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明史
志第六十二 河渠四
江南運河は、杭州北郭務より謝村北に至り、十二里洋となり、塘棲となり、徳清の水がこれに入る。北陸橋を越えて崇徳界に入り、松老を過ぎて高新橋に至り、海塩支河がこれに通ず。崇徳城の南をめぐり、東北に転じ、小高陽橋の東に至り、石門塘を過ぎ、東に折れて王灣となる。皁林に至り、水深は丈に及ぶものあり。永新を過ぎ、秀水界に入り、陡門鎮を越え、北は分郷鋪となり、やや東は繡塔となる。北は嘉興城西より北に転じ、杉青三閘を出て、王江涇鎮に至れば、松江の運艘東より来たりてこれに会す。北は平望驛となり、東は鶯脰湖に通じ、湖州の運艘西より新興橋を出てこれに会す。北は松陵驛に至り、呉江より三里橋に至れば、北に震沢あり、南に黄天蕩あり、水勢澎湃たり、夾浦橋はしばしば建つ。北は蘇州城東の鯰魚口を経て、水は□□塘よりこれに入る。北は楓橋に至り、射瀆を経て滸墅□関を過ぎ、白鶴鋪に至るは、長洲・無錫両邑の界なり。錫山驛の水は僅かに瓦礫を浮かぶのみ。黄埠を過ぎ、洛社橋に至れば、江陰九里河の水がこれに通ず。西北は常州となり、漕河は旧く城を貫き、東水門より入り、西水門より出づ。嘉靖末年に倭を防ぎ、南城壕より改めて従う。江陰、順塘河水は城東より丁堰に通じ、沙子湖はその西南に在り、宜興鐘溪の水がこれに入る。また西に、直瀆水がこれに入り、また西は奔牛・呂城の二閘となり、常・鎮はその中に界し、皆月河を以て節宣を佐くありしも、後並びに廃す。その南は金壇河となり、溧陽・高淳の水ここより出づ。丹陽の南二十里は陵口となり、北二十五里は黄泥壩となり、旧く皆閘を置く。練湖水は漕河より数丈高く、一は三思橋より、一は仁智橋より、皆運河に入る。北は丹徒鎮を過ぎて猪婆灘あり、軟沙多し。丹徒以上の運道は、江潮を視て盈涸と為す。鎮江を過ぎ、京口閘を出づれば、閘外の沙堵は延袤二十丈、舟を蔵し風を避くるべく、ここより江に浮かび、瓜歩と対す。北郭より京口に至るまで首尾八百余里、皆平流なり。嘉を経て蘇に至り、衆水の聚まる所、常州以西に至れば、地漸く高仰となり、水浅くして泄ち易く、盈涸恒ならず、時に浚い時に壅ぎ、往々孟瀆・徳勝の両河を兼ね取り、東は大江に浮かび、以て揚泰に達す。
洪武二十六年、嘗て崇山侯李新に命じて溧水胭脂河を開かしめ、以て浙漕を通ぜしめ、丹陽の輸挽及び大江の風濤の険を免れしむ。而して三呉の粟は、必ず常・鎮より由る。三十一年、奔牛・呂城の二壩河道を浚う。
永楽年間、練湖堤を修す。即ち通政張璉に命じて民丁十万を発し、常州孟瀆河を浚い、また蘭陵溝を浚い、北は孟瀆河閘に至るまで六千余丈、南は奔牛鎮に至るまで千二百余丈。已にして、復た鎮江京口・新港及び甘露の三港を浚い、以て江に達せしむ。漕舟は奔牛より京口を溯り、水涸れば則ち改めて孟瀆より従い右に瓜洲に趨き、白塔に抵るを以て常と為す。
宣徳六年、武進民の請いに従い、徳勝新河四十里を疏す。八年、工竣る。漕舟は徳勝より北江に入り、直ちに泰興の北新河に至る。泰州壩より揚子湾を経て漕河に入れば、白塔より尤も便なり。ここに於いて漕河及び孟瀆・徳勝の三河並びに通じ、皆運を済すべし。
正統元年、廷臣上言す、「新港より奔牛に至るまで、漕河百五十里、旧く水車ありて江潮を巻き灌注し、舟を通し田を溉ぐ。請う官錢を支て車を置かんことを。」詔して可とす。然れども三河の江口に入るは、皆卑より高く、その水も亦更迭盈縮す。八年、武進民、徳勝及び北新河を浚わんことを請う。浙江都司蕭華は則ち孟瀆を浚わんことを請う。巡撫周忱、議を定めて両河を浚い、而して北新の築壩を罷む。白塔河の大橋閘は時を以て啓閉し、而して常・鎮の漕河も亦疏浚す。
景泰年間、漕河復た淤す、遂に漕舟を引き尽く孟瀆より由らしむ。三年、御史練綱言う、「漕舟は夏港及び孟瀆より江に出で、逆行三百里にして始めて瓜洲に達す。徳勝は直ちに北新にし、而して白塔は又孟瀆と斜直す、ここより両岸を横渡するは甚だ近し、宜しく大いに淤塞を疏すべし。」帝、尚書石璞に措置せしむ。会うに鎮江七里港を鑿ち、金山の上流を引き丹陽に通じ、以て孟瀆の険を避けんことを請う者有り。鎮江知府林鶚、迂道多く石あり、民田墓を壊すこと多しと為し、宜しく京口閘・甘露壩を浚い、道里近く、功力省かるべしとす。乃ち鶚の議に従う。浙江参政胡清は又新港・奔牛等の壩を去り、石閘を置き以て泉を蓄えんと欲す。亦その請いに従う。而して徳勝河を浚うと港を鑿つとの議は俱に寝す。然れども石閘は建つと雖も、水を蓄うること能わず多く、漕舟は仍お孟瀆に入る。
天順元年、尚宝少卿淩信言う、糧艘は鎮江裏河より由るを便と為すと。帝然りと為し、糧儲河道都御史李秉に命じて七里港口を通ぜしめ、江水を引きてこれに注がしめ、且つ奔牛・新港の淤を浚わしむ。巡撫崔恭は又五閘を増置せんことを請う。成化四年に至り、閘工始めて成る。ここに於いて漕舟は尽く裏河より由り、その二河に入るは、回空の艘及び他の舟のみ。制を定む、孟瀆河口は瓜・儀諸港と俱に三年に一たび浚う。孟瀆は寬廣甚だ淤さず、裏河は久しからずして輒ち涸る、則ち又改めて孟瀆より従う。
弘治十七年、部臣復た夏港・孟瀆の遠く大江に浮かぶの害を陳べ、京口の淤を亟に浚い、而して練湖を引きてこれに灌がんことを請う。詔して速に行わしむ。正徳二年復た白塔河及び江口・大橋・潘家・通江の四閘を開く。十四年、督漕都御史臧鳳の言に従い、常州上下の裏河を浚い、漕舟阻まること無き者五十余載。
万暦元年又漸く涸る、復た一たびこれを浚う。歳貢生許汝愚上言す、「国初四閘を置く:京口と曰い、丹徒と曰い、三江の涸るるを防ぎ、呂城と曰い、奔牛と曰い、五湖の泄つるを防ぐ。丹陽より鎮江に至り湖と為して蓄うる者三:練湖と曰い、焦子と曰い、杜墅と曰う。歳久しく、居民侵種し、焦・杜の二湖俱に涸れ、僅かに練湖を存す、猶お侵す者有り。而して四閘は俱に空設なり。請う三湖の故址を浚い漕を通ぜんことを。」総河傅希摯言う、「練湖は已に浚うと雖も、焦子・杜墅は源少なく益無し。」その議遂に寝す。未だ幾ばくもあらず、練湖復た淤浅す。
五年、御史郭思極・陳世寶が先後して練湖の復旧と孟瀆の疏浚を請うた。一方、給事中湯聘尹は京口の傍らに別に一閘を建て、江流を引き入れて内注させ、潮が満ちれば開き、引けば閉じることを請うた。御史尹良任はまた言うには、「孟瀆は江を渡って黄家港に入る。水面は広いが、江流は甚だ平穏である。ここから泰興に至り、湾頭・高郵に達するのは僅か二百余里であり、瓜洲・儀真の不測の患を免れることができる。また、京口から北に渡り金山を下れば、中流で風に遭い漂流・溺死の患いがある。甘露港の両岸の洲田十余里を浚渫し、回泊の便とすべきである」。御史林応訓はまた言うには、「万縁橋から孟瀆に至るまで、両岸は険しく、雨潦で容易に崩れ、かつ江潮が砂を湧き上げ、淤塞は免れ難い。万縁橋・黄連樹に各々閘を建て、蓄泄の用に供すべきである」。また言うには、「練湖は西晉の陳敏が馬林溪を堰き止め、長山八十四溪の水を引いて雲陽を灌漑したことに始まる。堤を練塘と名付け、また練河ともいう。凡そ四十里余り。湖を巡らせて涵洞を十三箇所設けた。宋の紹興の時、中に横埂を置き、上下の湖に分け、上・中・下の三閘を設けた。八十四溪の水は始め辰溪を経て上湖に沖入り、再び三閘を経て下湖に転入する。洪武年間、運道が渋滞したため、下湖の東堤に沿って三閘を建て、湖水を借りて運河を助けたが、後には漸く埋没した。今は侵佔を悉く改め、再び浚って湖とすべきである。上湖は四方を丘陵に挟まれ、下湖は東北が河に臨み、元の埂は完固である。ただ中間の缺口を補い、かつ西南を増築して東北と相応じさせるべきである。三閘については、臨湖の上閘は旧の如く、中・下の二閘を増建し、更に減水閘二座を設け、中・下二閘の間に置く。合わせて田五千余畝を改め、堤沿いの私設涵洞を塞ぎ、旧来の十三箇所のみを存し、以て湖水を宣洩させる。冬春には即ち閉塞し、私かに開くことを得ざるべし。蓋し練湖は水源がなく、ただ貯蓄に頼る。堤を増し閘を開けば、水は常に余りあり、然る後に以て運河を助けることができる。臣が親しく上湖の地が高く仰いでいることを検証するに、八十四溪の水の由来するところであり、その容易に泄れることを懼れる。下湖の地は平らで、僅かに漕河より数尺高く、又常に満たないことを懼れる。誠に水を豊かにし堤を堅くすれば、時に応じて注ぎ、河は全力を持つであろう」。皆、所司に下して斟酌・議論させた。
十三年、鎮江知府呉捴謙がまた言うには、「練湖の中堤は、有司に命じて春初に即ち修繕させ、沖決を防ぎ、かつ勢豪の侵佔を禁ずべきである」。これに従った。十七年、武進の横林漕河を浚った。
崇禎元年、京口漕河を浚った。五年、太常少卿薑志禮が『漕河議』を建て、言うには、「神廟
の初め、先臣の宝が『漕河議』を著し、当事者が採り行い、河を開かずして運河を助けること二十余年。後に再び湖を佃して運河を妨げ、毎年畚鍤の労を累ねた。故老に言うところがある、「京口閘の底は虎丘塔の頂と平らである」と。これにより河を浚るのは益なく、湖を蓄えることが肝要であると知ることができる。今は佃を改め閘を修め、かつ上下湖の囲埂を高く築き、水を蓄えて深くすべきである。かつ漕河の閘座は京口・呂城・新閘・奔牛の数箇所のみではない。陵口・尹公橋・黄泥壩・新豊・大犢山に節々閘があり、皆廃去されており、併せて修建すべきである。また運道の支流、例えば武進の洞子河・連江橋河・扁担河、丹陽の簡橋河・陳家橋河・七里橋河・丁議河・越瀆河、勝村溪の大壩頭、丹陽甘露港南の小閘口は、皆急ぎ修整すべきである。奔牛・呂城の北に至っては、各々減水閘を設ける。歳十月に土を以て実とし、商民船は全て壩を盤らせるよう命ずる。これらは皆旧章に従うべきものである。近く九曲河を開き、運船を泡港閘から江に出し、直ちに揚子橋に達させ、瓜洲の閘を開く遅滞を免れさせようとする者があるが、試みて後に行うのがよい。回空の糧艘及び官舫は、江を行くべきであり、河荘に閘を設けて啓閉する。数役を並行して初めて漕事は大いに善くなるであろう」。議は果たして行われなかった。
江漕とは、湖広の漕舟が漢・沔より潯陽に下り、江西の漕舟が章江・鄱陽より出て湖口で会し、及び南直隸の寧・太・池・安・江寧・広徳の舟が、同じく大江に浮かび、儀真の通江閘に入り、以て淮・揚を溯って閘河に入るものである。瓜洲・儀真の間は、運道の咽喉である。洪武中、遼卒に糧餉を送る者は、儀真より淮安に上り、塩城より海を渡った。梁・晉に糧餉を送る者も、儀真より淮安に赴き、壩を盤って淮に入った。江口には則ち壩を設け閘を置き、凡そ十三箇所あった。揚子橋河から黄泥湾まで九千余丈を浚った。永楽年間、儀真の清江壩・下水港及び夾港河を浚い、沿江の堤岸を修めた。洪熙元年、儀真の壩河を浚い、後に儀真壩下の黄泥灘・直河口の二港及び瓜洲の二港・常州の孟瀆河は皆三年に一度浚うことを定制とした。宣徳年間、侍郎趙新・御史陳祚の請いに従い、黄泥灘・清江閘を浚った。成化中、儀真の通江河港に三箇所、江都の留潮通江に二箇所の閘を建てた。やがて通江港は塞がった。弘治初、再びこれを開き、既にして総港口に閘を建てて水を蓄えた。儀真・江都の二県の間に、官塘五区があり、閘を築いて水を蓄え、以て民田を灌漑したが、豪民がこれを占めて業とし、真・揚の間の運道は阻梗した。嘉靖二年、御史秦鉞が五塘の復旧を請うた。これに従った。万暦五年、御史陳世宝が言うには、「儀真の江口は、閘から遠すぎる。上下十数丈余りの所に二閘を増建し、潮に随って啓閉し、以て江に出る船を遮り、全て閘に入らせ、遅滞を免れさせたい」。疏が上り、議は行われた。
白塔河は、泰州にある。上は邵伯に通じ、下は大江に接し、斜めに対して常州の孟瀆河と泰興の北新河があり、皆浙江漕運の間道である。陳瑄が初めて開いた。宣徳年間、趙新・陳祚の請いに従い、瑄に夫四万五千余人を役してこれを浚わせ、新閘・潘家荘・大橋・江口の四閘を建てた。正統四年、水が閘を潰して塞がり、都督武興が因って閉じて用いず、再び瓜洲より壩を盤るようになった。瓜洲の壩は、洪武中に置かれ、凡そ十五箇所、東西二港の間に列した。永楽年間、東壩を廃して廠とし、以て材木を貯え、西港の七壩のみを存した。漕舟は泊まる所を失い、屡々風険に遭った。英宗の初年、乃ち再び東港を浚った。既にして巡撫周忱が白塔河の大橋閘に壩を築き、時に応じて啓閉し、漕舟は稍々分行した。鎮江裏河が開浚されてからは、漕舟は甘露・新港より出て、径ち瓜洲を渡るようになり、白塔・北新は皆江路が険遠であるため、捨てて用いなくなった。
衛漕とは、即ち衛河である。源は河南輝県に出て、臨清に至って会通河と合し、北は天津に達する。臨清以北は皆衛河と称する。詳細は本『志』に具える。
白漕とは、即ち通済河である。源は塞外地に発し、密雲県の霧霊山を経て、潮河川となる。そして富河・罾口河・七渡河・桑乾河・三里河が皆ここに合流し、白河と名付けられる。南流して通州を経て、通恵河及び楡河・渾河などの諸河と合し、また潞河とも称する。三百六十里を下り、直沽に至って衛河と合流し海に入り、漕運を通ずることを頼りとする。楊村以北は、勢い屋根の樋から水を落とすが如く、川底は多くが泥砂で堆積している。夏秋の水漲は涝害に苦しみ、冬春の水微は渇水に苦しむ。沖決・潰決・流路変更は頗る黄河と同様である。耎児渡は、武清・通州の間にあり、特に要害の地である。永楽年間から成化初年に至るまで、凡そ八度決壊し、その度に民夫を発して堤防を築かせた。そして正統元年の決壊は、被害が特に甚だしく、特に太監沐敬・安遠侯柳溥・尚書李友直に勅して適宜計画させ、五軍営の兵卒五万及び民夫一万を発して決壊堤を築かせた。また武進伯朱冕・尚書呉中に命じて五万人を役し、河西務から二十里の地点に河道を一つ穿ち、白河水をその中に導き入れた。二つの工事が共に竣工し、人々は大いに便益を得、河に通済と名を賜り、河神を封じて通済河神とした。先に、永楽二十一年に通州から直沽に至る河岸を築き、沖決する箇所があれば、随時に修築することを常例とした。通済河が完成するに及び、決壊した岸を修築することもまた数度に及んだ。万暦三十一年、工部の議に従い、通州から天津に至る白河を浚渫し、深さ四尺五寸とし、浚渫した砂土で即ち両岸に堤防を築き、これを令として定めた。
大通河は、元代の郭守敬が穿鑿したものである。大通橋から東へ下り、通州の高麗荘に至り、白河と合流し、直沽に至って衛河と合流し海に入る。長さ百六十里余りである。十里毎に一つの閘門を設け、水を貯めて運河を助け、通恵と名付けた。また白河・楡河・渾河が合流するため、潞河とも称する。洪武年間に次第に廃れた。
永楽四年八月、北京行部が言上した。「宛平・昌平の西湖、景東の牛欄荘及び青龍華家BG1111山の三つの閘門が、水に衝かれて岸が決壊している。」軍民を発して修治することを命じた。翌年また言上した。「西湖・景東から通流に至るまで、凡そ七つの閘門があり、河道が淤塞している。昌平東南の白浮村から西湖・景東の流水河口に至る百里の間に、十二の閘門を増設すべきである。」これに従った。間もなく、閘門は全て埋没し、再び舟を通すことはできなくなった。
成化年間、漕運総兵官楊茂が言上した。「毎年張家湾で舟を降り、車で転送して都下に至るが、雇い賃が莫大である。旧来の通恵河の石閘は尚存し、深さ二尺余りである。閘門を修復して水を貯め、小舟で剥運すれば便利である。」また三里河において、張家湾の煙墩橋以西から河道を疏浚して舟を泊めることを議する者もあった。廷臣に下して集議させ、尚書楊鼎・侍郎喬毅を派遣して実地検分させた。上奏して言う。「旧閘二十四座があり、水を通して舟を行かせた。しかし元代には水は宮牆の外にあり、舟は城内の海子湾に入ることができた。今は水が皇城の金水河から流出するため、旧道は再び通すことができない。かつ元代は白浮泉を引いて西へ逆流させたが、今は山陵を経由するため、地脈を妨げる恐れがある。また一畝泉は白羊口の山溝を過ぎるが、両水が衝截して引き難い。城南の三里河は旧来河源がなく、正統年間に城壕を修築した際、雨が多いと水が溢れるのを恐れ、正陽橋東南の□□下の地を穿ち、壕口を開いてこれを泄らしたため、初めて三里河の名が生じた。壕口から八里下って、初めて渾河に接続する。旧渠の両岸には多くの家屋や墳墓があり、水浅く河窄く、また別の水流を増やして引き助ける必要がある。西湖・草橋の源は玉匠局・馬跑等地に発するが、泉は深遠ではない。元代には金口水を用いたことがあるが、水勢が激しく民家を没したため、それ故に廃された。ただ玉泉・龍泉及び月児・柳沙等の泉は、皆西北に発し、山麓に沿って流れ、西湖に導入することができる。西湖の源を浚渫し、分水清龍閘を閉鎖し、諸泉の水を高梁河から引き、その半分を金水河から出させ、残りは都城の外壕を流転させ、正陽門東で合流させることを請う。城壕は暫く閉鎖し、三里河に流入して併流させないようにする。大通橋の閘河は旱涝に応じて啓閉し、そうすれば舟は倉庫近くに着き、非常に便利である。」帝はその議に従った。軍夫九万を発して修浚しようとしたところ、災異のため、詔して諸役を罷免した。所管の官司は漕事が重大であるため、四万人に命じて城壕を浚渫させ、西山・玉泉及び張家湾に至る河道については、漸次着手することとした。五年を経て、平江伯陳鋭、副都御史李裕、侍郎翁世資・王詔に勅して漕卒を督せしめ通恵河を浚渫させ、楊鼎・喬毅の以前の議の通りとした。翌年六月、工事が完成し、大通橋から張家湾渾河口までの六十余里を浚渫し、泉を三つ浚い、閘門を四つ増設し、漕舟が稍々通じるようになった。しかし元代に引いた昌平の三泉は皆阻まれて流れず、ただ一つの西湖を引くのみで、またその半分を分けるに過ぎず、河が狭くて容易に満ち干する。二年も経たず、澀滞は旧の如くになった。正徳二年に一度浚渫し、かつ大通橋から通州に至る十二の閘門、四十一の堰を修復した。
嘉靖六年、御史呉仲が言上した。「通恵河は屡々修復されたが、皆権勢に阻まれた。顧みるに通流等八閘の遺跡が俱に存している。これに因って完成させれば、労力は甚だ容易で、歳に車費の資金二十余万を省くことができる。かつ歴代の漕運は皆京師に達し、国儲を五十里外に貯蔵したことはない。」帝は内心これを然りとし、侍郎王軏・何詔及び呉仲を同道して実地検分させた。王軏等が言上した。「大通橋の地形は白河より六丈余り高い。もし七丈まで浚渫し、白河を引いて京城に達せしめれば、諸閘は全て廃止できるが、容易に議することはできない。ただ河閘を浚治することを計るに、通流閘は通州の旧城中にあり、二つの水門を経ており、南浦・土橋・広利の三閘は皆市街の繁華な通りであり、転挽に不便である。ただ白河の畔の旧小河の廃壩の西に、一里も行かず堰水小壩に至る。これを修築し、普済閘に通じさせれば、四つの閘門と二つの関所の転搬の労力を省くことができる。」しかし尚書桂萼が不便であると述べ、三里河を改修することを請うた。帝はその上疏を大学士楊一清・張璁に下した。楊一清が言上した。「旧閘に因って転搬法を行い、運軍の労費を省くべきであり、断行すべきである。」張璁もまた言上した。「これは一労永逸の計であり、桂萼の論ずる所は費用が広く功績が難しい。」帝は乃ち桂萼の議を退けた。
翌年六月、呉仲が河の完成を報告し、五事を上疏して言う。「大通橋から通州石壩に至るまで、地勢が四丈高く、流砂が淤積しやすいので、時を置かず浚治を加えるべきである。管河の主事は専ら委任すべきで、他の職務を兼務させてはならない。官吏・閘夫は運送廃止に伴い削減されたが、旧額に復すべきである。慶豊上閘・平津中閘は今は用いられていないので、通州西水関の外に改築すべきである。剥船の建造費及び逐年ごとの修繕・艌縫は、俱に斟酌処置すべきである。」帝は先朝が屡々踏査して実行しても直ちに功を奏さなかったのに、呉仲等が四ヶ月で工事を完成させたことを以て、詔して賞を与え、その請う所に悉く従った。呉仲はまた督工郎中何棟を留任させて専らその事を管理させ、長久の計とすべきことを請うた。これに従った。九年、何棟を右通政に抜擢し、仍って通恵河道を管掌させた。この時、呉仲は処州知府に出され、編纂した『通恵河志』を進呈した。帝は史館に送り、『会典』に採録させ、且つ工部に頒布して刊行させた。ここより漕艘は直ちに京師に達し、明末に至るまで続いた。人々は呉仲の徳を思い、祠を建てて通州で祀った。
薊州河は、薊州の官軍の糧道を運ぶものである。明初、海運によって薊州に糧を送った。天順二年、大河衛の百戸閔恭が言うには、「南京および直隸各衛は、毎年旗軍を用いて糧三万石を薊州等衛の倉まで運び、大海を七十余里越えるが、風濤が険悪である。新開沽河は、北に薊州を望み、水套・沽河とまさに直線をなし、延長四十余里で直近であり、しかも水深がある。その間阻隔しているのは四分の一に過ぎない。もし渠を穿って運べば、海の患いを免れよう」。総兵都督宋勝・巡按御史李敏に下して、行って可否を視察させた。勝らは便利であると言い、そこで直沽河を開いた。幅五丈、深さ一丈五尺。成化二年に一度浚渫し、二十年に再び浚渫し、併せて鴉鴻橋の河道を浚渫し、豊潤県に海運糧儲倉を造った。正徳十六年、運糧指揮王瓚が言うには、「直沽東北の新河は、薊州に転運するが、河流が浅く、潮が至って初めて舟を行わせ得る。辺関はしばしば糧餉に窮する。深く広く浚うべきである」。これに従った。初め、新河は三年に一度浚渫した。嘉靖元年に二年に一度と改め、常例とした。十七年、殷留莊大口から旧倉店までの百十六里を浚渫した。
豊潤環香河は、成化年間に浚渫され、粟十余万石を運んで薊州東路に糧を送ったものである。後に埋没廃絶し、糧は薊州で給するよう改められ、大いに不便であった。嘉靖四十五年、御史鮑承廕の請いに従い、これを復活させ、かつ北済・張官屯・鴉鴻橋に三つの閘を建てて水を貯えた。
昌平河は、諸陵の官軍の糧道を運ぶものである。鞏華城外の安済橋に起こり、通州の渡口に至る。延長百四十五里、そのうち三十里が淤浅して通行困難であった。隆慶六年に大規模に浚渫し、長陵等八衛の官軍の月糧四万石を運給し、遂に流通を成した。万暦元年、再び鞏華城外の旧河を疏浚した。
海運は、元の至元年間に始まる。伯顔が朱清・張瑄を用いて糧を京師に輸送し、僅か四万余石であった。その後日々増加し、三百万余石に至った。初め、海道は一万三千余里で最も険悪であったが、やがて生道を開き、やや直近となった。後に殷明略がまた新道を開き、特に便利であった。しかし皆大洋に出て、風に利すれば、浙西から京に至るまで十日を過ぎず、しかも漂失が甚だ多かった。
洪武元年、太祖は湯和に命じて海舟を造らせ、北征士卒に糧を送った。天下が定まった後、水工を募り萊州洋海倉の粟を運んで永平に給した。後に遼左および迤北で数度兵を用いたため、ここに靖海侯呉禎・延安侯唐勝宗・航海侯張赫・舳艫侯朱寿が先後して遼の糧を転送し、常例とした。江・浙の辺海衛の軍を督し、大舟百余艘で糧数十万を運んだ。将校以下に綺帛・胡椒・蘇木・錢鈔を差等を付けて賜い、民夫はその家の賦役を一年免除し、溺死者には手厚く恤した。三十年、遼東の軍餉が余剰となったため、ただ遼軍にその地を屯種させ、海運を罷めた。
永楽元年、平江伯陳瑄が海運糧四十九万余石を督し、北京・遼東に糧を送った。二年、海運はただ直沽に抵るのみで、別に小船を用いて京まで転運するため、天津に露囤千四百所を置き、以て儲蓄を広げるよう命じた。四年、海陸兼運を定めた。瑄は毎年糧百万を運び、直沽尹児湾城に百万倉を建てた。天津衛の兵籍に属する一万人を戍守させた。この時、江南の糧を一は海運により、一は淮・黄により、陸運して衛河に赴き、通州に入れるよう命じ、常例とした。陳瑄が上言して言うには、「嘉定は海に臨み、江流の衝に当たり、地は平衍で、大山高嶼がない。海舟が停泊する時、あるいは風濤に遭い、堅きに触れ浅瀬に膠着すれば直ちに破損する。青浦に土を築いて山とし、堠を立てて標識とし、舟人に避ける所を知らしめ、海の険を患いとさせぬべきである」。詔してこれに従った。十年九月、工事が完成した。方百丈、高さ三十余丈。宝山と名を賜い、御製の碑文でこれを記した。
十三年五月、再び海運を罷め、ただ遮洋一総を存し、遼・薊の糧を運んだ。正統十三年、登州衛の海船百艘を十八艘に減じ、五艘で青・萊・登の布花鈔錠十二万余斤を運び、毎年遼軍を賞賜した。
成化二十三年、侍郎丘浚が大学衍義補を進め、海運の故道を尋ねて河漕と並行するよう請い、大略次のように言った。「海舟は一載千石で、河舟三に当たり、用いる卒は大いに減る。河漕は陸運より費用が十の三を省き、海運は陸運より十の七を省く。漂溺の患いがあっても、しかし牽卒の労・駁浅の費・挨次の守を省き、利害も相当である。宜しく平素海道を知る者を訪ね、講求して勘視すべきである」。その説は行われなかった。弘治五年、河が金龍口で決壊し、海運を復活させようとする者があったが、朝議は是としなかった。
嘉靖二年、遮洋総が糧二万石を漂失し、溺死した官軍五十余人。五年、登州の造船を停止した。二十年、総河王以旂が河道が梗澀しているため、言うには、「海運は難行ではあるが、しかし中間の平度州東南に南北新河一道があり、元の時に閘を建てて安東に直達し、南北悉く内洋によって行い、路は捷で険がなく、講求すべきである」。帝は海道が迂遠であるとして、その議を退けた。三十八年、遼東巡撫侯汝諒が言うには、「天津から遼に入る路は、海口から右屯河通堡まで二百里に満たず、そのうち曹泊店・月坨桑・薑女墳・桃花島は皆湾泊できる」。部が覆勘してこれを実行した。四十五年、順天巡撫耿随朝が海道を勘測し、永平から西に下海し、百四十五里で紀各庄に至り、また四百二十六里で天津に至るが、皆岸に沿って舟を行った。その間開洋百二十里で、建河・糧河・小沽・大沽河があって風を避けられる。初めその議を允したが、まもなく御史劉翾の上疏によって沮まれ罷めた。この年、給事中胡応嘉の言に従い、遮洋総を廃した。
隆慶五年、徐・邳の河が淤塞したため、給事中宋良佐の言に従い、再び遮洋総を設け、海運の遺意を存した。山東巡撫梁夢龍が海運の利を極論し、言うには、「海道は南は淮安から膠州まで、北は天津から海倉まで、島人商賈の出入りする所である。臣が卒を遣わして淮・膠から各々米麦を天津まで運ばせたが、利しないことはなかった。淮安から天津まで三千三百里、風に便であれば二旬で到達できる。舟は近洋によって行き、島嶼が連絡し、たとえ風があっても依拠でき、殷明略の故道より甚だ安便である。五月以前は風順で柔らかく、この時に出海すれば無虞を保てよう」。近地の漕糧十二万石を量り撥付し、夢龍にこれを実行させた。
六年、王宗沐が漕を督し、海運を行うよう請うた。詔して十二万石を淮から海に入れて運ぶよう命じた。その道は、雲梯関から東北に鷹遊山・安東衛・石臼所・夏河所・斉堂島・霊山衛・古鎮・膠州・鰲山衛・大嵩衛・行村寨を歴て、皆海面である。海洋所から竹島・寧津所・靖海衛を歴て、東北に転じて成山衛・劉公島・威海衛、西に寧海衛を歴て、皆海面である。福山の之罘島から登州城北の新海口沙門等島を経て、西に桑島・曳母曳已島を歴て、曳母曳已から西に三山島・芙蓉島・萊州大洋・海倉口を歴る。海倉から西に淮河海口・魚児鋪を歴て、西北に侯鎮店・唐頭塞を歴る。侯鎮から西北の大清河・小清河海口、乞溝河を経て直沽に入り、天津衛に抵る。凡そ三千三百九十里である。
萬曆元年、即墨の福山島にて糧運の船七艘が破損し、米数千石が漂流し、軍丁十五人が溺死した。給事中・御史が相次いで上疏してその失策を論じ、廃止して再び行われなかった。二十五年、倭寇が起こり、登州より糧を運んで朝鮮軍に供給した。山東副使の於仁廉がまた言う、「遼東に糧を輸送するには海運に如くはなく、海運は登州・萊州に如くはない。そもそも登州・萊州から金州までは六七百里、旅順口に至っては僅か五百餘里、順風に帆を揚げれば一二日で至ることができる。また沙門・鼉磯・皇城等の島がその間にあり、天が設けた水の駅伝、宿泊して風を避けることができる。ただ皇城から旅順までは二百里やや遠く、順風を得れば半日もかからず渡ることができる。もし天津から遼東へは、大洋に停泊する所なく、淮安から膠州までは、僅か三百里ながら、膠州から登州までは千里も遙かで、暗礁が妨げて行き難い。ただ登州・萊州より遼東を済すのが、地勢に便で事が容易である」。時に頗るその議を然りとする者もあったが、行われなかった。四十六年、山東巡撫の李長庚が海運を行うよう上奏し、特に戸部侍郎一人を設けてこれを監督させ、事は『長庚伝』に詳しい。
崇禎十二年、崇明の人沈廷揚が内閣中書となり、また海運の便を陳述し、かつ『海運書』五巻を輯めて進呈した。命じて海舟を造らせてこれを試みさせた。廷揚は二艘の船に乗り、米数百石を積載し、十三年六月朔日、淮安より出海し、望日に天津に着いた。風待ちすること五日、航行は僅か一句であった。帝は大いに喜び、廷揚に戸部郎中を加え、登州に赴き巡撫の徐人龍と計画させることを命じた。山東副総兵の黄廕恩もまた海運九議を上奏し、帝は即座に海運を監督させた。先に、寧遠の軍餉は概ね天津の船を用いて登州に赴き、東南風を待って糧を天津に転送し、また西南風を待って寧遠に転送していた。廷揚は登州より直ちに寧遠に輸送し、費用を多く省いた。間もなく淮安に赴き海運を管理するよう命じられたが、督漕侍郎の硃大典に阻まれたため、登州に駐屯を改め、寧遠の糧務を管轄させた。十六年、光祿少卿を加えられた。福王の時、廷揚に海舟をもって江を防がせ、間もなく糧務を兼ねて管理させた。南都が既に失われると、廷揚は唐王・魯王の間を奔走して死んだ。
嘉靖の頃、廷臣が紛紛として海運の復活を議した時、漕運総兵官の萬表が言う、「昔の海運では、毎年溺死者十万を下らなかった。米を載せる船、船を操る兵卒、兵卒を統率する官、皆免れなかった。今人が海運を策するや、輒ち丘浚の論を主張するが、これは事に通じた者ではない」。