梁書
世祖 孝元皇帝は 諱 を 繹 、 字 を世誠、 小字 を七符といい、高祖の第七子である。天監七年八月丁巳に生まれた。十三年、湘東郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜った。初め寧遠将軍・会稽 太守 となり、入朝して 侍中 ・宣威将軍・丹陽尹となった。普通七年、使持節・ 都督 荊湘郢益寧南梁六州諸軍事・西中郎将・ 荊州 刺史 として出向した。中大通四年、平西将軍に進号した。大同元年、安西将軍に進号した。三年、鎮西将軍に進号した。五年、入朝して安右将軍・護軍将軍となり、 石頭 戍軍事を領した。六年、使持節・ 都督 江州諸軍事・鎮南将軍・江州 刺史 として出向した。太清元年、使持節・ 都督 荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・鎮西将軍・荊州 刺史 に転じた。三年三月、 侯景 が京師を陥落させた。四月、太子舎人蕭韶が 江陵 に至り密 詔 を伝え、世祖を侍中・仮 黄鉞 ・大 都督 中外諸軍事・ 司徒 承制とし、その他の官職は従前のままとした。この月、世祖は 湘州 に兵を徴発したが、湘州 刺史 の河東王蕭誉は派遣を拒否した。六月丙午、世子の 蕭等 を派遣して軍勢を率いさせ蕭誉を討たせたが、戦いに敗れて戦死した。七月、また鎮兵将軍鮑泉を派遣して代わりに蕭誉を討たせた。九月乙卯、 雍州 刺史 の岳陽王 蕭詧 が兵を挙げて反乱を起こし、江陵を侵攻してきたので、世祖は城に籠もって防戦した。乙丑、蕭詧の部将杜掞とその兄弟および楊混が、それぞれ配下の兵を率いて降伏してきた。丙寅、蕭詧は逃走した。鮑泉は湘州を攻撃したが陥落させられず、また左衛将軍 王僧弁 を派遣して代わりに指揮を執らせた。
大宝元年
大宝元年、世祖はなお太清四年と称していた。正月辛亥の朔日、左衛将軍王僧弁が三十個の実が一つの蒂についた橘を入手し、献上した。
二月甲戌、衡陽内史周弘直が上表して言うには、鳳凰が郡内に現れたという。
夏五月辛未、王僧弁が湘州を平定し、河東王蕭誉を斬り、湘州は平定された。
六月、江夏王蕭大款、山陽王蕭大成、宜都王蕭大封が信安から間道を通って来奔した。
九月辛酉、前 郢州 刺史 の南平王蕭恪を中衛将軍・ 尚書 令・開府儀同三司とし、中撫軍将軍の世子蕭方諸を郢州 刺史 とし、左衛将軍王僧弁を領軍将軍とした。蕭大款を臨川郡王に、蕭大成を桂陽郡王に、蕭大封を汝南郡王に改封した。この月、任約が西陽・武昌に侵攻してきたので、左衛将軍徐文盛、右衛将軍陰子春、太子右衛率蕭慧正、嶲州 刺史 席文獻らを派遣して武昌に下らせ、任約を防がせた。中衛将軍・ 尚書令 ・開府儀同三司の南平王蕭恪を荊州 刺史 とし、武陵を鎮守させた。
十一月甲子、南平王蕭恪、侍中臨川王蕭大款、桂陽王蕭大成、 散騎 常侍 江安侯蕭円正、侍中左衛将軍張綰、 司徒 左 長史 曇ら府・州・国の一千人が奉呈文を奉って言うには、
嵩岳がすでに高くそびえ、山川から雲が湧き出るように、大国には藩屏があり、申伯や甫侯のような柱石がいる。これはまさに皇帝がこの極みを建て、位を宝とし、聖人の教えが方角を弁え、名と器を慎むからではないか。それゆえ 太尉 が帝を補佐し、重華(舜)が黄玉の符を表し、 司空 が土地を相し、伯禹(禹)が玄圭の賜物を降したのである。伏して思うに、明公大王殿下は、世に応じて生まれ、聖人たる資質を備えてお出でになった。忠は立派な徳であり、孝は天の経である。地は応・韓の地に当たり、周公旦・召公奭のような深い信頼を寄せられ、五品を教え、七政を整え、志は 社稷 に存し、功は艱難を救う。夷狄が内に侵入すれば、枕戈して血の涙を流し、鯨鯢(凶賊)がまだ掃討されなければ、袖を振るって王事に勤しみ、遊魂(逃亡者)をして盟を請わせて膝を屈させ、醜悪な徒輩をして璧をくわえさせて恐れおののかせた。親族の藩王が外で反乱を起こせば、その禍いは呉・楚の乱に等しく、正義をもって討伐し威を示せば、兵刃に血塗られることもなかった。湘水の波は自然に静まり、杜弢の塁を築く必要もなく、峴山の離反者も、劉表の城を攻伐しなかった。 九江 に障害が生じ、二別(長江の別流)が異なる流れとなれば、ただちに戈船(軍船)を命じ、灊・霍を平定した。流れを遡って徹底的に討伐し、敵の窺う隙を断ち、胡兵が境界を侵せば、鉄馬が霧のように集結したが、神のような采配を独り巡らせ、すべて即座に首を斬ってさらし、翻って同様に翼を折り、ついに職貢を修めるに至った。梁・漢は合意し、鋭利な兵を繰り出し、巴・漢はともに降り、 驍 勇の陣を尽くした。南は五嶺に通じ、北は力原(中原)に力を出し、東夷は怨まず、西戎は秩序に従った。まさに上流千里、戟を持つ者百万、天下の最も貴き者、四海の推すところと言えよう。
今や海水は雲が飛び、崑山には火が燃え上がる(天下が乱れている)。魏の文帝が楽推( 禅譲 )の歳を悲しみ、韓宣子が礼の成就を嘆いたような時代である。陽台の下には、ただ冠蓋(高官)が相い趨るのみであり、夢水のほとりには、なお車輿が轍を結んでいる。大麦が二つの穂を出し、南平の国から現れ、甘露が泥の枝に降り、当陽の境に降った。野蚕が自ら糸を紡ぎ、欧糸(良質の糸)に何ら劣らず、休耕地に稲が生え、まさに雨粟(天から粟が降る祥瑞)と異ならない。すべての品物がことごとく通じているのは、文明が光大していると称される所以であり、どうして徽号が彝典(常典)に顕彰されず、明らかな試み(功績)が車服(官位の象徴)に表されないことがあろうか。
昔、晋・鄭が周に入り、なお卿士となり、蕭何・曹参が漢を補佐し、かつ相国の位に居た。この盛大な礼を崇め、衆望に応えて顕彰すべきである。蕭恪らは甲令(法令)を探り求め、惇史(忠実な史官)に広く諮詢し、謹んで再拝して上奏し、位を進めて相国とし、百揆(すべての政務)を総覧させ、竹使符一つを授け、別に恒常の儀礼に準じることを請う。金斧を持って逆暴を剪り、玉輅に乗って 社稷 を定められるように。傍らには日月のように麗しく、貞明は天地と合致する。危きを扶け治めを翼け、何と素晴らしいことであろうか。
蕭恪らは大体(根本)に通ぜず、自ら愚昧にも伏して奏上し、お聞き入れ願う。
世祖は返答を命じて言った。「数は陽九(災厄の年)に当たり、時は百六(厄運)にあり、鯨鯢(凶賊)がまだ剪除されず、寝ても覚めても心痛む。周は天官( 宰 相)を称し、秦は相国を称した。東は海に至り、西は河に至り、南は朱鳶に次ぎ、北は玄塞に及ぶ。この小宰(自分)を率いて、この大徳を弘めよう。どうして曲阜(周公)の跡を継ぎ、桓公・文公の事跡になぞらえ、ついに一匡(天下を正す)の業を建て、その五拝の礼を整えられようか。義は時に属するとはいえ、事は虚しく記すべきではなく、伝には皆が譲ったと称し、『易』の象は謙譲を鳴らすと著されている。前の典籍を仰ぎ見て、再び胸が詰まり恥じ入る思いである。」
十二月壬辰、定州 刺史 蕭勃を鎮南将軍・広州 刺史 とした。護軍将軍尹悦、巴州 刺史 王珣、定州 刺史 杜多安を派遣して軍勢を率いさせ武昌に下らせ、徐文盛を助けさせた。
大宝二年
大宝二年、世祖はなお太清五年と称した。二月己亥、魏が使者を派遣して来朝した。
三月、侯景が全軍を率いて西上し、任約の軍と合流した。
四月丙午、侯景は配下の将軍宋子仙と任約を派遣して郢州を襲撃し、 刺史 の蕭方諸を捕らえた。戊申、徐文盛と陰子春らが逃亡して帰還し、王珣・尹悦・杜多安はともに賊に降伏した。庚戌、領軍将軍の王僧辯が軍勢を率いて 巴陵 に駐屯した。甲子、侯景が進軍して巴陵を侵攻した。
五月癸未、世祖が游撃将軍の胡僧祐と信州 刺史 の陸法和に軍勢を率いて巴陵を救援するよう命じた。任約が敗北し、侯景はついに逃走した。王僧辯を征東将軍・開府儀同三司・ 尚書令 とし、胡僧祐を領軍将軍とし、陸法和を護軍将軍とした。引き続き王僧辯に諸軍を率いて侯景を追撃させ、到る所で勝利した。
八月甲辰、王僧辯が 湓城 に進軍して駐屯した。辛亥、鎮南将軍・湘州 刺史 の蕭方矩を中衛将軍とした。 司空 ・征南将軍・南平王蕭恪は征南大将軍に進号した。湘州 刺史 の職はそのままとした。
九月己亥、征東将軍・開府儀同三司・ 尚書令 の王僧辯を江州 刺史 とし、その他の官職はそのままとした。盤盤国が馴らした象を献上した。
冬十月辛丑朔、紫の雲が車蓋のようになり、江陵城に臨んだ。この月、 太宗 が崩御した。侍中・征東将軍・開府儀同三司・江州 刺史 ・ 尚書令 ・長寧県侯の王僧辯らが上表文を奉って言った。
諸軍が討伐に赴き、九水の地に至ったところ、その日に臨城県の使者が来て報告したところによれば、侯景が皇帝を 弑逆 し、太子を賊害し、賊の支配下にある宗室の人々は皆、残酷な災禍に遭ったという。六軍は慟哭し、日月星の運行が変わった。我が皇極を哀しみ、四海の民は心が崩れる思いである。我が大梁は堯の統緒を受け継ぎ、商の基業を開いた。太祖文皇帝は斉に従って聖となり、六州を初めて有した。高祖武皇帝は聡明で神武であり、天下を平定した。日月に依って四時を和らげ、至尊の位に登って六合を制した。麗正の位に居て正道を守り、大横の兆しによって確固たる福を得た。四代が相継ぎ、三聖が同じ基盤を築いた。愚かなる凶徒どもが、ついに天子の都に拠った。宮門は白登山の辱めを受け、朝廷は堯城の疑いを招いた。雲扆と承華宮は、一朝にして共に残酷な目に遭った。金の楨、玉の幹は、皆同じく冤罪を被った。はるかなるあの蒼天よ、どうしてこれほどまでに極まりがないのか。
臣は聞く、君主を喪っても新たな君主が立つのは『春秋』の盛んな典範であり、徳と長幼の順序によるのは先王の通りの教えであると。少康は民衆を治め職務を執り行い、夏を祀って天に配した。平王は正統の位に居て東遷し、周の宗廟を保って世を占った。漢の光 武帝 は無道を討伐できたので、景帝の暦が再び栄えた。中宗(晋 元帝 )は群臣の議論に背かず、故に江東に朝廷を立てることができた。今を量り古を考うるに、他に二つの策はない。伏して考えるに、陛下は至孝で幽玄に通じ、英武で霊妙な決断力があり、七九の厄に当たりながら千年の機に応じ、深い憂いの中から明を啓き、百王の会合の場に居られる。威を取って覇を定め、険阻で艱難な状況にあって、 社稷 を建て兵を治め、古の道を踏襲される。家国の事は、このように至った。天が大梁を祚するには、必ず主がいる。軒轅の姓を得た者は、存命しているのは二人である。高祖の五人の王のうち、代々の実質的な長は陛下である。屈完を乗せて諸侯を陳べ、子武を拝して大輅に服する。功績は九有に斉しく、道は生民を救済する。聖明を奉じなければ、誰が下武(後継者)を嗣ぐことができようか。
臣は聞く、日月は貞明であり、太陽は照らすことを欠くことができない。天地は貞観であり、乾の道は長く警戒すべきではないと。黄屋と左纛は、本来億兆の民のために尊ばれる。鸞輅と龍章は、郊祀のため貴ばれる。宝器は至重のものとして存在し、介石は容易に差し違えることを慎む。 黔首 は少しの間も君主なくしてはならず、宗廟は一日も主なくしてはならない。伏して願わくは、陛下が地を掃いて中に昇り、天を柴祀って物を改められんことを。事態は凶危に迫り、運は擾攘に集中している。宗正に 詔 を奉じさせたり、博士に時を選ばせたりする労は要らない。南面して直ちに尊位に就き、西向いて徳を譲ることはない。四方が既に奉ずるべきものがあると知れば、八百諸侯が初めて同時に期することができる。残った賊は潜み、宝器は社の処に蔵されている。乾象が既に傾き、坤儀は既に覆った。王莽を斬って輗車を引き、董卓を焼いて市を照らし、函夏を廓清し、正に塋陵とし、宮囲の雪を開き、鐘鼎を保存することを願う。彼の黍は離離としているが、何を言えよう。陛下が明を継いで祚を闡き、旧楚の宮に就かれる。左に廟、右に社の制度は、権宜に従うことができる。五礼六楽の儀容は、歳時に応じて備える。金芝は九莖、瓊茅は三脊。要衛は職を率い、尉候は相望む。廟堂に坐して四夷を朝し、霊台に登って雲物を望み、梁甫で禅を行い泰山を封じ、東濱に臨んで日観を礼する。その後、三事の大夫と共に、都鄙について改めて謀る。左に瀍水、右に澗水、雒水を挟んで居とすることができ、殿を抗い龍を疏らせば、王は鎬京に在ることができる。どうして必ずしも勤めて建業を建てる必要があろうか。
臣らは控えめな心情の極みを耐えかね、謹んで表を奉って聞かせます。
世祖は崩御の報を受けると、三日間大声で泣き、百官は喪服を着た。そして答えて言った。「孤は不徳のため、天が災いを降した。戈を枕に胆を飲み、心を叩いて血の涙を流す。風樹の酷さは、万に始まっても追うことができない。霜露の哀しみは、百の憂いが総じて集まる。伯升の禍を聞いたばかりで、仲謀の悲しみが一層切実になる。もし封豕が既に 殲 滅され、長蛇が即座に誅戮されるなら、延陵季子の逸れた軌跡を追い、子臧の高潔な譲りを継ごうとし、どうして秋亭の壇を頼り、繁陽の石に事えようか。侯景は項籍であり、蕭棟は殷の辛である。赤泉侯がまだ賞されていないのに、劉邦はなお漢王と称した。白旗がまだ掲げられていないのに、周の発はなお太子と称した。飛龍の位に、誰が登ることができると言えようか。附鳳の徒は、既に議論が来ていると聞く。諸公卿士らは、孤の志をよく理解し、軽んじることなかれ」。 司空 の南平王蕭恪が宗室五十余人を率い、領軍将軍の胡僧祐が群僚二百余人を率い、江州別駕の張佚が吏民三百余人を率いて、ともに上書して即位を勧めた。世祖は固く辞退した。
十一月乙亥、王僧辯が再び上表文を奉って言った。
紫宸の位が空き、赤県に主がなく、百霊が聳動し、万国が皇居に帰ろうとしている。酔いと醒めが互いに支え合って、共に景亳に帰するように、歌い且つ誦して、総じて唐の郊に赴くとしても、なお陛下が俯いて潸然とし、徳を譲って継がれないことを恐れる。伝車が道にあるとき、宋昌の謀を慎重にし、法駕が既に陳べられても、なお耿純の勧めを杜ぐ。岳牧は首を翹げ、天民は息を累ねている。
臣は聞く、星が巡り日が傾き、雷を撃ち電を鞭打つものを天という。岳が立ち川が流れ、霧を吐き雲を蒸すものを地という。天地の混成を包み込み、陰陽の測り難さを洞察し、それをもって万物を裁成するものは、聖人においておられるのではないか。故に「天地の大いなる徳を生という、聖人の大いなる宝を位という」とある。黄屋の廟堂の下にいることは、本来やむを得ず居るものではなく、明鏡四衢の樽は、応物取訓によるものである。伏して考えるに、陛下は古を稽え文を思し、英雄として特に優れておられる。周旦に比べれば文王の子であり、放勛に方せば帝摯の末である。千年の旦暮、ここに在らざるを得ない。朝廷は湮び亡び、鐘鼎は覆えんとし、景曆を嗣ぐべきは、陛下をおいて他に誰があろうか。どうして赤眉に盆子を更に立てさせ、隗囂に高廟を託置させることができようか。陛下は今なお高く譲り、謙光を執られる。その矯行偽書を展べ、正朔を誣罔するものを見て機に応じて行動すれば、断じて識ることができる。疑わしければ何を卜せん、蓍亀を待つ必要はない。
かつて公卿は制御を失い、禍は霄極に纏わり、侯景は陵を憑み、姦臣は互いに起こり、戎を率いて 穎 を伐つこと、至るところで然らずということはなく、明を勧めて 晉 を誅すること、側足する所皆これであった。刁斗は夜に鳴り、烽火は相照らした。中朝の人士は相顧みて悲しみを銜み、涼州の義徒は東を望んで涙を殞し、惵惵たる 黔首 は、どこに安らかに帰ろうとするのか。陛下は英略天を緯ぎ、沈明内に断じ、剣を横たえて血に泣き、戈を枕にして胆を嘗め、農山圮下の策、金匱玉鼎の謀、いずれも扆帷に定算し、千里を決勝した。霊鼉の鼓を撃ちて翠華の旗を建て、六州の兵を駆りて九伯の伐を総べ、四方は 虞 れども、一戦にして覇を成す。その鯨鯢を斬り、既に大戮を章し、何校か耳を滅ぼし、姦回ならざるはなく、史は書を絶たず、府は月を虚にせず。洞庭波安らぎ、彭蠡底定して以来、文は昭らかに武は穆らかで、芳しきこと椒蘭の如く、敵国の降城は和すること親戚の如く、九服は同謀し、百道は俱に進み、国恥家怨は、期を計って雪がれんとし、 社稷 墜ちず、聖明に 翽 る。今は何の時ぞ、帝啓の避けを申し述べ、凶危この如きに、方に泰伯の辞を陳う。国に具臣あれば、誰か敢えて 詔 を奉ぜん。
天下は高祖の天下であり、陛下は万国の歓心である。万国はどうして君なくしてありえようか、高祖はどうして祀りを廃されようか。即日、五星は夜に聚まり、八風は通じて吹き、雲煙は紛郁し、日月は光華し、百官は物に象って動き、軍政は戒めずして備わる。飛艫巨艦は、水を競い川に浮かび、鉄馬銀鞍は、山を陵ぎ谷を跨ぐ。英傑は踵を接し、忠勇は相顧み、宗族を湛えて恩に酬い、妻子を焚いて主に報いる。盾を覆って威を銜み、斧を提げて衆を撃ち、風飛電耀、志は凶醜を滅ぼさんとするものはない。待つところは、陛下が后土に昭告し、上帝を虔奉し、広く明 詔 を発し、師を出して名を以てし、五行夕に返り、六軍暁に進み、便ち司寇の威を尽くし、蚩尤の伐を窮め、石趙を執って璽を求め、姚秦を斬って鍾を取り、塋陵を修掃し、宗廟を奉迎することである。陛下はどうして国計を仰ぎ存し、民請に俯して従われないことがあろうか。漢宣帝が嗣位した後、即ち蒲類の軍を遣わし、光武帝が登極を 竟 えた後、始めて長安の捷があった。これによって言えば、前例がないわけではない。
臣らはあるいは世に朝恩を受け、あるいは身に重遇を荷い、休を同じくし戚を等しくし、国より家に至るまで、苟くも腹心あらば、敢えて死をもって奪わんとする。慺慺たる至りに堪えず、謹んで重ねて表を奉り以て聞かせる。
世祖は答えて言った。「示しを省み、再び一二を具す。孤は聞く、天は蒸民を生じてこれに君を樹てる、それをもって天休に対揚し、 黔首 を司牧するためであると。摂提、合雒以前、栗陸、驪連以外は、書契伝わらず、称えることができない。阪泉においてその武功を彰わし、丹陵においてその文徳を表して以来、人民あり、 社稷 あり、あるいは歌謠の帰する所、あるいは惟天の相する所である。孤は家に多難に遭い、大恥未だ雪がれず、国賊は則ち蚩尤剪らず、同姓は則ち有扈賓せず、臥してこれを思い、坐して旦を待つ、どうして宝曆に応じ、どうして龍圖を嗣がん。一戎既に定まり、罪人 斯 に得て、夏を祀り天に配し、方に来議を申さんことを庶幾う。」この時、巨寇なお存し、即位を即ち欲せず、四方の表勧は前後相属した。そこで令を下して言った。「『大壮』は乾に乗じ、『明夷』は翼を垂れ、璇度は亟に移り、玉律は屡に徙る。四岳は頻りに遣わして勧進し、九棘は比者表を聞く。譙、沛未だ復せず、塋陵遠く遠し、居るに於いて処るに於いて、寤寐疚懐す、何の心ぞ何の顔ぞ、この帰運を撫す。今より表奏、由る所並びに断つ、もし啓疏あらば、この令を写して施行すべし。」この日、賊 司空 、東南道大行台劉神茂が儀同劉帰義、留異を率いて義に赴き、表を奉って降伏を請うた。
承聖元年
大宝三年、世祖はなお太清六年と称した。正月甲戌、世祖は令を下して言った。「軍国多虞、戎旃未だ静まらず、青領は雖も熾んでも、 黔首 は安んずべきである。時に星鳥に惟り、東秩に年祥を表し、春は宿龍を紀し、南畯に歳取を歌う。況や三農は務業し、尚お夭桃の水に敷くを見、四人は令あり、猶お落杏の花飛ぶに及ぶ。化俗移風は、常に急ぐ所に在り、耕を勧め且つ戦うは、弥々自ら許すを須う。どうしてただ燕が寒谷に垂れ、黍を積んで自ら温まるのみならん、寧ろこの玄苗を堕し、坐して紅粒を飡し、鷰頷を植えず、空しく蝉の鳴くを候わんことを可とせん。悉く深耕穊種し、安堵復業せしめ、民力を棄てず、並びに地利を分かつべし。州郡に班勒し、 咸 く遵承せしめよ。」智武将軍、南平内史王褒を吏部尚書とした。
二月、王僧辯の衆軍は 尋陽 より発した。世祖は馳檄を四方に告げて言った。
夫れ剝極まれば災を生じ、乃ち龍戦に及び、師貞にして終に吉、方に獖豕を制す。どうして侵陽盪薄し、源とする者は乱階であり、定龕艱難し、成す者は忠義であることを以てせざらんや。故に羿、澆は前に滅び、莽、卓は後に誅せられる。これにより桓、文の勲は周代に復興し、温、陶の績は金行に弥盛んとなる。 粤 若 梁興すること五十余載、宇内を平壹し、徳恵悠長、仁は蒼生を育み、義は服さざるを征す。左は伊に右は瀍に、咸く皆仰化し、濁れる涇清き渭、靡くも風に向かわざるはない。翠鳳の旗を建てれば、則ち六龍首を驤し、霊鼉の鼓を撃てば、則ち百神警肅す。風、牧、方、邵の賢、衛、霍、辛、趙の将、羽林黄頭の士、虎賁緹騎の夫、叱吒すれば則ち風雲興起し、鼓動すれば則ち嵩、華倒拔す。桐柏以北、孤竹以南、碣石の前、流沙の後より、頸を延べ踵を挙げ、臂を交え膝を屈す。胡人は敢えて馬を牧せず、秦士は敢えて弓を彎げず。万邦を葉和し、百姓を平章し、十堯九舜、どうして云うに足らん。
賊臣の侯景は、匈奴の叛臣であり、鳴鏑の残党である。 懸瓠 の空城は、本来国宝ではなく、 寿春 は畿内の要衝であるが、賞は一ヶ月を超えなかった。海陵の倉を開き、常平の米を賑恤し、九府の費用を徴発し、三官の銭を賜 与 したが、財貨に溺れ、限度を知らなかった。敢えて逆乱を起こし、我が王畿を妨げた。賊臣の正徳は、兵を擁して残忍を安んじた。かつては江羋と怨みを結び、遠く単于のもとに赴いた。簡牘にたびたび顕れ、彭生の魂は未だ鎮まらず、収奪に限度なく、景卿の誚りがすでに及んだ。虎に翼を添え、遠くから招き寄せた。我が生民を殺害し、我が兄弟を離散させた。我はこれにより皋貔を統率し、自ら甲冑を身につけ、霜の戈が日に照り輝けば、朝の離れ星が光を奪い、龍の騎兵が野を覆えば、平原が色を失い、誠は江水とともに流れ、気勢は寒風とともに憤った。凶悪な輩は威を畏れ、下吏に身を委ね、淮・肥で生き延びんと乞い、徐・兗に苟も存続しようとした。汗を流すごとく命令が既に行き渡り、 詔 勅が下された。我はこれにより軍を返し凱旋し、牛馬を休ませた。賊はなおも悔い改めず。遂にまた矢を王屋に流し、兵を象魏に踏み入れた。総章の観は、もはや訴訟を聴く堂ではなく、甘泉の宮は、永遠に避暑の地から乖離した。座して憲司を召し、臥して朝宰を制し、天命を偽り託し、符書を偽造した。重ねて賦斂を増やし、恣意に収奪し、生きる者は逃げ惑い、死ぬ者は屍を晒し、道路では目を伏せ、百官は口を閉ざした。刑戮は公正を失い、爵賞は心のままに、老弱は流浪し、士女は塗炭に陥った。奴婢の身分の者でも、五族にまで賞が及び、紳士の士でも、三族が誅殺された。穀物は高騰し、互いに食い合った。おののく民衆は、路に索を銜える哀しみがあり、蠢く黎民は、家に桓山の泣き声が絶えた。偃師から南を望めば、もはや儲胥・露寒の宮はなく、河陽から北を臨めば、あるいは穹廬の氈帳がある。南山の竹をもってしても、その罪過を言い尽くすことはできず、西山の兎をもってしても、その罪を書き記すことはできない。
外監の陳瑩之が到着し、先帝が崩御され、宮車が晏駕されたことを伏して承った。訃報を奉じて驚き号泣し、五内が引き裂かれる思いであり、州の冤罪は元より毒であり、身を置く余地もない。侯景は飢えに阻まれて甚だしく、民は狼のように後ろを顧み、遂に我が彭蠡を侵し、我が郢邑を凌ぎ、我が江夏を窮地に追い詰めて占拠し、我が巴丘を急襲した。我はこれにより義勇が先を争い、忠貞が力を尽くした。凶徒の首領を斬り、数え切れないほどであり、砂は赤岸のようになり、水は絳河のようになった。任約は安南で泥にまみれて首を垂れ、化仁は漢口で面縛され、子仙は鄢郢で生き延びんと乞い、希栄は柴桑で敗北した。侯景は奔り逃げ、十鼠が穴を争い、郭默は清夷し、 晉 熙 は義に附いた。計略が尽き力が屈し、後主を殺害した。畢・原・禜・郇は皆、禍患に遭い、凡・蔣・邢・茅は皆、斧鑕に伏した。これが忍びられるならば、何が容認できようか!
幕府は上流を占拠し、まさに分陝の任を帯び、袖を振るって戈を担ぎ、命をかけることを志した。昔、周は 晉 ・鄭に依り、漢には虚・牟があった。彼らは 末裔 に過ぎないが、なおこのようにできた。ましてや日月と連なる華を持ち、天下に賤しまれず、臣となり子となり、国を兼ね家を兼ねる者がどうしてできぬことがあろうか!皆、義旗が既に建てられた以上、統一を総べるべきであり、共に幕府を推し、まさに盟主とすることを用いた。私は不肖ながら、連率を誤って統率し、遠く国難を思い、安寧に居る暇もない。中権の後勁をもって、天罰を恭しく行い、戈を提げて危険を蒙り、身命を落とすこととなった。天馬千群、長戟百万、賁獲の士を駆り、智勇の力を資として、大楚は荊山を越え、浅原は彭蠡を渡り、舳艫は水に浮かび、その南を掎み、輜軿は輸送し、その北を衝く。華夷百濮、糧を背負って影のごとく従う。雷のごとく震え風のごとく駭き、直ちに建業を指す。剣を按じて叱れば、江水がこれにより逆流し、戈を抽いて揮えば、皎日がこれにより退く。車を並べて長駆し、百道ともに進入し、山を平らげ谷を滅ぼし、原を満たし野を覆う。輈を挟み牛を曳く者、距を抜き石を裂く者、騎兵は則ち日を逐い風を追い、弓は則ち猿を吟じ雁を落とす。崑崙を捧げて卵を圧し、渤海を傾けて熒を灌ぐ。四頭立ての馬が鴻毛を載せるがごとく、奔牛が魯の縞を触れるがごとし。この衆をもって戦えば、誰がこれを防ぐことができようか!仮にまた蜂や蠍に毒があり、獣が窮すれば闘うとも。山は高いと言えども、四郊に多くの堡塁があり、地は遠いと言えども、三千里も違わない。あの怒れる蛙のごとく、譬えば鼷鼠のようで、万鈞を費やすこともなく、百溢を労することもない。これに加えて日が黄道に臨み、兵が絳宮から起こり、三門が既に開かれ、五将が皆発し、整然とした旗を挙げて、亭々たる気勢を掃う。故に機密に臨んで運をめぐらすことは、賊の理解するところではなく、義を奉じて誅するに、何の罪が服さないことがあろうか?
今、使持節・大 都督 ・征東将軍・開府儀同三司・江州 刺史 ・ 尚書令 ・長寧県開国侯の王僧辯に衆十万を率いさせ、直ちに金陵を掃討させる。鼓を鳴らして天を騒がせ、金を打ち鳴らして地を震わす。朱旗が夕べに建てば、赤城の霞が立ち昇るが如く、戈船が夜に動けば、滄海の奔流のようである。その同悪を計れば、一旅にも満たない。君子は野に在り、小人は比周する。何の校えが耳を滅ぼすか、朝でなくとも夕べである。長狄の喉を舂き、郅支の頸を繋ぐ。今、司寇が明らかに罰し、質斧が誅するのは、侯景ただ一人に止まる。民衆に何の罪があろうか、一切問うことはない。諸君の中には、代々忠貞を樹て、身に寵爵を荷い、鼎族の羽儀となり、王府に勲を記し、狡猾な小僧に眉を俯せ、自ら尽くす由もない者もいるが、泉下に恥じず、皇天に愧じないであろうか!忠と義を失えば、自立することは難しい。誠に南風を想い、西顧を眷み、変に因って功を立て、禍を転じて福となすことを望む。侯景を縛り、またはその首を送る者があれば、万戸開国公に封じ、絹布五万匹を与える。義衆を率いて動き、官軍に応じ、城邑を保全し、賊に用いられない者があれば、上は方伯の賞を、下は剖符の賞を与え、共に山河を裂き、青紫の綬を緩める。昔、由余が秦に入り、礼は卿佐と同様であり、日磾が漢に降り、かつて金貂を耳に飾った。必ずやその才があれば、位のないことを憂うる必要はない。もし執迷して返らず、王師に逆らい拒めば、大軍が一たび臨めば、これを刑し赦すことはない。孟諸で焼き払えば、芝や艾も共に尽き、宣房で黄河が決壊すれば、玉も石も共に沈む。賞を信じる科条は、皎日の如くあり、陟黜の制度は、事白水に均しい。檄を遠近に布告し、皆に知らしめる。
三月、王僧辯らが侯景を平定し、その首を江陵に伝送した。戊子、賊平定を明堂・太社に告げた。己丑、王僧辯らがまた上表して言う。
諸軍は今月戊子の日に 建康 に総集結した。賊の侯景は鳥のように伏し獣のように窮し、頻繁に攻撃され頻繁に挫かれ、奸計は尽き詐術は尽き、深い堀を掘って自らを固守している。臣らはそれぞれ武旅を統率し、百の道から同じ目標に向かい、突騎と短兵、犀の皮の甲冑と鉄の楯、千の群れを結成し、戟を持つ者は百万に及び、紂王を七歩で止め、項羽を三重に包囲するがごとく、轟然と大いに潰え、群凶は四方に滅びた。京師の老少は、ともに万歳を称えた。長安の酒食が、ここで価が高まるようなものである。九県の雲が開け、天地四方が清く明るく、ましてや庶民は、誰が躍り上がらないことがあろうか!伏して考えるに、陛下は痛みを噛みしめ悲しみを飲み込み、憤りを抱き残酷さを耐え忍ばれた。紫庭や絳闕から、胡の塵が四方に立ち、壖垣や好畤では、冀州の馬が雲のように屯し、血の涙を流して兵を治め、胆を嘗めて衆に誓われた。しかし呉・楚が一家となり、まさに七国とともに反逆し;管叔・蔡叔の流言飛語が、また三監をして乱を起こさせた。西涼の義衆は、強秦に阻まれて通じず; 并 州の遺民は、飛狐を跨いで滅ぼされた。豺狼が路に当たり、一人に止まらず;鯨鯢が梟首されず、あっという間に五載が過ぎた。英武がついに奮い立ち、怨みと恥辱がともに雪がれ、永遠に霜露を追憶するも、どうして言い表せようか!臣らはただちに故事に依拠し、社廟を奉り修復し、使者に節を持たせ、分かれて陵墓に告げる。先帝が昇遐され、龍輴がまだ殯されず、承華宮の光が覆い隠され、梓宮の所在が測り知れないが、これらもすべて順を追って備えを整え、凶事の礼を具える。四海はともに哀しみ、六軍は袒ぎて哭し、聖なる情は孝友に満ち、理として感慟すべきである。先日、百官や諸侯の長は、宸鑑を祈り仰いだ。錫珪の功績は、すでに有道に帰し、当璧の礼は、まさに聖明に属する;しかし優れた 詔 は謙虚で、深遠で遠く隔たっている。飛龍に登ることができるのに、『乾』卦の爻は四にあり;帝の門に叫びかけるが、閶闔はまだ開かない。謳歌が再び馳せ、これをもって首を上げて待つ。それゆえ越人は固執し、丹穴を燻して君主を求め;周の民は推戴を喜び、岐山を説いて主に仕えた。漢王が即位しなければ、功臣を貴ぶことができず;光武帝が蕭王にとどまれば、どうして宗廟を継ぐと言えようか。黄帝が襄城に遊んだとき、なお治民の道を訪ね;放勛(尭)が姑射山に入ったとき、なお樽俎に帰るべき者を定めた。このような偶然の到来は、どうして聖人が望み、帝王が応ずべきものであろうか、やむを得ずそうなったのである。伏して璽書を読み、制旨を繰り返し諷誦するが、物外を顧み懐い、まだ慈衷を奉じていない。陛下の日角龍顔の姿は、幼少の頃から表れ、彤雲素気の瑞祥は、物事に対応する初めに基づいている。博覧すれば大いなるものは名づけることができず、深く言えば輝かしく昭章たる観がある。忠は立派な徳であり、孝は実に天を動かす。これに英威茂略、雄図武算を加え、指麾すれば丹浦は戦わず、顧みれば阪泉は自ら平定される。地維が絶えて再び結ばれ、天柱が傾いてさらに立て直される。孟門に河津を開けば、百川が再び流れ始め;五石で穹儀を補えば、万物が再生する。たとえ陛下が袗衣を払って広成に遊び、<山弇>山に登って東土を去られたとしても、群臣はどうして仰ぎ訴えることができ、兆民はどこに仁政を帰すればよいのか。まして郊祀で天に配し、罍や篚の礼が欠け、斎宮や清廟で、匏や竹の楽器が奏でられず、鑾輿を仰ぎ望むのは、一朝一夕ではなく、法駕を眺め言うのは、渇き飢えを載せている。どうして久しく衆議を滞らせ、常則を欠くことができようか!旧都の郊祀がすでに復活し、函谷関・洛陽はすでに平定された。高奴・櫟陽の宮館は毀損したが;濁河清渭の佳気はなお存する。皋門は高くそびえ、甘泉宮は四方に開け、土圭で日影を測り、仙人が承露盤を捧げる。これこそ九州の赤県、天地四方の枢機である。博士は図書を捧げて徐々に戻り、太常は礼儀を定めてすでに整列している。どうして清らかな駕を揚げて名都に赴き、玉鑾を具えて正寝に遊ばれないことがあろうか!昔、東周が遷都すると、鎬京はついに復興せず;長安が一度乱れると、郟・洛が永久の居所となった。夏后は万国をもって諸侯を朝せしめ、文王は六州をもって天下を匡正した。基跡は百里、剣杖は三尺。残った楚の地で、九戎に抵抗し;一旅の師で、三つの叛逆を滅ぼした。泰然として大定し、御輦は東に帰る。冀州で五牛を解き、譙郡で六馬に秣をやる。遠く前古を求めても、これが得られようか?天命に対揚し、どうして徳を譲ることがあろうか!理がここに存するので、敢えて重ねて奏上する。
相国は答えて言った。「上表を拝見し、改めて一、二申し上げる。群公卿士、億兆の民衆は、皆、皇天が眷命し、帰運が属する所であるとして、宝位を私一人に集められたとしている。文叔(光武帝)の金吾の官は、事柄がかつての願いと同じであり;孟德(曹操)の征西の位は、かつての説に符合している。今、淮海の長鯨(侯景)は、首を授けられたとはいうものの; 襄陽 の短狐(蕭詧)は、まだ完全に心を改めていない。太平の玉燭については、そちらで議論せよ。」辛卯の日、宣猛将軍朱買臣が密かに 豫 章嗣王蕭棟とその二人の弟の蕭橋・蕭樛を害した。これは世祖(元帝)の意向であった。
四月 乙巳 の日、益州 刺史 、新たに仮黄鉞・ 太尉 を拝命した武陵王蕭紀が蜀で帝位を僭称し、元号を天正元年と改めた。世祖は兼 司空 の蕭泰、祠部尚書の楽子雲を派遣して陵墓を拝謁させ、社廟を修復させた。丁巳の日、世祖は令を下して言った。「軍容は国に入らず、国容は軍に入らず。子産が戦勝を献上したとき、戎服で事に当たり、周亜夫が拝礼しなかったのは、義は将兵に止まるからである。今、凶悪な輩は殲滅され、逆徒は潰滅し、九州はすでに整えられ、四海は安寧である。漢官の威儀を、盛大な礼として整えようとしている。衛には君子が多いので、これを見て模範とする。ただちに厳戒態勢を解き、時宜に応じて布告せよ。」この月、東陽太守の張彪を安東将軍とした。
五月庚午の日、 司空 の南平王蕭恪および宗室の王侯、大 都督 の王僧弁らが、再び上表して尊号を奉ったが、世祖はなお固く辞退して受けなかった。庚辰の日、征南将軍・湘州 刺史 ・ 司空 の南平嗣王蕭恪を鎮東将軍・揚州 刺史 とし、その他の官職はもとのままとした。甲申の日、 尚書令 ・征東将軍・開府儀同三司・江州 刺史 の王僧弁を 司徒 ・鎮衛将軍とした。乙酉の日、賊の左 僕射 王偉、尚書の呂季略、少卿の周石珍、舍人の厳亶を江陵の市で斬った。この日、世祖は令を下して言った。「君子が過ちを赦すことは、周の経典に著されている;聖人が網を解くことは、湯の令に聞く。獫狁が甚だしく盛んになり、長蛇が繰り返し食らいついて以来、赤県は危うく、庶民は塗炭の苦しみにあった。終夜眠らず、恥を雪ぐことを志した。元凶の誅罰が遅れたのは、本来は侯景に属するものである;王偉はその心腹であり、周石珍は恩義に背いた。今、ともに鼎鑊で煮る刑に処し、市朝にさらす。しかし、これまで寇賊の擾乱が続き、年月が積もり、衣冠の旧貴族は、脅迫されて生き延び、猛士や勲豪は、和光同塵して苟くも免れた。凡そ諸悪の仲間は、一族ではないことを信じる。今、特に王の恩沢を明らかにし、刑書をもって削除する。太清六年五月二十日未明以前の者は、すべて新たに生まれ変わらせる。」この月、魏が太師の潘楽、辛術らを派遣して秦郡を侵し、王僧弁は杜崱に衆を率いさせてこれを防がせた。 陳霸先 を征北大将軍・開府儀同三司・南徐州 刺史 とした。この月、魏が使者を派遣して侯景平定を賀した。
八月、蕭紀が巴・蜀の大軍を率いて船を連ねて東下し、護軍の陸法和を巴峡に駐屯させてこれを防がせた。兼通直 散騎常侍 ・聘魏使の徐陵が鄴で上表を奉って言った。
臣は聞く、唐を封じた者に聖人がおり、帝嚳の家を継いで承けた。代に居た者は賢人であり、ついに高祖の皇位を継いだ。無為は革の履で称えられ、至治は垂衣(天子の衣服)に表れたが、乱を撥ね正すことは、前代未聞であった。金行(晋)が再び興り、その源は東莞から出た。炎運(漢)がなお盛んであり、枝分かれして南頓に至った。どうして顕著な姓を軒轅に隠し、顕頊の才子でないと言えようか。みな時に多難に因り、ともに神宗を継いだのである。伏して惟うに、陛下は『震』卦を出して勛・華に等しく、譲りを明らかにして旦・奭と同じである。図を握り鉞を執り、天を御するに将たり、玉縢珠衡は、先ず元后(天子)を彰わす。神祇の命ずるところは、ただ太室の祥瑞のみにあらず。図画の帰するところは、堯門の瑞祥に止まらない。大孝聖人の心、中庸君子の徳は、固より生民を訓え、多士に風を遺す。一日二日と、万機を研ぎ覧る。文に 允 にして武に 允 なり、群芸を包羅する。この三大(天・地・人)に擬え、四門を賓とし、諸難を歴試し、庶績を 咸 く 熙 む。これは称えるに足るものがないほどである。
無妄の暴が興り、皇祚が次第に衰えて以来、封狶(大猪)や修蛇(長蛇)が中国に災いを行い、霊心の宿るところ、下武(後継の武王)が興る。紫極(天子の宮殿)を望んで長く号し、丹陵(先帝の陵)を 瞻 て慟哭する。家の冤は報いられんとし、天は黄鳥の旗を賜う。国の害は誅すべきであり、神は玄狐の籙を奉ずる。滕公が樹を擁し、雄気はまさに厳なり。張繡が兵を交え、風神はますます勇ましい。忠誠は日月に冠たり、孝義は氷霜に感ず。霆の如く雷の如く、貔の如く虎の如く、前駆は命を効し、元悪はここに 殲 ぼされる。すでに西州に胆を掛け、まさに東市で臍を燃やす。蚩尤の三冢、どうして厳誅と言えようか。王莽の千剸(切り刻み)、明罰と言えようか。青 羌 や赤狄は、ともに豺狼に 与 え、胡服夷言は、みな京観(戦勝記念の塚)となる。邦畿は済々として、再び隆平を見る。宗廟は愔愔として、まさに多福を承ける。氤氳渾沌の世より、驪連・栗陸の君より、卦は 龍図 より起こり、文は鳥跡に因る。雲師火帝も、戦陣の風なきにあらず。堯の誓い湯の征伐も、みな干戈の道を用いた。星は東井を 躔 り、時に崤・潼を破る。雷は南陽に震い、初めて尋・邑を平らぐ。三霊(天・地・人)のすでに墜つるを援け、四海の群飛(乱れた民)を救うこと、赫々として明々、天罰を恭行する、当今の盛んなる如きは未だなかった。ここに卿雲は蓋の如く、朝に姚郷に映え、甘露は珠の如く、朝に景寢に華やぐ。芝房は徳に感じ、みな銅池より出で、蓂莢は辰を伺い、銀箭(水時計)を労わず。重ねて東は玄菟に 漸 び、西は白狼を逾え、高柳に風生じ、扶桑に日盛んなり。みな名を属国に編し、質を鴻臚に帰し、荒服来賓し、遐邇ともに福を同じくす。その文昭武穆、跗萼(花の萼)の如きはあのように、天平地成、功業の如きはこのようである。久しく旁らに掌故を求め、天官に諮詢し、繁昌を斟酌し、高邑を経営すべきである。宗王が覇を啓くも、陽武の侯を労せず。清蹕に 虞 い無く、何事ぞ長安の邸を要せん。正に鑾旂を揚げて帝を饗し、鳳扆(天子の座)を仰いで天を承け、歴数は 躬 に在り、誰と譲らんとするのか!去月二十日、兼 散騎常侍 柳暉らが鄴に至り、伏して承るに聖旨は謙沖にして、為して 宰 らず。或いは云う、涇陽は未だ復せず、函谷に泥無し、金陵に旋駕し、まさに天眷を受けんとす、と。愚かには謂う、大庭・少昊も、定まった居所はなく、漢祖・殷宗も、恒常の宅はなかった。岱岳に登封しても、なお明堂を置き、章陵に巡狩しても、時に司隷を行った。何ぞ必ずしも西に虎據(虎踞、金陵の地形)を 瞻 て、王宮を建て、南に牛頭を望んで、天闕と称せんとする必要があろうか。抑々また聞く、玄圭はすでに賜わり、蒼玉は陳べず、乃ち棫樸の愆期(遅れ)であり、苞茅の貢がざるにあらず。雲和の瑟は、久しく甘泉に廃し、孤竹の管は、方沢に聞こえず。豈に懼れざらんや!
伏して願わくは、陛下は百姓の心に因り、万邦の命を拯わんことを。どうして逡巡して固く譲り、石戸の農夫を求め、君臨を高く謝し、徒らに箕山の客を引きいれんとするのか!上徳の徳ならざるを知らず、ただ聖人の仁ならざるを見る。率土の翹翹たる(危うき)こと、蒼生何をか望まん!昔、蘇季・張儀は、郷を違え俗に背き、尚ほまた三方を招いて趙に事え、六国を請うて秦を尊んだ。況んや臣らは顕かに皇華を奉じ、親しく朝命を承け、珪璋特達して、河陽に聘を通じ、貂珥雍容として、漳水に盟を尋ね、牢を加え館を貶し、勢いに随って汚隆し、郷関を瞻望し、誠に休戚を均しくする。ただ軽生にして造らず、命は時に乖く。一介の行人を 忝 くし、三危の遠擯に同じ。内殿に間を承け、事は耿弇の恩を絶ち、辺城に封奏し、私に劉琨の哭に等しい。区区の至りを勝えず、謹んで表を拝して以て聞す。
九月甲戌、 司空 ・鎮東將軍・揚州 刺史 の南平王蕭恪が 薨去 した。
冬十月乙未、前梁州 刺史 の蕭循が魏より江陵に至り、蕭循を平北將軍・開府儀同三司とした。戊申、湘州 刺史 の王琳を殿内で捕らえ、王琳の副将の殷晏は獄に下されて死んだ。辛酉、子の方略を湘州 刺史 とした。庚戌、王琳の長史の陸納およびその将の潘烏累らが兵を挙げて反し、湘州を襲撃して陥落させた。この月、四方の征鎮・王公卿士が再び世祖(元帝)に尊号に即くことを勧めたが、なお謙譲して許さなかった。表が三度上ると、ようやく従った。
承聖元年冬十一月丙子、世祖は江陵において皇帝の位に即いた。 詔 して言う、「君を立てるのは、 黔首 (民)を司牧するためである。帝堯の心は、どうして黄屋(天子の車)を貴んだであろうか、誠に已むを得ずして臨蒞したのである。朕の皇祖太祖文皇帝は徳を岐・梁に積み、化を江・漢に行わしめ、道は田に映え、具瞻(衆目)の属する所となった。 皇考 高祖武皇帝は明らかさ日月に並び、功は区宇に 格 り、天に応じ民に従い、惟れ 睿 として聖を作す。太宗簡文皇帝の地は啓・誦(夏の啓王と周の成王)に 侔 しく、 方 に文・景(漢の文帝・景帝)に符す。羯寇が憑陵し、時難は孔棘(きわめて急)であった。朕は大いに横流を拯い、宗社を克復した。群公卿士・百辟庶僚、みな皇霊の眷命、帰運の 斯 に及ぶを以てし、天命は久しく 淹 まるべからず、宸極は久しく 曠 くべからずと言う。 粤 に 若 く前載(先例)を、憲章令範とし、天の威を畏れ、宝暦を算隆し、用いて 神器 を予一人に集む。昔、虞・夏・商・周は、年に嘉号なく、漢・魏・晋・宋は、因循すること久し。朕は撥乱と云うも、かつ創業にあらず、上は宗廟に繫がり、下は億兆に恵みたいと思う。太清六年を承聖元年と改めることを可とする。逋租宿責(未納の租税と旧債)は、ともに弘貸(広く免除)を許す。孝子義孫は、みな爵を賜うことを可とする。長徒鏁士(長期の徒刑や鎖につながれた者)は、特に原宥(赦免)を加える。禁錮奪労(官職追放や労役剥奪)は、すべて曠盪(免除)する。」この日、世祖は正殿に昇らず、公卿が陪列したのみであった。丁丑、平北將軍・開府儀同三司の蕭循を驃騎將軍・湘州 刺史 とし、その他の官職は元の通りとした。己卯、王太子の方矩を皇太子と立て、名を元良と改めた。皇子の方智を 晉 安郡王と立て、方略を始安郡王とした。生母の阮脩容を追尊して文宣太后とした。この月、陸納が将の潘烏累らを遣わして衡州 刺史 の丁道貴を淥口で攻め破り、丁道貴は零陵に逃走した。
十二月壬子、陸納が兵を分けて巴陵を襲撃したが、湘州 刺史 の蕭循がこれを撃破した。この月、營州 刺史 の李洪雅が零陵より衆を率いて空霊灘を出て、下って陸納を討たんとしたが、陸納が将の呉蔵らを遣わして李洪雅を襲撃して破り、李洪雅は空霊城に退いて守った。
承聖二年
二年春正月乙丑、 詔 して王僧辯に衆軍士を率いて陸納を討たせた。戊寅、吏部尚書の王褒を尚書右 僕射 とし、劉瑴を吏部尚書とした。西魏が大将の尉遅迥を遣わして益州を襲撃した。
三月庚午の日、 詔 を下して言った。「食は民の天であり、農は治世の根本である。千年に伝えられ、百王に遺されたもので、民に時を授けることを敬い、帝籍で自ら耕作しない者はない。それゆえ、耕作を宝とし、『周頌』はその楽章を称えている。禾や麦が実らないことは、魯の史書がその冊に記している。秦の人には農力を推奨する科条があり、漢の世には屯田の利を開いた。近年は世が塞がり、多くの難が重なって起こり、干戈が収まらず、我にはその暇がなかった。広く田を開く命令は、郡国から聞こえてこず、土地を管理する職務は、官の務めとして粗末であった。今、大悪人は滅ぼされ、海内はようやく一つになった。広く民衆を庇護し、横流を救いたい。一つの家屋が耕作を怠れば、心を労して日は傾き、一人の男が仕事を廃すれば、塩鹹地さえも残らない。国が富み刑罰が清く、家が満ち民が足るようにせよ。力田に励む者自身は、その地で租税を免除せよ。外には直ちに布告して、朕の意にかなうようにせよ。」辛未の日、李洪雅が空霊城を挙げて賊に降り、賊は彼を捕らえて帰った。初め、丁道貴は零陵に逃れて洪雅に身を寄せ、洪雅は残った兵を集めさせ、共に降伏させた。洪雅が賊に降ると、賊は道貴を殺害した。丙子の日、賊の将軍呉蔵らが兵を率いて車輪を占拠した。庚寅の日、二頭の龍が湘州の西江に現れた。
夏四月丙申の日、僧辯の軍は車輪に駐屯した。
五月甲子の日、諸軍が賊を攻撃し、大いにこれを破った。乙丑の日、僧辯の軍は長沙に到着した。甲戌の日、尉遅迥が巴西に進軍して迫り、潼州 刺史 の楊虔運が城を挙げて降伏し、迥を受け入れた。己丑の日、蕭紀の軍は西陵に到着した。
六月乙卯の日、湘州が平定された。この月、尉遅迥が益州を包囲した。
秋七月辛未の日、巴人の苻升と徐子初が賊の城主公孫晁を斬り、城を挙げて降伏してきた。蕭紀の軍勢は大いに潰え、兵に遭って死んだ。乙未の日、王僧辯が軍を返して江陵に帰還し、 詔 により諸軍はそれぞれ鎮守する地に帰還した。
八月戊戌の日、尉遅迥が益州を陥落させた。庚子の日、 詔 を下して言った。「昔、殷が亳に居を始めた時も、先王の都を廃さず、周から天命を受けた時も、旧邦を称える頌を改めなかった。近頃、軍旗は既に休み、関所の木柝に警報はない。(都を離れた)魯を去る時に嘆きが起こり、夜半に感慨を覚え、(故郷の)沛を過ぎて涙を落とすことは、実に夕方の就寝を煩わせる。それでもなお、瀟や湘で乱が起こり、庸や蜀で兵が塞がり、将に命を授け軍律を定め、期日を定めて平定させた。今、八方は治まり清く、四郊に軍営はない。青蓋の車に乗る礼典に従い、白水の故郷に帰るべきである。江や湘からの輸送物資は、方船が舳を連ね、巴峡の舟艦には、精鋭の甲兵が百万いる。まず建鄴に駐屯し、行って実に京師とし、その後、六軍を急ぎ征伐させ、九旂の旗を揚げ、陵墓を拝謁し、宗廟 社稷 を修復する。主管者は詳しく旧典に従い、時に応じて布告せよ。」
九月庚午の日、 司徒 の王僧辯が帰還して鎮守した。丙子の日、護軍将軍の陸法和を郢州 刺史 とした。乙酉の日、晋安王の方智を江州 刺史 とした。この月、魏が郭元建を派遣して合肥で水軍を整えさせ、また大将の邢杲遠、歩六汗薩、東方老を派遣して軍勢を率いさせ、これと合流させた。
冬十一月辛酉の日、僧辯は 姑孰 に駐屯し、そのまま留まって鎮守した。 豫 州 刺史 の侯瑱を派遣して東関の堡塁を占拠させ、呉興太守の裴之横を徴発して軍勢を率いさせ、これに続かせた。戊戌の日、尚書右 僕射 の王褒を尚書左 僕射 とし、湘東太守の張綰を尚書右 僕射 とした。
十二月、宿預の土民である東方光が城を占拠して帰順し、魏の江西の州郡は皆、兵を起こしてこれに応じた。
承聖三年
三年春正月甲午の日、南 豫 州 刺史 の侯瑱に征北将軍、開府儀同三司を加えた。陳霸先が軍勢を率いて広陵城を攻撃した。秦州 刺史 の厳超達が秦郡から涇州を包囲し、侯瑱と張彪が石梁から出撃して、その援護とした。辛丑の日、陳霸先が晋陵太守の杜僧明を派遣して軍勢を率いさせ、東方光を助けさせた。
三月甲辰の日、 司徒 の王僧辯を 太尉 、車騎大将軍とした。丁未の日、魏が将軍の王球を派遣して七百の兵を率いさせ宿預を攻撃させたが、杜僧明が迎え撃って大いにこれを破った。戊申の日、護軍将軍、郢州 刺史 の陸法和を 司徒 とした。
夏四月癸酉の日、征北大将軍、開府儀同三司の陳霸先を 司空 とした。
六月壬午の日、魏が再び将軍の歩六汗薩を派遣して軍勢を率いさせ、涇州を救援させた。癸未の日、黒い気が龍のようになって、殿内に現れた。
秋七月甲辰の日、都官尚書の宗懍を吏部尚書とした。
九月辛卯の日、世祖は龍光殿で『老子』の義を述べ、尚書左 僕射 の王褒が経を執った。 乙巳 の日、魏がその柱国万紐于謹を派遣し、大軍を率いて侵攻してきた。
冬十月丙寅の日、魏軍が襄陽に到着し、蕭詧が軍勢を率いてこれと合流した。丁卯の日、講義を停止し、内外を戒厳とし、輿駕は都の柵の外に出た。この日、大風が木を抜いた。丙子の日、王僧辯らの軍を徴発した。
十一月、領軍の胡僧祐に城東・城北の諸軍事を 都督 させ、右 僕射 の張綰を副将とした。左 僕射 の王褒に城西・城南の諸軍事を 都督 させ、直殿省の元景亮を副将とした。王公卿士はそれぞれ守備を担当した。丙戌の日、世祖は都の柵をくまなく巡行し、皇太子は城楼を巡行し、住民に水や石の運搬を助けさせ、諸要害の場所にはいずれも兵備を増強した。丁亥の日、魏軍が柵の下に到着した。丙申の日、広州 刺史 の王琳を徴発して救援に入らせた。丁酉の日、大風が吹き、城内で火災が発生した。胡僧祐を開府儀同三司とし、巂州 刺史 の裴畿を領軍将軍とした。庚子の日、信州 刺史 の徐世譜と晋安王 司馬 の任約の軍が馬頭岸に駐屯した。戊申の日、胡僧祐と朱買臣らが兵を率いて出戦したが、買臣は敗北した。己酉の日、左 僕射 の王褒を降格して護軍将軍とした。辛亥の日、魏軍が大攻勢をかけ、世祖は枇杷門から出て、自ら陣頭に臨んで督戦した。胡僧祐が流れ矢に当たって死去した。六軍は敗北した。反乱者が西門の関を斬って魏軍を引き入れ、城は西魏に陥落した。世祖は捕らえられ、蕭詧の陣営に連行され、また城内に戻された。
十二月丙辰の日、徐世譜と任約は退いて巴陵を守備した。辛未の日、西魏が世祖を害し、ついに崩御した。時に四十七歳であった。太子の元良と始安王の方略はいずれも害された。そして数万口の百姓の男女を選び、奴婢に分けて長安に追い立てた。幼弱な者は皆殺された。翌年四月、孝元皇帝と追尊され、廟号を世祖とした。
世祖は聡明で才知に優れ、天賦の英気を発揮した。五歳の時、高祖が「お前は何の書を読んでいるか」と尋ねると、答えて「『曲礼』を誦することができます」と言った。高祖が「試しに言ってみよ」と言うと、すぐに上篇を誦し、左右の者は驚嘆しない者はいなかった。幼い頃に眼の病気を患い、高祖が自らの考えで治療したため、ついに片目が見えなくなり、一層憐れみ愛された。成長してからは学問を好み、広く群書を総合し、筆を下せば文章となり、口を開けば論となり、才弁は敏速で、当時において群を抜いていた。高祖がかつて「孫策が昔、江東にいた時、何歳だったか」と尋ねると、答えて「十七歳です」と言った。高祖は「ちょうどお前の年だな」と言った。賀革が府の諮議となり、 詔 勅により賀革に『三礼』を講義させた。世祖は生来、音楽や女色を好まず、高い名声があり、裴子野・劉顯・蕭子雲・張纘および当時の才俊たちと布衣の交わりを結び、著述した文章は多く世に行われた。尋陽にいた時、「天下は乱れようとしているが、王が必ずこれを繋ぎ止めるだろう」と夢の中で人が言った。また背中に黒子が生え、巫媼が見て「これは大貴の兆しで、口外してはならない」と言った。初め、賀革が西上する時、内心は非常に不愉快で、御史中丞の江革に別れを告げに行き、心情を打ち明けた。江革は「私はかつて主上が諸子をくまなく見られる夢を見た。湘東王に至った時、手ずから帽子を脱いで授けられた。この人は後に必ず璧を得る者となる。卿は行くがよい」と言った。賀革はこれに従った。太清の難に至って、ついに回復することができたので、遠近の人々が喜んで推戴し、ついに宝命を受けたのである。著書に『孝徳伝』三十巻、『忠臣伝』三十巻、『丹陽尹伝』十巻、『漢書注』一百十五巻、『周易講疏』十巻、『内典博要』一百巻、『連山』三十巻、『洞林』三巻、『玉韜』十巻、『補闕子』十巻、『老子講疏』四巻、『全徳志』、『懐旧志』、『荊南志』、『江州記』、『貢職図』、『古今同姓名録』一巻、『筮経』十二巻、『式賛』三巻、文集五十巻がある。
【史論】