巻100下
漢書
敍傳 第七十下
私は、唐虞三代の時代には、詩書に言及される範囲で、世に典籍があり、だからこそ堯や舜のような盛んな時代であっても、必ず典謨の篇があり、それによって後世に名を揚げ、百王の上に徳を冠したのだと考えている。〈
師古
が言うには、「徳が百王の上にあるということだ。」〉だから、「
巍
巍乎としてその成功有り、
煥
乎としてその文章有り」と言うのである。〈師古が言うには、「これは論語に載っている孔子が堯舜を称えた言葉である。」〉漢は堯の運命を継承し、帝業を建てた。六世に至り、史臣が功徳を追述し、私的に本紀を作り、〈師古が言うには、「武帝の時に
司馬遷
が《史記》を作ったことを指す。」〉百王の末に編し、
秦
や
項羽
の列に置かれた。太初以後は、欠けて記録されていない。そこで前の記録を探り集め、聞いたことを綴り集め、〈師古が言うには、「
篹
は撰と同じ、輯は集と同じである。」〉漢書を述べる。
高祖
の元年に始まり、孝平の時代の
王莽
の誅殺に終わる。十二世、二百三十年、その事跡を総合し、五経に広く通じさせ、上下に通じさせ、〈師古が言うには、「固が撰した諸表の序や志に、経典の意義がここにある。」〉春秋考紀、表、志、伝とし、合わせて百篇。〈師古が言うには、「春秋考紀とは、帝紀のことである。俗の学者はこの文を詳しく知らず、『《漢書》の別名は春秋考紀である』などと言うが、それは誤りである。」〉その叙は次のとおり。〈師古が言うには、「『皇矣漢祖』以下の諸叙は、皆班固が自ら漢書を撰述した意図を論じたもので、これは史記の叙目に倣ったものである。司馬遷は『某の事のために某の本紀、某の列伝を作る』と言う。班固は謙遜して、作ると言わずに述べると改めた。おそらく、作者を聖と謂うのを避け、述者を明と謂うのを取ったのであろう。しかし後世の学者はこれが漢書の叙目であることを理解せず、述の字があるのを見て、この文が漢書の事を追述したものだと思い、『漢書述』と呼ぶが、それは大きく誤っている。摯虞でさえこの誤解があったのだから、他の者が怪しむに足りない。」〉
述贊
紀
皇なるかな漢祖(高祖)、堯の緒を纂ぎ、実に天徳を生じ、聡明にして神武。秦人は綱を失い、
楚
に漏れること罔し、〔一〕ここより発跡し、蛇を断ち旅を奮い起こす。神母符を告げ、朱旗乃ち挙がる。粤に秦の郊を蹈み、嬰来たりて稽首す。革命し制を創め、三章これ紀、天に応じ民に順い、五星同じく
晷
を同じくす。〔二〕項氏畔換し、我が
巴
・漢を黜く、〔三〕西土心に宅し、戦士憤怨す。〔四〕釁に乗じて運び、三秦を席卷し、河山を割拠し、この民を懐けて保つ。〔五〕股肱は
蕭何
・
曹参
、
社稷
これ経むるもの、爪牙は
信
・
英布
、腹心は
張良
・陳平、天罰を龔行し、赫赫として明明たり。高紀第一を述ぶ。
〉
孝惠は世を短くし、高后は制を称し、天の顕なることを顧みず、呂宗は以て敗れた。〔一〕惠紀第二、高后紀第三を述ぶ。
〉
太宗は穆穆として、誠に恭しく玄默し、躬を以て民を化し、徳を以て下を帥いた。農は貢を供せず、罪は
孥
を収めず、〔一〕宮は新たに館せず、陵は墓を崇めず。〔二〕我が徳は風の如く、民の応うるは屮の如く、〔三〕国は富み刑は清く、我が漢の道に登る。〔四〕文紀第四を述ぶ。
〉
孝景皇帝が政に臨むと、諸侯は命令に背き、〔一〕七国を討伐して、王室を安定させた。怠ることなく、疎かにすることもなく、農桑に務め、甲令に明記し、民は安寧と健康を得た。〔二〕景紀第五を述べる。
〉
世宗(武帝)は輝かしく、祖業を広げようと考え、〔一〕人材を求め、功業を盛んにし、優れた人材が一
斉
に現れた。〔二〕その功業とは何か?百蛮を撃退し、〔三〕我が疆宇を広げ、四方の遠い地にまで及んだ。〔四〕武功がすでに高く掲げられた後、またこの文教を導き、〔五〕六学を規範とし、聖人の真実を統一した。封禅と郊祀を行い、百神に順序立てて祭祀を捧げ、律を調和させ暦を改め、これにより永年の福を享受した。〔六〕武紀第六を述べる。
〉
孝昭皇帝は幼くして即位し、宰相は忠誠のみを尽くした。
燕
(王旦)と蓋(長公主)は欺瞞を働いたが、実に聡明であり、罪人たちはこれによって捕らえられ、国家は和合した。昭紀第七を述べる。
〉
中宗(宣帝)は聡明で、刑名の学を敬って用い、〔一〕時に賢者を挙用して言論を採り入れ、訴訟の裁断は極めて精妙であった。〔二〕遠方を安んじて近くを善くし、威霊を輝かせ、〔三〕龍城の荒遠なる地や北方の沙漠に至るまで、来朝しない者はなかった。〔四〕偉大なる祖先の功業を顕彰し、なお成し遂げることを尊んだ。〔五〕宣帝紀第八を述べる。
〉
孝元皇帝は慎み深く、高く明らかでありながら柔和に克己し、〔一〕故老を賓客の礼遇で遇し、寛容をもって正直な者を優遇した。〔二〕外では禁苑を削減し、内では御服を減らし、離宮には警備を置かず、山陵には邑を置かなかった。〔三〕宦官の長官の過失が、我が明徳を穢した。〔四〕元帝紀第九を述べる。
〉
孝成皇帝は輝かしく、朝廷に臨むと光り輝き、威儀の盛んなことは、圭や璋のようであった。後宮では
趙
氏がほしいままに振る舞い、朝政は王氏が握り、〔一〕炎々たる燎火も、また確かに陽気を帯びていなかった。〔二〕成帝紀第十を述べる。
〉
孝哀帝は彬彬として、威神をよく掌握し、〔一〕洪大な支族を凋落させ、鼎臣を誅戮に至らしめた。〔二〕婉孌たる董公は、天功を助けるのみで、大過の卦の困窮、実に棟が撓み、実に凶であった。〔三〕哀紀第十一を述べる。
〉
孝平帝は不造にして、新都侯が宰となり、周公にも伊尹にも及ばず、我が四海を喪った。〔一〕平紀第十二を述べる。
〉
表
漢が初めて天命を受け、諸侯が並び立って政治を行い、制度は項氏に始まり、十八の姓があった。異姓諸侯王表第一を述べる。
太祖(高祖)の元勲は、輔臣を立てて開き、支族や庶子は藩屏となり、侯王は並んで尊ばれた。諸侯王表第二を述べる。
侯王の福は、宗子(嫡子)にまで及び、公族は繁栄し、枝葉は大きく茂った。〔一〕王子侯表第三を述べる。
〉
天命を受けた初め、功績を称えて符節を割き、代々にわたる大きな業績により、爵位と領土が明らかになった。〔一〕高恵高后孝文功臣侯表第四を述べる。
〉
景帝は呉楚を征伐し、武帝は軍旅を起こした。後世の子孫は平穏な世を継ぎ、また封土を継承した者もあった。〔一〕景武昭宣元成哀功臣侯表第五を述べる。
〉
徳のない者には報いられず、ここに二代(殷・周)の祭祀が存続している。〔一〕宰相や外戚は、その明らかな善悪を戒めとして見ることができる。〔二〕外戚恩澤侯表第六を述べる。
〉
漢は秦に至り、革むるものあり因むるものあり、〔一〕僚職を大略に挙げ、その人を並べて列す。〔二〕百官公卿表第七を述ぶ。
〉
篇章を博く挙げ、上下に通じ、名号を略差し、九品の敘をなす。古今人表第八を述ぶ。
志
元元本本、数は一より始まり、〔一〕気は黄鐘より産し、計は秒忽より造る。〔二〕八音七始、五声六律、〔三〕度量権衡、暦算ここより出づ。〔四〕官は失い学は微なり、六家分かれて乖く、〔五〕彼を壹にし此を壹にし、庶幾くはその機を研らん。律暦志第一を述ぶ。
〉
上は天、下は沢、春雷が奮い起こる。〔一〕先王は象を観て、礼楽を制定した。その後崩壊し、鄭衛の音楽が荒淫となり、風俗は民に化し、乱れて入り乱れた。〔二〕大綱を略して存し、もって旧文を統べる。礼楽志第二を述べる。
〉
雷電がことごとく至り、天の威光は震え輝き、五刑の制定は、これに則りこれを模倣する。威は実に徳を補佐し、刑もまた教えを助ける。末世は詳らかでなく、根本を背にして末節を争い、呉起・孫臏は狡猾な詐術を弄し、申不害・商鞅は残酷で苛烈であった。漢は九章の法律を定め、太宗(文帝)は刑制を改め、軽重の差は、世々に定まった記録がある。刑法志第三を述べる。
〉
その初め民が生まれた時、食と財貨がまず第一であった。土地を区画して住居と井田を定め、汝らの田地を定め、十分の一を貢ぎ物として供出し、下は富み上は尊ばれた。商業は用を足すため、盛んに物を移し有無を相通じ、貨幣は亀甲や貝から始まり、ここに至って五銖銭となった。古今を論じ上げ、世の盛衰を鑑とする。食貨志第四を述べる。
〉
昔、上代の聖王は、百神を明らかに祀り、天帝に類祭し、宗廟を
禋
祀し、山川に望祭して秩序立て、明らかな徳こそが馨香であり、永世に豊年をもたらした。末世には淫祀が行われ、巫史に惑わされ信じ、〔一〕大夫が泰山に旅祭し、侯伯が
畤
を僭称し、〔二〕放誕の徒が、隙に乗じて起こった。〔三〕前を顧み後を顧み、その終始を正す。郊祀志第五を述べる。
〉
炫
々たる上天は、象を懸けて明らかに著し、〔一〕日月は周り輝き、星辰は精を垂れる。百官は法を立て、宮室は混然として成り、〔二〕王政に応じて降り、景をもって形を照らす。〔三〕三季(夏・殷・周の末世)の後、その事は放縦紛乱し、〔四〕その占いの応じる所を挙げ、故きを覧て新しきを考う。天文志第六を述べる。
〉
河図は庖犧に命じ、洛書は禹に賜わり、八卦は列を成し、九疇は逌に叙せられる。〔一〕世代の実なる宝、光は文武を演べ、春秋の占、咎徴は是に挙げる。往を告げて来を知るは、王事の表なり。五行志第七を述す。
〉
大地は地形を作り、高低に九等の区別がある。〔一〕昔の黄帝・堯帝以来、万国を経営し、東西を調和させて定め、南北に封疆を立てて統治した。〔二〕夏・殷・周三代の制度の増減を経て、秦・漢に至り、五等爵制を廃して郡県制を立てた。〔三〕山川の概略を表し、その分かれを示す。地理志第八を述べる。
〉
夏の禹は四種の乗り物を用いて、百川を導いた。〔一〕ただ黄河だけが困難で、災いは後代に及んだ。殷の時には枯渇し、周の時には流路が変わり、秦の時には南岸を決壊させ、〔二〕ここから漢に至るまで、北の八つの分流は失われた。〔三〕文帝は棗野で堤防を築き、武帝は瓠子の歌を作り、〔四〕成帝の時には平穏な年もあったが、その後は洪水が続いた。〔五〕溝渠に至っては、我が国家に利益をもたらした。溝
洫
志第九を述べる。
〉
伏羲が卦を画き、書契が後に作られ、〔一〕虞・夏・商・周の時代を経て、孔子がその業績を編纂し、書を撰し詩を刪し、礼を綴り楽を正し、〔二〕彖と系辞によって大易を整え、歴史に基づいて法を立てた。〔三〕六つの学問が確立したが、世に遭って弘められることがなく、〔四〕群言が紛乱し、諸子百家が互いに競い合った。〔五〕秦人はこれを滅ぼし、漢はその欠けた部分を修め、劉向が典籍を司り、九流を区別した。〔六〕そこで目録を著し、大業の概略を序した。〔七〕芸文志第十を述べる。
〉
列傳
上は傲慢で下は暴虐、ただ盗賊を討伐するのみ。〔一〕
陳勝
・
呉広
が炎のように立ち上がり、
項梁
・項籍が猛火を煽った。〔二〕赫々たる炎は、ついに
咸陽
を焼き、諸夏を分割し、侯王の立てられる命を下し、子嬰を誅し懐王を追放し、詐術と暴虐によって滅びた。陳勝項籍伝第一を述べる。
〉
張耳と陳餘の交わりは、父子のように親密で、手を携えて秦から逃れ、翼を打ち合わせて共に立ち上がった。〔一〕国を占拠して権力を争い、やがて互いに豺虎のごとく争うようになり、〔二〕張耳は甘公の謀を聞き入れ、漢の藩輔となった。張耳陳餘伝第二を述べる。
〉
三つの切り株(三
枿
)が起こったが、根本はすでに朽ちており、〔一〕枯れた楊に花が咲いても、どうして元のままでありえようか!〔二〕田横は雄材であったが、海の島に伏し、尸郷で身を清め、北面して首を捧げた。旅人が殉死を慕うその義は、黄鳥の詩を詠んだ故事を超えている。〔三〕
魏
豹田儋韓信伝第三を述べる。
〉
韓信はもともと飢えた隷属の身であり、英布は実際に
黥
刑(入れ墨の刑)を受けた囚人であり、
彭越
も犬盗(こそ泥)であり、
呉芮
は江湖(河川と湖沼)の地を治めていた。〔一〕雲が湧き起こり龍が昇るように、彼らは侯王へと変じ、〔二〕斉や楚を分割して領有し、淮や梁を跨いで支配した。〔三〕
盧綰
は同じ里門(同郷)から出て、我が北疆(北方の国境)を鎮守したが、〔四〕徳は薄く位は尊く、福禄ではなくただ災いであった。呉芮のみが忠信を守り、子孫は長く続いた。韓信・彭越・英布・盧綰・呉芮の伝第四を述べる。
〉
劉賈はわずかに軍旅に従い、淮・楚を鎮めることとなった。〔一〕劉沢は琅邪に王となり、権謀をもって諸呂を刺激した。劉濞が呉を受け継ぐと、領土は規矩を超え、〔二〕東南に戒められていながら、結局は斉斧(せいふ、刑罰の斧)を用いることになった。〔三〕荊王・燕王・呉王の伝第五を述べる。
〉
太上(高祖)には四人の子があった。長子の伯は早世し、次子の仲は代王となり、劉交は楚に封ぜられた。〔一〕劉戊は実際に淫らで不祥な行いをし、平陸侯劉礼がその後を継いだ。〔二〕その一族が都にいる者は、代々宗正の職にあり、〔三〕王室のために労苦を尽くし、陽成侯に封ぜられた。劉向(子政)は学識が広く、三代(劉徳・劉向・劉歆)にわたって名声を得た。〔四〕楚元王伝第六を述べる。
〉
季氏(季布)の屈辱は、身を辱め節を毀ったが、上将(
樊噲
)に対して己の信を貫き、議臣たちを震え上がらせた。〔一〕欒公(欒布)は梁を哭し、田叔は趙に殉じ、危険に臨んで命を授け、その義は明主を感動させた。季布は燕・斉を歴任し、田叔もまた魯の相となり、民はその政治を思い、ある者は金を贈り、ある者は社を立てた。〔二〕季布・欒布・田叔伝第七を述べる。
〉
高祖の八人の子、二帝と六王。三趙(趙の幽王・共王・王呂禄)は罪なくして死に、淮厲王(劉長)は自ら滅び、燕霊王(劉建)は後嗣が絶え、斉悼恵王(劉肥)のみが特に栄えた。東の地を覆い、泰山から海に至るまで、支族が分かれて王となり、前後九人の子がいた。六国(呉・楚・趙・膠西・膠東・菑川・済南)は誅殺され滅び、嫡流の斉は祭祀が絶えた。城陽王(劉章の子孫)と済北王(劉興居の子孫)が、後に我が国(斉)を継承した。〔一〕武勇に優れた景王(城陽景王劉章)は、漢の
社稷
を正した。〔二〕高五王伝第八を述べる。
〉
ああ、元勲(蕭何)よ、漢中を取って韓信を推挙し、関中を鎮守して兵糧を充実させ軍を整え、都を営み宮殿を建て、制度を定めて文教を整えた。平陽侯(曹参)は沈黙して静かに守り、蕭何の業を継いで改めず、民はこれをもって歌を作り、我らの淳厚な徳を教化した。漢の宗臣、これこそ相国である。蕭何曹参伝第九を述べる。
〉
留侯(張良)は秦を襲撃し、漢の腹心となり、武関攻略の策を図り、
鴻門
の危機を解いた。斉を推して印を消し、越(彭越)と信(韓信)を駆り集め、四老(商山四皓)を賓客として招き、嗣君(恵帝)を安んじた。陳公(陳平)は擾攘の中にあって、漢に帰して初めて安泰となり、
范増
を斃し項羽を滅ぼし、韓王信を狄から走らせて捕らえた。六奇の計略が既に設けられ、我らに艱難は無かった。安国侯(王陵)は朝廷で争い、官を辞して門を閉ざした。絳侯(周勃)は剛直にして、呂氏を誅し文帝を尊んだ。周亜夫は節を守り、呉楚の乱に勲功を立てた。張陳王周伝第十を述べる。
〉
舞陽侯は屠殺の刀を振るい、滕公は厩舎の御者であり、潁陰侯は商人、曲周侯は凡庸な男であったが、龍や鳳凰に縋り付き、共に天の道に登った。樊酈滕灌傅靳周伝第十一を述べる。
〉
北平(張蒼)は古事を記し、秦の柱下史を司り、漢の章程を定め、律度の端緒を開いた。建平(周昌)は質朴で率直であり、主君に逆らい顔色を犯した。広阿(任敖)の勤勉は、その旧徳を享受したものである。故安(申屠嘉)は節操を守り、鄧通を責め、
晁錯
の誅殺を請うた。忠直な帝の臣下であり、それは己のためではなかった。張蒼・周昌・趙堯・任敖・申屠嘉の伝第十二を述べる。
〉
酈食其
は監門であったが、漢王に長揖し、陳留を襲う計略を画策し、進んで敖倉を収め、要害を塞ぎ渡津を遮断して、王の基盤を拡大した。
陸賈
は行人として、百越を来賓させ、従容として風議し、文をもって我を博くした。劉敬は役夫から身を起こし、遷都して
長安
を定め、内に関中を強固にし、外に匈奴と和した。
叔孫通
は奉常として、時勢に合わせて抑揚をつけ、介冑を脱ぎ礼儀を創始した。ある者は知恵を働かせ、ある者は謀略をめぐらし、国の光を観たのである。酈食其・陸賈・
朱建
・
婁敬
・叔孫通の伝第十三を述べる。
〉
淮南(王)は僭越で狂気、二子(劉安・劉賜)は災いを受けた。安は弁舌に長けるが邪であり、賜は愚かで放縦、敢えて乱を称し、世に窘りに窘って滅亡した。〔一〕淮南衡山済北伝第十四を述べる。
〉
蒯通が一度説いただけで、三つの雄(項羽・韓信・田横)は敗れ、酈食其を覆し、韓信を驕らせ、田横は顛沛した。彼らが拘束されたことで、禍害が生じた。〔一〕江充・息夫躬は極まりなく、交わって乱を大きくした。〔二〕以上、蒯伍江息夫伝第十五を述べる。
〉
万石君石奮は温和で、幼い頃から聖君(高祖)に感化され、〔一〕その子孫はふさわしく、和やかでのびやかで、〔二〕石慶は斉の国で社を立てられ、言葉を用いずに民を動かした。〔三〕衛綰・直不疑・周仁・張欧は、その身を慎み深くした。〔四〕以上、万石衛直周張伝第十六を述べる。
〉
孝文の三王、代の孝王と二梁の王、〔一〕懐王は夭折して後嗣が絶え、孝王は尊ばれて光を放った。〔二〕内では母弟として、外では呉楚の乱を防ぎ、寵を恃み功を誇り、僭越の欲を抱いて所を失い、思心既に霿し、牛禍妖を告げる。〔三〕帝は親親を用い、其の国を五つに分けた。〔四〕徳寵に堪えず、四支伝わらず。〔五〕文三王伝第十七を述ぶ。
〉
賈生(
賈誼
)は高く飛び立つように、弱冠で朝廷に登った。〔一〕文(文帝)の聡明な聖代に遭い、たびたびその上疏を抗弁し、暴虐な秦の戒めを述べ、三代(夏・殷・周)の例を根拠とした。藩屏(諸侯)を建設し、守りを強固にし、〔二〕呉楚が合従したときは、賈誼の慮りに頼った。〔三〕賈誼伝第十八を述べる。
〉
子絲(爰盎)は慷慨として、激しい言辞で説き入れ、〔一〕手綱を取って席を正し、成敗を明らかに陳べた。〔二〕錯(晁錯)は瑣末な才能で、智は小さく謀は大きく、〔三〕禍いは弩の引き金を発するが如く、先に賊に害された。〔四〕爰盎晁錯伝第十九を述べる。
〉
釈之は刑典を司り、国の法はこれによって平らかになった。馮公は魏尚の件を正し、君主の明を増した。〔一〕長孺は剛直で、義は色に形われ、下は淮南王を折伏し、上は天子の冠を正した。〔二〕鄭荘の賢を推挙すること、ここにおいて徳と為す。張馮汲鄭伝第二十を述ぶ。
〉
栄えることも辱められることも、機があり枢がある。〔一〕下より上を摩るは、ただ徳の隅に依る。〔二〕忠正に頼り依って、君子はこれを采る。〔三〕賈鄒枚路伝第二十一を述ぶ。
〉
魏其侯は軽やかで、節義を好み名声を慕い、〔一〕灌夫は勇を誇り、武安侯は驕り高ぶり、凶悪な徳が互いに引き出し合い、禍いと敗亡が成った。〔二〕安国は足を傷つけ、王恢は兵事の首謀者、〔三〕あれは天命に似て、これは人の過ちに近い。〔四〕竇田灌韓伝第二十二を述べる。
〉
景帝の十三王は、文帝の慶福を承けた。〔一〕魯恭王は館室を築き、江都易王は軽佻であった。〔二〕趙敬粛王は険
詖
で、中山靖王は淫乱で酒に耽った。〔三〕長沙定王は寂漠で、広川恵王は名声がなく、膠東康王は誠実でなく、常山憲王は驕慢であった。〔四〕四つの国は祭祀が絶え、河間献王は賢明で、〔五〕礼楽を修め、漢の宗室の英傑となった。景十三王伝第二十三を述べる。
〉
李広は誠実で、実に兵士の心を得、弓を引き石を貫き、その威は北隣を動かした。〔一〕自ら七十回戦い、遂に軍中で死んだ。李敢は衛青を怨み、霍去病に討たれた。李陵は自決せず、世を辱めて姓を滅ぼした。〔二〕蘇武は節義を守り、王命に屈しなかった。〔三〕李広蘇建伝第二十四を述べる。
〉
長平侯(衛青)は勇ましく、上将軍の筆頭である。〔一〕
獫允
(けんいん、匈奴)を討伐し、我が北方の辺境を広げた。〔二〕兵車は七度出征し、衝輣(しょうほう、戦車)は悠然と進んだ。〔三〕
単于
を包囲し、北の闐顔山に登った。票騎将軍(霍去病)は勇猛果敢で、勢い激しく勇ましい。〔四〕長駆して六度進撃し、電撃の如く雷の如く震動させた。〔五〕
翰
海で馬に水を飲ませ、狼居胥山で封禅の儀を行い、西は大河(黄河)を境界とし、祈連山脈に郡を並べた。衛青・霍去病伝第二十五を述べる。
〉
抑抑たる仲舒、再び諸侯の相たり、〔一〕身を修め国を治め、致仕して縣車し、下帷して覃思し、道を論じて書に属す、〔二〕讜言訪対し、世の為に純儒たり。〔三〕
董仲舒
伝第二十六を述ぶ。
〉
文辞は華麗だが実用性に乏しく、子虚や烏有のごとく、寓話に託して華美に飾り立て、諷諫の意を終始込めている。
〉
平津侯(公孫弘)は明察で、晩年に金馬門に昇進し、
〉
張湯は遂に出世し、政事を担当する職に用いられ、この一人(天子)に媚び、日が暮れるのを忘れて食事も取らず、〔一〕寵愛と禄を成し遂げたが、咎と悪をも招いた。安世は温厚で善良、その徳は実直で深く、〔二〕子孫はその業を守り、全うした禄位で国を保った。張湯伝第二十九を述べる。
〉
杜周は文書を処理し、ただ上(天子)の意の浅深に従い、〔一〕世間の資(地位)を取るために用い、幸いにして身を免れた。延年は寛大で温和、名臣の列に並んだ。欽は材能と謀略を用い、その類とは異なっていた。〔二〕杜周伝第三十を述べる。
〉
博望(張騫)は節杖を執り、大夏で功績を収めた。貳師(李広利)は鉞を執り、胡の社で身を釁(血祭)に供した。〔一〕死を致して福となり、貪り生を求めて禍を作った。〔二〕張騫・李広利伝第三十一を述べる。
〉
嗚呼、史遷(司馬遷)よ、罪に連座して刑を受けた。〔一〕幽閉されて発憤し、思いを巡らし精緻を極め、群言を錯綜させ、古今を経(たて糸)とし、一家の書を編纂して、その大略は甚だ明らかである。〔二〕司馬遷伝第三十二を述べる。
〉
孝武皇帝の六人の子のうち、昭帝と斉王には後継ぎがなかった。〔一〕燕の剌王は謀反を企て、広陵王は呪詛を行った。昌邑王は短命で、昏賀は拠り所を失った。戾太子の園陵は不幸であり、宣帝が天命を継いだ。〔二〕武五子伝第三十三を述べる。
〉
六世(武帝)は耽耽として、その欲望は
浟
浟たるものがあり、〔一〕文武の道が盛んに行われ、これによって四方を克服した。〔二〕助、偃、淮南王ら、数人の者の徳は、自身に忠実ではなくとも、国に対しては善く謀った。〔三〕厳助・朱買臣・吾丘寿王・
主父偃
・徐楽・厳安・終軍・王褒・賈捐之伝第三十四を述べる。
〉
東方は贍辞に富み、
詼
諧倡優たり、〔一〕苑を譏り偃を扞ぎ、正諫して過ちを挙げ、〔二〕肉を懐きて殿を
汙
し、弛張沈浮す。東方朔伝第三十五を述ぶ。
〉
葛繹は内寵たり、屈氂は王子たり。〔一〕千秋は時に発り、宜春は旧に仕う。〔二〕敞・義は霍に依り、庶幾云う已む。弘は政事を惟い、萬年は己を容る。咸厥の誨を睡り、孰か子と為らざらんや?公孫劉田楊王蔡陳鄭伝第三十六を述ぶ。
〉
王孫は臝葬し、建は将を斬る。雲は廷において禹を
訐
り、福は鳳を刺すことを超え、〔一〕これを狂
狷
と言い、敞はその衷に近い。〔二〕楊胡朱梅雲伝第三十七を述べる。
〉
博陸侯(
霍光
)は堂々として、武皇帝(武帝)の遺
詔
を受け、〔一〕孝昭帝を擁立し育て、遺命を導き広めた。〔二〕家が不幸に遭い、帝を立て王を廃し、権謀をもって
社稷
を安定させ、忠臣阿衡(伊尹)に匹敵した。禄を貪り寵愛に耽り、次第に悪しき兆しが現れ、妻の陰謀により、子の代で滅亡した。〔三〕秺侯(金日磾)は狄(北方民族)の捕虜の子孫であったが、虔恭で忠信であり、〔四〕代々その徳を継承し、子孫にまで及んだ。〔五〕
霍光
金日磾伝第三十八を述べる。
〉
兵家の策は、ただ戦わざるに在り。営平(趙充国)は
皤
皤(白髪)たり、功を立て論を立て、〔一〕以て不可を済し、上その信を諭す。〔二〕武賢父子は、虎臣の俊たり。趙充国辛慶忌伝第三十九を述ぶ。
〉
義陽侯の楼蘭、長羅侯の昆弥、安遠侯の日逐、義成侯の郅支。陳湯は節操を放縦にし、救いは三悊にあった。〔一〕会宗は事に勤め、国境の外における傑物であった。傅常鄭甘陳段伝第四十を述べる。
〉
不疑は美しく敏捷で、事変に応じて道理に適っていた。〔一〕霍氏との縁談を辞し、退いて隠居した。〔二〕疏広は終わりを全うし、金を散じて老いを楽しんだ。定国の福は、その仁なる父による。広徳、当、宣は、恥を知ることに近かった。〔三〕雋疏于薛平彭伝第四十一を述べる。
〉
四皓は秦を避け、古の逸民であり、禄に心を動かされず、志を曲げられなかった、厳平と鄭真がそうである。〔一〕 龔勝は何武の推挙に困りながらも、染まっても黒くならず;龔舍は既に年老いても、その徳によって仕官した。〔二〕 龔舍はただ身を正すことのみを思い、死を選んで善道に勝った;郭欽と蔣詡は、近世に隠遁した好例である。〔三〕 王貢両龔鮑伝第四十二を述べる。
〉
扶陽侯韋賢の家は人材が盛んで、詩と礼を学んだ。その子玄成は退譲の心を持ち、代々宰相となった。〔一〕 漢の宗廟の制度は、叔孫通が定めたが、孝元帝の時に改革され、諸儒がその制度を変えた。〔二〕 国家の大法は、広くその道を記している。〔三〕 韋賢伝第四十三を述べる。
〉
高平(魏相)は師師(手本となり)、ただ君主が威権を作り、凶害を黜けようと図り、天子をこれに輔けた。〔一〕博陽(丙吉)は伐らず、含み広く光り大いにし、天がその衷を誘き、慶が苗裔(子孫)に流れた。魏相・丙吉伝第四十四を述べる。
〉
往(過去)を占い来(未来)を知り、幽(目に見えぬもの)を賛けて神明とし、〔一〕もしその人に非ざれば、道は虚しく行わず。〔二〕学は微にして術は昧、あるいは彷彿たるものを見るも、疑い危うきは闕けず、衆に違き世に迕い、〔三〕浅くは尤悔となり、深くは敦害を作す。〔四〕眭弘・両夏侯・京房・翼奉・李尋伝第四十五を述べる。
〉
広漢は
京兆尹
として聡明であり、延寿は左馮翊として和やかで平らかであった。才能を誇り上をあばき、共に極刑に陥った。翁帰はその風を受け継ぎ、帝はその名声を揚げた。〔一〕敞もまた平平として、文雅をもって自らを助け;〔二〕尊は実に赳赳として、邦家の彦であった;〔三〕章は罪なくして死に、士民がこれを嘆いた。趙尹韓張両王伝第四十六を述べる。
〉
蓋寛饒は正色を保ち、国の司直(司法官)であった。鄭崇は剛直を好み、毋将隆もまた直を慕った。〔一〕皆、狂狷に陥り、経典にも法式にも従わなかった。〔二〕鄭崇は言責を執り、毋将隆は官守を堅持した。〔三〕孫宝は定陵侯の件で曲がり、何並は立志した。〔四〕蓋寛饒・諸葛豊・劉輔・鄭崇・毋将隆・孫宝・何並の伝第四十七を述べる。〔五〕
〉
蕭望之(字は長倩)は
懙
懙として、
霍光
を見ても推挙されず、〔一〕宣帝に遇って初めて抜擢され、元帝の傅(太傅)として輔佐したが、図らず慮らず、石顕・許章に躓いた。〔二〕蕭望之伝第四十八を述べる。
〉
子明は光り輝き、西の辺境で頭角を現し、外敵を防ぐ功績に列せられ、その子もまた優れていた。馮奉世伝第四十九を述べる。
宣帝の四人の子、淮陽王は聡明で機敏であったが、〔一〕母方の伯父はへつらい者で、ほとんど重大な罪に陥りかけた。〔二〕楚孝王は不治の病を患い、東平王は道を踏み外し、〔三〕中山哀王は凶事に遭い短命で、その母は胡族の地に帰った。〔四〕元帝の二人の王は、子孫が大宗を継いだ。〔五〕昭帝の後を継いだが穆の字を贈られず、天命は改めて登った。〔六〕宣元六王伝第五十を述べる。
〉
楽安侯の匡衡は盛んな人物で、古の文学に通じ、民衆は皆その姿を見守っていたが、二つの司隷
校尉
の弾劾によって窮地に陥った。安昌侯の張禹は財貨を殖やし、朱雲がその醜態を暴いた。博山侯の孔光は誠実で慎み深かったが、王莽に迎合したことでその徳行に傷を負った。匡衡、張禹、孔光、馬宮の伝を述べる。第五十一。
〉
楽昌(王商)は篤実で、屈せず曲がらず、憂患に遭うこと多く、これにより廃黜された。〔一〕武陽(史丹)は懇切で、副君(皇太子)を輔導し、忠であり且つ謀りごとがあり、この旧勲を享受した。高武(傅喜)は正を守り、これにより身を済った。〔二〕王商・史丹・傅喜伝第五十二を述べる。
〉
高陽(薛宣)は文法に通じ、揚郷(朱博)は武略に長け、政事の才はあるが、道徳は薄く、位はその任に過ぎ、その禄を終える者は少ない。〔一〕博(朱博)の翰音は、鼓妖が先に起こった。〔二〕薛宣・朱博伝第五十三を述べる。
〉
高陵は儒学を修め、刑罰を用いて威厳を養い、時宜に合った方法を用い、器量は世の要請に応じた。義によって勇を得て、虎や貔のようであり、進むに一歩も踏み出さず、宗族は
鯨
鯢
となった。〔一〕翟方進伝第五十四を述べる。
〉
統治は微細で政道は欠け、災害がたびたび発生した。永はその過ちを陳べ、戒めは三七にあるとした。鄴は丁氏・傅氏を指摘し、占術をほぼ窺った。谷永杜鄴伝第五十五を述べる。
哀帝・平帝の憂い、丁氏・傅氏・王莽・董賢。武と嘉は外戚であったが、ついにその身を喪った。高楽は廃され、皆、忠臣として列せられた。何武王嘉師丹伝第五十六を述べる。
深遠なるかな、この人よ! まことにこの文を好んだ。初めは司馬相如になぞらえ、黄門に賦を献じ、やめて深く考え、法言を草し太玄経を撰し、〔一〕六経を斟酌し、易の象論に倣い、〔二〕篇籍に潜り、もってその身を顕彰した。〔三〕揚雄伝第五十七を述べる。
〉
獷獷たる亡秦は、我が聖文を滅ぼし、〔一〕漢はその業を存し、六学は析分す。是を綜べ是を理め、是を綱とし是を紀とす。師徒は彌散し、其の終始を著す。〔二〕儒林伝第五十八を述ぶ。
〉
誰か毀り誰か誉む、誉むは其れ試み有るを。〔一〕泯泯たる群黎、化して良吏と成る。〔二〕淑人君子、時に同じくして功異なり。没世して愛を遺し、民に余思有り。循吏伝第五十九を述ぶ。
〉
上は替わり下は陵ぎ、姦軌勝えず、猛政横に起こり、刑罰用い興る。曾て是の強圉たり、掊克を以て雄と為り、〔一〕虐に報いるに威を以てし、殃亦凶終す。〔二〕酷吏伝第六十を述ぶ。
〉
四民は力に食み、兼業あること無く、大は淫侈せず、細は匱乏せず、
蓋し
均しく貧無く、王の法に遵う。〔一〕法無く度無く、民其の詐を肆にし、〔二〕上を偪り下を
并
せ、荒りに其の貨を殖やす。〔三〕侯服玉食し、俗を敗り化を傷う。〔四〕貨殖伝第六十一を述ぶ。
〉
国を開き家を継ぐには、法があり制がある。家には鎧甲を蔵匿せず、国は勝手に殺戮を行わない。〔一〕ましてや一般の民衆が、威を振るい恵みを施すなど、〔二〕どうしてこれを正さずにいられようか、礼と法こそが言うべきことである!〔三〕游侠伝第六十二を述べる。
〉
あの者は何者か、この富貴を盗むのか!賢明な人を惑わし損ない、後世への戒めとする。〔一〕佞幸伝第六十三を述べる。
〉
ああ、帝舜の典籍には、戎夷が諸夏を乱すとある。〔一〕周の宣王はこれを撃退し、風雅の詩にも列せられた。〔二〕宗周の幽王はすでに暗愚となり、褒姒に溺れ、〔三〕戎が我が
驪
山で敗り、ついに酆・鄗を滅ぼした。〔四〕大漢が初めて定まった時、匈奴は強盛で、我が平城を包囲し、辺境を侵犯した。〔五〕孝武帝に至って、ここに激怒し、王師は雷のように起こり、朔方の野に雷霆のごとく撃った。〔六〕宣帝はその末を承け、大いなる徳を施し、我が威霊を震わせ、五世にわたって服属させた。〔七〕王莽は天命を盗み、これを傾け覆したが、その変乱の道理を備え記し、世の規範とする。匈奴伝第六十四を述べる。
〉
西南の外夷は、種族が別れ、地域が異なる。南越の尉佗は、自ら番禺で王となり、遠く外の地に居た。閩越、東甌。それから朝鮮に至るまで、燕の外の区域である。漢が興り遠方を安んじ、そなたらと符を剖かち分けた。皆その険阻を頼みとして、時に臣従し時に驕り高ぶり、孝武帝が軍を進め、海の隅を誅滅した。西南夷・両越・朝鮮伝第六十五を述べる。
〉
西戎は服属し、夏后(禹)はこれを明らかにした。〔一〕周の穆王は兵を閲し、荒服は朝貢しなかった。〔二〕漢の武帝は精神を労し、遠方を図ることに甚だ勤勉であった。王師は喘ぎ疲れ、大宛を誅伐した。〔三〕美しい公主は烏孫に嫁ぎ、〔四〕使命は遂に通じ、條支の海辺に至った。〔五〕昭帝・宣帝はその業を継ぎ、都護を設置し、城郭諸国三十六国を総督し、朝貢を修め奉じ、それぞれその職分に従った。西域伝第六十六を述べる。
〉
禍福は実に不可思議であり、外戚に示される。〔一〕高后(呂后)が最初に命じ、呂氏の宗族は覆滅した。薄姬は魏に嫁ぎ、文帝を生んで徳を産んだ。〔二〕竇后は意に背かれ、代(国)で隠遁した。〔三〕王氏は微賤であったが、世宗(武帝)が嗣子となった。衛子夫が興ると、勢いを振るったが終わりを全うしなかった。〔四〕鉤弋夫人は憂い傷み、孝昭帝が即位した。上官氏は幼くして尊ばれたが、その宗族は滅ぼされた。〔五〕史良娣と王悼后は身に不祥に遇い、宣帝が国を享けると、二族は後に栄えた。恭哀皇后(許皇后)は元帝を産んだが、夭折して遂げられなかった。邛成太后(王氏)は順序に乗り、三世にわたって尊位を踏んだ。〔六〕趙飛燕の妖しさは、その妹に禍を成した。丁氏・傅氏は僭越で恣肆、自ら凶害を求めた。中山太后(馮昭儀)は無罪であったが、馮氏・衛氏を喪った。〔七〕恵帝の張后、景帝の薄后、武帝の陳后、宣帝の霍后、成帝の許后、哀帝の傅后、平帝の母の王氏、これらの事は羨望を誘うが、天の定めた度量ではない。〔八〕怨み咎がこのようであるならば、どうして慎まないことがあろうか。〔九〕外戚伝第六十七を述べる。
師古は言う、「詭とは、違うことである。禍と福は互いに背き合い、終わりと始まりが一貫しないという意味である」。
如淳は言う、「薄姫が魏にいた時、許負が彼女の相を見て、天子を生むと予言した。魏豹はこの言葉を聞き、漢に従わず、ついに捕らえられて死んだ」。師古は言う、「〈礈〉は、去辶の旁を除いたもので、古い墜の字である」。
師古は言う、「詩経の衛風に『考盤在澗』とある。考とは、成し遂げることであり、盤とは、楽しむことである。この叙述は、竇姫が初め趙に行こうとしたのに代に向かい、本来の意図に背いたが、結局は楽しみを成し遂げたことを言う」。
師古は言う、「扇とは、盛んになることである」。
応劭は言う、「詩経に『是類是禡』とある。礼によれば、征伐を行う際、天に告げて祭ることを類といい、事の類を告げるのである。征伐する土地に至り、標を立てて祭ることを禡という。禡とは、馬のことである。馬は兵の首であるから、その先の神を祭るのである。上官后は幼くして尊貴であったが、家族は悪逆の罪で誅滅されたという意味である」。師古は言う、「禡の音は莫暇の反切である」。
張晏は言う、「成帝の時に至って崩御したのである」。師古は言う、「乗序とは、至尊の位に登ることをいう」。
師古は言う、「馮昭儀は、中山孝王の母であり、傅氏に陥れられた。衛姫は、中山孝王の后であり、王莽に滅ぼされた」。
師古は言う、「作とは、起こることである。度とは、居ることである。恵帝から平帝王皇后までの七人は、その時は尊位にあったが、人心は羨望し、天意の居るところではなかったため、結局は栄えなかったという意味である。度の音は徒各の反切である」。
師古は言う、「恪とは、敬うことである」。
〉
元后(王政君)は母の胎内に宿った時、月の精がその兆しとして現れた。〔一〕成帝の安逸に乗じて、政権は諸舅(母方の叔父たち)の手に移った。〔二〕陽平侯(王鳳)は威を振るい、誅罰を卿宰(大臣)に加えた。〔三〕成都侯(王商)は煌々と輝き、我が明光殿を借り受けた。〔四〕曲陽侯(王根)は気勢盛んで、その堂も朱色に染まった。〔五〕新都侯(王莽)は極みに達し、乱を起こして滅亡した。元后伝第六十八を述べる。
〉
ああ、この賊臣(王莽)よ、漢を
簒奪
し天に逆らい、その驕りは夏の桀(癸)に匹敵し、その虐めの激しさは商の紂(辛)に等しい。〔一〕偽って黄帝・虞舜に倣い、経典の文を誤って称え、〔二〕衆人の怨みと神の怒りを買い、悪の報いとして誅罰が到来した。〔三〕百王の極悪非道の中でも、その奸悪と昏愚は究極に達した。王莽伝第六十九を述べる。
〉
およそ『漢書』は、帝皇を叙述し、〔一〕官司を列挙し、侯王を立てる。〔二〕天地に準拠し、陰陽を統合し、〔三〕元極を闡明し、三光の運行を測る。〔四〕州域を分け、土疆を区別し、〔五〕人理を究め、万方を網羅する。〔六〕六経を緯糸とし、道綱を綴じ、〔七〕百氏を総括し、篇章を賛する。〔九〕雅故を包含し、古今を通じ、〔九〕文字を正し、学林の規範とする。〔一〇〕叙伝第七十を述べる。
〉
四二三六頁 四行 不言(然)〔作〕而改言述、 景祐本は「作」と作る。
四二三八頁 三行 誰(能)〔可〕任用、 景祐本、殿本ともに「可」と作る。王先謙は「可」と作るのが正しいと言う。
四二三九頁八行「一曰(王)〔主〕奄閉門者。」景祐本、殿本はともに「主」と作っており、これは誤りである。
四二四〇頁六行「言其自號(寧)〔宰〕衡」景祐本、殿本、局本はともに「宰」と作っており、これは誤りである。
四二四三頁四行「秦文公造(四)〔西〕畤祭天是也。」殿本は「西」と作る。王先謙は「西」と作るのが正しいと説く。
四二四三頁一六行「(變)〔燮〕定東西」錢大昭は「變」は「燮」と作るべきだと説く。景祐本、殿本、局本を按ずるに、いずれも「燮」と作る。注も同じ。
四二四五頁一一行「言陳勝初起而項羽(益)〔烈〕盛也。」景祐本、殿本はともに「烈」と作る。
四二四五頁一二行「耳(諫)〔謀〕甘公」錢大昭は「諫」は「謀」と作るべきだと説く。景祐本、殿本を按ずるに、いずれも「謀」と作る。
四二五一頁四行「遻,遇(之)也。」景祐本、殿本にはいずれも「之」の字がない。
四二五二頁二行「(子)〔支〕,父母之四支也。」殿本は「支」と作る。王先謙は「支」と作るのが正しいと説く。
四二五七頁一五行「六(者)謂武帝也。」王先謙は「六者」は「六世」とすべきだと説く。景祐本を按ずるに、「者」の字がない。
四二五九頁五行「武帝臨終之命,(也)〔霍〕光能導達顯揚也。」殿本は「也」を「霍」と作る。王先謙は殿本が正しいと説く。
四二六一頁一行「仍」は、(類)〔頻〕である。景祐本と殿本はどちらも「頻」と作っており、これは誤りである。
四二六一頁二行「造迭毀之(義)〔議〕」である。景祐本は「義」と作るが、殿本は「議」と作る。王先謙は「議」と作るのが正しいと説いている。
四二六二頁五行「以文雅助治(述)〔術〕」である。景祐本、殿本、局本はいずれも「術」と作っており、これは誤りである。
四二六三頁一六行「音弋(敘)〔救〕反」である。景祐本と殿本はどちらも「救」と作っており、これは誤りである。
四二七〇頁七行「曲陽(攜攜)〔歊歊〕」である。景祐本と殿本はどちらも「歊」と作っており、これは誤りである。