明史

志第四十八 職官一

明朝の官制は、漢・唐の旧制に沿いつつもこれを損益した。洪武十三年に丞相を廃して設けず、中書省の政務を六部に分け、尚書をもって天下の事を任せ、侍郎がこれを補佐した。殿閣大学士はただ顧問に備えるのみで、皇帝みずから威柄を操り、学士が参決することは稀であった。糾劾は都察院に責め、章奏は通政司に達し、平反は大理寺に参ずる。これもまた漢の九卿の遺意である。大都督ととく府を五つに分け、徴調は兵部に隷属させた。外には都・布・按の三司を設け、兵・刑・銭穀を分掌させ、その考覈は府部に聴いた。この時、吏・戸・兵の三部の権力が重かった。仁宗・宣宗の朝に至り、大学士は太子の経師としての恩により、累進して三孤に加えられ、声望はますます尊ばれた。宣宗は内柄の大小を問わず、悉く大学士楊士奇らに下して可否を参議させた。吏部の蹇義、戸部の夏原吉も時に召見され、各部の事に参与できたが、その頻度は稀で、士奇らの親密さには及ばなかった。ここより内閣の権力は日増しに重くなり、一二の吏部・兵部の長官が是非を執り持とうとしても、しばしば敗れた。世宗の中葉に至り、夏言・厳嵩が相次いで権力を握り、遂に赫然として真の宰相となり、六卿を圧制した。しかし内閣の擬票は、内監の批紅によらざるを得ず、相権はかえって寺人に帰した。ここにおいて朝廷の紀綱、賢士大夫の進退は、悉くその手に顛倒された。伴食者は承意するのに暇なく、間には賢輔もあったが、結局は憂えて目を蒿らすも救うことができなかった。初め、五都督府を領する者は皆、元勲宿将であり、軍制は粛然としていた。永楽年間、内監を設けてこれを監察させたが、なお恣にすることはできなかった。数代を沿習するうちに、勲戚の紈袴が軍紀を司り、日々に惰廃した。やがて内監の添置はますます多く、辺塞には皆巡視が置かれ、四方の大征伐には皆監軍が置かれ、辺境の事は遂に大いに壊れ、明朝の国祚は支えることができなくなった。その興亡治乱の由を跡づけると、用いる人の得失に在るのではないか。官を設け職を分ち、体統が相い維り、品式が備わっていることについては、後簡に詳しく列挙する。覧る者は考えて知ることができよう。

宗人府

宗人府。宗人令一人、左・右宗正各一人、左・右宗人各一人、並びに正一品。皇九族の属籍を掌り、時に応じてその玉牒を修め、宗室の子女の嫡庶・名封・嗣襲・生卒・婚嫁・諡葬の事を記す。凡そ宗室の陳請は、上に聞こえ、材能を達し、罪過を録する。初め、洪武三年に大宗正院を置く。二十二年に宗人府と改め、並びに親王をもってこれを領せしめた。秦王樉が令となり、晋王竾・燕王棣が左・右宗正となり、周王隷・楚王楨が左・右宗人となった。その後、勲戚大臣をもって府事を摂行させ、官を備えず、その管掌もまた悉く礼部に移された。その属に、経歴司があり、経歴一人、正五品、出納文移を掌る。

三公 三孤

太師・太傅・太保を三公とし、正一品。少師・少傅・少保を三孤とし、従一品。天子を輔佐し、陰陽を理め、邦を経め化を弘むることを掌り、その職は至って重い。定員なく、専任の授与もない。洪武三年、李善長に太師を、徐達に太傅を授けた。先に、常遇春は既に太保を贈られていた。三孤を兼領する者はなかった。建文・永楽年間に公・孤の官を廃し、仁宗が復設した。永楽二十二年八月、三公・三少を復置した。宣徳三年、太師・英国公張輔、少師・吏部尚書蹇義、少傅・兵部尚書・華蓋殿大学士楊士奇、少保兼太子少傅・戸部尚書夏原吉に勅し、各々その管掌を止めさせ、左右に侍らせ、政事を諮問訪問させた。公孤の官は、ほとんど専任に近かった。蹇義・夏原吉が卒すると、楊士奇は閣務を領することに戻った。これ以降、公・孤はただ虚銜となり、勲戚文武大臣の加官・贈官となった。文臣で生前に三公を加えられる者はなく、贈られることによってのみ得た。嘉靖二年、楊廷和に太傅を加えたが、辞して受けなかった。その後、文臣で三公を加えられた者は張居正のみで、万暦九年に太傅を、十年に太師を加えられた。

太子三師 三少

太子太師・太子太傅・太子太保、並びに従一品。道徳をもって太子を輔導し、謹んでこれを護翼することを掌る。太子少師・太子少傅・太子少保、並びに正二品。太子を奉じて三公の道徳を観させ、教諭することを掌る。太子賓客、正三品。太子に侍して礼儀を賛相し、過失を規誨することを掌る。皆、東宮の大臣であり、定員なく、専任の授与もない。洪武元年、太祖が親征の事あり、太子が監国することを慮り、別に宮僚を設けると嫌隙を生ずる恐れがあるとして、朝臣に宮職を兼ねさせた。李善長が太子少師を兼ね、徐達が太子少傅を兼ね、常遇春が太子少保を兼ね、治書侍御史の文原吉・範顯祖が太子賓客を兼ねた。三年、礼部尚書陶凱が人を選んで専ら東宮官に任じ、兼領を罷め、輔導に責成すべきことを請うた。帝は江充の事を以て明鑑とすべきことを諭し、兼領を立法したのは無意味ではないとされた。ここにより東宮の師傅はただ兼官・加官及び贈官となった。ただ永楽年間、成祖が北京に幸し、姚広孝を専ら太子少師とし、留まって太子を輔佐させた。これ以降、明朝一代を通じて皆虚銜となり、太子輔導の職務には関与しなかった。

内閣

中極殿大学士(旧名は華蓋殿)、建極殿大学士(旧名は謹身殿)、文華殿大学士、武英殿大学士、文淵閣大学士、東閣大学士、並びに正五品。献替可否を掌り、規誨を奉陳し、題奏を点検し、票擬批答を行い、もって庶政を平允にする。凡そ上より下に達するもの、詔・誥・制・冊文・諭・書・符・令・檄と曰うものは、皆起草して進画し、諸司に下す。下より上に達するもの、題・奏・表・講章・書状・文冊・掲帖・制対・露布・訳と曰うものは、皆審署申覆して修画し、平允にして乃ち行う。凡そ車駕が郊祀・巡幸する時は扈従する。経筵に遇えば、経筵を知るか或いは同知経筵事となる。東宮が出閣して講読する時は、その事を領し、その官を叙し、職業を授ける。冠婚の時は、賓賛及び納徴等の使を充てる。実録・史志等の書を修する時は、総裁官を充てる。春秋の上丁に先師を釈奠する時は、祭事を摂行する。会試には考試官を、殿試には読巻官を充てる。進士題名の時は、大学士一人が文を撰し、太学に石を立てる。大典礼・大政事は、九卿・科道官の会議が既に定まれば、典制に按じ、機宜に相い、その可否を裁量し、斟酌して入告する。詔を頒つ時は、礼部に捧授する。勅を会する時は、その由状を稽えて請う。宗室の名を請い封を請うこと、諸臣の諡を請うことは、並びに擬上する。大内に餐を授けられ、常に天子の殿閣の下に侍し、宰相の名を避けて、また内閣と名づけられる。

先に、太祖は前代の制度を継承し、中書省を設置し、左・右丞相を置き、正一品とした。甲辰(1364年)正月、初めて左・右相国を置き、李善長を右相国とし、徐達を左相国とした。呉元年(1367年)、百官の礼儀はすべて左を尚ぶと命じ、右相国を左相国に改め、左相国を右相国に改めた。洪武元年(1368年)、左・右丞相と改称し、平章政事(従一品)、左・右丞(正二品)、参知政事(従二品)を置き、もって諸職を統率させた。属官として左・右司郎中(正五品)、員外郎(正六品)、都事・検校(正七品)、照磨・管勾(従七品)を置いた。参議府参議(正三品)、参軍・断事官(従三品)、断事・経歴(正七品)、知事(正八品)、都鎮撫司都鎮撫(正五品)、考功所考功郎(正七品)を置いた。甲辰十月、都鎮撫司を大都督府に隷属させた。呉元年、参議府を廃止した。洪武元年、考功所を廃止した。二年、照磨・検校所・断事官を廃止した。七年、直省舎人十人を設置し、まもなく中書舎人と改称した。

洪武九年、平章政事・参知政事を淘汰した。十三年正月、丞相胡惟庸を誅殺し、ここに中書省を廃止した。その官属はことごとく廃止され、中書舎人のみが残った。九月、四輔官を設置し、儒士の王本らをこれに任じた。四輔官を設置し、太廟に告げ、王本・杜佑・襲斅を春官とし、杜斅・趙民望・呉源を夏官とし、兼ねて太子賓客とした。秋官・冬官は欠員とし、王本らがこれを代行した。一月の内を上中下の三旬に分けて担当させた。位次は公・侯・都督の次とした。まもなくこれも廃止された。十五年、宋の制度にならい、華蓋殿・武英殿・文淵閣・東閣の諸大学士を設置し、礼部尚書の邵質を華蓋殿大学士とし、検討の呉伯宗を武英殿大学士とし、翰林学士の宋訥を文淵閣大学士とし、典籍の呉沈を東閣大学士とした。また文華殿大学士を設置し、耆儒の鮑恂・余詮・張長年らを徴用してこれに任じ、もって太子を輔導させた。官秩はいずれも正五品であった。二十八年、群臣に勅諭して言う、「国家は丞相を廃止し、府・部・院・寺を設けて庶務を分掌させ、法を立てること極めて詳善である。以後の嗣君は、丞相を設置することを議してはならない。臣下にこれを奏請して設立する者があれば、極刑をもって論ずる」。この時、翰林・春坊に諸司の奏啓を詳しく審査させ、兼ねて平駁を司らせた。大学士は特に左右に侍し、顧問に備えるのみであった。建文中、大学士を学士と改称した。諸大学士をすべて廃止し、それぞれ学士一人を設置した。また謹身殿を正心殿と改称し、正心殿学士を設置した。成祖が即位すると、特に解縉・胡広・楊栄らを選抜して文淵閣に直らせ、機務に参与させた。閣臣が機務に参与することはここに始まる。しかしこの時、内閣に入る者は皆編修・検討・講読の官であり、官属を置かず、諸司を専制することはできなかった。諸司が奏事するにも、また関白することはできなかった。

仁宗は楊士奇・楊栄が東宮の旧臣であったため、士奇を礼部侍郎兼華蓋殿大学士に昇進させ、栄を太常卿兼謹身殿大学士に昇進させた。謹身殿大学士は仁宗が初めて設置し、閣職は次第に尊崇されるようになった。その後、士奇・栄らは皆尚書の職に転じ、内閣に居ながらも、官は必ず尚書をもって尊しとした。景泰中、王文が初めて左都御史から吏部尚書に進み、内閣に入った。この後、誥敕房・制敕房ともに中書舎人を設置し、六部は意旨を承奉し、統轄しないところなく、閣の権力はますます重くなった。世宗の時、三殿が完成し、華蓋殿を中極殿と改め、謹身殿を建極殿と改め、閣の官銜もこれに因んだ。嘉靖以後、朝位の班次は、すべて六部の上に列せられた。

吏部

吏部。尚書一人、正二品。左・右侍郎各一人、正三品。その属に司務庁があり、司務二人、従九品。文選・験封・稽勲・考功の四清吏司があり、各郎中一人、正五品。員外郎一人、従五品。主事一人、正六品。洪武三十一年、文選司主事一人を増設した。正統十一年、考功司主事一人を増設した。

尚書は、天下の官吏の選授・封勲・考課の政令を掌り、もって人材を甄別し、天子の治を補佐する。古の塚宰の職に当たり、五部に比べて特に重んじられる。侍郎はその次官である。

司務は、督促・遅滞の査察・勾銷・簿書を掌る。明初、主事・司務各四人を設置し、首領官とし、主事の印を持たせた。洪武二十九年、主事を司官に改め、司務二人を削減した。各部とも同じである。

文選は、官吏の班秩・遷升・改調の事を掌り、もって尚書を補佐する。文官の品は九等あり、品に正従があり、等級は十八ある。九品に及ばないものを未入流という。選任には、毎年大選・急選・遠方選・歳貢就教選があり、間に揀選・挙人乞恩選がある。選人は資簿に登録し、その流品を整理し、その銓注を公平にし、順序に従って遷任させる。昇進は必ず考満を経るが、もし員欠で補うべき場合は、考満を待たず、推升という。類推では一人を上に推挙し、単推では二人を上に推挙する。三品以上、九卿及び僉都御史・祭酒は、廷推で二人または三人を上に推挙する。内閣、吏・兵二部尚書は、廷推で二人を上に推挙する。王官は外調させず、王姻は内除せず、大臣の一族は科道に任じさせず、僚属が同族の場合は下位が上位を避ける。外官で才能と任地が相応しくなければ、その繁簡を斟酌して互いに交換する。伝升・乞升の者があれば、ともに執奏することができる。署職・試職・実授をもって年資を定め、開設・裁併・兼摂をもって繁簡に適応させ、薦挙・起廃・徴召をもって幽滞を振るい起こし、帯俸・添注をもって恩冗を寄せ、降調・除名をもって罪過を統御し、官程をもって吏治を督励し、寧仮をもって人情を尽くす。

驗封司は、封爵・襲廕・褒贈・吏算の事を掌り、尚書を補佐する。凡そ爵は、社稷の軍功なくしては封ぜられず、封号は特旨なくしては与えられない。世襲するものとしないものがあり、いずれも誥券を給する。衍聖公及び戚裏の恩沢による封は、券を給さない。凡そ券は左右各一とし、左は内府に蔵し、右は功臣の家に給する。襲封するときはその誥券を徴し、その功過を稽え、その宗支を核して、世流降除の等を定める。土官についてはその応襲たるや否やを勘定し、文書を移して選司に注擬させる。宣慰・宣撫・安撫・長官の諸司で士兵を領するものは、兵部に隷属させる。凡そ廕叙は、明初には一品より七品まで、皆一子を廕してその禄を世襲させた。洪武十六年、職官の子孫の廕叙を定む。正一品の子は正五品に用い、従一品の子は従五品に用いる。正二品の子は正六品に用い、従二品の子は従六品に用いる。正三品の子は正七品に用い、従三品の子は従七品に用いる。正四品の子は正八品に用い、従四品の子は従八品に用いる。正五品の子は正九品に用い、従五品の子は従九品に用いる。正六品の子は未入流の上等職内に叙用し、従六品の子は未入流の中等職内に叙用し、正従七品の子は未入流の下等職内に叙用する。後に漸く制限が加わり、京官三品以上で考満して著績あるもの、初めて一子を廕して官生と曰い、特恩によるものを恩生と曰う。凡そ封贈は、公・侯・伯の追封は皆一等を遞進する。三品以上で政績顕異なるもの及び死諫・死節・陣亡の者は、皆贈官を得る。現任のものは初授の散階を授け、京官は一考満ち、及び外官は一考満ちて最聞あるものは、皆その身に誥敕を給する。七品以上は皆その先祖に恩を推すことを得る。五品以上は誥命を授け、六品以下は敕命を授ける。一品は三代四軸、二品・三品は二代三軸、四品・五品・六品・七品は一代二軸、八品以下の流内官は本身一軸。一品の軸は玉を以てし、二品の軸は犀を以てし、三品・四品の軸は鋈金を以てし、五品以下の軸は角を以てす。曾祖・祖・父は皆その子孫の官の如くす。公・侯・伯は一品に視る。外内の命婦は夫若しくは子の品に視る。生けるを封と曰い、死せるを贈と曰う。若し先に罪譴あれば則ち給するを停む。文の散階四十有二、歴考を以て差とす。正一品は初授特進榮祿大夫、升授特進光祿大夫。従一品は初授榮祿大夫、升授光祿大夫。正二品は初授資善大夫、升授資政大夫、加授資德大夫。従二品は初授中奉大夫、升授通奉大夫、加授正奉大夫。正三品は初授嘉議大夫、升授通議大夫、加授正議大夫。従三品は初授亞中大夫、升授中大夫、加授大中大夫。正四品は初授中順大夫、升授中憲大夫、加授中議大夫。従四品は初授朝列大夫、升授朝議大夫、加授朝請大夫。正五品は初授奉議大夫、升授奉政大夫。従五品は初授奉訓大夫、升授奉直大夫。正六品は初授承直郎、升授承德郎。従六品は初授承務郎、升授儒林郎、吏材幹出身は宣德郎を授く。正七品は初授承事郎、升授文林郎、吏材幹は宣議郎を授く。従七品は初授從仕郎、升授徵仕郎。正八品は初授迪功郎、升授修職郎。従八品は初授迪功佐郎、升授修職佐郎。正九品は初授將仕郎、升授登仕郎。従九品は初授將仕佐郎、升授登仕佐郎。外命婦の号九。公は某國夫人と曰い、侯は某侯夫人と曰い、伯は某伯夫人と曰う。一品は夫人と曰い、後には一品夫人と称す。二品は夫人と曰い、三品は淑人と曰い、四品は恭人と曰い、五品は宜人と曰い、六品は安人と曰い、七品は孺人と曰う。その子孫によりて封ぜられるものは太の字を加え、夫在れば則ち然らず。凡そ封贈の次第は、七品より六品まで一次、五品一次、初制には四品一次ありしも後に省く。三品・二品・一品各一次。三母は並びに封ぜず、両封は優品に従う。父の職子より高ければ則ち一階を進む。父応に給を停むべきもの及び子人後に為るものは、皆移封を得る。嫡在れば生母を封ぜず、生母未だ封ぜられざれば先ずその妻を封ぜず。妻の封は、一嫡一継に止まる。その封贈後にして墨に敗るるものは、則ち追奪す。

稽勳司は、勲級・名籍・喪養の事を掌り、尚書を補佐する。凡そ文勲十。正一品は左・右柱國。従一品は柱國。正二品は正治上卿。従二品は正治卿。正三品は資治尹。従三品は資治少尹。正四品は贊治尹。従四品は贊治少尹。正五品は修正庶尹。従五品は協正庶尹。五品以上より、歴再考して乃ち勲を授く。凡そ百官の遷除・降調は皆年甲・郷貫・出身を開き書きす。毎歳十二月に貼黄し、春秋に清黄し、皆内府に赴く。故あれば、掲げてこれを去る。凡そ父母年七十にして兄弟なきものは、帰養を得る。凡そ三年の喪は、職を解き制を守り、その奪喪・匿喪・短喪するものを糾擿す。惟だ欽天監の官は喪に奔り三月にして復任す。

考功司は、官吏の考課・黜陟の事を掌り、尚書を補佐する。凡そ内外の官の給由は、三年に初考し、六年に再考し、並びに引請し、九年に通考し、奏請してその称職・平常・不称職を綜べて陟黜す。陟は二等を過ぎず、降は三等を過ぎず、その甚だしきものはこれを黜し、これを罪す。京官は六年に一察し、巳・亥の年に察す。五品下はその不職なるものを考察し、降罰差等あり。四品上は自陳し、去留は旨を取る。外官は三年に一朝し、辰・戌・丑・未の年に朝す。前期に撫・按の官に移文し、各その属の三年内の功過状を綜べて考に注し、匯送して覆核して以て黜陟を定む。倉場庫の官は一年に考し、巡検は三年に考し、教官は九年に考す。府州県の官の考は、地の繁簡を以て差とす。吏の考は、三・六年満ちて、驗封司に移して撥用す。九年満ちて、又試みて官を授く。惟だ王官及び欽天・御用等の監官は考せず。凡そ内外の官の弾章は、その功過を稽え、去留を擬して以て上裁を請う。薦挙・保留は、則ちその政績を核して旌異す。

明初、中書省に四部を設け、銭穀・礼儀・刑名・営造の事務を分掌せしむ。洪武元年、始めて吏・戸・礼・兵・刑・工の六部を置き、尚書・侍郎・郎中・員外郎・主事を設け、尚書は正三品、侍郎は正四品、郎中は正五品、員外郎は正六品、主事は正七品とす。なお中書省に隷属す。六年、部ごとに尚書二人、侍郎二人を設く。吏部は総部・司勲・考功の三属部を設け、部ごとに郎中・員外郎各一人、主事各二人を置く。十三年、中書省を廃し、『周官』六卿の制に倣い、六部の官秩を昇格せしめ、各部に尚書・侍郎各一人を設く。惟だ戸部のみ侍郎二人とす。各部は四属部に分け、吏部の属部に司封を加う。各属部に郎中・員外郎・主事各一人を設け、まもなく侍郎一人を増す。二十二年、総部を選部と改む。二十九年、文選・験封・稽勲・考功の四司と定め、他の五部の属部とともに、皆清吏司と称す。建文中、六部尚書を正一品と改め、左・右侍中を設け、正二品で侍郎の上位に置き、諸司の清吏の字を除去す。成祖の初年、悉く旧制に復す。

永楽元年、北平を以て北京と為し、北京行部尚書二人を置き、侍郎四人、その属官に六曹清吏司を置く。吏・戸・礼・兵・工の五曹は、郎中・員外郎・主事各一人。刑曹は、郎中一人、員外郎一人、主事四人、照磨・検校各一人、司獄一人。まもなく戸曹もまた主事三人を増設す。後にまた六部を分置し、各々行在某部と称す。十八年、北京に都を定め、行部及び六曹を廃し、六部の官属を以て北に移し、行在と称せず。南京に留まる者は、「南京」の字を加う。洪熙元年、再び各部の官属を南京に置き、「南京」の字を去り、北京にある者に「行在」の字を加え、なお行部を置く。宣徳三年、再び行部を廃す。正統六年、北京において「行在」の字を去り、南京においてなお「南京」の字を加え、遂に定制と為す。景泰中、吏部嘗て尚書二人を設く。天順初年、再びその一人を廃す。

按ずるに吏部尚書は、百僚を表率し、庶官を進退し、銓衡の重地にして、その礼数殊に異なり、並ぶ者無し。永楽初年、翰林官を選び内閣に入直せしむ。その後、大学士楊士奇等は三孤に加えられ、尚書の官銜を兼ねるも、然れども品の序列は尚書蹇義・夏原吉の下に列せり。景泰中、左都御史王文が吏部尚書に昇り、学士を兼ね、内閣に入るも、その班位はなお原銜を以て序次と為す。弘治六年二月より、内宴にて、大学士丘濬遂に太子太保・礼部尚書を以て、太子太保・吏部尚書王恕の上に居る。その後、侍郎・詹事より内閣に入る者は、班皆六部の上に列す。

戸部 (総督倉場を附す)

戸部。尚書一人(正二品)。左・右侍郎各一人(正三品)。その属官に、司務庁、司務二人(従九品)。浙江・江西・湖広・陝西・広東・山東・福建・河南・山西・四川・広西・貴州・雲南の十三清吏司、各郎中一人(正五品)。宣徳以後、山西司郎中三人を増設し、陝西・貴州・雲南の三司郎中各二人、山東司郎中一人を増す。員外郎一人(従五品)。宣徳七年、四川・雲南の二司員外郎各一人を増設し、後に仍て革す。主事二人(正六品)。宣徳以後、雲南司主事七人を増設し、浙江・江西・湖広・陝西・福建・河南・山西の七司主事各二人、山東・四川・貴州の三司主事各一人を増す。照磨所、照磨一人(正八品)。検校一人(正九品)。所轄の宝鈔提挙司、提挙一人(正八品)、副提挙一人(正九品)、典史一人、後に副提挙・典史ともに革す。鈔紙局、大使・副使各一人、後に副使を革す。印鈔局、大使・副使各一人、後にともに革す。宝鈔広恵庫、大使一人(正九品)、副使二人(従九品)、嘉靖中に革す。広積庫、大使一人(正九品)、副使一人(従九品)、典史一人、嘉靖中、副使・典史ともに革す。贓罰庫、大使一人(正九品)、副使二人(従九品)、嘉靖中に革す。甲字・乙字・丙字・丁字・戊字の各庫、大使五人(正九品)、副使六人(従九品)、丁字庫は二人、嘉靖中に一人を革し、併せて乙字・戊字の二庫の副使を革す。広盈庫、大使一人(従九品)、副使二人。嘉靖中に革す。外承運庫、大使二人(正九品)、副使二人(従九品)。後に大使・副使ともに革す。承運庫、大使一人(正九品)、副使一人(従九品)。嘉靖中に革す。行用庫、大使・副使各一人、後にともに革す。太倉銀庫、大使・副使各一人。嘉靖中、副使を革す。御馬倉、大使一人(従九品)、副使一人。軍儲倉、大使一人(従九品)、副使一人、後に大使・副使ともに革す。長安ちょうあん・東安・西安・北安門倉、各副使一人、東安門倉は旧二人、万暦八年に一人を革す。張家湾塩倉検校批験所、大使・副使各一人。隆慶六年に併せて革す。

尚書は天下の戸口・田賦の政令を掌る。侍郎はこれを補佐する。版籍・歳会・賦役実徴の数を稽査し、以て所司に下す。十年ごとに黄冊を編纂し、戸の上下・畸零の等を差別し、以てその登耗を周知する。凡そ田土の侵佔・投献・詭寄・影射は禁じ、人戸の隠漏・逃亡・朋充・花分は禁じ、継嗣・婚姻が令に従わざるは禁ず。皆これを綜核し糾正する。天子が耤田を耕すときは、尚書耒耜を進む。墾荒を以て貧民を業とし、占籍を以て流民を附し、限田を以て異端の民を裁し、図帳を以て兼併の民を抑え、樹芸を以て農官を課し、芻地を以て馬牧に給し、召佃を以て地利を尽くし、銷豁を以て賠累を清め、撥給を以て恩沢を広め、給除を以て差優復をなし、鈔錠を以て賞賚を節し、読法を以て吏民を訓し、権量を以て市糴を和し、時估を以て物価を平らかにし、積貯の政を以て民困を恤み、山沢・陂池・関市・坑冶の政を以て邦国を佐け、軍輸を贍い、支兌・改兌の規を以て漕運を利し、蠲減・振貸・均糴・捕蝗の令を以て災荒を憫み、輸転・屯種・糴買・召納の法を以て辺儲を実にし、禄廩の制を以て貴賤を馭す。洪武二十五年、内外文武官の歳給禄俸の制を重ねて定む。正一品、千四十四石。従一品、八百八十八石。正二品、七百三十二石。従二品、五百七十六石。正三品、四百二十石。従三品、三百十二石。正四品、二百八十八石。従四品、二百五十二石。正五品、百九十二石。従五品、百六十八石。正六品、百二十石。従六品、九十六石。正七品、九十石。従七品、八十四石。正八品、七十八石。従八品、七十二石。正九品、六十六石。従九品、六十石。未入流、三十六石。俱に米鈔本折兼支す。

十三司は各々その分省の事を掌り、兼ねて分轄する両京・直隷の貢賦及び諸司・衛所の禄俸、辺鎮の糧餉、並びに各倉場の塩課・鈔関を領す。浙江司は在京の羽林右・留守左・龍虎・応天・龍驤・義勇右・康陵の七衛、神機営を帯管す。江西司は在京の旗手・金吾前・金吾後・金吾左・済陽の五衛を帯管す。湖広司は国子監・教坊司、在京の羽林前・通州・和陽・豹韜・永陵・昭陵の六衛、及び興都留守司を帯管す。福建司は順天府、在京の燕山左・武驤左・武驤右・ぎょう騎右・虎賁右・留守後・武成中・茂陵の八衛、五軍・巡捕・勇士・四衛の各営、及び北直隷の永平・保定・河間・真定・順徳・広平・大名の七府、延慶・保安の二州、大寧都司・万全都司、並びに北直隷の所轄各衛所、山口・永盈・通済の各倉を帯管す。山東司は在京の錦衣・大寧中・大寧前三衛及び遼東都司、両淮・両浙・長蘆・河東・山東・福建の各塩運司、四川・広東・海北・雲南黒塩井・白塩井・安寧・五井の各塩課提挙司、陝西霊州塩課司、江西南贛塩税を帯管す。山西司は在京の燕山前・鎮南・興武・永清左・永清右の五衛、及び宣府・大同・山西の各鎮を帯管す。河南司は在京の府軍前・燕山右・大興左・裕陵の四衛、牧馬千戸所及び直隷潼関衛・蒲州千戸所を帯管す。陝西司は宗人府・五軍都督府・六部・都察院・通政司・大理寺・詹事府・翰林院・太僕寺・鴻臚寺・尚宝司・六科・中書舎人・行人司・欽天監・太医院・五城兵馬司・京衛武学・文思院・皮作局、在京の留守右・長陵・献陵・景陵の四衛、神枢・随侍の二営、及び延綏・寧夏・甘粛・固原の各鎮を帯管す。四川司は在京の府軍後・金吾右・騰驤左・騰驤右・武徳・神策・忠義後・武功中・武功左・武功右・彭城の十一衛及び応天府・南京四十九衛、南直隷の安慶・蘇州・松江・常州・鎮江・徽州・寧国・池州・太平・廬州・鳳陽・淮安・揚州の十三府、徐・滁・和・広徳の四州、中都留守司並びに南直隷の所轄各衛所を帯管す。広東司は在京の羽林左・留守中・鷹揚・神武左・義勇前・義勇後の六衛、蕃牧・奠靖の二千戸所を帯管す。広西司は太常寺・光禄寺・神楽観・犠牲所・司牲司・太倉銀庫・内府十庫、在京の瀋陽左・瀋陽右・留守前・寛河・蔚州左の五衛、及び二十三馬房倉、各象房・牛房倉、京府の各草場を帯管す。雲南司は在京の府軍・府軍左・府軍右・虎賁左・忠義右・忠義前・泰陵の七衛、及び大軍倉・皇城四門倉、並びに在外の臨清・徳州・徐州・淮安・天津の各倉を帯管す。貴州司は上林苑監、宝鈔提挙司、都税司、正陽門・張家湾の各宣課司、徳勝門・安定門の各税課司、崇文門分司、在京の済州・会州・富峪の三衛、及び薊州・永平・密雲・昌平・易州の各鎮、臨清・許墅・九江・淮安・北新・揚州・河西務の各鈔関を帯管す。

四科に条分す。曰く民科、所属の省府州県の地理・人物・図志・古今の沿革・山川の険易・土地の肥瘠寛狭・戸口物産の多寡登耗の数を主る。曰く度支、会計の夏税・秋糧・存留・起運及び賞賚・禄秩の経費を主る。曰く金科、市舶・魚塩・茶鈔税課及び贓罰の収折を主る。曰く倉科、漕運・軍儲の出納料糧を主る。凡そ差は三等あり、吏部より選授するを注差と曰い、名を疏して上請するを題差と曰い、刂委するを部差と曰う。或いは三年、或いは一年、或いは三月にして代わる。

初めに、洪武元年に戸部を設置した。六年、尚書二人、侍郎二人を設けた。五科に分けた:一科、二科、三科、四科、総科。各科に郎中・員外郎各一人、主事四人を置いた。ただ総科のみ郎中・員外郎各二人、主事五人とした。八年、中書省が戸・刑・工の三部は事務が繁雑であると奏上し、戸部五科は各科に尚書・侍郎各一人、郎中・員外郎各二人、主事五人を置き、うち会総科は主事六人、外牽照科は主事二人、司計四人、照磨二人、管勾一人とした。また在京行用庫を置き、戸部に隷属させた。大使一人、副使二人、典史一人、都監二人を設けた。十三年、部の官秩を昇格させ、尚書一人、侍郎二人と定員を定めた。四属部に分けた:総部、度支部、金部、倉部。各部に郎中・員外郎各一人。総部は主事四人、度支部・金部は主事各三人、倉部は主事二人。まもなく在京行用庫を廃止した。二十二年、総部を民部と改称した。二十三年、また四部を河南・北平・山東・山西・陝西・浙江・江西・湖広・広東・広西・四川・福建の十二部に分けた。四川部は雲南を兼ねて管轄した。各部に郎中・員外郎各一人、主事二人を置き、各々一つの布政司の戸口・銭糧などの事務を管掌し、その繁簡に応じて京畿を帯管した。各部の内部では依然として四科に分けて管理した。また照磨・検校各一人を置き、文書の出入りの数を稽査し督促した。十九年、宝鈔提挙司を再び設置した。洪武七年、初めて宝鈔提挙司を置き、提挙一人(正七品)、副提挙一人(従七品)、吏目一人(省注)。所属する鈔紙・印鈔の二局は各大使一人(正八品)、副使一人(正九品)、典史一人(省注)。宝鈔・行用の二庫は各大使二人(正八品)、副使二人(正九品)、典史一人(省注)。まもなく提挙を正四品に昇格させた。十三年に廃止し、この年に至って再設置し、官秩は正八品とした。二十六年、浙江・江西・蘇松の出身者は戸部に任じることを得ずと命じた。二十九年、十二部を十二清吏司と改称した。建文中、依然として四司とした。その他の詳細は吏部に見える。成祖は旧制に復した。永楽元年、北平司を北京司と改称した。十八年、北京司を廃止し、雲南・貴州・交阯の三清吏司を設けた。宣徳十年、交阯司を廃止し、十三司と定めた。その後、職掌を帰併した。凡そ宗室・勲戚・文武官吏の廩禄は、陝西司が兼ねて管轄した。北直隸の府州衛所は、福建司が兼ねて管轄した。南直隸の府州衛所は、四川司が兼ねて管轄した。天下の塩課は、山東司が兼ねて管轄した。関税は、貴州司が兼ねて管轄した。漕運及び臨清・徳州などの諸倉は、雲南司が兼ねて管轄した。御馬・象房などの諸倉は、広西司が兼ねて管轄した。明初、かつて司農司を置いたが、まもなく廃止した(呉元年に司農司を設置。卿は正三品、少卿は正四品、丞は正五品、庸田署令は正五品、典簿・司計は正七品。洪武元年に廃止)。三年、司農司を再設置し、治所を河南に開き、卿一人、少卿二人、丞四人、主簿・録事各二人を設けた。四年にまた廃止した。後に判録司を置いたが、これも廃止した(洪武十三年に判録司を設置し、在京官吏の俸給・文移・勘合を掌った。判録一人(正七品)、副判二人(従七品)を設けた。まもなく判録を司正と改め、副判を左・右司副と改めた。十八年に廃止)。いずれも戸部に隷属しなかった。

総督倉場一人、在京及び通州等の処の倉場糧儲を督掌する。洪武初め、軍儲倉二十所を置き、各々官司を設けてその事務を司らせた。永楽中、都を北京に遷し、京倉及び通州諸倉を置き、戸部の司員をもってこれを経理させた。宣徳五年、初めて李昶を戸部尚書として命じ、専らその事務を督させ、遂に定制となった。以後、尚書あるいは侍郎がこれに任じ、いずれも部の事務を治めなかった。嘉靖十五年、また西苑の農事を兼ねて督ることを命じた。隆慶初め、兼理を罷めた。万暦二年、別に戸部主事一人を撥して庫に陪し、毎日管庫主事とともに銀両の収放に当たり、季末に交替させた。九年に裁革し、本部侍郎に分理させた。十一年に再設置した。二十五年、右侍郎張養蒙に遼餉を督させた。四十七年、督餉侍郎を増設した。崇禎年間、督遼餉・寇餉・宣大餉があり、三四人を増設した。天啓五年、また督理銭法侍郎を増設した。

礼部

礼部。尚書一人(正二品)、左・右侍郎各一人(正三品)。その属官に、司務庁(司務二人、従九品)、儀制・祠祭・主客・精膳の四清吏司(各郎中一人、正五品、員外郎一人、従五品、主事一人、正六品)。正統六年、儀制・祠祭の二司に主事各一人を増設した。また儀制司に主事一人を増設し、駙馬を教習させた。弘治五年、主客司に主事一人を増設し、会同館を提督させた。所轄に、鑄印局(大使一人、副使二人。万暦九年に一人を革す)。

尚書は、天下の礼儀・祭祀・宴饗・貢挙の政令を掌る。侍郎はこれを補佐する。

儀制は、諸礼文・宗封・貢挙・学校の事を分掌する。天子の即位、天子の冠礼・大婚、皇太子・妃嬪・太子妃の冊立、慈宮への徽号上呈、朝賀・朝見、大饗・宴饗、大射・宴射には、諸儀注を挙げて条上する。経筵・日講・耕耤・視学・策士・伝臚・巡狩・親征・進暦・進春・献俘・奏捷、皇太子の出閣・監国、親王の読書・之藩、皇子女の誕生・命名、ならびに百官・命婦の皇太子・后妃への朝賀の礼、および諸王国の礼については、すべて諸司に儀式を頒布する。凡そ制・誥の伝達、詔・勅・表・箋の開読、ならびに上下百官の往来移文には、すべて程式を授ける。毎年、宗室の王・郡王・将軍・中尉・妃・主・君の封を請うときは、それぞれその親疏を以て等とする。百官は宗王に対しては、官称と名を具えて臣と称さない。王臣はその王に対して臣と称する。凡そ宗室・駙馬都尉・内命婦・蕃王の誥命は、吏部と会して請う。諸司の印信については、その制度を管轄する。内閣は銀印、直紐、方一寸七分、厚さ六分、玉箸篆文。征西・鎮朔・平羌・平蛮等の将軍は銀印、虎紐、方三寸三分、厚さ九分、柳葉篆文。宗人府・五軍都督府はともに正一品、銀印、三台、方三寸四分、厚さ一寸。六部・都察院・各都司はともに正二品、銀印、二台、方三寸二分、厚さ八分。衍聖公・張真人・中都留守司はともに正二品、各布政司は従二品、銀印、二台、方三寸一分、厚さ七分。後に衍聖公に三台銀印を賜う。順天・応天二府はともに正三品、銀印、方二寸九分、厚さ六分五厘。通政司・大理寺・太常寺・詹事府・京衛・各按察司・各衛はともに正三品、苑馬寺・宣慰司はともに従三品、銅印、方二寸七分、厚さ六分。太僕寺・光禄寺・各塩運司はともに従三品、銅印、方二寸六分、厚さ五分五厘。鴻臚寺・各府はともに正四品、国子監・宣撫司はともに従四品、銅印、方二寸五分、厚さ五分。翰林院・左右春坊・尚宝司・欽天監・太医院・上林苑監・六部各司・宗人府経歴司・王府長史司・各衛千戸所はともに正五品、司経局・五府経歴司・招討司・安撫司はともに従五品、銅印、方二寸四分、厚さ四分五厘。各州は従五品、銅印、方二寸三分、厚さ四分。都察院経歴司・大理寺左右司・五城兵馬司、大興・宛平・上元・江寧の四県、僧録司・道録司・中都留守司経歴司・断事司、各都司経歴司・断事司、各衛百戸所・長官司、王府審理所はともに正六品、光禄司各署、各布政司経歴司・理問所はともに従六品、銅印、方二寸二分、厚さ三分五厘。六科・行人司・通政司経歴司・工部営繕所・太常寺典簿庁・上林苑監各署・各按察司経歴司・各県はともに正七品、中書舎人、順天応天二府経歴司・京衛経歴司・光禄寺典簿庁・太僕寺主簿庁・詹事府主簿庁・各衛経歴司・各塩運司経歴司・苑馬寺主簿庁・宣慰司経歴司はともに従七品、銅印、方二寸一分、厚さ三分。戸部・刑部・都察院各照磨所、兵部典牧所、国子監繩愆庁・博士庁・典簿庁、鴻臚寺主簿庁、欽天監主簿庁、各布政司照磨所、各府経歴司、王府紀善・典宝・典膳・奉祀・良医・工正各所、宣撫司経歴司はともに正従八品、銅印、方二寸、厚さ二分五厘。刑部・都察院各司獄司、順天・応天二府照磨所・司獄司、鴻臚寺各署、国子監典籍庁、上林苑監典簿庁、内府宝鈔等各庫、御馬倉・草倉、会同館、織染所、文思院、皮作局、顔料局、鞍轡局、宝源局、軍器局、都税司、教坊司、留守司司獄司、各都司司獄司、各按察司照磨所・司獄司、各府照磨所・司獄司、王府長史司典簿庁・教授・典義所、各府衛儒学・税課司、陰陽学・医学・僧綱司・道紀司・各巡検司はともに正従九品、銅印、方一寸九分、厚さ二分二厘。各州県儒学・倉庫・駅逓・閘壩批験所・抽分竹木局・河泊所・織染局・税課局・陰陽学・医学・僧正司・道正司・僧会司・道会司はともに未入流、銅条記、幅一寸三分、長さ二寸五分、厚さ二分一厘。以上はすべて直紐、九畳篆文。監察御史は銅印、直紐、眼あり、方一寸五分、厚さ三分、八畳篆文。総制・総督・巡撫および鎮守・公差等の官は銅関防、直紐、幅一寸九分五厘、長さ二寸九分、厚さ三分、九畳篆文。外国王の印は三等あり、金・鍍金・銀という。磨耗すればこれを換給する。凡そ祥瑞については、その名物を弁別し、封禅を請うて上心を蕩かすことなからしむ。学校の政を以て士類を育成し、貢挙の法を以て賢才を網羅し、郷飲酒礼を以て歯譲を教え、養老を以て高年を尊び、制度を以て等威を定め、貧を恤うるを以て仁政を広め、旌表を以て勧励を示し、建言会議を以て悉く利病を尽くし、自宮を禁じて奸民を遏止する。

祠祭は、諸祭祀の典式及び天文・国恤・廟諱の事を分掌する。凡そ祭りに三あり、天神・地祇・人鬼と曰う。その大祀・中祀・小祀を弁別して敬い供える。壇壝・祠廟・陵寝を整え、しばしば巡視する。牢醴・玉帛・粢羹・水陸瘞燎の品を免除し、配侑・従食・功德の上下を序列して順次挙行する。天下の神祇で祀典にあるものは、令甲に照らし、有司に伝え、時を以てその祀事を謹んで行わせる。日官を督して暦象を天下に頒布する。日月の交食があれば、内外諸司に移文して救護させる。災異があれば即ち奏聞し、甚だしいものは祭告と修省を乞う。凡そ喪葬・祭祀は、貴賤に等あり、皆その程則を定めて頒布施行する。凡そ諡は、帝は十七字、后は十三字、妃・太子・太子妃は並びに二字、親王は一字、郡王は二字、字を以て差等とする。勲戚・文武大臣の葬祭贈諡を請う場合は、必ず所司に移し、行能を核実し、公論を傅え、議を定めて奏聞する。侍従勤労・忠諫死した者で、官品が諡に応じない場合も、皆特賜を得る。凡そ帝后の湣忌には、陵に祀り、朝を輟むも務めを廃さない。凡そ天文・地理・医薬・卜筮・師巫・音楽・僧道人は、並びに籍を領し、妖妄を興造する者は罪を赦さない。

主客は、諸蕃の朝貢接待給賜の事を分掌する。諸蕃の朝貢について、その貢道・貢使・貢物の遠近多寡豊約の数を弁別し、以て王若しくは使の迎送・宴労・廬帳・食料の等、賞賚の差を定める。凡そ貢物は必ず検閲し、然る後に内府に登録する。附載の物貨あれば、則ち直を給する。若し蕃国が嗣封を請えば、則ちその国に冊を頒するために遣わす。使の還るに当たり、その風土・方物の宜しき、贈遺礼文の節を上奏する。諸蕃に保塞の功あれば、則ち敕印を授けて封ずる。各国の使人往来には、誥敕あれば則ち誥敕を験し、勘籍あれば則ち勘籍を験し、闌入せしめない。土官の朝貢も、亦た勘籍を験する。その返還には、則ち鏤金の敕諭を以て行い、必ず銅符と比合させる。凡そ言事を審らかにし、文字を訳し、館伴を送迎し、四夷館の訳字生・通事の能否を考稽し、その交通漏泄を禁飭する。凡そ朝廷の賜賚の典、各省の土物の貢は、皆これを掌る。

精膳は、宴饗・牲豆・酒膳の事を分掌する。凡そ御賜の百官礼食は、宴と曰い、酒飯と曰い、上中下の三等と為し、その品秩に視る。番使・土官には宴あり、下程あり、宴には一次あり、二次あり、下程には常例あり、欽賜あり。皆その等を弁ずる。親王の藩国に就くとき、王・公・将軍の来朝、及びその使人も、亦たこれに如し。凡そ膳羞・酒醴・品料は、光禄寺が供するが、その数を会計し、その出納を程督する。凡そ厨役は、諸民より僉し、太常寺・光禄寺に使役させる。年深き者は、選抜して王府の典膳に充てる。凡そ歳の蔵冰・出冰は、所司に移文して謹潔ならしめる。

初め、洪武元年に礼部を置く。六年、尚書二人、侍郎二人を設く。四属部に分つ:総部、祠部、膳部、主客部。各部に郎中・員外郎各一人、主事各三人を設く。十三年、部の秩を昇め、尚書・侍郎各一人を設け、各属部に郎中・員外郎・主事各一人を設く。尋いで復た侍郎一人を増置す。二十二年、総部を儀部と改む。二十九年、儀部・祠部・膳部を儀制・祠祭・精膳と改め、惟だ主客は旧に仍り、俱に清吏司と称す。

按ずるに、周の宗伯の職は邦礼を掌るとは雖も、司徒しと既に邦教を掌る。所謂礼とは、僅かに鬼神祠祀のみである。典楽と典教を合せ、内に宗藩、外に諸蕃、上は天官より、下は医師・膳夫・伶人の属に逮るまで、兼綜せざるなく、則ち明より始まる。成化・弘治以後、率ね翰林の儒臣を以てこれに当たらしむ。これより公孤に登り輔導を任ずる者は、蓋し諸部に冠たり。

兵部 <協理京営戎政を附す>

兵部。尚書一人、正二品。左・右侍郎各一人、正三品。その属に、司務庁、司務二人、従九品。武選・職方・車駕・武庫の四清吏司、各郎中一人、正五品。正統十年、武選・職方二司の郎中を各一人増設す。成化三年、車駕司の郎中一人を増設す。万暦九年に並びに革す。員外郎一人、従五品。正統十年、武選司の員外郎一人を増設す。弘治九年、武庫司の員外郎一人を増設す。後俱に革す。嘉靖十二年、職方司の員外郎一人を増設す。主事二人、正六品。洪武・宣徳年間、武選司の主事三人、職方司の主事四人を増設す。正統十四年、車駕・武庫二司の主事を各一人増設す。後革す。万暦十一年、又た車駕司の主事一人を増設す。所轄に、会同館大使一人、正九品。副使二人、従九品。大通関大使・副使各一人、俱に未入流。

尚書は、天下の武衛官軍の選授・簡練の政令を掌る。侍郎はこれを佐く。

武選は、衛所・土官の選授・升調・襲替・功賞の事を掌る。凡そ武官六品、その勲は十二等あり。正一品は左・右柱国、従一品は柱国、正二品は上護軍、従二品は護軍、正三品は上軽車都尉、従三品は軽車都尉、正四品は上騎都尉、従四品は騎都尉、正五品は驍騎尉、従五品は飛騎尉、正六品は雲騎尉、従六品は武騎尉。散階は三十等あり。正一品は初授は特進栄禄大夫、升授は特進光禄大夫。従一品は初授は栄禄大夫、升授は光禄大夫。正二品は初授は驃騎将軍、升授は金吾将軍、加授は竜虎将軍。従二品は初授は鎮国将軍、升授は定国将軍、加授は奉国将軍。正三品は初授は昭勇将軍、升授は昭毅将軍、加授は昭武将軍。従三品は初授は懐遠将軍、升授は定遠将軍、加授は安遠将軍。正四品は初授は明威将軍、升授は宣威将軍、加授は広威将軍。従四品は初授は宣武将軍、升授は顕武将軍、加授は信武将軍。正五品は初授は武徳将軍、升授は武節将軍。従五品は初授は武略将軍、升授は武毅将軍。正六品は初授は昭信校尉こうい、升授は承信校尉。従六品は初授は忠顕校尉、升授は忠武校尉。毎年凡そ六選あり。世官あり、流官あり。世官は九等、指揮使、指揮同知、指揮僉事、衛鎮撫、正千戸、副千戸、百戸、試百戸、所鎮撫。皆に襲職あり、替職あり。その幼きには優給あり。その世襲を得ざるには減革あり、通革あり。流官は八等、左右都督、都督同知、都督僉事、都指揮使、都指揮同知、都指揮僉事、正留守、副留守。世官より升授し、或いは武挙より用いる、皆世襲せず。即ち世襲あるは、特恩より出づ。真授に非ざる者は署職と曰い、署職は本職一級を加えて半級と作し、俸を支給せず、軍功に非ざれば実授を得ることなし。試職と曰い、試職は一級と作し、半俸を支給し、誥を与えず。納職と曰い、納職は帯俸し、事に蒞らず。戦功は二等、奇功は上と為し、頭功はこれに次ぐ。首功は四等、迤北は大と為し、遼東はこれに次ぎ、西番・苗蛮はまたこれに次ぎ、内地の反寇はまたこれに次ぐ。凡そ比試には旧官あり、洪武三十一年以前を旧と為す。新官あり、成祖以後を新と為す。軍政は五年に一たび考選し、先だって撫・按官が功過状を上奏し、覆核して去留を決す。五府・錦衣衛堂上各総兵官は、皆自ら陳述し、上裁を取る。推挙は上二人、都指揮以下は上一人。凡そ土司の官は九級、自ら従三品より従七品に至るまで、皆歳禄なし。その子弟・族属・妻女・若しくは婿及び甥の襲替は、胥くその俗に従う。塞に附する官は、都督より鎮撫に至るまで、凡そ十四等、皆誥敕を以てその偽冒を弁ず。贈官は王事に死すれば二等を加え、戦陣に死すれば三等を加う。凡そ除授中旨より出づる者は、必ず覆奏して然る後これを行ふ。貼黄を以て図状を徴し、初績を以て誥敕を徴し、効功を以て将領を課し、比試を以て卒徒を練り、優養を以て故絶を恩し、褒恤を以て死戦を励まし、寄禄を以て恩幸を馭し、降を殺し、失陥し、敵を避け、叛を激するの法を以て軍機を粛にし、典刑・敗倫・行劫・退陣の科を以て世禄を断つ。

職方は、輿図・軍制・城隍・鎮戍・簡練・征討の事を掌る。凡そ天下の地理の険易遠近、辺腹の疆界は、俱に図本あり、三年に一たび報告し、官軍車騎の数と偕に上る。凡そ軍制は内外相維し、武官は輒ち符を下して徴発すべからず。都督府、都指揮司、留守司、内外衛守禦・屯田・群牧千戸所、儀衛司、土司、諸番都司衛所より、各その官軍及びその部落を統べ、以て徴調・守衛・朝貢・保塞の令を聴く。時に其の城池を修浚してこれを閲視す。凡そ鎮戍の将校は五等、鎮守と曰い、協守と曰い、分守と曰い、守備と曰い、備倭と曰う。皆事に因りて増置し、地の険要を視て、兵を設けて屯戍す。凡そ京営の操練は、文武大臣を以て統べ、皆科道官これを巡視す。若し将軍営練、将軍四衛営練、及び勇士・幼官・舎人等の営練は、則ちその軍実を討ち、その什伍を稽え、その存逸閑否を察し、以てその坐作・進退・疾徐・疏数の節、金鼓・麾旗の号を教う。征討は将を命じて出師を請い、賞罰を懸け、兵食を調え、功過を紀して、以てこれを黜陟す。堡塞を以て辺徼を障ぎ、烽火を以て声息を伝え、関津を以て奸細を詰め、緝捕を以て盗賊を弭ぎ、快壮を以て郷民を簡び、勾解・収充・抽選・並豁・疏放・存恤の法を以て軍伍を整う。

車駕は、鹵簿・儀仗・禁衛・駅伝・廐牧の事を掌る。凡そ鹵簿大駕は、大典礼・大朝会にこれを設け、丹陛駕は常朝にこれを設け、武陳駕は世宗南巡の時にこれを設く。皆その物数を弁じて、以て所司に授く。慈宮・中宮の鹵簿、東宮・宗藩の儀仗もまたこれに如し。凡そ侍衛は、御殿には全直し、常朝には番直し、守衛・親軍衛は、前・後・左・右の四門を画して四行と為し、日夜これを巡警す。皇城を守衛するには、前の午門を一行と為し、後の玄武門を一行と為し、左の東華門を一行と為し、右の西華門を一行と為す。凡そ郵伝は、京師に在っては会同館と曰い、外に在っては駅と曰い、遞運所と曰う。皆符験関券を以てこれを行ふ。凡そ馬政は、その専ら理する者は太僕・苑馬の二寺、その簿籍を稽え、時にその登耗を程し、惟だ内廄は会計せず。

武庫は、戎器・符勘・尺籍・武学・薪隸の事を掌る。凡そ内外の官軍に征行あれば、工部に移して器仗を与え、その数を籍紀し、制敕を下して各辺に徴発す。及び使人の関を出づるには、必ず勘合を験す。軍伍欠くれば、諸省府州県に下してこれを勾す。跟捕・記録・開戸・給除・停勾の法を以て、その召募・垛集・罪謫・改調営丁尺籍の数を核す。凡そ武職の幼官及び子弟で未だ官を嗣がざる者は、武学に於いて業を習い、主事一人を以てこれを監督す。学官の賢否・肄習の勤怠を考稽して上聞す。諸司官署の供應に柴薪あり、直衙に皁隸あり、官品を視て差あり。

初めに、洪武元年に兵部を設置した。六年、尚書一人、侍郎一人を増員した。総部・駕部及び職方の三部を置き、郎中・員外郎・主事を設け、吏部の員数と同じくした。十三年、部の位階を上げ、尚書・侍郎を各一人設け、また庫部を増設して四属部とし、各部に郎中・員外郎・主事を各一人設けた。十四年、試侍郎一人を増員した。二十二年、総部を司馬部と改称した。二十九年、四部を武選・職方・車駕・武庫の四清吏司と定めて改めた。ただ職方のみは従前の名を保った。景泰年間中、尚書一人を増設し、部務を協理させたが、天順初年に廃止した。隆慶四年に侍郎二人を添注したが、まもなく廃止した。万暦末年、再び設置した。

協理京営戎政一人、あるいは尚書、あるいは侍郎、あるいは右都御史がこれに任じる。京営の操練の事を掌る。永楽初年、三大営を設け、武官が総括した。景泰元年、初めて提督団営を設け、兵部尚書于謙に兼領させたが、後に廃止した。成化三年に再設置し、概ね本部尚書あるいは都御史がこれを兼ねた。嘉靖二十年、初めて尚書劉天和に部務を止めさせ、別に関防を与え、専ら戎政を管理させた。二十九年、「総督京営戎政」の印を仇鸞に与え、代わりに本部侍郎を設けて戎政を協理させ、関防は与えなかった。万暦九年に裁革し、十一年に再設置した。天啓初年、協理一人を増設したが、まもなく廃止した。崇禎二年、再び一人を増員し、庶起士劉之綸を兵部侍郎としてこれに充てた。

刑部

刑部。尚書一人、正二品。左・右侍郎各一人、正三品。その属官に、司務庁があり、司務二人、従九品。浙江・江西・湖広・陝西・広東・山東・福建・河南・山西・四川・広西・貴州・雲南の十三清吏司があり、各郎中一人、正五品。員外郎一人、従五品。主事二人、正六品。正統六年、十三司ともに主事一人を増設した。成化元年、四川・広西二司の主事を各一人増設したが、後に廃止した。万暦年間中、また湖広・陝西・山東・福建四司の主事を各一人廃止した。照磨所があり、照磨、正八品。検校、正九品。各一人。司獄司があり、司獄六人、従九品。

尚書は、天下の刑名及び徒隷・勾覆・関禁の政令を掌る。侍郎はこれを補佐する。

十三司は、それぞれその分担する省および兼ねて管轄する分担の京府・直隸の刑名を掌る。浙江司は崇府・中軍都督府・刑科・内官・御用・司設等の監、在京の金吾前・騰驤左・瀋陽右・留守中・神策・和陽・武功右・広洋の八衛、蕃牧千戸所、及び両浙塩運司、直隸和州、涿鹿左・涿鹿中の二衛を帯管する。江西司は淮・益・弋陽・建安・楽安の五府、前軍都督府、御馬監、火薬・酒酢・麺筋等の局、在京の府軍前・燕山左・留守前・龍驤・寛河・忠義前・忠義後・永清右・龍江左・龍江右の十衛、及び直隸廬州府、廬州・六安・九江・武清・宣府前・龍門の各衛を帯管する。湖広司は楚・岷・吉・栄・遼の五府、右軍都督府、司礼・尚賓・尚膳・神宮等の監、天財庫、在京の留守右・虎賁右・忠義右・武功左・茂陵・永陵・江淮・済川・水軍右の九衛、及び興都留守司、直隸寧国・池州の二府、宣州・神武中・定州・茂山・保安左・保安右の各衛、渤海千戸所を帯管する。福建司は戸部・太僕寺・戸科・宝鈔提挙司・印綬・都知等の監、甲字第十庫、在京の金吾後・応天・会州・武成中・武功中・孝陵・献陵・景陵・裕陵・泰陵の十衛、牧馬千戸所、及び福建塩運司、直隸常州府・広德州、中都留守左・留守中・定辺・開平中屯の各衛、美峪千戸所を帯管する。山東司は魯・徳・衡・涇の四府、左軍都督府、宗人府、兵部、尚宝司、兵科、典牧所、会同館、供用庫、戈戟司、司苑局、在京の羽林右・瀋陽左・長陵の三衛、奠靖千戸所、及び山東塩運司、中都留守司、遼東都司、遼東行太僕寺、直隸鳳陽府、滁州・鳳陽・皇陵・長淮・泗州・寿州・滁州・沂州・德州・德州左・保定後の各衛、安東中護衛、潮河・龍門・寧靖の各千戸所を帯管する。山西司は晋・代・沈・懐仁・慶成の五府、翰林院、欽天監、上林苑監、南・北二城兵馬司、混堂司、甜食房、在京の旗手・金吾右・驍騎右・龍虎・大寧中・義勇前・義勇後・英武の八衛、及び直隸鎮江府・徐州、鎮江・徐州・瀋陽中屯の各衛、瀋陽中護衛、倒馬関・平定の各千戸所を帯管する。河南司は周・唐・趙・鄭・徽・伊・汝の七府、礼部、太常寺、光禄寺、鴻臚寺、詹事府、国子監、礼科、中書舎人、神楽観、犠牲所、兵仗局、霊台・鐘鼓等の司、東城兵馬司、教坊司、在京の羽林左・府軍右・武徳・留守後・神武左・彭城の六衛、及び両淮塩運司、直隸淮安・揚州の二府、淮安・大河・邳州・揚州・高郵・儀真・宿州・武平・帰徳・寧山・神武右の各衛、海州・塩城・通州・汝寧の各千戸所を帯管する。陝西司は秦・韓・慶・粛の四府、後軍都督府、大理寺、行人司、尚衣監、針工局、西城兵馬司、在京の府軍後・騰驤右・豹韜・鷹揚・興武・義勇右・康陵・昭陵・龍虎左・横海・江陰の十一衛、及び河東塩運司、陝西行太僕寺、甘粛行太僕寺、直隸太平府、建陽・保定左・保定右・保定中・保定前の各衛、平涼中護衛を帯管する。四川司はしょく府、工部、工科、巾帽・織染の二局、僧道録司、在京の府軍・金吾左・済川・武驤右・大寧前・蔚州左・永清左・広武の八衛、及び直隸松江・大名の二府、金山・懐安・懐来の各衛、神木千戸所を帯管する。広東司は応天府、在京の錦衣・府軍左・虎賁左・済陽・留守左・水軍左・飛熊の七衛、及び直隸延慶州、懐来千戸所を帯管する。広西司は靖江府、通政司、五軍断事司、中城兵馬司、宝鈔・銀作の二局、在京の羽林前・燕山右・燕山前・大興左・通州・武驤左・鎮南・富峪の八衛、及び直隸安慶・徽州の二府、安慶・新安・通州左・通州右・延慶・延慶左・延慶右の各衛を帯管する。雲南司は順天府、太医院、儀衛・惜薪等の司、承運庫、及び直隸永平・広平の二府、鎮海・真定・永平・山海・盧龍・東勝左・東勝右・撫寧・密雲中・密雲後・大同中屯・潼関・営州五屯・万全左・万全右の各衛、寛河・武定・蒲州の各千戸所を帯管する。貴州司は吏部、吏科、司菜局、及び長蘆塩運司、大寧都司、万全都司、直隸蘇州・保定・河間・真定・順徳の五府、蘇州・太倉・薊州・遵化・鎮朔・興州五屯、忠義中・涿鹿・河間・天津・天津左・天津右・德州・宣府左・宣府右・開平・保安・蔚州・永寧の各衛、梁城・興和・広昌の各千戸所を帯管する。

照磨、檢校は、文書を照合・校閲し、贓物・贖罪の記録を計上する。司獄は、獄吏を率い、囚徒を管理する。軍民・官吏及び宗室・勳戚で法に触れた者については、その供述を詰問し、真偽を察し、律例に基づいて罪の軽重を比議し、上奏して裁可を請う。詔獄は必ず訊問調書に拠り、上意に迎合してはならない。殊旨・別敕・詔例・榜例で、審議を経て法令として定められていないものは、比附引用してはならない。死刑は、即決及び秋後決ともに、三度覆奏する。両京・十三布政司の死罪囚は、毎年審議して平允を期す。五年ごとに勅を請い、官を派遣して冤罪・滞獄を審録する。霜降の時に重囚を審録し、五府・九卿・科道官と共にこれを録する。哀れむべき疑わしい者は辺境に戍させ、不服申立てのある者は所管官庁に再審を命じ、律に合う者は監候とする。夏の熱審では、笞刑を免じ、徒刑・流刑を減じ、軽い拘禁者を釈放する。旱魃の年には、特旨による録囚も同様とする。大祭の時は刑の執行を停止する。贖罪は、罪の軽重により、斬・絞・雑犯・徒刑で末減された者について、収贖を許す。訴訟は必ず下から上へと順を追い、重大緊急の事案は登聞鼓を叩くことを許す。地方に重大な獄案があれば、命を受けて往きて審理する。地方での囚人処刑には、司官二人を派遣して臨監する。断獄については、毎年その人員数を詳細に報告させ、これを歳報という。毎月拘束・釈放・存命・死亡の数を上申させ、これを月報という。獄案が成立したら、大理寺に移して覆審させ、必ず平允を期す。提牢については、毎月主事一人を交替で担当させ、牢獄を修繕し、戸締りを厳重にし、虐待・濫用を省み、衣糧を支給する。囚人が病気の時は、家族の面会を許し、械具を外し医薬を与える。捕虜・囚人の記録、官私奴婢への配没を、全て帳簿に記して掌握する。官吏の過失は、全て記録する。年末にその洗浄(赦免)を請う。名例律をもって諸条規を統括し、八字(以・準・皆・各・其・及・即・若)をもって判決理由を包括し、五服をもって情状と法を参酌し、墨刑(刺青)をもって盗賊を識別する。財産没収では墳墓は含まず、財産没収は度支(国庫)に入れず、宗室は市場での刑罰(戮)に就かせず、宮人は獄に就かせず、幼少・高齢・病弱者は取り調べない。詳細は『刑法志』に詳しい。

洪武元年に刑部を設置した。六年、尚書・侍郎をそれぞれ一人増員した。総部・比部・都官部・司門部を設け、各部に郎中・員外郎をそれぞれ二人ずつ置いたが、都官部のみはそれぞれ一人とした。総部・比部の主事はそれぞれ六人、都官・司門の主事はそれぞれ四人とした。八年、部の事務が膨大繁雑になったため、四科を増設し、各科に尚書・侍郎・郎中をそれぞれ一人、員外郎二人、主事五人を置いた。十三年、部の官秩を上げ、尚書一人、侍郎一人を置き、依然として四属部に分け、各部に郎中・員外郎をそれぞれ一人、総部・比部の主事をそれぞれ四人、都官・司門の主事をそれぞれ二人とし、まもなく侍郎を一人増員した。ここに初めて左・右侍郎を分けた。二十二年、総部を憲部と改称した。二十三年、四部を河南・北平・山東・山西・陝西・浙江・江西・湖広・広東・広西・四川・福建の十二部に分け、浙江部が雲南を兼轄した。各部は戸部の制度に倣って官を設けた。二十九年、十二清吏司と改称した。永楽元年、北平を北京とした。十八年、北京司を廃し、雲南・貴州・交阯の三司を増設した。宣徳十年、交阯司を廃し、遂に十三清吏司と定まった。

工部(提督易州山廠を附す)

工部。尚書一人、正二品。左・右侍郎各一人、正三品。その属官に、司務庁があり、司務二人、従九品。営繕・虞衡・都水・屯田の四清吏司があり、各郎中一人、正五品、後に都水司郎中四人を増設。員外郎一人、従五品、後に営繕司員外郎二人、虞衡司員外郎一人を増設。主事二人、正六品、後に都水司主事五人、営繕司主事三人、虞衡司主事二人、屯田司主事一人を増設。管轄するものに、営繕所があり、所正一人、正七品。所副二人、正八品。所丞二人、正九品。文思院があり、大使一人、正九品。副使二人、従九品。皮作局があり、大使一人、正九品。副使二人、従九品、後に廃止。鞍轡局があり、大使一人、正九品。副使一人、従九品。隆慶元年、大使・副使ともに廃止。宝源局があり、大使一人、正九品。副使一人、従九品、嘉靖年間に廃止。顔料局があり、大使一人、正九品、後に廃止。軍器局があり、大使一人、正九品。副使二人、後に一人廃止。節慎庫があり、大使一人、従九品。嘉靖八年に設置。織染所・雑造局があり、大使一人、正九品。副使一人、従九品。広積・通積・盧溝橋・通州・白河の各抽分竹木局があり、各大使一人、副使各一人。大通関提挙司があり、提挙一人、正八品、万暦二年に廃止。副提挙二人、正九品。典史一人。後に副提挙・典史ともに廃止。柴炭司があり、大使一人、従九品。副使一人。

尚書は、天下の百官・山沢に関する政令を掌る。侍郎はこれを補佐する。

営繕司は、営造・建設の事を掌る。宮殿・陵寝・城郭・壇場・祠廟・倉庫・官衙・営房・王府邸第の工事については、工匠を集め材料を調達し、時期を見て工程を監督する。鹵簿・儀仗・楽器については、内府及び所管官庁に移し、各々その職務に従って調製させ、時に応じてその堅牢・清潔を検分し、粗悪・濫造を監督する。獄具を設置するには、必ず律の通りにする。工匠は二等あり、輪班は三年に一度の役務で、役務は三月を超えず、いずれもその家の賦役を免除する。住坐は月に十日間の役務で、若干の食糧支給がある。工役は二等あり、罪人を働かせる場合、正工と雑工がある。雑工三日は正工一日に相当し、いずれも役務の大小によって調整配分する。物料の貯蔵施設には、神木廠・大木廠があり、材木を蓄える。黒窯廠・琉璃廠があり、瓦器を焼成する。台基廠があり、薪・葦を貯蔵する。いずれもその数量を記録して、修築・作事の用に供する。

虞衡司は、山沢の採捕・陶冶の事を掌る。凡そ鳥獣の肉・皮革・骨角・羽毛で、祭祀・賓客・膳羞の需用、礼器・軍実の用に供し得るものは、毎年諸司に採捕を下す。水課は禽十八・獣十二、陸課は獣十八・禽十二とし、皆その時を以てする。冬春の交わりには、罝罛を川沢に施さず、春夏の交わりには、毒薬を原野に施さない。苗が盛んなれば蹂躙を禁じ、穀が登れば焚燎を禁ず。若し害獣あれば、陷阱を為してこれを獲ることを聴し、賞に差等あり。凡そ諸陵の山麓には、斧斤を入れたり、窯冶を開いたり、墓墳を置いたりすることを得ず。凡そ帝王・聖賢・忠義・名山・嶽鎮・陵墓・祠廟で民に功徳あるものは、樵牧を禁ず。凡そ山場・園林の利は、民に取らせて薄くこれを徴す。凡そ軍装・兵械は、所司に下して造らせ、兵部とともにこれを省み、必ずその堅緻を程する。凡そ陶甄の事は、歳供あり、暫供あり、停減あり、その数を籍し、その入を会し、軽々しく毀して民を費やさしめない。凡そ諸冶は、その材を飭し、その模範を審らかにし、有司に付す。銭は必ず銖両に準じ、内府に進めてこれを頒つ。牌符・火器は、内府にて鋳造し、その法式を外に泄らすことを禁ず。凡そ顔料は、その土産にあらざればこれを徴さず。

都水司は、川沢・陂池・橋道・舟車・織造・券契・量衡の事を掌る。水利を転漕と曰い、灌田と曰う。毎年その金石・竹木・巻埽を儲え、時に応じてその閘壩・洪浅・堰圩・堤防を修め、蓄泄を謹んで旱潦に備え、田廬・墳隧・禾稼を壊さしめない。舟楫・磑碾は灌田と利を争うことを得ず、灌田は転漕と利を争うことを得ず。凡そ諸水の要会には、京朝官を遣わして専らこれを理し、もって有司を督める。民を役するには必ず農隙を以てし、農隙に至らざれば、則ち功を僝してこれを成す。凡そ道路・津梁は、時にその葺治を行う。巡幸及び大喪・大礼あれば、則ち修除してこれを較比す。凡そ舟車の制は、黄船と曰って御用に供し、遮洋船と曰って海にて転漕し、浅船と曰って河にて転漕し、馬船・風快船と曰って官物の送りに供し、備倭船・戦船と曰って寇賊を防ぎ、大車・独轅車・戦車と曰い、皆その財用を会し、その多寡・久近・労逸を酌んで均しくこれを剤する。凡そ織造の冕服・誥敕・制帛・祭服・浄衣諸幣布は、内府・南京・浙江諸処に移し、その数を周知して慎みこれを節す。凡そ公・侯・伯の鉄券は、その高広に差等あり。制式は『礼志』に詳しい。凡そ祭器・冊宝・乗輿・符牌・雑器は、皆内府にて則を会す。凡そ度量・権衡は、その校勘を謹んでこれを頒ち、式を市に懸けて、中度ならざる者を罪す。

屯田司は、屯種・抽分・薪炭・夫役・墳塋の事を掌る。凡そ軍馬の守鎮する処で、転運給せざるものあれば、則ち屯を設けて軍儲を益す。その規辦する営造・木植・城磚・軍営・官屋及び戦衣・器械・耕牛・農具の属。凡そ抽分は諸商に徴し、その財物を視て各々差等あり。凡そ薪炭は、南は洲汀より取り、北は山麓より取り、或いは民に徴し、本色・折色あり、その多寡を酌んでこれを撙節す。夫役の薪を伐ち薪を転ずるは、皆雇役とする。凡そ墳塋及び堂碑・碣獣の制は、宗室・勲戚・文武官の等を第してその差を定む。墳塋の制度は、『礼志』に詳しい。

洪武初年、工部及びその官属を置き、将作司をこれに隷属させた。呉元年に将作司を置き、卿は正三品、少卿は正四品、丞は正五品とした。左・右提挙司の提挙は正六品、同提挙は従六品、司程・典簿・副提挙は正七品とした。軍需庫の大使は従八品、副使は正九品とした。洪武元年、将作司を工部に隷属させた。六年、尚書・侍郎を各一人増員し、総部・虞部・水部並びに屯田の四属部を設けた。総部には郎中・員外郎を各二人、その他は各一人置いた。総部の主事は八人、その他は各四人とした。また営造提挙司を置いた。洪武六年、将作司を正六品に改め、所属の提挙司を正七品に改めた。まもなく営造提挙司及び営造提挙分司を更に置き、毎司に正提挙一人、副提挙二人を設け、将作司に隷属させた。八年、四科を増立し、科ごとに尚書・侍郎・郎中を各一人、員外郎二人、主事五人、照磨二人を設けた。十年、将作司を廃した。十三年に官制を定め、尚書一人、侍郎一人、四属部を設け、屯田部を屯部とし、各郎中・員外郎一人、主事二人とした。十五年、侍郎を一人増員した。二十二年、総部を営部に改めた。二十五年、営繕所を置いた。将作司を営繕所に改め、秩は正七品とし、所正・所副・所丞を各二人設け、諸匠の精芸なる者をこれに充てた。二十九年、また四属部を営繕・虞衡・都水・屯田の四清吏司に改めた。嘉靖以後、尚書一人を添設し、大工を専ら督めさせた。

提督易州山廠一人は、御用の柴炭の事を督掌する。明初、沿江の芦洲並びに龍江・瓦屑の二場にて、柴炭を取用した。永楽年間、都を北に遷すと、白羊口・黄花鎮・紅螺山等の処で採辦した。宣徳四年に初めて易州山廠を設け、専官を以て総理させた。景泰年間、平山に移し、また満城に移し、相継いで本部の尚書或いは侍郎が廠事を督めた。天順元年、なお易州に移した。嘉靖八年に罷革し、主事を設けて管理させた。