巻27

『 漢書 』

巻二十七 五行志 第七

『易経』に言う。「天は象を垂れ、吉凶を現わす。聖人はこれに象る。河から図が出、雒から書が出る。聖人はこれを則る」と。劉歆は、伏羲氏が天を継いで王となり、河図を受け、これを則って画いたのが八卦であると考えた。禹が洪水を治めた時、雒書を賜り、これを法として陳べたのが『洪範』である。聖人はその道を行い、その真を宝とした。下って殷の時代に及ぶと、箕子が父師の位にあってこれを司った。周が殷を克服した後、箕子を連れ帰り、武王は自ら謙虚に身を低くして彼に問うた。それゆえ経文に言う。「十三年、王が箕子を訪ね、王は言った。『ああ、箕子よ。天はひそかに下民を定め、その住まいを助け合わせる。私はその常道の秩序を知らない』と。箕子は言った。『私は昔聞くところによれば、鯀が洪水を防ぎ止めようとして、五行の順序を乱した。そこで帝は震怒し、洪範九疇を与えず、常道は乱れた。鯀は誅殺され、禹がその後を継いで興った。天はそこで禹に洪範九疇を賜り、常道は秩序を得た』と」と。これが武王が箕子に雒書について問い、箕子が禹が雒書を得た趣旨を答えたものである。

「第一は五行。第二は五事を用いることを慎む。第三は八政を用いて務める。第四は五紀を用いて調和させる。第五は皇極を立てて用いる。第六は三徳を用いて治める。第七は稽疑を用いて明らかにする。第八は庶徴を用いて心に留める。第九は五福を用いて導き、六極を畏れる」。これら凡そ六十五字は、すべて雒書の本文であり、いわゆる天が禹に賜った九章の大法で、常事の順序を定めたものである。河図と雒書は互いに経緯となり、八卦と九章は互いに表裏をなすと考えられた。昔、殷の道が弛んだ時、文王が『周易』を演じた。周の道が衰えた時、孔子が『春秋』を述べた。それゆえ乾坤の陰陽が、洪範の咎徴を現わし、天と人の道が明らかに著わされるのである。

漢が興り、 秦 が学問を滅ぼした後を承け、景帝・武帝の時代、 董仲舒 が『公羊春秋』を研究し、初めて陰陽を推し量り、儒者の宗となった。宣帝・元帝の後、劉向が『穀梁春秋』を研究し、その禍福を数え上げ、『洪範』によって解釈を伝え、仲舒と異なった。劉向の子の劉歆が『左氏伝』を研究するに至って、その春秋に対する解釈もすでに乖離し、五行伝について言えば、またかなり異なっていた。そこで董仲舒を踏まえ、劉向・劉歆を区別し、眭孟、夏侯勝、京房、谷永、李尋らが述べた事跡を伝え載せ、 王莽 に至るまで、十二代を挙げ、『春秋』に附け、この篇に著わす。

五行

経文に言う。「第一は五行。五行とは、一に水、二に火、三に木、四に金、五に土である。水は潤下と言い、火は炎上と言い、木は曲直と言い、金は従革と言い、土は稼穡を愛する」。

伝に言う。「田猟をして宿営せず、飲食して神に供えず、出入りに節度がなく、民の農時を奪い、および姦謀があると、木は曲直しない」。

解説する。木は東方である。易において、地上の木は観の卦である。それは王事においては、威儀や容貌もまた観るべきものである。それゆえ歩行には佩玉の法度があり、車に登るには和鸞の節奏があり、田猟には三駆の制があり、飲食には享献の礼があり、出入りには名目があり、民を使うには時を考え、務めは農桑を勧め、謀りごとは百姓を安んずるにある。このようであれば、木はその本性を得る。もし田猟に馳せ騒いで宮室に戻らず、飲食に耽溺して法度を顧みず、妄りに徭役を起こして民の時を奪い、姦詐を作為して民の財を傷つけるならば、木はその本性を失う。工匠が輪や矢を作るのに多く傷み敗れ、および木が変怪をなすのは、これが木が曲直しないということである。

三十年「五月甲午、宋に災あり」。董仲舒は、伯姫が宋に嫁いで五年、宋の恭公が卒し、伯姫が幽居して節を守ること三十余年、さらに国家の患禍を憂い悲しみ、陰が積もって陽を生じたので、火が災いを生じたのだと考えた。劉向は、これに先立って宋公が讒言を聞き入れて太子の痤を殺したこと、火が炎上しないという罰に応じたのだと考えた。

左氏伝、昭公六年「六月丙戌、鄭に災あり」。この春三月、鄭人が刑書を鋳造した。士文伯が言った。「火星が現れる。鄭は火事になるだろうか? 火(星)がまだ出ないうちに火を用いて刑器を鋳造し、争いの法を蔵した。火(星)がこれを象徴するので、火事にならないことがあろうか?」 解説に言う。火星は周暦の五月に現れるが、鄭は三月に火を用いて鼎を鋳造し、刑罰の条文を刻み、民との約束とし、これが刑器であり争いの法である。ゆえに火星が現れ、五行の火と明るさを争って災いとなった。その象徴するところはそうであり、また法律を棄てるという占いでもある。経文に書かれていないのは、当時魯に報告しなかったからである。

九年「夏四月、陳に火あり」。董仲舒は、陳で夏徴舒が君を殺し、 楚 の厳王が陳のために賊を討つと称し、陳国が門を開いてこれを待ったが、楚はついに陳を滅ぼした。陳の臣子の怨み恨みは特に甚だしく、陰が極まって陽を生じたので、火災を招いたのだと考えた。劉向は、これに先立って陳侯の弟の招が陳の太子の偃師を殺したこと、いずれも外部の事柄であり、その宮殿によるものではないので、簡略に記したのだと考えた。八年十月壬午、楚軍が陳を滅ぼした。春秋は蛮夷による中国の滅亡を認めないので、あらためて陳の火事を書いたのである。左氏の経文に「陳に災あり」とある。伝に「鄭の裨竈が言った。『五年後、陳は再び封ぜられ、封ぜられて五十二年でついに滅びるだろう。』 子産がその理由を尋ねると、答えて言った。『陳は水の属である。火は水の妃(配偶)であり、楚が相(助ける)ところである。今、火(星)が出て陳に火事が起きたのは、楚を追い払い陳を建てるためである。妃は五をもって成るので、五年と言うのである。歳星が五度鶉火に及び、その後陳はついに滅び、楚がこれを有することになる。天の道である。』」 解説に言う。顓頊は水をもって王となった。陳はその一族である。今年の歳星は星紀にある。五年後は大梁にある。大梁は昴である。金は水の宗(根本)であり、その宗を得れば昌える。ゆえに「五年後陳は再び封ぜられる」と言う。楚の先祖は火正であった。ゆえに「楚が相(助ける)ところ」と言う。天は一をもって水を生じ、地は二をもって火を生じ、天は三をもって木を生じ、地は四をもって金を生じ、天は五をもって土を生じる。五つの位はすべて五をもって合わさり、陰陽が位を易える。ゆえに「妃は五をもって成る」と言う。そうすると、水の大数は六、火は七、木は八、金は九、土は十である。ゆえに水は天一を以て火二の牡(雄)とし、木は天三を以て土十の牡とし、土は天五を以て水六の牡とし、火は天七を以て金四の牡とし、金は天九を以て木八の牡とする。陽の奇数は牡となり、陰の偶数は妃となる。ゆえに「水は火の牡である。火は水の妃である」と言う。易において、坎は水であり中男、離は火であり中女である。おそらくこれを取ったのであろう。大梁から四歳で鶉火に至り、四巡して四十八歳、合わせて五度鶉火に及び、五十二年で陳はついに滅びる。火が盛んで水が衰える。ゆえに「天の道である」と言う。哀公十七年七月己卯、楚は陳を滅ぼした。

昭公十八年「五月壬午、宋・衛・陳・鄭に災あり」。董仲舒は、王室が乱れようとしている象徴であり、天下が救おうとしないので、四カ国に災いがあり、四方が滅びることを言ったのだと考えた。また、宋・衛・陳・鄭の君主はみな享楽にふけり、国政を顧みず、周王室と同じ行いをした。陽が節度を失えば火災が起こる。ゆえに同日に災いがあったのである。劉向は、宋と陳は王者の後裔、衛と鄭は周の同姓であると考えた。当時、周の景王は老いており、劉子と単子は王子の猛に仕え、尹氏と召伯と毛伯は王子の晁に仕えていた。子晁は楚の出である。そして宋・衛・陳・鄭もまた外では楚に従属し、周王室を尊ぶ心を失っていた。三年後、景王が崩御し、王室が乱れた。ゆえに天は四カ国に災いを下した。天の戒めは言うようである。周を救わず、かえって楚に従い、世子を廃して正しくない者を立て、王室を害する。同じ罪であることを明らかにせよ、と。

定公二年「五月、雉門及び両観に災あり」。董仲舒と劉向は、これらはすべて奢侈で分を越えている者であると考えた。これに先立って、季氏が昭公を追放し、昭公は国外で死んだ。定公が即位したが、季氏を誅殺することもできず、またその邪説を用い、女楽にふけり、孔子を退けた。天の戒めは言うようである。高く顕著で奢侈で分を越えた者を去れ、と。一説には、門と闕は号令の出る所である。今、大聖を捨てて有罪の者を放任する。号令を出すべきでない、と。京房の易伝に言う。「君が道を思わなければ、その妖は火が宮を焼く。」

哀公三年「五月辛卯、桓宮・釐宮に災あり」。董仲舒と劉向は、この二つの宮廟は立てるべきでなく、礼に違っていると考えた。哀公はまた季氏のため孔子を用いなかった。孔子は陳にいて魯の災いを聞き、「それは桓宮・釐宮であろう!」と言った。桓公は季氏の出た所、釐公は季氏を世卿とした者であると考えたのである。

四年「六月辛丑、亳社に災あり」。董仲舒と劉向は、亡国の社は戒めとするものであると考えた。天の戒めは言うようである。国が危うく滅びようとしているのに、戒めを用いない、と。春秋の火災は定公・哀公の間に頻発し、聖人を用いず驕った臣を放任し、国を滅ぼそうとしている。明らかでないことが甚だしい。一説には、天が孔子を生んだのは定公・哀公のためではなく、礼を失い明らかでないことに対して、火災が応じた。自然の象徴である。

高后元年五月丙申、 趙 の叢台に災あり。劉向は、この時、呂氏の娘が趙王の后となり、嫉妬深く、讒言をもって趙王を害そうとした。趙王は悟らず、ついに幽閉されて殺されたと考えた。

恵帝四年十月乙亥、未央宮の凌室に災あり。丙子、織室に災あり。劉向は、元年に呂太后が趙王の如意を殺し、その母の戚夫人を残酷に殺したこと、この年の十月壬寅に太后が帝の姉の 魯元公主 の娘を皇后に立てたことと考えた。その乙亥に凌室の災いがあった。翌日、織室の災いがあった。凌室は飲食を供養する所、織室は宗廟の衣服を奉る所であり、春秋の御 りん と同じ意義である。天の戒めは言うようである。皇后には宗廟を奉る徳がなく、祭祀を絶やそうとしている、と。その後、皇后に子がなく、後宮の美人に男子が生まれた。太后は皇后に名付けさせ、その母を殺した。恵帝が崩御し、嗣子が立ったが、怨みの言葉があり、太后はこれを廃し、改めて呂氏の子の弘を少帝とした。大臣たちが頼りとなり、諸呂を誅殺して文帝を立てたため、恵帝の后は幽閉され廃された。

文帝七年六月癸酉、未央宮の東闕の罘思に災あり。劉向は、東闕は諸侯を朝見させる門であり、罘思はその外にあり、諸侯の象徴であると考えた。漢が興り、諸侯王を大いに封じ、城を連ねること数十に及んだ。文帝が即位すると、 賈誼 らは古の制度に違反しており、必ず叛逆すると考えた。これに先立って、済北王と淮南王が皆謀反を企て、その後、呉楚七国が兵を挙げて誅殺された。

景帝の中五年八月己酉の日、未央宮の東闕に災害があった。これに先立ち、栗太子が廃されて臨江王となり、罪によって中尉に召喚され、自殺した。丞相の条侯周亜夫は、上意に合わないことを理由に病気と称して免官され、二年後に獄に下されて死んだ。

武帝の建元六年六月丁酉の日、遼東の高廟に災害があった。四月壬子の日、高園の便殿が火災にあった。董仲舒が答えて言った。「『春秋』の道理は、過去を挙げて未来を明らかにするものである。それゆえ、天下に物事があれば、『春秋』が挙げたものと同類のものを参照し、精微な観察によってその意図を把握し、倫理の類を貫通させてその道理を理解するならば、天地の変異も、国家の事柄も、明らかにすべて見えて、疑うところはない。『春秋』によれば、魯の定公・哀公の時代、季氏の悪はすでに熟しており、一方で孔子の聖はまさに盛んであった。盛んな聖人をもって熟した悪を変えようとすれば、季孫の勢力は重く、魯君の勢力は軽いとはいえ、その情勢は成し遂げられるはずであった。それゆえ、定公二年五月に両観に災害があった。両観は礼を僭越した建造物であり、天がこれに災害を下したのは、あたかも言うようである、『礼を僭越した臣下は除くことができる』と。すでに罪の徴候が見られた後、告げて除くことができる、これが天意である。定公はこれを省みなかった。哀公三年五月に至り、桓宮・釐宮に災害があった。この二つは同じ事柄であり、行うところは一つである。あたかも言うようである、『貴きものを焼き払って不義の者を除け』と。哀公はこれを見ることができなかった。それゆえ、四年六月に亳社に災害があった。両観、桓・釐の廟、亳社、この四つはいずれも建つべきでないものであり、天はみなその建つべきでないものを焼き払って魯に示し、乱臣を去らせて聖人を用いようとしたのである。季氏が道を失って久しい。これ以前に天が災害を示さなかったのは、魯に賢聖の臣がおらず、たとえ季孫を除こうとしても、その力が及ばなかったからで、昭公の時がそれである。定公・哀公の時に至って初めてこれが現れたのは、その時が適していたからである。時ならざれば現れない、これが天の道である。今、高廟は遼東にあるべきではなく、高園殿は陵の傍らにあるべきでなく、礼においても建つべきではない。魯で災害があったものと同じである。その建つべきでないことは久しい。陛下の時に至って天が災害を下したのは、おそらくその時が適していたからであろう。昔、秦は滅亡した周の弊を受け継ぎながら、それを教化する方法がなかった。漢は滅亡した秦の弊を受け継ぎ、またそれを教化する方法がない。二つの弊を受け継いだ後、その下流を承け、その猥雑さを兼ねて受けることは、治めるのが非常に難しい。また、兄弟・親戚・骨肉のつながりが多く、驕慢で奢侈にふけり勝手気ままな者が多い、いわゆる重難の時である。陛下はまさに大いなる弊の後にお立ちになり、また重難の時に遭われた。非常に憂うべきことである。それゆえ、天の災害はあたかも陛下に語りかけているようである。『当今の世は、弊が重く困難ではあるが、太平の至公をもってしなければ治めることができない。諸侯にいる親戚貴属で正道から最も遠く離れている者を見て、忍んでこれを誅せよ。我が遼東の高廟を焼き払ったようにせよ。国中にいて傍ら近くにあり、貴いながら正しくない近臣を見て、忍んでこれを誅せよ。我が高園殿を焼き払ったようにせよ』と。外にいて正しくない者は、たとえ高廟のように貴くても、なお災いを焼き払う。まして諸侯であろうか。内にいて正しくない者は、たとえ高園殿のように貴くても、なお焼き払って災いとする。まして大臣であろうか。これが天意である。罪が外にある者は天が外に災いを下し、罪が内にある者は天が内に災いを下す。焼き払いが甚だしければ罪は重く当たり、焼き払いが軽ければ罪は軽く当たる。これが天意を受け止める道である。」

これに先立ち、淮南王劉安が入朝し、初めて帝の舅である 太尉 たいい の武安侯田蚡と謀反の言葉を交わした。その後、膠西の于王、趙の敬粛王、常山の憲王はいずれもたびたび法を犯し、ある者は人家を滅ぼし、二千石の官を毒殺するに至り、淮南王と衡山王はついに謀反を企てた。膠東王と江都王はいずれもその謀略を知り、ひそかに兵と弩を整え、これに応じようとした。元朔六年に至って、ようやく発覚し罪に伏した。当時、田蚡はすでに死んでおり、誅殺に及ばなかった。上は董仲舒の以前の言葉を思い、董仲舒の弟子である呂歩舒に斧鉞を持たせて淮南の獄を治めさせ、『春秋』の義によって外で専断させ、請うことをしなかった。すでに戻って事を奏上すると、上はみなこれを是とした。

太初元年十一月乙酉の日、未央宮の柏梁台に災害があった。これに先立ち、大風がその屋根を吹き飛ばし、夏侯始昌が先にその災害の日を言い当てた。後に江充の巫蠱と衛太子の事件があった。

征和二年の春、涿郡の鉄官が鉄を鋳造したところ、鉄が溶けてすべて飛び上がって行った。これは火の変異がこのようにさせたのである。その三月、涿郡太守の劉屈釐が丞相となった。その一か月後、巫蠱の事件が起こり、帝の娘である諸邑公主・陽石公主、丞相の公孫賀、その子の太僕敬声、平陽侯曹宗らがみな獄に下されて死んだ。七月、使者の江充が太子の宮で蠱を掘り起こした。太子は母の皇后と議し、自ら明らかにすることができないことを恐れ、ついに江充を殺し、兵を挙げて丞相の劉屈釐と戦い、死者は数万人に及び、太子は敗走して湖に至り自殺した。翌年、屈釐はまた祝詛の罪に坐して腰斬に処せられ、妻は梟首にされた。成帝の河平二年正月、 沛 郡の鉄官が鉄を鋳造したところ、鉄が下に流れず、ごうごうと雷の音のようであり、また鼓の音のようであった。工人十三人は驚いて逃げた。音が止み、戻って地を見ると、地が数尺陥没し、炉が十に分かれ、一つの炉の中の溶けた鉄が流星のように散らばって、すべて飛び上がって行った。征和二年と同じ現象である。その夏、帝の舅五人が列侯に封じられ、五侯と号した。元舅の王鳳が大司馬大将軍として政権を執った。二年後、丞相の王商は王鳳とわだかまりがあり、王鳳が讒言したため、免官され自殺した。翌年、 京兆尹 けいちょういん の王章が王商の忠直を訴え、王鳳が権力を専断していると述べた。王鳳は大逆の罪で王章を誣告し、獄に下して死なせ、妻子は合浦に流された。後に許皇后が巫蠱の罪に坐して廃され、趙飛 燕 が皇后となり、妹が昭儀となった。二人は皇子を賊害し、成帝はついに後嗣を絶った。皇后と昭儀はいずれも罪に伏した。一説には、鉄が飛ぶのは金が革に従わないことに属するという。

昭帝の元鳳元年、燕城の南門に災害があった。劉向は、当時、燕王が邪な臣下を漢に通わせ、讒賊を行い、逆乱を謀ったためと考えた。南門は、漢への通路である。天の戒めはあたかも言うようである。「邪な臣下が往来し、漢に対して姦悪な讒言を行うことは、滅亡への道である」と。燕王は悟らず、ついにその罪に伏した。

元鳳四年五月丁丑の日、孝文廟の正殿に災害があった。劉向は、孝文帝は太宗の君であり、成周の宣榭の火災と同じ意味であると考えた。これに先立ち、皇后の父である車騎将軍の上官安、および安の父である左将軍の上官桀が謀反を企て、大将軍の 霍光 かくこう がこれを誅殺した。皇后は 霍光 かくこう の外孫であり、年少で知らず、その地位に居たことは以前の通りであった。 霍光 かくこう は皇后に子が欲しいと思い、上に侍して医者の言葉を借り、後宮のすべての者が進めないように禁じ、ただ皇后だけが専ら寝所に侍った。皇后は六歳で立ち、十三年で昭帝が崩御し、ついに継嗣が絶えた。 霍光 かくこう が朝政を執ることは、周公が摂政したのと同じである。この年の正月、上は元服を加え、『詩経』と『尚書』に通じ、明哲の性質があった。 霍光 かくこう には周公の徳がなく、政権を執ること九年、周公よりも長く、上はすでに冠したのに政権を返さず、国の害となろうとしていた。それゆえ、正月に元服を加え、五月に災害が現れたのである。古の廟はすべて城中にあったが、孝文廟は初めて外に出て居を構えた。天の戒めはあたかも言うようである。「貴くて正しくない者を去れ」と。宣帝が即位した後も、 霍光 かくこう はなお摂政し、驕り高ぶって制度を過ぎ、ついには妻の顕が許皇后を殺害した。 霍光 かくこう はこれを聞きながら討たず、後に誅滅された。

宣帝の甘露元年四月丙申の日、中山の太上皇廟に災害があった。甲辰の日、孝文廟に災害があった。元帝の初元三年四月乙未の日、孝武園の白鶴館に災害があった。劉向は、これに先立ち、前将軍の蕭望之と光禄大夫の周堪が政を輔けたが、佞臣の石顕や許章らに讒言され、望之は自殺し、周堪は廃黜されたためと考えた。翌年、白鶴館に災害があった。園中五里の馳逐走馬の館は、山陵の昭穆の地にあるべきではない。天の戒めはあたかも言うようである。「貴近で逸遊し正しくない臣下を去れ。さもなくば忠良を害するであろう」と。後に許章は上林で烽火の下を走馬し馳逐した罪に坐し、免官された。

永光四年(前40年)六月甲戌の日、孝宣皇帝の杜陵の園陵の東の闕(門楼)の南方に災害があった。劉向は、これ以前に皇帝が再び周堪を徴用して光禄勲とし、また周堪の弟子の張猛を太中大夫としたが、石顕らが再び讒言して誹謗したため、二人とも外任に遷されたことを原因と考えた。この年、皇帝は再び周堪を召して尚書を領させ、張猛を給事中としたが、石顕らは終始彼らを害そうとした。園陵は朝廷よりも小さく、闕は司馬門の中にあり、これは内臣である石顕の象徴である。孝宣皇帝は、親族であり貴い存在である。闕は、法令が出される場所である。天の戒めはこう言っているようだ。法令を捨て去り、内臣で親族であり貴い者が必ず国家に害をなす、と。その後、周堪はほとんど進んで謁見することができず、石顕を通じて事を言上し、事の決裁は石顕の口から出た。周堪は病でものが言えなくなった。石顕は張猛を誣告し、張猛は公車で自殺した。成帝が即位すると、石顕はついに罪に伏した。

成帝の建始元年(前32年)正月乙丑の日、皇考廟に災害があった。初め、宣帝は昭帝の後を継いで父の廟を立てたが、礼に正しくなかった。この時、大将軍の王鳳が権力を専断し朝政を擅にし、田蚡よりも甚だしく、国家を害そうとしていた。それゆえ天は元年正月に象を現したのである。その後、その勢いは次第に盛んになり、五人の将軍が代々権力を握り、ついに無道に陥った。

鴻嘉三年(前18年)八月乙卯の日、孝景廟の北闕に災害があった。十一月甲寅の日、許皇后が廃された。

永始元年(前16年)正月癸丑の日、大官の凌室(氷室)に災害があった。戊午の日、戾后の園陵の南闕に災害があった。この時、趙飛燕が大いに寵愛され、許后が既に廃された後、皇帝は彼女を立てようとしていた。それゆえ天は凌室に象を現し、恵帝四年の災害と同じ応報を示したのである。戾后は、衛太子の妾であり、巫蠱の禍に遭った。宣帝が即位した後、尊号を追加したが、礼に正しくなかった。また、戾后は微賤の身から起こり、趙氏と同じである。天の戒めはこう言っているようだ。微賤で徳のない者は宗廟を奉ることはできず、祭祀が絶え、凶悪な禍が至るであろう、と。その年の六月丙寅の日、趙皇后はついに立てられ、姉妹は驕り妬み、皇子を賊害し、結局皆誅罰を受けた。

永始四年(前13年)四月癸未の日、長楽宮の臨華殿および未央宮の東司馬門に災害があった。六月甲午の日、孝文帝の 霸 陵の園陵の東闕の南方に災害があった。長楽宮は、成帝の母である王太后の居住する所である。未央宮は、皇帝の居住する所である。霸陵は、太宗(文帝)の盛徳の園陵である。この時、太后の三人の弟が相次いで政権を執り、一族挙げて官位に居り、朝廷に充満していた。両宮の親属が国家を害そうとしていたので、天象が重ねて現れたのである。翌年、成都侯の王商が薨じ、弟の曲陽侯の王根が代わって大司馬となり政権を執った。その四年後、王根は骸骨を乞うて退き、兄の子である新都侯の王莽を自らの代わりに推薦した。ついに国は覆されたのである。

哀帝の建平三年(前4年)正月癸卯の日、桂宮の鴻寧殿に災害があった。これは皇帝の祖母である傅太后の居住する所であった。当時、傅太后は成帝の母と同等の称号で並び尊ばれることを望んだが、大臣の孔光、師丹らが政権を執り、それはできないことだと考えた。太后は皆官爵を免ぜられ、ついに尊号を称した。その三年後、皇帝が崩御し、傅氏は誅滅された。

平帝の元始五年(5年)七月己亥の日、高皇帝の原廟の殿門が災害でことごとく焼けた。高皇帝の廟は 長安 城中にあったが、後に 叔孫通 が復道(廊下)を譏ったため、渭水の北に原廟を再建したが、正しいことではなかった。この時、平帝は幼く、成帝の母である王太后が朝政に臨み、王莽に委任して、漢を 簒奪 さんだつ して絶やそうとし、 高祖 の宗廟を堕そうとしていた。それゆえ天象が現れたのである。その冬、平帝が崩御した。翌年、王莽は摂政の位につき、ついに国を 簒奪 さんだつ し、後に結局滅ぼされた。

伝に言う。「宮室を治め、台榭を飾り、内で淫乱にふけり、親戚を犯し、父兄を侮れば、則ち稼穡成らず」と。

説に曰く。土は中央にあり、万物を生ずるものである。それは王者にとっては、内事(宮中の事)にあたる。宮室、夫婦、親属もまた、互いに生じ合うものである。古の天子諸侯は、宮廟の大小高低に制があり、后夫人や媵妾の多少や進退に度があり、九族の親疏長幼に序があった。孔子は言われた。「礼は、その奢るよりは、寧ろ儉しきをとれ」と。それゆえ禹は宮室を低くし、文王は寡妻(正妻)に模範を示した。これが聖人が教化を明らかにする所以である。このようにすれば、土はその性を得るのである。もしも奢り淫らで驕り慢れば、土はその性を失う。水旱の災害がなくても草木百穀が熟さないのは、これが稼穡成らざるということである。

厳公(荘公)二十八年「冬、大水が起こり、麦と禾がなかった」。董仲舒は、夫人の哀姜が淫乱で、陰気に逆らったため、大水が起こったと考えた。劉向は、水害や旱害は記録すべきであるが、水害や旱害と書かずに「

「大亡麦禾」とは、土気が養われず、穀物が実らないことをいう。この時、夫人が二人の叔父と淫乱な関係にあり、内と外の区別がなくなり、また凶作と飢饉に遭いながら、一年のうちに三度も台を築いた。それゆえ、これに応じて穀物が実らず、台榭を飾り立て内で淫乱にふけることへの罰が下ったのである。ついに悔い改めず、四年で死に、禍は二世にまで及び、贅沢と淫乱の災いであった。

伝に言う。「戦いや攻撃を好み、百姓を軽んじ、城郭を飾り立て、辺境を侵すと、金が従わず革(変革)しない(金不従革)となる。」

説に言う。金は西方に配当され、万物が成熟し終わった後、殺気が始まる時である。それゆえ立秋になると鷹や隼が獲物を襲い、秋分になると微かな霜が降りる。それが王事においては、軍を出し師を行い、旗を掲げ鉞を杖とし、兵士や民衆に誓いを立て、威武を奮い起こし、それによって叛逆を征伐し暴乱を止めるのである。『詩経』に言う。「虔みて鉞を秉り、火の烈しきが如し」と。また言う。「載に干戈を戢め、載に弓矢を櫜に納む」と。動と静が義に応じ、「説びて難を犯し、民その死を忘る」のであれば、金はその本性を得ているのである。もしも貪欲でほしいままに振る舞い、ひたすら威勢を立てて勝とうとし、民の命を重んじないならば、金はその本性を失う。工匠が金鉄を鋳造する際、金鉄が氷のように滞り固まってしまい、うまくできないものが多く、また変怪が起こる。これが金が従わず革しないというものである。

『左氏伝』に言う、昭公八年「春、石が晋でものを言った」。晋の平公が師曠に問うと、答えて言った。「石はものを言うことはできません。神霊が何か憑いているのでしょう。事を行うのに時宜を得ず、民の間に怨みや誹謗が動き起こると、ものを言わないはずのものがものを言うことがあります。今、宮室が高く贅沢で、民力は尽き果て、怨みと誹謗が共に起こり、民はその本性(生業)に専念できません。石がものを言うのも、もっともなことではないでしょうか!」この時、晋侯はちょうど虒祁の宮を築いていた。叔向は言った。「君子の言葉は、信頼できて証拠があるものだ。」劉歆は、金と石は同類であると考え、これが金が従わず革しない、つまりその本性を失ったことであるとした。劉向は、石は白色で、白い色は金に属し、白い徴(白祥)に属すると考えた。

成帝の鴻嘉三年五月乙亥の日、天水郡冀県の南山の大石が鳴り、声は雷のようにごうごうと響き、しばらくして止んだ。平襄から二百四十里離れたところまで聞こえ、野鶏も皆鳴いた。石の長さは一丈三尺、幅と厚さはほぼ同じで、岸のわきに付着し、地面から二百余丈離れていた。民間では石鼓と呼んでいた。石鼓が鳴ると、兵乱がある。この年、広漢郡の鉗子(刑具をはめられた者)が牢を攻めようと謀り、死刑囚の鄭躬らを奪い出し、武器庫の兵器を盗み、役人や民衆を略奪し、刺繍の衣を着て、自ら山君と号し、仲間は次第に広がった。翌年の冬になってようやく誅殺され、自首した者は三千余人に及んだ。その四年後、尉氏県の樊並らが謀反を企て、陳留太守の厳普を殺し、自ら将軍と称した。また山陽郡の逃亡者蘇令らの仲間数百人が武器庫の兵器を盗み取り、四十余りの郡国を経由し、皆一年以上経ってから誅殺された。この時、昌陵を造営し始め、工事に従事する者は数万人に上り、郡国の役人や民衆五千余戸を移住させて陵邑に奉仕させた。工事は五年経っても完成せず、ついに昌陵の造営を中止し、移住させた家を帰還させた。石が鳴ったのは、晋で石がものを言ったのと同じく応じたものであり、師曠の言う「民力が尽き果てる」こと、伝に言う「百姓を軽んじる」ことである。虒祁の離宮は絳の都から四十里離れており、昌陵も郊外にあった。いずれも城郭と同じ占いが当てはまる。城郭は金に属し、宮室は土に属する。外と内の区別である。

伝に言う。「宗廟の礼を簡略にし、祈祷や祠を行わず、祭祀を廃し、天時に逆らうと、水が潤して下らない(水不潤下)となる。」

説に言う。水は北方に配当され、万物を終わらせ蔵するものである。それが人道においては、命が終わり形が蔵され、精神が放たれ去る時である。聖人は宗廟を作って魂気を収め、春秋に祭祀を行い、もって孝道を全うする。王者が即位すると、必ず天地を郊祀し、神祇に祈祷し、山川に望んで秩で祭り、百神を懐柔し、宗事(尊んで祀ること)しないものはない。斎戒を慎み、厳粛で敬虔な態度を尽くせば、鬼神は喜んで饗け、多くの福の助けを得る。これが聖王が陰気に順って事を行い、神と人を和らげる所以である。号令を発し施行するに至っても、また天時に奉じる。十二月が皆その気を得れば、陰陽が調和して終始が成る。このようであれば、水はその本性を得ているのである。もしも鬼神を敬わず、天時に逆らうことを命じるならば、水はその本性を失う。霧や水が突然湧き出し、百川が逆流して溢れ、郷や邑を壊し、人民を溺れさせ、また長雨が穀物を傷つける。これが水が潤して下らないというものである。京房の『易伝』に言う。「専断的に事を行い、知恵を働かせ、誅罰が道理を絶つと、その災いは水である。その水は、雨が人を殺し霜が降るようなものであり、大風が吹き空が黄色くなる。飢饉があっても減らさないことを泰という。その災いは水であり、水が人を殺す。有徳者を退けて阻むことを狂という。その災いは水であり、水が流れて人を殺し、水が引くと地に虫が生じる。罪をなすりつけて解こうとしないことを追非という。その水は寒く、人を殺す。追及して誅殺することを解こうとしないことを不理という。その水は五穀が実らない。大敗しても解こうとしないことを皆陰という。解とは赦すことである。王者は大敗した時、首悪を誅殺し、その衆を赦す。そうしなければ皆陰気を含むことになり、その水は国邑に流れ込み、霜が降って穀物を殺す。」

桓公元年「秋、大水があった」。董仲舒と劉向は、桓公が兄の隠公を しい 殺したため、民臣が隠公を悼み桓公を軽んじたと考えた。後に宋の督がその君を しい 殺した時、諸侯が会合して討伐しようとしたが、桓公は宋の賄賂を受け取って帰国し、また宋を裏切った。諸侯はこれによって魯を伐ち、その後も戦いを交えて仇敵となり、伏した屍や流れる血があり、百姓の怨みはますます深くなった。それゆえ十三年の夏に再び大水があったのである。一説には、夫人が驕慢で淫乱で、君を しい 殺しようとし、陰気が盛んになったが、桓公は悟らず、ついに しい 殺されて死んだという。劉歆は、桓公が許田を交換し、周公を祀らなかったこと、すなわち祭祀を廃したことへの罰であると考えた。

厳公七年「秋、大水があり、麦の苗が失われた」。董仲舒と劉向は、厳公の母の文姜が兄の 斉 の襄公と淫乱な関係にあり、共に威公(桓公)を殺した。厳公は父の仇を捨て、また斉の女を娶ろうとしたが、まだ入内させないうちに先に彼女と淫乱な関係を持ち、一年のうちに二度外出し、道で会って逆乱した。臣下が彼を軽んじたことへの応報である。

十一年「秋、宋で大水があった」。董仲舒は、この時魯と宋が数年続けて乗丘と鄑で戦い、百姓が愁い怨み、陰気が盛んになったため、二国とも水害に遭ったと考えた。劉向は、この時宋の愍公が驕慢で、災いを見ても改めず、翌年家臣の宋万と博戯をし、婦人が側にいるのに、驕って万を罵ったため、万が公を殺したことへの応報であると考えた。

二十四年、「大水が起こった」。董仲舒は、夫人の哀姜が淫乱で婦道に背き、陰気が盛んになったためであると考えた。劉向は、哀姜が初めて入内したとき、公(君主)が大夫や宗婦に会わせ、幣を用いたこと、また二人の叔父(君主の弟たち)と淫らな関係を持ち、公がそれを禁じることができなかったことによる。臣下が彼女を軽んじたので、この年と翌年も引き続き大水が起こったのだと考えた。劉歆は、これ以前に宗廟を厳かに飾り立て、椽を刻み柱を朱に塗って、夫人を誇示したことが、宗廟を簡略にした罰であると考えた。

宣公十年「秋、大水が起こり、飢饉となった」。董仲舒は、当時、しきりに邾を討伐して邑を奪い、また報復を受けたこと、戦いの恨みが連鎖し、百姓が愁い怨んだためであると考えた。劉向は、宣公が子赤を殺して立ったことによる。子赤は斉の出(生母が斉の公女)であるため、恐れて済西の田を斉に賄賂として贈った。邾子の貜且もまた斉の出であるのに、宣公はしきりに邾と交戦した。臣下は斉の威を恐れ、邾との禍を創り出したが、皆、公の行いを軽んじてその正しさを認めなかったためであると考えた。

成公五年「秋、大水が起こった」。董仲舒と劉向は、当時、成公が幼弱で、政権が大夫にあり、この前の年に二度も軍を用い、翌年にはさらに鄆に城を築いて私的家臣を強くし、仲孫蔑と叔孫僑如が専断して宋や晋と会したため、陰が陽に勝ったのだと考えた。

襄公二十四年「秋、大水が起こった」。董仲舒は、これ以前の一年に斉が晋を伐ち、襄公が大夫に師を率いさせて晋を救援し、その後また斉を侵したこと、国が小さく兵が弱いのに、強大な敵にしばしば立ち向かい、百姓が愁い怨んだため、陰気が盛んになったのだと考えた。劉向は、これ以前に襄公が隣国を侮ったため、邾がその南を伐ち、斉がその北を伐ち、莒がその東を伐ち、百姓が騒動し、その後また引き続き強大な斉を犯したためであると考えた。大水が起こり、飢饉となり、穀物が実らず、その災害は甚だしかった。

高后三年の夏、漢中と南郡で大水が起こり、水が流れ出て四千余家が被害を受けた。四年の秋、河南で大水が起こり、伊水と雒水が流れて千六百余家、汝水が流れて八百余家が被害を受けた。八年の夏、漢中と南郡で水が再び流れ出て、六千余家が被害を受けた。南陽の沔水が流れて一万余家が被害を受けた。この時、女主(女性君主)が独りで政治を行い、諸呂が相次いで王となった。

文帝の後三年の秋、大雨が降り、昼夜絶えることなく三十五日続いた。藍田の山水が流れ出て、九百余家が被害を受けた。燕では、民家八千余戸が崩壊し、三百余人が死亡した。これ以前に、趙人の新垣平が望気の術で寵愛を受け、上(皇帝)のために渭陽に五帝廟を建立し、周の鼎を出現させようとし、夏の四月に、上帝を郊祀した。一年余り後に誅殺を恐れ、謀反を企てたが、発覚し、腰斬の刑に処され、三族が滅ぼされた。この時、引き続き二度、公主を 単于 に嫁がせ、賄賂や贈り物を甚だ厚くしたため、 匈奴 はますます驕り、北辺を侵犯し、殺害や略奪は多い時で一万余人に及び、漢は連続して軍を発し征討し、辺境を守備した。

元帝の永光五年の夏から秋にかけて、大水が起こった。潁川、汝南、淮陽、廬江で雨が降り、郷や集落の民家を壊し、また水が流れて人を殺した。これ以前の一年に、有司が郡国の廟を廃止するよう上奏し、この年にはまた順次に廃毀することを定め、太上皇と孝惠帝の寢廟を廃止し、いずれも再び修復されず、博識の儒者は古制に違反していると考えた。刑臣の石顕が権力を握っていた。

成帝の建始三年の夏、大水が起こり、三輔では霖雨が三十余日続き、十九の郡国で雨が降り、山谷から水が流れ出て、合わせて四千余人が死亡し、官寺や民家八万三千余戸が壊れた。元年に、有司が甘泉の泰 畤 と河東の后土を長安の南北郊に移すよう上奏した。二年に、また雍の五畤や郡国の諸々の旧祀、合わせて六か所を廃止した。

中之上

経に曰く、「五事を用いることを羞む。五事とは、一に貌、二に言、三に視、四に聴、五に思である。貌は恭を曰い、言は従を曰い、視は明を曰い、聴は聡を曰い、思は叡を曰う。恭は肅を作し、従は艾を作し、明は 悊 を作し、聡は謀を作し、叡は聖を作す。休徴は、肅は時に雨の若く、艾は時に陽の若く、悊は時に奥の若く、謀は時に寒の若く、聖は時に風の若し、と曰う。咎徴は、狂は恒に雨の若く、僭は恒に陽の若く、舒は恒に奥の若く、急は恒に寒の若く、霿は恒に風の若し、と曰う」。

容貌が恭しさを欠くこと

伝に言う。「容貌が恭しさを欠くことは、これを不粛という。その咎は狂であり、その罰は恒雨(長雨)であり、その極みは悪である。時に服妖(衣服の怪異)があり、時に亀孽(亀の災い)があり、時に鶏禍(鶏の災い)があり、時に下体が上に生ずる痾(病気)があり、時に青眚(青い災いの兆し)青祥(青い吉兆)がある。ただ金が木を沴(害)する。」

説に曰く。およそ草木の類の怪異を妖という。妖は夭胎(幼くして死ぬこと)のようなもので、まだ微細であることを言う。虫豸(虫類)の類の怪異を孽という。孽は牙孽(芽が出始めること)のようなものである。六畜に及ぶものを禍といい、その現れが著しいことを言う。人に及ぶものを痾という。痾は病の様であり、浸潤して深まることを言う。甚だしければ異物が生ずることを眚といい、外から来るものを祥という。祥は禎のようなものである。気が互いに傷つけ合うことを沴という。沴は臨蒞(のぞみ治める)のようなもので、和合しない気持ちである。一つ一つの事柄に「時に…あり」と言うのは、それで区切りをつけるためであり、必ずしもすべてが同時に起こるわけではなく、あるものもあればないものもあり、あるいは前に起こり、あるいは後に起こることを言うのである。

孝武帝の時、夏侯始昌(かこう ししょう)は五経に通じ、五行伝を推し進めることに長け、それを族子の夏侯勝(かこう しょう)に伝え、下って許商に至るまで、皆、教えを受けた賢い弟子たちに伝えた。その伝え方は劉向と同じであったが、ただ劉歆の伝え方だけが異なっていた。容貌が恭しさを欠くことは、これを不粛という。粛は敬うことである。内面を恭といい、外面を敬という。人君が自ら行うことにおいて、体貌が恭しさを欠き、怠慢で驕り高ぶると、万事を敬うことができなくなり、その過失は狂易(狂気)にある。故にその咎は狂である。上が侮慢で下が暴虐であれば、陰気が勝つ。故にその罰は常に雨が多いことである。水が百穀を損ない、衣食が不足すれば、姦軌(悪事)が共に起こる。故にその極みは悪である。一説には、民が多く刑罰を受け、あるいは形貌が醜悪であることも、これに当たるという。風俗が狂慢で、節度を変え法度を改めると、剽軽奇怪(軽薄で奇怪)な服装となる。故に服妖がある。水に類するものが動く。故に亀孽がある。易において、巽は鶏に象徴される。鶏には冠と距(蹴爪)があり、文武の容貌を備えている。威儀を保たず、容貌の気が毀損されると、故に鶏禍がある。一説には、水の年に鶏が多く死に、あるいは怪異をなすことも、これに当たるという。上が威儀を失えば、下には強臣がいて君上を害する者がいる。故に下体が上に生ずる痾がある。木の色は青である。故に青眚青祥がある。およそ容貌が傷つけられる者は木気を病む。木気が病めば金がこれを沴(害)する。衝気(相対する気)が相通じるからである。易において、震は東方にあり、春と木に象徴される。兌は西方にあり、秋と金に象徴される。離は南方にあり、夏と火に象徴される。坎は北方にあり、冬と水に象徴される。春と秋は、昼夜の長さが等しく、寒暑が平らかである。それ故に金と木の気は互いに変じやすい。故に容貌が傷つけられると、秋の陰気を招いて常に雨が多くなり、言論が傷つけられると、春の陽気を招いて常に旱魃となるのである。冬と夏に至っては、昼夜の長さが反対で、寒暑が極めて異なり、水と火の気は互いに併存することができない。故に視覚が傷つけられると常に暖かく(奥)、聴覚が傷つけられると常に寒くなるのは、その気の然らしむるところである。これに逆らえば、その極みを悪といい、これに順えば、その福を「よき徳を好む」という。劉歆の貌伝には、鱗虫の孽、羊禍、鼻痾があるとしている。その説では、天文において東方の辰は龍星であるから、鱗虫とし、易において兌は羊であるから、木が金によって病まされ、故に羊禍を招き、常雨と同じ応報があるとする。この説は正しくない。春と秋は、気が陰陽相対し、木が病み金が盛んであるから、互いに併存することができる。ただこの一事だけである。禍と妖・痾・祥・眚は同類であり、独自に異なることはあり得ない。

『史記』成公十六年、成公は諸侯と周で会合した。単襄公が晋の厲公を見ると、遠くを見つめ歩みが高かった。そこで成公に告げて言った。「晋には乱が起こるでしょう。」魯侯(成公)が言った。「敢えてお尋ねしますが、天道によるのでしょうか、それとも人為によるのでしょうか。」単襄公は答えた。「私は瞽史(盲目の史官)ではありません。どうして天道を知ることができましょうか。私は晋君の容貌を見て、必ずや禍いを招く者であろうと思ったのです。君子は目で体の位置を定め、足はそれに従って動きます。それ故にその容貌を見てその心を知ることができるのです。目は礼儀に従って位置を定め、足は目に従って歩みます。晋侯は遠くを見つめ、足を高く上げています。目は体の位置に留まらず、足は目に従って歩んでいません。その心は必ずや異なっているに違いありません。目と体が従わないならば、どうして長く続くことができましょうか。諸侯を合わせることは、民の大事です。ここにおいて存亡を観察するのです。故に国に咎めが無いならば、その君は会合において、歩みと言葉、視覚と聴覚が必ず全て非難されることがなく、それによってその徳を知ることができるのです。遠くを見つめることを、その礼儀を絶つといい、足を高く上げることを、その徳を棄てるといい、言葉が爽ることを、その信を反するといい、聞くことが淫れることを、その名を離れるといいます。目は礼儀を定めるためにあり、足は徳を実践するためにあり、口は信を守るためにあり、耳は名声を聞くためにあります。故に慎まざるを得ないのです。一つでも欠ければ咎めがあり、全て失えば、国はそれに従って滅びます。晋侯は二つを欠いています。それ故に私はそう言うのです。」後二年、晋人は厲公を殺した。凡そこの類は、皆、容貌が恭しさを欠くことの咎めであるという。

左氏伝:桓公十三年、楚の屈瑕が羅を討伐した。鬭伯比が彼を見送り、帰還してその御者に言った。「莫囂(屈瑕の官職名)は必ず敗れるだろう。挙止(挙動)が高ぶり、心が固くないからだ。」急いで楚子(武王)に会って告げた。楚子は頼人(頼の者)をやって追わせたが、追いつかなかった。莫囂は行軍し、ついに順序を守らず、しかも備えを設けなかった。羅に到着すると、羅人が軍を整えて迎え撃ち、大敗した。莫囂は縊死した。

釐公十一年、周が内史過を遣わして晋の恵公に命(爵位を認める命令)を賜った。恵公は玉(瑞玉)を受け取る際、怠慢な態度だった。過は帰って王に告げて言った。「晋侯には後継ぎが無いでしょう。王が命を賜ったのに、瑞を受けることを怠るとは、先ず自ら棄てたのです。どうして継ぐ者がありましょうか。礼は国の幹であり、敬は礼の輿(車)です。敬わなければ礼は行われず、礼が行われなければ上下が混乱します。どうして長く世を保つことができましょうか。」二十一年、晋の恵公が卒去し、子の懐公が立ったが、晋人がこれを殺し、代わりに文公を立てた。

成公十三年、晋侯が郤錡を魯に遣わして援軍を乞わせた。郤錡は職務を行うのに恭しさを欠いた。孟獻子が言った。「郤氏は滅びるだろう。礼は身の幹であり、敬は身の基である。郤子には基がない。しかも先君の嗣卿(世襲の卿)であり、命を受けて師(軍)を求め、 社稷 しゃしょく を守ろうとしているのに、君命を怠って棄てるとは、滅びずして何を為そうか。」十七年、郤氏は滅亡した。

成公十三年、諸侯が王を朝見し、続いて劉康公に従って秦を討伐した。成肅公が社(土地の神)で賑(出征の際の肉)を受け取る際、恭しさを欠いた。劉子(劉康公)が言った。「私はこう聞いている。民は天地の中和を受けて生まれる。これを命という。それ故に礼義動作威儀の法則があり、それによって命を定めるのである。能ある者はこれによって福を養い、能なき者はこれに敗れて禍を取る。それ故に君子は礼に勤め、小人は力に尽くす。礼に勤めることは敬を致すに如くはなく、力に尽くすことは篤実であるに如くはない。敬は神を養うことにあり、篤は業を守ることにある。国の大事は、祀(祭祀)と戎(軍事)にある。祀には執膰(祭肉を執ること)があり、戎には受賑(出征の肉を受けること)がある。これは神に対する大節である。今、成子が怠るとは、その命を棄てたのである。彼は帰還しないだろうか。」五月、成肅公は卒去した。

成公十四年、衛の定公が苦成叔を饗宴でもてなした。甯恵子が相礼(助け)を務めた。苦成叔が傲慢な態度だったので、甯子が言った。「苦成の家は滅びるだろう。古えに饗食を行うのは、威儀を観察して禍福を省みるためであった。故に『詩』に言う。『犀の角の杯は曲がり、旨い酒は柔らか。驕らず傲らず、万福が来て求む。』今、あの方は傲慢である。禍を取る道である。」後三年、苦成の家は滅亡した。

襄公七年、衛の孫文子が魯に聘問したとき、魯君が壇に登ると彼も登った。叔孫穆子が相礼を務め、進み出て言った。「諸侯の会合において、我が君は衛君に後れたことはありません。今、あなたは我が君に後れず、我が君は何か過ちがあったか分かりません。どうか少しお待ちください。」孫子は弁解の言葉もなく、また悔い改める様子もなかった。穆子は言った。「孫子は必ず滅びる。臣下でありながら君のように振る舞い、過ちを悔い改めないのは、滅亡の根源である。」十四年、孫子はその君を追放して国外に叛いた。

襄公二十八年、蔡の景侯が晋から帰国する途中、鄭に入った。鄭伯が饗応したが、景侯は敬意を払わなかった。子産が言った。「蔡君は免れないだろう。先日ここを通られた時、我が君が子展を東門に遣わして慰労させたのに、傲慢であった。私は『まだ改めるだろう』と言った。今、帰途で饗応を受けながら怠慢であるのは、彼の本心である。小国の君主が大国に仕えながら、怠慢傲慢を本心とするなら、どうして死を免れようか。君が免れないなら、必ずその子によるだろう。淫乱で父らしくない、このような者には必ず子による禍がある。」三十年、世子の般に殺された。

襄公三十一年、襄公が 薨去 こうきょ した。季武子が公子の裯を立てようとしたが、穆叔が言った。「この人物は、喪に服していても悲しまず、憂いの中にありながら喜びの表情をしている。これは法度をわきまえないというものだ。法度をわきまえない人物は、ほとんどが禍をもたらす。もし本当に立てれば、必ず季氏の憂いとなるだろう。」武子は聞き入れず、ついに彼を立てた。葬儀が終わるまでに、喪服を三度も取り替えたが、喪服の襟は前の喪服と同じだった。これが昭公である。即位して二十五年、讒言を聞き入れて季氏を攻撃した。戦いに敗れ、出奔し、国外で死んだ。

襄公三十一年、衛の北宮文子が楚の令尹・圍の儀礼作法を見て、衛侯に言った。「令尹は君主のようで、別の野心を持っています。たとえその志を遂げても、最後まで保つことはできないでしょう。」公が言った。「どうして分かるのか。」答えて言った。「『詩経』に『威儀を敬慎すること、これ民の則なり』とあります。令尹に威儀がなければ、民は則とすべきものがありません。民が則としない者が民の上に立つことは、最後までできないのです。」

昭公十一年の夏、周の単子が戚で会合したとき、下を見つめ、言葉はゆっくりであった。晋の叔向が言った。「単子は死ぬだろう。朝には定まった位置があり、会合には目印があり、衣には襟の合わせ目があり、帯には結び目がある。会合や朝見での言葉は必ず目印の位置まで聞こえるようにし、それによって事の順序を明らかにする。視線は帯の結び目と襟の合わせ目の範囲を越えず、それによって容貌を整える。言葉で命じ、容貌でそれを明らかにし、それを失えば欠陥となる。今、単子は王官の長として、会合で事を命じているのに、視線は帯の高さに届かず、言葉は一歩の範囲を出ず、容貌は整っておらず言葉も明らかでない。整わず恭しさがなく、明らかでなく従順でない。守るべき気力がない。」十二月、単成公が卒去した。

昭公二十一年三月、蔡の平公を葬ったとき、蔡の太子の朱が位を失い、位は低い所にあった。魯の大夫で葬儀に参列した者が帰って昭子に告げた。昭子は嘆いて言った。「蔡は滅びるだろう。もし滅びなくても、この君は必ず最後まで在位できない。『詩経』に『位に懈らず、民の攸ける塈なり』とある。今、即位したばかりで低い所に就いたのだから、身もそれに従うだろう。」十月、蔡侯朱は楚に出奔した。

晋の 魏 舒が諸侯の大夫を翟泉に集め、成周を築城しようとした。魏子が政事に臨んだとき、衛の彪傒が言った。「天子のために築城するのに、位を易えて命令するのは、義ではない。大事が義に背けば、必ず大きな災いがある。晋が諸侯を失わなければ、魏子は免れないだろう。」このとき、魏献子は役事を 韓 簡子に任せ、自分は大陸で狩猟し、火災に遭って死んだ。

定公十五年、邾の隠公が魯に朝見し、玉を高く捧げ持ち、その顔は仰向いていた。定公が玉を受け取る時は低く、その顔はうつむいていた。子贛がこれを見て言った。「礼によって観ると、両君とも死と亡びがある。礼というものは、死生存亡の根本である。左右に周旋し、進退し俯仰することによって、それを見取る。朝見・祭祀・喪・軍事において、それを見るのである。今、正月に相朝見して、ともに法度をわきまえず、心はすでに亡びている。嘉事が根本をわきまえなければ、どうして長く続けようか。高く仰ぐのは驕り、低くうつむくのは廃退である。驕りは乱に近く、廃退は病に近い。君が主であるから、先に亡びるだろう。」

庶徴の恒雨について、劉歆は春秋の大雨であると考え、劉向は大水であると考えた。

隠公九年「三月癸酉、大雨、震電;庚辰、大雨雪」。大雨は雨水、震は雷である。劉歆は、三月癸酉は暦数では春分の翌日で、震電が始まる時であるから、雨はあっても大雨であるべきではないと考えた。大雨は、常雨の罰である。震電が始まって八日の間に大雪が降るのは、常寒の罰である。劉向は、周の三月は今の正月であり、雨水の時期で、雪が雨に混じり、雷電はまだ発するべきでないと考えた。すでに発したなら、雪は再び降るべきではない。すべて節度を失っているので、これを異と呼ぶのである。易では、雷は二月に現れ、その卦は と言い、万物が雷に従って地から出て、皆安楽であるという。八月に隠れ、その卦は帰妹と言い、雷が再び帰るという。地に入れば根や核を孕み育て、蟄虫を保蔵し、盛んな陰の害を避ける。地に出れば花や実を養い育て、隠れ伏したものを発揚し、盛んな陽の徳を宣べる。入れば害を除き、出れば利を興すのは、人君の象である。この時、隠公は弟の桓公が幼いため、代わって摂政として立った。公子の翬は隠公が位に居ること久しいのを見て、そのまま即位するよう勧めた。隠公が許さないと、翬は恐れて言葉を変え、ついに桓公と共に隠公を殺した。天はその将に然らんとするのを見て、故に正月に大雨水と雷電があった。これは陽が陰を閉じず、危難に陥って万物を害するためである。天の戒めは言う、君たるもの時を失い、賊弟と佞臣が乱を起こそうとしている、と。八日後に大雪が降ったのは、陰が隙間を見て陽に勝ち、 さん 殺の禍が成らんとしているためである。公は悟らず、後二年にして殺された。

昭帝の始元元年七月、大水が降り、七月から十月まで続いた。成帝の建始三年の秋、大雨が三十余日続き、四年九月には大雨が十余日続いた。

『左氏伝』によれば、愍公二年、晋の献公が太子申生に軍を率いさせた。公は申生に偏衣を着せ、金の玦を佩かせた。狐突は嘆いて言った。「時は事の徴であり、衣は身の章であり、佩は衷の旗である。故にその事を敬うならば、命を以て始めにし、その身を服するならば、衣を以て純なるものを着せ、その衷を用いるならば、佩を以て度あるものを佩かせる。今、命を以て時を卒えしめ、その事を閟し、衣を以て尨の服を着せ、その躬を遠ざけ、佩を以て金の玦を佩かせ、その衷を棄てる。服を以て遠ざけ、時を以て閟す。尨は涼しく、冬は殺伐とし、金は寒く、玦は離れる。どうして頼ることができようか!」梁餘子養は言った。「軍を率いる者は、廟で命を受け、社で脤(肉)を受け、常の服がある。得られずして尨である。命は知るべきである。死して不孝となるよりは、逃れるに如かず。」罕夷は言った。「尨は奇で常なく、金の玦は復らず。君に心あり。」四年後、申生は讒言によって自殺した。これは服妖に近い。

『左氏伝』に言う。鄭の子臧は鷸冠を集めることを好んだ。鄭の文公はこれを憎み、盗賊を使って彼を殺させた。劉向は、これは服妖に近いものと考えた。一説には、子臧自身だけではなく、文公への戒めでもあったという。初め、文公は晋の文公に礼を尽くさず、また天子の命に背いて滑を伐ち、上を尊び敬うことをしなかった。その後、晋の文公が鄭を伐ち、国を滅ぼす寸前になった。

昭帝の時、昌邑王の劉賀が中大夫を長安に遣わし、多く仄注冠を作らせ、大臣に賜い、また奴隷に冠らせた。劉向は、これは服妖に近いものと考えた。当時、王の賀は狂悖で、天子が病気であると聞いても、弋射や狩猟、馳騁を以前のように行い、騶(馬丁)や奴隷、宰人(料理人)と遊び戯れ、驕慢で敬うところがなかった。冠は尊い服であり、奴隷は賤しい者である。賀は理由なくして非常の冠を作ることを好み、尊い象を暴いたのである。奴隷に冠らせるとは、まさに至尊から賤に墜ちることを意味する。その後、帝が崩御し、子がなかったため、漢の大臣たちは賀を後嗣として迎えた。即位すると、狂乱で無道であり、諫める者である夏侯勝らを縛り上げて殺した。そこで大臣たちは皇太后に上奏し、賀を廃して庶人とした。賀が王であった時、また大白狗が方山冠をかぶり尾がないのを見た。これは服妖であり、また犬禍でもある。賀は郎中令の龔遂に尋ねた。遂は言った。「これは天の戒めで、側近の者がみな冠をかぶった狗であると言っているのです。これを去れば存続し、去らなければ滅亡します。」賀が廃されて数年後、宣帝は彼を列侯に封じたが、また罪を犯し、死後は後継ぎを立てることが許されなかった。これもまた犬禍で尾がないことの効験である。京房の『易伝』に言う。「行いが順でないと、その咎は人の奴隷が冠をかぶることとなり、天下は乱れ、君主には嫡子がなく、妾の子が拝する。」また言う。「君が正しくないと、臣は 簒奪 さんだつ を欲し、その妖は狗が冠をかぶって朝門から出る。」

成帝の鴻嘉・永始の間、微行して出遊することを好み、従う者として期門郎の中から材力のある者や、私的な奴隷や客を選び、多い時は十余り、少ない時は五、六人で、皆白衣に袒幘(帽子)を着け、刀剣を帯び持った。ある時は小さな車に乗り、御者が茵(敷物)の上に座り、ある時は皆騎馬で、市里や郊野に出没し、遠くは隣県まで行った。当時、大臣の車騎将軍王音や劉向らがたびたび切に諫めた。谷永は言った。「『易』に『臣を得て家無し』と称するのは、王者は天下を臣とし、私的な家を持たないということを言うのです。今、陛下は万乗の至貴を棄て、家人の賤事を楽しみ、高美の尊称を厭い、匹夫の卑字を好み、軽薄で無誼な者を崇め集めて私客とし、民間に私田を設け、北宮に私的な奴隷や車馬を蓄え、たびたび南面の尊さを去り、深宮の堅固さを離れ、身を挺してただ小人と朝夜相随い、烏のように集まって吏民の家で酔い飽き、乱れた服装で共に座り、肴が入り混じって区別がなく、楽しみにふけって昼夜を道で過ごしておられます。門戸を司り宿衛を奉ずる臣は干戈を執って空宮を守り、公卿百官は陛下のおられる所を知らず、すでに数年になります。昔、虢公が無道であった時、神が降りて『爾に土田を賜う』と言いました。これは庶人として土田を受けることを意味します。諸侯が夢で土田を得るのは、国を失う兆しです。ましてや王者が私的な田や財物を蓄え、庶人のことをなすなどということがありましょうか!」

『左氏伝』に言う。周の景王の時、大夫の賓起が雄鶏が自らその尾を断つのを見た。劉向は、これは鶏禍に近いと考えた。この時、王には愛子の子晁がおり、王は賓起と陰謀を巡らせて彼を立てようとした。北山で狩りをし、兵衆を用いて嫡子の党を殺そうとしたが、その前に王は崩御した。三人の子が国を争い、王室は大乱した。その後、賓起は誅殺され、子晁は楚に奔って敗れた。京房の『易伝』に言う。「始めあって終わり無きは、その妖は雄鶏が自らその尾を噛み断つ。」

宣帝の黄龍元年、未央殿の輅軨(車庫)の中の雌鶏が雄に化した。羽毛は変化したが鳴かず、群れを率いず、距(蹴爪)もなかった。元帝の初元年間、丞相府の史の家の雌鶏が雛を抱いていたが、次第に雄に化し、冠と距が生え、鳴いて群れを率いた。永光年間、雄鶏が角を生やしているものを献上した者がいた。京房の『易伝』に言う。「鶏は時を知る。時を知る者は当に死すべきである。」房は自分が時を知っているので、恐らく自分に当たるだろうと思った。劉向は、房は鶏の占いを誤っていると考えた。鶏は小畜で、時を司り、人の起居に関わり、小臣が政事を執る象である。小臣が将に君の威を秉り、正しい事を害することを言う。石顕のような者である。竟寧元年、石顕が罪に伏した。これがその効験である。一説には、石顕ごときがどうしてこれに当たりえようか。昔、武王が殷を伐ち、牧野に至った時、師を誓って言った。「古人に言う『牝鶏は晨を告げず。牝鶏が晨を告げれば、惟れ家の索びるのみ』と。今、殷の王紂は惟れ婦人の言を用いる。」これによって論ずれば、黄龍、初元、永光の鶏の変異は、国家の占いであり、妃后の象である。孝元王皇后は甘露二年に男児を生み、太子に立てられた。妃は王禁の娘である。黄龍元年、宣帝が崩御し、太子が立ち、これが元帝である。王妃が将に皇后となろうとしたので、この歳に未央殿中の雌鶏が雄となった。その占いが正宮にあることを明らかにしたのである。鳴かず、群れを率いず、距がないのは、貴さが萌し始めたが、尊さが未だ成っていないことである。元帝の初元元年に至り、王皇后を立てようとして、先に婕妤とした。三月癸卯の制書に言う。「其れ婕妤の父、丞相少史の王禁を陽平侯に封じ、位は特進とせよ。」丙午、王婕妤を皇后に立てた。翌年正月、皇后の子を太子に立てた。故にこれに応じて、丞相府の史の家の雌鶏が雄となった。その占いは即ち丞相少史の娘である。雛を抱くのは、既に子があることを明らかにする。冠と距が生え、鳴いて群れを率いるのは、尊さが既に成ったことである。永光二年、陽平頃侯の王禁が薨じ、子の王鳳が侯を嗣ぎ、侍中衛尉となった。元帝が崩御し、皇太子が立ち、これが成帝である。皇后を尊んで皇太后とし、后の弟の王鳳を大司馬大将軍とし、尚書事を領させた。上は政を委ね、関与しなかった。王氏の権勢は王鳳から始まった。故に王鳳が爵位を受け始めた時、雄鶏に角があった。威を作し、君を専断し、上を害し、国を危うくする者は、この人から始まることを明らかにしたのである。その後、群弟が代々権力を握り、王莽に至って遂に天下を 簒奪 さんだつ した。即位して五年、王太后がようやく崩御した。これがその効験である。京房の『易伝』に言う。「賢者が明夷の世に居り、時を知って傷つく。あるいは衆が位に在り、その妖は鶏が角を生ず。鶏が角を生ずるは、時の主が独りである。」また言う。「婦人が政を専断すれば、国は静かでなく、牝鶏が雄のように鳴けば、主は栄えない。」故に房は自分もまたこの占いの中に在ると考えたのである。

成公七年「正月、鼷鼠が郊牛の角を食った。牛を改めて卜して選んだが、またその角を食った」。劉向は、これは青祥に近く、また牛禍でもあると考え、不敬で蒙昧であることによって招かれたものとした。昔、周公が礼楽を制定し、周の道を完成させたので、成王は魯に天地を郊祀することを命じ、周公を尊んだ。成公の時代になると、三家(季孫氏・叔孫氏・孟孫氏)が初めて政権を専断し、魯はこれから衰退しようとしていた。天は周公の徳を哀れみ、魯が敗亡の禍いをこうむろうとしていることを痛み、郊祭において戒めを示したのである。鼠は小虫で、盗みを性とし、鼷鼠はその中でもさらに小さいものである。牛は大きな家畜で、天を祭る尊い供物である。角は兵の象徴で、上にあるものは君主の威厳である。小さな鼷鼠が、最も尊い牛の角を食うというのは、季氏のような陪臣の盗人(権力を窃取する者)が、国命を執って君主の威厳を傷つけ、周公の祭祀を害そうとする象徴である。牛を改めて卜して選んだのに、鼷鼠がまたその角を食ったのは、天が重ねて警告したのである。成公は怠慢で昏乱であり、ついに君臣ともに晋に捕らえられることとなった。襄公の時代に至ると、晋が溴梁で会盟を開き、天下の大夫たちが皆、君主の政権を奪った。その後、三家が昭公を追放し、昭公はついに国外で死に、周公の祭祀はほとんど絶えるところであった。董仲舒は、鼷鼠が郊牛を食うのは、皆、生贄の牛を養うのに謹んでいなかったためであると考えた。京房の易伝に言う。「天を祭るのに慎まないと、その妖として鼷鼠が郊牛の角をかじる」。

定公十五年「正月、鼷鼠が郊牛を食い、牛が死んだ」。劉向は、定公は季氏が昭公を追放した罪悪があのようなものであることを知りながら、親しく孔子を用いて夾谷の会を開き、斉人が鄆・讙・亀陰の田を返還してきたという聖徳があるのに、かえって季桓子を用い、女楽にふけり、孔子を退けたのは、無道の極みであると考えた。『詩経』に言う。「人として儀礼がなければ、死なずしてどうするというのか!」この年の五月、定公が 薨去 こうきょ したのは、牛が死んだことの応報である。京房の易伝に言う。「子が子たることをせず、鼠がその郊牛を食う」。

哀公元年「正月、鼷鼠が郊牛を食った」。劉向は、天の意思が聖人(孔子)を用いて三家を追い出すことを切に望んでおり、故に再び戒めを示したのだと考えた。哀公は年少で、昭公の時のことを自ら見ておらず、故に敗亡の異変を示されたのである。その後、哀公は悟らず、自ら越へと奔った。これがその効験である。

昭帝の元鳳元年九月、燕に黄鼠がその尾をくわえて王宮の端門の中で舞うことがあった。王(燕剌王劉旦)が見に行くと、鼠は相変わらず舞っていた。王が役人に酒と干し肉を供えて祀らせたが、鼠は舞いをやめず、一日一夜で死んだ。これは黄祥に近く、当時、燕剌王劉旦が謀反を企ててまさに死のうとしている象徴であった。その月、発覚して誅殺された。京房の易伝に言う。「誅罰が実情を考慮しないと、その妖として鼠が門で舞う」。

成帝の建始四年九月、長安城南に鼠が黄蒿や柏の葉をくわえ、民の墓の柏や楡の木の上に巣を作り、桐柏(木の名か地名)に特に多かった。巣の中には子はおらず、皆、乾いた鼠の糞が数十個あった。当時、議臣たちは水害が起こる恐れがあると考えた。鼠は盗みを働く小虫で、夜に出て昼は隠れるものである。今、昼間に穴を離れて木に登るのは、賤しい者が顕貴の位につこうとする象徴である。桐柏は、衛思后(孝武衛皇后)の園があった場所である。その後、趙皇后(孝成趙皇后)が微賤から至尊の位に登ったが、衛后と同類である。趙后はついに子がなく、害をなした。翌年、鳶が巣を焼き子を殺すという異変があった。天の象徴が重なって現れたのは、非常に畏るべきことである。一説には、皆、王莽が帝位を窃取する象徴であるという。京房の易伝に言う。「臣が私的に禄を貪り、君を無視すると、その妖として鼠が巣を作る」。

文公十三年、「大室の屋が壊れた」。これは金が木を害する(金沴木)に近く、木が動く(=建築物に異変が起こる)ことである。これに先立って、冬に釐公が 薨去 こうきょ し、十六ヶ月経ってから主(木主、位牌)を作った。その後六月、また太廟で吉禘(三年喪明けの大祭)を行い釐公を合祀したが、『春秋』はこれを非難している。経文に言う。「大事を太廟に行い、釐公を 躋 せた」。左氏の説によれば、太廟は周公の廟で、礼義をもって饗されるものである。祀りは国の大事である。太廟において国の大事を乱すのを憎んで、あえて「大事」と言ったのである。「躋」は登ることで、釐公を愍公の上に登らせたのは、順序を逆にした祭祀である。釐公は愍公の庶兄ではあるが、かつて愍公の臣であった。臣と子は同じ扱いであり、愍公の上に置くことはできない。また、三年経たないうちに吉禘を行ったのは、前後して賢父(釐公)と聖祖(周公)に対する大礼を乱したものであり、内には貌不恭(外見が不敬)で狂い、外には言不従(言葉に従わない)で僭上(身分を越える)である。故にこの年は十二月から雨が降らず、秋七月まで続いた。翌年以降も、同様のことが三度あり、そして太室の屋が壊れたのである。前の堂を太廟といい、中央を太室という。屋とは、その上の重層になった屋根で、尊く高いものである。これは魯がこれから衰微し、周公の祭祀が堕ちようとする象徴である。穀梁伝・公羊伝の経文には「世室」とあり、これは魯公伯禽の廟である。周公の廟は太廟といい、魯公の廟は世室という。「大事」とは、祫祭(合祭)のことである。「釐公を躋す」とは、父(禰)を先にし祖を後にするということである。

景帝三年十二月、呉の二つの城門が自然に傾き、大船が自然に覆った。劉向は、これは金が木を害する(金沴木)に近く、木が動く(=建築物・船に異変が起こる)ことであると考えた。これに先立って、呉王劉濞は太子が漢で死んだことを理由に、病気と称して朝貢せず、密かに楚王劉戊と謀って逆乱を企てていた。城は国に譬えられる。その一門は楚門といい、もう一門は魚門といった。呉の地では船を家とし、魚を食料としていた。天の戒めは言う、「楚と謀ることは、国を傾け家を覆すことである」と。呉王は悟らず、正月に楚とともに兵を起こし、身は死に国は滅んだ。京房の易伝に言う。「上下ともに道理に背くと、その妖として城門が壊れる」。

宣帝の時、大司馬霍禹の住む邸宅の門が自然に壊れた。当時、霍禹は内(私心)には順ならず、外(公の場)には敬わず、戒めを見ても改めず、ついに滅亡の誅罰を受けた。

哀帝の時、大司馬董賢の邸宅の門が自然に壊れた。当時、董賢は私的な寵愛によって高位に居り、賞賜は度を超え、驕慢で不敬であり、臣としての道を大きく失い、戒めを見ても改めなかった。後に董賢は夫妻で自殺し、家族は合浦に流された。

言うことに従わない(言不従)ことから起こる(災異)。

伝に曰く、「言うこと従わざるは、是れを不乂と謂い、厥の咎は僭、厥の罰は恒陽、厥の極は憂。時に則ち詩妖有り、時に則ち介蟲の孽有り、時に則ち犬禍有り、時に則ち口舌の痾有り、時に則ち白眚白祥有り。惟れ木金を沴す」と。

「言うこと従わざる」とは、従うとは順うことである。「是れを不乂と謂う」とは、乂とは治めることである。孔子は言われた、「君子がその室に居て、その言を出すに善からざれば、則ち千里の外も之に違う、況んやその邇き者をや!」と。『詩経』に云う、「蜩の如く螗の如く、沸くが如く羹の如し」と。上たる者の号令が民心に順わず、虚しく喧嘩し乱れ憒れば、則ち海内を治めることができず、過差に失する故に、その咎は僭である。僭とは差である。刑罰を妄りに加えれば、群陰は附かず、則ち陽気が勝つ。故にその罰は常に陽である。旱魃が百穀を損ねれば、則ち寇難有り、上下ともに憂う。故にその極は憂である。君が陽を炕りて暴虐であれば、臣は刑を畏れて口を柑ぐ。則ち怨謗の気が歌謠に発する。故に詩妖有り。介蟲の孽とは、小蟲で甲有り飛揚するの類を謂い、陽気の生ずる所である。春秋においては螽と為し、今これを蝗と謂う。皆その類である。易において、兌は口と為す。犬は吠えて守るが、信ずべからず。言気毀つる故に犬禍有り。一に曰く、旱歳には犬多く狂い死にし、また怪と為す。これもまた然りである。人に及べば、則ち口喉欬を病む者多し。故に口舌の痾有り。金色は白い。故に白眚白祥有り。凡そ傷と言うは、金気を病む。金気病めば、則ち木之を沴す。その極は憂である。これに順えば、その福を康寧と曰う。劉歆は伝に言う、時に毛蟲の孽有りと。説いて以て為すに、天文において西方の参は虎星と為す。故に毛蟲と為す。

史記に、周の単襄公が晋の郤錡、郤犨、郤至、斉の国佐と語り、魯の成公に告げて言うには、「晋に乱有らんとす。三郤その之に当たらんか!夫れ郤氏は、晋の寵人なり。二卿にして五大夫、以て戒懼すべし。高位は実に疾く顛り、厚味は実に腊毒なり。今郤伯の語は犯し、叔は迂し、季は伐つ。犯すは則ち人を陵ぎ、迂するは則ち人を誣い、伐つは則ち人を掩う。是の寵有りて、之に三怨を益す。其れ誰か能く之を忍ばんや!斉の国子も亦将に与からんとす。淫乱の国に立ちて、好んで尽言を以て人の過ちを招くは、怨の本なり。唯だ善人のみ能く尽言を受く。斉に其れ有らんや?」と。十七年、晋は三郤を殺す。十八年、斉は国佐を殺す。凡そ此の属は、皆言の従わざるの咎を云う。

晋の穆侯は条の役に太子を生み、之を名づけて仇と曰う。その弟は千畝の戦いに生まれ、之を名づけて成師と曰う。師服曰く、「異なるかな、君の子を名づくるや!夫れ名は以て誼を制し、誼は以て礼を出だし、礼は以て政を体し、政は以て民を正す。是を以て政成りて民聴く。易えば則ち乱を生ず。嘉耦を妃と曰い、怨耦を仇と曰う。古の命なり。今君、太子を名づけて仇と曰い、弟を成師と曰う。始めて乱を兆す。兄其れ替らんか!」と。仇の嗣ぎ立つに及び、是を文侯と為す。文侯卒し、子の昭侯立つ。成師を曲沃に封じ、号して桓叔と曰う。後、晋人昭侯を殺して桓叔を納るるも、克たず。復た昭侯の子の孝侯を立てる。桓叔の子の厳伯之を殺す。晋人其の弟の鄂侯を立てる。鄂侯哀侯を生む。厳伯の子の武公復た哀侯及び其の弟を殺し、之を滅ぼして、代わりて晋国を有つ。

宣公六年、鄭の公子曼満が王子伯廖と語り、卿たらんと欲す。伯廖人に告げて曰く、「徳無くして貪る。其れ周易の豊の離に在り。之を過ぎざるのみ」と。一年を間てて、鄭人之を殺す。

襄公二十九年、斉の高子容と宋の 司徒 しと が晋の知伯に会い、汝斉が礼を相ける。賓出でて、汝斉知伯に語りて曰く、「二子皆将に免れざらん!子容は専なり、 司徒 しと は侈なり。皆亡家の主なり。専なれば則ち速やかに及び、侈なれば則ち其の力を以て敝れん。専なれば則ち人実に之を敝す。将に及ばん」と。九月、高子燕に奔る。

襄公三十一年正月、魯の穆叔が晋に会して帰り、孟孝伯に告げて曰く、「趙孟将に死せん!其の語は偷く、民主に似ず。且つ年未だ五十に盈たざるに、諄諄として八九十の者の如し。久しうすること能わざるなり。若し趙孟死せば、政を為す者は其れ韓子か?吾子何ぞ季孫と之を言わざる?以て善を樹つるべし。君子なり」と。孝伯曰く、「民生幾何ぞ、誰か能く偷く毋からん!朝に夕に及ばず。将に焉んぞ用て樹てん!」と。穆叔人に告げて曰く、「孟孫将に死せん!吾趙孟の偷きを諸に語るに、而して又甚だし」と。九月、孟孝伯卒す。

昭公元年、周は劉定公を使わして晋の趙孟を労わしむ。因りて曰く、「子弁冕を以て諸侯に臨む。何ぞ亦た遠く禹の功を績ぎ、而して大いに民を庇わざる?」と。対えて曰く、「老夫は罪戾を是れ懼る。焉んぞ能く遠きを恤えん?吾儕は食を偷み、朝に夕を謀らず。何ぞ其れ長からん?」と。劉子帰り、以て王に語りて曰く、「諺に所謂る老将に知りて耄之に及ぶ者は、其れ趙孟を謂うか!晋の正卿と為りて以て諸侯を主とし、而して隷人に儕し、朝に夕を謀らず。神人を棄つ。神怒り民畔く。何を以て能く久しからん?趙孟復た年せざるなり!」と。是の歳、秦の景公の弟の后子が晋に奔る。趙孟問う、「秦君何如?」と。対えて曰く、「道無し」と。趙孟曰く、「亡びんか?」と。対えて曰く、「何を為さん?一世道無くとも、国未だ艾まず。国は天地に於いて、与に立つ者有り。数世淫らざれば、能く敝れず」と。趙孟曰く、「天か?」と。対えて曰く、「

有り」と。趙孟曰く、「其れ幾何ぞ?」と。対えて曰く、「鍼聞く、国道無くして年穀和孰すれば、天の之を賛するなり。鮮なくして五稔ならず」と。趙孟蔭を視て曰く、「朝夕相及ばず。誰か能く五を待たん?」と。后子出でて人に告げて曰く、「趙孟将に死せん!民を主として歳を玩び日を愒う。其れ幾何ぞ与にせん?」と。冬、趙孟卒す。昭公五年、秦の景公卒す。

昭公元年、楚の公子囲が会盟し、服を設け衛を離す。魯の叔孫穆子曰く、「楚の公子美しいかな君なるかな!」と。伯州犁曰く、「此の行は、辞して之を寡君に仮るなり」と。鄭の行人子羽曰く、「仮にして反らず」と。伯州犁曰く、「子姑く子晢の背誕せんと欲するを憂えよ」と。子羽曰く、「仮にして反らず、子其れ憂え無からんか?」と。斉の国子曰く、「吾二子に代わりて閔れむ」と。陳の公子招曰く、「憂えずんば何をか成さん?二子楽しむかな!」と。衛の斉子曰く、「苟も或いは之を知らば、憂うと雖も害無し」と。会を退きて、子羽人に告げて曰く、「斉・衛・陳の大夫其れ免れざらんか!国子は人に代わりて憂え、子招は憂えを楽しみ、斉子は憂うと雖も害無し。夫れ及ばずして憂うる、与憂うべくして楽しむ、与に憂うるも害無きは、皆憂えを取るの道なり。太誓に曰く、『民の欲する所、天必ず之に従う』と。三大夫憂えを兆す。能く至らざらんや!言を以て物を知る。其れ是れ之を謂うか」と。

昭公十五年、晋の籍談が周に赴き穆后の葬儀に参列した。喪が明けて宴が催されると、王が言った。「諸侯は皆、王室を鎮め慰撫するための貢ぎ物を持ってくるのに、晋だけは何も持ってこない。どういうわけか。」籍談が答えて言った。「諸侯が封じられた時、皆、王室から明器(祭器)を授かりました。それ故に彝器(礼器)を献上できるのです。晋は深山にあり、戎や翟と隣り合っており、戎に気を遣うのに手いっぱいで、どうして器物を献上できましょうか。」王は言った。「叔氏(籍談の一族)はそれを忘れたのか。叔父である唐叔は、成王の同母弟であった。それなのに、分け前がないというのか。昔、そなたの高祖は晋の典籍を司り、大正(官職名)となった。それ故に籍氏と称したのだ。そなたは典籍を司る者の末裔である。どうしてそれを忘れるのか。」籍談は答えることができなかった。賓客が退出すると、王は言った。「籍父(籍談)は後継ぎが絶えるだろう。典拠を数え上げながら、自分の祖先を忘れている。」籍談が帰国し、このことを叔嚮に話すと、叔嚮は言った。「王はその身を全うしないだろう。私が聞くところでは、楽しみとすることは必ずその事柄で終わるという。今、王は憂い事を楽しんでいる。もし憂い事で終わるならば、全うしたとは言えない。王は一年のうちに三年の喪が二つある(穆后と太子寿の死)。そのような時に、喪中の賓客を招いて宴を催し、さらに彝器を求めるとは、憂い事を楽しむこと甚だしい。三年の喪は、たとえ身分が高くても服喪を全うするのが礼である。王は服喪を全うしなかったとしても、宴楽は早すぎた。礼は、王の大いなる規範である。一つの行動で二つの礼を失った。大いなる規範がないのである。言葉は典拠を考証するためにあり、典拠は規範を記録するためにある。規範を忘れて多くを語り典拠を挙げても、何の役に立とうか。」

哀公十六年、孔丘(孔子)が亡くなった。哀公が誄を述べて言った。「昊天は哀れみ給わず、一人の長老を残し給わず、私一人を守る者を失わせた。」子贛(しこう、子貢)が言った。「君主は魯でその生涯を終えられないでしょう。夫子(孔子)はこう言われました。『礼を失えば昏くなり、名を失えば過ちを犯す。』志を失うことが昏さであり、言うべきことを失うことが過ちです。生きている時に用いることができず、死んでから誄を述べるのは、礼に合いません。『予一人』と称するのは、名分に合いません。君主はこの二つを失われました。」二十七年、哀公は邾に逃亡し、ついに越で亡くなった。

庶徴(天の徴候)のうち常に陽気が盛んなこと(恒陽)について、劉向は『春秋』の大旱魃のことであると考えた。夏に旱魃があり雩の祭祀を行うことを、大雩と言う。二穀(主な穀物)を損なわない旱魃を、不雨と言う。京房の『易伝』に言う。「徳を用いようと欲しないことを張と言い、その災いは荒である。荒とは旱魃である。その旱魃は陰雲があっても雨が降らず、変化して赤くなり、それによって除かれる。軍を出すのに時期を過ぎることを広と言い、その旱魃では草木が生えない。上下共に蔽われることを隔と言い、その旱魃では天が赤く三月続き、時に雹が降って飛ぶ鳥を殺す。上(君主)が妃を求めて縁を結ぶことを僭と言い、その旱魃では三月間大いに暖かく雲がない。高い台や府中に居ることを犯陰侵陽と言い、その旱魃では万物の根が枯れ死に、しばしば火災がある。庶民の位が節を越えることを僭と言い、その旱魃では水辺の物が枯れ、火によって傷つけられる。」

釐公二十一年「夏、大旱」。董仲舒と劉向は、斉の威公(桓公)が既に死に、諸侯が楚に従い、釐公は特に楚の歓心を得たと考えた。楚が戦利品を献上しに来て、宋の捕虜を釐公に与えた。外では強国楚に頼り、陽気を高めて(驕って)民衆を失い、さらに南門を造営し、民を労して役事を起こした。諸々の旱魃や雨が降らないことについて、おおよそ皆同じ説である。

宣公七年「秋、大旱」。この夏、宣公は斉侯と共に萊を討った。

襄公五年「秋、大雩」。この前に宋の魚石が楚に奔り、楚が宋を討ち、彭城を取って魚石に封じた。鄭が中原諸国に背いて楚に附いた。襄公は諸侯と共に彭城を包囲し、鄭の虎牢に城を築いて楚に備えた。この年、鄭伯が公子発を使者として来聘させ、大夫をして善道で呉と会盟させた。外では二国と結び、内では鄭の来聘を得た。陽気を高めて(驕って)民衆を動かす兆しがあった。

八年「九月、大雩」。この時、三軍を編成し、季氏が盛んになった。

二十八年「八月、大雩」。この前に、数年続けて晋が荀呉を、斉が慶封を来聘させた。この夏、邾子が来朝した。襄公に陽気を高めて(驕って)自ら大いなる兆しがあった。

昭公三年「八月、大雩」。劉歆は、昭公が即位した時十九歳であったが、なお童心があり、喪に居ても哀しまず、陽気を高めて(驕って)民衆を失ったと考えた。

六年「九月、大雩」。この前に莒の牟夷が二つの邑を率いて魯に奔った。莒は怒って魯を討ち、叔弓が軍を率いて防戦し、これを破った。昭公は晋に入ることができた。外では大国と和し、内では二邑を得て、隣国に勝利した。陽気を高めて(驕って)民衆を動かす兆しがあった。

十六年「九月、大雩(雨乞いの儀式)が行われた」。これに先立って昭公の母である夫人の帰氏が 薨去 こうきょ したが、昭公は悲しみの色を示さず、また比蒲で大規模な狩猟を行った。晋の叔嚮は言った。「魯には大喪があるのに狩猟を廃止しない。国が喪に哀しまないのは、君主を畏れないからである。君主に悲嘆の容色がないのは、親を顧みないからである。おそらく国を失うだろう」。三年の占いと同じである。

二十四年「八月、大雩が行われた」。劉歆は、左氏伝に二十三年に邾の軍が翼を城した後、帰途魯の地を通りかかった際、魯が邾軍を襲撃してその三大夫を捕らえたとあることによる。邾人は晋に訴え、晋人は我が国の行人(外交官)である叔孫婼を拘束し、この春になってようやく帰した。

二十五年「七月の上辛(最初の辛の日)に大雩を行い、季辛(最後の辛の日)にまた雩を行った」。旱魃が甚だしかったからである。劉歆は、当時后氏と季氏の間に確執があったことによる。また季氏の一族に淫らな妻が讒言を行い、季平子と族人を互いに憎悪させ、皆が共に平子を讒訴した。子家駒が諫めて言った。「讒言する者が君の不運を幸いとするのは、良くない」。昭公はついに季氏を討伐したが、敗れて斉に出奔した。

定公十年「九月、大雩が行われた」。これに先立って定公自ら軍を率いて鄭を侵し、帰還して中城を築城した。二人の大夫が軍を率いて鄆を包囲した。

厳公三十一年「冬、雨が降らなかった」。この年、一年のうちに三度も台を築き、奢侈にふけって民を顧みなかった。

釐公二年「冬十月、雨が降らなかった」。三年「春正月、雨が降らず、夏四月、雨が降らず」、「六月に雨が降った」。これに先立って、厳公の夫人が公子の慶父と淫通し、二人の君主を殺害した。国人が彼らを攻撃し、夫人は邾に逃れ、慶父は莒に奔った。釐公が即位すると、南で邾を破り、東で莒を破り、その大夫を捕らえた。旱陽の応報があった。

文公二年、「十二月から雨が降らず、秋七月に至った」。文公が即位すると、天子(周王)が叔服を遣わして葬儀に参列させ、毛伯に命(爵位の承認)を賜わせた。また戚で晋侯と会合した。公子遂が斉に赴いて納幣(のうへい、婚礼の贈り物)した。また諸侯と盟を結んだ。上は天子の信任を得、外には諸侯を得て、沛然として自ら大いなるものとし、釐公の神主を先祖の廟に昇格させて合祀した。大夫が初めて専断を行った。

十年、「正月から雨が降らず、秋七月に至った」。これに先立って公子遂が四国と会合して鄭を救援した。楚が越椒を遣わして来聘した。秦人が死に装束(襚)を贈ってきた。旱陽の応報があった。

十三年、「正月から雨が降らず、秋七月に至った」。これに先立って曹伯、杞伯、滕子が来朝し、郕伯が亡命して来奔し、秦伯が遂を遣わして来聘し、季孫行父が諸及び鄆を築城した。二年の間に、五国がこれに趨き、国内で二邑を城した。旱陽で衆を失った。一説には、雨が降らないのに五穀が皆熟したのは、異変である。文公の時、大夫が初めて盟会を専断し、公孫敖が晋侯と会し、また垂隴で諸侯と盟を結んだ。故に雨が降らないのに作物が生育したのは、陰気が気を出さずに私的に行われることで、施しが上から出ず、臣下が福を作り私的に成し遂げることを象徴している。一説には、雨が降らないのは常に陰気の罰に近く、君主が弱いためである。

恵帝五年夏、大旱魃となり、江河の水が少なくなり、谿谷の流れが絶えた。これに先立って民の男女十四万六千人を徴発して長安を築城し、この年に城が完成した。

文帝三年の秋、天下は旱魃に見舞われた。この年の夏、匈奴の右賢王が上郡に侵入し、 詔 により丞相の灌嬰が車騎と材官八万五千人を発して高奴に赴き、右賢王を撃って塞外に敗走させた。その秋、済北王の劉興居が反乱を起こし、大将軍を派遣してこれを討伐し、皆誅殺された。

後六年の春、天下は大いに旱魃に見舞われた。これに先立って車騎と材官を発して広昌に駐屯させており、この年の二月に再び材官を発して隴西に駐屯させた。その後、匈奴が大挙して上郡・雲中に侵入し、烽火が長安まで通じ、三将軍が辺境に駐屯し、また三将軍が京師に駐屯した。

景帝の中三年の秋、大旱魃があった。

武帝の元光六年の夏、大旱魃があった。この年、四将軍が匈奴を征討した。

元朔五年の春、大旱魃があった。この年、六将軍が兵十余万を率いて匈奴を征討した。

元狩三年の夏、大旱魃があった。この年、天下の旧官吏を発して上林苑の棘を伐採させ、昆明池を穿った。

天漢元年の夏、大旱魃があった。その三年の夏、大旱魃があった。これに先立って貳師将軍が大宛を征討して帰還した。天漢元年には、謫民(流刑の民)を徴発した。二年の夏、三将軍が匈奴を征討し、李陵が敗れて帰還しなかった。

征和元年の夏、大旱魃があった。この年、三輔の騎士を発して長安の城門を閉ざし、大規模な捜索を行い、初めて巫蠱の罪を裁いた。翌年、衛皇后と太子が敗れた。

昭帝の始元六年、大旱魃があった。これに先立って大鴻 臚 の田広明が益州を征討し、軍隊を長年野戦に曝していた。

宣帝の本始三年の夏、大旱魃があり、東西数千里に及んだ。これに先立って五将軍が兵二十万を率いて匈奴を征討した。

神爵元年(前61年)の秋、大旱魃があった。この年、後将軍の趙充国が西 きょう を征討した。

成帝の永始三年(前14年)、四年(前13年)の夏、大旱魃があった。

『左氏伝』によると、晋の献公の時代の童謡にこうある。「丙の晨、龍尾辰に伏し、袀服振振たり、虢の旂を取らん。鶉の賁賁たり、天策焞焞たり、火中に軍を成し、虢公其れ奔せん」。この時、虢は小国で、夏陽の険しい地にあり、虞国の援助を頼みとして、晋に対抗していた。陽気を高ぶらせるような節度を持ち、臣下の心を失っていた。晋の献公がこれを討伐しようとした時、卜偃に問うて言った。「私は成功するだろうか」。偃は童謡をもって答えて言った。「お勝ちになります。十月の朔日丙子の朝、日は尾宿にあり、月は策星にあり、鶉火星が南中します。必ずこの時です」。冬十二月丙子の朔日、晋軍は虢を滅ぼし、虢公の醜は周に逃げた。周の十二月は、夏の十月である。天のことを言う者は夏の暦を用いる。

『史記』によると、晋の恵公の時代の童謡にこうある。「恭太子更び葬らる兮、後十四年、晋亦昌えず、昌は乃ち其の兄に在り」。この時、恵公は秦の力を頼んで立つことができたが、立つと秦に背き、国内で二人の大夫を殺したので、国人は喜ばなかった。また、その兄である恭太子の申生を改葬したが敬意を払わなかったので、詩妖が起こったのである。後に秦と戦い、秦に捕らえられ、立ってから十四年で死んだ。晋人は彼を絶ち、さらにその兄の重耳を立てた。これが文公であり、遂に諸侯の覇者となった。

左氏伝の文公・成公の時代の童謡にこうある。「鴝之鵒之、公出でて之を辱しむ。鴝鵒の羽、公は外野に在り、往きて之に馬を饋る。鴝鵒跦跦たり、公は乾侯に在り、褰と襦を徴む。鴝鵒の巣、遠かなり搖搖たり、裯父喪びて労し、宋父以て驕る。鴝鵒鴝鵒、往くは歌し来るは哭す」。昭公の時代になると、鴝鵒が来て巣を作った。公は季氏を攻撃したが敗れ、斉に出奔し、外野に住み、次いで乾侯に滞在した。八年後、国外で死に、魯に帰って葬られた。昭公の名は裯である。公子の宋が立った。これが定公である。

元帝の時代の童謡にこうある。「井水溢れ、灶煙を滅し、玉堂を灌ぎ、金門に流る」。成帝の建始二年(前31年)三月戊子に至り、北宮の中の井泉が次第に上昇し、溢れ出て南に流れた。これは春秋の時代に先に鴝鵒の謡があり、その後、来巣の証拠があったのと同じ象徴である。井水は陰である。灶煙は陽である。玉堂・金門は至尊(天子)の居所である。陰が盛んになって陽を滅ぼす象徴であり、ひそかに宮室に関する応報があるのである。王莽は元帝の初元四年(前45年)に生まれ、成帝の時代に侯に封ぜられ、三公として政務を補佐し、ついに帝位を 簒奪 さんだつ した。

成帝の時代の童謡にこうある。「燕燕尾龚龚、張公子、時相見う。木門倉琅根、燕飛来し、皇孫を啄み、皇孫死し、燕矢を啄む」。その後、帝は微行して出遊し、常に富平侯の張放とともに富平侯の家人と称し、河陽主のところに行って楽しみ、舞姫の趙飛燕を見て寵愛した。故に「燕燕尾龚龚」とは、美しい姿の形容である。「張公子」とは富平侯を指す。「木門倉琅根」とは宮門の銅環を指し、尊貴になろうとすることを言う。後に遂に皇后に立てられた。弟の昭儀が後宮の皇子を害したが、ついに皆罪に伏した。いわゆる「燕飛来し、皇孫を啄み、皇孫死し、燕矢を啄む」というものである。

成帝の時代の歌謡にまたこうある。「邪径良田を敗り、讒口善人を乱す。桂樹華実を結ばず、黄爵其の顛に巣くう。故人の羨む所と為り、今人の憐れむ所と為る」。桂は赤色で、漢王朝の象徴である。華が実を結ばないのは、後継ぎがないことである。王莽は自ら黄の象徴と称し、黄爵がその頂上に巣くうのである。

厳公十七年(前677年)「冬、麋多し」。劉歆は毛虫の孽が災いとなったと考えた。劉向は麋の色は青く、青祥に近いと考えた。麋という言葉は迷うという意味で、おそらく牝獣の淫らなものである。この時、厳公は斉の淫らな女を娶ろうとしていた。その象徴が先に現れ、天の戒めはこう言うようであった。斉の女を娶るな、淫らで国を迷わすであろうと。厳公は悟らず、遂に彼女を娶った。夫人が入ると、二人の叔父と淫らな関係を持ち、結局皆誅殺され、 社稷 しゃしょく を滅ぼすところであった。董仲舒の指摘もほぼ同じである。京房の易伝に言う。「正しきを廃し淫らなるを行えば、大いに明らかならず、国に麋多し」。また言う。「震遂に泥す、厥の咎国に麋多し」。

昭帝の時、昌邑王の賀が人の声で「熊」と言うのを聞き、見ると大きな熊が見えた。左右の者は誰も見えず、郎中令の龔遂に問うた。遂は言った。「熊は山野の獣で、宮室に入って来たのです。王だけがこれを見られた。これは天が大王に戒めを告げておられ、恐らく宮室が空しくなり、危亡の象徴です」。賀は改悟せず、後に国を失った。

『左氏伝』襄公十七年十一月甲午の日、宋国の人々が狂犬を追い払ったところ、狂犬は華臣の屋敷に逃げ込み、人々もそれに従って追いかけた。華臣は恐れて、遂に陳国へ逃亡した。これより先、華臣の兄の閲は宋の卿であったが、閲が亡くなると、華臣は賊を使って閲の家宰を殺害し、その妻を自分のものとした。宋の平公はこのことを聞いて、「華臣は自分の宗族にさえ暴虐をふるい、宋国の政治を大いに乱している」と言い、彼を追放しようとした。左師の向戌は言った。「大臣が順調でないのは、国の恥です。覆い隠したほうがよいでしょう。」公はそれでやめた。華臣は横暴で道義を失い、内心安らかでなかったので、犬の災いが到来し、逃亡するに至ったのである。

高后八年三月、高后は覇上で祓いを行い、帰りに枳道を通りかかると、倉庫の犬のような物が現れ、高后の脇の下を突き、忽然として見えなくなった。占うと、趙王如意の祟りであるという。そこで脇の下を傷めて病に伏し、崩御した。これより先、高后は如意を毒殺し、その母の戚夫人の手足を切り落とし、目をつぶし、耳を潰し、薬を飲ませて声を出せなくし、厠の中に置いて「人彘」と呼んだ。

文帝の後五年六月、斉の雍城門の外で犬が角を生やした。これより先、帝の兄の斉悼恵王が亡くなった後、帝は斉の地を分割し、その庶子七人をみな王に立てた。兄弟ともに強力で、横暴な心があったので、犬の災いが現れたのである。犬は守衛の役目をし、角は兵革の象徴であり、前方にあり上を向いているものである。犬が角を生やすべきでないのは、諸侯が兵を挙げて京師に向かうべきでないのと同じである。天が人に戒めを与えるのは早いが、諸侯は悟らなかった。後六年、呉と楚が反乱を起こし、済南・膠西・膠東の三国がこれに応じ、兵を挙げて斉に至った。斉王はなおも城を守ろうとし、三国がこれを包囲した。ちょうど漢が呉・楚を破り、それに乗じて四王を誅殺した。それゆえ、天狗が梁に降りて呉・楚が梁を攻め、犬が斉で角を生やして三国が斉を包囲したのである。漢はついに梁で呉・楚を破り、斉で四王を誅殺した。京房の易伝に言う。「政治を執る者が過ちを犯すと、下の者が害をなす。その妖は犬が角を生やす。君子がもし免れようとすれば、小人が陥れる。その妖は犬が角を生やす。」

景帝三年二月、邯鄲で犬と豚が交尾した。道理に背き乱れた気が、犬と豚の災いに近づいたのである。この時、趙王遂が道理に背き乱れ、呉・楚と謀って逆心を抱き、使者を匈奴に遣わして援軍を求め、ついにその罪に伏した。犬は、兵革と衆を失う兆しであり、豚は北方の匈奴の象徴である。逆らう言葉に耳を傾け、異なる種類と交わり、害を生じさせるのである。京房の易伝に言う。「夫婦の道が厳かでないと、その妖は犬と豚が交わる。これを反徳と言い、国に兵革がある。」

成帝の河平元年、長安の男子石良と劉音が一緒に住んでいたが、人のような形をしたものがその家の中に現れたので、これを打つと犬に変わり、走り去った。去った後、数人が鎧を着て武器と弩を持って石良の家に来たので、石良らが格闘して撃つと、死んだり傷ついたりした者は皆、犬であった。二月から六月まで続いてやんだ。

鴻嘉年間、犬と豚が交尾した。

『左氏伝』昭公二十四年十月癸酉の日、王子晁が成周の宝圭を黄河に沈め、ほとんど神の助けを得ようとした。甲戌の日、渡し守がこれを河のほとりで得たが、陰不佞が取って売ろうとすると、石に変わった。この時、王子晁が天子の位を 簒奪 さんだつ したが、万民は従わず、号令に従わなかったので、玉の変異があり、白い祥に近いものであった。癸酉に沈め、甲戌に出たのは、神が受け入れなかった証拠である。玉が石に変わるのは、貴いものが賤しいものになることである。後二年、子晁は楚に奔って死んだ。

『史記』によれば、秦の 始皇帝 三十六年、鄭からの客が関東から来て、華陰に至り、素車白馬が華山の上から下りてくるのを見て、それが人でないと知り、道で立ち止まって待った。遂に来て、璧を持って客に言うには、「私のために鎬池君に届けてくれ」と言い、また「今年、祖龍が死ぬ」と言った。忽然として見えなくなった。鄭の客が奉じた璧は、すなわち始皇二十八年に江を渡った時に沈めた璧であった。周の子晁の時と同じ応報である。この年、石が東郡に落ち、民のある者がその石に「始皇死して地分かる」と刻んだ。これらは皆、白い祥であり、横暴で暴虐、号令に従わず、孤陽が独り治め、群陰が付かないことによるものである。一説には、石は陰の類であり、陰が高い節操を持つのは、臣下が君主を危うくする、趙高・李斯の象徴である。始皇は戒めを畏れず自ら省みず、かえってその傍らの民を滅ぼし、その石を焼き払った。この年、始皇は死に、後三年にして秦は滅んだ。

孝昭帝の元鳳三年正月、泰山の萊蕪山の南で、匈匈として数千人の声がした。民が見ると、大きな石が自立し、高さ一丈五尺、太さ四十八囲、地中に深く八尺入り、三つの石が足となっていた。石が立った場所には、数千の白い烏がその傍らに集まった。眭孟は、石は陰の類で下民の象徴であり、泰山は岱宗の岳で、王者が易姓して代わることを告げる場所であるから、庶人が天子となる者があるだろうと考えた。眭孟は罪に伏して誅殺された。京房の易伝に言う。「『復、崩来たりて咎なし。』上から下るのを崩と言い、その応は泰山の石が頂から落ち、聖人が命を受け、人君は虜となる。」また言う。「石が人のように立つと、庶士が天下の雄となる。山に立つのは同姓、平地に立つのは異姓。水に立つのは聖人、沢に立つのは小人。」

天漢元年三月、天が白い毛を降らせた。三年八月、天が白い牦牛の毛を降らせた。京房の易伝に言う。「先に楽しみ後で憂う。その妖は天が羽を降らす。」また言う。「邪な人が進み、賢人が逃げる。天が毛を降らす。」

史記によると、周の威烈王の二十三年に、九鼎が震動した。金が震動するのは、木が動かすからである。この時、周王室は衰微し、刑罰は重く残虐で、号令に従わず、金の気を乱していた。鼎は宗廟の宝器である。宗廟が廃されようとし、宝鼎が移されようとしたので、震動したのである。この年、晋の三卿である韓・魏・趙が晋の君主を 簒奪 さんだつ してその地を分け、威烈王は彼らを諸侯とすることを命じた。天子が同姓を憐れまず、その賊臣に爵位を与えたので、天下は心服しなくなった。三代後、周は徳と国統を秦に譲った。その後、秦はついに周を滅ぼし、九鼎を奪い取った。九鼎の震動は、木が金を害し、民衆を失うことが甚だしかったのである。

成帝の元延元年正月、長安の章城門の門牡が自ら亡くなり、 函谷関 の次門の門牡も自ら亡くなった。京房の易伝に言う。「飢えても減らさないことを泰と言い、その災いは水であり、その咎は牡が亡くなることである。」妖辞に言う。「関が動き牡が飛ぶ、君主が道を失い臣下が非道を行う、その咎は乱臣が謀反を企てることである。」それ故に谷永は答えて言った。「章城門は路寝への通路であり、函谷関は山東の険阻を扼する。城門や関は国を守る堅固なものである。堅固さが去ろうとするので、牡が飛んだのである。」

中之下

視ることが明らかでないこと

伝に言う。「視ることが明らかでないことを不悊と言い、その咎は舒(緩やか)であり、その罰は常に暖かく、その極みは病である。時に草の妖があり、時に蠃虫(裸虫)の孽があり、時に羊の禍があり、時に目の病があり、時に赤い眚(災いの兆し)や赤い祥(吉兆、ここでは逆に凶兆)がある。水が火を害する。」

「視ることが明らかでないことを不悊と言う」、悊は知ることである。詩に云う。「汝の徳が明らかでないので、陪臣や卿を失い;汝の徳を明らかにしないので、背く者や側近を失う。」上(君主)が明らかでなく、暗昧で惑わされると、善悪を知ることができず、親しく習い慣れた者、同類の者を重用し、功のない者が賞を受け、罪ある者が誅殺されず、百官は廃れて乱れ、過失は舒緩(緩慢)にあるので、その咎は舒なのである。盛夏は日が長く、暑さは物を養うが、政が弛緩すると、その罰は常に暖かいのである。暖かいと冬が温暖になり、春夏が調和せず、民衆を傷め病ませるので、極みは病なのである。誅罰が行われなければ霜が草を枯らさず、臣下のせいであれば時を違えて殺すので、草の妖がある。およそ妖は、容貌では服に現れ、言葉では詩に現れ、聴覚では声に現れる。視覚では色に現れる者、五色は物を大きく分けるものであり、それは眚や祥にあるので、聖人はこれを草の妖とし、統治の明らかさを失ったことの表れとするのである。温暖な気候は虫を生じさせるので、蠃虫の孽があり、それは螟や螣(害虫)の類が死ぬべき時に死なず、生まれるべきでない時に生まれ、あるいは以前より多くなって災いとなることを言う。劉歆は思心の容れられないことに属すると考えた。易において、剛が柔を包むことを離とし、離は火であり目である。羊は上に角があり下に蹄があり、剛が柔を包み、羊は目が大きくても明瞭でなく、視の気が毀損されるので羊の禍がある。一説には、暑い年には羊が多く疫病で死に、また怪異となることもあり、これもまたそうである。人に及べば、目を病む者が多くなるので、目の病がある。火の色は赤いので、赤い眚や赤い祥がある。およそ視覚を損なうものは火気の病であり、火気が傷つけられると水がそれを害する。その極みが病である場合、これに順応すれば、その福は寿である。劉歆の視伝には羽虫の孽、鶏の禍があると言う。解釈では、天文では南方の喙は鳥星であるので、羽虫とし;禍もまた羽に従うので、鶏とし;鶏は易では本来巽にあるとする。この説は正しくない。

恒常的な暖かさという庶徴について、劉向は春秋に氷がないことであると考えた。少しの暖かさは記さず、氷がない場合に初めて記すのは、その大きなものを挙げるからである。京房の易伝に言う。「禄が遂行されないことを欺と言い、その咎は暖かく、雨雪が四回降っても温暖である。臣下が禄に安住し安逸を楽しむことを乱と言い、暖かくて虫が生じる。罪を知りながら誅殺しないことを舒と言い、その暖かさは、夏には暑さが人を殺し、冬には物が花を咲かせ実を結ぶ。重い過ちを誅殺しないことを亡徴と言い、その咎は寒くなるべき時に暖かく、それが六日続くことである。」

桓公十五年「春、氷がない」。劉向は周の春は、今の冬であると考えた。これ以前に隣国と連年戦争し、三度戦って二度敗れた。内には百姓を失い、外には諸侯を失い、誅罰を行うことができなかった。鄭伯の突が兄を 簒奪 さんだつ して立ち、公(桓公)は彼と親しくし、同類を養い育て、善悪の罰が明らかでなかったのである。董仲舒は、夫人が正しくなく、陰が節度を失った象であると考えた。

成公元年「二月、氷がない」。董仲舒は、ちょうど宣公の喪中であり、君臣に悲哀の心がなく、陽気が盛んになりすぎて、丘甲の制を作ったからであると考えた。劉向は、当時公が幼弱で、政治が舒緩していたからであると考えた。

襄公二十八年「春、氷がない」。劉向は、これ以前に公が三軍を作り、侵陵して武力を用いる意思があり、これによって隣国が不和となり、その三つの辺境を伐たれ、兵災に十有余年さらされ、それに飢饉が続き、百姓は怨み望み、臣下は心が離れ、公は恐れて弛緩し、誅罰を行うことができなかった。楚が夷狄のような行いをし、公に楚に従う心があり、善悪が明らかでないことの応報であると考えた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。一説には、水旱の災害、寒暑の変化は天下で皆同じであるので、「氷がない」と言うのは、天下が異変であるからである。桓公は兄を殺し君主を しい し、外では宋の乱を成し遂げ、鄭と邑を交換し、周室に背いた。成公の時、楚が中国で横行し、王札子が召伯・毛伯を殺し、晋が天子の師を貿戎で破り、天子はいずれも討伐できなかった。襄公の時、天下の諸侯の大夫が皆国権を執り、君主は制することができなかった。次第に日増しに甚だしくなり、善悪が明らかでなく、誅罰が行われなかった。周は舒緩の過失を犯し、秦は急峻の過失を犯したので、周は寒い年に衰亡し、秦は暖かい年に滅亡したのである。

武帝の元狩六年(前117年)の冬、氷が張らなかった。この前、連年、大将軍の衛青と霍去病を派遣して祁連山を攻撃させ、大砂漠を横断し、単于を追い詰め、斬首十余万級に及び、帰還すると盛大に慶賞を行った。そこで、天下の労苦を憐れみ、この年、博士の褚大ら六人に節を持たせて天下を巡行させ、鰥寡(かんか:やもめと寡婦)を慰問して賜物を与え、困窮者に貸し与え、世に埋もれた隠逸の君子や志操堅固な人物を推挙して天子の行在所に赴かせた。郡国で便宜を図るべき事があれば、丞相や御史に上申して奏聞させるようにした。天下はみな喜んだ。

昭帝の始元二年(前85年)の冬、氷が張らなかった。この時、皇帝は九歳で、大将軍の 霍光 かくこう が政権を執り、初めて寛大で緩やかな政治を行い、民衆を喜ばせようとした。

僖公三十三年(前627年)の「十二月、霜が降りたが草を枯らさなかった」という記事について、劉歆はこれを草の妖と考えた。劉向は、これは現在の十月、周の暦では十二月にあたると考える。易では、五の爻が天の位、君主の位である。九月に陰気が至り、五の爻が天位に通じると、その卦は剥となり、万物が剥落し、殺伐の気が始まる。これは陰が陽の命に従い、臣下が君主の令を受けて後に殺伐となることを明らかにしている。今、十月に霜が降りたのに草を枯らせないのは、君主の誅罰が行われず、政治が緩慢であることの応報である。この時、公子遂が権力を専断し、三桓が初めて世襲の官職を得た。天の戒めはこう言うようである、「この後、皆乱をなすであろう」と。文公は悟らず、その後、遂は子赤を殺し、三家(三桓)は昭公を追放した。董仲舒の指摘もほぼ同じである。京房の易伝に言う、「臣下に緩慢があることを『順ならず』と言い、その異変は霜が草を枯らさないことである」。

書序に言う、「伊陟が太戊の宰相となった時、亳に祥桑と穀が同じ所から生えた」。伝に言う、「ともに朝廷に生え、七日で両手で抱えるほど大きくなった。伊陟は(王に)徳を修めるよう戒め、すると木は枯れた」。劉向は、殷の道がすでに衰え、高宗(武丁)がその弊を受け継いで立ち上がり、喪に服する哀しみを尽くしたので、天下がこれに応じ、顕栄を得た後、政事を怠り、国が危うく滅びようとしたので、桑と穀の異変が現れたのだと考えた。桑は喪(喪失)に通じ、穀は生(生長)に通じる。生殺の権柄が失われて臣下にあることは、草の妖に近い。一説には、野の木が朝廷に生えて急激に成長するのは、小人が大臣の位に急に立って、国家を危うく滅ぼすことの象徴であり、朝廷が空虚となる応報である。

書序にはまた言う、「高宗が成湯を祭った時、蜚の雉が鼎の耳に登って雊いた」。祖己が言った、「先王が王に仮りて、その事を正されるのである」。劉向は、雉が鳴くのは雄であり、赤色を主とすると考える。易では、離が雉であり、雉は南方に属し、赤い祥に近い。劉歆は、羽虫(うちゅう:鳥類)の孽と考えた。易に鼎卦がある。鼎は宗廟の器であり、その器を主として宗廟を奉るのは長子である。野鳥が外から来て、宗廟の器の主となるのは、継嗣が変わることの象徴である。一説には、鼎は三本足で三公の象徴であり、耳を持って(移動を)行う。野鳥が鼎の耳に居るのは、小人が公の位に居り、宗廟の祭祀を敗ることの象徴である。野の木が朝廷に生え、野鳥が宗廟に入るのは、滅亡の異変である。武丁(高宗)は恐れ驚き、忠賢の者に謀り、徳を修めて政事を正し、内では傅説を推挙して国政を授け、外では鬼方を討伐して諸夏を安んじた。それ故に木と鳥の妖を排除し、百年の寿命を得ることができた。いわゆる「六沴が現れ、もしこれを共に御げば、五福が降り、下に章れる」というものである。一説には、金が木に沴うことを「木不曲直(もくふきょくちょく:木が曲直せず)」と言う。

僖公三十三年(前627年)の「十二月、李と梅が実った」という記事について、劉向は、周の十二月は現在の十月であり、李と梅は剥落すべき時に、かえって花を咲かせ実ったのは、草の妖に近いと考えた。先に花が咲き後に実るが、花のことは記さず、重い方(実)を挙げている。陰が陽の事を成すのは、臣下が君主の威福を専断する象徴である。一説には、冬は殺伐であるべき時に、かえって生じるのは、驕った臣下が誅されるべきなのに、その罰が行われないことの象徴である。故に冬に花が咲くのは、臣下の邪な謀り事に端緒があっても成就しない象徴であり、実に至れば成就したことになる。この時、僖公が死に、公子遂が権力を専断し、文公は悟らず、後に子赤の変があった。一説には、君主の緩慢が甚だしく、奥深い気が良くないと、花や実が再生する。董仲舒は、李と梅が実るのは、臣下が強盛であることと考えた。記に言う、「花が咲くべきでない時に咲けば、大夫が変わる。実るべきでない時に実れば、相室(家宰)が変わる」。冬は水が王となり、木が相となるので、大臣を象徴する。劉歆は、すべての徴候は虫を孽とし、思心(ししん:五事の思)の場合は蠃虫(らちゅう:人間)の孽であると考えた。李と梅が実るのは、草妖に属する。

恵帝五年(前190年)十月、桃と李が花を咲かせ、棗が実った。昭帝の時、上林苑の中の大柳樹が折れて地面に倒れていたが、一朝(ある朝)に起き上がって立ち、枝葉を生じ、虫がその葉を食い、文字の形になり、「公孫病已立」と書かれていた。また、昌邑王国の社に枯れ木があり、再び枝葉を生じた。眭孟は、木は陰の類で下民の象徴であり、かつて廃された家の公孫氏が民間から天命を受けて天子となる者があるはずだと考えた。昭帝は年若く、 霍光 かくこう が政権を執っており、孟の妖言として彼を誅殺した。後に昭帝が崩御し、子がなかったので、昌邑王の賀を召して後を継がせたが、狂乱して道を失い、光は彼を廃し、改めて昭帝の兄である衛太子の孫を立てた。これが宣帝である。帝は本名を病已といった。京房の易伝に言う、「枯楊稊を生じ、枯木復た生くは、人君子を亡う」。

元帝の初元四年(前45年)、皇后の曾祖父である済南東平陵の王伯の墓門の梓柱が突然、枝葉を生じ、上に向かって屋根を突き出した。劉向は、王氏が貴盛になって漢家に代わる象徴であると考えた。後に王莽が帝位を 簒奪 さんだつ し、自らこう説明した。「初元四年は、莽の生まれた年である。漢の九世の火徳の厄年に当たり、この祥が高祖(王莽の高祖父)の廟の門に興った。門は開通を意味し、梓は子に通じる。王氏に賢子がいて祖統を開通し、柱石の大臣の位から起こり、天命を受けて王となる符瑞である」。

建昭五年(前34年)、兗州 刺史 しし の浩賞が民が私的に立てた社を禁じた。山陽郡橐県の茅郷の社に大槐樹があり、役人がこれを伐り倒したが、その夜、樹が再び元の場所に立った。成帝の永始元年(前16年)二月、河南街の郵亭の樗樹(ちょじゅ:おおち)に枝が生え、人の頭のようで、眉・目・鬚がすべて備わり、髪がないだけだった。哀帝の建平三年(前4年)十月、汝南郡西平県の遂陽郷の柱が倒れ、枝が人の形のように生え、体は青黄色で、顔は白く、頭に髪の毛(务髮)があり、次第に大きくなり、全長六寸一分あった。京房の易伝に言う、「王の徳が衰え、下の者が起こらんとすれば、則ち木が人の形状に生ずる有り」。

哀帝の建平三年(前4年)、零陵に樹が地面に倒れ、周囲一丈六尺、長さ十丈七尺あった。民がその根元を切り取ると、長さ九尺余りで、すべて枯れた。三月、樹が突然、元の場所に自立した。京房の易伝に言う、「正を棄てて淫を作せば、厥の妖木断自ら属ぐ。妃后に顓有れば、木仆反りて立ち、断枯復た生く。天辟之を悪む」。

元帝の永光二年八月、天から草が降り、その葉が互いに絡み合い、弾丸ほどの大きさであった。平帝の元始三年正月、天から草が降り、その様子は永光の時と同じであった。京房の易伝に言う、「君主が禄を惜しみ、信義が衰えて賢者が去ると、その妖として天から草が降る」。

昭公二十五年「夏、鴝鵒が来て巣を作った」。劉歆はこれを羽虫の孽とし、その色が黒いことから、また黒い祥であると考え、目が明らかでなく耳が聡明でないことへの罰であるとした。劉向は、蜚や蛊がいる時は「来る」と言わないのは、気によって生じたもので、いわゆる眚であるが、鴝鵒に「来る」と言うのは、気によってもたらされたもので、いわゆる祥であると考えた。鴝鵒は夷狄の穴に隠れる鳥であり、中国に来て、穴を掘らずに巣を作るのは、陰が陽の位に居ることで、季氏が昭公を追い出し、宮室を去って野外に住むことの象徴である。鴝鵒は白い羽で、旱魃の兆しである。穴に住み水を好み、黒色であることは、君主に急なことが起こる応報である。天の戒めはこう言うようだ、すでに衆を失ったなら、急いで暴虐であってはならない。急いで暴虐であれば、陰が節を持って陽を追い出し、宮室を去って野外に住むことになろう、と。昭公は悟らず、兵を挙げて季氏を包囲したが、季氏に敗れ、斉に逃亡し、遂に野外で死んだ。董仲舒の指摘もほぼ同じである。

景帝三年十一月、白い首の烏と黒い烏の群れが楚国の呂県で争い、白い首の烏が勝てず、泗水の中に落ち、数千羽が死んだ。劉向はこれを白と黒の祥に近いと考えた。当時、楚王の戊は暴虐で道に背き、申公を刑罰で辱め、呉王と謀反を企てていた。烏の群れが争うのは、軍隊が戦う象徴である。白い首のものは小さい、小さい者が敗れることを明らかにする。水に落ちるのは、水辺の地で死ぬことになる。王戊は悟らず、遂に兵を挙げて呉に呼応し、漢と大戦し、兵敗れて逃走し、丹徒に至り、越人に斬られ、水に落ちて死ぬという効果が現れた。京房の易伝に言う、「親族を逆らうと、その妖として白黒の烏が国中で争う」。

昭帝の元鳳元年、烏と鵲が燕王の宮中の池の上で争い、烏が池に落ちて死んだ。黒い祥に近い。当時、燕王の旦が乱を謀り、遂に改悟せず、罪を得て死んだ。楚と燕はともに骨肉の藩臣であり、驕りと怨みによって謀反を企て、ともに烏と鵲が争って死ぬという兆しがあり、行いが同じで占いが合致する。これは天と人の関係を明らかに示す表れである。燕では一羽の烏と鵲が宮中で争い、黒い方が死んだ。楚では万の数で野外で争い、白い方が死んだ。これは、燕では陰謀がまだ発動せず、ただ王が自ら宮中で自殺したので、一羽の水色の鳥が死に、楚では陽をあぶり立てて兵を挙げ、軍師が野外で大敗したので、多くの金色の烏が死んだという、天道の精妙な効果である。京房の易伝に言う、「征伐を専断し殺害を劫かすと、その妖として烏と鵲が争う」。

昭帝の時、鵜鶘あるいは禿鶖と呼ばれる鳥が、昌邑王の殿下に集まり、王が人を使って射殺させた。劉向は、水鳥で色が青いことから、青い祥であると考えた。当時、王は馳騁に度を過ぎ、大臣を侮り慢り、至尊を敬わず、服妖の象があったので、青い祥が現れたのである。野鳥が住処に入るのは、宮室が空になることの前兆である。王は悟らず、ついに滅亡した。京房の易伝に言う、「有徳者を退けると、その咎は狂気であり、その妖として水鳥が国中に集まる」。

成帝の河平元年二月庚子、泰山の山桑谷に觏がいてその巣を焼いた。男子の孫通らが山中で群鳥の觏と鵲の声を聞き、見に行くと、巣が燃え、すべて地面に落ちており、三羽の觏の雛が焼け死んでいた。樹は四囲もあり、巣は地面から五丈五尺の高さにあった。太守の平がこれを報告した。觏の色は黒く、黒い祥に近く、貪欲で虐げる類いである。「易」に言う、「鳥がその巣を焼くのは、旅人が先に笑い後に号咷する」。泰山は岱宗であり、五嶽の長で、王者が易姓して代わることを告げる場所である。天の戒めはこう言うようだ、貪虐な人物に近づいてはならない、その賊の謀を聞き入れれば、巣を焼き自らの子を害し、世を絶ち姓を易える禍いが生じるだろう、と。その後、趙の蜚燕が寵愛を受け、皇后に立てられ、弟が昭儀となり、姉妹が寵を専らにした。後宮の許美人と曹偉能が皇子を産むと聞き、昭儀は大いに怒り、帝に命じて奪い取らせて殺させ、ともにその母も殺した。成帝が崩御すると、昭儀は自殺し、事が発覚し、趙后は誅殺に処せられた。これが巣を焼き子を殺し、後に号咷するという応報である。一説には、王莽が貪虐で 社稷 しゃしょく の重責を担い、ついに易姓の禍いを成したという。京房の易伝に言う、「人君が暴虐だと、鳥がその舎を焼く」。

鴻嘉二年三月、博士が大射礼を行う時、飛ぶ雉が庭に集まり、階を上って堂に登り鳴いた。後に雉はまた太常、宗正、丞相、御史大夫、大司馬車騎將軍の府に集まり、また未央宮の承明殿の屋上に集まった。当時、大司馬車騎將軍の王音と待 詔 の寵らが上言した。「天地の気は、類をもって相応じ、人君に譴告するのは、甚だ微かではっきりしている。雉は聴察に優れ、先に雷の声を聞くので、月令に気を記すのである。経書には高宗の時に雉が鳴いた異変を載せ、禍を転じて福となす験を明らかにしている。今、雉が博士が礼を行う日、大衆が集会する時に飛来して庭に集まり、階を上って堂に登った。万衆が睢睢として見守り、驚き怪しむこと数日に及んだ。まっすぐに三公の府を経由し、太常・宗正という宗廟と骨肉の官を司る役所を経て、その後宮中に入った。その宿留して人に告げ知らせることは、備わりが深く切実で、人の道が互いに戒めるといえども、どうしてこれを超えられようか」。後に帝は中常侍の晁閎を使い、王音に 詔 して言った。「雉を捕らえたと聞くが、毛羽がかなり折れているようで、拘束された者のようだ。人の仕業ではないか」。王音はまた答えて言った。「陛下はどうして亡国の言葉をお聞きになるのですか。誰が佞諂の計略を主導し、このように聖徳を誣い乱しているのか、おわかりでしょうか。左右の阿諛する者は甚だ多く、臣の音がまた諂うまでもなく十分です。公卿以下は、位を保ち自らを守るだけで、正しい言論を持つ者はおりません。もし陛下が覚悟され、大禍がまさに御身に及ぶことを恐れ、臣下を深く責め、聖法をもって縛られるなら、臣の音はまず誅殺を受けるべきであり、どうして自らを弁解できましょうか。今、即位して十五年、継嗣が立てられず、日々車を駕して出かけ、放逸な行いが流布し、海内に伝わり、京師よりも甚だしい。外には微行の害があり、内には疾病の憂いがある。皇天はたびたび災異を示し、人が変革することを望んでいるのに、終いに至っても改めない。天でさえ陛下を感動させることができないなら、臣子に何の望みがありましょうか。ただ極言して死を待つだけで、命は朝暮にあるのみです。もしこのようでなければ、老いた母はどうして安住の地を得られましょうか、まだどうして皇太后がありえましょうか。高祖の天下は誰に属すべきでしょうか。賢知と謀り、己に克ち礼に復り、天意を求めるべきです。そうすれば継嗣は立てられ、災変もまだ消すことができます」。

成帝の綏和二年三月、天水の平襄で燕が爵を生み、餌を与えて大きく育て、ともに飛び去った。京房の易伝に言う、「賊臣が国にいると、その咎として燕が爵を生み、諸侯が消える」。一説には、その類いでないものを生むのは、子が世を嗣がないことである。

史記によると、魯の定公の時、季桓子が井戸を穿つと、土の缶を得て、中から羊のような虫を得た。羊の禍いに近い。羊は地上の物であり、土の中に幽閉されているのは、定公が孔子を用いずに季氏に従い、暗昧で明らかでないことの応報である。一説には、羊が野外を去って土の缶に拘束されるのは、魯君がその居所を失い季氏に拘束され、季氏もまた家臣に拘束されることの象徴である。この年、季氏の家臣である陽虎が季桓子を囚えた。三年後、陽虎が公を劫かして孟氏を伐ち、兵敗れ、宝玉と大弓を盗んで逃亡した。

左氏伝によると、魯の襄公の時、宋で生まれた女子が赤く毛深く、堤の下に棄てられた。宋の平公の母である共姫の御者が見つけて収容し、それゆえに棄と名付けた。成長して美しく、平公に納められ、佐という子を産んだ。後に宋の臣である伊戾が太子の痤を讒言して殺した。これに先立ち、大夫の華元が晋に出奔し、華弱が魯に奔り、華臣が陳に奔り、華合比が衛に奔った。劉向は、当時は火災と赤い眚の明らかな応報があったと考えた。京房の易伝に言う、「尊卑の別がないと、その妖として女子が赤い毛を生ずる」。

恵帝二年、宜陽に血が雨のように降り、一頃ほどの範囲に及んだ。劉向はこれを赤い災異と考えた。その時また冬に雷が鳴り、桃や李が花を咲かせたのは、常に暖かいことに対する罰である。この時、政治は緩慢で、諸呂が権力を握り、讒言が勝手に行われ、三皇子を殺し、正統でない後継者を立て、不適切な者を王に封じ、王陵・趙堯・周昌を退けた。呂太后が崩御すると、大臣たちが共に諸呂を誅滅し、死体が倒れ血が流れた。京房の『易伝』に言う、「罪を帰することを解かず、これを追非と謂い、その咎は天が血を雨らす。これを不親と謂い、民に怨む心あり、三年を出でずして、その宗人無し」。また言う、「佞人禄を得、功臣戮せられ、天血を雨らす」。

哀帝建平四年四月、山陽の湖陵に血が雨のように降り、幅三尺、長さ五尺、大きいものは銭のようで、小さいものは麻の実のようであった。その二年後、帝が崩御し、王莽が朝廷を専断し、貴戚の丁氏・傅氏を誅し、大臣の董賢らは皆遠方に流罪とされ、諸呂の場合と同じであった。誅殺された者が少なかったので、血の雨も少なかった。

聞くことが聡明でないこと。

伝に言う、「聞くことが聡明でない、これを不謀と謂い、その咎は急、その罰は常に寒く、その極みは貧である。時に則ち鼓妖有り、時に則ち魚孽有り、時に則ち豕禍有り、時に則ち耳痾有り、時に則ち黒眚黒祥有り。惟れ火水を沴う」。

「聞くことが聡明でない、これを不謀と謂う」とは、上が偏って聞き聡明でなく、下の事情が隔てられ塞がれると、利害を謀り慮ることができず、過失は厳急にあるので、その咎は急であるというのである。盛んな冬は日が短く、寒さが物を殺すように、政治が逼迫しているので、その罰は常に寒いのである。寒ければ百穀が生ぜず、上下共に貧しくなるので、その極みは貧であるのである。君主が厳猛で下を閉ざし、臣下が戦慄して耳を塞ぐと、妄りに聞く気が音声に発するので、鼓妖があるのである。寒気が動くので、魚孽があるのである。雨は亀を孽とし、亀は陸地に住むことができ、極陰ではない。魚は水を離れて死ぬ、極陰の孽である。易では坎は豕であり、豕は耳が大きいが聡明に察することができず、聞く気が毀れるので、豕禍があるのである。一説には、寒い年には豕が多く死に、また怪異となる、これもまたそうである。人に及べば、多く耳の病にかかる者がいるので、耳痾があるのである。水の色は黒いので、黒眚黒祥があるのである。およそ聞くことが傷つけられた者は水気の病にかかり、水気が病めば火がそれを害するのである。その極みが貧である者は、これに順ずれば、その福は富と曰う。劉歆の『聴伝』には介虫の孽があると言い、庶徴の常寒である。劉向は春秋時代にはその応がなく、周の末世は緩慢で微弱で、政治が臣下にあり、暖かいだけだったので、秦を引き合いに出して検証したと考えた。秦の始皇帝が即位した時はまだ幼く、政治を太后に委ねた。太后は呂不韋及び嫪毐と淫乱で、毐を長信侯に封じ、太原郡を毐の国とし、宮室苑囿を勝手気ままにし、政事を断じた。それゆえ天は冬に雷を鳴らし、陽気が禁閉されず、危害に陥ることを示し、暖かさが逼迫に近づく変異を示したのである。始皇が元服した後、毐は誅殺を恐れて乱を起こし、始皇はこれを誅し、数百の首を斬り、大臣二十人を皆車裂きの刑に処して見せしめとし、その宗族を滅ぼし、四千余家を房陵に移した。この年の四月、寒く、凍死者が出た。数年の中での緩急がこのようであり、寒暖が即座に応じた、これがその効験である。劉歆は大雨雪、及び雨雪の降るべきでない時に雨雪が降ること、及び大雨雹、霜が降りて叔草を殺すことは、皆常寒の罰であると考えた。劉向は常雨は貌の恭しからざるに属すると考えた。京房の『易伝』に言う、「徳有るも険に遭う、これを逆命と謂い、その異は寒し。誅する過ぎて深し、暖かくなるべき時に寒く、六日尽き、また雹となる。正を害するを誅せず、これを養賊と謂い、寒さ七十二日、蜚禽を殺す。道人始めて去る、これを傷と謂い、その寒さ物霜無くして死に、水涌き出づ。戦いて敵を量らず、これを辱命と謂い、その寒さ雨雖も物茂らず。善を聞きて与えず、その咎聾し」。

桓公八年「十月、雪が雨のように降る」。周の十月は、今の八月であり、まだ雪が降るべき時ではない。劉向はこの時、夫人に斉で淫らな行いがあり、桓公に嫉妬の心があったので、夫人が殺されようとする象が現れたと考えた。桓公は覚悟せず、後に夫人と共に斉に行って殺された。およそ雨は陰であり、雪はまた雨の中の陰である。その時でないのに現れるのは、逼迫に近い象である。董仲舒は大人が専横で恣意である象であり、陰気が盛んであると考えた。

釐公十年「冬、大雪が降る」。劉向はこれより先、釐公が妾を夫人に立て、陰が陽の位に居て、陰気が盛んになったと考えた。公羊経に「大雨雹」とある。董仲舒は公が斉の桓公に脅迫され、妾を夫人に立て、群妾を進めることができなかったので、専一の象が雹に現れたと考えた。皆次第に脅迫されたことがあり、専一の政治を行ったというのである。

昭公四年「正月、大雪が降る」。劉向は昭公が呉から娶ったが同姓であり、これを呉孟子と称した。君が上で行い、臣が下で非とした。また三家(三桓)が既に強く、皆公の行いを軽んじ、侮慢の心が生じた。董仲舒は季孫宿が政を任され、陰気が盛んであると考えた。

文帝四年六月、大雪が降る。その三年後、淮南王の長が謀反を企て、発覚し、流罪となり、道中で死んだ。京房の『易伝』に言う、「夏に雪が雨のように降るは、臣の乱を為すを戒む」。

景帝中六年三月、雪が雨のように降る。その六月、匈奴が上郡に入り苑馬を奪い、吏卒の戦死者二千余人。翌年、条侯周亜夫が獄に下され死んだ。

武帝の元狩元年十二月、大雨雪が降り、多くの民衆が凍死した。この年、淮南王と衡山王が謀反を企て、発覚し、ともに自殺した。使者が郡国を巡行し、一味を処罰したため、連座して死罪となった者は数万人に及んだ。

元鼎二年三月、雪が降り、平地で厚さ五尺に達した。この年、御史大夫の張湯が罪を犯して自殺し、丞相の厳青翟は三長史と共謀して張湯を陥れた罪で連座し、青翟は自殺し、三長史は皆、市で斬首された。

元鼎三年三月、水が凍り、四月に雪が降り、関東の十余郡で人肉を食う事態となった。この年、民が占緡銭(財産税)を申告せず、告発する者がいれば、その半分を与えるという法令が出された。

元帝の建昭二年十一月、斉・楚の地に大雪が降り、深さ五尺に達した。この年、魏郡太守の京房が石顕に告発され、妻の父である淮陽王の舅の張博および博の弟の光と共に、淮陽王に不義を勧めた罪で連座し、博は腰斬、光と京房は市で斬首され、御史大夫の鄭弘は連座して免職され庶人となった。成帝が即位すると、石顕は罪に伏し、淮陽王は上書して張博の冤罪を訴え、言葉を増やして訴えたため、流刑に処されていた家族も帰還することができた。

建昭四年三月、雪が降り、燕が多く死んだ。谷永が応対して言った。「皇后が桑蚕を治めて祭服を作り、天地と宗廟に奉仕するのに、ちょうどこの日に疾風が西北から吹き、大寒で雪が降り、その功績を損なったのは、皇后が(天意に)向かわないことを示しています。斎戒して寝室を避け、深く自らを責め、皇后に宮殿に戻り、門戸を閉ざし、みだりに上がらないようにすべきです。そして多くの妾たちに順番に進ませ、時宜に応じて広く寵愛を行き渡らせてください。皇天が喜ばれれば、賢明な後継者を得ることができるかもしれません。もし臣の言葉を行わなければ、災異はますます甚だしくなり、天変が形を成します。臣がたとえ再び身を捨てて献策しようとしても、事に及ばないでしょう。」その後、許皇后は呪詛の罪で廃位された。

陽朔四年四月、雪が降り、燕雀が死んだ。その後十六年、許皇后は自殺した。

定公元年「十月、霜が降りて菽(豆類)を殺した」。劉向は、周の十月は今の八月であり、消卦は観であり、陰気がまだ君位に至らないうちに殺害し、誅罰が君から出ず、臣下にある象であると考えた。この時、季氏が昭公を追放し、昭公は国外で死に、定公が立ったので、天が災いを示して定公に見せたのである。僖公二年「十月、霜が降りたが草を殺さなかった」のは、嗣君が微弱で、事を執ることを失った象である。その後、ついに権力が臣下にあり、災いがそれによって生じたのである。異変の場合は草と言い、災害の場合は菽と言い、穀物を殺すことを重んじている。一説には、菽は草の中で殺しにくいものであり、菽を殺すと言えば、草が皆死んだと知る。草を殺さないと言えば、菽も死ななかったと知る。董仲舒は、菽は草の中で強いものであり、天の戒めは、強臣に誅罰を加えることを言っていると考えた。菽と言うのは、微かに季氏の罰を示しているのである。

武帝の元光四年四月、霜が降りて草木を枯らした。これに先立つ二年、五将軍に三十万の兵を率いさせて馬邑の下に伏せさせ、単于を襲撃しようとしたが、単于はそれを察知して去った。これ以来、四方の異民族への征伐が始まり、軍隊が出動すること三十余年、天下の戸口は半減した。京房の易伝に言う。「兵を興して妄りに誅する、これを亡法と言い、その災いは霜であり、夏に五穀を殺し、冬に麦を殺す。情状を酌まないで誅する、これを不仁と言い、その霜は、夏にはまず大雷風があり、冬にはまず雨があり、そして霜が降り、芒角がある。賢聖が害に遭うと、その霜は木に付着して地に下らない。佞人が刑罰に依る、これを私賊と言い、その霜は草の根や土の隙間にある。教えずして誅する、これを虐と言い、その霜はかえって草の下にある。」

元帝の永光元年三月、霜が降りて桑を枯らした。九月二日、霜が降りて穀物を枯らし、天下は大飢饉となった。この時、中書令の石顕が権力を専断しており、春秋の定公の時に霜が降ったのと同じ応報である。成帝が即位すると、石顕は威福をほしいままにした罪で誅殺された。

僖公二十九年「秋、大いに雹が降った」。劉向は、盛んな陽気が雨水となり、温暖で湯のように熱いが、陰気がそれを脅かして相容れないと、転じて雹となる。盛んな陰気が雪となり、凝滞して氷のように寒いが、陽気がそれを迫って相容れないと、散じて霰となると考えた。だから、沸騰した湯が密閉された器の中にあり、寒泉に浸されると氷となる。また、雪が解けるのも、氷が解けて散るのと同じで、これがその証拠である。したがって、雹は陰が陽を脅かすものであり、霰は陽が陰を脅かすものである。春秋に霰を書かないのは、月食と同じである。僖公の末年は公子遂を信用し、遂が権力を専断し、ほしいままにして、やがて君主を殺すに至ろうとしたので、陰が陽を脅かす象が現れた。僖公は悟らず、遂はついに権力を専断し、その後二年して子赤を殺し、宣公を立てた。左氏伝に言う。「聖人が上にいれば雹はなく、たとえあっても災害とならない。」説明によれば、およそ物事が災害とならないものは書かず、書くのは大きく、災害となったことを言うのである。およそ雹は、すべて冬の陽気の過ち、夏の陰気の潜伏である。

昭公三年に、「大雨雹が降った」。この時、季氏が権力を専断し、君主を脅かす兆しが現れた。昭公は悟らず、後に季氏はついに昭公を追放した。

元封三年十二月、雷雨と雹があり、馬の頭ほどの大きさであった。宣帝の地節四年五月、山陽と済陰に鶏卵ほどの雹が降り、深さ二尺五寸に積もり、二十人を殺し、飛ぶ鳥は皆死んだ。その十月、大司馬の霍禹の宗族が謀反を企て、誅殺され、霍皇后は廃された。

成帝の河平二年四月、楚國に雹が降り、斧ほどの大きさで、飛ぶ鳥が死んだ。

左伝によると、釐公三十二年十二月己卯、 しん の文公が死去し、庚辰に曲沃に殯するため出発し、絳を出ると、柩が牛のような声を発した。劉向はこれを鼓妖に近いものと考えた。喪は凶事であり、声が牛のようであるのは怒りの兆しである。急激な怒りの謀略が起こり、兵革の禍いを生じるであろう。この時、秦の穆公は兵を遣わして鄭を襲撃したが、仮道(通過の許可)を求めず、帰還した。 しん の大夫の先軫が襄公に言うには、「秦軍が通過するのに仮道を求めません。どうかこれを撃たせてください」。そこで崤の険しい場所で待ち伏せし、秦軍を破った。一匹の馬、一本の車輪さえ帰らなかった。これはあまりに急激であった。 しん は旧交を顧みず、暴虐な謀略を聞き入れ、強国と怨みを結び、四度にわたって秦の侵攻を受け、禍いは数世代に流れ、凶悪な結果となった。

哀帝の建平二年四月乙亥朔、御史大夫の朱博が丞相となり、少府の趙玄が御史大夫となった。延登(宮殿の階段)に臨んで策書を受け取る時、鐘が鳴るような大きな音がし、殿中の郎吏で階段にいた者は皆それを聞いた。上(皇帝)は黄門侍郎の揚雄と李尋に問うた。李尋は答えて言った、「洪範にいう鼓妖であります。師法によれば、人君が聡明でなく、衆人に惑わされ、空名の者が進めば、声はあっても形がなく、どこから生じたかわからない、とされます。その伝に曰く、『歳月日の中にあれば、正卿がこれを受ける』と。今、四月の日に辰巳を加えて異変があるのは、これが中にあたります。正卿とは執政大臣を指します。丞相と御史を退けて、天変に応ずべきです。しかし、退けなくても、一年を出ずして、その人は自らその咎を受けるでしょう」。揚雄もまた鼓妖であり、聴くことの過失の兆しと考えた。朱博は人となり強毅で権謀に長け、将たるべきで相たるべきではなく、凶悪で急激な怒りがあることを恐れた。八月、朱博と趙玄は姦謀を行った罪に問われ、朱博は自殺し、趙玄は死刑を減じられた。京房の易伝に曰く、「令(命令)が本を修めず、下が安からず、金(金属)が故なく自ら動き、音があるがごときもの」。

史記によると、秦の二世元年、雲がないのに雷が鳴った。劉向は、雷は雲に託すべきであり、ちょうど君が臣に託すように、陰陽の和合であると考えた。二世は天下を顧みず、万民に怨み叛く心があった。この年、 陳勝 が起こり、天下が叛き、趙高が乱を起こし、秦はついに滅亡した。一説には、易の震は雷であり、貌が恭しくないことである。

史記によると、秦始皇八年、河の魚が大量に上流へ遡った。劉向はこれを魚孽に近いと考えた。この年、始皇の弟の長安君が兵を率いて趙を撃ったが、反逆し、屯留で死に、軍吏は皆斬られ、その民は臨洮に移された。翌年には嫪毒の誅殺があった。魚は陰類であり、民の象徴である。逆流して上るのは、民が君の命令に従わず逆行することを示す。天文では、魚星が河の中に位置し、車騎が野に満ちる。二世に至って、暴虐はますます甚だしく、ついに急激な政策を用いて滅亡した。京房の易伝に曰く、「衆逆(多くの叛逆者)が志を同じくすれば、その妖は河魚が逆流して上る」。

武帝の元鼎五年秋、蛙と蝦蟆が群れをなして闘った。この年、四将軍が兵十万を率いて南越を征し、九郡を開いた。

成帝の鴻嘉四年秋、信都に魚が雨のように降り、長さ五寸以下であった。成帝の永始元年春、北海に大きな魚が現れ、長さ六丈、高さ一丈、四匹であった。哀帝の建平三年、東萊の平度に大きな魚が現れ、長さ八丈、高さ一丈一尺、七匹で、皆死んでいた。京房の易伝に曰く、「海にたびたび巨魚が現れるのは、邪な者が進み、賢人が疎遠になること」。

桓公五年「秋、螽が発生した」。劉歆は、貪虐に民から取り立てれば螽が発生し、介蟲(甲殻類・昆虫)の孽であり、魚と同じ占いであると考えた。劉向は、介蟲の孽は言不従(言葉に従わないこと)に属すると考えた。この年、公は二国からの聘問を受け、鼎と引き換えに邑を取り、役を興して城を築いた。諸々の螽についての解釈は、ほぼ皆董仲舒の説に従っている。

荘公二十九年に「蜚がいた」。劉歆はこれを負蠜であると考え、性質は穀物を食わず、穀物を食えば災いとなり、介虫のわざわいであるとした。劉向は、蜚の色は青く、青い災い(青眚)に近く、中原の地にはないものと考えた。南越は暑さが厳しく、男女が同じ川や沢に入り、淫らな風俗から生じた虫で、臭く汚い。この時、荘公は斉の淫らな女を娶って夫人としたが、入内した後、二人の叔父と淫らな関係を持ったので、蜚が到来したのである。天の戒めは言うようだ、今誅し絶てばまだ間に合う、そうしなければ臭く汚いことが生じ、四方に知れ渡るだろうと。荘公は悟らなかった。その後、夫人と二人の叔父が乱を起こし、二人の後継者が殺され、ついに皆罪を受けた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。

僖公十五年「八月、蝗がいた」。劉向は、これに先立って僖公が鹹の会盟を行い、その後、縁陵に城を築き、この年また兵車を用いて牡丘の会盟を行い、公孫敖に師を率いさせ、諸侯や大夫とともに徐を救援させ、兵が三年にわたって外にあったためであると考えた。

文公三年「秋、宋に蝗が雨のように降った」。劉向は、これに先立って宋が無罪の大夫を殺したこと、暴虐な賦税徴収の応報であると考えた。穀梁伝には、上下が皆合わさり、甚だしいと言うとある。董仲舒は、宋が三代にわたり国内から妻を娶り、大夫が専横に振る舞い、生殺与奪が道理に合わなかったので、蝗が先に死んで到来したと考えた。劉歆は、蝗は穀物の災いであり、突然賊陰に遇い、墜落して死んだのだと考えた。

八年「十月、蝗がいた」。この時、文公は邾を討って須朐を奪い、郚に城を築いた。

宣公六年「八月、蝗がいた」。劉向は、これに先立って宣公が莒の向を討ち、その後続けて斉へ行き、萊を討つことを謀ったためであると考えた。

十三年「秋、蝗がいた」。公孫帰父が斉と会して莒を討った。

十五年「秋、蝗がいた」。宣公の時代には豊作の年がなく、たびたび軍旅の事があった。

襄公七年「八月、蝗がいた」。劉向は、これに先立って襄公が師を興して陳を救援し、滕子、郯子、小邾子が皆来朝した。夏に費に城を築いたためであると考えた。

哀公十二年「十二月、蝗がいた」。この時、哀公は田賦を用いた。劉向は、春に田賦を用いたので、冬に蝗が発生したと考えた。

十三年「九月、蝗がいた。十二月、蝗がいた」。三度も蝗が発生したのは、民から虐げて取り立てた効果である。劉歆は、周暦の十二月は夏暦の十月であり、火星は既に伏し、蟄虫は皆終わっている。天が変異を見せるのは、物類の道理に因るのであって、蝗であるはずがない。この年は閏月を二度失ったのである。周暦の九月は夏暦の七月である。故に伝に「火(火星)なお西に流る、司曆の過ちなり」と言うのである。

昭帝の元鳳元年、燕王の宮殿の永巷の中で豚が厠から出て、都の竈を壊し、その釜六七枚をくわえて殿前に置いた。劉向はこれを豚の災いに近いものと考えた。当時、燕王の旦は長公主や左将軍と謀って大逆を企て、諫める者を誅殺し、暴虐で道に外れていた。竈は生養の根本である。豚が竈を壊し、釜を庭に並べるのは、釜と竈が用いられなくなり、宮室が廃れて辱めを受けることの前兆である。燕王は改めず、ついにその罪に伏した。京房の易伝に言う、「衆人の心が君の政に安んぜず、その妖は豚が居室に入る」。

『史記』によれば、魯の襄公二十三年、穀水と洛水が争い、王宮を破壊しようとした。劉向はこれを火が水を害することに近いと考えた。周の霊王がこれを堰き止めようとしたとき、役人が諫めて言った。「なりません。民を治める者は沼沢を埋め立てず、山を崩さず、川を防がず、沢に穴を開けません。今、我が執政はおそらく何か偏ったことをなさり、二つの川の神を乱して、互いに明るさを争わせ、王の宮室を防ごうとしています。王がこれを飾り立てられるのは、おそらくよろしくないでしょう。子孫にまで禍が及び、王室はますます卑しくなります」。王はついに堰き止めた。伝によって推し量ると、四瀆を諸侯に例えるなら、穀水と洛水はそれに次ぐもので、卿大夫の象徴である。卿大夫が分かれて争い、王室を危うくし乱すことの前兆である。この時、世襲の卿が権力を専断し、儋括に 簒奪 さんだつ 殺害の企てがあった。もし霊王が覚醒し、その失政を正し、戒めを承けて恐れ慎んだなら、災禍は除かれたであろう。諫言や謀略を聞き入れず、大きな異変を軽んじ侮り、私心のままに任せ、低地を塞ぎ水を堰き止めて、水勢に逆らい鬼神を害した。その後数年して、日のように黒いものが五つ現れた。この年は霜が早く、霊王は崩御した。景王が立って二年、儋括が王を殺して王の弟の佞夫を立てようとした。佞夫は知らず、景王は佞夫をも誅殺した。景王が死ぬと、五大夫が権力を争い、ある者は子の猛を立て、ある者は子の朝を立て、王室は大混乱に陥った。京房の易伝に言う、「天子弱く、諸侯が力を以て政を行う、その異は水が争う」。

『史記』に言う、秦の武王三年、渭水が三日間赤くなり、昭王三十四年には渭水がまた三日間赤くなった。劉向はこれを火が水を害することに近いと考えた。秦は連坐の法を敷き、道に灰を捨てた者に 黥 刑を加え、法網は密で刑罰は虐く、さらに武力による討伐を横行させ、隣国を侵し害した。ついに五行を変乱させ、気色が謬り乱れた。天の戒めは言う、苛酷で性急なことをするな、そうすれば敗亡を招くであろうと。秦はついに改めず、始皇帝に至って六国を滅ぼし、二世で滅亡した。昔、三代は三河の地に都し、黄河や洛水から図書が現れた。秦は渭水の北に都したが、渭水がしばしば赤くなったのは、瑞祥や異変が徳に応じる効験である。京房の易伝に言う、「君酒に湎り、色に淫し、賢人潜み、国家危うし、その異は流水赤し」。

下之上

思心の睿ならざる

伝に言う、「思心の睿ならざる、これを不聖と謂う。その咎は霿、その罰は恒風、その極は凶短折。時に則ち脂夜の妖有り、時に則ち華孽有り、時に則ち牛禍有り、時に則ち心腹の痾有り、時に則ち黄眚黄祥有り、時に則ち金木水火土を沴す」。

「思心の睿ならざる、これを不聖と謂う」。思心とは、心の思慮である。睿は寛大である。孔子が言う、「上に居て寛大ならざれば、吾何を以てか之を観んや!」 上たる者が寛大に臣下を包容しなければ、聖位に居ることはできない。貌・言・視・聴は、心を主とし、四者全てが失われると、愚昧で無知となる。故にその咎は霿である。雨・旱・寒・燠もまた風を本とし、四気皆乱れると、故にその罰は常風である。常風は物を傷つける。故にその極は凶短折である。人を傷つけるのを凶と言い、禽獣を傷つけるのを短と言い、草木を傷つけるのを折と言う。一説には、凶は夭折、兄が弟を喪うのを短、父が子を喪うのを折と言う。人の腹中で、肥えて心を包むものが脂である。心が愚昧だと暗く曇る。故に脂夜の妖がある。一説には、脂物があって夜に妖をなす。例えば脂水が夜に人の衣を汚すようなもので、淫の象である。一説には、夜妖とは、雲と風が並び起こって暗く冥くなるもので、故に常風と同じ象である。温かくて風があると螟螣が生じ、裸虫の孽がある。劉向は考えるに、易では巽は風であり木である。卦は三月四月にあり、陽に継いで治め、木の華や実を主る。風気が盛んになると、秋冬になっても木が再び花を咲かせる。故に華孽がある。一説には、地気が盛んになると秋冬に再び花が咲く。一説には、華は色である。土は内事に当たり、女孽となる。易では坤は土であり牛である。牛は心が大きくて思慮することができない。思心の気が毀れると、故に牛禍がある。一説には、牛が多く死んだり怪異をなすこともこれである。人に及ぶと、心腹の病が多い。故に心腹の痾がある。土の色は黄である。故に黄眚黄祥がある。およそ思心が傷つくと土気が病む。土気が病むと金木水火がこれを害する。故に「時に則ち金木水火土を沴す」と言う。「惟」と言わずに独り「時に則ち有り」と言うのは、一つの衝気によって害されるのではなく、その異変が大きいことを明らかにするためである。その極を凶短折と言い、これに順うなら、その福は考終命である。劉歆の『思心伝』には「時に則ち臝虫の孽有り」と言い、螟螣の類を指す。庶徴の常風について、劉向は春秋時代にはその応がなかったと考えた。

釐公十六年「正月、六鶂退きて飛び、宋の都を過ぐ」。左氏伝に「風なり」と言う。劉歆は、風が他の所で起こり、宋に至って高くなり、鶂が高く飛んでこれに逢うと、退くと考えた。経文は見えたものを文として記したので、退いて飛ぶことを記した。伝は実際の応を著すので、風と言い、常風の罰である。宋の襄公が愚昧で自らを是とし、臣下を受け容れず、司馬の子魚の諫めに逆らい、強楚と盟を争ったことに象る。後六年、楚に捕らえられることとなり、六鶂の数に応じたという。京房の易伝に言う、「潜龍用いる勿れ、衆逆志を同じくし、至德乃ち潜む、その異は風。その風は、行きて物を解かず、長からず、雨小さくして傷つく。政悖り徳隠るる、これを乱と謂い、その風は先ず風にして雨降らず、大風暴起き、屋を発し木を折る。義を守りて進まず、これを耄と謂い、その風は雲と俱に起き、五穀の莖を折る。臣上政を易う、これを不順と謂い、その風は大焱起こり屋を発す。賦斂理めず、これを禍と謂い、その風は経紀を絶ち、止まれば即ち温く、温かければ即ち虫す。侯専ら封ずる、これを不統と謂い、その風は疾くして樹揺れず、穀成らず。辟道利を思わず、これを無澤と謂い、その風は木を揺さぶらず、旱えて雲無く、禾を傷つく。公常に利に於いて、これを乱と謂い、その風は微かにして温く、虫蝗を生じ、五穀を害す。正を棄て淫を作す、これを惑と謂い、その風は温かく、螟蟲起き、人に益有る物を害す。侯朝せず、これを叛と謂い、その風は恒無く、地変じて赤くして人を殺す」。

文帝二年六月、淮南王の都である寿春で大風が民家を壊し、人を殺した。劉向は、この年、南越が反乱し、淮南の辺境を攻め、淮南王の長がこれを破ったが、翌年入朝し、漢の故丞相である辟陽侯を殺害した。皇帝はこれを赦し帰国させたが、彼は姦人を集めて逆乱を謀り、自ら東帝と称した。異変を見ても悟らず、後に 蜀 に遷され、道中で死んだことと考える。

文帝五年、呉で暴風雨が起こり、城や官府、民家を壊した。当時、呉王の濞が逆乱を謀っており、天の戒めが幾度も現れたが、終いに改悟せず、後に誅滅された。

五年(紀元前178年)十月、楚の都彭城において、大風が東南から吹き来たり、市の門を破壊し、人を殺した。この月、楚王の劉戊が初めて後を嗣いで立ったが、後に淫行により領地を削減され、呉王と謀反を企て、諫める者を刑戮に処した。呉は楚の東南に位置し、天の戒めは言うようであった、「呉と悪事を為すなかれ、さもなくば市朝を敗るに至らん」と。王戊は悟らず、ついに呉に従って滅亡した。

昭帝の元鳳元年(紀元前80年)、燕の都薊において大風雨があり、宮中の樹木で七圍以上のものが十六本抜け、城楼が壊れた。燕王の劉旦は悟らず、謀反が発覚し、ついにその罪に伏した。

釐公十五年(紀元前645年)「九月己卯晦、夷伯の廟に震す」。劉向はこう考える。晦とは暗いことであり、震とは雷である。夷伯は代々の大夫である。経文がわざわざ雷と記し、その廟だけが暗くなったのは、天の戒めが言うようである、「大夫に世襲の官職を与えるなかれ、さもなくば事柄を専断し暗闇をもたらさん」と。翌年、公子の季友が卒去し、果たして世襲の官職となり、政権は季氏にあった。成公十六年(紀元前575年)「六月甲午晦」には、真昼なのにすべて暗くなり、陰が陽を圧し、臣下が君主を制した。成公は悟らず、その冬、季氏が公子偃を殺した。季氏の萌芽は釐公の時にあり、成公の時に大きくなった。これがその応報である。董仲舒はこう考える。夷伯は季氏が信頼する者であり、陪臣たる者が廟を持つべきではない。震とは雷である。暗闇の中で、雷がその廟を撃ったのは、僭上の類を断ち去るべきことを明らかに示したのである。劉向はまた、これらはいわゆる「夜妖」であると考える。劉歆はこう考える。『春秋』は朔に及べば朔と言い、晦に及べば晦と言う。人道の及ばぬところには、天が雷で戒めるのである。展氏に隠れた悪事があったので、天がその祖である夷伯の廟に誅罰を加えて警告したのである。

成公十六年(紀元前575年)「六月甲午晦、 しん 侯及び楚子・鄭伯、鄢陵に戦う」。いずれも月の晦と記されている。

隠公五年(紀元前718年)「秋、螟」。董仲舒と劉向はこう考える。当時、公が棠で漁を見物したのは、利を貪る応報である。劉歆はこう考える。また臧釐伯の諫言に逆らい、区々たる利を貪ったため、裸蟲の孽が生じたのである。

八年(紀元前715年)「九月、螟」。当時、鄭伯が邴をもって許の田と交換しようとし、利を貪る心があった。京房の『易伝』に言う、「臣下が禄に安んずる、これを貪りと謂う。その災いは蟲、蟲は根を食う。徳に常なし、これを煩いと謂う。蟲は葉を食う。徳なき者を罷めざる、蟲は本を食う。東作(春の耕作)と争う、これを時にあわずと謂う。蟲は節を食う。悪を蔽いて孽を生ず、蟲は心を食う」。

荘公(嚴公)六年(紀元前688年)「秋、螟」。董仲舒と劉向はこう考える。この前に衛侯の朔が斉に出奔し、斉侯が諸侯を会合させて朔を衛に送り届け、諸侯に賄賂を約束した。斉人が衛の宝器を魯に送り、魯がそれを受け取った。利を貪る応報である。

文帝の後六年(紀元前158年)秋、螟。この年、匈奴が大挙して上郡・雲中に侵入し、烽火が長安まで通じ、三将軍を辺境に駐屯させ、三将軍を京師に駐屯させた。

宣公三年(紀元前606年)、「郊(祭天)に用いる牛の口が傷つき、別の牛を卜して用いようとしたが、その牛が死んだ」。劉向はこう考える。これは牛禍に近いものである。当時、宣公は公子遂と謀って共に子赤を殺して自分が立ち、また喪中に娶った。区々として昏乱であった。乱は口によって成り、幸いにも季文子がいて禍を免れたが、天はなおこれを憎み、生ける時はその祭祀を饗けず、死しては災いがその廟を焼いた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。

秦の孝文王五年(紀元前250年)、朐衍に遊猟した時、五本足の牛を献じる者があった。劉向はこう考える。これは牛禍に近いものである。この前に文恵王(孝文王の父、昭襄王か)が初めて 咸陽 に都し、宮室を広大にし、南は渭に臨み、北は涇に臨んだ。思心を失い、土気に逆らった。足とは止まることである。秦に戒めて奢侈を止めよ、さもなくば危亡を招かん、と。秦はついに改めず、離宮三百に至り、また阿房宮を起こしたが、完成せずして滅亡した。一説には、牛は力を以て人の用に供し、足は行くためのものである。その後、秦は大いに民力を用いて転輸させ、海辺から北辺までを起こし、天下これに叛いた。京房の『易伝』に言う、「徭役を興し、民の時を奪う。その妖は牛、五足を生ず」。

景帝の中六年、梁の孝王が北山で狩猟をしていたとき、牛を献上する者がいて、その牛の足が背中から出ていた。劉向はこれを牛の災いの前兆と見なした。これ以前に孝王は驕り高ぶって奢侈を極め、方三百里の苑を造営し、宮殿や楼閣、回廊が三十余里にわたって連なっていた。邪臣の羊勝の計略を受け入れ、漢の後継者になろうと望み、議臣の爰盎を刺殺したが、事が発覚し、斧を背負って死罪に服した。その後、封国に戻されたが、なお恨みの心を抱き、内面では思慮が乱れ、外面では土木工事が規定を超えていたため、牛の災いが起こったのである。足が背中から出ているのは、下の者が上の者を害する象徴である。それでも自らを省みることができず、急病を発して突然死した。これはまた、凶事で短命の極みである。

左氏伝によると、昭公二十一年の春、周の景王が無射の鐘を鋳造しようとしたとき、楽官の州鳩が言った。「王は心の病でお亡くなりになるでしょう。天子は風俗を観察して音楽を作ります。小さいものは細かすぎず、大きいものは大きすぎません。大きすぎると心に響かず、心はそれによって動揺し、動揺が実際に病気を生みます。今、鐘は大きすぎます。王の心は満足されず、どうして長くお続きになれましょうか。」劉向は、この時、景王が淫らな音楽を好んで聴き、嫡子と庶子の区別がはっきりせず、心の思いが乱れていたため、と考える。翌年、景王は心の病で崩御した。これは心腹の病に近く、凶事で短命の極みである。

昭公二十五年の春、魯の叔孫昭子が宋に聘問したとき、元公が宴を開き、酒を飲んで楽しみ、語り合って泣いた。楽祈が宴の補佐をし、人に告げて言った。「今年、君と叔孫は二人とも死ぬだろう。私は聞いている。悲しむべき時に楽しみ、楽しむべき時に悲しむのは、どちらも心を失っているのだ。心の精気は、これを魂魄という。魂魄が離れてしまえば、どうして長くいられようか。」冬十月、叔孫昭子が死に、十一月、宋の元公が卒去した。

昭帝の元鳳元年九月、燕に黄色い鼠が自分の尾をくわえて王宮の端門の中で舞うことがあった。見に行くと、鼠は相変わらず舞っていた。王が夫人に酒と干し肉を供えて祀らせたが、鼠は舞いを止めず、夜になって死んだ。これは黄色い妖祥である。当時、燕の剌王旦が謀反を企てて敗れようとしており、これは死亡の象徴であった。その月、事が発覚し、罪に伏した。京房の易伝に言う。「誅罰が実情を考慮しないと、その妖祥として鼠が門で舞う。」

成帝の建始元年四月辛丑の夜、西北の方角に火の光のようなものがあった。壬寅の朝、大風が西北から起こり、雲気が赤黄色で、天下に四方から満ち溢れ、終日、夜になって地に降り注いだのは黄土の塵であった。この年、皇帝の母方の伯父である大司馬大将軍の王鳳が初めて権力を握った。また、王鳳の同母弟の王崇を安成侯に封じ、食邑一万戸を与えた。庶弟の王譚ら五人に関内侯の爵位を賜り、食邑三千戸を与えた。さらに王鳳に五千戸を加増して封じ、王譚らをことごとく列侯に封じた。これが五侯である。哀帝が即位すると、外戚の丁氏・傅氏・周氏・鄭氏から合わせて六人を列侯に封じた。楊宣が答えて言った。「五侯が封じられた日、天気が赤黄色でしたが、丁氏・傅氏でもまた同じでした。これはおそらく爵位と封土が制度を超え、土の気を傷つけ乱すことの前兆でしょう。」京房の易伝に言う。「易経に『その生を観る』と称しているのは、大臣の道理として、賢人を観察し、その性質や行いを知り、推挙して貢ぐべきだという意味である。そうしなければ、善を知りながら与えないということで、これを不知という。その異変は黄色であり、その過ちは聾であり、その災いは後継者がいなくなることである。黄色とは、太陽の上に黄色い光が散らず火のように燃え、黄色く濁った気が天下に四方から満ち溢れることである。賢者を蔽い、道を絶つので、災異が起こって世が絶えるのである。易経に『良馬逐う』とある。逐は進むことで、大臣が賢者を得て謀るならば、その人を顕彰して進めるべきだという意味である。そうしなければ、下の者が互いに善を奪い合うことで、これを盗明という。その過ちもまた後継者がいなくなることで、ついには身が殺され家が絶えるに至る。」

史記によると、周の幽王二年、周の三川(涇水・渭水・洛水)がすべて震動した。劉向は、金・木・水・火が土を害したためと考える。伯陽甫が言った。「周は滅びようとしている。天地の気はその順序を超えない。もし順序を超えるなら、民が乱したのである。陽が伏せられて出ることができず、陰が迫られて昇ることができないと、地震が起こる。今、三川が実際に震動したのは、陽がその場所を失って陰を鎮圧しているのである。陽が失われて陰の中にあると、水源は必ず塞がれる。水源が塞がれれば、国は必ず滅びる。水は土が潤って民が用いるものである。土が潤わなければ、民は財用に乏しくなり、滅びないでどうしていられようか。昔、伊水と洛水が枯れて夏が滅び、黄河が枯れて商が滅びた。今、周の徳は二代(夏・商)の末世のようであり、その水源がまた塞がれている。塞がれれば必ず枯れる。川が枯れれば、山は必ず崩れる。国は必ず山川に依る。山が崩れ川が枯れるのは、滅亡の徴候である。もし国が滅びるなら、十年を超えない。数は十で一区切りになるからである。」

この年、二川(渭水・洛水)が枯れ、岐山が崩れた。劉向は、陽が陰の中に失われるとは、火の気が来て水を煎り枯らすことを指し、それ故に川が枯れるのだと考える。山川は一体であり、下が枯れれば上が崩れるのは、事の勢いとして当然である。当時、幽王は暴虐で、妄りに誅伐し、諫めを聞き入れず、褒姒に迷い、正后を廃した。廃后の父である申侯が犬戎と共に幽王を攻め殺した。一説には、天文では、水は辰星(水星)に当たり、辰星は蛮夷を表す。月が辰星を食むと、国は女によって滅びる。幽王の敗北は、内では女が乱し、外では夷が攻めたのである。京房の易伝に言う。「君臣が互いに背き合うと、その異変として名ある川の水が絶える。」

文公九年「九月癸酉、地震があった」。劉向は、これ以前に、斉の桓公・晋の文公・魯の釐公という二人の伯たる賢君が新たに没し、周の襄王が道を失い、楚の穆王が父を殺し、諸侯は皆不肖で、権力が下に傾いていたためと考える。天の戒めが言うようである。臣下で強盛な者が動いて害をなすであろう、と。その後、宋・魯・晋・莒・鄭・陳・斉で皆、君主が殺された。地震についての解釈は、ほぼ董仲舒の説に従っている。京房の易伝に言う。「臣下が事を行うに、たとえ正しくても、専断すれば必ず震動する。その震動は、水にあれば波立ち、木にあれば揺れ、屋にあれば瓦が落ちる。大経(常道)が邪辟で臣下が易わる、これを陰動といい、その震動は政務の宮殿を揺るがす。大経が政務を揺るがす、これを不陰といい、その震動は山を揺るがし、山から涌き水が出る。嗣子が徳なく禄を専有する、これを不順といい、その震動は丘陵を動かし、涌き水が出る。」

襄公十六年「五月甲子、地震があった」。劉向は、これ以前に雞澤の会で諸侯が盟を結び、大夫もまた盟を結んだためと考える。この年の三月、諸侯が溴梁の会を開いたが、大夫だけが互いに盟を結び、五月に地震があったのである。その後、崔杼が斉で専権をふるい、欒盈が晋で乱を起こし、良霄が鄭で権勢を傾け、守門人が呉子を殺し、燕では君が追放され、楚が陳と蔡を滅ぼした。

昭公十九年「五月己卯、地震があった」。劉向は、この時、季氏が君を追放する変事を起こそうとしていたためと考える。その後、宋の三臣や曹会が皆、領地を以て反逆し、蔡と莒では君が追放され、呉が中国に敗北し、二人の君を殺した。

二十三年「八月乙未、地震が起こった」。劉向は、この時、周の景王が崩御し、劉氏と単氏が王子猛を立て、尹氏が子朝を立てたためであると考えた。その後、季氏が昭公を追放し、黒肱が邾に背き、呉がその君主僚を殺害し、宋の五大夫と晋の二大夫が皆、領地を以て反乱を起こした。

哀公三年「四月甲午、地震が起こった」。劉向は、この時、諸侯が皆、邪な臣下を信じ、仲尼を用いることができず、盗賊が蔡侯を殺害し、斉の陳乞が君主を しい したためであると考えた。

恵帝二年正月、隴西で地震が起こり、四百余家が押し潰された。武帝の征和二年八月癸亥、地震が起こり、人が押し潰されて死んだ。宣帝の本始四年四月壬寅、河南以東の四十九郡で地震が起こり、北海と琅邪では先祖の廟や城郭が崩壊し、六千余人が死んだ。元帝の永光三年冬、地震が起こった。綏和二年九月丙辰、地震が起こり、京師から北辺の郡国に至る三十余りの城郭が崩壊し、合わせて四百十五人が死んだ。

釐公十四年「秋八月辛卯、沙麓が崩壊した」。穀梁伝によると、「林が山に属するものを麓といい、沙はその名である」。劉向は、臣下が背き離反し、散り散りになって主君に仕えない象徴であると考えた。これに先立ち、斉の桓公は覇道を行い、諸侯を会合させ、周王室に仕えた。管仲が死ぬと、桓公の徳は日に日に衰え、天の戒めは、覇道が廃れ、諸侯が散り散りになり、政権が大夫に移り、陪臣が命令を執り、臣下が主君に仕えなくなるであろう、と言うようであった。桓公は悟らず、天子は隠されてしまった。斉の威王が死ぬと、天下は散り散りになって楚に従った。王札子が二大夫を殺害し、晋が天子の軍を破り、征討する者もなく、ここから衰退した。公羊伝は、沙麓は黄河のほとりの邑であると考えた。董仲舒の説もほぼ同じである。一説には、黄河は大いなる川の象徴であり、斉は大国である。桓公の徳が衰え、覇道が晋の文公に移ろうとしたので、黄河が移動したのである。左伝は、沙麓は晋の地であり、沙は山の名であると考えた。地震によって麓が崩壊したのであり、地震とは記さず、重い事柄を挙げたのである。伯陽甫の言う「

国は必ず山川に依拠する。山が崩れ川が枯れるのは、滅亡の兆しである。十年を過ぎない、数の周期である。」というところである。二十四年に至り、晋の懐公が高梁で殺された。京房の易伝に「小人が屋根を剥ぐ、その妖は山崩れ、これを陰が陽に乗じ、弱が強に勝つという」とある。

成公五年「夏、梁山が崩壊した」。穀梁伝によると、黄河が三日間流れず、晋の君主が群臣を率いて泣くと、ようやく流れた。劉向は、山は陽であり君主であり、水は陰であり民であると考えた。天の戒めは、君主の道が崩壊し、下が乱れ、百姓がその居場所を失うであろう、と言うようであった。泣いてから流れたのは、喪失の象徴である。梁山は晋の地にあり、晋から始まって天下に及んだ。その後、晋は暴虐に三卿を殺し、厲公は しい された。溴梁の会合では、天下の大夫が皆、国政を執り、その後、孫氏と甯氏が衛の献公を追放し、三家が魯の昭公を追放し、単氏と尹氏が王室を乱した。董仲舒の説もほぼ同じである。劉歆は、梁山は晋が祭祀する山であると考えた。崩壊とは、弛んで崩れることである。古くは三代、祭祀を命じるに、祭祀はその国の望む山を越えず、吉凶禍福はこれを過ぎない。国は山川を主とし、山が崩れ川が枯れるのは滅亡の兆しであり、善悪は必ず巡って戻る。この年は歳星が鶉火にあり、十七年後に再び鶉火に戻り、欒書と中行偃が厲公を殺して悼公を立てた。

高后二年正月、武都の山が崩れ、七百六十人が死に、地震は八月まで続いた。文帝元年四月、斉と楚の地の二十九の山が同日に一斉に大水を噴出し、決壊して流れ出た。劉向は、水が土を害する近い現象であると考えた。天の戒めは、斉と楚の君主を盛んにするな、今、制度を失えば、乱をなすであろう、と言うようであった。その後十六年、帝の庶兄である斉の悼恵王の孫の文王則が 薨去 こうきょ し、子がなく、帝は斉の地を分割し、悼恵王の庶子六人を皆、王とした。賈誼と 晁錯 は、古い制度に背き、乱を招く恐れがあると諫めた。景帝三年に至り、斉と楚の七国が百万余りの兵を起こしたが、漢は皆これを破った。春秋時代に四国が同日に災害を受け、漢代に七国が同日に多くの山が崩壊し、皆その害を受けたのは、天威を畏れない明らかな結果である。

成帝の河平三年二月丙戌、犍為の柏江山が崩壊し、捐江山が崩壊し、共に江水を塞き止め、江水が逆流して城を壊し、十三人が死に、地震は二十一日続き、百二十四回動いた。元延三年正月丙寅、蜀郡の岷山が崩壊し、江水を塞き止め、江水が逆流し、三日してようやく通じた。劉向は、周の時に岐山が崩壊し、三川が枯れて幽王が滅亡したことを考えた。岐山は、周が興った地である。漢王朝は本来、蜀漢から起こった。今、起こった地の山が崩れ川が枯れ、星の孛(すい星)がまた摂提や大角に及び、参から辰に至るのは、おそらく必ず滅亡するであろう。その後、三世で後継者が絶え、王莽が帝位を 簒奪 さんだつ した。

皇極が行われないこと

伝に「皇極が行われない、これを不建という。その咎は目がかすむこと、その罰は常に陰ること、その極みは弱さである。時に射妖あり、時に龍蛇の孽あり、時に馬禍あり、時に下人が上を伐つ病あり、時に日月の運行が乱れ、星辰が逆行する」とある。

「皇之不極,是謂不建」とは、皇は君、極は中、建は立つことである。君主の容貌・言論・視察・聴取・思考の五事がすべて失われ、中正を得られなければ、万事を立てることができず、その過失は目がくらみ心が乱れることにある。ゆえにその咎は目がくらむことである。王者は下にいて天を承け、万物を治める。雲は山から起こり、天に満ちる。天気が乱れるゆえに、その罰は常に陰となる。一説には、上が中正を失えば、下が強盛となり君主の明を覆い隠すという。《易経》に「亢龍悔あり、貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位に在りて輔けなし」とある。このように、君主は南面する尊位があっても、一人の助けもなく、ゆえにその極みは弱いのである。盛んな陽気は動き進み、軽やかで速い。

礼によれば、春に大射を行い、陽気に順応する。上が微弱であれば下が奮い立って動く。ゆえに射妖がある。《易経》に「雲は龍に従う」とあり、また「龍蛇の蟄は、以て身を存す」ともある。陰気が動くゆえに、龍蛇の孽がある。易において、乾は君となり馬となる。馬は任用され強力である。君主の気が毀損されるゆえに、馬禍がある。一説には、馬が多く死に、あるいは怪異となることもこれである。君主が乱れかつ弱ければ、人々が叛き、天が見捨てる。明王による誅罰がなければ、 簒奪 さんだつ 弑逆 しいぎゃく の禍がある。ゆえに下の者が上の者を伐つ病がある。およそ君主の道が傷つけられれば、天気が病む。五行が天を害すると言わず、「日月乱行し、星辰逆行す」と言うのは、あたかも下が天を害することを敢えて言わないのと同じである。春秋に「王師、貿戎に敗績す」と言い、誰に敗れたかを言わないのは、自ら敗れたことを記す文体とし、尊ぶべき者を尊ぶ意味である。劉歆の皇極伝には、下の体が上の者を生む病があるという。これを説いて、下の者が上の者を伐ち、天誅がすでに成ったので、もはや病とは言えないとする。皇極の常陰について、劉向は春秋にその応がないとする。一説には、久しく陰って雨が降らないことがこれである。劉歆は自ら常陰に属するとする。

昭帝の元平元年四月に崩御し、後嗣がなく、昌邑王劉賀を立てた。劉賀が即位すると、天が陰り、昼夜を通じて日月が見えなかった。劉賀が出かけようとしたとき、光禄大夫の夏侯勝が車の前に立ちはだかって諫めて言った。「天が久しく陰って雨が降らず、臣下に主上を謀る者がおります。陛下はどこへお出かけになろうというのですか。」劉賀は怒り、夏侯勝を縛って役人に引き渡した。役人が大将軍の 霍光 かくこう に報告すると、 霍光 かくこう はちょうど車騎将軍の張安世と謀り、劉賀を廃そうとしていた。 霍光 かくこう は張安世を責め、言葉を漏らしたと思ったが、張安世は実際には漏らしていなかった。夏侯勝を召し出して問いただすと、夏侯勝は洪範五行伝を上奏して言った。「『皇極にあらず、その罰は常に陰り、時に下の者が上の者を伐つことがある』とあります。はっきりとは言えませんので、臣下に謀りごとがあると申し上げたのです。」 霍光 かくこう と張安世がこれを読んで大いに驚き、このことによって経術の士をますます重んじた。数日後、ついに共に劉賀を廃した。これが常陰の明らかな効験である。京房の易伝に言う。「蜺・蒙・霧がある。霧は上下が合うこと。蒙は塵の雲のようである。蜺は日の傍らの気である。その占いは次のようである。后妃に専横があれば、蜺が二重になり、赤くて専らとなり、衝に至って旱魃となる。妻が一途に順わなければ、黒い蜺が四つ背を向け、また白い蜺が二つ日の中から出る。妻が貴ぶことで夫を高めることを擅陽といい、蜺が四方にあり、日光が陽らかでなく、解けて温かくなる。内に取ることを禽といい、蜺が禽のようで、日の傍らにある。尊ぶことを以て妃を降すことを薄嗣といい、蜺が直で塞がり、六辰を経て除かれ、夜に星が現れて赤い。女が始めを変えないことを乗夫といい、白い蜺が日の側にあり、黒い蜺がそれを包む。気が正しく直い。妻が正しく順わないことを擅陽といい、蜺が中から覗き貫いて外に専らとなる。夫妻が厳かでないことを媟といい、蜺が日と会う。婦人が国を擅ることを頃といい、白い蜺が日の中を貫き、赤い蜺が四つ背を向ける。嫡が答えないことを不次といい、蜺が直に左にあり、蜺が交わって右にある。専らでない者を取ることを危嗣といい、蜺が日を抱いて両端が及ばない。君が外で淫らなことを亡といい、蜺の気が左で日が外と交わる。達しない者を取ることを不知といい、白い蜺が明を奪って大いに温かく、温かくて雨が降る。尊卑が別れないことを媟といい、蜺が三度出て三度止み、三辰を経て除かれ、除かれると日が出てかつ雨が降る。臣が私的に禄を親族に及ぼすことを罔辟といい、その異は蒙であり、その蒙はまず大いに温かく、やがて蒙が起こり、日が見えなくなる。善を行って上に請わないことを作福といい、蒙が一日に五度起こり五度解ける。君主が下に謀らないで、臣が異なる道を行くことを不見といい、上は蒙り下は霧り、風が三度変じてともに解ける。嗣子を立てて疑うことを動欲といい、蒙が赤く、日が明らかでない。徳が順序だっていないことを不聡といい、蒙り、日が明らかでなく、温かくて民が病む。徳を試みず、空言で禄を与えることを主窳臣夭といい、蒙が起こって白くなる。君が逸楽の人を楽しむことを放といい、蒙り、日が青く、黒雲が日に挟まり、左右前後に行き過ぎて日を過ぎる。公が職に任じないことを怙禄といい、三日間蒙り、また五日間大風が吹き、蒙が解けない。利邪を以て食らうことを閉上といい、蒙が大いに起こり、白雲が山のように行き日を蔽う。公が恐れて道を言わないことを閉下といい、蒙が大いに起こり、日が見えず、雨が降るようで降らず、十二日目に解けて、大雲が日を蔽う。禄が下から生じることを誣君といい、蒙が微かで小雨が降り、やがて大雨となる。下が互いに善を奪い合うことを盗明といい、蒙が黄濁する。下が功を陳べて上に求めることを不知といい、蒙り、微かに赤く、風が枝を鳴らし、解けてまた蒙る。下が刑を専らにすることを分威といい、蒙って日が明るくならず、大臣が小臣を圧することを蔽といい、蒙が微かで、日が明らかでなく、解けるようで解けず、大風が起こり、赤雲が起こって日を蔽う。衆が悪を悪しまないことを閉といい、蒙り、尊卦が用事となり、三日目に起こり、日が見えなくなる。言葉を漏らして喜びがないことを下厝用といい、蒙が微かで、日に光がなく、雨雲があり、雨が降らない。忠を廃し佞に惑うことを亡といい、蒙り、天がまず清くて急に、蒙が微かで日が明らかでない。逸民がいることを不明といい、蒙が濁り、日光を奪う。公が職に任じないことを不絀といい、蒙が白く、三辰が止み、すると日が青く、青くて寒く、寒ければ必ず雨が降る。忠臣が善を進めるのに君が試みないことを遏といい、蒙り、まず小雨が降り、雨がやんで蒙が起こり、微かで日が明らかでない。衆を惑わす者が位にあることを覆国といい、蒙が微かで日が明らかでなく、一たび温かく一たび寒く、風が塵を揚げる。佞を知って厚くすることを庳といい、蒙が甚だしくて温かい。君臣が故意に弼めることを悖といい、その災いは風雨霧であり、風が木を抜き、五穀を乱し、やがて大霧となる。庶正が悪を蔽うことを生孽災といい、その異は霧である。」これらは皆、陰雲の類である。

荘公十八年「秋、蜮あり」。劉向は、蜮は南越に生じるとする。越の地には婦人が多く、男女が同じ川に入り、淫らな女が主となり、乱れた気から生じる。ゆえに聖人がこれに蜮と名付けた。蜮は惑いに似て、水辺にいて人を射ることができ、射られた場所によっては、甚だしい場合は死に至る。南方ではこれを短弧と呼び、射妖に近く、死亡の象徴である。当時、荘公が斉の淫らな女を娶ろうとしたので、蜮が現れた。天の戒めは、斉の女を娶るな、淫らな惑いや 簒奪 さんだつ 弑逆 しいぎゃく の禍を生じさせるであろう、ということであった。荘公は悟らず、ついに娶った。入国後、二人の叔父と淫らな関係を持ち、二人の叔父は死に、二人の子は しい 殺され、夫人も誅殺された。劉歆は、蜮は盛んな暑さから生じ、越から来たのではないとする。京房の易伝に言う。「忠臣が善を進めるのに君が試みなければ、その咎は国に蜮が生じることである。」

史記によると、魯の哀公の時、隼が陳の朝廷に集まって死に、楛の矢が貫き、石の鏃で、長さ一尺八寸あった。陳の閔公は使者を遣わして仲尼(孔子)に問わせた。仲尼は言った。

隼が遠方から来たのは古いことだ!昔、武王が商を滅ぼした時、百蛮に道を通し、それぞれの土地の産物を持って来て貢がせた。粛慎は楛矢と石の砮を貢ぎ、長さは一尺八寸あった。先王は異姓を遠方に分けて職務につかせ、服属を忘れさせないようにした。それゆえ、陳に粛慎の矢を分け与えたのだ。」試しに古い倉庫で探させると、果たしてそれを見つけた。劉向は、隼は黒い災いの前兆に近く、貪欲で暴虐な類いであると考えた。矢がそれを貫いたのは、射撃の妖異に近い。朝廷で死んだのは、国が滅びる兆しである。これは陳の眊の乱れを象徴し、周に仕えることを服さず、貪欲で暴虐な行いをし、遠方の夷狄による災禍を招き、滅ぼされることになることを示している。この時、中国では斉と晋が、南夷では呉と楚が強かった。陳は晋と交わり親密ではなく、楚に付いても固くなく、しばしば二国の災禍を受けた。後に楚に白公の乱があり、陳はそれに乗じて侵攻したが、結局楚に滅ぼされた。

『史記』によると、夏后氏が衰えた時、二匹の龍が夏の朝廷に現れ、「我らは褒の二君である」と言った。夏の帝は占って、龍を殺すか、追い払うか、留めるかを問うたが、いずれも吉ではなかった。龍の涎を請い受け、それを蔵めることを占うと、吉となった。そこで幣帛を並べ、策文を読んで告げた。龍は去り、涎だけが残ったので、それを櫃に入れて蔵めた。その後、夏は滅び、その櫃は殷、周へと伝わり、三代の間、誰も開けなかった。厲王の末年に至り、開けて見ると、涎が朝廷に流れ出し、除くことができなかった。厲王は婦人たちに裸で叫ばせると、涎は玄黿(黒い大亀)に化け、後宮に入った。処妾(後宮の女官)がそれに出会って孕み、子を生んだが、恐れてその子を捨てた。宣王が即位すると、女の童謡に「桑の弓と萁草の矢筒、実に周国を滅ぼす」と歌われた。後にその器物を売る夫婦がいたので、宣王は捕らえて殺させた。その夫婦が去った後、処妾が捨てた妖しい子を見つけ、夜に泣く声を聞き、哀れに思って拾い、褒に逃げた。後に褒人が罪を犯し、その妖しい子を献上して罪を贖った。これが褒姒である。幽王は彼女を見て愛し、子の伯服を生んだ。王は申后と太子の宜咎を廃し、褒姒と伯服を立てて代わりとした。廃后の父である申侯が繒と西の畎戎と共に幽王を攻め殺した。『詩経』に「赫赫たる宗周、褒姒がそれを滅ぼした」とある。劉向は、夏后氏の末世、周の幽王・厲王は皆、天に逆らい乱れたので、龍や黿の怪異があったのだと考えた。これは龍蛇の災いに近い。涎は血である。一説には泡である。桑の弓は桑で作った弓である。萁服はおそらく萁草で作った矢筒で、射撃の妖異に近い。女の童謡は、災いが女から生じ、国が兵乱によって滅びることを示している。

『左氏伝』昭公十九年、鄭の時門の外の洧淵で龍が闘った。劉向は、これは龍の災いに近いと考えた。鄭は小国でありながら晋と楚の間に挟まれ、さらに強国である呉が加わり、鄭はその衝に当たり、徳を修めることができず、三国と闘って自ら危うく滅びようとしていた。この時、子産が政を任され、内では民に恵みを施し、外では巧みな言辞で三国と交わり、鄭はついに災いを免れた。これは徳をもって変異を消し去った効果である。京房の『易伝』に「衆人の心が安らかでないと、その妖は龍が闘う」とある。

恵帝二年正月癸酉の朝、二匹の龍が蘭陵の廷東里の温陵の井の中に現れ、乙亥の夜に去った。劉向は、龍は貴い象徴であるのに庶人の井の中に困じているのは、諸侯が幽閉される災禍に遭うことを象徴していると考えた。その後、呂太后が三趙王を幽閉して殺し、諸呂もついに誅殺され滅んだ。京房の『易伝』に「徳ある者が害に遭うと、その妖は龍が井の中に現れる」とある。また「刑罰を行い暴悪であると、黒龍が井から出る」ともある。

『左氏伝』によると、魯の厳公の時、内側の蛇と外側の蛇が鄭の南門で闘い、内側の蛇が死んだ。劉向は、これは蛇の災いに近いと考えた。これに先立ち、鄭の厲公が宰相の祭仲を脅して兄の昭公を追放し、代わって立った。後に厲公が出奔し、昭公が再び入国した。昭公が死ぬと、弟の子儀が代わって立った。厲公は外から大夫の傅瑕を脅し、子儀を殺させた。これが外蛇が内蛇を殺す象徴である。蛇が死んで六年後に厲公が立った。厳公はこれを聞き、申繻に「まだ妖があるのか」と問うた。申繻は答えて「人が忌み嫌うものは、その気勢が盛んになってそれを招くのであり、妖は人によって起こるのです。人に過失がなければ、妖は自ら起こりません。人が常道を捨てるので、妖があるのです」と言った。京房の『易伝』に「嗣子を立てるのに疑いがあると、その妖は蛇が国門に居て闘う」とある。

『左氏伝』文公十六年夏、蛇が泉宮から出て、国都に入り、その数は先君の数と同じであった。劉向は、これは蛇の災いに近いと考えた。泉宮は苑の中にあり、公の母である姜氏がかつてここに住んでいた。蛇がそこから出たのは、宮殿が住まわれなくなることを象徴している。『詩経』に「虺や蛇は、女子の兆し」とある。また、蛇が国都に入るのは、国に女に関する憂いが起こることを示す。先君の数と同じであるのは、公の母がまもなく 薨去 こうきょ することを象徴している。秋、公の母が 薨去 こうきょ した。公はこれを嫌い、泉台を壊した。そもそも妖孽は行いに対応して自ら現れるのであり、現れたからといって害をなすのではない。文公は行いを改めて正道に従い、その罰に対処せず、礼に外れたことを行って、その過ちを重ねた。後二年に文公は 薨去 こうきょ し、公子遂が文公の二子である悪と視を殺し、宣公を立てた。文公の夫人は斉に帰った。

武帝の太始四年七月、趙で蛇が城外から入り、邑中の蛇と孝文廟の下で闘い、邑中の蛇が死んだ。その後二年の秋、衛太子の事件が起こり、その事件は趙の人である江充から始まった。

『左氏伝』定公十年、宋の公子の地には白馬の駟(四頭立て)があった。公の寵臣である向魋がそれを欲しがったので、公は取り上げてその尾とたてがみを朱色に染めて与えた。地は怒り、自分の手下に命じて魋を打ちすえ、奪い返した。魋は恐れて逃げようとしたが、公は門を閉めて泣き、目はすっかり腫れた。公の弟の辰が地に言った。「あなたは君主に対する礼として、国境を出れば十分です。君主はきっとあなたを引き留めるでしょう。」地は陳に出奔したが、公は引き留めなかった。辰が地のために願い出たが、聞き入れられなかった。辰は言った。「これは私が兄を欺いたことになる。私は国人を連れて出奔します。君主は誰と共にお過ごしになりますか。」そして自分の手下と共に陳に出奔した。翌年、ともに蕭に入って反乱を起こし、宋に大きな災いをもたらした。これは馬の災いに近い。

『史記』によると、秦の孝公二十一年に馬が人間を生み、昭王二十年に牡馬が子を生んで死んだ。劉向は、これらは皆、馬の災いであると考えた。孝公は初めて商君の攻守の法を用い、東の諸侯を侵し、昭王に至っては、ますます激しく兵を用いた。その象徴は、武力によって極限まで成功を収めながら、結局は自ら害を受けることになることを示している。牡馬は子を生む類いではないのに、妄りに生んで死んだのは、秦が武力を恃んで天下を得ながら、結局は自ら滅びることを象徴している。また、諸々の畜生がその類いでない子を生めば、子孫には必ずその姓でない者が現れると言われ、始皇帝に至って、果たして呂不韋の子であった。京房の『易伝』に「方伯が威を分かつと、その妖は牡馬が子を生む。天子が失われると、諸侯が互いに伐つ。その妖は馬が人間を生む」とある。

文帝十二年、呉で馬の角が生えた。角は耳の前にあり、上向きであった。右の角は長さ三寸、左の角は長さ二寸で、どちらも太さは二寸であった。劉向は、馬に角が生えるはずがないのは、呉が兵を挙げて上に向かうべきではないのと同じであると考えた。この時、呉王の濞は四郡五十余城を封じられ、内心驕り高ぶり、その変異が外に現れた。天の戒めは早かったのである。王は悟らず、後に挙兵し、誅殺され滅んだ。京房の『易伝』に「臣下が君主を軽んじ、政が順調でないと、その妖は馬に角が生える。これは賢士が足りないことを言う」とある。また「天子が親征すると、馬に角が生える」ともある。

成帝の綏和三年二月、大廄の馬が角を生やし、それは左耳の前にあり、周囲の長さはそれぞれ二寸であった。この時、王莽が大司馬となっており、君主を害する萌芽はここから始まったのである。哀帝の建平二年、定襄の牡馬が駒を産み、三本足であり、群れに従って飲食した。太守がこれを報告した。馬は国の武備に用いるものであり、三本足は任用に耐えない兆しである。後に侍中の董賢が二十二歳で大司馬となり、上公の地位にありながら、天下がこれに従わなかった。哀帝が急死すると、成帝の母である王太后が弟の子である新都侯の王莽を召し入れて、董賢の印綬を没収した。董賢は恐れて自殺し、王莽はこれに代わり、外戚の丁氏・傅氏を誅殺した。また哀帝の傅皇后を廃し、自殺を命じ、帝の祖母である傅太后、母である丁太后の陵墓を発掘し、庶人として改葬した。これは至尊に及ぶ罪であり、大臣が微弱であることの禍いである。

文公十一年、「狄を鹹で破る」。穀梁伝と公羊伝によれば、長狄の兄弟三人がおり、一人は魯へ、一人は齊へ、一人は しん へ行き、皆殺された。その体は九畝に横たわり、その首を断ち切って車に載せると、眉が軾の上に見えた。なぜ記録するのか。異変を記すためである。劉向は、この時、周室が衰微し、三國が強大となり、責められるべきであると考えた。天の戒めはこう言うようである。礼義を行わず、大いに夷狄の行いをなせば、危亡に至るであろうと。その後、三國には皆、 簒奪 さんだつ 弑逆 しいぎゃく の禍いがあり、これは下の者が上の者を伐つ病に近いものである。劉歆は、人の変異であり、黄祥に属すると考えた。一説には、裸蟲の孽に属するという。一説には、天地の性において人は貴く、凡そ人の変異は皆、皇極において下の者が上の者を伐つ病に属するというのである。京房の易伝に言う。「君主が暴虐で乱れ、道ある者を憎むと、その妖は長狄が国に入る。」また言う。「その屋を豊かにし、下は独り苦しむ。長狄が生まれ、世の主は虜となる。」

史記によれば、秦の始皇帝二十六年、大人がおり、長さ五丈、足の大きさ六尺で、皆夷狄の服を着て、合わせて十二人が臨洮に現れた。天の戒めはこう言うようである。大いに夷狄の行いをなすなかれ、その禍いを受けるであろうと。この年、始皇は初めて六国を併合し、反って喜んで瑞祥と考え、天下の兵器を溶かし、金人十二を作ってこれを象った。そこで自ら聖賢であるとし、詩書を焼き、儒士を生き埋めにした。奢侈で淫らで暴虐であり、ひたすら領土を広げようとした。南では五嶺を守備し、北では長城を築いて胡や越に備え、山を削り谷を埋め、西は臨洮から東は遼東まで、直線距離数千里に及んだ。ゆえに大人が臨洮に現れたのは、禍乱の起こることを明らかにしたのである。後十四年にして秦は滅び、その滅亡は戍卒の陳勝が起こしたことから始まった。

史記によれば、魏の襄王十三年、魏に女子が丈夫に化する者があった。京房の易伝に言う。「女子が丈夫に化する、これを陰昌といい、賤しい者が王となる。丈夫が女子に化する、これを陰勝といい、その咎は滅亡である。」一説には、男が女に化するのは、宮刑が濫用されるためである。女が男に化するのは、婦人の政治が行われるためである。

哀帝の建平年間、 章に男子が女子に化し、嫁いで人の妻となり、一子を産んだ。長安の陳鳳は、これは陽が陰に変わることで、後継者が亡び、自らが生み出す兆しであると言った。一説には、嫁いで人の妻となり一子を産むのは、さらに一世を経てから絶えるであろうという。

哀帝の建平四年四月、山陽の方與の女子、田無嗇が子を産んだ。生まれる二ヶ月前から、児が腹中で啼き、生まれると養育せず、路傍に葬った。三日後、人が通りかかって啼き声を聞き、母が掘り出して養育した。

平帝の元始元年二月、朔方の広牧の女子、趙春が病死し、棺に納めて六日目に、棺の外に出て、夫と死んだ父に会ったと言い、「二十七歳では死ぬべきではない」と言った。太守の譚がこれを報告した。京房の易伝に言う。「『父の蠱を幹め、子あり、考(父)に咎なし』。子が三年父の道を改めず、思い慕って暇がなく、また重ねて先人の非を見る。そうでなければ私心のためであり、その妖は人が死んで復活する。」一説には、至陰が陽となり、下の者が上の者となるためである。

六月、長安の女子が児を産み、二つの頭は首が異なり顔は互いに向き合い、四本の腕が胸を共有して共に前方を向き、臀部に目があり長さ二寸ほどであった。京房の易伝に言う。「『睽孤(乖離して孤独)、豕の塗を負うを見る』、その妖は人が二つの頭を生む。下の者が互いに善を奪い合うと、妖も同じである。人や六畜の首や目が下にある、これを上なきものといい、政が変革されようとしている。凡そ妖が起こるのは、正しさを失ったことを譴責するためであり、それぞれその類いを象徴する。二つの首は、下が一つでないこと。足が多いのは、任用する者が邪なこと。足が少ないのは、下が任に堪えないか、あるいは下を任用しないこと。凡そ下の体が上に生じるのは、不敬である。上の体が下に生じるのは、軽慢である。その類いでないものが生じるのは、淫乱である。人が生まれて大きいのは、上が速成すること。生まれて言葉を話すのは、虚偽を好むこと。群妖はこの類いによって推し量り、改めなければ凶事となる。」

景帝二年九月、膠東の下密の人で七十余歳の者が角を生やし、角に毛があった。この時、膠東・膠西・済南・齊の四王に挙兵して反逆を謀る計画があり、その謀は呉王の濞から起こり、楚・趙と連なり、合わせて七国であった。下密は県であり、四齊の中央にある。角は兵の象徴で、上(朝廷)に向かうものである。老人は呉王の象徴である。七十歳は七国の象徴である。天の戒めはこう言うようである。人は角を生やすべきではなく、諸侯は兵を挙げて京師に向かうべきではない。禍いは老人から生じ、七国は共に敗れるであろうと。諸侯は悟らず、翌年、呉王が先に立ち、諸侯がこれに従い、七国は共に滅んだ。京房の易伝に言う。「冢宰が政権を専断すると、その妖は人が角を生やす。」

成帝の建始三年十月丁未、京師で互いに驚き、大水が来ると言い触らした。渭水の虒上の小女、陳持弓、九歳が、横城門に走り入り、未央宮の尚方掖門に入った。殿門の門衛や戸を守る者は誰も気づかず、句盾の禁中に至って発見された。民が水のことで驚き騒ぐのは、陰気が盛んなためである。小女が宮殿の中に入るのは、下の者が女寵によって宮室に居座る兆しである。名を持弓というのは、周の家の檿弧の祥瑞に似ている。《易》に言う。「弧矢の利は、もって天下を威する。」この時、帝の母である王太后の弟の鳳が初めて上将となり、国政を執った。天はその後に天下を威して宮室に入ることを知り、故に象が先に現れたのである。その後、王氏の兄弟父子が五侯として権力を握り、王莽に至って遂に天下を 簒奪 さんだつ した。これはおそらく陳氏の後のことである。京房の易伝に言う。「妖言が衆を動かす、これを不信といい、路は人を亡くし、司馬は死す。」

成帝の綏和二年八月庚申の日、鄭通里の男子である王褒が、深紅色の衣を着て小さな冠をかぶり、剣を帯びて北司馬門の殿東門に入り、前殿に上り、非常室の中に入って、帷の組を解き結んで佩用し、前殿署長の業らを招いて言った。「天帝が私にここに住むよう命じられた。」業らは彼を捕縛し取り調べた。王褒はかつて公車の大誰卒であり、狂病にかかっており、自分が宮中に入った様子を自覚していなかった。獄に下されて死んだ。この時、王莽が大司馬であった。哀帝が即位すると、王莽は骸骨を乞うて邸に退いたが、天は彼が必ず退かないことを知っていたので、この事件によって象徴を示したのである。姓名と衣服の模様は極めて明らかであり、まっすぐに前殿の路寝に上り、室に入って組を取って佩用し、天帝の命令と称したが、当時の人々は誰もこれを察知しなかった。後に王莽が封国に赴くと、天下の人は彼を冤罪と思い、哀帝は王莽を召し出して京師に還した。翌年、帝が崩御すると、王莽は再び大司馬となり、このことを契機に国を 簒奪 さんだつ した。

哀帝の建平四年正月、民衆が驚いて走り回り、稲わらや麻幹を一本ずつ持ち、次々に手渡し、「 詔 籌を行く」と言った。道中で出会う者は千数にまで及び、ある者は髪を振り乱して徒歩で走り、ある者は夜に関を破り、ある者は牆を越えて入り、ある者は車馬に乗って奔走し、駅伝を設置して行き、二十六の郡国を経て、京師に至った。その夏、京師や郡国の民衆が里巷の道で集まり会合し、祭を設け博具を広げ、歌舞して西王母を祀り、また伝書して言った。「母が百姓に告げる、この書を佩用する者は死なない。私の言葉を信じないなら、門の枢の下を見よ、白髪があるはずだ。」秋まで続いた。この時、帝の祖母である傅太后が驕慢で、政事に関与していたので、杜鄴が答えて言った。「春秋の災異は、象徴を指して言語とする。籌は、数を記すものである。民は陰であり、水の類である。水は東流するのが順で走るが、西に行くのは、逆に類して上に逆らう象である。数度が放溢し、妄りに互いに与え合い、民心に背く応である。西王母は、婦人の称である。博弈は、男子の事である。街巷の道で行うのは、閫内を離れ、疆外と交わることを明らかにする。事に臨んで盤楽するのは、炕陽の意である。白髪は、衰年の象であり、体は尊く性は弱く、治め難く乱れ易い。門は、人の出入りする所であり、枢はその要である。人の出入りする所に居て、その要を制持する。その明らかなことは甚だしい。今、外戚の丁氏と傅氏が共に帷幄に侍し、列位に布き、罪悪ある者は罰せられず、功能なき者は皆官爵を受ける。皇甫や三桓は、詩人が刺し、春秋が譏るところであり、これ以上甚だしいことはない。指象は昭々として、聖朝を覚醒させようとしているのに、どうして応じないのか。」後に哀帝が崩御すると、成帝の母である王太后が朝政を臨み、王莽が大司馬となり、丁氏と傅氏を誅滅した。一説には、丁氏と傅氏の乱は小さく、この異変は王太后と王莽の応であるという。

下之下

隠公三年「二月己巳、日食があった」。穀梁伝に言う。「日を言って朔を言わないのは、晦の日に食ったのである。」公羊伝に言う。「二日に食った。」董仲舒と劉向は、その後、戎が天子の使者を捕らえ、鄭が魯の隠公を捕え、戴を滅ぼし、衛、魯、宋が皆君を殺したと考えた。左氏の劉歆は、正月二日であり、燕と越の分野であると考えた。およそ太陽が運行して変異があると、その分野の国で失政がある者がそれを受ける。人君が政事を修め、その罰を共に防げば、災いは消えて福が至る。できなければ、災いは止まず禍が生じる。故に経は災いを記してその原因を記さない。吉凶は常なく、行いに随って禍福を成すからである。周が衰え、天子が朔を頒たず、魯の暦が正しくなく、閏月を置くのに月を得ず、月の大小が度を失った。史記が食いと言うのは、あるいは朔と言って実は朔でないか、あるいは朔と言わないで実は朔であるか、あるいは脱漏して朔と日を書かないか、いずれも官の失いである。京房の易伝に言う。「師を亡くすこれを不御という。その異は日食であり、その食いは既に起こり、一か所でなく併せて食う。誅罰が多く理を失う、これを生叛という。その食いは既に起こり、光が散る。畔を放任する、これを不明という。その食いは先ず大雨が三日続き、雨が止んで寒くなり、寒くなるとすぐに食う。禄を専有して封じない、これを不安という。その食いは既に起こり、先に日が出て黒くなり、光が外を照らす。君臣通ぜざる、これを亡という。その蝕は三度既に起こる。同姓が上を侵す、これを君を誣うという。その食いは四方に雲があり、中央に雲がなく、その日は大寒である。公が主位を弱めようとする、これを不知という。その食いは中央が白く青く、四方が赤く、食った後地震が起こる。諸侯が互いに侵す、これを不承という。その食いは三度毀れ三度復する。君が善を疾む、下が上を謀る、これを乱という。その食いは既に起こり、先に雨雹があり、走獣を殺す。君を しい して位を獲る、これを逆という。その食いは既に起こり、先に風雨があり木を折り、日が赤くなる。内臣が外に向かう、これを背という。その食いは食いかつ雨が降り、地中が鳴る。冢宰が専政する、これを因という。その食いは先に大風があり、食う時に日が雲中に居り、四方に雲がない。伯正が職を越える、これを分威という。その食いは日中に分かれる。諸侯が上で美を争う、これを泰という。その食いは日が月を傷つけ、食いは半分で、天が営々として鳴る。賦を得ざる、これを竭という。その食いは星が随って下る。命を受けた臣が征伐を専行する、これを試という。その食いは侵されても光はなお明るく、文王の臣が独り紂を誅したようである。小人が命を受けるに順ってその君を征する、これを殺という。その食いは五色で、大寒に至り霜が降り、紂の臣が武王に順って紂を誅したようである。諸侯が制度を変える、これを叛という。その食いは三度復し三度食い、食い終わって風が起こり、地が動く。嫡が庶に譲る、これを生欲という。その食いは日が位を失い、光が晻々として、月の形が現れる。酒に節なく、これを荒という。その蝕は突然青く突然黒く突然赤くなり、明日大雨が降り、霧が発生して寒くなる。」およそ食いについて二十の占いがあり、その形は二十四种ある。改めればすぐに除かれる。改めなければ三年、三年改めなければ六年、六年改めなければ九年である。隠公三年の食いを推すと、中央を貫き、上下が尽きて黒く、臣が 弑逆 しいぎゃく を中で成す形である。後に衛の州吁が君を しい して立った。

桓公三年「七月壬辰朔、日食があり、既に起こった」。董仲舒と劉向は、前の事が既に大きく、後ろの事が来ようとしているのもまた大きいとすれば、既に起こると考えた。先に魯と宋が君を しい し、魯はまた宋の乱を成し、許田を易え、天子に事える心を失った。楚が僭称して王となった。後に鄭が王師を拒み、桓王を射、また二君が相篡した。劉歆は、六月であり、趙と晋の分であると考えた。先に、晋の曲沃伯が再び晋侯を しい し、この歳に晋は大乱し、その宗国を滅ぼした。京房の易伝は、桓公三年の日食は中央を貫き、上下が尽きて黄く、臣が 弑逆 しいぎゃく して成し遂げられない形であると考えた。後に楚の厳が王を称し、地を千里兼ねた。

十七年「十月朔、日食があった」。穀梁伝に言う、朔を言って日を言わないのは、二日に食ったのである。劉向は、この時衛侯の朔が罪あって斉に奔り、天子が衛君を更に立てた。朔は五国の助力を借り、兵を挙げてこれを伐って自ら立ち、王命は遂に壊れたと考えた。魯の夫人が斉で淫失し、遂に威公を殺した。董仲舒は、朔を言って日を言わないのは、魯の桓公に夫人の禍があり、終日を持たないことを憎んだのであると考えた。劉歆は、楚と鄭の分であると考えた。

厳公十八年「三月、日食があった」。穀梁伝に言う、日を言わず、朔を言わないのは、夜に食ったのである。史が推して合朔が夜にあり、明け方に日食が出て、出て解けた、これを夜食という。劉向は、夜食とは、陰が日の明るさの衰えに因ってその光を奪うことであり、周の天子が明らかでなく、斉の桓公がその威を奪い、諸侯を専ら会して伯道を行おうとする象であると考えた。その後、遂に九度諸侯を会合し、天子が世子をしてこれに会わせた。これがその効である。公羊伝に食晦と言う。董仲舒は、宿が東壁にあり、魯の象であると考えた。後に公子の慶父と叔牙が果たして夫人と通じて公を劫かした。劉歆は、晦であり、魯と衛の分であると考えた。

二十五年「六月辛未の朔、日食があった」。董仲舒は、宿が畢にあり、辺境の兵や夷狄を象徴するものと考えた。後に狄が邢・衛を滅ぼした。劉歆は、五月二日、魯・趙の分野であると考えた。

二十六年「十二月癸亥の朔、日食があった」。董仲舒は、宿が心にあり、心は明堂であり、文武の道が廃れ、中国が糸のように細くかろうじて絶えず続いている象徴であると考えた。劉向は、当時、戎が曹を侵し、魯の夫人が慶父・叔牙と淫通し、君主を しい さんとしていたので、連年にわたって再び日食が起こり、戒めを示したのだと考えた。劉歆は、十月二日、楚・鄭の分野であると考えた。

三十年「九月庚午の朔、日食があった」。董仲舒・劉向は、後に魯で二人の君主が しい され、夫人が誅殺され、二人の弟が死に、狄が邢を滅ぼし、徐が舒を取し、晋が世子を殺し、楚が弦を滅ぼしたと考えた。劉歆は、八月、秦・周の分野であると考えた。

僖公五年「九月戊申の朔、日食があった」。董仲舒・劉向は、先に斉の桓公が覇道を行い、江・黄が自ら来朝し、南方の強楚を服従させた。その後、内政を自ら正さず、外では陳の大夫を捕らえたため、陳・楚が従わず、鄭伯が盟約から逃れ、諸侯が桓公の政治に従わなくなるので、天が戒めを示したと考えた。その後、晋が虢を滅ぼし、楚が許を囲み、諸侯が鄭を伐ち、晋で二人の君主が しい され、狄が温を滅ぼし、楚が黄を伐ち、桓公は救うことができなかった。劉歆は、七月、秦・晋の分野であると考えた。

十二年「三月庚午の朔、日食があった」。董仲舒・劉向は、この時、楚が黄を滅ぼし、狄が衛・鄭を侵し、莒が杞を滅ぼしたと考えた。劉歆は、三月、斉・衛の分野であると考えた。

十五年「五月、日食があった」。劉向は、晋の文公が覇道を行おうとし、後に衛を伐ち、曹伯を捕らえ、楚を城濮で破り、再び諸侯を会合させ、天王(周王)を召して朝見させたことの効験であると考えた。日食は臣下の悪であり、夜の食(日食)はその罪を覆い隠すものであり、上に明王がおらず、桓公・文公が覇道を行い、夷狄を攘い、中国を安んずることができたので、正しくはないがまだ許されたのだと考えた。これは『春秋』が実質では与し、文面では与しないという義であろう。董仲舒は、後に秦が晋侯を捕らえ、斉が項を滅ぼし、楚が婁林で徐を破ったと考えた。劉歆は、二月の朔、斉・越の分野であると考えた。

文公元年「二月癸亥、日食があった」。董仲舒・劉向は、先に大夫が初めて国政を執り、公子遂が京師へ行き、後に楚の世子商臣が父を殺し、斉の公子商人が君を しい し、皆自立し、宋の子哀が出奔し、晋が江を滅ぼし、楚が六を滅ぼし、大夫の公孫敖・叔彭生がともに会盟を専断したと考えた。劉歆は、正月の朔、燕・越の分野であると考えた。

十五年「六月辛丑の朔、日食があった」。董仲舒・劉向は、後に宋・斉・莒・晋・鄭の八年の間に五人の君主が殺害され、舒蓼が夷滅されたと考えた。劉歆は、四月二日、魯・衛の分野であると考えた。

宣公八年「七月甲子、日食があり、既に食した」。董仲舒・劉向は、先に楚の商臣が父を しい して立ち、厳王に至って遂に強盛となった。諸夏の大国は斉・晋のみであったが、斉・晋は新たに さん しい の禍があり、内は皆安らかではなかった。故に楚はその弱みに乗じて横行し、八年の間に六度侵伐し、一国を滅ぼした。陸渾の戎を伐ち、周室に兵を観し、後にまた鄭に入り、鄭伯は肉袒して謝罪し、北では邲で晋師を破り、流血が水の色のようになり、宋を九月にわたり包囲し、骸を析いて炊いだと考えた。劉歆は、十月二日、楚・鄭の分野であると考えた。

十年「四月丙辰、日食があった」。董仲舒・劉向は、後に陳の夏徵舒がその君を しい し、楚が蕭を滅ぼし、晋が二国を滅ぼし、王札子が召伯・毛伯を殺したと考えた。劉歆は、二月、魯・衛の分野であると考えた。

十七年「六月癸卯、日食があった」。董仲舒と劉向は、後に邾が鄫子を支解し、晋が貿戎で王師を破り、鞍で斉を破ったことによるものと考えた。劉歆は、三月の晦朓で魯・衛の分野にあると考えた。

成公十六年「六月丙寅朔、日食があった」。董仲舒と劉向は、後に晋が鄢陵で楚・鄭を破り、魯侯を捕らえたことによるものと考えた。劉歆は、四月二日に魯・衛の分野にあると考えた。

十七年「十二月丁巳朔、日食があった」。董仲舒と劉向は、後に楚が舒庸を滅ぼし、晋がその君を しい し、宋の魚石が楚に因って君の邑を奪い、莒が鄫を滅ぼし、斉が萊を滅ぼし、鄭伯が しい されて死んだことによるものと考えた。劉歆は、九月に周・楚の分野にあると考えた。

襄公十四年「二月乙未朔、日食があった」。董仲舒と劉向は、後に衛の大夫孫・甯が共に献公を追放し、孫剽を立てたことによるものと考えた。劉歆は、前年の十二月二日に宋・燕の分野にあると考えた。

十五年「八月丁巳、日食があった」。董仲舒と劉向は、先に晋が雞澤の会を開き、諸侯が盟い、また大夫が盟ったこと、後に溴梁の会では、諸侯がいるのに大夫だけが互いに盟い、君は綴斿のようで、手を挙げることができなかったことによるものと考えた。劉歆は、五月二日に魯・趙の分野にあると考えた。

二十年「十月丙辰朔、日食があった」。董仲舒は、陳の慶虎・慶寅が君の明を蔽い、邾の庶其に叛心があったこと、後に庶其が漆・閭丘を以て来奔し、陳が二慶を殺したことによるものと考えた。劉歆は、八月に秦・周の分野にあると考えた。

二十一年「九月庚戌朔、日食があった」。董仲舒は、晋の欒盈が君を犯そうとしたこと、後に曲沃に入ったことによるものと考えた。劉歆は、七月に秦・晋の分野にあると考えた。

「十月庚辰朔、日食があった」。董仲舒は、宿が軫・角にあり、楚の大国の象であること、後に楚の屈氏が公子追舒を讒言して殺し、斉の慶封が君を脅して国を乱したことによるものと考えた。劉歆は、八月に秦・周の分野にあると考えた。

二十三年「二月癸酉朔、日食があった」。董仲舒は、後に衛侯が陳儀に入り、甯喜がその君剽を しい したことによるものと考えた。劉歆は、前年の十二月二日に宋・燕の分野にあると考えた。

二十四年「七月甲子朔、日食があり、皆既食となった」。劉歆は、五月に魯・趙の分野にあると考えた。

八月癸巳の朔、日食があった。董仲舒は、これは日食がまた皆既食となったもので、陽(天子の徳)が絶えようとする兆しであり、夷狄が上国(天子の国)を支配する象であると考えた。その後、六人の君主が しい 殺され、楚子(楚の王)は果たして諸侯を率いて鄭を伐ち、舒鳩を滅ぼし、魯は楚に朝見し、ついに中国を主宰し、呉を伐って慶封を討った。劉歆は、六月に晋・趙の分野であると考えた。

二十七年「十二月乙亥の朔、日食があった」。董仲舒は、礼義が大きく滅び絶えようとする象であると考えた。当時、呉子(呉の君)は勇を好み、刑人に門を守らせた。蔡侯は世子の妻と通じた。莒は早く後継ぎを立てなかった。その後、閽人が呉子を殺害し、蔡の世子般はその父を しい し、莒の人々も君主を しい して庶子たちが争った。劉向は、二十年からこの年まで、八年間に日食が七度起こり、禍乱が重ねて起ころうとしていたので、天がなおも戒めを示したのだと考えた。その後、斉の崔杼が君主を しい し、宋は世子を殺し、北燕伯が出奔し、鄭の大夫が外から入って位を 簒奪 さんだつ した。おおよその指摘は董仲舒と同じである。劉歆は、九月に周・楚の分野であると考えた。

昭公七年「四月甲辰の朔、日食があった」。董仲舒と劉向は、これ以前に楚の霊王が君主を しい して立ち、諸侯と会合し、徐子を捕らえ、頼を滅ぼし、その後、陳の公子招が世子を殺し、楚はそれによって陳を滅ぼし、また蔡を滅ぼし、後に霊王もまた しい 殺されて死んだことと関連づけた。劉歆は、二月に魯・衛の分野であると考えた。伝(左伝)に曰く、晋侯が士文伯に問うて言った。「誰が日食の災いを受けるのか?」 答えて言った。「魯と衛が悪いでしょう。衛が大きく、魯が小さい。」 公が言った。「何故か?」 答えて言った。「衛の地を去り、魯の地に入ります。そうして災いがあるのです。それは衛の君でしょうか?魯は上卿でしょう。」 この年、八月に衛の襄公が卒し、十一月に魯の季孫宿が卒した。晋侯が士文伯に言った。「私が問うた日食のことは当たった。常にそう言えるのか?」 答えて言った。「できません。六つの物が同じでなく、民心が一つでなく、事の順序が同じ類でなく、官職が法則どおりでなく、始まりは同じでも終わりが異なるのです。どうして常と言えましょうか?『詩経』に『ある者は安らかに居て息み、ある者は心身を尽くして国に事える』とあります。その終わりの異なることはこのようなものです。」 公が言った。「六物とは何か?」 答えて言った。「

歳、時、日、月、星、辰をこれと言う。」 公が言った。「辰とは何か?」 答えて言った。「日月の会する所をこれと言う。」 公が言った。「詩に『この日に食む、何ぞ臧からざる』とあるのは、どういうことか?」 答えて言った。「不善の政を言うのです。国に善政がなく、善を用いないならば、自ら日月の災いに適うことを取るのです。故に政は慎まざるべからず、務めは三つだけです。一つは人を択ぶこと、二つは民に因ること、三つは時に従うことです。」 これは日食の占いを推し、変異が繰り返される要点を述べたものである。「易経」に言う。「天に象を懸けて明らかにするもの、日月より大なるは莫し。」 それ故に聖人はこれを重んじ、三つの経書に載せている。易においては、豊の卦から震の卦に変ずる爻に「豊その沛たり、日中に昧を見す。その右肱を折る。咎亡し」とある。詩経の十月の交(十月之交)においては、卿士、 司徒 しと から下は趣馬、師氏に至るまで、皆その材に非ざることを著しくしている。右肱の折られる所と同じであり、三つの務めにおいて択ぶ所に協い、小人が君子に乗じ、陰が陽を侵す根源を明らかにしている。

十五年「六月丁巳の朔、日食があった」。劉歆は、三月に魯・衛の分野であると考えた。

十七年「六月甲戌の朔、日食があった」。董仲舒は、当時、宿が畢にあり、晋国の象であると考えた。晋の厲公が四大夫を誅殺し、衆人の心を失い、 しい 殺されて死んだ。その後、敢えて再び大夫を責める者もなく、六卿は遂に互いに結託し、晋国を専断し、君主はかえって彼らに事えた。日食が続けて起こったが、その事柄は春秋の時代以後のことなので、経(春秋)には記載されていない。劉歆は、魯・趙の分野であると考えた。左氏伝に平子が言う。「ただ正月の朔に、慝(陰気)が未だ作らず、日食がある場合、ここにおいて天子は不挙を行い、社で鼓を伐ち、諸侯は社で幣を用い、朝で鼓を伐つ。これが礼である。それ以外の場合はそうではない。」 太史が言う。「この月のことです。日が分(春分点)を過ぎて未だ至らず、三辰(日月星)に災いがあり、百官は降物し、君は不挙を行い、避移時し、楽を奏して鼓を打ち、祝は幣を用い、史は辞を用い、嗇夫は馳せ、庶人は走る。これがこの月の朔の謂です。夏の四月に当たり、これを孟夏と言います。」 説に曰く、正月とは周暦の六月、夏暦の四月を言い、正陽純乾の月である。慝とは陰爻を言う。冬至に陽爻が初め起こるので、復卦と言う。建巳の月(四月)に至って純乾となり、陰爻が無く、陰が陽を侵すのは災いが重いので、鼓を伐ち幣を用い、陰を責める礼を行うのである。降物とは、素服を着ることである。不挙とは、楽(音楽)を去ることである。避移時とは、正堂を避け、時が移り災いが回復するのを待つことである。嗇夫とは、幣を掌る吏である。庶人とは、その徒役である。劉歆は、六月二日に魯・趙の分野であると考えた。

二十一年「七月壬午の朔、日食があった」。董仲舒は、周の景王が老い、劉子・単子が権力を専断し、蔡侯朱が驕り、君臣が悦ばない象であると考えた。後に蔡侯朱は果たして出奔し、劉子・単子は王猛を立てた。劉歆は、五月二日に魯・趙の分野であると考えた。

二十二年「十二月癸酉の朔、日食があった」。董仲舒は、宿が心にあり、天子の象であると考えた。後に尹氏が王子朝を立て、天王(周王)は狄泉に居た。劉歆は、十月に楚・鄭の分野であると考えた。

二十四年「五月乙未の朔、日食があった」。董仲舒は、宿が胃にあり、魯の象であると考えた。後に昭公が季氏によって追放された。劉向は、十五年からこの年まで、十年間に天の戒めが七度現れたが、人君はなお悟らなかったと考えた。後に楚は戎蛮子を殺し、晋は陸渾戎を滅ぼし、盗賊が衛侯の兄を殺し、蔡・莒の君が出奔し、呉は巣を滅ぼし、公子光が王僚を殺し、宋の三臣が邑をもってその君に叛いた。その他のことは董仲舒と同じである。劉歆は、二日に魯・趙の分野であると考えた。この月は斗(北斗七星)が辰を建つ。左氏伝に梓慎が言う。「大水になるでしょう。」 昭子が言う。「旱です。日が分(春分)を過ぎて陽がなお克てない。克つことがあれば必ず甚だしく、旱にならないことがありましょうか!陽が克てないので、陰気が積聚するのです。」 この年の秋、大雩(雨乞いの大祭)があり、旱であった。二至(冬至・夏至)二分(春分・秋分)に日食があっても、災いとはならない。日月の運行は、春秋分には昼夜が等しいので、同道する。冬夏至には昼夜の長短が極まるので、相過する。相過し同道して食が軽いのは、大災いとはならず、水害や旱害だけである。

三十一年「十二月辛亥の朔、日食があった」。董仲舒は、宿が心にあり、天子の象であると考えた。当時、京師(周王室)は微弱で、後に諸侯は果たして相率いて周を城し、宋の中幾は天子を尊ぶ心を亡ぼし、城を衰えさせなかった。劉向は、当時、呉が徐を滅ぼし、蔡が沈を滅ぼし、楚が蔡を囲み、呉が楚を破って郢に入り、昭王が走り出たことと関連づけた。劉歆は、二日に宋・燕の分野であると考えた。

定公五年「三月辛亥朔、日食があった」。董仲舒と劉向は、後に鄭が許を滅ぼし、魯で陽虎が乱を起こし、宝玉と大弓を盗み、季桓子が仲尼(孔子)を退け、宋の三臣が邑を以て叛いたことと関連づけた。劉歆は正月二日で燕・趙の分野と解した。

十二年「十一月丙寅朔、日食があった」。董仲舒と劉向は、後に晋の三大夫が邑を以て叛き、薛がその君を しい し、楚が頓・胡を滅ぼし、越が呉を破り、衛が世子を追放したことと関連づけた。劉歆は十二月二日で楚・鄭の分野と解した。

十五年「八月庚辰朔、日食があった」。董仲舒は、宿が柳にあり、周室が大いに衰え、夷狄が諸夏を主る象であるとした。翌年、中国の諸侯は果たして次々と楚に従って蔡を包囲し、蔡は恐れて州来に遷った。晋人は戎蛮子を捕らえて楚に帰属させた。京師( 洛陽 )は楚の影響下にあるという意味である。劉向は、盗が蔡侯を殺し、斉の陳乞がその君を しい して陽生を立て、孔子が終に用いられなかったことと関連づけた。劉歆は六月で晋・趙の分野と解した。

哀公十四年「五月庚申朔、日食があった」。これは獲麟の後のことである。劉歆は三月二日で斉・衛の分野と解した。

春秋十二公全体を通じて、二百四十二年間に日食は三十六回あった。穀梁伝では朔が二十六回、晦が七回、夜が二回、二日が一回としている。公羊伝では朔が二十七回、二日が七回、晦が二回としている。左氏伝では朔が十六回、二日が十八回、晦が一回、日付を記さないものが二回としている。

高帝三年十月甲戌晦、日食があり、斗宿二十度、燕の地の分野であった。後二年、燕王臧荼が反乱を起こし誅殺され、 盧綰 が燕王に立てられたが、後にまた反乱を起こして敗れた。

十一月癸卯晦、日食があり、虚宿三度、斉の地の分野であった。後二年、斉王 韓信 が楚王に移され、翌年に列侯に廃され、後にまた反乱を起こして誅殺された。

九年六月乙未晦、日食があり、皆既食となり、張宿十三度であった。

恵帝七年正月辛丑朔、日食があり、危宿十三度であった。谷永は、年の初めの正月朔日は三朝(歳・月・日の始まり)であり、尊者(天子)がこれを忌むべきことと解した。

五月丁卯、晦の前日に日食があり、ほとんど皆既に近く、七星宿の初度であった。劉向は、五月は微かな陰気が起こり始めて至陽(太陽)を犯す時期であり、その占いは重いとした。その年の八月に至り、宮車晏駕(皇帝の崩御)があり、呂氏が嗣君を詐って立てる害があった。京房の易伝に言う、「およそ日食が晦や朔でない場合、薄という。人君が理に合わずに誅罰を行い、あるいは賊臣が暴発しようとする時で、日月は同じ宿でなくとも、陰気が盛んになって日光を薄めるのである」。

高后( 呂后 )二年六月丙戌の晦、日食があった。

七年正月己丑の晦、日食があり、皆既食となった。これは営室九度にあり、宮室の中央を占めていた。この時、高后はこれを嫌い、「これは私のためだ!」と言った。翌年、その言葉は現実となった。

文帝二年十一月癸卯の晦、日食があった。婺女一度にあった。

三年十月丁酉の晦、日食があった。斗二十三度にあった。

十一月丁卯の晦、日食があった。虚八度にあった。

後四年四月丙辰の晦、日食があった。東井十三度にあった。

七年正月辛未の朔、日食があった。

景帝三年二月壬午の晦、日食があった。胃二度にあった。

七年十一月庚寅の晦、日食があった。虚九度にあった。

中元年十二月甲寅の晦、日食があった。

中二年九月甲戌の晦、日食があった。

三年九月戊戌の晦、日食があり、ほとんど皆既に近く、尾宿九度であった。

六年七月辛亥の晦、日食があり、軫宿七度であった。

後元年七月 乙巳 いっし 、晦の一日前に、日食があり、翼宿十七度であった。

武帝の建元二年二月丙戌の朔、日食があり、奎宿十四度であった。劉向は、奎は卑賤な婦人を表すと考え、後に衛皇后が微賤から興り、ついに終わりを全うしない禍いがあったとしている。

三年九月丙子の晦、日食があり、尾宿二度であった。

五年正月己巳の朔、日食があった。

元光元年二月丙辰の晦、日食があった。

七月癸未、晦の一日前に、日食があり、翼宿八度であった。劉向は、前年に高園の便殿の災害があり、これは春秋時代に御 りん の災害の後に翼宿・軫宿で日食があったのと同じであると考えた。その占いは、内には女変(女性に関する変事)があり、外には諸侯の変事があるというものであった。その後、陳皇后が廃され、江都王・淮南王・衡山王が謀反を企て、誅殺された。日食は日中に東北から始まり、半分以上を過ぎ、晡時(午後三時頃)に回復した。

元朔二年二月 乙巳 いっし の晦、日食があり、胃宿三度であった。

六年十一月癸丑の晦、日食があった。

元狩元年五月 乙巳 いっし の晦、日食があり、柳宿の六度にあった。京房の易伝が推測したところによると、この時の日食は傍ら右から起こり、法則によれば「君主が臣下を失う」という。翌年、丞相の公孫弘が 薨去 こうきょ した。日食が傍ら左から起こるのも、君主が臣下を失うことである。上から起こるのは、臣下が君主を失うことである。下から起こるのは、君主が民を失うことである。

元鼎五年四月丁丑の晦、日食があり、東井宿の二十三度にあった。

元封四年六月己酉の朔、日食があった。

太始元年正月 乙巳 いっし の晦、日食があった。

四年十月甲寅の晦、日食があり、斗宿の十九度にあった。

征和四年八月辛酉の晦、日食があり、完全ではなく鉤のように欠け、亢宿の二度にあった。晡時に西北から食が始まり、日が下晡時に復した。

昭帝の始元三年十一月壬辰の朔、日食があり、斗宿の九度にあった。これは燕の地である。後四年、燕剌王が謀反を企て、誅殺された。

元鳳元年七月己亥の晦、日食があり、ほとんど完全に近く、張宿の十二度にあった。劉向は、己亥の日に完全な日食となったので、その占いは重いと考えた。後六年、宮車(天子)が晏駕(崩御)し、ついに後嗣を失った。

宣帝の地節元年十二月癸亥の晦、日食があり、営室宿の十五度にあった。

五鳳元年(前57年)十二月乙酉の朔、日食があった。婺女宿の十度であった。

四年(前54年)四月辛丑の朔、日食があった。畢宿の十九度であった。これは正月の朔であり、悪気はまだ起こっていなかったが、左氏(春秋左氏伝)では重なる異変と見なしている。

元帝の永光二年(前42年)三月壬戌の朔、日食があった。婁宿の八度であった。

四年(前40年)六月戊寅の晦、日食があった。張宿の七度であった。

建昭五年(前34年)六月壬申の晦、日食があった。完全に隠れず、鉤のようで、そのまま入った。

成帝の建始三年(前30年)十二月戊申の朔、日食があった。その夜、未央殿で地震があった。谷永が答えて言った。「日食が婺女宿の九度にあるのは、占いでは皇后にあります。地震が蕭牆(宮殿の塀)の内で起こるのは、咎は貴妾(高位の側室)にあります。二つがともに発生したのは、同じ事柄で異なる人、ともに陽(天子)を制圧し、継嗣を害そうとすることを明らかにしています。ただ日食だけなら、妾は現れず、ただ地震だけなら、后は現れません。異なる日に発生すれば、別々の事柄のように見え、原因なく動変が起これば、恐らく理解できないでしょう。今月、后と妾に節度を失う過ちがあるはずなので、天はこのため二つの変異を示されたのです。もし言うならば、婦道に背き、多くの妾を遠ざけ、継嗣の道を妨げ絶つ者は、この二人です。」杜欽も答えて言った。「日が戊申に食するのは、時刻は未の刻を加えています。戊と未は土に属し、中宮(皇后の宮殿)の部類です。その夜、殿中で地震があったのは、これ必ずや適(嫡)妾(正妻と側室)が寵を争い、互いに害し合って患いとなる者があるからです。人事が下で失われれば、変異の象が上に現れます。これに応じて徳を司れば、咎と異変は消え、軽んじて戒めなければ、禍いと敗亡が至ります。これに応じるには、誠がなければ立たず、信がなければ行きません。」

河平元年(前28年)四月己亥の晦、日食があった。完全に隠れず、鉤のようで、東井宿の六度であった。劉向が答えて言った。「四月は五月と交わり、月は孝惠帝の時と同じで、日は孝昭帝の時と同じです。東井宿は、京師(都)の地であり、かつ既の状態なので、その占いは恐らく継嗣を害するでしょう。」日食は早い食時に、西南から始まった。

三年(前26年)八月乙卯の晦、日食があった。房宿であった。

四年(前25年)三月癸丑の朔、日食があった。昴宿であった。

陽朔元年(前24年)二月丁未の晦、日食があった。胃宿であった。

永始元年九月丁巳の晦、日食があった。谷永が京房の易占を用いて答えて言った。「元年九月の日食は、酒に節度がなくなることによって引き起こされたものです。ただ京師だけがこれを知り、四方の国々には見えないのは、あたかも言うようである。酒に深くふけり、君臣の別がなく、禍は内にあると。」

永始二年二月乙酉の晦、日食があった。谷永が京房の易占を用いて答えて言った。「今年二月の日食は、賦斂が度を失い、民が愁い怨むことによって引き起こされたものです。四方が皆これを見、京師だけが陰に蔽われるのは、あたかも言うようである。人君が宮室を造営することを好み、墳墓を大いに営み、賦斂がますます重く、百姓が窮乏し尽き、禍は外にあると。」

三年正月己卯の晦、日食があった。

四年七月辛未の晦、日食があった。

元延元年正月己亥の朔、日食があった。

哀帝の元寿元年正月辛丑の朔、日食があった。鉤のように完全ではなく、営室の十度にあり、恵帝七年と同じ月日である。

二年三月壬辰の晦、日食があった。

平帝の元始元年五月丁巳の朔、日食があった。東井にある。

二年九月戊申の晦、日食があった。既(皆既)である。

およそ漢の著紀は十二世、二百一十二年、日食は五十三回、朔が十四回、晦が三十六回、晦の前日が三回である。

成帝の建始元年八月戊午、夜明け前の水時計がまだ三刻残っている時に、二つの月が重なって現れた。京房の易伝に言う。「『婦貞厲、月幾望、君子征、凶』とは、君主が弱く后妃が強く、陰に乗じられるため、月が並んで出ることを言う。晦(月の最終日)に月が西方に見えるのを朓と言い、朔(月の初日)に月が東方に見えるのを仄慝と言う。仄慝があれば侯王は厳粛となり、朓があれば侯王は緩慢となる。」劉向は、朓とは速いことであり、君主が緩慢であれば臣下は驕慢となるので、太陽の運行が遅く月の運行が速くなるのだと考えた。仄慝とは進まないという意味で、君主が厳急であれば臣下は恐懼するので、太陽の運行が速く月の運行が遅くなり、君主に迫ることを敢えてしないのだ。緩慢でも厳急でもなく、正しい状態を失った場合には、朔の日に日食が起こる。劉歆は、緩慢とは侯王が意を伸ばして事に専念し、臣下が切迫して急ぐため、月の運行が速くなるのだと考えた。厳粛とは王侯が萎縮して職務を果たさず、臣下が弛緩して放縦になるため、月の運行が遅くなるのだと考えた。春秋の時代には、侯王の多くが萎縮して職務を果たさなかったので、二日に仄慝の日食が十八回、晦日に朓の日食が一回あった。これがその証拠である。漢朝を考察すると、晦日に朓の日食が三十六回あり、ついに二日に仄慝の日食はなかった。劉歆の説は確かである。これらは皆、日月の運行が乱れることを言うものである。

元帝の永光元年四月、日の色が青白く、影がなく、正午の時に影はあるが光がなかった。この夏は寒く、九月になってようやく日が光った。京房の易伝に言う。「美が上(君主)に及ばないことを上弱と言い、その異変は日が白くなり、七日間温かくならない。順(道理)が制する所を失うことを弱と言い、日が白く六十日間続き、物が霜もなくして死ぬ。天子が親征することを不知と言い、日が白く、体が動いて寒くなる。弱いが任務があることを不亡と言い、日が白く温かくならず、明るく動かない。辟(君主)が諂を公然と行うことを不伸と言い、その異変は日が黒くなり、大風が起こり、天に雲がなく、日光が暗くなる。上(君主)の政事を難じないことを見過と言い、日が黒く側にあり、弾丸のように大きい。」

成帝の河平元年正月壬寅の朔、日月ともに営室宿にあり、その時日の出が赤かった。二月癸未、朝の日が赤く、かつ日没もまた赤く、夜の月も赤かった。甲申、日の出が血のように赤く、光がなく、水時計が四刻半進んで、ようやく少し光があり、地を照らして赤黄色になり、食事の後になってようやく元に戻った。京房の易伝に言う。「辟(君主)が道を聞かないことを亡と言い、その異変は日が赤くなる。」三月乙未、日の出が黄色で、黒い気が銭のように大きく、日の中央にあった。京房の易伝に言う。「天を祭ることが順(道理)にかなわないことを逆と言い、その異変は日が赤く、その中が黒い。善を聞いて与えないことを失知と言い、その異変は日が黄色くなる。」そもそも大人(徳の高い人)というものは、天地とその徳を合わせ、日月とその明るさを合わせる。だから聖王が上にいて、群賢を総動員して天の功業を助ければ、日の光明は五色が備わり、照らして主がない。主があれば異変となり、応じて運行が変わるのである。色は虚しく変わらず、形は虚しく毀れない。日の五つの変化を観察すれば、十分に鑑みることができる。だから「天に象を懸けて明らかなるは、日月より大なるは莫し」と言うのである。これがその謂いである。

荘公七年「四月辛卯の夜、恒星(常に現れる星)が見えず、夜中に星が雨のように降った」。董仲舒と劉向は、常星である二十八宿は人君の象徴であり、衆星は万民の類いであると考えた。列宿が見えないのは諸侯が衰微する象徴であり、衆星が墜落するのは民がその居所を失う象徴である。夜中とは中国を指す。地に及ばずに戻るのは、斉の桓公が立ち上がって救い存続させる象徴である。もし桓公がいなかったなら、星は遂に地に至り、中国はまさに絶えていたであろう。劉向は、夜中とは、天命を全うできず、中途で敗れることを言うと考えた。あるいは、その背くことを象徴し、中途でその上(君主)に背くことを言うのだとも言う。天が象を垂れて下を見せるのは、人君に悪を防ぎ非を遠ざけ、卑りを慎み微かなることを省みて、自ら全う安泰にすることを欲するためである。もし人君に賢明な才能があり、天威と天命を畏れ、殷の高宗が祖己に謀り、周の成王が金縢の書を前に泣いたように、過ちを改め正しを修正し、信を立て徳を布き、滅びた国を存続させ絶えた家系を継ぎ、廃れたものを修め逸したものを挙げ、下を学んで上に達し、什一の税を定め、三日の労役を復し、用を節約し服を倹約して、百姓に恵みを与えれば、諸侯は徳を懐き、士民は仁に帰し、災いは消えて福が興るのである。それでも改めて悟ることを肯ぜず、古人の法則に倣わず、各自が私意を行えば、ついに君臣は乖離し、上下は互いに怨むことになる。これ以後、斉と宋の君主が しい され、譚・遂・邢・衛の国が滅び、宿は宋に遷され、蔡は楚に獲られ、晋では宰相が しい 殺され、五世してようやく定まった。これがその証拠である。左氏伝に言う。「恒星が見えないのは、夜が明るいからである。星が雨のように降るのは、雨とともに降るからである。」劉歆は、昼は中国を象徴し、夜は夷狄を象徴すると考えた。夜が明るいので、常に見える星が皆見えず、中国の衰微を象徴する。「星隕如雨」の「如」は「而」であり、星が降りしかも雨が降るので、「雨とともに」と言うのである。雨と星の降落という二つの変異が相成っていることを明らかにしている。洪範に言う。「庶民は星のごとし。」易に言う。「雷雨起こりて解く。」この年の歳星は玄枵にあり、斉の分野である。夜中に星が降るのは、庶民が中途で上(君主)から離れることを象徴する。雨は過ちを解き施し、再び上下に従う。斉の桓公が覇を行い、周室を復興させることを象徴する。周の四月は夏の二月であり、太陽は降婁にあり、魯の分野である。これに先立ち、衛侯の朔が斉に奔り、衛の公子の黔牟が立ち、斉が諸侯を率いてこれを伐ち、天子は使者を遣わして衛を救った。魯の公子の溺が専政し、斉と会して王命に犯し、荘公は止めることができず、ついに従って衛を伐ち、天王の立てた者を追いやった。不義が極まり、自ら功と為した。名はその上(君主)から去り、政は下から起こる。特に著しいので、星が魯に降ったのである。天事は常に象を示すのである。

成帝の永始二年二月癸未、夜が更けて中天を過ぎた時、星が雨のように降り、長さ一二丈で、絶え間なく降り続けたが地に至る前に消え、鶏が鳴くまで続いた。谷永が答えて言った。「日月星辰は下土を照らし臨み、その食や隕落の異変があれば、遠近幽隠の地もことごとく見ないところはない。星辰が天に付離するのは、ちょうど庶民が王者に付離するようなものである。王者が道を失い、綱紀が廃れて頓れば、下は叛いて去ろうとする。だから星が天に叛いて隕落し、その象を示すのである。春秋は異変を記録するが、星の隕落が最も大きく、魯の荘公以来、今に至るまで再び現れた。臣が聞くところでは、三代が喪亡した原因は、皆、婦人や群小が酒に湛湎したことによる。書経に言う。『乃ち其の婦人の言を用い、四方の逋逃の多罪を、是を信じ是を使う。』詩経に言う。『赫赫たる宗周、褒姒これを醤す。』『其の徳を顛覆し、酒に荒沈す。』また秦が二世で亡んだ原因は、生を養うことが大いに奢り、終(死)を奉ずることが大いに厚かったことによる。今、国家はこの両方を兼ね備えている。 社稷 しゃしょく 宗廟の大きな憂いである。」京房の易伝に言う。「君が賢を任じなければ、その妖は天が星を雨のように降らす。」

文公十四年「七月,彗星が北斗に入った」。董仲舒は、彗星は悪気が生じたものと考えた。これを彗星と呼ぶのは、ぼうっとしていて防ぎ蔽われ、暗く乱れてはっきりしない様子を言うのである。北斗は大国の象徴である。その後、斉・宋・魯・莒・晋がみな君主を しい した。劉向は、君臣が朝廷で乱れ、政令が外で損なわれると、上は三光の精気を濁らせ、五星は盈縮し、色を変え逆行し、甚だしければ彗星となると考えた。北斗は人君の象徴であり、彗星は乱臣の類いで、 簒奪 さんだつ 殺害の表れである。星伝に「魁は貴人の牢獄である」と言い、また「彗星が北斗の中に見えると、大臣諸侯に誅殺される者がいる」と言う。一説には魁は斉・晋を表す。彗星が明らかに北斗の中にあるのは、天が人を見るのが顕著であり、史官の占いが明らかであるのに、当時の君主はついに悟りを改めなかった。この後、宋・魯・莒・晋・鄭・陳の六国がみなその君主を しい し、斉は二度 しい した。中国が乱れると、夷狄がともに侵し、戦争が縦横に起こり、楚は威勢に乗り勝利を重ね、深く諸夏に入り、六度侵伐し、一国を滅ぼし、周王室に兵を観せしめた。晋は外で二国を滅ぼし、内では王師を破り、また三国の兵を連ねて鞍で斉軍を大敗させ、敗走する敵を追撃し、東は海水に臨み、威勢は京師を凌ぎ、武力で大斉を折った。これらはみな彗星の炎が及んだもので、流れて二十八年に至った。星伝にまた「彗星が北斗に入ると、大戦がある。その流れが北斗の中に入ると、名人を得る。入らなければ、名人を失う」と言う。宋の華元は賢名高い大夫で、大棘の戦いで華元は鄭に捕らえられた。伝はその効験を挙げて言う。左氏伝に彗星が北斗にあると言い、周の史官の服は「七年を出ずして、宋・斉・晋の君主がみな乱死するだろう」と言った。劉歆は、北斗には環域があり、四星がその中に入ると考えた。斗は天の三辰で、綱紀の星である。宋・斉・晋は天子の方伯で、中国の綱紀である。彗星は旧を除き新を布くものである。斗は七星だから、七年を出ないと言うのである。十六年に至り、宋人が昭公を しい し、十八年に斉人が懿公を しい し、宣公二年に晋の趙穿が霊公を しい した。

昭公十七年「冬、彗星が大辰にある」。董仲舒は、大辰は心であり、心は明堂にあり、天子の象徴であると考えた。後に王室が大乱し、三王が分かれて争った。これがその効験である。劉向は、星伝に「心は大星で、天王である。その前星は太子、後星は庶子である。尾は君臣が乖離する」と言う。彗星が心に加わるのは、天子と庶子が分かれて争う象徴である。諸侯においては、角・亢・ てい は陳・鄭であり、房・心は宋である。後五年、周の景王が崩じ、王室が乱れ、大夫の劉子・単子が王猛を立て、尹氏・召伯・毛伯が子晁を立てた。子晁は楚の出である。当時楚は強く、宋・衛・陳・鄭はみな南の楚に附いた。王猛がすでに卒すると、敬王が即位し、子晁が王城に入り、天王は狄泉に居て、これを納れる者はなかった。五年、楚の平王居が卒し、子晁は楚に奔り、王室はようやく定まった。後に楚は六国を率いて呉を伐ち、呉はこれを雞父で破り、その君臣を殺し捕らえた。蔡は楚を怨んで沈を滅ぼし、楚は怒って蔡を囲んだ。呉人がこれを救い、ついに柏挙の戦いとなり、楚軍を破り、郢都を屠り、昭王の母を妻とし、平王の墓を鞭打った。これらはみな彗星の流れる炎が及んだ効験である。左氏伝に「彗星が大辰にあり、西は漢に及んだ。申繻は『彗星は旧を除き新を布くもので、天事は常に象を示す。今火を除くので、火が出れば必ず布くであろう。諸侯に火災があるのではないか』と言った。梓慎は『往年私が見たのが、その徴である。火が出て見え、今年火が出て明らかであれば、必ず火が入って伏すであろう。それが火に居るのは久しい。それともそうではないか。火が出るのは、夏では三月、商では四月、周では五月である。夏の暦数は天に得る。もし火事が起これば、その四国が当たるであろう。宋・衛・陳・鄭ではないか。宋は大辰の虚、陳は太昊の虚、鄭は祝融の虚、みな火の房である。彗星が漢に及ぶ。漢は水の祥である。衛は顓頊の虚で、その星は大水である。水は火の牡である。丙子か壬午に起こるのではないか。水火は合うものである。もし火が入って伏せば、必ず壬午であろう。その月を過ぎては見えない』と言った」とある。明年「夏五月、火が初めて夕方に見え、丙子に風が吹いた。梓慎は『これを融風と言い、火の始まりである。七日後に火事が起こるのではないか』と言った。戊寅に風が甚だしく、壬午に大いに甚だしく、宋・衛・陳・鄭はみな火事があった」。劉歆は、大辰は房・心・尾であり、八月に心星が西方にあり、彗星はその西から過ぎて心の東から漢に及んだと考えた。宋は大辰の虚で、宋の先祖が大辰星の祭祀を掌ったことを言う。陳は太昊の虚で、 虙 羲は木徳であり、火が生じる所である。鄭は祝融の虚で、高辛氏の火正である。故にみな火の宿るところとなった。衛は顓頊の虚で、星は大水、営室である。天星がこのようであり、また四国が政を失うのが似ており、王室の乱れに及ぶのも同じである。

哀公十三年「冬十一月、彗星が東方にある」。董仲舒・劉向は、宿の名を言わないのは、宿に加わらないからであると考えた。辰が日を乗せて出るので、乱気が君の明を蔽うのである。明年、春秋の事は終わる。一説には、周の十一月は夏の九月で、日は てい にある。東方に出るのは軫・角・亢である。軫は楚、角・亢は陳・鄭である。あるいは角・亢は大国の象徴で、斉・晋を表すと言う。その後、楚は陳を滅ぼし、田氏は斉を さん し、六卿は晋を分けた。これがその効験である。劉歆は、彗星は東方の大辰であり、大辰と言わないのは、朝に見えて日と光を争い、星が入っても彗星がまだ見えるからであると考えた。この歳は閏を再び失い、十一月は実は八月である。日は鶉火にあり、周の分野である。十四年冬「彗星がある」、獲麟の後である。劉歆は、所在を言わないのは、官がこれを失ったからであると考えた。

高帝三年七月、彗星が大角にあり、十余日してようやく入った。劉向は、この時 項羽 が楚王となり、諸侯を伯し、漢はすでに三秦を定め、羽と 滎陽 けいよう で相拒み、天下の心が漢に帰し、楚が滅びようとしたので、彗星が王位を除いたと考えた。一説には、項羽が秦の卒を坑し、宮室を焼き、義帝を しい し、王位を乱したので、彗星がこれに加わったのである。

文帝後七年九月、彗星が西方にあり、その根本は尾・箕を直し、末は虚・危を指し、長さ一丈余り、天漢に及び、十六日間見えなかった。劉向は、尾は宋の地、今の楚の彭城であると考えた。箕は燕であり、また呉・越・斉でもある。宿は漢中にあり、海に臨む国の水沢の地である。この時景帝が新たに立ち、晁錯を信用し、諸侯王を誅正しようとした。その象が先に見えた。後三年、呉・楚・四斉と趙の七国が挙兵して反し、みな誅滅されたという。

武帝建元六年六月、彗星が北方にある。劉向は、明年淮南王の安が入朝し、 太尉 たいい 武安侯の田蚡と邪謀があり、陳皇后が驕恣したので、その後陳后が廃され、淮南王が反逆し、誅殺されたと考えた。

八月、長星が東方に出て、天の終わりまで長く、三十日で去った。占いに「これは蚩尤旗であり、見れば王者が四方を征伐する」と言う。その後、兵で四夷を誅し、数十年に連なった。

元狩四年四月、長星がまた西北に出た。この時、胡を伐つのが特に甚だしかった。

元封元年五月、彗星が東井にあり、また三台にある。その後、江充が乱を起こし、京師が紛然とした。これは東井・三台が秦の地である効験を明らかにするものである。

宣帝の地節元年正月、西方に星が彗星のように現れ、太白星から二丈ほど離れていた。劉向は、太白星は大将軍を表し、彗星がそれに加わるのは、掃き滅ぼされる象徴であると考えた。翌年、大将軍の 霍光 かくこう 薨去 こうきょ し、さらに二年後に一族は滅ぼされた。

成帝の建始元年正月、星が彗星のように営室(星宿)に現れ、青白色で、長さは六七丈、幅は一尺余りであった。劉向と谷永は、営室は後宮で懐妊する象徴であり、彗星がそれに加わるのは、懐妊に害を及ぼし、継嗣を絶やす者が出る前兆であると考えた。一説には、後宮が害を受けるという。その後、許皇后が後宮の懐妊した者を呪詛した罪で廃位された。趙皇后は妹を昭儀に立て、二人の皇子を害し、皇帝はついに後嗣を得られなかった。趙皇后の姉妹は結局みな罪に伏した。

元延元年七月辛未の日、星が彗星のように東井(星宿)に現れ、五諸侯(星)を踏み、河戍(星)の北を出て、軒轅、太微(星宿)を経て運行し、後に六度余り進み、朝に東方に現れた。十三日の夕方に西方に見え、次妃、長秋、斗、填(星)を犯し、蜂の炎のように再び紫宮中を貫いた。大火(星)がその後ろに当たり、天河に達し、妃后の領域を除いた。南へ進んで大角、摂提(星)を犯し、天市(星宿)に至って節を抑えてゆっくりと進み、炎が市中に入り、中旬になってから西へ去り、五十六日後に蒼龍(星宿)とともに伏した。谷永が答えて言った。「上古以来、大乱の極みとして、希有なことです。その馳せ騒ぐ歩みを観察すると、芒や炎が長かったり短かったりし、経過して犯したところは、内では後宮の女妾の害、外では諸夏の叛逆の禍となるでしょう。」劉向もまた言った。「三代の滅亡の時には、摂提が方角を変え、秦や項羽の滅亡の時には、星が彗星となって大角に現れました。」この年、趙昭儀が二人の皇子を害した。後五年、成帝が崩御し、昭儀は自殺した。哀帝が即位すると、趙氏はみな官爵を免ぜられ、遼西に流された。哀帝は後嗣なくして亡くなった。平帝が即位し、王莽が権力を用いると、成帝の趙皇后と哀帝の傅皇后を追って廃し、二人とも自殺した。外戚の丁氏、傅氏はみな官爵を免ぜられ、合浦に流され、故郷の郡に帰された。平帝は後嗣なくして亡くなり、王莽はついに国を 簒奪 さんだつ した。

釐公十六年「正月戊申の朔日、石が宋に隕ちた、五つ。この月、六羽の鶂が退き飛びながら宋の都を過ぎた」。董仲舒と劉向は、これは宋の襄公が覇道を行おうとして自ら敗れる戒めの象徴であると考えた。石は陰の類であり、五は陽の数である。上から隕ちるのは、陰が陽の行いをし、高くあろうとしてかえって下るということである。石は金と同類で、色は白を主とし、白い祥(吉凶の兆し)に近い。鶂は水鳥で、六は陰の数である。退き飛ぶのは、進もうとしてかえって退くということである。その色は青で、青い祥であり、貌の不恭に属する。天の戒めは言うようだ。徳が薄く国が小さい者が、強情な態度を持ち、諸侯の長たらんと欲し、強大な者と争えば、必ずその害を受ける、と。襄公は悟らず、翌年、斉の威公が死ぬと、その喪に乗じて斉を伐ち、滕子を捕らえ、曹を包囲し、盂の会合を行い、楚と盟主の座を争い、ついに捕らえられた。後に国に戻ることができたが、過ちを悔い改めて自らを責めることなく、再び諸侯を会して鄭を伐ち、楚と泓で戦い、軍は敗れ身に傷を受け、諸侯の笑いものとなった。左氏伝に言う。隕石は星であり、鶂が退き飛ぶのは風のためである、と。宋の襄公は周の内史の叔興に問うて言った。「これは何の兆しか。吉凶はどこにあるのか。」答えて言った。「今年は魯で大喪が多く、明年は斉に乱があります。あなたは諸侯を得るでしょうが、最後まで保てません。」退いて人に告げて言った。「これは陰陽の事柄であり、吉凶の生じる所ではありません。吉凶は人によるのです。私は君に逆らうことを敢えてしなかっただけです。」この年、魯の公子の季友、鄫の季姫、公孫茲がみな卒した。翌年、斉の威公が死に、嫡子と庶子の乱が起きた。宋の襄公は斉を伐って覇道を行おうとしたが、ついに楚に敗れた。劉歆は、この年は歳星が寿星にあり、その衝(対向位置)が降婁にあると考えた。降婁は魯の分野である。故に魯で大喪が多いのである。正月、太陽は星紀にあり、その圧する位置(厭)は玄枵にある。玄枵は斉の分野である。石は山の物であり、斉は大嶽(泰山)の後裔である。五つの石は、斉の威公が卒して五公子が乱を起こす象徴である。故に明年、斉に乱があるのである。庶民は星のようであり、宋に隕ちたのは、宋の襄公が諸侯の衆を得て、五公子の乱を治める象徴である。星が隕ち、鶂が退き飛ぶので、諸侯を得るが最後まで保たないのである。六羽の鶂は、後六年に覇業が初めて退き、盂で捕らえられる象徴である。民が徳に背くと乱が生じ、乱が生じると妖災が生ずる。吉凶は人による、と言い、それから陰陽の衝や厭がその咎を受けるのである。斉や魯の災いは君によるものではない。故に「私は君に逆らうことを敢えてしなかっただけです」と言ったのである。京房の易伝に言う。「諫めを拒んで自ら強がる、これを却行(退行)と言い、その異変は鶂が退き飛ぶことである。ちょうど罷免されるべき時には、鶂が退き飛ぶ。」

恵帝三年、石が綿諸に隕ちた、一つ。

武帝の征和四年二月丁酉の日、石が雍に隕ちた、二つ。天は晴れて雲がなく、音は四百里まで聞こえた。

元帝の建昭元年正月戊辰の日、石が梁国に隕ちた、六つ。

成帝の建始四年正月癸卯の日、石が槁に隕ちた、四つ。肥累に一つ。

陽朔三年二月壬戌の日、石が白馬に隕ちた、八つ。

鴻嘉二年五月癸未の日、石が杜衍に隕ちた、三つ。

元延四年(紀元前9年)三月、都関に隕石が落ちた、二つ。

哀帝の建平元年(紀元前6年)正月丁未の日、北地に隕石が落ちた、十個。その年の九月甲辰の日、虞に隕石が落ちた、二つ。

平帝の元始二年(紀元2年)六月、鉅鹿に隕石が落ちた、二つ。

恵帝から平帝に至るまで、隕石は合わせて十一回あり、いずれも光を放ち雷のような音がしたが、成帝と哀帝の時代に特に頻繁であった。