明史

志第五十 職官三

太常寺(提督四夷館を附す)

光禄寺

太僕寺

鴻臚寺

尚宝司

六科

中書舎人

行人司

欽天監

太医院

上林苑監

五城兵馬司

順天府(宛平・大興の二県を附す)

武学

僧道録司

教坊司

宦官

女官

太常寺

太常寺。卿一人、正三品。少卿二人、正四品。寺丞二人、正六品。その属に典簿庁があり、典簿二人、正七品。博士二人、協律郎二人、正八品、嘉靖年間に五人に増員。賛礼郎九人、正九品、嘉靖年間に三十三人に増員、後に二人を削減。司楽二十人、従九品、嘉靖年間に三十九人に増員、後に五人を削減。天壇・地壇・朝日壇・夕月壇・先農壇・帝王廟・祈穀殿・長陵・献陵・景陵・裕陵・茂陵・泰陵・顕陵・康陵・永陵・昭陵の各祠祭署には、いずれも奉祀一人、従七品。祀丞二人、従八品。犠牲所に吏目一人、従九品。

太常は祭祀の礼楽の事を掌り、その官属を総括し、その政令を記録して、礼部に聴従する。凡そ天神・地祇・人鬼、歳時の祭祀には定めがある。先ず冬十二月の朔日に、明年の祭日を奏進し、天子が奉天殿に御してこれを受け、諸司に頒布する。天子が親祭する時は、礼儀を賛相する。大臣が事を摂行する時も同様である。凡そ国に冊立・冊封・冠婚・営繕・征討・大喪などの典礼があり、歳時に旱魃・洪水などの大災変がある時は、宗廟社稷に告請する。新穀を薦める時は、光禄寺に移文してその品物を供させる。祭祀の前期に牲を省視し、祝版・銅人を進め、殿上にて斎戒を奏請し、親ら御名を署する。牲の省視は光禄卿と同行する。ただし大祀は車駕が親ら省視し、大臣は日に一度省視する。凡そ祭祀において、器を洗い、爨埋し、香燭・玉帛を整え、神幄を整え拂うことは、必ず恭しく清潔にする。掌燎・看燎・読祝・奏礼・対引・司香・進俎・挙麾・陳設・収支・導引・設位・典儀・通賛・奉帛・執爵・司樽・司罍洗は、卿・貳官・属官が各々その事を領し、怠ることはない。玉は四等あり、蒼璧は天を祀り、黄琮は地を祀り、赤璋・白琥は朝日・夕月に用い、両圭有邸は太社・太稷を祭る。帛は五等あり、郊祀制帛は天地を祀り、奉先制帛は祖考に薦め、礼神制帛は社稷・群神・帝王・先師を祭り、展親制帛は親王を祭享し、報功制帛は功臣を祭享する。牲は四等あり、犢・牛・太牢・少牢である。色は騂または黝を尚ぶ。大祀は三月間、中祀は一月間、小祀は一句間、滌宮に入れる。楽は四等あり、九奏は天地を祀り、八奏は神祇・太歳に用い、七奏は大明・太社・太稷・帝王に用い、六奏は夜明・帝社・帝稷・宗廟・先師に用いる。舞は二つあり、文舞と武舞である。楽器は移動しない。陵園の祭には楽がない。歳末に五礼の神を合祭する時は、少卿が事を摂行する。

初め、呉元年に太常司を置き、卿は正三品、少卿は正四品、丞は正五品、典簿・協律郎・博士は正七品、賛礼郎は従八品とした。洪武初年、各祠祭署を置き、署令・署丞を設けた。十三年、協律郎などの官の品秩を改定した。協律郎は正八品、賛礼郎は正九品、司楽は従九品とした。三十四年、各署令を奉祀に、署丞を祀丞に改めた。二十年、司を寺に改め、官制は従前のままとした。二十五年、すでに司丞を正六品と定めた。建文中、賛礼郎二人、太祝一人を増設し、各祠祭署にも全て改革があった。天壇祠祭署を南郊祠祭署とし、泗州祠祭署を泗濱祠祭署とし、宿州祠祭署を新豊祠祭署とし、孝陵に鐘山祠祭署を置き、各司圃所に神楽観知観一人を増設した。成祖の初め、ただ天壇を天地壇に改めたのみで、その他は全て洪武年間の制に復した。建文時、南郊祠祭署は郊壇祠祭署となり、後にまた天地壇祠祭署と改めた。洪熙元年に犠牲所を置き、吏目が文書の往来を掌った。先に、洪武三年に神牲所を置き、廩牲令・大使・副使などの官を設けた。四年に廃止した。世宗が祀典を整理し、天地壇を天壇・地壇に分け、山川壇・耤田祠祭署を神祇壇とし、大祀殿を祈穀殿とし、朝日・夕月の二壇を増置し、各々祠祭署を設けた。また協律郎・賛礼郎・司楽などの員を増設した。隆慶三年、協律郎などの官四十八員を削減し、万暦六年に復設し、嘉靖年間の制の如くとした。万暦四年、神祇壇を先農壇と改めた。

提督四夷館

提督四夷館。少卿一人、正四品。訳書の事を掌る。永楽五年より、外国の朝貢に際し、特に蒙古・女直・西番・西天・回回・百夷・高昌・緬甸の八館を設け、訳字生・通事を置き、通事は初め通政使司に隷属し、言語文字を通訳した。正徳年間、八百館を増設した(八百国蘭者哥の進貢)。万暦年間、また暹羅館を増設した。初め四夷館は翰林院に隷属し、国子監生を選んで訳を習わせた。宣徳元年、官民の子弟を兼ねて選び、官を委ねて教え習わせ、学士が課程を稽考した。弘治七年、初めて太常寺卿・少卿各一員を増設して提督とし、遂に太常寺に改隷した。嘉靖年間、卿を削減し、少卿一人のみとした。按ずるに、太常寺卿で南京にある者は、多く科目による。北寺は永楽年間より楽舞生を用い、累資して寺卿に昇り、甚だしきは礼部侍郎・尚書を加えて寺を掌り、後多くはこれに沿襲した。隆慶初年に至り、乃ち重ねて科甲出身者を推挙して補任した。訳字生は、明初は甚だ重んじられた。考課に与る者は、郷試・会試の額科甲と一体の出身であった。後にはただ雑流となった。館に在る者は、昇転は皆鴻臚寺に在った。

光禄寺

光禄寺。卿一人、従三品。少卿二人、正五品。寺丞二人、従六品。その属に典簿庁があり、典簿二人、従七品。録事一人、従八品。大官・珍羞・良醞・掌醢の四署があり、各署正一人、従六品。署丞四人、従七品。監事四人、従八品。司牲司に、大使一人、従九品。副使一人、後に廃止。司牧局に、大使一人、従九品、嘉靖七年に廃止。銀庫に、大使一人。

卿は、祭享・宴労・酒醴・膳羞の事を掌り、少卿・寺丞ら官属を率い、その名数(品目と数量)を辨じ、その出入を会計し、その豊約(豊かさと倹約)を量り、礼部の指示に従う。凡そ祭祀には、太常と共に犠牲を省みる。天子が親祭する時は、飲福受胙を進める。新物を薦める時は、月令に従ってその品物を献上する。喪葬には奠饌を供する。用いる牲・果物・菜物は、上林苑から取る。足りなければ民間から買い求め、時価の十に一を加え、その直銭は季ごとに天財庫から支給する。四方の貢献する果鮮厨料は、謹んで受け取り納める。器皿は工部に移すか、あるいは工人を募って兼ねて作り、毎年その成敗を省みる。凡そ筵宴の酒食及び外使・降人には、その等を差して供給する。伝奉宣索(上命による臨時の要求)は、記録して覆奏する。科道官一員を監とし、その出入を察し、奸弊を糾し禁ずる。毎年四月から九月まで、凡そ御用の物及び祭祀の品は皆氷を用いる。大官は、祭品・宮膳・節令の筵席・蕃使の宴犒の事を供する。珍羞は、宮膳の餚核(肉料理と果物)の事を供する。良醞は、酒醟の事を供する。掌醢は、餧・油・醯・醬・梅・塩の事を供する。司牲は牲を養い、その肥瘠を見て蠲滌(清潔に保つ)する。司牧もまたこれに同じ。

初め、呉元年に宣徽院を置き、院使(正三品)、同知(正四品)、院判(正五品)、典簿(正七品)を設けた。尚食・尚醴の二局をこれに隷属させた。局には大使(従六品)、副使(従七品)を設けた。洪武元年に光禄寺と改め、光禄卿(正四品)、少卿(正五品)、寺丞(正六品)、主簿(正八品)を設けた。所属の尚食等局を移し、また太常司の供需庫をこれに隷属させた。局庫の官品は旧に依った。二年、直長四人を設け、百官が御前で賜食を受ける際に供事させた。四年、法酒庫を置いた。内酒坊大使(従八品)、副使(従九品)を設けた。八年、寺を司と改め、卿の秩を上げ、卿は従三品、少卿は従四品とした。寺丞を司丞(従六品)とし、主簿を典簿(従七品)とし、録事(従八品)を増設した。また所属として大官・珍羞・良醞・掌醢の四署を置き、各署に令一人(従六品)、丞一人(従七品)、監事一人(従八品)を設けた。孳牧所には大使一人(従九品)、副使一人(未入流)を置いた。十年、光禄司の散官品秩を定めた。当時用いる光禄司の官は、或いは内官、或いは流官、或いは庖人で、出身が異なるが、同じく散官を授けていた。ここに至って定め、内官として除授された者は内官散官に照らして給授し、流官として除授された者は文官散官に照らして給授し、庖人として除授された者は、卿(従三品)は尚膳大夫を授け、少卿(正五品)は奉膳大夫を授け、司丞(従六品)は司膳郎を授け、各署丞(従七品)は掌膳郎を授け、監事(従八品)は執膳郎を授けた。まもなく各局庫を廃し、司牲司を置き、また孳牧所を司牧司と改めた。後に司牧局とした。三十年、再び光禄寺と改め、官制は旧に依った。少卿は既に正五品と定まっていた。建文中、少卿・寺丞の品秩を上げた。少卿は四品に、寺丞は五品に上げた。司圃所を増設し、司牲司を孳牲所と改めた。その品級を上げた。成祖は旧制に復した。正統六年、四署の冗員を削減した。先に、光禄卿の奈享が供応の事が繁雑であることを以て奏上し、各署の官を増やしていたが、ここに至って再び奏上してこれを削減した。署正四人、署丞五人、監事七人を削減した。嘉靖七年、司牧局を廃した。万暦二年、銀庫大使一人を添設した。

太僕寺

太僕寺。卿一人(従三品)。少卿二人(正四品、正徳十一年に一人増設)。寺丞四人(正六品)。その属官に、主簿庁の主簿一人(従七品)。常盈庫の大使一人。所轄の各牧監に、監正一人(正九品)、監副一人(従九品)、録事一人(後に監正・監副・録事は全て廃止)。各羣に、羣長一人(後に廃止)。

卿は牧馬の政令を掌り、兵部の指示に従う。少卿一人は寺事を輔佐し、一人は営馬を監督し、一人は畿馬を監督する。寺丞は京衛・畿内及び山東・河南の六郡(済南・兗州・東昌・開封・彰徳・衛輝)の孳牧・寄牧の馬匹を分理する。凡そ軍民の孳牧は、その丁産を見て種馬を授ける。牡十の二、牝十の八をもって一羣とする(南方では四牝一牡をもって羣とする)。毎年その駒を徴収し、これを備用馬と称し、その力を揃えて将士に給する。将士に足りれば、畿内の府州県に寄牧し、その肥瘠・登耗(増減)を記録し、その毛色・歯齢を籍に記して時々検閲する。三年ごとに御史一人と共に印烙し、その健良なものを選び、羸劣なものを淘汰する。その草場で既に墾かれて田となったものは、毎年その租金を徴収し、災害・凶作の時はこれを出して馬の購入を補佐する。その賠償・折納は、馬金を徴収して兵部に輸送する。主簿は勾省文移(文書の審査・発送)を掌る。大使は庫馬金の貯蔵を掌る。

初めに、洪武四年に羣牧監を答答失裏の営所に置き、水草の利便に従って官署を立て、専ら牧養を司らせた。六年、羣牧監を滁州に改めて置き、間もなく太僕寺と改め、位階は従三品とし、卿・少卿・寺丞を設け、また首領官として知事・主簿を各一人置いた。七年、牧監・羣官二十七箇所を増設し、太僕寺に隷属させた。まもなく羣牧監の品秩を定めた。令は正五品、丞は正六品、鎮撫は従六品、羣頭十人・吏目一人、省がこれを注擬した。十年、滁陽など各牧監及び所属の各羣を増置した。牧監の令・丞を監正・監副と改めた。監正は従八品、監副は正九品、禦良は従九品。後にまた監正を正九品と定めた。二十二年、滁陽など十二牧監を定め、各監に監正一人、監副二人、録事一人を設けた。来安など一百二十七羣、各羣に羣長一人を設けた。初めは羣副二人を設けていたが、この時に廃止した。二十三年、江東・当塗の二牧監及び所属の各羣を増置した。また烏衣など五十四羣を廃し、永安など七羣を改めて置き、牧監十四を定めた。滁陽・大興・香泉・儀真・定遠・天長・長淮・江都・句容・溧陽・江東・溧水・当塗・舒城。羣は九十七。大勝関・柏子・騮興・保寧・草堂の五羣は滁陽監に隷属。永安・如皋・沿海・保全・朝陽・永昌・安定の七羣は大興監に隷属。大銭・銅城・永豊・龍勝・龍山・永寧・新安・慶安・襄安の九羣は香泉監に隷属。華陽・寿寧・広陵・善応の四羣は儀真監に隷属。龍江・龍安・万勝・龍泉の四羣は定遠監に隷属。天長・懐徳・招信・得勝・武安の五羣は天長監に隷属。長安ちょうあん・白石・荊山・南山・団山・草平の六羣は長淮監に隷属。万寧・広生・万驥・順徳・大興・驥寧・崇徳の七羣は江都監に隷属。句容・易風・仍信・福胙・通徳・承佩・上容・政仁・練塘・寿安の十羣は句容監に隷属。挙福・従山・明義・永定・福賢・崇来・永城・永泰・奉安の九羣は溧陽監に隷属。開寧・泉水・惟政・清化・神泉・新亭・長泰・光沢の八羣は江東監に隷属。儀鳳・仙壇・立信・帰政・豊慶・安興・遊山・永寧の八羣は溧水監に隷属。石城・永保・化洽・姑熟・繁昌・多福・丹陽・徳政の八羣は当塗監に隷属。棗林・海亭・伏龍・龍河・会龍・九龍・万龍の七羣は舒城監に隷属。二十八年、羣牧監をすべて廃止し、その馬を有司の牧養に隷属させた。三十年、行太僕寺を北平に置き、位階は太僕寺と同じ。建文中、寺丞の品秩を昇進させ、旧は六品であったが五品に昇進。またその首領官の職名を改め、録事を増設し、及び典廄・典牧の二署、壚肅騻など十八羣、滁陽など八牧監、龍山など九十二羣を設けた。成祖は旧制に復した。永楽元年、北平行太僕寺を北京行太僕寺と改めた。十八年北京に都を定め、遂に行太僕寺を太僕寺とした。洪熙元年、再び北京行太僕寺と称した。正統六年、太僕寺と定めた。旧来滁州にあったものは、南京太僕寺と改めた。寺丞は初め四人を置いた。正統年中、また八人を増やし、合わせて十二人とし、一人に京衛を領させ、一人に順徳・広平の二府を領させ、一人に開封・衛輝・彰徳の三府を領させ、九人に順天・保定・真定・河間・永平・大名・済南・兗州・東昌の九府の孳牧・寄牧の各馬匹を分領させた。弘治六年四人を廃止。正徳九年また一人を増設し、専ら寄牧の事を領させた。嘉靖八年また三人を廃止し、合わせて六人で分領させ、三年ごとに交代させ、寄牧する者は府州県に兼理させた。隆慶三年また三人を廃止し、三人のみを設け、一人に庫蔵の提督をさせて京辺の協理を兼ねさせ、二人に東西二路の各馬政を分理させた。

鴻臚寺

鴻臚寺。卿一人、正四品。左・右少卿各一人、従五品。左・右寺丞各一人、従六品。その属官に、主簿庁、主簿一人、従八品。司儀・司賓の二署、各署丞一人、正九品。鳴賛四人、従九品、後に五人を増設。序班五十人、従九品。嘉靖三十六年八人を廃止。万暦十一年六人を復設。

鴻臚は、朝会・賓客・吉凶の儀礼の事を掌る。凡そ国家の大典礼、郊廟・祭祀・朝会・宴饗・経筵・冊封・進暦・進春・伝制・奏捷に、各々その事を供する。外吏の朝覲、諸蕃の入貢、及び百官使臣の復命・謝恩、若しくは謁見若しくは辞去する者は、皆鴻臚が引奏する。歳の正旦・上元・重午・重九・長至の賜假・賜宴、四月の字扇・寿縷の賜与、十一月の暖耳の賜戴、陪祀の終わりに頒胙賜を行う時は、皆百官の行禮を賛する。司儀は、陳設・引奏を掌り、外吏が来朝する時は必ず先ず寺で儀礼を演習させる。司賓は、外国朝貢の使節を掌り、その等級を辨別してその拝跪の儀節を教える。鳴賛は、儀礼の賛導を掌る。凡そ内賛・通賛・対賛・接賛・伝賛を職掌とする。序班は、侍班・斉班・糾儀及び伝賛を掌る。

初めに、呉元年に侍儀司を置き、位階は従五品。洪武四年に侍儀使を定め、従七品。引進使、正八品。奉班都知、正九品。通賛・通事舎人、従九品、皆七品以下の官とした。九年、殿庭儀礼司と改め、使一人を設け、正七品。副三人、正八品。丞奉一人、従八品。鳴賛二人、正九品。序班十六人、従九品。九関通事使一人、正八品。副六人、従八品。十三年、使を司正と改め、左・右司副各一人に分け、序班を四十四人まで増やし、承奉を廃止し、司儀四人を増設。二十二年、左・右司丞四人を増設、正九品。三十年、初めて鴻臚寺と改め、位階を正四品に昇進させ、官六十二員を設けた。卿以下の員数・品級は前に列挙した通り。また外夷通事を隷属させた。建文中、少卿以下の品秩を昇進。少卿は正五品に昇進、寺丞は正六品に昇進。またその首領官の職名を改め、鳴賛・序班と共に皆品級を昇進。司儀・司賓の二署を廃止し、行人を鴻臚寺に隷属させた。成祖の初め、悉く旧制に復した。

尚宝司

尚宝司。卿一人、正五品。少卿一人、従五品。司丞三人、正六品。呉元年にはただ一人を設け、後に二人を増設。宝璽・符牌・印章を掌り、その用いるところを辨ずる。

宝は二十四顆ある。旧宝は十七顆、嘉靖十八年に増制したものは七顆である。『皇帝奉天之宝』は、唐・宋より伝わる璽であり、天地を祀る時に用いる。詔と赦の場合は『皇帝之宝』を用いる。冊封・賜労には『皇帝行宝』を用いる。親王・大臣に詔し、兵を調発するには『皇帝信宝』を用いる。尊号を上るには『皇帝尊親之宝』を用いる。親王を諭すには『皇帝親親之宝』を用いる。『天子之宝』は山川・鬼神を祀るのに用い、『天子行宝』は外国を封じ賜労するのに用い、『天子信宝』は外服を招き徴発するのに用いる。詔には『制誥之宝』を用い、勅には『勅命之宝』を用い、臣工を奨励するには『広運之宝』を用い、朝覲官を勅諭するには『敬天勤民之宝』を用いる。『御前之宝』『表章経史之宝』『欽文之宝』は、図書文史などに用いる。世宗が増制したものは、『奉天承運大明天子宝』『大明受命之宝』『巡狩天下之宝』『垂訓之宝』『命徳之宝』『討罪安民之宝』『勅正万民之宝』である。太子の宝は一顆、『皇太子之宝』という。凡そ宝を用いるには、必ず奏請して発するのを待つ。毎たび大朝会には、本司の官二員が宝を以て駕を導き、座に昇るのを待ち、各々宝を案上に置き、殿中に立って待つ。礼が終わると、宝を捧げて分行し、中極殿に至り、案上に置いて退出する。駕が出幸する時は、奉じて従う。歳末には、欽天監に移し、日時を選び香物を水に入れ、皇極門で宝を洗う。一歳の宝を用いた数を籍に記して奏する。凡そ宝を請い、用い、捧げ、随い、洗い、納めることは、皆内官の尚宝監と共に行う。

凡そ金牌の号は五つあり、勲戚侍衛の扈従及び班直する者、巡朝する者、夜宿衛する者に給する。仁といい、その形は龍、公・侯・伯・駙馬都尉が佩く。義といい、その形は虎、勲衛指揮が佩く。礼といい、その形は麟、千戸が佩く。智といい、その形は獅、百戸が佩く。信といい、その形は祥雲、将軍が佩く。半字銅符の号は四つあり、巡城寺衛官に給する。承・東・西・北という。巡る者は左半、守る者は右半を持ち、合契して点察する。権杖の号は六つあり、申は金吾諸衛の警夜者に給し、木・金・土・火・水は五城の警夜者に給する。銅牌の号は一つあり、守卒を稽えるのに用い、勇という。牙牌の号は五つあり、朝参を察するのに用いる。公・侯・伯は勲、駙馬都尉は親、文官は文、武官は武、教坊司は楽という。嘉靖年中、総編して官字某号とし、朝参に佩いて出入りし、そうでなければ門者が止める。私的に借りる者は、律に照らして論ず。事ある時は、内府に納める。祭牌の号は三つあり、陪祀官は陪、供事官は供、執事人は執という。双魚銅牌の号は二つあり、厳は直衛錦衣校尉こういの直を止める者を粛するのに用い、善は光禄胥役の供事する者を飾るのに用いる。符験の号は五つあり、馬・水・達・通・信という。符験の制は、上に船馬の状を織り、起馬には馬の字を用い、双馬には達の字を用い、単馬には通の字を用いる。起船には水の字を用い、並船には信の字を用いる。親王の藩国就封及び文武が出鎮撫し、行人が使命を通ずる者には、これを給する。御史が出巡察する時は印を給し、事竣れば、皆験して納める。出入りの令を稽え、その数を弁じ、その職は至って近く、その事は至って重い。

太祖の初め、符璽郎を設け、秩は正七品とした。呉元年に尚宝司卿と改め、秩は正五品とし、侍従の儒臣・勲衛に領させた。耿瑄が散騎舎人、黄観が侍中、楊栄が庶子として卿となった如し。才能なければ調べられず。勲衛大臣の子弟は奉旨して初めて丞を補すことを得た。その後多くは恩蔭により禄を寄せ、常員は無し。

六科

吏・戸・礼・兵・刑・工の六科。各々都給事中一人、正七品。左・右給事中各一人、従七品。給事中は、吏科四人、戸科八人、礼科六人、兵科十人、刑科八人、工科四人、並びに従七品。後に員数を増減し常ならず。万暦九年に兵科五人、戸・刑二科各四人、礼科二人を裁す。十一年に戸・兵・刑三科各二人、礼科一人を復設す。六科は、侍従・規諫・補闕・拾遺・稽察六部百司の事を掌る。凡そ制勅宣行するに、大事は覆奏し、小事は署してこれを頒つ。失あれば、封じて還し執奏す。凡そ内外より上る章疏が下されれば、分類して抄出し、参署して部に付し、その違誤を駁正す。吏科は、凡そ吏部が選を引く時は、掌科(即ち都給事中。本科の印を掌る故に名づく。六科同じ)が共に御前に至り旨を請う。外官が文憑を領するは、皆先ず科に赴き画字す。内外官が考察自陳した後は、各科と具奏す。拾遺してその不職なる者を糾す。戸科は、光禄寺の歳入金穀、甲字等十庫の銭鈔雑物を監し、各科と兼ねて蒞み、皆三月にして代わる。内外に田土を陳乞し、隠佔侵奪する者あれば、これを糾す。礼科は、礼部儀制を監訂し、凡そ大臣でかつて糾劾削奪され、士論に玷ある者を記録し、以て贈諡の典を核す。兵科は、凡そ武臣の貼黄誥勅を、本科一人が監視す。その引選画憑の制は、吏科の如し。刑科は、毎歳二月下旬に、前年の南北罪囚の数を上り、歳終に一歳の蔽獄の数を類上し、十日毎に実在罪囚の数を上る。皆法司の移報に憑りて奏禦す。工科は、軍器局を閲試し、御史と共に節慎庫を巡視し、各科と宝源局を稽查す。而して主徳の闕違、朝政の失得、百官の賢佞については、各科或いは単疏を以て専達し、或いは公疏を以て連署して奏聞す。六科に分隷すれども、その事重大に属する者は、各科皆通奏することを得る。但し事某科に属する時は、その科を首と為して列す。凡そ日朝には、六科一人を輪番して殿の左右に立ち、筆を珥して旨を記す。凡そ題奏は、日附科籍し、五日毎に内閣に送り、編纂に備う。その諸司が奉旨処分する事目は、五日毎に註銷し、稽緩を核す。内官が旨を伝うれば必ず覆奏し、再び旨を得て後に行う。郷試には考試官を充て、会試には同考官を充て、殿試には受巻官を充てる。宗室・諸蕃を冊封し、或いは外国に告諭する時は、正・副使を充てる。朝参の門籍は、六科が流れ掌る。登聞鼓楼には、日一人、皆錦衣衛官が監蒞す。洪武元年、監察御史一人を以て登聞鼓を監せしめ、後に六科と錦衣衛に輪直せしむ。牒を受ければ、則ち題本を具して封上す。決囚に遇い、牒を投じて冤を訟うる者あれば、則ち停刑を判して旨を請う。凡そ大事の廷議、大臣の廷推、大獄の廷鞫には、六掌科皆預かる。

明朝初期、統一的に給事中を設置し、正五品とし、後に数度その官秩を改めた。起居注と同様である。洪武六年、給事中十二人を設け、官秩は正七品とし、初めて六科に分かれ、各科二人ずつ、給事中の印一顆を鋳造し、年長者一人を推してこれを掌らせた。九年、給事中十人と定めた。十年、承敕監に隷属させた。十二年、通政司に改めて隷属させた。十三年、諫院を置き、左・右司諫各一人、正七品;左・右正言各二人、従七品とした。十五年、また諫議大夫を置き、兵部尚書唐鐸をこれに任じた。まもなく皆廃止した。二十二年、給事中を源士と改め、八十一人に増員した。初め、魏敏・卓敬ら凡そ八十一人が給事中となった。皇帝はその数がちょうど古の元士の数に合うとして、元士と改めた。この時、また六科を事の本源として、源士と改めた。間もなく、再び給事中とした。二十四年、科員を改めて定め、各科都給事中一人、正八品;左・右給事中各二人、従八品;給事中合わせて四十人、正九品とした。各科に分けて設置する員数は、前に列挙した通りである。建文中、都給事中を正七品、給事中を従七品と改め、左・右給事中は置かなかった。拾遺・補闕を増設した。成祖の初め、拾遺・補闕を廃し、引き続き左・右給事中を置き、これも従七品とした。まもなく六科を改め、午門外の直房に置いて事に臨んだ。六科の衙門は旧く磚門内の尚宝司の西にあった。永楽中に災害があり、午門外の東西に移し、毎夜一科が宿直した。宣徳八年、戸科給事中を増員し、専ら黄冊を管理させた。

中書科

中書科。中書舎人二十人、従七品。文華殿東房に直る中書舎人、武英殿西房に直る中書舎人、内閣誥敕房の中書舎人、制敕房の中書舎人、並びに従七品、定員なし。

中書科舎人は誥敕・制詔・銀冊・鉄券等の書写を掌る。凡そ草稿は諸翰林に請い、宝璽は諸内府に請い、左券及び勘合籍は古今通集庫に帰する。誥敕は、公侯伯及び一品から五品の誥命、六品から九品の敕命である。勘合籍の符号は、初め二十八宿を用い、後に『急就章』を用いて符号とした。誥敕の符号は、仁・義・礼・智といい、公・侯・伯・蕃王・一品・二品に用いる;十二支といい、文・行・忠・信といい、文官三品以下に用いる;千字文といい、武官・継続誥に用いる。皆千号を以て満とし、満ちればまた始める。王府及び駙馬都尉は編号せず、土官は文武の類に分けて編む。凡そ大朝会には、則ち侍班する。東宮の令節朝賀には、則ち文華殿で導駕侍班する。宗室を冊封するには、則ち副使を充てる。その郷試・会試・殿試には、間々差遣があり、授け充てることは科員の如くである。南郊で大祀を行うときは、則ち駕に随って事に供する。員に正副なく、印は年功の深い者がこれを掌る。文華殿舎人は、職掌は旨を奉じて書籍を書写することである。武英殿舎人は、職掌は旨を奉じて冊宝・図書・冊頁を篆写することである。内閣誥敕房舎人は、文官の誥敕を書いて扱い、敕書を翻訳し、並びに外国文書・掲帖、兵部の紀功・勘合の底簿を掌る。制敕房舎人は、制敕・詔書・誥命・冊表・宝文・玉牒・講章・碑額・題奏・掲帖等一切の機密文書を書いて扱い、各王府の敕符底簿を掌る。

洪武七年、初め直省舎人十人を設け、官秩は従八品、中書省に隷属させた。九年、中書舎人とし、正七品に改め、まもなくまた従七品に改めた。十年、給事中と共に皆承敕監に隷属させた。建文中、中書舎人を廃し、侍書と改め、正七品に昇格し、文翰館に入れ、翰林院に隷属させた。成祖は旧制に復した。まもなく中書科署を午門外に設け、中書舎人二十人を定めて設置した。その恩蔭で帯俸する者は、定員内に含まれない。宣徳年間、内閣に誥敕・制敕の両房を置き、皆中書舎人を設けた。嘉靖二十年、各部の主事、大理寺評事を選び、原官の官銜を帯びて誥敕・制敕両房に直らせた。四十四年、両房に員欠が生じ、吏部に挙人を考選して中書舎人とすることを命じた。隆慶元年、両房の办事官は九卿の列に昇進できないことを命じた。按ずるに洪武年間、承敕監(洪武九年設置、令一人を設け正六品、丞二人を設け従六品。まもなく令を正七品、丞を正八品に改める。十年に令・丞を承敕郎と改め、二人を設け従七品とする。給事中・中書舎人皆これに隷属させた。後に廃止)、司文監(洪武九年設置、令一人を設け正六品、丞二人を設け従六品。まもなく令を正七品、丞を正八品に改める。十年に廃止)、考功監(洪武八年設置、令・丞を設ける。九年に令一人正六品、丞二人従六品と定めて設置。まもなく令を正七品、丞を正八品に改める。十八年に廃止)を置き、給授誥敕の事を参掌させた。永楽初め、内閣学士に機務を典せしめ、詔冊・制誥は皆これに属させた。そして謄副・繕正は皆中書舎人が入って行い、事が竣れば直ちに出た。宣徳初め、初めて能書の者を選んで閣の西の小房に処し、これを西制敕房といった。そして諸学士で誥敕を掌る者は閣の東に居り、草稿を具えて中書に交付し繕写進上させ、これを東誥敕房といった。これは办事である。知制誥の官銜は、大学士と諸学士のみが帯びることができる。正統以後、学士は誥敕を視ることができず、内閣は悉く中書・序班・訳字等の官に委ね、ここにおいて内閣にまた東誥敕房ができた。劉鉉が輔臣と会食しなかったことに始まる。嘉靖末、また翰林の史官に外制を掌らせ、而して武官の誥敕は依然としてその属官がこれを行った。若し詔赦・敕革の類は、必ず閣臣によるもので、翰林の諸臣は預かることはできない。その文華・武英両殿に直って御筆札に供する者は、初めは内官の職とし、続いて中書が分かれて直り、後もまた専ら能書の者を挙げた。およそ舎人には二つの途があり、進士で部選による者は、科道部属に遷ることができるが、その両殿・両房に直る舎人は、必ずしも部選によらず、甲科・監生・生儒・布衣で能書の者、皆これとなることができる。科甲によらない者は、初め序班を授かり、及び中書舎人を試み、科道部属に遷ることはできず、後たとえ九列の官銜を加えても、依然として官銜を帯びて办事する。楷書出身の者は、或いは太常卿の官銜を加えられ、沈度・沈粲・潘辰らには翰林学士・礼部尚書まで加えた者がある。洪武初め、また承天門待詔一人、閣門使四人、観察使十人があったが、後に皆廃止した。

行人司

行人司。司正一人、正七品;左・右司副各一人、従七品;行人三十七人、正八品。職は専ら節を捧げ、使を奉ずることを掌る。凡そ詔赦を頒行し、宗室を冊封し、諸蕃を撫諭し、賢才を徴聘し、及び賞賜・慰問・賑済・軍旅・祭祀に至るまで、皆叙して差遣する。毎年の朝審には、則ち行人が節を持ち法司に旨を伝え、戍に遣る囚徒を送り、五府に精微冊を填めさせ、内府に批繳する。

初めに、洪武十三年に行人司を設置し、行人を設け、官秩は正九品とした。左行人・右行人は従九品であった。まもなく行人を司正と改め、左行人・右行人を左司副・右司副と改め、さらに行人三百四十五人を設けた。二十七年に官秩を昇格させ、任用された行人の多くが孝廉人材であり、奉使の任に概ね旨に適わなかったため、行人司の官を四十員と定員し、すべて進士をもってこれに充てた。特旨なくしては、みだりに派遣することを得ず、行人の職務は初めて重んじられた。建文中、行人司を廃止し、行人を鴻臚寺に隷属させた。成祖は旧制に復した。

欽天監

欽天監。監正一人、正五品。監副二人、正六品。その属官に、主簿庁があり、主簿一人、正八品。春官正・夏官正・中官正・秋官正・冬官正各一人、正六品。五官霊台郎八人、従七品、後に四人を削減。五官保章正二人、正八品、後に一人を削減。五官挈壺正二人、従八品、後に一人を削減。五官監候三人、正九品、後に一人を削減。五官司暦二人、正九品。五官司晨八人、従九品、後に六人を削減。漏刻博士六人、従九品、後に五人を削減。

監正・監副は、天文を観察し、暦数を定め、占候・推歩の事を掌る。およそ日月・星辰・風雲・気色について、その属官を率いて測候する。変異があれば、密かに上疏して奏聞する。およそ習業は四科に分かれる。天文・漏刻・回回・暦という。五官正以下から天文生・陰陽人に至るまで、各々分科して学業に従事する。毎年冬至の日に、翌年の『大統暦』を呈奏し、成化十五年には翌年の暦を十月朔日に頒布するよう改めた。礼部に移送して頒行する。その『御覧月令暦』・『七政躔度暦』・『六壬遁甲暦』・『四季天象録』は、ともに期日前に進呈する。およそ暦注は、御暦注三十事、例えば祭祀・頒詔・行幸などの類である。民暦三十二事、壬遁暦七十二事である。およそ祭日のことは、前年に会選して進め、太常寺に知らせる。およそ営建・征討・冠婚・山陵の事については、地を選び日を択ぶ。立春には、予め東郊で気を候う。大朝賀には、文楼に定時鼓・漏刻を設けて時を報じ、司晨・鶏唱が各々その事を供する。日月の交食については、期日前にその分秒時刻・起復方位を算して奏聞し、礼部に下し、内外諸司に移してこれを救い、なお占書に按じて条奏する。もし食が一分に及ばず、また『回回暦』では食が一分以上であっても、奏するだけで救わない。監官は他官に改めてはならず、子孫は他業に転じてはならない。人材が乏しければ、礼部に移して訪ね取って試用する。五官正は暦法を推し、四時を定める。司暦・監候がこれを補佐する。霊台郎は日月星辰の躔次・分野を弁じ、天文の変を占候する。観象台は四面あり、各面に天文生四人ずついて、輪番で測候を司る。保章正は専ら天文の変を志し、その吉凶の占を定める。挈壺正は刻漏を知る。孔壺を漏とし、浮箭を刻として、中星の昏旦の次を考うる。漏刻博士は漏をもって時を定め、牌をもって時を換え、鼓をもって更を報じ、鐘鼓をもって晨昏を警める。司晨がこれを補佐する。

太史監

明初、すみやかに太史監を置き、太史令・通判太史監事・僉判太史監事・校事郎・五官正・霊台郎・保章正・副・挈壺正・掌暦・管勾などの官を設けた。劉基を太史令とした。呉元年、監を院と改め、官秩は正三品とした。院使は正三品、同知は正四品、院判は正五品、五官正は正六品、典簿・雨暘司・時叙郎・紀候郎は正七品、霊台郎・保章正は正八品、副は従八品、掌暦・管勾は従九品である。洪武元年、元の太史張佑・張沂ら十四人を徴用し、太史院を司天監と改め、監令一人(正三品)、少監二人(正四品)、監丞一人(正六品)、主簿一人(正七品)、主事一人(正八品)、五官正五人(正五品)、五官副五人(正六品)、霊台郎二人(正七品)、保章正二人(従七品)、監候三人(正八品)、司辰八人(正九品)、漏刻博士六人(従九品)を設けた。また回回司天監を置き、監令一人(正四品)、少監二人(正五品)、監丞二人(正六品)を設けた。元の回回司天監鄭阿裏らを徴用して暦を議させた。三年、司天監を欽天監と改めた。四年、詔して監官の職は専ら天を司るものであり、特旨なくしては昇調してはならないと定めた。また監官の散官を定めた。監令は正儀大夫、少監は分朔大夫、五官司は司玄大夫、監丞は霊台郎、五官保章正は平秩郎、五官霊台郎は司正郎、五官挈壺正は挈壺郎である。十四年、欽天監を正五品と改め、令一人・丞一人を設け、属官の五官正以下は、員数は前に列挙した通りである。すべて品級に従って文職散官を授けた。二十二年、令を監正と改め、丞を監副と改めた。三十一年、回回欽天監を廃止し、その暦法を本監に隷属させた。明初、また稽疑司を置いて卜筮を掌らせたが、まもなく廃止した。洪武十七年、稽疑司を置き、司令一人(正六品)、左丞・右丞各一人(従六品)、属官司筮(正九品、定員なし)を設けた。まもなく廃止した。

太医院

太医院。院使一人、正五品。院判二人、正六品。その属官に御医四人(正八品、後に十八人に増員、隆慶五年に十人と定員)、生薬庫・恵民薬局各大使一人、副使一人がある。

太医院は医療の法を掌る。およそ医術は十三科あり、医官・医生・医士は専科に学業に従事する。大方脈・小方脈・婦人・瘡瘍・鍼灸・眼・口歯・接骨・傷寒・咽喉・金鏃・按摩・祝由という。およそ医家の子弟は、師を択んでこれを教える。三年・五年ごとに一試・再試・三試を行い、それによって罷免・昇進させる。およそ薬物については、その土宜を弁じ、その良楛を択び、その条制を慎んで用いる。四方より解納される薬品は、院官が生薬庫に収蔵し、その燥湿を時に応じて管理し、礼部が官一員を委してこれを稽察する。御脈を診視するには、院使・院判・御医が参看して校同し、内臣と会して内局で薬を選び、連名で薬剤を封記し、本章を具して薬性・証治の法を開写して奏上する。御薬を烹調するには、院官と内臣が監視する。毎に二剤を合わせて一剤とし、熟するのを待ち、二器に分け、一器は御医・内臣が先に嘗め、一器を進御する。なお暦簿を置き、内印を用いて鈐記し、年月縁由を細かに記載し、もって考察の憑とす。王府が医師を請うれば、本院は奉旨して官または医士を派遣する。文武大臣および外国君長に疾あれば、また奉旨して往診する。その治療の可否は、すべて本章を具して覆奏する。外府州県には恵民薬局を置く。辺関衛所および人の聚まる処には、各々医生・医士または医官を設け、すべて本院が試験して派遣する。歳末、その功過を会察して殿最し、もって罷免・昇進の憑とする。

太祖の初め、医学提挙司を置き、提挙(従五品)、同提挙(従六品)、副提挙(従七品)、医学教授(正九品)、学正・官医・提領(従九品)を設けた。まもなく太醫監と改め、少監(正四品)、監丞(正六品)を設けた。呉元年、監を院と改め、院使(正三品)、同知(正四品)、院判(正五品)、典簿(正七品)を設けた。洪武三年、惠民薬局を置き、府には提領を、州県には官医を設けた。軍民の貧しく病む者には、医薬を与えた。六年、内府に禦薬局を置き、初めて御医を設けた。御医局は正六品で、尚薬・奉禦各二人、直長二人、薬童十人を設け、いずれも内官・内使をもって充てた。御医四人を設け、太医院の医士をもって充てた。四方の貢献する名薬の収受と薬品の貯蓄は、奉禦一人がこれを掌った。供御する薬餌は、医官が内局で修製し、太医院の官が診視した。十四年、太医院を正五品と改め、令一人、丞一人、吏目一人を設けた。属官の御医四人は、いずれも文職と同様に散官を授けた。二十二年、再び令を院使、丞を院判と改めた。嘉靖十五年、御薬房を聖済殿と改め、また御薬庫を設け、詔して御医に輪直して供事させた。

上林苑監

上林苑監。左・右監正各一人(正五品)、左・右監副各一人(正六品、監正・監副は後に常設せず、監丞が職務を代行)、左・右監丞各一人(正七品)。その属官に、典簿庁の典簿一人(正九品)。良牧・蕃育・林衡・嘉蔬の四署があり、各々典署一人(正七品)、署丞一人(正八品)、録事一人(正九品)。

監正は苑囿・園池・牧畜・樹種の事を掌る。禽獣・草木・蔬果について、その属官を率いて養戸・栽戸を監督し、時に応じてその養地・栽地を管理し、畜養・植栽して、祭祀・賓客・宮府の膳羞に供する。苑地は、東は白河、西は西山、南は武清、北は居庸関、西南は渾河に至り、ともに囲猟を禁ずる。良牧署は牛羊豕を牧し、蕃育署は鵝鴨雞を育成し、いずれもその牝牡の数を記録して、繁殖・産卵を課す。林衡署は果実・花木を掌り、嘉蔬署は瓜菜の栽培を掌り、いずれもその町畦・樹植の数を計算し、時に応じて進上する。

洪武二十五年、上林院を開設することを議し、城南に地を測った。牛首山から方山に接し、西は河涯に並ぶ。図上に比定したが、太祖は民業に妨げがあるとして、遂に中止した。永楽五年、初めて上林苑監を置き、良牧・蕃育・嘉蔬・林衡・川衡・冰鑒及び典察左右前後の十属署を設けた。洪熙年間、蕃育・嘉蔬の二署に併合した。良牧・川衡を蕃育に、冰鑒・林衡を嘉蔬に併せ、典察四署は分かれて併入した。宣徳十年、初めて四署を定めた。正徳年間、監督内臣を増設し、合わせて九十九員とした。嘉靖元年、八十員を裁汰し、蕃育・嘉蔬二署の典署、林衡・嘉蔬二署の録事を廃した。

兵馬指揮司

中・東・西・南・北の五城兵馬指揮司。各指揮一人(正六品)、副指揮四人(正七品)、吏目一人。

指揮は、盗賊の巡捕、街道溝渠の疏理、及び囚犯・火禁の事を掌る。京城内外を、各々境を画して分領する。境内に遊民・奸民あれば逮捕処罰する。車駕が親郊する時は、夫を率いて裏方の供事に当たる。親王・郡王の妃の父で官のない者は、親王には兵馬指揮を、郡王には副指揮を授けるが、管事はさせない。

明初、兵馬指揮司を置き、都指揮・副都指揮・知事を設けた。後に指揮使・副指揮使と改め、各城門に兵馬を設けた。洪武元年、在京の兵馬指揮司に市司も管轄させ、三日に一度、街市の斛斗・秤尺を校勘し、牙儈の姓名を稽考し、その物価を監視させた。五年、中都にも兵馬指揮司分司を設けた。十年、京城及び中都の兵馬指揮司の官秩をともに正六品と定めた(先には正四品であった)。指揮・副指揮と改め、職掌は専ら京城の巡捕等の事とし、知事を廃した。二十三年、五城兵馬指揮司を設けることを定め、中城のみは中兵馬指揮司と称した。いずれも吏目を増設した。建文中、兵馬司と改め、指揮・副指揮を兵馬・副兵馬と改めた。永楽元年に旧に復した。二年、北京兵馬指揮司を設けた。嘉靖四十一年、五城を巡視する御史に対し、毎年終わりに各城の兵馬指揮を会本して挙劾するよう詔した。隆慶年間、御史趙可懷が言うには、「五城兵馬司の官は、科挙・貢挙の正途から採用すべきであり、その職務は死傷の検験、刑名盗賊の処理であり、両京の知県のようである。不適任な者は、巡城御史が糾劾すべきである」。

順天府

順天府。府尹一人(正三品)、府丞一人(正四品)、治中一人(正五品)、通判六人(正六品、嘉靖以後三人を廃す)、推官一人(従六品)、儒學教授一人(従九品)、訓導一人。その属官に、経歴司の経歴一人(従七品)、知事一人(従八品)。照磨所の照磨一人(従九品)、検校一人。管轄する宛平・大興の二県に、各知県一人(正六品)、県丞二人(正七品)、主簿(定員なし、正八品)、典史一人。司獄司の司獄一人(従九品)。都税司の大使一人(従九品)、副使一人。宣課司は四箇所(正陽門外・正陽門・張家湾・盧溝橋)、税課司は二箇所(安定門外・安定門)、各大使一人(従九品)。税課分司は二箇所(崇文門・徳勝門)、各副使一人。遞軍所・批驗所、各大使一人。

府尹は京府の政令を掌る。教化を宣べ人を和し、農を勧め俗を問い、貢賦を均しくし、徴徭を節し、祭祀を謹み、戸口を実査し、豪強を糾治し、窮困を隠恤し、獄訟を疏理し、必ず百姓の疾苦を知る。歳の立春には、迎春・進春を行い、先農の神を祭る。月の朔望には、早朝に、老人坊廂を奏して宣諭を聴かせる。孟春・孟冬には、その僚属を率いて郷飲酒礼を行う。勲戚の家人の文引については、三月ごとに一度奏上する。市易ではその物価を平準する。内官監が物料を徴派する際は、印信・掲帖があっても、必ず補牘して面奏する。天子が耕耤し、三推の礼を行う時は、青箱を奉じて後に従い播種する。礼が終われば、庶人を率いて畝を終わらせる。府丞は京府の次官として、学校を兼領する。治中は府事に参理し、尹・丞を補佐する。通判は糧儲・馬政・軍匠・薪炭・河渠・堤塗の事を分理する。推官は刑名を処理し、属吏を監察する。二県の職掌は外県と同様であるが、近く轂下に臨むため、官品が特に優遇されている。

順天府は即ち旧北平府なり。洪武二年に北平行省を置く。九年に北平布政司と改め、皆北平を会府とす。永楽初年、順天府と改む。十年、府尹に昇格し、秩は正三品、設官は応天府の如し。順天府通判は、旧六人、内一人は糧を管し、一人は馬を管し、一人は清軍を管し、一人は匠を管し、一人は河を管し、一人は柴炭を管す。嘉靖八年に管河・管柴炭の二人を革す。万暦九年に清軍・管匠の二人を革す。十一年に一人を復設し、軍匠を兼管せしむ。

武学

武学。京衛武学、教授一人、従九品。訓導一人。衛武学、教授一人、訓導二人或は一人。京衛各衛の幼官及び応襲舍人と武生を教え、科挙・武挙・会挙を待ち、而して兵部に聴く。武学無き所は、凡そ諸武生は則ち儒学に隷す。

建文四年に始めて京衛武学を置き、教授一人を設く。啓忠等十斎、各訓導二人。永楽中に罷む。正統六年に復設す。後に漸く各衛武学を置き、設官は儒学の制の如し。

僧・道録司

僧録司。左・右善世二人、正六品。左・右闡教二人、従六品。左・右講経二人、正八品。左・右覚義二人、従八品。

道録司。左・右正一、二人、正六品。左・右演法二人、従六品。左・右至霊二人、正八品。左・右玄義二人、従八品。神楽観提点一人、正六品。知観一人、従八品、嘉靖中に革す。龍虎山正一真人一人、正二品。洪武元年、張正常入朝し、其の天師の号を去り、真人に封ぜられ、世襲す。隆慶年間に真人を革し、只提点と称す。万暦初年に之を復す。法官・賛教・掌書各二人。閣皁山・三茅山各霊官一人、正八品。太和山提点一人。

僧・道録司は天下の僧道を掌る。在外の府州県には僧綱・道紀等の司有り、分ちて其の事を掌り、俱に精通経典・戒行端潔なる者を選びて之と為す。神楽観は楽舞を掌り、以て大祀天地・神祇及び宗廟・社稷の祭に備え、太常寺に隷し、道録司と統属無し。

洪武元年、善世・玄教の二院を立つ。四年に革す。五年、僧道に度牒を与う。十一年、神楽観を郊祀壇の西に建て、提点・知観を設く。初め、提点は従六品、知観は従九品。洪武十五年に提点を正六品に昇め、知観を従八品とす。凡そ朝会に遇う時は、提点は僧録司左善世の下、道録司左正一の上に列す。十五年、始めて僧録司・道録司を置く。各官を設くること前に列するが如し。僧は凡そ三等:禅と曰い、講と曰い、教と曰う。道は凡そ二等:全真と曰い、正一と曰う。官を設けて俸を与えず、礼部に隷す。二十四年、釈・道の二教を清理し、僧を限り三年一度牒を与う。凡そ各府州県の寺観は、但だ寛大なる者一所を存し、併せて之に居らしむ。凡そ僧道は、府は四十人を過ぎず、州は三十人、県は二十人。民の年四十以上に非ざる者、女の年五十以上に非ざる者は、出家することを得ず。二十八年、天下の僧道をして京に赴き試験し牒を与え、経典に通ぜざる者は之を黜く。其の後、釈氏に法王・仏子・大国師等の封号有り、道士に大真人・高士、高士等の封号有り、銀印蟒玉を賜い、太常卿・礼部尚書及び宮保の銜を加え、伯爵に封ずる者有るに至り、皆一時の寵幸にして、制に非ず。

教坊司

教坊司。奉鑾一人、正九品。左・右韶舞各一人、左・右司楽各一人、並びに従九品。楽舞承応を掌る。楽戸を以て之に充て、礼部に隷す。嘉靖中、又た顕陵供祀教坊司を設け、左・右司楽各一人を設く。

宦官

宦官。

十二監

十二監。毎監各太監一員、正四品。左・右少監各一員、従四品。左・右監丞各一員、正五品。典簿一員、正六品。長随・奉御は定員無く、従六品。此れ洪武の旧制なり。後に漸く更革し、詳しくは各条の下に見る。

司礼監には、提督太監一名、掌印太監一名、秉筆太監・随堂太監・書籍名画等庫掌司・内書堂掌司・六科郎掌司・典簿は定員なし。提督は皇城内の一切の儀礼・刑名を監督管理し、長随・当差・聴事などの各役人の統制、門禁の関防、光禄寺の供応の督促などを掌る。掌印は内外の章奏および御前勘合を掌理する。秉筆・随堂は章奏文書を掌り、閣票に照らして硃批を行う。掌司はそれぞれの担当を掌る。典簿は奏章および諸般の出納の号簿を記録する。

内官監には、掌印太監一名、総理・管理・僉書・典簿・掌司・写字・監工は定員なし。木・石・瓦・土・塔材・東行・西行・油漆・婚礼・火薬の十の作(工房)および米塩庫・営造庫・皇壇庫を掌り、国家の宮室・陵墓の営造、ならびに銅錫の化粧箱・器物および氷室などの諸事を管轄する。

御用監には、掌印太監一名、裏外監把総二名、典簿・掌司・写字・監工は定員なし。御前で用いる囲屏・床榻などの木器、および紫檀・象牙・烏木・螺鈿などの玩器をすべて造り調達する。また仁智殿監工一名があり、武英殿中書が承旨して書写した書籍画冊などを掌り、御前に奏進する。

司設監は、員数は内官監と同じ。鹵簿・儀仗・帷幕などの諸事を掌る。

御馬監には、掌印・監督・提督太監各一名。騰驤四衛営にはそれぞれ監官・掌司・典簿・写字・拿馬などを設ける。象房には掌司などがいる。

神宮監には、掌印太監一名、僉書・掌司・管理は定員なし。太廟および各廟の灑掃・香燈などの事を掌る。

尚膳監には、掌印太監一名、提督光禄太監一名、総理一名、管理・僉書・掌司・写字・監工および各牛羊等房廠の監工は定員なし。御膳および宮内の食用ならびに筵宴の諸事を掌る。

尚宝監には、掌印一名、僉書・掌司は定員なし。宝璽・敕符・将軍の印信を掌る。宝璽を用いる際は、外尚宝司が掲帖を携えて本監に赴き旨を請い、女官の尚宝司から受け取り、本監は外司の使用を監視し、用い終われば号簿に記録し、返納する。

印綬監は、員数は尚宝監と同じ。古今通集庫、ならびに鉄券・誥敕・貼黄・印信・勘合・符験・信符などの諸事を掌る。

直殿監は、員数は同上。各殿および廊廡の掃除の事を掌る。

尚衣監には、掌印太監一名、管理・僉書・掌司・監工は定員なし。御用の冠冕・袍服および履舄・靴襪の事を掌る。

都知監には、掌印太監一名、僉書・掌司・長随・奉禦は定員なし。旧制では各監の行移・関知・勘合の事を掌ったが、後にはただ駕に随行して前導・警蹕を行うのみとなった。

四司

四司。旧制では各司にそれぞれ司正一人(正五品)、左・右司副各一人(従五品)を置いた。後に次第に変更され、詳細は下に記す。

惜薪司には、掌印太監一名、総理・僉書・掌道・掌司・写字・監工および外廠・北廠・南廠・新南廠・新西廠にはそれぞれ僉書・監工を設け、いずれも定員なし。用いる薪炭の事を掌る。

鐘鼓司は、掌印太監一名、僉書・司房・学芸官は定員なく、朝の鐘鼓、及び内楽・伝奇・過錦・打稲などの諸雑戯を掌る。

宝鈔司は、掌印太監一名、僉書・管理・監工は定員なく、粗細の草紙を造ることを掌る。

混堂司は、掌印太監一名、僉書・監工は定員なく、沐浴の事を掌る。

八局

八局。旧制では各局に大使一人(正五品)、左・右副使各一人(従五品)を置いた。

兵仗局は、掌印太監一名、提督軍器庫太監一名、管理・僉書・掌司・写字・監工は定員なく、軍器の製造を掌る。火薬司はこれに属する。

銀作局は、掌印太監一名、管理・僉書・写字・監工は定員なく、金銀の器飾を打造することを掌る。

浣衣局は、掌印太監一名、僉書・監工は定員なく、年老いた宮人及び罷退・廃された者は、この局に居住を命じられる。ただこの局のみ皇城内にない。

巾帽局は、掌印太監一名、管理・僉書・掌司・監工は定員なく、宮内の使の帽靴、駙馬の冠靴及び藩王の国に赴く諸旗尉の帽靴を掌る。

針工局は、員数は巾帽局と同じく、宮中の衣服を造ることを掌る。

内織染局は、員数は同上、御用及び宮内で用いる緞匹の染造を掌る。城西の藍靛廠はこの局の外署である。

酒醋面局は、員数は同上、宮内で食用する酒・醋・糖・醬・麺・豆などの諸物を掌る。御酒房とは統轄関係にない。

司苑局は、員数は同上、蔬菜・瓜果を掌る。

十二監・四司・八局、いわゆる二十四衙門である。

在外の宦官

その外に内府供用庫があり、掌印太監一員、総理・管理・掌司・写字・監工は定員なし。宮内及び山陵等の処の内官の食米及び御用の黄蠟・白蠟・沈香等の香を掌る。凡そ油蠟等の庫は皆これに属す。旧制では各庫の設ける官は八局と同じ。

司鑰庫、員数は上と同じ。製銭を収貯して賞賜に給することを掌る。

内承運庫、掌印太監一員、近侍・僉書太監十員、掌司・写字・監工は定員なし。大内の庫蔵を掌り、凡そ金銀及び諸の宝貨は総べてこれに隷す。

十庫。甲字庫は、銀朱・黄丹・烏梅・藤黄・水銀諸物を貯蔵することを掌る。乙字庫は、奏本等の紙及び各省の解送する胖襖を貯蔵することを掌る。丙字庫は、絲綿・布匹を貯蔵することを掌る。丁字庫は、生漆・桐油等の物を貯蔵することを掌る。戊字庫は、解送する弓箭・盔甲等の物を貯蔵することを掌る。承運庫は、黄白生絹を貯蔵することを掌る。広盈庫は、紗羅諸の帛匹を貯蔵することを掌る。広恵庫は、巾帕・梳籠・刷抿・銭貫・鈔錠の類を造り貯えることを掌る。贓罰庫は、没官物を掌る。以上各庫に掌庫一員、貼庫・僉書は定員なし。

御酒房、提督太監一員、僉書は定員なし。御用の酒を造ることを掌る。

御薬房、提督太監正・副二員、両班に分かれる。近侍・医官は定員なし。職は御用の薬餌を掌り、太医院の官と相表裏す。

御茶房、提督太監正・副二員、両班に分かれる。近侍は定員なし。職は茶酒・瓜果を供奉し及び御膳を進めることを司る。

牲口房、提督太監一員、僉書は定員なし。異獣珍禽を収養す。

刻漏房、掌房一員、僉書は定員なし。毎日の時刻を掌管し、一時ごとに即ち直殿監の官をして宮に入り牌を換えさせ、夜は刻水を報ぜしむ。

更鼓房、罪ある内官これを職司す。

甜食房、掌房一員、協同は定員なし。虎眼・窩絲等の糖及び諸の甜食を造り辦することを掌り、御用監に隷す。

弾子房、掌房一員、僉書数員。専ら泥弾を備う。

霊台、掌印太監一員、僉書近侍・看時近侍は定員なし。星気雲物を観、災祥を測候することを掌る。

条作、掌作一員、協同は定員なし。各色の兜羅絨及び諸の綬を造ることを掌り、御用監に隷す。

盔甲廠、即ち旧の鞍轡局なり、軍器を造ることを掌る。

安民廠は旧名を王恭廠といい、各廠に太監一名を掌り、貼廠・僉書は定員なし。銃砲・火薬の類を造ることを掌る。

午門・東華門・西華門・奉天門・玄武門・左順門・右順門・左紅門・右紅門・皇宮門・坤寧門・宮左門・宮右門。東宮春和門・後門・左門・右門、皇城・京城内外の諸門、各門に正一名、管事は定員なし。朝暮の開閉を司り、出入を関防する。旧制では門正・門副各一名を設けた。

提督東廠は、掌印太監一名、掌班・領班・司房は定員なし。貼刑二名、刺緝・刑獄の事を掌る。旧制では各監の中から一人を選んで提督としたが、後に専ら司礼監の秉筆第二人または第三人を以てこれに充てた。その貼刑官は、錦衣衛の千百戸を以てこれに充てた。凡そ内官において司礼監掌印は、その権は外廷の元輔の如く、東廠を掌るはその権は総憲の如し。秉筆・随堂は衆輔に視る。各々私臣として掌家・掌班・司房などの員を設ける。提督西廠は常設せず、ただ汪直・穀大用がこれを置いた。劉瑾はまた西内廠を設けた。まもなくともに罷革された。

提督京営は、提督太監・坐営太監、監槍・掌司・僉書ともに定員なし。景泰元年に始まる。

文書房は、掌房十名。通政司が毎日封をして進上する本章、並びに会極門の京官及び各藩の上る封本を収めることを掌る。その外にある閣票、内にある搭票、一応の聖諭・旨意・御批は、すべて文書房において底簿に落として発する。凡そ司礼監に昇る者は、必ず文書房より出ず、外廷の詹事府・翰林院の如し。

礼儀房は、提督太監一名、司礼監の掌印または秉筆がこれを摂り、掌司・写字・管事・長随は定員なし。一応の選婚・選駙馬・皇太子女誕生・乳婦選択などの吉礼を掌る。

中書房は、掌房一名、散官は定員なし。文華殿中書の書く書籍・対聯・扇柄などの件を掌り、旨を承けて発写し、完了の日に奏進する。

御前近侍は、乾清宮管事といい、御用の諸事を督理し、打卯牌子といい、朝に随い剣を捧げることを掌り、ともにその位は司礼監・東廠提督・守備の次に位す。御前牌子・暖殿・管櫃子・賛礼・答應長随・当差聽事・拿馬、尚冠・尚衣・尚履、皆これ近侍なり。

南京守備は、正・副守備太監各一名。関防一顆を有し、留都を護衛し、司礼監の外差たる。

天寿山守備は、太監一名。各陵の守陵太監を轄し、職は護衛を司る。

湖広承天府守備は、太監一名。承徳・荊・襄の地方を轄し、興寧を護衛す。

織造は、提督太監南京一名・蘇州一名・杭州一名。御用の龍衣を織造することを掌る。

鎮守は、鎮守太監は洪熙に始まり、正統に遍く設けられ、凡そ各省各鎮に鎮守太監なきはなく、嘉靖八年以後に至り初めて革される。

市舶は、広東・福建・浙江の三市舶司に各々太監を提督として設け、後に浙江・福建の二司を罷め、広東司のみを存す。

監督倉場は、各倉・各場に俱に監督太監を設く。

諸陵の神宮監、各陵にはいずれも神宮監の太監を置いて陵を守らせた。

その外の監軍・採辦・糧稅・礦關等の使は、常設ではなく、枚挙にいとまがない。

沿革

初め、呉元年に内史監を置き、監令(正四品)、丞(正五品)、奉御(従五品)、内史(正七品)、典簿(正八品)を設けた。皇門官には皇門使(正五品)、副(従五品)を設けた。後に改めて設置した。内使監・御用監には、それぞれ令一人(正三品)、丞二人(従三品)、奉御(正六品)、典簿(正七品)を設けた。皇門官には門正(正四品)、副(従四品)を設けた。春宮門官には正(正五品)、副(従五品)を設けた。御馬司には司正(正五品)、副(従五品)を設けた。尚宝兼守殿・尚冠・尚衣・尚佩・尚履・尚薬・紀事等の奉御は、いずれも正六品であった。

洪武二年、内使監の奉御六十人、尚宝一人、尚冠七人、尚衣十人、尚佩九人、尚薬七人、紀事二人、執膳四人、司脯二人、司香四人、太廟司香四人、涓潔二人を定めて置いた。尚酒・尚醋・尚麺・尚染の四局を置き、各局に正一人、副二人を設けた。御馬・御用の二司を置き、各司に正一人、副二人を設けた。内府庫に大使一人、副使二人を設けた。内倉監に令一人、丞二人を設けた。また東宮の典璽・典翰・典膳・典服・典薬・典乗兵の六局を置き、各局に局郎一人、丞一人を設けた。また門官を置き、午門など十三門に、それぞれ門正一人、副一人を設けた。東宮門官には、春和門など四門に、それぞれ門正一人、副一人を設けた。

三年、王府承奉司を置いた。承奉一人、承奉副二人を設け、典宝・典服・典膳の三所には、それぞれ正一人、副一人を設け、門官には門正一人、副一人を設けた。内使監・御用監を改め、その官秩はいずれも従三品とし、令は従三品、丞は正四品とした。皇門官の官秩は従四品とした。門正は従四品、副は正五品とし、春宮門官の正・副も同様とした。四年、再びその品秩をすべて改め、散官を授けた。そこで内使監を正五品に、皇門官を正六品に改めた。

洪武四年、内官の散官を定めた。正四品は中正大夫、従四品は中侍大夫、正五品は中衛大夫、従五品は侍直大夫、正六品は内侍郎、従六品は内直郎、正七品は正奉郎、従七品は正衛郎、正八品は司奉郎、従八品は司直郎とした。まもなく内使監令は正五品として中衛大夫を授け、丞は従五品として侍直大夫を授けると定めた。皇門正・局正・司正・東宮門正・局正は、いずれも正六品として内侍郎を授けた。尚宝・奉御・皇門副・局副・司副・東宮門副・局丞・王府承奉・門正・所正は、いずれも従六品として内直郎を授けた。尚冠等の奉御・内府庫大使・内倉監令・王府承奉副・門副・所副は、いずれも正七品として正奉郎を授けた。庫副使・倉丞は、いずれも従七品として正衛郎を授けた。

六年、御用監を供奉司と改め、官秩を従七品とし、官五名を設けた。内倉監を内府倉と改め、監令を大使とし、監丞を副使とした。内府庫を承運庫と改めた。なお大使・副使を設けた。まもなく紀事司を置き、宦官の張翊を司正とし、官秩は正七品とした。また前代の内官糾劾の法を考証し、内正司を置き、司正一人(正七品)、司副一人(従七品)を設け、専ら内官の失儀及び不法を糾すこととした。まもなく典禮司と改め、さらに典禮紀察司と改め、その品秩を上げた。司正は正六品に、司副は従六品に昇格した。

十年、神宮内使監を置き、監令(正五品)、丞(従五品)、司香奉御(正七品)、典簿(従九品)を設けた。天地壇・神壇の各祠祭署には、署令(正七品)、丞(従七品)、司香奉御(正八品)を設けた。甲・乙・丙・丁・戊の五庫には、それぞれ大使(正七品)、副使(従七品)を設けた。また皇城門官として端門など十六門に、それぞれ門正(正七品)、副(従七品)を設けた。十二年、尚衣・尚冠・尚履の三監と、針工・皮作・巾帽の三局を改めて置いた。尚佩局を尚佩監と改めた。

十六年、内府に宝鈔広源・広恵の二庫を置き、職掌は紙幣の出納とし、収入は広源庫がこれを掌り、支出は広恵庫がこれを掌った。宝鈔広源庫には、大使一人(正九品、流官を用いる)、副使一人(正九品、内官を用いる)を設けた。宝鈔広恵庫には、大使二人(従九品)、副使二人(従九品)を設け、いずれも流官と内官を兼用した。十七年、内官の諸監・庫・局の品職を改めて定めた。内官監には、令一人(正六品)、丞二人(従六品)、典簿一人(正九品)を設けた。神宮監には、令一人(正七品)、丞一人(従七品)、奉御一人(正八品)を設けた。尚宝監には、令一人(正七品)、丞一人(従七品)を設けた。尚衣監には、令一人(正七品)、丞一人(従七品)、奉御四人(正八品)を設けた。尚膳監には、令一人(正七品)、丞一人(従七品)を設けた。司設監には、令一人(正七品)、丞一人(従七品)、奉御四人(正八品)を設けた。司礼監には、令一人(正七品)、丞一人(従七品)を設けた。御馬監には、令一人(正七品)、丞一人(従七品)を設けた。直殿監には、令一人(正七品)、丞四人(従七品)、小内使十五人を設けた。宮門承制には、奉御五人(正八品)を設けた。宮門守門官には、門正一人(正八品)、副四人(従八品)を設けた。内承運庫には、大使一人(正九品)、副使二人(従九品)を設けた。司鑰庫には、大使一人(正九品)、副使四人(従九品)を設けた。巾帽局には、大使一人(正九品)、副使一人(従九品)を設けた。針工局には、大使一人(正九品)、副使一人(従九品)を設けた。織染局には、大使一人(正九品)、副使一人(従九品)を設けた。顔料局には、大使一人(正九品)を設けた。司苑局には、大使一人(正九品)を設けた。司牧局には、大使一人(正九品)を設けた。いずれも内官の中から選んで任用した。

二十八年、内官の監・司・庫・局と諸門の官、並びに東宮六局・王府承奉等の官の職秩を再び定む。内官の監は凡そ十一:神宮監・尚宝監・孝陵神宮監・尚膳監・尚衣監・司設監・内官監・司礼監・御馬監・印綬監・直殿監と曰い、皆太監一人を設け、正四品。左・右少監各一人、従四品。左・右監丞各一人、正五品。典簿一人、正六品。又た長随・奉御を設け、正六品。各門官七:午門・東華門・西華門・玄武門・奉天門・左順門・右順門、皆門正一人を設け、正四品。門副一人、従四品。司二:鐘鼓司・惜薪司と曰い、皆司正一人を設け、正五品。左・右司副各一人、従五品。局庫九:兵仗局・内織染局・針工局・巾帽局・司苑局・酒醋麺局・内承運庫・司鑰庫・内府供用庫と曰う。毎局庫皆大使一人を設け、正五品。左・右副使各一人、従五品。東宮の典璽・典薬・典膳・典服・典兵・典乗の六局、各局郎一人を設け、正五品。局丞二人、従五品。惟だ典璽局は紀事・奉御を増設し、正六品。親王府の承奉司は承奉正を設け、正六品。承奉副、従六品。所三:典宝所と曰い、典宝正一人を設け、正六品。副一人、従六品。典膳所と曰い、典膳正一人を設け、正六品。副一人、従六品。典服所と曰い、典服正一人を設け、正六品。副一人、従六品。門官、門正一人を設け、正六品。門副一人、従六品。又た内使十人、司冠一人、司衣三人、司佩一人、司履一人、司薬二人、司矢二人を設く。各公主の位下に中使司を設け、司正・司副各一人。三十年、都知監を置き、太監一人を設け、正四品。左・右少監各一人、従四品。左・右監丞各一人、正五品。典簿一人、正六品。又た銀作局を置き、大使一人を設け、正五品。副使一人、従五品。

太祖嘗て侍臣に謂ひて曰く、「朕『周礼』を観るに、奄寺は百人に及ばず。後世に至りて数千を逾え、用ひて階乱と為す。此の曹は止だ灑掃に供し、使令に給するのみ。別に委任有ること無く、多くする毋れ」と。又た言ふ、「此の曹、善なる者は千百の中一・二ならず、悪なる者は常に千百なり。若し耳目として用ゐば、即ち耳目蔽はれ、心腹として用ゐば、即ち心腹病む。之を馭するの道は、之をして法を畏しむるに在りて、功有らしむ可からず。法を畏すれば則ち檢束し、功有れば則ち驕恣す」と。内侍有り、帝に事ふること最も久しく、微かに政事に及ぶを言ふ。直ちに之を斥け、其の身終はるまで召さず。因りて定制と為し、内侍に字を識ることを許さず。洪武十七年、鉄牌を鑄り、文に曰く「内臣政事に干預するを得ず、犯す者は斬る」と、宮門の中に置く。又た諸司に勅して内官監と文移往来することを得ざらしむ。然れども二十五年、聶慶童を命じて河州に往き茶馬を勅諭せしむ。中官の奉使行事は已に此より始まる。成祖も亦た嘗て云ふ、「朕一に太祖の訓に遵ひ、禦宝の文書無くんば、即ち一軍一民と雖も、中官擅に調発するを得ず」と。応天の工匠を私役する者有れば、直ちに錦衣に命じて逮治せしむ。顧みるに中官の四出するは、実に永楽の時に始まる。元年、李興等をして勅を齎し暹羅国王を労はしむ。此れ外国に奉使するの始めなり。三年、鄭和等をして兵二万を率ひ、西洋の古裏・満剌諸国に行き賞を行はしむ。此れ兵を将ふるの始めなり。八年、王安等をして都督ととく譚青等の軍を監せしめ、馬靖をして甘粛を巡視せしむ。此れ軍を監し、巡視するの始めなり。洪熙元年に及び、鄭和をして下番の官軍を領せしめ南京を守備せしむ。遂に相沿ひて改めず。王安をして甘粛を鎮守せしめ、而して各省鎮皆鎮守を設く。宣徳四年、特に内書堂を設け、大学士陳山に命じて専ら小内使に書を授けしむ。而して太祖の字を識り書を読むことを許さざるの制、此よりして廃す。王瑾・金英に印記を賜ふは、則ち諸の密勿大臣と同じ。金英・範弘等に免死の詔を賜ふは、則ち又た勲臣の鉄券に異ならず。英宗の王振、憲宗の汪直、武宗の劉瑾、熹宗の魏忠賢、太阿倒に握り、威福下に移る。神宗の礦税の使、一方として其の害に罹らざる無し。其の他の勢いに怙りて薰灼するもの、勝げて紀す可からず。而して弟を廕し、侄を廕し、伯を封じ、公を封ずるは、則ち官制を撓ますの大なる者なり。莊烈帝初めに大憝を翦り、中外聖を頌す。既にして鎮守・出征・督餉・坐営等の事、一として中官をして之を為さしめざる無く、而して明も遂に亡ぶ。

女官

女官。六局。

尚宮局、尚宮二人、正五品。六尚並びに同じ。尚宮は中宮を導引するを掌る。凡そ六局の文籍を出納するは、皆印を署す。若し外に於いて徴辦するは、則ち之が為に旨を請ひ、牒を内官監に付す。監は牒を受け、外に移行す。司四を領す:司記、司記二人、正六品;典記二人、正七品;掌記二人、正八品。宮内諸司の簿書を掌り、出入の録目、番署して印を加へ、然る後に授けて行はしむ。女史六人、文書を執るを掌る。凡そ二十四司、二十四典、二十四掌、品秩並びに同じ。司言、司言二人、典言二人、掌言二人、女史四人、宣伝啓奏を掌る。凡そ令節に外命婦中宮に朝賀するは、司言旨を伝ふ。司簿、司簿二人、典簿二人、掌簿二人、女史六人、宮人の名籍及び廩賜の事を掌る。司闈。司闈六人、典闈六人、掌闈六人、女史四人、宮闈の管鍵の事を掌る。

尚儀局、尚儀二人、礼儀起居の事を掌る。司四を領す:司籍、司籍二人、典籍二人、掌籍二人、女史十人、経籍・図書・筆札・几案の事を掌る。司楽、司楽四人、典楽四人、掌楽四人、女史二人、音楽の事を掌る。司賓、司賓二人、典賓二人、掌賓二人、女史二人、朝見・宴会・賜賚の事を掌る。司賛、司賛二人、典賛二人、掌賛二人、女史二人、朝見・宴会・賛相の事を掌る。彤史。彤史二人、正六品、宴見進禦の事を掌る。凡そ后妃・羣妾君の所に禦するは、彤史謹んで其の月日を書す。

尚服局、尚服二人、服用と採章の数を掌り供す。司四つを領す:司寶、司寶二人、典寶二人、掌寶二人、女史四人、寶璽と符契を掌る。司衣、司衣二人、典衣二人、掌衣二人、女史四人、衣服と首飾の事を掌る。司飾、司飾二人、典飾二人、掌飾二人、女史二人、巾櫛と膏沐の事を掌る。司仗、司仗二人、典仗二人、掌仗二人、女史二人、凡そ朝賀の時、女官を帥いて儀仗を擎執す。

尚食局、尚食二人、膳羞の品齊の数を掌る。凡そ飲食を以て進禦するに、尚食先ず之を嚐む。司四つを領す:司膳、司膳四人、典膳四人、掌膳四人、女史四人、割烹と煎和の事を掌る。司醞、司醞二人、典醞二人、掌醞二人、女史二人、酒醴と酏飲の事を掌る。司藥、司藥二人、典藥二人、掌藥二人、女史四人、醫方と藥物を掌る。司饎、司饎二人、典饎二人、掌饎二人、廩餼と薪炭の事を掌る。

尚寢局、尚寢二人、天子の宴寢を掌る。司四つを領す:司設、司設二人、典設二人、掌設二人、女史四人、牀帷と茵席、汛掃と張設の事を掌る。司輿、司輿二人、典輿二人、掌輿二人、女史二人、輿輦と傘扇の事を掌る。司苑、司苑二人、典苑二人、掌苑二人、女史四人、園囿の種植と花果を掌る。司燈、司燈二人、典燈二人、掌燈二人、女史二人、燈燭の事を掌る。

尚功局、尚功二人、女紅の程課を督べ掌る。司四つを領す:司制、司制二人、典制二人、掌制二人、女史四人、衣服の裁制と縫紉の事を掌る。司珍、司珍二人、典珍二人、掌珍二人、女史六人、金玉と寶貨を掌る。司彩、司彩二人、典彩二人、掌彩二人、女史六人、繪綿と絲絮の事を掌る。司計、司計二人、典計二人、掌計二人、女史四人、度支の衣服、飲食、柴炭の事を掌る。宮正司、宮正一人、正五品、司正二人、正六品、典正二人、正七品、宮闈を糾察し、戒令と謫罰の事を掌る。大事は則ち奏聞す。女史四人、功過を記す。

呉元年、内職の六尚局を置く。洪武五年、六局一司と定む。局は尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寢、尚功と曰い、司は宮正と曰う。尚宮二人、尚儀・尚服・尚食・尚寢・尚功各一人、宮正二人、俱に正六品。六局は二十四司を分領し、毎司或いは二人或いは四人。司記・司言・司簿・司樂・司寶・司衣・司飾・司醞・司藥・司供・司輿・司苑・司珍・司彩・司計各二人。司闈・司籍・司賓・司贊・司仗・司饌・司設・司燈・司制各四人。女史十八人。尚功局六人、余の五局及び宮正局各二人。十七年、品秩を更めて定む。尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寢・尚功・宮正各一人、俱に正五品に改む。二十四司は正六品。二十四掌を増設し、正七品。宮正司に司正を増設し、正六品。二十二年、宮官に敕を授く。服労多き者は、或いは五載六載にして、父母に帰り、婚嫁を聴す。年高き者は帰るを許し、留まらんと願う者は聴す。現に職を授かる者は、家に禄を給与す。二十七年、又た品職を重ねて定む。二十四典を増設し、正七品。二十四掌を正八品に改む。尚儀局に彤史を増設し、正六品。宮正司に典正を増設し、正七品。六尚以下より、員数は俱に前に列するが如し。凡そ宮官一百八十七人、女史九十六人。六局各々印を鑄して之に給す。永樂の後、職は盡く宦官に移る。其の宮官の存する者は、惟だ尚寶四司のみ。