上
『易経』に言う。「天は象を垂れ、吉凶を現す。聖人はこれに象る。河から図が出、雒から書が出る。聖人はこれを則る」と。劉歆は、伏羲氏が天を継いで王となり、河図を受け、これを則って画いたのが八卦であると考えた。禹が洪水を治めたとき、雒書を賜り、これを法として陳べたのが『洪範』である。聖人はその道を行い、その真実を宝とする。下って殷の時代になると、箕子が父師の位にあってこれを司った。周が殷を滅ぼした後、箕子を連れ帰り、武王は自ら謙虚に身を低くして彼に問うた。それゆえ経典に言う。「十三年、王は箕子を訪ねて言った。『ああ、箕子よ。天はひそかに下民を定め、その住まいを調和させているが、私はその常道の秩序を知らない』と。箕子は言った。『私は昔、鯀が洪水を防ぎ止めようとして五行の順序を乱したため、天帝は怒り、鯀に洪範九疇を与えず、常道は乱れたと聞いています。鯀は誅殺され、禹がその後を継いで興ると、天は禹に洪範九疇を授け、常道は秩序づけられました』」と。これが武王が箕子に雒書について問い、箕子が禹が雒書を得た趣旨を答えたことである。
「第一は五行。第二は五事を用いることを慎む。第三は八政を用いて務めを厚くする。第四は五紀を用いて調和させる。第五は皇極を立てて用いる。第六は三徳を用いて治める。第七は稽疑を用いて明らかにする。第八は庶徴を用いて思いを致す。第九は五福を用いて導き、六極を畏れる」。これら六十五字はすべて雒書の本文であり、いわゆる天が禹に授けた九章の大法で、常事が配列される順序である。河図と雒書は互いに経緯をなし、八卦と九章は互いに表裏をなすと考えられた。昔、殷の道が弛んだとき、文王は『周易』を推演した。周の道が衰えたとき、孔子は『春秋』を述べた。それゆえ乾坤の陰陽は、『洪範』の咎徴(災いの兆し)を現し、天と人の道は明らかに顕著となった。
漢が興り、秦が学問を滅ぼした後に続き、景帝・武帝の時代に、董仲舒が公羊春秋を研究し、初めて陰陽を推し量り、儒者の宗となった。宣帝・元帝の後、劉向が穀梁春秋を研究し、その禍福を数え、洪範によって伝え、仲舒と異なった。向の子の劉歆が左氏伝を研究するに至って、その春秋の解釈もすでに乖離していた。五行伝について述べると、またかなり異なっている。そこで董仲舒を踏襲し、劉向・劉歆を区別し、伝に眭孟、夏侯勝、京房、谷永、李尋らが述べた事跡を記載し、王莽に至るまで、十二代を挙げて、春秋に附け、篇に著す。
五行
経に曰く、「初めの一を五行と曰う。五行とは、一に水、二に火、三に木、四に金、五に土。水は潤下と曰い、火は炎上と曰い、木は曲直と曰い、金は従革と曰い、土は爰に稼穡と曰う」。
伝に曰く、「田猟して宿せず、飲食して享せず、出入りして節せず、民の農時を奪い、及び姦謀有らば、則ち木曲直せず」。
説に曰く、木は東方である。易において、地上の木は観である。王事においては、威儀容貌もまた観るべきものである。故に行歩には佩玉の度があり、車に登るには和鸞の節があり、田狩には三駆の制があり、飲食には享献の礼があり、出入りには名があり、民を使うには時を以てし、務めは農桑を勧めるに在り、謀りは百姓を安んずるに在る。このようであれば、木はその性を得る。もしも田猟して馳騁し宮室に反らず、飲食して沈湎し法度を顧みず、妄りに繇役を興して民の時を奪い、姦詐を作して民の財を傷つければ、則ち木はその性を失う。工匠が輪矢を作る者が多く傷敗し、及び木が変怪となる、これが木が曲直しないということである。
『春秋』成公十六年に「正月、雨が降り、木に氷がついた」とある。劉歆は、上(天)の陽の施しが下に通じず、下(地)の陰の施しが上に達しないため、雨が降り、木に氷がついたのだと考えた。霧気が寒く、木が曲直(生長)しないのである。劉向は、氷は陰気が盛んで水が滞ったものであり、木は少陽(若い陽気)で、貴臣や卿大夫の象徴であると考えた。この人々に害が及ぼうとすると、陰気が木に協力し、木が先に寒くなるので、雨に遭って氷がつくのである。この時、叔孫喬如が出奔し、公子偃が誅殺された。一説には、この時、晋が季孫行父を捕らえ、また魯公をも捕らえた。これが捕らえられ辱めを受ける異変である。あるいは、今の長老が木氷を「木介」と呼ぶという。介とは甲である。甲は兵(戦い)の象徴である。この年、晋に鄢陵の戦いがあり、楚王が目を傷つけられて敗れた。これは常に雨が降ることに属する。
伝に言う。「法律を棄て、功臣を追いやり、太子を殺し、妾を妻とするならば、火は上に炎上しない」。
説に曰く。火は南方に配当され、光輝を揚げて明るさをなすものである。王者にとっては、南面して明るい方に向き、治めることである。『書経』に言う。「人を知れば則ち悊く、よく人を官らしむ」。故に堯舜は群賢を挙げて朝廷に命じ、四佞を遠ざけて野に放った。孔子は言う。「浸潤の譖、膚受の訴行われざるは、明なりと謂うべし」。賢と佞とを分別し、人を官するに序があり、旧章に帥い、功勳を敬重し、適庶を殊別する。このようにすれば、火はその性を得るのである。もし道を信ずることに篤くなく、あるいは虚偽を燿かし、讒夫が昌になり、邪が正に勝つならば、火はその性を失う。上から降り、あるいは濫炎が妄りに起こり、宗廟に災いし、宮館を焼く。たとえ師衆を興しても、救うことができない。これが火が上に炎上しないということである。
『春秋』桓公十四年に「八月壬申、御廩が災に遭った」とある。董仲舒は、これ以前に四国が共に魯を伐ち、龍門で大いにこれを破ったことによるものと考えた。百姓の傷ついた者はまだ癒えず、怨み咎めはまだ回復していないのに、君臣ともに怠惰で、内には政事を怠り、外には四隣を侮っていた。宗廟を保守して天年を終えることができない者である。故に天が御廩に災いを与えて戒めたのである。劉向は、御廩とは、夫人や八妾が搗いた米を蔵めて宗廟に奉るものであると考えた。当時、夫人に淫行があり、逆心を抱いていた。天の戒めは、夫人は宗廟を奉るべからず、と言うようであった。桓公は悟らず、夫人とともに斉に会い、夫人が桓公を斉侯に讒言したため、斉侯が桓公を殺した。劉歆は、御廩とは、公が自ら耕した籍田の収穫で奉る粢盛を蔵めるものであり、法度を棄て礼を亡ぼすことの応報であると考えた。
厳公(荘公)二十年「夏、斉に大災があった」。劉向は、斉の桓公が好色で、女の言葉を聞き入れ、妾を妻とし、適庶がたびたび変わったため、大災を招いたと考えた。桓公は悟らず、死ぬと、適庶が争い、九月も経っても葬ることができなかった。『公羊伝』に言う、大災とは疫病である。董仲舒は、魯の夫人が斉で淫行を行い、斉桓公の姉妹で嫁がずにいた者が七人いたことによるものと考えた。国君は民の父母である。夫婦は生み育てる根本である。根本が傷つけば末(子孫)は夭折する。故に天が災いを与えたのである。
釐公二十年「五月己酉、西宮に災あり」。穀梁はこれを愍公の宮であるとし、諡で言うと疎遠になるので、西宮と呼んだ。劉向は、釐公が妾の母を夫人として立てて宗廟に入れたため、天が愍公の宮に災いを起こし、卑しい者を親しくすることを去り、宗廟の正礼を害するであろうと言わんとしたのだと考える。董仲舒は、釐公が楚から娶り、斉が媵女を送り、公を脅してその媵女を夫人に立てさせたためだと考える。西宮とは小寝であり、夫人の居所である。天が言わんとすることは、妾がどうしてこの宮にいるのか、誅して去らせるという意味である。天が災いを起こしたので、大げさに西宮と呼んだのだ。左氏は、西宮とは公の宮であると考える。西と言うからには東があると知れる。東宮は太子の居所である。宮と言っているので、区域全体が災いを受けたことを挙げている。
宣公十六年「夏、成周の宣榭が火災に遭う」。榭とは楽器を蔵する場所であり、その名を宣べるものである。董仲舒と劉向は、十五年に王札子が召伯と毛伯を殺したのに、天子が誅することができなかったためだと考える。天の戒めは、行政命令を行うことができないなら、どうして礼楽を行いそれを蔵するのか、と言わんとしている。左氏の経文には「
成周の宣榭の火災は、人火である。人火を火と言い、天火を災と言う」とある。榭とは、武を講じる座屋である。
成公三年「二月甲子、新宮に災あり」。穀梁はこれを宣公の宮であるとし、諡を言わないのは恭のためだとする。劉向は、当時魯の三桓の子孫が初めて国政を執り、宣公が彼らを誅しようとしたが恐れてできず、大夫の公孫帰父を晋に遣わして謀った。帰らぬうちに宣公は死んだ。三家(三桓)が成公に帰父を讒言した。成公は父の喪がまだ葬られていないのに、讒言を聞き入れて父の臣を追放し、斉に奔らせた。それゆえ天が宣公の宮に災いを起こし、父の命令を用いないことの象を示したのだ。一説には、三家は親しいが礼を失っており、それは宣公が子赤を殺して立ったのと同じである。礼を失って親しむことに対し、天が宣公の廟に災いを起こしたのは、三家を去らせようと示したのだ。董仲舒は、成公が喪にありながら哀戚の心がなく、しばしば兵を興して戦伐を行ったため、天がその父の廟に災いを起こし、子の道を失い、宗廟を奉じることができないことを示したのだとする。一説には、宣公が君を殺して立ったので、群祖の中に列すべきではないのだ。
襄公九年「春、宋に災あり」。劉向は、これより先に宋公が讒言を聞き入れ、その大夫の華弱を追放して魯に出奔させたためだと考える。左氏伝によれば、宋の災害の時、楽喜が司城となり、まず火の未だ至らぬところで小屋を取り壊し、大屋に泥を塗り、畚と輂を並べ、綆(つるべの縄)と缶を備え、水器を準備し、水溜りに水を貯め、土を積んで塗り、守備を整え、火の道筋を示し、正徒(役人)を準備した。郊外の保(村落)の民をして火事の現場に駆けつけさせた。また多くの官に命じて、それぞれその職務を慎重に行わせた。晋侯がこれを聞き、士弱に問うて言った。「宋の災害によって、天道があることを知ったというが、何故か?」士弱は答えて言った。「古の火正は、ある者は心(星)を食し、ある者は咮(星)を食し、それによって火の出入りを知った。それ故に咮を鶉火とし、心を大火とする。陶唐氏の火正である閼伯は商丘に住み、大火を祀り、火によって時を定めた。相土がこれを継承したので、商は大火を主る。商人はその禍敗の兆しが必ず火から始まるのを見て、それゆえ天道があることを知るのである。」公が言った。「必ずそう言えるのか?」答えて言った。「道によるものです。国が乱れて亡ぶ象があれば、知ることはできません。」解説に言う。古の火正とは、火官のことで、火星の祭祀を掌り、火政を行う。季春の黄昏、心星が東方に出て、咮・七星・鳥首が正に南方にある時、火を用いる。季秋、星が入ると、火を止める。天時に順い、民の疾苦を救うためである。帝嚳の時には祝融がおり、堯の時には閼伯がいた。民はその徳に頼り、死ぬと火の祖とし、火星に配して祭った。それ故に「ある者は心を食し、ある者は咮を食す」と言うのである。相土は、商の祖である契の曾孫で、閼伯の後を代わって火星を主った。宋はその子孫である。代々その占いを司ったので、火災を事前に知ることができた。賢君は変異を見て、道を修めて凶を除くことができる。乱君には亡ぶ象があっても、天は譴責警告しないので、必ずしも知れるとは限らないのである。
三十年「五月甲午、宋に災あり」。董仲舒は、伯姫が宋に嫁いで五年、宋の恭公が卒し、伯姫が幽居して節を守ること三十余年、さらに国家の患禍を憂い傷み、陰が積もって陽を生じたので、火が生じて災いとなったと考えた。劉向は、これに先立って宋公が讒言を聞き入れ太子の痤を殺したこと、火が炎上しないという罰に応じたのだと考えた。
左氏伝 昭公六年「六月丙戌、鄭に災あり」。この春三月、鄭人が刑書を鋳造した。士文伯が言った。「火星が現れる。鄭は火事になるだろうか?火(火星)がまだ出ないうちに火を用いて刑器を鋳造し、争いの法を蔵している。火(火星)がこれを象徴している。火事にならないでどうしようか?」説に曰く、火星は周暦の五月に現れるが、鄭は三月に火を用いて鼎を鋳造し、刑罰の条文を刻んで民の契約とし、これが刑器であり争いの法である。ゆえに火星が現れ、五行の火と明るさを争って災いとなる。その象徴はそうであり、また法律を棄てるという占いでもある。経文に書かれていないのは、当時魯に報告しなかったからである。
九年「夏四月、陳に火あり」。董仲舒は、陳の夏徴舒が君を殺し、楚の厳王が陳のために賊を討つと称し、陳国が門を開いてこれを待ったが、ついに陳を滅ぼしたことによる。陳の臣子の怨み憎しみは特に甚だしく、陰が極まって陽を生じたので、火災を招いたと考えた。劉向は、これに先立って陳侯の弟の招が陳の太子の偃師を殺したこと、これらはすべて外部の事柄であり、その宮殿館舎によるものではないので、略記したのだと考えた。八年十月壬午、楚軍が陳を滅ぼした。春秋は蛮夷による中国の滅亡を認めないので、あらためて陳の火事を書いたのである。左氏の経文に「陳に災あり」とある。伝に「鄭の裨竈が言った。『五年後、陳は再び封ぜられ、封ぜられて五十二年でついに滅びる。』子産がその理由を尋ねると、答えて言った。『陳は水の属である。火は水の妃(配偶)であり、楚が相(助ける)ところである。今、火(火星)が出て陳に火事が起きたのは、楚を追い出して陳を建てるためである。妃は五をもって成る。ゆえに五年と言う。歳星が五度鶉火に至り、その後陳はついに滅び、楚がこれを有することになる。天の道である。』」説に曰く、顓頊は水をもって王となった。陳はその族である。今年の歳星は星紀にある。後五年は大梁にある。大梁は昴である。金は水の宗(根本)である。その宗を得れば昌える。ゆえに「五年後陳は再び封ぜられる」という。楚の先祖は火正であった。ゆえに「楚が相(助ける)ところ」という。天は一をもって水を生じ、地は二をもって火を生じ、天は三をもって木を生じ、地は四をもって金を生じ、天は五をもって土を生じる。五つの位はすべて五をもって合し、陰陽が位を易える。ゆえに「妃は五をもって成る」という。そうすると水の大数は六、火は七、木は八、金は九、土は十である。ゆえに水は天一を以て火二の牡とし、木は天三を以て土十の牡とし、土は天五を以て水六の牡とし、火は天七を以て金四の牡とし、金は天九を以て木八の牡とする。陽の奇数は牡、陰の偶数は妃である。ゆえに「水は火の牡である。火は水の妃である」という。易において、坎は水であり中男、離は火であり中女、おそらくこれを取ったのであろう。大梁から四歳で鶉火に至り、四週して四十八歳、合わせて五度鶉火に至り、五十二年で陳はついに滅びる。火が盛んで水が衰える。ゆえに「天の道」というのである。哀公十七年七月己卯、楚が陳を滅ぼした。
昭公十八年「五月壬午、宋・衛・陳・鄭に災あり」。董仲舒は、王室が乱れようとしている象徴で、天下が救おうとしないので、四カ国に災いがあり、四方が滅びることを言ったのだと考えた。また宋・衛・陳・鄭の君主はみな享楽にふけり、国政を顧みず、周王室と同じ行いをした。陽が節度を失えば火災が起こる。ゆえに同日に災いがあったのだ。劉向は、宋と陳は王者の後裔、衛と鄭は周の同姓であると考えた。当時、周の景王は老いており、劉子と単子は王子の猛に仕え、尹氏・召伯・毛伯は王子の晁に仕えていた。子の晁は楚の出である。そして宋・衛・陳・鄭もまた外では楚に附き、周王室を尊ぶ心を失っていた。三年後、景王が崩じ、王室が乱れた。ゆえに天は四カ国に災いを下した。天の戒めは言うようである、周を救わず、かえって楚に従い、世子を廃し、正しくない者を立てて王室を害する、その罪は同じであると明らかにする、と。
定公二年「五月、雉門と両観が災害に遭った」。董仲舒と劉向は、これらはすべて奢侈と僭越が過度であったためだと考える。この前に、季氏が昭公を追放し、昭公は国外で死んだ。定公が即位した後、季氏を誅殺することもできず、またその邪説を用い、女楽にふけり、孔子を退けた。天の戒めは言うようである、高く顕著で奢侈・僭越な者を去れと。一説には、門と闕は、号令が出される所であるが、今、大聖人を捨てて有罪の者を放縦するので、号令を出す根拠が失われたのである。京房の易伝に言う:「君が道を思わないと、その妖は宮殿を焼く」。
哀公三年「五月辛卯、桓公廟と釐公廟が災害に遭った」。董仲舒と劉向は、この二つの廟は立てるべきでなく、礼に違背したものだと考える。哀公もまた季氏のため孔子を用いなかった。孔子は陳にいて魯の災害を聞き、言った:「それは桓公・釐公の廟であろうか!」と。桓公は季氏の出た祖であり、釐公は季氏を世襲の卿とした者であると考えたのである。
四年「六月辛丑、亳社が災害に遭った」。董仲舒と劉向は、亡国の社は、戒めとするためのものであると考える。天の戒めは言うようである、国が危うく滅亡しようとしているのに、戒めを用いないと。春秋時代の火災は、定公・哀公の間で頻発し、聖人を用いず驕慢な臣を放縦したので、国を亡ぼそうとしている、その不明は甚だしい。一説には、天が孔子を生んだのは、定公・哀公のためではなく、礼を失い不明であるため、火災がそれに応じたのであり、自然の象である。
高后元年五月丙申、趙の叢台が災害に遭った。劉向は、この時、呂氏の娘が趙王の后となり、嫉妬深く、讒言をもって趙王を害そうとしていたと考える。趙王はそれに気づかず、ついに幽閉・殺害された。
恵帝四年十月乙亥、未央宮の凌室が災害に遭った。丙子、織室が災害に遭った。劉向は、元年に呂太后が趙王如意を殺し、その母戚夫人を残酷に殺害したことと考える。この年の十月壬寅、太后は帝の姉魯元公主の娘を皇后に立てた。その乙亥に凌室の災害があった。翌日、織室の災害があった。凌室は飲食を供養する所であり、織室は宗廟の衣服を奉る所であり、春秋の御廩と同じ意義である。天の戒めは言うようである、皇后には宗廟を奉る徳がなく、祭祀を絶やそうとしていると。その後、皇后に子がなく、後宮の美人に男子が生まれると、太后は皇后にその子を名付けさせ、その母を殺した。恵帝が崩じ、嗣子が立ったが、怨言があったので、太后は彼を廃し、代わりに呂氏の子弘を少帝に立てた。大臣たちが共に諸呂を誅殺して文帝を立てたおかげで、恵帝の后は幽閉・廃された。
文帝の七年(紀元前173年)六月癸酉の日、未央宮の東闕にあった罘思が災害に遭った。劉向は、東闕は諸侯を朝見させる門であり、罘思はその外側にあり、諸侯の象徴であると考えた。漢が興ってから、諸侯王を大いに封じ、連なる城は数十に及んだ。文帝が即位すると、賈誼らは、これは古の制度に背いており、必ずや叛逆を起こすだろうと考えた。これに先立って、済北王と淮南王が皆謀反を企て、その後、呉楚七国が兵を挙げて誅伐された。
景帝の中五年(紀元前145年)八月己酉の日、未央宮の東闕が災害に遭った。これに先立って、栗太子が廃されて臨江王となり、罪によって中尉に召喚され、自殺した。丞相の条侯周亜夫は、上意に合わないとして病気を理由に免官され、二年後に獄に下されて死んだ。
武帝の建元六年(紀元前135年)六月丁酉の日、遼東の高廟が災害に遭った。四月壬子の日には、高園の便殿が火災に見舞われた。董仲舒が答えて言った。「『春秋』の道は、過去を挙げて未来を明らかにする。それゆえ、天下に物事があれば、『春秋』が挙げたものと同類のものを見て、その意図を精微に探り、道理を貫通させて類推すれば、天地の変異も、国家の事柄も、明らかに見えて、疑う余地はない。『春秋』によれば、魯の定公・哀公の時代、季氏の悪はすでに熟しており、孔子の聖はまさに盛んであった。盛んな聖人をもって熟した悪を変えようとすれば、季孫の勢力は重く、魯君の力は軽いが、その勢いで成し遂げることができた。ゆえに定公二年五月、両観が災害に遭った。両観は礼を僭越した建造物であり、天がこれに災害を下したのは、『礼を僭越した臣下は除くことができる』と言わんがためである。すでに罪の徴候が見えた後に、除くことができると告げる、これが天意である。定公はこれを省みなかった。哀公三年五月に至り、桓宮と釐宮が災害に遭った。この二つは同じ事柄であり、意図するところは一つで、『貴いものを焼き払って不義を除く』と言わんがためである。哀公はこれを見ることができなかった。ゆえに四年六月、亳社が災害に遭った。両観、桓宮、釐宮の廟、亳社、この四つはすべて建つべきでないものであり、天はすべて建つべきでないものを焼き払って魯に示し、乱臣を去らせて聖人を用いようとしたのである。季氏が道に外れた行いをして久しい。これ以前に天が災害を示さなかったのは、魯に賢聖の臣がいなかったからであり、たとえ季孫を除こうとしても、その力が及ばなかったのである。昭公の時がそれである。定公・哀公の時代になって現れたのは、その時機が到来したからである。時機でなければ現れない、これが天の道である。今、高廟は遼東にあるべきではなく、高園の便殿は陵墓の傍らにあるべきでなく、礼によっても建つべきではない。魯で災害に遭ったものと同じである。それらが建つべきでないことは久しいが、陛下の時代になって天が災害を下したのは、おそらくその時機が到来したからであろう。昔、秦は滅亡した周の弊を受け継ぎながら、それを教化する術がなかった。漢は滅亡した秦の弊を受け継ぎ、またそれを教化する術がない。二つの弊を受け継いだ後、その末流を承け、猥雑さを併せ持つのは、治めるのが非常に難しい。また、兄弟や親戚、骨肉の連なりが多く、驕慢で奢侈にふけり、勝手気ままな者が多い。いわゆる重難の時である。陛下はまさに大いなる弊の後に当たり、さらに重難の時に遭われた。非常に憂うべきことである。ゆえに天の災害は、陛下にこう語っているかのようである。『今の世は、弊が重く困難ではあるが、太平と至公をもってしなければ治めることはできない。諸侯にいて正道から最も遠く離れた親戚や貴い一族を見て、思い切って誅伐せよ。我が遼東の高廟を焼き払ったように。国中にいて傍らや近くにあり、貴いが正しくない近臣を見て、思い切って誅伐せよ。我が高園の便殿を焼き払ったように』と。外にあって正しくない者は、たとえ高廟のように貴くても、災害で焼き払われる。まして諸侯であろうか。内にあって正しくない者は、たとえ高園の便殿のように貴くても、焼き払われる。まして大臣であろうか。これが天意である。罪が外にある者は天が外に災害を下し、罪が内にある者は天が内に災害を下す。焼き払いが甚だしいのは罪が重いからであり、焼き払いが軽いのは罪が軽いからである。これが天意を受け止める道である。」
以前、淮南王劉安が入朝した際、初めて皇帝の母方の叔父である太尉武安侯田蚡と謀反の言葉を交わした。その後、膠西于王、趙敬肅王、常山憲王はいずれもたびたび法を犯し、ある者は民家を滅ぼし、二千石の高官を毒殺した。そして淮南王と衡山王はついに謀反を企てた。膠東王と江都王はいずれもその謀略を知り、ひそかに武器を整備し、これに呼応しようとした。元朔六年に至って、ようやく発覚し、罪に伏した。その時、田蚡はすでに死んでおり、誅殺に及ばなかった。皇帝は董仲舒の以前の言葉を思い出し、仲舒の弟子である呂歩舒に斧鉞を持たせて淮南王の獄を処理させ、『春秋』の義に基づいて外部で専断させ、上奏を請わなかった。事を奏上して戻った後、皇帝はそのすべてを是とした。
太初元年十一月乙酉の日、未央宮の柏梁台で災害が発生した。以前、大風がその屋根を吹き飛ばし、夏侯始昌が先にその災害の日を予言していた。その後、江充による巫蠱の事件が起こり、衛太子が巻き込まれた。
征和二年の春、涿郡の鉄官が鉄を鋳造した際、鉄が溶けてすべて飛び上がって行った。これは火の変異がこのようなことをさせたのである。その年の三月、涿郡太守の劉屈釐が丞相となった。その翌月、巫蠱の事件が起こり、皇帝の娘である諸邑公主、陽石公主、丞相の公孫賀、その子で太僕の敬声、平陽侯の曹宗らがみな獄に下されて死んだ。七月、使者の江充が太子の宮殿で蠱を掘り起こした。太子は母である皇后と相談し、自ら潔白を証明できないことを恐れ、江充を殺害し、兵を挙げて丞相の劉屈釐と戦った。死者は数万人に及び、太子は敗走し、湖で自殺した。翌年、屈釐はまたもや祝詛の罪に連座して腰斬に処せられ、妻は梟首にされた。成帝の河平二年正月、沛郡の鉄官が鉄を鋳造した際、鉄が流れ落ちず、ごうごうと雷のような音がし、また太鼓の音のようであった。職工十三人は驚いて逃げ出した。音が止み、戻って地面を見ると、地が数尺陥没し、炉は十に分かれ、一つの炉の中の溶けた鉄が流星のように散らばって飛び上がって行った。これは征和二年と同じ現象である。その夏、皇帝の母方の叔父五人に列侯が封じられ、五侯と呼ばれた。長兄の王鳳が大司馬大将軍となり、政権を執った。その二年後、丞相の王商は王鳳と不和となり、王鳳は彼を讒言して免官させ、王商は自殺した。翌年、京兆尹の王章は王商の忠直を訴え、王鳳が権力を専断していると述べた。王鳳は大逆の罪で王章を誣告し、獄に下して死なせ、妻子は合浦に流罪とした。その後、許皇后が巫蠱の罪に連座して廃され、趙飛燕が皇后となり、その妹が昭儀となった。彼女たちは皇子を害し、成帝はついに後継者を失った。皇后と昭儀はいずれも罪に伏した。一説には、鉄が飛ぶのは金の属性が革(変革)に従わないことによるという。
昭帝の元鳳元年、燕城の南門で災害が発生した。劉向は、当時、燕王が邪悪な臣下を漢に通わせ、讒言と害悪を行い、謀反と乱を企てていたためだと考える。南門は、漢への通路である。天の戒めは、邪悪な臣下が往来し、漢に対して奸計と讒言を行い、滅亡の道を断つものである、と言っているようだ。燕王は悟らず、ついにその罪に伏した。
元鳳四年五月丁丑の日、孝文廟の正殿で災害が発生した。劉向は、孝文帝は太宗の君主であり、成周の宣榭の火災と同じ意味合いがあると考える。以前、皇后の父である車騎将軍の上官安、および安の父である左将軍の上官桀が謀反を企て、大将軍の霍光がこれを誅殺した。皇后は霍光の外孫であり、幼くて知らず、その地位に留まった。霍光は皇后に子が生まれることを望み、皇帝の看病をする医者の言葉を借りて、後宮の他の者をすべて近づけさせず、皇后だけが専ら寝所に侍るようにした。皇后は六歳で立てられ、十三年で昭帝が崩御し、ついに後継者が絶えた。霍光が朝政を執ることは、周公が摂政したのと同じである。この年の正月、皇帝は元服し、『詩経』と『尚書』に通じ、聡明な性質を持っていた。霍光には周公の徳がなく、政権を執ること九年、周公よりも長く、皇帝がすでに成人したにもかかわらず政権を返さず、国の害となろうとしていた。それゆえ、正月に元服し、五月に災害が現れたのである。古代の宗廟はすべて城内にあったが、孝文廟は初めて城外に置かれた。天の戒めは、尊貴でありながら正しくない者を去らせよ、と言っているようだ。宣帝が即位した後も、霍光はなお摂政のままで、驕り高ぶって制度を超え、ついには妻の顕が許皇后を殺害したが、霍光は聞きながらも討伐せず、後に誅滅された。
宣帝の甘露元年四月丙申の日、中山の太上皇廟が災害に遭った。甲辰の日、孝文廟が災害に遭った。元帝の初元三年四月乙未の日、孝武園の白鶴館が災害に遭った。劉向は、これより先に前将軍の蕭望之と光禄大夫の周堪が政務を補佐していたが、佞臣の石顕や許章らに讒言され、望之は自殺し、周堪は廃位・左遷されたためであると考えた。翌年、白鶴館が災害に遭った。園中五里の馳逐走馬の館は、山陵の昭穆の地にあるべきではなかった。天の戒めは言うようである、貴近で逸遊不正の臣を去らねば、忠良を害することになろう、と。後に許章は上林苑で烽火の下を走馬して馳逐した罪に坐し、官を免ぜられた。
永光四年六月甲戌の日、孝宣帝の杜陵園の東闕の南方が災害に遭った。劉向は、これより先に帝が再び周堪を徴用して光禄勲とし、および周堪の弟子の張猛を太中大夫としたが、石顕らが再び讒言して毀ったため、皆外任に遷されたためであると考えた。この年、帝は再び周堪を徴して尚書を領させ、張猛を給事中としたが、石顕らは終に彼らを害しようとした。園陵は朝廷より小さく、闕は司馬門の中にあり、内臣たる石顕の象徴である。孝宣帝は親しくかつ貴い存在であり、闕は法令の出づる所である。天の戒めは言うようである、法令を去り、内臣で親しく貴い者は必ず国を害するであろう、と。後に周堪は進見する機会を得ることが稀となり、石顕を通じて事を言上し、事の決断は石顕の口から出た。周堪は病んで言葉を発することができなかった。石顕は張猛を誣告し、猛は公車で自殺した。成帝が即位すると、石顕はついに罪に伏した。
成帝の建始元年正月乙丑の日、皇考廟が災害に遭った。初め、宣帝は昭帝の後を継いで父の廟を立てたが、礼に正しくなかった。この時、大将軍の王鳳が権力を専らにし朝政を擅にし、田蚡よりも甚だしく、国家を害しようとしていた。故に天は元年正月に象を現したのである。その後その勢いは次第に盛んとなり、五将が代々権力を握り、遂に無道に至った。
鴻嘉三年八月乙卯の日、孝景廟の北闕が災害に遭った。十一月甲寅の日、許皇后が廃された。
永始元年正月癸丑の日、大官の凌室が災害に遭った。戊午の日、戾后園の南闕が災害に遭った。この時、趙飛燕が大いに寵愛され、許后が既に廃された後、帝が彼女を立てようとしていた。故に天は凌室に象を現し、これは恵帝四年の災害と同じ応報である。戾后は衛太子の妾であり、巫蠱の禍に遭い、宣帝が即位した後、追って尊号を加えたが、礼に正しくなかった。また戾后は微賤より起り、趙氏と同じである。天の戒めは言うようである、微賤で徳なき人は宗廟を奉ずるに足らず、祭祀を絶ち、凶悪の禍が至るであろう、と。その六月丙寅の日、趙皇后は遂に立てられ、その姉妹は驕り妬み、皇子を賊害し、結局皆誅罰を受けた。
永始四年(紀元前13年)四月癸未の日、長楽宮の臨華殿および未央宮の東司馬門が災害に遭った。六月甲午の日、孝文帝の霸陵園の東闕の南方が災害に遭った。長楽宮は、成帝の母である王太后の住まいであった。未央宮は、皇帝の住まいであった。霸陵は、太宗(文帝)の盛徳をたたえる陵園である。この時、太后の三人の弟が相次いで政権を握り、一族が官位に就いて朝廷を満たし、両宮(長楽宮と未央宮)の親属が国家を害そうとしていたので、天の象徴が繰り返し現れたのである。翌年、成都侯の王商が薨去し、弟の曲陽侯の王根が代わって大司馬となり政権を握った。その四年後、王根は老齢を理由に引退を願い出て、兄の子である新都侯の王莽を自らの後任として推薦し、ついに国を覆すこととなった。
哀帝の建平三年(紀元前4年)正月癸卯の日、桂宮の鴻寧殿が災害に遭った。これは、皇帝の祖母である傅太后の住まいであった。当時、傅太后は成帝の母(王太后)と同等の称号と尊位を得ようとしたが、大臣の孔光や師丹らが政権を握り、それはできないことだとして、太后(の親族)は皆、官爵を免ぜられた。その後、太后は尊号を称した。その三年後、哀帝が崩御し、傅氏は誅滅された。
平帝の元始五年(紀元5年)七月己亥の日、高皇帝(劉邦)の原廟の殿門がことごとく災害に遭った。高皇帝の廟は長安城中にあったが、後に叔孫通が復道(空中回廊)を非難したため、渭水の北に原廟を再建したが、これは正規のものではなかった。この時、平帝は幼く、成帝の母である王太后が臨朝して政務を見、王莽に権限を委任していた。王莽は漢王朝を簒奪して断絶させようとし、高祖の宗廟を廃そうとしていたので、天の象徴が現れたのである。その冬、平帝は崩御した。翌年、王莽は摂政の地位に就き、それによって国を簒奪し、後に結局滅ぼされた。
伝(五行伝)に言う。「宮室を造営し、台や榭を飾り立て、内(宮中)で淫乱にふけり、親戚を犯し、父や兄を侮るならば、農作物は実らない」。
解説に言う。土は中央に位置し、万物を生み出すものである。それは王者にとっては、内事(宮中の事柄)にあたる。宮室、夫婦、親属もまた、互いに生み出す関係にある。古くは天子や諸侯において、宮殿や宗廟の大小や高さ低さには制があり、后や夫人、媵妾の数や昇進・降格には限度があり、九族の親疎や長幼には順序があった。孔子は言われた。「礼は、贅沢にするよりは、むしろ倹約である方がよい」。それゆえ、禹は宮室を質素にし、文王は正妻を手本とした。これが聖人が教化を明らかにする所以である。このようにすれば、土はその本性を得る。もしも贅沢で淫らで驕り高ぶるならば、土はその本性を失う。水害や旱害がなくても草木や百穀が実らないのは、これが「稼穡不成」である。
荘公二十八年「冬、大水が起こり麦と禾を失った」。董仲舒は、夫人の哀姜が淫乱であったため、陰気に逆らったので、大水が起こったと考えた。劉向は、水害と旱害は記録すべきであり、水害と旱害を記さずに「
「大亡麥禾」とは、土の気が養われず、穀物が実らないことをいう。この時、夫人が二人の叔父と淫らな関係を持ち、内と外の区別がなくなり、また凶作と飢饉に遭いながら、一年のうちに三度も台を築いた。それゆえ、これに応じて穀物が実らず、台や榭を飾り立て、内に淫乱な行いがあったことへの罰であるという。ついに悔い改めず、四年で死に、禍は二世にまで及び、これは奢侈と淫乱の災いである。
伝に曰く、「戦いを好み攻撃し、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵せば、則ち金は革に従わず」と。
(五行の)説によれば、金は西方に配当され、万物が成熟した後に殺気が始まる時である。ゆえに立秋には鷹や隼が獲物を襲い、秋分にはわずかな霜が降りる。これは王事にたとえれば、軍を出し師を動かし、旗旄を握り鉞を杖とし、士卒に誓いを立て、威武を奮い起こして、叛逆を征伐し暴乱を鎮めることである。《詩経》に「虔かに鉞を秉り、火の如く烈烈たり」とあり、また「載せて干戈を戢え、載せて弓矢を櫜にす」とある。動と静が義に応じ、「説びて難を犯し、民その死を忘る」のであり、金がその本性を得ているのである。もし貪欲で勝手気ままに振る舞い、ひたすら威勢を立てて勝とうとし、民の命を重んじないならば、金はその本性を失う。工匠が金鉄を鋳造する際、金鉄が冷え固まって流れず、うまく形にならないことが多く、また変怪が起こるのは、これが金が革(変革)に従わない状態である。
『左氏伝』に曰く、昭公八年「春、石が晋に言う」。晋の平公が師曠に問うと、答えて言った;「石は物言えぬものですが、神霊が時に憑依することがあります。事業を時節に合わずに行い、民衆の間に怨嗟の声が沸き起こると、言葉を発しないはずの物が言葉を発することがあります。今、宮殿が高く贅沢に造られ、民力が疲弊し尽くし、怨嗟の声が共に起こり、その本性を保てなくなっているのですから、石が物言うのも当然ではないでしょうか!」この時、晋侯はちょうど虒祁の宮を築いていた。叔向は言った:「君子の言葉は、信頼できて証拠があるものだ。」劉歆は、金石は同類であると考え、これは金が従革せず、その本性を失ったものだと見なした。劉向は、石は白色であり、主を象徴し、白祥に属すると考えた。
成帝の鴻嘉三年(前18年)五月乙亥の日、天水郡冀県の南山の大石が鳴り響き、その声は雷のように轟々とし、しばらくして止んだ。平襄県から二百四十里の範囲に聞こえ、野鶏も皆鳴いた。石の長さは一丈三尺、幅と厚さはほぼ同じで、岸の脇に寄りかかっており、地面から二百余丈の高さにあった。民間ではこれを石鼓と呼んでいた。石鼓が鳴ると、戦乱が起こると言われた。この年、広漢郡の鉗子(刑徒)が牢獄を襲撃しようと謀り、死刑囚の鄭躬らを奪い出し、武器庫の兵器を盗んで役人や民衆を略奪し、刺繍の衣を着て自らを山君と称し、仲間は次第に広がった。翌年の冬になってようやく誅殺され、自首した者は三千余人に及んだ。その四年後、尉氏県の樊並らが謀反を企て、陳留太守の厳普を殺害し、自ら将軍と称した。また、山陽郡の逃亡者である蘇令らの仲間数百人が武器庫の兵器を盗み取り、四十余りの郡国を転々としたが、いずれも一年を経て誅殺された。この時、昌陵の造営が始まり、工事に従事する者は数万人に上り、郡国から役人や民衆五千余戸を移住させて陵邑に奉仕させた。工事は五年に及んでも完成せず、ついに昌陵の造営は中止され、移住した家々は元の地に戻された。石が鳴ったことは、晋で石がものを言ったのと同じ応報であり、師曠の言う「民力が尽き果てる」、伝に云う「百姓を軽んじる」という事態である。虒祁の離宮は絳都から四十里離れており、昌陵も郊外にあったが、いずれも城郭と同じ占いの対象であった。城郭は金に属し、宮室は土に属す。これは内外の区別によるものである。
伝に曰く、「宗廟を簡略にし、祠を祷らず、祭祀を廃し、天時に逆らえば、水は潤下せず」と。
説に曰く、水は北方に属し、万物を終わらせ蔵するものである。人道においては、命が終わり形が蔵せられると、精神は放たれ散逸する。聖人はこれに対して宗廟を設けて魂気を収め、春秋に祭祀を行い、孝道を全うするのである。王者が即位すれば、必ず天地を郊祀し、神祇に祈り、山川に望祭して序列を定め、百神を懐柔し、宗事しないものはない。斎戒を慎み、厳粛な敬意を尽くせば、鬼神は饗を受け、多くの福助を得る。これが聖王が陰気に順って事を行い、神と人を和合させる所以である。号令を発するに至っても、また天時に奉じる。十二月がそれぞれの気を得れば、陰陽は調和し終始が成る。このようであれば水はその本性を得る。もし鬼神を敬わず、時を逆らうことを命じれば、水はその本性を失う。霧や水が突然湧き出し、百川が逆流して溢れ、郷邑を壊し、人民を溺れさせ、あるいは長雨が農作物を傷つける。これが水が潤下しない状態である。京房の易伝に曰く、「専断して知恵を働かせ、誅罰が道理を絶つと、その災いは水である。その水は、雨が人を殺し霜が降り、大風が吹き天が黄色くなる。飢饉があっても減らさないことを泰と言い、その災いは水で、水が人を殺す。有徳者を退けることを狂と言い、その災いは水で、水が流れて人を殺し、水が引けば地に虫が生じる。罪を帰して解かないことを追非と言い、その水は寒く、人を殺す。誅罰を追って解かないことを不理と言い、その水は五穀が実らない。大敗を解かないことを皆陰と言う。解とは赦すことである。王者は大敗にあたっては、首謀者を誅し、その衆を赦す。そうしなければ皆陰気を含み、その水は国邑に流れ込み、霜が降りて穀物を殺す」。
桓公元年(前711年)「秋、大水」。董仲舒と劉向は、桓公が兄の隠公を弑したため、臣民が隠公を悼み桓公を軽んじたからだと考える。後に宋の督がその君を弑した時、諸侯が会合して討伐しようとしたが、桓公は宋からの賄賂を受け取って帰国し、さらに宋を裏切った。諸侯はこれによって魯を攻め、その後も戦いを交えて仇敵となり、伏屍流血し、百姓の怨みはますます深まった。それゆえ十三年の夏に再び大水が起こったのである。一説には、夫人が驕慢で淫らであり、君を弑そうとして陰気が盛んになったが、桓公は悟らず、ついに弑殺されたのだという。劉歆は、桓公が許田を交換し、周公を祀らなかったことが、祭祀を廃した罰であると考える。
厳公(荘公)七年(前687年)「秋、大水、麦の苗が失われた」。董仲舒と劉向は、厳公の母である文姜が兄の斉の襄公と淫通し、共に威公(桓公)を殺害した。厳公は父の仇を捨て、再び斉の女を娶ろうとしたが、未だ迎え入れる前に先に彼女と淫通し、一年のうちに二度外出し、道中で会って逆乱を働いた。これは臣下が彼を軽んじた応報である。
十一年「秋、宋で大水が起こった」。董仲舒は、当時魯と宋が連年にわたって乗丘・鄑の戦いを繰り返し、百姓が愁怨し、陰気が盛んになったため、二国ともに水害に見舞われたと考えた。劉向は、当時宋の愍公が驕慢で、災害を見ても改めず、翌年家臣の宋万と博戯をし、婦人を側に置き、自慢して万を罵ったため、万が公を殺す応報が起こったと考えた。
二十四年、「大水が起こった」。董仲舒は、夫人の哀姜が淫乱で婦道に従わず、陰気が盛んになったためと考えた。劉向は、哀姜が初めて入内したとき、公が大夫や宗婦に会わせるのに幣を用い、また二人の叔父と淫通したが、公はそれを禁じることができなかった。臣下が彼女を軽んじたため、この年と翌年に相次いで大水が起こったと考えた。劉歆は、これ以前に宗廟を厳かに飾り、椽を刻み柱を朱に塗って夫人を誇示したため、宗廟を簡略にした罰であると考えた。
宣公十年「秋、大水が起こり、飢饉となった」。董仲舒は、当時連年にわたって邾を討伐して邑を奪い、また報復を受け、戦いの怨みが結びつき、百姓が愁怨したためと考えた。劉向は、宣公が子赤を殺して立ったが、子赤は斉の出であるため、恐れて済西の田を斉に賄賂として与えた。邾子の貜且もまた斉の出であるのに、宣公は邾としばしば交戦した。臣下は斉の威を恐れ、邾との禍を創り出し、皆公の行いを軽んじてその正しさを認めなかったためと考えた。
成公五年「秋、大水が起こった」。董仲舒と劉向は、当時成公が幼弱で、政権が大夫にあり、この前の年に二度も軍を用い、翌年また鄆に城を築いて私門を強くし、仲孫蔑と叔孫僑如が専断して宋や晋と会合したため、陰が陽に勝ったと考えた。
襄公二十四年「秋、大水が起こった」。董仲舒は、この一年前に斉が晋を伐ち、襄公が大夫に師を率いて晋を救援させ、その後また斉を侵したが、国は小さく兵は弱く、強大な敵にしばしば立ち向かい、百姓が愁怨し、陰気が盛んになったためと考えた。劉向は、これ以前に襄公が隣国を侮ったため、邾がその南を伐ち、斉がその北を伐ち、莒がその東を伐ち、百姓が騒動し、その後また強大な斉を犯し続けたためと考えた。大水が起こり、飢饉となり、穀物が実らず、その災害は甚だしかった。
高后(呂后)三年の夏、漢中と南郡で大洪水が起こり、水が流れ出して四千余りの家が流された。四年の秋、河南で大洪水が起こり、伊水と雒水が千六百余りの家を流し、汝水が八百余りの家を流した。八年の夏、漢中と南郡で再び洪水が起こり、六千余りの家が流された。南陽の沔水が一万余りの家を流した。この時は女主(呂后)が独りで政治を行い、諸呂が相次いで王となっていた。
文帝の後三年の秋、大雨が降り、昼夜を問わず三十五日間絶え間なく続いた。藍田の山から水が流れ出し、九百余りの家が流された。燕では、民家八千余りが崩壊し、三百余人が殺された。これに先立ち、趙の人物である新垣平が望気(気を望む術)によって寵愛を受け、皇帝のために渭水の北に五帝廟を建立し、周の鼎を出現させようとし、夏の四月に郊外で上帝を祀った。一年余り後に誅殺を恐れ、謀反を企てたが、発覚し、腰斬の刑に処され、三族が滅ぼされた。この時、二度にわたって公主を単于に嫁がせ、贈り物は非常に豊かであったが、匈奴はますます驕り高ぶり、北辺を侵犯し、殺害・略奪は一万余人に及ぶこともあり、漢は連続して軍隊を派遣して征討し、辺境を守備した。
元帝の永光五年の夏から秋にかけて、大洪水が起こった。潁川、汝南、淮陽、廬江で雨が降り、村落の民家を壊し、また水が流れて人を殺した。この一年前に、役人が郡国廟の廃止を上奏していた。この年にはまた、順次に廃毀することを定め、太上皇と孝恵帝の寝廟を廃止し、いずれも再び修復されることはなく、博識の儒者はこれを古制に違背すると考えた。刑余の者である石顕が権力を握っていた。
成帝の建始三年の夏、大洪水が起こり、三輔では霖雨が三十余日続き、十九の郡国で雨が降り、山谷から水が流れ出し、合わせて四千余人が殺され、官寺と民家八万三千余りが壊れた。元年に、役人が甘泉の泰畤と河東の后土を長安の南北郊に移すことを上奏した。二年には、また雍の五畤と郡国の諸々の旧祀、合わせて六か所を廃止した。
中之上
経書に曰く、「羞は五事を用いる。五事とは、一に貌と曰い、二に言と曰い、三に視と曰い、四に聴と曰い、五に思と曰う。貌は恭と曰い、言は従と曰い、視は明と曰い、聴は聡と曰い、思は叡と曰う。恭は肅を作し、従は乂を作し、明は哲を作し、聡は謀を作し、叡は聖を作す。休徴は、肅と曰えば時に雨の若く、乂と曰えば時に陽の若く、哲と曰えば時に奥の若く、謀と曰えば時に寒の若く、聖と曰えば時に風の若し。咎徴は、狂と曰えば恒に雨の若く、僭と曰えば恒に陽の若く、舒と曰えば恒に奥の若く、急と曰えば恒に寒の若く、霿と曰えば恒に風の若し」。
貌の不恭
伝に曰く、「貌が恭しくないことを、これを不肅と謂う。その咎は狂であり、その罰は恒雨であり、その極は悪である。時に服妖有り、時に亀孽有り、時に鶏禍有り、時に下体上に生ずる痾有り、時に青眚青祥有り。唯金木を沴す」。
説に曰く、およそ草木の類を妖と謂う。妖は夭胎の如く、言うにまだ微かなり。虫豸の類を孽と謂う。孽は牙孽なり。六畜に及べば、これを禍と謂い、その著しいことを言う。人に及べば、これを痾と謂う。痾は病の貌にして、浸み深まることを言う。甚だしければ異物生ずるを眚と謂い、外より来るを祥と謂う。祥は禎の如し。気相傷うを沴と謂う。沴は臨蒞の如く、和せざる意なり。一事ごとに「時に則ち」と云うをもってこれを絶つ。必ずしも俱に至らず、或は有り或は亡く、或は前に在り或は後に在ることを言うなり。
孝武の時、夏侯始昌は五経に通じ、五行伝を推し善くし、以て族子の夏侯勝に伝え、下って許商に及び、皆教えし所の賢弟子なり。その伝は劉向と同じく、唯だ劉歆の伝のみ独り異なる。貌の不恭は、これを不肅と謂う。肅は敬なり。内を恭と曰い、外を敬と曰う。人君己を行うに、体貌恭しからず、怠慢驕蹇ならば、則ち万事を敬むこと能わず、失は狂易に在り、故にその咎は狂なり。上嫚にして下暴ならば、則ち陰気勝り、故にその罰は常雨なり。水百穀を傷い、衣食足らず、則ち姦軌並び作り、故にその極は悪なり。一に曰く、民多く刑せられ、或いは形貌醜悪なるも、亦是なり。風俗狂慢にして、節を変じ度を易うれば、則ち剽軽奇怪の服と為り、故に服妖有り。水類動ず、故に亀孽有り。易に於て、巽は鶏と為り、鶏は冠距文武の貌有り。威儀と為さず、貌気毀すれば、故に鶏禍有り。一に曰く、水歳には鶏多く死し及び怪しきことを為すも、亦是なり。上威儀を失えば、則ち下に彊臣有りて君上を害する者あり、故に下体上に生ずる痾有り。木色青なり、故に青眚青祥有り。凡そ貌傷わる者は木気を病む。木気病めば則ち金これに沴す。衝気相通ずるなり。易に於て、震は東方に在り、春と為り木と為るなり。兌は西方に在り、秋と為り金と為るなり。離は南方に在り、夏と為り火と為るなり。坎は北方に在り、冬と為り水と為るなり。春と秋は、日夜分かち、寒暑平かなり。是を以て金木の気易く以て相変わる。故に貌傷れば則ち秋陰常雨を致し、言傷れば則ち春陽常旱を致すなり。冬夏に至っては、日夜相反し、寒暑殊絶す。水火の気相併せず、故に視傷れば常に奥しく、聴傷れば常に寒しき者は、その気然るなり。これに逆らえば、その極は悪と曰い、これに順えば、その福は攸好徳と曰う。劉歆の貌伝に曰く、鱗虫の孽有り、羊禍有り、鼻痾有り。説以為うに、天文に於て東方辰は龍星と為るを以て、故に鱗虫と為る。易に於て兌は羊と為る。木は金の病まれる所と為り、故に羊禍を致し、常雨と同じく応ず、と。この説は是に非ず。春と秋は、気陰陽相敵し、木病み金盛んなり、故に能く相併す。唯だこの一事のみ耳。禍と妖痾祥眚は同類にして、独り異なることを得ず。
『史記』成公十六年、公が諸侯と周で会合したとき、単襄公が晋の厲公が遠くを見つめ歩みが高いのを見て、公に告げて言った。「晋に乱が起こるだろう。」魯侯が言った。「敢えてお尋ねしますが、これは天道によるものですか、それとも人為によるものですか。」答えて言った。「私は瞽史ではないので、どうして天道を知ることができましょうか。私は晋君の容態を見て、必ず禍いを招く者であると見たのです。そもそも君子は目で体の安定を定め、足はそれに従うものです。それゆえ、その容態を見てその心を知ることができるのです。目は礼儀の処し方を定め、足は目に従って歩みます。晋侯が遠くを見つめ足が高いのは、目が体に在らず、足が目に従って歩まないので、その心は必ず異なっているのです。目と体が互いに従わなければ、どうして長く続けられましょうか。諸侯を合わせることは、民の大事です。ここにおいて存亡を観察するのです。だから国に咎めが無いならば、その君が会合にいる時、歩みと言葉、見ることと聞くことは必ず全て非難されることがなく、それによってその徳を知ることができるのです。遠くを見つめることを、その礼儀を絶つと言い、足が高いことを、その徳を棄てるという。言葉が爽やかでないことを、その信を反するといい、聞くことが淫らなことを、その名を離れるという。目は礼儀を処するため、足は徳を実践するため、口は信を守るため、耳は名を聞くためのものです。だから慎重でなければなりません。偏って喪えば咎めがあり、完全に喪えば国がそれに従います。晋侯は二つ(視遠と足高)を爽やかにしていません。私はそれゆえにそう言うのです。」後二年、晋人が厲公を殺した。凡そこの類は、皆、貌が恭しくない咎めであるという。
左氏伝:桓公十三年、楚の屈瑕が羅を討伐し、鬭伯比がこれを見送り、帰ってその御者に言った。「莫囂は必ず敗れる。挙止が高く、心が固くないからだ。」急いで楚子に会って告げた。楚子は頼人に追わせたが、追いつかなかった。莫囂が行軍すると、ついに序列がなく、しかも備えを設けなかった。羅に至ると、羅人が軍を整えてこれを迎え撃ち、大敗した。莫囂は縊死した。
釐公十一年、周が内史過を使者として晋の恵公に命(爵位を認める命令)を賜ったが、恵公は玉を受ける際に怠惰であった。過は帰って王に告げて言った。「晋侯は後継者がいなくなるでしょう!王が命を賜ったのに、瑞(玉)を受けることを怠るのは、先ず自ら棄てたのです。どうして継ぐものがありましょうか!礼は国の幹であり、敬は礼の車です。敬わなければ礼は行われず、礼が行われなければ上下が乱れます。どうして長く世を保てましょうか!」二十一年、晋の恵公が卒去し、子の懐公が立ったが、晋人がこれを殺し、代わりに文公を立てた。
成公十三年、晋侯が郤錡を魯に派遣して援軍を乞わせたが、職務を行うのに恭敬でなかった。孟獻子が言った。「郤氏は滅びるだろう!礼は身の幹であり、敬は身の基礎である。郤子には基礎がない。しかも先君の嗣卿であり、師(軍隊)を求める命令を受けて、社稷を守ろうとしているのに、君命を怠って棄てるのです。滅びずしてどうするというのか!」十七年、郤氏は滅亡した。
成公十三年、諸侯が王に朝見し、ついで劉康公に従って秦を討伐した。成肅公が社で賑(出兵の際の祭肉)を受けたが、恭敬でなかった。劉子が言った。「私は聞いている。民は天地の中和を受けて生まれる、これを命という。それゆえ礼義動作威儀の法則があり、それによって命を定める。能ある者はこれによって福を養い、能なき者はこれに敗れて禍を取る。だから君子は礼に勤め、小人は力に尽くす。礼に勤めることは敬を致すに如くはなく、力に尽くすことは篤実であるに如くはない。敬は神を養うことにあり、篤実は業を守ることにある。国の大事は、祀と戎(軍事)にある。祀には執膰(祭肉を執る)があり、戎には受賑(出兵の祭肉を受ける)がある。これは神に対する大節である。今、成子が怠惰であるのは、その命を棄てたのだ。彼は帰らないのではないか!」五月、成肅公は卒去した。
成公十四年、衛の定公が苦成叔を饗応し、甯恵子が相礼した。苦成叔が傲慢な態度をとると、甯子は言った。「苦成の家は滅びるであろうか!古の人が饗応の食事を設けたのは、威儀を観察し禍福を省みるためであった。故に『詩経』に言う。『犀角の杯は曲がり、旨い酒は柔らかだ。驕らず傲らず、万福が求め来る』と。今、あの方は傲慢である。これは禍を招く道である。」三年後、苦成の家は滅亡した。
襄公七年、衛の孫文子が魯に聘問し、魯君が壇に登ると彼も登った。叔孫穆子が相礼し、進み出て言った。「諸侯の会合では、我が君は衛君に後れることはなかった。今、あなたは我が君に後れず、我が君は何か過ちがあったか分からない。どうか少し落ち着いてください。」孫子は弁解せず、また悔い改める様子もなかった。穆子は言った。「孫子は必ず滅びる。臣下でありながら君のようであり、過ちを犯しても悔い改めない。これが滅亡の根源である。」十四年、孫子はその君を追放し、国外に叛いた。
襄公二十八年、蔡の景侯が晋から帰国する途中、鄭に入った。鄭伯が彼を饗応したが、景侯は敬意を払わなかった。子産は言った。「蔡君は免れないであろうか!先日ここを通った時、我が君は子展を東門に遣わして慰労させたが、彼は傲慢だった。私は『まだ改めるだろう』と言った。今、帰途に饗応を受けながら怠慢である。これは彼の本性である。小国の君主が大国に仕えながら、怠慢傲慢を本性としている。どうして死を免れようか?もし君が免れなければ、必ずその子によるものであろう。淫乱で父の道を尽くさない。このような者には必ず子による禍がある。」三十年、世子の般に殺された。
襄公三十一年、魯公(襄公)が薨去した。季武子が公子の裯を立てようとすると、穆叔は言った。「この人物は、喪に居ながら悲しまず、憂いの中にありながら喜びの表情をしている。これは法度に合わぬというものだ。法度に合わぬ人物で、患いをなさない者は稀である。もし果たして立てれば、必ず季氏の憂いとなるであろう。」武子は聞き入れず、ついに彼を立てた。葬儀に至るまで、三度喪服を替えたが、喪服の襟は以前の喪服のようであった。これが昭公である。即位して二十五年、讒言を聞き入れて季氏を攻撃した。兵は敗れ、出奔し、国外で死んだ。
襄公三十一年、衛の北宮文子が楚の令尹の圍の儀礼作法を見て、衛侯に言った。「令尹は君主のようである。他に志があるのでしょう。たとえその志を遂げても、最後まで保つことはできません。」公が「あなたはどうして分かるのか」と問うと、答えて言った。「『詩経』に『威儀を敬い慎め、これ民の則りなり』とあります。令尹に威儀がなければ、民は則る所がありません。民が則らない者が民の上に立つことは、最後まで保てません。」
昭公十一年の夏、周の単子が戚で会合したとき、視線は下を向き、言葉はゆっくりであった。晋の叔向は言った。「単子は死ぬであろうか!朝見には定まった位置があり、会合には標識があり、衣には襟の合わせ目があり、帯には結び目がある。会合や朝見での言葉は必ず標識の位置まで聞こえるもので、それによって事の順序を明らかにするのである。視線は帯と襟の合わせ目を越えず、それによって容貌を整えるのである。言葉によって命令を伝え、容貌によってそれを明らかにする。これが欠ければ過失となる。今、単子は王官の長として、会合で命令を下す立場にあるのに、視線は帯の高さに届かず、言葉は一歩も届かず、容貌は整わず、言葉は明らかでない。整わず恭しさがなく、明らかでなく従順でない。守るべき気力が失われている。」十二月、単成公が死去した。
昭公二十一年三月、蔡の平公が葬られたとき、蔡の太子の朱が位を失い、位は低い位置にあった。魯の大夫で葬儀に参列した者が帰国して昭子に報告した。昭子は嘆いて言った。「蔡は滅びるであろうか!もし滅びないとしても、この君は必ず最後まで在位できない。《詩経》に『位を解かず、民の依りて息う所』とある。今、即位したばかりで低い位置に就いた。身もそれに従うことになろう。」十月、蔡侯の朱は楚に出奔した。
晋の魏舒が諸侯の大夫たちを翟泉に集め、成周を築城しようとした。魏子が政務に臨んだとき、衛の彪傒が言った。「天子のために築城するという大事業なのに、位を越えて命令を下すのは、道理に合わない。大事が道理を犯せば、必ず大きな災いがある。晋が諸侯を失わないとしても、魏子は免れられないであろう!」このとき、魏献子は役務を韓簡子に任せ、自らは大陸で狩猟をし、火災に遭って死んだ。
定公十五年、邾の隠公が魯に朝見し、玉を高く捧げ持ち、その顔は上を向いていた。定公が玉を受け取る姿勢は低く、その顔はうつむいていた。子贛がこれを見て言った。「礼によって観察すると、両君ともに死と亡びの兆しがあります。礼というものは、死生と存亡の根本です。左右に周旋し、進退し、俯仰する動作は、ここから取り入れられる。朝見・祭祀・喪事・軍事は、ここから観察される。今、正月に相朝見して、ともに法度に合わず、心はすでに失われています。嘉事が根本を失えば、どうして長く続けられましょうか。高く仰ぐのは驕り、低く俯くのは衰えです。驕りは乱に近く、衰えは病に近い。君(魯公)が主であるなら、先に亡びるのではないでしょうか!」
庶徴のうちの恒雨(常に雨が多いこと)について、劉歆は『春秋』に記される大雨のことと考え、劉向は大水のことと考えた。
隠公九年「三月癸酉の日、大雨が降り、雷電が光った。庚辰の日、大雪が降った」。大雨とは、雨水のことである。震とは、雷のことである。劉歆は、三月癸酉の日は暦数上では春分の翌日に当たり、雷電が始まる時期であるから、雨は降るべきだが大雨は降るべきではないと考えた。大雨は、常雨(通常の雨)に対する罰である。雷電が始まってから八日目の間に大雪が降ったのは、常寒(通常の寒さ)に対する罰である。劉向は、周の三月は今の正月にあたり、雨水の節気に当たるので、雪が雨に混じることはあっても、雷電はまだ発するべきではないと考えた。すでに発したのであれば、雪が再び降るべきではない。いずれも節度を失っているので、これを異(災異)と呼ぶのである。『易』によれば、雷は二月に出現し、その卦は豫といい、万物が雷に従って地から出て、皆安楽であることを言う。八月に入り、その卦は帰妹といい、雷が再び帰ることを言う。地に入れば根や核を養い、冬ごもりの虫を保ち隠して、盛んな陰気の害を避ける。地に出れば花や実を養い育て、隠れ伏しているものを発揚して、盛んな陽気の徳を宣べる。入れば害を除き、出れば利を興す。これは人君の象である。この時、隠公は弟の桓公が幼いため、代わって摂政として立った。公子翬は隠公が位に居るのが久しいのを見て、そのまま即位するよう勧めた。隠公が許さなかったので、翬は恐れて言葉を変え、ついに桓公と共に隠公を殺した。天はその将に然らんとするのを見て、故に正月に大雨が降り雷電が光ったのである。これは陽気が陰気を閉じ込めず、危難に陥って出て万物を害することを示す。天の戒めは言うようである、君たる者が時を失い、賊のような弟と佞臣が乱を起こそうとしている、と。八日後に大雪が降ったのは、陰気が隙間を見つけて陽気に勝ち、簒奪殺害の禍いが成ろうとしていることを示す。公(隠公)は悟らず、後二年にして殺された。
昭帝の始元元年七月、大水と雨があり、七月から十月まで続いた。成帝の建始三年の秋、大雨が三十余日続いた。四年九月、大雨が十余日続いた。
『左氏伝』によれば、愍公二年、晋の献公は太子申生に軍を率いさせた。公(献公)は申生に偏衣(へんい、左右異色の衣)を着せ、金の玦(けつ、環に欠け目のある玉)を佩かせた。狐突は嘆いて言った。「時は事の徴である。衣は身の章である。佩は衷の旗である。故にその事を敬うならば、命は始め(春)に与える。その身を服させるならば、衣は純色のものを着せる。その衷を用いるならば、佩は度(のり、常道)にかなったものを与える。今、命を時卒(冬の終わり)に与えるのは、その事を閉ざす(妨げる)ためである。尨服(もうふく、雑色の衣)を着せるのは、その身を遠ざけるためである。金の玦を佩かせるのは、その衷を棄てるためである。服で遠ざけ、時で閉ざす。尨(雑色)は涼しく、冬は殺伐である。金は寒く、玦は離れる。どうして頼ることができようか」。梁餘子養は言った。「軍を率いる者は、廟で命を受け、社で脤(しん、祭肉)を受け、常の服がある。それを得られずに雑色の服を着るのは、命(運命)が知れるというものだ。死んで不孝となるよりは、逃げる方がよい」。罕夷は言った。「雑色は奇異で常ならず、金の玦は戻らない。君(献公)には心(殺意)がある」。後四年、申生は讒言によって自殺した。これは服妖(ふくよう、衣服の怪異)に近い。
『左氏伝』に言う、鄭の子臧は鷸冠(いつかん、トキの羽根の冠)を集めることを好んだ。鄭の文公はこれを憎み、盗賊を使って彼を殺させた。劉向は、これは服妖に近いと考えた。一説には、子臧自身のことだけでなく、文公への戒めでもあったという。初め、文公は晋の文公に礼を尽くさず、また天子の命に背いて滑を伐ち、上を尊び敬うことをしなかった。その後、晋の文公が鄭を伐ち、国が滅亡寸前になった。
昭帝の時、昌邑王の劉賀は中大夫を長安に派遣し、仄注冠を多く作らせて大臣に賜り、また奴隷に冠をかぶせた。劉向はこれを服妖に近いものと考えた。当時、王の劉賀は狂乱で道理に背き、天子(昭帝)が病気であると聞いても、相変わらず狩猟や駆け回りにふけり、御者や料理人などの下僕と遊び暮らし、驕慢で敬意を払わなかった。冠は尊い身分の者が着用するもので、奴隷は賤しい身分の者である。劉賀が理由もなく普通でない冠を作るのは、尊い身分の象徴を冒涜する行為である。奴隷に冠をかぶせるのは、最高の尊貴から最も賤しい身分へと墜ちることを意味する。その後、昭帝が崩御し、子がなかったため、漢の大臣たちは劉賀を後継者として迎えた。即位すると、狂乱で無道となり、諫言した夏侯勝らを縛り上げて殺した。そこで大臣たちは皇太后に上奏し、劉賀を庶人に落とした。劉賀が王であった時、また大白狗が方山冠をかぶり尾がないのを見た。これは服妖であり、また犬禍でもある。劉賀が郎中令の龔遂に尋ねると、龔遂は言った。「これは天の戒めで、側近の者たちが皆、犬に冠をかぶせていることを言っているのです。それを取り除けば生き残り、取り除かなければ滅びます。」劉賀が廃されて数年後、宣帝が彼を列侯に封じたが、また罪を犯し、死後は後継者を立てることができなかった。これもまた犬禍で尾がないことの効験である。京房の易伝に言う。「行いが順当でないと、その咎として人の奴隷が冠をかぶり、天下が乱れ、君主に嫡子がなく、妾腹の子が拝される。」また言う。「君主が正しくないと、臣下が簒奪を欲し、その妖として犬が冠をかぶって朝廷の門から出る。」
成帝の鴻嘉・永始の間、成帝は微行して出遊するのを好み、従者には期門郎の中から有能で力のある者を選び、また私的な奴隷や食客を加え、多い時は十余人、少ない時は五、六人とし、皆、白い衣に袒の幘をし、刀剣を帯び持たせた。ある時は小さな車に乗り、御者が茵の上に座り、ある時は皆が騎乗し、市街や郊外を出入りし、遠くは隣県まで行った。当時、大臣の車騎将軍王音や劉向らがたびたび強く諫めた。谷永は言った。「易経に『臣を得て家無し』と称するのは、王者は天下の臣となり、私的な家を持たないという意味です。今、陛下は万乗の極めて尊い身分を捨て、家人の賤しいことを楽しみ、高く美しい尊称を嫌い、匹夫の卑しい呼び名を好み、軽薄で義のない者を集めて私的な客とし、民間に私的な田を設け、私的な奴隷や車馬を北宮に蓄え、たびたび南面する君主の尊厳を離れ、深宮の堅固な守りを出て、身一つで小人たちと日夜つき従い、烏のように酔い飽きた官吏や民の家に集まり、乱れた服装で共に座り、肴が入り混じって区別なく、むりに楽しみを求め、昼夜を問わず路上にいます。門戸を司り宿衛を奉ずる臣は、武器を執って空の宮殿を守り、公卿百官は陛下の所在を知らず、これが数年も続いています。昔、虢公が無道であった時、神が降りて『爾に土田を賜う』と言いましたが、これは庶人として土田を受けることを意味します。諸侯でさえ夢に土田を得るのは、国を失う前兆とされるのに、まして王者が私的な田や財物を蓄え、庶人のことをするのはどうでしょうか。」
左氏伝に言う、周の景王の時、大夫の賓起が雄鶏が自らその尾を断つのを見た。劉向はこれを鶏禍に近いものと考えた。この時、王には寵愛する子の子晁がおり、王と賓起は密かに彼を立てようと謀った。北山で狩りをし、兵衆を用いて嫡子の一派を殺そうとしたが、その前に王は崩御した。三人の王子が国を争い、王室は大混乱となった。その後、賓起は誅殺され、子晁は楚に奔って敗れた。京房の易伝に言う。「始めあって終わり無し、その妖として雄鶏自ら尾を噛み断つ。」
宣帝の黄龍元年、未央殿の輅軨の中で雌鶏が雄に変化し、羽毛は変わったが鳴かず、群れを率いず、蹴爪もなかった。元帝の初元年間、丞相府の史の家の雌鶏が雛を抱いていたが、次第に雄に変化し、鶏冠と蹴爪が生え、鳴き、群れを率いた。永光年間、雄鶏が角を生やしたものを献上した者がいた。京房の『易伝』に言う。「鶏は時を知る。時を知る者は死すべきである」。房は自分が時を知っていると思い、恐らく自分がそれに当たるのではないかと恐れた。劉向は、房が鶏の占いを誤ったと考えた。鶏は小さな家畜で、時を司り、人の起居に関わり、小臣が政務を執る事柄の象徴である。小臣が君主の威権を握り、正しい事柄を害することを言うのは、石顕のような者である。竟寧元年、石顕が罪に伏した。これがその効験である。一説には、石顕ごときがどうしてこれに当たりえようか。昔、武王が殷を討伐した時、牧野に至り、軍勢に誓って言った。「古人に言うところがある。『牝鶏は朝に鳴かず。牝鶏が朝に鳴けば、その家は尽きる』と。今、殷の王紂はただ婦人の言葉を用いている」。これによって論ずれば、黄龍、初元、永光の鶏の変異は、国家についての占いであり、妃后の象徴である。孝元王皇后は甘露二年に男子を生み、太子に立てられた。妃は王禁の娘である。黄龍元年、宣帝が崩御し、太子が立ち、これが元帝である。王妃が皇后となろうとしたので、この年、未央殿の中で雌鶏が雄となったのは、その占いが正宮にあることを明らかにしたのである。鳴かず、群れを率いず、蹴爪がないのは、貴ぶことが始まったばかりで、尊ぶことがまだ成っていないからである。元帝の初元元年に至り、王皇后を立てようとして、先に婕妤とした。三月癸卯の制書に言う。「その婕妤の父、丞相少史の王禁を陽平侯に封じ、位は特進とする」。丙午、王婕妤を皇后に立てた。翌年正月、皇后の子を太子に立てた。それゆえこれに応じて、丞相府の史の家の雌鶏が雄となったのであり、その占いはすなわち丞相少史の娘のことである。雛を抱いていたのは、すでに子があることを明らかにしたのである。鶏冠と蹴爪が生え、鳴き、群れを率いたのは、尊ぶことがすでに成ったのである。永光二年、陽平頃侯の王禁が薨じ、子の鳳が侯を嗣ぎ、侍中衛尉となった。元帝が崩御し、皇太子が立ち、これが成帝である。皇后を尊んで皇太后とし、皇后の弟の鳳を大司馬大将軍とし、尚書事を領させ、上(皇帝)は政務を委ね、関与しなかった。王氏の権勢は鳳から始まった。それゆえ、鳳が爵位を受け始めた時に、雄鶏に角があったのは、威を作し、君に専断し、上を害し、国を危うくする者が、この人から始まることを明らかにしたのである。その後、群弟が代々権勢を握り、王莽に至って、ついに天下を簒奪した。即位五年にして、王太后がようやく崩御した。これがその効験である。京房の『易伝』に言う。「賢者が明夷の世にあり、時を知って傷つく。あるいは衆が位に在り、その妖は鶏が角を生ず。鶏が角を生ずるは、時の主が独りである」。また言う。「婦人が政に専断すれば、国は静かならず。牝鶏が雄のように鳴けば、主は栄えない」。それゆえ房は、自分もまた占いの中にあると考えたのである。
成公七年「正月、鼷鼠が郊祀の牛の角を食った。別の牛を卜して用いようとすると、またその角を食った」。劉向は、これに近い青祥であり、また牛の禍いでもあると考え、敬わず、蒙昧であることによって招かれたものとした。昔、周公が礼楽を制定し、周の道を成したので、成王は魯に命じて天地を郊祀させ、周公を尊んだ。成公の時に至り、三桓氏(三家)が初めて政権を専断し、魯はこれから衰えようとした。天は周公の徳を哀れみ、その将に敗亡の禍いあることを痛み、それゆえ郊祭において戒めを示したのである。鼠は小さな虫で、性来、窃盗する。鼷鼠はその中でもさらに小さいものである。牛は大きな家畜で、天を祭る尊い物である。角は兵の象徴で、上にあり、君主の威厳である。小さな鼷鼠が、最も尊い牛の角を食うのは、季氏のような陪臣の窃盗の徒が、国命を執り、君主の威厳を傷つけ、周公の祭祀を害しようとする象徴である。別の牛を卜すると、鼷鼠がまたその角を食ったのは、天が重ねて告げたのである。成公は怠慢で昏乱であり、ついに君臣は晋に捕らえられることとなった。襄公の時に至り、晋が溴梁の会を開き、天下の大夫は皆、君主の政権を奪った。その後、三桓氏は昭公を追放し、ついに国外で死に、周公の祭祀はほとんど絶えようとした。董仲舒は、鼷鼠が郊祀の牛を食うのは、皆、生贄の牛を養うのに謹んでいなかったからだと考えた。京房の『易伝』に言う。「天を祭るのに慎まなければ、その妖は鼷鼠が郊祀の牛の角を齧る」。
定公十五年『正月、鼷鼠が郊牛を食い、牛が死んだ』。劉向は、定公が季氏が昭公を追放した罪悪がそれほどであることを知りながら、孔子を親しく用いて夾谷の会を開き、斉人が鄆・讙・龜陰の田を返還してきたという聖徳がこれほどであるのに、逆に季桓子を用い、女楽にふけって孔子を退けたのは、無道の極みであると考えた。『詩経』に『人にして儀なくば、死なずして何を為さん』とある。この年の五月、定公が薨去したのは、牛が死んだことの応報である。京房の易伝に『子たるもの子たらず、鼠その郊牛を食う』とある。
哀公元年『正月、鼷鼠が郊牛を食った』。劉向は、天意が聖人を用いることに切迫しており、三家を追放しようとしているため、再び戒めが現れたのだと考えた。哀公は年少で、昭公の出来事を直接見ておらず、そのため敗亡の異変を見たのである。その後、哀公は悟らず、自ら越に奔った。これがその効験である。
昭帝の元鳳元年九月、燕に黄鼠がその尾をくわえて王宮の端門の中で舞うことがあった。王(燕剌王旦(えんらつおうたん))がそれを見に行くと、鼠は相変わらず舞っていた。王が役人に酒と干し肉を供えて祀らせたが、鼠は舞いをやめず、一日一夜で死んだ。これは黄祥に近く、当時燕剌王旦が謀反を企てて死に至る前兆であった。その月、発覚して誅殺された。京房の易伝に『誅情を原さず、厥の妖鼠門に舞う』とある。
成帝の建始四年九月、長安城の南に鼠が黄蒿や柏の葉をくわえて、民の塚の柏や榆の木の上に巣を作り、特に桐柏に多かった。巣の中には子はおらず、皆乾いた鼠の糞が数十個あった。当時、議臣たちは水害が起こる恐れがあると考えた。鼠は盗みをする小虫で、夜に出て昼は隠れるものだが、今は昼間に穴を離れて木に登っている。これは賤しい者が顕貴の位につこうとする象徴である。桐柏は衛思后の園があった場所である。その後、趙皇后が微賤から至尊に登ったが、衛后と同類である。趙后は結局子がなく、害をなした。翌年には、鳶が巣を焼き子を殺すという異変があった。天象が繰り返し現れたのは、非常に恐るべきことである。一説には、これらは皆王莽が位を簒奪する前兆だという。京房の易伝に『臣私禄を罔くし辟せず、厥の妖鼠巣くう』とある。
文公十三年、『大室の屋壊る』。これは金が木を沴する(害する)に近く、木が動く兆候である。この前、冬に釐公が薨じ、十六ヶ月後にようやく神主を作った。その後六月、また太廟で吉禘を行い釐公を祭ったが、春秋はこれを非難している。経文に『大事を太廟にあり、釐公を躋す』とある。左氏の説によれば、太廟は周公の廟で、礼義をもって饗する所である。祀は国の大事である。太廟において国の大事を乱すことを憎んで、『大事』と言ったのである。躋は登ることで、釐公を愍公の上に登らせたのは、順序を逆にした祭祀である。釐公は愍公の庶兄ではあるが、かつて愍公の臣下であった。臣下と子は同じ扱いであり、愍公の上に置くことはできない。また三年経たないうちに吉禘を行ったことは、前後して賢父聖祖の大礼を乱し、内には貌恭しからずして狂し、外には言従わずして僭すこととなった。そのためこの年は十二月から雨が降らず、秋七月まで続いた。その後も同様のことが三年続き、ついに太室の屋が壊れたのである。前の堂を太廟といい、中央を太室という。屋はその上にある重層の屋根で尊高いものであり、魯がこれより陵夷し、周公の祭祀が廃れることの象徴である。穀梁伝・公羊伝の経文には世室とあり、魯公伯禽の廟である。周公の廟は太廟といい、魯公の廟は世室という。大事とは、祫祭のことである。釐公を躋すとは、先に禰(父)を祭り後に祖を祭ることである。
景帝の三年(紀元前154年)十二月、呉の二つの城門が自然に傾き、大きな船が自然に覆った。劉向は、これは金が木を害する(金沴木)に近く、木が動く兆しであると考えた。この前に、呉王劉濞は太子が漢で死んだことを理由に、病気と称して朝見せず、密かに楚王劉戊と謀って反乱を企てていた。城は国に例えられる。その一つの門は楚門と名付けられ、もう一つの門は魚門と呼ばれた。呉の地では船を家とし、魚を食料としていた。天の戒めはこう言っているようである。『楚と謀ることは、国を傾け家を覆すことである』と。呉王は悟らず、正月に楚とともに兵を起こし、身は死に国は滅んだ。京房の『易伝』に言う。『上下ともに道理に背くと、その妖は城門が壊れる』と。
宣帝の時、大司馬霍禹の住む邸宅の門が自然に壊れた。当時、霍禹は内(朝廷内)では順わず、外(臣下として)では敬わず、戒めを見ても改めなかったので、ついに滅亡の誅罰を受けた。
哀帝の時、大司馬董賢の邸宅の門が自然に壊れた。当時、董賢は私的な寵愛によって高位に居り、賞賜は度を超え、驕り高ぶって不敬であり、臣下の道を大きく失い、戒めを見ても改めなかった。後に董賢夫妻は自殺し、家族は合浦に流された。
言うことを従わないこと
伝に言う。『言うことを従わない(言を従わず)ことを、これ「艾まらず」と言い、その咎は僭越にあり、その罰は常に陽であり、その極みは憂いである。時に詩妖あり、時に介虫の孽あり、時に犬禍あり、時に口舌の痾あり、時に白眚白祥あり。ただ木が金を害する(木沴金)のみ』と。
「言之不従」の「従」は、順うことである。「是謂不乂」の「乂」は、治めることである。孔子は言う、「君子がその室に居て、その言葉が善からざれば、千里の外においてもこれに背く、ましてその近き者においてをや!」と。『詩』に云う、「蜩の如く螗の如く、沸くが如く羹の如し」と。これは、上の号令が民心に順わず、虚しく騒ぎ乱れれば、海内を治めることができず、過差にあることを失い、故にその咎は僭である。僭とは、差うことである。刑罰を妄りに加えれば、群陰が附かず、則ち陽気が勝ち、故にその罰は常に陽である。旱魃が百穀を損なえば、寇難があり、上下ともに憂い、故にその極は憂いである。君が炕陽にして暴虐であれば、臣は刑を畏れて柑口し、則ち怨謗の気が歌謡に発し、故に詩妖がある。介蟲孽とは、小蟲で甲を持ち飛揚する類いを言い、陽気によって生ずるものである。春秋においては螽と為し、今これを蝗と言い、皆その類いである。易において、兌は口を為し、犬は吠えて守るが、信ずべからず、気が毀れる故に犬禍がある。一説には、旱年の歳には犬多く狂死し、また怪異を為す、これもまた同じである。人に及べば、多く口喉欬の病にかかる者があり、故に口舌痾がある。金色は白い、故に白眚白祥がある。凡そ「傷」と言うのは、金気を病むことである。金気が病めば、則ち木がこれを沴する。その極が憂いであるものは、これに順えば、その福を康寧と言う。劉歆が言うには、伝に曰く、時に毛蟲の孽有りと。説いて以て為すに、天文において西方の参は虎星と為し、故に毛蟲と為す。
史記に、周の単襄公が晋の郤錡、郤犨、郤至、斉の国佐と語り、魯の成公に告げて言うには、「晋に乱れ有らん、三郤そのこれに当たるか!夫れ郤氏は、晋の寵人なり、二卿にして五大夫、以て戒懼すべし。高位は実に疾く顛り、厚味は実に腊毒なり。今郤伯の語は犯し、叔は迂し、季は伐す。犯すれば則ち人を陵ぎ、迂すれば則ち人を誣い、伐すれば則ち人を掩う。是の寵有りて、而して之に三怨を益す、其れ誰か能く之を忍ばんや!斉の国子も亦た将に与らんとす。淫乱の国に立ちて、而して尽言を好みて以て人の過ちを招くは、怨の本なり。唯だ善人のみ能く尽言を受く、斉に其れ有らんや?」と。十七年、晋は三郤を殺す。十八年、斉は国佐を殺す。凡そ此の属は、皆言不従の咎を言うものなり。
晋の穆侯が条の役の時に太子を生み、之を仇と名づけ、その弟が千畝の戦いの時に生まれ、之を成師と名づけた。師服が言うには、「異なるかな、君の子に名づけることや!夫れ名は以て誼を制し、誼は以て礼を出だし、礼は以て政を体し、政は以て民を正す、是を以て政成りて民聴く。易われば則ち乱を生ず。嘉耦を妃と曰い、怨耦を仇と曰うは、古の命なり。今君、太子を仇と名づけ、弟を成師と名づく、始めて乱を兆す、兄其れ替らんか!」と。仇が嗣ぎて立つに及び、是を文侯と為す。文侯卒し、子の昭侯立つ。成師を曲沃に封じ、桓叔と号す。後に晋人、昭侯を殺して桓叔を納れんとすれど、克かず。復た昭侯の子の孝侯を立てる。桓叔の子の厳伯、之を殺す。晋人、其の弟の鄂侯を立てる。鄂侯、哀侯を生む。厳伯の子の武公、復た哀侯及び其の弟を殺し、之を滅ぼして、代わりて晋国を有つ。
宣公六年、鄭の公子曼満が王子伯廖と語り、卿たらんと欲す。伯廖、人に告げて言うには、「徳無くして貪なれば、其れ周易の豊の離に在り、過ちを過ぎざるなり」と。一歳を間てて、鄭人、之を殺す。
襄公二十九年、斉の高子容と宋の司徒が晋の知伯に会い、汝斉が相礼を為す。賓出でて、汝斉、知伯に語りて言うには、「二子皆将に免れざらん!子容は専なり、司徒は侈なり、皆亡家の主なり。専なれば則ち速やかに及び、侈なれば将に其の力に以て敝れ、専なれば人実に之を敝らしめ、将に及ばん」と。九月、高子、燕に出奔す。
襄公三十一年の正月、魯の穆叔が晋から帰国し、孟孝伯に告げて言った。「趙孟はまもなく死ぬであろう。その言葉は怠惰で、君主のようではない。しかも年齢はまだ五十に満たないのに、諄諄として八、九十歳の者のようである。長くは生きられない。もし趙孟が死ねば、政を執る者は韓子であろうか。あなたはどうして季孫に話さないのか。善を樹てることができる、君子である。」孝伯は言った。「人の一生はどれほどあるというのか。誰が怠惰でいられようか。朝には夕べのことを考えられないのに、どうして善を樹てる必要があろうか。」穆叔は人に告げて言った。「孟孫はまもなく死ぬであろう。私は趙孟の怠惰について話したが、彼はそれよりもさらにひどい。」九月、孟孝伯が卒去した。
昭公元年、周が劉定公を遣わして晋の趙孟を慰労させた。劉定公はついでに言った。「あなたは冠を戴いて諸侯に臨んでいる。どうして遠く禹の功績を継ぎ、大いに民を庇護しないのか。」趙孟は答えて言った。「この老いぼれは罪過を恐れるばかりで、どうして遠いことを思いやることができようか。我々は怠惰に食を貪り、朝には夕べのことを謀らない。どうして長く続けられようか。」劉子が帰国し、王に告げて言った。「諺にいう、老いて知恵がつくが、耄碌もまたそれに及ぶ、というのは、まさに趙孟のことを言うのであろう。晋の正卿として諸侯を主導しながら、隷属する者たちと同列にあり、朝には夕べのことを謀らず、神と人とを棄てている。神は怒り民は背く。どうして長く続けられようか。趙孟はもう一年も持たないであろう。」この年、秦の景公の弟の后子が晋に亡命した。趙孟が尋ねた。「秦の君はどのような人物か。」后子は答えた。「無道である。」趙孟が言った。「滅びるであろうか。」后子は答えた。「なぜ滅びようか。一代が無道であっても、国はまだ衰えていない。国は天地の間にあって、それとともに立つものがある。数世代にわたって淫乱でなければ、滅びることはない。」趙孟が言った。「天はどうか。」后子は答えた。「
ある。」趙孟が言った。「どれくらいの期間か。」后子は答えた。「鍼は聞く。国が無道であっても、年穀が穏やかに熟するのは、天がそれを助けているのであり、五年を経ないことは稀である。」趙孟は日陰を見て言った。「朝と夕べとが互いに及ばないのに、誰が五年を待てようか。」后子は退出して人に告げて言った。「趙孟はまもなく死ぬであろう。民を主導しながら歳月を遊び暮らし、日を怠っている。それでどれほど持つというのか。」冬、趙孟が卒去した。昭公五年、秦の景公が卒去した。
昭公元年、楚の公子圍が会盟に参加し、服飾を設け衛兵を離れた。魯の叔孫穆子は言った。「楚の公子は美しい、君主のようだ。」伯州犁は言った。「この行いについては、言葉を借りて我が君のものとしたのである。」鄭の行人の子羽は言った。「借りたものは返さないであろう。」伯州犁は言った。「あなたはまず、子晢が背き放縦になろうとしていることを憂えなさい。」子羽は言った。「借りて返さなければ、あなたは憂えないのか。」斉の国子は言った。「私はあの二人のことを気の毒に思う。」陳の公子招は言った。「憂えなければどうして成し遂げられようか。あの二人は楽しんでいる。」衛の斉子は言った。「もしも誰かがそれを知っているならば、たとえ憂えても害にはならない。」会合から退いた後、子羽は人に告げて言った。「斉、衛、陳の大夫たちは免れられないであろう。国子は他人のことを憂え、子招は憂いを楽しみ、斉子は憂えても害がないと言う。及ばないことを憂え、憂うべきことを楽しみ、憂えても害がないというのは、いずれも憂いを招く道である。泰誓に言う。『民の欲するところは、天必ずこれに従う。』三大夫は憂いの兆しを示した。至らないことがあろうか。言葉によって物事を知るというのは、まさにこのことを言うのであろう。」
昭公十五年、晋の籍談が周に赴き穆后の葬儀に参列した。喪が除かれて宴が催されると、王が言った。「諸侯は皆、王室を鎮め慰めるための貢ぎ物を捧げているのに、晋だけは何もない。これはどういうことか。」籍談が答えて言った。「諸侯が封ぜられた時、皆王室から明器(祭器)を授かりました。それ故に彝器(常設の祭器)を献上できるのです。晋は深山にあり、戎や翟と隣り合い、戎を拝礼する暇もありません。どうして器を献上できましょうか。」王は言った。「叔氏(籍談)はそれを忘れたのか。叔父である唐叔は、成王の同母弟であった。それなのに、分け前がないということがあろうか。昔、そなたの高祖は晋の典籍を司り、大正(長官)となった。それ故に籍氏と称するのだ。そなたは司典の後裔である。どうしてそれを忘れるのか。」籍談は答えることができなかった。賓客が出て行くと、王は言った。「籍父(籍談)は後を絶つであろう。典拠を数えながら、自分の祖先を忘れている。」籍談が帰国し、叔嚮にこのことを話すと、叔嚮は言った。「王はその身を全うされないでしょう。私は聞く、楽しみとするものは必ずそれによって終わる、と。今、王は憂いを楽しんでおられる。もし憂いによって終わるならば、全うしたとは言えません。王は一年のうちに三年の喪が二つあるのに、この喪中に賓客を宴し、さらに彝器を求められた。憂いを楽しむこと、甚だしいです。三年の喪は、たとえ身分の高い者でも服喪を全うするのが礼です。王は服喪を全うされなかったとしても、宴楽は早すぎます。礼は、王の大いなる規範です。一つの行動で二つの礼を失い、大いなる規範がありません。言葉は典拠を考証するためのものであり、典拠は規範を記録するためのものです。規範を忘れて多くを語り典拠を挙げても、何の役に立つでしょうか。」
哀公十六年、孔丘(孔子)が卒去した。哀公が誄を述べて言った。「昊天は憐れみ給わず、一人の長老を遺すことを惜しまれ、私一人を守ってくれる者を失わせた。」子贛(しこう、子貢)が言った。「君主は魯でその生涯を終えられないでしょう。夫子(孔子)はこう言われました。『礼を失えば昏くなり、名を失えば過ちを犯す。』志を失うことが昏さであり、言うべきことを失うことが過ちです。生きている時に用いることができず、死んでから誄を述べるのは、礼に合いません。『予一人』と称するのは、名分に合いません。君主はこの二つを失われました。」二十七年、哀公は邾に逃亡し、ついに越で亡くなった。
庶徴(しょちょう、種々の兆し)のうち常に陽気が盛んなこと(恆陽)について、劉向は『春秋』に記される大旱のことであると考えた。その夏の旱魃に対して雩祀(うし、雨乞いの祭祀)を行うことを、大雩と言う。二穀(主な穀物)に被害が及ばない旱魃を、不雨と言う。京房の『易伝』に言う。「徳を用いようと欲しないことを張と言い、その災いは荒である。荒とは旱魃のことである。その旱魃は陰雲が出ても雨が降らず、変じて赤くなり、それによって除かれる。軍を出すのに時期を過ぎることを広と言い、その旱魃では作物が生えない。上下共に蔽われることを隔と言い、その旱魃では天が赤く三月続き、時に雹が降って飛禽を殺す。上(君主)が妃を求めて縁ることを僭と言い、その旱魃では三月間大いに温かく雲がない。高い台や府に居ることを犯陰侵陽と言い、その旱魃では万物の根が枯れ死に、しばしば火災がある。庶位(多くの官位)が節度を超えることを僭と言い、その旱魃では水辺の物が枯れ、火によって傷つけられる。」
釐公(僖公)二十一年「夏、大旱」。董仲舒と劉向は、斉の威公(桓公)が既に死に、諸侯が楚に従い、釐公(僖公)は特に楚の心を得ていたと考えた。楚が戦利品を献上しに来て、宋の捕虜を釐公(僖公)に与えた。外では強楚に頼り、陽気を亢めて衆を失い、さらに南門を造営し、民を労して役事を興した。諸々の旱魃や雨が降らないことについての説明は、ほぼ皆同じ説である。
宣公七年「秋、大旱」。この夏、宣公は斉侯と共に萊を討伐した。
襄公五年「秋、大雩(旱魃の大祭)が行われた」。これに先立って宋の魚石が楚に奔り、楚が宋を伐ち、彭城を取って魚石に封じた。鄭が中原諸国に背いて楚に附き、襄公は諸侯と共に彭城を囲み、鄭の虎牢に城を築いて楚を防いだ。この年、鄭伯が公子発を遣わして来聘し、大夫をして善道で呉と会わせた。外では二国と結び、内では鄭の聘問を得て、陽気が盛んになりすぎて民衆を動かす兆しがあった。
八年「九月、大雩が行われた」。この時、三軍を編成し、季氏が盛んになった。
二十八年「八月、大雩が行われた」。これに先立って、毎年のように晋が荀呉を、斉が慶封を遣わして来聘し、この夏には邾子が来朝した。襄公には陽気が盛んになりすぎて自らが大きくなる兆しがあった。
昭公三年「八月、大雩が行われた」。劉歆は、昭公が即位した時十九歳であったが、なお童心があり、喪に居ても哀しまず、陽気が盛んになりすぎて衆を失ったと考えた。
六年「九月、大雩が行われた」。これに先立って莒の牟夷が二邑を携えて魯に奔り、莒は怒って魯を伐ったが、叔弓が師を帥いてこれを防ぎ敗った。昭公は晋に入ることができた。外では大国と和し、内では二邑を得て、隣国に勝利したため、陽気が盛んになりすぎて民衆を動かす兆しがあった。
十六年「九月、大雩を行った」。これに先立ち、昭公の母である夫人の帰氏が薨去したが、昭公は悲しみの色を示さず、また比蒲で大規模な狩猟を行った。晋の叔嚮は言った。「魯は大喪があっても狩猟を廃止しない。国が喪を憂えず、君主を畏れない。君主に悲しみの容色がなく、親を顧みない。おそらく国を失うであろう。」三年の占いと同じである。
二十四年「八月、大雩を行った」。劉歆は、左氏伝によれば二十三年に邾の軍が翼を城し、帰途に魯の地を通った際、魯が邾の軍を襲撃して捕らえ、その三大夫を捕獲したことによるという。邾の人が晋に訴え出たため、晋人は我が国の行人(使者)である叔孫婼を拘束し、この春になってようやく帰した。
二十五年「七月の上辛の日に大雩を行い、季辛の日にもまた雩を行った」。旱魃が甚だしかったためである。劉歆は、当時、后氏と季氏の間に確執があったことによるという。また、季氏の一族に淫らな妻が讒言を行い、季平子と族人を互いに憎悪させ、皆が共に平子を讒訴した。子家駒が諫めて言った。「讒言する者が君のご威光を頼みにしています。これはいけません。」昭公はついに季氏を討伐したが、敗れて斉に逃亡した。
定公十年「九月、大雩を行った」。これに先立ち、定公自ら軍を率いて鄭を侵し、帰還して中城を築城した。二大夫が軍を率いて鄆を包囲した。
厳公三十一年「冬、雨が降らなかった」。この年、一年のうちに三度も台を築き、奢侈にふけって民を顧みなかった。
釐公二年に『冬十月、雨が降らない』とあり、三年に『春正月、雨が降らない、夏四月、雨が降らない』、『六月、雨が降る』とある。これに先立って、厳公の夫人が公子の慶父と淫通し、二人の君主を殺害した。国人が彼らを攻撃すると、夫人は邾に逃れ、慶父は莒に逃亡した。釐公が即位すると、南で邾を破り、東で莒を破り、その大夫を捕らえた。これには旱魃の兆しが応じている。
文公二年に『十二月から雨が降らず、秋七月に至る』とある。文公が即位すると、天子が叔服を遣わして葬儀に参列させ、毛伯が爵位を授ける命を賜った。また戚で晋侯と会合した。公子の遂が斉に赴いて結納の品を納めた。さらに諸侯と盟約を結んだ。上は天子の信任を得、外には諸侯の支持を得て、勢い盛んに自らを大いなる者とし、釐公の廟を先公の上に昇格させた。大夫が初めて専権を振るうようになった。
十年に『正月から雨が降らず、秋七月に至る』とある。これに先立って、公子の遂が四か国と会合して鄭を救援した。楚が越椒を遣わして来聘した。秦の人が葬儀の衣を贈ってきた。これには旱魃の兆しが応じている。
十三年に『正月から雨が降らず、秋七月に至る』とある。これに先立って、曹伯、杞伯、滕子が来朝し、郕伯が亡命して来て、秦伯が遂を遣わして来聘し、季孫行父が諸及び鄆に城を築いた。二年の間に、五か国がこれに趨き、国内で二つの邑に城を築いた。旱魃により人心を失った。一説には、雨が降らないのに五穀が皆熟したのは、異変であるという。文公の時代、大夫が初めて盟会を専断し、公孫敖が晋侯と会合し、また垂隴で諸侯と盟約を結んだ。それゆえ雨が降らないのに作物が生育するのは、陰気が気を出さずに私的に行われることを象徴し、施しが上から出ず、臣下が福を作り私的に成し遂げることを示している。一説には、雨が降らないのは常に陰気の罰に近く、君主が弱いためであるという。
恵帝五年の夏、大旱魃が起こり、長江や黄河の水が少なくなり、渓谷の流れが絶えた。これに先立って、民の男女十四万六千人を徴発して長安の城壁を築き、この年にようやく城が完成した。
文帝の三年の秋、天下は旱魃に見舞われた。この年の夏、匈奴の右賢王が上郡に侵攻し、詔により丞相の灌嬰が車騎・騎士八万五千人を発して高奴に赴き、右賢王を撃って塞外に敗走させた。その秋、済北王の興居が反乱を起こし、大将軍を派遣して討伐させたところ、皆誅殺された。
後六年の春、天下は大旱魃に見舞われた。これに先立って車騎・材官を発して広昌に駐屯させていたが、この年の二月に再び材官を発して隴西に駐屯させた。その後、匈奴が大挙して上郡・雲中に侵入し、烽火が長安まで届き、三将軍が辺境に駐屯し、また三将軍が京師に駐屯した。
景帝の中三年の秋、大旱魃に見舞われた。
武帝の元光六年の夏、大旱魃に見舞われた。この年、四将軍が匈奴を征討した。
元朔五年の春、大旱魃に見舞われた。この年、六将軍が兵十余万を率いて匈奴を征討した。
元狩三年(前120年)の夏、大旱魃があった。この年、天下の旧官吏を徴発して上林苑の棘を伐採させ、昆明池を掘らせた。
天漢元年(前100年)の夏、大旱魃があった。天漢三年(前98年)の夏、大旱魃があった。この前に貳師将軍(李広利)が大宛を征伐して帰還していた。天漢元年には、罪人を徴発した。二年(前99年)の夏、三人の将軍が匈奴を征伐し、李陵が敗れて帰還しなかった。
征和元年(前92年)の夏、大旱魃があった。この年、三輔の騎士を徴発して長安の城門を閉ざし、大規模な捜索を行い、初めて巫蠱の罪を裁いた。翌年、衛皇后と皇太子(劉拠)が敗れた。
昭帝の始元六年(前81年)、大旱魃があった。この前に大鴻臚(田広明)が益州を征伐し、軍隊を長年野営させていた。
宣帝の本始三年(前71年)の夏、大旱魃があり、東西数千里に及んだ。この前に五人の将軍が兵二十万を率いて匈奴を征伐していた。
神爵元年(前61年)の秋、大旱魃が起こった。この年、後将軍の趙充国が西羌を征討した。
成帝の永始三年(前14年)と四年(前13年)の夏、大旱魃が起こった。
『左氏伝』によれば、晋の献公の時代に童謡があった。「丙の日の朝、龍尾(尾宿)が辰(日月の会合)に伏し、袀服(軍服)が整然とし、虢の旗を取る。鶉(鶉火星)が賁賁(ひかり輝き)、天策(策星)が焞焞、火中(鶉火星が南中する時)に軍を成し、虢公は奔る」と。この時、虢は小国で、夏陽の険阻な地に介在し、虞国の援助を頼みとして晋に対抗し、陽気を過度に高める(驕慢な)節度を持ち、臣下の心を失っていた。晋の献公がこれを討伐しようとし、卜偃に占って問うた。「私は成功するだろうか?」偃は童謡をもって答えて言った。「これを克ちます。十月の朔丙子の朝、日は尾宿にあり、月は策星にあり、鶉火星が南中する時、必ずこの時です。」冬十二月丙子の朔、晋軍は虢を滅ぼし、虢公の醜は周に逃れた。周の十二月は、夏の十月である。天を論ずる者は夏正(夏暦)を用いる。
『史記』によれば、晋の恵公の時代に童謡があった。「恭太子(申生)を改めて葬る、その後十四年、晋もまた昌えず、昌えるのはその兄にある」と。この時、恵公は秦の力を頼んで立ったが、立つと秦に背き、国内で二人の大夫を殺したため、国人は喜ばなかった。また、その兄である恭太子申生を改葬したが敬意を払わなかったので、詩妖(不吉な歌謡)が起こったのである。後に秦と戦い、秦に捕らえられ、立ってから十四年で死んだ。晋人は彼を絶ち、さらにその兄の重耳を立てた。これが文公であり、遂に諸侯の覇者となった。
『左氏伝』の文公・成公の時代の童謡に曰く。「鴝鵒(きょくよく、九官鳥)よ鴝鵒よ、公が出でて辱めを受ける。鴝鵒の羽、公は外野におり、馬を贈りに行く。鴝鵒が跦跦(ちゅうちゅう、跳ねるさま)、公は乾侯におり、褰と襦(じゅ、短い上着)を徴発する。鴝鵒の巣、遠くて遙か、裯父(昭公)は労苦に倒れ、宋父(定公)は驕る。鴝鵒よ鴝鵒よ、行く時は歌い、来る時は哭く」と。昭公の時代になると、鴝鵒が来て巣を作った。公は季氏を攻撃したが敗れ、斉に出奔し、外野に住み、次いで乾侯に滞在した。八年後、国外で死に、魯に帰って葬られた。昭公の名は裯。公子の宋が立ち、これが定公である。
元帝の時代に童謡があった。『井戸の水が溢れ、かまどの煙を消し、玉堂を灌ぎ、金門を流れる』と。成帝の建始二年三月戊子に至り、北宮の中の井戸の水が次第に上昇し、南へ溢れ流れた。これは春秋の時代に先にカッコウの謡があり、後に来て巣を作るという応験があったのと同じである。井戸の水は陰を象徴し、かまどの煙は陽を象徴する。玉堂と金門は至尊の居所である。陰が盛んになって陽を滅ぼす象徴であり、ひそかに宮室に関する応報があることを示している。王莽は元帝の初元四年に生まれ、成帝の時代に侯に封ぜられ、三公として政を補佐し、ついに帝位を簒奪した。
成帝の時代の童謡にこうある。『燕燕尾龚龚、張公子、時相見。木門倉琅根、燕飛來、啄皇孫、皇孫死、燕啄矢』。その後、帝は微行して出遊し、常に富平侯の張放とともに富平侯の家人と称し、河陽主のところに行って楽しみ、舞姫の趙飛燕を見て寵愛した。ゆえに『燕燕尾龚龚』とは、美しい姿をいう。『張公子』とは富平侯を指す。『木門倉琅根』とは宮門の銅環をいい、尊貴になろうとすることを言う。後に趙飛燕は皇后に立てられた。その弟の昭儀が後宮の皇子を害し、ついに皆罪に伏した。これが『燕飛來、啄皇孫、皇孫死、燕啄矢』というものである。
成帝の時代の歌謡にまたこうある。『邪徑良田を敗り、讒口善人を乱す。桂樹華実せず、黄爵其の顛に巣くう。故に人の羨む所と為り、今人の憐れむ所と為る』。桂は赤色で、漢王朝の象徴である。華が実を結ばないのは、継嗣がないことである。王莽は自らを黄色の象徴と称し、黄色の雀(爵)がその頂に巣くうというのである。
厳公(魯の荘公)十七年『冬、麋多し』。劉歆は毛虫の妖による災いと考えた。劉向は麋の色が青く、青祥に近いと考えた。麋というのは迷うという意味で、牝獣の淫らなものである。この時、厳公は斉の淫らな女を娶ろうとしていた。その象徴が先に現れ、天の戒めは『斉の女を娶るな、淫らで国を迷わすであろう』というものであった。厳公は悟らず、ついに彼女を娶った。夫人が入ると、二人の叔父(夫の弟たち)と淫らな関係を持ち、結局皆誅殺され、社稷(国家)が滅亡する寸前となった。董仲舒の指摘もほぼ同じである。京房の易伝に『正しきを廃し淫らなことを行えば、大いに明らかでなくなり、国に麋が多くなる』とある。また『震遂に泥み、厥の咎れ国に麋多し』ともある。
昭帝の時、昌邑王の劉賀が人の声で『熊』と言うのを聞き、見ると大きな熊がいた。左右の者は誰も見えず、郎中令の龔遂に問うた。龔遂は言った。『熊は山野の獣で、宮室に入ってくる。王だけがこれを見るのは、天が大王を戒めておられるのであり、恐らく宮室が空しくなり、危亡の象徴です』。劉賀は改悟せず、後に国を失った。
『左氏伝』襄公十七年十一月甲午の条に、宋の国人が狂犬を追いかけ、狂犬が華臣の家に入ったので、国人もそれに従って入った。華臣は恐れて、遂に陳へ逃亡した。これより先、華臣の兄の閲は宋の卿であったが、閲が亡くなると、華臣は賊を使って閲の家宰を殺害し、その妻を自分のものとした。宋の平公はこれを聞いて、「華臣は自分の宗族にさえ暴虐をふるい、宋国の政治を大いに乱している」と言い、彼を追放しようとした。左師の向戌が「大臣が順逆をわきまえないのは、国の恥です。むしろ覆い隠すべきでしょう」と言ったので、平公はやめた。華臣は暴虐で道義に外れ、内心安らかでなかったため、犬の災いが到来し、逃亡するに至ったのである。
高后八年三月、高后は覇上で祓いを行い、帰途枳道を通りかかった時、倉犬のような物が現れ、高后の脇の下を掻き、忽ち見えなくなった。占うと、趙王如意の祟りであると言う。そこで脇の下の傷がもとで病に倒れ、崩御した。これより先、高后は如意を毒殺し、その母の戚夫人の手足を切り落とし、目を潰して人彘とした。
文帝後五年六月、斉の雍城門の外で犬に角が生えた。これより先、帝の兄の斉悼恵王が亡くなった後、帝は斉の地を分割し、その庶子七人を皆王に立てた。兄弟が共に強力となり、驕慢な心があったため、犬の災いが現れたのである。犬は守衛の任に当たり、角は兵器の象徴で、前方にあり上を向くものである。犬に角が生えるはずがないのは、諸侯が兵を挙げて京師に向かうべきでないのと同じである。天が人に戒めを与えるのは早いが、諸侯は悟らなかった。後六年、呉・楚が反乱を起こし、済南・膠西・膠東の三国がこれに応じて兵を挙げ、斉に至った。斉王はなおも城を守って同盟を迷っていたが、三国はこれを包囲した。ちょうど漢が呉・楚を破り、それに乗じて四王を誅殺した。それゆえ、天狗が梁に降りて呉・楚が梁を攻め、犬が斉で角を生やして三国が斉を包囲したのである。漢はついに梁で呉・楚を破り、斉で四王を誅殺した。京房の易伝に言う、「政を執る者が過てば、下の者がこれを害そうとする。その妖は狗が角を生やす。君子が苟くも免れようとすれば、小人が陥れる。その妖は狗が角を生やす」。
景帝三年二月、邯鄲で犬と猪が交わった。悖乱の気が、犬と猪の災いに近づいたのである。この時、趙王遂が悖乱を起こし、呉・楚と謀って逆をなそうとし、使者を匈奴に遣わして援軍を求め、ついにその罪に伏した。犬は、兵革によって衆を失う兆しであり、猪は北方の匈奴の象徴である。逆らう言葉に耳を傾け、異類と交わることで、害が生じるのである。京房の易伝に言う、「夫婦の道が厳かでないと、その妖は狗と猪が交わる。これを反徳と言い、国に兵革がある」。
成帝の河平元年、長安の男子石良と劉音が共に同居していたところ、人のような形をしたものがその家の中に現れ、それを打つと犬となり、走り去った。その後、数人が甲冑を着て兵器や弩を持って石良の家に来たので、石良らが格闘して撃つと、死んだ者も傷ついた者も皆犬であった。このことは二月から六月まで続いてやんだ。
鴻嘉年間、犬と豚が交尾した。
左氏伝によると、昭公二十四年十月癸酉の日、王子晁が成周の宝圭を黄河に沈め、神の助けを得ようとした。甲戌の日、渡し守が河岸でそれを見つけ、陰不佞が取って売ろうとしたところ、石に変わった。この時、王子晁は天子の位を簒奪し、万民は従わず、号令も行われなかったため、玉に異変が起こり、白祥に近い現象となった。癸酉に沈め、甲戌に現れたのは、神が受け入れなかった証拠である。玉が石に変わったのは、貴いものが賤しくなることを示す。二年後、子晁は楚に逃れて死んだ。
史記によると、秦の始皇帝三十六年、鄭客が関東から来て、華陰に至り、素車白馬が華山から下りてくるのを見て、それが人でないと知り、道端で止まって待った。やがて到着し、璧を持って鄭客に言った。「私の代わりに鎬池君に届けてくれ」と。そして「今年、祖龍が死ぬ」と言い、忽然と消えた。鄭客が捧げた璧は、始皇帝二十八年に長江を渡った時に沈めた璧と同じものであった。周の王子晁の事件と同じ応報である。この年、石が東郡に落下し、民衆がその石に「始皇死して地分かる」と刻んだ。これらは皆、白祥であり、陽気が過剰で暴虐であり、号令が従われず、孤陽が独り治め、群陰が付かないことによるものである。一説には、石は陰の類であり、陰が高い節操を持つと、臣下が君主を危うくするという、趙高と李斯の象徴である。始皇帝は戒めを畏れず自ら省みず、かえって周囲の民衆を滅ぼし、その石を焼き払った。この年に始皇帝は死に、三年後に秦は滅亡した。
孝昭帝の元鳳三年正月、泰山の萊蕪山の南で、数千人の声がごうごうと響いた。民衆が見ると、大きな石が自立し、高さ一丈五尺、周囲四十八囲、地中に八尺深く入り、三つの石が足となっていた。石が立った場所には、数千羽の白烏が集まっていた。眭孟は、石は陰の類であり、下民の象徴であり、泰山は岱宗の岳で、王者が易姓して代わることを告げる場所であるから、庶人が天子となる者が出るだろうと考えた。孟は罪に伏して誅殺された。京房の易伝に言う。「『復、崩れて来たりて咎なし』。上から下ることを崩といい、その応は泰山の石が頂から落ち、聖人が天命を受け、人君が虜となる」と。また言う。「石が人のように立つと、庶士が天下の雄となる。山に立つと同姓、平地に立つと異姓。水に立つと聖人、沢に立つと小人」と。
天漢元年三月、天から白い毛が降った。三年八月、天から白い牦牛の毛が降った。京房の易伝に言う。「先に楽しみ後に憂いあり、その妖は天が羽を降らす」と。また言う。「邪人が進み、賢人が逃げると、天が毛を降らす」と。
『史記』周の威烈王の二十三年、九鼎が震動した。金が震動するのは、木が動かすためである。この時、周王室は衰微し、刑罰が重くて虐げ、号令に従わず、それによって金気が乱れた。鼎は宗廟の宝器である。宗廟が廃されようとし、宝鼎が移されようとしたので、震動したのである。この年、晋の三卿の韓・魏・趙が晋の君主を簒奪してその地を分け、威烈王は彼らを諸侯とすることを命じた。天子が同姓を憐れまず、その賊臣に爵位を与えたので、天下は心服しなくなった。後三世を経て、周は徳と国祚を秦に与えた。その後、秦はついに周を滅ぼし、九鼎を取った。九鼎の震動は、木が金を害し、民衆を失うことが甚だしかったのである。
成帝の元延元年正月、長安の章城門の門牡が自ら亡くなり、函谷関の次門の門牡も自ら亡くなった。京房の『易伝』に言う。「飢えても減らさないことを泰と言い、その災いは水であり、その咎は牡が亡くなることである。」妖しい言葉に言う。「関が動き牡が飛ぶ、君主は道を失った臣下が悪事を働く、その咎は乱臣が謀反を企てることである。」それ故に谷永が答えて言う。「章城門は路寝への通路であり、函谷関は山東の険阻を防ぐものである。城門と関は国を守る堅固なものである。その堅固さが去ろうとするので、門牡が飛んだのである。」
中之下
視ることが明らかでないこと
伝に言う。「視ることが明らかでないことを不悊と言い、その咎は緩慢であり、その罰は常に暑く、その極みは病である。時に草妖があり、時に蠃虫の孽があり、時に羊禍があり、時に目痾があり、時に赤眚赤祥がある。水が火を害するのみである。」
「視之不明,是謂不悊」とは、悊は知ることである。《詩経》に「爾の徳明らかならず、以て陪を亡ぼし卿を亡ぼす。爾の徳を明らかにせず、以て背を亡ぼし仄を亡ぼす」とある。これは、君主が明らかでなく、暗昧で蔽われ惑わされると、善悪を知ることができず、親近の者に習い、同類を長び、功のない者が賞を受け、罪ある者が誅殺されず、百官が廃れて乱れ、その過失は緩慢にあるため、その咎は緩慢であるというのである。盛夏は日が長く、暑さは物を養うが、政が弛緩すると、その罰は常に暖かくなる。暖かいと冬が温かく、春夏が調和せず、民人を傷つけ病ませるため、極めて疾い災いとなる。誅罰が行われなければ霜が草を枯らさず、臣下のせいであれば殺すのに時を選ばないため、草の妖がある。およそ妖は、容貌では服に現れ、言葉では詩に現れ、聴覚では声に現れる。視覚では色に現れるもので、五色は物の大別であり、災いの兆しにあるため、聖人はこれを草の妖とし、統治の明らかさを失ったことの表れとするのである。温暖な気候は虫を生じさせるため、裸虫の孽があり、これは螟や螣の類が死ぬべき時に死なず、生まれるべきでない時に生まれ、あるいは以前より多くなって災いとなることをいう。劉歆は、これは思心の部類に属し、包容しないことによるものと考えた。易では、剛が柔を包むことを離とし、離は火であり目である。羊は上に角があり下に蹄があり、剛が柔を包み、羊は目が大きくて明らかでなく、視気が毀れるため羊の禍がある。一説には、暑い年に羊が多く疫病で死に、また怪異となることもあり、これも同様である。人に及ぶと、目を病む者が多くなるため、目の病がある。火の色は赤いため、赤い災いの兆しと赤い祥がある。およそ視覚を損なうものは火気の病であり、火気が傷つけられると水がそれを乱す。その極めて疾い災いは、これに順じれば、その福は寿と呼ばれる。劉歆の視伝には、羽虫の孽と鶏の禍がある。説明によれば、天文では南方の喙は鳥星であるため羽虫とし、禍もまた羽に従うため鶏とし、鶏は易では自ら巽にあるとする。この説は正しくない。
庶徴の常に暖かいことについて、劉向は、春秋に氷がないと記されたことによるものと考えた。少し暖かいだけでは記されず、氷が全くない場合に初めて記されるのは、大きな事柄を挙げているのである。京房の易伝に「禄が遂に行われないことを欺という。その咎は暖かく、雨雪が四至して温かい。臣が禄に安んじて安逸を楽しむことを乱といい、暖かくして虫が生じる。罪を知りながら誅しないことを舒といい、その暖かさは、夏には暑さが人を殺し、冬には物が花を咲かせ実を結ぶ。重い過ちを誅しないことを亡徴といい、その咎は寒くなるべき時に暖かく六日続く」とある。
桓公十五年「春、氷がない」。劉向は、周の春は現在の冬であると考えた。これに先立って隣国と連年戦争し、三度戦って二度敗れ、内では百姓を失い、外では諸侯を失い、誅罰を行うことができなかった。鄭伯の突が兄を簒奪して立ち、公(桓公)は彼と親しく交わり、同類を長く養い、善悪の罰を明らかにしなかったのである。董仲舒は、夫人が正しくなく、陰が節度を失ったことの象であると考えた。
成公元年「二月、氷がない」。董仲舒は、ちょうど宣公の喪中であり、君臣に悲哀の心がなく、陽が亢進し、丘甲を作ったためであると考えた。劉向は、当時公が幼弱で、政が緩慢であったためであると考えた。
襄公二十八年「春、氷がない」。劉向は、これに先立って公が三軍を作り、侵陵して武力を用いる意思があり、これによって隣国が不和となり、その三つの辺境を伐たれ、兵災に十余年さらされ、それに飢饉が続き、百姓が怨望し、臣下の心が離れ、公は恐れて弛緩し、誅罰を行うことができなかった。楚に夷狄の行いがあり、公には楚に従う心があり、善悪を明らかにしなかった応報であると考えた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。一説には、水旱の災害、寒暑の変化は天下皆同じであるため、「氷がない」のは天下が異なることであるという。桓公は兄を殺し君を弑し、外では宋の乱を成し、鄭と邑を交換し、周室に背いた。成公の時、楚が中国に横行し、王札子が召伯・毛伯を殺し、晋が天子の師を貿戎で破り、天子はいずれも討伐できなかった。襄公の時、天下の諸侯の大夫が皆国権を執り、君は制することができなかった。次第に日増しに甚だしくなり、善悪が明らかでなく、誅罰が行われなかった。周は緩慢さを失い、秦は急峻さを失ったため、周は衰えて寒い年がなくなり、秦は滅びて暖かい年がなくなったのである。
武帝の元狩六年(前117年)の冬、氷が張らなかった。この前から、連年大将軍の衛青や霍去病を派遣して祁連山を攻撃し、大砂漠を越え、単于を執拗に追撃し、首級を十余万も斬り、帰還すると盛大に慶賀と褒賞を行っていた。そこで、天下の労苦を憐れみ、この年に博士の褚大ら六人に節を持たせて天下を巡行させ、鰥寡(かんか:やもめと独り者)を慰問して賜物を与え、困窮している者には貸し与え、世に埋もれた隠逸の君子や独行の士を推挙して天子の行在所に赴かせた。郡や国で便宜を図るべき事があれば、丞相や御史に上申して奏聞させるようにした。天下の人々は皆喜んだ。
昭帝の始元二年(前85年)の冬、氷が張らなかった。この時、皇帝は九歳で、大将軍の霍光が政権を執り、初めて寛大で緩やかな政治を行い、民衆を喜ばせようとしていた。
僖公三十三年(前627年)の「十二月、霜が降りたが草を枯らさなかった」という記事について、劉歆はこれを草の妖であると考えた。劉向は、これは現在の十月、周暦の十二月にあたるとする。易では、五の爻は天の位、君主の位である。九月に陰気が極まり、五の爻が天位に通じると、その卦は剥となり、万物が剥落し、大いに殺伐とすることを始める。これは陰が陽の命に従い、臣下が君主の命令を受けてから殺伐とすることを明らかにしている。今、十月に霜が降りたのに草を枯らすことができないのは、君主の誅罰が行われず、緩慢であることの応である。この時、公子遂が権力を専断し、三桓が初めて世襲の官職を得た。天の戒めはこう言っているようだ。この後、皆が乱を起こすであろう、と。文公は悟らず、その後、遂は子赤を殺し、三家は昭公を追放した。董仲舒の指摘もほぼ同じである。京房の易伝に言う。「臣下に緩慢な者がいることを『順ならざる』と言い、その異変は霜が草を枯らさないことである」。
書序に言う。「伊陟が太戊の宰相となった時、亳に祥なる桑と穀が共に生えた」。伝に言う。「共に朝廷に生え、七日で両手で抱えるほど大きくなった。伊陟は徳を修めるよう戒めたところ、木は枯れた」。劉向は、殷の道が既に衰え、高宗(武丁)がその弊を受け継いで立ち上がり、涼陰(りょういん:喪に服する期間)の哀しみを尽くしたので、天下がこれに応じ、顕栄を得た後、政事に怠り、国が危うく滅びようとしていたので、桑と穀の異変が現れたのだと考えた。桑は喪(喪失)に通じ、穀は生(生長)に通じる。殺生の権柄が失われて臣下にあり、草の妖に近い。一説には、野の木が朝廷に生えて急激に成長するのは、小人が急に大臣の位に就き、国家を危うくし滅ぼすことの象徴であり、朝廷が空虚になることの応である。
書序にはまた言う。「高宗(武丁)が成湯を祭った時、蜚雉(ひち:飛ぶ雉)が鼎の耳に登って雊(く:鳴)いた」。祖己が言う。「先ず王に仮りて、その事を正すべし」。劉向は、雉が鳴くのは雄であり、赤色を主とする。易では、離は雉であり、雉は南方に属し、赤い祥に近い。劉歆は、羽虫(うちゅう:鳥類)の孽であると考えた。易に鼎の卦がある。鼎は宗廟の器であり、その器を主宰し宗廟を奉る者は長子である。野鳥が外から来て、宗廟の器の主となるのは、継嗣が替わろうとしていることである。一説には、鼎は三本足で三公の象徴であり、耳によって動く(持ち運ばれる)。野鳥が鼎の耳に居座るのは、小人が公の位に居座り、宗廟の祭祀を敗ることである。野木が朝廷に生え、野鳥が宗廟に入るのは、敗亡の異変である。武丁は恐れ驚き、忠賢の者に謀り、徳を修めて政事を正し、内では傅説を推挙して国政を授け、外では鬼方を討伐して諸夏を安んじた。それ故に木と鳥の妖を退け、百年の寿命を得ることができた。いわゆる「六沴(りくれい:六種の災い)が現れても、もしこのようにして共に防ぎ治めれば、五福が降り、下民に明らかになる」というものである。一説には、金が木に沴(れい:害)することを「木不曲直(もくふきょくちょく:木が曲直せず)」と言う。
僖公三十三年「十二月、李梅が実をつけた」。劉向は、周の十二月は今の十月であると考え、李梅は本来ならば落葉すべき時期なのに、今は逆に花を咲かせ実をつけたのは、草の妖に近いものだとしている。先に花が咲き、後に実がなるが、『春秋』には花のことは書かず、重い方(実)を挙げている。陰が陽の事を成すもので、臣下が君主を専断して威福を振るう象徴である。一説には、冬は殺伐の時であるべきなのに、逆に生じるのは、驕った臣下が誅殺されるべきなのに、その罰が行われない象徴である。だから冬に花が咲くのは、臣下の邪な謀略に端緒があっても成就しない象徴であり、実がなるに至っては、成就してしまったのである。この時、僖公が死に、公子遂が権力を専断し、文公はそれに気づかず、後に子赤の変が起こった。一説には、君主が緩慢で怠惰すぎ、奥深い気が良くないと、花や実が再び生じる。董仲舒は、李梅が実をつけるのは、臣下が強くなることだとしている。記録に「花が咲くべきでない時に咲けば、大夫が変わる。実がなるべきでない時に実れば、相室(家宰)が変わる」とある。冬は水が王となり、木が相となるので、大臣を象徴する。劉歆は、あらゆる徴候はみな虫が災いの現れであり、思心(五事の一)の災いは蠃虫の災いであると考えた。李梅が実をつけるのは、草の妖に属する。
恵帝五年十月、桃と李が花を咲かせ、棗が実をつけた。昭帝の時、上林苑の中の大きな柳の木が折れて地面に倒れていたが、ある朝、立ち上がり、枝葉を生じさせた。虫がその葉を食い、文字の形になり、「公孫病已立」とあった。また、昌邑王の国の社に枯れた木があり、再び枝葉を生じさせた。眭孟は、木は陰の類であり、下民の象徴であると考え、かつて廃絶された家の公孫氏が民間から出て天命を受けて天子となる者があるはずだと解した。昭帝はまだ若く、霍光が政権を握っていたが、孟の言葉を妖言として誅殺した。後に昭帝が崩御し、子がなかったため、昌邑王の賀を召して後を継がせたが、狂乱して道を失い、光は彼を廃し、代わりに昭帝の兄である衛太子の孫を立てた。これが宣帝である。帝の本名は病已であった。京房の『易伝』に「枯れた楊が若芽を出す、枯れた木が再び生じる、これは人君が子を失うことである」とある。
元帝の初元四年、皇后の曾祖父である済南の東平陵の王伯の墓門の梓の柱が突然、枝葉を生じ、上に向かって屋根を突き破って出た。劉向は、王氏が貴盛となり、漢王朝に代わる兆しであると考えた。後に王莽が帝位を簒奪し、自らこう説明した。「初元四年は、私(莽)が生まれた年である。漢の九世の火徳の厄年に当たり、この祥瑞が高祖(王莽の高祖父)の廟の門に起こった。門は開通を意味し、梓は子に通じる。これは王氏に賢子が現れ、祖統を開通させ、柱石たる大臣の地位から起こり、天命を受けて王となる符瑞である」。
建昭五年、兗州刺史の浩賞は、民が私的に立てた社を禁じた。山陽郡橐県の茅郷の社に大きな槐の木があり、役人がこれを伐り倒したが、その夜、木は元の場所に再び立ち上がった。成帝の永始元年二月、河南の街の郵亭の樗の木に、人の頭のような枝が生じ、眉・目・ひげがすべて備わっていたが、髪はなかった。哀帝の建平三年十月、汝南郡西平県の遂陽郷の柱が地面に倒れ、人の形をした枝が生じた。体は青黄色で、顔は白く、頭にはわずかな髪があり、次第に大きくなり、全長六寸一分あった。京房の『易伝』に「王の徳が衰え、下の者が起こらんとすると、木が人の形をして生じる」とある。
哀帝の建平三年、零陵に木が倒れていた。周囲は一丈六尺、長さは十丈七尺あった。民がその根元を九尺余り切り取ると、すべて枯れた。三月、その木は突然、元の場所に自立した。京房の『易伝』に「正しいことを捨てて淫らなことを行うと、その妖として木が自ら切り離された状態になる。妃后が専権を握ると、木が倒れて再び立ち上がり、切り枯れたものが再び生じる。天はこれを悪しきものとする」とある。
元帝の永光二年八月、天から草が降り、その葉は互いに絡み合い、弾丸ほどの大きさであった。平帝の元始三年正月、天から草が降り、その様子は永光の時と同じであった。京房の易伝に言う、「君主が禄を惜しみ、信義が衰えて賢者が去ると、その妖として天から草が降る」。
昭公二十五年「夏、鴝鵒が来て巣を作った」。劉歆はこれを羽虫の孽(羽の生えた虫の災い)と考え、その色が黒いことから、また黒祥(黒い凶兆)でもあり、目が見えず耳が聞こえないことへの罰であるとした。劉向は、蜚や蛊がいることは「来る」と言わないのは、気によって生じたもので、いわゆる眚(せい、災い)であるが、鴝鵒が「来る」と言うのは、気によって招き寄せられたもので、いわゆる祥(しょう、兆し)であると考えた。鴝鵒は夷狄の穴に住む鳥で、中国に来て、穴を掘らずに巣を作るのは、陰が陽の位に居座ることであり、季氏が昭公を追放し、宮殿を離れて野外に住むことの象徴である。鴝鵒の白い羽は、旱魃の兆しである。穴に住み水を好み、黒色であることは、君主が急ぎ焦ることの応報である。天の戒めはこう言う、すでに民衆を失ったなら、急いで暴虐であってはならない。急ぎ暴虐であれば、陰が陽を操って君を追放し、宮殿を離れて野外に住むことになるであろう、と。昭公は悟らず、兵を挙げて季氏を包囲したが、季氏に敗れ、斉に逃亡し、遂に野外で死んだ。董仲舒の指摘もほぼ同じである。
景帝三年十一月、白い首の烏と黒い烏の群れが楚国の呂県で争い、白首の烏が勝てず、泗水に落ちて死んだものが数千に及んだ。劉向はこれを白黒の祥(凶兆)に近いと考えた。当時、楚王の戊は暴虐で道理に背き、申公を刑罰で辱め、呉王と謀反を企てていた。烏の群れが争うのは、軍隊が戦う象徴である。白い首のものは小さい、これは小さい者が敗れることを示している。水に落ちるのは、水辺の地で死ぬことを意味する。王戊は悟らず、遂に兵を挙げて呉に呼応し、漢と大戦し、敗走して丹徒に至り、越人に斬られ、水に落ちて死ぬという結果となった。京房の易伝に言う、「親族に逆らうと、その妖として白黒の烏が国中で争う」。
昭帝の元鳳元年、烏と鵲が燕王の宮中の池の上で争い、烏が池に落ちて死んだ。これは黒祥に近い。当時、燕王の旦が乱を謀り、遂に改悟せず、罪に伏して死んだ。楚と燕はともに骨肉の藩臣であり、驕りと怨みによって謀反を企て、ともに烏と鵲が争って死ぬという凶兆があった。行いが同じで占いが一致するのは、これが天と人の関係を明らかに示す証拠である。燕では一羽の烏と鵲が宮中で争い、黒い(烏)が死んだ。楚では数万の烏が野外で争い、白い(首の烏)が死んだ。これは、燕では陰謀が未だ発動せず、ただ王が独り宮中で自殺したので、一羽の水色(黒)の鳥が死に、楚では陽気を過剰にし兵を挙げ、軍勢が野外で大敗したので、多くの金色(白)の烏が死んだという、天道の精妙な現れである。京房の易伝に言う、「征伐を専断し殺戮を働くと、その妖として烏と鵲が争う」。
昭帝の時、鵜鶘あるいは禿鶖が昌邑王の殿の下に集まり、王が人に命じて射殺させた。劉向は、水鳥で色が青いことから、青祥であると考えた。当時、王は馳騁に度を過ぎ、大臣を侮り慢にし、至尊(皇帝)を敬わず、服妖(衣服の乱れによる凶兆)の象があったので、青祥が現れたのである。野鳥が住処に入るのは、宮室が空しくなる前兆である。王は悟らず、ついに滅亡した。京房の易伝に言う、「有徳者を退けると、その咎は狂気にあり、その妖として水鳥が国中に集まる」。
成帝の河平元年(前28年)二月庚子の日、泰山の山桑谷にカラスがいて、その巣を焼いた。男子の孫通らが山中で群れをなす鳥やカラスの声を聞き、見に行くと、巣が燃え落ち、すべて地面に落ちており、三羽のカラスの雛が焼け死んでいた。樹木は太さが四囲あり、巣は地面から五丈五尺の高さにあった。太守の平がこれを報告した。カラスの色は黒く、黒い災いの兆しに近く、貪欲で暴虐な類いである。《易経》に言う、「鳥がその巣を焼くのは、旅人が先に笑い後に号泣する」。泰山は岱宗であり、五嶽の長であり、王者が易姓して代わることを告げる場所である。天の戒めはこう言うようだ、貪虐な人物に近づいてはならず、その賊のような謀略を聞き入れれば、やがて巣を焼き自らの子を害し、世を絶やし姓を易える禍いが生じるだろう、と。その後、趙の飛燕が寵愛を受け、皇后に立てられ、弟は昭儀となり、姉妹が寵愛を独占した。後宮の許美人や曹偉能が皇子を生むと聞いて、昭儀は大いに怒り、皇帝に命じて奪い取らせて殺させ、皆その母も共に殺した。成帝が崩御すると、昭儀は自殺し、事は発覚し、趙皇后は誅殺された。これが「巣を焼き子を殺し、後に号泣する」ことの応報である。一説には、王莽が貪虐でありながら社稷の重責を任され、ついに易姓の禍いを成したという。京房の易伝に言う、「人君が暴虐であれば、鳥がその舎(巣)を焼く」。
鴻嘉二年(前19年)三月、博士が大射の礼を行ったとき、飛ぶキジが庭に集まり、階段を上って堂に登り鳴いた。後にキジはまた、太常・宗正・丞相・御史大夫・大司馬車騎将軍の府にも集まり、また未央宮の承明殿の屋上にも集まった。当時、大司馬車騎将軍の王音と待詔の寵らが上言した。「天地の気は、類をもって相応じ、人君に譴責を告げるもので、非常に微かでありながら顕著です。キジは聴覚に優れ、先に雷の音を聞くので、月令に気を記すのに用いられます。経書には高宗の時にキジが鳴いた異変を載せ、禍を転じて福となす証拠を明らかにしています。今、キジが博士が礼を行う日に大衆が集まる中、飛来して庭に集まり、階段を上って堂に登り、万衆が仰ぎ見て驚き怪しみ、連日続きました。直接三公の府を経由し、太常・宗正という宗廟と骨肉の官を司る役所を経て、その後宮中に入りました。その滞在して人に告げ知らせる様は、極めて周到で痛切であり、たとえ人道で互いに戒め合うとしても、どうしてこれを上回ることがありましょうか!」後に皇帝は中常侍の晁閎を使者として王音に詔を下した。「捕らえたキジは、羽毛がかなり折れ損なっており、捕らえられた者のようだ、人の仕業ではないのか?」王音はまた答えて言った。「陛下はどうして亡国の言葉をお聞きになるのですか?誰が佞諂の計略を主導し、このように聖徳を誣いて乱しているのか知りません!左右で阿諛する者は非常に多く、臣の音がさらに諂うまでもありません。公卿以下は、位を保ち自らを守るだけで、正しいことを言う者は誰もいません。もし陛下が目覚められ、大禍がまさに御身に及ぶことを恐れ、臣下を深く責め、聖なる法で裁かれるなら、臣の音はまず誅殺を受けるべきであり、どうして自らを弁解できましょうか!今、即位して十五年になりますが、後継者が立てられず、日々車を出して遊行し、放蕩な行いが広く伝わり、海内に伝わることは、京師よりも甚だしいです。外には微行の害があり、内には疾病の憂いがあり、皇天はしばしば災異を示し、人が変革することを望んでいるのに、結局改めません。天でさえ陛下を感動させることができないのに、臣下に何の望みがありましょうか?ただ極言して死を待つだけで、命は朝か夕かです。もしそうでなければ、老いた母はどこに安住の地を得られましょうか、まだどうして皇太后がおられましょうか!高祖の天下は誰に属すべきなのでしょう!賢知と謀り、己に克ち礼に復して、天意を求められるべきです。そうすれば後継者を立てることができ、災変もまだ消すことができます。」
成帝の綏和二年(前7年)三月、天水郡平襄県に燕が雀を生み、餌を与えて育てて大きくなると、共に飛び去った。京房の易伝に言う、「賊臣が国にいれば、その咎は燕が雀を生むことであり、諸侯は消滅する」。一説には、自分の類でないものを生めば、子は世を継がない、という。
『史記』によれば、魯の定公の時代、季桓子が井戸を掘ったところ、土の壺が出てきて、中から羊のような虫が現れた。これは羊禍に近いものである。羊は地上の生き物であるのに、土の中に閉じ込められていたことは、定公が孔子を用いずに季氏の言うことを聞いたことの象徴であり、暗愚で道理がわからないという応報である。一説には、羊が野外から離れて土の壺に拘束されたのは、魯の君主が本来の地位を失い季氏に拘束される象徴であり、季氏もまた家臣に拘束されるであろうことを示している。この年、季氏の家臣である陽虎が季桓子を拘束した。その後三年して、陽虎は定公を脅迫して孟氏を討伐させたが、戦いに敗れ、宝玉と大弓を盗んで逃亡した。
『左氏伝』によれば、魯の襄公の時代、宋に生まれた女子が赤くて毛深かったため、堤防の下に捨てられた。宋の平公の母である共姫の侍女がこれを見つけて引き取り、それゆえに名を棄と付けた。成長して美しくなったので、平公に献上され、佐という子を生んだ。後に宋の臣下である伊戾が太子の痤を讒言して殺害した。これに先立って、大夫の華元は晋に亡命し、華弱は魯に、華臣は陳に、華合比は衛にそれぞれ亡命した。劉向は、この時は火災や赤い妖異が明らかに現れた時期であったと考えた。京房の『易伝』には、「尊卑の区別がつかなくなると、その妖として女子が生まれて赤毛になる」とある。
前漢の恵帝二年、宜陽に血の雨が降り、一面に広がった。劉向はこれを赤い妖異であると考えた。この時はまた冬に雷が鳴り、桃や李の花が咲いた。これは常に暖かいことに対する罰である。当時は政治が緩み、諸呂が権力を握り、讒言が勝手に行われ、三人の皇子が殺され、正統でない後継者が立てられ、また立つべきでない者が王とされ、王陵、趙堯、周昌が退けられた。呂太后が崩御すると、大臣たちが共謀して諸呂を誅滅し、死体が転がり血が流れた。京房の『易伝』には、「罪を帰することをやめないことを、追非と言い、その咎として天が血を降らす。これを不親と言い、民に怨みの心がある。三年を出ずして、その宗族の者は絶える」とある。また、「佞人が禄を受け、功臣が殺されると、天が血を降らす」ともある。
前漢の哀帝の建平四年四月、山陽郡の湖陵に血の雨が降り、幅三尺、長さ五尺に広がり、大きいものは銭のようで、小さいものは麻の実のようであった。その後二年して、哀帝が崩御し、王莽が朝廷の実権を握り、貴戚の丁氏や傅氏を誅殺し、大臣の董賢らは皆、遠方に流罪となった。これは諸呂の時と同じである。誅殺された者が少なかったので、血の雨も少なかった。
(君主が臣下の意見を)聞いても聡明でないこと。
伝に曰く、「聴くこと聡明ならざる、是れを謀らずと謂う。その咎は急、その罰は恒寒、その極は貧。時に則ち鼓妖有り、時に則ち魚孽有り、時に則ち豕禍有り、時に則ち耳痾有り、時に則ち黒眚黒祥有り。惟れ火水を沴す。」
「聴くこと聡明ならざる、是れを謀らずと謂う」とは、上(君主)が偏って聴き聡明でなく、下情が隔絶・閉塞されると、利害を謀慮することができず、その過失は厳しく急迫にあるので、その咎(災いの原因)は「急」であるという。盛冬(厳冬)は日が短く、寒さが物を殺すように、政が促迫しているので、その罰は常に寒いのである。寒ければ百穀が生ぜず、上下ともに貧しくなるので、その極みは「貧」である。君主が厳猛で下を閉ざし、臣下が戦慄して耳を塞ぐと、妄りに聞く気が音声に発するので、鼓妖がある。寒気が動くので、魚孽がある。雨は亀を孽とするが、亀は陸地に棲むことができ、極陰ではない。魚は水を離れて死ぬので、極陰の孽である。易では坎は豕に配当され、豕は耳が大きいが聡明に察しない。聴く気が毀れるので、豕禍がある。一説には、寒い年には豕が多く死に、また怪異となるのも、これである。人に及べば、耳の病が多いので、耳痾がある。水の色は黒いので、黒眚黒祥がある。およそ聴くことが傷つけられると水気の病となり、水気が病むと火がそれを沴(害)する。その極みである貧については、これに順えば、その福は「富」という。劉歆の『聴伝』には介虫の孽があるとし、庶徴の恒寒に配当した。劉向は、春秋時代にはその応がなく、周の末世は舒緩微弱で、政権が臣下にあり、ただ温かかっただけだと考える。そこで秦を引き合いに出して検証した。秦の始皇帝が即位した時はまだ幼く、政事を太后に委ねた。太后は呂不韋や嫪毐と淫乱で、毐を長信侯に封じ、太原郡を毐の国とし、宮室や苑囿を思いのままにし、政事を断行した。それゆえ天は冬に雷を鳴らし、陽気が禁閉されず、危害に陥ることを示し、舒緩と奥暖さが迫近する変異を見せたのである。始皇が元服すると、毐は誅殺を恐れて乱を起こした。始皇はこれを誅し、数百の首を斬り、大臣二十人を皆、車裂きの刑にして晒し首にし、その宗族を滅ぼし、四千余家を房陵に移した。この年の四月、寒さがあり、民に凍死者が出た。数年(の間)に、緩やかさと急迫さがこのようであり、寒さと暖かさが即座に応じた。これがその効験である。劉歆は、大雨雪、および雨雪の降るべきでない時に雨雪が降ること、および大雨雹、霜が降りて叔草(しゅくそう、豆類)を殺すこと、これらを皆、恒寒の罰であると考えた。劉向は、常雨(長雨)は貌(ぼう、容貌態度)の不恭に属すると考えた。京房の『易伝』に曰く、「徳有る者、険しきに遭う、これを逆命と謂い、その異は寒。誅するに過ぎて深し、暖かくなるべき時に寒く、六日尽き、また雹となる。正を害するを誅せざる、これを養賊と謂い、寒さ七十二日、蜚禽(ひきん、飛ぶ鳥)を殺す。道人(どうじん、有道の人)始めて去る、これを傷と謂い、その寒さ物に霜無くして死に、水涌き出づ。戦いて敵を量らず、これを辱命と謂い、その寒さ雨降れども物茂らず。善を聞きて与えず、その咎は聾。」
桓公八年「十月、雨雪」。周の十月は、今の八月である。まだ雪が降るべき時ではない。劉向は、当時、夫人(文姜)に斉との淫らな行いがあり、桓公に嫉妬と媚の心があったので、夫人が殺害される象(前兆)が現れたのだと考えた。桓公は覚悟せず、後に夫人とともに斉に行き、殺害された。およそ雨は陰であり、雪はさらに雨の中の陰である。その時を外れて出現したのは、事象が迫近している象である。董仲舒は、大人(君主や権力者)が専横にふるい、陰気が盛んになった象であると考えた。
釐公(僖公)十年「冬、大雨雪」。劉向は、これに先立って釐公が妾を夫人に立て、陰が陽の位に居たので、陰気が盛んになったのだと考えた。公羊伝の経文には「大雨雹」とある。董仲舒は、公(釐公)が斉の桓公に脅迫され、妾を夫人に立て、群妾を進めることができなかったので、専一(せんいつ、偏り固執)の象が雹に現れたのだと考えた。これらは皆、漸く脅迫されることがあったためであり、専一の政を行ったということである。
昭公四年「正月、大雨雪」。劉向は、昭公が呉から娶ったが同姓であったので、彼女を呉孟子と呼んだ。君が上で行い、臣が下で非難した。また三桓(三家)がすでに強力になり、皆、公の行いを軽んじ、侮慢の心が生じたためだと考えた。董仲舒は、季孫宿が政権を任され、陰気が盛んになったためだと考えた。
文帝(文帝)四年六月、大雨雪が降った。その三年後、淮南王の劉長が謀反を企て、発覚し、流刑に処せられ、道中で死んだ。京房の『易伝』に言う。「夏に雪が降るのは、臣下が乱を起こすことを戒めるものである。」
景帝の中六年三月、雨雪が降った。その六月、匈奴が上郡に侵入して苑馬を奪い、官吏と兵卒で戦死した者は二千余人に及んだ。翌年、条侯の周亜夫が獄に下されて死んだ。
武帝の元狩元年十二月、大雨雪が降り、民衆の多くが凍死した。この年、淮南王と衡山王が謀反を企て、発覚し、ともに自殺した。使者が郡国を巡行し、一味を処罰したため、連座して死んだ者は数万人に上った。
元鼎二年三月、雪が降り、平地で厚さ五尺に積もった。この年、御史大夫の張湯が罪を得て自殺し、丞相の厳青翟は三長史と共謀して張湯を陥れた罪に連座し、青翟は自殺し、三長史は皆、棄市に処せられた。
元鼎三年三月、水が凍り、四月に雨雪が降り、関東の十余郡で人々が共食いをした。この年、民が占緡銭を申告せず、告発者がいた場合、その半分を与えるという法令が施行された。
元帝の建昭二年(紀元前37年)十一月、斉・楚の地に大雪が降り、深さ五尺に達した。この年、魏郡太守の京房が石顕に訴えられ、妻の父である淮陽王の舅の張博および博の弟の光と共に、淮陽王を不義に導くよう勧めた罪に連座し、博は腰斬、光と房は市で斬首に処され、御史大夫の鄭弘は連座して免官され庶人となった。成帝が即位すると、顕は罪に伏し、淮陽王は上書して博の冤罪を訴え、その言葉は誇張され、流刑に処されていた家属も帰還することができた。
建昭四年(紀元前35年)三月、雪が降り、燕が多く死んだ。谷永が答えて言った。「皇后は桑蚕を治めて祭服を作り、天地と宗廟に奉仕するのに、ちょうどこの日に疾風が西北から吹き、大寒で雪が降り、その功績を損なったのは、皇后が正しい方向に向かっていないことを示しています。謹んで斎戒し寝室を避け、深く自らを責め、皇后には宮殿に留まり、門戸を閉ざし、勝手に上殿しないようお願いします。また、多くの妾たちに順番に伺候させ、時宜に応じて広く寵愛を施すべきです。そうすれば皇天は喜び、賢明な後継者を得られるかもしれません。もし臣の言葉を行わなければ、災異はますます甚だしくなり、天変が形を成すでしょう。臣が再び身を捨てて献策しようとしても、事が済んでしまっては間に合いません。」その後、許皇后は呪詛の罪に連座して廃位された。
陽朔四年(紀元前21年)四月、雪が降り、燕雀が死んだ。その後十六年、許皇后は自殺した。
定公元年(紀元前509年)『十月、霜が降りて菽(豆類)を枯らした』。劉向は、周の十月は今の八月であり、消息卦は観であり、陰気がまだ君主の位に至らないうちに殺伐が起こり、誅罰が君主から出ず、臣下にある象であると考えた。この時、季氏が昭公を追放し、昭公は国外で死に、定公が即位した。故に天は災いを現して定公に見せたのである。釐公二年(紀元前660年)『十月、霜が降りたが草を枯らさなかった』のは、嗣君が微弱で、事を執る権柄を失った象である。その後、権力が臣下に帰したので、災いがこれによって生じたのである。異(異常な事象)であるから草と言い、災いであるから菽と言い、穀物を枯らすことを重んじたのである。一説に、菽は草の中で枯れにくいものであり、菽が枯れたと言えば、草は皆枯れたと知れる。草が枯れなかったと言えば、菽も枯れなかったと知れる。董仲舒は、菽は草の中で強いものであり、天の戒めは、強臣に誅罰を加えるべきであると言っているのだと考えた。菽と言うのは、微かに季氏の罰を示すためである。
武帝の元光四年(紀元前131年)四月、霜が降りて草木を枯らした。この二年ほど前、五人の将軍に三十万の兵を率いさせて馬邑の下に伏せさせ、単于を襲撃しようとしたが、単于はこれを察知して去った。この時以来、四方の夷狄への征伐が始まり、軍隊が出動すること三十余年、天下の戸口は半減した。京房の易伝に言う。「兵を興して妄りに誅殺する、これを亡法と言い、その災いは霜であり、夏には五穀を枯らし、冬には麦を枯らす。情状を酌まずに誅する、これを不仁と言い、その霜は、夏にはまず大雷風があり、冬にはまず雨があり、それから霜が降り、芒角(鋭い角)がある。賢聖が害に遭うと、その霜は木に付着して地に下らない。佞人が刑罰に依る、これを私賊と言い、その霜は草の根や土の隙間にある。教えずして誅する、これを虐と言い、その霜はかえって草の下にある。」
元帝の永光元年三月、霜が降り桑を枯らした。九月二日、霜が降り穀物を枯らし、天下は大飢饉となった。この時、中書令の石顕が権力を握り専権をふるい、春秋時代の定公の時に霜が降ったのと同じ応報があった。成帝が即位すると、石顕は威福をほしいままにした罪で誅殺された。
釐公二十九年「秋、大雨雹が降った」。劉向は、盛んな陽気が雨水となり、温暖で湯のように熱い時に、陰気がこれを脅迫して互いに相容れないと、転じて雹になると考えた。盛んな陰気が雨雪となり、凝滞して氷のように寒い時に、陽気がこれを迫って互いに相容れないと、散じて霰になる。だから沸騰した湯が密閉された器の中にあり、寒泉に浸されると、氷になる。また雪が解ける時も、氷が解けて散るのと同じで、これがその証拠である。故に雹は陰が陽を脅すものであり、霰は陽が陰を脅すものである。春秋に霰を書かないのは、月食と同じである。釐公の末年は公子遂を信用し、遂は専権をほしいままにして、君主を殺すところまで至ろうとしたので、陰が陽を脅す象徴が現れた。釐公は悟らず、遂はついに専権を握り、その二年後に子赤を殺して宣公を立てた。左氏伝に曰く「聖人が上にいれば雹はなく、たとえあっても災害とはならない」。説明によれば、およそ物事が災害とならなければ書かず、書くのは大きく、災害となったことを言うのである。およそ雹はすべて、冬の陽気の過ち、夏の陰気の潜伏である。
昭公三年、「大雨雹が降った」。この時、季氏が専権を握り、君主を脅かす象徴が現れた。昭公は悟らず、後に季氏はついに昭公を追放した。
元封三年十二月、雷雨とともに雹が降り、馬の頭ほどの大きさであった。宣帝の地節四年五月、山陽・済陰で鶏卵ほどの雹が降り、深さ二尺五寸、二十人を殺し、飛ぶ鳥は皆死んだ。その十月、大司馬の霍禹の宗族が謀反を企て、誅殺され、霍皇后は廃された。
成帝の河平二年四月、楚國で斧ほどの大きさの雹が降り、飛ぶ鳥が死んだ。
『左伝』に言う、釐公三十二年十二月己卯の日、晋の文公が死去し、庚辰の日に曲沃に殯を送ろうとした。絳を出ると、柩が牛のような声を発した。劉向はこれを鼓妖に近いものと考えた。喪は凶事であり、声が牛に似ているのは怒りの象である。急激な怒りに基づく謀略が起こり、兵革の禍が生じるであろう。この時、秦の穆公は兵を遣わして鄭を襲撃したが、晋に仮道(通過の許可)を求めなかった。帰還する際、晋の大夫先軫が襄公に言った、「秦軍が通過するのに仮道を求めません。これを撃つことを請います」。そこで崤の険しい地で待ち伏せし、秦軍を破った。一匹の馬、一本の車輪さえ帰らなかった。これはあまりに急激な対応であった。晋は旧来の関係を顧みず、暴虐な謀略に従い、強国と怨みを結んだ。四度にわたり秦の侵攻を受け、禍は数世代に流れた。これが凶悪な事象の結果である。
哀帝の建平二年四月乙亥の朔日、御史大夫朱博が丞相となり、少府趙玄が御史大夫となった。朝廷に臨み、登殿して策書を受け取る時、鐘が鳴るような大きな音がし、殿中の郎吏や階上にいた者たちは皆それを聞いた。上(哀帝)は黄門侍郎の揚雄と李尋に問うた。李尋は答えて言った、「『洪範』にいう鼓妖でございます。師法によれば、人君が聡明でなく、衆人に惑わされ、空名の者が登用されると、声はあっても形がなく、どこから生じたか分からないとされます。その伝に言う、歳・月・日の中にあれば、正卿がこれを受けると。今、四月の日に辰巳の時を加えて異変があるのは、これが中にあたります。正卿とは執政大臣のことです。丞相と御史を退けて、天変に応ずべきです。しかし、退けなくても、一年を出ずに、その人自らが咎を受けるでしょう」。揚雄もまた鼓妖であり、聴覚の過失の象であると考えた。朱博は人となり強毅で権謀に長け、将たるべきであって相たるべきではなく、凶悪で急激な怒りがあることを恐れた。八月、朱博と趙玄は姦謀を企てた罪に問われ、朱博は自殺し、趙玄は死刑を減じられた。京房の『易伝』に言う、「令が本を修めず、下が安からず、金が故なく自ら動き、音があるがごときもの」。
『史記』秦の二世元年、雲がないのに雷が鳴った。劉向は、雷は雲に託すべきものであり、ちょうど君が臣に託すようなもので、陰陽の和合であると考えた。二世は天下を顧みず、万民に怨み叛く心があった。この年、陳勝が起こり、天下が叛き、趙高が乱を起こし、秦はついに滅亡した。一説に、『易』では震は雷であり、貌が恭しくないことの象である。
『史記』秦始皇八年、黄河の魚が大量に上流へ遡った。劉向はこれを魚孽に近いものと考えた。この年、始皇の弟の長安君が兵を率いて趙を撃ったが、反逆し、屯留で死に、軍吏は皆斬られ、その民は臨洮に移された。翌年には嫪毒の誅殺があった。魚は陰の類であり、民の象である。逆流して上るのは、民が君の命令に従わず、逆行することを示す。天文では、魚星が天の川の中に位置し、車騎が野に満ちる象である。二世に至って、暴虐はますます甚だしく、ついに急激な政治により滅亡した。京房の『易伝』に言う、「衆逆同志、厥の妖河魚逆流上」。
武帝の元鼎五年の秋、蛙と蝦蟇が群れをなして闘った。この年、四将軍が兵十万を率いて南越を征伐し、九郡を開いた。
成帝の鴻嘉四年(前17年)秋、信都に魚が雨のように降り、長さ五寸以下のものがあった。成帝の永始元年(前16年)春、北海に大魚が現れ、長さ六丈、高さ一丈、四匹あった。哀帝の建平三年(前4年)、東萊の平度に大魚が現れ、長さ八丈、高さ一丈一尺、七匹あり、皆死んでいた。京房の『易伝』に言う、「海にしばしば巨魚が現れるのは、邪な者が進み、賢人が疎遠になる(兆しである)」と。
桓公五年(前707年)「秋、蝗が発生した」。劉歆は、貪欲で虐げて民から取り立てると蝗が発生すると考え、甲殻類の虫のわざわいであり、魚(の異変)と同じ占いであるとした。劉向は、甲殻類の虫のわざわいは「言うことを聞かない」こと(言不従)に属すると考えた。この年、桓公は二国からの訪問を受け、鼎と引き換えに領地を取り、労役を起こして城を築いた。諸々の蝗の異変については、おおむね董仲舒の説に従っている。
荘公二十九年(前665年)「蜚が発生した」。劉歆は、これは負蠜であり、性質として穀物を食べず、穀物を食べるのは災いであり、甲殻類の虫のわざわいであると考えた。劉向は、蜚の色は青く、青い災い(青眚)に近く、中原の地には本来いないものだと考えた。南越は暑さが厳しく、男女が同じ川や沢に入り、淫らな風俗から生じる虫で、臭く汚い。この時、荘公は斉の淫らな女を娶って夫人としたが、入内した後、二人の叔父(魯の公子慶父と公子牙)と淫らな関係を持ったので、蜚が現れたのである。天の戒めは言うようである、今誅し絶てばまだ間に合う、そうしなければ臭く汚いことが生じ、四方に知れ渡るであろうと。荘公は悟らなかった。その後、夫人と二人の叔父が乱を起こし、二人の後継者(子般と閔公)が殺され、結局皆が罪を受けた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。
僖公十五年(前645年)「八月、蝗が発生した」。劉向は、これに先立って僖公が鹹の会盟を行い、その後、緣陵に城を築き、この年また兵車を用いて牡丘の会盟を行い、公孫敖に軍を率いさせ、諸侯や大夫とともに徐を救援させ、兵が三年にわたって外にあったためであると考えた。
文公三年(前624年)「秋、宋に蝗が雨のように降った」。劉向は、これに先立って宋が無罪の大夫を殺したこと、暴虐な取り立てを行ったことへの応報であると考えた。『穀梁伝』には、上下(の羽)が皆合わさっていると言い、ひどい様子を述べている。董仲舒は、宋が三代にわたり(同姓から)妻を娶り、大夫が専横に振る舞い、殺生が道理に適っていなかったので、蝗が先に死んで(雨のように)降ってきたのだと考えた。劉歆は、蝗は穀物の災いであり、突然賊のような陰気に遭い、墜落して死んだのだと考えた。
八年「十月、蝗害があった」。この時、公は邾を討伐して須朐を奪い、郚に城を築いた。
宣公六年「八月、蝗害があった」。劉向は、これより先に宣が莒の向を討伐し、その後、再び斉に行き、萊を討伐することを謀ったためであると考えた。
十三年「秋、蝗害があった」。公孫帰父が斉と会合して莒を討伐した。
十五年「秋、蝗害があった」。宣の時代には豊作の年がなく、しばしば軍旅の事があった。
襄公七年「八月、蝗害があった」。劉向は、これより先に襄が軍を起こして陳を救援し、滕子・郯子・小邾子が皆来朝したこと、夏に費に城を築いたことによるものと考えた。
哀公十二年「十二月、蝗が発生した」。この時、哀公は田賦を用いた。劉向は、春に田賦を用い、冬に蝗が発生したと考えた。
十三年「九月、蝗が発生した。十二月、蝗が発生した」。この三度の蝗害は、民から虐げて取り立てた効果である。劉歆は、周の十二月は夏の十月であり、火星が既に伏し、冬ごもりの虫も全て終わっているので、天が示す異変は物類の道理に従うべきであり、蝗が発生するはずがない、この年は閏月を二度誤ったのだと考えた。周の九月は夏の七月であるから、伝に「火星がなお西に流れているのは、暦官の過ちである」と言う。
宣公十五年「冬、蝗の幼虫が発生した」。劉歆は、蝗の幼虫とは、鉄色の羽のあるもので、穀物を食い害をなす、黒い災いであると考えた。董仲舒と劉向は、蝗の幼虫とは、螟(稲の害虫)が初めて生じたものであると考え、一説には
螟が初めて生じたものである。この時、民は力役の苦しみを患い、公田(井田制の共同耕作地)での耕作を怠った。宣公はこの時、初めて畝に税を課した(初税畝)。畝に税を課すとは、民の田畑の中から良いものを選び、その十分の一を税として取ることで、先王の制度を乱して貪利をなしたので、これに応じて蝗の幼虫が発生し、蠃虫のわざわいに属する。
景帝の中三年の秋、蝗害が発生した。この前に匈奴が辺境を侵し、中尉の魏不害が車騎・材官の兵士を率いて代の高柳に駐屯した。
武帝の元光五年の秋、螟が発生した。六年の夏、蝗が発生した。この前、五人の将軍が兵三十万を率いて馬邑に潜伏し、単于を襲撃しようとした。この年、四将軍が匈奴を征討した。
元鼎五年の秋、蝗が発生した。この年、四将軍が南越および西南夷を征討し、十余郡を開設した。
元封六年の秋、蝗が発生した。この前、両将軍が朝鮮を征討し、三郡を開設した。
太初元年の夏、蝗が東方から飛来して敦煌に至った。三年の秋、再び蝗が発生した。元年、貳師将軍が大宛を征討し、天下がその役務を奉じて連年続いた。
征和三年の秋、蝗が発生した。四年の夏、蝗が発生した。この前の一年、三将軍が兵十余万を率いて匈奴を征討した。征和三年、貳師将軍の七万人が没して帰還しなかった。
平帝の元始二年(西暦2年)の秋、蝗害が発生し、天下に広がった。この時、王莽が政権を握っていた。
『左氏伝』によると、荘公八年、斉の襄公が貝丘で狩猟をしていた時、猪を見た。従者が言うには、「あれは公子彭生です」と。襄公は怒って「射よ!」と言った。猪は人のように立ち上がって啼き、襄公は恐れ、車から落ち、足を傷つけ履物を失った。劉向はこれを猪の災いの前兆と見なした。これ以前に、斉の襄公は妹である魯の桓公の夫人と淫らな関係を持ち、公子彭生に桓公を殺させ、その後、魯に謝罪するために彭生を殺した。公孫無知は先代の君主(襄公の父、僖公)に寵愛されていたが、襄公は彼を退けた。無知は恨みを持つ者たちを率いて、狩猟中の襄公を攻撃し、襄公は戸の間に隠れたが、足が戸の下から見え、ついに殺された。足を傷つけ履物を失い、結局足に関わることで死んだのは、苛酷で急激な政治の結果である。
昭帝の元鳳元年(紀元前80年)、燕王(劉旦)の宮殿の永巷(後宮の長い通路)から猪が厠から出てきて、大きなかまどを壊し、その釜六、七枚をくわえて殿前(宮殿の前)に置いた。劉向はこれを猪の災いの前兆と見なした。当時、燕王旦は長公主(武帝の娘、蓋長公主)や左将軍上官桀らと謀って大逆を企て、諫める者を誅殺し、暴虐で急激で道に外れていた。かまどは、生養(生活と養育)の根本である。猪がかまどを壊し、釜を庭に並べたのは、釜とかまどが用いられなくなり、宮室が廃れて辱めを受けることを示していた。燕王は改めず、ついにその罪に伏した。京房の『易伝』に言う、「衆人の心が君主の政治に安んじない時、その妖は猪が居室に入る」。
『史記』によると、魯の襄公二十三年(紀元前550年)、穀水と洛水が衝突し、王宮を破壊しようとした。劉向はこれを火が水を害する(火沴水)現象の前兆と見なした。周の霊王が(水を)せき止めようとした時、役人が諫めて言った。「いけません。民を治める者は、沼沢を埋め立てず、山を崩さず、川を防ぎ止めず、沢に穴を開けません。今、我が執政(王)は恐らく何か偏ったことをなさり、この二つの川の神の心を乱し、互いに明らかさを争わせ、王の宮室を害するに至らせようとしています。王がそれを(堤防で)飾り立てるのは、恐らくよろしくないでしょう。子孫にまで災いが及び、王室はますます卑しくなります」。王は結局(水を)せき止めた。伝(『左伝』などの解釈)によって推測すると、四瀆(長江・黄河・淮河・済水)を諸侯に例え、穀水と洛水はその次で、卿大夫の象徴である。卿大夫が分かれて争い、王室を危うくし乱すことを示していた。当時は世襲の卿が権力を専断し、儋括(周の大夫)が簒奪殺害の企てを持っていた。もし霊王が目覚め、その失政を正し、戒めとして恐れ慎んだならば、災禍は除かれたであろう。(王は)諫言や謀略に耳を貸さず、重大な異変を軽んじ侮り、私心のままに任せ、低地を塞ぎ下流をせき止めて、水勢に逆らい鬼神を害した。その後数年して、太陽のように黒いものが五つ現れた。この年は早霜が降り、霊王は崩御した。景王が立って二年目、儋括が王を殺し、王の弟の佞夫を立てようとした。佞夫は知らなかったが、景王は佞夫をも誅殺した。景王が死ぬと、五大夫(五人の大夫)が権力を争い、ある者は子の猛(悼王)を立て、ある者は子の朝(王子朝)を立て、王室は大混乱に陥った。京房の『易伝』に言う、「天子が弱く、諸侯が力を以て政治を行う時、その異変は水が争う」。
『史記』によると、秦の武王三年(紀元前308年)、渭水が三日間赤くなり、昭王三十四年(紀元前273年)にも渭水が再び三日間赤くなった。劉向はこれを火が水を害する(火沴水)現象の前兆と見なした。秦は連座の法を敷き、道に灰を捨てた者に黥刑(入れ墨)を加え、法網は密で刑罰は残酷であり、さらに武力による征伐を横行させ、隣国を残虐に害した。そのため五行が変乱し、気色が謬乱した。天の戒めは言う、「苛酷で急激なことをするな、そうすれば敗亡を招くだろう」と。秦は遂に改めず、始皇帝に至って六国を滅ぼし、二代(胡亥)で滅亡した。昔、夏・殷・周の三代は三河(黄河中流域)に都を置き、河や洛から図書(河図洛書)が現れた。秦は渭水の北岸に都を置いたが、渭水がしばしば赤くなったのは、瑞祥や異変がその徳に応じる結果である。京房の『易伝』に言う、「君主が酒に溺れ、色に淫り、賢人が潜み、国家が危うい時、その異変は流れる水が赤くなる」。
下の上
思心が聡明でないこと
伝に言う。「思心が聡明でないことを、これは聖でないという。その咎は蒙昧であり、その罰は常に風が吹くことであり、その極みは凶短折である。時に脂夜の妖があり、時に華孽があり、時に牛禍があり、時に心腹の痾があり、時に黄眚黄祥があり、時に金木水火が土を沴する。」
「思心が聡明でないことを、これは聖でないという。」思心とは、心が思慮することである。睿とは、寛大であることである。孔子が言われた。「上に位して寛大でなければ、私は何をもって観察できようか!」これは、君主が臣下を寛大に包容しなければ、聖位に居ることができないという意味である。貌・言・視・聴は、心を主とし、この四つがすべて失われると、蒙昧で無知となる。だからその咎は蒙昧なのである。雨・旱・寒・奥(暖かさ)もまた、風を根本とし、四気がすべて乱れると、その罰は常に風が吹くのである。常に風が吹くと物を傷つけるので、その極みは凶短折となる。人を傷つけることを凶といい、禽獣を傷つけることを短といい、草木を傷つけることを折という。一説には、凶とは夭折であり、兄が弟を喪うことを短といい、父が子を喪うことを折という。人の腹の中にあり、肥えて心を包み込むものを脂という。心が蒙昧だと暗く曇るので、脂夜の妖がある。一説には、脂物があり、夜に妖となる。例えば脂水が夜に人の衣を汚すようなもので、淫の象である。一説には、夜妖とは、雲と風がともに起こって暗くなることで、常風と同じ象である。温かくて風が吹くと螟螣が生じ、裸蟲の孽がある。劉向は、易では巽が風であり木であると考えた。卦は三月・四月にあり、陽に継いで治め、木の花と実を主る。風気が盛んになると、秋冬になっても木が再び花を咲かせるので、華孽がある。一説には、地気が盛んになると秋冬に再び花が咲く。一説には、華とは色のことであり、土は内事に属し、女孽である。易では坤が土であり牛である。牛は心が大きくて思慮することができず、思心の気が毀れるので、牛禍がある。一説には、牛が多く死んだり怪異をなすことも、これである。人に及ぶと、心腹の病を患う者が多くなるので、心腹の痾がある。土の色は黄であるので、黄眚黄祥がある。およそ思心が傷つくと土気が病み、土気が病むと金木水火がこれを沴する。だから「時に金木水火が土を沴する」と言うのである。「惟」と言わずにただ「時に…有り」と言うのは、一つの衝気によって沴されるのではなく、その異変が大きいことを明らかにしているのである。その極みを凶短折といい、これに順えば、その福を考終命という。劉歆の『思心伝』には、時に臝蟲の孽があると言い、螟螣の類を指す。庶徴の常風について、劉向は春秋時代にはその応がないと考えた。
釐公十六年「正月、六鶂退きて飛び、宋の都を過ぐ」。左氏伝に「風なり」と言う。劉歆は、風が他の場所で起こり、宋に至って高くなり、鶂が高く飛んでこれに逢うと、退くのだと考えた。経文は見えるものを文として記すので、退いて飛ぶことを記録した。伝は実の応を著すので、風と言い、常風の罰である。これは宋の襄公が蒙昧で自らを是とし、臣下を受け容れず、司馬子魚の諫めに逆らい、強楚と盟を争ったことに象る。その後六年にして楚に捕らえられ、六鶂の数に応じたという。京房の易伝に言う。「潜龍用いるなかれ、衆逆同志す、至徳乃ち潜ず、厥の異は風。その風は、行いて物を解さず、長からず、雨小さくして傷う。政悖りて徳隠るるこれを乱と謂う、厥の風は先ず風にして雨降らず、大風暴れ起こり、屋を発ね木を折る。義を守りて進まずこれを耄と謂う、厥の風は雲と俱に起り、五穀の莖を折る。臣上の政を易うるこれを順わずと謂う、厥の風は大焱起こり屋を発つ。賦斂理めずこれを禍と謂う、厥の風は経紀を絶ち、止めば即ち温となり、温なれば即ち蟲となる。侯封を専らにするこれを統せずと謂う、厥の風は疾くして樹揺れず、穀成らず。辟道利を思わずこれを無沢と謂う、厥の風は木を揺さぶらず、旱にして雲なく、禾を傷う。公利に常なるこれを乱と謂う、厥の風は微かにして温なり、蟲蝗を生じ、五穀を害す。正を棄てて淫を作すこれを惑と謂う、厥の風は温なり、螟蟲起こり、人に益ある物を害す。侯朝せずこれを叛と謂う、厥の風は恒なく、地変赤くして人を殺す。」
文帝(文帝)の二年(紀元前178年)六月、淮南王の都である寿春で大風が民家を破壊し、人を殺した。劉向は、この年、南越が反乱を起こし、淮南の辺境を攻撃したが、淮南王の劉長がこれを撃破した。その後、劉長は長安に入朝したが、漢の元丞相である辟陽侯を殺害した。皇帝(文帝)はこれを赦免したが、劉長は帰国して姦人を集め謀反を企て、自ら東帝と称した。天変に気づかず、後に蜀に流され、道中で死んだ。
文帝の五年(紀元前175年)、呉で暴風雨が起こり、城や官庁、民家が破壊された。当時、呉王の劉濞が謀反を企てており、天の戒めが幾度も現れたが、ついに悔い改めず、後に誅殺され滅亡した。
五年(文帝五年、紀元前175年)十月、楚王の都である彭城で、大風が東南から吹き来たり、市場の門を破壊し、人を殺した。この月、楚王の劉戊が初めて王位を継承した。後に淫行と領土削減の罪に問われ、呉王と謀反を企て、諫言する者を処刑した。呉は楚の東南に位置し、天の戒めは言う、『呉と共に悪事を働くな。さもなくば市場や朝廷を滅ぼすであろう』と。劉戊は悟らず、ついに呉に従って滅亡した。
昭帝の元鳳元年(紀元前80年)、燕王の都である薊で大風雨が起こり、宮中の樹木で七囲(約3.5メートル)以上のものが十六本も抜け、城楼が破壊された。燕王の劉旦は悟らず、謀反が発覚し、ついにその罪に伏した。
釐公十五年(紀元前645年)『九月己卯の晦、夷伯の廟に震す』。劉向は、晦とは暗いことであり、震とは雷であると考える。夷伯は代々の大夫であり、経文が雷を記すのは、その廟だけが暗かったからである。天の戒めは言う、『大夫に世襲の官職を与えるな。さもなくば事柄が暗闇に覆われるであろう』と。翌年、公子の季友が死去し、果たして世襲の官職となり、政権は季氏に握られた。成公十六年(紀元前575年)『六月甲午の晦』には、真昼なのに暗くなり、陰が陽を制し、臣下が君主を制した。成公は悟らず、その冬、季氏が公子偃を殺害した。季氏の勢力は釐公の時に萌芽し、成公の時に大きくなった。これがその応報である。董仲舒は、夷伯は季氏の信頼を得た者であり、陪臣が廟を持つべきではないと考える。震とは雷であり、晦暝(暗闇)とは、雷がその廟を撃ったことで、僭越な類いを断ち去るべきであることを明らかにしたのである。劉向はまた、これらはいわゆる夜妖であると考えた。劉歆は、『春秋』では朔に及べば朔と書き、晦に及べば晦と書く。人道が及ばないことに対して、天は雷で警告すると考える。展氏に隠れた悪事があったため、天はその祖先である夷伯の廟に罰を加えて警告したのである。
成公十六年「六月甲午晦、晋侯と楚子・鄭伯が鄢陵で戦った」。いずれも月の晦日であるという。
隠公五年「秋、螟が発生した」。董仲舒と劉向は、この時公が棠で漁を見物し、利益を貪ったことへの応報であると考えた。劉歆は、さらに臧釐伯の諫言に逆らい、わずかな利益を貪ったために、裸虫の災いが生じたのだと考えた。
八年「九月、螟が発生した」。この時、鄭伯は邴をもって許田と交換しようとし、利益を貪る心があった。京房の易伝に言う。「臣が禄に安んずることを貪りという。その災いは虫であり、虫は根を食う。徳が常ならざることを煩いという。虫は葉を食う。徳なきを退けざることをいう。虫は根本を食う。東作(春の農作業)と争うことを時にあわずという。虫は節を食う。悪を蔽いて孽を生ずる。虫は心を食う。」
厳公(荘公)六年「秋、螟が発生した」。董仲舒と劉向は、この前に衛侯朔が斉に出奔し、斉侯が諸侯を会して朔を衛に納め、諸侯に賄賂を約束したことによるものと考えた。斉人が衛の宝器を(魯に)送り、魯がそれを受け取った。利益を貪ったことへの応報である。
文帝の後六年の秋、螟が発生した。この年、匈奴が大挙して上郡・雲中に侵入し、烽火が長安まで通じた。(朝廷は)三将軍を辺境に駐屯させ、三将軍を京師に駐屯させた。
宣公三年、「郊牛の口が傷つき、牛を改めて卜すると、牛が死んだ」。劉向はこれを牛禍に近いものと考えた。この時、宣公は公子遂と謀って子赤を共に殺して立った上に、喪中に娶るなど、愚昧で昏乱していた。乱は口によって成り、幸いにも季文子がいて禍を免れたが、天はなおこれを憎み、生きている間はその祭祀を饗けず、死ぬと災いがその廟を焼いた。董仲舒の指摘もほぼ同じである。
秦の孝文王五年、朐衍に遊猟した時、五足の牛を献じる者がいた。劉向はこれを牛禍に近いものと考えた。これより先、文恵王が初めて咸陽に都し、宮室を広大にし、南は渭水に臨み、北は涇水に臨んだため、思心を失い、土気に逆らった。足とは止まることである。秦が奢侈を止めて建てることを戒め、危亡を招こうとしているのである。秦はついに改めず、離宮三百に至り、さらに阿房宮を起こしたが、完成せずに滅亡した。一説には、牛は力で人に用いられ、足は行くためのものである。その後、秦は大いに民力を用いて転輸し、海辺から北辺までを起こし、天下がこれに叛いた。京房の易伝に言う、「繇役を興し、民の時を奪う、その妖は牛が五足を生ず」。
景帝の中六年、梁の孝王が北山で狩猟した時、牛を献じる者がおり、足が背中から出ていた。劉向はこれを牛禍に近いものと考えた。これより先、孝王は驕奢で、方三百里の苑を造り、宮館閣道が三十余里も連なっていた。邪臣の羊勝の計略を受け入れ、漢の後継者になろうと欲し、議臣の爰盎を刺殺したが、事が発覚し、斧を負って帰って死んだ。すでに国に退き帰った後も、なお恨みの心があり、内には思慮が昏乱し、外には土功が制を過ぎたので、牛禍が起こったのである。足が背中から出るのは、下が上を犯す象である。なお自ら解くことができず、急病を発して暴死したのは、また凶短の極みである。
左氏伝、昭公二十一年の春、周の景王が無射の鐘を鋳造しようとした時、泠州鳩が言った、「王は心の病で死なれるでしょう! 天子は風俗を観察して楽を作り、小さいものは軽佻でなく、大きいものは広大すぎないものです。広大すぎると心に響かず、心はそれによって感応し、感応が実は病を生みます。今、鐘は広大すぎます。王の心は満足されず、どうして長くいられましょうか?」 劉向は、この時、景王が淫声を好んで聞き、嫡庶が明らかでなく、思心が昏乱していたと考え、翌年、心の病で崩御したのは、心腹の病に近く、凶短の極みであるとした。
昭公二十五年の春、魯の叔孫昭子が宋に聘問した時、元公が宴を共にし、酒を飲んで楽しみ、語り合って泣いた。楽祈がこれを補佐し、人に告げて言った、「今年、君と叔孫は皆死ぬだろう! 私は聞く、哀しむべき時に楽しみ、楽しむべき時に哀しむのは、皆心を喪うことである。心の精爽、これを魂魄という。魂魄が去ってしまえば、どうして長くいられようか?」 冬十月、叔孫昭子が死に、十一月、宋の元公が卒した。
昭帝の元鳳元年九月、燕に黄鼠がその尾を銜えて王宮の端門の中で舞うことがあった。見に行くと、鼠は以前と同様に舞っていた。王が夫人に酒と干し肉を持たせて祀らせると、鼠は舞いを止めず、夜に死んだ。これは黄祥である。当時、燕の剌王旦が謀反を企てて敗れようとしていたので、死亡の象徴であった。その月に、発覚して誅罰を受けた。京房の易伝に言う、「誅罰が情状を斟酌しないと、その妖は鼠が門で舞う」。
成帝の建始元年四月辛丑の夜、西北に火の光のようなものがあった。壬寅の朝、大風が西北から起こり、雲気が赤黄色で、天下に四方を塞ぎ、終日、夜になって地に降り注ぐものは黄土の塵であった。この年、皇帝の母方の伯父である大司馬大将軍の王鳳が初めて権力を握り始めた。また、王鳳の同母弟の崇を安成侯に封じ、食邑一万戸を与えた。庶弟の譚ら五人に関内侯の爵位を賜い、食邑三千戸を与えた。さらに王鳳に五千戸を加増し、譚らをすべて列侯に封じた。これが五侯である。哀帝が即位すると、外戚の丁氏・傅氏・周氏・鄭氏の計六人を列侯に封じた。楊宣が答えて言うには、「五侯が封じられた日に、天気が赤黄色であり、丁氏・傅氏の時もまたそうであった。これはおそらく爵位と封土が制度を超え、土気を傷つけ乱すことの祥であろう」。京房の易伝に言う、「経に『其の生を観る』と称するのは、大臣の道理として、賢人を観察し、その性質・行いを知り、推挙して貢ぐべきことを言う。そうでなければ、善を知りながら与えないこととなり、これを不知という。その異は黄であり、その咎は聾であり、その災は後継ぎがないことである。黄とは、太陽の上に黄光が散じず火のようであり、黄濁の気が天下に四方を塞ぐことである。賢者を蔽い道を絶つので、災異が至って世が絶えるのである。経に『良馬逐う』とある。逐は進むことで、大臣が賢者を得て謀るならば、その人を顕彰して進めるべきことを言う。そうでなければ、下の者が互いに善を奪い合うこととなり、これを盗明という。その咎もまた後継ぎがなく、身を戮され家が絶えるに至る」。
史記によれば、周の幽王二年に、周の三川が皆震動した。劉向は、金・木・水・火が土を害したものと考えた。伯陽甫が言うには、「周は滅びようとしている。天地の気はその秩序を過ぎない。もしその秩序を過ぎれば、民がそれを乱すのである。陽が伏して出ることができず、陰が迫って昇ることができないと、そこで地震が起こる。今、三川が実際に震動したのは、陽がその居場所を失って陰を鎮圧するためである。陽が失われて陰の中にあると、水源は必ず塞がる。水源が塞がれば、国は必ず滅びる。水は、土が潤って民が用いるものである。土が潤わなければ、民は財用に乏しくなり、滅びないでどうして待てようか。昔、伊水・洛水が涸れて夏が滅び、黄河が涸れて商が滅びた。今、周の徳は二代の末世のようであり、その水源がまた塞がっている。塞がれば必ず涸れる。川が涸れれば、山は必ず崩れる。国は必ず山川に依る。山が崩れ川が涸れるのは、滅亡の徴候である。もし国が滅びるならば、十年を過ぎない。数は十を一区切りとするからである」。
この年、二川が涸れ、岐山が崩れた。劉向は、陽が陰の中に失われるというのは、火気が来て水を煎じ枯らすことを言い、それ故に川が涸れると考えた。山川は体を連ねており、下が涸れれば上が崩れるのは、事の勢いとして当然である。当時、幽王は暴虐で、妄りに誅伐し、諫めを聞かず、褒姒に迷い、その正后を廃した。廃后の父である申侯が犬戎と共に攻めて幽王を殺した。一説には、天文においては、水は辰星であり、辰星は蛮夷である。月が辰星を食むと、国は女によって滅びる。幽王の敗北は、女が内で乱し、夷が外から攻めたためである。京房の易伝に言う、「君臣が互いに背き合うと、その異は名水が絶える」。
文公九年「九月癸酉、地震があった」。劉向は、これ以前に、斉の桓公・晋の文公・魯の釐公という二伯の賢君が新たに没し、周の襄王が道を失い、楚の穆王が父を殺し、諸侯は皆不肖で、権力が下に傾いたので、天の戒めが言うには、臣下で強盛な者が動いて害をなすであろう、と考えた。後に、宋・魯・晋・莒・鄭・陳・斉が皆、君主を殺した。諸々の地震については、おおむね董仲舒の説に従っている。京房の易伝に言う、「臣下が事を行うのは正しくても、専断すれば必ず震動する。その震動は、水にあれば波立ち、木にあれば揺れ、屋にあれば瓦が落ちる。大経(君主)が辟(退位)して臣下を易える、これを陰動といい、その震動は政宮を揺るがす。大経が政を揺るがす、これを不陰といい、その震動は山を揺るがし、山から涌水が出る。嗣子が徳なく禄を専有する、これを不順といい、その震動は丘陵を動かし、涌水が出る」。
襄公十六年「五月甲子、地震があった」。劉向は、これより先に鶏沢の会で諸侯が盟を結び、大夫もまた盟を結んだことによるものと考えた。この年の三月、諸侯は溴梁の会を開いたが、大夫だけが互いに盟を結び、五月に地震があった。その後、崔氏が斉を専断し、欒盈が晋を乱し、良霄が鄭を傾け、閽(守門者)が呉子を殺し、燕がその君を追放し、楚が陳・蔡を滅ぼした。
昭公十九年「五月己卯、地震があった」。劉向は、この時季氏が君を追放する変事を起こそうとしていたことによるものと考えた。その後、宋の三臣や曹の会が皆領地を以て叛き、蔡・莒がその君を追放し、呉が中国を破り、二人の君主を殺した。
二十三年「八月乙未、地震があった」。劉向は、この時周の景王が崩御し、劉氏・単氏が王子猛を立て、尹氏が子朝を立てたことによるものと考えた。その後、季氏が昭公を追放し、黒肱が邾に叛き、呉がその君僚を殺し、宋の五大夫や晋の二大夫が皆領地を以て叛いた。
哀公三年「四月甲午、地震があった」。劉向は、この時諸侯が皆邪な臣を信じ、仲尼を用いることができず、盗賊が蔡侯を殺し、斉の陳乞が君を弑したことによるものと考えた。
恵帝二年正月、隴西で地震があり、四百余家が押し潰された。武帝の征和二年八月癸亥、地震があり、人が押し潰されて死んだ。宣帝の本始四年四月壬寅、河南以東の四十九郡で地震があり、北海・琅邪では祖宗の廟や城郭が崩壊し、六千余人が死んだ。元帝の永光三年冬、地震があった。綏和二年九月丙辰、地震があり、京師から北辺の郡国に至る三十余りで城郭が崩壊し、合わせて四百十五人が死んだ。
釐公十四年「秋八月辛卯、沙麓が崩壊した」。穀梁伝に「林が山に属するのを麓といい、沙はその名である」とある。劉向は、臣下が背き叛き、散り散りになって主君に仕えない象徴であると考えた。これ以前、斉の桓公は覇道を行い、諸侯を会合させ、周王室に仕えた。管仲が死ぬと、桓公の徳は日に日に衰え、天の戒めは言うようであった。覇道が廃れ、諸侯が散り散りになり、政権が大夫に及び、陪臣が命令を執り、臣下が主君に仕えなくなるであろうと。桓公は悟らず、天子は隠れてしまった。斉の桓公が死ぬと、天下は散り散りになって楚に従った。王札子が二人の大夫を殺し、晋が天子の軍を破ったが、誰も征討できず、これより衰微した。公羊伝では、沙麓は黄河のほとりの邑であるとする。董仲舒の説もほぼ同じである。一説には、黄河は大いなる川の象徴であり、斉は大国である。桓公の徳が衰え、覇道が晋の文公に移るので、黄河が移動したのであるという。左伝では、沙麓は晋の地であり、沙は山の名であるとする。地震によって麓が崩れたが、地震とは記さず、重い事柄を挙げたのである。伯陽甫の言う「
国は必ず山川に依拠する。山が崩れ川が枯れるのは、滅亡の兆しである。十年を過ぎない、数の周期である」というところである。二十四年に至り、晋の懐公が高梁で殺された。京房の易伝に「小人が屋根を剥ぐ、その妖は山崩れ、これを陰が陽に乗じ、弱が強に勝つという」とある。
成公五年「夏、梁山が崩壊した」。穀梁伝によれば、黄河が三日間流れず、晋の君主が群臣を率いてこれを哭し、ようやく流れたという。劉向は、山は陽で君主、水は陰で民衆であると考え、天の戒めは言うようであった。君主の道が崩壊し、下が乱れ、百姓がその居場所を失うであろうと。哭して後に流れたのは、喪亡の象徴である。梁山は晋の地にあり、晋から始まって天下に及んだ。後に晋は暴虐に三卿を殺し、厲公は弑殺された。溴梁の会盟では、天下の大夫が皆国政を執り、その後、孫氏・甯氏が衛の献公を追放し、三家が魯の昭公を追放し、単氏・尹氏が王室を乱した。董仲舒の説もほぼ同じである。劉歆は、梁山は晋が祭祀する望(国境の山)であると考えた。崩壊とは、弛んで崩れることである。古く三代は祭祀を命じ、祭りは望を越えず、吉凶禍福はこれを過ぎない。国は山川を主とし、山が崩れ川が枯れるのは滅亡の兆しであり、善悪は必ず一巡して戻る。この年は歳星が鶉火にあり、十七年後に再び鶉火に至り、欒書・中行偃が厲公を殺して悼公を立てた。
高后二年正月、武都山が崩れ、七百六十人が死に、地震は八月まで続いた。文帝元年四月、斉・楚の地の二十九ヶ所の山が同日に一斉に大水を噴出し、決壊した。劉向は、水が土を害する近い現象であると考えた。天の戒めは言うようであった。斉・楚の君主を盛んにするな、今制度を失えば、乱をなすであろうと。後十六年、帝の庶兄である斉の悼恵王の孫の文王則が薨去し、子がなかったため、帝は斉の地を分割し、悼恵王の庶子六人を皆王とした。賈誼と晁錯は、古制に背き、乱を招く恐れがあると諫めた。景帝三年に至り、斉・楚の七国が百余万の兵を起こしたが、漢は皆これを破った。春秋時代に四国が同日に災害を受け、漢代に七国が同日に多くの山が決壊し、皆その害を受けたのは、天威を畏れないことの明らかな証拠である。
成帝の河平三年二月丙戌、犍為郡の柏江山が崩れ、捐江山が崩れ、共に江水を塞き止め、江水が逆流して城を壊し、十三人が死に、地震が二十一日続き、百二十四回動いた。元延三年正月丙寅、蜀郡の岷山が崩れ、江を塞き止め、江水が逆流し、三日してようやく通じた。劉向は、周の時に岐山が崩れ、三川が枯れ、幽王が滅んだことを考えた。岐山は、周が興った地である。漢家は本来蜀漢から興った。今、興った地の山が崩れ川が枯れ、彗星がまた摂提・大角に及び、参宿から辰宿に至るのは、恐らく必ず滅亡するであろう。その後、三世で後嗣が絶え、王莽が帝位を簒奪した。
君主が中正の道を失うこと。
伝に曰く、「君主が中正の道を失うことは、これを『不建』と言い、その咎は目がかすみ心が乱れることであり、その罰は常に陰気が覆い、その極みは弱くなることである。時に射妖があり、時に龍蛇の孽があり、時に馬禍があり、時に下の者が上の者を伐つ病があり、時に日月の運行が乱れ、星辰が逆行する」と。
「君主が中正の道を失うことは、これを『不建』と言う」とは、皇は君主のことである。極は中、建は立つことである。君主の貌・言・視・聴・思心の五事がすべて失われ、中正を得られなければ、万事を立てることができず、その過失は目がかすみ心が乱れることにある。故にその咎は目がかすみ心が乱れることである。王者は下に立って天を承け、万物を治める。雲は山から起こって天に満ちる。天の気が乱れるので、その罰は常に陰気が覆うのである。一説には、上が中正を失えば、下が強盛になって君主の明を蔽うという。《易経》に「亢龍悔あり、貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位に在りて輔けなし」とある。このようであれば、君主は南面の尊さはあっても、一人の助けもなく、故にその極みは弱くなるのである。盛んな陽気は動き進み、軽く速い。
礼では、春に大射を行い、陽気に順う。上が微弱であれば下が奮い立って動くので、射妖がある。《易経》に「雲は龍に従う」とあり、また「龍蛇の蟄は、以て身を存す」とある。陰気が動くので、龍蛇の孽がある。易において、乾は君であり馬である。馬は任用され強力である。君主の気が毀損されれば、故に馬禍がある。一説には、馬が多く死に、あるいは怪異となることも、これである。君主が乱れかつ弱ければ、人々がこれに叛き、天がこれを見捨てる。明王による誅罰がなければ、簒奪や弑逆の禍がある。故に下の者が上の者を伐つ病がある。およそ君主の道が傷つけられれば天気を病む。五行が天を害すると言わず、「日月の運行が乱れ、星辰が逆行する」と言うのは、下が敢えて天を害するものではない、という意味である。ちょうど春秋に「王師、貿戎に敗績す」と言い、誰に敗れたかを言わないのは、自ら敗れたことを記す文体とし、尊ぶべき者を尊ぶという意味である。劉歆の皇極伝には、下の体が上の体に生じる病があるとある。解釈では、下の者が上の者を伐ち、天誅がすでに成ったものは、もはや病とは言わないとする。皇極の常陰について、劉向は春秋にその応がないと考えた。一説には、久しく陰って雨が降らないことがこれである。劉歆はこれが常陰に属すると考えた。
昭帝の元平元年四月に崩御し、後嗣がなく、昌邑王劉賀を立てた。劉賀が即位すると、天が曇り、昼夜を通じて日月が見えなかった。劉賀が出かけようとすると、光禄大夫の夏侯勝が車の前に立ちはだかって諫めて言った。「天が長く曇って雨が降らないのは、臣下に主上を謀ろうとする者がいる兆しです。陛下はどこへお出かけになろうというのですか。」劉賀は怒り、夏侯勝を縛って役人に引き渡した。役人が大將軍の霍光に報告すると、霍光はちょうど車騎將軍の張安世と謀って劉賀を廃立しようとしていた。霍光は張安世を責めて、言葉を漏らしたのではないかと疑ったが、張安世は実際には漏らしておらず、夏侯勝を召し出して問いただした。夏侯勝は『洪範五行伝』を上奏して言った。「『君主が中正の道を失うと、その罰として常に陰る。その時には下の者が上の者を討つことがある。』はっきりとは申し上げられませんでしたので、『臣下に謀りごとがある』と申し上げたのです。」霍光と張安世はこれを読んで大いに驚き、このことによって経学の士をますます重んじた。数日後、ついに共に劉賀を廃した。これが常陰の明らかな効験である。京房の『易伝』に言う。「蜺、蒙、霧がある。霧は上下が合わさったものである。蒙は塵の雲のようである。蜺は太陽の傍らの気である。その占いは次のようである。后妃が専横すると、蜺が二重になり、赤くて専らとなり、衝に至って旱魃となる。妻が一途に従わないと、黒い蜺が四方に背き、また白い蜺が日中に二つ現れる。妻が夫を高貴なものとして扱う、これを擅陽と言い、蜺が四方にあり、日光が陽気でなく、解けて温かくなる。内で取る(近親婚)、これを禽と言い、蜺が禽獣のようで、太陽の傍らにある。尊貴な者が妃を降格させる、これを薄嗣と言い、蜺がまっすぐで塞がり、六辰が過ぎて初めて除かれ、夜に星が現れて赤くなる。女が初めのまま変わらない、これを乗夫と言い、白い蜺が太陽の側にあり、黒い蜺がそれを包む。気がまっすぐで正しい。妻が正しく順わない、これを擅陽と言い、蜺が中から覗き貫いて外で専らとなる。夫婦が厳かでない、これを媟と言い、蜺が太陽と会する。婦人が国政を専断する、これを頃と言い、白い蜺が日中を貫き、赤い蜺が四方に背く。嫡(適)が応えない、これを不次と言い、蜺がまっすぐ左にあり、蜺が交差して右にある。専らでない者を娶る、これを危嗣と言い、蜺が太陽を抱いて両端が届かない。君主が外で淫らなことをする、これを亡と言い、蜺の気が左で太陽が外と交わる。娶ることが道理に達しない、これを不知と言い、白い蜺が明るさを奪って大いに温かくなり、温かくて雨が降る。尊卑の別がない、これを媟と言い、蜺が三度現れて三度消え、三辰が除かれると、除かれた後は太陽が出てかつ雨が降る。臣下が私的に禄を親族に及ぼす、これを罔辟と言い、その異変は蒙であり、その蒙はまず大いに温かくなり、やがて蒙が起こり、太陽が見えなくなる。善行を上に請わずに行う、これを作福と言い、蒙が一日に五度起こり五度解ける。君主が臣下と謀らない、臣下が異なる道を行く、これを不見と言い、上が蒙り下が霧り、風が三度変わってともに解ける。嗣子を立てるのに疑う、これを動欲と言い、蒙が赤く、太陽が明るくない。徳が順序だっていない、これを不聡と言い、蒙り、太陽が明るくなく、温かくて民が病む。徳を試みず、空言で禄を与える、これを主窳臣夭と言い、蒙が起こって白くなる。君主が安逸を楽しみ人を使う、これを放と言い、蒙り、太陽が青く、黒雲が太陽を挟み、左右前後に行き過ぎて太陽を通る。公(三公)が職務を果たさない、これを怙禄と言い、三日間蒙り、さらに五日間大風が吹き、蒙が解けない。邪な利益で食う、これを閉上と言い、蒙が大いに起こり、白雲が山のように行き来して太陽を蔽う。公が恐れて道を言わない、これを閉下と言い、蒙が大いに起こり、太陽が見えず、雨が降るか降らないかのようで、十二日目に解け、大いなる雲が太陽を蔽う。禄が下から生じる、これを誣君と言い、蒙が微かで小雨が降り、やがて大雨となる。下の者が互いに善を奪い合う、これを盗明と言い、蒙が黄く濁る。下の者が功績を並べ立て、上に求める、これを不知と言い、蒙り、微かで赤く、風が枝を鳴らし、解けてまた蒙る。下が刑罰を専断する、これを分威と言い、蒙って太陽が明るくならず、大臣が小臣を圧する、これを蔽と言い、蒙が微かで、太陽が明るくなく、解けるか解けないかのようで、大風が起こり、赤雲が起こって太陽を蔽う。衆人が悪を憎まない、これを閉と言い、蒙り、尊卦が用いられ、三日して起こり、太陽が見えなくなる。言葉が漏れて喜びがない、これを下厝用と言い、蒙が微かで、太陽に光がなく、雨雲があり、雨が降らない。忠臣を廃し佞臣に惑う、これを亡と言い、蒙り、天がまず清くて急に、蒙が微かで太陽が明るくない。逸民がいる、これを不明と言い、蒙が濁って日光を奪う。公が職務を果たさない、これを不絀と言い、蒙が白く、三辰が止まり、すると太陽が青く、青くて寒く、寒ければ必ず雨が降る。忠臣が善を進めるのに君主が試みない、これを遏と言い、蒙り、まず小雨が降り、雨がやんで蒙が起こり、微かで太陽が明るくない。惑わす者が位にある、これを覆国と言い、蒙が微かで太陽が明るくなく、一たび温かく一たび寒く、風が塵を揚げる。佞臣を知って厚遇する、これを庳と言い、蒙が甚だしくて温かい。君臣が故意に補弼しない、これを悖と言い、その災いは風雨霧であり、風が木を抜き、五穀を乱し、やがて大霧となる。庶正が悪を蔽う、これを生孽災と言い、その異変は霧である。」これらは皆、陰雲の類であるという。
厳公十八年「秋、蜮あり」。劉向は、蜮は南越に生じたものと考えた。越の地には婦人が多く、男女が同じ川で水浴し、淫らな女が主導するため、乱れた気が生じて蜮となったので、聖人がこれを蜮と名付けたのである。蜮とは惑と同じで、水辺にいて人を射ることができ、射られた場所はひどい場合には死に至る。南方ではこれを短弧と呼び、射るという妖しき現象であり、死亡の兆しである。当時、厳公が斉の淫らな女を娶ろうとしていたので、蜮が現れたのである。天の戒めは、斉の女を娶るな、そうすれば淫乱と惑乱、簒奪と弑逆の禍いが生じるだろう、と言っているようであった。厳公は悟らず、ついにその女を娶った。その後、その女は二人の叔父(二叔)と淫らな関係を持ち、二人の叔父は死に、二人の息子は弑殺され、夫人も誅殺された。劉歆は、蜮は盛んな暑さによって生じるもので、越から来たものではないと考えた。京房の易伝に言う。「忠臣が善を進めても君主が試みないと、その咎として国に蜮が生じる」。
史記によれば、魯の哀公の時、隼が陳の朝廷に集まって死に、楛矢がその体を貫き、石の鏃が付いており、長さは一尺八寸あった。陳の閔公は使者を遣わして仲尼に問わせた。仲尼は言った。
「この隼が来たのは遠い昔のことだ!昔、武王が商を滅ぼした時、百蛮に道を通し、それぞれの土地の産物を持って来貢させた。その時、粛慎が貢いだのが楛矢で、石の鏃が付いており長さは一尺八寸あった。先王は異姓の諸侯に遠方の職責を分け与え、服属することを忘れさせないようにした。それゆえ、陳には粛慎の矢が分け与えられたのだ」。そこで古い倉庫を探させてみると、果たしてそれを見つけた。劉向は、隼は黒祥に近く、貪暴の類いであると考えた。矢が貫いているのは射るという妖しき現象に近く、朝廷で死んだのは国が滅びる兆しである。これは陳が目がくらみ乱れ、周に仕えることをせず、貪暴な行いをしたため、遠方の夷狄の禍いを招き、滅ぼされることになるという象徴である。当時、中国では斉・晋が強く、南方の夷狄では呉・楚が強かった。陳は晋と交際しても親しくなく、楚に付いても固くなく、しばしば二国の禍いを受けた。後に楚に白公の乱があり、陳はそれに乗じて侵攻したが、結局楚に滅ぼされた。
史記によれば、夏后氏が衰えた時、二匹の龍が夏の朝廷に現れ、「我らは褒の二君である」と言った。夏の帝は、これを殺すか、去らせるか、留め置くかを占ったが、いずれも吉ではなかった。龍の涎(よだれ、漦)を請い受け、それを蔵めることを占うと、吉となった。そこで幣帛を並べ、策文を読んで告げた。龍は去り、涎だけが残ったので、それを櫃に入れてしまい去った。その後、夏は滅び、その櫃は殷、周と伝わり、三代の間誰も開けなかった。厲王の末年に至り、開けて見ると、涎が朝廷に流れ出て、除くことができなかった。厲王は婦人たちに裸で叫ばせると、涎は玄黿(げんげん、黒い大亀)に化け、後宮に入った。後宮の侍女がこれに出会って孕み、子を生んだが、恐れてその子を捨てた。宣王が立つと、童謡に「檿弧萁服、実に周国を亡ぼす」と歌われた。後にその器物(桑の弓と萁草の矢入れ)を売る夫婦がいたので、宣王は彼らを捕らえて殺させた。夫婦が去った後、侍女が捨てた妖しい子を見つけ、その夜泣きを聞いて哀れに思い、拾い上げた。そして逃亡して褒に奔った。後に褒の人が罪を犯し、この妖しい子を献上して罪を贖った。これが褒姒である。幽王は彼女を見て愛し、子の伯服を生んだ。王は申后と太子の宜咎を廃し、代わりに褒姒と伯服を立てた。廃された后の父である申侯は繒と西の畎戎と共に幽王を攻め殺した。詩経に言う。「赫赫たる宗周、褒姒これを醤す」。劉向は、夏后氏の末世、周の幽王・厲王の時代は、皆天に逆らって乱れていたので、龍や黿の怪異が現れたのだと考えた。これは龍蛇の孽に近い。漦とは血であり、あるいは涎である。檿弧とは桑の弓である。萁服とはおそらく萁草で作った矢入れであり、射るという妖しき現象に近い。女の童謡とは、禍いが女から生じ、国が兵乱によって滅びるということである。
左氏伝によれば、昭公十九年、龍が鄭の時門の外の洧淵で闘った。劉向は、これは龍の孽に近いと考えた。鄭は小国でありながら晋と楚の間に挟まれ、さらに強力な呉が加わり、鄭はその衝に当たりながら、徳を修めることができず、三国と闘って自ら危うく滅亡しようとしていた。この時、子産が政を任され、内では民に恵みを施し、外では巧みな言葉遣いで三国と交際し、鄭はついに禍いを免れた。これは徳をもって変異を消し去った効果である。京房の易伝に言う。「衆人の心が安らかでないと、その妖として龍が闘う」。
恵帝二年正月癸酉の朝、二匹の龍が蘭陵の廷東里の温陵井に現れ、乙亥の夜に去った。劉向は、龍は貴い象徴であるのに庶人の井戸に困窮したのは、諸侯が幽閉・捕縛される禍いの兆しであると考えた。その後、呂太后が三趙王を幽閉して殺し、諸呂もついに誅殺・滅亡した。京房の易伝に言う、「徳ある者が害を受けると、その妖は龍が井戸に現れる」。また言う、「刑罰を暴虐に行うと、黒龍が井戸から出る」。
左氏伝によれば、魯の厳公の時、内蛇と外蛇が鄭の南門の中で闘い、内蛇が死んだ。劉向は、これは蛇の妖に近いと考えた。先に鄭の厲公が宰相の祭仲を脅迫して兄の昭公を追放し、代わって立った。後に厲公が出奔し、昭公が復帰した。昭公が死ぬと、弟の子儀が代わって立った。厲公は外から大夫の傅瑕を脅迫し、子儀を殺させた。これが外蛇が内蛇を殺す象徴である。蛇が死んで六年後に、厲公が立った。厳公はこれを聞き、申繻に問うて言った、「まだ妖があるのか」。申繻は答えて言った、「人が忌み嫌うものは、その人の気の勢いがそれを招くのであり、妖は人によって起こるのです。人に過失がなければ、妖は自ら起こりません。人が常道を捨てるから、妖があるのです」。京房の易伝に言う、「嗣子を立てるのに疑いがあると、その妖は蛇が国門に居て闘う」。
左氏伝によれば、文公十六年の夏、蛇が泉宮から出て、国都に入り、先君の数と同じだけの数であった。劉向は、これは蛇の妖に近いと考えた。泉宮は苑の中にあり、公の母である姜氏がかつてここに住んでいた。蛇がそこから出たのは、宮殿が住まわれなくなる象徴である。『詩経』に言う、「これ虺これ蛇、女子の祥」。また、蛇が国都に入るのは、国に女に関する憂いが起こる兆しである。先君の数と同じであるのは、公の母がまもなく薨去する象徴である。秋、公の母が薨去した。公はこれを嫌い、泉臺を壊した。そもそも妖孽は行いに対応して自ら現れるのであり、現れたからといって害をなすのではない。文公が行いを改めて正道に従い、慎んでその罰を受け止めず、非礼なことを行って、その過ちを重ねた。その後二年して薨去し、公子遂が文公の二人の子である悪と視を殺し、宣公を立てた。文公の夫人は斉に帰国した。
武帝の太始四年七月、趙で蛇が城外から入り、邑中の蛇と孝文廟の下で闘い、邑中の蛇が死んだ。その後二年の秋、衛太子の事件があり、事件は趙の人である江充から起こった。
左氏伝によれば、定公十年、宋の公子地には白馬の駟があった。公の寵臣である向魋がそれを欲しがり、公はそれを取り上げて尾とたてがみを赤く染めて与えた。地は怒り、配下の者に命じて魋を打ちすえ、馬を奪い返した。魋は恐れて逃げようとしたが、公は門を閉めて泣き、目がはれあがった。公の弟の辰が地に言った、「あなたは君主への礼として、国境を出るまでで、君主はきっとあなたを引き留めるでしょう」。地は陳に出奔したが、公は引き留めなかった。辰が地のために願い出たが、聞き入れられなかった。辰は言った、「これは私が兄を欺いたことになる。私は国人を連れて出奔すれば、君主は誰と共に国にいるというのか」。そこで配下の者と共に出奔して陳に行った。翌年、ともに蕭に入って反乱を起こし、宋に大きな禍いをもたらした。これは馬の禍いに近い。
『史記』によると、秦の孝公二十一年に馬が人間を生み、昭王二十年には牡馬が子を生んで死んだ。劉向はこれらをすべて馬の災いであると考えた。孝公は初めて商君(商鞅)の攻守の法を用い、東の諸侯を侵略し、昭王に至っては、用兵がますます激しくなった。その兆しは、武力によって極限まで成功を収めながら、やがて自らを害することになるというものであった。牡馬は子を生む類いではないのに、無理に生んで死んだのは、秦が武力を恃んで天下を得ながら、やがて自ら滅びる兆しに似ている。また、諸々の畜生がその類いでない子を生めば、子孫には必ずその姓でない者が現れるという。始皇帝に至って、果たして呂不韋の子であった。京房の『易伝』には、「方伯が威を分かつとき、その妖は牡馬が子を生む。天子を失い、諸侯が互いに討伐するとき、その妖は馬が人間を生む」とある。
文帝の十二年、呉で馬の角が生えた。角は耳の前にあり、上向きであった。右の角は長さ三寸、左の角は長さ二寸、どちらも太さ二寸であった。劉向は、馬が角を生やすべきでないのは、呉が兵を挙げて上(朝廷)に向かうべきでないのと同じであると考えた。この時、呉王劉濞は四郡五十余城を封じられており、内心驕り高ぶり、その変化が外に現れたので、天の戒めは早くからあったのである。王は悟らず、後に挙兵し、誅滅された。京房の『易伝』には、「臣が上を軽んじ、政が順調でないとき、その妖は馬が角を生やす。これは賢士が足りないことを言う」とある。また、「天子が親征するとき、馬が角を生やす」ともある。
成帝の綏和三年二月、大廄(たいきゅう、天子の馬屋)の馬が角を生やした。左耳の前にあり、周囲の長さはそれぞれ二寸であった。この時、王莽が大司馬となっており、上(皇帝)を害する萌芽はここから始まったのである。哀帝の建平二年、定襄で牡馬が駒を生んだが、足が三本で、群れに従って飲食した。太守がこれを報告した。馬は国の武用(軍事用)である。三本足は、任用に堪えない兆しである。後に侍中の董賢が二十二歳で大司馬となり、上公の位に就いたが、天下はこれに従わなかった。哀帝が急死すると、成帝の母である王太后が弟の子である新都侯王莽を召し入れ、董賢の印綬を没収した。董賢は恐れて自殺し、王莽が代わって権力を握り、外戚の丁氏・傅氏を誅殺した。また、哀帝の傅皇后を廃して自殺させ、帝の祖母である傅太后、母である丁太后の陵墓を発掘し、庶人として改葬した。これは至尊(皇帝)にまで及ぶ罪であり、大臣が微弱となった禍いである。
文公十一年、「狄を鹹で破った」。『穀梁伝』『公羊伝』によると、長狄の兄弟三人がおり、一人は魯へ、一人は斉へ、一人は晋へ行き、皆殺された。その体は九畝(約45メートル四方)に横たわり、その首を切り取って車に載せると、眉が軾(しょく、車の手すり)の上に見えた。なぜ記録したのか?異変を記したのである。劉向は、この時、周室が衰微し、魯・斉・晋の三国が強大となり、責められるべき存在であったと考えた。天の戒めはこう言うようであった。「礼義を行わず、大いに夷狄の行いをなせば、危亡に至るであろう」。その後、三国はいずれも簒奪や弑逆の禍いを蒙った。これは下人(臣下)が上(君主)を伐つ病いに近い。劉歆は、人の異変であり、黄祥(五行の土に属する祥瑞・災異)に属すると考えた。一説には、裸虫(はだかむし、人間を含む無毛の動物)の孽に属する。一説には、天地の性において人は貴く、凡そ人の異変はすべて皇極(君主の道)に関わり、下人(臣下)が上(君主)を伐つ病いに属するという。京房の『易伝』には、「君主が暴虐で乱れ、有道の者を憎むとき、その妖は長狄が国に入る」とある。また、「その屋を豊かにし、下(民)は独り苦しむ。長狄が生まれ、世の主は虜となる」ともある。
『史記』によると、秦の始皇帝二十六年、身長五丈(約11.5メートル)、足の長さ六尺(約1.4メートル)の大人(巨人)が十二人、皆夷狄の服を着て臨洮に現れた。天の戒めはこう言うようであった。「大いに夷狄の行いをするな。さもなくばその禍いを受けるであろう」。この年、始皇帝は初めて六国を併合し、逆に喜んで瑞祥と考え、天下の兵器を溶かし、金人十二体を作ってこれを象った。そして自ら聖賢であるとし、詩書を焼き、儒士を生き埋めにした。奢侈・淫逸・暴虐にふけ、ひたすら領土を広げようとした。南には五嶺を守備させ、北には長城を築いて胡や越に備え、山を削り谷を埋め、西は臨洮から東は遼東まで、直線距離数千里に及んだ。ゆえに大人が臨洮に現れたのは、禍乱の起こることを明らかにしたのである。その後十四年で秦は滅亡し、その滅亡は戍卒(守備兵)の陳勝が起こしたことから始まった。
『史記』魏襄王十三年に、魏に女子が丈夫(男子)に化する者があった。京房の『易伝』に言う、「女子が丈夫に化する、これを陰が盛んになるという。賤しい者が王となる。丈夫が女子に化する、これを陰が勝つという。その災いは滅亡である」と。一説に、男が女に化するのは、宮刑(去勢刑)が濫用されるためであり、女が男に化するのは、婦人の政治が行われるためであるという。
哀帝の建平年間、豫章に男子が女子に化し、嫁いで人の妻となり、一子を生んだ。長安の陳鳳は、これは陽が陰に変わることで、後継ぎが絶えて滅亡する、自ら生み出す象であると言った。一説に、嫁いで人の妻となり子を生むのは、さらに一代を経てから絶えることになるという。
哀帝建平四年四月、山陽の方与の女子、田無嗇が子を生んだ。生まれる二か月前から、児が腹中で啼き、生まれると養育せず、路傍に葬った。三日後、人が通りかかって啼き声を聞き、母が掘り出して養い育てた。
平帝の元始元年二月、朔方の広牧の女子、趙春が病死し、棺に納めて六日が経ったとき、棺の外に出てきて、死んだ夫と父に会ったと言い、「年二十七では死ぬべきではない」と言った。太守の譚がこれを上聞した。京房の『易伝』に言う、「『父の過ちを正し、子あり、父に咎なし』。子が三年たっても父の道を改めず、追慕して暇がなく、また重ねて先人の過ちを見る。そうでなければ私心のためである。その妖は人が死んで復活することである」と。一説に、至陰が陽となることで、下の者が上の者となるという。
六月、長安の女子に生んだ児があり、二つの頭は別々の首で顔は向き合い、四本の腕が一つの胸から共に前方を向き、臀部に目があり長さ二寸ほどであった。京房の『易伝』に言う、「『離れ孤り、豕の塗を負うを見る』。その妖は人が二つの頭を生むことである。下の者が互いに善を奪い合うと、妖も同じである。人や六畜の首や目が下にあるのは、これを上を失うといい、正(政)が変革しようとしている。およそ妖が起こるのは、過失を正すことを譴めるためで、それぞれその類に象る。二つの首は、下が一つでないこと。足が多いのは、任用する者が邪なこと。足が少ないのは、下が任に堪えられないか、あるいは下を任用しないこと。およそ下の体が上に生じるのは、不敬である。上の体が下に生じるのは、軽慢である。その類でないものが生じるのは、淫乱である。人が生まれて大きいのは、上(君主)が速成すること。生まれて言葉を話すのは、虚飾を好むこと。群妖はこの類を推し、改めなければ凶となるのである。」
景帝の二年(前155年)九月、膠東国の下密県に七十余歳の老人が角を生やし、その角には毛が生えていた。当時、膠東王・膠西王・済南王・斉王の四王には挙兵して反乱を起こそうとする謀略があり、その謀略は呉王劉濞が起こし、楚・趙と連合し、合わせて七国となった。下密県は、四斉(四つの斉の国)の中央に位置する。角は兵乱の象徴であり、上(朝廷)に向かうものである。老人は呉王の象徴である。七十歳という年齢は七国の象徴である。天の戒めはこう言っているようだ。人は角を生やすべきではない、それはちょうど諸侯が兵を挙げて京師(都)に向かうべきではないのと同じである。禍いは老人から生じ、七国は共に敗れるという。諸侯は悟らず、翌年、呉王が先に挙兵し、諸侯がそれに従い、七国は共に滅びた。京房の『易伝』に言う。「冢宰(宰相)が政権を専断すると、その妖として人が角を生やす」。
成帝の建始三年(前30年)十月丁未の日、京師(長安)で人々が驚き騒ぎ、大水が来ると言いふらした。渭水の虒のほとりに住む九歳の少女、陳持弓が、横城門から走り込み、未央宮の尚方掖門に入り、殿門の門衛や戸を守る者たちは誰も気づかず、句盾の禁中に至って発見された。民衆が水のことで驚き騒ぐのは、陰気が盛んになったためである。少女が宮殿の中に入ったのは、下位の者が女寵(女性の寵愛)によって宮室に居座る象徴である。名が「持弓」というのは、周王朝の「檿弧」の祥瑞(吉兆)に似ている。『易経』に言う。「弧(弓)と矢の利(鋭さ)は、天下を威圧するためである」。この時、皇帝の母である王太后の弟の王鳳が初めて上将軍となり、国政を執っていた。天はその後に彼らが天下を威圧して宮室に入ることを知っていたので、先に象徴を示したのである。その後、王氏の兄弟父子が五侯として権力を握り、王莽に至ってついに天下を簒奪したのは、おそらくこの陳氏(陳持弓)の事件がその後のこと(王氏の台頭)を暗示していたのであろう。京房の『易伝』に言う。「妖言(怪しい言葉)が大衆を動かす、これを不信という。路(道)は人を亡ぼし、司馬(軍の長官)は死ぬ」。
成帝の綏和二年(前7年)八月庚申の日、鄭通里の男子、王褒が、深紅色の衣に小冠をかぶり、剣を帯びて北司馬門殿東門から入り、前殿に上り、非常室(普段使わない部屋)に入り、帷の組紐を解いて自分の帯に結びつけ、前殿の署長の業らを呼んで言った。「天帝が私にここに住むよう命じた」。業らは彼を捕縛し取り調べた。王褒は以前、公車(官署)の大誰卒(警備兵)であったが、狂気の病にかかり、自分が宮中に入った様子を自覚していなかった。彼は獄に下されて死んだ。この時、王莽が大司馬であったが、哀帝が即位すると、王莽は骸骨を乞うて(引退を願い出て)邸宅に退いた。天は彼が必ずや退かない(復帰する)ことを知っていたので、この事件によって象徴を示したのである。姓名と衣服の様子は甚だ明らかで、まっすぐに前殿の路寝(正殿)に上り、室に入って組紐を取って帯び、天帝の命と称したが、当時の人々は誰もこれを察知しなかった。後に王莽は封国に赴いたが、天下の人は彼を冤罪と思い、哀帝は王莽を召し出して京師に戻した。翌年、哀帝が崩御すると、王莽は再び大司馬となり、このことを契機として国を簒奪した。
哀帝の建平四年正月、民衆が驚いて走り回り、稲わらあるいは麻の茎を一本ずつ持ち、次々に手渡しして、「詔の籌を行く」と言った。道中で出会う者は多くて数千人に及び、ある者は髪を振り乱して徒歩で駆け、ある者は夜に門を破り、ある者は塀を越えて入り、ある者は車馬に乗って疾走し、駅伝を置いて行き、二十六の郡国を経て、京師に至った。その夏、京師や郡国の民衆が里や巷の道端に集まり、祭りを設けて博具を広げ、歌舞をして西王母を祀り、また書を伝えて言った。「母(西王母)が百姓に告げる、この書を帯びる者は死なず。我が言を信じなければ、門の枢の下を見よ、白髪があるはずだ。」秋になって止んだ。この時、帝の祖母の傅太后が驕り高ぶり、政事に関与していたので、杜鄴が答えて言った。「春秋の災異は、指象をもって言語とする。籌は、数を記すものである。民は陰であり、水の類である。水は東流するのが順行であり、西に行くのは、かえって逆上する類である。象数が度を超えて溢れ、妄りに互いに与え合うのは、民心に背く応である。西王母は婦人の称である。博弈は男子の事である。街巷の道端で行うのは、閨門の内を離れ、外の境に出ることを明らかにする。事に臨んで遊楽にふけるのは、炕陽の意である。白髪は衰年の象であり、体は尊く性は弱く、治め難く乱れ易い。門は人の出入りする所、枢はその要である。人の出入りする所に居て、その要を制するのは、その明らかなこと甚だしい。今、外戚の丁氏・傅氏が共に帷幄に侍し、列位に布き、罪悪ある者は罰せられず、功能なき者は皆官爵を受ける。皇甫・三桓は詩人が刺し、春秋が譏るところであり、これより甚だしいことはない。指象は昭々として、聖朝を覚醒させようとしているのに、どうして応じないのか。」後に哀帝が崩じ、成帝の母の王太后が朝政を臨み、王莽が大司馬となり、丁氏・傅氏を誅滅した。一説に、丁氏・傅氏の乱したことは小さく、この異変は王太后・王莽の応であるという。
下之下
隠公三年「二月己巳、日食があった」。穀梁伝は「日を言って朔を言わないのは、晦日に食ったからだ」と言い、公羊伝は「二日に食った」と言う。董仲舒と劉向は、その後、戎が天子の使者を捕らえ、鄭が魯の隠公を捕らえ、戴が滅び、衛・魯・宋が皆君主を殺したことと関連づけた。左氏の劉歆は正月二日とし、燕・越の分野であるとした。およそ太陽が運行する経路に変化があれば、その分野の国で失政がある者がそれを受ける。人君が政事を修め、その罰を共に防ぐことができれば、災いは消えて福が至る。できなければ、災いは止まず禍が生じる。だから経書は災いを記すがその原因を記さない。吉凶は常ならず、行いに従って禍福が成るからである。周が衰え、天子が朔を頒布せず、魯の暦が正しくなく、閏月を置くのに適切な月でなく、月の大小がその度合いを得なかった。史記が日食と記す場合、朔と言いながら実際は朔でないもの、朔と言わないが実際は朔であるもの、朔と日を書き落としているものがあり、いずれも官の失策である。京房の易伝に言う。「師を失うことを不御と言い、その異変は日食であり、その食は既(皆既)で、一か所だけでなく複数箇所で食う。誅罰が多く道理を失うことを生叛と言い、その食は既で、光が散る。反逆を放任することを不明と言い、その食は先立って大雨が三日降り、雨が止んで寒くなり、寒くなるとすぐに食う。禄を専有して封じないことを不安と言い、その食は既で、先に日が出て黒くなり、光が外に向かって照り返す。君臣が通じないことを亡と言い、その蝕は三度既になる。同姓が上を侵すことを君を誣うと言い、その食は四方に雲があり中央に雲がなく、その日は大寒である。公が主君の地位を弱めようとすることを不知と言い、その食は中央が白く青く、四方が赤く、食った後に地震が起こる。諸侯が互いに侵すことを不承と言い、その食は三度毀れ三度復する。君主が善を憎むこと、下が上を謀ることを乱と言い、その食は既で、先に雹が降り、走獣を殺す。君主を弑して位を得ることを逆と言い、その食は既で、先に風雨が木を折り、日が赤くなる。内臣が外に向かうことを背と言い、その食は食いながら雨が降り、地中が鳴る。冢宰が専政することを因と言い、その食は先に大風が吹き、食う時に日が雲の中にあり、四方に雲がない。伯正が職を越えることを分威と言い、その食は日中に分かれる。諸侯が上で美を争うことを泰と言い、その食は日が月を傷つけ、食い半分、天が営々と鳴る。賦税が得られないことを竭と言い、その食は星が従って下る。受命の臣が専征して試みる場合、その食は侵されても光はなお明るく、文王の臣が独り紂を誅したようである。小人が順に受命してその君を征伐して殺す場合、その食は五色で、大寒に至り霜が降り、紂の臣が武王に順じて紂を誅したようである。諸侯が制度を変えることを叛と言い、その食は三度復し三度食い、食い終わって風が吹き、地が動く。嫡が庶に譲ることを生欲と言い、その食は日が位を失い、光が暗く、月の形が現れる。酒に節度がないことを荒と言い、その蝕は青くなったり黒くなったり赤くなったりし、明日大雨が降り、霧が立ち寒くなる。」およそ食いの占いは二十種、その形は二十四あり、改めればただちに除かれる。改めなければ三年、三年改めなければ六年、六年改めなければ九年。隠公三年の日食を推すと、中央を貫き、上下が尽きて黒く、臣が弑逆を中から成す形である。後に衛の州吁が君主を弑して立った。
桓公三年「七月壬辰朔、日食があり、既(皆既)となった」。董仲舒と劉向は、前の事が既に大きく、後に来る事がまた大きい場合に既になるとした。先に魯・宋が君主を弑し、魯はさらに宋の乱を成し、許の田を易え、天子に事える心を失った。楚が王を僭称した。後に鄭が王の師を拒み、桓王を射、また二君が相次いで簒奪した。劉歆は六月とし、趙と晋の分であるとした。先に、晋の曲沃伯が再び晋侯を弑し、この歳に晋は大乱し、その宗国を滅ぼした。京房の易伝は、桓公三年の日食は中央を貫き、上下が尽きて黄く、臣が弑逆を成し遂げられなかった形であるとした。後に楚の厳(荘)が王を称し、千里の地を兼ねた。
十七年「十月朔,日有食之」。穀梁伝は言う、朔を言って日を言わないのは、二日に食が起こったからであると。劉向は、この時衛侯の朔が罪があって斉に奔り、天子が衛の君を改めて立てた。朔が五国の力を借りて、兵を挙げてこれを伐ち自ら立ったので、王命は遂に壊れた。魯の夫人が斉で淫行をなし、ついに威公を殺したことによるものと考えた。董仲舒は、朔を言って日を言わないのは、魯の桓公に夫人の禍が起こり、終日を全うしないことを憎んだからであると考えた。劉歆は、楚と鄭の分野であると考えた。
厳公十八年「三月,日有食之」。穀梁伝は言う、日を言わず、朔を言わないのは、夜に食が起こったからである。史官が推算して合朔が夜にあり、明くる朝に日食が起こって出て、出てから解けたので、これを夜食という。劉向は、夜食というのは、陰が日の明るさの衰えに乗じてその光を奪うもので、周の天子が明らかでなく、斉の桓公がその威を奪い、諸侯を専ら会して覇道を行おうとする象であると考えた。その後、桓公は遂に九たび諸侯を会合させ、天子は世子をしてこれに会わせた。これがその効験である。公羊伝は晦に食が起こったと言う。董仲舒は、宿が東壁にあり、魯の象であると考えた。後に公子の慶父と叔牙が果たして夫人と通じて公を脅迫した。劉歆は、晦の日、魯と衛の分野であると考えた。
二十五年「六月辛未朔,日有食之」。董仲舒は、宿が畢にあり、辺境の兵と夷狄の象を主るものと考えた。後に狄が邢と衛を滅ぼした。劉歆は、五月二日、魯と趙の分野であると考えた。
二十六年「十二月癸亥朔,日有食之」。董仲舒は、宿が心にあり、心は明堂であり、文武の道が廃れ、中国が糸のように細く絶えず続く象であると考えた。劉向は、この時戎が曹を侵し、魯の夫人が慶父と叔牙と淫行をなし、まさに君を弑さんとしようとしたので、この年と翌年に再び蝕が起こって戒めを示したものと考えた。劉歆は、十月二日、楚と鄭の分野であると考えた。
三十年「九月庚午朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、後に魯で二人の君が弑され、夫人が誅され、二人の弟が死に、狄が邢を滅ぼし、徐が舒を取って、晋が世子を殺し、楚が弦を滅ぼしたことによるものと考えた。劉歆は、八月、秦と周の分野であると考えた。
僖公五年「九月戊申朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、これ以前に斉の桓公が覇を行い、江・黄が自ら服従し、南方の強楚を服属させたことを背景とする。その後、内政を正さず、外では陳の大夫を拘束したため、陳と楚が従わず、鄭伯が盟約から逃れ、諸侯が桓公の政治に従わなくなるであろうから、天が戒めを示したのだと考える。その後、晋が虢を滅ぼし、楚が許を滅ぼし、諸侯が鄭を討ち、晋で二人の君主が弑され、狄が温を滅ぼし、楚が黄を討ったが、桓公は救うことができなかった。劉歆は、七月に秦・晋の分野であるとする。
十二年「三月庚午朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、この時に楚が黄を滅ぼし、狄が衛・鄭を侵し、莒が杞を滅ぼしたことによるものとする。劉歆は、三月に斉・衛の分野であるとする。
十五年「五月,日有食之」。劉向は、これは晋の文公が覇道を行おうとし、後に衛を討ち、曹伯を拘束し、城濮で楚を破り、再び諸侯を会合させ、天王(周王)を召して朝見させたことの前兆であると考える。日食は臣下の悪であり、夜食はその罪を覆い隠すもので、上に明王がいない時、桓公・文公のような者が覇道を行い、夷狄を退け、中国を安んじることは、正統ではないとしても許される、これは『春秋』が実質では認めながら、形式的には認めないという義である。董仲舒は、後に秦が晋侯を捕らえ、斉が項を滅ぼし、楚が婁林で徐を破ったことによるものとする。劉歆は、二月朔に斉・越の分野であるとする。
文公元年「二月癸亥,日有食之」。董仲舒と劉向は、これ以前に大夫が初めて国政を執り、公子遂が京師へ赴き、後に楚の世子商臣が父を殺し、斉の公子商人が君を弑して皆自立し、宋の子哀が出奔し、晋が江を滅ぼし、楚が六を滅ぼし、大夫の公孫敖・叔彭生がともに会盟を専断したことによるものとする。劉歆は、正月朔に燕・越の分野であるとする。
十五年「六月辛丑朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、後に宋・斉・莒・晋・鄭において八年の間に五人の君主が殺害され、舒蓼が夷滅されたことによるものとする。劉歆は、四月二日に魯・衛の分野であるとする。
宣公八年「七月甲子の日、日食があり、皆既食となった」。董仲舒と劉向は、これ以前に楚の商臣が父を弑して即位し、厳王に至って強大になったためだと考える。諸夏の大国は斉と晋だけだったが、斉と晋は新たに簒奪や弑逆の禍を抱え、国内がまだ安定していなかった。そのため楚はその弱みに乗じて横行し、八年の間に六度侵伐し、一国を滅ぼした。陸渾の戎を討ち、周王室に兵を観兵し、後にまた鄭に入り、鄭伯は肉袒して謝罪した。北では邲で晋軍を破り、流れる血で水の色が変わった。宋を九月に包囲し、骸を析いて炊事に用いた。劉歆は十月二日、楚と鄭の分界だと考える。
十年「四月丙辰の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、陳で夏徴舒がその君を弑し、楚が蕭を滅ぼし、晋が二国を滅ぼし、王札子が召伯と毛伯を殺したためだと考える。劉歆は二月、魯と衛の分界だと考える。
十七年「六月癸卯の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、邾が鄫子を支解し、晋が貿戎で王師を破り、鞍で斉を破ったためだと考える。劉歆は三月の晦朓、魯と衛の分界だと考える。
成公十六年「六月丙寅朔の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、晋が鄢陵で楚と鄭を破り、魯侯を捕らえたためだと考える。劉歆は四月二日、魯と衛の分界だと考える。
十七年「十二月丁巳朔の日、日食があった」。董仲舒と劉向は、その後、楚が舒庸を滅ぼし、晋がその君を弑し、宋の魚石が楚を頼りに君の邑を奪い、莒が鄫を滅ぼし、斉が萊を滅ぼし、鄭伯が弑されて死んだためだと考える。劉歆は九月、周と楚の分界だと考える。
襄公十四年「二月乙未朔,日有食之」。董仲舒と劉向は、後に衛の大夫である孫と甯が共に献公を追放し、孫剽を立てたことによるものと考えた。劉歆は、前年の十二月二日に宋と燕の分界にあたると考えた。
十五年「八月丁巳,日有食之」。董仲舒と劉向は、これに先立って晋が雞澤の会合を開き、諸侯が盟約を結び、さらに大夫も盟約を結んだこと、後に溴梁の会合では、諸侯がいるのに大夫だけが互いに盟約を結び、君主が旗の垂れ飾りのようで、手を挙げることができなかったことによるものと考えた。劉歆は、五月二日に魯と趙の分界にあたると考えた。
二十年「十月丙辰朔,日有食之」。董仲舒は、陳の慶虎と慶寅が君主の明察を妨げ、邾の庶其に謀反の心があったことによるものと考えた。後に庶其は漆と閭丘を携えて逃亡し、陳は二慶(慶虎・慶寅)を殺した。劉歆は、八月に秦と周の分界にあたると考えた。
二十一年「九月庚戌朔,日有食之」。董仲舒は、晋の欒盈が君主を犯そうとしたことによるものと考えた。後に欒盈は曲沃に入った。劉歆は、七月に秦と晋の分界にあたると考えた。
「十月庚辰朔,日有食之」。董仲舒は、宿が軫と角にあり、楚という大国の象徴であることによるものと考えた。後に楚の屈氏が讒言して公子追舒を殺させ、斉の慶封が君主を脅迫して国を乱した。劉歆は、八月に秦と周の分界にあたると考えた。
二十三年「二月癸酉朔、日食があった」。董仲舒は、後に衛侯が陳儀に入り、甯喜がその君主の剽を弑したことと関連づけた。劉歆は、前年の十二月二日に宋・燕の分野で起こったと解した。
二十四年「七月甲子朔、日食があり、皆既食となった」。劉歆は、五月に魯・趙の分野で起こったと解した。
「八月癸巳朔、日食があった」。董仲舒は、この食がまた皆既食であったことを、陽(天子の徳)が絶えようとする兆しであり、夷狄が上国(天子の国)を主導する象であると解した。後に六人の君主が弑され、楚子が果たして諸侯を率いて鄭を伐ち、舒鳩を滅ぼし、魯が楚に朝見し、ついに中国を主導し、呉を伐って慶封を討った。劉歆は、六月に晋・趙の分野で起こったと解した。
二十七年「十二月乙亥朔、日食があった」。董仲舒は、礼義が大きく滅び絶えようとする象であると解した。当時、呉子は勇を好み、刑人に門を守らせた。蔡侯は世子の妻と通じた。莒は早く後継ぎを立てなかった。後に閽人が呉子を殺害し、蔡の世子の般がその父を弑し、莒の人々も君主を弑して庶子が争った。劉向は、二十年からこの年までの八年間に日食が七度起こったのは、禍乱が重ねて起ころうとしているため、天がなおも戒めを示したのだと解した。後に斉の崔杼が君主を弑し、宋が世子を殺し、北燕伯が出奔し、鄭の大夫が外から入って位を簒奪したことは、おおよそ董仲舒の解釈の通りであった。劉歆は、九月に周・楚の分野で起こったと解した。
昭公七年「四月甲辰朔、日食があった」。董仲舒と劉向は、これに先立って楚の霊王が君主を弑して立ち、諸侯を会合させ、徐子を捕らえ、頼を滅ぼし、後に陳の公子の招が世子を殺し、楚がそれによって陳を滅ぼし、また蔡を滅ぼし、後に霊王もまた弑されて死んだことと関連づけた。劉歆は、二月に魯・衛の分野で起こったと解した。伝(『左伝』)に曰く、晋侯が士文伯に問うて言った。「誰が日食の災いを受けるのか?」 答えて言った。「魯と衛が悪いでしょう。衛が大きく、魯が小さい。」 公が言った。「何故か?」 答えて言った。「衛の地を去り、魯の地に入ります。そこで災いがあるでしょう。それは衛の君主でしょうか?魯は上卿でしょう。」 この年、八月に衛の襄公が卒し、十一月に魯の季孫宿が卒した。晋侯が士文伯に言った。「私が問うた日食のことは当たった。これは常に当てはまるのか?」 答えて言った。「できません。六つの物事が異なり、民心が一つでなく、事の順序が同じでなく、官職の守りが定まらず、始まりは同じでも終わりが異なるのです。どうして常に当てはまりましょうか?『詩経』に『ある者は安らかに居て休み、ある者は力を尽くして国に仕える』とあります。その終わりの異なることはこのようなものです。」 公が言った。「六物とは何を言うのか?」 答えて言った。「
歳、時、日、月、星、辰、これらを辰という。」公が言った。「辰とは何か。」答えて言った。「日月の会合する所を辰という。」公が言った。「詩にいう『この日食する、何ぞ臧からざる』とは、どういうことか。」答えて言った。「不善の政をいうのである。国に善政がなく、善を用いないと、自ら日月の災いに適する(招く)ことになる。だから政は慎まざるを得ない。務めは三つだけである。一つは人を選ぶこと、二つは民に因ること、三つは時に従うこと。」これは日食の占いを推し、変異を回復する要諦を述べたものである。《易》に言う。「天に懸かる象で明らかなものは、日月より大きいものはない。」だから聖人はこれを重んじ、三つの経書に載せている。易では、豊の卦の震の爻に言う。「豊かなるそのおおい、日中に昧(暗い星)を見る。その右肱を折るも、咎なし。」詩の十月の交わりでは、卿士・司徒から下は趣馬・師氏に至るまで、皆その材に非ざることを著している。これは右肱の折られることと同じであり、三つの務めで選ぶべきことと合致し、小人が君子に乗り、陰が陽を侵す根源を明らかにしている。
十五年「六月丁巳の朔、日食があった」。劉歆は、三月で魯・衛の分野と考える。
十七年「六月甲戌の朔、日食があった」。董仲舒は、この時、宿は畢にあり、晋国の象であると考える。晋の厲公が四大夫を誅殺し、衆心を失い、弑殺されて死んだ。その後、誰も再び大夫を責めることを敢えてせず、六卿は遂に互いに比周し、晋国を専断し、君主はかえって彼らに仕えた。日が続けて二度食したが、その事は春秋の後なので、経には載せていない。劉歆は、魯・趙の分野と考える。左氏伝に平子が言う。「ただ正月の朔に、慝が未だ起こらず、日食がある時には、この時、天子は膳を供さず、社で鼓を打ち、諸侯は社で幣を用い、朝で鼓を打つ。これが礼である。それ以外の月の日食ではそうしない。」太史が言う。「この月のことである。日が分(春分)を過ぎて未だ至らず(夏至に至らず)、三辰(日月星)に災いがある時は、百官は降物(盛装をやめ)、君は膳を供さず、避けて時を移し、楽を奏して鼓を打ち、祝が幣を用い、史が辞を用い、嗇夫は馳せ、庶人は走る。これがこの月の朔の謂いである。夏の四月に当たり、これを孟夏という。」説に曰く。正月とは周の六月、夏の四月、正陽純乾の月をいう。慝とは陰爻をいう。冬至に陽爻が初め起こるので、復という。建巳の月(四月)に至って純乾となり、陰爻がなく、陰が陽を侵すと、災いが重いので、鼓を打ち幣を用い、陰を責める礼を行う。降物とは素服である。不挙とは楽を去ること。避移時とは正堂を避け、時が移り災いが回復するのを待つこと。嗇夫とは幣を掌る吏。庶人とはその徒役である。劉歆は、六月二日で魯・趙の分野と考える。
二十一年「七月壬午の朔、日食があった」。董仲舒は、周の景王が老い、劉子・単子が権力を専断し、蔡侯朱が驕り、君臣が悦ばない象であると考える。後に蔡侯朱は果たして出奔し、劉子・単子は王猛を立てた。劉歆は、五月二日で魯・趙の分野と考える。
二十二年「十二月癸酉の朔、日食があった」。董仲舒は、宿が心にあり、天子の象であると考える。後に尹氏が王子朝を立て、天王は狄泉に居た。劉歆は、十月で楚・鄭の分野と考える。
二十四年「五月乙未朔、日食があった」。董仲舒は、宿が胃宿にあり、魯の象であると考えた。後に昭公が季氏によって追放された。劉向は、十五年からこの年までの十年間に天の戒めが七度現れたのに、君主がまだ悟らなかったと考える。後に楚が戎蛮子を殺し、晋が陸渾戎を滅ぼし、盗賊が衛侯の兄を殺し、蔡と莒の君主が出奔し、呉が巣を滅ぼし、公子光が王僚を殺し、宋の三人の臣下が邑を以てその君主に背いた。その他は仲舒の説と同じ。劉歆は、二日は魯・趙の分野であると考える。この月は斗建が辰である。左氏伝によれば、梓慎が「大水になるだろう」と言い、昭子が「旱魃である。日が分点を過ぎても陽がまだ克てないので、克てば必ず甚だしく、旱魃にならないことがあろうか!陽が克てないので、陰が積聚するのだ」と言った。この年の秋、大雩の祭りがあり、旱魃であった。二至(冬至・夏至)二分(春分・秋分)に日食があっても、災いとはならない。日月の運行は、春秋分には昼夜が等しいので、同道する;冬夏至には昼夜の長短が極まるので、相過する。相過同道して食が軽いのは、大災いではなく、水害や旱害だけである。
三十一年「十二月辛亥朔、日食があった」。董仲舒は、宿が心宿にあり、天子の象であると考えた。当時、京師は微弱で、後に諸侯が果たして相率いて周の城を築き、宋の中幾は天子を尊ぶ心を失い、城を衰えさせなかった。劉向は、当時、呉が徐を滅ぼし、蔡が沈を滅ぼし、楚が蔡を包囲し、呉が楚を破って郢に入り、昭王が逃げ出したと考える。劉歆は、二日は宋・燕の分野であると考える。
定公五年「三月辛亥朔、日食があった」。董仲舒・劉向は、後に鄭が許を滅ぼし、魯の陽虎が乱を起こし、宝玉と大弓を盗み、季桓子が仲尼を退け、宋の三人の臣下が邑を以て背いたと考える。劉歆は、正月二日は燕・趙の分野であると考える。
十二年「十一月丙寅朔、日食があった」。董仲舒・劉向は、後に晋の三大夫が邑を以て背き、薛がその君を弑し、楚が頓・胡を滅ぼし、越が呉を破り、衛が世子を追放したと考える。劉歆は、十二月二日は楚・鄭の分野であると考える。
十五年「八月庚辰朔、日食があった」。董仲舒は、宿が柳宿にあり、周室が大いに壊れ、夷狄が諸夏を主る象であると考えた。翌年、中国の諸侯は果たして累累として楚に従って蔡を包囲し、蔡は恐れて州来に遷った。晋人は戎蛮子を捕らえて楚に帰したが、京師は楚である。劉向は、盗賊が蔡侯を殺し、斉の陳乞がその君を弑して陽生を立て、孔子が終に用いられなかったと考える。劉歆は、六月は晋・趙の分野であると考える。
哀公十四年「五月庚申朔、日食があった」。これは麟を獲た後のことである。劉歆は三月二日で斉・衛の分界としている。
春秋十二公の間、二百四十二年に、日食は三十六回あった。穀梁伝では朔が二十六回、晦が七回、夜が二回、二日が一回としている。公羊伝では朔が二十七回、二日が七回、晦が二回としている。左氏伝では朔が十六回、二日が十八回、晦が一回、日付を書かないものが二回としている。
高帝三年十月甲戌晦、日食があった。斗宿二十度で、燕の地にあたる。後二年、燕王臧荼が反乱を起こし誅殺され、盧綰が燕王に立てられたが、後にまた反乱を起こして敗れた。
十一月癸卯晦、日食があった。虚宿三度で、斉の地にあたる。後二年、斉王韓信が楚王に移され、翌年に列侯に降格され、後にまた反乱を起こして誅殺された。
九年六月乙未晦、日食があり、皆既食となった。張宿十三度にあたる。
恵帝七年正月辛丑の朔、日食があり、危宿十三度にあった。谷永は、年の初めの正月の朔日にこれがあるのは三朝にあたり、尊者がこれを忌むと考えた。
五月丁卯、晦の前日、日食があり、ほとんど皆既に近く、七星の初度にあった。劉向は、五月は微かな陰気が起こり始めて至陽を犯すもので、その占いは重いと考えた。その八月に至り、宮車(天子の車)が晏駕(天子の崩御)し、呂氏が嗣君(後継ぎの君主)を詐って置く害があった。京房の易伝に言う、「およそ日食が晦や朔でない時にあるものは、薄と名づける。人君が誅罰を行うのに道理によらず、あるいは賊臣が暴発しようとする時で、日月は同じ宿でなくとも、陰気が盛んになって日光を薄めるのである」。
高后二年六月丙戌の晦、日食があった。
七年正月己丑の晦、日食があり、皆既食で、営室九度にあり、宮室の中を占った。この時、高后はこれを忌み、「これは私のためだ!」と言った。翌年、そのことが応じた。
文帝二年十一月癸卯の晦、日食があり、婺女一度にあった。
三年十月丁酉の晦、日食があり、斗宿二十三度にあった。
十一月丁卯の晦、日食があり、虚宿八度にあった。
後四年四月丙辰の晦、日食があり、東井宿十三度にあった。
七年正月辛未の朔、日食があった。
景帝三年二月壬午の晦、日食があり、胃宿二度にあった。
七年十一月庚寅の晦、日食があり、虚宿九度にあった。
中元年十二月甲寅の晦、日食があった。
中二年九月甲戌の晦、日食があった。
三年九月戊戌の晦、日食があり、ほとんど皆既に近く、尾宿九度にあった。
六年七月辛亥の晦、日食があり、軫宿七度にあった。
後元年七月乙巳の日、晦日の前日に、日食があり、翼宿十七度の位置であった。
武帝の建元二年二月丙戌の朔日、日食があり、奎宿十四度の位置であった。劉向は、奎は卑賤な婦人を表すとし、後に衛皇后が微賤から興り、ついに終わりを全うしない禍いがあったと解釈した。
三年九月丙子の晦日、日食があり、尾宿二度の位置であった。
五年正月己巳の朔日、日食があった。
元光元年二月丙辰の晦日、日食があった。
七月癸未の日、晦の前日、日食があり、翼宿八度にあった。劉向は、前年に高園の便殿が火災に遭ったことと、春秋時代に御廩の火災の後に翼・軫の宿で日食があったことが同じであると考えた。その占いは、内には女の変事があり、外では諸侯に事変があるというものであった。その後、陳皇后が廃され、江都王・淮南王・衡山王が謀反を企て、誅殺された。日食は日中に東北から始まり、半分以上を過ぎ、晡時(午後三時から五時)に回復した。
元朔二年二月乙巳の晦の日、日食があり、胃宿三度にあった。
元朔六年十一月癸丑の晦の日、日食があった。
元狩元年五月乙巳の晦の日、日食があり、柳宿六度にあった。京房の易伝で推すと、この時の日食は太陽の傍ら右側から始まったので、占法では「君主が臣下を失う」という。翌年、丞相公孫弘が薨去した。日食が傍ら左側から始まるのも、君主が臣下を失うことである。上から始まるのは、臣下が君主を失うこと。下から始まるのは、君主が民を失うことである。
元鼎五年四月丁丑の晦の日、日食があり、東井宿二十三度にあった。
元封四年六月己酉の朔、日食があった。
太始元年正月乙巳の晦、日食があった。
四年十月甲寅の晦、日食があり、斗宿十九度にあった。
征和四年八月辛酉の晦、日食があり、食分は鉤のように完全ではなく、亢宿二度にあった。晡時(午後三時頃)に西北から食が始まり、日下晡時(午後五時頃)に元に戻った。
昭帝の始元三年十一月壬辰の朔、日食があり、斗宿九度にあった。これは燕の地の分である。後四年、燕剌王が謀反を企て、誅殺された。
元鳳元年七月己亥の晦、日食があり、ほとんど全食となり、張宿十二度にあった。劉向は己亥の日で既(全食)であることから、その占いは重いと考えた。後六年、宮車(皇帝の車)が晏駕(崩御)し、ついに後嗣を失った。
宣帝の地節元年十二月癸亥の晦、日食があり、営室十五度にあった。
五鳳元年十二月乙酉の朔、日食があり、婺女十度にあった。
四年四月辛丑の朔、日食があり、畢宿十九度にあった。これは正月の朔であり、慝(悪気)がまだ起こっていない時期で、左氏(左伝)では重い異変と見なした。
元帝の永光二年三月壬戌の朔、日食があり、婁宿八度にあった。
四年(前37年)六月戊寅の晦、日食があり、張宿七度にあった。
建昭五年(前34年)六月壬申の晦、日食があり、完全に隠れず鉤のようで、そのまま入った。
成帝の建始三年(前30年)十二月戊申の朔、日食があり、その夜、未央殿で地震があった。谷永が答えて言った。「日食は婺女九度にあり、その占いは皇后にある。地震は蕭牆(宮中の垣)の内にあり、その咎は貴妾にある。二つのことが同時に起こったのは、同じ事柄だが異なる人を指し、共に陽(天子)を制圧し、継嗣を害そうとすることを明らかにしている。もし日食だけなら、妾は現れない。もし地震だけなら、后は現れない。異なる日に起こったなら、別々の事柄のように見える。原因なく変動が起こったなら、恐らく理解できないだろう。今月、后と妾に節度を失う過ちがあるはずなので、天はこの二つの変異をもってその兆しを示したのである。つまり、婦道に背き、多くの妾を遠ざけ、継嗣の道を妨げ絶つ者は、この二人である。」杜欽も答えて言った。「日が戊申に食するのは、時刻が未の刻に当たる。戊と未は土に属し、中宮(皇后の宮)の部類である。その夜、殿中で地震があった。これは必ずや嫡妾が寵を争い、互いに害し合って患いとなるであろう。人事が下で失われれば、変異の象が上に現れる。これに応じて徳を司る者がいれば、咎と異変は消える。軽んじて戒めなければ、禍いと敗亡が至る。これに応じるには、誠がなければ立たず、信がなければ行わない。」
河平元年(前28年)四月己亥の晦、日食があり、完全に隠れず鉤のようで、東井六度にあった。劉向が答えて言った。「四月は五月と交わり、月は孝惠帝の時と同じで、日は孝昭帝の時と同じである。東井は京師の地であり、しかも皆既食である。その占いは、恐らく継嗣を害するであろう。」日食は早朝の食時に始まり、西南から起こった。
三年(前26年)八月乙卯の晦、日食があり、房宿にあった。
四年(綏和元年)三月癸丑の朔、日食があった。昴の宿にあった。
陽朔元年二月丁未の晦、日食があった。胃の宿にあった。
永始元年九月丁巳の晦、日食があった。谷永が京房の易占を用いて答えて言った。「元年九月の日蝕は、酒に節度を失ったことによって引き起こされたものです。ただ京師だけがこれを知り、四方の国々には見えないのは、あたかも言うようである。酒に深くふけり、君臣の別がなく、禍は内にある、と。」
永始二年二月乙酉の晦、日食があった。谷永が京房の易占を用いて答えて言った。「今年二月の日食は、賦斂が度を失い、民が愁い怨んだことによって引き起こされたものです。四方の国々に皆見え、京師だけが陰に蔽われたのは、あたかも言うようである。人君が宮室を造営することを好み、大いに墳墓を営み、賦斂がますます重く、百姓が窮乏し尽くしている。禍は外にある、と。」
三年正月己卯の晦、日食があった。
四年(綏和元年)七月辛未の晦、日食があった。
元延元年正月己亥の朔、日食があった。
哀帝の元寿元年正月辛丑の朔、日食があり、食分が鉤のように欠けきらず、営室の十度にあった。これは恵帝七年と同じ月日である。
二年三月壬辰の晦、日食があった。
平帝の元始元年五月丁巳の朔、日食があり、東井にあった。
二年(綏和二年)九月戊申の晦、日食があり、皆既食となった。
漢代の記録全体では十二代、二百一十二年の間に、日食は五十三回あり、朔に十四回、晦に三十六回、晦の前日に三回あった。
成帝の建始元年八月戊午、夜明け前の時刻(晨漏)がまだ三刻残っている時に、二つの月が重なって現れた。京房の『易伝』に言う。「『婦貞厲、月幾望、君子征、凶』(婦人が貞節を守って危険に遭い、月が満月に近づき、君子が征伐に出れば凶である)とは、君主が弱くて婦人が強く、陰に乗じられることを言い、その時には月が並んで現れる。晦に月が西方に見えるのを朓と言い、朔に月が東方に見えるのを仄慝と言う。仄慝があれば侯王は厳粛にし、朓があれば侯王は緩やかにすべきである。」劉向は、朓は速いことであり、君主が緩慢であれば臣下は驕慢になるので、太陽の運行が遅く月の運行が速くなるのだと考えた。仄慝は進まないという意味であり、君主が厳急であれば臣下は恐懼するので、太陽の運行が速く月の運行が遅くなり、君主に迫ることを敢えてしないのだと考えた。緩やかでもなく急でもなく、正しい状態を失った時に、朔の日に日食が起こるのだと考えた。劉歆は、緩やかというのは侯王が意を伸ばして事に専念し、臣下が急ぎ促すので、月の運行が速くなるのだと考えた。厳粛というのは王侯が萎縮して職務を果たさず、臣下が弛緩して放縦になるので、月の運行が遅くなるのだと考えた。春秋の時代には、侯王は多くが萎縮して職務を果たさなかったので、二日の仄慝による日食が十八回、晦日の朓による日食が一回あった。これがその証拠である。漢代を調べてみると、晦日の朓による日食は三十六回あり、ついに二日の仄慝による日食はなかった。劉歆の説は信じられる。これらは皆、日月の運行が乱れることを言うものである。
元帝の永光元年四月、日の色が青白く、影がなく、正午の時に影はあるが光がなかった。この夏は寒く、九月になってようやく日が光った。京房の『易伝』に言う。「美が上(君主)に及ばないことを『上弱』と言い、その異変は日が白くなり、七日間温かくならない。順(臣下)が制する所がなくなることを『弱』と言い、日が白く六十日間続き、物が霜もないのに死ぬ。天子が親征することを『不知』と言い、日が白く、体が動いて寒くなる。弱いのに任があることを『不亡』と言い、日が白く温かくならず、明るく動かない。辟(君主)が公の行いを怠ることを『不伸』と言い、その異変は日が黒くなり、大風が起こり、天に雲がなく、日光が暗くなる。上(君主)の政を難じないことを『見過』と言い、日が黒く側にあり、大きさが弾丸のようである。」
成帝の河平元年正月壬寅の朔、太陽と月がともに営室(うつぼや、二十八宿の一つ)にあり、その時、日の出が赤かった。二月癸未、朝の日が赤く、かつ日没もまた赤く、夜の月も赤かった。甲申、日の出が血のように赤く、光がなく、漏刻(時計)で四刻半が過ぎてから、ようやく少し光があり、地を照らす光は赤黄色で、食事の後になってようやく元に戻った。京房の『易伝』に言う。「君主が道を聞かないことを『亡』と言い、その異変は日が赤くなる。」三月乙未、日の出が黄色で、黒い気が銭ほどの大きさで、太陽の中央にあった。京房の『易伝』に言う。「天を祭ることが順調でないことを『逆』と言い、その異変は日が赤く、その中が黒い。善を聞いて与えないことを『失知』と言い、その異変は日が黄色くなる。」そもそも大人(徳の高い人)は、天地とその徳を合わせ、日月とその明るさを合わせる。だから聖王が上にいて、多くの賢人を総括して任命し、天の功業を助けるならば、太陽の光明は五色が備わり、主なく輝き照らす。主があれば異変となり、行いに応じて変化するのである。色は虚しく変わらず、形は虚しく毀れない。太陽の五色の変化を観察すれば、十分に鑑みることができる。だから「天に懸けられた象が明らかに示されるものは、日月より大きいものはない」と言うのであり、これがその謂いである。
厳公(荘公)七年の四月辛卯の夜、恒星が見えず、夜中に星が雨のように降った。董仲舒と劉向は、常星である二十八宿は君主の象徴であり、多くの星は万民の類であると考えた。列宿が見えないのは、諸侯が衰微する象徴であり、多くの星が墜ちるのは、民がその居場所を失うことである。夜中というのは、中国を指す。地に届かずに戻るのは、斉の桓公が立ち上がって救い存続させる象徴である。もし桓公がいなかったなら、星は遂に地に至り、中国はまさに絶えてしまったであろう。劉向は、夜中というのは、天命を全うできず、中途で敗れることを言うと考えた。あるいは、その反逆を象徴し、中途で主君に背くことを言うのである。天は象を垂れて下を見せ、君主に悪を防ぎ非を遠ざけ、慎み深く微細な点を省みて、自ら全う安泰になるよう望んでいるのである。もし君主に賢明な才能があり、天威と天命を畏れ、高宗が祖己に謀り、成王が金縢の書を前に泣いたように、過ちを改めて正道を修正し、信義を立てて徳を広め、滅びた国を存続させ絶えた家系を継ぎ、廃れたものを修め逸れたものを挙げ、下に学んで上に通じ、十分の一の税を裁き、三日の労役を復し、用を節約し服を倹約して、百姓に恵みを施すならば、諸侯は徳を懐き、士民は仁に帰し、災いは消えて福が興るであろう。しかし遂に誰も改悟しようとせず、古人の法則に従わず、各自が私意を行い、ついに君臣が乖離し、上下が互いに怨むことになった。これ以降、斉や宋の君主が弑され、譚・遂・邢・衛の国が滅び、宿が宋に遷され、蔡が楚に獲られ、晋では相が弑殺し合い、五世を経てようやく定まった。これがその効果(証拠)である。左氏伝に言う。「恒星が見えないのは、夜が明るいからである。星が雨のように降るのは、雨と共にあるからである。」劉歆は、昼は中国を象徴し、夜は夷狄を象徴すると考えた。夜が明るいので、常に見える星が見えなくなり、中国の衰微を象徴する。「星隕如雨」の「如」は「而」であり、星が降りかつ雨が降るので、「雨と共にある」と言うのである。雨と星の降るという二つの変異が相成っていることを明らかにしている。洪範に言う。「庶民は星のごとし。」易に言う。「雷雨起こり、解く。」この年の歳星は玄枵にあり、斉の分野である。夜中に星が降るのは、庶民が中途で上に離れることを象徴する。雨は過ちを解き施し、再び上下に従う。斉の桓公が覇を行い、周室を復興させることを象徴する。周の四月は、夏の二月である。太陽は降婁にあり、魯の分野である。これに先立ち、衛侯の朔が斉に奔り、衛の公子の黔牟が立った。斉は諸侯を率いてこれを伐ち、天子は使者を遣わして衛を救わせた。魯の公子の溺が専政し、斉と会して王命を犯した。厳公(荘公)はこれを止めることができず、ついに従って衛を伐ち、天王の立てた者を追いやった。不義は極まり、自ら功と為した。名はその上を去り、政は下より作られる。特に著しい。故に星が魯に降ったのである。天事は常に象を示すのである。
成帝の永始二年二月癸未、夜が更けて中天を過ぎた頃、星が雨のように降り、長さ一二丈、次々と地に至らずに消え、鶏が鳴くまで止んだ。谷永が答えて言った。「日月星辰は下土を照らし臨み、その食や隕落の異変があれば、遠近幽隠の地もことごとく見ないところはない。星辰が天に付き従うのは、ちょうど庶民が王者に付き従うようなものである。王者が道を失い、綱紀が廃れて弛緩すれば、下の者が叛き去ろうとする。故に星が天に叛いて隕落し、その象を示すのである。春秋は異変を記すが、星の隕落が最も大きく、魯の厳公(荘公)以来、今に至るまで再び見られた。臣が聞くところでは、三代が喪亡した原因は、皆、婦人や小人の群れにあり、酒に耽溺したことによる。書経に云う。『乃ち其の婦人の言を用い、四方の逃亡したる多罪の者を、是を信じ是を使う。』詩経に曰く。『赫赫たる宗周、褒姒これを滅ぼす。』『其の徳を顛覆し、酒に荒沈す。』及び秦が二世で亡んだ原因は、生を養うことが大いに奢り、終わりを奉ることが大いに厚かったことによる。方今、国家はこの両方を兼ね備えている。社稷宗廟の大きな憂いである。」京房の易伝に曰く。「君、賢を任ぜざれば、その妖、天、星を雨らす。」
文公十四年「七月、星の孛(ハイ)が北斗に入る」。董仲舒は、孛は悪気の生じたものと考えた。これを孛と呼ぶのは、孛孛として防ぎ蔽うものがあり、暗く乱れて明らかでない様子を言うのである。北斗は大国の象徴である。その後、斉・宋・魯・莒・晋がみな君主を弑した。劉向は、君臣が朝廷で乱れ、政令が外で損なわれると、上は三光(日月星)の精気を濁らせ、五星は盈縮し、色を変え逆行し、甚だしければ孛となる、と考えた。北斗は人君の象徴、孛星は乱臣の類いで、簒奪殺害の兆しである。星伝に「魁は貴人の牢獄である」と言い、また「孛星が北斗の中に見えるときは、大臣諸侯に誅殺される者がある」と言う。一説に魁は斉・晋を表す。彗星が明らかに北斗の中にあるのは、天が人を見るのが顕著であり、史官の占いが明らかなのに、時の君主はついに悟りを改めなかった。この後、宋・魯・莒・晋・鄭・陳の六国がみなその君主を弑し、斉は二度弑された。中国が乱れると、夷狄がともに侵し、戦争が縦横に起こり、楚は威勢に乗り勝利に座して、深く諸夏に入り、六度侵伐し、一国を滅ぼし、周王室に兵威を示した。晋は外で二国を滅ぼし、内では王師を破り、また三国の兵を連ねて鞍で斉の軍を大敗させ、敗走する敵を追撃し、東は海水に臨み、威勢は京師を陵ぎ、武力は大斉を折った。これらはみな孛星の炎が及んだもので、その影響は二十八年にまで流れた。星伝にまた言う:「彗星が北斗に入れば、大戦がある。その流れが北斗の中に入れば、名人を得る;入らなければ、名人を失う。」宋の華元は賢名ある大夫であったが、大棘の戦いで華元は鄭に捕らえられた。伝はその効験を挙げて言う。左氏伝に星の孛が北斗にあると言い、周の史官の服が言うには:「七年を出ずして、宋・斉・晋の君主はみな乱死するであろう。」劉歆は、北斗には環域があり、四星がその中に入ると考えた。斗は天の三辰で、綱紀の星である。宋・斉・晋は天子の方伯で、中国の綱紀である。彗は旧を除き新を布くものである。斗は七星だから、七年を出ないと言うのである。十六年に至り、宋人が昭公を弑し;十八年に、斉人が懿公を弑し;宣公二年に、晋の趙穿が霊公を弑した。
昭公十七年「冬、星が大辰に孛(すい星)した」。董仲舒は、大辰は心宿であり、心宿は明堂にあり、天子の象徴であると考えた。後に王室が大いに乱れ、三王が分かれて争ったのは、これがその効験である。劉向は、星伝に「心宿の大星は天王である。その前の星は太子、後の星は庶子である。尾宿は君臣が乖離することを表す」とあるのを根拠に、孛星が心宿に加わったのは、天子と庶子が分かれて争う象徴であると考えた。諸侯に関しては、角宿・亢宿・氐宿は陳・鄭を、房宿・心宿は宋を表す。その後五年、周の景王が崩御し、王室が乱れ、大夫の劉子・単子が王猛を立て、尹氏・召伯・毛伯が子晁(王子朝)を立てた。子晁は楚の出である。当時楚は強勢で、宋・衛・陳・鄭は皆南の楚に附いた。王猛が既に卒すると、敬王が即位したが、子晁が王城に入り、天王(敬王)は狄泉に居て、誰も彼を迎え入れる者はなかった。五年後、楚の平王居が卒すると、子晁は楚に奔り、王室はようやく定まった。その後、楚が六国を率いて呉を伐ち、呉は鶏父でこれを破り、その君臣を殺し捕らえた。蔡は楚を怨んで沈を滅ぼし、楚は怒って蔡を包囲した。呉人がこれを救い、遂に柏挙の戦いとなり、楚軍を破り、郢都を屠り、昭王の母を妻とし、平王の墓を鞭打った。これらは皆、孛彗の流炎が及んだ効験である。左氏伝に曰く、「星が大辰に孛し、西は漢(天の川)に及んだ。申繻が曰く、『彗星は、旧を除き新を布くものであり、天事は常に象を示す。今、火(心宿)を除くので、火が出れば必ず布くであろう。諸侯に火災があるのではなかろうか?』梓慎が曰く、『往年私が見たのが、その徴候である。火が出て見え、今年は火が出て明らかである。必ず火が入って伏す時があり、それは火の位置に長く居ることであろう。そうでないことがあろうか?火が出るのは、夏暦では三月、殷暦では四月、周暦では五月である。夏の暦数は天に得ている。もし火事が起こるとすれば、四国がそれに当たるであろう。宋・衛・陳・鄭ではなかろうか?宋は大辰の虚(故地)、陳は太昊の虚、鄭は祝融の虚、皆火の房(宿舎)である。星の孛が漢に及んだ。漢は水の祥である。衛は顓頊の虚で、その星は大水である。水は火の牡(雄)である。それは丙子か壬午に起こるのではなかろうか?水と火は合うものである。もし火が入って伏すならば、必ず壬午であろう。その月を過ぎては見えないであろう』」。翌年「夏五月、火(心宿)が初めて夕方に見え、丙子に風が吹いた。梓慎が曰く、『これは融風と言い、火の始まりである。七日後に火事が起こるのではなかろうか?』戊寅に風が甚だしく、壬午には非常に甚だしく、宋・衛・陳・鄭は皆火事に見舞われた」。劉歆は、大辰は房宿・心宿・尾宿であり、八月に心星が西方にあり、孛星はその西から心宿を過ぎ東へ漢に及んだと考えた。宋が大辰の虚とは、宋の先祖が大辰星の祭祀を掌ったことを言う。陳が太昊の虚とは、伏羲が木徳で、火が生じる所である。鄭が祝融の虚とは、高辛氏の火正である。故に皆火の宿るところとなった。衛が顓頊の虚で、星が大水、すなわち営室である。天の星がこのようであり、また四国が政を失うことが相似て、王室の乱れに及ぶことも皆同じであった。
哀公十三年「冬十一月、星が東方に孛した」。董仲舒・劉向は、宿の名を言わないのは、宿に加わらないからであると考えた。辰が日を乗じて出て、乱れた気が君の明を蔽うのである。翌年、春秋の事は終わる。一説には、周の十一月は夏の九月で、日は氐宿にある。東方に出るのは、軫宿・角宿・亢宿である。軫宿は楚、角宿・亢宿は陳・鄭を表す。あるいは角宿・亢宿は大国の象で、斉・晋を表すとも言う。その後、楚が陳を滅ぼし、田氏が斉を簒奪し、六卿が晋を分けたのは、これがその効験である。劉歆は、孛星は東方の大辰であり、大辰と言わないのは、旦(明け方)に見えて日と光を争い、星が入っても彗星がなお見えるからであると考えた。この年は閏月を二度失い、十一月は実は八月であった。日は鶉火にあり、周の分野である。十四年冬、「星が孛した」のは、獲麟の後である。劉歆は、所在を言わないのは、官が記録を失ったためであると考えた。
高祖三年(紀元前204年)七月、大角(星)に彗星が現れ、十日余りしてようやく消えた。劉向は、この時、項羽が楚王となり諸侯を統率していたが、漢はすでに三秦を平定し、項羽と滎陽で対峙し、天下の人心が漢に帰していたため、楚が滅びようとしていたので、彗星が王位を除く(掃う)ものだと解した。一説には、項羽が秦の兵卒を生き埋めにし、宮殿を焼き、義帝を弑し、王位の秩序を乱したので、彗星がそれに加わったのだという。
文帝後七年(紀元前157年)九月、西方に彗星が現れた。その根本は尾宿・箕宿に直にあり、先端は虚宿・危宿を指し、長さ一丈余りで、天漢(銀河)に達し、十六日間見えなかった。劉向は、尾宿は宋の地(現在の楚の彭城(ほうじょう))を、箕宿は燕を、また呉・越・斉を表すと考えた。これらの星宿は漢の領内にあり、海に面した国々の水沢の地を表す。この時、景帝が新たに即位し、晁錯を信用して、諸侯王を誅罰し正そうとしていたので、その兆しが先に現れたのだ。その後三年(紀元前154年)、呉・楚・四つの斉と趙の七国が兵を挙げて反乱を起こし、皆誅殺され滅ぼされたという。
武帝建元六年(紀元前135年)六月、北方に彗星が現れた。劉向は、翌年、淮南王劉安が入朝し、太尉武安侯田蚡と邪な謀議をめぐらし、また陳皇后が驕り高ぶって勝手な振る舞いをしたため、その後、陳皇后が廃され、淮南王が反乱を起こして誅殺されたのだと考えた。
八月、長星(流星か彗星)が東方に現れ、その長さが天を終わらせるほどで、三十日後に去った。占いでは、「これは蚩尤旗であり、現れると王者が四方を征伐する」という。その後、兵を起こして四方の夷狄を誅伐すること数十年に及んだ。
元狩四年(紀元前119年)四月、長星がまた西北に現れた。この時、胡を討伐することが特に盛んであった。
元封元年五月、星が東井に彗星として現れ、また三台にも彗星として現れた。その後、江充が乱を起こし、京師は紛然とした。これは、東井と三台が秦の地に効験を示した明らかな証拠である。
宣帝の地節元年正月、星が西方に彗星として現れ、太白星から二丈ほどの距離にあった。劉向は、太白星は大将を象徴し、彗星がそれに加わるのは掃滅の象徴であると考えた。翌年、大将軍の霍光が薨去し、その二年後に一族は滅ぼされた。
成帝の建始元年正月、星が営室に彗星として現れ、青白色で、長さは六七丈、幅は一尺余りであった。劉向と谷永は、営室は後宮の懐妊の象徴であり、彗星がそれに加わるのは、懐妊に害を及ぼし継嗣を絶つ者が出る前兆であると考えた。一説には、後宮が害を受けるという。その後、許皇后が後宮の懐妊者を呪詛した罪で廃された。趙皇后は妹を昭儀に立て、二人の皇子を害し、皇帝はついに後嗣を得られなかった。趙皇后の姉妹は結局みな罪に伏した。
元延元年七月辛未の日、星が東井に彗星として現れ、五諸侯星を踏み、河戍の北を出て軒轅・太微を経て運行し、後日六度余りに及び、朝に東方に現れた。十三日の夕方に西方に見え、次妃・長秋・斗・填の星を犯し、蜂の炎のように再び紫宮の中を貫いた。大火星の後に当たり、天河に達し、妃后の領域を除いた。南へ進んで大角・摂提星を犯し、天市に至って節を按じ徐行し、炎が市中に入り、中旬になってから西へ去り、五十六日後に蒼龍とともに伏した。谷永が答えて言った。「上古以来、大乱の極みとして、希有なことである。その馳騁する歩みを観察すると、芒や炎が或いは長く或いは短く、その歴て犯すところは、内では後宮の女妾の害、外では諸夏の叛逆の禍である。」劉向もまた言った。「三代の滅亡には、摂提星が方角を変え、秦・項羽の滅亡には、星が大角星に彗星として現れた。」この年、趙昭儀が二人の皇子を害した。その五年後、成帝が崩御し、昭儀は自殺した。哀帝が即位すると、趙氏は皆官爵を免ぜられ、遼西に流された。哀帝は後嗣なくして亡くなった。平帝が即位し、王莽が権力を用い、成帝の趙皇后と哀帝の傅皇后を追って廃し、二人は自殺した。外戚の丁氏・傅氏は皆官爵を免ぜられ、合浦に流され、故郡に帰された。平帝は後嗣なくして亡くなり、王莽はついに国を簒奪した。
釐公十六年「正月戊申朔、隕石が宋に落ちた、五つ、この月に六羽の鶂(ガン)が退き飛びながら宋の都を過ぎた」。董仲舒と劉向は、これは宋の襄公が覇道を行おうとして自ら敗れる戒めの象であると考えた。石は陰の類、五は陽の数、上から落ちるのは、陰でありながら陽が行い、高くあろうとしてかえって下るのである。石は金と同類、色は白を主とし、白い祥に近い。鶂は水鳥、六は陰の数、退き飛ぶのは、進もうとしてかえって退くのである。その色は青、青い祥であり、貌の不恭に属する。天の戒めは言うようだ、徳薄く国小さい者は、剛強な陽気を頼みとせず、諸侯の長たらんと欲し、強大な者と争えば、必ずその害を受ける、と。襄公は悟らず、翌年、斉の威公が死ぬと、斉の喪に乗じて攻め、滕子を捕らえ、曹を包囲し、盂の会を開き、楚と盟主の座を争い、ついに捕らえられた。後に国に戻ったが、過ちを悔い改めて自らを責めず、再び諸侯を会して鄭を討ち、楚と泓で戦い、軍は敗れ身は傷つき、諸侯の笑いものとなった。左氏伝に言う:隕石は星である;鶂が退き飛ぶのは風である。宋の襄公は周の内史叔興に問うて言った:「これは何の兆しか?吉凶はどこにあるのか?」答えて言った:「今年は魯に大喪が多いであろう、来年は斉に乱があるであろう、君は諸侯を得るが終わりまで保たないであろう。」退いて人に告げて言った:「これは陰陽の事柄であって、吉凶の生ずる所ではない。吉凶は人によるものである、私は君に逆らうことを敢えてしなかっただけだ。」この年、魯の公子季友、鄫の季姫、公孫茲が皆亡くなった。翌年、斉の威公が死に、嫡子と庶子の乱が起こった。宋の襄公は斉を討って覇を唱え、ついに楚に敗れた。劉歆は、この年、歳星が寿星の位置にあり、その衝(対向位置)が降婁にあると考えた。降婁は、魯の分野である。故に魯に大喪が多いのである。正月、太陽は星紀にあり、厭(圧する星)は玄枵にある。玄枵は、斉の分野である。石は山の物;斉は大嶽(泰山)の後裔である。五つの石は、斉の威公が死んで五公子が乱を起こす象であり、故に来年斉に乱があるのである。庶民は星の如し、宋に落ちるのは、宋の襄公が諸侯の衆を得て、五公子の乱を治める象である。星が落ち鶂が退き飛ぶので、諸侯を得ても終わりまで保たないのである。六羽の鶂は、六年後に覇業が初めて退き、盂で捕らえられる象である。民が徳に背けば乱となり、乱があれば妖災が生ずる。吉凶は人によるものであり、その後に陰陽の衝や厭がその咎を受けると言う。斉、魯の災いは君によるものではない、故に「私は君に逆らうことを敢えてしなかっただけだ」と言うのである。京房の易伝に言う:「諫めを拒み自ら強くする、これを却行(退行)と言い、その異は鶂が退き飛ぶ。ちょうど罷免されるべき時であれば、鶂が退き飛ぶ。」
恵帝三年、隕石が綿諸に落ちた、一つ。
武帝の征和四年二月丁酉、隕石が雍に落ちた、二つ、天は晴れて雲なく、音は四百里に聞こえた。
元帝の建昭元年正月戊辰、隕石が梁国に落ちた、六つ。
成帝の建始四年正月癸卯、隕石が槁に落ちた、四つ、肥累に落ちた、一つ。
陽朔三年(前22年)二月壬戌の日、白馬に隕石が落ちた。八個。
鴻嘉二年(前19年)五月癸未の日、杜衍に隕石が落ちた。三個。
元延四年(前9年)三月、都関に隕石が落ちた。二個。
哀帝の建平元年(前6年)正月丁未の日、北地に隕石が落ちた。十個。その年の九月甲辰の日、虞に隕石が落ちた。二個。
平帝の元始二年(2年)六月、鉅鹿に隕石が落ちた。二個。
恵帝の治世が終わって平帝の時代に至るまで、隕石は合わせて十一回落下し、いずれも光を放ち雷のような音を響かせたが、成帝と哀帝の時代には特に頻繁であった。