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巻41

巻41 王規

王規

原文王規

王規は字あざなを威明といい、琅邪郡臨沂県の人である。祖父の王儉は、斉の太尉・南昌文憲公であった。父の王騫は、金紫光禄大夫・南昌安侯であった。

原文王規字威明,琅邪臨沂人。祖儉,齊太尉南昌文憲公。父騫,金紫光祿大夫南昌安侯。

王規は八歳の時、実母の喪に服し、喪に臨んで天性の孝心を示した。太尉の徐孝嗣は彼に会うたびに必ず涙を流し、「孝童」と称えた。叔父の王暕もまた彼を深く器重し、常に「この子は我が家の千里駒である」と言った。十二歳で『五経』の大義を、おおよそ理解できるようになった。成長すると、学問を好み弁舌に優れた。州から秀才に推挙され、郡からは主簿として迎えられた。

原文規八歲,以丁所生母憂,居喪有至性。太尉徐孝嗣每見必爲之流涕,稱曰孝童。叔父暕亦深器重之,常曰:「此兒吾家千里駒也。」年十二,《五經》大義,並略能通。旣長,好學有口辯。州舉秀才,郡迎主簿。

秘書郎として官途につき、累進して太子舎人、安右南康王主簿、太子洗馬となった。天監十二年、太極殿が改築され、工事が完了すると、王規は『新殿賦』を献上し、その文辞は非常に優れていた。秘書丞に任じられた。太子中舎人、司徒左西属、従事中郎を歴任した。晋安王蕭綱が南徐州刺史として出向する際、厳選された僚属の中に加えられ、雲麾諮議参軍に抜擢された。しばらくして、新安太守として出向したが、父の喪で職を辞した。喪が明けると、南昌県侯の爵位を襲封し、中書黄門侍郎に任じられた。詔により陳郡の殷鈞、琅邪の王錫、范陽の張緬と共に東宮に侍することとなり、いずれも昭明太子に礼遇された。湘東王(後の元帝)が当時京尹(丹陽尹)であった時、朝臣たちと宴会を開き、王規に酒令を命じた。王規は落ち着いて答えて言った。「江左(東晋)以来、このようなことはありません」。特進の蕭琛と金紫光禄大夫の傅昭が同席していたが、共にこの言葉を名言であるとした。普通の初め、陳慶之が北伐して洛陽を回復した時、百官が祝賀したが、王規は退いて言った。「道家に言う、功を立てるのは難しくないが、成功を守るのが難しい、と。羯の賊(北魏)は遊魂のように長く存続しており、桓温は得てまた失い、宋の武帝(劉裕)も結局成功しなかった。我が軍は孤立して援けがなく、敵地深くに深入りし、威勢は連続せず、兵糧の輸送も続け難い。この戦役は、禍の始まりとなるであろう」。間もなく我が軍は壊滅し、彼の事態の機微を見通す識見は、多くこのようなものであった。

原文起家秘書郎,累遷太子舍人、安右南康王主簿、太子洗馬。天監十二年,改構太極殿,功畢,規獻《新殿賦》,其辭甚工。拜秘書丞。歷太子中舍人、司徒左西屬、從事中郎。晉安王綱出爲南徐州,高選僚屬,引爲雲麾諮議參軍。久之,出爲新安太守,父憂去職。服闋,襲封南昌縣侯,除中書黃門侍郎。敕與陳郡殷鈞、琅邪王錫、范陽張緬同侍東宮,俱爲昭明太子所禮。湘東王時爲京尹,與朝士宴集,屬規爲酒令。規從容對曰:「自江左以來,未有茲舉。」特進蕭琛、金紫傅昭在坐,並謂爲知言。普通初,陳慶之北伐,剋復洛陽,百僚稱賀,規退曰:「道家有云:非爲功難,成功難也。羯寇遊魂,爲日已久,桓溫得而復失,宋武竟無成功。我孤軍無援,深入寇境,威勢不接,饋運難繼,將是役也,爲禍階矣。」俄而王師覆沒,其識達事機多如此類。

六年、高祖(武帝)が文徳殿で広州刺史の元景隆を送別する宴を開き、詔して群臣に詩を作らせ、皆五十韻を用いることとした。王規は筆を取ってすぐに奏上し、その文もまた美しかった。高祖はこれを賞賛し、その日に詔して侍中とした。大通三年、五兵尚書に転じ、間もなく歩兵校尉を兼任した。中大通二年、貞威将軍・驃騎晋安王長史として出向した。その年、晋安王が皇太子に立てられると、引き続き呉郡太守となった。主書の芮珍宗の家は呉にあり、前任の太守・県令らは皆、彼に心を寄せて付き従っていた。この時、珍宗が休暇で帰郷したが、王規は彼を非常に冷遇した。珍宗が都に戻ると、密かに「王規は郡の政務を処理していない」と上奏した。間もなく左民尚書として召還されたが、郡の官吏と民千余人が宮廷に赴いて留任を請願し、上表は三度奏上されたが、皇帝は許さなかった。ほどなく本官のまま右軍将軍を兼任することとなったが、拝命せず、再び散騎常侍・太子中庶子となり、歩兵校尉を兼任した。王規は病気を理由に拝命せず、鐘山の宗熙寺に住居を構えて住んだ。大同二年、死去した。時に四十五歳。詔により散騎常侍・光禄大夫を追贈され、葬儀のための銭二十万、布百匹を賜った。諡おくりなは章といった。皇太子(簡文帝)は出向して哭礼を行い、湘東王蕭繹に令を下して言った。「威明(王規)が昨夜、突然に亡くなったのは、非常に痛ましく悲しい。その風韻は剛直で正しく、神采は際立って輝き、千里に跡を絶ち、百尺の枝無し(優れて他を圧倒している様)。文弁は縦横に駆け、才学は豊かで、奔放な気性はより遠く、濠梁の気風(『荘子』の故事にちなむ悠々自適の境地)が特に多い。これはまさに俊秀の士である。一瞬の隙間のように過ぎ去り、永遠に長夜に帰し、金刀(王姓にちなむ)はその輝きを隠し、長淮(長江と淮水)はその流れを絶った。昨年の冬には、すでに劉子(劉遵か)を失い悲しんだ。今年の寒さの始まりに、また王生を悼む。共に去った者の悲しみは、まことに虚言ではない」。王規は『後漢書』の諸家の異同を集め、『続漢書』二百巻に注を加え、文集二十巻を著した。

原文六年,高祖於文德殿餞廣州刺史元景隆,詔羣臣賦詩,同用五十韻,規援筆立奏,其文又美。高祖嘉焉,卽日詔爲侍中。大通三年,遷五兵尚書,俄領步兵校尉。中大通二年,出爲貞威將軍驃騎晉安王長史。其年,王立爲皇太子,仍爲吳郡太守。主書芮珍宗家在吳,前守宰皆傾意附之。是時珍宗假還,規遇之甚薄,珍宗還都,密奏規云「不理郡事」。俄徵爲左民尚書,郡吏民千餘人詣闕請留,表三奏,上不許。尋以本官領右軍將軍,未拜,復爲散騎常侍、太子中庶子,領步兵校尉。規辭疾不拜,於鐘山宗熙寺築室居焉。大同二年,卒,時年四十五。詔贈散騎常侍、光祿大夫,賻錢二十萬,布百匹。諡曰章。皇太子出臨哭,與湘東王繹令曰:「威明昨宵奄復殂化,甚可痛傷。其風韻遒正,神峰標映,千里絕迹,百尺無枝。文辯縱橫,才學優贍,跌宕之情彌遠,濠梁之氣特多,斯實俊民也。一爾過隙,永歸長夜,金刀掩芒,長淮絕涸。去歲冬中,已傷劉子;今茲寒孟,復悼王生。俱往之傷,信非虛說。」規集《後漢》衆家異同,注《續漢書》二百卷,文集二十卷。

子の王褒は、字を子漢といい、七歳で文章を作ることができた。外祖父の司空袁昂は彼を愛し、賓客に言った。「この子はきっと我が家の繁栄をもたらす者となるであろう」。弱冠で秀才に挙げられ、秘書郎・太子舎人に任じられたが、父の喪で職を辞した。喪が明けると、南昌侯の爵位を襲封し、武昌王文学・太子洗馬に任じられ、東宮管記を兼ね、司徒属、秘書丞を経て、安成内史として出向した。太清年間、侯景が京城を陥落させると、江州刺史の当陽公蕭大心は州を挙げて賊に従った。賊は転じて南中を侵したが、王褒はなおも郡を守って抵抗した。大宝二年、世祖(元帝)は王褒を召し出して江陵に赴かせ、到着すると、忠武将軍・南平内史とし、間もなく吏部尚書・侍中に転じた。承聖二年、尚書右僕射に転じ、引き続き選挙の事務を参掌し、さらに侍中を加えられた。その年、左僕射に転じ、参掌は以前の通りであった。三年、江陵が陥落すると、北周に入った。

原文子褒,字子漢,七歲能屬文。外祖司空袁昂愛之,謂賓客曰:「此兒當成吾宅相。」弱冠舉秀才,除秘書郎、太子舍人,以父憂去職。服闋,襲封南昌侯,除武昌王文學、太子洗馬,兼東宮管記,遷司徒屬,秘書丞,出爲安成內史。太清中,侯景陷京城,江州刺史當陽公大心舉州附賊,賊轉寇南中,褒猶據郡拒守。大寶二年,世祖命徵褒赴江陵,旣至,以爲忠武將軍、南平內史,俄遷吏部尚書、侍中。承聖二年,遷尚書右僕射,仍參掌選事,又加侍中。其年,遷左僕射,參掌如故。三年,江陵陷,入于周。

王褒は『幼訓』を著し、諸子を戒めた。その第一章に言う。

原文褒著《幼訓》,以誡諸子。其一章云:

初め、沛国の劉瑴、南陽の宗懍が王褒と共に中興(元帝の即位)を輔佐する功臣となり、共に帷幄(軍中の幕舎、朝廷の中枢)に参画した。

原文初,有沛國劉瑴、南陽宗懍與褒俱爲中興佐命,同參帷幄。

劉瑴、宗懍

原文劉瑴、宗懍

劉瑴は字を仲宝といい、晋の丹陽尹劉惔(字は真長)の七世の孫である。若い頃から品行方正で器量があった。国子礼生から射策に高第で及第し、寧海県令となり、やがて湘東王記室参軍に転じ、さらに中記室となった。太清年間、侯景の乱が起こり、世祖(元帝)が上流で制令を承って政務を行うと、文書や檄文の多くは劉瑴に委ねられ、劉瑴もまた力を尽くして忠誠を尽くし、大いに賞遇を受けた。尚書左丞、御史中丞を歴任した。承聖二年、吏部尚書・国子祭酒に転じ、その他の官職は以前の通りであった。

原文劉瑴字仲寶,晉丹陽尹真長七世孫也。少方正有器局。自國子禮生射策高第,爲寧海令,稍遷湘東王記室參軍,又轉中記室。太清中,侯景亂,世祖承制上流,書檄多委鐧焉,鐧亦竭力盡忠,甚蒙賞遇。歷尚書左丞、御史中丞。承聖二年,遷吏部尚書、國子祭酒,餘如故。

宗懍は字を元懍という。八世の祖の宗承は、晋の宜都郡太守であったが、永嘉の乱で東遷に伴い、子孫は江陵に住むようになった。宗懍は幼い頃から聡明で学問を好み、昼夜倦むことなく、郷里では「童子学士」と号された。普通年間、湘東王府の兼記室となり、刑獄に転じ、引き続き書記を掌った。臨汝・建成・広晋などの県令を歴任し、後に世祖の荊州別駕となった。世祖が即位すると、尚書郎とし、信安県侯に封じられ、邑一千戸を賜った。吏部郎中、五兵尚書、吏部尚書を累進した。承聖三年、江陵が陥落すると、劉瑴と共に北周に入った。

原文宗懍字元懍。八世祖承,晉宜都郡守,屬永嘉東徙,子孫因居江陵焉。懍少聰敏好學,晝夜不倦,鄉里號爲「童子學士」。普通中,爲湘東王府兼記室,轉刑獄,仍掌書記。歷臨汝、建成、廣晉等令,後又爲世祖荊州別駕。及世祖卽位,以爲尚書郎,封信安縣侯,邑一千戶。累遷吏部郎中、五兵尚書、吏部尚書。承聖三年,江陵沒,與瑴俱入于周。

王承

原文王承

王承は字を安期といい、僕射王暕の子である。七歳で『周易』に通じ、選ばれて国子生に補された。十五歳で射策に高第で及第し、秘書郎に任じられた。太子舎人、南康王文学、邵陵王友、太子中舎人を歴任した。父の喪で職を辞した。喪が明けると、再び中舎人となり、累進して中書黄門侍郎、兼国子博士となった。当時、富裕な貴族の子弟は皆、文学を尊び互いに競い、経術を学業とする者は稀であったが、王承だけはそれを好み、発言や議論は、急な時でも儒者のようであった。学問所で諸生を教え、『礼』『易』の義を述べた。中大通五年、長兼侍中に転じ、間もなく国子祭酒に転任した。王承の祖父の王儉と父の王暕がかつてこの職に就いており、三代にわたって国師となったのは、前代に例がなく、当時の人々はこれを栄誉とした。しばらくして、戎昭将軍・東陽太守として出向した。政治は寛大で恵み深く、官吏と民は彼を喜んだ。在任一年に満たないうちに、郡で死去した。時に四十一歳。諡は章子といった。

原文王承字安期,僕射暕子。七歲通《周易》,選補國子生。年十五,射策高第,除秘書郎。歷太子舍人、南康王文學、邵陵王友、太子中舍人。以父憂去職。服闋,復爲中舍人,累遷中書黃門侍郎,兼國子博士。時膏腴貴遊,咸以文學相尚,罕以經術爲業,惟承獨好之,發言吐論,造次儒者。在學訓諸生,述《禮》、《易》義。中大通五年,遷長兼侍中,俄轉國子祭酒。承祖儉及父暕嘗爲此職,三世爲國師,前代未之有也,當世以爲榮。久之,出爲戎昭將軍、東陽太守。爲政寬惠,吏民悅之。視事未期,卒于郡,時年四十一。諡曰章子。

王承は性質が簡素で尊大さがあり、風格があった。当時、右衛将軍の朱异が朝廷で権勢を振るっており、休暇の度に、彼の門前は常に車馬で埋め尽くされていた。時に魏郡の申英という者が、過激な言論や大言壮語を好み、権勢家に逆らっていたが、常に朱异の門を指して言った。「ここに集まる者は、皆、利益を求めて行く者ばかりだ。来ることができない者は、大小の王東陽だけである」。小東陽とは、王承の弟の王稚のことである。当時、王承兄弟と褚翔だけが朱异の門を訪れず、人々はこのことで彼らを称えた。

原文承性簡貴有風格。時右衛朱异當朝用事,每休下,車馬常填門。時有魏郡申英好危言高論,以忤權右,常指异門曰:「此中輻輳,皆以利往。能不至者,惟有大小王東陽。」小東陽,卽承弟稚也。當時惟承兄弟及褚翔不至异門,時以此稱之。

褚翔

原文褚翔

褚翔は字を世挙といい、河南陽翟の人である。曾祖父の褚淵は、斉の太宰文簡公で、斉王朝の創業を補佐した。祖父の褚蓁は、太常穆子である。父の褚向は、字を景政といった。数歳の時、父母が相次いで亡くなると、褚向は成人のように悲しみ衰えて、親族や姻戚は皆これを異としていた。成長すると、学識が広く深く、器量があった。高祖(梁の武帝)が即位すると、選ばれて国子生に補せられた。初めて官に就いて秘書郎となり、太子舎人、尚書殿中郎に転じた。地方に出て安成内史となった。都に戻り太子洗馬、中舎人に任ぜられ、累進して太尉従事中郎、黄門侍郎、鎮右豫章王長史となった。まもなく、都に入り長兼侍中となった。褚向は風采容貌が端正で美しく、眉目がはっきりとしており、公の場で列に並ぶたびに、人々の注視の的となった。大通四年、寧遠将軍北中郎廬陵王長史として出向した。三年、在官のまま死去した。従兄の謝挙が墓誌銘を作り、その概略に「弘治(褚向の祖父か)の才華を推し、子嵩(何点か)の度量を恥じる。酒は月下に帰し、風は琴上に清し」とあった。論者は、この比喩がその人柄にふさわしいと認めた。

原文褚翔字世舉,河南陽翟人。曾祖淵,齊太宰文簡公,佐命齊室。祖蓁,太常穆子。父向,字景政。年數歲,父母相繼亡沒,向哀毀若成人者,親表咸異之。旣長,淹雅有器量。高祖踐阼,選補國子生。起家秘書郎,遷太子舍人、尚書殿中郎。出爲安成內史。還除太子洗馬、中舍人,累遷太尉從事中郎、黃門侍郎、鎮右豫章王長史。頃之,入爲長兼侍中。向風儀端麗,眉目如點,每公庭就列,爲衆所瞻望焉。大通四年,出爲寧遠將軍北中郎廬陵王長史。三年,卒官。外兄謝舉爲制墓銘,其略曰:「弘治推華,子嵩慚量;酒歸月下,風清琴上。」論者以爲擬得其人。

褚翔は初め国子生となり、高い成績で挙げられた。父の喪に服した。喪が明けると、秘書郎に任ぜられ、累進して太子舎人、宣城王主簿となった。中大通五年、高祖が楽遊苑で群臣を宴し、別に詔して褚翔と王訓に二十韻の詩を作らせ、三刻の制限時間で完成させた。褚翔は座席から立ち上がって奏上し、高祖はこれを異とし、その日に宣城王文学に転じ、まもなく友に昇進した。当時、宣城王の友と文学は他の王のものより二等級が高く設定されていたため、褚翔を越級でこれに任じたので、当時の世論はこれを称賛した。

原文翔初爲國子生,舉高第。丁父憂。服闋,除秘書郎,累遷太子舍人、宣城王主簿。中大通五年,高祖宴羣臣樂游苑,別詔翔與王訓爲二十韻詩,限三刻成。翔于坐立奏,高祖異焉,卽日轉宣城王文學,俄遷爲友。時宣城友、文學加它王二等,故以翔超爲之,時論美焉。

義興太守として出向した。褚翔は政務において自らを清廉に保ち、煩雑で過酷な政令を省き、無駄な出費を削り、民衆は安んじた。郡の西亭に古い木があり、長年枯れ死んでいたが、褚翔が郡に着任すると、突然に枝葉が生え変わった。民衆は皆、善政の感応によるものだと考えた。任期が満了すると、役人や民衆が宮廷に赴いて留任を請願し、詔勅によって許可された。まもなく吏部郎に召されたが、郡を去る際、民衆は老若を問わず境界まで追いかけて見送り、涙を流して拝礼して別れた。

原文出爲義興太守。翔在政潔已,省繁苛,去浮費,百姓安之。郡之西亭有古樹,積年枯死;翔至郡,忽更生枝葉,百姓咸以爲善政所感。及秩滿,吏民詣闕請之,敕許焉。尋徵爲吏部郎,去郡,百姓無老少追送出境,涕泣拜辭。

褚翔は吏部郎(小選)の職にあり、公平清廉で、請託によって意志を変えることがなく、公平妥当と評された。まもなく侍中に転じ、しばらくして散騎常侍に転じ、羽林監を兼任し、東宮に侍した。晉陵太守として出向したが、郡に在任して一年にも満たないうちに、公事のことで免官された。まもなく再び散騎常侍となり、東宮に侍した。太清二年、吏部尚書を守った。その年の冬、侯景が宮城を包囲すると、褚翔は包囲の中で母の喪に服し、悲嘆のあまり死去した。時に四十四歳であった。詔により本官のまま追贈された。

原文翔居小選公清,不爲請屬易意,號爲平允。俄遷侍中,頃之轉散騎常侍,領羽林監,侍東宮。出爲晉陵太守,在郡未期,以公事免。俄復爲散騎常侍,侍東宮。太清二年,遷守吏部尚書。其年冬,侯景圍宮城,翔於圍內丁母憂,以毀卒,時年四十四。詔贈本官。

褚翔は幼い頃から孝行の天性があった。侍中であった時、母の病が重くなり、僧侶に依頼して福を祈った。夜中に突然、戸外に異様な光を見、また空中で指を鳴らす音を聞いた。夜が明けると、病はたちまち癒えた。人々は皆、褚翔の精誠がもたらしたものだと考えた。

原文翔少有孝性。爲侍中時,母疾篤,請沙門祈福。中夜忽見戶外有異光,又聞空中彈指,及曉,疾遂愈。咸以翔精誠所致焉。

蕭介

原文蕭介

蕭介は字を茂鏡といい、蘭陵の人である。祖父の蕭思話は、宋の開府儀同三司、尚書僕射であった。父の蕭惠茜は、斉の左民尚書であった。

原文蕭介字茂鏡,蘭陵人也。祖思話,宋開府儀同三司、尚書僕射。父惠茜,齊左民尚書。

蕭介は幼い頃から聡明で悟りが早く、器量と識見があり、経書史書に広く通じ、文章を書くことも得意であった。斉の永元の末、著作佐郎として初めて官に就いた。天監六年、太子舎人に任ぜられた。八年、尚書金部郎に転じた。十二年、主客郎に転じた。地方に出て呉県令となり、名声と実績を大いに上げた。湘東王(後の梁の元帝)が蕭介の名を聞き、共に交遊したいと思い、上表して召し寄せた。普通三年、蕭介を湘東王諮議参軍とした。大通二年、給事黄門侍郎に任ぜられた。大同二年、武陵王が揚州刺史となると、蕭介を府長史とし、在職中は清廉潔白で、朝廷から称賛された。高祖は何敬容に言った。「蕭介は非常に貧しい。一郡の長官に任じるのがよい。」敬容が返答しないと、高祖は言った。「始興郡は近頃良い太守がいなくて、嶺上の民衆がかなり不安に思っている。蕭介をそこに任じることができる。」これにより始興太守として出向した。蕭介が任地に着くと、威徳を宣布し、管内は厳粛で清らかになった。七年、少府卿に召され、まもなく散騎常侍を加えられた。ちょうど侍中の職が空席となり、選挙の役所が王筠ら四人を推挙したが、いずれも帝の意にかなわず、高祖は言った。「我が門中には久しくこの職がいない。蕭介を用いるのがよい。」蕭介は博識で記憶力が強く、側近として応対し、多くを匡正したので、高祖は非常に重んじた。都官尚書に転じ、軍国大事があるたびに、必ずまず蕭介に諮問した。高祖は朱异に言った。「尚書省長官の器である。」中大同二年、病気を理由に引退を願い出たが、高祖は丁重な詔で許さなかった。結局起き上がろうとしなかったので、謁者僕射の魏祥を遣わして、光禄大夫に任じた。

原文介少穎悟,有器識,博涉經史,兼善屬文。齊永元末,釋褐著作佐郎。天監六年,除太子舍人。八年,遷尚書金部郎。十二年,轉主客郎。出爲吳令,甚著聲績。湘東王聞介名,思共遊處,表請之。普通三年,乃以介爲湘東王諮議參軍。大通二年,除給事黃門侍郎。大同二年,武陵王爲揚州刺史,以介爲府長史,在職清白,爲朝廷所稱。高祖謂何敬容曰:「蕭介甚貧,可處以一郡。」敬容未對,高祖曰:「始興郡頃無良守,嶺上民頗不安,可以介爲之。」由是出爲始興太守。介至任,宣佈威德,境內肅清。七年,徵爲少府卿,尋加散騎常侍。會侍中闕,選司舉王筠等四人,並不稱旨,高祖曰:「我門中久無此職,宜用蕭介爲之。」介博物強識,應對左右,多所匡正,高祖甚重之。遷都官尚書,每軍國大事,必先詢訪於介焉。高祖謂朱异曰:「端右之材也。」中大同二年,辭疾致事,高祖優詔不許。終不肯起,乃遣謁者僕射魏祥就拜光祿大夫。

太清年間、侯景が渦陽で敗走し、寿陽に入った。高祖は防衛責任者の韋黙に命じてこれを受け入れさせた。蕭介はこれを聞いて上表して諫めた。

原文太清中,侯景於渦陽敗走,入壽陽。高祖敕防主韋默納之,介聞而上表諫曰:

高祖は上表を読み嘆息したが、結局用いることはできなかった。

原文高祖省表歎息,卒不能用。

蕭介の性格は高尚で簡素であり、交遊は少なく、ただ族兄の蕭琛、従兄の蕭眎素、および蕭洽、従弟の蕭淑らと文酒の宴を催して楽しんだ。当時の人はこれを謝氏の烏衣巷での交遊になぞらえた。初め、高祖が後進の者二十余人を招き寄せ、酒宴を開いて詩を作らせた。臧盾は詩ができず、罰として酒一斗を飲まされた。臧盾は飲み干したが、顔色は変わらず、談笑は平常のままだった。蕭介は筆を染めてすぐに完成させ、文章に一点の加筆もなかった。高祖は両者を称えて言った。「臧盾の飲みっぷり、蕭介の文章は、この席での美事である。」七十三歳で、自宅で死去した。

原文介性高簡,少交遊,惟與族兄琛、從兄眎素及洽、從弟淑等文酒賞會,時人以比謝氏烏衣之遊。初,高祖招延後進二十餘人,置酒賦詩。臧盾以詩不成,罰酒一斗,盾飲盡,顏色不變,言笑自若;介染翰便成,文無加點。高祖兩美之曰:「臧盾之飲,蕭介之文,卽席之美也。」年七十三,卒於家。

三男の蕭允は、初め兼散騎常侍として魏に使いし、帰国して太子中庶子となり、後に光禄大夫に至った。

原文第三子允,初以兼散騎常侍聘魏,還爲太子中庶子,後至光祿大夫。

従父兄 蕭洽

原文從父兄 洽

蕭洽は字を宏称といい、蕭介の従父兄である。父の蕭恵基は、斉の吏部尚書で、前代に重い名声があった。

原文洽字宏稱,介從父兄也。父惠基,齊吏部尚書,有重名前世。

洽は幼い頃から聡明で悟りが早く、七歳の時に『楚辭』を暗誦し、ほぼ口ずさむことができた。成長すると、学問を好み広く諸書に通じ、また文章をよく作った。斉の永明年間、国子生となり、明経に挙げられた。初任は著作佐郎、西中郎外兵参軍に転じた。天監初年、前軍鄱陽王主簿・尚書囗部郎となり、太子中舎人に転じた。外任として南徐州治中となった。これは京畿に近い要地で、役人は数千人に及び、前任者たちは皆巨富を得ていた。洽がその任に就くと、自ら清廉に努め職務に励み、賄賂や贈り物は一切受け取らず、妻子は飢えと寒さを免れなかった。帰朝して司空従事中郎に任じられ、建安内史となったが、事に連座して免官された。久しくして起用され護軍長史・北中郎諮議参軍となり、太府卿・司徒臨川王司馬に転じた。普通初年、員外散騎常侍に任じられ、御史中丞を兼ねたが、公事により免官された。間もなく通直散騎常侍となった。洽は若い頃から才気があり、高祖が同泰寺と大愛敬寺の二つの寺の刹下の銘文を作るよう命じると、その文章は非常に優れていた。二年、散騎常侍に転じた。外任として招遠将軍・臨海太守となった。政治は清廉公平で、威圧的な手法を好まず、民衆はその統治を便利に感じた。帰朝して司徒左長史に任じられ、また詔により『当塗堰碑』を撰述し、その文辞も豊かで麗しかった。六年、在官のまま死去した。享年五十五。詔により哀悼の儀が行われ、葬儀のための銭二万、布五十匹が贈られた。文集二十巻があり、世に行われた。

原文洽幼敏寤,年七歲,誦《楚辭》略上口。及長,好學博涉,亦善屬文。齊永明中,爲國子生,舉明經。起家著作佐郎,遷西中郎外兵參軍。天監初,爲前軍鄱陽王主簿、尚書囗部郎,遷太子中舍人。出爲南徐州治中,旣近畿重鎮,史數千人,前後居之者皆致巨富。洽爲之,清身率職,饋遺一無所受,妻子不免饑寒。還除司空從事中郎,爲建安內史,坐事免。久之,起爲護軍長史、北中郎諮議參軍,遷太府卿、司徒臨川王司馬。普通初,拜員外散騎常侍,兼御史中丞,以公事免。頃之,爲通直散騎常侍。洽少有才思,高祖令制同泰、大愛敬二寺刹下銘,其文甚美。二年,遷散騎常侍。出爲招遠將軍、臨海太守。爲政清平,不尚威猛,民俗便之。還拜司徒左長史,又敕撰《當塗堰碑》,辭亦贍麗。六年,卒官,時年五十五。有詔出舉哀,賻錢二萬,布五十匹。集二十卷,行於世。

褚球

原文褚球

褚球は字を仲寶といい、河南陽翟の人である。高祖父の叔度は、宋の征虜将軍・雍州刺史であった。祖父の曖は、太宰外兵参軍であった。父の繢は、太子舎人であった。いずれも宋の公主を娶った。

原文褚球字仲寶,河南陽翟人。高祖叔度,宋征虜將軍、雍州刺史;祖曖,太宰外兵參軍;父繢,太子舍人;並尚宋公主。

球は幼くして孤児となり貧しかったが、志を固くして学問を好み、才気があった。宋の建平王景素は、元徽年間に誅滅されたが、ただ一人の娘だけが生き残った。その旧臣の何昌珝と王思遠は、球が清廉で立派な人物であると聞き、この娘を彼に嫁がせ、そのために名声を広めた。斉に仕え、初任は征虜行参軍、間もなく法曹に任命され、右軍曲江公主簿に転じた。外任として溧陽県令となり、県では清廉潔白で、公の俸給だけで生活した。平西主簿に任じられた。

原文球少孤貧,篤志好學,有才思。宋建平王景素,元徽中誅滅,惟有一女得存。其故吏何昌珝、王思遠聞球清立,以此女妻之,因爲之延譽。仕齊,起家征虜行參軍,俄署法曹,遷右軍曲江公主簿。出爲溧陽令,在縣清白,資公俸而已。除平西主簿。

天監初年、太子洗馬・散騎侍郎に転じ、中書通事舎人を兼ねた。外任として建康県令となったが、母の喪により職を辞した。元の官職で起用されたが、固辞して拝命しなかった。喪が明けると、北中郎諮議参軍に任じられ、間もなく中書郎に転じ、再び中書通事舎人を兼ねた。雲騎将軍に任じられ、累進して廷尉・光禄卿を兼ね、舎人は従前の通りであった。御史中丞に転じた。球は公正で強情な性格で、何事にも屈せず、憲司(御史台)の職務に非常に適任であった。普通四年、外任として北中郎長史・南蘭陵太守となった。入朝して通直散騎常侍となり、羽林監を領した。七年、太府卿に転じ、間もなく都官尚書に転じた。中大同年間、外任として仁威臨川王長史・江夏太守となったが、病気のため赴任しなかった。光禄大夫に改めて任じられたが、拝命せず、再び太府卿となり、歩兵校尉を領した。間もなく通直散騎常侍・秘書監に転じ、著作を領した。司徒左長史に転じ、常侍・著作は従前の通りであった。魏の孫礼、晋の荀組以来、台佐(三公の属官)に貂尾の冠飾りを加える例が始まり、球がそれに当たった。まもなく外任として貞威将軍軽車河東王長史・南蘭陵太守となった。入朝して散騎常侍となり、歩兵を領した。まもなく致仕を上表したが、詔により許されなかった。間もなく再び光禄大夫に任じられ、給事中を加えられた。在官のまま死去した。享年七十。

原文天監初,遷太子洗馬、散騎侍郎,兼中書通事舍人。出爲建康令,母憂去職,以本官起之,固辭不拜。服闋,除北中郎諮議參軍,俄遷中書郎,復兼中書通事舍人。除雲騎將軍,累兼廷尉、光祿卿,舍人如故。遷御史中丞。球性公強,無所屈撓,在憲司甚稱職。普通四年,出爲北中郎長史、南蘭陵太守;入爲通直散騎常侍,領羽林監。七年,遷太府卿,頃之,遷都官尚書。中大同中,出爲仁威臨川王長史、江夏太守,以疾不赴職。改授光祿大夫,未拜,復爲太府卿,領步兵校尉。俄遷通直散騎常侍、秘書監,領著作。遷司徒左長史,常侍、著作如故。自魏孫禮、晉荀組以後,台佐加貂,始有球也。尋出爲貞威將軍輕車河東王長史、南蘭陵太守。入爲散騎常侍,領步兵。尋表致仕,詔不許。俄復拜光祿大夫,加給事中。卒官,時年七十。

劉孺

原文劉孺

劉孺は字を孝稚といい、彭城安上里の人である。祖父の勔は、宋の司空忠昭公であった。父の悛は、齊の太常敬子であった。

原文劉孺字孝稚,彭城安上里人也。祖勔,宋司空忠昭公。父悛,齊太常敬子。

孺は幼い頃から聡明で、七歳で文章を作ることができた。十四歳の時、父の喪に服し、憔悴して骨と皮ばかりになり、一族や郷党の人々は皆驚いた。喪が明けると、叔父の瑱が義興郡太守となったので、彼を連れて任地に赴き、常に座の傍らに置き、賓客に言った。「この子は我が家の明珠である。」成長すると、風采が美しく、性格は温和で、家族でさえその喜びや怒りを見たことがなかった。本州から主簿に招聘された。

原文孺幼聰敏,七歲能屬文。年十四,居父喪,毀瘠骨立,宗黨咸異之。服闋,叔父瑱爲義興郡,攜以之官,常置坐側,謂賓客曰:「此兒吾家之明珠也。」旣長,美風采,性通和,雖家人不見其喜慍。本州召迎主簿。

初任は中軍法曹行参軍であった。当時、鎮軍将軍の沈約がその名を聞き、主簿に引き抜き、常に遊宴して詩を賦し、大いに約に賞賛された。累進して太子舎人・中軍臨川王主簿・太子洗馬・尚書殿中郎となった。外任として太末県令となり、県では清廉な治績を上げた。帰朝して晋安王友に任じられ、太子中舎人に転じた。

原文起家中軍法曹行參軍。時鎮軍沈約聞其名,引爲主簿,常與遊宴賦詩,大爲約所嗟賞。累遷太子舍人、中軍臨川王主簿、太子洗馬、尚書殿中郎。出爲太末令,在縣有清績。還除晉安王友,轉太子中舍人。

孺は若い頃から文章を好み、性格も機敏で速やかであり、かつて御前で『李賦』を作り、詔を受けるとすぐに完成させ、一字も加えず、高祖は大いに称賛した。後に寿光殿で宴に侍した時、詔により群臣に詩を賦させたが、その時孺と張率は共に酔っており、まだ完成していなかった。高祖は孺の手板(笏)を取って戯れに書き付けた。「張率は東南の美、劉孺は洛陽の才。筆を取れば即座に成るべきに、何事をか久しくためらうのか?」このように親愛された。

原文孺少好文章,性又敏速,嘗於御坐爲《李賦》,受詔便成,文不加點,高祖甚稱賞之。後侍宴壽光殿,詔羣臣賦詩,時孺與張率並醉,未及成,高祖取孺手板題戲之曰:「張率東南美,劉孺雒陽才。攬筆便應就,何事久遲回?」其見親愛如此。

中書郎に転じ、中書通事舎人を兼ねた。間もなく太子家令に転じ、他の官職は従前の通りであった。外任として宣恵晋安王長史となり、丹陽尹丞を領した。太子中庶子・尚書吏部郎に転じた。外任として軽車湘東王長史となり、会稽郡丞を領したが、公事により免官された。間もなく起用され王府記室散騎侍郎となり、光禄卿を兼ねた。累進して少府卿・司徒左長史・御史中丞となり、称職と評された。大通二年、散騎常侍に転じた。三年、左民尚書に転じ、歩兵校尉を領した。中大通四年、外任として仁威臨川王長史・江夏太守となり、貞威将軍を加えられた。五年、寧遠将軍・司徒左長史に任じられたが、拝命せず、都官尚書に改められ、右軍将軍を領した。大同五年、吏部尚書を守った。その年、外任として明威将軍・晋陵太守となった。郡では温和な統治を行い、官吏や民衆に称賛された。七年、入朝して侍中となり、右軍を領した。その年、再び吏部尚書となったが、母の喪により職を辞した。喪に服して一年にも満たないうちに、衰弱して死去した。享年五十九。諡は孝子といった。

原文轉中書郎,兼中書通事舍人。頃之遷太子家令,餘如故。出爲宣惠晉安王長史,領丹陽尹丞。遷太子中庶子、尚書吏部郎。出爲輕車湘東王長史,領會稽郡丞,公事免。頃之,起爲王府記室散騎侍郎,兼光祿卿。累遷少府卿、司徒左長史、御史中丞,號爲稱職。大通二年,遷散騎常侍。三年,遷左民尚書,領步兵校尉。中大通四年,出爲仁威臨川王長史、江夏太守,加貞威將軍。五年,爲寧遠將軍、司徒左長史,未拜,改爲都官尚書,領右軍將軍。大同五年,守吏部尚書。其年,出爲明威將軍、晉陵太守。在郡和理,爲吏民所稱。七年,入爲侍中,領右軍。其年,復爲吏部尚書,以母憂去職。居喪未期,以毀卒,時年五十九。諡曰孝子。

孺は若い頃、従兄の苞や孝綽と並び称された。苞は早世し、孝綽はたびたび免官・左遷され、官位は共に高くなく、ただ孺だけが貴顕となった。文集二十巻がある。

原文孺少與從兄苞、孝綽齊名。苞早卒,孝綽數坐免黜,位並不高,惟孺貴顯。有文集二十卷。

子の芻は著作郎であったが、早世した。孺には二人の弟がいた。覧と遵である。

原文子芻,著作郎,早卒。孺二弟:覽、遵。

覧は字を孝智といい、十六歳で『老子』『易経』に通じた。中書郎を歴任し、実母の喪に服し、墓の傍らに廬を結んだ。二周忌の間、塩や乳製品を口にせず、冬でも単衣の布一枚しか着なかった。家族は彼が喪に耐えられないのではないかと心配し、夜中にこっそり炭を床下に置いた。覧は暖気で眠ることができたが、目覚めてそれを知ると、慟哭して血を吐いた。高祖は彼が至誠の性分を持つと聞き、たびたび見舞った。喪が明けると、尚書左丞に任じられた。性格は聡明で、尚書令史七百人の名姓を一度見ただけで全て覚えた。職務において清廉公正で、私心がなかった。姉婿の御史中丞褚湮や従兄の吏部郎孝綽は、在職中にかなり賄賂を受け取っていたが、覧は弾劾上奏し、二人とも免官させた。孝綽はこれを怨み、かつて人に言った。「犬は通行人を噛むが、覧は家族を噛む。」外任として始興内史となり、郡の統治では特に清廉な節操を励んだ。帰朝して再び左丞となり、在官のまま死去した。

原文覽字孝智,十六通《老》、《易》。歷官中書郎,以所生母憂,廬于墓。再期,口不嚐鹽酪,冬止著單布。家人患其不勝喪,中夜竊置炭於床下,覽因暖氣得睡,旣覺知之,號慟歐血。高祖聞其有至性,數省視之。服闋,除尚書左丞。性聰敏,尚書令史七百人,一見並記名姓。當官清正,無所私。姊夫御史中丞褚湮、從兄吏部郎孝綽,在職頗通贓貨,覽劾奏,並免官。孝綽怨之,嘗謂人曰:「犬齧行路,覽噬家人。」出爲始興內史,治郡尤勵清節。還復爲左丞,卒官。

遵は字を孝陵といった。若い頃から清らかで風雅であり、学問と品行に優れ、文章を作ることに長けていた。初任は著作郎・太子舎人、累進して晋安王の宣恵・雲麾二府の記室となり、賓客としての礼遇を大いに受け、南徐州治中に転じた。王が後に雍州刺史となると、再び引き抜かれて安北諮議参軍となり、邔県令を帯びた。中大通二年、王が皇太子に立てられると、そのまま中庶子に任じられた。遵は藩王に随従して以来、東宮にあっても、旧恩により特に寵遇を受け、同時代の者で及ぶ者はいなかった。大同元年、在官のまま死去した。皇太子は深く悼み惜しみ、遵の従兄である陽羨県令の孝儀に令(命令書)を下した。

原文遵字孝陵。少清雅,有學行,工屬文。起家著作郎、太子舍人,累遷晉安王宣惠、雲麾二府記室,甚見賓禮,轉南徐州治中。王后爲雍州,復引爲安北諮議參軍,帶邔縣令。中大通二年,王立爲皇太子,仍除中庶子。遵自隨籓及在東宮,以舊恩,偏蒙寵遇,同時莫及。大同元年,卒官。皇太子深悼惜之,與遵從兄陽羨令孝儀令曰:

劉潛

原文劉潛

劉潛は字を孝儀といい、秘書監の劉孝綽の弟である。幼くして孤児となり、兄弟と互いに励まし合って学問に勤し、ともに文章を綴ることに長じた。孝綽は常に「三筆六詩」と言っていたが、三とは孝儀のことで、六とは孝威のことである。天監五年、秀才に挙げられた。初めて官に就き、鎮右始興王の法曹行参軍となり、王府に従って益州に赴き、記室を兼ねた。王が中撫軍として入朝すると、主簿に転じ、尚書殿中郎に昇進した。詔勅により『雍州平等金像碑』を撰述し、その文章は非常に雄大で麗しかった。晋安王蕭綱が襄陽に出鎮すると、彼を召し出して安北功曹史とし、母の喪のため職を去った。王が皇太子に立てられると、孝儀は喪が明け、そのまま洗馬に補され、中舎人に昇進した。外任して戎昭将軍・陽羨県令となり、非常に称賛される治績を上げ、建康県令に抜擢された。大同三年、中書郎に昇進したが、公事の不手際により左遷されて安西諮議参軍となり、散騎常侍を兼ねた。魏に使いして帰還すると、再び中書郎に任じられた。まもなく、司徒右長史を権兼し、さらに寧遠長史を兼ね、彭城・琅邪二郡の事務を代行した。累進して尚書左丞となり、御史中丞を兼ねた。在職中、弾劾糾弾に遠慮がなく、当時の人々に称賛された。十年、外任して伏波将軍・臨海郡太守となった。当時は法網が緩んでおり、百姓は禁令を守らない者が多かった。孝儀が着任すると、条制を公布し、精神を奮い起こして民を安撫したので、管内は一致して従い、風俗は大きく改まった。中大同元年、都官尚書を守として入朝した。太清元年、外任して明威将軍・豫章国内史となった。二年、侯景が都を侵犯すると、孝儀は子の劉勵に命じて郡兵三千人を率いさせ、前衡州刺史韋粲に従って救援に入らせた。三年、宮城が陥落すると、孝儀は前歴陽太守の荘鉄に脅迫され、郡を失った。大寶元年、病没した。享年六十七。

原文劉潛字孝儀,秘書監孝綽弟也。幼孤,與兄弟相勵勤學,並工屬文。孝綽常曰「三筆六詩」,三卽孝儀,六孝威也。天監五年,舉秀才。起家鎮右始興王法曹行參軍,隨府益州,兼記室。王入爲中撫軍,轉主簿,遷尚書殿中郎。敕令制《雍州平等金像碑》,文甚宏麗。晉安王綱出鎮襄陽,引爲安北功曹史,以母憂去職。王立爲皇太子,孝儀服闋,仍補洗馬,遷中舍人。出爲戎昭將軍、陽羨令,甚有稱績,擢爲建康令。大同三年,遷中書郎,以公事左遷安西諮議參軍,兼散騎常侍。使魏還,復除中書郎。頃之,權兼司徒右長史,又兼寧遠長史、行彭城琅邪二郡事。累遷尚書左丞,兼御史中丞。在職彈糾無所顧望,當時稱之。十年,出爲伏波將軍、臨海太守。是時政網疏闊,百姓多不遵禁。孝儀下車,宣示條制,勵精綏撫,境內翕然,風俗大革。中大同元年,入守都官尚書。太清元年,出爲明威將軍、豫章內史。二年,侯景寇京邑,孝儀遣子勵帥郡兵三千人,隨前衡州刺史韋粲入援。三年,宮城不守,孝儀爲前歷陽太守莊鐵所逼,失郡。大寶元年,病卒,時年六十七。

孝儀は人となり寛厚で、家庭内の行いには特に篤実であった。第二兄の孝能が早世したため、孝儀は寡婦となった兄嫁に仕えることを非常に謹み、家内の大小の事柄は、必ずまず彼女に相談して決めた。妻や子と朝夕に仕え、礼を失うことはなかった。世間はこのことで彼を称えた。文集二十巻があり、世に行われた。

原文孝儀爲人寬厚,內行尤篤。第二兄孝能早卒,孝儀事寡嫂甚謹,家內巨細,必先諮決。與妻子朝夕供事,未嘗失禮。世以此稱之。有文集二十卷,行於世。

第五弟の孝勝は、邵陵王の法曹、湘東王の安西主簿記室、尚書左丞を歴任した。外任して信義郡太守となったが、公事の不手際で免官された。しばらくして、再び尚書右丞となり、散騎常侍を兼ねた。魏に使いして帰還すると、安西武陵王蕭紀の長史・蜀郡太守となった。太清年間、侯景が京師を陥落させると、蕭紀が蜀で帝号を僭称し、孝勝を尚書僕射とした。承聖年間、蕭紀に従って峽口から出撃したが、兵敗して捕らえられ、獄に下された。世祖(元帝)はまもなく彼を赦し、司徒右長史に起用した。

原文第五弟孝勝,歷官邵陵王法曹、湘東王安西主簿記室、尚書左丞。出爲信義太守,公事免。久之,復爲尚書右丞,兼散騎常侍。聘魏還,爲安西武陵王紀長史、蜀郡太守。太清中,侯景陷京師,紀僭號於蜀,以孝勝爲尚書僕射。承聖中,隨紀出峽口,兵敗,被執下獄。世祖尋宥之,起爲司徒右長史。

第六弟の孝威は、初め安北晋安王の法曹となり、主簿に転じたが、母の喪のため職を去った。喪が明けると、太子洗馬に任じられ、累進して中舎人、庶子、率更令となり、いずれも記録を管掌した。大同九年、白い雀が東宮に集まったとき、孝威が頌文を献上し、その文辞は非常に美しかった。太清年間、中庶子に昇進し、通事舎人を兼ねた。侯景の乱が起こると、孝威は包囲された城から脱出し、司州刺史柳仲礼に従って西上し、安陸に至り、病に罹って没した。

原文第六弟孝威,初爲安北晉安王法曹,轉主簿,以母憂去職。服闋,除太子洗馬,累遷中舍人、庶子、率更令,並掌管記。大同九年,白雀集東宮,孝威上頌,其辭甚美。太清中,遷中庶子,兼通事舍人。及侯景寇亂,孝威於圍城得出,隨司州刺史柳仲禮西上,至安陸,遇疾卒。

第七弟の孝先は、武陵王の法曹、主簿となった。王が益州に転任すると、王府に従って安西記室に転じた。承聖年間、兄の孝勝とともに蕭紀の軍に従って峽口から出撃したが、兵敗し、江陵に至った。世祖は彼を黄門侍郎とし、侍中に昇進させた。兄弟はいずれも五言詩を得意とし、世に重んじられた。文集は乱に遭い、現在は完全には残っていない。

原文第七弟孝先,武陵王法曹、主簿。王遷益州,隨府轉安西記室。承聖中,與兄孝勝俱隨紀軍出峽口,兵敗,至江陵,世祖以爲黃門侍郎,遷侍中。兄弟並善五言詩,見重於世。文集值亂,今不具存。

殷芸

原文殷芸

殷芸は字を灌蔬といい、陳郡長平県の人である。性格は豪放で、細かい行いにはこだわらなかった。しかし、むやみに交遊せず、門に雑多な客はいなかった。精神を奮い起こして学問に励み、広く多くの書物に通じていた。幼い頃、廬江の何憲が彼を見て、深く賞賛した。永明年間、宜都王の行参軍となった。天監初年、西中郎主簿、後軍臨川王記室となった。七年、通直散騎侍郎に昇進し、中書通事舎人を兼ねた。十年、通直散騎侍郎に任じられ、尚書左丞を兼ね、さらに中書舎人を兼ね、国子博士、昭明太子侍読、西中郎豫章王長史に昇進し、丹陽尹丞を領し、累進して通直散騎常侍、秘書監、司徒左長史となった。普通六年、東宮学士省に直した。大通三年に没した。享年五十九。

原文殷芸字灌蔬,陳郡長平人。性倜儻,不拘細行。然不妄交遊,門無雜客。勵精勤學,博洽羣書。幼而廬江何憲見之,深相歎賞。永明中,爲宜都王行參軍。天監初,爲西中郎主簿、後軍臨川王記室。七年,遷通直散騎侍郎,兼中書通事舍人。十年,除通直散騎侍郎,兼尚書左丞,又兼中書舍人,遷國子博士、昭明太子侍讀、西中郎豫章王長史,領丹陽尹丞,累遷通直散騎常侍、秘書監、司徒左長史。普通六年,直東宮學士省。大通三年卒,時年五十九。

蕭幾

原文蕭幾

蕭幾は字を徳玄といい、斉の曲江公蕭遙欣の子である。十歳の時、文章を綴ることができた。早くに孤児となり、弟が九人いたが、いずれも幼かった。蕭幾は慈愛に篤く仲睦まじく、朝野に知られた。性格は温和で、他人と争わず、清貧の中で自立した。学問を好み、草書・隷書に長じた。湘州刺史の楊公則は、曲江公(蕭遙欣)の旧臣であった。蕭幾を見るたびに、人に言った。「康公(蕭遙欣の諡)のこの子は、まさに桓霊宝(桓玄)の再来と言えよう。」公則が没すると、蕭幾が誄文を作った。当時十五歳で、沈約はこれを見て驚き、彼の母方の叔父である蔡撙に言った。「昨日、賢甥の楊平南(楊公則)の誄文を見たが、希逸(謝荘)の作品に劣らない。これで康公の善行の積み重ねの慶事が証明された。」初めて官に就き、著作佐郎、廬陵王文学、尚書殿中郎、太子舎人となり、記録を管掌し、庶子、中書侍郎、尚書左丞に昇進した。晩年は、ひたすら仏教を尊崇した。新安郡太守となったが、郡内には山水が多く、まさに彼の好みに適い、性情のままに遊歴し、ついにその記録を書いた。任地で没した。

原文蕭幾字德玄,齊曲江公遙欣子也。年十歲,能屬文。早孤,有弟九人,並皆稚小,幾恩愛篤睦,聞於朝野。性溫和,與物無競,清貧自立。好學,善草隸書。湘州刺史楊公則,曲江之故吏也。每見幾,謂人曰:「康公此子,可謂桓靈寶出。」及公則卒,幾爲之誄,時年十五,沈約見而奇之,謂其舅蔡撙曰:「昨見賢甥楊平南誄文,不減希逸之作,始驗康公積善之慶。」釋褐著作佐郎、廬陵王文學、尚書殿中郎、太子舍人、掌管記,遷庶子、中書侍郎、尚書左丞。末年,專尚釋教。爲新安太守,郡多山水,特其所好,適性遊履,遂爲之記。卒於官。

子の蕭為は、字を元専といい、これまた文才があった。官は太子舎人、永康県令まで至った。

原文子爲,字元專,亦有文才。仕至太子舍人,永康令。

【史論】

原文【史論】

史臣は言う。王規の一族はともに高名な名声を誇り、良き時代に巡り合って各々の才能を発揮したことは、美事であった。蕭洽の『当塗』の文辞は文人たちに称賛され、彼もまた一時の俊才であった。

原文史臣曰:王規之徒,俱著名譽,旣逢休運,才用各展,美矣。蕭洽《當塗》之制,見偉辭人;劉孝儀兄弟,並以文章顯。君子知梁代之有人焉。