到で痛切であり、たとえ人道で互いに戒め合うとしても、どうしてこれを上回ることがありましょうか!」後に皇帝は中常侍の晁閎を使者として王音に詔を下した。「捕らえたキジは、羽毛がかなり折れ損なっており、捕らえられた者のようだ、人の仕業ではないのか?」王音はまた答えて言った。「陛下はどうして亡国の言葉をお聞きになるのですか?誰が佞諂の計略を主導し、このように聖徳を誣いて乱しているのか知りません!左右で阿諛する者は非常に多く、臣の音がさらに諂うまでもありません。公卿以下は、位を保ち自らを守るだけで、正しいことを言う者は誰もいません。もし陛下が目覚められ、大禍がまさに御身に及ぶことを恐れ、臣下を深く責め、聖なる法で裁かれるなら、臣の音はまず誅殺を受けるべきであり、どうして自らを弁解できましょうか!今、即位して十五年になりますが、後継者が立てられず、日々車を出して遊行し、放蕩な行いが広く伝わり、海内に伝わることは、京師よりも甚だしいです。外には微行の害があり、内には疾病の憂いがあり、皇天はしばしば災異を示し、人が変革することを望んでいるのに、結局改めません。天でさえ陛下を感動させることができないのに、臣下に何の望みがありましょうか?ただ極言して死を待つだけで、命は朝か夕かです。もしそうでなければ、老いた母はどこに安住の地を得られましょうか、まだどうして皇太后がおられましょうか!高祖の天下は誰に属すべきなのでしょう!賢知と謀り、己に克ち礼に復して、天意を求められるべきです。そうすれば後継者を立てることができ、災変もまだ消すことができます。」

原文鴻嘉二年三月,博士行大射禮,有飛雉集于庭,歷階登堂而雊。後雉又集太常、宗正、丞相、御史大夫、大司馬車騎將軍之府,又集未央宮承明殿屋上。時大司馬車騎將軍王音、待詔寵等上言:「天地之氣,以類相應,譴告人君,甚微而著。雉者聽察,先聞雷聲,故月令以紀氣。經載高宗雊雉之異,以明轉禍為福之驗。今雉以博士行禮之日大眾聚會,飛集於庭,歷階登堂,萬眾睢睢,驚怪連日。徑歷三公之府,太常宗正典宗廟骨肉之官,然後入宮。其宿留告曉人,具備深切,雖人道相戒,何以過是!」後帝使中常侍晁閎詔音曰:「聞捕得雉,毛羽頗摧折,類拘執者,得無人為之?」音復對曰:「陛下安得亡國之語?不知誰主為佞諂之計,誣亂聖德如此者!左右阿諛甚眾,不待臣音復諂而足。公卿以下,保位自守,莫有正言。如令陛下覺寤,懼大禍且至身,深責臣下,繩以聖法,臣音當先受誅,豈有以自解哉!今即位十五年,繼嗣不立,日日駕車而出,泆行流聞,海內傳之,甚於京師。外有微行之害,內有疾病之憂,皇天數見災異,欲人變更,終已不改。天尚不能感動陛下,臣子何望?獨有極言待死,命在朝暮而已。如有不然,老母安得處所,尚何皇太后之有!高祖天下當以誰屬乎!宜謀於賢知,克己復禮,以求天意,繼嗣可立,災變尚可銷也。」

成帝の綏和二年(前7年)三月、天水郡平襄県に燕が雀を生み、餌を与えて育てて大きくなると、共に飛び去った。京房の易伝に言う、「賊臣が国にいれば、その咎は燕が雀を生むことであり、諸侯は消滅する」。一説には、自分の類でないものを生めば、子は世を継がない、という。

原文成帝綏和二年三月,天水平襄有燕生爵,哺食至大,俱飛去。京房易傳曰:「賊臣在國,厥咎燕生爵,諸侯銷。」一曰,生非其類,子不嗣世。

『史記』によれば、魯の定公の時代、季桓子が井戸を掘ったところ、土のつぼが出てきて、中から羊のような虫が現れた。これは羊禍に近いものである。羊は地上の生き物であるのに、土の中に閉じ込められていたことは、定公が孔子を用いずに季氏の言うことを聞いたことの象徴であり、暗愚で道理がわからないという応報である。一説には、羊が野外から離れて土の壺に拘束されたのは、魯の君主が本来の地位を失い季氏に拘束される象徴であり、季氏もまた家臣に拘束されるであろうことを示している。この年、季氏の家臣である陽虎ようこが季桓子を拘束した。その後三年して、陽虎は定公を脅迫して孟氏もうしを討伐させたが、戦いに敗れ、宝玉と大弓を盗んで逃亡した。

原文史記魯定公時,季桓子穿井,得土缶,中得蟲若羊,近羊禍也。羊者,地上之物,幽於土中,象定公不用孔子而聽季氏,暗昧不明之應也。一曰,羊去野外而拘土缶者,象魯君失其所而拘於季氏,季氏亦將拘於家臣也。是歲季氏家臣陽虎囚季桓子。後三年,陽虎劫公伐孟氏,兵敗,竊寶玉大弓而出亡。

『左氏伝』によれば、魯の襄公の時代、宋に生まれた女子が赤くて毛深かったため、堤防の下に捨てられた。宋の平公の母である共姫きょうきの侍女がこれを見つけて引き取り、それゆえに名を棄と付けた。成長して美しくなったので、平公に献上され、佐という子を生んだ。後に宋の臣下である伊戾いれいが太子の痤を讒言して殺害した。これに先立って、大夫の華元かげんは晋に亡命し、華弱は魯に、華臣は陳に、華合比かごうひは衛にそれぞれ亡命した。劉向は、この時は火災や赤い妖異よういが明らかに現れた時期であったと考えた。京房の『易伝』には、「尊卑の区別がつかなくなると、その妖として女子が生まれて赤毛になる」とある。

原文左氏傳魯襄公時,宋有生女子赤而毛,棄之隄下,宋平公母共姬之御者見而收之,因名曰棄。長而美好,納之平公,生子曰佐。後宋臣伊戾讒太子痤而殺之。先是,大夫華元出奔晉,華弱奔魯,華臣奔陳,華合比奔衛。劉向以為時則火災赤眚之明應也。京房易傳曰:「尊卑不別,厥妖女生赤毛。」

前漢の恵帝二年、宜陽ぎように血の雨が降り、一面に広がった。劉向はこれを赤い妖異であると考えた。この時はまた冬に雷が鳴り、桃や李の花が咲いた。これは常に暖かいことに対する罰である。当時は政治が緩み、諸呂が権力を握り、讒言が勝手に行われ、三人の皇子が殺され、正統でない後継者が立てられ、また立つべきでない者が王とされ、王陵おうりょう趙堯ちょうぎょう周昌しゅうしょうが退けられた。呂太后が崩御すると、大臣たちが共謀して諸呂を誅滅し、死体が転がり血が流れた。京房の『易伝』には、「罪を帰することをやめないことを、追非と言い、その咎として天が血を降らす。これを不親ふしんと言い、民に怨みの心がある。三年を出ずして、その宗族の者は絶える」とある。また、「佞人ねいじんが禄を受け、功臣が殺されると、天が血を降らす」ともある。

原文惠帝二年,天雨血於宜陽,一頃所,劉向以為赤眚也。時又冬雷,桃李華,常奧之罰也。是時政舒緩,諸呂用事,讒口妄行,殺三皇子,建立非嗣,及不當立之王,退王陵、趙堯、周昌。呂太后崩,大臣共誅滅諸呂,僵尸流血。京房易傳曰:「歸獄不解,茲謂追非,厥咎天雨血;茲謂不親,民有怨心,不出三年,無其宗人。」又曰:「佞人祿,功臣僇,天雨血。」

前漢の哀帝の建平四年四月、山陽郡の湖陵こりょうに血の雨が降り、幅三尺、長さ五尺に広がり、大きいものは銭のようで、小さいものは麻の実のようであった。その後二年して、哀帝が崩御し、王莽が朝廷の実権を握り、貴戚の丁氏ていしや傅氏を誅殺し、大臣の董賢らは皆、遠方に流罪となった。これは諸呂の時と同じである。誅殺された者が少なかったので、血の雨も少なかった。

原文哀帝建平四年四月,山陽湖陵雨血,廣三尺,長五尺,大者如錢,小者如麻子。後二年,帝崩,王莽擅朝,誅貴戚丁、傅,大臣董賢等皆放徙遠方,與諸呂同眾。誅死者少,雨血亦少。

(君主が臣下の意見を)聞いても聡明でないこと。

原文聽之不聰

伝に曰く、「聴くこと聡明ならざる、是れを謀らずと謂う。その咎は急、その罰は恒寒こうかん、その極は貧。時に則ち鼓妖こよう有り、時に則ち魚孽ぎょげつ有り、時に則ちいのこしか有り、時に則ち耳痾じあ有り、時に則ち黒眚黒祥こくせいこくしょう有り。これれ火水を沴す。」

原文傳曰:「聽之不聰,是謂不謀,厥咎急,厥罰恆寒,厥極貧。時則有鼓妖,時則有魚孽,時則有豕禍,時則有耳痾,時則有黑眚黑祥。惟火沴水。」

「聴くこと聡明ならざる、是れを謀らずと謂う」とは、上(君主)が偏って聴き聡明でなく、下情が隔絶・閉塞されると、利害を謀慮することができず、その過失は厳しく急迫にあるので、その咎(災いの原因)は「急」であるという。盛冬(厳冬)は日が短く、寒さが物を殺すように、政が促迫せっぱくしているので、その罰は常に寒いのである。寒ければ百穀が生ぜず、上下ともに貧しくなるので、その極みは「貧」である。君主が厳猛で下を閉ざし、臣下が戦慄して耳を塞ぐと、妄りに聞く気が音声に発するので、鼓妖がある。寒気が動くので、魚孽がある。雨は亀を孽とするが、亀は陸地に棲むことができ、極陰ではない。魚は水を離れて死ぬので、極陰の孽である。易では坎は豕に配当され、豕は耳が大きいが聡明に察しない。聴く気が毀れるので、豕禍がある。一説には、寒い年には豕が多く死に、また怪異となるのも、これである。人に及べば、耳の病が多いので、耳痾がある。水の色は黒いので、黒眚黒祥がある。およそ聴くことが傷つけられると水気の病となり、水気が病むと火がそれを沴(害)する。その極みである貧については、これに順えば、その福は「富」という。劉歆の『聴伝』には介虫の孽があるとし、庶徴の恒寒に配当した。劉向は、春秋時代にはその応がなく、周の末世は舒緩ゆるやか微弱で、政権が臣下にあり、ただ温かかっただけだと考える。そこで秦を引き合いに出して検証した。秦の始皇帝が即位した時はまだ幼く、政事を太后に委ねた。太后は呂不韋りょふい嫪毐ろうあいと淫乱で、毐を長信侯に封じ、太原郡を毐の国とし、宮室や苑囿えんゆうを思いのままにし、政事を断行した。それゆえ天は冬に雷を鳴らし、陽気が禁閉されず、危害に陥ることを示し、舒緩と奥暖あたたかさが迫近する変異を見せたのである。始皇が元服すると、毐は誅殺を恐れて乱を起こした。始皇はこれを誅し、数百の首を斬り、大臣二十人を皆、車裂きの刑にして晒し首にし、その宗族を滅ぼし、四千余家を房陵ぼうりょうに移した。この年の四月、寒さがあり、民に凍死者が出た。数年(の間)に、緩やかさと急迫さがこのようであり、寒さと暖かさが即座に応じた。これがその効験である。劉歆は、大雨雪、および雨雪の降るべきでない時に雨雪が降ること、および大雨雹ひょう、霜が降りて叔草(しゅくそう、豆類)を殺すこと、これらを皆、恒寒の罰であると考えた。劉向は、常雨(長雨)は貌(ぼう、容貌態度)の不恭に属すると考えた。京房の『易伝』に曰く、「徳有る者、険しきに遭う、これを逆命と謂い、その異は寒。誅するに過ぎて深し、暖かくなるべき時に寒く、六日尽き、また雹となる。正を害するを誅せざる、これを養賊と謂い、寒さ七十二日、蜚禽(ひきん、飛ぶ鳥)を殺す。道人(どうじん、有道の人)始めて去る、これを傷と謂い、その寒さ物に霜無くして死に、水涌き出づ。戦いて敵を量らず、これを辱命と謂い、その寒さ雨降れども物茂らず。善を聞きて与えず、その咎は聾。」

原文「聽之不聰,是謂不謀」,言上偏聽不聰,下情隔塞,則不能謀慮利害,失在嚴急,故其咎急也。盛冬日短,寒以殺物,政促迫,故其罰常寒也。寒則不生百穀,上下俱貧,故其極貧也。君嚴猛而閉下,臣戰栗而塞耳,則妄聞之氣發於音聲,故有鼓妖。寒氣動,故有魚孽。雨以龜為孽,龜能陸處,非極陰也;魚去水而死,極陰之孽也。於易坎為豕,豕大耳而不聰察,聽氣毀,故有豕禍也。一曰,寒歲豕多死,及為怪,亦是也。及人,則多病耳者,故有耳痾。水色黑,故有黑眚黑祥。凡聽傷者病水氣,水氣病則火沴之。其極貧者,順之,其福曰富。劉歆聽傳曰有介蟲孽也,庶徵之恆寒。劉向以為春秋無其應,周之末世舒緩微弱,政在臣下,奧煖而已,故籍秦以為驗。秦始皇帝即位尚幼,委政太后,太后淫於呂不韋及嫪毐,封毐為長信侯,以太原郡為毐國,宮室苑囿自恣,政事斷焉。故天冬雷,以見陽不禁閉,以涉危害,舒奧迫近之變也。始皇既冠,毐懼誅作亂,始皇誅之,斬首數百級,大臣二十人,皆車裂以徇,夷滅其宗,遷四千餘家於房陵。是歲四月,寒,民有凍死者。數年之間,緩急如此,寒奧輒應,此其效也。劉歆以為大雨雪,及未當雨雪而雨雪,及大雨雹,隕霜殺叔草,皆常寒之罰也。劉向以為常雨屬貌不恭。京房易傳曰:「有德遭險,茲謂逆命,厥異寒。誅過深,當奧而寒,盡六日,亦為雹。害正不誅,茲謂養賊,寒七十二日,殺蜚禽。道人始去茲謂傷,其寒物無霜而死,涌水出。戰不量敵,茲謂辱命,其寒雖雨物不茂。聞善不予,厥咎聾。」

桓公八年「十月、雨雪」。周の十月は、今の八月である。まだ雪が降るべき時ではない。劉向は、当時、夫人(文姜)に斉との淫らな行いがあり、桓公に嫉妬とこびの心があったので、夫人が殺害される象(前兆)が現れたのだと考えた。桓公は覚悟せず、後に夫人とともに斉に行き、殺害された。およそ雨は陰であり、雪はさらに雨の中の陰である。その時を外れて出現したのは、事象が迫近している象である。董仲舒は、大人(君主や権力者)が専横にふるい、陰気が盛んになった象であると考えた。

原文桓公八年「十月,雨雪」。周十月,今八月也,未可以雪,劉向以為時夫人有淫齊之行,而桓有妒媚之心,夫人將殺,其象見也。桓不覺寤,後與夫人俱如齊而殺死。凡雨,陰也,雪又雨之陰也,出非其時,迫近象也。董仲舒以為象大人專恣,陰氣盛也。

釐公(僖公)十年「冬、大雨雪」。劉向は、これに先立って釐公が妾を夫人に立て、陰が陽の位に居たので、陰気が盛んになったのだと考えた。公羊伝の経文には「大雨雹」とある。董仲舒は、公(釐公)が斉の桓公に脅迫され、妾を夫人に立て、群妾を進めることができなかったので、専一(せんいつ、偏り固執)の象が雹に現れたのだと考えた。これらは皆、ようやく脅迫されることがあったためであり、専一の政を行ったということである。

原文釐公十年「冬,大雨雪」。劉向以為先是釐公立妾為夫人,陰居陽位,陰氣盛也。公羊經曰「大雨雹」。董仲舒以為公脅於齊桓公,立妾為夫人,不敢進群妾,故專壹之象見諸雹,皆為有所漸脅也,行專壹之政云。

昭公四年「正月、大雨雪」。劉向は、昭公が呉から娶ったが同姓であったので、彼女を呉孟子ごもうしと呼んだ。君が上で行い、臣が下で非難した。また三桓(三家)がすでに強力になり、皆、公の行いを軽んじ、侮慢ぶまんの心が生じたためだと考えた。董仲舒は、季孫宿きそんしゅくが政権を任され、陰気が盛んになったためだと考えた。

原文昭公四年「正月,大雨雪」。劉向以為昭取於吳而為同姓,謂之吳孟子。君行於上,臣非於下。又三家已彊,皆賤公行,慢臢之心生。董仲舒以為季孫宿任政,陰氣盛也。

文帝(文帝)四年六月、大雨雪が降った。その三年後、淮南王の劉長りゅうちょうが謀反を企て、発覚し、流刑に処せられ、道中で死んだ。京房の『易伝』に言う。「夏に雪が降るのは、臣下が乱を起こすことを戒めるものである。」

原文文帝四年六月,大雨雪。後三歲,淮南王長謀反,發覺,遷,道死。京房易傳曰:「夏雨雪,戒臣為亂。」

景帝の中六年三月、雨雪が降った。その六月、匈奴が上郡に侵入して苑馬えんばを奪い、官吏と兵卒で戦死した者は二千余人に及んだ。翌年、条侯の周亜夫が獄に下されて死んだ。

原文景帝中六年三月,雨雪。其六月,匈奴入上郡取苑馬,吏卒戰死者二千餘人。明年,條侯周亞夫下獄死。

武帝の元狩元年十二月、大雨雪が降り、民衆の多くが凍死した。この年、淮南王と衡山王が謀反を企て、発覚し、ともに自殺した。使者が郡国を巡行し、一味を処罰したため、連座して死んだ者は数万人に上った。

原文武帝元狩元年十二月,大雨雪,民多凍死。是歲淮南、衡山王謀反,發覺,皆自殺。使者行郡國,治黨與,坐死者數萬人。

元鼎げんてい二年三月、雪が降り、平地で厚さ五尺に積もった。この年、御史大夫の張湯ちょうとうが罪を得て自殺し、丞相の厳青翟げんせいてき三長史さんちょうしと共謀して張湯を陥れた罪に連座し、青翟は自殺し、三長史は皆、棄市きしに処せられた。

原文元鼎二年三月,雪,平地厚五尺。是歲御史大夫張湯有罪自殺,丞相嚴青翟坐與三長史謀陷湯,青翟自殺,三長史皆棄市。

元鼎三年三月、水が凍り、四月に雨雪が降り、関東の十余郡で人々が共食いをした。この年、民が占緡銭せんびんせんを申告せず、告発者がいた場合、その半分を与えるという法令が施行された。

原文元鼎三年三月水冰,四月雨雪,關東十餘郡人相食。是歲,民不占緡錢有告者,以半畀之。

元帝の建昭二年(紀元前37年)十一月、斉・楚の地に大雪が降り、深さ五尺に達した。この年、魏郡太守の京房が石顕に訴えられ、妻の父である淮陽王わいようおうの舅の張博ちょうはくおよび博の弟の光と共に、淮陽王を不義に導くよう勧めた罪に連座し、博は腰斬、光と房は市で斬首に処され、御史大夫の鄭弘ていこうは連座して免官され庶人となった。成帝が即位すると、顕は罪に伏し、淮陽王は上書して博の冤罪を訴え、その言葉は誇張され、流刑に処されていた家属も帰還することができた。

原文元帝建昭二年十一月,齊楚地大雪,深五尺。是歲魏郡太守京房為石顯所告,坐與妻父淮陽王舅張博、博弟光勸視淮陽王以不義,博要斬,光、房棄市,御史大夫鄭弘坐免為庶人。成帝即位,顯伏辜,淮陽王上書冤博,辭語增加,家屬徙者復得還。

建昭四年(紀元前35年)三月、雪が降り、燕が多く死んだ。谷永が答えて言った。「皇后は桑蚕を治めて祭服を作り、天地と宗廟に奉仕するのに、ちょうどこの日に疾風が西北から吹き、大寒で雪が降り、その功績を損なったのは、皇后が正しい方向に向かっていないことを示しています。謹んで斎戒し寝室を避け、深く自らを責め、皇后には宮殿に留まり、門戸を閉ざし、勝手に上殿しないようお願いします。また、多くの妾たちに順番に伺候させ、時宜に応じて広く寵愛を施すべきです。そうすれば皇天は喜び、賢明な後継者を得られるかもしれません。もし臣の言葉を行わなければ、災異はますます甚だしくなり、天変が形を成すでしょう。臣が再び身を捨てて献策しようとしても、事が済んでしまっては間に合いません。」その後、許皇后は呪詛の罪に連座して廃位された。

原文建昭四年三月,雨雪,燕多死。谷永對曰:「皇后桑蠶以治祭服,共事天地宗廟,正以是日疾風自西北,大寒雨雪,壞敗其功,以章不鄉。宜齊戒辟寢,以深自責,請皇后就宮,鬲閉門戶,毋得擅上。且令眾妾人人更進,以時博施。皇天說喜,庶幾可以得賢明之嗣。即不行臣言,災異俞甚,天變成形,臣雖欲復捐身關策,不及事已。」其後許后坐祝詛廢。

陽朔四年(紀元前21年)四月、雪が降り、燕雀が死んだ。その後十六年、許皇后は自殺した。

原文陽朔四年四月,雨雪,燕雀死。後十六年,許皇后自殺。

定公元年(紀元前509年)『十月、霜が降りて菽(豆類)を枯らした』。劉向は、周の十月は今の八月であり、消息卦は観であり、陰気がまだ君主の位に至らないうちに殺伐が起こり、誅罰が君主から出ず、臣下にある象であると考えた。この時、季氏が昭公を追放し、昭公は国外で死に、定公が即位した。故に天は災いを現して定公に見せたのである。釐公二年(紀元前660年)『十月、霜が降りたが草を枯らさなかった』のは、嗣君が微弱で、事を執る権柄を失った象である。その後、権力が臣下に帰したので、災いがこれによって生じたのである。異(異常な事象)であるから草と言い、災いであるから菽と言い、穀物を枯らすことを重んじたのである。一説に、菽は草の中で枯れにくいものであり、菽が枯れたと言えば、草は皆枯れたと知れる。草が枯れなかったと言えば、菽も枯れなかったと知れる。董仲舒は、菽は草の中で強いものであり、天の戒めは、強臣に誅罰を加えるべきであると言っているのだと考えた。菽と言うのは、微かに季氏の罰を示すためである。

原文定公元年「十月,隕霜殺菽」。劉向以為周十月,今八月也,消卦為觀,陰氣未至君位而殺,誅罰不由君出,在臣下之象也。是時季氏逐昭公,公死于外,定公得立,故天見災以視公也。釐公二年「十月,隕霜不殺草」,為嗣君微,失秉事之象也。其後卒在臣下,則災為之生矣。異故言草,災故言菽,重殺穀。一曰菽,草之難殺者也,言殺菽,知草皆死也;言不殺草,知菽亦不死也。董仲舒以為菽,草之彊者,天戒若曰,加誅於彊臣。言菽,以微見季氏之罰也。

武帝の元光四年(紀元前131年)四月、霜が降りて草木を枯らした。この二年ほど前、五人の将軍に三十万の兵を率いさせて馬邑ばゆうの下に伏せさせ、単于を襲撃しようとしたが、単于はこれを察知して去った。この時以来、四方の夷狄への征伐が始まり、軍隊が出動すること三十余年、天下の戸口は半減した。京房の易伝に言う。「兵を興して妄りに誅殺する、これを亡法と言い、その災いは霜であり、夏には五穀を枯らし、冬には麦を枯らす。情状を酌まずに誅する、これを不仁と言い、その霜は、夏にはまず大雷風があり、冬にはまず雨があり、それから霜が降り、芒角(鋭い角)がある。賢聖が害に遭うと、その霜は木に付着して地に下らない。佞人が刑罰に依る、これを私賊と言い、その霜は草の根や土の隙間にある。教えずして誅する、これを虐と言い、その霜はかえって草の下にある。」

原文武帝元光四年四月,隕霜殺草木。先是二年,遣五將軍三十萬眾伏馬邑下,欲襲單于,單于覺之而去。自是始征伐四夷,師出三十餘年,天下戶口減半。京房易傳曰:「興兵妄誅,茲謂亡法,厥災霜,夏殺五穀,冬殺麥。誅不原情,茲謂不仁,其霜,夏先大雷風,冬先雨,乃隕霜,有芒角。賢聖遭害,其霜附木不下地。佞人依刑,茲謂私賊,其霜在草根土隙間。不教而誅茲謂虐,其霜反在草下。」

元帝の永光元年三月、霜が降り桑を枯らした。九月二日、霜が降り穀物を枯らし、天下は大飢饉となった。この時、中書令の石顕が権力を握り専権をふるい、春秋時代の定公の時に霜が降ったのと同じ応報があった。成帝が即位すると、石顕は威福をほしいままにした罪で誅殺された。

原文元帝永光元年三月,隕霜殺桑;九月二日,隕霜殺稼,天下大飢。是時中書令石顯用事專權,與春秋定公時隕霜同應。成帝即位,顯坐作威福誅。

釐公二十九年「秋、大雨雹が降った」。劉向は、盛んな陽気が雨水となり、温暖で湯のように熱い時に、陰気がこれを脅迫して互いに相容れないと、転じて雹になると考えた。盛んな陰気が雨雪となり、凝滞して氷のように寒い時に、陽気がこれを迫って互いに相容れないと、散じてあられになる。だから沸騰した湯が密閉された器の中にあり、寒泉に浸されると、氷になる。また雪が解ける時も、氷が解けて散るのと同じで、これがその証拠である。故に雹は陰が陽を脅すものであり、霰は陽が陰を脅すものである。春秋に霰を書かないのは、月食と同じである。釐公の末年は公子遂を信用し、遂は専権をほしいままにして、君主を殺すところまで至ろうとしたので、陰が陽を脅す象徴が現れた。釐公は悟らず、遂はついに専権を握り、その二年後に子赤を殺して宣公を立てた。左氏伝に曰く「聖人が上にいれば雹はなく、たとえあっても災害とはならない」。説明によれば、およそ物事が災害とならなければ書かず、書くのは大きく、災害となったことを言うのである。およそ雹はすべて、冬の陽気の過ち、夏の陰気のせん伏である。

原文釐公二十九年「秋,大雨雹」。劉向以為盛陽雨水,溫煖而湯熱,陰氣脅之不相入,則轉而為雹;盛陰雨雪,凝滯而冰寒,陽氣薄之不相入,則散而為霰。故沸湯之在閉器,而湛於寒泉,則為冰,及雪之銷,亦冰解而散,此其驗也。故雹者陰脅陽也,霰者陽脅陰也,春秋不書霰者,猶月食也。釐公末年信用公子遂,遂專權自恣,將至於殺君,故陰脅陽之象見。釐公不寤,遂終專權,後二年殺子赤,立宣公。左氏傳曰:「聖人在上無雹,雖有不為災。」說曰:凡物不為災不書,書大,言為災也。凡雹,皆冬之愆陽,夏之伏陰也。

昭公三年、「大雨雹が降った」。この時、季氏が専権を握り、君主を脅かす象徴が現れた。昭公は悟らず、後に季氏はついに昭公を追放した。

原文昭公三年,「大雨雹」。是時季氏專權,脅君之象見。昭公不寤,後季氏卒逐昭公。

元封三年十二月、雷雨とともに雹が降り、馬の頭ほどの大きさであった。宣帝の地節四年五月、山陽・済陰さいいんで鶏卵ほどの雹が降り、深さ二尺五寸、二十人を殺し、飛ぶ鳥は皆死んだ。その十月、大司馬の霍禹の宗族が謀反を企て、誅殺され、霍皇后は廃された。

原文元封三年十二月,雷雨雹,大如馬頭。宣帝地節四年五月,山陽濟陰雨雹如雞子,深二尺五寸,殺二十人,蜚鳥皆死。其十月,大司馬霍禹宗族謀反,誅,霍皇后廢。

成帝の河平二年四月、楚國そこくで斧ほどの大きさの雹が降り、飛ぶ鳥が死んだ。

原文成帝河平二年四月,楚國雨雹,大如斧,蜚鳥死。

『左伝』に言う、釐公三十二年十二月己卯の日、晋の文公が死去し、庚辰の日に曲沃にひんを送ろうとした。絳を出ると、ひつぎが牛のような声を発した。劉向はこれを鼓妖に近いものと考えた。喪は凶事であり、声が牛に似ているのは怒りの象である。急激な怒りに基づく謀略が起こり、兵革の禍が生じるであろう。この時、秦の穆公ぼくこうは兵を遣わして鄭を襲撃したが、晋に仮道(通過の許可)を求めなかった。帰還する際、晋の大夫先しんせんしんが襄公に言った、「秦軍が通過するのに仮道を求めません。これを撃つことを請います」。そこでこうの険しい地で待ち伏せし、秦軍を破った。一匹の馬、一本の車輪さえ帰らなかった。これはあまりに急激な対応であった。晋は旧来の関係を顧みず、暴虐な謀略に従い、強国と怨みを結んだ。四度にわたり秦の侵攻を受け、禍は数世代に流れた。これが凶悪な事象の結果である。

原文左傳曰釐公三十二年十二月己卯,晉文公卒,庚辰,將殯于曲沃,出絳,柩有聲如牛。劉向以為近鼓妖也。喪,凶事;聲如牛,怒象也。將有急怒之謀,以生兵革之禍。是時,秦穆公遣兵襲鄭而不假道,還,晉大夫先軫謂襄公曰,秦師過不假塗,請擊之。遂要崤阨,以敗秦師,匹馬觭輪無反者,操之急矣。晉不惟舊,而聽虐謀,結怨彊國,四被秦寇,禍流數世,凶惡之效也。

哀帝の建平二年四月乙亥の朔日、御史大夫朱博しゅはくが丞相となり、少府趙玄ちょうげんが御史大夫となった。朝廷に臨み、登殿して策書を受け取る時、鐘が鳴るような大きな音がし、殿中の郎吏や階上にいた者たちは皆それを聞いた。上(哀帝)は黄門侍郎の揚雄ようゆうと李尋に問うた。李尋は答えて言った、「『洪範』にいう鼓妖でございます。師法によれば、人君が聡明でなく、衆人に惑わされ、空名の者が登用されると、声はあっても形がなく、どこから生じたか分からないとされます。その伝に言う、歳・月・日の中にあれば、正卿がこれを受けると。今、四月の日に辰巳しんしの時を加えて異変があるのは、これが中にあたります。正卿とは執政大臣のことです。丞相と御史を退けて、天変に応ずべきです。しかし、退けなくても、一年を出ずに、その人自らが咎を受けるでしょう」。揚雄もまた鼓妖であり、聴覚の過失の象であると考えた。朱博は人となり強毅で権謀に長け、将たるべきであって相たるべきではなく、凶悪で急激な怒りがあることを恐れた。八月、朱博と趙玄は姦謀を企てた罪に問われ、朱博は自殺し、趙玄は死刑を減じられた。京房の『易伝』に言う、「令が本を修めず、下が安からず、金が故なく自ら動き、音があるがごときもの」。

原文哀帝建平二年四月乙亥朔,御史大夫朱博為丞相,少府趙玄為御史大夫,臨延登受策,有大聲如鍾鳴,殿中郎吏陛者皆聞焉。上以問黃門侍郎揚雄、李尋,尋對曰:「洪範所謂鼓妖者也。師法以為人君不聰,為眾所惑,空名得進,則有聲無形,不知所從生。其傳曰歲月日之中,則正卿受之。今以四月日加辰巳有異,是為中焉。正卿謂執政大臣也。宜退丞相、御史,以應天變。然雖不退,不出期年,其人自蒙其咎。」揚雄亦以為鼓妖,聽失之象也。朱博為人彊毅多權謀,宜將不宜相,恐有凶惡亟疾之怒。八月,博、玄坐為姦謀,博自殺,玄減死論。京房易傳曰:「令不修本,下不安,金毋故自動,若有音。」

『史記』秦の二世元年、雲がないのに雷が鳴った。劉向は、雷は雲に託すべきものであり、ちょうど君が臣に託すようなもので、陰陽の和合であると考えた。二世は天下を顧みず、万民に怨み叛く心があった。この年、陳勝ちんしょうが起こり、天下が叛き、趙高が乱を起こし、秦はついに滅亡した。一説に、『易』では震は雷であり、貌が恭しくないことの象である。

原文史記秦二世元年,天無雲而雷。劉向以為雷當託於雲,猶君託於臣,陰陽之合也。二世不恤天下,萬民有怨畔之心。是歲陳勝起,天下畔,趙高作亂,秦遂以亡。一曰,易震為雷,為貌不恭也。

『史記』秦始皇八年、黄河の魚が大量に上流へ遡った。劉向はこれを魚孽に近いものと考えた。この年、始皇の弟の長安君が兵を率いて趙を撃ったが、反逆し、屯留とんりゅうで死に、軍吏は皆斬られ、その民は臨洮りんとうに移された。翌年には嫪毒ろうあいの誅殺があった。魚は陰の類であり、民の象である。逆流して上るのは、民が君の命令に従わず、逆行することを示す。天文では、魚星が天の川の中に位置し、車騎が野に満ちる象である。二世に至って、暴虐はますます甚だしく、ついに急激な政治により滅亡した。京房の『易伝』に言う、「衆逆しゅうぎゃく同志どうし、厥の妖河魚逆流上かわうおぎゃくりゅうじょう」。

原文史記秦始皇八年,河魚大上。劉向以為近魚孽也。是歲,始皇弟長安君將兵擊趙,反,死屯留,軍吏皆斬,遷其民於臨洮。明年有嫪毒之誅。魚陰類,民之象,逆流而上者,民將不從君令為逆行也。其在天文,魚星中河而處,車騎滿野。至于二世,暴虐愈甚,終用急亡。京房易傳曰:「眾逆同志,厥妖河魚逆流上。」

武帝の元鼎五年の秋、蛙と蝦蟇がまが群れをなして闘った。この年、四将軍が兵十万を率いて南越なんえつを征伐し、九郡を開いた。

原文武帝元鼎五年秋,蛙與蝦蟆群鬥。是歲,四將軍眾十萬征南越,開九郡。

成帝の鴻嘉四年(前17年)秋、信都しんどに魚が雨のように降り、長さ五寸以下のものがあった。成帝の永始元年(前16年)春、北海ほっかいに大魚が現れ、長さ六丈、高さ一丈、四匹あった。哀帝の建平三年(前4年)東萊とうらい平度へいどに大魚が現れ、長さ八丈、高さ一丈一尺、七匹あり、皆死んでいた。京房の『易伝』に言う、「海にしばしば巨魚が現れるのは、邪な者が進み、賢人が疎遠になる(兆しである)」と。

原文成帝鴻嘉四年秋,雨魚于信都,長五寸以下。成帝永始元年春,北海出大魚,長六丈,高一丈,四枚。哀帝建平三年,東萊平度出大魚,長八丈,高丈一尺,七枚,皆死。京房易傳曰:「海數見巨魚,邪人進,賢人疏。」

桓公五年(前707年)「秋、蝗が発生した」。劉歆は、貪欲で虐げて民から取り立てると蝗が発生すると考え、甲殻類の虫のわざわいであり、魚(の異変)と同じ占いであるとした。劉向は、甲殻類の虫のわざわいは「言うことを聞かない」こと(言不従)に属すると考えた。この年、桓公は二国からの訪問を受け、鼎と引き換えに領地を取り、労役を起こして城を築いた。諸々の蝗の異変については、おおむね董仲舒の説に従っている。

原文桓公五年「秋,螽」。劉歆以為貪虐取民則螽,介蟲之孽也,與魚同占。劉向以為介蟲之孽屬言不從。是歲,公獲二國之聘,取鼎易邑,興役起城。諸螽略皆從董仲舒說云。

荘公二十九年(前665年)「蜚が発生した」。劉歆は、これは負蠜ふばんであり、性質として穀物を食べず、穀物を食べるのは災いであり、甲殻類の虫のわざわいであると考えた。劉向は、蜚の色は青く、青い災い(青眚)に近く、中原の地には本来いないものだと考えた。南越は暑さが厳しく、男女が同じ川や沢に入り、淫らな風俗から生じる虫で、臭く汚い。この時、荘公は斉の淫らな女を娶って夫人としたが、入内した後、二人の叔父(魯の公子慶父と公子牙)と淫らな関係を持ったので、蜚が現れたのである。天の戒めは言うようである、今誅し絶てばまだ間に合う、そうしなければ臭く汚いことが生じ、四方に知れ渡るであろうと。荘公は悟らなかった。その後、夫人と二人の叔父が乱を起こし、二人の後継者(子般と閔公びんこうが殺され、結局皆が罪を受けた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。

原文嚴公二十九年「有蜚」。劉歆以為負蠜也,性不食穀,食穀為災,介蟲之孽。劉向以為蜚色青,近青眚也,非中國所有。南越盛暑,男女同川澤,淫風所生,為蟲臭惡。是時嚴公取齊淫女為夫人,既入,淫於兩叔,故蜚至。天戒若曰,今誅絕之尚及,不將生臭惡,聞於四方。嚴不寤,其後夫人與兩叔作亂,二嗣以殺,卒皆被辜。董仲舒指略同。

僖公十五年(前645年)「八月、蝗が発生した」。劉向は、これに先立って僖公がかんの会盟を行い、その後、緣陵えんりょうに城を築き、この年また兵車を用いて牡丘ぼきゅうの会盟を行い、公孫敖に軍を率いさせ、諸侯や大夫とともにじょを救援させ、兵が三年にわたって外にあったためであると考えた。

原文釐公十五年「八月,螽」。劉向以為先是釐有鹹之會,後城緣陵,是歲復以兵車為牡丘會,使公孫敖帥師,及諸侯大夫救徐,兵比三年在外。

文公三年(前624年)「秋、宋に蝗が雨のように降った」。劉向は、これに先立って宋が無罪の大夫を殺したこと、暴虐な取り立てを行ったことへの応報であると考えた。『穀梁伝』には、上下(の羽)が皆合わさっていると言い、ひどい様子を述べている。董仲舒は、宋が三代にわたり(同姓から)妻を娶り、大夫が専横に振る舞い、殺生が道理に適っていなかったので、蝗が先に死んで(雨のように)降ってきたのだと考えた。劉歆は、蝗は穀物の災いであり、突然賊のような陰気に遭い、墜落して死んだのだと考えた。

原文文公三年「秋,雨螽于宋」。劉向以為先是宋殺大夫而無罪,有暴虐賦斂之應。穀梁傳曰上下皆合,言甚。董仲舒以為宋三世內取,大夫專恣,殺生不中,故螽先死而至。劉歆以為螽為穀災,卒遇賊陰,墜而死也。

八年「十月、蝗害があった」。この時、公は邾を討伐して須朐を奪い、郚に城を築いた。

原文八年「十月,螽」。時公伐邾取須朐,城郚。

宣公六年「八月、蝗害があった」。劉向は、これより先に宣が莒の向を討伐し、その後、再び斉に行き、萊を討伐することを謀ったためであると考えた。

原文宣公六年「八月,螽」。劉向以為先是時宣伐莒向,後比再如齊,謀伐萊。

十三年「秋、蝗害があった」。公孫帰父が斉と会合して莒を討伐した。

原文十三年「秋,螽」。公孫歸父會齊伐莒。

十五年「秋、蝗害があった」。宣の時代には豊作の年がなく、しばしば軍旅の事があった。

原文十五年「秋,螽」。宣亡熟歲,數有軍旅。

襄公七年「八月、蝗害があった」。劉向は、これより先に襄が軍を起こして陳を救援し、滕子・郯子たんし小邾子しょうしゅしが皆来朝したこと、夏に費に城を築いたことによるものと考えた。

原文襄公七年「八月,螽」。劉向以為先是襄興師救陳,滕子、郯子、小邾子皆來朝。夏,城費。

哀公十二年「十二月、蝗が発生した」。この時、哀公は田賦を用いた。劉向は、春に田賦を用い、冬に蝗が発生したと考えた。

原文哀公十二年「十二月,螽」。是時哀用田賦。劉向以為春用田賦,冬而螽。

十三年「九月、蝗が発生した。十二月、蝗が発生した」。この三度の蝗害は、民から虐げて取り立てた効果である。劉歆は、周の十二月は夏の十月であり、火星が既に伏し、冬ごもりの虫も全て終わっているので、天が示す異変は物類の道理に従うべきであり、蝗が発生するはずがない、この年は閏月を二度誤ったのだと考えた。周の九月は夏の七月であるから、伝に「火星がなお西に流れているのは、暦官の過ちである」と言う。

原文十三年「九月,螽;十二月,螽」。比三螽,虐取於民之效也。劉歆以為周十二月,夏十月也,火星既伏,蟄蟲皆畢,天之見變,因物類之宜,不得以螽,是歲再失閏矣。周九月,夏七月,故傳曰「火猶西流,司曆過也」。

宣公十五年「冬、蝗の幼虫が発生した」。劉歆は、蝗の幼虫とは、鉄色の羽のあるもので、穀物を食い害をなす、黒い災いであると考えた。董仲舒と劉向は、蝗の幼虫とは、螟(稲の害虫)が初めて生じたものであると考え、一説には

原文宣公十五年「冬,蝝生」。劉歆以為蝝,鐵缨之有翼者,食穀為災,黑眚也。董仲舒、劉向以為蝝,螟始生也,一曰

螟が初めて生じたものである。この時、民は力役の苦しみを患い、公田(井田制の共同耕作地)での耕作を怠った。宣公はこの時、初めて畝に税を課した(初税畝)。畝に税を課すとは、民の田畑の中から良いものを選び、その十分の一を税として取ることで、先王の制度を乱して貪利をなしたので、これに応じて蝗の幼虫が発生し、蠃虫のわざわいに属する。

原文螟始生。是時民患上力役,解於公田。宣是時初稅畝。稅畝,就民田畝擇美者稅其什一,亂先王制而為貪利,故應是而蝝生,屬蠃蟲之孽。

景帝の中三年の秋、蝗害が発生した。この前に匈奴が辺境を侵し、中尉の魏不害が車騎・材官の兵士を率いて代の高柳に駐屯した。

原文景帝中三年秋,蝗。先是匈奴寇邊,中尉不害將車騎材官士屯代高柳。

武帝の元光五年の秋、螟が発生した。六年の夏、蝗が発生した。この前、五人の将軍が兵三十万を率いて馬邑に潜伏し、単于を襲撃しようとした。この年、四将軍が匈奴を征討した。

原文武帝元光五年秋,螟;六年夏,蝗。先是,五將軍眾三十萬伏馬邑,欲襲單于也。是歲,四將軍征匈奴。

元鼎五年の秋、蝗が発生した。この年、四将軍が南越および西南夷せいなんいを征討し、十余郡を開設した。

原文元鼎五年秋,蝗。是歲,四將軍征南越及西南夷,開十餘郡。

元封六年の秋、蝗が発生した。この前、両将軍が朝鮮ちょうせんを征討し、三郡を開設した。

原文元封六年秋,蝗。先是,兩將軍征朝鮮,開三郡。

太初元年の夏、蝗が東方から飛来して敦煌とんこうに至った。三年の秋、再び蝗が発生した。元年、貳師将軍が大宛を征討し、天下がその役務を奉じて連年続いた。

原文太初元年夏,蝗從東方蜚至敦煌;三年秋,復蝗。元年貳師將軍征大宛,天下奉其役連年。

征和三年の秋、蝗が発生した。四年の夏、蝗が発生した。この前の一年、三将軍が兵十余万を率いて匈奴を征討した。征和三年、貳師将軍の七万人が没して帰還しなかった。

原文征和三年秋,蝗;四年夏,蝗。先是一年,三將軍眾十餘萬征匈奴。征和三年,貳師七萬人沒不還。

平帝の元始二年(西暦2年)の秋、蝗害が発生し、天下に広がった。この時、王莽が政権を握っていた。

原文平帝元始二年秋,蝗,遍天下。是時王莽秉政。

『左氏伝』によると、荘公八年、斉の襄公が貝丘で狩猟をしていた時、猪を見た。従者が言うには、「あれは公子彭生です」と。襄公は怒って「射よ!」と言った。猪は人のように立ち上がって啼き、襄公は恐れ、車から落ち、足を傷つけ履物を失った。劉向はこれを猪の災いの前兆と見なした。これ以前に、斉の襄公は妹である魯の桓公の夫人と淫らな関係を持ち、公子彭生に桓公を殺させ、その後、魯に謝罪するために彭生を殺した。公孫無知は先代の君主(襄公の父、僖公)に寵愛されていたが、襄公は彼を退けた。無知は恨みを持つ者たちを率いて、狩猟中の襄公を攻撃し、襄公は戸の間に隠れたが、足が戸の下から見え、ついに殺された。足を傷つけ履物を失い、結局足に関わることで死んだのは、苛酷で急激な政治の結果である。

原文左氏傳曰嚴公八年齊襄公田于貝丘,見豕。從者曰:「公子彭生也。」公怒曰:「射之!」豕人立而啼,公懼,墜車,傷足喪屨。劉向以為近豕禍也。先是,齊襄淫於妹魯桓公夫人,使公子彭生殺威公,又殺彭生以謝魯。公孫無知有寵於先君,襄公絀之,無知帥怨恨之徒攻襄於田所,襄匿其戶間,足見於戶下,遂殺之。傷足喪屨,卒死於足,虐急之效也。

昭帝の元鳳元年(紀元前80年)、燕王劉旦りゅうたんの宮殿の永巷(後宮の長い通路)から猪がかわやから出てきて、大きなかまどを壊し、そのなべ六、七枚をくわえて殿前(宮殿の前)に置いた。劉向はこれを猪の災いの前兆と見なした。当時、燕王旦は長公主(武帝の娘、蓋長公主)や左将軍上官桀らと謀って大逆を企て、諫める者を誅殺し、暴虐で急激で道に外れていた。かまどは、生養(生活と養育)の根本である。猪がかまどを壊し、釜を庭に並べたのは、釜とかまどが用いられなくなり、宮室が廃れて辱めを受けることを示していた。燕王は改めず、ついにその罪に伏した。京房の『易伝』に言う、「衆人の心が君主の政治に安んじない時、その妖は猪が居室に入る」。

原文昭帝元鳳元年,燕王宮永巷中豕出圂,壞都灶,銜其釜六七枚置殿前。劉向以為近豕禍也。時燕王旦與長公主、左將軍謀為大逆,誅殺諫者,暴急無道。灶者,生養之本,豕而敗灶,陳釜於庭,釜灶將不用,宮室將廢辱也。燕王不改,卒伏其辜。京房易傳曰:「眾心不安君政,厥妖豕入居室。」

『史記』によると、魯の襄公二十三年(紀元前550年)、穀水と洛水が衝突し、王宮を破壊しようとした。劉向はこれを火が水を害する(火沴水)現象の前兆と見なした。周の霊王れいおう(水を)せき止めようとした時、役人が諫めて言った。「いけません。民を治める者は、沼沢を埋め立てず、山を崩さず、川を防ぎ止めず、沢に穴を開けません。今、我が執政(王)は恐らく何か偏ったことをなさり、この二つの川の神の心を乱し、互いに明らかさを争わせ、王の宮室を害するに至らせようとしています。王がそれを(堤防で)飾り立てるのは、恐らくよろしくないでしょう。子孫にまで災いが及び、王室はますます卑しくなります」。王は結局(水を)せき止めた。伝(『左伝』などの解釈)によって推測すると、四瀆(長江・黄河・淮河・済水)を諸侯に例え、穀水と洛水はその次で、卿大夫の象徴である。卿大夫が分かれて争い、王室を危うくし乱すことを示していた。当時は世襲の卿が権力を専断し、儋括(周の大夫)が簒奪殺害の企てを持っていた。もし霊王が目覚め、その失政を正し、戒めとして恐れ慎んだならば、災禍は除かれたであろう。(王は)諫言や謀略に耳を貸さず、重大な異変を軽んじ侮り、私心のままに任せ、低地を塞ぎ下流をせき止めて、水勢に逆らい鬼神を害した。その後数年して、太陽のように黒いものが五つ現れた。この年は早霜が降り、霊王は崩御した。景王が立って二年目、儋括が王を殺し、王の弟の佞夫を立てようとした。佞夫は知らなかったが、景王は佞夫をも誅殺した。景王が死ぬと、五大夫(五人の大夫)が権力を争い、ある者は子の猛(悼王)を立て、ある者は子の朝王子朝おうしちょうを立て、王室は大混乱に陥った。京房の『易伝』に言う、「天子が弱く、諸侯が力を以て政治を行う時、その異変は水が争う」。

原文史記魯襄公二十三年,穀、洛水鬥,將毀王宮。劉向以為近火沴水也。周靈王將擁之,有司諫曰:「不可。長民者不崇藪,不墮山,不防川,不竇澤。今吾執政毋乃有所辟,而滑夫二川之神,使至于爭明,以防王宮室,王而飾之,毋乃不可乎!懼及子孫,王室愈卑。」王卒擁之。以傳推之,以四瀆比諸侯,穀、洛其次,卿大夫之象也,為卿大夫將分爭以危亂王室也。是時世卿專權,儋括將有篡殺之謀,如靈王覺寤,匡其失政,懼以承戒,則災禍除矣。不聽諫謀,簡嫚大異,任其私心,塞埤擁下,以逆水勢而害鬼神。後數年有黑如日者五。是歲蚤霜,靈王崩。景王立二年,儋括欲殺王,而立王弟佞夫。佞夫不知,景王并誅佞夫。及景王死,五大夫爭權,或立子猛,或立子朝,王室大亂。京房易傳曰:「天子弱,諸侯力政,厥異水鬥。」

『史記』によると、秦の武王三年(紀元前308年)、渭水が三日間赤くなり、昭王しょうおう三十四年(紀元前273年)にも渭水が再び三日間赤くなった。劉向はこれを火が水を害する(火沴水)現象の前兆と見なした。秦は連座の法を敷き、道に灰を捨てた者に黥刑(入れ墨)を加え、法網は密で刑罰は残酷であり、さらに武力による征伐を横行させ、隣国を残虐に害した。そのため五行が変乱し、気色が謬乱した。天の戒めは言う、「苛酷で急激なことをするな、そうすれば敗亡を招くだろう」と。秦は遂に改めず、始皇帝に至って六国を滅ぼし、二代亥)で滅亡した。昔、夏・殷・周の三代は三河(黄河中流域)に都を置き、河や洛から図書(河図洛書)が現れた。秦は渭水の北岸に都を置いたが、渭水がしばしば赤くなったのは、瑞祥や異変がその徳に応じる結果である。京房の『易伝』に言う、「君主が酒に溺れ、色に淫り、賢人が潜み、国家が危うい時、その異変は流れる水が赤くなる」。

原文史記曰,秦武王三年渭水赤者三日,昭王三十四年渭水又赤三日。劉向以為近火沴水也。秦連相坐之法,棄灰於道者黥,罔密而刑虐,加以武伐橫出,殘賊鄰國,至於變亂五行,氣色謬亂。天戒若曰,勿為刻急,將致敗亡。秦遂不改,至始皇滅六國,二世而亡。昔三代居三河,河洛出圖書,秦居渭陽,而渭水數赤,瑞異應德之效也。京房易傳曰:「君湎于酒,淫于色,賢人潛,國家危,厥異流水赤也。」

下の上

原文下之上

思心が聡明でないこと

原文思心之不睿

伝に言う。「思心が聡明でないことを、これは聖でないという。その咎は蒙昧であり、その罰は常に風が吹くことであり、その極みは凶短折きょうたんせつである。時に脂夜しようの妖があり、時に華孽かげつがあり、時に牛禍ぎゅうかがあり、時に心腹しんぷくの痾があり、時に黄眚黄祥こうせいこうしょうがあり、時に金木水火が土を沴する。」

原文傳曰:「思心之不睿,是謂不聖,厥咎霿,厥罰恆風,厥極凶短折。時則有脂夜之妖,時則有華孽,時則有牛禍,時則有心腹之痾,時則有黃眚黃祥,時則有金木水火沴土。」

「思心が聡明でないことを、これは聖でないという。」思心とは、心が思慮することである。えいとは、寛大であることである。孔子が言われた。「上に位して寛大でなければ、私は何をもって観察できようか!」これは、君主が臣下を寛大に包容しなければ、聖位に居ることができないという意味である。貌・言・視・聴は、心を主とし、この四つがすべて失われると、蒙昧で無知となる。だからその咎は蒙昧なのである。雨・旱・寒・奥(暖かさ)もまた、風を根本とし、四気がすべて乱れると、その罰は常に風が吹くのである。常に風が吹くと物を傷つけるので、その極みは凶短折となる。人を傷つけることを凶といい、禽獣きんじゅうを傷つけることを短といい、草木を傷つけることを折という。一説には、凶とは夭折であり、兄が弟を喪うことを短といい、父が子を喪うことを折という。人の腹の中にあり、肥えて心を包み込むものを脂という。心が蒙昧だと暗く曇るので、脂夜の妖がある。一説には、脂物があり、夜に妖となる。例えば脂水が夜に人の衣を汚すようなもので、淫の象である。一説には、夜妖やようとは、雲と風がともに起こって暗くなることで、常風と同じ象である。温かくて風が吹くと螟螣めいとうが生じ、裸蟲らちゅうの孽がある。劉向は、易では巽が風であり木であると考えた。卦は三月・四月にあり、陽に継いで治め、木の花と実を主る。風気が盛んになると、秋冬になっても木が再び花を咲かせるので、華孽がある。一説には、地気が盛んになると秋冬に再び花が咲く。一説には、華とは色のことであり、土は内事に属し、女孽じょげつである。易では坤が土であり牛である。牛は心が大きくて思慮することができず、思心の気が毀れるので、牛禍がある。一説には、牛が多く死んだり怪異をなすことも、これである。人に及ぶと、心腹の病を患う者が多くなるので、心腹の痾がある。土の色は黄であるので、黄眚黄祥がある。およそ思心が傷つくと土気が病み、土気が病むと金木水火がこれを沴する。だから「時に金木水火が土を沴する」と言うのである。「惟」と言わずにただ「時に…有り」と言うのは、一つの衝気によって沴されるのではなく、その異変が大きいことを明らかにしているのである。その極みを凶短折といい、これに順えば、その福を考終命こうしゅうめいという。劉歆の『思心伝』には、時に臝蟲らちゅうの孽があると言い、螟螣の類を指す。庶徴の常風について、劉向は春秋時代にはその応がないと考えた。

原文「思心之不睿,是謂不聖。」思心者,心思慮也;睿,寬也。孔子曰:「居上不寬,吾何以觀之哉!」言上不寬大包容臣下,則不能居聖位。貌言視聽,以心為主,四者皆失,則區霿無識,故其咎霿也。雨旱寒奧,亦以風為本,四氣皆亂,故其罰常風也。常風傷物,故其極凶短折也。傷人曰凶,禽獸曰短,屮木曰折。一曰,凶,夭也;兄喪弟曰短,父喪子曰折。在人腹中,肥而包裹心者脂也,心區霿則冥晦,故有脂夜之妖。一曰,有脂物而夜為妖,若脂水夜汙人衣,淫之象也。一曰,夜妖者,雲風並起而杳冥,故與常風同象也。溫而風則生螟螣,有裸蟲之孽。劉向以為於易巽為風為木,卦在三月四月,繼陽而治,主木之華實。風氣盛,至秋冬木復華,故有華孽。一曰,地氣盛則秋冬復華。一曰,華者色也,土為內事,為女孽也。於易坤為土為牛,牛大心而不能思慮,思心氣毀,故有牛禍。一曰,牛多死及為怪,亦是也。及人,則多病心腹者,故有心腹之痾。土色黃,故有黃眚黃祥。凡思心傷者病土氣,土氣病則金木水火沴之,故曰「時則有金木水火沴土」。不言「惟」而獨曰「時則有」者,非一衝氣所沴,明其異大也。其極曰凶短折,順之,其福曰考終命。劉歆《思心傳》曰時則有臝蟲之孽,謂螟螣之屬也。庶徵之常風,劉向以為春秋無其應。

釐公十六年「正月、六鶂ろくげい退きて飛び、宋の都を過ぐ」。左氏伝に「風なり」と言う。劉歆は、風が他の場所で起こり、宋に至って高くなり、鶂が高く飛んでこれにうと、退くのだと考えた。経文は見えるものを文として記すので、退いて飛ぶことを記録した。伝は実の応を著すので、風と言い、常風の罰である。これは宋の襄公が蒙昧で自らを是とし、臣下を受け容れず、司馬子魚しばしぎょの諫めに逆らい、強楚と盟を争ったことに象る。その後六年にして楚に捕らえられ、六鶂の数に応じたという。京房の易伝に言う。「潜龍せんりゅう用いるなかれ、衆逆同志す、至徳しとくすなわち潜ず、厥の異は風。その風は、行いて物を解さず、長からず、雨小さくして傷う。政悖まつりごともとりて徳隠かくるるこれを乱と謂う、厥の風は先ず風にして雨降らず、大風暴あられ起こり、屋を発ね木を折る。義を守りて進まずこれを耄と謂う、厥の風は雲と俱に起り、五穀のくきを折る。臣上きみの政を易うるこれを順わずと謂う、厥の風は大焱だいえん起こり屋を発つ。賦斂ふれん理めずこれを禍と謂う、厥の風は経紀けいきを絶ち、止めば即ち温となり、温なれば即ち蟲となる。侯封を専らにするこれを統せずと謂う、厥の風は疾くして樹れず、穀成らず。辟道利どうりを思わずこれを無沢むたくと謂う、厥の風は木を揺さぶらず、旱にして雲なく、禾を傷う。公利に常なるこれを乱と謂う、厥の風は微かにして温なり、蟲蝗ちゅうこうを生じ、五穀を害す。正を棄てて淫を作すこれを惑と謂う、厥の風は温なり、螟蟲めいちゅう起こり、人に益ある物を害す。侯朝ちょうせずこれを叛と謂う、厥の風は恒なく、地変ちへん赤くして人を殺す。」

原文釐公十六年「正月,六鶂退蜚,過宋都」。左氏傳曰「風也」。劉歆以為風發於它所,至宋而高,鶂高蜚而逢之,則退。經以見者為文,故記退蜚;傳以實應著,言風,常風之罰也。象宋襄公區霿自用,不容臣下,逆司馬子魚之諫,而與彊楚爭盟,後六年為楚所執,應六鶂之數云。京房易傳曰:「潛龍勿用,眾逆同志,至德乃潛,厥異風。其風也,行不解物,不長,雨小而傷。政悖德隱茲謂亂,厥風先風不雨,大風暴起,發屋折木。守義不進茲謂耄,厥風與雲俱起,折五穀莖。臣易上政,茲謂不順,厥風大焱發屋。賦斂不理茲謂禍,厥風絕經紀,止即溫,溫即蟲。侯專封茲謂不統,厥風疾,而樹不搖,穀不成。辟不思道利,茲謂無澤,厥風不搖木,旱無雲,傷禾。公常於利茲謂亂,厥風微而溫,生蟲蝗,害五穀。棄正作淫茲謂惑,厥風溫,螟蟲起,害有益人之物。侯不朝茲謂叛,厥風無恆,地變赤而殺人。」

文帝(文帝)の二年(紀元前178年)六月、淮南王の都である寿春じゅしゅんで大風が民家を破壊し、人を殺した。劉向は、この年、南越が反乱を起こし、淮南の辺境を攻撃したが、淮南王の劉長がこれを撃破した。その後、劉長は長安に入朝したが、漢の元丞相である辟陽侯へきようこうを殺害した。皇帝(文帝)はこれを赦免したが、劉長は帰国して姦人を集め謀反を企て、自ら東帝と称した。天変に気づかず、後にしょくに流され、道中で死んだ。

原文文帝二年六月,淮南王都壽春大風毀民室,殺人。劉向以為是歲南越反,攻淮南邊,淮南王長破之,後年入朝,殺漢故丞相辟陽侯,上赦之,歸聚姦人謀逆亂,自稱東帝,見異不寤,後遷于蜀,道死廱。

文帝の五年(紀元前175年)、呉で暴風雨が起こり、城や官庁、民家が破壊された。当時、呉王の劉濞が謀反を企てており、天の戒めが幾度も現れたが、ついに悔い改めず、後に誅殺され滅亡した。

原文文帝五年,吳暴風雨,壞城官府民室。時吳王濞謀為逆亂,天戒數見,終不改寤,後卒誅滅。

五年(文帝五年、紀元前175年)十月、楚王の都である彭城で、大風が東南から吹き来たり、市場の門を破壊し、人を殺した。この月、楚王の劉戊が初めて王位を継承した。後に淫行と領土削減の罪に問われ、呉王と謀反を企て、諫言する者を処刑した。呉は楚の東南に位置し、天の戒めは言う、『呉と共に悪事を働くな。さもなくば市場や朝廷を滅ぼすであろう』と。劉戊は悟らず、ついに呉に従って滅亡した。

原文五年十月,楚王都彭城大風從東南來,毀巿門,殺人。是月王戊初嗣立,後坐淫削國,與吳王謀反,刑僇諫者。吳在楚東南,天戒若曰,勿與吳為惡,將敗巿朝。王戊不寤,卒隨吳亡。

昭帝の元鳳元年(紀元前80年)、燕王の都であるけいで大風雨が起こり、宮中の樹木で七囲(約3.5メートル)以上のものが十六本も抜け、城楼が破壊された。燕王の劉旦は悟らず、謀反が発覚し、ついにその罪に伏した。

原文昭帝元鳳元年,燕王都薊大風雨,拔宮中樹七圍以上十六枚,壞城樓。燕王旦不寤,謀反發覺,卒伏其辜。

釐公十五年(紀元前645年)『九月己卯のみそか夷伯いはくの廟に震す』。劉向は、晦とは暗いことであり、震とは雷であると考える。夷伯は代々の大夫であり、経文が雷を記すのは、その廟だけが暗かったからである。天の戒めは言う、『大夫に世襲の官職を与えるな。さもなくば事柄が暗闇に覆われるであろう』と。翌年、公子の季友きゆうが死去し、果たして世襲の官職となり、政権は季氏に握られた。成公十六年(紀元前575年)『六月甲午の晦』には、真昼なのに暗くなり、陰が陽を制し、臣下が君主を制した。成公は悟らず、その冬、季氏が公子偃を殺害した。季氏の勢力は釐公の時に萌芽し、成公の時に大きくなった。これがその応報である。董仲舒は、夷伯は季氏の信頼を得た者であり、陪臣が廟を持つべきではないと考える。震とは雷であり、晦暝(暗闇)とは、雷がその廟を撃ったことで、僭越な類いを断ち去るべきであることを明らかにしたのである。劉向はまた、これらはいわゆる夜妖であると考えた。劉歆は、『春秋』では朔に及べば朔と書き、晦に及べば晦と書く。人道が及ばないことに対して、天は雷で警告すると考える。展氏てんしに隠れた悪事があったため、天はその祖先である夷伯の廟に罰を加えて警告したのである。

原文釐公十五年「九月己卯晦,震夷伯之廟」。劉向以為晦,暝也;震,雷也。夷伯,世大夫,正書雷,其廟獨冥。天戒若曰,勿使大夫世官,將專事暝晦。明年,公子季友卒,果世官,政在季氏。至成公十六年「六月甲午晦」,正晝皆暝,陰為陽,臣制君也。成公不寤,其冬季氏殺公子偃。季氏萌於釐公,大於成公,此其應也。董仲舒以為夷伯,季氏之孚也,陪臣不當有廟。震者雷也,晦暝,雷擊其廟,明當絕去僭差之類也。向又以為此皆所謂夜妖者也。劉歆以為春秋及朔言朔,及晦言晦,人道所不及,則天震之。展氏有隱慝,故天加誅於其祖夷伯之廟以譴告之也。

成公十六年「六月甲午晦、晋侯と楚子・鄭伯が鄢陵で戦った」。いずれも月の晦日であるという。

原文成公十六年「六月甲午晦,晉侯及楚子、鄭伯戰于鄢陵」。皆月晦云。

隠公五年「秋、螟が発生した」。董仲舒と劉向は、この時公が棠で漁を見物し、利益を貪ったことへの応報であると考えた。劉歆は、さらに臧釐伯そうりはくの諫言に逆らい、わずかな利益を貪ったために、裸虫の災いが生じたのだと考えた。

原文隱公五年「秋,螟」。董仲舒、劉向以為時公觀漁于棠,貪利之應也。劉歆以為又逆臧釐伯之諫,貪利區瓒,以生臝蟲之孽也。

八年「九月、螟が発生した」。この時、鄭伯はへいをもって許田と交換しようとし、利益を貪る心があった。京房の易伝に言う。「臣が禄に安んずることを貪りという。その災いは虫であり、虫は根を食う。徳が常ならざることを煩いという。虫は葉を食う。徳なきを退けざることをいう。虫は根本を食う。東作(春の農作業)と争うことを時にあわずという。虫は節を食う。悪を蔽いて孽を生ずる。虫は心を食う。」

原文八年「九月,螟」。時鄭伯以邴將易許田,有貪利心。京房易傳曰:「臣安祿茲謂貪,厥災蟲,蟲食根。德無常茲謂煩,蟲食葉。不絀無德,蟲食本。與東作爭,茲謂不時,蟲食節。蔽惡生孽,蟲食心。」

厳公(荘公)六年「秋、螟が発生した」。董仲舒と劉向は、この前に衛侯朔えいこうさくが斉に出奔し、斉侯が諸侯を会して朔を衛に納め、諸侯に賄賂を約束したことによるものと考えた。斉人が衛の宝器を(魯に)送り、魯がそれを受け取った。利益を貪ったことへの応報である。

原文嚴公六年「秋,螟」。董仲舒、劉向以為先是衛侯朔出奔齊,齊侯會諸侯納朔,許諸侯賂。齊人歸衛寶,魯受之,貪利應也。

文帝の後六年の秋、螟が発生した。この年、匈奴が大挙して上郡・雲中に侵入し、烽火が長安まで通じた。(朝廷は)三将軍を辺境に駐屯させ、三将軍を京師に駐屯させた。

原文文帝後六年秋,螟。是歲匈奴大入上郡、雲中,烽火通長安,遣三將軍屯邊,三將軍屯京師。

宣公三年、「郊牛の口が傷つき、牛を改めて卜すると、牛が死んだ」。劉向はこれを牛禍に近いものと考えた。この時、宣公は公子遂と謀って子赤を共に殺して立った上に、喪中に娶るなど、愚昧で昏乱していた。乱は口によって成り、幸いにも季文子がいて禍を免れたが、天はなおこれを憎み、生きている間はその祭祀を饗けず、死ぬと災いがその廟を焼いた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。

原文宣公三年,「郊牛之口傷,改卜牛,牛死」。劉向以為近牛禍也。是時宣公與公子遂謀共殺子赤而立,又以喪娶,區霿昏亂。亂成於口,幸有季文子得免於禍,天猶惡之,生則不饗其祀,死則災燔其廟。董仲舒指略同。

秦の孝文王五年、朐衍に遊猟した時、五足の牛を献じる者がいた。劉向はこれを牛禍に近いものと考えた。これより先、文恵王が初めて咸陽に都し、宮室を広大にし、南は渭水に臨み、北は涇水に臨んだため、思心を失い、土気に逆らった。足とは止まることである。秦が奢侈を止めて建てることを戒め、危亡を招こうとしているのである。秦はついに改めず、離宮三百に至り、さらに阿房宮を起こしたが、完成せずに滅亡した。一説には、牛は力で人に用いられ、足は行くためのものである。その後、秦は大いに民力を用いて転輸し、海辺から北辺までを起こし、天下がこれに叛いた。京房の易伝に言う、「繇役を興し、民の時を奪う、その妖は牛が五足を生ず」。

原文秦孝文王五年,斿朐衍,有獻五足牛者。劉向以為近牛禍也。先是文惠王初都咸陽,廣大宮室,南臨渭,北臨涇,思心失,逆土氣。足者止也,戒秦建止奢泰,將致危亡。秦遂不改,至於離宮三百,復起阿房,未成而亡。一曰,牛以力為人用,足所以行也。其後秦大用民力轉輸,起負海至北邊,天下叛之。京房易傳曰:「興繇役,奪民時,厥妖牛生五足。」

景帝の中六年、梁の孝王が北山で狩猟した時、牛を献じる者がおり、足が背中から出ていた。劉向はこれを牛禍に近いものと考えた。これより先、孝王は驕奢で、方三百里の苑を造り、宮館閣道が三十余里も連なっていた。邪臣の羊勝の計略を受け入れ、漢の後継者になろうと欲し、議臣の爰盎を刺殺したが、事が発覚し、斧を負って帰って死んだ。すでに国に退き帰った後も、なお恨みの心があり、内には思慮が昏乱し、外には土功が制を過ぎたので、牛禍が起こったのである。足が背中から出るのは、下が上を犯す象である。なお自ら解くことができず、急病を発して暴死したのは、また凶短の極みである。

原文景帝中六年,梁孝王田北山,有獻牛,足上出背上。劉向以為近牛禍。先是孝王驕奢,起苑方三百里,宮館閣道相連三十餘里。納於邪臣羊勝之計,欲求為漢嗣,刺殺議臣爰盎,事發,負斧歸死。既退歸國,猶有恨心,內則思慮霿亂,外則土功過制,故牛禍作。足而出於背,下奸上之象也。猶不能自解,發疾暴死,又凶短之極也。

左氏伝、昭公二十一年の春、周の景王が無射の鐘を鋳造しようとした時、泠州鳩が言った、「王は心の病で死なれるでしょう! 天子は風俗を観察して楽を作り、小さいものは軽佻でなく、大きいものは広大すぎないものです。広大すぎると心に響かず、心はそれによって感応し、感応が実は病を生みます。今、鐘は広大すぎます。王の心は満足されず、どうして長くいられましょうか?」 劉向は、この時、景王が淫声を好んで聞き、嫡庶が明らかでなく、思心が昏乱していたと考え、翌年、心の病で崩御したのは、心腹の病に近く、凶短の極みであるとした。

原文左氏傳昭公二十一年春,周景王將鑄無挛鍾,叠州鳩曰:「王其以心疾死乎!夫天子省風以作樂,小者不窕,大者不摦。摦則不容,心是以感,感實生疾。今鍾摦矣,王心弗龊,其能久乎?」劉向以為是時景王好聽淫聲,適庶不明,思心霿亂,明年以心疾崩,近心腹之痾,凶短之極者也。

昭公二十五年の春、魯の叔孫昭子が宋に聘問した時、元公が宴を共にし、酒を飲んで楽しみ、語り合って泣いた。楽祈がこれを補佐し、人に告げて言った、「今年、君と叔孫は皆死ぬだろう! 私は聞く、哀しむべき時に楽しみ、楽しむべき時に哀しむのは、皆心を喪うことである。心の精爽、これを魂魄という。魂魄が去ってしまえば、どうして長くいられようか?」 冬十月、叔孫昭子が死に、十一月、宋の元公が卒した。

原文昭二十五年春,魯叔孫昭子聘于宋,元公與燕,飲酒樂,語相泣也。樂祈佐,告人曰:「今茲君與叔孫其皆死乎!吾聞之,哀樂而樂哀,皆喪心也。心之精爽,是謂魂魄;魂魄去之,何以能久?」冬十月,叔孫昭子死;十一月,宋元公卒。

昭帝の元鳳元年九月、燕に黄鼠がその尾を銜えて王宮の端門の中で舞うことがあった。見に行くと、鼠は以前と同様に舞っていた。王が夫人に酒と干し肉を持たせて祀らせると、鼠は舞いを止めず、夜に死んだ。これは黄祥である。当時、燕の剌王旦が謀反を企てて敗れようとしていたので、死亡の象徴であった。その月に、発覚して誅罰を受けた。京房の易伝に言う、「誅罰が情状を斟酌しないと、その妖は鼠が門で舞う」。

原文昭帝元鳳元年九月,燕有黃鼠銜其尾舞王宮端門中,往視之,鼠舞如故。王使夫人以酒脯祠,鼠舞不休,夜死。黃祥也。時燕剌王旦謀反將敗,死亡象也。其月,發覺伏辜。京房易傳曰:「誅不原情,厥妖鼠舞門。」

成帝の建始元年四月辛丑の夜、西北に火の光のようなものがあった。壬寅の朝、大風が西北から起こり、雲気が赤黄色で、天下に四方を塞ぎ、終日、夜になって地に降り注ぐものは黄土の塵であった。この年、皇帝の母方の伯父である大司馬大将軍の王鳳が初めて権力を握り始めた。また、王鳳の同母弟の崇を安成侯に封じ、食邑一万戸を与えた。庶弟のたんら五人に関内侯の爵位を賜い、食邑三千戸を与えた。さらに王鳳に五千戸を加増し、譚らをすべて列侯に封じた。これが五侯である。哀帝が即位すると、外戚の丁氏・傅氏・周氏・鄭氏の計六人を列侯に封じた。楊宣が答えて言うには、「五侯が封じられた日に、天気が赤黄色であり、丁氏・傅氏の時もまたそうであった。これはおそらく爵位と封土が制度を超え、土気を傷つけ乱すことの祥であろう」。京房の易伝に言う、「経に『其の生を観る』と称するのは、大臣の道理として、賢人を観察し、その性質・行いを知り、推挙して貢ぐべきことを言う。そうでなければ、善を知りながら与えないこととなり、これを不知ふちという。その異は黄であり、その咎は聾であり、その災は後継ぎがないことである。黄とは、太陽の上に黄光が散じず火のようであり、黄濁の気が天下に四方を塞ぐことである。賢者を蔽い道を絶つので、災異が至って世が絶えるのである。経に『良馬逐う』とある。逐は進むことで、大臣が賢者を得て謀るならば、その人を顕彰して進めるべきことを言う。そうでなければ、下の者が互いに善を奪い合うこととなり、これを盗明とうめいという。その咎もまた後継ぎがなく、身を戮され家が絶えるに至る」。

原文成帝建始元年四月辛丑夜,西北有如火光。壬寅晨,大風從西北起,雲氣赤黃,四塞天下,終日夜下著地者黃土塵也。是歲,帝元舅大司馬大將軍王鳳始用事;又封鳳母弟崇為安成侯,食邑萬戶;庶弟譚等五人賜爵關內侯,食邑三千戶。復益封鳳五千戶,悉封譚等為列侯,是為五侯。哀帝即位,封外屬丁氏、傅氏、周氏、鄭氏凡六人為列侯。楊宣對曰:「五侯封日,天氣赤黃,丁、傅復然。此殆爵土過制,傷亂土氣之祥也。」京房易傳曰:「經稱『觀其生』,言大臣之義,當觀賢人,知其性行,推而貢之,否則為聞善不與,茲謂不知,厥異黃,厥咎聾,厥災不嗣。黃者,日上黃光不散如火然,有黃濁氣四塞天下。蔽賢絕道,故災異至絕世也。經曰『良馬逐』。逐,進也,言大臣得賢者謀,當顯進其人,否則為下相攘善,茲謂盜明,厥咎亦不嗣,至於身僇家絕。」

史記によれば、周の幽王ゆうおう二年に、周の三川が皆震動した。劉向は、金・木・水・火が土を害したものと考えた。伯陽甫はくようほが言うには、「周は滅びようとしている。天地の気はその秩序を過ぎない。もしその秩序を過ぎれば、民がそれを乱すのである。陽が伏して出ることができず、陰が迫って昇ることができないと、そこで地震が起こる。今、三川が実際に震動したのは、陽がその居場所を失って陰を鎮圧するためである。陽が失われて陰の中にあると、水源は必ず塞がる。水源が塞がれば、国は必ず滅びる。水は、土が潤って民が用いるものである。土が潤わなければ、民は財用に乏しくなり、滅びないでどうして待てようか。昔、伊水・洛水が涸れて夏が滅び、黄河が涸れて商が滅びた。今、周の徳は二代の末世のようであり、その水源がまた塞がっている。塞がれば必ず涸れる。川が涸れれば、山は必ず崩れる。国は必ず山川に依る。山が崩れ川が涸れるのは、滅亡の徴候である。もし国が滅びるならば、十年を過ぎない。数は十を一区切りとするからである」。

原文史記周幽王二年,周三川皆震。劉向以為金木水火沴土者也。伯陽甫曰:「周將亡矣!天地之氣不過其序;若過其序,民亂之也。陽伏而不能出,陰迫而不能升,於是有地震。今三川實震,是陽失其所而填陰也。陽失而在陰,原必塞;原塞,國必亡。夫水,土演而民用也;土無所演,而民乏財用,不亡何待?昔伊雒竭而夏亡,河竭而商亡,今周德如二代之季,其原又塞,塞必竭;川竭,山必崩。夫國必依山川,山崩川竭,亡之徵也。若國亡,不過十年,數之紀也。」

この年、二川が涸れ、岐山が崩れた。劉向は、陽が陰の中に失われるというのは、火気が来て水を煎じ枯らすことを言い、それ故に川が涸れると考えた。山川は体を連ねており、下が涸れれば上が崩れるのは、事の勢いとして当然である。当時、幽王は暴虐で、妄りに誅伐し、諫めを聞かず、褒姒ほうじに迷い、その正后を廃した。廃后の父である申侯しんこうが犬戎と共に攻めて幽王を殺した。一説には、天文においては、水は辰星であり、辰星は蛮夷である。月が辰星を食むと、国は女によって滅びる。幽王の敗北は、女が内で乱し、夷が外から攻めたためである。京房の易伝に言う、「君臣が互いに背き合うと、その異は名水が絶える」。

原文是歲二川竭,岐山崩。劉向以為陽失在陰者,謂火氣來煎枯水,故川竭也。山川連體,下竭上崩,事勢然也。時幽王暴虐,妄誅伐,不聽諫,迷於褒姒,廢其正后,廢后之父申侯與犬戎共攻殺幽王。一曰,其在天文,水為辰星,辰星為蠻夷。月食辰星,國以女亡。幽王之敗,女亂其內,夷攻其外。京房易傳曰:「君臣相背,厥異名水絕。」

文公九年「九月癸酉、地震があった」。劉向は、これ以前に、斉の桓公・晋の文公・魯の釐公という二伯の賢君が新たに没し、周の襄王が道を失い、楚の穆王が父を殺し、諸侯は皆不肖で、権力が下に傾いたので、天の戒めが言うには、臣下で強盛な者が動いて害をなすであろう、と考えた。後に、宋・魯・晋・莒・鄭・陳・斉が皆、君主を殺した。諸々の地震については、おおむね董仲舒の説に従っている。京房の易伝に言う、「臣下が事を行うのは正しくても、専断すれば必ず震動する。その震動は、水にあれば波立ち、木にあれば揺れ、屋にあれば瓦が落ちる。大経(君主)が辟(退位)して臣下を易える、これを陰動といい、その震動は政宮を揺るがす。大経が政を揺るがす、これを不陰といい、その震動は山を揺るがし、山から涌水が出る。嗣子が徳なく禄を専有する、これを不順といい、その震動は丘陵を動かし、涌水が出る」。

原文文公九年「九月癸酉,地震」。劉向以為先是時,齊桓、晉文、魯釐二伯賢君新沒,周襄王失道,楚穆王殺父,諸侯皆不肖,權傾於下,天戒若曰,臣下彊盛者將動為害。後宋、魯、晉、莒、鄭、陳、齊皆殺君。諸震,略皆從董仲舒說也。京房易傳曰:「臣事雖正,專必震,其震,於水則波,於木則搖,於屋則瓦落。大經在辟而易臣,茲謂陰動,厥震搖政宮。大經搖政,茲謂不陰,厥震搖山,山出涌水。嗣子無德專祿,茲謂不順,厥震動丘陵,涌水出。」

襄公十六年「五月甲子、地震があった」。劉向は、これより先に鶏沢の会で諸侯が盟を結び、大夫もまた盟を結んだことによるものと考えた。この年の三月、諸侯は溴梁の会を開いたが、大夫だけが互いに盟を結び、五月に地震があった。その後、崔氏が斉を専断し、欒盈らんえいが晋を乱し、良霄が鄭を傾け、閽(守門者)呉子ごしを殺し、燕がその君を追放し、楚が陳・蔡を滅ぼした。

原文襄公十六年「五月甲子,地震」。劉向以為先是雞澤之會,諸侯盟,大夫又盟。是歲三月,諸侯為溴梁之會,而大夫獨相與盟,五月地震矣。其後崔氏專齊,欒盈亂晉,良霄傾鄭,閽殺吳子,燕逐其君,楚滅陳、蔡。

昭公十九年「五月己卯、地震があった」。劉向は、この時季氏が君を追放する変事を起こそうとしていたことによるものと考えた。その後、宋の三臣や曹の会が皆領地を以て叛き、蔡・莒がその君を追放し、呉が中国を破り、二人の君主を殺した。

原文昭公十九年「五月己卯,地震」。劉向以為是時季氏將有逐君之變。其後宋三臣、曹會皆以地叛,蔡、莒逐其君,吳敗中國,殺二君。

二十三年「八月乙未、地震があった」。劉向は、この時周の景王が崩御し、劉氏・単氏が王子猛を立て、尹氏が子朝を立てたことによるものと考えた。その後、季氏が昭公を追放し、黒肱が邾に叛き、呉がその君僚を殺し、宋の五大夫や晋の二大夫が皆領地を以て叛いた。

原文二十三年「八月乙未,地震」。劉向以為是時周景王崩,劉、單立王子猛,尹氏立子朝。其後季氏逐昭公,黑肱叛邾,吳殺其君僚,宋五大夫、晉二大夫皆以地叛。

哀公三年「四月甲午、地震があった」。劉向は、この時諸侯が皆邪な臣を信じ、仲尼ちゅうじを用いることができず、盗賊が蔡侯を殺し、斉の陳乞ちんきつが君を弑したことによるものと考えた。

原文哀公三年「四月甲午,地震」。劉向以為是時諸侯皆信邪臣,莫能用仲尼,盜殺蔡侯,齊陳乞弒君。

恵帝二年正月、隴西で地震があり、四百余家が押し潰された。武帝の征和二年八月癸亥、地震があり、人が押し潰されて死んだ。宣帝の本始四年四月壬寅、河南以東の四十九郡で地震があり、北海・琅邪では祖宗の廟や城郭が崩壊し、六千余人が死んだ。元帝の永光三年冬、地震があった。綏和二年九月丙辰、地震があり、京師から北辺の郡国に至る三十余りで城郭が崩壊し、合わせて四百十五人が死んだ。

原文惠帝二年正月,地震隴西,厭四百餘家。武帝征和二年八月癸亥,地震,厭殺人。宣帝本始四年四月壬寅,地震河南以東四十九郡,北海琅邪壞祖宗廟城郭,殺六千餘人。元帝永光三年冬,地震。綏和二年九月丙辰,地震,自京師至北邊郡國三十餘壞城郭,凡殺四百一十五人。

釐公十四年「秋八月辛卯、沙麓が崩壊した」。穀梁伝に「林が山に属するのを麓といい、沙はその名である」とある。劉向は、臣下が背き叛き、散り散りになって主君に仕えない象徴であると考えた。これ以前、斉の桓公は覇道を行い、諸侯を会合させ、周王室に仕えた。管仲が死ぬと、桓公の徳は日に日に衰え、天の戒めは言うようであった。覇道が廃れ、諸侯が散り散りになり、政権が大夫に及び、陪臣が命令を執り、臣下が主君に仕えなくなるであろうと。桓公は悟らず、天子は隠れてしまった。斉の桓公が死ぬと、天下は散り散りになって楚に従った。王札子が二人の大夫を殺し、晋が天子の軍を破ったが、誰も征討できず、これより衰微した。公羊伝では、沙麓は黄河のほとりの邑であるとする。董仲舒の説もほぼ同じである。一説には、黄河は大いなる川の象徴であり、斉は大国である。桓公の徳が衰え、覇道が晋の文公に移るので、黄河が移動したのであるという。左伝では、沙麓は晋の地であり、沙は山の名であるとする。地震によって麓が崩れたが、地震とは記さず、重い事柄を挙げたのである。伯陽甫の言う「

原文釐公十四年「秋八月辛卯,沙麓崩」。穀梁傳曰:「林屬於山曰麓,沙其名也。」劉向以為臣下背叛,散落不事上之象也。先是,齊桓行伯道,會諸侯,事周室。管仲既死,桓德日衰,天戒若曰,伯道將廢,諸侯散落,政逮大夫,陪臣執命,臣下不事上矣。桓公不寤,天子蔽晦。及齊威死,天下散而從楚。王札子殺二大夫,晉敗天子之師,莫能征討,從是陵遲。公羊以為沙麓,河上邑也。董仲舒說略同。一曰,河,大川象;齊,大國;桓德衰,伯道將移於晉文,故河為徙也。左氏以為沙麓,晉地;沙,山名也;地震而麓崩,不書震,舉重者也。伯陽甫所謂「

国は必ず山川に依拠する。山が崩れ川が枯れるのは、滅亡の兆しである。十年を過ぎない、数の周期である」というところである。二十四年に至り、晋の懐公が高梁で殺された。京房の易伝に「小人が屋根を剥ぐ、その妖は山崩れ、これを陰が陽に乗じ、弱が強に勝つという」とある。

原文國必依山川,山崩川竭,亡之徵也;不過十年,數之紀也。」至二十四年,晉懷公殺於高梁。京房易傳曰:「小人剝廬,厥妖山崩,茲謂陰乘陽,弱勝彊。」

成公五年「夏、梁山が崩壊した」。穀梁伝によれば、黄河が三日間流れず、晋の君主が群臣を率いてこれを哭し、ようやく流れたという。劉向は、山は陽で君主、水は陰で民衆であると考え、天の戒めは言うようであった。君主の道が崩壊し、下が乱れ、百姓がその居場所を失うであろうと。哭して後に流れたのは、喪亡の象徴である。梁山は晋の地にあり、晋から始まって天下に及んだ。後に晋は暴虐に三卿を殺し、厲公は弑殺された。溴梁の会盟では、天下の大夫が皆国政を執り、その後、孫氏・甯氏が衛の献公を追放し、三家が魯の昭公を追放し、単氏・尹氏が王室を乱した。董仲舒の説もほぼ同じである。劉歆は、梁山は晋が祭祀する望(国境の山)であると考えた。崩壊とは、弛んで崩れることである。古く三代は祭祀を命じ、祭りは望を越えず、吉凶禍福はこれを過ぎない。国は山川を主とし、山が崩れ川が枯れるのは滅亡の兆しであり、善悪は必ず一巡して戻る。この年は歳星が鶉火にあり、十七年後に再び鶉火に至り、欒書・中行偃が厲公を殺して悼公を立てた。

原文成公五年「夏,梁山崩」。穀梁傳曰廱河三日不流,晉君帥群臣而哭之,乃流。劉向以為山陽,君也,水陰,民也,天戒若曰,君道崩壞,下亂,百姓將失其所矣。哭然後流,喪亡象也。梁山在晉地,自晉始而及天下也。後晉暴殺三卿,厲公以弒。溴梁之會,天下大夫皆執國政,其後孫、甯出衛獻,三家逐魯昭,單、尹亂王室。董仲舒說略同。劉歆以為梁山,晉望也;崩,弛崩也。古者三代命祀,祭不越望,吉凶禍福,不是過也。國主山川,山崩川竭,亡之徵也,美惡周必復。是歲歲在鶉火,至十七年復在鶉火,欒書、中行偃殺厲公而立悼公。

高后二年正月、武都山が崩れ、七百六十人が死に、地震は八月まで続いた。文帝元年四月、斉・楚の地の二十九ヶ所の山が同日に一斉に大水を噴出し、決壊した。劉向は、水が土を害する近い現象であると考えた。天の戒めは言うようであった。斉・楚の君主を盛んにするな、今制度を失えば、乱をなすであろうと。後十六年、帝の庶兄である斉の悼恵王の孫の文王則が薨去し、子がなかったため、帝は斉の地を分割し、悼恵王の庶子六人を皆王とした。賈誼と晁錯ちょうそは、古制に背き、乱を招く恐れがあると諫めた。景帝三年に至り、斉・楚の七国が百余万の兵を起こしたが、漢は皆これを破った。春秋時代に四国が同日に災害を受け、漢代に七国が同日に多くの山が決壊し、皆その害を受けたのは、天威を畏れないことの明らかな証拠である。

原文高后二年正月,武都山崩,殺七百六十人,地震至八月乃止。文帝元年四月,齊楚地山二十九所同日俱大發水,潰出,劉向以為近水沴土也。天戒若曰,勿盛齊楚之君,今失制度,將為亂。後十六年,帝庶兄齊悼惠王之孫文王則薨,無子,帝分齊地,立悼惠王庶子六人皆為王。賈誼、晁錯諫,以為違古制,恐為亂。至景帝三年,齊楚七國起兵百餘萬,漢皆破之。春秋四國同日災,漢七國同日眾山潰,咸被其害,不畏天威之明效也。

成帝の河平三年二月丙戌、犍為郡の柏江山が崩れ、捐江山が崩れ、共に江水を塞き止め、江水が逆流して城を壊し、十三人が死に、地震が二十一日続き、百二十四回動いた。元延三年正月丙寅、蜀郡の岷山が崩れ、江を塞き止め、江水が逆流し、三日してようやく通じた。劉向は、周の時に岐山が崩れ、三川が枯れ、幽王が滅んだことを考えた。岐山は、周が興った地である。漢家は本来蜀漢から興った。今、興った地の山が崩れ川が枯れ、彗星がまた摂提・大角に及び、参宿から辰宿に至るのは、恐らく必ず滅亡するであろう。その後、三世で後嗣が絶え、王莽が帝位を簒奪した。

原文成帝河平三年二月丙戌,犍為柏江山崩,捐江山崩,皆廱江水,江水逆流壞城,殺十三人,地震積二十一日,百二十四動。元延三年正月丙寅,蜀郡岷山崩,廱江,江水逆流,三日乃通。劉向以為周時岐山崩,三川竭,而幽王亡。岐山者,周所興也。漢家本起於蜀漢,今所起之地山崩川竭,星孛又及攝提、大角,從參至辰,殆必亡矣。其後三世亡嗣,王莽篡位。

君主が中正の道を失うこと。

原文皇之不極

伝に曰く、「君主が中正の道を失うことは、これを『不建』と言い、その咎は目がかすみ心が乱れることであり、その罰は常に陰気が覆い、その極みは弱くなることである。時に射妖があり、時に龍蛇の孽があり、時に馬禍があり、時に下の者が上の者を伐つ病があり、時に日月の運行が乱れ、星辰が逆行する」と。

原文傳曰:「皇之不極,是謂不建,厥咎眊,厥罰恆陰,厥極弱。時則有射妖,時則有龍蛇之孽,時則有馬禍,時則有下人伐上之痾,時則有日月亂行,星辰逆行。」

「君主が中正の道を失うことは、これを『不建』と言う」とは、皇は君主のことである。極は中、建は立つことである。君主の貌・言・視・聴・思心の五事がすべて失われ、中正を得られなければ、万事を立てることができず、その過失は目がかすみ心が乱れることにある。故にその咎は目がかすみ心が乱れることである。王者は下に立って天を承け、万物を治める。雲は山から起こって天に満ちる。天の気が乱れるので、その罰は常に陰気が覆うのである。一説には、上が中正を失えば、下が強盛になって君主の明を蔽うという。《易経》に「亢龍悔あり、貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位に在りて輔けなし」とある。このようであれば、君主は南面の尊さはあっても、一人の助けもなく、故にその極みは弱くなるのである。盛んな陽気は動き進み、軽く速い。

原文「皇之不極,是謂不建」,皇,君也。極,中;建,立也。人君貌言視聽思心五事皆失,不得其中,則不能立萬事,失在眊悖,故其咎眊也。王者自下承天理物。雲起於山,而彌於天;天氣亂,故其罰常陰也。一曰,上失中,則下彊盛而蔽君明也。《易》曰「亢龍有悔,貴而亡位,高而亡民,賢人在下位而亡輔」,如此,則君有南面之尊,而亡一人之助,故其極弱也。盛陽動進輕疾。

礼では、春に大射を行い、陽気に順う。上が微弱であれば下が奮い立って動くので、射妖がある。《易経》に「雲は龍に従う」とあり、また「龍蛇の蟄は、以て身を存す」とある。陰気が動くので、龍蛇の孽がある。易において、乾は君であり馬である。馬は任用され強力である。君主の気が毀損されれば、故に馬禍がある。一説には、馬が多く死に、あるいは怪異となることも、これである。君主が乱れかつ弱ければ、人々がこれに叛き、天がこれを見捨てる。明王による誅罰がなければ、簒奪や弑逆しいぎゃくの禍がある。故に下の者が上の者を伐つ病がある。およそ君主の道が傷つけられれば天気を病む。五行が天を害すると言わず、「日月の運行が乱れ、星辰が逆行する」と言うのは、下が敢えて天を害するものではない、という意味である。ちょうど春秋に「王師、貿戎に敗績す」と言い、誰に敗れたかを言わないのは、自ら敗れたことを記す文体とし、尊ぶべき者を尊ぶという意味である。劉歆の皇極伝には、下の体が上の体に生じる病があるとある。解釈では、下の者が上の者を伐ち、天誅がすでに成ったものは、もはや病とは言わないとする。皇極の常陰について、劉向は春秋にその応がないと考えた。一説には、久しく陰って雨が降らないことがこれである。劉歆はこれが常陰に属すると考えた。

原文禮,春而大射,以順陽氣。上微弱則下奮動,故有射妖。《易》曰「雲從龍」,又曰「龍蛇之蟄,以存身也」。陰氣動,故有龍蛇之孽。於易,乾為君為馬,馬任用而彊力,君氣毀,故有馬禍。一曰,馬多死及為怪,亦是也。君亂且弱,人之所叛,天之所去,不有明王之誅,則有篡弒之禍,故有下人伐上之痾。凡君道傷者病天氣,不言五行沴天,而曰「日月亂行,星辰逆行」者,為若下不敢沴天,猶春秋曰「王師敗績于貿戎」,不言敗之者,以自敗為文,尊尊之意也。劉歆皇極傳曰有下體生上之痾。說以為下人伐上,天誅已成,不得復為痾云。皇極之常陰,劉向以為春秋亡其應。一曰,久陰不雨是也。劉歆以為自屬常陰。

昭帝の元平元年四月に崩御し、後嗣がなく、昌邑王劉賀りゅうがを立てた。劉賀が即位すると、天が曇り、昼夜を通じて日月が見えなかった。劉賀が出かけようとすると、光禄大夫の夏侯勝が車の前に立ちはだかって諫めて言った。「天が長く曇って雨が降らないのは、臣下に主上を謀ろうとする者がいる兆しです。陛下はどこへお出かけになろうというのですか。」劉賀は怒り、夏侯勝を縛って役人に引き渡した。役人が大將軍の霍光に報告すると、霍光はちょうど車騎將軍の張安世ちょうあんせいと謀って劉賀を廃立しようとしていた。霍光は張安世を責めて、言葉を漏らしたのではないかと疑ったが、張安世は実際には漏らしておらず、夏侯勝を召し出して問いただした。夏侯勝は『洪範五行伝』を上奏して言った。「『君主が中正の道を失うと、その罰として常に陰る。その時には下の者が上の者を討つことがある。』はっきりとは申し上げられませんでしたので、『臣下に謀りごとがある』と申し上げたのです。」霍光と張安世はこれを読んで大いに驚き、このことによって経学の士をますます重んじた。数日後、ついに共に劉賀を廃した。これが常陰の明らかな効験である。京房の『易伝』に言う。「げい、蒙、霧がある。霧は上下が合わさったものである。蒙は塵の雲のようである。蜺は太陽の傍らの気である。その占いは次のようである。后妃が専横すると、蜺が二重になり、赤くて専らとなり、衝に至って旱魃となる。妻が一途に従わないと、黒い蜺が四方に背き、また白い蜺が日中に二つ現れる。妻が夫を高貴なものとして扱う、これを擅陽せんようと言い、蜺が四方にあり、日光が陽気でなく、解けて温かくなる。内で取る(近親婚)、これを禽と言い、蜺が禽獣のようで、太陽の傍らにある。尊貴な者が妃を降格させる、これを薄嗣はくしと言い、蜺がまっすぐで塞がり、六辰りくしんが過ぎて初めて除かれ、夜に星が現れて赤くなる。女が初めのまま変わらない、これを乗夫じょうふと言い、白い蜺が太陽の側にあり、黒い蜺がそれを包む。気がまっすぐで正しい。妻が正しく順わない、これを擅陽と言い、蜺が中から覗き貫いて外で専らとなる。夫婦が厳かでない、これをせつと言い、蜺が太陽と会する。婦人が国政を専断する、これを頃と言い、白い蜺が日中を貫き、赤い蜺が四方に背く。嫡(適)が応えない、これを不次ふじと言い、蜺がまっすぐ左にあり、蜺が交差して右にある。専らでない者を娶る、これを危嗣きしと言い、蜺が太陽を抱いて両端が届かない。君主が外で淫らなことをする、これを亡と言い、蜺の気が左で太陽が外と交わる。娶ることが道理に達しない、これを不知と言い、白い蜺が明るさを奪って大いに温かくなり、温かくて雨が降る。尊卑の別がない、これを媟と言い、蜺が三度現れて三度消え、三辰さんしんが除かれると、除かれた後は太陽が出てかつ雨が降る。臣下が私的に禄を親族に及ぼす、これを罔辟もうへきと言い、その異変は蒙であり、その蒙はまず大いに温かくなり、やがて蒙が起こり、太陽が見えなくなる。善行を上に請わずに行う、これを作福さくふくと言い、蒙が一日に五度起こり五度解ける。君主が臣下と謀らない、臣下が異なる道を行く、これを不見ふけんと言い、上が蒙り下が霧り、風が三度変わってともに解ける。嗣子を立てるのに疑う、これを動欲どうよくと言い、蒙が赤く、太陽が明るくない。徳が順序だっていない、これを不聡ふそうと言い、蒙り、太陽が明るくなく、温かくて民が病む。徳を試みず、空言で禄を与える、これを主窳臣夭しゅゆしんようと言い、蒙が起こって白くなる。君主が安逸を楽しみ人を使う、これを放と言い、蒙り、太陽が青く、黒雲が太陽を挟み、左右前後に行き過ぎて太陽を通る。公(三公)が職務を果たさない、これを怙禄ころくと言い、三日間蒙り、さらに五日間大風が吹き、蒙が解けない。邪な利益で食う、これを閉上へいじょうと言い、蒙が大いに起こり、白雲が山のように行き来して太陽を蔽う。公が恐れて道を言わない、これを閉下へいかと言い、蒙が大いに起こり、太陽が見えず、雨が降るか降らないかのようで、十二日目に解け、大いなる雲が太陽を蔽う。禄が下から生じる、これを誣君ぶくんと言い、蒙が微かで小雨が降り、やがて大雨となる。下の者が互いに善を奪い合う、これを盗明と言い、蒙が黄く濁る。下の者が功績を並べ立て、上に求める、これを不知と言い、蒙り、微かで赤く、風が枝を鳴らし、解けてまた蒙る。下が刑罰を専断する、これを分威ぶんいと言い、蒙って太陽が明るくならず、大臣が小臣を圧する、これを蔽と言い、蒙が微かで、太陽が明るくなく、解けるか解けないかのようで、大風が起こり、赤雲が起こって太陽を蔽う。衆人が悪を憎まない、これを閉と言い、蒙り、尊卦そんかが用いられ、三日して起こり、太陽が見えなくなる。言葉が漏れて喜びがない、これを下厝用かそようと言い、蒙が微かで、太陽に光がなく、雨雲があり、雨が降らない。忠臣を廃し佞臣に惑う、これを亡と言い、蒙り、天がまず清くて急に、蒙が微かで太陽が明るくない。逸民がいる、これを不明と言い、蒙が濁って日光を奪う。公が職務を果たさない、これを不絀ふちゅつと言い、蒙が白く、三辰が止まり、すると太陽が青く、青くて寒く、寒ければ必ず雨が降る。忠臣が善を進めるのに君主が試みない、これをあつと言い、蒙り、まず小雨が降り、雨がやんで蒙が起こり、微かで太陽が明るくない。惑わす者が位にある、これを覆国ふくこくと言い、蒙が微かで太陽が明るくなく、一たび温かく一たび寒く、風が塵を揚げる。佞臣を知って厚遇する、これをと言い、蒙が甚だしくて温かい。君臣が故意に補弼しない、これを悖と言い、その災いは風雨霧であり、風が木を抜き、五穀を乱し、やがて大霧となる。庶正しょせいが悪を蔽う、これを生孽災せいげつさいと言い、その異変は霧である。」これらは皆、陰雲の類であるという。

原文昭帝元平元年四月崩,亡嗣,立昌邑王賀。賀即位,天陰,晝夜不見日月。賀欲出,光祿大夫夏侯勝當車諫曰:「天久陰而不雨,臣下有謀上者,陛下欲何之?」賀怒,縛勝以屬吏,吏白大將軍霍光。光時與車騎將軍張安世謀欲廢賀。光讓安世,以為泄語,安世實不泄,召問勝。勝上洪範五行傳曰:「『皇之不極,厥罰常陰,時則有下人伐上。』不敢察察言,故云臣下有謀。」光、安世讀之,大驚,以此益重經術士。後數日卒共廢賀,此常陰之明效也。京房易傳曰:「有蜺、蒙、霧。霧,上下合也。蒙如塵雲。蜺,日旁氣也。其占曰:后妃有專,蜺再重,赤而專,至衝旱。妻不壹順,黑蜺四背,又白蜺雙出日中。妻以貴高夫,茲謂擅陽,蜺四方,日光不陽,解而溫。內取茲謂禽,蜺如禽,在日旁。以尊降妃,茲謂薄嗣,蜺直而塞,六辰乃除,夜星見而赤。女不變始,茲謂乘夫,蜺白在日側,黑蜺果之。氣正直。妻不順正,茲謂擅陽,蜺中窺貫而外專。夫妻不嚴茲謂媟,蜺與日會。婦人擅國茲謂頃,蜺白貫日中,赤蜺四背。適不答茲謂不次,蜺直在左,蜺交在右。取於不專,茲謂危嗣,蜺抱日兩未及。君淫外茲謂亡,蜺氣左日交於外。取不達茲謂不知,蜺白奪明而大溫,溫而雨。尊卑不別茲謂媟,蜺三出三已,三辰除,除則日出且雨。臣私祿及親,茲謂罔辟,厥異蒙,其蒙先大溫,已蒙起,日不見。行善不請於上,茲謂作福,蒙一日五起五解。辟不下謀,臣辟異道,茲謂不見,上蒙下霧,風三變而俱解。立嗣子疑,茲謂動欲,蒙赤,日不明。德不序茲謂不聰,蒙,日不明,溫而民病。德不試,空言祿,茲謂主窳臣夭,蒙起而白。君樂逸人茲謂放,蒙,日青,黑雲夾日,左右前後行過日。公不任職,茲謂怙祿,蒙三日,又大風五日,蒙不解。利邪以食,茲謂閉上,蒙大起,白雲如山行蔽日。公懼不言道,茲謂閉下,蒙大起,日不見,若雨不雨,至十二日解,而有大雲蔽日。祿生於下,茲謂誣君,蒙微而小雨,已乃大雨。下相攘善,茲謂盜明,蒙黃濁。下陳功,求於上,茲謂不知,蒙,微而赤,風鳴條,解復蒙。下專刑茲謂分威,蒙而日不得明,大臣厭小臣茲謂蔽,蒙微,日不明,若解不解,大風發,赤雲起而蔽日。眾不惡惡茲謂閉,蒙,尊卦用事,三日而起,日不見。漏言亡喜,茲謂下厝用,蒙微,日無光,有雨雲,雨不降。廢忠惑佞茲謂亡,蒙,天先清而暴,蒙微而日不明。有逸民茲謂不明,蒙濁,奪日光。公不任職,茲謂不絀,蒙白,三辰止,則日青,青而寒,寒必雨。忠臣進善君不試,茲謂遏,蒙,先小雨,雨已蒙起,微而日不明。惑眾在位,茲謂覆國,蒙微而日不明,一溫一寒,風揚塵。知佞厚之茲謂庳,蒙甚而溫。君臣故弼茲謂悖,厥災風雨霧,風拔木,亂五穀,已而大霧。庶正蔽惡,茲謂生孽災,厥異霧。」此皆陰雲之類云。

厳公十八年「秋、こくあり」。劉向は、蜮は南越に生じたものと考えた。越の地には婦人が多く、男女が同じ川で水浴し、淫らな女が主導するため、乱れた気が生じて蜮となったので、聖人がこれを蜮と名付けたのである。蜮とは惑と同じで、水辺にいて人を射ることができ、射られた場所はひどい場合には死に至る。南方ではこれを短弧たんこと呼び、射るという妖しき現象であり、死亡の兆しである。当時、厳公が斉の淫らな女を娶ろうとしていたので、蜮が現れたのである。天の戒めは、斉の女を娶るな、そうすれば淫乱と惑乱、簒奪と弑逆の禍いが生じるだろう、と言っているようであった。厳公は悟らず、ついにその女を娶った。その後、その女は二人の叔父(二叔)と淫らな関係を持ち、二人の叔父は死に、二人の息子は弑殺され、夫人も誅殺された。劉歆は、蜮は盛んな暑さによって生じるもので、越から来たものではないと考えた。京房の易伝に言う。「忠臣が善を進めても君主が試みないと、その咎として国に蜮が生じる」。

原文嚴公十八年「秋,有蜮」。劉向以為蜮生南越。越地多婦人,男女同川,淫女為主,亂氣所生,故聖人名之曰蜮。蜮猶惑也,在水旁,能射人,射人有處,甚者至死。南方謂之短弧,近射妖,死亡之象也。時嚴將取齊之淫女,故蜮至。天戒若曰,勿取齊女,將生淫惑篡弒之禍。嚴不寤,遂取之。入後淫於二叔,二叔以死,兩子見弒,夫人亦誅。劉歆以為蜮,盛暑所生,非自越來也。京房易傳曰:「忠臣進善君不試,厥咎國生蜮。」

史記によれば、魯の哀公の時、隼が陳の朝廷に集まって死に、楛矢こしがその体を貫き、石のやじりが付いており、長さは一尺八寸あった。陳の閔公は使者を遣わして仲尼に問わせた。仲尼は言った。

原文史記魯哀公時,有隼集于陳廷而死,楛矢貫之,石砮,長尺有咫。陳閔公使使問仲尼,仲尼曰:「

「この隼が来たのは遠い昔のことだ!昔、武王が商を滅ぼした時、百蛮ひゃくばんに道を通し、それぞれの土地の産物を持って来貢させた。その時、粛慎しゅくしんが貢いだのが楛矢で、石の鏃が付いており長さは一尺八寸あった。先王は異姓の諸侯に遠方の職責を分け与え、服属することを忘れさせないようにした。それゆえ、陳には粛慎の矢が分け与えられたのだ」。そこで古い倉庫を探させてみると、果たしてそれを見つけた。劉向は、隼は黒祥に近く、貪暴どんぼうの類いであると考えた。矢が貫いているのは射るという妖しき現象に近く、朝廷で死んだのは国が滅びる兆しである。これは陳が目がくらみ乱れ、周に仕えることをせず、貪暴な行いをしたため、遠方の夷狄の禍いを招き、滅ぼされることになるという象徴である。当時、中国では斉・晋が強く、南方の夷狄では呉・楚が強かった。陳は晋と交際しても親しくなく、楚に付いても固くなく、しばしば二国の禍いを受けた。後に楚に白公はくこうの乱があり、陳はそれに乗じて侵攻したが、結局楚に滅ぼされた。

原文隼之來遠矣!昔武王克商,通道百蠻,使各以方物來貢,肅慎貢楛矢,石砮長尺有咫。先王分異姓以遠方職,使毋忘服,故分陳以肅慎矢。」試求之故府,果得之。劉向以為隼近黑祥,貪暴類也;矢貫之,近射妖也;死於廷,國亡表也。象陳眊亂,不服事周,而行貪暴,將致遠夷之禍,為所滅也。是時中國齊晉、南夷吳楚為彊,陳交晉不親,附楚不固,數被二國之禍。後楚有白公之亂,陳乘而侵之,卒為楚所滅。

史記によれば、夏后氏かこうしが衰えた時、二匹の龍が夏の朝廷に現れ、「我らは褒の二君である」と言った。夏の帝は、これを殺すか、去らせるか、留め置くかを占ったが、いずれも吉ではなかった。龍のよだれ(よだれ、漦)を請い受け、それを蔵めることを占うと、吉となった。そこで幣帛へいはくを並べ、策文を読んで告げた。龍は去り、涎だけが残ったので、それをひつに入れてしまい去った。その後、夏は滅び、その櫃は殷、周と伝わり、三代の間誰も開けなかった。厲王れいおうの末年に至り、開けて見ると、涎が朝廷に流れ出て、除くことができなかった。厲王は婦人たちに裸で叫ばせると、涎は玄黿(げんげん、黒い大亀)に化け、後宮に入った。後宮の侍女がこれに出会って孕み、子を生んだが、恐れてその子を捨てた。宣王せんおうが立つと、童謡に「檿弧えんこ萁服きふく、実に周国を亡ぼす」と歌われた。後にその器物(桑の弓と萁草の矢入れ)を売る夫婦がいたので、宣王は彼らを捕らえて殺させた。夫婦が去った後、侍女が捨てた妖しい子を見つけ、その夜泣きを聞いて哀れに思い、拾い上げた。そして逃亡して褒に奔った。後に褒の人が罪を犯し、この妖しい子を献上して罪を贖った。これが褒姒である。幽王は彼女を見て愛し、子の伯服はくふくを生んだ。王は申后しんこうと太子の宜咎ぎきゅうを廃し、代わりに褒姒と伯服を立てた。廃された后の父である申侯はそうと西の畎戎けんじゅうと共に幽王を攻め殺した。詩経に言う。「赫赫かくかくたる宗周、褒姒これをほろぼす」。劉向は、夏后氏の末世、周の幽王・厲王の時代は、皆天に逆らって乱れていたので、龍や黿の怪異が現れたのだと考えた。これは龍蛇の孽に近い。漦とは血であり、あるいは涎である。檿弧とは桑の弓である。萁服とはおそらく萁草で作った矢入れであり、射るという妖しき現象に近い。女の童謡とは、禍いが女から生じ、国が兵乱によって滅びるということである。

原文史記夏后氏之衰,有二龍止於夏廷,而言「余,褒之二君也」。夏帝卜殺之,去之,止之,莫吉;卜請其漦而藏之,乃吉。於是布幣策告之。龍亡而漦在,乃櫝去之。其後夏亡,傳櫝於殷周,三代莫發,至厲王末,發而觀之,漦流于廷,不可除也。厲王使婦人臝而譟之,漦化為玄黿,入後宮。處妾遇之而孕,生子,懼而棄之。宣王立,女童謠曰:「览弧萁服,實亡周國。」後有夫婦鬻是器者,宣王使執而僇之。既去,見處妾所棄妖子,聞其夜號,哀而收之,遂亡奔褒。後褒人有罪,入妖子以贖,是為褒姒,幽王見而愛之,生子伯服。王廢申后及太子宜咎,而立褒姒、伯服代之。廢后之父申侯與繒西畎戎共攻殺幽王。《詩》曰:「赫赫宗周,褒姒醤之。」劉向以為夏后季世,周之幽、厲,皆誖亂逆天,故有龍黿之怪,近龍蛇孽也。漦,血也,一曰沫也。览弧,桑弓也。萁服,蓋以萁草為箭服,近射妖也。女童謠者,禍將生於女,國以兵寇亡也。

左氏伝によれば、昭公十九年、龍が鄭の時門の外の洧淵いえんで闘った。劉向は、これは龍の孽に近いと考えた。鄭は小国でありながら晋と楚の間に挟まれ、さらに強力な呉が加わり、鄭はその衝に当たりながら、徳を修めることができず、三国と闘って自ら危うく滅亡しようとしていた。この時、子産が政を任され、内では民に恵みを施し、外では巧みな言葉遣いで三国と交際し、鄭はついに禍いを免れた。これは徳をもって変異を消し去った効果である。京房の易伝に言う。「衆人の心が安らかでないと、その妖として龍が闘う」。

原文左氏傳昭公十九年,龍鬥於鄭時門之外洧淵。劉向以為近龍孽也。鄭以小國攝乎晉楚之間,重以彊吳,鄭當其衝,不能修德,將鬥三國,以自危亡。是時子產任政,內惠於民,外善辭令,以交三國,鄭卒亡患,能以德消變之效也。京房易傳曰:「眾心不安,厥妖龍鬥。」

恵帝二年正月癸酉の朝、二匹の龍が蘭陵らんりょう廷東里ていとうり温陵井おんりょうせいに現れ、乙亥の夜に去った。劉向は、龍は貴い象徴であるのに庶人の井戸に困窮したのは、諸侯が幽閉・捕縛される禍いの兆しであると考えた。その後、呂太后が三趙王さんちょうおうを幽閉して殺し、諸呂もついに誅殺・滅亡した。京房の易伝に言う、「徳ある者が害を受けると、その妖は龍が井戸に現れる」。また言う、「刑罰を暴虐に行うと、黒龍が井戸から出る」。

原文惠帝二年正月癸酉旦,有兩龍見於蘭陵廷東里溫陵井中,至乙亥夜去。劉向以為龍貴象而困於庶人井中,象諸侯將有幽執之禍。其後呂太后幽殺三趙王,諸呂亦終誅滅。京房易傳曰:「有德遭害,厥妖龍見井中。」又曰:「行刑暴惡,黑龍從井出。」

左氏伝によれば、魯の厳公の時、内蛇ないだ外蛇がいだが鄭の南門の中で闘い、内蛇が死んだ。劉向は、これは蛇の妖に近いと考えた。先に鄭の厲公が宰相の祭仲さいちゅうを脅迫して兄の昭公を追放し、代わって立った。後に厲公が出奔し、昭公が復帰した。昭公が死ぬと、弟の子儀しぎが代わって立った。厲公は外から大夫の傅瑕ふかを脅迫し、子儀を殺させた。これが外蛇が内蛇を殺す象徴である。蛇が死んで六年後に、厲公が立った。厳公はこれを聞き、申繻しんじゅに問うて言った、「まだ妖があるのか」。申繻は答えて言った、「人が忌み嫌うものは、その人の気の勢いがそれを招くのであり、妖は人によって起こるのです。人に過失がなければ、妖は自ら起こりません。人が常道を捨てるから、妖があるのです」。京房の易伝に言う、「嗣子を立てるのに疑いがあると、その妖は蛇が国門に居て闘う」。

原文左氏傳魯嚴公時有內蛇與外蛇鬥鄭南門中,內蛇死。劉向以為近蛇孽也。先是鄭厲公劫相祭仲而逐兄昭公代立。後厲公出奔,昭公復入。死,弟子儀代立。厲公自外劫大夫傅瑕,使僇子儀。此外蛇殺內蛇之象也。蛇死六年,而厲公立。嚴公聞之,問申繻曰:「猶有妖乎?」對曰:「人之所忌,其氣炎以取之,妖由人興也。人亡舋焉,妖不自作。人棄常,故有妖。」京房易傳曰:「立嗣子疑,厥妖蛇居國門鬥。」

左氏伝によれば、文公十六年の夏、蛇が泉宮せんきゅうから出て、国都に入り、先君の数と同じだけの数であった。劉向は、これは蛇の妖に近いと考えた。泉宮は苑の中にあり、公の母である姜氏きょうしがかつてここに住んでいた。蛇がそこから出たのは、宮殿が住まわれなくなる象徴である。『詩経』に言う、「これこれ蛇、女子の祥」。また、蛇が国都に入るのは、国に女に関する憂いが起こる兆しである。先君の数と同じであるのは、公の母がまもなく薨去する象徴である。秋、公の母が薨去した。公はこれを嫌い、泉臺せんだいを壊した。そもそも妖孽ようげつは行いに対応して自ら現れるのであり、現れたからといって害をなすのではない。文公が行いを改めて正道に従い、慎んでその罰を受け止めず、非礼なことを行って、その過ちを重ねた。その後二年して薨去し、公子遂が文公の二人の子である悪と視を殺し、宣公を立てた。文公の夫人は斉に帰国した。

原文左氏傳文公十六年夏,有蛇自泉宮出,入于國,如先君之數。劉向以為近蛇孽也。泉宮在囿中,公母姜氏嘗居之,蛇從之出,象宮將不居也。《詩》曰:「維虺維蛇,女子之祥。」又蛇入國,國將有女憂也。如先君之數者,公母將薨象也。秋,公母薨。公惡之,乃毀泉臺。夫妖孽應行而自見,非見而為害也。文不改行循正,共御厥罰,而作非禮,以重其過。後二年薨,公子遂殺文之二子惡、視,而立宣公。文公夫人大歸于齊。

武帝の太始たいし四年七月、趙で蛇が城外から入り、邑中の蛇と孝文廟の下で闘い、邑中の蛇が死んだ。その後二年の秋、衛太子の事件があり、事件は趙の人である江充から起こった。

原文武帝太始四年七月,趙有蛇從郭外入,與邑中蛇鬥孝文廟下,邑中蛇死。後二年秋,有衛太子事,事自趙人江充起。

左氏伝によれば、定公十年、宋の公子地こうしちには白馬のがあった。公の寵臣である向魋しょうたいがそれを欲しがり、公はそれを取り上げて尾とたてがみを赤く染めて与えた。地は怒り、配下の者に命じて魋を打ちすえ、馬を奪い返した。魋は恐れて逃げようとしたが、公は門を閉めて泣き、目がはれあがった。公の弟の辰が地に言った、「あなたは君主への礼として、国境を出るまでで、君主はきっとあなたを引き留めるでしょう」。地は陳に出奔したが、公は引き留めなかった。辰が地のために願い出たが、聞き入れられなかった。辰は言った、「これは私が兄を欺いたことになる。私は国人を連れて出奔すれば、君主は誰と共に国にいるというのか」。そこで配下の者と共に出奔して陳に行った。翌年、ともに蕭に入って反乱を起こし、宋に大きな禍いをもたらした。これは馬の禍いに近い。

原文左氏傳定公十年,宋公子地有白馬駟,公嬖向魋欲之,公取而朱其尾鬣以予之。地怒,使其徒抶魋而奪之。魋懼將走,公閉門而泣之,目盡腫。公弟辰謂地曰:「子為君禮,不過出竟,君必止子。」地出奔陳,公弗止。辰為之請,不聽。辰曰:「是我迋吾兄也,吾以國人出,君誰與處?」遂與其徒出奔陳。明年俱入于蕭以叛,大為宋患,近馬禍也。

『史記』によると、秦の孝公二十一年に馬が人間を生み、昭王二十年には牡馬が子を生んで死んだ。劉向はこれらをすべて馬の災いであると考えた。孝公は初めて商君(商鞅)の攻守の法を用い、東の諸侯を侵略し、昭王に至っては、用兵がますます激しくなった。その兆しは、武力によって極限まで成功を収めながら、やがて自らを害することになるというものであった。牡馬は子を生む類いではないのに、無理に生んで死んだのは、秦が武力を恃んで天下を得ながら、やがて自ら滅びる兆しに似ている。また、諸々の畜生がその類いでない子を生めば、子孫には必ずその姓でない者が現れるという。始皇帝に至って、果たして呂不韋の子であった。京房の『易伝』には、「方伯が威を分かつとき、その妖は牡馬が子を生む。天子を失い、諸侯が互いに討伐するとき、その妖は馬が人間を生む」とある。

原文史記秦孝公二十一年有馬生人,昭王二十年牡馬生子而死。劉向以為皆馬禍也。孝公始用商君攻守之法,東侵諸侯,至於昭王,用兵彌烈。其象將以兵革抗極成功,而還自害也。牡馬非生類,妄生而死,猶秦恃力彊得天下,而還自滅之象也。曰,諸畜生非其類,子孫必有非其姓者,至於始皇,果呂不韋子。京房易傳曰:「方伯分威,厥妖牡馬生子。亡天子,諸侯相伐,厥妖馬生人。」

文帝の十二年、呉で馬の角が生えた。角は耳の前にあり、上向きであった。右の角は長さ三寸、左の角は長さ二寸、どちらも太さ二寸であった。劉向は、馬が角を生やすべきでないのは、呉が兵を挙げて上(朝廷)に向かうべきでないのと同じであると考えた。この時、呉王劉濞は四郡五十余城を封じられており、内心驕り高ぶり、その変化が外に現れたので、天の戒めは早くからあったのである。王は悟らず、後に挙兵し、誅滅された。京房の『易伝』には、「臣が上を軽んじ、政が順調でないとき、その妖は馬が角を生やす。これは賢士が足りないことを言う」とある。また、「天子が親征するとき、馬が角を生やす」ともある。

原文文帝十二年,有馬生角於吳,角在耳前,上鄉。右角長三寸,左角長二寸,皆大二寸。劉向以為馬不當生角,猶吳不當舉兵鄉上也。是時,吳王濞封有四郡五十餘城,內懷驕恣,變見於外,天戒早矣。王不寤,後卒舉兵,誅滅。京房易傳曰:「臣易上,政不順,厥妖馬生角,茲謂賢士不足。」又曰:「天子親伐,馬生角。」

成帝の綏和三年二月、大廄(たいきゅう、天子の馬屋)の馬が角を生やした。左耳の前にあり、周囲の長さはそれぞれ二寸であった。この時、王莽が大司馬となっており、上(皇帝)を害する萌芽はここから始まったのである。哀帝の建平二年、定襄で牡馬が駒を生んだが、足が三本で、群れに従って飲食した。太守がこれを報告した。馬は国の武用(軍事用)である。三本足は、任用に堪えない兆しである。後に侍中の董賢が二十二歳で大司馬となり、上公の位に就いたが、天下はこれに従わなかった。哀帝が急死すると、成帝の母である王太后が弟の子である新都侯王莽を召し入れ、董賢の印綬を没収した。董賢は恐れて自殺し、王莽が代わって権力を握り、外戚の丁氏・傅氏を誅殺した。また、哀帝の傅皇后を廃して自殺させ、帝の祖母である傅太后、母である丁太后の陵墓を発掘し、庶人として改葬した。これは至尊(皇帝)にまで及ぶ罪であり、大臣が微弱となった禍いである。

原文成帝綏和三年二月,大廄馬生角,在左耳前,圍長各二寸。是時王莽為大司馬,害上之萌自此始矣。哀帝建平二年,定襄牡馬生駒,三足,隨群飲食,太守以聞。馬,國之武用,三足,不任用之象也。後侍中董賢年二十二為大司馬,居上公之位,天下不宗。哀帝暴崩,成帝母王太后召弟子新都侯王莽入,收賢印綬,賢恐,自殺,莽因代之,並誅外家丁、傅。又廢哀帝傅皇后,令自殺,發掘帝祖母傅太后、母丁太后陵,更以庶人葬之。辜及至尊,大臣微弱之禍也。

文公十一年、「狄を鹹で破った」。『穀梁伝』『公羊伝』によると、長狄ちょうてきの兄弟三人がおり、一人は魯へ、一人は斉へ、一人は晋へ行き、皆殺された。その体は九畝(約45メートル四方)に横たわり、その首を切り取って車に載せると、眉が軾(しょく、車の手すり)の上に見えた。なぜ記録したのか?異変を記したのである。劉向は、この時、周室が衰微し、魯・斉・晋の三国が強大となり、責められるべき存在であったと考えた。天の戒めはこう言うようであった。「礼義を行わず、大いに夷狄の行いをなせば、危亡に至るであろう」。その後、三国はいずれも簒奪や弑逆の禍いを蒙った。これは下人(臣下)が上(君主)を伐つ病いに近い。劉歆は、人の異変であり、黄祥(五行の土に属する祥瑞・災異)に属すると考えた。一説には、裸虫(はだかむし、人間を含む無毛の動物)の孽に属する。一説には、天地の性において人は貴く、凡そ人の異変はすべて皇極(君主の道)に関わり、下人(臣下)が上(君主)を伐つ病いに属するという。京房の『易伝』には、「君主が暴虐で乱れ、有道の者を憎むとき、その妖は長狄が国に入る」とある。また、「その屋を豊かにし、下(民)は独り苦しむ。長狄が生まれ、世の主は虜となる」ともある。

原文文公十一年,「敗狄于鹹」。穀梁、公羊傳曰,長狄兄弟三人,一者之魯,一者之齊,一者之晉。皆殺之,身橫九畝;斷其首而載之,眉見於軾。何以書?記異也。劉向以為是時周室衰微,三國為大,可責者也。天戒若曰,不行禮義,大為夷狄之行,將至危亡。其後三國皆有篡弒之禍,近下人伐上之痾也。劉歆以為人變,屬黃祥。一曰,屬臝蟲之孽。一曰,天地之性人為貴,凡人為變,皆屬皇極下人伐上之痾云。京房易傳曰:「君暴亂,疾有道,厥妖長狄入國。」又曰:「豐其屋,下獨苦。長狄生,世主虜。」

『史記』によると、秦の始皇帝二十六年、身長五丈(約11.5メートル)、足の長さ六尺(約1.4メートル)の大人(巨人)が十二人、皆夷狄の服を着て臨洮に現れた。天の戒めはこう言うようであった。「大いに夷狄の行いをするな。さもなくばその禍いを受けるであろう」。この年、始皇帝は初めて六国を併合し、逆に喜んで瑞祥と考え、天下の兵器を溶かし、金人十二体を作ってこれを象った。そして自ら聖賢であるとし、詩書を焼き、儒士を生き埋めにした。奢侈・淫逸・暴虐にふけ、ひたすら領土を広げようとした。南には五嶺を守備させ、北には長城を築いて胡や越に備え、山を削り谷を埋め、西は臨洮から東は遼東まで、直線距離数千里に及んだ。ゆえに大人が臨洮に現れたのは、禍乱の起こることを明らかにしたのである。その後十四年で秦は滅亡し、その滅亡は戍卒(守備兵)の陳勝が起こしたことから始まった。

原文史記秦始皇帝二十六年,有大人長五丈,足履六尺,皆夷狄服,凡十二人,見于臨洮。天戒若曰,勿大為夷狄之行,將受其禍。是歲始皇初并六國,反喜以為瑞,銷天下兵器,作金人十二以象之。遂自賢聖,燔詩書,阬儒士;奢淫暴虐,務欲廣地;南戍五嶺,北築長城以備胡越,塹山填谷,西起臨洮,東至遼東,徑數千里。故大人見於臨洮,明禍亂之起。後十四年而秦亡,亡自戍卒陳勝發。

『史記』魏襄王十三年に、魏に女子が丈夫(男子)に化する者があった。京房の『易伝』に言う、「女子が丈夫に化する、これを陰が盛んになるという。賤しい者が王となる。丈夫が女子に化する、これを陰が勝つという。その災いは滅亡である」と。一説に、男が女に化するのは、宮刑(去勢刑)が濫用されるためであり、女が男に化するのは、婦人の政治が行われるためであるという。

原文史記魏襄王十三年,魏有女子化為丈夫。京房易傳曰:「女子化為丈夫,茲謂陰昌,賤人為王;丈夫化為女子,茲謂陰勝,厥咎亡。」一曰,男化為女,宮刑濫也;女化為男,婦政行也。

哀帝の建平年間、豫章よしょうに男子が女子に化し、嫁いで人の妻となり、一子を生んだ。長安の陳鳳ちんほうは、これは陽が陰に変わることで、後継ぎが絶えて滅亡する、自ら生み出す象であると言った。一説に、嫁いで人の妻となり子を生むのは、さらに一代を経てから絶えることになるという。

原文哀帝建平中,豫章有男子化為女子,嫁為人婦,生一子。長安陳鳳言此陽變為陰,將亡繼嗣,自相生之象。一曰,嫁為人婦生一子,將復一世乃絕。

哀帝建平四年四月、山陽の方与ほうよの女子、田無嗇でんぶしょくが子を生んだ。生まれる二か月前から、児が腹中で啼き、生まれると養育せず、路傍に葬った。三日後、人が通りかかって啼き声を聞き、母が掘り出して養い育てた。

原文哀帝建平四年四月,山陽方與女子田無嗇生子。先未生二月,兒啼腹中,及生,不舉,葬之陌上,三日,人過聞啼聲,母掘收養。

平帝の元始元年二月、朔方さくほう広牧こうぼくの女子、趙春ちょうしゅんが病死し、棺に納めて六日が経ったとき、棺の外に出てきて、死んだ夫と父に会ったと言い、「年二十七では死ぬべきではない」と言った。太守の譚がこれを上聞した。京房の『易伝』に言う、「『父の過ちを正し、子あり、父に咎なし』。子が三年たっても父の道を改めず、追慕して暇がなく、また重ねて先人の過ちを見る。そうでなければ私心のためである。その妖は人が死んで復活することである」と。一説に、至陰が陽となることで、下の者が上の者となるという。

原文平帝元始元年二月,朔方廣牧女子趙春病死,斂棺積六日,出在棺外,自言見夫死父,曰:「年二十七,不當死。」太守譚以聞。京房易傳曰:「『幹父之蠱,有子,考亡咎』。子三年不改父道,思慕不皇,亦重見先人之非,不則為私,厥妖人死復生。」一曰,至陰為陽,下人為上。

六月、長安の女子に生んだ児があり、二つの頭は別々の首で顔は向き合い、四本の腕が一つの胸から共に前方を向き、臀部に目があり長さ二寸ほどであった。京房の『易伝』に言う、「『離れ孤り、豕の塗を負うを見る』。その妖は人が二つの頭を生むことである。下の者が互いに善を奪い合うと、妖も同じである。人や六畜の首や目が下にあるのは、これを上を失うといい、正(政)が変革しようとしている。およそ妖が起こるのは、過失を正すことを譴めるためで、それぞれその類に象る。二つの首は、下が一つでないこと。足が多いのは、任用する者が邪なこと。足が少ないのは、下が任に堪えられないか、あるいは下を任用しないこと。およそ下の体が上に生じるのは、不敬である。上の体が下に生じるのは、軽慢である。その類でないものが生じるのは、淫乱である。人が生まれて大きいのは、上(君主)が速成すること。生まれて言葉を話すのは、虚飾を好むこと。群妖はこの類を推し、改めなければ凶となるのである。」

原文六月,長安女子有生兒,兩頭異頸面相鄉,四臂共匈俱前鄉,犊上有目長二寸所。京房易傳曰:「『睽孤,見豕負塗』,厥妖人生兩頭。下相攘善,妖亦同。人若六畜首目在下,茲謂亡上,正將變更。凡妖之作,以譴失正,各象其類。二首,下不壹也;足多,所任邪也;足少,下不勝任,或不任下也。凡下體生於上,不敬也;上體生於下,媟瀆也;生非其類,淫亂也;人生而大,上速成也;生而能言,好虛也。群妖推此類,不改乃成凶也。」

景帝の二年(前155年)九月、膠東国の下密県に七十余歳の老人が角を生やし、その角には毛が生えていた。当時、膠東王・膠西王・済南王・斉王の四王には挙兵して反乱を起こそうとする謀略があり、その謀略は呉王劉濞が起こし、楚・趙と連合し、合わせて七国となった。下密県は、四斉(四つの斉の国)の中央に位置する。角は兵乱の象徴であり、上(朝廷)に向かうものである。老人は呉王の象徴である。七十歳という年齢は七国の象徴である。天の戒めはこう言っているようだ。人は角を生やすべきではない、それはちょうど諸侯が兵を挙げて京師(都)に向かうべきではないのと同じである。禍いは老人から生じ、七国は共に敗れるという。諸侯は悟らず、翌年、呉王が先に挙兵し、諸侯がそれに従い、七国は共に滅びた。京房の『易伝』に言う。「冢宰(宰相)が政権を専断すると、その妖として人が角を生やす」。

原文景帝二年九月,膠東下密人年七十餘,生角,角有毛。時膠東、膠西、濟南、齊四主有舉兵反謀,謀由吳王濞起,連楚、趙,凡七國。下密,縣居四齊之中;角,兵象,上鄉者也;老人,吳王象也;年七十,七國象也。天戒若曰,人不當生角,猶諸侯不當舉兵以鄉京師也;禍從老人生,七國俱敗云。諸侯不寤,明年吳王先起,諸侯從之,七國俱滅。京房易傳曰:「冢宰專政,厥妖人生角。」

成帝の建始三年(前30年)十月丁未の日、京師(長安)で人々が驚き騒ぎ、大水が来ると言いふらした。渭水の虒のほとりに住む九歳の少女、陳持弓ちんじきゅうが、横城門から走り込み、未央宮の尚方掖門しょうほうえきもんに入り、殿門の門衛や戸を守る者たちは誰も気づかず、句盾こうじゅんの禁中に至って発見された。民衆が水のことで驚き騒ぐのは、陰気が盛んになったためである。少女が宮殿の中に入ったのは、下位の者が女寵(女性の寵愛)によって宮室に居座る象徴である。名が「持弓」というのは、周王朝の「檿弧」の祥瑞(吉兆)に似ている。『易経』に言う。「弧(弓)と矢の利(鋭さ)は、天下を威圧するためである」。この時、皇帝の母である王太后の弟の王鳳が初めて上将軍となり、国政を執っていた。天はその後に彼らが天下を威圧して宮室に入ることを知っていたので、先に象徴を示したのである。その後、王氏の兄弟父子が五侯として権力を握り、王莽に至ってついに天下を簒奪したのは、おそらくこの陳氏(陳持弓)の事件がその後のこと(王氏の台頭)を暗示していたのであろう。京房の『易伝』に言う。「妖言(怪しい言葉)が大衆を動かす、これを不信という。路(道)は人を亡ぼし、司馬(軍の長官)は死ぬ」。

原文成帝建始三年十月丁未,京師相驚,言大水至。渭水虒上小女陳持弓年九歲,走入橫城門,入未央宮尚方掖門,殿門門衛戶者莫見,至句盾禁中而覺得。民以水相驚者,陰氣盛也。小女而入宮殿中者,下人將因女寵而居有宮室之象也。名曰持弓,有似周家览弧之祥。《易》曰:「弧矢之利,以威天下。」是時,帝母王太后弟鳳始為上將,秉國政,天知其後將威天下而入宮室,故象先見也。其後,王氏兄弟父子五侯秉權,至莽卒篡天下,蓋陳氏之後云。京房易傳曰:「妖言動眾,茲謂不信,路將亡人,司馬死。」

成帝の綏和二年(前7年)八月庚申の日、鄭通里の男子、王褒おうほうが、深紅色の衣に小冠をかぶり、剣を帯びて北司馬門殿東門から入り、前殿に上り、非常室(普段使わない部屋)に入り、とばりの組紐を解いて自分の帯に結びつけ、前殿の署長の業らを呼んで言った。「天帝が私にここに住むよう命じた」。業らは彼を捕縛し取り調べた。王褒は以前、公車(官署)の大誰卒(警備兵)であったが、狂気の病にかかり、自分が宮中に入った様子を自覚していなかった。彼は獄に下されて死んだ。この時、王莽が大司馬であったが、哀帝が即位すると、王莽は骸骨を乞うて(引退を願い出て)邸宅に退いた。天は彼が必ずや退かない(復帰する)ことを知っていたので、この事件によって象徴を示したのである。姓名と衣服の様子は甚だ明らかで、まっすぐに前殿の路寝(正殿)に上り、室に入って組紐を取って帯び、天帝の命と称したが、当時の人々は誰もこれを察知しなかった。後に王莽は封国に赴いたが、天下の人は彼を冤罪と思い、哀帝は王莽を召し出して京師に戻した。翌年、哀帝が崩御すると、王莽は再び大司馬となり、このことを契機として国を簒奪した。

原文成帝綏和二年八月庚申,鄭通里男子王褒衣絳衣小冠,帶劍入北司馬門殿東門,上前殿,入非常室中,解帷組結佩之,招前殿署長業等曰:「天帝令我居此。」業等收縛考問,褒故公車大誰卒,病狂易,不自知入宮狀,下獄死。是時王莽為大司馬,哀帝即位,莽乞骸骨就第,天知其必不退,故因是而見象也。姓名章服甚明,徑上前殿路寢,入室取組而佩之,稱天帝命,然時人莫察。後莽就國,天下冤之,哀帝徵莽還京師。明年帝崩,莽復為大司馬,因是而篡國。

哀帝の建平四年正月、民衆が驚いて走り回り、稲わらあるいは麻の茎を一本ずつ持ち、次々に手渡しして、「詔のくじを行く」と言った。道中で出会う者は多くて数千人に及び、ある者は髪を振り乱して徒歩で駆け、ある者は夜に門を破り、ある者は塀を越えて入り、ある者は車馬に乗って疾走し、駅伝を置いて行き、二十六の郡国を経て、京師に至った。その夏、京師や郡国の民衆が里や巷の道端に集まり、祭りを設けて博具を広げ、歌舞をして西王母を祀り、また書を伝えて言った。「母(西王母)が百姓に告げる、この書を帯びる者は死なず。我が言を信じなければ、門の枢の下を見よ、白髪があるはずだ。」秋になって止んだ。この時、帝の祖母の傅太后が驕り高ぶり、政事に関与していたので、杜鄴とようが答えて言った。「春秋の災異は、指象ししょうをもって言語とする。籌は、数を記すものである。民は陰であり、水の類である。水は東流するのが順行であり、西に行くのは、かえって逆上する類である。象数が度を超えて溢れ、妄りに互いに与え合うのは、民心に背く応である。西王母は婦人の称である。博弈は男子の事である。街巷の道端で行うのは、閨門の内を離れ、外の境に出ることを明らかにする。事に臨んで遊楽にふけるのは、炕陽の意である。白髪は衰年の象であり、体は尊く性は弱く、治め難く乱れ易い。門は人の出入りする所、枢はその要である。人の出入りする所に居て、その要を制するのは、その明らかなこと甚だしい。今、外戚の丁氏・傅氏が共に帷幄に侍し、列位に布き、罪悪ある者は罰せられず、功能なき者は皆官爵を受ける。皇甫こうほ・三桓は詩人が刺し、春秋が譏るところであり、これより甚だしいことはない。指象は昭々として、聖朝を覚醒させようとしているのに、どうして応じないのか。」後に哀帝が崩じ、成帝の母の王太后が朝政を臨み、王莽が大司馬となり、丁氏・傅氏を誅滅した。一説に、丁氏・傅氏の乱したことは小さく、この異変は王太后・王莽の応であるという。

原文哀帝建平四年正月,民驚走,持稿或棷一枚,傳相付與,曰行詔籌。道中相過逢多至千數,或被髮徒踐,或夜折關,或踰牆入,或乘車騎奔馳,以置驛傳行,經歷郡國二十六,至京師。其夏,京師郡國民聚會里巷仟佰,設祭張博具,歌舞祠西王母,又傳書曰:「母告百姓,佩此書者不死。不信我言,視門樞下,當有白髮。」至秋止。是時帝祖母傅太后驕,與政事,故杜鄴對曰:「春秋災異,以指象為言語。籌,所以紀數。民,陰,水類也。水以東流為順走,而西行,反類逆上。象數度放溢,妄以相予,違忤民心之應也。西王母,婦人之稱。博弈,男子之事。於街巷仟伯,明離闑內,與疆外。臨事盤樂,炕陽之意。白髮,衰年之象,體尊性弱,難理易亂。門,人之所由;樞,其要也。居人之所由,制持其要也。其明甚者。今外家丁、傅並侍帷幄,布於列位,有罪惡者不坐辜罰,亡功能者畢受官爵。皇甫、三桓,詩人所刺,春秋所譏,亡以甚此。指象昭昭,以覺聖朝,柰何不應!」後哀帝崩,成帝母王太后臨朝,王莽為大司馬,誅滅丁、傅。一曰丁、傅所亂者小,此異乃王太后、莽之應云。

下之下

原文下之下

隠公三年「二月己巳、日食があった」。穀梁伝は「日を言って朔を言わないのは、晦日に食ったからだ」と言い、公羊伝は「二日に食った」と言う。董仲舒と劉向は、その後、戎が天子の使者を捕らえ、鄭が魯の隠公を捕らえ、戴が滅び、衛・魯・宋が皆君主を殺したことと関連づけた。左氏の劉歆は正月二日とし、燕・越の分野であるとした。およそ太陽が運行する経路に変化があれば、その分野の国で失政がある者がそれを受ける。人君が政事を修め、その罰を共に防ぐことができれば、災いは消えて福が至る。できなければ、災いは止まず禍が生じる。だから経書は災いを記すがその原因を記さない。吉凶は常ならず、行いに従って禍福が成るからである。周が衰え、天子が朔を頒布せず、魯の暦が正しくなく、閏月を置くのに適切な月でなく、月の大小がその度合いを得なかった。史記が日食と記す場合、朔と言いながら実際は朔でないもの、朔と言わないが実際は朔であるもの、朔と日を書き落としているものがあり、いずれも官の失策である。京房の易伝に言う。「師を失うことを不御と言い、その異変は日食であり、その食は既(皆既)で、一か所だけでなく複数箇所で食う。誅罰が多く道理を失うことを生叛と言い、その食は既で、光が散る。反逆を放任することを不明と言い、その食は先立って大雨が三日降り、雨が止んで寒くなり、寒くなるとすぐに食う。禄を専有して封じないことを不安と言い、その食は既で、先に日が出て黒くなり、光が外に向かって照り返す。君臣が通じないことを亡と言い、その蝕は三度既になる。同姓が上を侵すことを君を誣うと言い、その食は四方に雲があり中央に雲がなく、その日は大寒である。公が主君の地位を弱めようとすることを不知と言い、その食は中央が白く青く、四方が赤く、食った後に地震が起こる。諸侯が互いに侵すことを不承と言い、その食は三度毀れ三度復する。君主が善を憎むこと、下が上を謀ることを乱と言い、その食は既で、先に雹が降り、走獣を殺す。君主を弑して位を得ることを逆と言い、その食は既で、先に風雨が木を折り、日が赤くなる。内臣が外に向かうことを背と言い、その食は食いながら雨が降り、地中が鳴る。冢宰が専政することを因と言い、その食は先に大風が吹き、食う時に日が雲の中にあり、四方に雲がない。伯正が職を越えることを分威と言い、その食は日中に分かれる。諸侯が上で美を争うことを泰と言い、その食は日が月を傷つけ、食い半分、天が営々と鳴る。賦税が得られないことを竭と言い、その食は星が従って下る。受命の臣が専征して試みる場合、その食は侵されても光はなお明るく、文王の臣が独り紂を誅したようである。小人が順に受命してその君を征伐して殺す場合、その食は五色で、大寒に至り霜が降り、紂の臣が武王に順じて紂を誅したようである。諸侯が制度を変えることを叛と言い、その食は三度復し三度食い、食い終わって風が吹き、地が動く。嫡が庶に譲ることを生欲と言い、その食は日が位を失い、光が暗く、月の形が現れる。酒に節度がないことを荒と言い、その蝕は青くなったり黒くなったり赤くなったりし、明日大雨が降り、霧が立ち寒くなる。」およそ食いの占いは二十種、その形は二十四あり、改めればただちに除かれる。改めなければ三年、三年改めなければ六年、六年改めなければ九年。隠公三年の日食を推すと、中央を貫き、上下が尽きて黒く、臣が弑逆を中から成す形である。後に衛の州吁が君主を弑して立った。

原文隱公三年「二月己巳,日有食之」。穀梁傳曰:「言日不言朔,食晦。」公羊傳曰,「食二日。」董仲舒、劉向以為其後戎執天子之使,鄭獲魯隱,滅戴,衛、魯、宋咸殺君。左氏劉歆以為正月二日,燕、越之分野也。凡日所躔而有變,則分野之國失政者受之。人君能修政,共御厥罰,則災消而福至;不能,則災息而禍生。故經書災而不記其故,蓋吉凶亡常,隨行而成禍福也。周衰,天子不班朔,魯曆不正,置閏不得其月,月大小不得其度。史記曰食,或言朔而實非朔,或不言朔而實朔,或脫不書朔與日,皆官失之也。京房易傳曰:「亡師茲謂不御,厥異日食,其食也既,並食不一處。誅眾失理,茲謂生叛,厥食既,光散。縱畔茲謂不明,厥食先大雨三日,雨除而寒,寒即食。專祿不封,茲謂不安,厥食既,先日出而黑,光反外燭。君臣不通茲謂亡,厥蝕三既。同姓上侵,茲謂誣君,厥食四方有雲,中央無雲,其日大寒。公欲弱主位,茲謂不知,厥食中白青,四方赤,已食地震。諸侯相侵,茲謂不承,厥食三毀三復。君疾善,下謀上,茲謂亂,厥食既,先雨雹,殺走獸。弒君獲位茲謂逆,厥食既,先風雨折木,日赤。內臣外鄉茲謂背,厥食食且雨,地中鳴。冢宰專政茲謂因,厥食先大風,食時日居雲中,四方亡雲。伯正越職,茲謂分威,厥食日中分。諸侯爭美於上茲謂泰,厥食日傷月,食半,天營而鳴。賦不得茲謂竭,厥食星隨而下。受命之臣專征云試,厥食雖侵光猶明,若文王臣獨誅紂矣。小人順受命者征其君云殺,厥食五色,至大寒隕霜,若紂臣順武王而誅紂矣。諸侯更制茲謂叛,厥食三復三食,食已而風,地動。適讓庶茲謂生欲,厥食日失位,光晻晻,月形見。酒亡節茲謂荒,厥蝕乍青乍黑乍赤,明日大雨,發霧而寒。」凡食二十占,其形二十有四,改之輒除;不改三年,三年不改六年,六年不改九年。推隱三年之食,貫中央,上下竟而黑,臣弒從中成之形也。後衛州吁弒君而立。

桓公三年「七月壬辰朔、日食があり、既(皆既)となった」。董仲舒と劉向は、前の事が既に大きく、後に来る事がまた大きい場合に既になるとした。先に魯・宋が君主を弑し、魯はさらに宋の乱を成し、許の田を易え、天子に事える心を失った。楚が王を僭称した。後に鄭が王の師を拒み、桓王を射、また二君が相次いで簒奪した。劉歆は六月とし、趙と晋の分であるとした。先に、晋の曲沃伯が再び晋侯を弑し、この歳に晋は大乱し、その宗国を滅ぼした。京房の易伝は、桓公三年の日食は中央を貫き、上下が尽きて黄く、臣が弑逆を成し遂げられなかった形であるとした。後に楚の厳(荘)が王を称し、千里の地を兼ねた。

原文桓公三年「七月壬辰朔,日有食之,既」。董仲舒、劉向以為前事已大,後事將至者又大,則既。先是魯、宋弒君,魯又成宋亂,易許田,亡事天子之心;楚僭稱王。後鄭岠王師,射桓王,又二君相篡。劉歆以為六月,趙與晉分。先是,晉曲沃伯再弒晉侯,是歲晉大亂,滅其宗國。京房易傳以為桓三年日食貫中央,上下竟而黃,臣弒而不卒之形也。後楚嚴稱王,兼地千里。

十七年「十月朔,日有食之」。穀梁伝は言う、朔を言って日を言わないのは、二日に食が起こったからであると。劉向は、この時衛侯の朔が罪があって斉に奔り、天子が衛の君を改めて立てた。朔が五国の力を借りて、兵を挙げてこれを伐ち自ら立ったので、王命は遂に壊れた。魯の夫人が斉で淫行をなし、ついに威公を殺したことによるものと考えた。董仲舒は、朔を言って日を言わないのは、魯の桓公に夫人の禍が起こり、終日を全うしないことを憎んだからであると考えた。劉歆は、楚と鄭の分野であると考えた。

原文十七年「十月朔,日有食之」。穀梁傳曰,言朔不言日,食二日也。劉向以為是時衛侯朔有罪出奔齊,天子更立衛君。朔藉助五國,舉兵伐之而自立,王命遂壞。魯夫人淫失於齊,卒殺威公。董仲舒以為言朔不言日,惡魯桓且有夫人之禍,將不終日也。劉歆以為楚、鄭分。

厳公十八年「三月,日有食之」。穀梁伝は言う、日を言わず、朔を言わないのは、夜に食が起こったからである。史官が推算して合朔が夜にあり、明くる朝に日食が起こって出て、出てから解けたので、これを夜食という。劉向は、夜食というのは、陰が日の明るさの衰えに乗じてその光を奪うもので、周の天子が明らかでなく、斉の桓公がその威を奪い、諸侯を専ら会して覇道を行おうとする象であると考えた。その後、桓公は遂に九たび諸侯を会合させ、天子は世子をしてこれに会わせた。これがその効験である。公羊伝は晦に食が起こったと言う。董仲舒は、宿が東壁にあり、魯の象であると考えた。後に公子の慶父と叔牙しゅくがが果たして夫人と通じて公を脅迫した。劉歆は、晦の日、魯と衛の分野であると考えた。

原文嚴公十八年「三月,日有食之」。穀梁傳曰,不言日,不言朔,夜食。史推合朔在夜,明旦日食而出,出而解,是為夜食。劉向以為夜食者,陰因日明之衰而奪其光,象周天子不明,齊桓將奪其威,專會諸侯而行伯道。其後遂九合諸侯,天子使世子會之,此其效也。公羊傳曰食晦。董仲舒以為宿在東壁,魯象也。後公子慶父、叔牙果通於夫人以劫公。劉歆以為晦魯、衛分。

二十五年「六月辛未朔,日有食之」。董仲舒は、宿が畢にあり、辺境の兵と夷狄の象を主るものと考えた。後に狄が邢と衛を滅ぼした。劉歆は、五月二日、魯と趙の分野であると考えた。

原文二十五年「六月辛未朔,日有食之」。董仲舒以為宿在畢,主邊兵夷狄象也。後狄滅邢、衛。劉歆以為五月二日魯、趙分。

二十六年「十二月癸亥朔,日有食之」。董仲舒は、宿が心にあり、心は明堂であり、文武の道が廃れ、中国が糸のように細く絶えず続く象であると考えた。劉向は、この時戎が曹を侵し、魯の夫人が慶父と叔牙と淫行をなし、まさに君を弑さんとしようとしたので、この年と翌年に再び蝕が起こって戒めを示したものと考えた。劉歆は、十月二日、楚と鄭の分野であると考えた。

原文二十六年「十二月癸亥朔,日有食之」。董仲舒以為宿在心,心為明堂,文武之道廢,中國不絕若悋之象也。劉向以為時戎侵曹,魯夫人淫於慶父、叔牙,將以弒君,故比年再蝕以見戒。劉歆以為十月二日楚、鄭分。

三十年「九月庚午朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、後に魯で二人の君が弑され、夫人が誅され、二人の弟が死に、狄が邢を滅ぼし、徐が舒を取って、晋が世子を殺し、楚が弦を滅ぼしたことによるものと考えた。劉歆は、八月、秦と周の分野であると考えた。

原文三十年「九月庚午朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為後魯二君弒,夫人誅,兩弟死,狄滅邢,徐取舒,晉殺世子,楚滅弦。劉歆以為八月秦、周分。

僖公五年「九月戊申朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、これ以前に斉の桓公が覇を行い、江・黄が自ら服従し、南方の強楚を服属させたことを背景とする。その後、内政を正さず、外では陳の大夫を拘束したため、陳と楚が従わず、鄭伯が盟約から逃れ、諸侯が桓公の政治に従わなくなるであろうから、天が戒めを示したのだと考える。その後、晋が虢を滅ぼし、楚が許を滅ぼし、諸侯が鄭を討ち、晋で二人の君主が弑され、狄が温を滅ぼし、楚が黄を討ったが、桓公は救うことができなかった。劉歆は、七月に秦・晋の分野であるとする。

原文僖公五年「九月戊申朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為先是齊桓行伯,江、黃自至,南服彊楚。其後不內自正,而外執陳大夫,則陳、楚不附,鄭伯逃盟,諸侯將不從桓政,故天見戒。其後晉滅虢,楚國許,諸侯伐鄭,晉弒二君,狄滅溫,楚伐黃,桓不能救。劉歆以為七月秦、晉分。

十二年「三月庚午朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、この時に楚が黄を滅ぼし、狄が衛・鄭を侵し、莒が杞を滅ぼしたことによるものとする。劉歆は、三月に斉・衛の分野であるとする。

原文十二年「三月庚午朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為是時楚滅黃,狄侵衛、鄭,莒滅杞。劉歆以為三月齊、衛分。

十五年「五月,日有食之」。劉向は、これは晋の文公が覇道を行おうとし、後に衛を討ち、曹伯を拘束し、城濮じょうぼくで楚を破り、再び諸侯を会合させ、天王(周王)を召して朝見させたことの前兆であると考える。日食は臣下の悪であり、夜食はその罪を覆い隠すもので、上に明王がいない時、桓公・文公のような者が覇道を行い、夷狄を退け、中国を安んじることは、正統ではないとしても許される、これは『春秋』が実質では認めながら、形式的には認めないという義である。董仲舒は、後に秦が晋侯を捕らえ、斉がこうを滅ぼし、楚が婁林ろうりんで徐を破ったことによるものとする。劉歆は、二月朔に斉・越の分野であるとする。

原文十五年「五月,日有食之」。劉向以為象晉文公將行伯道,後遂伐衛,執曹伯,敗楚城濮,再會諸侯,召天王而朝之,此其效也。日食者臣之惡也,夜食者掩其罪也,以為上亡明王,桓、文能行伯道,攘夷狄,安中國,雖不正猶可,蓋春秋實與而文不與之義也。董仲舒以為後秦獲晉侯,齊滅項,楚敗徐于婁林。劉歆以為二月朔齊、越分。

文公元年「二月癸亥,日有食之」。董仲舒と劉向は、これ以前に大夫が初めて国政を執り、公子遂が京師へ赴き、後に楚の世子商臣しょうしんしょうしんが父を殺し、斉の公子商人こうししょうじんが君を弑して皆自立し、宋の子哀しあいが出奔し、晋が江を滅ぼし、楚が六を滅ぼし、大夫の公孫敖・叔彭生しゅくほうせいがともに会盟を専断したことによるものとする。劉歆は、正月朔に燕・越の分野であるとする。

原文文公元年「二月癸亥,日有食之」。董仲舒、劉向以為先是大夫始執國政,公子遂如京師,後楚世子商臣殺父,齊公子商人弒君,皆自立,宋子哀出奔,晉滅江,楚滅六,大夫公孫敖、叔彭生並專會盟。劉歆以為正月朔燕、越分。

十五年「六月辛丑朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、後に宋・斉・莒・晋・鄭において八年の間に五人の君主が殺害され、舒蓼じょりょうが夷滅されたことによるものとする。劉歆は、四月二日に魯・衛の分野であるとする。

原文十五年「六月辛丑朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為後宋、齊、莒、晉、鄭八年之間五君殺死,夷滅舒蓼。劉歆以為四月二日魯、衛分。

宣公八年「七月甲子の日、日食があり、皆既食となった」。董仲舒と劉向は、これ以前に楚の商臣が父を弑して即位し、厳王に至って強大になったためだと考える。諸夏の大国は斉と晋だけだったが、斉と晋は新たに簒奪や弑逆の禍を抱え、国内がまだ安定していなかった。そのため楚はその弱みに乗じて横行し、八年の間に六度侵伐し、一国を滅ぼした。陸渾りくこんの戎を討ち、周王室に兵を観兵し、後にまた鄭に入り、鄭伯は肉袒して謝罪した。北ではひつで晋軍を破り、流れる血で水の色が変わった。宋を九月に包囲し、骸を析いて炊事に用いた。劉歆は十月二日、楚と鄭の分界だと考える。

原文宣公八年「七月甲子,日有食之,既」。董仲舒、劉向以為先是楚商臣弒父而立,至于嚴王遂彊。諸夏大國唯有齊、晉,齊、晉新有篡弒之禍,內皆未安,故楚乘弱橫行,八年之間六侵伐而一滅國;伐陸渾戎,觀兵周室;後又入鄭,鄭伯肉袒謝罪;北敗晉師于邲,流血色水;圍宋九月,析骸而炊之。劉歆以為十月二日楚、鄭分。

十年「四月丙辰の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、陳で夏徴舒がその君を弑し、楚が蕭を滅ぼし、晋が二国を滅ぼし、王札子が召伯と毛伯を殺したためだと考える。劉歆は二月、魯と衛の分界だと考える。

原文十年「四月丙辰,日有食之」。董仲舒、劉向以為後陳夏徵舒弒其君,楚滅蕭,晉滅二國,王札子殺召伯、毛伯。劉歆以為二月魯、衛分。

十七年「六月癸卯の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、邾が鄫子そうしを支解し、晋が貿戎で王師を破り、あんで斉を破ったためだと考える。劉歆は三月のちょうみそか、魯と衛の分界だと考える。

原文十七年「六月癸卯,日有食之」。董仲舒、劉向以為後邾支解鄫子,晉敗王師于貿戎,敗齊于鞍。劉歆以為三月晦朓魯、衛分。

成公十六年「六月丙寅朔の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、晋が鄢陵で楚と鄭を破り、魯侯を捕らえたためだと考える。劉歆は四月二日、魯と衛の分界だと考える。

原文成公十六年「六月丙寅朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為後晉敗楚、鄭于鄢陵,執魯侯。劉歆以為四月二日魯、衛分。

十七年「十二月丁巳朔の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、楚が舒庸じょようを滅ぼし、晋がその君を弑し、宋の魚石が楚を頼りに君の邑を奪い、莒が鄫を滅ぼし、斉が萊を滅ぼし、鄭伯が弑されて死んだためだと考える。劉歆は九月、周と楚の分界だと考える。

原文十七年「十二月丁巳朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為後楚滅舒庸,晉弒其君,宋魚石因楚奪君邑,莒滅鄫,齊滅萊,鄭伯弒死。劉歆以為九月周、楚分。

襄公十四年「二月乙未朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、後に衛の大夫である孫と甯が共に献公を追放し、孫剽そんひょうを立てたことによるものと考えた。劉歆は、前年の十二月二日に宋と燕の分界にあたると考えた。

原文襄公十四年「二月乙未朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為後衛大夫孫、甯共逐獻公,立孫剽。劉歆以為前年十二月二日宋、燕分。

十五年「八月丁巳,日有食之」。董仲舒と劉向は、これに先立って晋が雞澤けいたくの会合を開き、諸侯が盟約を結び、さらに大夫も盟約を結んだこと、後に溴梁の会合では、諸侯がいるのに大夫だけが互いに盟約を結び、君主が旗の垂れ飾りのようで、手を挙げることができなかったことによるものと考えた。劉歆は、五月二日に魯と趙の分界にあたると考えた。

原文十五年「八月丁巳,日有食之」。董仲舒、劉向以為先是晉為雞澤之會,諸侯盟,又大夫盟,後為溴梁之會,諸侯在而大夫獨相與盟,君若綴斿,不得舉手。劉歆以為五月二日魯、趙分。

二十年「十月丙辰朔,日有食之」。董仲舒は、陳の慶虎けいこ慶寅けいいんが君主の明察を妨げ、邾の庶其しょきに謀反の心があったことによるものと考えた。後に庶其はしつ閭丘りょきゅうを携えて逃亡し、陳は二慶(慶虎・慶寅)を殺した。劉歆は、八月に秦と周の分界にあたると考えた。

原文二十年「十月丙辰朔,日有食之」。董仲舒以為陳慶虎、慶寅蔽君之明,邾庶其有叛心,後庶其以漆、閭丘來奔,陳殺二慶。劉歆以為八月秦、周分。

二十一年「九月庚戌朔,日有食之」。董仲舒は、晋の欒盈が君主を犯そうとしたことによるものと考えた。後に欒盈は曲沃に入った。劉歆は、七月に秦と晋の分界にあたると考えた。

原文二十一年「九月庚戌朔,日有食之」。董仲舒以為晉欒盈將犯君,後入于曲沃。劉歆以為七月秦、晉分。

「十月庚辰朔,日有食之」。董仲舒は、宿が軫と角にあり、楚という大国の象徴であることによるものと考えた。後に楚の屈氏くつしが讒言して公子追舒きょしついじょを殺させ、斉の慶封が君主を脅迫して国を乱した。劉歆は、八月に秦と周の分界にあたると考えた。

原文「十月庚辰朔,日有食之」。董仲舒以為宿在軫、角,楚大國象也。後楚屈氏譖殺公子追舒,齊慶封脅君亂國。劉歆以為八月秦、周分。

二十三年「二月癸酉朔みずのととりのひづきのついたち、日食があった」。董仲舒は、後に衛侯が陳儀ちんぎに入り、甯喜ねいきがその君主の剽を弑したことと関連づけた。劉歆は、前年の十二月二日に宋・燕の分野で起こったと解した。

原文二十三年「二月癸酉朔,日有食之」。董仲舒以為後衛侯入陳儀,甯喜弒其君剽。劉歆以為前年十二月二日宋、燕分。

二十四年「七月甲子朔きのえねのひづきのついたち、日食があり、皆既食となった」。劉歆は、五月に魯・趙の分野で起こったと解した。

原文二十四年「七月甲子朔,日有食之,既」。劉歆以為五月魯、趙分。

八月癸巳朔みずのとみのひづきのついたち、日食があった」。董仲舒は、この食がまた皆既食であったことを、陽(天子の徳)が絶えようとする兆しであり、夷狄が上国(天子の国)を主導する象であると解した。後に六人の君主が弑され、楚子が果たして諸侯を率いて鄭を伐ち、舒鳩じょきゅうを滅ぼし、魯が楚に朝見し、ついに中国を主導し、呉を伐って慶封を討った。劉歆は、六月に晋・趙の分野で起こったと解した。

原文「八月癸巳朔,日有食之」。董仲舒以為比食又既,象陽將絕,夷狄主上國之象也。後六君弒,楚子果從諸侯伐鄭,滅舒鳩,魯往朝之,卒主中國,伐吳討慶封。劉歆以為六月晉、趙分。

二十七年「十二月乙亥朔きのといのひづきのついたち、日食があった」。董仲舒は、礼義が大きく滅び絶えようとする象であると解した。当時、呉子は勇を好み、刑人けいにんに門を守らせた。蔡侯は世子の妻と通じた。莒は早く後継ぎを立てなかった。後に閽人こんじんが呉子を殺害し、蔡の世子の般がその父を弑し、莒の人々も君主を弑して庶子が争った。劉向は、二十年からこの年までの八年間に日食が七度起こったのは、禍乱が重ねて起ころうとしているため、天がなおも戒めを示したのだと解した。後に斉の崔杼さいちゅが君主を弑し、宋が世子を殺し、北燕伯ほくえんはくが出奔し、鄭の大夫が外から入って位を簒奪したことは、おおよそ董仲舒の解釈の通りであった。劉歆は、九月に周・楚の分野で起こったと解した。

原文二十七年「十二月乙亥朔,日有食之」。董仲舒以為禮義將大滅絕之象也。時吳子好勇,使刑人守門;蔡侯通於世子之妻;莒不早立嗣。後閽戕吳子,蔡世子般弒其父,莒人亦弒君而庶子爭。劉向以為自二十年至此歲,八年間日食七作,禍亂將重起,故天仍見戒也。後齊崔杼弒君,宋殺世子,北燕伯出奔,鄭大夫自外入而篡位,指略如董仲舒。劉歆以為九月周、楚分。

昭公七年「四月甲辰朔きのえたつのひづきのついたち、日食があった」。董仲舒と劉向は、これに先立って楚の霊王が君主を弑して立ち、諸侯を会合させ、徐子じょしを捕らえ、頼を滅ぼし、後に陳の公子の招が世子を殺し、楚がそれによって陳を滅ぼし、また蔡を滅ぼし、後に霊王もまた弑されて死んだことと関連づけた。劉歆は、二月に魯・衛の分野で起こったと解した。伝(『左伝』)に曰く、晋侯が士文伯に問うて言った。「誰が日食の災いを受けるのか?」 答えて言った。「魯と衛が悪いでしょう。衛が大きく、魯が小さい。」 公が言った。「何故か?」 答えて言った。「衛の地を去り、魯の地に入ります。そこで災いがあるでしょう。それは衛の君主でしょうか?魯は上卿しょうけいでしょう。」 この年、八月に衛の襄公が卒し、十一月に魯の季孫宿が卒した。晋侯が士文伯に言った。「私が問うた日食のことは当たった。これは常に当てはまるのか?」 答えて言った。「できません。六つの物事が異なり、民心が一つでなく、事の順序が同じでなく、官職の守りが定まらず、始まりは同じでも終わりが異なるのです。どうして常に当てはまりましょうか?『詩経』に『ある者は安らかに居て休み、ある者は力を尽くして国に仕える』とあります。その終わりの異なることはこのようなものです。」 公が言った。「六物とは何を言うのか?」 答えて言った。「

原文昭公七年「四月甲辰朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為先是楚靈王弒君而立,會諸侯,執徐子,滅賴,後陳公子招殺世子,楚因而滅之,又滅蔡,後靈王亦弒死。劉歆以為二月魯、衛分。傳曰晉侯問於士文伯曰:「誰將當日食?」對曰:「魯、衛惡之,衛大魯小。」公曰:「何故?」對曰:「去衛地,如魯地,於是有災,其衛君乎?魯將上卿。」是歲,八月衛襄公卒,十一月魯季孫宿卒。晉侯謂士文伯曰:「吾所問日食從矣,可常乎?」對曰:「不可。六物不同,民心不壹,事序不類,官職不則,同始異終,胡可常也?《詩》曰:『或宴宴居息,或盡悴事國。』其異終也如是。」公曰:「何謂六物?」對曰:「

歳、時、日、月、星、辰、これらを辰という。」公が言った。「辰とは何か。」答えて言った。「日月の会合する所を辰という。」公が言った。「詩にいう『この日食する、何ぞ臧からざる』とは、どういうことか。」答えて言った。「不善の政をいうのである。国に善政がなく、善を用いないと、自ら日月の災いに適する(招く)ことになる。だから政は慎まざるを得ない。務めは三つだけである。一つは人を選ぶこと、二つは民に因ること、三つは時に従うこと。」これは日食の占いを推し、変異を回復する要諦を述べたものである。《易》に言う。「天に懸かる象で明らかなものは、日月より大きいものはない。」だから聖人はこれを重んじ、三つの経書に載せている。易では、豊の卦の震の爻に言う。「豊かなるそのおおい、日中に昧(暗い星)を見る。その右肱を折るも、咎なし。」詩の十月の交わりでは、卿士・司徒から下は趣馬・師氏に至るまで、皆その材に非ざることを著している。これは右肱の折られることと同じであり、三つの務めで選ぶべきことと合致し、小人が君子に乗り、陰が陽を侵す根源を明らかにしている。

原文歲、時、日、月、星、辰是謂。」公曰:「何謂辰?」對曰:「日月之會是謂。」公曰:「詩所謂『此日而食,于何不臧』,何也?」對曰:「不善政之謂也。國無政,不用善,則自取適于日月之災。故政不可不慎也,務三而已:一曰擇人,二曰因民,三曰從時。」此推日食之占循變復之要也。《易》曰:「縣象著明,莫大於日月。」是故聖人重之,載于三經。於易在豐之震曰:「豐其沛,日中見昧,折其右肱,亡咎。」於詩十月之交,則著卿士、司徒,下至趣馬、師氏,咸非其材。同於右肱之所折,協於三務之所擇,明小人乘君子,陰侵陽之原也。

十五年「六月丁巳の朔、日食があった」。劉歆は、三月で魯・衛の分野と考える。

原文十五年「六月丁巳朔,日有食之」。劉歆以為三月魯、衛分。

十七年「六月甲戌の朔、日食があった」。董仲舒は、この時、宿は畢にあり、晋国の象であると考える。晋の厲公が四大夫を誅殺し、衆心を失い、弑殺されて死んだ。その後、誰も再び大夫を責めることを敢えてせず、六卿は遂に互いに比周し、晋国を専断し、君主はかえって彼らに仕えた。日が続けて二度食したが、その事は春秋の後なので、経には載せていない。劉歆は、魯・趙の分野と考える。左氏伝に平子が言う。「ただ正月の朔に、わざわいが未だ起こらず、日食がある時には、この時、天子は膳を供さず、社で鼓を打ち、諸侯は社で幣を用い、朝で鼓を打つ。これが礼である。それ以外の月の日食ではそうしない。」太史が言う。「この月のことである。日が分(春分)を過ぎて未だ至らず(夏至に至らず)、三辰(日月星)に災いがある時は、百官は降物(盛装をやめ)、君は膳を供さず、避けて時を移し、楽を奏して鼓を打ち、祝が幣を用い、史が辞を用い、嗇夫しょくふは馳せ、庶人は走る。これがこの月の朔の謂いである。夏の四月に当たり、これを孟夏という。」説に曰く。正月とは周の六月、夏の四月、正陽純乾の月をいう。慝とは陰爻をいう。冬至に陽爻が初め起こるので、復という。建巳の月(四月)に至って純乾となり、陰爻がなく、陰が陽を侵すと、災いが重いので、鼓を打ち幣を用い、陰を責める礼を行う。降物とは素服である。不挙とは楽を去ること。避移時とは正堂を避け、時が移り災いが回復するのを待つこと。嗇夫とは幣を掌る吏。庶人とはその徒役である。劉歆は、六月二日で魯・趙の分野と考える。

原文十七年「六月甲戌朔,日有食之」。董仲舒以為時宿在畢,晉國象也。晉厲公誅四大夫,失眾心,以弒死。後莫敢復責大夫,六卿遂相與比周,專晉國,君還事之。日比再食,其事在春秋後,故不載於經。劉歆以為魯、趙分。左氏傳平子曰:「唯正月朔,慝未作,日有食之,於是乎天子不舉,伐鼓於社,諸侯用幣於社,伐鼓於朝,禮也。其餘則否。」太史曰:「在此月也,日過分而未至,三辰有災,百官降物,君不舉,避移時,樂奏鼓,祝用幣,史用辭,嗇夫馳,庶人走,此月朔之謂也。當夏四月,是謂孟夏。」說曰:正月謂周六月,夏四月,正陽純乾之月也。慝謂陰爻也,冬至陽爻起初,故曰復。至建巳之月為純乾,亡陰爻,而陰侵陽,為災重,故伐鼓用幣,責陰之禮。降物,素服也。不舉,去樂也。避移時,避正堂,須時移災復也。嗇夫,掌幣吏。庶人,其徒役也。劉歆以為六月二日魯、趙分。

二十一年「七月壬午の朔、日食があった」。董仲舒は、周の景王が老い、劉子・単子が権力を専断し、蔡侯朱さいこうしゅが驕り、君臣が悦ばない象であると考える。後に蔡侯朱は果たして出奔し、劉子・単子は王猛おうもうを立てた。劉歆は、五月二日で魯・趙の分野と考える。

原文二十一年「七月壬午朔,日有食之」。董仲舒以為周景王老,劉子、單子專權,蔡侯朱驕,君臣不說之象也。後蔡侯朱果出奔,劉子、單子立王猛。劉歆以為五月二日魯、趙分。

二十二年「十二月癸酉の朔、日食があった」。董仲舒は、宿が心にあり、天子の象であると考える。後に尹氏が王子朝を立て、天王は狄泉てきせんに居た。劉歆は、十月で楚・鄭の分野と考える。

原文二十二年「十二月癸酉朔,日有食之」。董仲舒以為宿在心,天子之象也。後尹氏立王子朝,天王居于狄泉。劉歆以為十月楚、鄭分。

二十四年「五月乙未朔ついたち、日食があった」。董仲舒は、宿が宿にあり、魯の象であると考えた。後に昭公が季氏によって追放された。劉向は、十五年からこの年までの十年間に天の戒めが七度現れたのに、君主がまだ悟らなかったと考える。後に楚が戎蛮子じゅうばんしを殺し、晋が陸渾戎りくこんじゅうを滅ぼし、盗賊が衛侯の兄を殺し、蔡と莒の君主が出奔し、呉が巣を滅ぼし、公子光こうしこう王僚おうりょうを殺し、宋の三人の臣下が邑を以てその君主に背いた。その他は仲舒の説と同じ。劉歆は、二日は魯・趙の分野であると考える。この月は斗建が辰である。左氏伝によれば、梓慎ししんが「大水になるだろう」と言い、昭子が「旱魃である。日が分点を過ぎても陽がまだ克てないので、克てば必ず甚だしく、旱魃にならないことがあろうか!陽が克てないので、陰が積聚せきしゅうするのだ」と言った。この年の秋、大雩の祭りがあり、旱魃であった。二至(冬至・夏至)二分(春分・秋分)に日食があっても、災いとはならない。日月の運行は、春秋分には昼夜が等しいので、同道どうどうする;冬夏至には昼夜の長短が極まるので、相過そうかする。相過同道して食が軽いのは、大災いではなく、水害や旱害だけである。

原文二十四年「五月乙未朔,日有食之」。董仲舒以為宿在胃,魯象也。後昭公為季氏所逐。劉向以為自十五年至此歲,十年間天戒七見,人君猶不寤。後楚殺戎蠻子,晉滅陸渾戎,盜殺衛侯兄,蔡、莒之君出奔,吳滅巢,公子光殺王僚,宋三臣以邑叛其君。它如仲舒。劉歆以為二日魯、趙分。是月斗建辰。左氏傳梓慎曰:「將大水。」昭子曰:「旱也。日過分而陽猶不克,克必甚,能無旱乎!陽不克,莫將積聚也。」是歲秋,大雩,旱也。二至二分,日有食之,不為災。日月之行也,春秋分日夜等,故同道;冬夏至長短極,故相過。相過同道而食輕,不為大災,水旱而已。

三十一年「十二月辛亥朔ついたち、日食があった」。董仲舒は、宿が心宿にあり、天子の象であると考えた。当時、京師は微弱で、後に諸侯が果たして相率いて周の城を築き、宋の中幾ちゅうきは天子を尊ぶ心を失い、城を衰えさせなかった。劉向は、当時、呉が徐を滅ぼし、蔡が沈を滅ぼし、楚が蔡を包囲し、呉が楚を破ってえいに入り、昭王が逃げ出したと考える。劉歆は、二日は宋・燕の分野であると考える。

原文三十一年「十二月辛亥朔,日有食之」。董仲舒以為宿在心,天子象也。時京師微弱,後諸侯果相率而城周,宋中幾亡尊天子之心,而不衰城。劉向以為時吳滅徐,而蔡滅沈,楚圍蔡,吳敗楚入郢,昭王走出。劉歆以為二日宋、燕分。

定公五年「三月辛亥朔ついたち、日食があった」。董仲舒・劉向は、後に鄭が許を滅ぼし、魯の陽虎が乱を起こし、宝玉と大弓を盗み、季桓子が仲尼を退け、宋の三人の臣下が邑を以て背いたと考える。劉歆は、正月二日は燕・趙の分野であると考える。

原文定公五年「三月辛亥朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為後鄭滅許,魯陽虎作亂,竊寶玉大弓,季桓子退仲尼,宋三臣以邑叛。劉歆以為正月二日燕、趙分。

十二年「十一月丙寅朔ついたち、日食があった」。董仲舒・劉向は、後に晋の三大夫が邑を以て背き、せつがその君を弑し、楚がとん・胡を滅ぼし、越が呉を破り、衛が世子を追放したと考える。劉歆は、十二月二日は楚・鄭の分野であると考える。

原文十二年「十一月丙寅朔,日有食之」。董仲舒、劉向以為後晉三大夫以邑叛,薛弒其君,楚滅頓、胡,越敗吳,衛逐世子。劉歆以為十二月二日楚、鄭分。

十五年「八月庚辰朔ついたち、日食があった」。董仲舒は、宿が柳宿にあり、周室が大いに壊れ、夷狄が諸夏を主る象であると考えた。翌年、中国の諸侯は果たして累累るいるいとして楚に従って蔡を包囲し、蔡は恐れて州来しゅうらいに遷った。晋人は戎蛮子を捕らえて楚に帰したが、京師は楚である。劉向は、盗賊が蔡侯を殺し、斉の陳乞がその君を弑して陽生ようせいを立て、孔子が終に用いられなかったと考える。劉歆は、六月は晋・趙の分野であると考える。

原文十五年「八月庚辰朔,日有食之」。董仲舒以為宿在柳,周室大壞,夷狄主諸夏之象也。明年,中國諸侯果累累從楚而圍蔡,蔡恐,遷于州來。晉人執戎蠻子歸于楚,京師楚也。劉向以為盜殺蔡侯,齊陳乞弒其君而立陽生,孔子終不用。劉歆以為六月晉、趙分。

哀公十四年「五月庚申朔かのえさるのついたち、日食があった」。これは麟を獲た後のことである。劉歆は三月二日で斉・衛の分界としている。

原文哀公十四年「五月庚申朔,日有食之」。在獲麟後。劉歆以為三月二日齊、衛分。

春秋十二公の間、二百四十二年に、日食は三十六回あった。穀梁伝では朔が二十六回、晦が七回、夜が二回、二日が一回としている。公羊伝では朔が二十七回、二日が七回、晦が二回としている。左氏伝では朔が十六回、二日が十八回、晦が一回、日付を書かないものが二回としている。

原文凡春秋十二公,二百四十二年,日食三十六。穀梁以為朔二十六,晦七,夜二,二日一。公羊以為朔二十七,二日七,晦二。左氏以為朔十六,二日十八,晦一,不書日者二。

高帝三年十月甲戌晦、日食があった。斗宿二十度で、燕の地にあたる。後二年、燕王臧荼ぞうとが反乱を起こし誅殺され、盧綰ろわんが燕王に立てられたが、後にまた反乱を起こして敗れた。

原文高帝三年十月甲戌晦,日有食之,在斗二十度,燕地也。後二年,燕王臧荼反,誅,立盧綰為燕王,後又反,敗。

十一月癸卯晦、日食があった。虚宿きょしゅく三度で、斉の地にあたる。後二年、斉王韓信かんしんが楚王に移され、翌年に列侯に降格され、後にまた反乱を起こして誅殺された。

原文十一月癸卯晦,日有食之,在虛三度,齊地也。後二年,齊王韓信徙為楚王,明年廢為列侯,後又反,誅。

九年六月乙未晦、日食があり、皆既食となった。張宿十三度にあたる。

原文九年六月乙未晦,日有食之,既,在張十三度。

恵帝七年正月辛丑の朔、日食があり、危宿きしゅく十三度にあった。谷永は、年の初めの正月の朔日にこれがあるのは三朝にあたり、尊者がこれを忌むと考えた。

原文惠帝七年正月辛丑朔,日有食之,在危十三度。谷永以為歲首正月朔日,是為三朝,尊者惡之。

五月丁卯、晦の前日、日食があり、ほとんど皆既に近く、七星の初度にあった。劉向は、五月は微かな陰気が起こり始めて至陽を犯すもので、その占いは重いと考えた。その八月に至り、宮車(天子の車)が晏駕(天子の崩御)し、呂氏が嗣君(後継ぎの君主)を詐って置く害があった。京房の易伝に言う、「およそ日食が晦や朔でない時にあるものは、薄と名づける。人君が誅罰を行うのに道理によらず、あるいは賊臣が暴発しようとする時で、日月は同じ宿でなくとも、陰気が盛んになって日光を薄めるのである」。

原文五月丁卯,先晦一日,日有食之,幾盡,在七星初。劉向以為五月微陰始起而犯至陽,其占重。至其八月,宮車晏駕,有呂氏詐置嗣君之害。京房易傳曰:「凡日食不以晦朔者,名曰薄。人君誅將不以理,或賊臣將暴起,日月雖不同宿,陰氣盛,薄日光也。」

高后二年六月丙戌の晦、日食があった。

原文高后二年六月丙戌晦,日有食之。

七年正月己丑の晦、日食があり、皆既食で、営室うつぼや九度にあり、宮室の中を占った。この時、高后はこれを忌み、「これは私のためだ!」と言った。翌年、そのことが応じた。

原文七年正月己丑晦,日有食之,既,在營室九度,為宮室中。時高后惡之,曰:「此為我也!」明年應。

文帝二年十一月癸卯の晦、日食があり、婺女一度にあった。

原文文帝二年十一月癸卯晦,日有食之,在婺女一度。

三年十月丁酉の晦、日食があり、斗宿二十三度にあった。

原文三年十月丁酉晦,日有食之,在斗二十三度。

十一月丁卯の晦、日食があり、虚宿八度にあった。

原文十一月丁卯晦,日有食之,在虛八度。

後四年四月丙辰の晦、日食があり、東井とうせい宿十三度にあった。

原文後四年四月丙辰晦,日有食之,在東井十三度。

七年正月辛未の朔、日食があった。

原文七年正月辛未朔,日有食之。

景帝三年二月壬午の晦、日食があり、胃宿二度にあった。

原文景帝三年二月壬午晦,日有食之,在胃二度。

七年十一月庚寅の晦、日食があり、虚宿九度にあった。

原文七年十一月庚寅晦,日有食之,在虛九度。

中元年十二月甲寅の晦、日食があった。

原文中元年十二月甲寅晦,日有食之。

中二年九月甲戌の晦、日食があった。

原文中二年九月甲戌晦,日有食之。

三年九月戊戌の晦、日食があり、ほとんど皆既に近く、尾宿九度にあった。

原文三年九月戊戌晦,日有食之,幾盡,在尾九度。

六年七月辛亥の晦、日食があり、軫宿七度にあった。

原文六年七月辛亥晦,日有食之,在軫七度。

後元年七月乙巳の日、晦日の前日に、日食があり、翼宿十七度の位置であった。

原文後元年七月乙巳,先晦一日,日有食之,在翼十七度。

武帝の建元二年二月丙戌の朔日、日食があり、奎宿十四度の位置であった。劉向は、奎は卑賤な婦人を表すとし、後に衛皇后が微賤から興り、ついに終わりを全うしない禍いがあったと解釈した。

原文武帝建元二年二月丙戌朔,日有食之,在奎十四度。劉向以為奎為卑賤婦人,後有衛皇后自至微興,卒有不終之害。

三年九月丙子の晦日、日食があり、尾宿二度の位置であった。

原文三年九月丙子晦,日有食之,在尾二度。

五年正月己巳の朔日、日食があった。

原文五年正月己巳朔,日有食之。

元光元年二月丙辰の晦日、日食があった。

原文元光元年二月丙辰晦,日有食之。

七月癸未みずのとひつじの日、晦の前日、日食があり、翼宿八度にあった。劉向は、前年に高園の便殿が火災に遭ったことと、春秋時代に御廩の火災の後に翼・軫の宿で日食があったことが同じであると考えた。その占いは、内には女の変事があり、外では諸侯に事変があるというものであった。その後、陳皇后ちんこうごうが廃され、江都王・淮南王・衡山王が謀反を企て、誅殺された。日食は日中に東北から始まり、半分以上を過ぎ、晡時ほじ(午後三時から五時)に回復した。

原文七月癸未,先晦一日,日有食之,在翼八度。劉向以為前年高園便殿災,與春秋御廩災後日食於翼、軫同。其占,內有女變,外為諸侯。其後陳皇后廢,江都、淮南、衡山王謀反,誅。日中時食從東北,過半,晡時復。

元朔二年二月乙巳きのとみの晦の日、日食があり、胃宿三度にあった。

原文元朔二年二月乙巳晦,日有食之,在胃三度。

元朔六年十一月癸丑みずのとちゅうの晦の日、日食があった。

原文六年十一月癸丑晦,日有食之。

元狩元年五月乙巳きのとみの晦の日、日食があり、柳宿六度にあった。京房の易伝で推すと、この時の日食は太陽の傍ら右側から始まったので、占法では「君主が臣下を失う」という。翌年、丞相公孫弘こうそんこうが薨去した。日食が傍ら左側から始まるのも、君主が臣下を失うことである。上から始まるのは、臣下が君主を失うこと。下から始まるのは、君主が民を失うことである。

原文元狩元年五月乙巳晦,日有食之,在柳六度。京房易傳推以為是時日食從旁右,法曰君失臣。明年丞相公孫弘薨。日食從旁左者,亦君失臣;從上者,臣失君;從下者,君失民。

元鼎五年四月丁丑ひのとうしの晦の日、日食があり、東井宿二十三度にあった。

原文元鼎五年四月丁丑晦,日有食之,在東井二十三度。

元封四年六月己酉の朔、日食があった。

原文元封四年六月己酉朔,日有食之。

太始元年正月乙巳の晦、日食があった。

原文太始元年正月乙巳晦,日有食之。

四年十月甲寅の晦、日食があり、斗宿十九度にあった。

原文四年十月甲寅晦,日有食之,在斗十九度。

征和四年八月辛酉の晦、日食があり、食分は鉤のように完全ではなく、亢宿二度にあった。晡時(午後三時頃)に西北から食が始まり、日下晡時(午後五時頃)に元に戻った。

原文征和四年八月辛酉晦,日有食之,不盡如鉤,在亢二度。晡時食從西北,日下晡時復。

昭帝の始元三年十一月壬辰の朔、日食があり、斗宿九度にあった。これは燕の地の分である。後四年、燕剌王が謀反を企て、誅殺された。

原文昭帝始元三年十一月壬辰朔,日有食之,在斗九度,燕地也。後四年,燕剌王謀反,誅。

元鳳元年七月己亥の晦、日食があり、ほとんど全食となり、張宿十二度にあった。劉向は己亥の日で既(全食)であることから、その占いは重いと考えた。後六年、宮車(皇帝の車)が晏駕(崩御)し、ついに後嗣を失った。

原文元鳳元年七月己亥晦,日有食之,幾盡,在張十二度。劉向以為己亥而既,其占重。後六年,宮車晏駕,卒以亡嗣。

宣帝の地節元年十二月癸亥の晦、日食があり、営室十五度にあった。

原文宣帝地節元年十二月癸亥晦,日有食之,在營室十五度。

五鳳元年十二月乙酉の朔、日食があり、婺女十度にあった。

原文五鳳元年十二月乙酉朔,日有食之,在婺女十度。

四年四月辛丑の朔、日食があり、畢宿十九度にあった。これは正月の朔であり、慝(悪気)がまだ起こっていない時期で、左氏(左伝)では重い異変と見なした。

原文四年四月辛丑朔,日有食之,在畢十九度。是為正月朔,慝未作,左氏以為重異。

元帝の永光二年三月壬戌の朔、日食があり、婁宿八度にあった。

原文元帝永光二年三月壬戌朔,日有食之,在婁八度。

四年(前37年)六月戊寅の晦、日食があり、張宿七度にあった。

原文四年六月戊寅晦,日有食之,在張七度。

建昭五年(前34年)六月壬申の晦、日食があり、完全に隠れず鉤のようで、そのまま入った。

原文建昭五年六月壬申晦,日有食之,不盡如鉤,因入。

成帝の建始三年(前30年)十二月戊申の朔、日食があり、その夜、未央殿で地震があった。谷永が答えて言った。「日食は婺女九度にあり、その占いは皇后にある。地震は蕭牆(宮中の垣)の内にあり、その咎は貴妾にある。二つのことが同時に起こったのは、同じ事柄だが異なる人を指し、共に陽(天子)を制圧し、継嗣を害そうとすることを明らかにしている。もし日食だけなら、妾は現れない。もし地震だけなら、后は現れない。異なる日に起こったなら、別々の事柄のように見える。原因なく変動が起こったなら、恐らく理解できないだろう。今月、后と妾に節度を失う過ちがあるはずなので、天はこの二つの変異をもってその兆しを示したのである。つまり、婦道に背き、多くの妾を遠ざけ、継嗣の道を妨げ絶つ者は、この二人である。」杜欽も答えて言った。「日が戊申に食するのは、時刻が未の刻に当たる。戊と未は土に属し、中宮(皇后の宮)の部類である。その夜、殿中で地震があった。これは必ずや嫡妾が寵を争い、互いに害し合って患いとなるであろう。人事が下で失われれば、変異の象が上に現れる。これに応じて徳を司る者がいれば、咎と異変は消える。軽んじて戒めなければ、禍いと敗亡が至る。これに応じるには、誠がなければ立たず、信がなければ行わない。」

原文成帝建始三年十二月戊申朔,日有食之,其夜未央殿中地震。谷永對曰:「日食婺女九度,占在皇后。地震蕭牆之內,咎在貴妾。二者俱發,明同事異人,共掩制陽,將害繼嗣也。亶日食,則妾不見;亶地震,則后不見。異日而發,則似殊事;亡故動變,則恐不知。是月后妾當有失節之郵,故天因此兩見其變。若曰,違失婦道,隔遠眾妾,妨絕繼嗣者,此二人也。」杜欽對亦曰:「日以戊申食,時加未。戊未,土也,中宮之部。其夜殿中地震,此必適妾將有爭寵相害而為患者。人事失於下,變象見於上。能應之司德,則咎異消;忽而不戒,則禍敗至。應之,非誠不立,非信不行。」

河平元年(前28年)四月己亥の晦、日食があり、完全に隠れず鉤のようで、東井六度にあった。劉向が答えて言った。「四月は五月と交わり、月は孝惠帝の時と同じで、日は孝昭帝の時と同じである。東井は京師の地であり、しかも皆既食である。その占いは、恐らく継嗣を害するであろう。」日食は早朝の食時に始まり、西南から起こった。

原文河平元年四月己亥晦,日有食之,不盡如鉤,在東井六度。劉向對曰:「四月交於五月,月同孝惠,日同孝昭。東井,京師地,且既,其占恐害繼嗣。」日蚤食時,從西南起。

三年(前26年)八月乙卯の晦、日食があり、房宿にあった。

原文三年八月乙卯晦,日有食之,在房。

四年(綏和元年)三月癸丑の朔、日食があった。昴の宿にあった。

原文四年三月癸丑朔,日有食之,在昴。

陽朔元年二月丁未の晦、日食があった。胃の宿にあった。

原文陽朔元年二月丁未晦,日有食之,在胃。

永始元年九月丁巳の晦、日食があった。谷永が京房の易占を用いて答えて言った。「元年九月の日蝕は、酒に節度を失ったことによって引き起こされたものです。ただ京師だけがこれを知り、四方の国々には見えないのは、あたかも言うようである。酒に深くふけり、君臣の別がなく、禍は内にある、と。」

原文永始元年九月丁巳晦,日有食之。谷永以京房易占對曰:「元年九月日蝕,酒亡節之所致也。獨使京師知之,四國不見者,若曰,湛湎于酒,君臣不別,禍在內也。」

永始二年二月乙酉の晦、日食があった。谷永が京房の易占を用いて答えて言った。「今年二月の日食は、賦斂が度を失い、民が愁い怨んだことによって引き起こされたものです。四方の国々に皆見え、京師だけが陰に蔽われたのは、あたかも言うようである。人君が宮室を造営することを好み、大いに墳墓を営み、賦斂がますます重く、百姓が窮乏し尽くしている。禍は外にある、と。」

原文永始二年二月乙酉晦,日有食之。谷永以京房易占對曰:「今年二月日食,賦斂不得度,民愁怨之所致也。所以使四方皆見,京師陰蔽者,若曰,人君好治宮室,大營墳墓,賦斂茲重,而百姓屈竭,禍在外也。」

三年正月己卯の晦、日食があった。

原文三年正月己卯晦,日有食之。

四年(綏和元年)七月辛未の晦、日食があった。

原文四年七月辛未晦,日有食之。

元延元年正月己亥の朔、日食があった。

原文元延元年正月己亥朔,日有食之。

哀帝の元寿元年正月辛丑の朔、日食があり、食分が鉤のように欠けきらず、営室の十度にあった。これは恵帝七年と同じ月日である。

原文哀帝元壽元年正月辛丑朔,日有食之,不盡如鉤,在營室十度,與惠帝七年同月日。

二年三月壬辰の晦、日食があった。

原文二年三月壬辰晦,日有食之。

平帝の元始元年五月丁巳の朔、日食があり、東井にあった。

原文平帝元始元年五月丁巳朔,日有食之,在東井。

二年(綏和二年)九月戊申の晦、日食があり、皆既食となった。

原文二年九月戊申晦,日有食之,既。

漢代の記録全体では十二代、二百一十二年の間に、日食は五十三回あり、朔に十四回、晦に三十六回、晦の前日に三回あった。

原文凡漢著紀十二世,二百一十二年,日食五十三,朔十四,晦三十六,先晦一日三。

成帝の建始元年八月戊午、夜明け前の時刻(晨漏)がまだ三刻残っている時に、二つの月が重なって現れた。京房の『易伝』に言う。「『婦貞厲、月幾望、君子征、凶』(婦人が貞節を守って危険に遭い、月が満月に近づき、君子が征伐に出れば凶である)とは、君主が弱くて婦人が強く、陰に乗じられることを言い、その時には月が並んで現れる。晦に月が西方に見えるのを朓と言い、朔に月が東方に見えるのを仄慝そくとくと言う。仄慝があれば侯王は厳粛にし、朓があれば侯王は緩やかにすべきである。」劉向は、朓は速いことであり、君主が緩慢であれば臣下は驕慢になるので、太陽の運行が遅く月の運行が速くなるのだと考えた。仄慝は進まないという意味であり、君主が厳急であれば臣下は恐懼するので、太陽の運行が速く月の運行が遅くなり、君主に迫ることを敢えてしないのだと考えた。緩やかでもなく急でもなく、正しい状態を失った時に、朔の日に日食が起こるのだと考えた。劉歆は、緩やかというのは侯王が意を伸ばして事に専念し、臣下が急ぎ促すので、月の運行が速くなるのだと考えた。厳粛というのは王侯が萎縮して職務を果たさず、臣下が弛緩して放縦になるので、月の運行が遅くなるのだと考えた。春秋の時代には、侯王は多くが萎縮して職務を果たさなかったので、二日の仄慝による日食が十八回、晦日の朓による日食が一回あった。これがその証拠である。漢代を調べてみると、晦日の朓による日食は三十六回あり、ついに二日の仄慝による日食はなかった。劉歆の説は信じられる。これらは皆、日月の運行が乱れることを言うものである。

原文成帝建始元年八月戊午,晨漏未盡三刻,有兩月重見。京房易傳曰:「『婦貞厲,月幾望,君子征,凶。』言君弱而婦彊,為陰所乘,則月並出。晦而月見西方謂之朓,朔而月見東方謂之仄慝,仄慝則侯王其肅,朓則侯王其舒。」劉向以為朓者疾也,君舒緩則臣驕慢,故日行遲而月行疾也。仄慝者不進之意,君肅急則臣恐懼,故日行疾而月行遲,不敢迫近君也。不舒不急,以正失之者,食朔日。劉歆以為舒者侯王展意顓事,臣下促急,故月行疾也。肅者王侯縮朒不任事,臣下弛縱,故月行遲也。當春秋時,侯王率多縮朒不任事,故食二日仄慝者十八,食晦日朓者一,此其效也。考之漢家,食晦朓者三十六,終亡二日仄慝者,歆說信矣。此皆謂日月亂行者也。

元帝の永光元年四月、日の色が青白く、影がなく、正午の時に影はあるが光がなかった。この夏は寒く、九月になってようやく日が光った。京房の『易伝』に言う。「美が上(君主)に及ばないことを『上弱』と言い、その異変は日が白くなり、七日間温かくならない。順(臣下)が制する所がなくなることを『弱』と言い、日が白く六十日間続き、物が霜もないのに死ぬ。天子が親征することを『不知』と言い、日が白く、体が動いて寒くなる。弱いのに任があることを『不亡』と言い、日が白く温かくならず、明るく動かない。辟(君主)が公の行いを怠ることを『不伸』と言い、その異変は日が黒くなり、大風が起こり、天に雲がなく、日光が暗くなる。上(君主)の政を難じないことを『見過』と言い、日が黒く側にあり、大きさが弾丸のようである。」

原文元帝永光元年四月,日色青白,亡景,正中時有景亡光。是夏寒,至九月,日乃有光。京房易傳曰:「美不上人,茲謂上弱,厥異日白,七日不溫。順亡所制茲謂弱,日白六十日,物亡霜而死。天子親伐,茲謂不知,日白,體動而寒。弱而有任,茲謂不亡,日白不溫,明不動。辟鳗公行,茲謂不伸,厥異日黑,大風起,天無雲,日光晻。不難上政,茲謂見過,日黑居仄,大如彈丸。」

成帝の河平元年正月壬寅の朔、太陽と月がともに営室(うつぼや、二十八宿の一つ)にあり、その時、日の出が赤かった。二月癸未、朝の日が赤く、かつ日没もまた赤く、夜の月も赤かった。甲申、日の出が血のように赤く、光がなく、漏刻(時計)で四刻半が過ぎてから、ようやく少し光があり、地を照らす光は赤黄色で、食事の後になってようやく元に戻った。京房の『易伝』に言う。「君主が道を聞かないことを『亡』と言い、その異変は日が赤くなる。」三月乙未、日の出が黄色で、黒い気が銭ほどの大きさで、太陽の中央にあった。京房の『易伝』に言う。「天を祭ることが順調でないことを『逆』と言い、その異変は日が赤く、その中が黒い。善を聞いて与えないことを『失知』と言い、その異変は日が黄色くなる。」そもそも大人(徳の高い人)は、天地とその徳を合わせ、日月とその明るさを合わせる。だから聖王が上にいて、多くの賢人を総括して任命し、天の功業を助けるならば、太陽の光明は五色が備わり、主なく輝き照らす。主があれば異変となり、行いに応じて変化するのである。色は虚しく変わらず、形は虚しく毀れない。太陽の五色の変化を観察すれば、十分に鑑みることができる。だから「天に懸けられた象が明らかに示されるものは、日月より大きいものはない」と言うのであり、これがその謂いである。

原文成帝河平元年正月壬寅朔,日月俱在營室,時日出赤。二月癸未,日朝赤,且入又赤,夜月赤。甲申,日出赤如血,亡光,漏上四刻半,乃頗有光,燭地赤黃,食後乃復。京房易傳曰:「辟不聞道茲謂亡,厥異日赤。」三月乙未,日出黃,有黑氣大如錢,居日中央。京房易傳曰:「祭天不順茲謂逆,厥異日赤,其中黑。聞善不予,茲謂失知,厥異日黃。」夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,故聖王在上,總命群賢,以亮天功,則日之光明,五色備具,燭燿亡主;有主則為異,應行而變也。色不虛改,形不虛毀,觀日之五變,足以監矣。故曰「縣象著明,莫大乎日月」,此之謂也。

厳公(荘公)七年の四月辛卯の夜、恒星が見えず、夜中に星が雨のように降った。董仲舒と劉向は、常星である二十八宿は君主の象徴であり、多くの星は万民の類であると考えた。列宿が見えないのは、諸侯が衰微する象徴であり、多くの星が墜ちるのは、民がその居場所を失うことである。夜中というのは、中国を指す。地に届かずに戻るのは、斉の桓公が立ち上がって救い存続させる象徴である。もし桓公がいなかったなら、星は遂に地に至り、中国はまさに絶えてしまったであろう。劉向は、夜中というのは、天命を全うできず、中途で敗れることを言うと考えた。あるいは、その反逆を象徴し、中途で主君に背くことを言うのである。天は象を垂れて下を見せ、君主に悪を防ぎ非を遠ざけ、慎み深く微細な点を省みて、自ら全う安泰になるよう望んでいるのである。もし君主に賢明な才能があり、天威と天命を畏れ、高宗が祖己に謀り、成王が金縢の書を前に泣いたように、過ちを改めて正道を修正し、信義を立てて徳を広め、滅びた国を存続させ絶えた家系を継ぎ、廃れたものを修め逸れたものを挙げ、下に学んで上に通じ、十分の一の税を裁き、三日の労役を復し、用を節約し服を倹約して、百姓に恵みを施すならば、諸侯は徳を懐き、士民は仁に帰し、災いは消えて福が興るであろう。しかし遂に誰も改悟しようとせず、古人の法則に従わず、各自が私意を行い、ついに君臣が乖離し、上下が互いに怨むことになった。これ以降、斉や宋の君主が弑され、譚・遂・邢・衛の国が滅び、宿が宋に遷され、蔡が楚に獲られ、晋では相が弑殺し合い、五世を経てようやく定まった。これがその効果(証拠)である。左氏伝に言う。「恒星が見えないのは、夜が明るいからである。星が雨のように降るのは、雨と共にあるからである。」劉歆は、昼は中国を象徴し、夜は夷狄を象徴すると考えた。夜が明るいので、常に見える星が見えなくなり、中国の衰微を象徴する。「星隕如雨」の「如」は「而」であり、星が降りかつ雨が降るので、「雨と共にある」と言うのである。雨と星の降るという二つの変異が相成っていることを明らかにしている。洪範に言う。「庶民は星のごとし。」易に言う。「雷雨起こり、解く。」この年の歳星は玄枵にあり、斉の分野である。夜中に星が降るのは、庶民が中途で上に離れることを象徴する。雨は過ちを解き施し、再び上下に従う。斉の桓公が覇を行い、周室を復興させることを象徴する。周の四月は、夏の二月である。太陽は降婁にあり、魯の分野である。これに先立ち、衛侯の朔が斉に奔り、衛の公子の黔牟が立った。斉は諸侯を率いてこれを伐ち、天子は使者を遣わして衛を救わせた。魯の公子の溺が専政し、斉と会して王命を犯した。厳公(荘公)はこれを止めることができず、ついに従って衛を伐ち、天王の立てた者を追いやった。不義は極まり、自ら功と為した。名はその上を去り、政は下より作られる。特に著しい。故に星が魯に降ったのである。天事は常に象を示すのである。

原文嚴公七年「四月辛卯夜,恆星不見,夜中星隕如雨」。董仲舒、劉向以為常星二十八宿者,人君之象也;眾星,萬民之類也。列宿不見,象諸侯微也;眾星隕墜,民失其所也。夜中者,為中國也。不及地而復,象齊桓起而救存之也。鄉亡桓公,星遂至地,中國其良絕矣。劉向以為夜中者,言不得終性命,中道敗也。或曰象其叛也,言當中道叛其上也。天垂象以視下,將欲人君防惡遠非,慎卑省微,以自全安也。如人君有賢明之材,畏天威命,若高宗謀祖己,成王泣金縢,改過修正,立信布德,存亡繼絕,修廢舉逸,下學而上達,裁什一之稅,復三日之役,節用儉服,以惠百姓,則諸侯懷德,士民歸仁,災消而福興矣。遂莫肯改寤,法則古人,而各行其私意,終於君臣乖離,上下交怨。自是之後,齊、宋之君弒,譚、遂、邢、衛之國滅,宿遷於宋,蔡獲於楚,晉相弒殺,五世乃定,此其效也。左氏傳曰:「恆星不見,夜明也;星隕如雨,與雨偕也。」劉歆以為晝象中國,夜象夷狄。夜明,故常見之星皆不見,象中國微也。「星隕如雨」,如,而也,星隕而且雨,故曰「與雨偕也」,明雨與星隕,兩變相成也。洪範曰:「庶民惟星。」《易》曰:「雷雨作,解。」是歲歲在玄枵,齊分野也。夜中而星隕,象庶民中離上也。雨以解過施,復從上下,象齊桓行伯,復興周室也。周四月,夏二月也,日在降婁,魯分野也。先是,衛侯朔奔齊,衛公子黔牟立,齊帥諸侯伐之,天子使使救衛。魯公子溺專政,會齊以犯王命,嚴弗能止,卒從而伐衛,逐天王所立。不義至甚,而自以為功。名去其上,政繇下作,尤著,故星隕於魯,天事常象也。

成帝の永始二年二月癸未、夜が更けて中天を過ぎた頃、星が雨のように降り、長さ一二丈、次々と地に至らずに消え、鶏が鳴くまで止んだ。谷永が答えて言った。「日月星辰は下土を照らし臨み、その食や隕落の異変があれば、遠近幽隠の地もことごとく見ないところはない。星辰が天に付き従うのは、ちょうど庶民が王者に付き従うようなものである。王者が道を失い、綱紀が廃れて弛緩すれば、下の者が叛き去ろうとする。故に星が天に叛いて隕落し、その象を示すのである。春秋は異変を記すが、星の隕落が最も大きく、魯の厳公(荘公)以来、今に至るまで再び見られた。臣が聞くところでは、三代が喪亡した原因は、皆、婦人や小人の群れにあり、酒に耽溺したことによる。書経に云う。『乃ち其の婦人の言を用い、四方の逃亡したる多罪の者を、是を信じ是を使う。』詩経に曰く。『赫赫たる宗周、褒姒これを滅ぼす。』『其の徳を顛覆し、酒に荒沈す。』及び秦が二世で亡んだ原因は、生を養うことが大いに奢り、終わりを奉ることが大いに厚かったことによる。方今、国家はこの両方を兼ね備えている。社稷宗廟の大きな憂いである。」京房の易伝に曰く。「君、賢を任ぜざれば、その妖、天、星を雨らす。」

原文成帝永始二年二月癸未,夜過中,星隕如雨,長一二丈,繹繹未至地滅,至雞鳴止。谷永對曰:「日月星辰燭臨下土,其有食隕之異,則遐邇幽隱靡不咸睹。星辰附離于天,猶庶民附離王者也。王者失道,綱紀廢頓,下將叛去,故星叛天而隕,以見其象。春秋記異,星隕最大,自魯嚴以來,至今再見。臣聞三代所以喪亡者,皆繇婦人群小,湛湎於酒。《書》云:『乃用其婦人之言,四方之逋逃多罪,是信是使。』《詩》曰:『赫赫宗周、褒姒醤之。』『顛覆厥德,荒沈于酒。』及秦所以二世而亡者,養生大奢,奉終大厚。方今國家兼而有之,社稷宗廟之大憂也。」京房易傳曰:「君不任賢,厥妖天雨星。」

文公十四年「七月、星の孛(ハイ)が北斗に入る」。董仲舒は、孛は悪気の生じたものと考えた。これを孛と呼ぶのは、孛孛として防ぎ蔽うものがあり、暗く乱れて明らかでない様子を言うのである。北斗は大国の象徴である。その後、斉・宋・魯・莒・晋がみな君主を弑した。劉向は、君臣が朝廷で乱れ、政令が外で損なわれると、上は三光(日月星)の精気を濁らせ、五星は盈縮し、色を変え逆行し、甚だしければ孛となる、と考えた。北斗は人君の象徴、孛星は乱臣の類いで、簒奪殺害の兆しである。星伝に「魁は貴人の牢獄である」と言い、また「孛星が北斗の中に見えるときは、大臣諸侯に誅殺される者がある」と言う。一説に魁は斉・晋を表す。彗星が明らかに北斗の中にあるのは、天が人を見るのが顕著であり、史官の占いが明らかなのに、時の君主はついに悟りを改めなかった。この後、宋・魯・莒・晋・鄭・陳の六国がみなその君主を弑し、斉は二度弑された。中国が乱れると、夷狄がともに侵し、戦争が縦横に起こり、楚は威勢に乗り勝利に座して、深く諸夏に入り、六度侵伐し、一国を滅ぼし、周王室に兵威を示した。晋は外で二国を滅ぼし、内では王師を破り、また三国の兵を連ねて鞍で斉の軍を大敗させ、敗走する敵を追撃し、東は海水に臨み、威勢は京師を陵ぎ、武力は大斉を折った。これらはみな孛星の炎が及んだもので、その影響は二十八年にまで流れた。星伝にまた言う:「彗星が北斗に入れば、大戦がある。その流れが北斗の中に入れば、名人を得る;入らなければ、名人を失う。」宋の華元は賢名ある大夫であったが、大棘の戦いで華元は鄭に捕らえられた。伝はその効験を挙げて言う。左氏伝に星の孛が北斗にあると言い、周の史官の服が言うには:「七年を出ずして、宋・斉・晋の君主はみな乱死するであろう。」劉歆は、北斗には環域があり、四星がその中に入ると考えた。斗は天の三辰で、綱紀の星である。宋・斉・晋は天子の方伯で、中国の綱紀である。彗は旧を除き新を布くものである。斗は七星だから、七年を出ないと言うのである。十六年に至り、宋人が昭公を弑し;十八年に、斉人が懿公を弑し;宣公二年に、晋の趙穿が霊公を弑した。

原文文公十四年「七月,有星孛入于北斗」。董仲舒以為孛者惡氣之所生也。謂之孛者,言其孛孛有所防蔽,闇亂不明之貌也。北斗,大國象。後齊、宋、魯、莒、晉皆弒君。劉向以為君臣亂於朝,政令虧於外,則上濁三光之精,五星贏縮,變色逆行,甚則為孛。北斗,人君象;孛星,亂臣類,篡殺之表也。星傳曰「魁者,貴人之牢」。又曰「孛星見北斗中,大臣諸侯有受誅者」。一曰魁為齊、晉。夫彗星較然在北斗中,天之視人顯矣,史之有占明矣,時君終不改寤。是後,宋、魯、莒、晉、鄭、陳六國咸弒其君,齊再弒焉。中國既亂,夷狄並侵,兵革從橫,楚乘威席勝,深入諸夏,六侵伐,一滅國,觀兵周室。晉外滅二國,內敗王師,又連三國之兵大敗齊師于鞍,追亡逐北,東臨海水,威陵京師,武折大齊。皆孛星炎之所及,流至二十八年。星傳又曰:「彗星入北斗,有大戰。其流入北斗中,得名人;不入,失名人。」宋華元,賢名大夫,大棘之戰,華元獲於鄭,傳舉其效云。左氏傳曰有星孛北斗,周史服曰:「不出七年,宋、齊、晉之君皆將死亂。」劉歆以為北斗有環域,四星入其中也。斗,天之三辰,綱紀星也。宋、齊、晉,天子方伯,中國綱紀。彗所以除舊布新也。斗七星,故曰不出七年。至十六年,宋人弒昭公;十八年,齊人弒懿公;宣公二年,晉趙穿弒靈公。

昭公十七年「冬、星が大辰に孛(すい星)した」。董仲舒は、大辰は心宿であり、心宿は明堂にあり、天子の象徴であると考えた。後に王室が大いに乱れ、三王が分かれて争ったのは、これがその効験である。劉向は、星伝に「心宿の大星は天王である。その前の星は太子、後の星は庶子である。尾宿は君臣が乖離することを表す」とあるのを根拠に、孛星が心宿に加わったのは、天子と庶子が分かれて争う象徴であると考えた。諸侯に関しては、角宿・亢宿・氐宿は陳・鄭を、房宿・心宿は宋を表す。その後五年、周の景王が崩御し、王室が乱れ、大夫の劉子・単子が王猛を立て、尹氏・召伯・毛伯が子晁(王子朝)を立てた。子晁は楚の出である。当時楚は強勢で、宋・衛・陳・鄭は皆南の楚に附いた。王猛が既に卒すると、敬王が即位したが、子晁が王城に入り、天王(敬王)は狄泉に居て、誰も彼を迎え入れる者はなかった。五年後、楚の平王居が卒すると、子晁は楚に奔り、王室はようやく定まった。その後、楚が六国を率いて呉を伐ち、呉は鶏父でこれを破り、その君臣を殺し捕らえた。蔡は楚を怨んで沈を滅ぼし、楚は怒って蔡を包囲した。呉人がこれを救い、遂に柏挙の戦いとなり、楚軍を破り、郢都を屠り、昭王の母を妻とし、平王の墓を鞭打った。これらは皆、孛彗の流炎が及んだ効験である。左氏伝に曰く、「星が大辰に孛し、西は漢(天の川)に及んだ。申繻が曰く、『彗星は、旧を除き新を布くものであり、天事は常に象を示す。今、火(心宿)を除くので、火が出れば必ず布くであろう。諸侯に火災があるのではなかろうか?』梓慎が曰く、『往年私が見たのが、その徴候である。火が出て見え、今年は火が出て明らかである。必ず火が入って伏す時があり、それは火の位置に長く居ることであろう。そうでないことがあろうか?火が出るのは、夏暦では三月、殷暦では四月、周暦では五月である。夏の暦数は天に得ている。もし火事が起こるとすれば、四国がそれに当たるであろう。宋・衛・陳・鄭ではなかろうか?宋は大辰の虚(故地)、陳は太昊の虚、鄭は祝融の虚、皆火の房(宿舎)である。星の孛が漢に及んだ。漢は水の祥である。衛は顓頊の虚で、その星は大水である。水は火の牡(雄)である。それは丙子か壬午に起こるのではなかろうか?水と火は合うものである。もし火が入って伏すならば、必ず壬午であろう。その月を過ぎては見えないであろう』」。翌年「夏五月、火(心宿)が初めて夕方に見え、丙子に風が吹いた。梓慎が曰く、『これは融風と言い、火の始まりである。七日後に火事が起こるのではなかろうか?』戊寅に風が甚だしく、壬午には非常に甚だしく、宋・衛・陳・鄭は皆火事に見舞われた」。劉歆は、大辰は房宿・心宿・尾宿であり、八月に心星が西方にあり、孛星はその西から心宿を過ぎ東へ漢に及んだと考えた。宋が大辰の虚とは、宋の先祖が大辰星の祭祀を掌ったことを言う。陳が太昊の虚とは、伏羲が木徳で、火が生じる所である。鄭が祝融の虚とは、高辛氏の火正である。故に皆火の宿るところとなった。衛が顓頊の虚で、星が大水、すなわち営室である。天の星がこのようであり、また四国が政を失うことが相似て、王室の乱れに及ぶことも皆同じであった。

原文昭公十七年「冬,有星孛于大辰」。董仲舒以為大辰心也,心在明堂,天子之象。後王室大亂,三王分爭,此其效也。劉向以為星傳曰「心,大星,天王也。其前星,太子;後星,庶子也。尾為君臣乖離。」孛星加心,象天子適庶將分爭也。其在諸侯,角、亢、氐,陳、鄭也;房、心,宋也。後五年,周景王崩,王室亂,大夫劉子、單子立王猛,尹氏、召伯、毛伯立子晁。子晁,楚出也。時楚彊,宋、衛、陳、鄭皆南附楚。王猛既卒,敬王即位,子晁入王城,天王居狄泉,莫之敢納。五年,楚平王居卒,子晁奔楚,王室乃定。後楚帥六國伐吳,吳敗之于雞父,殺獲其君臣。蔡怨楚而滅沈,楚怒,圍蔡。吳人救之,遂為柏舉之戰,敗楚師,屠郢都,妻昭王母,鞭平王墓。此皆孛彗流炎所及之效也。左氏傳曰:「有星孛于大辰,西及漢。申繻曰:『彗,所以除舊布新也,天事恆象。今除於火,火出必布焉。諸侯其有火災乎?』梓慎曰:『往年吾見,是其徵也。火出而見,今茲火出而章,必火入而伏,其居火也久矣,其與不然乎?火出,於夏為三月,於商為四月,於周為五月。夏數得天,若火作,其四國當之,在宋、衛、陳、鄭乎?宋,大辰之虛;陳,太昊之虛;鄭,祝融之虛:皆火房也。星孛及漢;漢,水祥也。衛,顓頊之虛,其星為大水。水,火之牡也。其以丙子若壬午作乎?水火所以合也。若火入而伏,必以壬午,不過見之月。』」明年「夏五月,火始昏見,丙子風。梓慎曰:『是謂融風,火之始也。七日其火作乎?』戊寅風甚,壬午太甚,宋、衛、陳、鄭皆火。」劉歆以為大辰,房、心、尾也,八月心星在西方,孛從其西過心東及漢也。宋,大辰虛,謂宋先祖掌祀大辰星也。陳,太昊虛,虙羲木德,火所生也。鄭,祝融虛,高辛氏火正也。故皆為火所舍。衛,顓頊虛,星為大水,營室也。天星既然,又四國失政相似,及為王室亂皆同。

哀公十三年「冬十一月、星が東方に孛した」。董仲舒・劉向は、宿の名を言わないのは、宿に加わらないからであると考えた。辰が日を乗じて出て、乱れた気が君の明を蔽うのである。翌年、春秋の事は終わる。一説には、周の十一月は夏の九月で、日は氐宿にある。東方に出るのは、軫宿・角宿・亢宿である。軫宿は楚、角宿・亢宿は陳・鄭を表す。あるいは角宿・亢宿は大国の象で、斉・晋を表すとも言う。その後、楚が陳を滅ぼし、田氏が斉を簒奪し、六卿が晋を分けたのは、これがその効験である。劉歆は、孛星は東方の大辰であり、大辰と言わないのは、旦(明け方)に見えて日と光を争い、星が入っても彗星がなお見えるからであると考えた。この年は閏月を二度失い、十一月は実は八月であった。日は鶉火にあり、周の分野である。十四年冬、「星が孛した」のは、獲麟の後である。劉歆は、所在を言わないのは、官が記録を失ったためであると考えた。

原文哀公十三年「冬十一月,有星孛于東方」。董仲舒、劉向以為不言宿名者,不加宿也。以辰乘日而出,亂氣蔽君明也。明年,春秋事終。一曰,周之十一月,夏九月,日在氐。出東方者,軫、角、亢也。軫,楚;角、亢,陳、鄭也。或曰角、亢大國象,為齊、晉也。其後楚滅陳,田氏篡齊,六卿分晉,此其效也。劉歆以為孛,東方大辰也,不言大辰,旦而見與日爭光,星入而彗猶見。是歲再失閏,十一月實八月也。日在鶉火,周分野也。十四年冬,「有星孛」,在獲麟後。劉歆以為不言所在,官失之也。

高祖三年(紀元前204年)七月、大角(星)に彗星が現れ、十日余りしてようやく消えた。劉向は、この時、項羽こううが楚王となり諸侯を統率していたが、漢はすでに三秦を平定し、項羽と滎陽けいようで対峙し、天下の人心が漢に帰していたため、楚が滅びようとしていたので、彗星が王位を除く(掃う)ものだと解した。一説には、項羽が秦の兵卒を生き埋めにし、宮殿を焼き、義帝ぎていを弑し、王位の秩序を乱したので、彗星がそれに加わったのだという。

原文高帝三年七月,有星孛于大角,旬餘乃入。劉向以為是時項羽為楚王,伯諸侯,而漢已定三秦,與羽相距滎陽,天下歸心於漢,楚將滅,故彗除王位也。一曰,項羽阬秦卒,燒宮室,弒義帝,亂王位,故彗加之也。

文帝後七年(紀元前157年)九月、西方に彗星が現れた。その根本は尾宿・箕宿きしゅくに直にあり、先端は虚宿・危宿を指し、長さ一丈余りで、天漢(銀河)に達し、十六日間見えなかった。劉向は、尾宿は宋の地(現在の楚の彭城(ほうじょう))を、箕宿は燕を、また呉・越・斉を表すと考えた。これらの星宿は漢の領内にあり、海に面した国々の水沢の地を表す。この時、景帝が新たに即位し、晁錯を信用して、諸侯王を誅罰し正そうとしていたので、その兆しが先に現れたのだ。その後三年(紀元前154年)、呉・楚・四つの斉と趙の七国が兵を挙げて反乱を起こし、皆誅殺され滅ぼされたという。

原文文帝後七年九月,有星孛于西方,其本直尾、箕,末指虛、危,長丈餘,及天漢,十六日不見。劉向以為尾宋地,今楚彭城也。箕為燕,又為吳、越、齊。宿在漢中,負海之國水澤地也。是時景帝新立,信用晁錯,將誅正諸侯王,其象先見。後三年,吳、楚、四齊與趙七國舉兵反,皆誅滅云。

武帝建元六年(紀元前135年)六月、北方に彗星が現れた。劉向は、翌年、淮南王劉安が入朝し、太尉武安侯田蚡と邪な謀議をめぐらし、また陳皇后が驕り高ぶって勝手な振る舞いをしたため、その後、陳皇后が廃され、淮南王が反乱を起こして誅殺されたのだと考えた。

原文武帝建元六年六月,有星孛于北方。劉向以為明年淮南王安入朝,與太尉武安侯田蚡有邪謀,而陳皇后驕恣,其後陳后廢,而淮南王反,誅。

八月、長星(流星か彗星)が東方に現れ、その長さが天を終わらせるほどで、三十日後に去った。占いでは、「これは蚩尤旗しゆうきであり、現れると王者が四方を征伐する」という。その後、兵を起こして四方の夷狄を誅伐すること数十年に及んだ。

原文八月,長星出于東方,長終天,三十日去。占曰:「是為蚩尤旗,見則王者征伐四方。」其後兵誅四夷,連數十年。

元狩四年(紀元前119年)四月、長星がまた西北に現れた。この時、胡を討伐することが特に盛んであった。

原文元狩四年四月,長星又出西北,是時伐胡尤甚。

元封元年五月、星が東井に彗星として現れ、また三台にも彗星として現れた。その後、江充が乱を起こし、京師は紛然とした。これは、東井と三台が秦の地に効験を示した明らかな証拠である。

原文元封元年五月,有星孛于東井,又孛于三台。其後江充作亂,京師紛然。此明東井、三台為秦地效也。

宣帝の地節元年正月、星が西方に彗星として現れ、太白星から二丈ほどの距離にあった。劉向は、太白星は大将を象徴し、彗星がそれに加わるのは掃滅の象徴であると考えた。翌年、大将軍の霍光が薨去し、その二年後に一族は滅ぼされた。

原文宣帝地節元年正月,有星孛于西方,去太白二丈所。劉向以為太白為大將,彗孛加之,掃滅象也。明年,大將軍霍光薨,後二年家夷滅。

成帝の建始元年正月、星が営室に彗星として現れ、青白色で、長さは六七丈、幅は一尺余りであった。劉向と谷永は、営室は後宮の懐妊の象徴であり、彗星がそれに加わるのは、懐妊に害を及ぼし継嗣を絶つ者が出る前兆であると考えた。一説には、後宮が害を受けるという。その後、許皇后が後宮の懐妊者を呪詛した罪で廃された。趙皇后は妹を昭儀に立て、二人の皇子を害し、皇帝はついに後嗣を得られなかった。趙皇后の姉妹は結局みな罪に伏した。

原文成帝建始元年正月,有星孛于營室,青白色,長六七丈,廣尺餘。劉向、谷永以為營室為後宮懷任之象,彗星加之,將有害懷任絕繼嗣者。一曰,後宮將受害也。其後許皇后坐祝詛後宮懷任者廢。趙皇后立妹為昭儀,害兩皇子,上遂無嗣。趙后姊妹卒皆伏辜。

元延元年七月辛未の日、星が東井に彗星として現れ、五諸侯星を踏み、河戍の北を出て軒轅・太微を経て運行し、後日六度余りに及び、朝に東方に現れた。十三日の夕方に西方に見え、次妃・長秋・斗・填の星を犯し、蜂の炎のように再び紫宮の中を貫いた。大火星の後に当たり、天河に達し、妃后の領域を除いた。南へ進んで大角・摂提星を犯し、天市に至って節を按じ徐行し、炎が市中に入り、中旬になってから西へ去り、五十六日後に蒼龍とともに伏した。谷永が答えて言った。「上古以来、大乱の極みとして、希有なことである。その馳騁する歩みを観察すると、芒や炎が或いは長く或いは短く、その歴て犯すところは、内では後宮の女妾の害、外では諸夏の叛逆の禍である。」劉向もまた言った。「三代の滅亡には、摂提星が方角を変え、秦・項羽の滅亡には、星が大角星に彗星として現れた。」この年、趙昭儀が二人の皇子を害した。その五年後、成帝が崩御し、昭儀は自殺した。哀帝が即位すると、趙氏は皆官爵を免ぜられ、遼西に流された。哀帝は後嗣なくして亡くなった。平帝が即位し、王莽が権力を用い、成帝の趙皇后と哀帝の傅皇后を追って廃し、二人は自殺した。外戚の丁氏・傅氏は皆官爵を免ぜられ、合浦に流され、故郡に帰された。平帝は後嗣なくして亡くなり、王莽はついに国を簒奪した。

原文元延元年七月辛未,有星孛于東井,踐五諸侯,出河戍北率行軒轅、太微,後日六度有餘,晨出東方。十三日夕見西方,犯次妃、長秋、斗、填,蜂炎再貫紫宮中。大火當後,達天河,除於妃后之域。南逝度犯大角、攝提,至天市而按節徐行,炎入市,中旬而後西去,五十六日與倉龍俱伏。谷永對曰:「上古以來,大亂之極,所希有也。察其馳騁驟步,芒炎或長或短,所歷奸犯,內為後宮女妾之害,外為諸夏叛逆之禍。」劉向亦曰:「三代之亡,攝提易方;秦、項之滅,星孛大角。」是歲,趙昭儀害兩皇子。後五年,成帝崩,昭儀自殺。哀帝即位,趙氏皆免官爵,徙遼西。哀帝亡嗣。平帝即位,王莽用事,追廢成帝趙皇后、哀帝傅皇后,皆自殺。外家丁、傅皆免官爵,徙合浦,歸故郡。平帝亡嗣,莽遂篡國。

釐公十六年「正月戊申朔、隕石が宋に落ちた、五つ、この月に六羽の鶂(ガン)が退き飛びながら宋の都を過ぎた」。董仲舒と劉向は、これは宋の襄公が覇道を行おうとして自ら敗れる戒めの象であると考えた。石は陰の類、五は陽の数、上から落ちるのは、陰でありながら陽が行い、高くあろうとしてかえって下るのである。石は金と同類、色は白を主とし、白い祥に近い。鶂は水鳥、六は陰の数、退き飛ぶのは、進もうとしてかえって退くのである。その色は青、青い祥であり、貌の不恭に属する。天の戒めは言うようだ、徳薄く国小さい者は、剛強な陽気を頼みとせず、諸侯の長たらんと欲し、強大な者と争えば、必ずその害を受ける、と。襄公は悟らず、翌年、斉の威公が死ぬと、斉の喪に乗じて攻め、滕子を捕らえ、曹を包囲し、盂の会を開き、楚と盟主の座を争い、ついに捕らえられた。後に国に戻ったが、過ちを悔い改めて自らを責めず、再び諸侯を会して鄭を討ち、楚と泓で戦い、軍は敗れ身は傷つき、諸侯の笑いものとなった。左氏伝に言う:隕石は星である;鶂が退き飛ぶのは風である。宋の襄公は周の内史叔興に問うて言った:「これは何の兆しか?吉凶はどこにあるのか?」答えて言った:「今年は魯に大喪が多いであろう、来年は斉に乱があるであろう、君は諸侯を得るが終わりまで保たないであろう。」退いて人に告げて言った:「これは陰陽の事柄であって、吉凶の生ずる所ではない。吉凶は人によるものである、私は君に逆らうことを敢えてしなかっただけだ。」この年、魯の公子季友、鄫の季姫、公孫茲が皆亡くなった。翌年、斉の威公が死に、嫡子と庶子の乱が起こった。宋の襄公は斉を討って覇を唱え、ついに楚に敗れた。劉歆は、この年、歳星が寿星の位置にあり、その衝(対向位置)が降婁にあると考えた。降婁は、魯の分野である。故に魯に大喪が多いのである。正月、太陽は星紀にあり、厭(圧する星)は玄枵にある。玄枵は、斉の分野である。石は山の物;斉は大嶽(泰山)の後裔である。五つの石は、斉の威公が死んで五公子が乱を起こす象であり、故に来年斉に乱があるのである。庶民は星の如し、宋に落ちるのは、宋の襄公が諸侯の衆を得て、五公子の乱を治める象である。星が落ち鶂が退き飛ぶので、諸侯を得ても終わりまで保たないのである。六羽の鶂は、六年後に覇業が初めて退き、盂で捕らえられる象である。民が徳に背けば乱となり、乱があれば妖災が生ずる。吉凶は人によるものであり、その後に陰陽の衝や厭がその咎を受けると言う。斉、魯の災いは君によるものではない、故に「私は君に逆らうことを敢えてしなかっただけだ」と言うのである。京房の易伝に言う:「諫めを拒み自ら強くする、これを却行(退行)と言い、その異は鶂が退き飛ぶ。ちょうど罷免されるべき時であれば、鶂が退き飛ぶ。」

原文釐公十六年「正月戊申朔,隕石于宋,五,是月六鶂退飛過宋都」。董仲舒、劉向以為象宋襄公欲行伯道將自敗之戒也。石陰類,五陽數,自上而隕,此陰而陽行,欲高反下也。石與金同類,色以白為主,近白祥也。鶂水鳥,六陰數,退飛,欲進反退也。其色青,青祥也,屬於貌之不恭。天戒若曰,德薄國小,勿持炕陽,欲長諸侯,與彊大爭,必受其害。襄公不寤,明年齊威死,伐齊喪,執滕子,圍曹,為盂之會,與楚爭盟,卒為所執。後得反國,不悔過自責,復會諸侯伐鄭,與楚戰于泓,軍敗身傷,為諸侯笑。左氏傳曰:隕石,星也;鶂退飛,風也。宋襄公以問周內史叔興曰:「是何祥也?吉凶何在?」對曰:「今茲魯多大喪,明年齊有亂,君將得諸侯而不終。」退而告人曰:「是陰陽之事,非吉凶之所生也。吉凶繇人,吾不敢逆君故也。」是歲,魯公子季友、鄫季姬、公孫茲皆卒。明年齊威死,適庶亂。宋襄公伐齊行伯,卒為楚所敗。劉歆以為是歲歲在壽星,其衝降婁。降婁,魯分野也,故為魯多大喪。正月,日在星紀,厭在玄枵。玄枵,齊分野也。石,山物;齊,大嶽後。五石象齊威卒而五公子作亂,故為明年齊有亂。庶民惟星,隕於宋,象宋襄將得諸侯之眾,而治五公子之亂。星隕而鶂退飛,故為得諸侯而不終。六鶂象後六年伯業始退,執於盂也。民反德為亂,亂則妖災生,言吉凶繇人,然后陰陽衝厭受其咎。齊、魯之災非君所致,故曰「吾不敢逆君故也」。京房易傳曰:「距諫自彊,茲謂卻行,厥異鶂退飛。適當黜,則鶂退飛。」

恵帝三年、隕石が綿諸に落ちた、一つ。

原文惠帝三年,隕石綿諸,一。

武帝の征和四年二月丁酉、隕石が雍に落ちた、二つ、天は晴れて雲なく、音は四百里に聞こえた。

原文武帝征和四年二月丁酉,隕石雍,二,天晏亡雲,聲聞四百里。

元帝の建昭元年正月戊辰、隕石が梁国に落ちた、六つ。

原文元帝建昭元年正月戊辰,隕石梁國,六。

成帝の建始四年正月癸卯、隕石が槁に落ちた、四つ、肥累に落ちた、一つ。

原文成帝建始四年正月癸卯,隕石槁,四,肥累,一。

陽朔三年(前22年)二月壬戌の日、白馬に隕石が落ちた。八個。

原文陽朔三年二月壬戌,隕石白馬,八。

鴻嘉二年(前19年)五月癸未の日、杜衍とえんに隕石が落ちた。三個。

原文鴻嘉二年五月癸未,隕石杜衍,三。

元延四年(前9年)三月、都関とかんに隕石が落ちた。二個。

原文元延四年三月,隕石都關,二。

哀帝の建平元年(前6年)正月丁未の日、北地に隕石が落ちた。十個。その年の九月甲辰の日、虞に隕石が落ちた。二個。

原文哀帝建平元年正月丁未,隕石北地,十。其九月甲辰,隕石虞,二。

平帝の元始二年(2年)六月、鉅鹿きょろくに隕石が落ちた。二個。

原文平帝元始二年六月,隕石鉅鹿,二。

恵帝の治世が終わって平帝の時代に至るまで、隕石は合わせて十一回落下し、いずれも光を放ち雷のような音を響かせたが、成帝と哀帝の時代には特に頻繁であった。

原文自惠盡平,隕石凡十一,皆有光燿雷聲,成、哀尤屢。