明史

志第四十六 選挙二

科目は、唐・宋の旧制に沿いながら、その士子を試す法をやや変え、専ら四子の書および『易』『書』『詩』『春秋』『礼記』の五経を命題として士子を試す。これは太祖と劉基の定めしところなり。その文体はおおよそ宋の経義を模すが、古人の語氣を代えてこれを作り、体は排偶を用い、これを八股と謂い、通じて制義と謂う。三年ごとの大比に、諸生を直省で試みるを、郷試と曰う。中式する者を挙人とす。次年、挙人を京師で試みるを、会試と曰う。中式する者を、天子親しく廷で策問す、これを廷試と曰い、また殿試とも曰う。一甲・二甲・三甲に分けて名第の次第とす。一甲はただ三人に止まり、状元・榜眼・探花と曰い、進士及第を賜う。二甲若干人、進士出身を賜う。三甲若干人、同進士出身を賜う。状元・榜眼・探花の名は、制度の定めしところなり。而して士大夫はまた通じて郷試第一を解元とし、会試第一を会元とし、二・三甲第一を伝臚と謂うなり。子・午・卯・酉の年は郷試、辰・戌・丑・未の年は会試なり。郷試は八月に、会試は二月に行い、皆初九日を第一場とし、また三日を第二場とし、また三日を第三場とす。初め科挙を設けし時は、初場に経義二道、『四書』義一道を試み、二場に論一道、三場に策一道を試みたり。中式後十日、また騎・射・書・算・律の五事を以てこれを試みたり。後に科挙定式を頒ち、初場に『四書』義三道、経義四道を試む。『四書』は朱子の『集註』を主とし、『易』は程氏の『伝』・朱子の『本義』を主とし、『書』は蔡氏伝及び古註疏を主とし、『詩』は朱子の『集伝』を主とし、『春秋』は左氏・公羊・穀梁の三伝及び胡安国・張洽の伝を主とし、『礼記』は古註疏を主とす。永楽年間、『四書五経大全』を頒ち、註疏を用いず。その後、『春秋』もまた張洽伝を用いず、『礼記』はただ陳澔の『集説』を用いるに止まる。二場に論一道、判五道、詔・誥・表・内科一道を試む。三場に経史時務策五道を試む。

廷試は、三月朔日に行う。郷試は、直隷は京府にて、各省は布政司にて行う。会試は、礼部にて行う。主考は、郷試・会試ともに二人。同考は、郷試四人、会試八人。提調一人、内にあっては京官、外にあっては布政司官。会試には、礼部官監試二人、内にあっては御史、外にあっては按察司官。会試には、御史が供給・収掌試巻を掌る。弥封・謄録・対読・受巻及び巡綽監門、捜検懐挟には、皆定員有り、各々その事を執る。挙子は、則ち国子生及び府・州・県学の生員で学成せる者、儒士で未だ仕えざる者、官で未入流の者、皆由り有司が性資敦厚・文行可称なる者を申挙してこれに応ず。その学校の訓導で専ら生徒を教うる者、及び罷閑の官吏、倡優の家、父母の喪に居る者は、俱に入試を許さず。試巻の首に、三代の姓名及びその籍貫・年甲、習うところの本経を書き、所司の印記を押す。試日に入場し、講問・代冒は禁ず。晩くして未だ巻を納めざる者には、燭三枝を与う。文字中には御名・廟号を回避し、及び自ら門第を序するを許さず。弥封して編号し三合字を作る。考試する者は墨を用い、これを墨巻と謂う。謄録は朱を用い、これを朱巻と謂う。士子を試すところを、貢院と謂う。諸生の席舎を、号房と謂う。人ごとに一軍これを守り、これを号軍と謂う。試官が院に入れば、輒ち内外の門戸を封鑰す。外に在る提調・監試等を外簾官と謂い、内に在る主考・同考を内簾官と謂う。廷試には翰林及び朝臣の文学優なる者を用い、読巻官と為す。共に対策を閲し、名次を擬定し、臨軒を候う。或いは擬定の如くし、或いは更定する所有り、制を伝えて第を唱う。状元は修撰を授け、榜眼・探花は編修を授く。二・三甲で庶起士に考選せらるる者は、皆翰林官と為す。その他は或いは給事・御史・主事・中書・行人・評事・太常・国子博士を授け、或いは府推官・知州・知県等の官を授く。挙人・貢生で第せず、監に入りて選ばるる者は、或いは小京職を授け、或いは府佐及び州県の正官を授け、或いは教職を授く。これ明一代の士を取る大略なり。明の世を終わるまで、文を右とし武を左とす。然れども亦た嘗て武科を設けてこれを収めしこと有り、附列すべし。

初めに、太祖が挙兵した時、まず賢才を網羅した。呉元年に文武二科の士を取る法令を設け、役人に命じて民間の秀才や智勇の士を勧誘し、時を以て学問に励み、科挙を開く年を待って、京師に貢士として送らせた。洪武三年、詔して曰く、「漢・唐及び宋は、士を取るにそれぞれ定まった制度があったが、ただ文学を貴び、徳と技芸の全きを求めなかった。前元は士を非常に優遇したが、権豪勢要の家はしばしば奔走競争する者を受け入れ、縁故を頼って阿附し、すぐに官禄を盗んだ。材能を抱き道を懐く者は、彼らと並んで進むことを恥じ、甘んじて山林に隠れて出なかった。風俗の弊、ここに至る。今年八月より始め、特に科挙を設け、必ず経書に明るく行い修まり、古今に博通し、名実相応する者を取る。朕は廷上で親しく策問し、その高下を次第づけて官に任じよう。中外の文臣を皆科挙によって進め、科挙でない者は官に与えてはならない。」そこで京師と行省それぞれで郷試を行い、直隷の貢額は百人、河南・山東・山西・陝西・北平・福建・江西・浙江・湖広は皆四十人、広西・広東は皆二十五人とし、才が多いかあるいは及ばない場合は、額数に拘らなかった。高麗・安南・占城には、詔してその国の士子が本国で郷試を行い、京師に貢進することを許した。翌年会試を行い、百二十名を合格させた。帝は親しく策問を作り、奉天殿で試験し、呉伯宗を第一に抜擢した。午門外に黄榜を掲げ、奉天殿で宣諭し、中書省で宴を賜った。伯宗を礼部員外郎に任じ、その他は順次に官を授け差等があった。時に天下が初めて平定したため、各行省に三年連続して試験を行わせ、また官に欠員が多いため、挙人は皆会試を免除し、京師に赴いて選任を待たせた。また年少で俊異なる者張唯・王輝らを翰林院編修に抜擢し、蕭韶を秘書監直長とし、禁中の文華堂に入って学業に従事させ、太子賛善大夫宋濂らをその師とした。帝は政務の暇に、しばしば堂に臨み、その文章の優劣を評し、日に光禄寺の酒食を給した。毎食、皇太子・親王が代わる代わる主人となり、白金・弓矢・鞍馬及び冬夏の衣を賜い、寵遇は甚だ厚かった。既にして取った者が多くは後生の少年で、学んだことを諸般の行事に措くことができる者が少ないと謂い、ただ役人に賢才を察挙させ、科挙を廃して用いなかった。十五年に至り、再び設けた。十七年に初めて科挙の様式を定め、礼部に命じて各省に頒行し、後に遂に永制とし、薦挙は次第に軽んじられ、久しくして廃れて用いられなくなった。十八年、廷試を行い、一甲進士丁顕らを翰林院修撰に、二甲馬京らを編修に、呉文を検討に抜擢した。進士が翰林に入るのは、ここに始まる。進士に諸司で政務を見習わせ、翰林・承勅監等の衙門にある者を庶起士と曰う。進士が庶起士となるのも、またここに始まる。六部・都察院・通政司・大理寺等の衙門にある者は仍って進士と称し、観政進士の名もまたここに始まる。その後、試験の定員に増減があり、条例に変更があり、考官に内外軽重があり、科挙の事に是非得失があった。その細かいことは論じず、国是に関わるものは述べないわけにはいかない。

郷試の定員は、洪武十七年に詔して額数に拘らず、実情に従って充貢させた。洪熙元年に初めて定額があった。その後次第に増加した。正統年間に至り、南北直隷は百名と定め、江西は六十五名、他の省はまた五から減じ、雲南の二十名が最も少なかった。嘉靖年間、四十に増え、貴州も二十名となった。慶暦・啓禎年間、両直隷は益々増えて百三十余名に至り、他の省は次第に増えたが、百名を出すものはなかった。交阯は初め開かれて十名を定員とし、その地を棄てるに至って止んだ。会試の定員は、国初には定まらず、少ない時は三十二人、多い時は、洪武乙丑・永楽丙戌の如きは四百七十二人に至った。その後は百名、あるいは二百名、あるいは二百五十名、あるいは三百五十名と、増減一定せず、皆臨時に奏請して定奪した。成化乙未以後、概ね三百名を取り、題請や恩詔によって五十名あるいは百名を広げることもあったが、恒常の制度ではない。

初めの制度では、礼闈で士を取るに南北を分けなかった。洪武丁丑より、考官劉三吾・白信蹈の取った宋琮ら五十二人は、皆南方の士であった。三月、廷試を行い、陳䢿を第一に抜擢した。帝は取った者の偏りに怒り、侍読張信ら十二人に覆閲させ、䢿もまたこれに与った。帝は猶怒り止まず、信蹈及び張信・陳䢿らを悉く誅し、三吾を辺境に流し、親しく巻を閲し、任伯安ら六十一人を取った。六月再び廷試を行い、韓克忠を第一とした。皆北方の士であった。然しながら永楽年間に至るまで、嘗て地を分けて取ることはなかった。洪熙元年、仁宗が楊士奇らに命じて士を取る定額を定めさせ、南方人十六、北方人十四とした。宣徳・正統年間、南・北・中巻に分け、百人を率として、則ち南は五十五名を取り、北は三十五名を取り、中は十名を取った。景泰初年、詔書は永楽年間の例に従うと命じた。二年辛未、礼部が奉行しようとした時、給事中李侃がこれに争い、言うに「部臣は専ら文詞を以て、多く南方人を取ろうとしている。」と。刑部侍郎羅綺もまた侃の言を助けた。事は礼部に下り、覆奏して「臣らは詔書を奉じており、私的な請いではない。」とした。景帝は詔書に従うことを命じ、侃の議に従わなかった。間もなく、給事中徐廷章が再び正統年間の例に依ることを請うた。五年甲戌、会試に当たり、礼部が裁定を奏請したので、ここに再び廷章の言に従い、南・北・中巻に分けた。南巻は、応天及び蘇州・松江諸府、浙江・江西・福建・湖広・広東。北巻は、順天・山東・山西・河南・陝西。中巻は、四川・広西・雲南・貴州及び鳳陽・廬州二府、滁州・徐州・和州の三州である。成化二十二年、万安が国政を執り、周洪謨が礼部尚書であったが、皆四川の人であったので、布政使潘稹の請いにより、南北各二名を減らし、中に益した。弘治二年、旧制に復した。その後相沿って改めなかった。ただ正徳三年、給事中趙鐸が劉瑾の意を受けて、河南・陝西・山東・山西の郷試の定員を広げることを請うた。そこで陝西を百に増やし、河南を九十五に、山東・山西を共に九十とした。そして会試の南・北・中巻に分けることが不均等であるとして、四川の定員を十名増やして南巻に併入し、その他を北巻に併入し、南北均しく百五十名を取った。蓋し劉瑾は陝西の人であり、閣臣焦芳は河南の人で、票旨して相附和し、各々その私に従ったのである。瑾・芳が敗れると、直ちに旧に復した。

初めの制度では、両京の郷試において、主考は皆翰林を用いた。しかし各省の考官は、予め儒官・儒士の中から明経で公正な者を招聘してこれに充てたので、朝列に在らずして累次文衡を執った者もあった。景泰三年、布政司・按察司の二司が巡按御史と共に、現任の教官で年齢五十以下・三十以上、文学に優れ廉潔謹直な者を推挙し、招聘して考官に充てることを命じた。ここに教官が主試を務めることが、遂に定例となった。その後、有司が私情に従い、招聘する者が適任でないこともあり、監臨官もまた往々にしてその職掌を侵奪した。成化十五年、御史許進が各省とも両京の例に倣い、特に翰林を主考に命ずるよう請うた。帝は礼部に私弊を厳しく戒めるよう諭したが、その請いには従わなかった。外簾官が主考の権限を奪わぬよう屡々戒め、考官が不適当な場合は挙主も連坐させた。また提学に教官の等級を考定させ、招聘に備えさせた。しかし相沿すること既に久しく、積習は改め難かった。弘治十四年、国子監を掌る謝鐸が言うには、「考官は皆御史や方面官が辟召した者で、職分が既に卑しく、その指使に従い、外簾官が予め去取を定め、防閑と名づけてはいるが、実は関節であり、科挙の法は壊れてしまった。両京の大臣に命じ、各部所属などの官で平素より文望のある者を各々挙げさせ、各省ごとに二名を派遣して主考とさせれば、おそらく前の弊害は革められよう。」時にこれに従うことはできなかった。嘉靖七年、兵部侍郎張璁の言を用い、各省の主試には皆京官あるいは進士を派遣し、各省ごとに二人を馳せ往かせた。初め、両京の房考もまた皆教職を取っていたが、この時に至り各々科部官を一名加えることを命じ、二科を閲した後、両京の房考については再び科部官の派遣を止め、また各省の主考にも京官を派遣しなくなった。万暦十一年に至り、詔して科場の事宜を定めた。部議は再び張璁の説を挙げ、「あの時は主考と監臨官の礼節上の些細な不和の故に、二科のみ行って止めたのであり、今は仍た廷臣を派遣すべきである。」と言った。ここにより浙江・江西・福建・湖広は皆編修・検討を用い、他の省は科部官を用い、また同考も多くは甲科を用い、教職は僅かに一二名を取るのみとなった。蓋し嘉靖二十五年に給事中万虞愷の言に従い、各省の郷試では精選して教官を招聘し、不足すれば外省の推官・知県を招聘して補ったからである。四十三年、また南京御史の奏に従い、両京の同考には京官進士を用い、『易経』・『詩経』・『書経』は各二人、『春秋』・『礼記』は各一人とし、その余は教官を参用した。万暦四年、再び両京の同考について、教官で衰老者は遣り返し、北京では観政進士・候補甲科から充足し、南京では附近の知県・推官から取って用いることを議した。ここに至り教官は益々不足した。

初めの制度では、会試の同考は八人で、三人は翰林を用い、五人は教職を用いた。景泰五年、礼部尚書胡濙の請いに従い、皆翰林・部曹を用いた。その後、房考は漸次増加した。正徳六年に至り、十七人を用いることを命じ、翰林十一人、科部各三人とした。『詩経』房五、『易経』・『書経』各四、『春秋』・『礼記』各二に分けた。嘉靖十一年、礼部尚書夏言が科場の三事を論じ、その一つに会試同考は例え講読十一人を用いるが、今講読は僅か十一人で、皆入場させて初めて事に供するに足りると言った。部科から再び三四人を選び、翰林の不足の数を補うよう請うた。世宗は請いの如く命じた。しかし偶々これを一度行い、やがて旧の如くに戻った。万暦十一年、『易経』の巻数が多いため、『書経』の一つを減らして『易経』に増やした。十四年、『書経』の巻数が再び多くなったので、翰林一人を増やして『書経』の欠を補った。四十四年に至り、給事中余懋孳の奏を用い、『詩経』・『易経』に各一房を増やし、合わせて二十房とし、翰林十二人、科部各四人とし、明末まで変わらなかった。

洪武の初め、諸進士に宴を賜うこと中書省に於て行った。宣徳五年、中軍都督ととく府に於て宴を賜った。八年、礼部に於て宴を賜い、ここより遂に令として定着した。

庶起士の選抜は、洪武乙丑年に進士を選んでこれに充てたことに始まり、専ら翰林に属するものではなかった。永楽二年、一甲の三人曾棨・周述・周孟簡等に官を授けた後、再び第二甲から文学優等の楊相等五十人及び善書の湯流等十人を選び、皆翰林院庶起士とし、庶起士は遂に専ら翰林に属することとなった。再び学士解縉等に才資英敏なる者を選ばせ、文淵閣に就学させた。縉等は修撰棨、編修述・孟簡、庶起士相等合わせて二十八人を選び、二十八宿の数に応じた。庶起士周忱が自ら少年ながら学を願うと陳じた。帝は喜んでこれを許し、忱を増やして二十九人とした。司礼監は月ごとに筆墨紙を給し、光禄寺は朝夕の饌を給し、礼部は月ごとに膏燭鈔を給し、人ごとに三錠とし、工部は近くの第宅を選んで住まわせた。帝は時に館に至り召し出して試した。五日に一度休沐するごとに、必ず内臣を行に随わせ、且つ校尉こうい騶従を給した。この年に選ばれた王英・王直・段民・周忱・陳敬宗・李時勉等、後世に名を伝える者は、十余人に下らなかった。その後、毎科の選ぶところは、多寡定額無し。永楽十三年乙未科では六十二人を選んだが、宣徳二年丁未科では邢恭一人のみで、彼が翰林院で四夷訳書を習うこと久しく、他の者は皆参与できなかったからである。弘治四年、給事中塗旦が累科にわたり庶起士を選ばないことを以て、祖制に循って行うよう請うた。大学士徐溥が言うには、「永楽二年以来、或いは間科に一選し、或いは連科に屡選し、或いは数科選ばず、或いは三科を合わせて同選し、初め定限無し。或いは内閣自ら選び、或いは礼部が選送し、或いは礼部と会して同選し、或いは年歳を限り、或いは地方に拘り、或いは誉望を採り、或いは廷試の巻中から査取し、或いは別に出題して考試し、亦た定制無し。古より帝王は館閣に才を儲えて教養す。本朝が儲養する所以は、及第進士の外、ただ庶起士の一途のみありて、而も或いは選び或いは選ばず。且つ才ある者必ずしも皆選ばれず、選ぶところの者必ずしも皆才ならず、若し更に地方・年歳に拘らば、則ち是れ既成の才また多く棄てて用いざるなり。請う、今より以後、定制を立て、一次開科すれば、一次選用せん。新進士に平日に作れる論・策・詩・賦・序・記等の文字を録させ、十五篇以上を限り、之を礼部に呈し、翰林に送り考訂せしむ。少年に新作五篇あれば、亦た投試を翰林院に許す。其の詞藻文理取りるべき者を択び、号に按じて行取す。礼部は糊名の試巻を以て、閣臣と偕に東閣に於て出題考試し、試巻と投ずる所の文と相称すれば、即ち預選に収む。毎科の選ぶところ二十人を過ぎず、毎選の留むるところ三五輩を過ぎず、将来の成就必ず頼むに足る者あらん。」孝宗は其の請いに従い、内閣に吏・礼二部と共に考選させて常例とさせた。嘉靖癸未科より万暦庚辰科に至るまで、中間に九科選ばざることあり。神宗は常に間科に一選することを命じた。礼部侍郎呉道南はこれに反対した。崇禎甲戌・丁丑科、復た選ばず、余は悉く例に遵った。其の選に与かる者を、館選と謂う。翰・詹の官で高資深なる者一人を以て之を課し、教習と謂う。三年学成し、優なる者は翰林に留まり編修・検討と為し、次ぐ者は出でて給事・御史と為し、散館と謂う。常調の官で待選する者と、体格殊に異なる。

成祖の初年、内閣七人のうち、翰林でない者がその半数を占めた。翰林の編纂官も、諸色の者を参用した。天順二年より、李賢が編纂官は専ら進士より選ぶよう奏上して定めて以来、進士でなければ翰林に入らず、翰林でなければ内閣に入らず、南・北両礼部尚書・侍郎および吏部右侍郎は、翰林でなければ任じられなくなった。そして庶起士が初めて登用される時、すでに群衆はこれを儲相と目した。明一代を通じて宰輔は百七十余人、そのうち翰林出身は九割であった。およそ科挙は前代より盛んであり、翰林の盛況は、前代に全く見られなかったものである。

輔臣の子弟は、国初には登第する者が少なかった。景泰七年、陳循と王文はその子が北闈で落第したため、主考官劉儼を激しく攻撃し、台省は騒然としてその過失を論じた。帝は二人の意に従い、その子を一様に会試に参加させるよう命じたが、内心では軽蔑した。正徳三年、焦芳の子黄中が会試に合格したが、芳は嫌疑を避けて読巻しなかった。しかし黄中は二甲の首位にあり、芳はなお満足せず、諸翰林を降格・転任させてその憤りを晴らした。六年、楊廷和の子慎が廷試で第一となったが、廷和もまた嫌疑を避けて読巻しなかった。慎は高才をもって及第し、人々はこれを非難しなかった。嘉靖二十三年の廷試で、翟鑾の子汝儉・汝孝がともに試験に在った。世宗は二人が首甲を濫用したのではないかと疑い、第一を第三に抑え、第三を三甲に置いた。及んで巻を開くと、擬せられた第三は果たして汝孝であったので、帝は大いに疑った。給事中王交・王堯日が会試考官少詹事江汝璧および諸房考が私をはかり賄賂を通じたと弾劾し、さらに順天郷試考官秦鳴夏・浦応麒が鑾に阿附した罪を追及したため、汝璧らを鎮撫司の獄に下した。獄が決し、詔して汝璧・鳴夏・応麒を杖ち、ともに職を革して閑住とし、鑾父子を庶民に落とした。神宗の初め、張居正が国政を執った。二年甲戌、その子が礼闈で落第し、居正は喜ばず、ついに庶起士を選ばなかった。五年に至り、その子嗣修は一甲第二人で及第した。八年に至り、その子懋修は一甲第一人で及第した。そして次輔の呂調陽・張四維・申時行の子も、皆先後に進士となった。御史魏允貞が時弊を上疏して陳べ、輔臣の子は中式すべきでないと言った。帝は允貞を左遷した。十六年、右庶子黄洪憲が順天試を主考し、王錫爵の子衡が榜首となった。礼部郎中高桂が挙人李鴻らを論劾し、衡にも及び、「故相の子が一時に並び進み、大臣の子は遂に天下に信ぜられざる者無し。今輔臣錫爵の子衡は、平素多才と号し、青雲も自ら致すは難からず、しかるに人なお疑信半ばする。宜しく一様に覆試し、以て大臣の心跡を明らかにすべし」と言った。錫爵は大いに怒り、奏上して弁明し、言葉は過激であった。刑部主事饒伸がまた抗疏してこれを論じた。帝は桂を外任に左遷し、伸を獄に下し、その官を削った。弾劾された挙人の覆試は、なお衡を第一とし、かつ一人も罷免する者はなかった。二十年会試、李鴻が中式した。鴻は大学士申時行の婿である。榜が発せられんとする時、房考給事中某がこれを留め、宰相の婿は当たるべきでないと言った。主考官張位が十八房考に公に閲させると、皆文字は取るべきと言い、給事中はなお不可と主張した。位は怒って曰く、「試験は文字に拠らずして、何を以て衷を取らんや。我れ職を請うてその咎を負わん」と。鴻はかくて収録された。王衡は既に論ぜられ、錫爵の在位中は、再び礼闈を試みなかった。二十九年に至って一甲第二人で及第した。その後、輔臣が国政を執っても、その子も登第する者は無くなった。

科場の弊竇は既に多く、議論は頻繁であった。太祖が劉三吾らを重罪に処して以来、永楽・宣徳の間は大抵は服従した。陳循・王文が劉儼を齮齕した時も、高穀がこれを支え、儼も無事であった。弘治十二年会試、大学士李東陽・少詹事程敏政が考官となった。給事中華昶が敏政が挙人唐寅・徐泰に題を売ったと弾劾し、東陽に独り文字を閲させた。給事中林廷玉がまた敏政の疑わしきこと六事を攻撃した。敏政は官を左遷され、寅・泰はともに譴責を受けた。寅は江左の才士で、戊午の南闈第一であり、論者は多くこれを惜しんだ。嘉靖十六年、礼部尚書厳嵩が応天・広東の試録の語句を連続して摘発し、世宗の怒りを激しくした。応天主考および広東巡按御史はともに逮捕尋問された。二十二年、帝が山東試録を手ずから批して譏訕とし、御史葉経を逮捕して闕下で杖死させ、布政使以下は皆遠方に左遷したが、これも嵩が中傷したのである。四十年、応天主考中允無錫の呉情が同邑の者十三人を取ったため弾劾され、副考の胡傑とともに外任に左遷された。南畿の翰林は遂に応天試を典することができなくなった。万暦四年、順天主考高汝愚が張居正の子嗣修・懋修、および居正の党吏部侍郎王篆の子之衡・之鼎を合格させた。居正が死んだ後、御史丁此呂がその弊を追及して論じ、かつ「汝愚は『舜も亦た以て禹に命ず』を試題とし、殆どは禅譲を以て居正に阿ったのであろう」と言った。国政を執る者は此呂を憎み、外任に左遷したが、議者は多く汝愚を正しとしなかった。三十八年会試、庶子湯賓尹が同考官となり、各房と互いに闈巻を交換し、合わせて十八人であった。明年、御史孫居相が賓尹が韓敬に私したと弾劾し、その交換は皆敬のためであると言った。時に吏部がまさに考察を行い、尚書孫丕揚は賓尹・敬を察典に置いた。敬は頗る文名があり、衆もまた敬を惜しんだが、その宣党であることを以て、斥くべきであると言った。四十四年会試、呉江の沈同和が第一、同里の趙鳴陽が第六となった。同和は平素文を能くせず、文は多く鳴陽の手によるもので、事が発覚し、二人ともに戍辺に左遷された。天啓四年、山東・江西・湖広・福建の考官は、皆策問が譏刺であるとして、降諭して厳しく責めた。初めは貶調を命じたが、やがて褫革し、江西主考丁乾学は獄に下して罪を擬するに至った。蓋し魏忠賢の怒りに触れたのである。先に二年辛酉、中允銭謙益が浙江の典試を務め、取った挙人銭千秋の巻の七篇大結に、関節に係わる形跡があった。榜後に人に告発され、謙益は自ら検挙し、千秋は戍辺に左遷された。間もなく赦されて還った。崇禎二年の会推閣臣に、謙益は礼部侍郎としてこれに与り、尚書温体仁は与らなかった。体仁は千秋の事を摘発し、上疏して謙益を攻撃した。謙益はこれにより罷免され、遂に明の世を終えるまで再び起用されなかった。その他科場の事を指摘する者は、前後一つではなく、往々にして北闈が甚だしく、他省はこれに次いだ。賄賂で買い鑽営し、懐挟・倩代し、巻を割き伝遞し、名を頂き冒籍するなど、弊害百出で、窮め尽くすことができず、関節が最も甚だしかった。事は曖昧に属し、あるいは恩讐を晴らし報復するものも、蓋しまた有った。その他の小さな得失は、言うに足りない。

暦科の事蹟でやや異なるもの:永楽初年、兵革倉卒のため、元年癸未、始めて各省に郷試を行わせた。二年甲申の会試は、事変のため午未の旧例に従わなかった。七年己丑の会試では、陳燧ら九十五人を合格させた。成祖は北征中であり、皇太子は国子監に送って進学させ、車駕が京に還ってから廷試を行うよう命じた。九年辛卯、始めて蕭時中を第一に抜擢した。宣徳五年庚戌、帝は臨軒して策問を発した後、武英殿に退き、翰林の儒臣に言った。「士を取るに虚文を尚ばず、劉蕡・蘇轍のごとき直言抗論の者あらば、朕は必ず顕用しよう。」そこで『策士歌』を賦して読巻官に示したが、抜擢した第一の林震も特に表立った事績はなかった。八年癸丑、廷試第一の曹鼐は、江西泰和の典史から会試に合格した者である。正統七年壬戌、刑部の吏である南昱、公陵の駅丞である鄭温も皆合格した。十年乙丑、会試・廷試ともに第一は商輅であった。輅は淳安の人で、宣宗末年の乙卯、浙江郷試の第一人者であった。三試すべて第一となり、士子は羨んで三元と称したが、明代で輅ただ一人のみである。廷試の読巻はすべて甲科の者を用いるのが例であったが、この年は兵部尚書徐晞、十三年には戸部侍郎余亨が吏員出身であり、天順元年丁丑の読巻官左都御史楊善は訳字生であった。当時はまだ流品に拘ることが甚だしくなかったのである。その後、雑流が会試に合格したり読巻官となったりすることはなくなった。七年癸未の試験当日、試場が火災に遭い、死者九十余人、皆に進士出身を追贈し、会試を八月に改期した。翌年甲申三月、ようやく廷試を行った。時に英宗は既に崩御しており、憲宗は大喪が一年を経ていないため、西角門で策問を行った。正徳三年戊辰、太監劉瑾が五十人の姓名を録して主司に示し、それにより五十名の定員を増やした。十五年庚辰、武宗が南巡したため、廷試に及ばなかった。翌年、世宗が即位し、五月に西角門で策問を行い、楊維聡を第一に抜擢した。そして張璁はこの榜の進士であるが、六七年の間に国政を執り権勢は人主に並んだ。嘉靖八年己丑、帝は自ら廷試の答案を閲覧し、一甲の羅洪先・楊名・欧陽徳、二甲の唐順之・陳束・任瀚の六人の対策に手ずから評語を加えて褒賞した。大学士楊一清らはそこで順之・束・瀚および胡経ら合わせて二十人を庶吉士に選び、その名を疏に記して上奏し、官を命じて教習させるよう請うた。突然、上諭が下った。「庶吉士の選抜は、祖宗の旧制で確かに善いものである。近頃大臣が私情に従って選び取り、恩を売って党を立て、国に益するところがない。今後は選んで留める必要はない。唐順之らはすべて除授せよ。吏部・礼部および翰林院が会議して上奏せよ。」尚書方献夫らはそこで意を迎えて順之らを留める必要はないと述べ、併せて翰林の員数を制限し、侍読・侍講・修撰は各三員、編修・検討は各六員と定めた。これを令として定めた。蓋し順之らは張璁・霍韜の門下であったが、心の中では大礼の議を非とし、趨附しようとせず、璁は心の中で彼らを憎んでいた。璁はまた丁度楊一清を陥れようとしていたので、立党の説を進言し、この故事はここに廃された。十一年壬辰に至り、既に館選は廃されていたが、九月に再びこれを行った。十四年乙未、帝は自ら策問を作り、手ずから批閲し、韓応龍を第一に抜擢した。上諭を下して一甲三人および二甲第一名の前後の理由を論じた。礼部はこれにより聖諭を登科録の冒頭に掲げ、十二人の対策はすべて順に刊刻された。二十年辛丑、庶吉士考選の題は、文が『原政』、詩が『読大明律』で、いずれも欽定で下されたものであった。四十四年乙丑の廷試、帝は初めて殿に臨まなかった。神宗の時には、殿に臨むことは益々稀となった。天啓二年壬戌の会試、大学士何宗彦・朱国祚を主考に命じた。故事では、閣臣が典試し、翰林・詹事の一人が副となる。時に既に礼部尚書顧秉謙が推されていたが、特旨をもって国祚を命じた。国祚が上疏して辞したが、帝は言った。「今年は朕の首科である。特に二輔臣を用いて重典を光栄あるものとしたい。卿は辞する必要はない。」その後、二輔臣が典試するのが常例となった。この年、宗科を開き、朱慎鷸が進士となり、宗彦・国祚の請いに従い、即座に中書舎人を授けた。崇禎四年、朱統飾が進士となり、初め庶吉士に選ばれた。吏部は統飾が宗室であるため、禁近の官にふさわしくないとし、中書舎人に改めるよう請うた。統飾が上疏して争い、命により依然として庶吉士を授けられた。七年甲戌、知貢挙の礼部侍郎林釺が言うには、挙人顔茂猷の文は『五経』を兼ね、二十三の義を作った。帝はその該博さを思い、内簾に送ることを許した。茂猷は副榜に合格したが、特賜で進士とし、その名を別に一行とし、試録の第一名の前に刻んだ。『五経』で合格する者は、これ以後続出した。

武科は、呉元年に定められた。洪武二十年、礼部の請いに従い、武学を立て、武挙を用いた。武臣の子弟は各直省で応試させた。天順八年、天下の文武官に兵法に通暁し、謀勇衆に優れる者を挙げるよう命じ、各省の巡撫・巡按・三司、直隸の巡按御史が試験を行った。合格した者は、兵部が総兵官とともに帥府で策略を試し、教場で弓馬を試した。策問二道に答え、騎射で四矢、歩射で二矢以上命中した者を合格とした。騎射・歩射の命中がその半分の者は次点とした。成化十四年、太監汪直の請いに従い、武科の郷試・会試を設け、すべて文科の例に準じた。弘治六年、武挙は六年に一度行い、先に策略、後に弓馬と定めた。策に合格しない者は騎射を許さなかった。十七年、三年に一度の試験に改定し、榜を出して宴を賜った。正徳十四年に定め、初場は馬上の箭を試し、三十五歩を則とし、二場は歩下の箭を試し、八十歩を則とし、三場は策一道を試した。子・午・卯・酉の年に郷試を行った。嘉靖初年、定制として、各省で武挙に応じる者は、巡按御史が十月に試験し、両京の武学は兵部が選抜し、ともに兵部に送った。翌年四月に会試し、翰林二員を考試官とし、給事中・部曹四員を同考官とした。郷試・会試の場期はともに月の九日・十二日・十五日とした。起送・考験・監試・張榜は、大略文闈に倣いながらも簡略化した。その後、廃止と復活を繰り返した。また文闈の南北巻の例に倣い、辺方と腹裏に分けた。毎十名につき、辺六腹四を常例とした。万暦三十八年、会試の定員を定め、進士を取ることを百名を基準とした。その後、詔により三十名を増やしたこともあるが、常制ではない。穆宗・神宗の二朝の時、議者は武科は技勇を重んずべきと嘗て言った。万暦の末、科臣がまた特に将材武科を設けるよう請うた。初場は馬歩箭および槍・刀・剣・戟・拳搏・撃刺等の法を試し、二場は営陣・地雷・火薬・戦車等の項目を試し、三場は各々その兵法・天文・地理について熟知することを述べさせるというものであった。許可されたが実行されなかった。崇禎四年、武会試の榜が発せられると、論者は大いに騒いだ。帝は中允の方逢年・倪元璐に再試を命じ、翁英ら百二十人を取った。逢年・元璐は時まさに人材を必要としているとして、殿試伝臚を行うよう奏請し、すべて文例のごとくにした。そこで王来聘らに及第・出身を差等をつけて賜った。武挙の殿試はここに始まった。十四年、各部臣に諭して特に奇謀異勇科を開くよう命じた。詔が下ったが、応じる者はなかった。