晉書

卷一百十二 載記第十二

卷一百十二 載記第十二

晉書

原文晉書

卷一百十二 載記第十二

原文卷一百十二 載記第十二 ► 卷一百十三

苻洪

原文苻洪

苻洪は、字あざなを廣世といい、略陽郡臨渭県の氐人である。その先祖は有扈氏の末裔であり、代々西戎の酋長を務めていた。初め、彼の家の池に蒲が生え、長さ五丈、五節あり竹のような形をしていたため、当時の人々はみな蒲家と呼び、これによって氏とした。父の懷歸は、部落の小帥であった。以前、隴右で大雨が降り、百姓はこれを苦しみ、謡に「雨が止まなければ、洪水が必ず起こる」と言った。それゆえ、名を洪とした。施しを好み、権謀術数に長け、勇猛で武に優れ、騎射を得意とした。永嘉の乱の時勢に乗じ、千金をばらまき、英傑の士を召し集めて、安危変通の術を訪ねた。同族の蒲光、蒲突は洪を推して盟主とした。劉曜りゅうようが長安ちょうあんで帝号を僭称すると、光らは洪を脅迫して劉曜に帰順させ、率義侯に任じた。劉曜が敗れると、洪は西に隴山を守った。石季龍せききりゅうが上邽を攻めようとした時、洪はまた降伏を請うた。季龍は大いに喜び、冠軍将軍に任じ、西方の事を委ねた。季龍が石生を滅ぼすと、洪は季龍に、関中の豪傑や羌戎を移して京師を充実させるべきだと説いた。季龍はこれに従い、洪を龍驤将軍、流人都督とし、枋頭ほうとうに駐屯させた。戦功を重ね、西平郡公に封ぜられ、その部下で関内侯の爵位を賜った者は二千余人に及び、洪は関内領侯将となった。冉閔ぜんびんが季龍に言うには、「苻洪は雄大で果断であり、その諸子も並みの才能ではない。密かに除くべきです」と。季龍はますます厚く遇した。石遵が即位すると、冉閔がまたこのことを言上したので、遵は洪の都督の職を解いたが、その他は以前の通りとした。洪はこれを怨み、使者を遣わして晉に降った。後に石鑒が遵を殺すと、各地で兵が起こり、洪は十数万の兵を擁するようになった。

原文苻洪,字廣世,略陽臨渭氐人也。其先蓋有扈之苗裔,世為西戎酋長。始其家池中蒲生,長五丈,五節如竹形,時咸謂之蒲家,因以為氏焉。父懷歸,部落小帥。先是,隴右大雨,百姓苦之,謠曰:「雨若不止,洪水必起。」故因名曰洪。好施,多權略,驍武善騎射。屬永嘉之亂,乃散千金,召英傑之士訪安危變通之術。宗人蒲光、蒲突遂推洪為盟主。劉曜僭號長安,光等逼洪歸曜,拜率義侯。曜敗,洪西保隴山。石季龍將攻上邽,洪又請降。季龍大悅,拜冠軍將軍,委以西方之事。季龍滅石生,洪說季龍宜徙關中豪傑及羌戎內實京師。季龍從之,以洪為龍驤將軍、流人都督,處於枋頭。累有戰功,封西平郡公,其部下賜爵關內侯者二千餘人,以洪為關內領侯將。冉閔言于季龍曰:「苻洪雄果,其諸子並非常才,宜密除之。」季龍待之愈厚。及石遵即位,閔又以為言,遵乃去洪都督,余如前。洪怨之,乃遣使降晉。後石鑒殺遵,所在兵起,洪有眾十餘萬。

永和六年、帝は洪を征北大将軍、都督河北諸軍事、冀州刺史しし、廣川郡公とした。時に洪に尊号を称するよう勧める者がおり、洪もまた讖文に「草付応王」とあり、さらにその孫の堅の背に「草付」の字があったため、遂に姓を苻氏に改め、自ら大将軍、大単于、三秦王を称した。洪は博士の胡文に言った。「孤は十万の兵を率い、形勝の地に居る。冉閔、慕容俊は指呼の間に殄滅でき、姚襄ようじょう父子も我が手中にある。孤が天下を取るのは、漢の高祖よりも易しい。」初め、季龍は麻秋を枹罕ほうかんに鎮守させていたが、冉閔の乱の際、秋は鄴に帰った。洪は子の雄を遣わしてこれを撃ち捕らえ、秋を軍師将軍とした。秋は洪に西の長安に都すべきだと勧め、洪は深くこれに同意した。その後、秋は宴席で洪に毒を盛り、その兵を併せようとしたが、世子の健がこれを捕らえて斬った。洪は死に臨んで健に言った。「未だに関中に入らなかったのは、中州は指呼の間に平定できると言ったからだ。今、小僧に窮地に陥れられ、中原はお前たち兄弟の力でできることではない。関中は形勝の地である。私が死んだ後、すぐに軍を進めて西に向かえ。」言い終わって死んだ。六十六歳。健が帝位を僭称し、偽の諡を恵武帝とした。

原文永和六年,帝以洪為征北大將軍、都督河北諸軍事、冀州刺史、廣川郡公。時有說洪稱尊號者,洪亦以讖文有「草付應王」,又其孫堅背有「草付」字,遂改姓苻氏,自稱大將軍、大單于、三秦王。洪謂博士胡文曰:「孤率眾十萬,居形勝之地,冉閔、慕容俊可指辰而殄,姚襄父子克之在吾數中,孤取天下,有易於漢祖。」初,季龍以麻秋鎮枹罕,冉閔之亂,秋歸鄴,洪使子雄擊而獲之,以秋為軍師將軍。秋說洪西都長安,洪深然之。既而秋因宴鴆洪,將並其眾,世子健收而斬之。洪將死,謂健曰:「所以未入關者,言中州可指時而定。今見困豎子,中原非汝兄弟所能辦。關中形勝,吾亡後便可鼓行而西。」言終而死,年六十六。健僭位,偽諡惠武帝。

苻健ふけん

原文苻健

苻健は、字を建業といい、洪の第三子である。初め、母の薑氏が大羆の夢を見て妊娠し、成長すると、勇猛果断で弓馬に長け、施しを好み、人に仕えることを善くし、石季龍父子に非常に親愛された。季龍は表向きは苻氏を礼遇したが、内心は忌み嫌い、密かにその諸兄を殺害したが、健には害を加えなかった。洪の死後、健が後を継ぎ、秦王の称号を廃し、晉の爵位を称し、使者を遣わして京師に喪を告げ、王命に従った。

原文苻健,字建業,洪第三子也。初,母薑氏夢大羆而孕之,及長,勇果便弓馬,好施,善事人,甚為石季龍父子所親愛。季龍雖外禮苻氏,心實忌之,乃陰殺其諸兄,而不害健也。及洪死,健嗣位,去秦王之號,稱晉爵,遣使告喪于京師,且聽王命。

当時、京兆の杜洪が長安を窃拠し、自ら晉の征北将軍、雍州刺史を称し、戎夏の多くがこれに帰した。健は密かに関中を図ったが、洪に知られるのを恐れ、偽って石祗の官職を受け、枋頭に宮室を造営し、配下に麦を植えさせ、西進の意思がないことを示した。知っていながら植えない者がいれば、健はこれを殺して見せしめにした。その後、自ら晉の征西大将軍、都督関中諸軍事、雍州刺史を称し、全軍を率いて西進し、盟津に浮橋を架けて渡河した。弟の雄に歩騎五千を率いさせて潼関に入らせ、兄の子の菁に軹関から河東に入らせた。健は菁の手を握って言った。「事がうまくいかなければ、お前は河北で死に、私は河南で死のう。黄泉に至るまで、会うことはない。」渡河後、橋を焼き、自ら大軍を率いて雄の後を追って進軍した。杜洪はその将の張先を遣わして潼関で健を迎え撃たせたが、健は逆襲してこれを破った。健は戦いに勝ったが、なおも洪に書簡を送り、名馬珍宝を贈って、長安に赴き尊号を奉るよう請うた。洪は言った。「贈り物が重く言葉が甘いのは、私を誘い出すためだ。」そこで関中の兵を全て召集して迎え撃った。健が占うと、『泰』の卦が『臨』の卦に変じた。健は言った。「小が往き大が来る、吉にして亨る。昔は東に行って小となり、今は西に還って大となる。これ以上の吉はない!」この時、多くの星が黄河の西に沿って流れ、占う者はこれを百姓が西に還る象と見た。健は進軍し、赤水に駐屯し、雄を遣わして渭北の地を攻略させ、さらに陰槃で張先を破り、これを捕らえた。諸城はことごとく陥落し、菁の到るところで降伏しない者はなく、三輔はほぼ平定された。健は兵を率いて長安に至り、洪は司竹に奔った。健は入城してここを都とし、使者を遣わして京師に勝利を献上し、また桓溫と友好を結んだ。

原文時京兆杜洪竊據長安,自稱晉征北將軍、雍州刺史,戎夏多歸之。健密圖關中,懼洪知之,乃偽受石祗官,繕宮室於枋頭,課所部種麥,示無西意,有知而不種者,健殺之以徇。既而自稱晉征西大將軍、都督關中諸軍事、雍州刺史,盡眾西行,起浮橋於盟津以濟。遣其弟雄率步騎五千入潼關,兄子菁自軹關入河東。健執菁手曰:「事若不捷,汝死河北,我死河南,不及黃泉,無相見也。」既濟,焚橋,自統大眾繼雄而進。杜洪遣其將張先要健於潼關,健逆擊破之。健雖戰勝,猶修箋于洪,並送名馬珍寶,請至長安上尊號。洪曰:「幣重言甘,誘我也。」乃盡召關中之眾來距。健筮之,遇《泰》之《臨》,健曰:「小往大來,吉亨。昔往東而小,今還西而大,吉孰大焉!」是時眾星夾河西流,占者以為百姓還西之象。健遂進軍,次赤水,遣雄略地渭北,又敗張先于陰槃,擒之,諸城盡陷,菁所至無不降者,三輔略定。健引兵至長安,洪奔司竹。健入而都之,遣使獻捷京師,並修好于桓溫。

健の軍師将軍賈玄碩らが健を侍中、大都督関中諸軍事、大単于、秦王に上表した。健は怒って言った。「我が官位の軽重は、お前たちの知るところではない。」その後、密かに人を遣わして玄碩らに尊号を奉るようそそのかさせた。永和七年、天王、大単于を僭称し、境内の死罪を赦し、元号を皇始と建て、宗廟社稷を造営し、長安に百官を置いた。妻の強氏を天王皇后とし、子の萇を天王皇太子とし、弟の雄を丞相、都督中外諸軍事、車騎大将軍、領雍州刺史とし、その他はそれぞれ封授した。

原文健軍師將軍賈玄碩等表健為侍中、大都督關中諸軍事、大單于、秦王,健怒曰:「我官位輕重,非若等所知。」既而潛使諷玄碩等使上尊號。永和七年,僭稱天王、大單于,赦境內死罪,建元皇始,繕宗廟社稷,置百官于長安。立妻強氏為天王皇后,子萇為天王皇太子,弟雄為丞相、都督中外諸軍事、車騎大將軍、領雍州刺史,自余封授各有差。

初め、杜洪が敗走した時、晉の梁州刺史司馬勳を招いた。この時、勳は歩騎三万を率いて秦川に入ったが、健は五丈原でこれを破った。

原文初,杜洪之奔也,招晉梁州刺史司馬勳。至是,勳率步騎三萬入秦川,健敗之于五丈原。

八年、健は太極前殿で皇帝の位に即き、諸公は王に進められ、大単于の位をその子の萇に授けた。

原文八年,健僭即皇帝位於太極前殿,諸公進為王,以大單于授其子萇。

杜洪は宜秋に駐屯していたが、その将の張琚に殺され、琚は自ら秦王を称し、百官を置いた。健は歩騎二万を率いて琚を攻め、その首を斬った。健は宜秋から帰還し、雄と菁を遣わして兵を率いさせ関東を掠め、また石季龍の豫州刺史張遇を許昌きょしょうで救援し、晉の鎮西将軍謝尚と潁水のほとりで戦い、王師は敗北した。雄は勝ちに乗じて敗走する敵を追撃し、壘門に至り、敵の大半を殺傷し、遂に張遇とその兵を捕虜として長安に帰還させ、遇を司空しくう、豫州刺史に任じ、許昌に鎮守させた。雄は隴上で王擢を攻め、擢は涼州に奔り、雄は隴東に駐屯した。張重華ちょうじゅうかは擢を征東大将軍に任じ、その将の張弘、宋修と連合して雄を討伐させた。雄と菁は兵を率いてこれを撃破し、弘と修を捕らえて長安に送った。

原文杜洪屯宜秋,為其將張琚所殺,琚自立為秦王,置百官。健率步騎二萬攻琚,斬其首。健至自宜秋,遣雄、菁率眾掠關東,並援石季龍豫州刺史張遇于許昌,與晉鎮西將軍謝尚戰于潁水之上,王師敗績。雄乘勝逐北,至於壘門,殺傷太半,遂虜遇及其眾歸於長安,拜遇司空、豫州刺史,鎮許昌。雄攻王擢於隴上,擢奔涼州,雄屯隴東。張重華拜擢征東大將軍,使與其將張弘、宋修連兵伐雄。雄與菁率眾擊敗之,獲弘、修送長安。

初め、張遇が許昌から降伏してきた時、健は遇の継母の韓氏を昭儀として娶り、しばしば人々の前で遇に言った。「卿は、我が子である。」遇は恥じ恨み、関中の諸将を引き連れて雍州を晉に帰順させようとし、健の中黄門劉晃と謀って夜襲を計画したが、事が発覚し、殺害された。そこで孔特が池陽で、劉珍、夏侯顯が鄠で、喬景が雍で、胡陽赤が司竹で、呼延毒が霸城で挙兵し、数万人の兵を集め、いずれも使者を遣わして征西将軍桓溫、中軍将軍殷浩いんこうに救援を請うた。

原文初,張遇自許昌來降,健納遇後母韓氏為昭儀,每於眾中謂遇曰:「卿,吾子也。」遇慚恨,引關中諸將欲以雍州歸順,乃與健中黃門劉晃謀夜襲健,事覺,遇害。於是孔特起池陽,劉珍、夏侯顯起鄠,喬景起雍,胡陽赤起司竹,呼延毒起霸城,眾數萬人,並遣使詣征西桓溫、中軍殷浩請救。

雄は菁を遣わして上洛郡を掠めさせ、豊陽県に荊州を設置し、南方の金銀財宝、弓の材料となる竹や漆、蠟などを引き寄せ、関市を通じて遠方の商人を招き寄せた。これによって国用は充足し、珍しい財貨が豊富に蓄積された。

原文雄遣菁掠上洛郡,于豐陽縣立荊州,以引南金奇貨、弓竿漆蠟,通關市,來遠商,於是國用充足,而異賄盈積矣。

十年、桓温かんおんは四万の兵を率いて長安へ向かい、別将を淅川に入らせ、上洛を攻めて前秦の荊州刺史郭敬を捕らえ、司馬勲に命じて西の辺境を略奪させた。苻健は子の苻萇に苻雄・苻菁ら五万の兵を率いさせ、堯柳城・愁思堆で桓温を防がせた。桓温は転戦しながら前進し、灞上に駐屯し、苻萇らは城南に退いて陣を布いた。苻健は弱兵六千で長安の小城を固守し、精鋭三万を遊撃軍として桓温に対抗させた。三輔の郡県は多く桓温に降った。苻健は別に苻雄に騎兵七千を率いさせ、桓沖と白鹿原で戦い、晋軍を破り、また子午穀で司馬勲を撃破した。当初、苻健は桓温が来ると聞き、麦を収穫し野を清らかにしてこれを待ったため、桓温の軍は大いに飢えた。この時、桓温は関中の三千余戸を移して帰還した。潼関に至ると、また苻萇らに敗れ、司馬勲は漢中へ逃げ帰った。

原文十年,溫率眾四萬趨長安,遣別將入淅川,攻上洛,執健荊州刺史郭敬,而遣司馬勳掠西鄙。健遣其子萇率雄、菁等眾五萬,距溫于堯柳城、愁思堆。溫轉戰而前,次於灞上,萇等退營城南。健以羸兵六千固守長安小城,遣精銳三萬為遊軍以距溫。三輔郡縣多降于溫。健別使雄領騎七千,與桓沖戰于白鹿原,王師敗績,又破司馬勳于子午穀。初,健聞溫之來也,收麥清野以待之,故溫眾大饑。至是,徙關中三千餘戶而歸。及至潼關,又為萇等所敗,司馬勳奔還漢中。

その年、西虜の乞没軍邪が子を入侍させたので、苻健は平朔門に来賓館を設置して遠方の人々を懐柔した。杜門に霊台を築いた。百姓と法三章を約し、租税を軽くし宮殿を質素にし、政事に心を砕き、老人を優遇し礼を尽くし、儒学を尊尚したので、関右では蘇生が訪れたと称された。

原文其年,西虜乞沒軍邪遣子入侍,健於是置來賓館于平朔門以懷遠人。起靈台于杜門。與百姓約法三章,薄賦卑宮,垂心政事,優禮耆老,修尚儒學,而關右稱來蘇焉。

新平に長身の人物が現れ、百姓の張靖に言った。「苻氏は天の応を受けて天命を受け、今太平となるべきであり、外にいる者は中央に帰れば安泰となる。」姓名を尋ねても答えず、間もなく見えなくなった。新平県令がこれを報告すると、苻健は妖言であるとして張靖を獄に下した。折しも大雨が続き、黄河・渭水が氾濫し、蒲津監の冠登が黄河で一隻の履き物を得た。長さ七尺三寸、人の足跡に相当し、指の跡は一尺余り、文様の深さは一寸であった。苻健は嘆いて言った。「天地の間にないものはない。張靖が見たのはきっと虚妄ではない。」彼を赦した。蝗害が大発生し、華沢から隴山まで、百草を食い尽くして残さなかった。牛馬は互いの毛を食い、猛獣や狼が人を食い、往来は途絶えた。苻健は自ら百姓の租税を免除し、食事を減らし楽器を撤去し、質素な服装で正殿を避けた。

原文新平有長人見,語百姓張靖曰:「苻氏應天受命,今當太平,外面者歸中而安泰。」問姓名,弗答,俄而不見。新平令以聞,健以為妖,下靖獄。會大雨霖,河、渭溢,蒲津監冠登得一屐於河,長七盡三寸,人跡稱之,指長尺餘,文深一寸。健歎曰:「覆載之中何所不有,張靖所見定不虛也。」赦之。蝗蟲大起,自華澤至隴山,食百草無遺。牛馬相噉毛,猛獸及狼食人,行路斷絕。健自蠲百姓租稅,減膳撤懸,素服避正殿。

当初、桓温が関中に入った時、太子の苻萇は桓温と戦い、流れ矢に当たって死んだ。この時、その子の苻生を太子に立てた。苻健が病床に伏すと、苻菁が兵を率いて東宮に入り、苻生を殺して自立しようとした。当時苻生は苻健の看病をしており、苻菁は苻健が死んだと思い、引き返して東掖門を攻撃した。苻健は変事を聞き、端門に登って兵を並べると、兵士たちは皆武器を捨てて逃げ散り、苻菁を捕らえて殺した。数日後、苻健は死去した。時に三十九歳、在位四年であった。偽の諡号は明皇帝、廟号は世宗、後に高祖と改められた。

原文初,桓溫之入關也,其太子萇與溫戰,為流矢所中死。至是,立其子生為太子。健寢疾,菁勒兵入東宮,將殺苻生自立。時生侍健疾,菁以健為死,回攻東掖門。健聞變,升端門陳兵,眾皆舍杖逃散,執菁殺之。數日,健死,時年三十九,在位四年。偽諡明皇帝,廟號世宗,後改曰高祖。

苻健の第三子 苻生

原文健第三子 生

苻生は字を長生といい、苻健の第三子である。幼い頃から無頼で、祖父の苻洪はひどく嫌った。苻生は片目がなく、子供の頃、苻洪がからかって侍者に尋ねた。「片目の子供は涙が一つしか出ないと聞くが、本当か?」侍者が「そうです」と答えると、苻生は怒って佩刀を抜き自ら刺して血を流し、「これも一つの涙だ」と言った。苻洪は大いに驚き、鞭で打った。苻生は言った。「刃や矛には耐えられるが、鞭や杖には耐えられない。」苻洪が「お前がそんなことを続けるなら、お前を奴隷にするぞ」と言うと、苻生は「石勒せきろくには及ばないでしょう」と言った。苻洪は恐れ、裸足で彼の口を押さえ、苻健に言った。「この子は狂暴だ。早く除くべきだ。さもなければ、成長すれば必ず家を滅ぼすだろう。」苻健が殺そうとすると、苻雄が止めて言った。「子供は成長すれば自ら改めるでしょう。どうして今すぐそんなことをする必要がありますか!」苻健はやめた。成長すると、千鈞の重さを持ち上げる力を持ち、勇猛で殺戮を好み、素手で猛獣と格闘し、駆ける速さは奔馬に及び、撃刺や騎射は当代随一であった。桓温が討伐に来た時、苻生は単騎で敵陣に突入し、旗を奪い将を斬ることを前後十数回行った。

原文生字長生,健第三子也。幼而無賴,祖洪甚惡之。生無一目,為兒童時,洪戲之,問侍者曰:「吾聞瞎兒一淚,信乎?」侍者曰:「然。」生怒,引佩刀自刺出血,曰:「此亦一淚也。」洪大驚,鞭之。生曰:「性耐刀槊,不堪鞭捶。」洪曰:「汝為爾不已,吾將以汝為奴。」生曰:「可不如石勒也。」洪懼,跣而掩其口,謂健曰:「此兒狂勃,宜早除之,不然,長大必破人家。」健將殺之,雄止之曰:「兒長成自當修改,何至便可如此!」健乃止。及長,力舉千鈞,雄勇好殺,手格猛獸,走及奔馬,擊刺騎射,冠絕一時。桓溫之來伐也,生單馬入陣,搴旗斬將者前後十數。

苻萇が死んだ後、苻健は讖言の「三羊五眼」が符に応じると考え、彼を太子に立てた。苻健が没すると、皇帝の位を僭称して即位し、境内で大赦を行い、年号を寿光と改めた。時は永和十二年である。母の強氏を皇太后と尊び、妻の梁氏を皇后に立てた。呂婆楼を侍中・左大将軍とし、苻安に太尉たいいを兼任させ、苻柳を征東大将軍・并州牧として蒲阪に鎮守させ、苻謏を鎮東大将軍・豫州牧として陝城に鎮守させ、その他もそれぞれ封爵・任命した。

原文萇既死,健以讖言三羊五眼應符,故立為太子。健卒,僭即皇帝位,大赦境內,改年壽光,時永和十二年也。尊其母強氏為皇太后,立妻梁氏為皇后。以呂婆樓為侍中、左大將軍,苻安領太尉,苻柳為征東大將軍、并州牧,鎮蒲阪,苻謏為鎮東大將軍、豫州牧,鎮陝城,自余封授有差。

当初、苻生の部将の強懐が桓温と戦って戦死し、その子の強延は封を受けないうちに苻健が死んだ。折しも苻生が外出した時、強懐の妻の樊氏が道で上書し、強懐の忠烈を論じてその子の封を請うた。苻生は怒り、弓で射て殺した。偽の中書監胡文と中書令王魚が苻生に言った。「近頃頻繁に客星が大角星付近で光り、熒惑星が東井に入りました。大角星は帝座、東井は秦の分野です。占いによれば、三年以内に国に大喪があり、大臣が誅殺されます。願わくば陛下には周の文王を遠く追慕し、徳を修めてこれを祓い、群臣に恵みと和をもたらし、康哉の美を成し遂げられますように。」苻生は言った。「皇后と朕が天下に臨めば、大喪の変事も十分に塞げる。毛太傅・梁車騎・梁僕射ぼくやは遺命を受けて政を補佐する、まさに大臣と言えよう。」そこで妻の梁皇后と太傅毛貴、車騎将軍・尚書しょうしょ令梁楞、左僕射梁安を殺した。間もなく、また侍中・丞相の雷弱児とその九人の子、二十七人の孫を誅殺した。諸羌は全て叛いた。雷弱児は南安の羌の酋長で、剛直で直言を好み、苻生の寵臣趙韶・董栄が政を乱すのを見て、常に朝廷で大声で言ったため、董栄らが讒言して誅殺したのである。

原文初,生將強懷與桓溫戰沒,其子延未及封而健死。會生出遊,懷妻樊氏于道上書,論懷忠烈,請封其子。生怒,射而殺之。偽中書監胡文、中書令王魚言於生曰:「比頻有客星孛於大角,熒惑入于東井。大角為帝坐,東井秦之分野,於占,不出三年,國有大喪,大臣戮死。願陛下遠追周文,修德以禳之,惠和群臣,以成康哉之美。」生曰:「皇后與朕對臨天下,亦足發塞大喪之變。毛太傅、梁車騎、梁僕射受遺輔政,可謂大臣也。」於是殺其妻梁氏及太傅毛貴,車騎、尚書令梁楞,左僕射梁安。未凡,又誅侍中、丞相雷弱兒及其九子、二十七孫。諸羌悉叛。弱兒,南安羌酋也,剛鯁好直言,見生嬖臣趙韶、董榮亂政,每大言於朝,故榮等譖而誅之。

苻生は喪中にあったが、遊興や酒宴を自らのままにし、淫虐に耽り、無道な殺戮を行い、常に弓を引き刃を露わにして朝臣に会い、槌・鉗・鋸・鑿を左右に備えさせた。また董栄の言葉を容れ、司空の王墮を誅殺して日蝕の災いに応じた。太極前殿で群臣を饗応し、酒が酣に乗り音楽が奏でられると、苻生は自ら歌ってこれに合わせた。尚書の辛牢に酒を勧めさせたが、やがて怒って言った。「なぜ強く酒を勧めないのか?まだ座っている者がいるぞ!」弓を引いて辛牢を射殺した。これにより百官は大いに恐れ、杯を干して昏酔せぬ者はなく、衣服を汚し冠を失い、髪を振り乱して倒れ伏し、苻生はこれを楽しみとした。

原文生雖在諒闇,游飲自若,荒耽淫虐,殺戮無道,常彎弓露刃以見朝臣,錘鉗鋸鑿備置左右。又納董榮之言,誅其司空王墮以應日蝕之災。饗群臣於太極前殿,飲酣樂奏,生親歌以和之。命其尚書辛牢典勸,既而怒曰:「何不強酒?猶有坐者!」引弓射牢而殺之。於是百僚大懼,無不引滿昏醉,汙服失冠,蓬頭僵僕,生以為樂。

張祚が殺害され、張玄靚が幼少であると聞き、苻生は征東将軍苻柳の参軍である閻負と梁殊を涼州に派遣し、書簡をもって説得させた。閻負と梁殊が姑臧こぞうに到着すると、張玄靚は幼かったため、彼らに面会しなかった。涼州牧の張瓘が閻負と梁殊に言った。「わが国は代々忠節を守り、遠く大晉を尊び奉ってきた。臣下として境外との交わりはない。あなたがたは何のために来たのか。」閻負と梁殊は言った。「晉王(苻柳)が隣国としての義理と友好は、以前からあったことです。山河に阻まれていても、風は通り道は開けるもので、羊祜ようこと陸抗の二公だけが前に美名を独占することを望んではおりません。主上(苻生)は欽明をもって統治を継承し、八方の民が心を寄せ、光は四海を覆い、天地にまで及びます。晉王は張王(張玄靚)と共に大いなる光明を輝かせ、玉帛による友好を交わし、さらに君公(張瓘)とも金蘭の契りを結びたいと願い、遠くからやって来たのです。何の怪しむことがありましょうか。」張瓘は言った。「羊祜と陸抗のことは一時の事柄であり、純粋な臣下の義でもありません。わが国は六代にわたり栄光を重ね、固く忠誠を尽くして二心はありません。もし苻征東と玉帛の友好を結ぶならば、上は先公の純粋な誠意と雅なる志に背き、下は河西の地で遵奉してきた心情に反することになります。」閻負と梁殊は言った。「昔、微子が殷を去り、項伯が漢に帰順した。君主や親族に背いたとはいえ、前史は彼らの先見の明を称えています。亡晉の残党は遠く江会に逃れ、天命は彼らから去りました。それゆえ、あなたの尊父である先王(張重華)は翻然として方針を改め、北を向いて二趙(前趙・後趙)に臣従されました。これは神算が方策に囚われず、機微を見極めて行動されたからです。君公がもし河西で独自に称制しようとお考えなら、その軍勢は秦の敵ではありません。もし亡晉の遺臣として帰属しようとお考えなら、それは先君の雅なるご意志に大きく背くことになります。どうして遠くは竇融が漢に帰順した先例を追い、近くは先王が趙に帰順された事跡を述べ、末永く福祚を伝え、永遠に遠大な幸福を享受されないのですか。」張瓘は言った。「中原には信義がなく、しばしば誓約を破ります。以前に石氏(後趙)と友好を結んだが、すぐに侵攻を受けました。中国の風習は、過去のことが示す通りであり、もはや通好のことを論じるに足りません。」閻負と梁殊は言った。「三王は政治が異なり、五帝も風俗が違います。趙は奸詐が多かったが、秦は義と信を重んじます。どうして同じように論じられましょうか。張先や楊初は皆、一方で兵権を握り、王への貢ぎ物を納めませんでしたが、先帝(苻健)は将軍を命じて彼らを捕らえ、赦し難い罪を許し、爵位と封土の栄誉を加えられました。今上の御道は天地に合致し、慈愛は山海のように広大で、信義は陰陽に符合し、万物を統御することに際限がありません。二趙と比較することはできません。」張瓘は言った。「秦がもし兵力が強く盛んであるなら、自ら先に江南を取ればよい。天下は自然とすべて秦のものとなるでしょう。どうして征東将軍の命令などという屈辱的なことをする必要があるのか。」閻負と梁殊は言った。「先帝は大聖神武をもって宏大な基盤を築き、強燕(前燕)を帰順させ、八州を従わせました。主上は欽明で、その道は必ず世を隆盛にします。河西にのみ徽号が擁せられ、呉会の地に正朔が加えられていないことを慨嘆され、呉には兵を用いなければならないが、涼には義をもってできると考え、まず使者を遣わして大いなる友好を申し入れたのです。もし君公が機会を踏んで行動を起こされないなら、ただ江南の命脈を数年延ばすだけで、我が軍が西に向けて旗を返せば、涼州は保てない恐れがあります。」張瓘は言った。「私は三州を跨ぎ支配し、鎧を着た兵十万を擁し、西は崑崙の地を包み込み、東は大河(黄河)を防ぎとしている。他国を討伐するには余裕があり、ましてや自らを固守することなどたやすい。秦に何ができようか。」閻負と梁殊は言った。「貴州の険しい要害は、崤山や函谷関と比べてどうですか。五郡の民衆は、秦や雍と比べてどうですか。張琚と杜洪は趙の既成の資産を頼りに、天険の要害を占拠し、三秦の精鋭を策謀し、陸海の豊かさを借りて、精強な兵士が風のように集まり、驍騎が雲のように集まりました。自ら天下を平定でき、関中を固守できると思っていましたが、先帝が神矛を一指さすと、旗を見ただけで氷が解けるように崩れ、人々は救い主の到来を詠い、知らぬ間に主が代わりました。燕は関東を武力で睥睨していましたが、依然として地勢の道理と、逆順の理屈から、北を向いて藩属を称し、貢ぎ物は一月を過ぎずに届けました。これにより粛慎の楛矢がもたらされ、九夷の珍宝が通じ、単于は膝を屈し、名高い王たちが内属しました。弓を引く兵士は百余万に上り、太鼓を鳴らして行進し西河を渡れば、君公はどうやってこれに抵抗なさいますか。どうか先王が趙に臣従された故事を追い尊び、代々大いなる美事を享受し、秦の西の藩屏となられることをお勧めします。」張瓘は言った。「それでは秦の徳義が天下に及んでいるなら、江南はなぜ服従しないのか。」閻負と梁殊は言った。「文身の風俗を持つ者たちは、江山の険阻を頼みとし、道が穢れている時には先に叛き、教化が盛んになった後に服従する。これは古来からのことであり、今に限ったことではありません。故に『詩経』に『蠢爾蠻荊、大邦為仇(愚かなる蛮荊よ、大国を仇とす)』とあるのは、徳義をもって懐柔できないことを言っているのです。」張瓘は言った。「秦は漢の旧都を占拠し、地勢は将相を兼ね備えている。文武の輔臣で、一時の領袖となっている者は誰か。」閻負と梁殊は言った。「皇室の美しい藩屏で、忠誠は周公旦のようである者は、大司馬・武都王の苻安、征東大将軍・晉王の苻柳です。文武の才を兼ね備え、器量才能が秀で、内にあっては百官を公正に治め、外に出ては万里の敵を撃退できる者は、衛大将軍・広平王の苻黄眉、後将軍・清河王の苻法、龍驤将軍・東海王の苻堅ふけんの兄弟です。高齢で大徳があり、その徳は尚父(呂尚)に匹敵する者は、太師・録尚書事・広寧公の魚遵です。清貧で質素、剛直で厳格、骨鯁で忠貞誠実な者は、左光禄大夫の強平、金紫光禄大夫の程肱と牛夷です。博聞強記で、深遠な道理を探求する者は、中書監の胡文、中書令の王魚、黄門侍郎の李柔です。雄毅で重厚、権謀術数に方策のない者は、左衛将軍の李威、右衛将軍の苻雅です。才識が明達で、命令は行き渡り禁止は守られる者は、特進・領御史中丞の梁平老、特進・光禄大夫の強汪、侍中・尚書の呂婆楼です。文史に富み豊かで、文宗として盛んな者は、尚書右僕射の董栄、秘書監の王颺、著作郎の梁讜です。驍勇で権謀術数に長け、攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、関羽や張飛の流れをくむ、万人の敵である者は、前将軍・新興王の苻飛、建切将軍の鄧羌、立忠将軍の彭越、安遠将軍の范俱難、建武将軍の徐盛です。常伯(侍中)や納言(尚書令など)、卿校や牧守に至っては、人々は皆文武に優れ、才賢でない者はいません。その他、経世の才を抱き、時勢を補佐する謀略を秘め、南山の節操を守り、志を遂げて奪われない者は、王猛おうもうや朱肜の類で、岩谷に相望んでいます。多くの優れた人材がおり、どうして言い尽くせましょうか。姚襄や張平は一時の傑物で、それぞれ数万の兵を擁し、偏方で狼顧の念を抱いていましたが、皆、忠誠を委ね款を通じ、臣妾となることを請いました。小国が大国に仕えないことは、『春秋』が誅伐するところです。どうか君公よくお考えください。」張瓘は笑って言った。「この事は主上によって決められることで、私一人で決められることではない。」閻負と梁殊は言った。「涼王は天が英明な睿智を授けられたとはいえ、まだ幼少です。君公は伊尹や霍光のような重任にあり、安危がかかっています。機会を見る道理は、まさに君公にあります。」張瓘は新政権を補佐したばかりで、河西の各地で兵乱が起こり、秦軍の到来を恐れたため、張玄靚に言上し、使者を派遣して藩属を称させた。苻生はその自称に従って官爵を授けた。

原文生聞張祚見殺,玄靚幼沖,命其征東苻柳參軍閻負、梁殊使涼州,以書喻之。負、殊至姑臧,玄靚年幼,不見殊等。其涼州牧張瓘謂負、殊曰:「孤之本朝,世執忠節,遠宗大晉,臣無境外之交,君等何為而至?」負、殊曰:「晉王以鄰籓義好,有自來矣。雖擁阻山河,然風通道會,不欲使羊、陸二公獨美於前。主上以欽明紹統,八表宅心,光被四海,格於天地。晉王思與張王齊曜大明,交玉帛之好,兼與君公同金蘭之契,是以不遠而來,有何怪乎!」瓘曰:「羊、陸一時之事,亦非純臣之義也。本朝六世重光,固忠不貳,若與苻征東交玉帛之好者,便是上違先公純誠雅志,下乘河右遵奉之情。」負、殊曰:「昔微去殷,項伯歸漢,雖背君違親,前史美其先覺。亡晉之餘,遠逃江會,天命去之,子故尊先王翻然改圖,北面二趙,蓋神算無方,鑒機而作。君公若欲稱制河西,眾旅非秦之敵,如欲宗歸遺晉,深乖先君雅旨,孰若遠蹤竇融附漢之規,近述先王歸趙之事,垂祚無窮,永享遐祉乎?」瓘曰:「中州無信,好食誓言。往與石氏通好,旋見寇襲。中國之風,誡在昔日,不足復論通和之事也。」負、殊曰:「三王異政,五帝殊風,趙多奸詐,秦以義信,豈可同年而語哉!張先、楊初皆擅兵一方,不供王貢,先帝命將擒之,宥其難恕之罪,加以爵封之榮。今上道合二儀,慈弘山海,信符陰陽,禦物無際,不可以二趙相況也。」瓘曰:「秦若兵強化盛,自可先取江南,天下自然盡為秦有,何辱征東之命!」負、殊曰:「先帝以大聖神武,開構鴻基,強燕納款,八州順軌。主上欽明,道必隆世,慨徽號擁於河西,正朔未加吳會,以吳必須兵,涼可以義,故遣行人先申大好。如君公不能蹈機而發者,正可緩江南數年之命,回師西旆,恐涼州弗可保也。」瓘曰:「我跨據三州,帶甲十萬,西包昆域,東阻大河,伐人有餘,而況自固!秦何能為患!」負、殊曰:「貴州險塞,孰若崤、函?五郡之眾,何如秦、雍?張琚、杜洪因趙之成資,據天阻之固,策三秦之銳,藉陸海之饒,勁士風集,驍騎如雲,自謂天下可平,關中可固,先帝神矛一指,望旗冰解,人詠來蘇,不覺易主。燕雖武視關東,猶以地勢之義,逆順之理,北面稱籓,貢不逾月。致肅慎楛矢,通九夷之珍;單于屈膝,名王內附。控弦之士百有餘萬,鼓行而濟西河者,君公何以抗之?盍追遵先王臣趙故事,世享大美,為秦之西籓。」瓘曰:「然秦之德義加於天下,江南何以不賓?」負、殊曰:「文身之俗,負阻江山,道洿先叛,化盛後賓,自古而然,豈但今也!故《詩》曰:'蠢爾蠻荊,大邦為仇。'言其不可以德義懷也。」瓘曰:「秦據漢舊都,地兼將相,文武輔臣,領袖一時者誰也?」負、殊曰:「皇室懿籓,忠若公旦者,則大司馬、武都王安,征東大將軍、晉王柳;文武兼才,神器秀拔,入可允厘百工,出能折沖萬里者,衛大將軍、廣平王黃眉,後將軍、清河王法,龍驤將軍、東海王堅之兄弟;其耆年碩德,德侔尚父者,則太師、錄尚書事、廣寧公魚遵;其清素剛嚴,骨鯁貞亮,則左光祿大夫強平,金紫光祿程肱、牛夷;博聞強識,探賾索幽,則中書監胡文,中書令王魚,黃門侍郎李柔;雄毅厚重,權智無方,則左衛將軍李威,右衛將軍苻雅;才識明達,令行禁止,則特進、領御史中丞梁平老,特進、光祿大夫強汪,侍中、尚書呂婆樓;文史富贍,鬱為文宗,則尚書右僕射董榮,秘書監王颺,著作郎梁讜;驍勇多權略,攻必取,戰必勝,關、張之流,萬人之敵者,則前將軍、新興王飛,建切將軍鄧羌,立忠將軍彭越,安遠將軍范俱難,建武將軍徐盛;常伯納言,卿校牧守,則人皆文武,莫非才賢;其餘懷經世之才,蘊佐時之略,守南山之操,遂而不奪者,王猛、硃肜之倫,相望于岩穀。濟濟多士,焉可罄言!姚襄、張平一時之傑,各擁眾數萬,狼顧偏方,皆委忠獻款,請為臣妾。小不事大,《春秋》所誅,惟君公圖之。」瓘笑曰:「此事決之主上,非身所了。」負、殊曰:「涼王雖天縱英睿,然尚幼沖,君公居伊、霍之任,安危所系,見機之義,實在君公。」瓘新輔政,河西所在兵起,懼秦師之至,乃言于玄靚,遣使稱籓,生因其所稱而授之。

慕容俊が将軍の慕輿長卿らに命じ、兵七千を率いて軹関から進入させ、裴氏堡で幽州刺史の張哲を攻撃させた。晉の将軍劉度らが兵四千を率いて、盧氏で青州刺史の袁朗を攻撃した。苻生は前将軍の苻飛を派遣して晉を防がせ、建節将軍の鄧羌を派遣して燕を防がせた。苻飛が到着する前に劉度は撤退した。鄧羌は慕輿長卿と堡の南で戦い、大いにこれを破り、慕輿長卿と甲冑を着た兵士の首二千七百余りを捕らえた。

原文慕容俊遣將慕輿長卿等率眾七千入自軹關,攻幽州刺史張哲于裴氏堡。晉將軍劉度等率眾四千,攻青州刺史袁朗于盧氏。生遣其前將軍苻飛距晉,建節鄧羌距燕。飛未至而度退。羌及長卿戰于堡南,大敗之,獲長卿及甲首二千七百餘級。

姚襄が兵一万余りを率いて、匈奴堡で平陽太守の苻産を攻撃した。苻柳が救援に向かったが、姚襄に敗れ、蒲阪に引き返した。姚襄はついに堡を攻め落とし、苻産を殺し、その兵士をすべて生き埋めにした。使者を派遣して苻生に通行を仮借し、隴西に帰還しようとした。苻生は許可しようとしたが、苻堅が諫めて言った。「姚襄は人傑です。今、隴西に帰れば、必ず深い禍いとなります。厚い利益で誘い、隙をうかがって撃つ方がよいでしょう。」苻生はやめた。使者を派遣して姚襄に官爵を授けようとしたが、姚襄は受けず、その使者を斬り、送られてきた文書を焼き、河東を寇掠した。苻生は怒り、大将軍の張平に命じて討伐させた。姚襄はへりくだった言葉と厚い財貨で張平と結んで兄弟となり、張平はさらに姚襄と通好した。

原文姚襄率眾萬餘,攻其平陽太守苻產于匈奴堡,苻柳救之,為襄所敗,引還蒲阪。襄遂攻堡,克之,殺苻產,盡坑其眾,遣使從生假道,將還隴西。生將許之,苻堅諫曰:「姚襄,人傑也,今還隴西,必為深害,不如誘以厚利,伺隙而擊之。」生乃止。遣使拜襄官爵,襄不受,斬其使者,焚所送章策,寇掠河東。生怒,命其大將軍張平討之。襄乃卑辭厚幣與平結為兄弟,平更與襄通和。

三輔の人々を徴発して渭橋を造営させたところ、金紫光祿大夫の程肱が農事を妨げ時節を害すると上疏して強く諫めた。生は怒って彼を殺した。

原文生髮三輔人營渭橋,金紫光祿大夫程肱以妨農害時,上疏極諫。生怒,殺之。

長安に大風が吹き、家屋の屋根を剥ぎ、樹木を引き抜き、行き来する人は転倒し、宮中では奔走して混乱し、ある者は賊が来たと称し、宮門は昼間から閉ざされ、五日後にようやく止んだ。生は賊が来たと告げた者を推問し、殺して心臓を抉り出した。左光祿大夫の強平が諫めて言った。「元日の盛大な朝、日蝕があり、正陽の月の朔日に、暗い風が大いに起こり、水害と旱害が時節に合わず、獣の災害も止まない。これらは皆、陛下が政事に努めず、和気に背いたことによって引き起こされたものです。願わくは陛下が庶民を養うことに務め、百官を公平に扱い、わずかな嫌疑を棄て、山嶽のような過ちを包み込み、宗廟社稷に敬意を表し、公卿を礼をもって愛し、秋霜のような威厳を取り去り、三春の恵みを垂れ給えば、奸悪な者は止み、妖しい災いは自然に消え、天の霊が皇室を祇祐し、永遠に窮まりない美しさを保つでしょう。」生は怒り、妖言であるとして、彼の頭頂を鑿で穿って殺した。

原文長安大風,髮屋拔樹,行人顛頓,宮中奔擾,或稱賊至,宮門晝閉,五日乃止。生推告賊者,殺之,刳而出其心。左光祿大夫強平諫曰:「元正盛旦,日有蝕之,正陽神朔,昏風大起,兼水旱不時,獸災未息,此皆由陛下不勉強于政事,乖和氣所致也。願陛下務養元元,平章百姓,棄纖介之嫌,含山嶽之過,致敬宗社,愛禮公卿,去秋霜之威,垂三春之澤,則奸回寢止,妖昆自消,乾靈祗祐皇家,永保無窮之美矣。」生怒,以為妖言,鑿其頂而殺之。

強平が囚われた時、偽衛将軍の苻黄眉、前将軍の苻飛、建節の鄧羌が禁中で侍宴し、叩頭して固く諫め、太后のことを理由にした。強平は生の母である強氏の弟であった。生は許さず、強氏は憂い恨んで死んだ。

原文平之囚也,偽衛將軍苻黃眉、前將軍苻飛、建節鄧羌侍宴禁中,叩頭固諫,以太后為言。平即生母強氏之弟也。生既弗許,強氏憂恨而死。

生は詔みことのり書を下して言った。「朕は皇天の命を受け、祖宗の業を継ぎ、万邦を君臨し、百姓を子として育ててきた。嗣統して以来、何か不善があったというのか。それなのに誹謗中傷の声が天下に満ちている。殺したのは千に過ぎないのに、刑罰が虐げだという。行き来する者が肩を並べるほどいて、まだ稀とは言えない。今こそ厳しい刑罰を極めよう。朕にどうすることができようか!」この時、猛獣や狼が大いに暴れ、昼は道を遮り、夜は家屋の屋根を剥ぎ、ただ人を害するだけで六畜は食わなかった。生が立ってから一年で、獣が七百余人を殺し、百姓はこれに苦しみ、皆集まって邑に住んだ。害はますます甚だしくなり、ついに農桑は廃れ、内外は凶事を恐れた。群臣が災いを祓うことを奏請すると、生は言った。「野獣は飢えれば人を食い、満腹すれば自然に止まる。終年にわたって患いとなることはない。天はどうして群生を子として愛さず、年年罰を降すことがあろうか。正に百姓が罪を犯して止まないので、朕が専ら殺戮を行い刑罰による教化を施すのを助けようとしているのだ。ただ罪を犯さなければよい。どうして天を怨み人を咎めようか。」

原文生下書曰:「朕受皇天之命,承祖宗之業,君臨萬邦,子育百姓,嗣統已來,有何不善,而謗讟之音扇滿天下。殺不過千,而謂刑虐。行者比肩,未足為稀。方當峻刑極罰,復如朕何!」時猛獸及狼大暴,晝則斷道,夜則髮屋,惟害人而不食六畜。自生立一年,獸殺七百餘人,百姓苦之,皆聚而邑居。為害滋甚,遂廢農桑,內外兇懼。群臣奏請禳災,生曰:「野獸饑則食人,飽當自止,終不能累年為患也。天豈不子愛群生,而年年降罰,正以百姓犯罪不已,將助朕專殺而施刑教故耳。但勿犯罪,何為怨天而尤人哉!」

生が阿房に行き、兄と妹が一緒に行くのに出会い、非礼なことをするよう強要したが、従わなかったので、生は怒って彼らを殺した。また咸陽の故城で群臣を宴し、後から来た者を皆斬った。かつて太醫令の程延に安胎薬を調合させた時、人参の良し悪しと薬の分量を尋ねたところ、延は言った。「少しばかり揃っていなくとも、用に堪えるでしょう。」生は自分の目を嘲笑ったと思い、延の目を鑿で抉り出してから斬った。

原文生如阿房,遇兄與妹俱行者,逼令為非禮,不從,生怒殺之。又宴群臣於咸陽故城,有後至者,皆斬之。嘗使太醫令程延合安胎藥,問人參好惡並藥分多少,延曰:「雖小小不具,自可堪用。」生以為譏其目,鑿延目出,然後斬之。

有司が奏上した。「太白星が東井に入り犯しています。東井は秦の分野であり、太白星は罰の星ですから、必ず暴兵が京師から起こるでしょう。」生は言った。「星が井戸に入るのは、必ず渇きを覚えるからだ。何を怪しむことがあろうか。」

原文有司奏:「太白犯東井。東井,秦之分也,太白罰星,必有暴兵起于京師。」生曰:「星入井者,必將渴耳,何所怪乎!」

姚襄が姚蘭と王欽盧を遣わして鄜城、定陽、北地、芹川の諸羌胡を招き動かすと、皆これに応じ、二万七千の兵を得て、進んで黄落を占拠した。生は苻黄眉、苻堅、鄧羌に歩騎一万五千を率いて討伐させた。襄は深い堀を掘り高い塁を築き、固く守って戦おうとしなかった。鄧羌が黄眉に説いて言った。「弓で傷ついた鳥は、空振りの音にも落ちるものです。襄は桓溫や張平にしばしば敗れ、鋭気を喪失しています。今、塁を固めて戦わないのは、窮した賊です。襄の性質は剛直で頑なですから、剛をもって動かしやすい。長駆して鼓行し、まっすぐその塁に圧し掛かれば、襄は必ず憤って出撃し、一戦で生け捕りにできます。」黄眉はこれに従い、鄧羌に騎兵三千を率いて塁門に陣取らせた。襄は怒り、精鋭を尽くして出撃した。羌はわざと勝てないふりをして、騎兵を率いて退却し、襄は三原まで追撃した。羌は騎兵を返して襄を防いだ。間もなく黄眉と堅が到着し、大戦して襄を斬り、その兵をことごとく捕虜にした。黄眉らは軍を整えて帰還した。黄眉は大功があったが、生は表彰も賞賜もせず、しばしば人前で彼を辱めた。黄眉は怒り、生を殺して自立しようと謀ったが、事が発覚し、誅殺され、王公や親戚の多くが死んだ。

原文姚襄遣姚蘭、王欽盧待招動鄜城、定陽、北地、芹川諸羌胡,皆應之,有眾二萬七千,進據黃落。生遣苻黃眉、苻堅、鄧羌率步騎萬五千討之。襄深溝高壘,固守不戰。鄧羌說黃眉曰:「傷弓之鳥,落於虛發。襄頻為桓溫、張平所敗,銳氣喪矣。今謀固壘不戰,是窮寇也。襄性剛很,易以剛動,若長驅鼓行,直壓其壘,襄必忿而出師,可一戰擒也。」黃眉從之,遣羌率騎三千軍於壘門。襄怒,盡銳出戰。羌偽不勝,引騎而退,襄追之于三原,羌回騎距襄。俄而黃眉與堅至,大戰,斬之,盡俘其眾,黃眉等振旅而歸。黃眉雖有大功,生不加旌賞,每於眾中辱之。黃眉怒,謀殺生自立,事發,伏誅,其王公親戚多有死者。

初め、生は大きな魚が蒲を食う夢を見た。また長安に謡があった。「東海の大魚、龍と化す。男はすなわち王となり、女はすなわち公となる。問う、何の所に在る、洛門の東。」東海は苻堅の封号であり、当時は龍驤将軍で、邸宅は洛門の東にあった。生はこれが堅のことだと知らず、謡と夢のゆえに、侍中・太師・録尚書事の魚遵とその七人の子、十人の孫を誅殺した。当時また謡があった。「百里にして空城を望む、鬱鬱として何ぞ青青たる。瞎児は法を知らず、仰いで天星を見ず。」そこで諸々の空城をことごとく壊してこれを祓った。金紫光祿大夫の牛夷は禍を免れられないことを恐れ、上洛に出鎮することを請うた。生は言った。「卿は忠実で篤敬である。朕の側にいるべきであり、外鎮する道理があろうか。」中軍に改めて任命した。夷は恐れ、帰って自殺した。

原文初,生夢大魚食蒲,又長安謠曰:「東海大魚化為龍,男便為王女為公。問在何所洛門東。」東海,苻堅封也,時為龍驤將軍,第在洛門之東。生不知是堅,以謠夢之故,誅其侍中、太師、錄尚書事魚遵及其七子、十孫。時又謠曰:「百里望空城,鬱鬱何青青。瞎兒不知法,仰不見天星。」於是悉壞諸空城以禳之。金紫光祿大夫牛夷懼不免禍,請出鎮上洛。生曰:「卿忠肅篤敬,宜左右朕躬,豈有外鎮之理。」改授中軍。夷懼,歸而自殺。

初め、生は若い頃から凶暴で酒を嗜み、健が臨終に際し、彼が家業を保てないのではないかと恐れ、戒めて言った。「酋師や大臣がもし汝の命令に従わなければ、徐々に除くがよい。」偽位に即くと、残忍で虐げることはますます甚だしく、酒に耽溺し、昼夜の別がなくなった。群臣が朔望の朝謁に来ても、めったに会うことができず、ある時は日暮れになってようやく出てきて、臨朝するやいなや怒り、ただ殺戮を行うばかりだった。動くと連月にわたって昏醉し、文書の上奏はそれによって遂に止んでしまった。奸佞の言葉を採用し、賞罰は適切でなかった。側近が「陛下は聖明で世を治め、天下はただ太平を歌っています」と言うと、生は言った。「朕におもねっているのだ。」引き出して斬った。ある者が「陛下の刑罰は少し過ぎています」と言うと、「汝は朕を誹謗しているのだ。」と言って、これも斬った。寵愛する妻妾が少しでも旨に逆らうと、すぐに殺し、その屍を渭水に流した。また宮人と男子に殿前で裸で交わらせた。生は牛、羊、驢、馬の皮を剥ぎ、鶏、豚、鵝を生きたまま焼き、三五十匹を群れにして殿中に放した。ある時は死囚の顔の皮を剥ぎ、彼らに歌舞をさせ、群臣を引き連れて見物し、嬉楽とした。宗室、勲旧、親戚、忠良は殺害し尽くされ、王公で在位する者は皆病気と称して帰り、人々の心情は危惧し、道路では目配せするだけであった。もともと目に病気があったため、彼が忌み嫌う「不足」「不具」「少」「無」「缺」「傷」「殘」「毀」「偏」「只」といった言葉は皆口にすることができず、側近で旨に逆らって死んだ者は数え切れず、脛を切り、胎児を抉り、肋骨を引き裂き、首を鋸で切る者まで、動くこと千数を数えた。

原文初,生少凶暴嗜酒,健臨死,恐其不能保全家業,誡之曰:「酋師、大臣若不從汝命,可漸除之。」及即偽位,殘虐滋甚,耽湎於酒,無復晝夜。群臣朔望朝謁,罕有見者,或至暮方出,臨朝輒怒,惟行殺戮。動連月昏醉,文奏因之遂寢。納奸佞之言,賞罰失中。左右或言陛下聖明宰世,天下惟歌太平。生曰:「媚於我也。」引而斬之。或言陛下刑罰微過。曰:「汝謗我也。」亦斬之。所幸妻妾小有忤旨,便殺之,流其屍于渭水。又遣宮人與男子裸交於殿前。生剝牛羊驢馬,活爓雞豚鵝,三五十為群,放之殿中。或剝死囚面皮,令其歌舞,引群臣觀之,以為嬉樂。宗室、勳舊、親戚、忠良殺害略盡,王公在位者悉以疾告歸,人情危駭,道路以目。既自有目疾,其所諱者不足、不具、少、無、缺、傷、殘、毀、偏、只之言皆不得道,左右忤旨而死者不可勝紀,至於截脛、刳胎、拉脅、鋸頸者動有千數。

太史令の康權が生に言った。「昨夜、三つの月が並んで出て、勃星が太微に入り、遂に東井に入りました。また去月上旬から沈陰して雨が降らず、今に至るまで続いています。下の者が上の者を謀る禍いが起こるでしょう。深く願わくは陛下が徳を修めてこれを消し去られますように。」生は怒り、妖言であるとして、撲ち殺した。

原文太史令康權言於生曰:「昨夜三月並出,勃星入於太微,遂入于東井。兼自去月上旬沈陰不雨,迄至於今,將有下人謀上之禍,深願陛下修德以消之。」生怒,以為妖言,撲而殺之。

生は夜、侍女に向かって言った。「阿法兄弟も信用できない。明日にでも除こう。」その夜、清河王の苻法が夢の中で神に告げられた。「明朝、禍いが汝の門に集まろうとしている。ただ先に気づく者だけが免れることができる。」目覚めて心悸がした。ちょうど侍女が来て告げたので、特進の梁平老、強汪らとともに壮士数百人を率いて雲龍門に潜入し、苻堅と呂婆樓が麾下三百余人を率いて鬨の声を上げて続いて進み、宿衛の将兵は皆武器を捨てて堅に帰順した。生はまだ昏睡して目覚めていなかった。堅の兵衆が到着すると、生を引き出して別室に置き、越王に廃し、間もなく殺した。生は臨死に際してもなお酒を数斗飲み、昏醉して何も知らなかった。時に二十三歳、在位二年、偽諡して厲王といった。

原文生夜對侍婢曰:「阿法兄弟亦不可信,明當除之。」是夜清河王苻法夢神告之曰:「旦將禍集汝門,惟先覺者可以免之。」寤而心悸。會侍婢來告,乃與特進梁平老、強汪等率壯士數百人潛入雲龍門,苻堅與呂婆樓率麾下三百餘人鼓噪繼進,宿衛將士皆舍杖歸堅。生猶昏寐未寤。堅眾既至,引生置於別室,廢之為越王,俄而殺之。生臨死猶飲酒數斗,昏醉無所知矣。時年二十三,在位二年,偽諡厲王。

洪の末子 雄

原文洪季子 雄

苻雄は、字を元才といい、洪の末子である。若い頃から兵書に通じ、謀略が多く、士を下すことを好んで施し、弓馬に巧みで、政術があった。健が僭位すると、佐命の元勲となり、権勢は人主に並んだが、謙虚で恭しく法に奉じた。健は常に言った。「元才は我が姬旦である。」死ぬと、健は血を吐くほど泣いて言った。「天は我に四海を平定させたくないのか。どうして元才を奪うのがこんなに速いのか。」子の堅については、別に載記がある。

原文苻雄,字元才,洪之季子也。少善兵書,而多謀略,好施下士,便弓馬,有政術。健僭位,為佐命元勳,權侔人主,而謙恭奉法。健常曰:「元才,吾姬旦也。」及卒,健哭之歐血,曰:「天不欲吾定四海邪?何奪元才之速也!」子堅,別有載記。

王墮

原文王墮

王墮は、字を安生といい、京兆郡霸城県の人である。学問に広く通じ雄大な才能を持ち、天文や図緯に明るかった。苻洪が梁犢を征討したとき、王墮を司馬に任じた。王墮は苻洪に言った。「讖文に苻氏が王となるべきだとあります。あなたこそその人です。」苻洪は深くその言葉に同意した。宰相となってからは、私心なく国事に尽くすと称えられた。苻健は常に嘆息して言った。「天下の百官が皆、王令君のようであれば、陰陽がどうして調和しないことがあろうか!」と、非常に敬重した。性格は剛直で厳格、悪を憎み、直言を好んだ。董栄と強国を仇敵のように憎み、朝廷で会うたびに、ほとんど口をきかなかった。ある人が彼に言った。「董尚書は今、一時の寵愛を受けています。あなたも少しは気を許すべきです。」王墮は言った。「董龍とは何の鶏や犬か。国士である私が彼と話すことがあろうか!」董栄はこれを聞いて恥じ恨み、苻生をそそのかして王墮を誅殺させた。刑が執行される時、董栄は王墮に言った。「今でもまだ董龍を鶏や犬と言い張るのか?」王墮は目を怒らせて彼を叱りつけた。龍は、董栄の幼名である。

原文王墮,字安生,京兆霸城人也。博學有雄才,明天文圖緯。苻洪征梁犢,以墮為司馬,謂洪曰:「讖言苻氏應王,公其人也。」洪深然之。及為宰相,著匪躬之稱。健常歎曰:「天下群官皆如王令君者,陰陽曷不和乎!」甚敬重之。性剛峻疾惡,雅好直言。疾董榮、強國如仇讎,每於朝見之際,略不與言。人謂之曰:「董尚書貴幸一時,公宜降意。」墮曰:「董龍是何雞狗,而令國士與之言乎!」榮聞而慚恨,遂勸生誅之。及刑,榮謂墮曰:「君今復敢數董龍作雞狗?」墮瞋目而叱之。龍,榮之小字也。