巻十二 志第二天文中
七曜
日は太陽の精であり、生と恩徳を司り、君主の象徴である。君主に過失があれば、必ずその悪を露わにして警告する。ゆえに日月が道をわきまえた国を運行すれば光明となり、君主は吉昌で、百姓は安寧である。君主が土徳に乗じて王となるとき、その政治が太平であれば、日は五色で主となる色がない。日の色が変わるのは、軍があるときで、軍は破れる。軍がなければ、侯王が喪に服す。その君主に徳がなく、その臣下が国を乱せば、日は赤く光を失う。日が色を失えば、その臨む国は栄えない。日中に暗くなり、通行人の影がなく、夕暮れまで止まないときは、上は刑罰が厳しく、下は生活の拠り所がなく、一年を経ずして大水が起こる。日中に暗くなり、烏や鳥が群れをなして鳴けば、国は政治を失う。日中に烏が見えれば、主君が明らかでなく、政治が乱れ、国に白衣の会(喪の集い)があり、将軍が出陣し、旌旗が掲げられる。日中に黒子・黒気・黒雲があり、三つ五つと現れたり消えたりすれば、臣下が主君を廃する。日蝕は、陰が陽を侵し、臣下が君主を覆い隠す象徴であり、国が滅びる。
月は太陰の精であり、これをもって日と対をなし、女主の象徴である。これをもって徳に比べれば、刑罰の意味である。朝廷に列すれば、諸侯や大臣の類である。ゆえに君主が明らかであれば、月の運行は度を守る。臣下が権力を握れば、月の運行は道を失う。大臣が政務を専断し、兵刑が理を失えば、月の運行は南へ北へと定まらない。女主や外戚が権力を専らにすれば、月は進んだり退いたりする。月の色が変われば、災いが起こる。月が昼間に明るければ、奸邪が一斉に起こり、君臣が明を争い、女主が行いを失い、陰の国は兵が強く、中国は飢饉となり、天下に僭越を謀る者が現れる。数か月にわたって重ねて現れれば、国は乱れて滅びる。
歳星は東方の春の木星といい、人間に関しては、五常では仁であり、五事では貌である。仁が欠け貌が失われ、春の令に逆らい、木気を傷つければ、罰が歳星に現れる。歳星が盈縮(満ち欠け)するのは、その宿る星宿によって国に命じるためである。その居る場所が長ければ、その国は徳が厚く、五穀が豊かに実り、討伐してはならない。その対衝する位置は衝であり、歳星に災いがある。歳星が静かに中度を保てば、吉である。盈縮して順序を失えば、その国に憂いがあり、事を起こし兵を用いてはならない。また、君主の象徴であり、色は明るくあることを欲し、光色が潤沢であれば、徳が和合する。また、進退が度をわきまえていれば、奸邪が止む。色が変わり運行が乱れれば、君主に福がない。また福を司り、大司農を司り、斉と呉を司り、天下の諸侯と君主の過失を司り、歳の五穀を司る。赤く角があれば、その国は栄える。赤黄で沈んでいれば、その野は大いに豊作である。
熒惑は南方の夏の火星といい、礼であり、視である。礼が欠け視が失われ、夏の令に逆らい、火気を傷つければ、罰が熒惑に現れる。熒惑の法則は、運行に常がなく、出れば兵があり、入れば兵が散じる。その宿る星宿によって国に命じ、乱れと賊となり、疾疫と喪となり、飢饉と兵乱となり、その居る国は災いを受ける。環状に鉤已(鉤状に曲がる)し、芒角が動揺し、色が変わり、前後に、左右に定まらなければ、その災いはさらに甚だしい。その南では男子が、北では女子が喪に服す。周旋して止息すれば、死喪となる。寇賊がその野を乱し、地を失う。その運行を失って速やかであれば、兵がその下に集まり、これに順って戦えば勝つ。また、熒惑は大鴻臚を司り、死喪を司り、 司空 を司る。また司馬となり、楚・呉・越以南を司る。また天下の群臣の過失を司り、驕奢・亡乱・妖孽を司り、歳の成敗を司る。また、熒惑が動かなければ、兵は戦わず、将を誅する。その出でて色が赤く怒り、逆行して鉤已を成せば、戦いは凶で、軍が包囲される。鉤已で、芒角が鋒刃のようであれば、君主は宮を出てはならず、下に伏兵がある。芒が大きければ人衆が怒る。また理を司り、外では兵を治め、内では政を治め、天子の理である。ゆえに、たとえ明らかな天子があっても、必ず熒惑の所在を見る。それが太微・軒轅・営室・房・心を守り犯せば、君主の命はこれを悪む。
填星は中央の季夏の土星といい、信であり、思心である。仁義礼智は信を主とし、貌言視徳は心を正とす。ゆえに四星が皆失えば、填星がこれによって動く。動いて盈(満ち)れば、侯王安寧ならず。縮(欠け)れば、軍があっても戻らない。その居る宿では、国は吉で、地を得、女子を得、福があり、討伐してはならない。去れば、地を失い、あるいは女子に関する憂いがある。宿に長く居れば、国の福は厚い。変われば薄い。順序を失って上に二三宿進むことを盈といい、君主の命が成らず、あるいは大水となる。順序を失って下がることを縮といい、后戚(后妃の親族)にあり、その歳は回復せず、あるいは天裂け地動く。一説に、填星は黄帝の徳であり、女主の象徴であり、徳の厚さと安危存亡の機を司り、天下の女主の過失を司る。また、天子の星である。天子が信を失えば、填星は大きく動く。
太白は西方の秋の金星といい、義であり、言である。義が欠け言が失われ、秋の令に逆らい、金気を傷つければ、罰が太白に現れる。太白の進退をもって兵を候う。高低・遅速・静躁・現伏は、用兵のすべてこれを象徴し、吉である。それが西方に出て運行を失えば、夷狄が敗れる。東方に出て運行を失えば、中国が敗れる。期日を尽くさずに参天(天の三分の一)を過ぎれば、その対衝する国に災いがある。もし経天(天を横切る)すれば、天下は革まり、民は王を変え、これを乱紀といい、人衆は流亡する。昼間に現れ、日と明を争えば、強国は弱まり、小国は強くなり、女主が栄える。また、太白は大臣を司り、その号は上公であり、大司馬の位はこれを謹んで候う。
辰星は北方の冬の水星といい、智であり、聴である。智が欠け聴が失われ、冬の令に逆らい、水気を傷つければ、罰が辰星に現れる。辰星が現れれば、主として刑を司り、廷尉を司り、燕・趙を司り、また燕・趙・代以北を司る。宰相の象徴である。また殺伐の気、戦闘の象徴である。また、野に軍すれば、辰星は偏将の象徴であり、軍がなければ刑事を司る。陰陽を和し、応効せず効かなければ、その時は和せず。出でてその時を失えば、寒暑が節を失い、国は大いに飢える。出るべき時に出なければ、これを撃卒といい、兵が大いに起こる。房と心の間にあれば、地動する。また、辰星の出入は躁疾で、常に夷狄を司る。また、蛮夷の星であり、また刑法の得失を司る。色が黄で小さければ、地が大いに動く。光明が月に及べば、その国に大水がある。
およそ五星に色があり、大小が異なるが、それぞれその運行に依り時と節に順応する。色の変化には類があり、すべて青は参宿の左肩に比べ、赤は心宿の大星に比べ、黄は参宿の右肩に比べ、白は狼星に比べ、黒は奎宿の大星に比べる。本来の色を失わずに四時に応ずれば吉である。色がその運行を害すれば凶である。
およそ五星が出で、行き、直する辰(方位)では、その国は位を得る。位を得るとは、歳星は徳により、熒惑は礼により、填星は福により、太白は兵強により、辰星は陰陽和による。行き、直する辰で、その色に順じ角があれば勝ち、その色が害すれば敗れる。実(星宿の中心)に居れば徳あり、虚(星宿の端)に居れば徳なし。色が位に勝ち、運行が色に勝ち、運行が完全であればこれを勝つ。営室は清廟であり、歳星の廟である。心は明堂であり、熒惑の廟である。南斗は文太室であり、填星の廟である。亢は疏廟であり、太白の廟である。七星は員宮であり、辰星の廟である。五星がその廟に行き至れば、謹んでその命を候う。
およそ五星が盈縮して位を失えば、その精が地に降りて人となる。歳星は降りて貴臣となり、熒惑は降りて童児となり、歌謠や嬉戯をする。填星は降りて老人や婦女となり、太白は降りて壮夫となり、林麓に処する。辰星は降りて婦人となる。吉凶の応は、その象に随って告げる。
およそ五星において、木星と土星が合すると、内乱となり、飢饉が起こる。水星と合すると、謀略が変わり事態が更新される。火星と合すると、飢饉となり、旱魃となる。金星と合すると、白衣の会(喪の集い)となり、合戦し、国に内乱があり、野に破軍(敗軍)があり、水害となる。太白(金星)が南にあり、歳星(木星)が北にあるのを牝牡(めすとおす)といい、その年は穀物が大いに実る。太白が北にあり、歳星が南にあると、その年の収穫はあったりなかったりする。火星と金星が合すると、灼熱となり、喪となり、事を起こし兵を用いることはできない。軍に従うと、軍の憂いとなる。離れると、軍は退却する。太白の陰(北側)から出ると、分宅(領地分割)となる。その陽(南側)から出ると、偏将が戦う。土星と合すると、憂いとなり、主君に孽卿(奸臣)が現れる。水星と合すると、北軍となり、兵を用い事を起こすと大敗する。一説には、火星と水星が合すると、焠(焼き入れ)となり、事を起こし兵を用いることはできない。土星と水星が合すると、壅沮(ふさがり止む)となり、事を起こし兵を用いることはできず、軍が覆い師が下る(敗北する)ことがある。一説には、謀略が変わり事態が更新され、必ず旱魃となる。金星と合すると、疫病となり、白衣の会となり、内兵(内乱)となり、国は領土を失う。木星と合すると、国に飢饉が起こる。水星と金星が合すると、謀略が変わり、兵の憂いとなる。太白の中に入って上から出ると、軍を破り将を殺し、客軍が勝つ。下から出ると、客軍が領土を失う。旗の指す方向を見て、それによって破軍(敗軍)を命じる。太白を環繞し、もし戦うようならば、大戦となり、客軍が勝つ。およそ木星、火星、土星、金星が水星と戦うのは、いずれも戦いとなる。兵が外にいない場合は、いずれも内乱となる。およそ同じ宿舎(星座)にいるのを合といい、互いに陵する(侵犯する)のを鬭という。二星が近いと、その災いは大きい。遠いと、害はなく、七寸以内ならば必ず及ぶ。
およそ月が五星を蝕むと、その国はみな滅びる。歳星(木星)の場合は飢饉により、熒惑(火星)の場合は乱により、填星(土星)の場合は殺戮により、太白(金星)の場合は強国が戦い、辰星(水星)の場合は女による乱により。
およそ五星が月に入ると、歳星(木星)の場合は、その野に宰相を追放する者あり。太白(金星)の場合は、将軍が誅殺される。
およそ五星が集まると、その国は王となり、天下は従う。歳星は義によって従い、熒惑は礼によって従い、填星は重(威厳)によって従い、太白は兵によって従い、辰星は法によって従い、それぞれその事柄によって天下を招致する。三星がもし合すると、これを驚立絶行といい、その国は内外に兵と喪があり、百姓は飢え困窮し、侯王が改めて立てられる。四星がもし合すると、これを大陽といい、その国に兵と喪がともに起こり、君子は憂い、小人は流浪する。五星がもし合すると、これを易行といい、徳ある者は慶びを受け、王者が改めて立てられ、四方を覆い、子孫は繁栄昌盛する。徳なき者は災いを受け、その国家を離れ、その宗廟を滅ぼされ、百姓は離散し、四方に満ちる。五星が皆大きければ、その事も大きい。皆小さければ、事も小さい。
およそ五星の色は、皆円く、白は喪と旱魃。赤で中が平らでないのは兵乱。青は憂いと水害。黒は疾疫と多くの死者。黄は吉である。皆角ばっていて、赤いのは我が城を犯す。黄は土地の争い。白は哭泣の声。青は兵の憂いあり。黒は水害あり。五星が同じ色ならば、天下は兵を収め、百姓は安寧で、歌舞を行い、災いや疫病を見ず、五穀は繁栄する。
およそ五星において、歳星(木星)は、政が緩やかだと運行せず、急だと過分に進み、逆行すると占う。熒惑(火星)は、緩やかだと出ず、急だと入らず、道に違うと占う。填星(土星)は、緩やかだと還らず、急だと宿舎を過ぎ、逆行すると占う。太白(金星)は、緩やかだと出ず、急だと入らず、逆行すると占う。辰星(水星)は、緩やかだと出ず、急だと入らず、時ならざると占う。五星が運行を失わなければ、その年は穀物が豊かに実る。
およそ五星が天の中を分かち、東方に集まると、中国に利あり。西方に集まると、外国で兵を用いる者に利あり。辰星(水星)が出ないと、太白(金星)が客となる。それが出ると、太白が主となる。出て太白と従わず、およびそれぞれ一方に出るのを格といい、野に軍があっても戦わない。
およそ五星の出現・潜伏、留行、逆行・順行、遅速が暦の度数に応じるのを、その行いを得たといい、政は常に合致する。暦に違い度を誤り、路を失い盈縮するのを、乱行という。乱行すると天の矢(流星)や彗星・孛星となり、亡国や政変、兵乱・飢饉・喪乱の禍いがあるという。
雑星気
図緯の旧説、および漢末に劉表が荊州牧となった時、武陵太守の劉叡に命じて天文の諸占を集めさせ、『荊州占』と名付けた。その雑星の体には、瑞星、妖星、客星、流星、瑞気、妖気、日月傍気があり、ここではその名称と形状を略し、その占いの験を挙げ、これに次ぐ。
瑞星
第一は景星。半月のようで、晦朔(月の終わりと初め)に生じ、月を助けて明るくする。あるいは、星が大きく中が空であるという。あるいは、三星あり、赤方気(南方の気)に在り、青方気(東方の気)と相连り、黄星が赤方気の中にあるのも徳星という。
第二は周伯星。黄色で、煌々と輝き、見える国は大いに栄える。
第三は含譽。光耀が彗星のようで、喜びがあると含譽が射る。
第四は格澤。炎火のようで、下が大きく上が鋭く、色は黄白で、地から起き上がる。見えると種を蒔かずに収穫があり、土木工事があり、大客(貴賓)がある。
妖星
第一は彗星で、いわゆる掃星である。本体は星に似て、尾は彗に似、小さいものは数寸、長いものは天の端から端まで届くこともある。出現すると兵乱が起こり、大水害が起きる。掃除を司り、古いものを除き新しいものを布く。五色があり、それぞれ五行の本精が司るものに依る。史臣が案ずるに、彗星の本体は光を発さず、太陽に近づいて光を帯びる。そのため夕方に見えるときは東を指し、朝に見えるときは西を指す。太陽の南北にあっても、皆日光に従って指す方向が決まる。その芒を頓挫させ、あるいは長くあるいは短く、光芒の及ぶところに災いが起こる。
第二は孛星で、彗星の類である。偏って指すものを彗といい、芒の気が四方に出るものを孛という。孛とは、ぼうぼうとして尋常でなく、悪気が生じたものである。内に大乱がなければ、外に大軍が起こり、天下が合謀し、暗く蔽われて明らかでなく、傷害を受けることがある。晏子が言うには、「君が改めなければ、孛星が出よう。彗星など何を恐れようか!」この言葉から言えば、災いは彗星よりも甚だしい。
第三は天棓で、一名を覚星という。本体は星に似て、末端が鋭く、長さ四丈。あるいは東北方や西方に出て、奮い争うことを司る。
第四は天槍である。これが出ると、三月を過ぎず、必ず国を破り君を乱す者がおり、その罪によって伏して死ぬ。災いが尽きないときは、旱魃・飢饉・暴疾が起こる。
第五は天欃である。石氏によれば、雲が牛の形のようである。甘氏によれば、本体は星に似て、末端が鋭い。巫咸によれば、彗星が西方に出て、長さ三丈ほどになり、捕らえ制することを司る。
第六は蚩尤旗で、彗星に似て後ろが曲がり、旗のようである。ある説では、赤い雲が単独で現れる。ある説では、その色は上が黄で下が白である。ある説では、雚(すすき)を植えたように長く、名づけて蚩尤の旗という。ある説では、箕のようで、長さ二丈ほどになり、末端に星がある。枉(曲がったこと)や逆を伐つことを司り、惑乱を司り、見える方角の下に兵乱があり、兵乱が大いに起こる。そうでなければ、喪事がある。
第七は天衝で、人のように出て、蒼い衣に赤い頭で、動かない。出現すると臣が主を謀り、武卒が発し、天子が亡びる。
第八は国皇で、大きく赤く、南極老人星に似ている。ある説では、地を去ること一二丈、炬火のようで、内寇や内難を司る。ある説では、その下で兵乱が起こり、兵が強い。ある説では、内外に兵乱と喪事がある。
第九は昭明で、太白星に似た象で、光芒があり、運行しない。ある説では、大きく白く、角がなく、急に上ったり急に下ったりする。一説では、赤い彗星が分かれて昭明となり、昭明が光を滅ぼすのは、覇が起こり徳が起こる徴とし、起こる国では兵乱に変化が多い。一説では、大人に凶事があり、兵乱が大いに起こる。
第十は司危で、太白星のようで、目がある。ある説では、正西に出て、西方の野星で、地を去ること約六丈、大きく白い。ある説では、大きくて毛があり、二つの角がある。ある説では、太白星に似て、数回動き、よく観察すると赤く、乖争の徴であり、強兵を撃つことを司る。出現すると主が法を失い、豪傑が起こり、天子が不義によって国を失い、名声ある臣が主の徳を行なう。
第十一は天讒で、彗星が西北に出て、剣のような形で、長さ四五丈。ある説では、鉤のようで、長さ四丈。ある説では、形は白く小さく、数回動き、殺罰を司る。出るとその国内で乱が起こり、その下で互いに讒言し、飢饉と兵乱となり、赤地千里、枯骨が累々と積む。
第十二は五残で、一名を五鏠といい、正東に出て、東方の星である。形は辰星に似て、地を去ること約六七丈。ある説では、蒼い彗星が散って五残となり、辰星のようで、角から出る。ある説では、星の表面に暈のような気があり、毛がある。ある説では、大きく赤く、数回動き、よく観察すると青い。乖離と滅亡を司る。五つに分かれるのは、毀敗の徴であり、また急兵に備える徴でもある。出現すると主が誅殺され、政権が伯(諸侯の長)にあり、野で乱が成り、急兵があり、喪事があり、衝に不利である。
第十三は六賊で、正南に出て見え、南方の星である。地を去ること約六丈、大きく赤く、動きに光がある。ある説では、形は彗星のようである。五残・六賊が出ると、禍いが天下に合し、逆に枢機を侵す。その下に兵乱があり、衝に不利である。
第十四は獄漢で、一名を咸漢といい、正北に出て、北方の野星で、地を去ること約六丈、大きく赤く、数回動き、よく観察すると中が青い。ある説では、表面は赤く、下に三つの彗星が縦横に従う。遂王(王を遂行すること)を司り、王を刺すことを司る。出ると陰精が横たわり、その下で兵乱が起こる。また喪事となり、動くと諸侯が驚く。
第十五は旬始といい、北斗の傍らに現れ、雄鶏のようである。その怒るときは青黒色を帯び、伏せた鱉に似る。あるいは、怒るとは雌のことであり、兵争を司るという。また、黄彗が分かれて旬始となり、君主を立てる題目となり、乱を司り、横暴を招くという。出現すれば臣下が乱を起こし兵が起こり、諸侯が虐政を行い、十年の期限で聖人が起こって討伐し、群悪が横行する。あるいは、出現すれば諸侯が雄叫びをあげるという。
第十六は天鋒といい、彗星が矛の鋒のように見える。天下に縦横の争いがあれば、天鋒星が現れる。
第十七は燭星といい、太白のようである。その出現は移動せず、現れるとまもなく消滅する。あるいは、主星の上に三つの彗星が上に向かって出るもので、出現した城邑は乱れ、大盗が成功せず、また五色によって占うという。
第十八は蓬星といい、大きさは二斗の器ほどで、色は白く、一名を王星という。夜の火の光のような形で、多いときは四五個、少ないときは一二個現れる。一つには、蓬星は西南に現れ、長さ数丈で、左右が尖っている。出現すると場所を変えやすい。この星が現れると、三年以内に乱臣が誅殺される。また、出現したところでは大水や大旱魃が起こり、五穀が実らず、人々が共食いするという。
第十九は長庚といい、一匹の布が天にかかっているようである。出現すれば兵乱が起こる。
第二十は四填といい、星が四隅から現れ、地面から六丈余り離れる。あるいは四丈ともいう。あるいは、星は大きく赤く、地面から二丈離れ、常に夜半時に現れる。出現すれば十月後に兵乱が起こり、いずれもその下で兵乱が起こる。
第二十一は地維藏光といい、四隅から現れる。あるいは、大きく赤く、地面から二三丈離れ、月が昇り始めたようである。出現すればその下に乱があり、乱を起こす者は滅び、徳のある者が栄える。
『河図』にいう。
歳星の精気が流れて天棓・天槍・天猾・天衝・国皇・反登・蒼彗となる。
熒惑の精気が散じて昭旦・蚩尤の旗・昭明・司危・天欃・赤彗となる。
填星の精気が散じて五残・獄漢・大賁・昭星・絀流・旬始・蚩尤・虹蜺・撃咎・黄彗となる。
太白の精気が散じて天杵・天柎・伏霊・大敗・司姦・天狗・天残・卒起・白彗となる。
辰星の精気が散じて枉矢・破女・拂枢・滅宝・繞綎・驚理・大奮祀・黒彗となる。
五色の彗星は、それぞれ長短があり、曲がりくねった様子が天象に応じる。
漢の京房が著した『風角書』に『集星章』があり、そこに載せられた妖星はすべて月の傍らに現れ、互いに五色の方形の雲をなし、五寅の日に現れ、それぞれ五星から生じると記されている。
天槍、天根、天荊、真若、天榬、天樓、天垣は、いずれも歳星から生じたものである。甲寅の日に現れ、その星のそばには常に二つの青い方形がある。
天陰、 晉 若、官張、天惑、天崔、赤若、蚩尤は、いずれも熒惑から生じたものである。丙寅の日に出現し、そのそばには二つの赤い方形がある。
天上、天伐、従星、天樞、天翟、天沸、荊彗は、いずれも填星から生じたものである。戊寅の日に出現し、そのそばには二つの黄色い方形がある。
若星、帚星、若彗、竹彗、牆星、榬星、白雚は、いずれも太白から生じたものである。庚寅の日に出現し、そのそばには二つの白い方形がある。
天美、天欃、天杜、天麻、天林、天蒿、端下は、いずれも辰星から生じたものである。壬寅の日に出現し、そのそばには二つの黒い方形がある。
以上の三十五星は、すなわち五行の気から生じたもので、いずれも月の左右の気の中から現れる。それぞれが生じた星が出現するかしないかの日数を期して待つ。その星がまだ出現しない前に見えると、水害や旱魃、戦争や喪、飢饉や混乱が起こる。指し示す方向の国は滅亡し、領土を失い、王が死に、軍は破れ、将軍は殺される。
客星
張衡は言う。「老子四星および周伯、王蓬絮、芮がそれぞれ一つずつ、五つの惑星の間に散らばっている。その出現には時期がなく、その運行には法則がない」と。『荊州占』にはこうある。「老子星の色は純白で、これが見える国では、飢饉や凶事、善事や悪事、喜びや怒りが起こる。周伯星は黄色く輝き、その星が至る国は大いに栄える。蓬絮星の色は青くてぼんやりと光り、その星が至る国では風雨が調わず、酷い旱魃が起こり、物が生えず、五穀が実らず、蝗が多く発生する。」またこうも言う。「東南に三つの星が現れるのを盗星といい、出現すると民衆の中に大盗が現れる。西南に三つの星が現れるのを種陵といい、出現すると天下の穀物の値段が十倍になる。西北に三つの大きな白い星が現れるのを天狗といい、出現すると人々が共食いし、大いに凶事となる。東北に三つの大きな星が現れるのを女帛といい、出現すると大きな喪事がある。」
流星
流星は、天の使者である。上から降るものを流といい、下から昇るものを飛という。大きいものを奔といい、奔もまた流星である。星が大きければ使者も大きく、星が小さければ使者も小さい。音が轟々と鳴るのは、怒りの象徴である。動きが速ければ時期も早く、動きが遅ければ時期も遅い。大きくて光らないのは、一般民衆の事柄である。小さくて光るのは、貴人の事柄である。大きくて光るのは、その人が貴くかつ大勢である。明るくなったり消えたりするのは、賊が敗れて事が成るということである。前が大きく後が小さいのは、恐れや憂いである。前が小さく後が大きいのは、喜ばしい事柄である。蛇のように進むのは、奸計である。速く去るのは、往って戻らないことである。長いのは、その事柄が長く続くことである。短いのは、事柄が急であることである。奔星が落ちたところには、その下に戦争がある。風も雲もないのに流星が現れ、しばらくしてから消えるのは、大風が起こり、家屋を壊し木を折る前兆である。小さな流星が数百個、四方に飛び散るのは、民衆が流亡移住する象徴である。
流星の類で、音が松明の火が地に落ちるようであり、野鶏が鳴くようなものは、天保である。その落ちた国は安泰で、喜びがある。もし小さな流星で色が青赤のものを地雁といい、その落ちたところでは兵が起こる。流星で光が青赤で、長さが二三丈あるものを天雁といい、軍中の精華である。その国では兵が起こり、将軍は星の向かう方向に従うべきである。流星が輝いて光り、光が白く、長さが天を貫くものは、人主の星である。宰相や将軍は星の向かう方向に従う。
飛星が大きさ甕や壺のようで、後ろが皎然と白く、前が低く後が高いものを頓頑といい、それに従う者は多くが死亡する。飛星が大きさ甕や壺のようで、後ろが皎然と白く、星が消えた後、白いものが車輪のように曲がり環をなすものを解銜といい、その国の人々は爵禄のために互いに斬り合う。飛星が大きさ甕や壺のようで、その後ろが皎然と白く、長さ数丈あり、星が消えた後、白いものが雲に変わって流れ下るものを大滑といい、その下では流血し骨が積もる。
枉矢は流星に似て、色は蒼黒く、蛇のように進み、見ると毛があるように見え、目が数匹分長く、天に付着している。反逆の芽生えを主り、愚かな者を射ることを主る。出現すると謀反の兵が集まり、射殺されるべき者を誅し、また乱をもって乱を伐つことにもなる。
天狗は、大きな奔星のような形で、色は黄く、音があり、その止まる地は狗に似ている。その落ちたところを見ると、火の光のようで、炎々と天に衝き、その上部は鋭く、下部は丸く、数頃の田んぼほどの広さである。ある説では、星に毛があり、そばに短い彗星があり、下に狗の形があるという。あるいは、星が現れ、その様子が赤白で光り、下ったものが即ち天狗であるという。一説には、流星に光があり、人の顔のように見え、音もなく落ち、もし足があるようなら、天狗という。その色は白く、中は黄く、黄は残り火のようである。兵を待ち賊を討つことを主る。出現すると四方が互いに射合い、千里の地で軍が破れ将が殺される。あるいは、五人の将が争い、人々が共食いし、その向かう郷では流血があり、その君主は領土を失い、大いに兵が起こり、国は政を変え、守りを戒める。
営頭は、雲が山が崩れ落ちるようであり、いわゆる営頭の星である。その落ちたところでは、軍が覆され、千里にわたって流血する。また、流星が昼間に落ちるのを営頭ともいう。
雲気
瑞気:第一は慶雲。煙のようで煙ではなく、雲のようで雲ではない。鬱々として盛んに立ち、蕭索として輪囷(うねる)している。これを慶雲といい、また景雲ともいう。これは喜びの気であり、太平の応である。第二は帰邪。星のようで星ではなく、雲のようで雲ではない。あるいは、星に二つの赤い彗星が上向きにあり、蓋があり、下は星に連なっている。これが現れると、必ず帰国する者がある。第三は昌光。赤く、龍の形をしている。聖人が起こり、帝が天命を受けると、これが現れる。
妖気:第一は虹蜺。太陽の傍らの気であり、北斗の乱れた精である。心を惑わすことを主り、内に淫らなことを主り、臣が君を謀ることを主る。天子が屈し、后妃が専横し、妻が一つでないことを表す。第二は䍧雲。犬のようで、赤色、長い尾を持つ。乱れた君、兵乱と喪を表す。
十煇
『周礼』に、眡祲氏が十煇の法を掌り、妖祥を観察し、吉凶を弁ずるとある。第一は祲。陰陽五色の気が浸淫して互いに侵すことをいう。あるいは、抱・珥・背・璚の類で、虹のようだが短いものをいう。第二は象。雲気が形を成し、赤い烏のようで、太陽を挟んで飛ぶ類のものをいう。第三は觿。太陽の傍らの気で、太陽を刺す。形は童子が佩く觿のようである。第四は監。雲気が太陽の上に臨むことをいう。第五は闇。日食・月食をいう。あるいは、光が脱けるともいう。第六は瞢。瞢々として明るくないことをいう。第七は弥。白虹が天に満ちて太陽を貫くことをいう。第八は序。気が山のようで太陽の上にあることをいう。あるいは、冠・珥・背・璚が重なり合って順序をなし、太陽の傍らにあることをいう。第九は隮。暈気をいう。あるいは、虹をいう。『詩経』にいう「朝に隮す西に」である。第十は想。気が五色で形があり、思い浮かべられるものをいう。青は飢饉、赤は兵乱、白は喪、黒は憂い、黄は豊熟。あるいは、想は思うことである。赤気が狩りの形をなすもので、思いをめぐらせてその吉凶を知ることができる。
遊気が天を蔽い、日月が色を失うのは、すべて風雨の前兆である。沈陰で日月ともに光がなく、昼は太陽が見えず、夜は星が見えないのは、雲が障っているためで、両敵が相対し、陰で謀議をしていることを表す。太陽が濛々として光がないのは、士卒が内乱することを表す。また、数日の太陽がともに出て、闘っているようだと、天下に兵乱が起こり、大戦となる。太陽が闘うと、下に城を抜くことがある。太陽に戴するものは、形が直状で、その上に微かに盛り上がり、太陽の上にあるものを戴という。戴は徳であり、国に喜びがあることを表す。一説に、太陽の上に立つものを戴という。青赤の気が太陽の上を抱く。小さいものを冠といい、国に喜事があることを表す。青赤の気が小さくて太陽の下で交わるものを纓という。青赤の気が小さくて丸く、一二が太陽の下の左右にあるものを紐という。青赤の気が小さい半暈の形で太陽の上にあるものを負という。負は地を得て喜ぶことを表す。また、青赤の気が長く斜めに太陽の傍らに寄りかかるものを戟という。青赤の気が丸くて小さく、太陽の左右にあるものを珥という。黄白のものは喜びがある。また、軍があるとき、太陽に一つの珥があるのは喜びである。太陽の西にあると、西軍が戦勝する。太陽の東にあると、東軍が戦勝する。南北も同様である。軍がないのに珥があると、将を拝することを表す。また、太陽の傍らが半環のようで太陽に向かうものを抱という。青赤の気が月の初めの生じるようで、太陽に背くものを背という。また、背気は青赤で曲がり、外向きは反逆の象で、分かれて城を反すことを表す。璚は帯のようで、太陽の四方にある。青赤の気が長く立って太陽の傍らにあるものを直という。太陽の傍らに一直があると、敵が一方にいて自立を欲し、直の指す方向を撃つ者が勝つ。太陽の傍らに二直三抱があると、自立を欲する者は成らず、抱に順って撃つ者が勝ち、将を殺す。気の形が三角で、太陽の西方にあるものを提という。青赤の気が横たわって太陽の上下にあるものを格という。気が半暈のようで太陽の下にあるものを承という。承は、臣が君を承けることである。また、太陽の下に黄気が三重あって抱くようであれば、承福といい、人主に吉喜があり、かつ地を得ることを表す。青白の気が履のようで太陽の下にあるものを履という。太陽の傍らに五重の抱があると、戦いで抱に順う者が勝つ。太陽に一抱一背があると、破走を表す。抱は順気であり、背は逆気である。両軍が相対するとき、順抱で逆を撃つ者が勝つので、破走という。太陽が抱き、かつ両珥があり、一虹が抱を貫いて太陽に至ると、虹に順って撃つ者が勝ち、将を殺す。太陽が抱き、両珥があり、かつ璚があり、二虹が抱を貫いて太陽に至ると、虹に順って撃つ者が勝つ。太陽が重ねて抱き、内に璚があると、抱に順って撃つ者が勝つ。また、軍内に反しようとする者がいることを表す。太陽が重ねて抱き、左右に二珥があり、白虹が抱を貫くと、抱に順って撃つ者が勝ち、二将を得る。三虹があると、三将を得る。太陽が抱き、黄白で潤沢、内は赤く外は青いと、天子に喜びがあり、和親して降ってくる者がある。軍は戦わず、敵が降伏し、軍が罷まる。色が青黄だと、将に喜びがある。赤だと、将兵が争う。白だと、将に喪がある。黒だと、将が死ぬ。太陽が重ねて抱き、かつ背があると、抱に順って撃つ者が勝ち、地を得、あるいは師を罷めることがある。太陽が重ねて抱き、抱の内外に璚があり、両珥があると、抱に順って撃つ者が勝ち、軍を破り、軍中が和せず、信じ合わない。太陽の傍らに気があり、丸く周囲を巡り、内は赤く外は青いものを暈という。日暈は、軍営の象である。周囲が太陽を巡り、厚薄がなければ、敵と軍の勢いが等しい。もし外に軍がなければ、天子が御を失い、民多く叛くことを表す。日暈に五色があると、喜びがある。五色が得られないと、憂いがある。
凡そ占うには、両軍が相対するとき、必ず謹んで日月の暈気を審らかにし、その起こる所、留まる遠近、応ずるか応じないか、速さ遅さ、大小、厚薄、長短、抱背の多少、有無、虚実、久しさ急さ、密疏、潤い枯れを知る。相応じて等しいものは勢いが等しい。近いが遠いに勝ち、速いが遅いに勝ち、大が小に勝ち、厚いが薄いに勝ち、長いが短いに勝ち、抱が背に勝ち、多いが少ないに勝ち、あるが無いに勝ち、実が虚に勝ち、久しいが急なのに勝ち、密が疏に勝ち、潤いが枯れに勝つ。重背は大破を表す。重抱は和親を表す。抱が多いと、親しい者が益々多いことを表す。背は天下が和せず、分離して去ることを表す。内に背く者は内で離れ、外に背く者は外で離れる。
雑気
天子の気は、内は赤く外は黄で、四方で発する所には王者がいるはずである。もし天子が遊び行こうとする所があれば、その地も先にこの気を発する。あるいは城門のように気霧の中に隠然とあり、常に殺気森々としている。あるいは華蓋のように霧気の中にあり、あるいは気が青衣の人で手がなく、太陽の西にあり、あるいは龍馬のようであり、あるいは雑色が鬱々と天に沖する。これらは皆、帝王の気である。
猛将の気は、龍のようであり、猛獣のようである。あるいは火煙の状のようであり、あるいは白く粉が沸くようであり、あるいは火光の状で、夜人を照らす。あるいは白くて赤気がこれを巡り、あるいは山林竹木のようであり、あるいは紫黒で門上の楼のようであり、あるいは上が黒く下が赤く、黒い旌のようであり、あるいは弩を張ったようであり、あるいは埃塵のようで、頭は鋭く低く、根本は大きく高い。これらは皆、猛将の気である。気が次第に雲のようになり、山形に変わると、深い謀りごとがあることを表す。
凡そ軍勝の気は、堤防のようであり、坂のようで、前後が地を磨く。あるいは水の光のようであり、将軍は勇猛で、士卒は猛り立つ。あるいは山の堤防のようで、山上に林木があるようであり、将士は 驍 勇である。あるいは埃塵が粉のように沸き、その色は黄白である。あるいは人が斧を持って敵に向かうようであり、あるいは蛇が首を挙げて敵に向かうようである。あるいは気が覆った舟のようであり、雲が牽牛のようである。あるいは雲が闘鶏のようで、赤白が相随い、気の中にある。あるいは黄気を発する。これらは皆、将士が精鋭で勇猛であることを表す。
凡そ気が上は黄、下は白のものを善気という。臨む軍には、敵が和を求め退こうとしている。
およそ負の気は、馬の肝臓のような色、あるいは死んだ灰色のようであり、あるいは倒れた傘のようであり、あるいは仰向けになった魚のようであり、あるいは黒い気が崩れた山のように軍の上に落ちるものは、営頭の気と呼ばれる。あるいは群れをなす牛や豚のようで、気の中にある。これらは衰えた気である。あるいは吊るされた衣のようであり、人が相従うようであり、あるいは乱れて転がる蓬のようであり、あるいは舞い上がる灰のようであり、あるいは雲が巻かれた筵のようであり、あるいは布切れが乱れているようであるものは、すべて敗北の兆候である。気が繋がれた牛のようであり、人が臥しているようであり、二匹の蛇のようであり、飛ぶ鳥のようであり、堤防や垣根が決壊するようであり、家屋が崩れるようであり、驚いた鹿が追いかけ合うようであり、二羽の鶏が向き合っているようであるものは、これらすべて敗軍の気である。
およそ降伏する人の気は、人が十人、五人と集まり、皆手を組み頭を垂れているようであり、また、人が向き合って手を組んでいるようであるともいう。あるいは気が黒い山のようで、黄色い縁取りがあるものは、すべて降伏しようとする象である。
およそ堅固な城の上に、星のような黒い雲があるものは、軍精と呼ばれる。あるいは白い気が旌旗のようであり、あるいは青い雲や黄色い雲が城に臨む。これらはすべて大きな慶事がある。あるいは気が青色で牛の頭が人を突くようであり、あるいは城上の気が煙火のようである。二匹の蛇のようであり、杵の形で外を向いているもの、あるいは雲が二つの彗星の形に分かれているものは、すべて攻撃してはならない。
およそ屠城(城を陥落させ住民を皆殺しにする)の気は、赤く飛ぶ鳥のようであり、あるいは赤い気が壊れた車のようであり、あるいは赤黒い気が狸の皮の斑紋のようであり、あるいは城中の気が楼閣のように集まり、外に現れる。陣営の上に雲が多くの人の頭のようで、赤色であるとき、その城や陣営は皆屠ることができる。気が雄の雉が城に臨むようであるとき、その下には必ず降伏する者がいる。
およそ伏兵には黒い気があり、渾然として円く長く、赤い気がその中にある。あるいは白い気が粉を沸かすように立ち、楼閣の形になる。あるいは幢節の形のようで、烏雲の中にある。あるいは赤い杵が烏雲の中にあるようであり、あるいは烏の人が赤雲の中にいるようである。
およそ暴兵(突然の兵乱)の気は、白く、瓜の蔓が連結したようで、部隊が相逐い、しばらくして収まり、また現れる。あるいは白い気が仙人のようであり、仙人の衣のようで、千万と連結し、部隊が相逐い、収まってはまた起こる。千里の兵が来るであろう。あるいは気が人が刀と楯を持つようであり、雲が人のようで、色が赤く、その臨む城邑には突然の兵が至る。あるいは赤い気が人が節を持つようであり、兵が来てまだ止まない。雲が方形の虹のようである。これらはすべて暴兵の象である。
およそ戦気は、青白く膏のようである。人の頭がないようであり、死人が臥しているようであり、丹蛇のようで、赤い気がそれに従うときは、必ず大戦があり、将を殺す。四方を見渡して雲がなく、赤い気が狗のように陣営に入るのを見ると、その下には流血がある。
およそ十日間連続して陰天となり、昼は日を見ず、夜は月を見ず、乱風が四方から起こり、雨が降ろうとして降らないものを蒙といい、臣下に謀略がある。霧気が昼のようでも夜のようでもあり、その色が青黄で、互いに覆い被さり、急に合い急に散るものも同様である。四方を見て常に大きな雲があり五色を備えているときは、その下に賢人が隠れている。青雲が潤沢で日を蔽い、西北にあるときは、賢良を挙げる。雲気が乱れた藁のようであるときは、大風が来ようとしている。来る方角を見よ。雲が非常に潤い厚いときは、大雨が必ず急に至る。四始(立春、立夏、立秋、立冬)の日に、黒い雲気が陣のようで、厚く大きく重いものは、雨が多い。気が霧のようで霧でなく、衣冠が濡れないときは、見るとその城は甲冑を帯びて急ぐ。日の出没時に霧気が横切るとき、白いものは喪、黒いものは驚き、三日以内に雨が降ればそれぞれ解ける。雲が蛟龍のようであるとき、見えるところの将軍は魂魄を失う。雲が鵠の尾のようで国上に来て覆うとき、三日で滅びる。雲が赤黄色で四方を塞ぎ、終日終夜地を照らすときは、大臣が放恣に振る舞う。雲が気のようで、暗く濁っているときは、賢人が去り、小人在位となる。
およそ白虹は、百の災いの根本であり、多くの乱の基である。霧は、多くの邪の気であり、陰が来て陽を冒す。
およそ白虹と霧は、奸臣が君を謀り、権を擅にして威を立てる。昼に霧があり夜が明るいときは、臣下の志が通じる。
およそ夜に霧と白虹が見えるときは、臣下に憂いがある。昼に霧と白虹が見えるときは、君主に憂いがある。虹の頭と尾が地に至るときは、流血の象である。
およそ霧気が四時に順わず、逆に交錯し、微風小雨のときは、陰陽の気が乱れた象である。積日解けず、昼夜昏暗のときは、天下が分離しようとする。
およそ天地四方が昏蒙で塵が降るようであり、十日五日以上、あるいは一月、あるいは一季、雨水が衣に沾いて土があるものを霾という。故にいう、天地に霾あれば、君臣乖離す、と。
およそ海辺の蜃気楼は楼台のようであり、広野の気は宮闕を成し、北夷の気は牛羊や群畜、穹廬のようであり、南夷の気は舟船や幡旗に類する。華山以南では、気は下が黒く上が赤い。嵩高、三河の郊では、気は正しく赤い。恒山の北では、気は青い。勃碣、海岱の間では、気は皆正しく黒い。江淮の間では、気は皆白い。東海の気は丸い笠のようである。漢水、河水に附く気は、布を引くようである。江漢の気は勁く杼のようであり、済水の気は黒い子豚のようであり、渭水の気は狼の白い尾のようであり、淮南の気は白い羊のようであり、少室山の気は白い兎の青い尾のようであり、恒山の気は黒い牛の青い尾のようである。東夷の気は樹木のようであり、西夷の気は家屋のようであり、南夷の気は楼閣や台のようであり、あるいは舟船に類する。
陣雲は立ち上がった垣のようである。杼軸雲は軸に類し、搏たれ、両端が尖っている。杓雲は縄のようで、前に居て天に亘り、その半ばは半天にある。その蛪たるものは闕旗に類する故である。鉤雲は句曲している。これらの雲が見えるときは、五色によって占う。そして潤沢で密に搏たれ、その現れが人を動かすときは、兵が必ず起こり、合戦してその方向に直進する。雲気が三匹の帛のようで、前が広く後が尖っているときは、大軍が行く気である。
韓の国の雲は布のようであり、趙の国の雲は牛のようであり、楚の国の雲は日のようであり、宋の国の雲は車のようであり、魯の国の雲は馬のようであり、衛の国の雲は犬のようであり、周の国の雲は車輪のようであり、秦の国の雲は行く人のようであり、魏の国の雲は鼠のようであり、鄭の国の雲は深紅色の衣のようであり、越の国の雲は龍のようであり、蜀の国の雲は穀物倉のようである。
車の気は急に高くなったり低くなったりし、しばしば集まる。騎兵の気は低く広がる。歩兵の気は固まっている。前が低く後が高いものは、迅速である。前方が高く後方が尖っていて低いものは、退却する。その気が平らなものは、その進行はゆっくりである。前が高く後が低いものは、止まらずに戻る。偵察騎兵の気は、まさに蒼黒く、長さ数百丈である。遊撃兵の気は彗星が掃くようであり、一説には長さ数百丈で、根本がない。喜びの気は上が黄色で下が赤く、怒りの気は上下とも赤く、憂いの気は上下とも黒い。土木工事の気は黄白色である。移転の気は白い。
およそ気を観測する方法は、気が初めて現れるとき、雲のようで雲でなく、霧のようで霧でなく、ぼんやりと見えるようである。初めに出るときは森然として、桑や楡の木の上に、高さ五六尺あるものは、これは千五百里の外である。水平に見れば千里、目を上げて望めば五百里、天の中央を仰ぎ見れば、百里以内である。水平に望めば、桑や楉の間は二千里、高い所に登って望めば、下が地に属するものは、三千里である。敵が東にいるときは、日の出に観測し、南にいるときは、日中の正午に観測し、西にいるときは、日の入りに観測し、北にいるときは、夜半に観測する。軍の上の気は、高いものが低いものに勝ち、厚いものが薄いものに勝ち、充実したものが空虚なものに勝ち、長いものが短いものに勝ち、潤っているものが枯れているものに勝つ。気が現れて大きさを知り、占う期間内に大風雨があり、長く陰っていると、災いは成就しない。
史伝に記された事実の検証
天の変異
恵帝元康二年二月、天の西北が大きく裂けた。劉向の説によると、「天が裂けるのは陽が不足であり、地が動くのは陰が余っているからである。」この時、君主は愚昧で、妃や皇后が専制していた。
太安二年八月庚午、天が真ん中から二つに裂け、雷のような音が三度した。君主の道が損なわれ臣下が専横・僭越する象徴である。この日、長沙王が帝を奉じて出て、成都王と河間王の二王に対抗した。後に成都王、河間王、東海王がまた代わる代わる威命を専らにし、これがその応報である。
穆帝昇平五年八月己卯の夜、天が真ん中から裂け、幅三四丈、雷のような音がし、野の雉が皆鳴いた。この後、哀帝は放蕩で病み、海西公は徳を失い、皇太后が臨朝し、太宗が万機を総覧し、 桓温 が権力を専らにして、威勢が内外に振るい、陰気が盛んで陽気が微かであった。
元帝太興二年八月戊戌、天が東南で鳴き、風と水が互いに迫るような音がした。京房の易妖占に曰く、「天に声があるのは、人主に憂いがあるからである。」三年十月壬辰、天がまた鳴き、甲午に止んだ。その後、王敦が石頭城に入り、朝廷の軍は大敗した。元帝は屈辱を受け、強臣に制せられ、やがて崩御し、大いなる恥は雪がれなかった。
安帝隆安五年閏月癸丑、天が東南で鳴いた。六年九月戊子、天が東南でまた鳴いた。この後、桓玄が帝位を 簒奪 し、安帝は流浪し、憂いはこれより大きいものはなかった。鳴くたびに東南なのは、おそらく中興が江の外にあり、天がそれに従って鳴いたのであろう。
義熙元年八月、天が鳴き、東南にあった。京房の『易伝』に曰く、「万姓が労するとき、その妖は天鳴である。」この時、安帝は正統に復帰したが、戦争が毎年起き、民衆は勤労していた。
日食
魏の文帝黄初二年六月戊辰晦、日食があった。有司が 太尉 の免職を上奏したが、 詔 して言った、「災異が起こるのは、元首を譴責するためであり、それを股肱の臣の過ちに帰するのは、どうして禹や湯が己を罪した意義であろうか。百官にそれぞれその職務に虔しくあらしめよ。後に天地の災いがあっても、三公を腹誹して弾劾してはならない。」三年正月丙寅朔、日食があった。十一月庚申晦、また日食があった。五年十一月戊申晦、日食があった。明帝太和の初め、太史令の許芝が上奏し、日食が起こるはずだとし、 太尉 と共に霊台で祈禱した。帝は言った、「聞くところによれば、人主の政治に不徳があると、天は災異をもってこれを恐れさせ、譴責して告げ、自ら修めさせるという。故に日月が薄蝕するのは、政治の道に不適当なところがあることを明らかにするのである。朕が即位して以来、すでに先帝の聖徳を光り輝かせることができず、また教化を施すのに皇神に合わないところがあるので、天が上でこれを悟らせたのであろう。政事を自ら修めるよう命じ、神明に報いるべきである。天と人との関係は、父と子の関係のようであり、父が子を責めようとして、盛大な饌を献げて免れようとするようなことはない。今、外では上公と太史令に一緒に穢れを祓い祠ることを譴そうとしているが、その意義は聞いたことがない。群公卿士大夫は、それぞれその職務を努めて修めよ。朕の及ばないところを補うことができる者は、それぞれ封をして上奏せよ。」太和五年十一月戊戌晦、日食があった。六年正月戊辰朔、日食があった。呉の暦に見える。
青龍元年閏月庚寅朔、日食があった。
少帝正始元年七月戊申朔、日食があった。三年四月戊戌朔、日食があった。四年五月丁丑朔、日食があった。五年四月丙辰朔、日食があった。六年四月壬子朔、日食があった。十月戊申朔、また日食があった。八年二月庚午朔、日食があった。この時、 曹爽 が政権を専らにし、丁謐、鄧颺らが法度を次々と改めた。たまたま日食の変異があり、 詔 して群臣に得失を問うた。蔣済が上疏して言った、「昔、大舜が政治を補佐したとき、結託を戒めた。周公が政務を補佐したとき、その仲間を慎んだ。斉の侯が災いを問うと、晏子は恩恵を施すことで答え、魯の君が異変を問うと、臧孫は労役を緩めることで答えた。変異を塞ぎ天に応じるのは、実は人事によるのである。」蔣済の趣旨の譬えは非常に痛切であったが、君臣は悟らず、ついに敗亡に至った。九年正月乙未朔、日食があった。
嘉平元年二月己示朔(朔日)、日食があった。
高貴郷公の甘露四年七月戊子朔、日食があった。五年正月乙酉朔、日食があった。京房の易占に言う:「日食が乙酉にあるときは、君主が弱く臣下が強い。司馬が兵を率いて、その王を征伐に反する。」五月、成済の変があった。
元帝の景元二年五月丁未朔、日食があった。三年十一月己亥朔、日食があった。
武帝の泰始二年七月丙午晦、日食があった。十月丙午朔、日食があった。七年十月丁丑朔、日食があった。八年十月辛未朔、日食があった。九年四月戊辰朔、日食があった。また、七月丁酉朔、日食があった。十年正月乙未、三月癸亥、ともに日食があった。
咸寧元年七月甲申晦、日食があった。三年正月丙子朔、日食があった。四年正月庚午朔、日食があった。
太康四年三月辛丑朔、日食があった。七年正月甲寅朔、日食があった。八年正月戊申朔、日食があった。九年正月壬申朔、六月庚子朔、ともに日食があった。永熙元年四月庚申、帝が崩御した。
恵帝の元康九年十一月甲子朔、日食があった。十二月、皇太子を廃して庶人とし、まもなく殺害した。
永康元年正月己卯、四月辛卯朔、ともに日食があった。
永寧元年閏月丙戌朔、日食があった。
光熙 元年正月戊子朔、七月乙酉朔、ともに日食があった。十一月、恵帝が崩御した。十二月壬午朔、また日食があった。
懐帝の永嘉元年十一月戊申朔、日食があった。二年正月丙子朔、日食があった。六年二月壬子朔、日食があった。
愍帝の建興四年六月丁巳朔、十二月甲申朔、ともに日食があった。五年五月丙子、十一月丙子、ともに日食があった。この時、帝は平陽で蒙塵(難を避けて流浪)していた。
元帝の太興元年四月丁丑朔、日食があった。
明帝の太寧三年十一月癸巳朔、日食があった。卯から斗の間にあった。斗は呉の分野である。その後、蘇峻が乱を起こした。
成帝の咸和二年五月甲申朔、日食があった。井宿にあった。井宿は酒食を司り、女主の象徴である。翌年、皇太后が憂いのうちに崩御した。六年三月壬戌朔、日食があった。この時、帝はすでに年長であったが、しばしば 司徒 の邸宅に行幸し、なお出入りの際に 王導 の夫人曹氏に会うときは子弟の礼のようであった。君主として人臣の妻を敬うことは、君主の徳を損なう象徴である。九年十月乙未朔、日食があった。この時、帝はすでに元服し、自ら万機を親裁すべきであったが、政務を大臣に委ねており、君主の道が損なわれていることを表していた。
咸康元年十月乙未朔(1日)、日食があった。七年二月甲子朔、日食があった。三月、杜皇后が崩御した。八年正月乙未朔、日食があった。都では大雨が降り、郡国から報告があった。これは三朝(正月朔旦)に当たり、王者はこれを忌み嫌う。六月に帝(成帝)が崩御した。
穆帝の永和二年四月己酉、七年正月丁酉、八年正月辛卯、いずれも日食があった。十二年十月癸巳朔、日食があり、尾宿にあった。尾宿は燕の分野で、北狄の象徴である。この時、辺境では 姚襄 と苻生が互いに争い、朝廷は憂慮し、征伐が止まなかった。
升平四年八月辛丑朔、日食があり、ほぼ皆既に近く、角宿にあった。凡そ日食は、浅いものは禍いも浅く、深いものは禍いも大きい。角宿は天門であり、君主はこれを忌み嫌う。翌年に帝(穆帝)が崩御した。
哀帝の隆和元年三月甲寅朔、十二月戊午朔、いずれも日食があった。翌年、帝は病に罹り、政務を執ることができなくなった。
海西公の太和三年三月丁巳朔、五年七月癸酉朔、いずれも日食があった。これらは皆、海西公が廃位される前兆であった。
孝武帝の寧康三年十月癸酉朔、日食があった。
太元四年閏月己酉朔、日食があった。この時、 苻堅 が 襄陽 を攻め落とし、朱序を捕らえた。六年六月庚子朔、日食があった。九年十月辛亥朔、日食があった。十七年五月丁卯朔、日食があった。二十年三月庚辰朔、日食があった。翌年、帝(孝武帝)が崩御した。
安帝の隆安四年六月庚辰朔、日食があった。この時、元顕が政権を執っていた。
元興二年四月癸巳朔、日食があった。その冬、桓玄が帝位を 簒奪 した。
義熙三年七月戊戌朔、日食があった。十年九月丁巳朔、日食があった。十一年七月辛亥晦、日食があった。十三年正月甲戌朔、日食があった。翌年、帝(安帝)が崩御した。
恭帝の元熙元年十一月丁亥朔、日食があった。義熙元年からこれに至るまで、日食は皆、上(天の北東)から始まり、いずれも革命の兆しであった。
『周礼』によれば、眡祲氏は十煇の法を掌り、妖祥を観察し、吉凶を弁別した。祲、象、鐫、監、闇、瞢、弥、序、隮、想の十種がある。後世では名称が変わり、解釈する者も一致しない。今、その著しい応験を記録し、順に列挙する。
呉の孫権の赤烏十一年二月、白虹が太陽を貫いた。孫権は 詔 を発して戒め恐れた。
武帝の泰始五年七月甲寅、日暈が二重になり、白虹がそれを貫いた。
太康元年正月己丑朔、五色の気が太陽を冠のように覆い、卯の刻から酉の刻まで続いた。占いでは「君主の道が明らかでなくなる。丑は斗牛の分野で、呉越を主る」という。この時、孫皓は淫乱で暴虐であり、四月に降伏した。
恵帝元康元年十一月甲申、日暈が二重に現れ、青赤色の光があった。九年正月、太陽の中に飛燕のようなものが現れ、数日後に消えた。王隠は愍懐太子が廃位され死んだ前兆と解した。
永康元年正月癸亥朔、日暈が三重に現れた。十月乙未、太陽が暗くなり、黄霧が四方に満ちた。占いでは「三年以内に、下で城を奪い合う大戦が起こる」という。十二月庚戌、太陽の中に黒気が現れた。京房『易伝』に「天を祭るのに順わないことを逆という。その異変は太陽の中に黒気が現れることである」とある。
永寧元年九月甲申、月の中に黒子が現れた。京房の易占に「黒は陰である。臣下が君主の悪を隠さず、下に見せ、民衆が君主を憎むと、この変異が起こる」とある。また「臣下に君主の明を覆い隠す者がいる」ともいう。
太安元年十一月、太陽の中に黒気が現れた。
永興元年十一月、太陽の中に黒気が現れ、太陽を分けた。
光熙 元年五月壬辰・癸巳、日光が四方に散り、血の流れのように赤く、照らされた地面はすべて赤くなった。甲午も同様であった。占いでは「君主の道が明らかさを失う」という。
懐帝永嘉元年十一月乙亥、黄黒の気が太陽を覆い、照らされたものはすべて黄色になった。『河図』の占いによれば「日薄である」という。その解説に「日蝕はすべて朔か晦に起こる。晦朔でないものを日薄という。日月が同じ宿にない時でも、陰気が盛んになって日光を覆うのである」とある。占いは日蝕に類する。二年正月戊申、白虹が太陽を貫いた。二月癸卯、白虹が太陽を貫き、青黄色の暈が五重に現れた。占いでは「白虹が日を貫くのは、近臣が乱を起こすか、さもなくば諸侯に反逆者がいる。暈が五重なのは、国主がその祥を受け、天下に兵乱があり、その地が破滅する」という。翌年、 司馬越 が君主を軽蔑し暴虐に振る舞った。五年、 劉聡 が京都を破り、帝は賊の庭で塵をかぶる身となった。五年三月庚申、日光が散乱して血のように流れ下り、照らされたものはすべて赤くなった。太陽の中に飛燕のようなものが現れた。
愍帝建興二年正月辛未辰の刻、太陽が地に落ちた。また三日の太陽が相次いで現れ、西方から出て東へ進んだ。五年正月庚子、三日の太陽が並んで照り、虹霓が天に満ちた。太陽に重暈があり、左右に両珥があった。占いでは「白虹は兵気である。三・四・五・六日の太陽がともに出て争えば、天下に兵乱が起こる。丁巳もその数である」という。また「三日並び出るのは、三十日以内に諸侯が帝位を争う。日重暈は天下に王が立つ。暈に珥があれば天下に侯が立つ」という。そこで陳卓は「大いなる慶事があり、天下は三分されるであろう」と言った。三月にして江東は元号を建武と改め、 劉聡 ・ 李雄 もまた曹操・劉備の領域を跨ぐこととなり、こうして戦乱は累代に及んだ。
元帝太興元年十一月乙卯、夜に太陽が出て、高さ三丈、中に赤青の珥があった。四年二月癸亥、日鬭が起こった。三月癸未、太陽の中に黒子が現れ、辛亥、帝が自ら囚徒を取り調べた。
永昌元年十月辛卯、太陽の中に黒子が現れた。当時、帝は劉隗を寵愛し、威福を擅にし、君主の道を損なった。王敦はこれに乗じて挙兵し、京都を脅かし、忠臣賢者に禍が及んだ。
明帝太寧元年正月乙卯朔、日暈が現れて光がなかった。癸巳、黄霧が四方に満ちた。占いでは「君主の道が明らかさを失い、陰陽が昏く、臣下に陰謀がある」という。京房は「下が刑罰を専断することを分威といい、蒙微して日が明るくならない」と言った。先に王敦が 尚書 令の刁協・ 僕射 の周顗・驃騎将軍の戴若思らを害したが、これが刑罰を専断する応報である。王敦は君主を凌いだが、ついにその罪に伏した。十一月丙子、白虹が太陽を貫いた。史官は見なかったが、桂陽太守の華包が報告した。
成帝咸和九年七月、白虹が太陽を貫いた。
咸康元年七月、白虹が太陽を貫いた。二年七月、白虹が太陽を貫いた。その後、庾氏が政権を専断し、外戚として貴くなった。これもまた婦人が国政を擅にする意味であり、だから連年白虹が日を貫いたのである。八年正月壬申、太陽の中に黒子が現れ、丙子に消えた。夏、帝が崩御した。
穆帝永和八年、 張重華 が涼州にいた時、太陽が突然火のように赤くなり、中に三本足の烏がいて、形がはっきり見え、五日後に止んだ。十年十月庚辰、太陽の中に鶏卵ほどの大きさの黒子が現れた。十一年三月戊申、太陽の中に桃ほどの大きさの黒子が二つ現れた。当時、天子は幼弱で、長く国政に親しまなかった。
升平三年十月丙午、太陽の中に鶏卵ほどの大きさの黒子が現れた。しばらくして帝が崩御した。
海西公の太和三年九月戊辰の夜、二つの虹が東方に現れた。四年四月戊辰、日暈が厚く密で、白虹が日中を貫いた。十月乙未、日中に黒子があった。五年二月辛酉、日中に黒子があり、李の実ほどの大きさだった。六年三月辛未、白虹が日を貫き、日暈が五重になった。十一月、桓温が帝を廃し、これが簡文帝の咸安元年である。
簡文帝の咸安二年十一月丁丑、日中に黒子があった。
孝武帝の寧康元年十一月己酉、日中に黒子があり、李の実ほどの大きさだった。二年三月庚寅、日中に黒子が二つあり、鴨の卵ほどの大きさだった。十一月己巳、日中に黒子があり、鶏の卵ほどの大きさだった。この時、帝はすでに成人していたが、康献皇后が従姉として臨朝し、実際に君主の道を損なったため、日に瑕があったのである。
太元十三年二月庚子、日中に黒子が二つあり、李の実ほどの大きさだった。十四年六月辛卯、日中にまた黒子があり、李の実ほどの大きさだった。二十年十一月辛卯、日中にまた黒子があった。この時、 会稽 王が同母弟として政事を掌握した。
安帝の隆安元年十二月壬辰、日暈があり、背璚があった。この後、帝は万機を親らせず、会稽王の世子元顕が威罰を専行した。四年十一月辛亥、日中に黒子があった。
元興元年二月甲子、日暈があり、白虹が日中を貫いた。三月庚子、白虹が日を貫いた。間もなく、桓玄が京都を制圧し、王師は敗北した。翌年、玄は帝位を 簒奪 した。
義熙元年五月庚午、日に彩珥があった。六年五月丙子、日暈があり、璚があった。この時、盧循が京都に迫り、内外戒厳となった。七月、循は逃走した。七年七月、五つの虹が東方に現れた。占いでは「天子が退けられる」と言った。その後、劉裕が晋に代わった。十年、日が東井にあり、南に白虹が十余丈あり日を幹とした。災いは秦の分野にあり、秦が滅亡する象である。
恭帝の元熙二年正月壬辰、白気が日を貫き、東西に直珥がそれぞれ一丈あり、白気が貫いて交差した。
月の変異
魏の文帝の黄初四年十一月、月が北斗を暈した。占いでは「大喪があり、天下に赦しがある」と言った。七年五月、帝が崩御し、明帝が即位し、天下に大赦を行った。
孝懐帝の永嘉五年三月壬申の丙夜、月が蝕し、既になった。丁夜にまた蝕し、既になった。占いでは「月が蝕し尽くすと、大人が憂える」と言い、また「その国の貴人が死ぬ」と言った。
海西公の太和四年閏月乙亥、月が軫を暈し、また白い暈が月の北を貫き、暈が斗柄の三星を貫いた。占いでは「王者これを悪む」と言った。六年、桓温が帝を廃した。
安帝の隆安五年三月甲子、月に歯が生じた。占いでは「月に歯が生じると、天子に賊臣があり、群下が自ら相い残す」と言った。桓玄の 簒 逆の徴候である。
義熙九年十二月辛卯の朔、月がなお東方に見えた。これを仄匿と言い、侯王は厳粛になる。この時、劉裕が政を輔け、威刑を自らにし、仄匿の応であるという。十一年十一月乙未、月が輿鬼に入り暈した。占いでは「主が憂え、財宝が出る」と言い、一つには「月が暈すると、赦しがある」と言った。
月が五緯を掩い犯す
一般に月が五星を蝕むと、その国は皆滅びる。五星が月に入ると、その分野では宰相が追放される。
魏の明帝の太和五年十二月甲辰、月が填星を犯した。
青龍二年十月乙丑、月がまた填星を犯した。占いは上記と同じ。戊寅、月が太白を犯した。占いでは「君主が死ぬ、また兵乱が起こる」という。景初元年七月、公孫文懿が反乱した。二年正月、宣帝( 司馬懿 )を派遣してこれを討伐させた。三年正月、天子(明帝)が崩御した。四年三月己巳、太白と月がともに影を伴って昼間に現れ、月が太白を犯した。占いは上記と同じ。
景初元年十月丁未、月が熒惑を犯した。占いでは「貴人が死ぬ」という。二年四月、 司徒 の韓暨が 薨去 した。
斉王の嘉平元年正月甲午、太白が月を襲った。宣帝が永寧太后に上奏して曹爽らを廃した。
恵帝の太安二年十一月庚辰、歳星が月中に入った。占いでは「国に宰相の追放がある」という。十二月壬寅、太白が月を犯した。占いでは「天下に兵乱がある」という。三年正月己卯、月が太白を犯した。占いは青龍元年と同じ。七月、左衛将軍の陳眕らが兵を率いて帝を奉じて成都王を討伐し、六軍は大敗し、兵が帝の乗輿に迫った。後二年、帝は崩御した。
元帝の太興二年十一月辛巳、月が熒惑を犯した。占いでは「乱臣がいる」という。三年十二月己未、太白が月に入り、斗宿にあった。郭璞は言った。「月は《坎》に属し、陰府の法象である。太白は金行でこれを犯す。天意は言う、刑の理が中を失い、自らその法を毀つ、と。」四年十二月丁亥、月が歳星を犯し、房宿にあった。占いでは「その国は兵乱と飢饉に遭い、人民が流亡する」という。永昌元年三月、王敦が乱を起こし、江州・荊州の兵を率いて攻め寄せ、都を敗り、将相を殺した。また、鎮北将軍の劉隗が出奔し、百姓は皆田畑を離れた。兵革に苦しんだ。四月、また湘州 刺史 ・譙王司馬承と鎮南将軍の甘卓を殺した。
成帝の咸康元年二月乙未、太白が月に入った。四月甲午、月が太白を犯した。四年四月己巳、七月 乙巳 、月がともに太白を掩った。占いでは「君主が死ぬ。また兵乱が起こり、君主はこれを忌む」という。翌年、 石季龍 の軍勢が大いに沔水の南を侵犯し、ここに内外戒厳となった。五年四月辛巳、月が歳星を犯し、胃宿にあった。占いでは「国に飢饉があり、人民が流亡する」という。乙未、月が歳星を犯し、昴宿にあった。冬になると、沔南・邾城の敗戦があり、百姓一万余家が流亡した。六年二月乙未、太白が月に入った。占いでは「君主が死ぬ」という。四月甲午、月が太白を犯した。占いでは「君主がこれを忌む」という。
穆帝の永和八年十二月、月が東井宿にあり、歳星を犯した。占いでは「秦に飢饉があり、人民が流亡する」という。この時、戦乱が相次いで起こった。十年十一月、月が填星を掩い、輿鬼宿にあった。占いでは「秦に兵乱がある」という。この時、桓温が 苻健 を討伐し、健は 長安 に堅く守り、温は退いた。十二年八月、桓温が姚襄を破った。
升平元年十一月壬午、月が歳星を掩い、房宿にあった。占いでは「人民が飢える」という。一説に「 豫 州に災いがある」という。二年閏三月乙亥、月が歳星を犯し、房宿にあった。占いは上記と同じ。三年、 豫 州 刺史 の謝万が敗れた。三年三月乙酉、月が太白を犯し、昴宿にあった。占いでは「君主が死ぬ」という。一説に「趙の地に兵乱があり、胡が安らかでない」という。四年正月、慕容雋が卒去した。五年正月乙丑辰の刻、月が危宿にあり、太白を掩った。占いでは「天下が離散する」という。三月丁未、月が填星を犯し、軫宿にあった。占いでは「大喪がある」という。五月、穆帝が崩御した。七月、 慕容恪 が野王で冀州 刺史 の呂護を攻め、これを落とし、護は逃走した。この時、桓温が大軍を率いて宛に駐屯していたが、護の敗北を聞いて退いた。
哀帝の興寧元年十月丙戌、月が太白を掩い、須女宿にあった。占いでは「天下が離散する」という。一説に「災いは揚州にある」という。三年、 洛陽 が陥落した。その後、桓温が揚州の資財・兵員を傾けて北討したが、大敗し、死者が大半を占めた。また袁真を征討した時、淮南は荒廃した。後に慕容暐と苻堅が互いに侵攻してきた。三年正月乙卯、月が歳星を掩い、参宿にあった。占いでは「参宿は益州の分野である」という。六月、鎮西将軍・益州 刺史 の周撫が卒去した。十月、梁州 刺史 の司馬勲が益州に入って反乱した。朱序が兵を率いて 刺史 の周楚を助けて討伐し、平定した。
海西公の太和元年二月丙子、月が熒惑を掩い、参宿にあった。占いでは「内乱があり、帝がその位を終えられない兆し」という。一説に「参宿は魏の地である」という。五年、慕容暐が苻堅に滅ぼされた。
孝武帝の太元十二年二月戊寅、熒惑が月に入った。占いでは「乱臣が死ぬ、あるいは殺し合う者がある」という。一説に「女の親族が政権を握り、天下が乱れる」という。この時、琅邪王(司馬道子)が政務を補佐し、その妃の従兄である王国宝が姻戚として寵愛を受けた。また陳郡の人袁悦が私利を貪り苟且に進み出て、主君と宰相の間を交わり、朋党を煽り立てた。十三年、帝は袁悦を市で処刑した。ここに主君と宰相の間に隙が生じ、乱の階梯が興った。十三年十二月戊子、辰星が月に入り、危宿にあった。占いでは「賊臣が主君を殺そうとし、三年を出ずして必ず内なる悪事がある」という。この後、 慕容垂 ・翟遼・姚萇・苻登・慕容永らが皆兵を頼りに争って強を競った。十四年十二月乙未、月が歳星を犯した。占いはともに上記と同じ。十五年、翟遼が司州・兗州を占拠し、諸軍が累次討伐しても勝てず、慕容氏もまた 并 州・冀州を跨いで略取した。七月、旱魃があった。八月、諸郡で大水があり、兗州ではまた蝗害があった。十八年正月乙酉、熒惑が月に入った。占いでは「憂いは宮中にあり、賊ではなく盗みである」という。一説に「乱臣がおり、あるいは殺される者がある」という。二十一年九月、帝は内殿で急に崩御し、万民の間では、夫人の張氏がひそかに大逆を行ったと噂された。また、王国宝は邪悪で狡猾であったが、ついにその罪に伏した。十九年四月己巳、月が歳星を掩い、尾宿にあった。占いでは「飢饉があり、燕国が滅びる」という。二十年、慕容垂が慕容宝を派遣して魏を伐たせたが、かえって破られ、死者は数万人に及んだ。二十一年、垂が死に、国は遂に衰え滅びた。
安帝の隆安元年六月庚午、月が太白を掩い、太微垣の端門の外にあった。占いでは「国が兵乱を受ける」という。乙酉、月が歳星を掩い、東壁宿にあった。占いでは「飢饉があり、衛の地に兵乱がある」という。二年六月、郗恢が鄧啓方らに万人を率いさせて滑臺で慕容宝を討伐させたが、啓方は敗れた。三年九月、桓玄らが皆挙兵し、ここに内外戒厳となった。四年正月乙亥、月が填星を犯し、牽牛宿にあった。占いでは「呉越に兵乱と喪があり、女主に憂いがある」という。六月乙未、月がまた填星を犯し、牽牛宿にあった。十月乙未、月が歳星を掩い、北河にあった。占いでは「飢饉があり、胡に兵乱がある」という。その四年五月、孫恩が会稽を破り、内史の謝琰を殺した。後また余姚で高雅之を破り、死者は十の七、八に及んだ。七月、太皇太后李氏が崩御した。元興元年、孫恩が臨海を寇し、人々は餓死し、散り散りになってほとんど尽きた。
元興元年四月辛丑の日、月が辰星を掩蔽した。七月、大飢饉が起こり、人々が互いに食い合った。二年十一月辛巳の日、月が熒惑を犯した。占いはすべて上記と同じである。二年十二月、桓玄が帝位を 簒奪 し、皇帝と皇后を尋陽に追放し、永安何皇后を零陵君とした。三年二月、劉裕が桓氏をことごとく誅殺した。三年二月甲辰の日、月が左角で歳星を掩蔽した。占いでは「天下に兵が起こる」という。この年の二月丙辰の日、劉裕が義兵を起こし、桓修らを殺した。翌年正月、諸軍が桓振を攻め、ついに諸桓を滅ぼした。
義熙元年四月己卯の日、月が東壁で填星を犯した。占いでは「その地は国を亡ぼす」という。一説に「貴人が死ぬ」という。七月己未の日、月が東壁で填星を掩蔽した。占いでは「その国は討伐される」という。一説に「人が流亡する」という。十月丁巳の日、月が営室で填星を掩蔽した。占いは上記と同じ。十一月、荊州 刺史 の魏詠之が卒去した。二年二月、司馬国璠らが弋陽を攻め落とした。三年、 司徒 ・揚州 刺史 の王謐が 薨去 した。四年正月、太保・武陵王司馬遵が 薨去 した。三月、左 僕射 の孔安国が 薨去 した。二年十二月丙午の日、月が危で太白を掩蔽した。占いでは「斉が国を亡ぼす」という。一説に「強国の君主が死ぬ」という。五年四月、劉裕が大軍を率いて北の慕容超を討伐し、ついにこれを滅ぼした。七年六月庚子の日、月が畢で歳星を犯した。占いでは「辺境に兵事があり、かつ飢饉がある」という。八月乙未の日、月が参で歳星を犯した。占いでは「益州で兵事と飢饉がある」という。七月、朱齢石が蜀を平定したが、蜀人はまもなく反乱を起こし、また討伐した。八年正月庚戌の日、月が畢で歳星を犯した。占いは上記と同じ。九年七月、朱齢石が蜀を滅ぼした。十二年五月甲申の日、月が左角で歳星を犯した。占いでは「飢饉となる」という。十四年四月壬申の日、月が張で填星を犯した。占いでは「天下に大喪がある」という。その翌年、皇帝が崩御した。
恭帝元熙元年七月、月が歳星を犯した。占いはすべて上記と同じ。十二月丁巳の日、月が羽林で太白を犯した。二年六月、皇帝は位を譲り、宋に 禅譲 した。
五星が宿舎に集まること
魏の明帝太和四年七月壬戌の日、太白が歳星を犯した。占いでは「太白が五星を犯すと、大兵がある」という。五年三月、 諸葛亮 が大軍を率いて天水を寇した。この時、宣帝(司馬懿)が大将軍としてこれを防ぎ退けた。
青龍二年二月己未の日、太白が熒惑を犯した。占いでは「大兵が起こり、大戦がある」という。この年四月、諸葛亮が渭南に拠り、呉もまた兵を起こしてこれに応じ、魏は東西に奔走した。
恵帝元康三年、填星、歳星、太白の三星が畢と昴に集まった。占いでは「兵事と喪がある。畢と昴は趙の地である」という。後に賈后が太子を陥れて殺害し、趙王( 司馬倫 )が皇后を廃し、またこれを殺し、 張華 、裴頠を斬り、ついに帝位を 簒奪 し、皇帝を太上皇に廃した。天下はこれより乱に遭い、禍が連なった。
永寧二年十一月、熒惑と太白が虚と危で鬭った。占いでは「大兵が起こり、軍は破れ将は殺される。虚と危はまた斉の分野である」という。十二月、熒惑が営室で太白を襲った。占いでは「天下に兵が起こり、君主が亡くなる戒め」という。一説に「宰相が変わる」という。初め、斉王司馬冏が京都に来て、留まって輔政し、ついに専横で君主をないがしろにした。この月、成都王(司馬穎)、河間王( 司馬顒 )が檄を飛ばして長沙王司馬乂にこれを討たせ、冏と乂が交戦し、宮闕を攻めて焼き、冏の兵は敗れ、滅ぼされた。またその兄の上軍将軍司馬寔以下二千余人を殺した。太安二年、成都王がまた長沙王を攻め、ここにおいて公私ともに飢え困窮し、百姓の力は尽きた。
太安三年正月、熒惑が歳星を犯した。占いでは「戦いがある」という。七月、左衛将軍陳眕が帝を奉じて成都王を伐ち、六軍は敗北した。
光熙 元年九月、填星が歳星を犯した。占いでは「填星と歳星が合うと、内乱となる」という。この時、 司馬越 が専権を握り、ついに無礼によって破滅し、内乱の応報である。十二月癸未の日、太白が填星を犯した。占いでは「内兵があり、大戦がある」という。この後、河間王が東海王 司馬越 に殺された。翌年正月、東海王 司馬越 が諸葛玫らを殺した。五月、 汲桑 が馮嵩を破り、東燕王を殺した。八月、苟 晞 が 汲桑 を大破した。
懐帝永嘉六年七月、熒惑、歳星、太白が牛と女の間に集まり、徘徊して進退した。占いを案ずると「牛と女は揚州の分野」という。この後、両都(洛陽と長安)が傾覆し、元帝が揚州の地で中興した。
建武元年五月癸未の日、太白と熒惑が東井で合した。占いでは「金と火が合うことを爍といい、喪となる」という。この時、愍帝は平陽で蒙塵し、七月に寇庭で崩御した。
元帝太興二年七月甲午の日、歳星と熒惑が東井で会した。八月乙未の日、太白が翼で歳星を犯し、合した。占いでは「兵事と飢饉となる」という。三年六月丙辰の日、太白と歳星が房で合した。占いは上記と同じ。永昌元年、王敦が京師を攻め、六軍は敗北した。王敦はまもなく死んだ。
成帝咸康三年十一月乙丑の日、太白が営室で歳星を犯した。占いでは「兵事と飢饉となる」という。四年二月、石季龍( 石虎 )が幽州を破り、一万余家を南に移した。五年、季龍の軍五万が沔南を寇し、七千余家を略奪して去った。また騎兵二万が邾城を包囲して陥落させ、五千余人を殺害略奪した。四年十二月癸丑の日、太白が箕で填星を犯した。占いでは「王者が地を失う」という。七年、 慕容皝 が自ら燕王を称した。七年三月、太白と熒惑が太微中で合し、左執法を犯した。翌年、顕宗(成帝)が崩御した。八年十二月己酉の日、太白が胃で熒惑を犯した。占いでは「大兵が起こる」という。その後、 庾翼 が大いに兵を起こし、石季龍を伐とうと謀り、上流を専制した。
康帝建元元年八月丁未の日、太白が軫で歳星を犯した。占いでは「大兵がある」という。この年、石季龍の将軍劉甯が狄道を寇して陥落させた。
穆帝永和四年五月、熒惑(火星)が婁宿に入り、填星(土星)を犯した。占いでは「大規模な戦乱が起こり、喪事があり、災いは趙の地にある」という。その年、石季龍が死に、翌年には 冉閔 が石遵と諸胡族十万人余りを殺害した。その後、褚裒が北伐したが、兵を失って死去した。六年三月戊戌、熒惑が歳星(木星)を犯した。占いでは「戦いとなる」という。七年三月戊子、歳星と熒惑が奎宿で合した。その年、劉顕が石祗と諸胡族の将帥を殺害し、中原は大混乱となった。十二年七月丁卯、太白(金星)が柳宿において填星を犯した。占いでは「周の地に大軍が起こる」という。その年八月、桓温が苻健を討伐し、退却したが、伊水で姚襄を破り、周の地を平定した。
升平二年八月戊午、熒惑が張宿において填星を犯した。占いでは「大規模な戦乱が起こる」という。三年八月庚午、太白が太微垣の中で填星を犯した。占いでは「王者がこれを憎む」という。五年十月丁卯、熒惑が営室宿において歳星を犯した。占いでは「大臣に密かな謀略がある」、あるいは「衛の地に戦乱がある」という。当時、桓温が権力を専断し、晋王室の転覆を謀っていた。
海西公太和元年八月戊午、太白が太微垣の中で歳星を犯した。三年六月甲寅、太白が太微垣の端門の中で熒惑を覆った。六年、海西公は廃位された。
簡文咸安二年正月己酉、歳星が須女宿において填星を犯した。占いでは「内乱となる」という。七月、帝が崩御し、桓温が権力を専断し、侍中王坦之らを殺害しようと謀り、内乱の兆しが現れた。
孝武寧康二年十一月癸酉、太白が営室宿において熒惑を覆った。占いでは「金と火が合して燃え盛り、戦乱と喪事となる」という。太元元年七月、苻堅が涼州を討伐し、これを破って張天錫を捕虜とした。
太元十一年十二月己丑、太白が歳星を犯した。占いでは「戦乱と飢饉となる」という。この時、河朔はまだ平定されておらず、戦乱が外で続き、冬に大飢饉が起こった。十七年九月丁丑、歳星、熒惑、填星がともに亢宿・ 氐 宿にあった。十二月癸酉、填星が去り、熒惑と歳星はまだ合していた。占いでは「三つの星が合するのは、驚き立ち行きを絶つことを謂い、内外に戦乱・喪事と飢饉があり、王公が改めて立てられる」という。十九年十月、太白、填星、熒惑、辰星(水星)が 氐 宿で合した。十二月癸丑、太白が斗宿において歳星を犯した。占いでは「乱れと飢饉となり、内乱となる。斗宿は呉越の分野」という。隆安元年に至り、王恭らが兵を挙げ、王国宝の罪を明らかにし、朝廷は彼を誅殺した。この後、連年水害・旱害による飢饉が続いた。
安帝隆安元年二月、歳星と熒惑がともに羽林に入った。占いでは「中軍の兵が起こる」という。四月、王恭らが兵を挙げ、内外戒厳となった。
元興元年八月庚子、太白が上将星の東南において歳星を犯した。占いでは「楚の地に戦乱と飢饉」、あるいは「災いは上将にある」という。二年、桓玄が帝位を 簒奪 した。三年、劉裕が桓氏をことごとく誅殺した。二年十月丁丑、太白が婁宿において填星を犯した。占いは上記と同じ。三年二月壬辰、太白と熒惑が羽林で合した。二年十二月、桓玄が帝位を 簒奪 し、帝と后を追放・移徙させた。三年二月、劉裕が義兵を起こし、桓玄が帝を東へと追いやった。
義熙二年十二月丁未、熒惑と太白がともに羽林に入り、また壁宿で合した。三年正月、慕容超が淮北・徐州を侵寇し、下邳に至った。八月、劉敬宣を派遣して蜀を討伐させた。三年二月癸亥、熒惑、填星、太白、辰星が奎宿・婁宿に集まり、填星に従った。これは徐州の分野である。この時、慕容超が斉で僭号を称し、戦乱が徐・兗に連なり、連年寇掠が淮泗にまで及んだ。姚興と譙縦が秦・蜀で僭号を称し、盧循と魏が南北から交侵した。その五年、劉裕が北で慕容超を滅ぼした。その六月辛卯、熒惑が翼宿において辰星を犯した。占いでは「天下に兵乱が起こる」という。八月己卯、太白が熒惑を覆った。占いでは「大規模な戦乱がある」という。その四年、姚略が軍勢を派遣して 赫連勃勃 を征討したが、大敗を喫した。五年四月甲戌、熒惑が東井宿において辰星を犯した。占いでは「いずれも戦乱となる」という。十二月辛丑、太白が奎宿において歳星を犯した。占いでは「大規模な戦乱が起こり、魯の地に戦乱がある」という。この年四月、劉裕が慕容超を討伐した。六年二月、魯の地で慕容超を滅ぼした。七年七月丁卯、歳星が参宿において填星を犯した。占いでは「歳星と填星が合するのは、内乱となる」、あるいは「益州で戦い、勝たず、地を失う」という。この時、朱齢石が蜀を討伐し、後に遂にこれを滅ぼした。翌年、謝混と劉毅を誅殺した。八年七月甲申、太白が東井宿において填星を犯した。占いでは「秦に大規模な戦乱がある」という。九年二月丙午、熒惑と填星がともに東井宿を犯した。占いでは「秦に戦乱がある」という。三月壬辰、歳星、熒惑、填星、太白が東井宿に集まり、歳星に従った。東井宿は秦の分野である。十三年、劉裕が関中を平定し、その後、遂に晋の国統は移された。十四年十月癸巳、熒惑が太微垣に入り、西蕃の上将星を犯し、そのまま順行して左掖門内に至り、二十日留まった後に逆行した。恭帝元熙元年三月五日、西蕃の上将星の西三尺ばかりの所から出て、また順行して太微垣に還り入った。当時、填星は太微垣にあり、熒惑が填星を巡って鉤己の形を成した。その年四月丙戌、端門から出た。占いでは「熒惑と填星が天庭で鉤己を成すのは、天下が改めて紀元を立てる」という。十二月、安帝の同母弟である琅邪王が即位し、これが恭帝である。翌年、宋に禅譲した。