晉書

巻一百十四 載記第十四

巻一百十四 載記第十四

晉書

原文晉書

巻一百十四 載記第十四

原文卷一百十四 載記第十四 ► 卷一百十五

苻堅ふけん

原文苻堅

太元七年、苻堅は前殿で群臣を饗応し、音楽を奏で詩を賦した。秦州別駕天水の姜平子の詩に「丁」の字あざながあったが、まっすぐで曲がっていなかった。堅がその理由を尋ねると、平子は言った。「臣の丁は極めて剛直であり、曲げることはできません。また、曲がって下がるものは不正なものであり、献上するに足りません。」堅は笑って言った。「名は虚しく行われるものではない。」そこで上第に抜擢した。

原文太元七年,堅饗群臣於前殿,樂奏賦詩。秦州別駕天水姜平子詩有「丁」字,直而不曲。堅問其故,平子曰:「臣丁至剛,不可以屈,且曲下者之不正之物,未足獻也。」堅笑曰:「名不虛行。」因擢為上第。

堅の兄の子で東海公の苻陽と、王猛おうもうの子で散騎侍郎の苻皮が謀反を企てたが、事が漏れた。堅が反逆の様子を問うと、陽は言った。「『礼』に、父母の仇は天地を同じくせず、とあります。臣の父哀公は罪なくして死にました。斉の襄公は九世の仇を復讐しました。ましてや臣においておやです。」皮は言った。「臣の父である丞相には、天命を助けた功績がありますが、臣は貧困と飢えを免れません。それゆえ富を図ったのです。」堅は涙を流して陽に言った。「哀公のご逝去は、朕に責任はない。卿はそれを知らないはずがない。」皮を責めて言った。「丞相は臨終の際、卿に十具の牛を与えて田とせよと託した。卿のために官位を求めたとは聞かない。子を知るは父に如かず。どうしてこの言葉が証拠となるのか。」二人とも赦して誅殺せず、陽は高昌に、皮は朔方の北に流した。苻融は宗正の職にありながら、奸悪の芽生えを厳しく抑えられなかったとして、上疏して私領で罪を待つことを請うた。堅は許さなかった。融を司徒しとに任じようとしたが、融は固辞した。堅は荊州・揚州に鋭意を注ぎ、侵攻を謀ろうとしたため、融を征南大将軍・開府儀同三司に改めて任命した。

原文堅兄法子東海公陽與王猛子散騎侍郎皮謀反,事泄,堅問反狀,陽曰:「《禮》雲,父母之仇,不同天地。臣父哀公,死不以罪,齊襄復九世之仇,而況臣也!」皮曰:「臣父丞相有佐命之勳,而臣不免貧餒,所以圖富也。」堅流涕謂陽曰:「哀公之薨,事不在朕,卿寧不知之!」讓皮曰:「丞相臨終,托卿以十具牛為田,不聞為卿求位。知子莫若父,何斯言之征也!」皆赦不誅,徙陽于高昌,皮于朔方之北。苻融以位忝宗正,不能肅遏奸萌,上疏請待罪私籓。堅不許。將以融為司徒,融固辭。堅銳意荊、揚,將謀入寇,乃改授融征南大將軍、開府儀同三司。

新平郡が玉器を献上した。初め、堅が偽位に即くと、新平の王彫が図讖について陳説し、堅は大いに喜び、彫を太史令とした。彫はかつて堅に言った。「謹んで讖文を案ずると、『古月の末、中州を乱し、洪水大いに起こり健西に流れ、惟だ雄子有りて八州を定む』とあります。これは即ち三祖と陛下の聖諱いみなです。また、『草付の臣又土有り、東燕を滅ぼし、白虜を破り、氐は中に在り、華は表に在るべし』とあります。図讖の文を案ずると、陛下は燕を滅ぼし、六州を平定されるはずです。願わくは、汧・隴の諸氐を京師に移し、三秦の大戸を辺境の地に置き、図讖の言葉に応じてください。」堅は王猛に意見を求めた。猛は彫を左道で衆を惑わす者とし、堅に誅殺を勧めた。彫は刑に臨んで上疏した。「臣は趙の建武四年に、京兆の劉湛に師事し、図記に明るくなりました。湛は臣に言いました。『新平の地は古く顓頊の墟であり、里の名を雞閭という。記に云う、この里は帝王の宝器が出るはずで、その名を延寿宝鼎という。顓頊は云う、河上の先生が我がために咸陽の西北にこれを隠せり、我が孫に草付の臣又土有りてこれに応ずべし、と。』湛はまた言いました。『私はかつて室中で斎戒していたとき、夜に半月ほどの大きさの流星がこの地に落ちた。これがそのことだろう!』願わくは陛下これを心に留め、七州を平定された後、壬午の年に出てきますように。」この時になって新平の人がそれを見つけて献上したのである。器の銘には篆書で文題の法があり、一は天王、二は王后、三は三公、四は諸侯、五は伯子男、六は卿大夫、七は元士とされた。これより以下、文記を考証して帝王と名臣を列挙し、天子・王后から内外の順序に至るまで、上は天文に応じ、紫宮の布列のように象り、玉牒の版辞に依って、帝王の数に違わない。上元の人皇から始まり、中元を経て、下元に至って窮まり、天地が一変し、三元が尽きて止まる。堅は彫の言葉に証拠があったとして、光禄大夫を追贈した。

原文新平郡獻玉器。初,堅即偽位,新平王彫陳說圖讖,堅大悅,以彫為太史令。嘗言於堅曰:「謹案讖云:'古月之末亂中州,洪水大起健西流,惟有雄子定八州。'此即三祖、陛下之聖諱也。又曰:'當有草付臣又土,滅東燕,破白虜,氐在中,華在表。'案圖讖之文,陛下當滅燕,平六州。願徙汧、隴諸氐于京師,三秦大戶置於邊地,以應圖讖之言。」堅訪之王猛,猛以彫為左道惑眾,勸堅誅之。彫臨刑上疏曰:「臣以趙建武四年,從京兆劉湛學,明於圖記,謂臣曰:'新平地古顓頊之墟,裏名曰雞閭。記雲,此裏應出帝王寶器,其名曰延壽寶鼎。顓頊有雲,河上先生為吾隱之於咸陽西北,吾之孫有草付臣又土應之。'湛又云:'吾嘗齋於室中,夜有流星大如半月,落於此地,斯蓋是乎!'願陛下志之,平七州之後,出於壬午之年。」至是而新平人得之以獻,器銘篆書文題之法,一為天王,二為王后,三為三公,四為諸侯,五為伯子男,六為卿大夫,七為元士。自此已下,考載文記,列帝王名臣,自天子王后,內外次序,上應天文,象紫宮布列,依玉牒版辭,不違帝王之數。從上元人皇起,至中元,窮於下元,天地一變,盡三元而止。堅以彫言有征,追贈光祿大夫。

幽州に蝗害が発生し、広がりは千里に及んだ。堅は散騎常侍の劉蘭を使者として節を持たせ、青州・冀州・幽州・并州の百姓を徴発してこれを討伐させた。

原文幽州蝗,廣袤千里,堅遣其散騎常侍劉蘭持節為使者,發青、冀、幽、并百姓討之。

苻朗を使持節・都督青徐兗三州諸軍事・鎮東将軍・青州刺史ししとし、諫議大夫の裴元略を陵江将軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守とし、密かに計画を授け、王撫とともに蜀で水軍を準備させ、これをもって侵攻しようとした。

原文以苻朗為使持節、都督青徐兗三州諸軍事、鎮東將軍、青州刺史,以諫議大夫裴元略為陵江將軍、西夷校尉、巴西梓潼二郡太守,密授規模,令與王撫備舟師於蜀,將以入寇。

車師前部王の弥窴と鄯善王の休密馱が堅のもとに朝貢した。堅は朝服を賜り、西堂で引見した。窴らはその宮殿の壮麗さと儀衛の厳粛さを見て、非常に恐れ、毎年貢献することを請うた。堅は西域の道が遠いとして許さず、三年に一度の貢ぎ物、九年に一度の朝貢を命じ、永制とした。窴らは請うて言った。「大宛などの国々は貢献を通じてはいますが、誠節が純粋ではありません。どうか漢の故事に倣い都護を置かれてください。もし王師が関を出られるなら、先導を務めさせてください。」堅はそこで驍騎の呂光を持節・都督西討諸軍事とし、陵江将軍の姜飛、軽騎将軍の彭晃らに兵七万を配して、西域を討伐平定させようとした。苻融は、中国の国力を消耗させ、兵を万里の外に投じ、その民を得ても使役できず、その地を得ても耕作できないと固く諫めて、不可であるとした。堅は言った。「二漢は匈奴を制することができなかったが、なお西域に出師した。今や匈奴は既に平定され、朽ち木を摧くが如く容易である。師を労して遠征するとはいえ、檄文を伝えるだけで平定でき、昆山に教化が及び、芳名を千年に垂れる。これもまた美しいことではないか。」朝臣たちもまたたびたび諫めたが、皆聞き入れられなかった。

原文車師前部王彌窴、鄯善王休密馱朝於堅,堅賜以朝服,引見西堂。窴等觀其宮宇壯麗,儀衛嚴肅,甚懼,因請年年貢獻。堅以西域路遙,不許,令三年一貢,九年一朝,以為永制。窴等請曰:「大宛諸國雖通貢獻,然誠節未純,請乞依漢置都護故事。若王師出關,請為鄉導。」堅於是以驍騎呂光為持節、都督西討諸軍事,與陵江將軍姜飛、輕騎將軍彭晃等配兵七萬,以討定西域。苻融以虛秏中國,投兵萬里之外,得其人不可役,得其地不可耕,固諫以為不可。堅曰:「二漢力不能制匈奴,猶出師西域。今匈奴既平,易若摧朽,雖勞師遠役,可傳檄而定,化被昆山,垂芳千載,不亦美哉!」朝臣又屢諫,皆不納。

晋の将軍朱綽が沔北の屯田を焼き払い、六百余戸を略奪して帰還した。苻堅は群臣を召集して会議を開き、言った。「私は大業を継承してほぼ二十年になる。逃亡者や穢れた者を平定し、四方はほぼ平定したが、ただ東南の一角だけがまだ王化に従っていない。私は天下が統一されていないことを思うたびに、食事を取るのを止めてしまう。今、天下の兵を起こしてこれを討伐しようと思う。大まかに計算すると、武器と精鋭の兵士は九十七万ほどになるだろう。私は自ら先頭に立って出陣し、南の辺境を討伐しようと思う。諸卿の意見はどうか。」秘書監の朱彤が言った。「陛下は天に応じ、時に順い、天罰を恭しく行おうとしておられます。一声嘯けば五嶽が崩れ、一呼吸すれば江海の流れが絶えるでしょう。もし百万の兵を一度に挙げれば、必ず征伐はあっても戦いはないでしょう。晋の君主は自ら璧を口にくわえ、棺を車に載せて、軍門に額を地につけて降伏するでしょう。もし迷って悟らなければ、必ず江海に逃れて死を求めるでしょう。猛将がこれを追えば、すぐに南の巣で命を絶つことができます。中州の人々を故郷に帰すことができます。その後、車駕を岱宗に回し、成功を告げて封禅を行い、中壇から白雲を起こし、中嶽で万歳を受けるならば、それは終古に一度のことで、文字の記録にもないことです。」苻堅は大いに喜んで言った。「これこそ私の志だ。」左僕射ぼくやの権翼が進み出て言った。「臣は晋を討伐すべきではないと考えます。紂王のような無道でさえ、天下が離反し、八百諸侯が謀らずして集まった時でさえ、武王はまだ『彼には人材がいる』と言って、軍を返し、旗を止めました。三仁(微子・箕子・比干)が誅殺・放逐されてから、初めて牧野で戈を奮い起こしたのです。今、晋の道は衰えているとはいえ、その徳が失われたとは聞いておりません。君臣は和睦し、上下は心を一つにしています。謝安しゃあん、桓沖は江南の偉大な人材であり、晋には人材がいると言えるでしょう。臣は聞きます。軍が勝つのは和によるものだと。今、晋は和しています。図るべきではありません。」苻堅はしばらく黙っていたが、言った。「諸君はそれぞれ自分の考えを述べよ。」太子左衛率の石越が答えて言った。「呉の人々は険しい地形に頼って辺境に偏在し、王命に従いません。陛下が自ら六軍を統率し、衡・越に罪を問うのは、確かに人神四海の望みに合致します。しかし、今年は鎮星が斗牛を守り、福徳は呉にあります。天象に誤りはなく、犯すべきではありません。また、晋の中宗(元帝)は藩王に過ぎませんでしたが、夷夏の情は皆、彼を推戴し、その遺愛は今も人々の中に残っています。昌明(孝武帝)はその孫です。国には長江の険があり、朝廷には昏君や二心の兆しはありません。臣の愚見では、徳を修めるのが有利であり、軍を動かすべきではありません。孔子は言われました。『遠方の人が服従しないならば、文徳を修めて彼らを招き寄せる』と。どうか国境を保ち、兵を養い、彼らの虚をつく隙を伺ってください。」苻堅は言った。「私は聞く。武王が紂を討伐した時、歳星に逆らい、星を犯したと。天道は幽遠で、知ることはできない。昔、夫差は上国を威圧したが、勾践に滅ぼされた。孫権(仲謀)は全呉に恩沢を行き渡らせたが、孫皓は三代の業を継いでいながら、龍驤将軍(王濬おうしゅん)が一声呼べば、君臣は縛られて降伏した。長江があっても、どうして守りを固められようか!私の大軍が鞭を江に投げ入れれば、その流れを断つに足る。」石越は言った。「臣は聞きます。紂王が無道であったので、天下が彼を患い、夫差は淫虐で、孫皓は昏暴であり、衆は叛き親は離れたので、敗れたのです。今、晋には徳がないとはいえ、そのような罪はありません。どうか深く兵を鍛え、粟を蓄えて天の時を待たれることを願います。」群臣はそれぞれ賛否があり、朝廷での議論は長く続いた。苻堅は言った。「いわゆる道の真ん中に家を建てようとすれば、反対意見は万端に及ぶものだ。私は内心で決断するつもりだ。」群臣が退出した後、苻融だけを残して相談した。苻堅は言った。「古来、大事を決するのは、方策を定める者一、二人だけだ。群議が紛紜としても、ただ人の心を乱すだけだ。私はお前と決めよう。」苻融は言った。「歳星と鎮星が斗牛にあるのは、呉・越の福であり、討伐できない理由の一つです。晋の君主は立派で聡明であり、朝臣は命令に従っています。討伐できない理由の二つです。我が国は数度の戦いで兵は疲れ、将は倦み、敵を恐れる気持ちがあります。討伐できない理由の三つです。討伐すべきでないと言う者たちの意見は、上策です。どうか陛下にはそれを採用してください。」苻堅は顔色を変えて言った。「お前までそう言うのか。天下の事を、私は誰と語ればよいのか!今、百万の大軍があり、物資と武器は山のようだ。私はまだ名君とは言えないが、暗愚でもない。連勝の威勢をもって、滅亡に瀕した賊を撃つのに、どうして勝てないことがあろうか!私は決して賊を子孫に残し、宗廟社稷の憂いとすることはない。」苻融は泣いて言った。「呉を討伐できないことは明らかです。大軍を無駄に動かせば、必ず功なくして帰還するでしょう。臣が憂えるのは、それだけではありません。陛下は鮮卑・羌・羯を寵愛して育て、畿内に配置し、古くからの氏族や同族は、遠方に追いやられています。今、国を挙げて出て行けば、もし風塵の変(異変・反乱)が起こった場合、宗廟はどうなりますか!監国(太子)が弱卒数万で京師を留守にし、鮮卑・羌・羯が林のように集まっています。これらは皆、国の賊であり、我々の仇敵です。臣はただ帰ってくるだけでは済まず、必ずしも万全ではないことを恐れます。臣の智識は愚かで浅く、誠に採用に足りません。王景略(王猛)は一世の奇士であり、陛下はいつも彼を孔明になぞらえられました。その臨終の言葉を忘れてはなりません。」苻堅は聞き入れなかった。東苑に遊び、沙門の道安に同じ輦に乗るよう命じた。権翼が諫めて言った。「臣は聞きます。天子の法駕には、侍中が陪乗し、道を清めて行き、進退には節度があると。三代の末主は、大倫を損ない、一時の感情に適い、後世に悪名を書かれることがありました。故に班姫が輦を辞したことは、美談として永遠に伝わります。道安は形を毀し賤しい士であり、神聖な御輿を穢すべきではありません。」苻堅は顔色を変えて言った。「安公の道は至境に冥合し、その徳は当代で尊ばれている。朕が天下の重みを挙げても、彼と代えることはできない。公が輦に乗る栄誉ではなく、これこそが朕の顕彰なのだ。」権翼に命じて道安を扶けて輦に昇らせ、道安を振り返って言った。「朕は公と共に南の呉・越に遊び、六軍を整えて巡狩し、疑嶺で虞舜の陵を拝し、会稽かいけいで禹の穴を瞻仰し、長江を渡り、滄海に臨むのも、また楽しからずや!」道安は言った。「陛下は天に応じて世を治め、中土に居ながら四方を制し、逍遥として時に順い、聖なる御身に適うようにされ、動けば鑾鈴を鳴らして道を清め、止まれば神のように無為に棲み、端坐して拱手して教化を行い、堯・舜と比肩なさるべきです。どうして御身を駆り立てて疲れさせ、口を経略に倦ませ、風雨にさらされ、野営で塵を被るようなことをなさいますか?況や東南の小さな地は、地勢が低く気が癘(疫病)を含んでおり、虞舜は遊んで帰らず、大禹は行って帰らなかったのです。どうして上は神駕を煩わせ、下は蒼生を困窮させるに足りましょうか。《詩経》に『この中国を恵み、以て四方を安んず』とあります。もし文徳をもって遠方を懐柔するに足りるならば、わずかな兵も煩わせずに百越を賓客として迎えることができます。」苻堅は言った。「土地が広くないとか、人が足りないからではない。ただ六合を統一して、蒼生を救済したいと思うのだ。天が衆民を生み、君を立てるのは、煩わしさと乱れを取り除くためである。どうして労苦を恐れることがあろうか!朕はすでに大運が集まっている。天の心を選んで天罰を行おう。高辛氏には熊泉の戦役があり、唐堯には丹水の軍勢があった。これらは皆、前の典籍に著され、後の王に明らかになっている。誠に公の言う通りならば、帝王に四方を視察する記述はないのか?況や朕のこの行いは、義によって挙げるのだ。流亡した衣冠の子孫(士大夫)をして、その故郷の墳墓に帰らせ、その故郷に戻らせるためだ。ただ難を救い、人材を選ぶためであって、兵を極限まで用いて武力を尽くそうというのではない。」道安は言った。「もし鑾駕がどうしても御親征なさるならば、それでも遠く江・淮に渡ることは望まず、暫く洛陽らくように行幸され、勝利の策略を明らかに授け、丹陽に檄文を飛ばして、彼らが迷いを改める道を開かれるのがよいでしょう。もし彼らが朝廷に従わなければ、その時討伐なさればよいのです。」苻堅は聞き入れなかった。これに先立ち、群臣は苻堅が道安を信頼し重用しているのを見て、道安に言った。「主上は東南に事を起こそうとしておられる。公はどうして蒼生のために一言も進言されないのか。」故に道安はこのために諫めたのである。苻融および尚書しょうしょの原紹、石越などが上書して面と向かって諫め、前後数十回に及んだが、苻堅は結局従わなかった。苻堅の末子である中山公の苻詵は苻堅に寵愛されており、また諫めて言った。「臣は聞きます。季梁が随にいた時、楚人は彼を恐れた。宮奇が虞にいた時、晋は兵を窺わなかった。国に人材がいたからです。そしてその謀が用いられなくなると、滅亡は一年もかからなかった。前の車の覆ったわだちは、後の車の明らかな鑑です。陽平公(苻融)は国の謀主でありながら、陛下は彼に背かれます。晋には謝安、桓沖がいるのに、陛下はそれを討伐なさいます。この出陣については、臣はひそかに疑念を抱きます。」苻堅は言った。「国には元亀(占いの亀甲)があり、大謀を決することができる。朝廷には公卿がおり、進退を定めることができる。小僧が口を出すならば、誅殺されよう。」

原文晉將軍朱綽焚踐沔北屯田,掠六百餘戶而還。堅引群臣會議,曰:「吾統承大業垂二十載,芟夷逋穢,四方略定,惟東南一隅未賓王化。吾每思天下不一,未嘗不臨食輟餔,今欲起天下兵以討之。略計兵杖精卒,可有九十七萬,吾將躬先啟行,薄伐南裔,于諸卿意何如?」秘書監硃彤曰:「陛下應天順時,恭行天罰,嘯吒則五嶽摧覆,呼吸則江海絕流,若一舉百萬,必有征無戰。晉主自當銜璧輿櫬,啟顙軍門,若迷而弗悟,必逃死江海,猛將追之,即可賜命南巢。中州之人,還之桑梓。然後回駕岱宗,告成封禪,起白雲於中壇,受萬歲於中嶽,爾則終古一時,書契未有。」堅大悅曰:「吾之志也。」左僕射權翼進曰:「臣以為晉未可伐。夫以紂之無道,天下離心,八百諸侯不謀而至,武王猶曰彼有人焉,回師止旆。三仁誅放,然後奮戈牧野。今晉道雖微,未聞喪德,君臣和睦,上下同心。謝安、桓沖,江表偉才,可謂晉有人焉。臣聞師克在和,今晉和矣,未可圖也。」堅默然久之,曰:「諸君各言其志。」太子左衛率石越對曰:「吳人恃險偏隅,不賓王命,陛下親禦六師,問罪衡、越,誠合人神四海之望。但今歲鎮星守斗牛,福德有吳。懸象無差,弗可犯也。且晉中宗,籓王耳,夷夏之情,咸共推之,遺愛猶在於人。昌明,其孫也,國有長江之險,朝無昏貳之釁。臣愚以為利用修德,未宜動師。孔子曰:'遠人不服,修文德以來之。'願保境養兵,伺其虛隙。」堅曰:「吾聞武王伐紂,逆歲犯星。天道幽遠,未可知也。昔夫差威陵上國,而為句踐所滅。仲謀澤洽全吳,孫皓因三代之業,龍驤一呼,君臣面縛,雖有長江,其能固乎!以吾之眾旅,投鞭于江,足斷其流。」越曰:「臣聞紂為無道,天下患之。夫差淫虐,孫皓昏暴,眾叛親離,所以敗也。今晉雖無德,未有斯罪,深願厲兵積粟以待天時。」群臣各有異同,庭議者久之。堅曰:「所謂築室於道,沮計萬端,吾當內斷於心矣。」群臣出後,獨留苻融議之。堅曰:「自古大事,定策者一兩人而已,群議紛紜,徒亂人意,吾當與汝決之」融曰:「歲鎮在斗牛,吳、越之福,不可以伐一也。晉主休明,朝臣用命,不可以伐二也。我數戰,兵疲將倦,有憚敵之意,不可以伐三也。諸言不可者,策之上也,願陛下納之。」堅作色曰:「汝復如此,天下之事,吾當誰與言之!今有眾百萬,資仗如山,吾雖未稱令主,亦不為暗劣。以累捷之威,擊垂亡之寇,何不克之有乎!吾終不以賊遺子孫,為宗廟社稷之憂也。」融泣曰:「吳之不可伐昭然,虛勞大舉,必無功而反。臣之所憂,非此而已。陛下寵育鮮卑、羌、羯,布諸畿甸,舊人族類,斥徙遐方。今傾國而去,如有風塵之變者,其如宗廟何!監國以弱卒數萬留守京師,鮮卑、羌、羯攢聚如林,此皆國之賊也,我之仇也。臣恐非但徒返而已,亦未必萬全。臣智識愚淺,誠不足采;王景略一時奇士,陛下每擬之孔明,其臨終之言不可忘也。」堅不納。游于東苑,命沙門道安同輦。權翼諫曰:「臣聞天子之法駕,侍中陪乘,清道而行,進止有度。三代末主,或虧大倫,適一時之情,書惡來世。故班姬辭輦,垂美無窮。道安毀形賤士,不宜參穢神輿。」堅作色曰:「安公道冥至境,德為時尊。朕舉天下之重,未足以易之。非公與輦之榮,此乃朕之顯也。」命翼扶安升輦,顧謂安曰:「朕將與公南游吳、越,整六師而巡狩,謁虞陵於疑嶺,瞻禹穴於會稽,泛長江,臨滄海,不亦樂乎!」安曰:「陛下應天禦世,居中土而制四維,逍遙順時,以適聖躬,動則鳴鑾清道,止則神棲無為,端拱而化,與堯、舜比靈斯,何為勞身於馳騎,口倦於經略,櫛風沐雨。蒙塵野次乎?且東南區區,地下氣癘,虞舜遊而不返,大禹適而弗歸,何足以上勞神駕,下困蒼生。《詩》云:'惠此中國,以綏四方。'苟文德足以懷遠,可不煩寸兵而坐賓百越。」堅曰:「非為地不廣、人不足也,但思混一六合,以濟蒼生。天生蒸庶,樹之君者,所以除煩去亂,安得憚勞!朕既大運所鐘,將簡天心以行天罰。高辛有熊泉之役,唐堯有丹水之師,此皆著之前典,昭之後王。誠如公言,帝王無省方之文乎?且朕此行也,以義舉耳,使流度衣冠之胄,還其墟墳,復其桑梓,止為濟難銓才,不欲窮兵極武。」安曰:「若鑾駕必欲親動,猶不願遠涉江、淮,可暫幸洛陽,明授勝略,馳紙檄於丹陽,開其改迷之路。如其不庭,伐之可也。」堅不納。先是,群臣以堅信重道安,謂安曰:「主上欲有事于東南,公何不為蒼生致一言也!」故安因此而諫。苻融及尚書原紹、石越等上書面諫,前後數十,堅終不從。堅少子中山公詵有寵於堅,又諫曰:「臣聞季梁在隨,楚人憚之;宮奇在虞,晉不窺兵。國有人焉故也。及謀之不用,而亡不淹歲。前車之覆軌,後車之明鑒。陽平公,國之謀主,而陛下違之;晉有謝安、桓沖,而陛下伐之。是行也,臣竊惑焉。」堅曰:「國有元龜。可以決大謀;朝有公卿,可以定進否。孺子言焉,將為戮也。」

担当官が上奏した。劉蘭が幽州で蝗害を討伐したが、秋冬を経ても消滅せず、廷尉の詔みことのり獄に召喚するよう請うた。苻堅は言った。「災いは天から降るもので、人力で除けるものではない。これは朕の政治が道理に背いたためであって、劉蘭に何の罪があろうか」。

原文所司奏劉蘭討蝗幽州,經秋冬不滅,請征下廷尉詔獄。堅曰:「災降自天,殆非人力所能除也。此自朕之政違所致,蘭何罪焉!」

翌年、呂光が長安ちょうあんを出発した。苻堅は建章宮で見送り、呂光に言った。「西戎の荒れた習俗は、礼儀の国ではない。羈縻の道は、服従したら赦し、中国の威を示し、王化の法を導くことだ。武力を極め兵を窮めてはならず、過度に深く残虐な略奪をしてはならない」。鄯善王の休密馱に使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・甯西将軍を加え、車師前部王の弥窴に使持節・平西将軍・西域都護を加え、それぞれの国の兵を率いて呂光の先導をさせた。

原文明年,呂光發長安,堅送于建章宮,謂光曰:「西戎荒俗,非禮義之邦。羈縻之道,服而赦之,示以中國之威,導以王化之法,勿極武窮兵,過深殘掠。」加鄯善王休密馱使持節、散騎常侍、都督西域諸軍事、甯西將軍,車師前部王彌窴使持節、平西將軍、西域都護,率其國兵為光鄉導。

この年、益州の西南夷や海南の諸国は皆、使者を遣わしてその土地の産物を貢いだ。

原文是年,益州西南夷、海南諸國皆遣使貢其方物。

苻堅は南の灞上に遊び、ゆったりと群臣に言った。「軒轅(黄帝)は大聖人であり、その仁は天のようで、その智は神のようであった。それでもなお従わない者があれば従わせて征伐し、常住の地を持たず、兵を衛りとした。だからこそ日月の照らす所、風雨の至る所、従わない者はなかった。今、天下はほぼ平らかになったが、ただ東南がまだ滅びていない。朕は大業を辱うけ、重責はここに帰する。どうして悠々と歳月を過ごし、大同の業を建てないでいられようか。桓温かんおんの侵寇を思うたびに、江東を滅ぼさねばならない。今、精兵百万、文武の臣は林のごとく、進軍して残る晋を打ち砕けば、秋の落ち葉を商風(秋風)が吹き落とすようだ。朝廷内外は皆、不可と言うが、朕はその理由が本当にわからない。晋の武帝がもし朝士の言葉を信じて呉を征伐しなかったなら、天下はどうして統一されただろうか。朕の決断は固まった。もはや諸卿と議論しない」。太子の苻宏が進み出て言った。「呉(晋)は今、歳星(木星)の加護を得ており、討伐すべきではありません。かつ晋の主君に罪はなく、人々は彼のために力を尽くしています。謝安・桓沖の兄弟は皆、一方の俊才であり、君臣が力を合わせ、険しい長江を防衛しているので、図ることはできません。ただ兵を鍛え糧を蓄え、暴虐な主君が現れるのを待ち、一挙に滅ぼすべきです。今もし動いて功績がなければ、外には威名を損ない、内には資財が尽きてしまいます。だから聖王が軍を動かす時は、内に断じて誠を尽くし、それから用いるのです。彼らがもし長江を頼りに固守し、江北の百姓を江南に移し、城を増やし野を清め、門を閉じて戦わなければ、我々は疲弊し、彼らはまだ弓を引いていません。土地は低く瘴気があり、長く留まることはできません。陛下はどうなさいますか」。苻堅は言った。「往年、車騎将軍(苻融)が燕を滅ぼした時も、歳星に逆らって勝利した。天道は幽遠で、お前の知るところではない。昔、始皇が六国を滅ぼした時、その王たちは皆、暴虐だったというのか。しかも朕は内心で決断して久しい。挙兵すれば必ず勝つ。どうして功績がないことがあろうか。朕は蛮夷に命じてその内を攻めさせ、精鋭の甲兵でその外を攻める。内外このようであれば、どうして勝たないことがあろうか」。道安が言った。「太子の言葉は正しいです。陛下がこれを取り入れることを願います」。苻堅は従わなかった。冠軍将軍の慕容垂ぼようすいが苻堅に言った。「陛下の徳は軒轅(黄帝)・堯に等しく、功績は湯王・武王より高く、威徳は八方に及び、遠い夷狄も言葉を重ねて通訳して帰順します。司馬昌明(晋の孝武帝)は残り火のような勢力を頼りに、王命に逆らうことを敢えてしています。これを誅殺しなければ、法はどこに置かれるのでしょうか。孫氏が江東に跨って僭称し、ついに晋に併合されたのは、その勢いがそうさせたのです。臣は聞きます。小は大に敵せず、弱は強に防げないと。まして大秦は符瑞に応じ、陛下は聖武であり、強兵百万、韓信・白起のような者が朝廷に満ちているのに、彼らに魂を盗ませ偽の称号を持たせ、賊虜を子孫に残すなどということがありましょうか。『詩経』に言います。『道で家を建てる相談をすれば、それで完成しない』と。陛下が内に神謀を断じるだけで十分です。広く朝臣に尋ねて聖慮を乱すには及びません。昔、晋の武帝が呉を平定した時、賛成したのは張華ちょうか・杜預とよなど数人の賢人だけでした。もし群臣の言葉を採用していたなら、どうして並ぶものなき功績を建てることができたでしょうか。諺に言います。天を頼りに時を待つ、と。時はすでに来ました。どうしてやめられましょうか」。苻堅は大いに喜び、言った。「朕と天下を定める者は、卿だけだ」。帛五百匹を賜った。

原文堅南遊灞上,從容謂群臣曰:「軒轅,大聖也,其仁若天,其智若神,猶隨不順者從而征之,居無常所,以兵為衛,故能日月所照,風雨所至,莫不率從。今天下垂平,惟東南未殄。朕忝荷大業,巨責攸歸,豈敢優遊卒歲,不建大同之業!每思桓溫之寇也,江東不可不滅。今有勁卒百萬,文武如林,鼓行而摧遺晉,若商風之隕秋籜。朝廷內外,皆言不可,吾實未解所由。晉武若信朝士之言而不征吳者,天下何由一軌!吾計決矣,不復與諸卿議也。」太子宏進曰:「吳今得歲,不可伐也。且晉主無罪,人為之用;謝安、桓沖兄弟皆一方之俊才,君臣戮力,阻險長江,未可圖也。但可厲兵積粟,以待暴主,一舉而滅之。今若動而無功,則威名損於外,資財竭於內。是故聖王之行師也,內斷必誠,然後用之。彼若憑長江以固守,徙江北百姓于江南,增城清野,杜門不戰,我已疲矣,彼未引弓。土下氣癘,不可久留,陛下將若之何?」堅曰:「往年車騎滅燕,亦犯歲而捷之。天道幽遠,非汝所知也。昔始皇之滅六國,其王豈皆暴乎?且吾內斷於心久矣,舉必克之,何為無功!吾方命蠻夷以攻其內,精甲勁兵以攻其外,內外如此,安有不克!」道安曰:「太子之言是也,願陛下納之。」堅弗從。冠軍慕容垂言於堅曰:「陛下德侔軒、唐,功高湯、武,威澤被於八表,遠夷重譯而歸。司馬昌明因餘燼之資,敢距王命,是而不誅,法將安措!孫氏跨僭江東,終並于晉,其勢然也。臣聞小不敵大,弱不禦強,況大秦之應符,陛下之聖武,強兵百萬,韓、白盈朝,而令其偷魂假號,以賊虜遺子孫哉!《詩》云:'築室於道謀,是用不潰于成。'陛下內斷神謀足矣,不煩廣訪朝臣以亂聖慮。昔晉武之平吳也,言可者張、杜數賢而已,若采群臣之言,豈能建不世之功!諺雲憑天俟時,時已至矣,其可已乎!」堅大悅,曰:「與吾定天下者,其惟卿耳。」賜帛五百匹。

彗星が東井(星宿)を掃った。苻堅の建元十七年四月から、長安に水の影があり、遠くから見ると水のようで、地面を見ると人の姿が見えたが、この時になって止んだ。苻堅はこれを嫌った。上林苑の竹が枯れ、洛陽で地が陥没した。

原文彗星掃東井。自堅之建元十七年四月,長安有水影,遠觀若水,視地則見人,至是則止。堅惡之。上林竹死,洛陽地陷。

晋の車騎将軍桓沖が兵十万を率いて苻堅を討伐し、ついに襄陽じょうようを攻撃した。前将軍劉波・冠軍将軍桓石虔・振威将軍桓石民を派遣して沔水以北の諸城を攻撃させた。輔国将軍楊亮は蜀を討伐し、伍城を攻め落とし、さらに進んで涪城を攻撃した。龍驤将軍胡彬は下蔡を攻撃した。鷹揚将軍郭銓は武当を攻撃した。桓沖の別将が万歳城を攻撃し、これを陥落させた。苻堅は大いに怒り、その子の征南将軍苻睿と冠軍将軍慕容垂・左衛将軍毛当に歩騎五万を率いさせて襄陽を救援させ、揚武将軍張崇に武当を救援させ、後将軍張蠔・歩兵校尉姚萇に涪城を救援させた。苻睿は新野に駐屯し、慕容垂は鄧城に駐屯した。晋軍は武当で張崇を破り、二千余戸を掠奪して帰還した。苻睿は慕容垂と驍騎将軍石越を先鋒として派遣し、沔水に駐屯させた。慕容垂と石越は夜に三軍の兵士に命じ、それぞれ十本の松明を持たせ、松明を木の枝に結びつけ、光が数十里を照らした。桓沖は恐れ、上明に退却した。張蠔は斜谷から出撃し、楊亮も兵を引いて帰還した。

原文晉車騎將軍桓沖率眾十萬伐堅,遂攻襄陽。遣前將軍劉波、冠軍桓石虔、振威桓石民攻沔北諸城;輔國楊亮伐蜀,攻拔伍城,進攻涪城,龍驤胡彬攻下蔡;鷹揚郭銓攻武當;沖別將攻萬歲城,拔之。堅大怒,遣其子征南睿及冠軍慕容垂、左衛毛當率步騎五萬救襄陽,揚武張崇救武當,後將軍張蠔、步兵校尉姚萇救涪城。睿次新野,垂次鄧城。王師敗張崇于武當,掠二千餘戶而歸。睿遣垂及驍騎石越為前鋒,次於沔水。垂、越夜命三軍人持十炬火,系炬於樹枝,光照十數里中。沖懼,退還上明。張蠔出斜谷,楊亮亦引兵退歸。

苻堅は詔書を下し、諸州の公私の馬をすべて徴発し、十丁ごとに一人の兵士を徴発するよう命じた。門第が顕著な者は、崇文義従とした。良家の子で二十歳以下、武芸に優れ勇猛で、富家で才能雄大な者は、皆、羽林郎に任じた。詔書を下し、勝利した日に、晋の皇帝(孝武帝)を尚書左僕射に、謝安を吏部尚書に、桓沖を侍中に任じ、それぞれ邸宅を建てて待つと約束した。良家の子で集まった者は三万騎余りであった。秦州主簿しゅぼの金城出身の趙盛之を建威将軍・少年都統とした。征南将軍苻融・驃騎将軍張蠔・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成・平南将軍慕容暐・冠軍将軍慕容垂に歩騎二十五万を率いさせて前鋒とした。苻堅は長安を出発し、兵卒六十余万、騎兵二十七万、前後千里にわたり、旗や太鼓が相望んだ。苻堅が項城に到着した時、涼州の兵はようやく咸陽に達し、蜀漢の軍は長江を下り、幽州・冀州の兵衆は彭城に至り、東西万里、水陸ともに進軍した。運搬船一万艘が、黄河から石門に入り、汝水・潁水に達した。

原文堅下書悉發諸州公私馬,人十丁遣一兵。門在灼然者,為崇文義從。良家子年二十已下,武藝驍勇,富室材雄者,皆拜羽林郎。下書期克捷之日,以帝為尚書左僕射,謝安為吏部尚書,桓沖為侍中,並立第以待之。良家子至者三萬餘騎。其秦州主簿金城趙盛之為建威將軍、少年都統。遣征南苻融、驃騎張蠔、撫軍苻方、衛軍梁成、平南慕容暐、冠軍慕容垂率步騎二十五萬為前鋒。堅發長安,戎卒六十餘萬,騎二十七萬,前後千里,旗鼓相望。堅至項城,涼州之兵始達咸陽,蜀漢之軍順流而下,幽、冀之眾至於彭城,東西萬里,水陸齊進。運漕萬艘,自河入石門,達於汝、潁。

苻融らは寿春じゅしゅんを陥落させ、晋の平虜将軍徐元喜と安豊太守王先を捕らえた。慕容垂は鄖城を陥落させ、晋の将軍王太丘を殺害した。梁成はその揚州刺史王顕、弋陽太守王詠らと共に五万の兵を率い、洛澗に駐屯し、淮水に柵を設けて東からの晋軍を防いだ。梁成はしばしば晋軍を破った。晋は都督謝石、徐州刺史謝玄、豫州刺史桓伊、輔国謝琰らに水陸合わせて七万の軍勢を派遣し、相次いで苻融に対峙させたが、洛澗から二十五里の地点で梁成を恐れて進軍しなかった。龍驤将軍胡彬は先に硤石を守っていたが、苻融に攻められ、食糧が尽きたため、砂を撒いて軍勢があるように見せかけ、密かに使者を派遣して謝石らに告げた。「今、賊は勢い盛んで食糧が尽きており、大軍に会えないことを恐れています」。苻融の軍の兵士がこの使者を捕らえて送り届けた。苻融は急使を走らせて苻堅に報告した。「賊は少なく捕虜にしやすいのですが、ただ彼らが逃げるのを恐れます。速やかに諸軍を進め、賊の将帥を挟み撃ちにして捕らえるべきです」。苻堅は大いに喜び、謝石らが逃げるのを恐れ、大軍を項城に残し、軽騎八千を率いて兼行で赴き、兵士たちに命じた。「私が寿春に至ったと言う者は舌を抜く」。そのため謝石らは知らなかった。晋の龍驤将軍劉牢之は精鋭五千を率い、夜襲して梁成の陣営を攻め落とし、梁成と王顕、王詠ら十人の将を斬り、兵士一万五千人が死んだ。謝石らは梁成を破った後、水陸から続けて進軍した。苻堅と苻融が城に登って晋軍を望み見ると、陣容が整然とし、将兵が精鋭であるのを見た。また北の八公山を望むと、山上の草木がすべて人の形に似ていた。苻堅は苻融を振り返って言った。「これも強敵だ。どうして少ないと言えるのか」。茫然として恐れの色を浮かべた。初め、朝廷は苻堅の侵入を聞くと、会稽王司馬道子が威儀と鼓吹を用いて鐘山の神に助けを求め、相国の称号を奉った。そして苻堅が草木が人の形に見えた時、あたかも神の力があったかのようであった。

原文融等攻陷壽春,執晉平虜將軍徐元喜、安豐太守王先。垂攻陷鄖城,害晉將軍王太丘。梁成與其揚州刺史王顯、弋陽太守王詠等率眾五萬,屯於洛澗,柵淮以遏東軍。成頻敗王師。晉遣都督謝石、徐州刺史謝玄、豫州刺史桓伊、輔國謝琰等水陸七萬,相繼距融,去洛澗二十五里,憚成不進。龍驤將軍胡彬先保硤石,為融所逼,糧盡,詐揚沙以示融軍,潛遣使告石等曰:「今賊盛糧盡,恐不見大軍。」融軍人獲而送之。融乃馳使白堅曰:「賊少易俘,但懼其越逸,宜速進眾軍,掎禽賊帥。」堅大悅,恐石等遁也,舍大軍于項城,以輕騎八千兼道赴之,令軍人曰:「敢言吾至壽春者拔舌。」故石等弗知。晉龍驤將軍劉牢之率勁卒五千,夜襲梁成壘,克之,斬成及王顯、王詠等十將,士卒死者萬五千。謝石等以既敗梁成,水陸繼進。堅與苻融登城而望王師,見部陣齊整,將士精銳,又北望八公山上草木,皆類人形,顧謂融曰:「此亦勍敵也,何謂少乎!」憮然有懼色。初,朝廷聞堅入寇,會稽王道子以威儀鼓吹求助於鐘山之神,奉以相國之號。及堅之見草木狀人,若有力焉。

苻堅はその尚書朱序を派遣し、謝石らを説得して大軍の勢いで脅し、降伏させようとした。朱序は偽って謝石に言った。「もし秦の百万の軍勢がすべて到着すれば、敵う者はいません。しかし彼らの諸軍がまだ集まっていないうちに、速戦すべきです。もしその前鋒を挫けば、目的を達することができます」。謝石は苻堅が寿春にいるのを聞き、恐れて、戦わずに疲弊させることを謀った。謝琰が朱序の言葉に従うよう勧め、使者を派遣して戦いを請うと、苻堅はそれを許した。その時、張蠔が肥水の南で謝石を破った。謝玄と謝琰は数万の兵を整え、陣を布いて待ち受けた。張蠔は退き、陣を布いて肥水に迫った。晋軍は渡河できず、使者を派遣して苻融に言った。「貴軍は孤軍を懸けて深く侵入し、陣を布いて水辺に迫っています。これは持久の計であり、どうして戦おうとする者でしょうか。もし少し軍を退き、将兵に戦わせ、私どもが貴公とともに手綱を緩めて観戦するのは、また美しいことではありませんか」。苻融はそこで軍を指揮して陣を退かせ、晋軍が渡河するのに乗じて、殲滅して勝利を得ようとした。軍は奔って退き、制止できなかった。苻融は馬を走らせて陣を巡ったが、馬が倒れて殺され、軍は大敗した。晋軍は勝ちに乗じて追撃し、青岡に至るまで、死者が枕を並べた。苻堅は流れ矢に当たり、単騎で淮水の北岸に逃げ帰った。ひどく空腹だったので、ある人が壷に入れた粥と豚のもも肉を進めた。苻堅はそれを食べて大いに喜び、言った。「昔、公孫述の豆粥もこれには及ばないだろう」。その者に帛十匹、綿十斤を賜ろうとした。その者は辞退して言った。「臣は聞きます。白龍が天池の楽しみに飽きて豫且に困らされたと。陛下は目でご覧になり、耳でお聞きになったことです。今、蒙塵の難に遭われたのは、天から来たものなのでしょうか。また、むやみに施すのは恩恵ではなく、むやみに受けるのは忠義ではありません。陛下は臣の父母です。どうして子が養いを求めて報いを求めることがありましょうか」。振り返らずに退いた。苻堅は大いに恥じ、その夫人の張氏に言った。「朕がもし朝臣の言葉を用いていたなら、どうして今日の事態を見ることになろうか。またどんな面目があって天下に臨むことができようか」。涙を流して去った。風の音や鶴の鳴き声を聞くたびに、すべて晋軍が来たと思った。その僕射張天錫、尚書朱序、および徐元喜らは皆、帰順した。初め、諺に「苻堅は項城を出ない」と言われ、群臣は苻堅に項城に留まり、六軍の威勢を鎮めるよう勧めたが、苻堅は従わなかったので、敗れたのである。

原文堅遣其尚書硃序說石等以眾盛,欲脅而降之。序詭謂石曰:「若秦百萬之眾皆至,則莫可敵也。及其眾軍未集,宜在速戰。若挫其前鋒,可以得志。」石聞堅在壽春也,懼,謀不戰以疲之。謝琰勸從序言,遣使請戰,許之。時張蠔敗謝石于肥南,謝玄、謝琰勒卒數萬,陣以待之。蠔乃退,列陣逼肥水。王師不得渡,遣使謂融曰:「君懸軍深入,置陣逼水,此持久之計,豈欲戰者乎?若小退師,令將士周旋,僕與君公緩轡而觀之,不亦美乎!」融於是麾軍卻陣,欲因其濟水,覆而取之。軍遂奔退,制之不可止。融馳騎略陣,馬倒被殺,軍遂大敗。王師乘勝追擊,至於青岡,死者相枕。堅為流矢所中,單騎遁還於淮北,饑甚,人有進壺飧豚髀者,堅食之,大悅,曰:「昔公孫豆粥何以加也!」使賜帛十匹,綿十斤。辭曰:「臣聞白龍厭天池之樂而見困豫且,陛下目所睹也,耳所聞也。今蒙塵之難,豈自天乎!且妄施不為惠,妄受不為忠。陛下,臣之父母也,安有子養而求報哉!」弗顧而退。堅大慚,顧謂其夫人張氏曰:「朕若用朝臣之言,豈見今日之事邪!當何面目復臨天下乎?」潸然流涕而去。聞風聲鶴唳,皆謂晉師之至。其僕射張天錫、尚書硃序及徐元喜等皆歸順。初,諺言「堅不出項」,群臣勸堅停項,為六軍聲鎮,堅不從,故敗。

諸軍はすべて潰走したが、ただ慕容垂の一軍だけが全軍を保った。苻堅は千余騎を率いてそのもとに赴いた。慕容垂の子の慕容宝は苻堅を殺すよう勧めたが、慕容垂は従わず、兵を苻堅に属させた。初め、慕容暐は鄖城に駐屯し、姜成らは漳口を守っていた。晋の随郡太守夏侯澄が姜成を攻め、これを斬った。慕容暐はその兵を捨てて逃げ帰った。苻堅は離散した兵を収集し、洛陽に至る頃には、十数万の兵が集まり、百官の威儀と軍容がほぼ整った。関中に至らないうちに、慕容垂に離反の意思が生じた。慕容垂は苻堅に、燕と岱の地を巡撫することを請い、併せて墓参りを求めた。苻堅はこれを許した。権翼が固く諫めて許すべきでないとしたが、苻堅は従わなかった。やがて苻堅は慕容垂が変事を起こすことを恐れ、後悔して、驍騎将軍石越に兵三千を率いて鄴を守らせ、驃騎将軍張蠔に羽林兵五千を率いて并州を守らせ、兵四千を残して鎮軍将軍毛当に洛陽を守らせた。苻堅は淮南から帰還し、長安の東の行宮に滞在し、苻融を哭してから入城し、その太廟に罪を告げ、死刑以下の罪を赦し、文武の官は位を一級増し、兵を鍛え農を督め、孤老を慰め恤み、帰還しなかった諸士卒の家には終身その家の賦役を免除した。苻融に大司馬を追贈し、諡を哀公とした。

原文諸軍悉潰,惟慕容垂一軍獨全,堅以千餘騎赴之。垂子寶勸垂殺堅,垂不從,乃以兵屬堅。初,慕容暐屯鄖城,姜成等守漳口,晉隨郡太守夏侯澄攻姜成,斬之,暐棄其眾奔還。堅收離集散,比至洛陽,眾十餘萬,百官威儀軍容粗備。未及關而垂有貳志,說堅請巡撫燕、岱,並求拜墓,堅許之。權翼固諫以為不可,堅不從。尋懼垂為變,悔之,遣驍騎石越率卒三千戍鄴,驃騎張蠔率羽林五千戍并州,留兵四千配鎮軍毛當戍洛陽。堅至自淮南,次於長安東之行宮,哭苻融而後入,告罪於其太廟,赦殊死已下,文武增位一級,厲兵課農,存恤孤老,諸士卒不返者皆復其家終世。贈融大司馬,諡曰哀公。

衛軍従事中郎の丁零・翟斌が河南で反乱を起こした。長楽公苻丕は慕容垂と苻飛龍を派遣してこれを討たせた。慕容垂は南の丁零と結び、苻飛龍を殺し、その兵をすべて生き埋めにした。豫州牧・平原公苻暉は毛当を派遣して翟斌を撃たせたが、翟斌に敗れ、毛当は戦死した。慕容垂の子の慕容農は逃亡して列人に奔り、群盗を招集し、その数は一万数千に達した。苻丕は石越を派遣してこれを撃たせたが、慕容農に敗れ、石越は戦死した。慕容垂は丁零・烏丸の兵二十余万を率い、飛梯や地道を用いて鄴城を攻撃した。

原文衛軍從事中郎丁零、翟斌反于河南,長樂公苻丕遣慕容垂及苻飛龍討之。垂南結丁零,殺飛龍,盡坑其眾。豫州牧、平原公苻暉遣毛當擊翟斌,為斌所敗,當死之。垂子農亡奔列人,招集群盜,眾至萬數千。丕遣石越擊之,為農所敗,越死之。垂引丁零、烏丸之眾二十餘萬,為飛梯地道以攻鄴城。

慕容暐の弟で、かつての燕の済北王であった慕容泓は、以前は北地長史であったが、慕容垂が鄴を攻めていると聞き、逃亡して関東に奔り、諸々の馬牧にいた鮮卑を収集し、その数は数千に達し、華陰に戻って駐屯した。慕容暐は密かに諸弟や宗族に命じて外で兵を起こさせた。苻堅は将軍強永に騎兵を率いてこれを撃たせたが、慕容泓に敗れた。慕容泓の軍勢は盛んとなり、使持節・大都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を自称し、叔父の慕容垂を丞相・都督陝東諸軍事・大司馬兼任・冀州牧・呉王に推戴した。

原文慕容暐弟燕故濟北王泓先為北地長史,聞垂攻鄴,亡命奔關東,收諸馬牧鮮卑,眾至數千,還屯華陰。慕容暐乃潛使諸弟及宗人起兵於外。堅遣將軍強永率騎擊之,為泓所敗,泓眾遂盛,自稱使持節、大都督陝西諸軍事、大將軍、雍州牧、濟北王,推叔父垂為丞相、都督陝東諸軍事、領大司馬、冀州牧、吳王。

苻堅は権翼に言った。「私は卿の言葉に従わなかったので、鮮卑がここまで来てしまった。関東の地は、私はもう彼らと争わないが、慕容泓をどうすればよいか?」権翼は言った。「敵を増長させてはなりません。慕容垂は山東を拠点に乱を起こすだけで、近くを脅かす余裕はありません。今、慕容暐とその宗族・一族はすべて京師におり、鮮卑の民衆は畿内に広がっています。これはまさに国家の根本的な憂いであり、重臣を派遣して討伐すべきです。」苻堅は広平公の苻熙を使持節・都督雍州雑戎諸軍事・鎮東大将軍・雍州刺史とし、蒲阪を鎮守させた。苻睿を都督中外諸軍事・衛大将軍・司隸校尉・録尚書事に任命し、兵五万を配属し、左将軍の竇沖を長史とし、龍驤将軍の姚萇を司馬として、華沢で慕容泓を討伐させた。平陽太守の慕容沖が河東で兵を挙げ、二万の兵を集め、蒲阪を攻撃したので、苻堅は竇沖にこれを討伐させた。苻睿は勇猛果敢だが敵を軽視し、兵士たちを思いやらなかった。慕容泓は彼が来ると聞き、恐れて、軍勢を率いて関東へ逃げようとしたが、苻睿は急行してこれを遮ろうとした。姚萇が諫めて言った。「鮮卑には帰郷を望む心があります。彼らを関外へ追い出すべきで、阻止してはなりません。」苻睿は従わず、華沢で戦い、苻睿は大敗して殺された。苻堅は大いに怒った。姚萇は誅殺を恐れ、ついに反逆した。竇沖は河東で慕容沖を攻撃し、大いにこれを破り、慕容沖は騎兵八千を率いて慕容泓の軍に奔った。慕容泓の軍勢は十余万に達し、使者を派遣して苻堅に言った。「秦は無道で、我が社稷を滅ぼしました。今、天がその心を動かし、秦の軍を敗北させ、大燕を興復させようとしています。呉王(慕容垂)はすでに関東を平定しました。速やかに皇帝の車駕の準備を整え、家兄の皇帝と宗室・功臣の家族をお送りください。慕容泓は関中の燕人を率いて、皇帝を護衛し、鄴都に帰還し、秦とは武牢を境界として天下を分け合い、永遠に隣国として友好を結び、二度と秦の患いとはなりません。鉅鹿公(苻睿)は軽率で鋭く進軍し、乱兵に殺害されましたが、これは慕容泓の意図ではありません。」苻堅は大いに怒り、慕容暐を呼びつけて責めて言った。「卿の父子は法を犯し僭称して乱を起こし、人と神に背きました。朕は天の命を受け神の業を行い、軍勢を尽くして卿を得ました。卿は迷いを改めて善に帰するどころか、一族そろって赦免を受け、兄弟は上将や納言に列せられ、滅びたとはいえ、実質的には帰順したようなものです。どうして王師が小敗しただけで、このように猖獗に背くのか!慕容垂は関東で長蛇の如く勢力を張り、慕容泓・慕容沖は兵を挙げて内側から侮っています。慕容泓の書状はこの通りだ。卿が去りたいなら、朕は援助しよう。卿の宗族は、まさに人面獣心と言え、国士として期待することはできない。」慕容暐は頭を地面に打ちつけて血を流し、涙を流して陳謝した。苻堅はしばらくして言った。「『書経』に、父子兄弟は互いに及ばないとある。卿の忠誠は、まことに朕の心に通じる。これはあの三人の悪党どもの罪であって、卿の過ちではない。」彼の地位を回復し、以前のように遇した。慕容暐に命じて書状を慕容垂と慕容泓・慕容沖に送り、兵を収めて長安に戻るよう説得させ、反逆の罪を許すことにした。しかし慕容暐は密かに使者を派遣して慕容泓に言った。「今、秦の運命はすでに尽き、長安では怪異なことが特に甚だしく、もう長くは保てないだろう。私はすでに籠の中の鳥であり、帰る道理はない。かつて宗廟を守り切れず、このような滅亡を招いたのは、私が罪人だからだ。私の生死を顧みるには及ばない。社稷は軽んじてはならない。大業を建て、興復を務めよ。呉王を相国とし、中山王を太宰・領大司馬とし、汝は大将軍・領司徒となって、詔命を受けて官爵を授けるがよい。私の死の知らせを聞いたら、汝はすぐに帝位に即け。」慕容泓はこれにより長安へ向けて進軍し、年号を燕興と改めた。この時、鬼が夜に泣き、三十日間で止んだ。

原文堅謂權翼曰:「吾不從卿言,鮮卑至是。關東之地,吾不復與之爭,將若泓何?」翼曰:「寇不可長。慕容垂正可據山東為亂,不暇近逼。今暐及宗族種類盡在京師,鮮卑之眾布於畿甸,實社稷之元憂,宜遣重將討之。」堅乃以廣平公苻熙為使持節、都督雍州雜戎諸軍事、鎮東大將軍、雍州刺史,鎮蒲阪。征苻睿為都督中外諸軍事、衛大將軍、司隸校尉、錄尚書事,配兵五萬以左將軍竇沖為長史,龍驤姚萇為司馬,討泓于華澤。平陽太守慕容沖起兵河東,有眾二萬,進攻蒲阪,堅命竇沖討之。苻睿勇果輕敵,不恤士眾。泓聞其至也,懼,率眾將奔關東,睿馳兵要之。姚萇諫曰:「鮮卑有思歸之心,宜驅令出關,不可遏也。」睿弗從,戰于華澤,睿敗績,被殺。堅大怒。萇懼誅,遂叛。竇衝擊慕容沖於河東,大破之,沖率騎八千奔於泓軍。泓眾至十餘萬,遣使謂堅曰:「秦為無道,滅我社稷。今天誘其衷,使秦師傾敗,將欲興復大燕。吳王已定關東,可速資備大駕,奉送家兄皇帝並宗室功臣之家。泓當率關中燕人,翼衛皇帝,還返鄴都,與秦以武牢為界,分王天下,永為鄰好,不復為秦之患也。钜鹿公輕戇銳進,為亂兵所害,非泓之意。」堅大怒,召慕容暐責之曰:「卿父子幹紀僭亂,乖逆人神,朕應天行神,盡兵勢而得卿。卿非改迷歸善,而合宗蒙宥,兄弟布列上將、納言,雖曰破滅,其實若歸。奈何因王師小敗,便猖悖若此!垂為長蛇於關東,泓、沖稱兵內侮。泓書如此,卿欲去者,朕當相資。卿之宗族,可謂人面獸心,殆不可以國士期也。」暐叩頭流血,泣涕陳謝。堅久之曰:「《書》云,父子兄弟無相及也。卿之忠誠,實簡朕心,此自三豎之罪,非卿之過。」復其位而待之如初。命暐以書招喻垂及泓、沖,使息兵還長安,恕其反叛之咎。而暐密遣使者謂泓曰:「今秦數已終,長安怪異特甚,當不復能久立。吾既籠中之人,必無還理。昔不能保守宗廟,致令傾喪若斯,吾罪人也,不足復顧吾之存亡。社稷不輕,勉建大業,以興復為務。可以吳王為相國,中山王為太宰、領大司馬,汝可為大將軍、領司徒,承制封拜。聽吾死問,汝使即尊位。」泓於是進向長安,改年曰燕興。是時鬼夜哭,三旬而止。

苻堅は歩兵と騎兵二万を率いて北地で姚萇を討伐し、趙氏塢に駐屯した。護軍の楊璧に遊撃騎兵三千を与えて逃走路を断たせ、右軍の徐成、左軍の竇沖、鎮軍の毛盛らが繰り返し戦って姚萇を破り、さらにその水運の道を断った。馮翊の遊欽は淮南での敗戦に乗じて、数千の兵を集めて頻陽を占拠し、軍を派遣して水と粟を運び、姚萇に供給しようとしたが、楊璧がこれをすべて奪った。姚萇の軍は非常に渇き、弟の鎮北将軍の尹買に精鋭二万を率いさせて堰を決壊させようとした。竇沖が軍勢を率いて鸛雀渠でその軍を破り、尹買と首級一万三千を斬った。姚萇の軍は危惧し、渇き死にする者も出た。やがて姚萇の陣営に雨が降り、陣営内の水深は三尺に達したが、陣営の周囲百歩の外は一寸余りしかなく、これにより姚萇の軍は大いに勢いを盛り返した。苻堅が食事をしている時、食卓を離れて怒って言った。「天は無心なのか、どうして賊の陣営に恵みの雨を降らせるのか!」姚萇はさらに東の慕容泓を援軍として引き込んだ。

原文堅率步騎二萬討姚萇於北地,次於趙氏塢,使護軍楊璧遊騎三千,斷其奔路,右軍徐成、左軍竇沖、鎮軍毛盛等屢戰敗之,仍斷其運水之路。馮翊遊欽因淮南之敗,聚眾數千,保據頻陽,遣軍運水及粟,以饋姚萇,楊璧盡獲之。萇軍渴甚,遣其弟鎮北尹買率勁卒二萬決堰。竇沖率眾敗其軍于鸛雀渠,斬尹買及首級萬三千。萇眾危懼,人有渴死者。俄而降雨于萇營,營中水三尺,周營百步之外,寸餘而已,於是萇軍大振。堅方食,去案怒曰:「天其無心,何故降澤賊營!」萇又東引慕容泓為援。

慕容泓の謀臣である高蓋と宿勤崇らは、慕容泓の徳望が慕容沖に及ばず、しかも法を厳格に運用することを理由に、慕容泓を殺し、慕容沖を皇太弟として立て、詔命を受けて政務を行い、自ら官職を任命した。

原文泓謀臣高蓋、宿勤崇等以泓德望後沖,且持法苛峻,乃殺泓,立沖為皇太弟,承制行事,自相署置。

姚萇は弟の征虜将軍の姚緒に楊渠川の大本営を守らせ、七万の軍勢を率いて苻堅を攻撃した。苻堅は楊璧らを派遣してこれを迎え撃たせたが、姚萇に敗れ、楊璧、毛盛、徐成、前軍の斉午ら数十人が捕らえられた。姚萇は彼らを礼遇して送り返した。

原文姚萇留其弟征虜緒守楊渠川大營,率眾七萬來攻堅。堅遣楊璧等擊之,為萇所敗,獲楊璧、毛盛、徐成及前軍齊午等數十人,皆禮而遣之。

苻暉は洛陽と陝城の軍勢七万を率いて長安に帰還した。益州刺史の王広は将軍の王蠔に蜀漢の軍勢を率いさせて救援に赴かせた。苻堅は慕容沖が長安から二百余里のところにいると聞き、軍を率いて帰還し、撫軍の苻方に驪山を守備させ、苻暉を使持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隣校尉・録尚書に任命し、兵五万を配属して慕容沖を防がせ、河間公の苻琳を中軍大将軍として苻暉の後詰めとした。慕容沖は婦人に牛馬に乗せて軍勢を装わせ、竿を旗とし、土を揚げて塵とし、軍勢を督励し、朝に鄭の西で苻暉の陣営を攻撃した。苻暉が出撃して防戦したが、慕容沖が塵を揚げ鬨の声を上げると、苻暉の軍は大敗した。苻堅はさらに尚書の姜宇を前将軍とし、苻琳とともに三万の軍勢を率いて灞上で慕容沖を攻撃させたが、慕容沖に敗れ、姜宇は戦死し、苻琳は流れ矢に当たった。慕容沖はついに阿房城を占拠した。初め、苻堅が燕を滅ぼした時、慕容沖の姉は清河公主で、十四歳で絶世の美貌を持ち、苻堅は彼女を後宮に入れ、寵愛は後宮で一番だった。慕容沖は十二歳で、龍陽の君のような美しい容姿を持ち、苻堅は彼をも寵愛した。姉弟は専寵し、他の宮人は近づけなかった。長安では歌われた。「一匹の雌と一匹の雄、二羽で紫宮に飛び込む。」皆、乱が起こることを恐れた。王猛が強く諫めたので、苻堅はついに慕容沖を外に出した。長安ではまた謡われた。「鳳凰よ鳳凰よ、阿房に止まれ。」苻堅は鳳凰は梧桐にしか棲まず、竹の実しか食べないと考え、阿房城に数十万本の桐と竹を植えて待った。慕容沖の幼名は鳳凰であった。こうして、彼はついに苻堅の賊となり、阿房城に入って止まったのである。

原文苻暉率洛陽、陝城之眾七萬歸於長安。益州刺史王廣遣將軍王蠔率蜀漢之眾來赴難。堅聞慕容沖去長安二百餘里,引師而歸,使撫軍苻方戍驪山,拜苻暉使持節、散騎常侍、都督中外諸軍事、車騎大將軍、司隸校尉、錄尚書,配兵五萬距沖,河間公苻琳為中軍大將軍,為暉後繼。沖乃令婦人乘牛馬為眾,揭竿為旗,揚土為塵,督厲其眾,晨攻暉營于鄭西。暉出距戰,沖揚塵鼓噪,暉師敗績。堅又以尚書姜宇為前將軍,與苻琳率眾三萬,擊沖於灞上,為沖所敗,宇死之,琳中流矢,沖遂據阿房城。初,堅之滅燕,沖姊為清河公主,年十四,有殊色,堅納之,寵冠後庭。沖年十二,亦有龍陽之姿,堅又幸之。姊弟專寵,宮人莫進。長安歌之曰:「一雌復一雄,雙飛入紫宮。」咸懼為亂。王猛切諫,堅乃出沖。長安又謠曰:「鳳皇鳳皇止阿房。」堅以鳳皇非梧桐不棲,非竹實不食,乃植桐竹數十萬株于阿房城以待之。沖小字鳳皇,至是,終為堅賊,入止阿房城焉。

晋の西中郎将の桓石虔が魯陽を占拠し、河南太守の高茂を派遣して北の洛陽を守備させた。晋の冠軍将軍の謝玄は下邳に駐屯し、徐州刺史の趙遷は彭城を捨てて逃げ帰った。謝玄の先鋒の張願が趙遷を碭山まで追撃し、転戦して逃げられた。謝玄は進軍して彭城を占拠した。

原文晉西中郎將桓石虔進據魯陽,遣河南太守高茂北戍洛陽。晉冠軍謝玄次於下邳,徐州刺史趙遷棄彭城奔還。玄前鋒張願追遷及於碭山,轉戰而免。玄進據彭城。

この時、呂光が西域三十六国を討伐平定し、得た珍宝は万単位で数えられた。苻堅は詔書を下し、呂光を使持節・散騎常侍・都督玉門以西諸軍事・安西将軍・西域校尉とし、順郷侯に進封し、封邑を一千戸増やした。

原文時呂光討平西域三十六國,所獲珍寶以萬萬計。堅下書以光為使持節、散騎常侍、都督玉門以西諸軍事、安西將軍、西域校尉,進封順鄉侯,增邑一千戶。

劉牢之が兗州を攻撃すると、苻堅の刺史の張崇は鄄城を捨てて慕容垂のもとへ逃げた。劉牢之は将軍の劉襲を派遣して張崇を追撃させ、河南で戦い、その東平太守の楊光を斬って退いた。劉牢之はついに鄄城を占拠した。

原文劉牢之伐兗州,堅刺史張崇棄鄄城奔于慕容垂。牢之遣將軍劉襲追崇,戰于河南,斬其東平太守楊光而退。牢之遂據鄄城。

慕容沖が長安に迫り、苻堅は城壁に登ってそれを見て、嘆息して言った。「この虜はどこから出てきたのか。その強さはこのようであるのか!」大声で慕容沖を責めて言った。「お前たちのような奴隷どもは、ただ牛や羊を放牧するのが関の山だ。どうして死にに来るのか!」慕容沖は言った。「奴隷なら奴隷だ。すでに奴隷の苦しみに飽き、さらにあなたを取って代わろうとしているのだ。」苻堅は使者を遣わして錦の袍一領を慕容沖に贈り、詔と称して言った。「古人は兵を交える際、使者をその間に遣わしたものだ。卿は遠くから来て草創の業をなしているが、労苦はないか?今、一つの袍を送り、もとの心持ちを明らかにする。朕が卿に与えた恩義はどうであったか。それなのに一朝にして突然このような変事を起こすとは!」慕容沖は詹事に命じて返答させ、これもまた「皇太弟に令がある。孤は今、天下を心にかけている。どうして一つの袍という小さな恩恵を顧みようか。もし天命を知ることができるなら、ただちに君臣ともに手を縛って降伏し、早く皇帝(苻堅)を送り出せ。そうすれば自ら苻氏を寛大に赦免し、以前のよしみに報い、決して過去の施しがただ前代だけに美しくあることを許さないであろう」と称した。苻堅は大いに怒って言った。「私は王景略(王猛)や陽平公(苻融)の言葉を用いなかったので、白虜(慕容氏)がここまで大胆になるに至ったのだ。」

原文慕容沖進逼長安,堅登城觀之,歎曰:「此虜何從出也?其強若斯!」大言責沖曰:「爾輩群奴正可牧牛羊,何為送死!」沖曰:「奴則奴矣,既厭奴苦,復欲取爾見代。」堅遣使送錦袍一領遺沖,稱詔曰:「古人兵交,使在其間。卿遠來草創,得無勞乎?今送一袍,以明本懷。朕於卿恩分如何,而於一朝忽為此變!」沖命詹事答之,亦稱「皇太弟有令:孤今心在天下,豈顧一袍小惠。苟能知命,便可君臣束手,早送皇帝,自當寬貸苻氏,以酬曩好,終不使既往之施獨美於前」。堅大怒曰:「吾不用王景略、陽平公之言,使白虜敢至於此。」

苻丕は鄴で食糧が尽き、馬には草がなく、松の木を削って食べさせた。ちょうど丁零が慕容垂に叛き、慕容垂が軍を率いて鄴を去ったので、ようやく西方の消息を詳しく知り、苻睿らが敗死し、長安が危険に迫っていることを知った。そこで陽平太守の邵興に騎兵一千を率いさせ、北へ向かわせて常山で重合侯苻謨、高邑侯苻亮、阜城侯苻定を、中山で固安侯苻鑒、中山太守の王兗を引き連れ、自分の援軍としようとした。慕容垂は将軍の張崇を遣わして邵興を邀撃させ、襄国の南で捕らえた。また参軍の封孚を遣わして西へ向かわせ、晉陽で張蠔と并州刺史の王騰を引き連れようとしたが、張蠔と王騰は寡兵を理由に応じなかった。苻丕は進退の道が窮まり、群僚と謀議した。司馬の楊膺が帰順の計を唱えたが、苻丕はなお従わなかった。ちょうど晋が済北太守の丁匡を遣わして碻磝を占拠させ、済陽太守の郭満を滑台に、将軍の顔肱と劉襲を河北に駐屯させたので、苻丕は将軍の桑据を遣わしてこれを防がせたが、王師(晋軍)に敗れた。劉襲らは黎陽を攻撃し、これを陥落させた。苻丕は恐れ、従弟の苻就と参軍の焦逵を遣わして謝玄に救援を請わせた。苻丕の書簡には、道を借りて食糧を求め、国難に赴くため帰還すると称し、援軍が接応したならば、鄴を晋に与えるとし、もし西方の道が通じず長安が陥落したならば、率いる兵を以て鄴城を守備することを請うとあった。これは一方を繋ぎ止めておくための、文面上の降伏に過ぎなかった。焦逵と参軍の薑讓は密かに楊膺に言った。「今、禍難がこのようであり、京師(長安)は隔絶し、吉凶はわからず、敵は近くに迫り、三軍の食糧は尽き、傾き危ういことは、朝に夕を待たぬほどです。あなたの豪気が除かれていないのを見ると、救世の主ではありません。すでに誠意を尽くして速やかに食糧と援軍を招致することができないのに、さらに二心を抱き、必ず成就しないでしょう。今日の危険は、機を転ずるよりも速く、虚偽の設定を許さず、ただ反覆するだけです。正しい書簡を上表文とし、懇ろな関係を結ぶべきです。もし王師が到来すれば、必ず身を捧げるべきです。もし(苻丕が)従わなければ、縛り上げて晋に引き渡すこともできます。もし不義に服さなければ、一人の力で事は足ります。古人が権謀を行ったのは、事を成し遂げることが功績であったのです。ましてや君侯は累代にわたり徳を積み、顕祖(慕容皝ぼようこう)は初め晋朝に名声を顕わし、今また崇高な勲功を建て、功業を相続させようとしているのです。千載一遇の機会であり、失ってはなりません。」楊膺はもともと苻丕を軽んじており、自分の力で彼を脅迫できると考え、書簡を改めて焦逵らを遣わし、あわせて済南の毛蜀、毛鮮らを分かれて人質として晋に送った。

原文苻丕在鄴糧竭,馬無草,削松木而食之。會丁零叛慕容垂,垂引師去鄴,始具西問,知苻睿等喪敗,長安危逼,乃遣其陽平太守邵興率騎一千,將北引重合侯苻謨、高邑侯苻亮、阜城侯苻定於常山,固安侯苻鑒、中山太守王兗于中山,以為己援。垂遣將軍張崇要興,獲之于襄國南。又遣其參軍封孚西引張蠔、并州刺史王騰于晉陽,蠔、騰以眾寡不赴。丕進退路窮,乃謀於群僚。司馬楊膺唱歸順之計,丕猶未從。會晉遣濟北太守丁匡據碻磝,濟陽太守郭滿據滑台,將軍顏肱、劉襲次於河北,丕遣將軍桑據距之,為王師所敗。襲等進攻黎陽,克之。丕懼,乃遣從弟就與參軍焦逵請救于謝玄。丕書稱假途求糧,還赴國難,須軍援既接,以鄴與之,若西路不通,長安陷沒,請率所領保守鄴城。乃羈縻一方,文降而已。逵與參軍薑讓密謂楊膺曰:「今禍難如此,京師阻隔,吉凶莫審,密邇寇仇,三軍罄絕,傾危之甚,朝不及夕。觀公豪氣不除,非救世之主,既不能竭盡誠款,速致糧援,方設兩端,必無成也。今日之殆,疾於轉機,不容虛設,徒成反覆。宜正書為表,以結殷勤。若王師之至,必當致身。如其不從,可逼縛與之。苟不義服,一人力耳。古人行權,寧濟為功,況君侯累葉載德,顯祖初著名于晉朝,今復建崇勳,使功業相繼,千載一時,不可失也。」膺素輕丕,自以力能逼之,乃改書而遣逵等,並遣濟南毛蜀、毛鮮等分房為任于晉。

苻堅は鴻臚の郝稚を遣わし、到獸山の処士である王嘉を召し出した。到着すると、苻堅は毎日、王嘉と道安を外殿に召し出し、動静を諮問した。慕容暐が東堂に入って拝謁し、叩頭して謝罪して言った。「弟の慕容沖は道理をわきまえず、国恩に背きました。臣の罪は万死に値します。陛下が天地のような寛容をお示しになり、臣は更生の恵みを蒙ります。臣の二人の息子が昨日結婚し、明日は三日目となります。愚かながらも、しばらくご車駕を屈していただき、臣の私邸に臨んでいただきたいと存じます。」苻堅はこれを許した。慕容暐が出て行くと、王嘉は言った。「葦を槌で叩いてむしろを作っても、文様にはならない。大雨に会い、羊を殺すことができない。」苻堅と群臣は誰もこれを理解できなかった。その夜、大雨が降り、朝になって(苻堅は)出発しなかった。初め、慕容暐が諸弟を外で挙兵させた時、苻堅の防備は非常に厳重で、内応する謀りごとがあっても機会がなかった。当時、城内にいた鮮卑はなお千余人おり、慕容暐は密かに鮮卑の者たちを結集し、伏兵を設けて苻堅を招き、その機に乗じて殺害しようと謀った。その豪帥である悉羅騰、屈突鉄侯らに密かに告げて言った。「官(朝廷)は今、侯(慕容暐)を外鎮に派遣し、旧来の者たちは皆従うことを許す。ある日に某所で会合せよ。」鮮卑はこれを信じた。北部人の突賢が妹と別れようとしたが、妹は左将軍の竇沖の側室であり、これを聞いて竇沖に告げ、兄を留めるよう請うた。竇沖は駆け込んで苻堅に報告し、苻堅は大いに驚き、悉羅騰を召して問いただすと、悉羅騰はことごとく自白した。苻堅はそこで慕容暐父子とその宗族を誅殺し、城内の鮮卑は老若男女を問わず皆殺しにした。

原文堅遣鴻臚郝稚征處士王嘉於到獸山。既至,堅每日召嘉與道安於外殿,動靜咨問之。慕容暐入見東堂,稽首謝曰:「弟沖不識義方,孤背國恩,臣罪應萬死。陛下垂天地之容,臣蒙更生之惠。臣二子昨婚,明當三日,愚欲暫屈鑾駕,幸臣私第。」堅許之。暐出,嘉曰:「椎蘆作蘧蒢,不成文章,會天大雨,不得殺羊。」堅與群臣莫之能解。是夜大雨,晨不果出。初,暐之遣諸弟起兵于外也,堅防守甚嚴,謀應之而無因。時鮮卑在城者猶有千餘人,暐乃密結鮮卑之眾,謀伏兵請堅,因而殺之。令其豪帥悉羅騰、屈突鐵侯等潛告之曰:「官今使侯外鎮,聽舊人悉隨,可於某日會集某處。」鮮卑信之。北部人突賢與其妹別,妹為左將軍竇沖小妻,聞以告沖,請留其兄。沖馳入白堅,堅大驚,召騰問之,騰具首服。堅乃誅暐父子及其宗族,城內鮮卑無少長及婦女皆殺之。

慕容垂が再び鄴城を包囲した。焦逵が到着すると、朝廷(東晋)は果たして苻丕から人質を徴収しようとし、その後で出兵しようとした。焦逵は苻丕の誠意に偽りがないことを強く陳述し、あわせて楊膺の意向を伝えたので、劉牢之らに兵二万を率いさせ、水陸の輸送路で鄴を救援させた。

原文慕容垂復圍鄴城。焦逵既至,朝廷果欲征丕任子,然後出師。逵固陳丕款誠無貳,並宣楊膺之意,乃遣劉牢之等率眾二萬,水陸運漕救鄴。

当時、長安は大飢饉に見舞われ、人々は互いに食い合い、諸将は帰宅して吐き出した肉を妻子に与えた。

原文時長安大饑,人相食,諸將歸而吐肉以飴妻子。

慕容沖が阿房で尊号を僭称し、年号を更始と改めた。苻堅は慕容沖と戦い、それぞれ勝敗があった。かつて慕容沖の軍に包囲された時、殿中上将軍の鄧邁、左中郎将の鄧綏、尚書郎の鄧瓊が互いに言った。「我が家門は代々栄寵を受け、先君は国家に殊勲を立てた。忠誠を立て節義を尽くし、先君の志を成し遂げねばならない。しかも君主の難に死なない者は、丈夫ではない。」そこで毛長楽らとともに獣の皮をかぶり、矛を奮って慕容沖の軍を撃った。慕容沖の軍は潰走し、苻堅は難を免れた。苻堅は彼らの忠勇を称え、皆を五校に任じ、三品将軍を加え、関内侯の爵位を賜った。慕容沖はまたその尚書令の高蓋に兵を率いさせ、夜襲で長安を攻撃させ、南門を陥落させて南城に入った。左将軍の竇沖、前禁将軍の李弁らがこれを撃破し、千八百級を斬首し、その屍を分けて食べた。苻堅はまもなく城西で慕容沖を破り、阿城まで追撃した。諸将は勝ちに乗じて城内に入るよう請うたが、苻堅は慕容沖に捕らえられることを恐れ、鉦を鳴らして軍を止めた。

原文慕容沖僭稱尊號于阿房,改年更始。堅與沖戰,各有勝負。嘗為沖軍所圍,殿中上將軍鄧邁、左中郎將鄧綏、尚書郎鄧瓊相謂曰:「吾門世荷榮寵,先君建殊功於國家,不可不立忠效節,以成先君之志。且不死君難者,非丈夫也。」於是與毛長樂等蒙獸皮,奮矛而擊沖軍。沖軍潰,堅獲免,嘉其忠勇,並拜五校,加三品將軍,賜爵關內侯。沖又遣其尚書令高蓋率眾夜襲長安,攻陷南門,入於南城。左將軍竇沖、前禁將軍李辯等擊敗之,斬首千八百級,分其屍而食之。堅尋敗沖於城西,追奔至於阿城。諸將請乘勝入城,堅懼為沖所獲,乃擊金以止軍。

この時、劉牢之が枋頭ほうとうに到着した。征東参軍の徐義と宦官の孟豊が苻丕に、楊膺と薑讓らが謀反を企てていると告発した。苻丕は楊膺と薑讓を捕らえて殺した。劉牢之は苻丕が自ら殺し合っているのを見て、ためらって進軍しなかった。

原文是時劉牢之至枋頭。征東參軍徐義、宦人孟豐告苻丕,楊膺、薑讓等謀反,丕收膺、讓戮之。牢之以丕自相屠戮,盤桓不進。

苻暉はたびたび慕容沖に敗れた。苻堅は彼を責めて言った。「お前は我が子である。大軍を擁しながら、たびたび白虜の小児に打ち破られるとは、生きている甲斐があるのか!」苻暉は憤慨し、自殺した。関中の堡塁は三千余所あり、平遠将軍の馮翊、趙敖を統主に推戴し、相率いて盟約を結び、兵糧を送って苻堅を助けた。左将軍の苟池と右将軍の俱石子が騎兵五千を率い、慕容沖と麦を争って驪山で戦ったが、慕容沖に敗れ、苟池は戦死し、俱石子は鄴に逃れた。苻堅は大いに怒り、さらに領軍の楊定に左右の精鋭騎兵二千五百を率いさせて慕容沖を撃たせ、大いにこれを破り、鮮卑一万余人を捕虜として略奪し帰還した。苻堅は怒り、皆を生き埋めにした。楊定は果敢で勇猛、戦いに長け、慕容沖は彼を深く恐れ、遂に馬用の堀を穿って自らを守り固めた。

原文苻暉屢為沖所敗,堅讓之曰:「汝,吾之子也,擁大眾,屢為白虜小兒所摧,何用生為!」暉憤恚自殺。關中堡壁三千餘所,推平遠將軍馮翊、趙敖為統主,相率結盟,遣兵糧助堅。左將軍苟池、右將軍俱石子率騎五千,與沖爭麥,戰於驪山,為沖所敗,池死之,石子奔鄴。堅大怒,復遣領軍楊定率左右精騎二千五百擊沖,大敗之,俘掠鮮卑萬餘而還。堅怒,悉坑之。定果勇善戰,沖深憚之,遂穿馬埳以自固。

劉牢之が鄴に到着すると、慕容垂は北へ新城に向かった。鄴の中は非常に飢えており、苻丕は鄴城の民衆を率いて枋頭で晋の穀物を求めた。劉牢之は入って鄴城に駐屯した。慕容垂の軍は非常に飢えており、多くは中山に逃げ、幽州、冀州では人々が互いに食い合った。初め、関東に謡があった。「幽州の𡙇(垂)、生きたまま滅びる。もし滅びなければ、百姓は絶える。」𡙇は慕容垂の本名である。苻丕と一年余り相持したため、百姓はほとんど絶えるほどに死んだ。

原文劉牢之至鄴,慕容垂北如新城。鄴中饑甚,丕率鄴城之眾就晉谷於枋頭。牢之入屯鄴城。慕容垂軍人饑甚,多奔中山,幽、冀人相食。初,關東謠曰:「幽州𡙇,生當滅。若不滅,百姓絕。」𡙇,垂之本名。與丕相持經年,百姓死幾絕。

以前、姚萇が新平を攻撃したとき、新平太守の苟輔は降伏しようとしたが、郡の者である遼西太守の馮傑や蓮勺県令の馮翊らが諫めて言った。「天下が乱れ喪失する中でこそ忠臣が現れるものです。昔、田単は一城を守って斉を存続させました。今、秦が保有しているのは、州や鎮が連なり、郡国には百の城があります。臣下たる者が君主や父に対して、心を尽くし、力を尽くし、死して後やむべきであり、どうして二心を抱くことができましょうか!」苟輔は大いに喜び、そこで城に拠って堅固に守った。姚萇は土山や地下道を作ったが、苟輔も同様に対応した。ある時は山の峰で戦い、姚萇の兵士の死者は一万余人に及んだ。苟輔は偽って降伏し、姚萇が入城しようとしたが、それに気づき、兵を引き上げて退却した。苟輔は駆け出して攻撃し、斬り取ったり捕虜にした数は万単位に及んだ。この時点で、食糧は尽き矢も尽き、外部からの救援も来ず、姚萇は役人を遣わして苟輔に言った。「私は正義をもって天下を取ろうとしているのであって、どうして忠臣を仇とすることがあろうか。卿はただ現存する男女の民衆を率いて長婁に帰りなさい。私はこの城を鎮としたいのだ。」苟輔はその通りだと思い、男女一万五千人を率いて城を出た。姚萇は彼らを包囲して穴に埋め、男女一人残さず殺した。初め、石季龍せききりゅうの末年、清河の崔悦が新平の相となったが、郡の者に殺された。崔悦の子の液は後に苻堅に仕え、尚書郎となったが、自ら上表して父の仇とは天地を同じくせず、冀州に帰還することを請うた。苻堅は彼を哀れみ、新平の人々を禁錮し、城の角を欠いて彼らを辱めた。新平の酋長や名望家は深く恥じたため、互いに率いて姚萇に抵抗し、忠義を立てたのである。

原文先是,姚萇攻新平,新平太守苟輔將降之,郡人遼西太守馮傑、蓮勺令馮翊等諫曰:「天下喪亂,忠臣乃見。昔田單守一城而存齊,今秦之所有,猶連州累鎮,郡國百城。臣子之于君父,盡心焉,盡力焉,死而後已,豈宜貳哉!」輔大悅,於是憑城固守。萇為土山地道,輔亦為之。或戰山峰,萇眾死者萬有餘人。輔乃詐降,萇將入,覺之,引眾而退。輔馳出擊之,斬獲萬計。至是,糧竭矢盡,外救不至,萇遣吏謂輔曰:「吾方以義取天下,豈仇忠臣乎?卿但率見眾男女還長婁,吾須此城置鎮。」輔以為然,率男女萬五千口出城,萇圍而坑之,男女無遺。初,石季龍末,清河崔悅為新平相,為郡人所殺。悅子液後仕堅,為尚書郎,自表父仇不同天地,請還冀州。堅湣之,禁錮新平人,缺其城角以恥之。新平酋望深以為慚,故相率距萇,以立忠義。

その時、数万の烏の群れが長安城の上を飛び回り鳴き、その声は非常に悲しかった。占う者は、羽を戦わせる者は一年を全うせず、甲兵が城に入る兆しであると考えた。慕容沖が兵を率いて城に登ると、苻堅は身に甲冑をまとい、戦いを督戦して抵抗し、飛び交う矢で全身満たされ、血が体を覆った。当時、兵寇の危険が迫っていたが、馮翊の諸々の堡塁や砦にはなおも食糧を背負って危難を冒して来る者がおり、多くは賊に殺された。苻堅は彼らに言った。「来る者の多くが無事に到着しないと聞くが、まさに忠臣が難に赴く義である。当今、寇難が頻繁で、一人の力で救えるものではない。おそらく明らかな霊験が照らし、禍が極まれば災いは返るであろう。誠実と順従をよく保ち、国のために自らを愛し、食糧を蓄え甲冑を磨き、まっすぐに師の時期を待て。徒らに喪失して成果なく、獣の口に相次いで従うことなかれ。」三輔の地で慕容沖に略奪された人々は皆、使者を遣わして苻堅に告げ、内応として火を放つことを請うた。苻堅は言った。「諸卿の忠誠の心を哀れむが、どうしてまたやめられようか。ただ時運が廃れ喪われ、国に益がないことを恐れる。空しく諸卿を座して自滅させるのは、私の忍ぶところではない。かつて私の精兵は獣のごとく、利器は霜のようであったが、烏合の疲弊した賊に敗れたのは、天の意ではないか!よく考えよ。」人々は固く請うて言った。「臣らは命を惜しまず、身を投じて国のためになります。もし上天に霊験があれば、誠心誠意でひとかどの救いを望み、死んでも遺恨はありません。」苻堅は騎兵七百を派遣して応じた。しかし、慕容沖の陣営で火を放った者は風と炎に焼かれ、免れた者は十のうち一二であった。苻堅は深くこれを痛み、自ら祭りを設けて彼らを招いて言った。「忠あり霊あるものよ、ここにこの庭に来たれ。汝らの先父のもとに帰れ、妖しい形となるなかれ。」涙を流してすすり泣き、悲しみに耐えられなかった。人々は皆互いに言った。「至尊の慈恩このようである。我々は死んでも心変わりしない。」慕容沖は関中で毒のように暴虐をふるい、人々は皆流散し、道路は断絶し、千里に煙一つなかった。苻堅は甘松護軍の仇騰を馮翊太守とし、輔国将軍を加え、破虜将軍の蜀人の蘭犢とともに馮翊諸県の民衆を慰め励ました。民衆は皆言った。「陛下とともに死に、ともに生き、誓って二心はありません。」

原文時有群烏數萬,翔鳴于長安城上,其聲甚悲,占者以為鬥羽不終年,有甲兵入城之象。沖率眾登城,堅身貫甲胄,督戰距之,飛矢滿身,血流被體。時雖兵寇危逼,馮翊諸堡壁猶有負糧冒難而至者,多為賊所殺。堅謂之曰:「聞來者率不善達,誠是忠臣赴難之義。當今寇難殷繁,非一人之力所能濟也。庶明靈有照,禍極災返,善保誠順,為國自愛,蓄糧厲甲,端聽師期,不可徒喪無成,相隨獸口。」三輔人為沖所略者,咸遣使告堅,請放火以為內應。堅曰:「哀諸卿忠誠之意也,何復已已。但時運圮喪,恐無益于國,空使諸卿坐自夷滅,吾所不忍也。且吾精兵若獸,利器如霜,而衄于烏合疲鈍之賊,豈非天也!宜善思之。」眾固請曰:「臣等不愛性命,投身為國,若上天有靈,單誠或冀一濟,沒無遺恨矣。」堅遣騎七百應之。而沖營放火者為風焰所燒,其能免者十有一二。堅深痛之,身為設祭而招之曰:「有忠有靈,來就此庭。歸汝先父,勿為妖形。」歔欷流涕,悲不自勝。眾咸相謂曰:「至尊慈恩如此,吾等有死無移。」沖毒暴關中,人皆流散,道路斷絕,千里無煙。堅以甘松護軍仇騰為馮翊太守,加輔國將軍,與破虜將軍蜀人蘭犢慰勉馮翊諸縣之眾。眾咸曰:「與陛下同死共生,誓無有貳。」

毎夜、城の周りを巡って大声で叫ぶ者があった。「楊定の健児は我に属すべき、宮殿や台観は我が座すべき、父子ともに出でて汝らとともにせず。」しかも探しても人の気配はなかった。城中に『古符伝賈録』という書物があり、「帝、五将に出でて久長を得」と載せていた。以前から、また謡が流れた。「堅、五将山に入りて長く得る。」苻堅はこれを大いに信じ、太子の宏に告げて言った。「もしこの言葉の通りなら、天が私を導いているのかもしれない。今、汝を留めて戎政を兼ねて総べさせ、賊と利を争うな。朕は隴に出て兵を収め糧を運んで汝に与えよう。天はあるいは正しく私を訓えているのだ。」そこで衛将軍の楊定を派遣して城西で慕容沖を撃たせたが、慕容沖に捕らえられた。苻堅はますます恐れ、宏に後事を託し、中山公の詵と張夫人を率いて騎兵数百で五将に出向き、州郡に宣告して、孟冬に長安を救うことを約束した。宏はまもなく母や妻、宗室の男女数千騎を率いて出奔し、百官は逃げ散った。慕容沖が長安に入り占拠し、従兵が大いに略奪し、死者は数え切れなかった。

原文每夜有周城大呼曰:「楊定健兒應屬我,宮殿台觀應坐我,父子同出不共汝。」且尋而不見人跡。城中有書曰《古符傳賈錄》,載「帝出五將久長得」。先是,又謠曰:「堅入五將山長得。」堅大信之,告其太子宏曰:「脫如此言,天或導予。今留汝兼總戎政,勿與賊爭利,朕當出隴收兵運糧以給汝。天其或者正訓予也。」於是遣衛將軍楊定擊沖於城西,為沖所擒。堅彌懼,付宏以後事,將中山公詵、張夫人率騎數百出如五將,宣告州郡,期以孟冬救長安。宏尋將母妻宗室男女數千騎出奔,百僚逃散。慕容沖入據長安,從兵大掠,死者不可勝計。

初め、秦がまだ乱れていなかった時、関中の土が燃え、火がないのに煙気が大きく立ち上がり、方数千里の中、一ヶ月余り消えなかった。苻堅は毎回、訴訟を聞く観(建物)に臨み、百姓で怨みのある者に城北で煙を上げさせ、それを見て記録した。長安ではこのことについて「必ず存したいなら煙を上げよ」と言い、また謡が流れた。「長い鞘の馬鞭で左股を撃て、太歳が南行すればまた虜となる。」秦人は鮮卑を白虜と呼んだ。慕容垂が関東で挙兵したのは癸末の年であった。苻堅が氐族の戸を諸鎮に分けた時、趙整が侍従していたが、琴を取って歌った。「阿得脂、阿得脂、博労の旧父は仇綏、尾長く翼短くして飛ぶこと能わず、遠く種人を移して鮮卑を留め、一旦緩急あれば誰に語らん!」苻堅は笑って受け入れなかった。この時になって、趙整の言葉は実現した。

原文初,秦之未亂也,關中土然,無火而煙氣大起,方數十里中,月餘不滅。堅每臨聽訟觀,令百姓有怨者舉煙於城北,觀而錄之。長安為之語曰:「欲得必存當舉煙。」又為謠曰:「長鞘馬鞭擊左股,太歲南行當復虜。」秦人呼鮮卑為白虜。慕容垂之起於關東,歲在癸末。堅之分氐戶于諸鎮也,趙整因侍,援琴而歌曰:「阿得脂,阿得脂,博勞舊父是仇綏,尾長翼短不能飛,遠徙種人留鮮卑,一旦緩急語阿誰!」堅笑而不納。至是,整言驗矣。

苻堅が五将山に至ると、姚萇が将軍の呉忠を派遣して包囲した。苻堅の兵衆は散り散りになり、侍御十数人だけとなった。苻堅は神色自若として座って待ち、料理人を召して食事を進めさせた。やがて呉忠が到着し、苻堅を捕らえて新平に帰し、別室に幽閉した。姚萇は苻堅に伝国璽でんこくのじを求めて言った。「姚萇は次いで符命と暦数を受けるべきであり、恵みを与えることができる。」苻堅は目を怒らせて叱りつけた。「小さい羌族がどうして天子に干渉逼迫するのか。どうして伝国璽を汝ら羌族に授けようか。図緯や符命に、何の根拠があるというのか。五胡の順序に、汝ら羌族の名はない。天に背けば不吉であり、どうして長く続けようか!璽はすでに晉に送っており、得ることはできない。」姚萇はまた尹緯を遣わして苻堅を説得し、堯や舜のような禅譲ぜんじょうによる王朝交代を行いたいと求めた。苻堅は尹緯を責めて言った。「禅譲は聖賢の行いである。姚萇は叛賊である。どうして古人に擬することができようか!」苻堅は姚萇に禅譲を許さず、罵りながら死を求めた。姚萇はついに新平の仏寺で苻堅を絞殺した。時に四十八歳であった。中山公の詵と張夫人はともに自殺した。この年は太元十年である。

原文堅至五將山,姚萇遣將軍吳忠圍之。堅眾奔散,獨侍御十數人而已。神色自若,坐而待之,召宰人進食。俄而忠至,執堅以歸新平,幽之於別室。萇求傳國璽於堅曰:「萇次膺符曆,可以為惠。」堅瞋目叱之曰:「小羌乃敢幹逼天子,豈以傳國璽授汝羌也,圖緯符命,何所依據?五胡次序,無汝羌名。違天不祥,其能久乎!璽已送晉,不可得也。」萇又遣尹緯說堅,求為堯、舜禪代之事。堅責緯曰:「禪代者,聖賢之事。姚萇叛賊,奈何擬之古人!」堅既不許萇以禪代,罵而求死,萇乃縊堅于新平佛寺中,時年四十八。中山公詵及張夫人並自殺。是歲太元十年也。

宏が奔ったのは、下辯にいる南秦州刺史の楊璧のもとに帰ろうとしたが、楊璧が拒絶したため、武翥の氐族の豪族である強熙のもとに奔り、道を借りて帰順し、朝廷は宏を江州に置いた。宏は輔国将軍の官位を歴任した。桓玄が帝位を簒奪すると、宏を梁州刺史とした。義熙の初め、謀叛を企てたとして誅殺された。

原文宏之奔也,歸其南秦州刺史楊璧于下辯,璧距之,乃奔武翥氐豪強熙,假道歸順,朝廷處宏于江州。宏歷位元輔國將軍。桓玄篡位,以宏為梁州刺史。義熙初,以謀叛被誅。

初め、苻堅が強盛であった時、国に童謡があった。「河水清くしてまた清し、苻詔、新城に死す。」苻堅はこれを聞いて嫌い、征伐のたびに、軍候に戒めて言った。「地名に『新』の字があるところは避けよ。」当時また童謡があった。「阿堅連牽三十年、後に敗れんと欲せば当に江・淮の間に在るべし。」苻堅は在位二十七年、寿春の敗戦により、その国は大乱に陥り、後二年、ついに新平の仏寺で死んだ。すべて謡言に応じたのである。苻丕が僭号を称し、偽って苻堅を追諡して世祖宣昭皇帝とした。

原文初,堅強盛之時,國有童謠云:「河水清復清,苻詔死新城。」堅聞而惡之,每征伐,戒軍候云:「地有名新者避之。」時又童謠云:「阿堅連牽三十年,若後欲敗當在江、淮間。」堅在位二十七年,因壽春之敗,其國大亂,後二年,竟死于新平佛寺,咸應謠言矣。丕僭號,偽追諡堅曰世祖宣昭皇帝。

王猛

原文王猛

王猛、字は景略、北海郡劇県の人であるが、魏郡に家を構えた。若い頃は貧賤で、畚もっこを売ることを生業としていた。かつて洛陽で畚を売っていた時、一人の人物が高値でその畚を買い、代金がないと言い、「家はここから遠くないので、私について来て代金を受け取ってくれ」と言った。王猛は高値であることを利として従い、歩いているうちに遠くまで来たことに気づかず、突然深山に至った。一人の父老がおり、鬚と髪は真っ白で、胡床に座り、左右に十人ほどの者がいた。一人が王猛を導いて進み拝礼させた。父老は言った。「王公、どうして拝礼なさるのですか!」そして十倍の値段で畚の代金を償い、人を遣わして送り出した。王猛が外に出て、振り返って見ると、それは嵩高山であった。

原文王猛,字景略,北海劇人也,家于魏郡。少貧賤,以鬻畚為業。嘗貨畚於洛陽,乃有一人貴買其畚,而雲無直,自言:「家去此無遠,可隨我取直。」猛利其貴而從之,行不覺遠,忽至深山,見一父老,鬚髮皓然,踞胡床而坐,左右十許人,有一人引猛進拜之。父老曰:「王公何緣拜也!」乃十倍償畚直,遣人送之。猛既出,顧視,乃嵩高山也。

王猛は容貌が魁偉で、学問を広く好み兵書に通じ、慎重で厳格、気宇雄大であり、些細な事柄には心を煩わさず、自分と気の合わない者とはほとんど交際せず、そのため浮華な者たちは皆、彼を軽んじて嘲笑した。王猛は悠然と自らを保ち、気にかけなかった。若い頃に鄴都を遊歴したが、当時の人々にはほとんど理解されなかった。ただ徐統だけが彼を見て非凡と認め、功曹に召し出そうとした。王猛は逃れて応じず、華陰山に隠棲した。世を補佐する志を抱き、真の君主を待ち望み、翼を畳んで時を待ち、風雲の機会を待ってから行動しようとした。桓溫が関中に入ると、王猛は粗末な服を着て彼を訪ね、初対面で当世の事柄について語り、虱を払いながら話し、傍若無人であった。桓溫は彼を観察して非凡と感じ、尋ねた。「私は天子の命を受け、精鋭十万を率い、大義に基づいて逆賊を討ち、百姓のために残虐な賊を除こうとしているのに、三秦の豪傑たちが来ないのはなぜか。」王猛は言った。「公は数千里の遠路を厭わず、敵地深く入りながら、長安が目と鼻の先にあるのに灞水を渡らず、百姓が公の真意を見極められないからです。それゆえ来ないのです。」桓溫は黙り込み、返答できなかった。桓溫が帰還する際、王猛に車馬を賜り、高官督護に任じ、ともに南へ行くよう請うた。王猛は山に戻って師に相談すると、師は言った。「お前と桓溫は同じ時代の人ではない!ここにいれば富貴は得られる。なぜ遠くへ行く必要があるのか!」王猛はそれで留まった。

原文猛瑰姿俊偉。博學好兵書,謹重嚴毅,氣度雄遠,細事不幹其慮,自不參其神契,略不與交通,是以浮華之士咸輕而笑之。猛悠然自得,不以屑懷。少游于鄴都,時人罕能識也。惟徐統見而奇之,召為功曹。遁而不應,遂隱于華陰山。懷佐世之志,希龍顏之主,斂翼待時,候風雲而後動。桓溫入關,猛被褐而詣之,一面談當世之事,捫虱而言,旁若無人。溫察而異之,問曰:「吾奉天子之命,率銳師十萬,杖義討逆,為百姓除殘賊,而三秦豪傑未有至者何也?」猛曰:「公不遠數千里,深入寇境,長安咫尺而不渡灞水,百姓未見公心故也,所以不至。」溫默然無以酬之。溫之將還,賜猛車馬,拜高官督護,請與俱南。猛還山咨師,師曰:「卿與桓溫豈並世哉!在此自可富貴,何為遠乎!」猛乃止。

苻堅が大志を抱こうとしていた時、王猛の名を聞き、呂婆樓を遣わして招いた。一度会うとまるで旧知のようであり、廃立興亡の大事について語り合うと、符節が合うように意気投合し、劉備が諸葛亮しょかつりょうに出会ったようであった。苻堅が帝位を僭称すると、王猛を中書侍郎に任じた。当時、始平県には枋頭から西帰した者が多く、豪族が横行し、強盗がはびこっていたため、王猛を始平県令に転任させた。王猛が着任すると、法令を明らかにし刑罰を厳しくし、善悪を明察して、豪族を取り締まった。ある官吏を鞭打ち殺すと、百姓が上書して訴え、役所が弾劾し、檻車で廷尉の詔獄に送られた。苻堅が自ら尋ねて言った。「政治の根本は徳による教化が第一である。着任して間もないのに数え切れないほど殺戮するとは、なんと残酷なことか。」王猛は言った。「臣は聞きます。安寧な国を治めるには礼を以てし、混乱した国を治めるには法を以てす、と。陛下は臣の不才を顧みず、難治の地を任せられました。謹んで明君のために凶悪な者を除こうとしているのです。一人の奸賊を殺したばかりで、残りはまだ数万います。もし臣が残虐な者を根絶やしにし、法秩序を粛清できないというのであれば、甘んじて鼎鑊の刑を受け、任に背いた罪を謝罪いたします。しかし、酷政の非難は、臣は実のところ受け入れられません。」苻堅は群臣に言った。「王景略(王猛)はまさに管仲や子産の類いである。」そこで彼を赦した。

原文苻堅將有大志,聞猛名,遣呂婆樓招之,一見便若平生。語及廢興大事,異符同契,若玄德之遇孔明也。及堅僭位,以猛為中書侍郎。時始平多枋頭西歸之人,豪右縱橫,劫盜充斥,乃轉猛為始平令。猛下車,明法峻刑,澄察善惡,禁勒強豪。鞭殺一吏,百姓上書訟之,有司劾奏,檻車征下廷尉詔獄。堅親問之,曰:「為政之體,德化為先,蒞任未幾而殺戮無數,何其酷也!」猛曰:「臣聞宰甯國以禮,治亂邦以法。陛下不以臣不才,任臣以劇邑,謹為明君翦除凶猾。始殺一奸,余尚萬數,若以臣不能窮殘盡暴,肅清軌法者,敢不甘心鼎鑊,以謝孤負。酷政之刑,臣實未敢受之。」堅謂群臣曰:「王景略固是夷吾、子產之儔也。」於是赦之。

尚書左丞、咸陽内史、京兆尹に昇進した。間もなく、吏部尚書、太子詹事に任じられ、さらに尚書左僕射、輔国将軍、司隸校尉に昇進し、騎都尉を加えられ、宮中で宿衛を担当した。当時王猛は三十六歳で、一年のうちに五度昇進し、権勢は朝廷内外に及び、宗族や旧臣たちは皆その寵遇を妬んだ。尚書の仇騰や丞相長史の席宝がたびたび讒言して誹謗したので、苻堅は大いに怒り、仇騰を甘松護軍に左遷し、席宝は官位を剥奪されて長史のみを務めさせた。その後、上下ともに皆服し、敢えて言う者はいなくなった。ほどなく、尚書令、太子太傅に昇進し、散騎常侍を加えられた。王猛はたびたび上表して辞退したが、苻堅は結局許さなかった。さらに司徒、録尚書事に転じたが、他の官職はそのままだった。王猛は功績がないとして辞退し、拝命しなかった。

原文遷尚書左丞、咸陽內史、京兆尹。未幾,除吏部尚書、太子詹事,又遷尚書左僕射、輔國將軍、司隸校尉,加騎都尉,居中宿衛。時猛年三十六,歲中五遷,權傾內外,宗戚舊臣皆害其寵。尚書仇騰、丞相長史席寶數譖毀之,堅大怒,黜騰為甘松護軍,寶白衣領長史。爾後上下咸服,莫有敢言。頃之,遷尚書令、太子太傅,加散騎常侍。猛頻表累讓,堅竟不許。又轉司徒、錄尚書事,余如故。猛辭以無功,不拜。

後に諸軍を率いて慕容暐を討伐し、軍律は厳正で、兵士に私的な不法行為はなかった。王猛が鄴に到着する前は、強盗が公然と横行していたが、王猛が到着すると遠近が平穏になり、燕の人々は安心した。軍が帰還すると、功績により清河郡侯に進封され、美妾五人、上等の女妓十二人、中等の女妓三十八人、馬百匹、車十乗を賜った。王猛は上疏して固辞したが受けなかった。

原文後率諸軍討慕容暐,軍禁嚴明,師無私犯。猛之未至鄴也,劫盜公行,及猛之至,遠近帖然,燕人安之。軍還,以功進封清河郡侯,賜以美妾五人,上女妓十二人,中妓三十八人,馬百匹,車十乘。猛上疏固辭不受。

当時、冀州に留まって鎮守していたが、苻堅は王猛に六州の内で臨機応変に処置する権限を与え、才能ある者を選抜召喚して関東の地方長官を補任させ、任命後、朝廷に報告して正式な除目とするよう命じた。数か月後、王猛は上疏して言った。「臣が以前、朝に聞けば夕に拝命し、艱難を顧みなかったのは、ちょうど禍難が未だ平定されず、軍機が迅速を要したためで、戦場で命を尽くし、奔走の役目を甘んじて受け、皇帝の威光を宣揚し、微力を尽くそうとしたからです。それで懸命に職務に当たり、身分に過ぎる地位に居座りましたが、これは時勢を救うために命令に従い、今日の太平を待つためと言えましょう。今や聖徳は皇天に届き、威霊は八方に及び、広大な教化はすでに行き渡り、天下は清く泰平です。臣は敢えて真心を披瀝し、賢者の道を避けるようお願い申し上げます。官職を設け職務を分けるのは、それぞれ担当する役所があるべきで、どうして愚臣ひとりに任せて、速やかな破綻を招くべきでしょうか。東夏のことは、臣の微力では治めることができません。どうか親族や賢者に任を移し、臣の転落を救ってください。もし臣に鷹犬のような微功があり、お捨てにならないのであれば、一州の任に就いて罪を待ち、力を尽くして命を捧げさせてください。徐州はようやく帰順したばかりで、淮水・汝水の防備は重要です。六州の処分や官府の選任について便宜を図っておりましたが、すべて停止いたします。監督の任は空位にすべきではありません。どうか時宜にかなった神妙な御指示を賜りますよう。」苻堅は許さず、侍中の梁讜を鄴に遣わして旨を伝えさせたので、王猛は以前のように職務を執った。

原文時既留鎮冀州,堅遣猛於六州之內聽以便宜從事,簡召英俊,以補關東守宰,授訖,言台除正。居數月,上疏曰:「臣前所以朝聞夕拜,不顧艱虞者,正以方難未夷,軍機權速,庶竭命戎行,甘驅馳之役,敷宣皇威,展筋骨之效,故僶俛從事,叨據負乘,可謂恭命于濟時,俟太平於今日。今聖德格於皇天,威靈被於八表,弘化已熙,六合清泰,竊敢披貢丹誠,請避賢路。設官分職,各有司存,豈應孤任愚臣,以速傾敗!東夏之事,非臣區區所能康理,願徙授親賢,濟臣顛墜。若以臣有鷹犬微勤,未忍捐棄者,乞待罪一州,效盡力命。徐方始賓,淮、汝防重,六州處分,府選便宜,輒以悉停。督任弗可虛曠,深願時降神規。」堅不許,遣其侍中梁讜詣鄴喻旨,猛乃視事如前。

まもなく中央に入って丞相、中書監、尚書令、太子太傅、司隸校尉となり、持節、常侍、将軍、侯の位はそのままとされた。やがて都督中外諸軍事を加えられた。王猛は長く上表して辞退した。苻堅は言った。「卿は昔、平民として隠れ蟠居し、朕は若くして潜龍の身であった。世の事は紛糾し、人材を励まそうとしたが、その徳を覆す者ばかりだった。朕は卿を一目見て非凡と認め、卿を臥龍になぞらえた。卿もまた朕の一言で朕を非凡と認め、隠遁の志を翻した。これはまさに心と神が通じ合った、千年に一度の出会いではないか。傅説が夢に現れ、太公望が兆しで悟った故事も、古今を通じて同じであり、これと異なることはない。卿が政務を補佐してから、ほぼ二十年になる。内では百官を整え、外では群凶を掃討し、天下は平定に向かい、人倫の秩序が整い始めた。朕は上にゆったりと構え、卿には下で心を労してほしい。広く民を救う大事は、卿をおいて他にいない。」遂に許さなかった。その後数年して、再び司徒に任じようとした。王猛は再び上疏して言った。「臣は聞きます。天象の盈虚は、君主がこれを規範とすべきであり、地位は才能に応じ、官職がそれにふさわしくなければ空位となる、と。鄭の武公は周を助け、代々称えられ、王叔(周の王叔陳生)は寵愛に溺れ、政治は廃れ身を亡ぼしました。これは成敗の明らかな鑑であり、臣たる者の厳しい戒めです。思うに、宰相の地位は崇高で重く、三台の星路に参画するもので、時世の賢者を尽くして選び、美しい天命に応えるべきです。魏の太祖(曹操)が荀攸に公位を与えたのは、後世の孫権に笑われ、車千秋が一言で丞相となったのは、匈奴に嘲笑されました。臣はどうして凡庸で狭量な者が、このような大任に応えられましょうか。近隣や遠国に嗤われるだけでなく、実に敵国に秦を軽んじさせることになります。昔、東野畢が馬を駆り尽くした時、顔回はその将に破綻することを知りました。陛下はもう一度、臣の力量を推し量らず、私的に敗亡が及ぶことを恐れます。また、上は法典を損ない、臣はどうしてその職に顔向けできましょう。たとえ陛下が私的に臣を寵愛されても、天下をどうするおつもりでしょうか。どうか日月のような御明察を翻し、臣の後悔を憐れんでください。そうすれば上には過分な授けの誹りがなく、臣は覆い育む御恩を蒙ることができます。」苻堅は結局従わず、王猛はやむなく拝命した。軍国内外のあらゆる政務は、事の大小を問わず、すべて彼に帰した。

原文俄入為丞相、中書監、尚書令、太子太傅、司隸校尉,持節、常侍、將軍、侯如故。稍加都督中外諸軍事。猛表讓久之。堅曰:「卿昔螭蟠布衣,朕龍潛弱冠,屬世事紛紜,厲士之際,顛覆厥德。朕奇卿於暫見,擬卿為臥龍,卿亦異朕於一言,回《考槃》之雅志,豈不精契神交,千載之會!雖傅岩入夢,薑公悟兆,今古一時,亦不殊也。自卿輔政,幾將二紀,內厘百揆,外蕩群凶,天下向定,彝倫始敘。朕且欲從容於上,望卿勞心於下,弘濟之務,非卿而誰!」遂不許。其後數年,復授司徒。猛復上疏曰:「臣聞乾象盈虛,惟後則之;位稱以才,官非則曠。鄭武翼周,仍世載詠;王叔昧寵,政替身亡,斯則成敗之殷監,為臣之炯戒。竊惟鼎宰崇重,參路太階,宜妙盡時賢,對揚休命。魏祖以文和為公,貽笑孫後;千秋一言致相,匈奴吲之。臣何庸狷,而應斯舉!不但取嗤鄰遠,實令為虜輕秦。昔東野窮馭,顏子知其將弊。陛下不復料度臣之才力,私懼敗亡是及。且上虧憲典,臣何顏處之!雖陛下私臣,其如天下何!願回日月之鑒,矜臣後悔,使上無過授之謗,臣蒙覆燾之恩。」堅竟不從。猛乃受命。軍國內外萬機之務,事無巨細,莫不歸之。

王猛が政務を執るのは公平で、無能な者を流罪や左遷にし、埋もれた人材を抜擢し、賢才を顕彰した。外では軍備を整え、内では儒学を総合し、農桑を奨励し、廉恥を教え導いた。罪ある者は必ず罰し、才能ある者は必ず任用した。あらゆる政績が輝き、百官の職務が順調に進んだ。こうして兵は強く国は富み、太平の世が訪れようとしたのは、王猛の力によるものであった。苻堅はかつてゆったりと王猛に言った。「卿は朝夕怠ることなく、万機の政務に憂い勤めている。まるで文王が太公望を得たようだ。私はのんびりと余生を過ごせそうだ。」王猛は言った。「陛下が臣の過ちをご存じとは思いもよりませんでした。臣がどうして古人に比べられましょう。」苻堅は言った。「私の見るところ、太公望も卿に及ばないだろう。」常々、太子の苻宏や長楽公の苻丕らに命じて言った。「お前たちは王公(王猛)に仕えるには、私に仕えるようにせよ。」彼がこれほど重んじられたのである。

原文猛宰政公平,流放屍素,拔幽滯,顯賢才,外修兵革,內綜儒學,勸課農桑,教以廉恥,無罪而不刑,無才而不任,庶績咸熙,百揆時敘。於是兵強國富,垂及升平,猛之力也。堅嘗從容謂猛曰:「卿夙夜匪懈,憂勤萬機,若文王得太公,吾將優遊以卒歲。」猛曰:「不圖陛下知臣之過,臣何足以擬古人!」堅曰:「以吾觀之,太公豈能過也。」常敕其太子宏、長樂公丕等曰:「汝事王公,如事我也。」其見重如此。

広平郡の麻思は関右に流寓していたが、母が亡くなったため帰葬することを願い、冀州への帰還を請うた。王猛は麻思に言った。「すぐに荷物を整えなさい。今夕にはすでに卿の出発を命じる符が発行されるだろう。」彼が関を出始めた時には、郡県はすでに符を受け取って管理していた。その命令の行き届き、規律の整然さ、事が滞ることがない様子は、すべてこのようなものであった。性格は剛直で明らかであり、清廉で厳格であり、善悪の区別が特に明確であった。貧しい時分に受けた一食の恩恵や、些細な恨みであっても、報いないものはなかった。当時の論評は、この点をやや非難した。

原文廣平麻思流寄關右,因母亡歸葬,請還冀州。猛謂思曰:「便可速裝,是暮已符卿發遣。」及始出關,郡縣已被符管攝。其令行禁整,事無留滯,皆此類也。性剛明清肅,于善惡尤分。微時一餐之惠,睚眦之忿,靡不報焉,時論頗以此少之。

その年、王猛は病に臥せった。苻堅は自ら南北の郊祀、宗廟、社稷に祈願し、侍臣を分遣して河や岳の諸祭祀に祈らせ、周到に備えを尽くした。王猛の病が癒えなかったため、境内で殊死以下の罪人を大赦した。王猛の病が重くなると、上疏して恩に感謝し、時政について述べ、多く有益な意見を述べた。苻堅はそれを見て涙を流し、左右の者を悲しませた。病が篤くなると、苻堅は自ら見舞いに行き、後事を尋ねた。王猛は言った。「晋は僻遠の地の呉・越にありながらも、正統の暦を継承しています。親しく仁を施し、隣国と善隣することは、国の宝です。臣が死んだ後、晋を攻め取ろうとしないことを願います。鮮卑や羌の虜は、我が国の仇敵であり、最終的には人の患いとなります。徐々に除くべきで、社稷のためになります。」言い終わって死んだ。享年五十一歳。苻堅は慟哭した。納棺の時までに三度臨み、太子の苻宏に言った。「天は私に天下を統一させたくないのか?どうして私の景略(王猛の字)をこんなに早く奪うのだ!」侍中を追贈し、丞相の位はそのままとした。東園の温明秘器を与え、帛三千匹、穀物一万石を下賜した。謁者僕射が喪事を監督し、葬儀はすべて漢の大将軍の故事に従った。諡は武侯。朝野と巷では三日間哭した。

原文其年寢疾,堅親祈南北郊、宗廟、社稷,分遣侍臣禱河岳諸祀,靡不周備。猛疾未瘳,乃大赦其境內殊死已下。猛疾甚,因上疏謝恩,並言時政,多所弘益。堅覽之流涕,悲慟左右。及疾篤,堅親臨省病,問以後事。猛曰:「晉雖僻陋吳、越,乃正朔相承。親仁善鄰,國之寶也。臣沒之後,願不以晉為圖。鮮卑、羌虜,我之仇也,終為人患,宜漸除之,以便社稷。」言終而死,時年五十一。堅哭之慟。比斂,三臨,謂太子宏曰:「天不欲使吾平一六合邪?何奪吾景略之速也!」贈侍中,丞相余如故。給東園溫明秘器,帛三千匹,谷萬石。謁者僕射監護喪事,葬禮一依漢大將軍故事。諡曰武侯。朝野巷哭三日。

苻融

原文苻融

苻融は、字を博休といい、苻堅の末弟である。幼少の頃から聡明で早熟であり、体躯が大きく風采が優れていた。苻健ふけんの時代に安楽王に封ぜられたが、苻融は上疏して固辞した。苻健は深くこれを奇異とし、「我が子に箕山の節操を成させよう」と言って、封をやめさせた。苻生はその器量と容貌を愛し、常に側近に侍らせ、弱冠に満たないうちから宰相の器と期待された。成長するにつれて名声はますます高まり、朝野の注目を集めた。苻堅が帝位を僭称すると、侍中に任じられ、まもなく中軍将軍に任命された。苻融は聡明で弁舌に優れ、明るく聡慧であり、筆を下ろせば文章ができあがった。玄理を談じ道を論ずるに至っては、道安でさえ彼を超えることはできなかった。耳で聞けば暗誦し、目で見れば忘れず、当時の人々は王粲に比した。かつて『浮図賦』を著し、その壮麗で清らかで豊かな内容は、世に珍重された。高い所に登れば必ず賦を詠み、喪に臨めば必ず誄を作り、硃彤や趙整らはその巧妙さと速さを推賞した。膂力は雄大で勇猛であり、騎射や撃刺に優れ、百人の敵に匹敵した。内外の人事を評価し総括し、刑罰と政務を整え、人材を登用して停滞を解決する様は、王景略(王猛)の流れであった。特に訴訟の裁決に優れ、悪事を見逃さず、苻堅に信任された。

原文苻融,字博休,堅之季弟也。少而岐嶷夙成,魁偉美姿度。健之世封安樂王,融上疏固辭,健深奇之,曰:「且成吾兒箕山之操。」乃止。苻生愛其器貌,常侍左右,未弱冠便有台輔之望。長而令譽彌高,為朝野所屬。堅僭號,拜侍中,尋除中軍將軍。融聰辯明慧,下筆成章,至於談玄論道,雖道安無以出之。耳聞則誦,過目不忘,時人擬之王粲。嘗著《浮圖賦》,壯麗清贍,世咸珍之。未有升高不賦,臨喪不誄,硃彤、趙整等推其妙速。旅力雄勇,騎射擊刺,百夫之敵也。銓綜內外,刑政修理,進才理滯,王景略之流也。尤善斷獄,奸無所容,故為堅所委任。

後に司隸校尉となった。京兆の人董豊が遊学して三年後に帰郷し、妻の実家に宿泊した。その夜、妻が賊に殺された。妻の兄は董豊が殺したと疑い、役所に送った。董豊は拷問に耐えられず、妻を殺したと偽りの自白をした。苻融はこれを察して疑い、尋ねた。「あなたが行き来した際、何か怪異なことや、占いをしたことはあったか?」董豊は言った。「出発する前夜、馬に乗って南へ水を渡る夢を見ました。戻って北へ渡り、また北から南へ渡りました。馬が水中で止まり、鞭打っても動きませんでした。うつむいて見ると、二つの日が水の下にあり、馬の左側は白く濡れ、右側は黒く乾いていました。目覚めて心臓がどきどきし、不吉だと思いました。帰郷の夜、また同じ夢を見ました。占い師に尋ねると、占い師は言いました。『訴訟を憂え、三つの枕を遠ざけ、三つの沐浴を避けよ』と。妻の家に着くと、妻が沐浴の用意をし、夜に董豊に枕を渡しました。私は占い師の言葉を覚えていたので、どちらも従いませんでした。妻は自ら沐浴し、枕をして寝ました。」苻融は言った。「分かった。『周易』では『坎』は水を表し、馬は『離』を表す。夢で馬に乗って南へ渡り、北へ回ってまた南へ向かうのは、『坎』から『離』へ向かうことだ。三つの爻がともに変化し、変化して『離』となる。『離』は中女を表し、『坎』は中男を表す。二つの日は、二人の夫の象徴である。『坎』は執法の吏を表す。吏がその夫を詰問し、婦人が血を流して死ぬ。『坎』は二陰一陽、『離』は二陽一陰で、互いに位置を変えて受け継ぐ。『離』が下で『坎』が上、『既済』の卦となる。文王がこれに遇って窓の中で囚われたが、礼があれば生き、礼がなければ死ぬ。馬の左が濡れている。濡れは水である。左に水、右に馬で、『馮』の字である。二つの日は『昌』の字である。おそらく馮昌が殺したのだろう!」そこで推問して調査し、馮昌を捕らえて詰問した。馮昌はすべて自白し、「もともと彼の妻と謀って董豊を殺す計画で、新たに沐浴して枕を使うことを合図にしていたので、誤って婦人を殺してしまった」と言った。冀州では、老母が路上で強盗に遭い、母が声を上げて盗賊を叫んだ。通行人が母のために賊を追いかけた。賊を捕らえた後、賊は逆に通行人を盗賊だと誣告した。日が暮れかかっており、母も通行人もどちらが本当か分からず、ともに役所に送られた。苻融はこれを見て笑い、「これは簡単に分かる。二人に並んで走らせ、先に鳳陽門を出た者が盗賊ではない。」走らせた後、戻って来ると、苻融は厳しい顔で後から出て来た者に言った。「お前が本当の盗賊だ。どうして人を誣告するのか!」悪事を暴き隠れた事実を摘発するのは、すべてこのようなものであった。任地では盗賊が止み、路上に落ちているものを拾う者もいなかった。苻堅や朝臣たちはみな感服し、州郡の疑わしい訴訟はすべて苻融に判断を委ねた。苻融は顔色や様子を観察し、その情状をことごとく明らかにした。関東を鎮守していても、朝廷の大事はすべて駅伝で苻融と協議した。

原文後為司隸校尉。京兆人董豐遊學三年而返,過宿妻家,是夜妻為賊所殺。妻兄疑豐殺之,送豐有司。豐不堪楚掠,誣引殺妻。融察而疑之,問曰:「汝行往還,頗有怪異及卜筮以不?」豐曰:「初將發,夜夢乘馬南渡水,返而北渡,復自北而南,馬停水中,鞭策不去。俯而視之,見兩日在於水下,馬左白而濕,右黑而燥。寤而心悸,竊以為不祥。還之夜,復夢如初,問之筮者,筮者云:'憂獄訟,遠三枕,避三沐。'既至,妻為具沐,夜授豐枕。豐記筮者之言,皆不從之。妻乃自沐,枕枕而寢。」融曰:「吾知之矣。《周易》《坎》為水,馬為《離》,夢乘馬南渡,旋北而南者,從《坎》之《離》。三爻同變,變而成《離》。《離》為中女,《坎》為中男。兩日,二夫之象。《坎》為執法吏。吏詰其夫,婦人被流血而死。《坎》二陰一陽,《離》二陽一陰,相承易位。《離》下《坎》上,《既濟》,文王遇之囚牖裏,有禮而生,無禮而死。馬左而濕,濕,水也,左水右馬,馮字也。兩日,昌字也。其馮昌殺之乎!」於是推檢,獲昌而詰之,昌具首服,曰:「本與其妻謀殺董豐,期以新沐枕枕為驗,是以誤中婦人。」在冀州,有老母遇劫于路,母揚聲唱盜,行人為母逐之。既擒劫者,劫者返誣行人為盜。時日垂暮,母及路人莫知孰是,乃俱送之。融見而笑曰:「此易知耳,可二人並走,先出鳳陽門者非盜。」既而還入,融正色謂後出者曰:「汝真是盜,何以誣人!」其發奸摘伏,皆此類也。所在盜賊止息,路不拾遺。堅及朝臣雅皆嘆服,州郡疑獄莫不折之於融。融觀色察形,無不盡其情狀。雖鎮關東,朝之大事靡不馳驛與融議之。

性格は非常に孝行であり、初めて冀州に着任した時、使者を遣わして母の安否を問わせ、日に二、三度に及ぶこともあった。苻堅は煩わしいと思い、一月に一度の使者を許した。後に上疏して帰郷して母に仕え養うことを請うたが、苻堅は使者を遣わして慰め諭し、許さなかった。しばらくして、侍中、中書監、都督中外諸軍事、車騎大将軍、司隸校尉、太子太傅、宗正を兼ね、尚書事を録するよう召し出された。まもなく司徒に転じたが、苻融は苦労して辞退し受けなかった。苻融は将帥として謀略に優れ、施しを好み士を愛し、一方を専任して征伐すれば、必ず特別な功績を挙げた。

原文性至孝,初屆冀州,遣使參問其母動止,或日有再三。堅以為煩,月聽一使。後上疏請還侍養,堅遣使慰喻不許。久之,徵拜侍中、中書監、都督中外諸軍事、車騎大將軍、司隸校尉、太子太傅、領宗正、錄尚書事。俄轉司徒,融苦讓不受。融為將善謀略,好施愛士,專方征伐,必有殊功。

苻堅がすでに荊州・揚州(江南)に意を向けると、慕容垂や姚萇らは常に苻堅に呉を平定して封禅を行うことを勧めた。苻堅は江東を平定できると考え、寝る間も惜しんだ。苻融は毎回諫めて言った。「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず。兵力を尽くし武力を極めれば、滅びないものはありません。しかも我が国は戎族です。正統の暦は決して我々に帰するものではありません。江東は糸のようにかすかではありますが、天がこれを助けているので、結局滅ぼすことはできません。」苻堅は言った。「帝王の天命に常があるだろうか、ただ徳のある者に授かるだけだ。お前が私に及ばないのは、まさにこの変通と大運を理解しない点にある。劉禅は漢の遺業とは言えないが、結局は中国に併合された。私はお前に天下の事を任せようとしているのに、どうして事ごとに私を挫き、大事な計画を台無しにするのか。お前でさえこうなのだから、ましてや他の者たちはどうだろうか!」苻堅が侵攻しようとした時、苻融はまた切々と諫めて言った。「陛下は鮮卑や羌の虜の諂いお世辞の言葉を信じ、良家の少年たちの口先だけの意見を採用されています。臣は、成功しないだけでなく、大事も失われるのではないかと恐れます。慕容垂や姚萇は皆、我が国の仇敵であり、変事の起こるのを聞き、それに乗じてその凶悪な本性を発揮しようと望んでいます。少年たちは皆、裕福な子弟で、軍旅に関わることを望まず、ただ陛下の意に沿うために巧言で諂う言葉を述べているだけで、採用に値しません。」苻堅は聞き入れなかった。淮南での敗北と、慕容垂や姚萇の反乱の後、苻堅の悔恨はますます深まった。

原文堅既有意荊、揚,時慕容垂、姚萇等常說堅以平吳封禪之事,堅謂江東可平,寢不暇旦。融每諫曰:「知足不辱,知止不殆,窮兵極武,未有不亡。且國家,戎族也,正朔會不歸人。江東雖不絕如綖,然天之所相,終不可滅。」堅曰:「帝王歷數豈有常哉,惟德之所授耳!汝所以不如吾者,正病此不達變通大運。劉禪可非漢之遺祚,然終為中國之所並。吾將任汝以天下之事,奈何事事折吾,沮壞大謀!汝尚如此,況於眾乎!」堅之將入寇也,融又切切諫曰:「陛下聽信鮮卑、羌虜諂諛之言,採納良家少年利口之說,臣恐非但無成,亦大事去矣。垂、萇皆我之仇敵,思聞風塵之變,冀因之以逞其凶德。少年等皆富足子弟,希關軍旅,苟說佞諂之言,以會陛下之意,不足采也。」堅弗納。及淮南之敗,垂、萇之叛,堅悼恨彌深。

苻朗

原文苻朗

苻朗は、字を元達といい、苻堅の従兄の子である。性格は寛大で、気品が高く爽やかであり、幼い頃から遠大な志を抱き、当世の栄誉を顧みなかった。苻堅はかつて彼を見て「我が家の千里駒だ」と言った。鎮東将軍、青州刺史に任命され、楽安男に封ぜられたが、やむを得ず起きて官に就いた。地方長官となっても、まるで在野の士人のようであり、経書典籍に耽溺し、手から本を離さず、虚無や玄理を談じるたびに、日が暮れるのも忘れ、山水に登り跋渉するたびに、老いが迫るのも知らなかった。在任中は非常に称賛される実績を挙げた。

原文苻朗,字元達,堅之從兄子也。性宏達,神氣爽邁,幼懷遠操,不屑時榮。堅嘗目之曰:「吾家千里駒也。」徵拜鎮東將軍、青州刺史,封樂安男,不得已起而就官。及為方伯,有若素士,耽玩經籍,手不釋卷,每談虛語玄,不覺日之將夕;登涉山水,不知老之將至。在任甚有稱績。

後晋が淮陰太守の高素を派遣して青州を討伐すると、朗は使者を彭城の謝玄のもとに派遣して降伏を求め、謝玄は朗を許すよう上表し、詔により員外散騎侍郎を加えられた。揚州に到着すると、その風流は一時を超え、超然として自得し、志は万物を凌ぎ、悟りを語り合う相手は、わずか一、二人に過ぎなかった。驃騎長史の王忱は、江東の俊秀であったが、朗のことを聞いて訪ねてきたが、朗は病気と称して会わなかった。沙門の釈法汰が朗に尋ねた。「王吏部兄弟にお会いになりましたか?」朗は答えた。「吏部とは誰のことか?人面で狗心、あるいは狗面で人心の兄弟のことではないか?」王忱は醜いが才知に優れ、兄の国宝は美貌だが才は弟に劣っていたので、朗はそう言ったのである。法汰は茫然自失した。彼が物事に逆らい人を侮辱するのは、皆この類いであった。

原文後晉遣淮陰太守高素伐青州,朗遣使詣謝玄于彭城求降,玄表朗許之,詔加員外散騎侍郎。既至揚州,風流邁于一時,超然自得,志陵萬物,所與悟言,不過一二人而已。驃騎長史王忱,江東之俊秀,聞而詣之,朗稱疾不見。沙門釋法汰問朗曰:「見王吏部兄弟未?」朗曰:「吏部為誰?非人面而狗心、狗面而人心兄弟者乎?」王忱醜而才慧,國寶美貌而才劣于弟,故朗雲然。汰悵然自失。其忤物侮人,皆此類也。

謝安はしばしば宴を設けて朗を招き、朝士が座席を埋め、机や敷物、壺や席が並べられた。朗は何事につけても彼らを見下そうとし、唾を吐くときは子供に跪ひざまずかせて口を開けさせ、唾を吐き入れて含ませて出させ、しばらくしてまた同じことをしたので、座っている者たちは到底及ばないと思った。また味覚に優れ、塩味や酢、肉の違いもすべて見分けることができた。会稽王の司馬道子が朗のために盛大な饗宴を設け、江左の精緻な料理を極めた。食事が終わると、道子が尋ねた。「関中の食事はこれに比べてどうか?」朗は答えた。「どれも良いが、塩味が少し生じているだけです。」調理人に尋ねてみると、すべて彼の言う通りであった。ある人が鶏を殺して食べさせようとしたが、出されると、朗は言った。「この鶏はいつも半分外にいる。」調べてみると、すべて的中していた。また鵞鳥の肉を食べて、黒白の部分を知った。人々は信じず、記録して試してみると、微塵の違いもなかった。当時の人々は皆、彼が味を知っていると思った。

原文謝安常設宴請之,朝士盈坐,並機褥壺席。朗每事欲誇之,唾則令小兒跪而張口,既唾而含出,頃復如之,坐者為不及之遠也。又善識味,咸酢及肉皆別所由。會稽王司馬道子為朗設盛饌,極江左精肴。食訖,問曰:「關中之食孰若此?」答曰:「皆好,惟鹽味小生耳。」既問宰夫,皆如其言。或人殺雞以食之,既進,朗曰:「此雞棲恆半露。」檢之,皆驗。又食鵝肉,知黑白之處。人不信,記而試之,無豪厘之差。時人咸以為知味。

数年後、王國宝が讒言して朗を殺させた。王忱が荊州刺史になろうとしたが、朗を殺してから出発しようとした。刑に臨んで、朗は志と顔色を自若とし、詩を作った。「四大(地水火風)は何の因縁で起こるのか?聚散は果てしなく続く。既に一生を過ぎ、また一つの死の理に入る。心を冥して和暢に乗じ、終わりと始まりがあるとは覚えない。どうして箕山の夫(許由)のように、突然東市に処せられるのか!この百年の期を空しくし、遠く嵇叔子(嵇康)と同じくする。命は天より帰す、委ねて化するに冥紀に任せよ。」数十篇の『苻子』を著して世に行われ、これも『老子』『荘子』の流れである。

原文後數年,王國寶譖而殺之。王忱將為荊州刺史,待殺朗而後發。臨刑,志色自若,為詩曰:「四大起何因?聚散無窮已。既過一生中,又入一死理。冥心乘和暢,未覺有終始。如何箕山夫,奄焉處東市!曠此百年期,遠同嵇叔子。命也歸自天,委化任冥紀。」著《苻子》數十篇行於世,亦《老》《莊》之流也。