梁書 巻第一 本紀第一
武帝 上
高祖武皇帝は、 諱 は 衍 、 字 は叔達、 幼名 は練児、南蘭陵中都里の人で、漢の相国 蕭 何の 末裔 である。何は酇定侯延を生み、延は 侍中 彪を生み、彪は 公府 掾 章を生み、章は 皓 を生み、皓は仰を生み、仰は 太子太傅 望之を生み、望之は 光禄大夫 育を生み、育は御史中丞紹を生み、紹は光禄勲閎を生み、閎は済陰 太守 闡を生み、闡は呉郡太守冰を生み、冰は中山相苞を生み、苞は博士周を生み、周は蛇丘長矯を生み、矯は州従事 逵 を生み、逵は孝廉休を生み、休は広陵郡丞豹を生み、豹は太中大夫裔を生み、裔は淮陰令整を生み、整は済陰太守鎋を生み、鎋は州治中副子を生み、副子は南台治書道賜を生み、道賜は 皇考 (父)諱順之を生んだ。順之は斉の高帝の 族弟 である。高帝の創業に参画し、臨湘県侯に封ぜられた。侍中、衛尉、太子詹事、領軍将軍、丹陽尹を歴任し、没後、鎮北将軍を追贈された。高祖は宋の孝武帝の大明八年甲辰の年に、 秣陵 県同夏里三橋の屋敷で生まれた。生まれつき異様な姿で、両股の骨が一つに連なり、頭頂が隆起し、右手に「武」という文字があった。帝は成長すると、博学で諸事に通じ、策略を好み、文武の才幹があり、当時の名士たちは皆、彼を推賞した。住む部屋には常に雲気のようなものが漂い、人が通りかかると、身が引き締まる思いがしたという。
初めは 巴陵 王の南中郎法曹行 参軍 に任ぜられ、衛将軍王儉の東閣 祭酒 に転じた。王儉は一度会っただけで深くその器量を認め、廬江の何憲に言った。「この蕭郎は三十歳までに侍中となり、それを過ぎればその貴さは言葉にできないほどだろう。」 竟陵 王蕭子良が西邸を開いて文学を招くと、高祖は 沈約 、 謝朓 、 王融 、 蕭琛 、 范雲 、 任昉 、 陸倕 らと共に交遊し、「八友」と称された。王融は才気煥発で見識が人並み外れており、特に高祖を敬服し、親しい者にいつも言った。「天下を治めるのは、必ずこの人だ。」累進して随王の鎮西諮議参軍となったが、まもなく父の喪に服すため職を去った。隆昌元年、明帝が政務を補佐すると、高祖を寧朔将軍として起用し、 寿春 を鎮守させた。喪が明けると、太子庶子、給事黄門侍郎に任ぜられ、殿省に直宿した。 蕭 らと共に策を定めた功績により、建陽県男に封ぜられ、三百戸を領した。
建武二年、魏が将軍劉昶、王肅を派遣して軍勢を率い司州に侵攻したため、高祖は冠軍将軍、軍主に任ぜられ、江州 刺史 王広の指揮下で援軍となった。義陽から百余里の地点で、諸将は魏軍の勢いが盛んなのを見て、ためらって進もうとしなかった。高祖が先鋒を願い出ると、王広は直ちに麾下の精兵を高祖に配属した。その夜に進軍し、魏軍から数里の地点で、直接賢首山に登った。魏軍は兵力を測りかねて、近づこうとしなかった。夜明けに、城内の軍が援軍が来たのを見て、軍を出して魏軍の柵を攻撃した。高祖は配下の兵を率いて外から戦いに加わった。魏軍は内外から敵を受けて、重い包囲を捨てて退却した。戦いが終わると、高祖は右軍晋安王 司馬 、淮陵太守に任ぜられた。都に戻って太子中庶子となり、羽林監を兼任した。間もなく、 石頭 を鎮守するため出向した。
四年、魏の皇帝自ら大軍を率いて 雍州 に侵攻したため、明帝は高祖に救援に向かうよう命じた。十月、 襄陽 に到着した。 詔 により左民 尚書 崔慧景が諸軍を総督することとなり、高祖と雍州 刺史 曹虎らは皆その指揮下に入った。翌年三月、慧景は高祖と共に鄧城へ進軍したが、魏の主帥が十万余騎を率いて突然到来した。慧景は顔色を失い、退却しようとしたが、高祖は固く制止した。聞き入れられず、慧景は慌てて撤退した。魏の騎兵がこれを追撃し、大敗を喫した。高祖だけが配下を率いて戦いを続け、数十百人を殺し、魏の騎兵が少し後退した隙に陣を整えて退路を守り、夕方になってようやく船に乗ることができた。慧景の軍は死傷者がほぼ全滅したが、高祖だけは全軍を率いて帰還した。まもなく、高祖が雍州府事を代行することとなった。
七月、持節、 都督 雍梁南北秦四州 郢州 之竟陵司州之随郡諸軍事、輔国将軍、雍州 刺史 に任ぜられた。その月、明帝が崩御し、東昏侯が即位した。揚州 刺史 始安王 蕭光 、 尚書令 徐孝嗣、尚書右 僕射 江 祏 、右将軍 蕭坦之 、侍中江祀、衛尉劉暄が内省で交替で直宿し、日ごとに勅命を発した。高祖はこれを聞き、母方の叔父の 張弘策 に言った。「政令が多くの門から出るのは、乱れの始まりだ。『詩経』に『一国に三公あれば、私は誰に従えばよいのか』とある。まして今は六人いるのだから、うまくいくはずがない。疑念の隙が生じれば、互いに誅殺し合うことになる。今、禍を避けるには、この地(雍州)しかない。仁義を勤め行えば、そのまま西方の伯(覇者)となることができる。ただ、諸弟たちが都にいるので、世の災いに遭う恐れがあり、益州(の兄)と図る必要がある。」
当時、高祖の長兄の 蕭懿 が益州 刺史 を罷免されて戻り、郢州事を代行していた。そこで弘策を郢州に派遣し、蕭懿に計略を述べさせた。「昔、晋の恵帝は凡庸な君主で、諸王が権力を争い、遂に内乱が九度起こり、外寇が三度発生した。今、六貴が権力を争い、それぞれが王命を握り、主上に代わって勅命を発し、それぞれが威権を独占しようとし、些細な恨みで互いに誅殺し合おうとしている。しかも、今の嗣主(東昏侯)は東宮時代から良い評判がなく、身近な者を寵愛し、蜂のような目をした残忍な人物で、一旦万機を総覧すれば、その欲望のままに振る舞うだろう。どうして虚しく座って主上の諾を承るだけで、政務を朝臣に委ねるだろうか。積もり積もった猜疑心から、必ず大規模な誅戮が行われる。始安王(蕭遙光)は趙王 司馬倫 のようになろうとしており、その形跡は既に現れているが、跛者が天に登るようなもので、本当にそんな道理はない。しかも彼は猜疑心が強く狭量で、ただ混乱のきっかけを作るだけだ。権力の中枢に立てるのは、江祏と劉暄だけである。祏は臆病で決断力がなく、暄は弱く才能がない。鼎の足が折れて食物をこぼすような事態は、待つまでもなくすぐに来る。蕭坦之は猜疑心が強く、口を開けば人を傷つける。徐孝嗣は柱石となる才がなく、人の言いなりになるだけだ。もし隙間が開き争いが起これば、必ず内外から土崩瓦解する。今、外藩を守る立場にあり、幸いにも身の計らいを図ることができる。智者は機先を見て、一日も待たない。今、猜疑と防備が生じる前に、諸弟を呼び寄せて時を選んで集めるべきだ。後になって互いに疑い防ぐようになれば、足を抜く道もなくなる。郢州は 荊州 、 湘州 を押さえ、西は漢水、沔水に通じる。雍州の兵馬は、呼吸する間に数万に及ぶ。その間に虎視眈々と天下の動静を窺うのだ。世が治まれば本朝に誠を尽くし、時が乱れれば国のために暴虐を除く。時勢に応じて進退することができ、これは万全の策である。もし早く図らなければ、後悔しても及ばない。」蕭懿はこれを聞いて顔色を変え、心では同意しなかった。弘策が戻ると、高祖は弟の 蕭偉 と 蕭 を迎えることを上奏した。この年、彼らは襄陽に到着した。そこでひそかに武器を造り、多くの竹木を伐採して檀溪に沈め、密かに船の装備の準備をした。当時、高祖の住む部屋には常に五色の光が回転し、蟠龍のような形をなし、その上には紫の気が立ち昇り、傘蓋のような形をしていたので、見る者は皆、異様に思った。
永元二年の冬、蕭懿が殺害されたとの知らせが届くと、高祖は密かに 長史 王茂 、 中兵 呂僧珍、別駕 柳慶遠 、功曹史起士瞻らを呼び寄せて謀議した。決まった後、十一月 乙巳 の日に幕僚たちを役所の広間に集め、言った。「昔、武王が孟津で会合した時、皆が『紂を討つべし』と言った。今、暗愚な主君は悪事を積み重ね、極限まで暴虐を尽くし、朝の賢臣を誅殺して、生き残る者は稀であり、民衆は塗炭の苦しみにある。天命は彼を滅ぼそうとしている。卿らは心を一つにして悪を憎み、共に義挙を起こそう。公侯将相となるのは、まさにこの日である。それぞれが功績を尽くせば、私は約束を破らない。」この日に軍旗を立てた。そこで集めた甲士一万余人、馬千余匹、船三千艘を得て、檀溪に沈めておいた竹木で艦船を装備した。
先に、東昏侯は劉山陽を巴西太守とし、精兵三千を配属させ、荊州を通過させて行事の 蕭胄 と合流し襄陽を襲撃させようとした。高祖はその謀略を知り、参軍の王天虎と龐慶國を 江陵 に派遣し、州府の役人たちに広く書状を送らせた。山陽が西上した時、高祖は諸将に言った。「荊州はもともと襄陽の人々を恐れており、加えて唇亡びて歯寒しという状況で、自らも傷ついた弦のような切迫した事情がある。どうして暗黙のうちに同意しないことがあろうか。私がもし荊州と雍州の兵を総動員し、東夏を平定掃討すれば、韓信や白起が再び現れても、どうすることもできまい。ましてや計算もできない愚かな君主が、御刀や応勅の者どもを駆り立てるような場合に、どうして敵えようか。私は山陽を荊州に到着させただけで、すぐにその首を取ることができる。諸君はどうなるか見ていなさい。」山陽が巴陵に到着すると、高祖は再び天虎に命じて穎胄兄弟に書状を届けさせた。天虎が出発した後、高祖は張弘策に言った。「兵法の道は、敵の心を攻めるのが上策で、城を攻めるのはその次である。心の戦いが上で、兵の戦いはその次である。今日の状況はまさにそれだ。先ほど天虎を州府に派遣したが、人々には皆書状があった。今回は駅伝で非常に急いでいるが、行事の兄弟宛てに二通しかなく、『天虎が口頭で申し上げます』とだけある。天虎に尋ねても口では何も言わず、行事も互いに情報を伝え合うことができず、勝手に何かを話すわけにもいかない。天虎は行事の腹心である。彼らはこれを聞けば、きっと行事が天虎と共に事を隠していると思うに違いない。そうすれば人々は皆疑心を生じる。山陽は衆人の言葉に惑わされ、互いに疑いと離反が生じれば、行事は進退いずれも自らの潔白を証明できず、必ずや我々の謀略を内部に漏らすことになる。これこそ、二通の空の封書を送って一州を平定するというものだ。」山陽が江安に到着し、このことを聞くと、果たして疑って進軍しなかった。穎胄は大いに恐れ、天虎を斬り、その首を山陽に送った。山陽はこれを信じ、数十人を率いて馳せ入ったところ、穎胄が伏兵を配置して彼を斬り、その首を高祖に送った。穎胄は引き続き南康王を尊号(皇帝)とする議論を伝えに来て、さらに言った。「時と月が利しておらず、来年二月まで待つべきです。急いで進軍すれば、朝廷の戦略に適わない恐れがあります。」高祖は答えた。「今、十万の兵を駐屯させているが、食糧は自然に尽きてしまう。ましてや頼みとするのは義に基づく心であり、一時の勇猛な精鋭である。事が次々と連続していても、まだ疑いと怠慢が生じることを恐れている。もし百日も兵を留め置けば、必ず後悔が生じる。子供じみた異論を立てれば、大事は成就しない。今、太白星が西方に出ている。義を仗って行動すれば、天の時と人の謀りごと、何が不利なことがあろうか。処分は既に決まっている。どうして途中で止められようか。昔、武王が紂を討った時、太歳に逆らって行軍したが、果たして年月を待つ必要があっただろうか。」竟陵太守の 曹景宗 は杜思沖を遣わし、高祖に南康王を迎えて襄陽に都を置き、正式に尊号を定めてから進軍するよう勧めた。高祖は従わなかった。王茂もまた張弘策に密かに言った。「私は節下(高祖)に仕え、義として進退はありません。しかし今、南康王を他人の手に置けば、彼らは天子を擁して諸侯に号令し、節下は前に出て他人の使役を受けることになります。これは果たして苦難に耐える計略でしょうか。」弘策がこのことを伝えると、高祖は言った。「もし前途の大事が成功しなければ、蘭も艾も共に焼かれるだけだ。もし功業が成就し、威勢が四海に響き渡り、天下に号令すれば、誰が従わないことがあろうか!どうして平凡に他人の処分を受けることがあろうか。石城に到着したら、王茂と曹景宗に直接諭してやる。」沔水の南に新野郡を設置し、新たに帰順した者を集めた。
三年二月、南康王が相国となり、高祖を征東将軍に任じ、 鼓吹 一部を与えた。戊申の日、高祖は襄陽を出発した。弟の蕭偉を留めて襄陽城を守らせ、州府の事務を総括させ、弟の蕭憺を壘城を守らせ、府司馬の莊丘黒を樊城を守らせ、功曹史の起士詢に長史を兼務させ、白馬戍主の黄嗣祖に司馬を兼務させ、鄀県令の杜永に別駕を兼務させ、小府 録事 の郭儼に転漕(輸送)の事務を掌握させた。 京邑 に檄文を飛ばして言った。
高祖は竟陵に到着し、長史の王茂と太守の曹景宗を前軍とし、中兵参軍の張法安に竟陵城を守らせた。王茂らは漢口に到着し、軽兵で長江を渡り、郢城に迫った。その 刺史 の張沖は陣を敷き石橋浦を占拠し、義軍はこれと戦って不利となり、軍主の朱僧起が戦死した。諸将は軍を合わせて郢城を包囲し、兵を分けて西陽と武昌を襲うことを議した。高祖は言った。「漢口は一里も広くなく、矢の道が交錯する。房僧寄が重兵で固守し、郢城の人々と犄角の勢いをなしている。もし全軍で前進すれば、賊は必ず我が軍の背後を断つだろう。一朝にして阻まれたなら、後悔しても及ばない。今、王茂や曹景宗らの諸軍を長江を渡らせ、荊州軍と合流させて賊の陣営に迫らせよう。私は後方から魯山を包囲し、沔水と漢水の連絡を通じさせる。鄖城と竟陵の間の穀物は、船を並べて下流に運ぶ。江陵と湘中の兵は、旗を連ねて続々と到着する。食糧が十分になり、兵士が次第に多くなれば、両城を包囲して守り、攻撃せずとも自ら陥落する。天下の事は、寝ながらにして取れるのだ。」諸将は皆「善し」と言った。そこで王茂と曹景宗に命じて兵を率いて岸を渡らせ、九里に進んで駐屯させた。その日、張沖が軍を出して迎撃したが、王茂らが邀撃して大破し、皆鎧を棄てて逃走した。荊州は冠軍将軍の 鄧元起 、軍主の王世興、田安ら数千人を派遣し、夏首で大軍と合流させた。高祖は漢口城を築いて魯山を守り、水軍主の張惠紹と朱思遠らに命じて長江を遊弋させ、郢城と魯城の二城の連絡を絶たせた。
三月、鄧元起に命じて南堂西陼を占拠させ、田安之を城北に駐屯させ、王世興を曲水故城に駐屯させた。この時、張沖が死に、その配下は再び軍主の薛元嗣と張沖の長史であった程茂を主将に推戴した。
乙巳 の日、南康王が江陵で帝位に即き、永元三年を中興元年と改元し、遠く東昏侯を廃して涪陵王とした。高祖を尚書左 僕射 とし、征東大将軍を加え、征討諸軍事を 都督 させ、 黄鉞 を仮授した。西臺(江陵朝廷)もまた冠軍将軍の 蕭穎達 を遣わして兵を率い、軍中で合流させた。この日、元嗣の軍主である沈難当が軽舟数千を率い、流れを乱して戦いを挑んできたが、張惠紹らが撃破し、全てを捕らえた。
四月、高祖は沔水を出て、王茂と蕭穎達らに命じて進軍し郢城に迫らせた。元嗣は戦いでかなり疲弊し、出撃しようとしなかった。諸将は攻撃しようとしたが、高祖は許さなかった。
五月、東昏侯は寧朔将軍の呉子陽と軍主の光子衿ら十三軍を派遣し郢州を救援させ、巴口を占拠して進軍した。
六月、西臺(江陵の朝廷)は衛尉の席闡文を派遣して軍を慰労させ、蕭穎冑らの意見を持たせて高祖に言わせた。「今、両岸に兵を留め置き、軍を合わせて郢城を包囲せず、西陽・武昌を平定し、江州を取らないのは、この機会を失ったものである。魏に救援を請い、北と連合して和を結ぶのが、まだ上策である。」高祖は闡文に言った。「漢口の道は荊州・雍州に通じ、秦・梁を制し引き寄せ、糧食の輸送と物資の蓄えは、ここを通じて息づいている。だから兵を漢口に圧迫させ、数州を連絡させているのだ。今もし軍を合わせて城を包囲し、また兵を分けて前進させれば、魯山が必ず沔水の水路を阻み、いわゆる喉を扼することになる。もし糧食の輸送が通じなければ、自然に離散する。どうして持久できるというのか。鄧元起は近ごろ三千の兵で 尋陽 を平定しようとしていたが、彼らが喜んで機会を悟れば、一酈生(弁士)で十分である。もし王師(官軍)に抵抗すれば、やはり三千では落とせない。進退の拠り所がなく、適切とは思えない。西陽・武昌は、都合よく取れるだけであり、取れたらすぐに鎮守すべきである。二城を守るには一万人は減らせず、糧食の蓄えもそれに見合うが、結局は出所がない。もし賊軍に上ってくる者がいれば、一万人で一城を攻め、二城は互いに救援できない情勢になる。もし我々が軍を分けて応援すれば、首尾ともに弱くなる。もし派遣しなければ、孤城は必ず陥落する。一城が一旦失われれば、諸城は次々と土崩し、天下の大事はここで去ってしまう。もし郢州が既に陥落すれば、沿流を席巻し、西陽・武昌は自然に風靡する。どうして急いで兵を分け衆を散らし、自ら憂いを招く必要があろうか。かつて大丈夫の行動は、天の歩みを静めることを言う。まして数州の兵を擁して群小を誅するのに、黄河を懸けて火に注ぐようなもので、どうして滅びないことがあろうか。どうして北を向いて救援を請い、自ら弱さを示すことが許されようか。彼らは必ずしも信じず、ただ我々に醜い名声を残すだけである。これは下策であり、どうして上策と言えようか。卿は私に代わって鎮軍(蕭穎冑)に伝えよ。前途の攻撃と占領は、ただ私に任せてくれ。事は目の前にある。勝利しない心配はない。鎮軍が静かに鎮めているのを頼りにしているだけだ。」
呉子陽らが武口に進軍したので、高祖は軍主の梁天恵・蔡道祐に命じて漁湖城を占拠させ、唐脩期・劉道曼に白陽塁に駐屯させ、両岸を挟んで彼らを待たせた。子陽はまた進んで加湖を占拠し、郢城から三十里の地点で、山に寄り水を帯び、塁柵を築いて自らを固めた。魯山城主の房僧寄が死ぬと、衆は再び助防の孫楽祖を推して後任とした。七月、高祖は王茂に命じ、軍主の曹仲宗・ 康絢 ・武会超らを率いて密かに加湖を襲撃させ、子陽に迫らせた。水が干上がって艦船が通れなかったが、その夜に急に増水し、衆軍は流れに乗って一斉に進み、鬨の声を上げて攻撃した。賊はたちまち大敗し、子陽らは逃げ走り、衆はことごとく江に溺れた。王茂はその残党を捕虜にして帰還した。ここにおいて郢・魯の二城は互いに気力を奪われた。
先に、東昏侯は冠軍将軍の陳伯之を派遣して江州を鎮守させ、子陽らの声援としていた。高祖はそこで諸将に言った。「征討は必ずしも実力を要するものではなく、聞こえる威勢によるものである。今、加湖での敗北を誰が畏服しないだろうか。陳虎牙は即ち伯之の子であり、狼狽して逃げ帰った。彼の間の人情からして、道理として恐れおののくはずである。私は 九江 に檄を伝えれば平定できると思う。」そこで捕らえた俘虜を捜索させ、伯之の幢主である蘇隆之を得て、手厚く賞賜を加え、使命を果たさせた。魯山城主の孫楽祖、郢城主の程茂・薛元嗣が相次いで降伏を請うた。初め、郢城が閉ざされた時、将佐文武の男女の口は十余万人で、疫病や腫れ物で流死した者は十のうち七、八に及んだ。城が開かれると、高祖は一様に哀れみを加えて救済し、死者には棺を与えるよう命じた。
先に、汝南の人胡文超が灄陽で義兵を起こし、義陽・安陸などの郡を討って自らの効力を示そうと求めた。高祖はまた軍主の唐脩期を派遣して随郡を攻撃させ、ともにこれを平定した。司州 刺史 の王僧景は子の貞孫を人質として送った。司州の部はすべて平定された。
陳伯之は蘇隆之を返して復命させ、すぐには進軍しないよう求めた。高祖は言った。「伯之のこの言葉は、首鼠両端の心を持っている。そのためらいに乗じて急いで迫れば、策はなくなり、勢いとして暴れることはできない。」そこで鄧元起に命じて衆を率い、即日に沿流下らせた。八月、天子(和帝)は黄門郎の蘇回を派遣して軍を慰労させた。高祖は舟に乗り、諸将に順次進路を進むよう命じ、上庸太守の 韋叡 に郢城を守らせ、州の事務を行わせた。鄧元起が尋陽に到着しようとした時、陳伯之はなお猜疑と恐れを抱き、兵を収めて湖口に退き守り、子の虎牙に盆城を守らせた。高祖が到着すると、甲を束ねて罪を請うた。九月、天子は 詔 を下し、高祖に東夏を平定させ、併せて便宜を以て事を行わせた。この月、少府・長史の鄭紹叔を留めて江州城を守らせた。前軍は蕪湖に駐屯し、南 豫 州 刺史 の申胄は 姑孰 を捨てて逃走した。この時、大軍は進んでこれを占拠し、引き続き曹景宗・蕭穎達に命じて騎兵と歩兵を率い、江寧に進駐させた。東昏侯は征虜将軍の李居士に歩兵を率いさせて迎撃させたが、景宗がこれを撃退した。ここにおいて王茂・鄧元起・呂僧珍は進んで赤鼻邏を占拠し、曹景宗・陳伯之は遊撃兵とした。この日、新亭城主の江道林が兵を率いて出戦したが、衆軍はこれを陣中で生け捕りにした。大軍は新林に駐屯し、王茂に命じて越城を占拠させ、曹景宗に皁莢橋を、鄧元起に道士墩を、陳伯之に籬門を占拠させた。道林の残党は退いて航南に駐屯したが、義軍がこれを追撃したため、再び散り散りに逃走し、退いて朱爵を守り、淮水を頼りに自らを固めた。当時、李居士はなお新亭塁を占拠し、東昏侯に南岸の邑屋を焼いて戦場を開くよう請うた。大航以西、新亭以北は、荒れ果ててしまった。
十月、東昏侯の石頭軍主の朱僧勇が水軍二千人を率いて帰順した。東昏侯はまた征虜将軍の王珍国に命じ、軍主の胡虎牙らを率いて航南の大路に陣を列ねさせ、すべて精鋭の射手と鋭利な武器を配備し、なお十余万人いた。宦官の王倀子が白虎幡を持って諸軍を監督・指揮し、また航を開いて背水の陣とし、帰路を絶った。王茂・曹景宗らが挟み撃ちに突撃し、将士は皆決死の戦いをし、一騎当千の働きで、鬨の声は天地を震わせた。珍国の衆は一時に土崩し、淮水に投身して死んだ者の屍は航と等しく積み上がり、後から来た者はそれを乗り越えて渡った。ここにおいて朱爵の諸軍はこれを見て皆潰走した。義軍は宣陽門まで追撃し、李居士は新亭塁を、徐元瑜は東府城を以て降伏した。石頭・白下の諸軍はともに夜のうちに潰走した。壬午の日、高祖は石頭を鎮守し、衆軍に命じて六門を包囲させた。東昏侯は門内のすべてを焼き払い、営署・官府を駆り立てて城内に追い込み、二十万の衆を擁した。青州 刺史 の桓和は東昏侯を欺いて出戦させ、その衆を率いて降伏した。高祖は諸軍に命じて長い包囲陣を築かせた。
初め、義師が迫った時、東昏侯は軍主の左僧慶に京口を、常僧景に広陵を鎮守させ、李叔献に瓜歩に駐屯させた。また申胄が姑孰から逃げ帰ると、破墩に駐屯させて東北の声援とした。この時、高祖は使者を派遣して諭し、ともに衆を率いて降伏させた。そこで弟の輔国将軍の蕭秀に京口を、輔国将軍の 蕭恢 に破墩を、 従弟 の寧朔将軍の蕭景に広陵を鎮守させた。呉郡太守の蔡夤は郡を捨てて義師に赴いた。
十二月丙寅日の朝、兼衛尉の張稷・北徐州 刺史 の王珍国が東昏侯を斬り、その首を義師に送った。高祖は呂僧珍に命じて兵を率い、府庫と図籍を封じ、寵妾の潘妃と凶党の王咺之以下四十一人を官吏に引き渡し、誅殺させた。宣徳皇后の令により、涪陵王を廃して東昏侯とし、漢の海昏侯の故事に依った。高祖に 中書監 ・ 都督 揚南徐二州諸軍事・大司馬・録尚書・驃騎大将軍・揚州 刺史 を授け、建安郡公に封じ、食邑一万戸を与え、班剣四十人を賜い、黄鉞・侍中・征討諸軍事はすべて以前の通りとした。晋の武陵王司馬遵が承制した故事に依った。
己卯の日、高祖は閲武堂に入って駐屯した。命令を下して言った。「皇室は不運に遭い、このような暗愚な凶徒に遭遇し、禍いは動植物にまで及び、虐げは人鬼にまで及んだ。 社稷 宗廟の危機は、蠢くように繋がっている。私は皇族の籍に連なり、先帝のご恩寵を深く受け、辺境の任に就き、万里の地で車を推し進めてきた。烏を見つめる思いで、痛心することは目の前にある。故に君主を尊ぶ情を率い、生死を忘れる志を奮い立たせた。宝暦が再び昇り、明命が継承されたとはいえ、独夫の醜悪な振る舞いは、今まさに京邑で煽られている。袖を振りかざし戈を援け、多くの難を鎮めることができた。虐政は横流し、日が経つにつれて久しくなり、悪を同じくする者が互いに助け合うのは、もはや一族だけではない。朝廷の命令を仰ぎ受け、征伐を専任する任にあり、皇恩を広く播き、天下の民に及ぼそうと思う。すべて罪を負う者も、皆新たに生まれ変わらせる。天下に大赦を行うべし。ただし王咺之ら四十一人は赦免の対象外とする。」
また命令を下して言った。「司牧を立てるのは、物を駆使して生を養うためではない。民を傷つけるものを見るようにするのが、どうして上に立って虐げをほしいままにすることであろうか。廃主は常道を捨て、自ら宗廟を絶った。その凶悪で悖逆なことは、書契以来かつてない。徴税は統一されず、苛酷さはますます甚だしくなった。緹繡や土木、菽粟や犬馬に至るまで、閭左の民を徴発して、修築工事に充てた。寒暑の中を流離し、疫病が続き、溝渠に転がり死に、救いや憐れみは全く受けられず、朽ちた肉や枯れた骸は、烏や鳶に飽きられるほどであった。これに天災や人為の火災が加わり、宮掖を幾度も焼き、官府や台寺は、一尺の椽さえ残らず、悲しみは『黍離』に甚だしく、痛みは『麦秀』を兼ねる。遂に億兆の民の心は離れ、辺境は侵され弱体化した。この民たちに何の罪があって、このような塗炭の苦しみに遭うのか。今、明と暗が交代し、大道が公に行われる。治世を思う民は、この日に蘇ることを待ち望んでいる。私は浅薄な身でありながら、大いなる寵愛を担うことになった。中興の運にありながらも、草創期と同じく艱難であり、皇恩を明らかにし、民と共に更始することを考えている。すべての暗愚な制度、誤った賦税、過酷な刑罰、濫りな労役は、外で詳細に前の根源を検討し、全て廃止し除くこと。主守が散失し、様々な損耗があったものについては、精緻に条規を立て、全て元の例に従って処理する。」
また言った。「永元の末年以来、天地の綱維は緩み落ちた。政は実に多門に分かれ、衛文公の時代とは異なり、権力は下に移り、事態は曹恭の時と同じであった。遂に宦官の長官に翁媼の称があり、高安には法堯の趣旨があった。獄を売り官を販り、山を封鎖し沢を占有し、開閉の機微は、小人物の奏上によって決まった。直道と正義は、長年にわたって抑圧され、冤罪を抱え道理を抱く者は、誰に訴えればよいのか分からなかった。奸吏はこれに乗じ、筆削を自らの意のままにした。これはただ賈誼が涙を流し、許伯が時を嘆いただけのことであろうか。今、理運は新たになり、政刑はその所を得て、流弊を矯正し改革するのは、まさにこの日である。尚書の諸曹を通じて検討し、東昏侯の時に諸々の訴訟で道理を失い、また主管者が滞り適時に施行しなかった案件について、精細に審理し弁明し、事に依って議奏することを許可する。」
また命令を下し、義軍が戦陣で命を落とした者や疾病で死亡した者について、全て葬儀と納棺を行い、遺された孤児を収容し救恤するようにした。また命令を下して言った。「朱爵の戦いでの勝利において、逆徒で死を遂げた者については、特に家族に埋葬を許可する。もし親族がいないか、あるいは貧苦である場合は、二県の長尉が直ちに埋葬すること。 建康 城内で、天命に達せず、自ら滅亡を招いた者も、同じ規定による。」
二年正月、天子は兼侍中の席闡文と兼黄門侍郎の楽法才を派遣して京邑を慰労させた。高祖の祖父に 散騎 常侍 左光禄大夫を、父に侍中丞相を追贈した。
高祖は命令を下して言った。「上に立つ者が下を教化すれば、草が風になびくように従う。世の浮薄さと淳朴さは、常にここから生じる。永元の失徳以来、書契に記されないほどの、極めて凶悪で悖逆なことは、どうして言い尽くせようか。やがて 琁 室が外に構えられ、傾宮が内に積み重ねられ、奇技や異服は、見たこともないほどに尽くされた。上は傲慢で下は暴虐、淫侈は競って奔走した。国命と朝権は、全て側近の者に移った。官を売り爵を販り、賄賂が公然と行われた。甲第は康衢に並び、漸台や広室が建てられた。長袖は低く昂り、和戎の賜り物に等しく、珍しい肴は百品にも及び、伐冰の家と同じであった。愚かな民はこれに従い、次第に習俗となった。驕りと艶やかさが競って爽やかさを誇り、華美と麗しさが互いに高め合った。市井の家に至っては、貂や狐の皮を身に着け、工商の子は、緹繡を襲うようになった。日が沈む頃から、夜半になっても帰らず、まだ暗い朝に、清らかな朝を期待する。聖明の世が始まり、励精することは初めからである。継承とはいえ、ほとんど創始と改革と同じである。しかも淫費の後、引き続いて興師があり、巨橋や鹿台のように、凋落し尽きることは一様ではない。私は大いなる寵愛を忝なく受け、澄明にすることを務め、皇朝の大帛の趣旨を仰ぎ述べ、微躬の鹿裘の義を下って励まし、解いて更に張り直し、彫り物を削って樸素にすることを考えている。祭祀に奉じるもの、紱冕を整えるもの、礼楽の容儀を習うもの、甲兵の備えを修めるもの以外の、その他の諸費用は、一切禁止する。御府や中署は、適宜に廃止または簡素化する。掖庭の妾の数を備え、大予楽で鄭衛の音を絶つ。その中で卿士を率先し、民衆の基準となることができるもの、粗食と薄衣については、私から始めることを請う。多くの人材が軌を一にし、九官が皆事に当たるならば、もし人々が退食に務め、競って己を約し、風俗を移し変えるならば、一ヶ月で成果が上がることを期待する。昔、毛玠が朝廷にいた時、士大夫は華美な衣服を着けたり、こっそり美食をすることはできなかった。魏武帝は嘆いて言った。『私の法は毛尚書には及ばない。』私は往賢に徳において及ばないが、先達として重責を担い、実に多くの士がこの心を得ることを望む。外で詳細に条格を定めること。」
戊戌の日、宣徳皇后が朝政に臨み、内殿に入って居住した。帝を大司馬に拝し、承制を解き、百官は以前のように敬意を表した。 詔 を下して高祖を 都督 中外諸軍事に進め、剣を履き殿に上り、朝に入る時に趨らず、拝礼を唱える時に名を称さないことを許した。前後部の羽葆鼓吹を加えた。左右の長史、司馬、從事中郎、掾、属を各四人置き、従来通り士を辟召し、その他は全て従前の通りとした。 詔 は次のように言った。
高祖は固辞した。府の僚属が進むよう勧めて言った。「嘉命を伏して承る。明公が盛大な礼を逡巡されるのは、確かに謙遜して尊ぶお考えではあるが、遠大な極致を尽くしてはいない。なぜか。嗣君は常道を棄て、自ら宗社を絶ち、国命と民主は、仇敵に変わり、棟は折れ榱は崩れ、圧し掛かって自らに及ぶ。卿士は脯を斬られる痛みを懐き、 黔首 は隣家ごとに誅殺されることを恐れる。明公は天に格る功績を明らかにし、水火の切迫した救済に努め、日月を再び巡らせ、参辰を重ねて繋ぎ、塗泥の中の亀玉を返し、坑岸の民を救い、匹婦や童児にすら、伊尹や呂尚を言うのを恥じさせ、郷校や里塾で、五覇を語るのを恥じさせる。しかし位は 阿衡 よりも卑く、地は曲阜よりも狭く、慶賞の道は、まだ行き渡っていない。大宝は公の器であり、求めず拒まず、至公至平であり、仁に当たって誰が譲ろうか。明公は天人を祗奉し、大礼に応えるべきである。後世の私を歌う者が、あの怨みを同じくするようにならぬように、兼済の人が、翻って独善に陥ることのないように。」公は許さなかった。
二月辛酉の日、府の官僚たちが重ねて請願して言った。「近ごろ朝廷の命により策を授けられ、丹誠を奏上したところ、返答の令を受けましたが、まだご受諾いただけず、官僚たちは首を長くしており、深く理解できません。聞くところによれば、府から金を受けることは、通達した人の大きな志であり、海辺に隠遁することは、匹夫の小さな節であるといいます。それゆえ、周公は乗石を踏んでも疑わず、太公望は玉璜を贈られても譲りませんでした。ましてや世の哲人が軌跡を継ぎ、先代の徳が民にあり、草創期を経営し、微管の嘆きを深くしております。さらに朱方の役では、荊河を頼りとし、軍を整えて帰還し、王室を大いに助けました。たとえ累繭して宋を救い、重胝して楚を存続させたとしても、今の状況から昔を見れば、何と足りましょうか。それなのに、盗鐘のように惑いが甚だしく、功績が疑われて賞されず、皇天后土もその残酷さに耐えられません。それゆえ、玉馬が駆け出して微子の去ったことを表し、金板が地から出て龍逢の冤罪を告げたのです。明公は鞍に寄りかかって泣きを止め、三軍の志を奮い立たせ、独り居て涙をぬぐい、義士の心を奮い起こされたので、海神が登って祇を尽くし、図を尽くして福を現し、山戎や孤竹が馬を束ねて影のように従い、罪を討ち民を慰め、天下を匡正して乱を静めることができました。天の功績を貪ったのではなく、実に濡れた足を勤めたのです。かつ明公はもともと諸生であり、名教に楽しみを求め、道風と素論をもって雅俗を鎮め、孫子や呉子を学ばずとも、この神武に遭われました。誅殺すべき民を駆り立て、必ず封じられるべき風俗を救い、亀玉を毀さなかったのは、誰の功績でしょうか。独り君子として、伊尹や周公をどの地に置かれるというのですか」そこで初めて相国梁公の命を受けた。
この日、東昏侯の淫奢な異服六十二種を都の街で焼いた。湘東王蕭宝晊が謀反を企てたため、死を賜った。 詔 を下して梁公の故夫人を梁妃に追贈した。
乙丑の日、南兗州の隊主陳文興が桓城内で井戸を掘ったところ、玉で彫った騏驎、金で彫った玉璧、水晶の環がそれぞれ二つずつ得られた。また建康令の羊瞻が解を上奏して、鳳凰が県の桐下里に現れたと称した。宣徳皇后は符瑞を称賛し、相国府に帰属させた。
丙寅の日、 詔 が下った。「梁国が初めて建てられたので、総合的に処理する必要があり、旧例に従って諸々の要職を選び、すべて天朝の制度に従うこととする」高祖は上表して言った。
詔 により高祖の上表に従って施行された。
丙戌の日、 詔 が下った。
公は固辞した。 詔 により上表を断ち切るよう命じられた。相国左長史の王瑩らが百官を率いて懇請した。
三月辛卯の日、延陵県の華陽の邏主戴車が牒を上奏して言った。「十二月乙酉の日、甘露が茅山に降り、数里にわたって広がった。正月己酉の日、邏将の潘道蓋が山の石穴の中で毛亀を一匹得た。二月辛酉の日、邏将の徐霊符がまた山の東で白い麞を一匹見た。丙寅の日の夜明け前、山上に雲霧が四方から集まり、やがて玄黄の色となり、形は龍のようで、長さ十余丈、隠れたり現れたりし、久しくしてから西北の方角へ昇天した」丁卯の日、兗州 刺史 の馬元和が籤を上奏した。「管轄する東平郡寿張県で騶虞が一匹現れた」
癸巳の日、梁王の命を受けた。令を下して言った。「孤は虚昧をもって国政を執る任に就いたが、日夜勤めているものの、興治を念じていても、徳を育み民を奮い起こすことは、はるかに遠い。聖朝は旧式を永く語り、この眷命を高くしている。侯伯の盛典は、前の功績と並び行き、嘉なる賜り物が厚く及び、礼数が明らかに尊ばれている。ただ節を守るばかりで、ついに体諒と隔たっている。諸侯百官が重ねてこれを敦め奨励し、厚かましさを奮い起こさせ、この休祚に当たらせようとする。昆吾や彭祖を望んで長く思い、桓公や文公を欽んで嘆息し、政道を広めようと思うが、渡し場を知らない。邦甸が初めて開かれ、藩宇が新たになるので、嘉慶を広く考え、下国に及ぼす。国内の殊死以下の罪人は、今月十五日の夜明け前までに、すべて赦免する。鰥寡孤独で自活できない者には、穀物五斛を賜う。府州が統轄する者も同様に免除する」
丙午の日、王の冕に十二の旒をつけ、天子の旌旗を立て、出入りには 警蹕 を設け、金根車に乗り、六頭の馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭と雲罕を置き、楽舞は八佾とし、鐘鋋の宮懸を設けた。王妃・王子・王女の爵命の称号は、すべて旧儀に従った。
丙辰の日、斉の帝が梁王に禅位した。 詔 が下った。
四月辛酉の日、宣徳皇后が令を下して言った。「西からの 詔 が届き、帝は前代を憲章として、 神器 を梁に敬って禅位された。明日、臨軒して使者を遣わし、恭しく 璽綬 を授けよ。未亡人は別宮に帰る」壬戌の日、策が下った。
また璽書が下った。
高祖は抗表して辞退を陳べたが、上表は通じなかった。そこで、斉の百官の 豫 章王蕭元琳ら八百十九人、および梁台の侍中臣雲ら百十七人が、ともに上表して即位を勧め、高祖は謙譲して受けなかった。この日、太史令の蒋道秀が天文 符讖 六十四条を陳べ、事柄はすべて明らかであった。群臣が重ねて上表して固く請願したので、ついに従った。
注