聞くことが聡明でないことを、不謀という。
『伝』に言う。「聞くことが聡明でないことを、不謀という。その咎は急であり、その罰は常に寒く、その極みは貧である。時に鼓妖があり、時に魚孽があり、時に豕禍があり、時に耳痾があり、時に黒眚黒祥がある。ただ火が水を害する。」聞くことが聡明でないことを、不謀というのは、上の者が偏って聞き聡明でなく、下の事情が隔絶され塞がれると、利害を謀り慮ることが、厳しく急迫することに失するため、その咎が急なのである。盛んな冬は日が短く、寒さが物を殺すように、政事が逼迫するので、その罰は常に寒いのである。寒ければ百穀が生ぜず、上下ともに貧しくなるので、その極みは貧なのである。君が厳しく猛り下を閉ざし、臣が戦慄して耳を塞ぐと、妄りに聞く気が音声から発するので、鼓妖がある。寒気が動くので、魚孽がある。そして亀が孽となることができ、亀は陸地に棲むことができ、極陰ではない。魚は水を離れて死ぬ、これが極陰の類である。『易』では、坎は水であり、豕である。豕は耳が大きいが聡明に察しない。聞く気が毀れるので、豕禍があるのである。一説には、寒い年には豕が多く死に、怪異となることも、これもまたそうである。人に及べば、多く耳の病を患う者があるので、耳痾がある。水の色は黒いので、黒眚黒祥がある。およそ聞くことが傷つけられる者は、水気の病を患う。水気が病むと、火がこれを害する。その極みが貧である者は、これに順じれば、その福は富という。劉歆の『聴伝』には介蟲の孽があるという。
諸徴候の常寒について、劉歆は大雨雪、および雨雪の降るべきでない時に雨雪が降り、および大雹が降り、霜が降って菽草を殺すことを、皆な常寒の罰であると考えた。京房の『易伝』に言う。「徳ある者が険難に遭うことを逆命といい、その異は寒である。誅罰が過度に深く、暖まるべき時に寒くなること、六日満ちることも、また雹となる。正を害する者を誅さないことを養賊といい、寒さが七十二日続き、飛禽を殺す。道を行う者が初めて去ることを傷といい、その寒さは、物が霜もなくして死に、水が湧き出る。戦いで敵を量らないことを辱命といい、その寒さは、雨が降っても物が茂らない。善を聞いて与えない、その咎は聾である。」
四年七月、雹が降り、また霜が降った。劉向の説を案ずるに、「雹は、陰が陽に協するものである」。この時、呂壹が威福をなして権勢を握り、重臣を誹謗し、無辜の者を陥れた。太子の孫登以下、皆なこれを毒害と患えたが、呂壹はかえって封侯の寵遇を得た。春秋の時に公子遂が専任して雹が降ったのと同じ応である。漢の安帝が讒言を信じ、多くの無辜を殺した時も雹が降った。董仲舒は言う。「凡そ雹は皆な脅迫があり、専一の政を行ったためである。」
赤烏四年正月、大雪が降り、平地に深さ三尺積もり、鳥獣の死者が大半を占めた。この年夏、全琮ら四将軍が淮南・襄陽を攻略し、戦死者は千余人に及んだ。その後、孫権は讒邪の言によりたびたび陸議を責め譴責し、陸議は憤慨して死に至った。漢の景帝・武帝の時の大雪と同じ事である。
十一年四月、雹が降った。この時、孫権は讒言を聞き入れ、太子を危うくしようとした。その後、朱拠と屈晃は意に逆らって罷免・辱めを受け、陳正と陳象は忠諫して族誅され、太子はついに廃された。これは徳ある者が険難に遭い、誅罰が過度に深かった応である。
武帝の泰始六年冬、大雪が降った。七年十二月、また大雪が降った。翌年、歩闡と楊肇の敗北があり、死傷者は甚だ多く、聞くことが聡明でない罰である。
九年四月辛未、霜が降った。この時、賈充の親党が結託して権勢を握り、魯の定公や漢の元帝の時に霜が降ったのと同じ応である。
五年五月丁亥、鉅鹿・魏郡で雹が降り、禾麦を傷つけた。辛卯、雁門で雹が降り、秋の作物を傷つけた。六月庚戌、汲郡・広平・陳留・滎陽で雹が降った。丙辰、また雹が降り、霜が降って、秋麦千三百余頃を傷つけ、家屋百二十余間を壊した。癸亥、安定で雹が降った。七月丙申、魏郡でまた雹が降った。閏月壬子、新興でまた雹が降った。八月庚子、河南・河東・弘農でまた雹が降り、秋の作物と三種の豆を兼ねて傷つけた。
五年(太康五年)七月乙卯日、中山と東平で雹が降り、秋の穀物を損なった。甲辰日、中山で雹が降った。九月、南安で大雪が降り、木を折った。
六年二月、東海で霜が降り、桑と麦を損なった。三月戊辰日、齊郡の臨淄・長広・不其など四県、楽安の梁鄒など八県、琅邪の臨沂など八県、河間の易城など六県、高陽の北新城など四県で霜が降り、桑と麦を損なった。六月、榮陽・汲郡・雁門で雹が降った。
八年四月、齊国と天水の二郡で霜が降った。十二月、大雪が降った。九年正月、京都で大風と雹が降り、屋根を吹き飛ばし木を抜いた。四月、隴西で霜が降った。十年四月、八つの郡国で霜が降った。
五年六月、東海で雹が降り、深さ五寸に達した。十二月、丹陽の建鄴で雹が降った。この月、丹陽の建鄴で大雪が降った。六年三月、東海で雪が降り、桑と麦を枯らした。七年五月、魯国で雹が降った。七月、秦州と雍州の二州で霜が降り、穀物を枯らした。
九年三月十八日、河南・滎陽・潁川で霜が降り、禾を損なった。五月、雹が降った。この時、賈后の凶暴でせっかちな振る舞いはますます甚だしく、冬になると、ついに湣懐太子を廃した。
成帝咸和六年三月癸未日、雹が降った。この時、皇帝は幼弱で、政権は大臣にあった。九年八月、成都で大雪が降った。この年、李雄が死んだ。
十年(354年)五月、涼州で雪が降った。翌年八月、張祚の枹罕護軍張瓘が宋混らを率いて張祚を攻め滅ぼし、代わりに張耀霊の弟の玄靚を立てた。京房『易伝』に「夏に雪が降るのは、臣下が乱を起こす戒めである」とある。これがその乱の応である。
十一年(355年)四月壬申朔(一日)、霜が降りた。十二月戊午、雷が鳴った。己未、雪が降った。この時、帝は幼く、母后が称制し、政権は大臣にあり、陰が盛んだったためである。
二十一年(396年)四月丁亥、雹が降った。この時、張夫人が専寵し、帝が急死すると、民衆は彼女を非難した。十二月、雪が二十三日間降った。この時、嗣主(安帝)は幼少で、宰相(司馬道子)が専権をふるっていた。
五年(409年)三月己亥、雪が降り、数尺の深さになった。五月癸巳、溧陽で雹が降った。九月己丑、広陵で雹が降った。翌年、盧循が蔡洲に至った。
六年(410年)正月丙寅、雪が降り、また雷が鳴った。五月壬申、雹が降った。八年(412年)四月辛未朔(一日)、雹が降った。六月癸亥、雹が降り、大風が家屋を破壊した。この秋、劉蕃らが誅殺された。
十年(414年)四月辛卯、雹が降った。
雷震
魏の明帝の景初年間、洛陽城の東橋、城西の洛水浮橋の桓楹が同日に三箇所で同時に雷に打たれた。まもなくまた西城の上にある候風木の飛鳥が雷に打たれた。当時は労役が大いに起こり、帝はまもなく崩御した。
呉の孫権の赤烏八年の夏、宮門の柱が雷に打たれ、また南津大橋の桓楹が雷に打たれた。
武帝の太康六年十二月甲申の朔日、淮南郡で雷電が走った。七年十二月己亥、毗陵で雷電があり、南沙の司塩都尉戴亮が報告した。十年十二月癸卯、廬江、建安で雷電と大雨があった。
懐帝の永嘉四年十月、雷電が走った。
五年十月庚午、雷が東南方で発生した。
孝武帝の太元五年六月甲寅、雷が含章殿の四本の柱を打ち、内侍二人も殺した。十年十二月、雷の音が南方であった。十四年七月甲寅、雷が鳴り、宣陽門の西柱を焼いた。
義熙四年十一月辛卯の朔日、西北の方角から疾風が吹き起こった。癸丑の日、雷が鳴った。五年六月丙寅の日、雷が太廟を震わせ、東側の鴟尾を破壊し、柱を貫通し、また太子の西池合堂を震わせた。この時、帝は自ら祭祀を行わなかったので、天がこれを震わせ、宗廟の簡略化を明らかにしたのである。西池は明帝が太子であった時に造営した場所であるため、太子池と号した。安帝は病が多く、後継ぎがないことを憂えていたので、天がこれを震わせ、後継ぎがないことを明らかにしたのである。
六年正月丙寅の日、雷が鳴り、また雪が降った。十二月壬辰の日、大きな雷が鳴った。九年十一月甲戌の日、雷が鳴った。乙亥の日、また雷が鳴った。
鼓妖
恵帝元康九年三月、牛のような声が許昌城から聞こえた。十二月、湣懐太子が廃され、許宮に幽閉された。翌年、賈后が黄門の孫慮に命じて太子を殺害させ、薬杵で打ち殺した。その声は外まで聞こえた。これがその応である。
蘇峻が歴陽の外営にいたとき、将軍の鼓がひとりでに鳴り、人が鼓を弄んでいるようであった。蘇峻は自ら手でそれを破壊し、「我が郷土では昔、このようなことがあると、城が空になる(滅びる)のだ」と言った。まもなく反乱を起こして滅ぼされた。これは聴覚が明瞭でないことへの罰である。
石季龍の末年、洛陽城の西北九里のところに、青石の台座の上にある石牛が、突然鳴き、その声は四十里先まで聞こえた。季龍は人を遣わしてその両耳と尾を打ち落とし、鉄の釘で四本の脚を打ち付けた。間もなく季龍は死んだ。
孝武帝太元十五年三月己酉の朔日、東北の方角に雷のような音がした。劉向の説によれば、「雷は雲に托すべきものであり、ちょうど君主が臣下に托するようなものである。雲がないのに雷が鳴るのは、君主が臣下を顧みず、臣下が叛こうとする兆しである」としている。帝が崩御すると天下は次第に乱れ、孫恩と桓玄が相次いで京邑を侵した。
呉興郡長城県の夏架山に石鼓があり、長さ一丈余り、表面の直径は三尺ほどで、下に磐石が足となっている。鳴るとその音は金鼓のようで、三呉に兵乱があると鳴る。安帝の隆安年間に大いに鳴り響き、後に孫恩の乱が起こった。
魚孽
魏の斉王嘉平四年五月、二匹の魚が武庫の屋根の上に集まった。これは魚の妖異である。王粛は言った。「魚は水に生まれながら、屋根の上に上がっている。鱗や甲羅を持つものが、その場所を失っている。辺境の将軍に、おそらく甲冑を捨てるような変事があるだろうか」。後に果たして東関での敗戦があった。干宝はまた、高貴郷公の兵禍の応であると考えた。両説とも班固の主旨と同じである。
武帝の太康年間、鯉魚二匹が武庫の屋根の上に現れた。干宝はこう考えた。「武庫は兵器の府である。魚には鱗や甲羅があり、これも兵器の類である。魚は極陰のものであり、屋根の上は太陽(陽)の場所である。魚が屋根の上に現れるのは、極陰のものが兵革の禍をもって太陽(陽)を犯す象である」。恵帝の初め、楊駿が誅殺され、太后が廃され、矢が館閣で飛び交った。元康の末、賈后が讒言して太子を殺害し、やがて賈后自身も誅殺され廃された。十年の間に、母后の難が二度起こった。これがその応であり、ここから禍乱が構築されたのである。京房の『易伝』に言う。「魚が水を離れ、道路に飛び込むならば、兵乱が起こらんとする」。
蝗蟲
『春秋』に蝗の記述がある。劉歆は介蟲の妖異に従い、魚と同じ占いとする。
武帝の泰始十年六月、蝗害が発生した。この時、荀勗と賈充が政権を担当し、公正で正直な者を憎み害していた。
懐帝の永嘉四年五月、大規模な蝗害が発生し、幽州、并州、司州、冀州から秦州、雍州に至るまで、草木や牛馬の毛や鬣がすべて食い尽くされた。この時、天下は兵乱が続き、民衆を漁猟のように苦しめ、存亡を繋いでいたのは司馬越と苟晞だけだった。彼らは互いに暴虐で苛酷な政治を競い、経略に秩序がなかったため、このような災いが起こったのである。
愍帝の建興四年六月、大規模な蝗害が発生した。前年、劉曜が頻繁に北地、馮翊を攻撃し、麹允らが全軍で防衛したが、ついに劉曜に破られ、西京(長安)は陥落した。五年、帝が平陽にいた時、司州、冀州、青州、雍州で蝗害が発生した。
孝武帝の太元十五年八月、兗州で蝗害が発生した。この時、慕容氏が河南を脅かし、征戍が絶えなかったため、このような災いが起こった。十六年五月、飛蝗が南から来て、堂邑県の境界に集まり、苗や穀物を害した。この年春、江州の兵営から甲士二千人とその家族六七千人が徴発され、護軍および東宮に配属されたが、後にほとんどが散亡してしまった。また辺境の将軍が連続して征役に従事したため、このような災いが起こったのである。
豕禍(猪の災い)
懐帝の永嘉年間、寿春城内で猪が二つの頭を持って生まれたが、生きられなかった。周馥がそれを持って来て観察したところ、当時の識者は言った。「猪は北方の家畜で、胡狄の象徴である。二つの頭は、上に立つ者がいないことを意味する。生まれてすぐ死ぬのは、事が成就しないことである。天の戒めはこう言っている。専権や利益を図る謀略を起こすな、自ら覆滅を招くであろう、と。」周馥は悟らず、ついに天子を迎えて諸侯を指揮しようとしたが、間もなく元帝に敗れた。これがその応報である。石勒もまもなく淮河を渡り、百姓の死者は十のうち九人に及んだ。
成帝の咸和六年六月、銭唐県の民家の雄豚が二頭の子を産んだが、どちらも人の顔をしており、胡人のような姿で、体はまだ猪のままだった。京房の『易妖』に言う。「猪が人の頭と猪の体を持って生まれるのは、危険で乱れの兆しである。今、この雄豚が産んだのは、異変の中でも最も甚だしいものである。」
黒い災いと黒い兆し
孝懐帝永嘉五年十二月、黒い気が四方に充満し、黒い兆しに近いものであった。帝はまもなく陥落し、王室は廃墟と化した。これがその応報である。
火が水を害する
武帝太康五年六月、任城・魯国の池の水がすべて血のように赤くなった。劉向の説によれば、水が水を害することに近く、聴くことが聡明でないことへの罰である。京房『易伝』に言う、「君主が色欲にふけり、賢人が潜み、国家が危うくなると、その異変として水が赤く流れる」。
思心が寛容でないこと、これを不聖という
『伝』に言う、「思心が寛容でないこと、これを不聖という。その咎は蒙昧であり、その罰は常風であり、その極みは凶短折である。時に脂夜の妖があり、時に華孽があり、時に牛禍があり、時に心腹の痾があり、時に黄眚黄祥があり、時に金木水火が土を害する」。思心が寛容でない、これを不聖という。思心とは、心の思慮である。容とは、寛大であること。孔子は言う、「上に立つ者が寛大でなければ、私は何をもってそれを見ることができようか!」。上に立つ者が寛大包容でなければ、臣下は聖位に居ることができないという意味である。貌・言・視・聴は、心を主とし、四者がすべて失われると、蒙昧で無知となるので、その咎は蒙昧となる。雨・旱・寒・燠もまた風を本とし、四気がすべて乱れるので、その罰は常風となる。常風は物を傷つけるので、その極みは凶短折となる。人を傷つけるのを凶といい、禽獣を傷つけるのを短といい、草木を傷つけるのを折という。一説には、凶は夭折、兄が弟を喪うのを短、父が子を喪うのを折という。人において、腹中で肥えて心を包むものを脂という。心が蒙昧だと暗くなるので、脂夜の妖がある。一説には、脂物があって夜に妖をなす、例えば脂が夜に人の衣を汚すようなもので、淫乱の象である。一説には、夜妖とは、雲と風がともに起こって暗くなるので、常風と同じ象である。温かくて風があると螟螣が生じ、裸虫の孽がある。劉向は考えるに、「『易』において、『巽』は風、木である。卦は三月四月にあり、陽に継いで治め、木の花と実を主る。風気が盛んになりすぎると、秋冬に木が再び花を咲かせるので、華孽がある」。一説には、地気が盛んになりすぎて秋冬に再び花が咲く。一説には、華とは色であり、土は内事に当たり、女孽を指す。『易』において、『坤』は土、牛である。牛は心が大きくて思慮することができず、心気が毀損されるので、牛禍がある。一説には、牛が多く死に怪異をなすこともこれである。人に及ぶと、心腹の病が多いので、心腹の痾がある。土の色は黄なので、黄眚黄祥がある。およそ思心を傷つける者は、土気を病む。土気が病むと、金木水火がそれを害するので、「時に金木水火が土を害する」と言う。「惟」と言わずにただ「時則有」と言うのは、一つの沖気によって害されるのではなく、その異変が大きいことを明らかにするためである。その極みである凶短折に対して、これに順えば、その福は考終命という。劉歆『思心伝』に言う、「時に臝虫の孽がある。螟螣の類を指す」。
庶徴の常風
魏の斉王正始九年十一月、大風が数十日続き、屋根を剥ぎ木を折った。十二月戊午の晦日は特にひどく、太極殿の東閣を揺るがした。
武帝の泰始五年五月辛卯朔、広平で大風が吹き、木を折った。
恵帝の元康四年六月、大風雨があり、木を抜いた。五年四月庚寅の夜、暴風が吹き、城東の渠で波浪が人を殺した。七月、下邳で大風が吹き、家屋を破壊した。九月、雁門・新興・太原・上党で災いの風が作物を傷つけた。翌年、氐・羌が反乱し、大軍が西征した。
九年六月、つむじ風が賈謐の朝服を吹き飛ばし数百丈も飛んだ。翌年、賈謐は誅殺された。十一月甲子朔、京都で連日大風が吹き、屋根を吹き飛ばし木を折った。十二月、湣懐太子が廃され、許昌に幽閉された。
成帝の咸康四年三月壬辰、成都で大風が吹き、屋根を吹き飛ばし木を折った。四月、李寿が李期を襲撃して殺し、自立した。
海西公の太和六年二月、大風が急速に吹き、この年に廃位された。
義熙四年(408年)十一月辛卯の朔日、西北から疾風が起こった。五年(409年)閏十月丁亥、大風が家屋の屋根を吹き飛ばした。翌年、盧循が蔡洲に至った。六年(410年)五月壬申、大風が北郊の樹木を引き抜いた。その木はほぼ百年のものであった。また風が琅邪と揚州の二つの射堂を吹き倒して壊した。この日、盧循の大艦が漂流して沈没した。甲戌、また風が吹き、家屋の屋根を飛ばし木を折った。この冬、朝廷の軍が南方を討伐した。九年(413年)正月、大風が吹き、白馬寺の仏塔の相輪の柱が折れて壊れた。十年(414年)四月己丑の朔日、大風が木を引き抜いた。六月辛亥、大風が木を引き抜いた。七月、淮北で大風が吹き、家屋を壊した。翌年、西方の司馬休之を討伐したことに応じた。
夜妖
懐帝の永嘉四年(310年)十月辛卯、昼間が暗くなり、庚子の日まで続いた。これは夜妖である。その翌年、劉曜が洛川を侵し、朝廷の軍はたびたび賊に敗れ、帝は平陽で蒙塵(都を追われる)した。
臝蟲の孽
『京房易伝』に曰く。「臣下が禄位に安住することを貪という。その災いは虫が根を食う。徳が常でないことを煩という。虫が葉を食う。無徳を退けなければ、虫が根本を食う。春の耕作と争うことを不時という。虫が茎を食う。悪を隠蔽して孽を生ずれば、虫が心を食う。」
太康四年(283年)、会稽で彭蜞(小型のカニ)と蟹が皆鼠に化し、その数は非常に多く、再び大いに稲を食い荒らして災害となった。九年(288年)八月、郡国二十四か所で螟が発生した。九月、虫がまた秋の作物を害した。この時、帝は讒言やおもねる言葉を聞き入れ、賈充や楊駿を寵愛して任用したので、虫や蝗の災害があり、無徳を退けなかったことへの罰があった。
牛禍
武帝太康九年、幽州の塞北で死んだ牛の頭が言葉を発した。これは牛の災いに近いものである。当時、帝は病が多く、後継のことを深く憂慮していたが、後事の託し方が公正を欠き、思慮が乱れたことの応報である。師曠の言によれば、「怨みや誹謗が人々の間に動くと、言葉を発しないものが言葉を発する」という。これもその道理である。京房の『易伝』には、「無罪の者を殺すと、牛に妖異が生じる」とある。
恵帝太安年間、江夏の張騁が乗っていた牛が「天下が乱れる。私に乗ってどこへ行くのか!」と言った。張騁は恐れて引き返すと、犬もまた「なぜ早く帰ってきたのか?」と言った。まもなく牛がまた後ろ足で立ち上がって歩いた。張騁は占いの上手な者に卦を立てさせると、その者は「天下に兵乱が起こり、災いは一家だけでは済まないだろう」と言った。その年、張昌が反乱を起こし、まず江夏を攻略した。張騁は将帥となり、五州が荒廃して乱れ、張騁もまた一族皆殺しにされた。京房の『易伝』には、「牛が言葉を発すれば、その言葉によって吉凶を占う」とある。『易萌気枢』には、「君主が士を好まず、走馬に文繡をまとわせ、犬や狼が人の食物を食らうと、六畜が言葉を発する」とある。当時、天子や諸侯が民に恩恵を施すことを務めなかったことが、その応報である。
四年十二月、郊祀に用いる牛が死んだ。劉向が『春秋』の郊牛の死について述べた説によれば、「宣公が愚昧で昏乱であったため、天がその祭祀を饗けなかった」という。今、元帝の中興の業は、実は王導の謀略によるものである。劉隗は帝の意を探って親しく寵愛されるようになり、王導は疎遠にされた。これが愚昧で聡明でないことの災いである。
桓玄が封国へ赴く際、荊州で刺史の殷仲堪を訪ねた。鶴穴まで行くと、一人の老人が青い牛を追っているのに出会った。その姿形は珍しく、桓玄はすぐに自分の乗っていた牛と交換して手に入れた。零陵の涇溪まで乗っていくと、非常に速く走り、休んで牛に水を飲ませようとしたところ、牛はまっすぐに江水に入って出てこなかった。桓玄は人をやって見張らせたが、一日経っても何も見えなかった。その後、桓玄は敗れて誅殺された。
黄色い災いの兆し、黄色い祥瑞
魏の斉王の正始年間、中山王周南が襄邑の長であった。穴から鼠が出てきて言った。「王周南、お前はある日に死ぬ。」周南は答えず、鼠は穴に戻った。後にその日になると、鼠はまた冠や幘、黒い衣を着て出てきて言った。「周南、お前は正午に死ぬ。」また答えないと、鼠は再び穴に入った。しばらくしてまた出てきて、先ほどと同じことを言った。日がちょうど正午になろうとする時、鼠は穴に入り、すぐまた出て、出ては入りを繰り返し、何度も前に同じことを言った。日がちょうど正午になると、鼠は言った。「周南、お前が答えないなら、私に何が言えようか!」言葉を終えると、倒れて死に、衣冠はすぐに消えた。取って見ると、すべて普通の鼠と同じであった。班固の説によれば、これは黄色い祥瑞である。当時、曹爽が政権を専断し、徒党を組んで競い合っていたため、鼠が異変を起こしたのである。
恵帝元康四年十二月、濃い霧が立ち込めた。帝は当時ぼんやりとしており、政務は自分で決められなかった。それゆえに愚昧な妖異があったのである。
元帝太興四年八月、黄色い霧が四方に立ち込め、埃や濁った気が天を覆った。
穆帝永和七年三月、涼州で大風が木を抜き、黄色い霧が降りて塵となった。当時、張重華は讒言を聞き入れ、謝艾を酒泉太守として出したが、任用した人物が適任ではなかった。九年に至って張重華は死に、後継の子は殺害された。これがその応報である。京房の『易伝』には、「善を聞いても与えないことを不知という。その異変は黄色であり、その過ちは聾であり、その災いは後継がないことである。黄色とは、黄色く濁った気が天下を四方から覆うことである。賢者を蔽い道を絶つと、災いは至って世が絶える」とある。
孝武帝太元八年二月癸未、四方に黄霧が立ち込めた。この時、道子が政権を専断し、佞人を近づけ、朝廷の綱紀が乱れようとしていた。
義熙五年十一月、大霧が発生した。十年十一月、また大霧が発生した。この時、帝室は衰微し、臣下の権勢が盛んで、兵と土地はほとんど君主のものではなくなっていた。これがその兆しである。
地震
劉向は言う。「地震は、金・木・水・火が土を害するものである。伯陽甫は言った。『天地の気は、その秩序を越えない。もしその秩序を越えれば、人の乱れである。陽が伏して出ることができず、陰が迫って昇ることができないと、地震が起こる。』」
呉の孫権の黄武四年、江東で地震が連続した。この時、孫権は魏の爵命を受けて大将軍・呉王となり、元号を改めて専制を行い、臣下としての礼を修めなかった。京房の『易伝』に言う。「臣下が事を行うのは正しいが、専断すれば必ず地震が起こる。その地震は、水にあれば波が立ち、木にあれば揺れ、屋にあれば瓦が落ちる。大経が辟(君主の過ち)にあり、臣下を易(変える)することを陰動と言い、その地震は政宮を揺るがす。大経が政を揺るがすことを不陰と言い、その地震は山を揺るがし、水が湧き出る。嗣子が徳なく禄を専有することを不順と言い、その地震は丘陵を動かし、水が湧き出る。」劉向もまた言う。「臣下が強盛になり、動いて害をなそうとする兆しである。」
呉の孫権の嘉禾六年五月、江東で地震が起こった。
呉の孫権の赤烏十一年二月、江東でまた地震が起こった。この時、孫権は讒言を聞き入れ、やがて朱據を罷免し、太子を廃した。
武帝の泰始五年四月辛酉、地震が起こった。この年冬、新平の氐・羌が反乱した。翌年、孫皓が大軍を渦口に派遣した。七年六月丙申、地震が起こった。
四年(294年)二月、上穀、上庸、遼東で地震が起こった。五月、蜀郡で山が移動した。淮南の寿春で洪水が発生し、山が崩れ地が陥没し、城や官舎が壊れた。八月、上谷で地震が起こり、水が湧き出て、百余人が死んだ。十月、京都で地震が起こった。十一月、滎陽、襄城、汝陰、梁国、南陽で地がみな震動した。十二月、京都でまた地震が起こった。この時、賈后が朝廷を乱し、ついに禍いと敗亡に至ったことの応報である。漢の鄧太后が摂政した時、郡国で地震が起こった。李固は「地は陰であり、法として安静であるべきである。今、陰の職分を越えて、陽の政事を専断しているので、地震をもって応じたのである」と考えた。これは同じ事柄である。京房の『易伝』に「小人が屋根を剥ぐと、その妖は山崩れであり、これを陰が陽に乗じ、弱が強に勝つという」とある。また「陰が陽に背くと地が裂け、父子が分離し、夷や羌が叛いて去る」とある。
五年(295年)五月丁丑の日、地震が起こった。六月、金城で地震が起こった。六年(296年)正月丁丑の日、地震が起こった。八年(298年)正月丙辰の日、地震が起こった。
五年(349年)正月庚寅の日、地震が起こった。この時、石季龍(石虎)が皇帝の位を僭称した。これもその順序を超えたものである。
九年(353年)八月丁酉の日、京都で地震が起こり、雷のような音がした。十年(354年)正月丁卯の日、地震が起こり、音は雷のようで、鶏や雉がみな鳴き叫んだ。十一年(355年)四月乙酉の日、地震が起こった。五月丁未の日、地震が起こった。
安帝隆安四年(400年)四月乙未の日、地震があった。九月癸丑の日、地震があった。この時、幼い君主は無知で、政権は臣下にあった。
義熙四年(408年)正月壬子の日の夜、地震があり音がした。十月癸亥の日、地震があった。五年(409年)正月戊戌の日の夜、尋陽で地震があり、雷のような音がした。翌年、盧循が攻め下った。八年(412年)、正月から四月にかけて、南康、廬陵で四度地震があった。翌年、朝廷の軍が西の荊州・益州を討伐した。十年(414年)三月戊寅の日、地震があった。
山崩れ、地が陥没・裂けること。
太康五年(284年)五月丙午の日、宣帝廟の地が陥没した。六年(285年)十月、南安の新興で山が崩れ、水が湧き出た。七年(286年)二月、朱提の大瀘山が崩れ、郡の役所を震い壊し、陰平の仇池の崖が崩れ落ちた。八年(287年)七月、大雨が降り、殿前の地が陥没し、五尺四方、深さ数丈で、中に破船があった。
恵帝元康四年(294年)、蜀郡で山が崩れ、人を殺した。五月壬子の日、寿春で山が崩れ、洪水が出て、城が壊れ、地が三十丈四方陥没し、人を殺した。六月、寿春で大雷があり、山が崩れ地が裂け、人家が陥没して死者が出、上庸でも同じことがあった。八月、居庸で地が裂け、幅三十六丈、長さ八十四丈で、水が湧き出て、大飢饉が起こった。上庸の四か所で山が崩れ、地が陥没して幅三十丈、長さ百三十丈で、水が湧き出て人を殺した。これらは皆、賈后が朝廷を乱した兆しであった。
成帝咸和四年十月、柴桑の廬山西北の崖が崩れた。十二月、劉胤が郭默に殺害された。
升平五年二月、南掖門で馬の足が地中に陥没し、鐘一つが出土した。四字の銘文があった。
恵帝元康九年六月の夜、激しい雷雨があり、賈謐の書斎の屋柱が地中に陥没し、賈謐の寝台と帳を押し潰した。これは木が土気を乱し、土がその本性を失って物を載せられなくなったためである。翌年、賈謐は誅殺された。
君主が中正の道を失うこと、これを「不建」という。
『伝』に言う、「君主が中正の道を失うこと、これを不建という。その咎は目がくらむこと(眊)にあり、その罰は常に陰気が支配することにあり、その極みは弱さにある。時に射妖あり、時に龍蛇の孽あり、時に馬禍あり、時に下の者が上の者を伐つ病(痾)あり、時に日月が乱れて運行し、星辰が逆行する」。皇(君主)が極(中正の道)を失うことを、不建という。皇は君、極は中、建は立つことである。君主の貌・言・視・聴・思心の五事がすべて失われ、中を得ず、万事を立てることができない。その過失は目がくらみ道理に背く(眊悖)ことにあるので、その咎は眊である。王者は下に立って天を承け、万物を治める。雲は山に起こって天に満ちる。天気が乱れるので、その罰は常に陰気が支配する。一説には、「上が中を失えば、下が強盛となり、君主の明を覆い隠す」という。『易』に言う、「亢龍悔あり、貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位に在りて輔けなし」。このようであれば、君主は南面の尊さはあっても、一人の助けもなく、その極みは弱さである。盛んな陽気は動き進み、軽やかで速い。礼では、春に大射を行って陽気に順う。上が微弱であれば、下が奮い立って驚き動くので、射妖がある。『易』に言う、「雲は龍に従う」。また言う、「龍蛇の蟄は、以て身を存す」。陰気が動くので、龍蛇の孽がある。『易』では、乾は君を表し、馬を表す。任用が強力であれば、君主の気が毀損され、馬禍がある。一説には、馬が多く死んだり怪異をなすことも、これである。君主が乱れかつ弱ければ、人々はこれに背き、天はこれを見捨てる。明王による誅罰がなければ、簒奪や殺害の禍がある。それゆえ、下の者が上の者を伐つ病(痾)がある。およそ君主の道が傷つけられると、天気が病む。五行が天を乱すとは言わず、「日月が乱れて運行し、星辰が逆行する」と言うのは、下が天を乱すことを敢えて言わないためである。それは『春秋』に「王師、貿戎にて敗績す」と言い、誰に敗れたかを言わず、自ら敗れたことを記すのと同じで、尊ぶべきものを尊ぶという意味である。劉歆の『皇極伝』には、下の体が上に生じる病(痾)があると記されている。解釈によれば、下の者が上の者を伐ち、天誅がすでに成った以上、もはや病とは言えないという。
常に陰気が支配すること
射妖
蜀の車騎将軍鄧芝が涪陵を征討したとき、玄猿が山を登るのを見て、手ずから射て命中させた。猿はその矢を抜き、木の葉を丸めて傷口を塞いだ。鄧芝は言った。「ああ、私は生き物の本性に背いてしまった。自分が死ぬだろう!」間もなくして死去した。これは射妖である。一説には、猿の母が子を抱いていたところ、鄧芝が射て命中させ、子が矢を抜き、木の葉を取って傷を塞いだ。鄧芝は嘆息し、弩を水中に投げ入れ、自分が死ぬべき時だと悟ったという。
恭帝が琅邪王であったとき、奇妙な遊びを好み、かつて門内に一頭の馬を閉じ込め、人に射させて、何本の矢で死ぬかを見ようとした。側近に諫める者がいて言った。「馬は、国の姓(司馬)です。今これを射るのは不吉です。」そこでやめたが、馬はすでに十本ほどの矢を受けていた。これも射妖であろう。間もなくして宋に禅譲した。
龍と蛇の妖異
呉の孫皓の天冊年間、龍が長沙の民家で乳を飲み、鶏の雛を食った。京房の『易妖』に言う。「龍が民家で乳を飲むのは、王者が庶人となることである。」その後、孫皓は晋に降伏した。
呂纂の末年、龍が東廂の井戸から出て、その殿前まで来て蟠り臥し、夜明けには消えていた。間もなくまた黒龍がその宮門に昇った。呂纂は皆これを美しい瑞祥だと考えた。ある者は言った。「龍は陰の類であり、出入りには時がある。今たびたび現れるのは、必ず下の者が上を謀る変事がある。」後に呂纂は果たして呂超に殺された。
武帝の咸寧年間、司徒府に二匹の大蛇がいた。長さは十丈ほどで、役所の屋根の上に住んでいて人は知らなかったが、ただ数年、役所の中で小児や豚・犬などがしばしば行方不明になる怪異があった。後に一匹の蛇が夜に出てきて、刃物で傷つけられて逃げられなくなり、ようやく気づかれた。人を集めて攻撃し、しばらくしてようやく死んだ。司徒は五教を司る府である。これも皇極が確立されないため、蛇の妖異が現れたのである。漢の霊帝の時、蛇が御座に現れ、楊賜は帝が色に溺れることの応であると言った。魏の時代は宮人が多く、晋はそれをさらに上回り、宴楽遊興にふけり耽った。これがその妖異である。『詩経』に「虺や蛇は、女子の兆し」とある。
恵帝の元康五年三月癸巳、臨淄に大蛇が現れた。長さは十余丈で、二匹の小蛇を背負って城の北門に入り、市場を通って漢の城陽景王の祠に入り、見えなくなった。天の戒めはこう言っているようである。昔、漢の城陽景王には傾きかけた国を安定させる功績があったが、節操を励まし忠実に慎むことをせず、ついに職を失い功績を奪われる辱めを受けた。今、斉王司馬冏は悟らず、興復の功績を立てたが、驕り高ぶって禍いを招く。これがその兆しである。
馬の災異
恵帝元康八年十二月、皇太子が釈奠を行おうとしたとき、太傅の趙王司馬倫が副車に乗り、南城門に至ると、馬が止まり、力士が押しても動かなかった。司馬倫が軺車に乗り換えると、進むことができた。これは馬の災異である。天の戒めはこう言っているようだ。司馬倫は義の道を知らず、ついに乱逆をなす者であり、礼を導き行う傅導の任に適う者ではない、と。
九年十一月戊寅、突然牡の騮馬が驚き奔って廷尉の訊堂に至り、悲しげに鳴いて死んだ。天の戒めはこう言っているようだ。湣懐太子が冤罪で死ぬ象徴である。廷尉の訊堂に現れたのは、天意であろうか。
懐帝永嘉六年二月、神馬が南城門で鳴いた。
成帝咸康八年五月甲戌、血のように赤い色の馬が、宣陽門から真っ直ぐに殿前へ走り入り、旋回して走り出た。すぐに追跡したが、どこへ行ったか分からなかった。己卯、帝が病気になった。六月、崩御した。これは馬の災異であり、また赤い祥瑞(凶兆)でもある。この年、張重華が涼州におり、その西河相張祚を誅殺しようとしたとき、厩舎の馬数十頭が同時にすべて尾がなくなった。
安帝隆安四年十月、梁州で馬が角を生やし、刺史の郭銓がこれを取り寄せて桓玄に見せた。劉向の説によれば、馬が角を生やすべきでないのは、桓玄が兵を挙げて上(朝廷)に向かうべきでないのと同じである。桓玄は悟らず、ついに滅亡に至った。
石季龍が鄴にいたとき、一頭の馬の尾に焼けたような跡があり、中陽門から入り、顯陽門から出て、東宮にはどちらからも入れず、東北へ走り去り、しばらくして見えなくなった。術者の仏図澄が嘆いて言った、「災いが及ぶであろう」。一年余りして石季龍が死に、その国は滅んだ。
人の災異
魏の文帝の黄初年間、清河の宋士宗の母が鱉に化け、水に入った。
孫休の永安四年、安呉の民陳焦が死んで七日後に生き返り、墓穴を穿って出てきた。干宝が言う、「これは漢の宣帝の時と同じ事であり、烏程侯孫皓が廃された家系を継いで位を得る祥瑞である」。
武帝の泰始五年(269年)、元城の人が七十歳で角を生やした。これは趙王司馬倫の簒奪と乱の兆しであった。
恵帝の元康年間(291年-299年)、安豊に周世寧という女子がいた。八歳の時から次第に男に変化し、十七、八歳で気性が定まった。京房の『易伝』に言う、「女子が丈夫(男子)に化する、これを陰が盛んになるという。賤しい者が王となる」。これもまた劉元海(劉淵)と石勒が天下を覆す妖しき兆しである。
元康年間(291年-299年)、梁国の女子が許嫁し、すでに礼聘を受けていたが、間もなくその夫が長安に駐屯することになり、一年経っても帰らなかった。女の家はさらに別の人に嫁がせようとした。女は行くのを好まず、その父母が強引に迫ったため、やむを得ず行ったが、間もなく病気で亡くなった。後にその夫が帰還し、女がどこにいるか尋ねた。その家の者がことごとく説明した。夫は直ちに女の墓に行き、哀しみの情に耐えかね、墓を発掘して棺を開けた。すると女は生き返り、そこで一緒に帰った。後に婿がこのことを聞き知り、役所に訴えて争ったが、その地では決着がつかなかった。秘書郎の王導が議して言った。「これは普通のことではない。常理で判断すべきではなく、前の夫に返すべきである」。朝廷はその意見に従った。
恵帝の時代、杜錫の家が葬儀を行った際、婢が誤って墓から出られなくなった。十年後に墓を開いて合葬しようとしたところ、婢はまだ生きていた。初めは目を閉じていたが、しばらくして次第に意識を取り戻し、尋ねると、自分では二晩寝ただけだと言った。初め、婢が埋められた時は十五、六歳だったが、墓を開いて生き返った時も、やはり十五、六歳のままであり、嫁がせて子をもうけた。
恵帝の時代、京洛に男女両方の体を兼ね備えた者がいた。また男女両方の性行為もでき、性格は特に淫らであった。これは乱れた気が生み出したものである。咸寧(275年-280年)、太康(280年-289年)の後から、男色が大いに流行し、女色よりも甚だしく、士大夫はこれを尊ばない者はなく、天下は互いに模倣し、ある者は夫婦が離縁するに至り、多くの怨みと孤独が生じた。それゆえ男女の気が乱れ、妖しき形が現れたのである。
永嘉五年(311年)五月、枹罕県令の厳根の妓が一匹の龍と、一人の女と、一羽の鵞鳥を産んだ。京房の『易伝』に言う、「人が人以外の物を生む、人が見たことのないものは、皆、天下に大兵が起こる前兆である」。この時、帝は恵皇(恵帝)の後を継いだが、四海は沸騰するように乱れ、間もなく平陽に陥落し、逆胡に害された。これがその徴候である。
愍帝の建興四年(316年)、新蔡県の役人である任僑の妻が二人の女児を産んだ。腹と心が合わさり、胸より上と臍より下がそれぞれ分かれていた。これは天下が統一されていない妖しき兆しである。当時、内史の呂会が上奏して言った。「『瑞応図』を調べると、異なる根が同じ体になるのを連理といい、異なる畝で同じ穂になるのを嘉禾という。草木の異変でさえ瑞祥とされる。今、二人が心を同じくしている。『易経』に『二人心を同じくすれば、その利は金を断つ』とある。これは四海が同心となる瑞祥であろう」。当時の人々は皆これを嘲笑した。間もなく四海は分崩離し、帝もまた滅亡に沈んだ。
元帝の太興(318年-321年)初年、陰部が腹にあり、臍の下にある女子がいた。中原から江東に来て、その性質は淫らで子を産まなかった。また、陰部が頭にある女子がいて、揚州に渡り、性質もまた淫らであった。京房の『易妖』に言う、「人が子を生み、陰部が頭にあるのは天下が大乱する前兆。腹にあるのは天下に事変がある前兆。背中にあるのは天下に後継ぎがいなくなる前兆」。当時、王敦が上流を占拠し、乱を起こそうとしていた。これがその徴候である。
成帝咸康五年四月、下邳の民である王和が僑居していた暨陽で、娘の可(二十歳)が天から来たと自称し、瑞祥の印綬を得て天下の母となるべきだと言った。晉陵太守は妖言とみなして捕らえ獄に下した。十一月になると、ある者が柘の杖と絳色の衣を持って止車門に至り、口上を述べて聖人の使者として天子に謁見を求めた。門侯がその言葉を受け取ると、姓は呂、名は賜と称し、その言葉によれば王和の娘の可の右足の下に七星があり、星にはみな毛が生えていて長さ七寸、天が今、可を天下の母とするよう命じたという。これを奏上して聞かせると、すぐに誅殺され、晉陵にも命じて可を誅殺した。
孝武帝寧康の初め、南郡州陵の女の唐氏が次第に男に変化した。
安帝義熙七年、無錫の人趙未が八歳の時、ある日突然八尺に成長し、髭や鬚が豊かに生え、三日で死んだ。
義熙年間、東陽の人莫氏が娘を生んだが養わず、数日間埋めたところ、土の中で啼いたので、取り出して養うと生き返った。
義熙の末、呉の豫章の人に二つの陽道があり、重なって生えていた。