明史

列傳第一百四十四 崔景榮 黃克纘 畢自嚴 李長庚 劉之鳳

○崔景榮 黃克纘 畢自嚴 李長庚(王志道) 劉之鳳

崔景榮、字は自強、長垣の人。萬曆十一年の進士。平陽府推官に任ぜられる。御史に抜擢され、東廠太監張鯨の罪を弾劾した。甘肅・湖広・河南を巡按し、最後に四川を按じ、御史臺の資歴を十八年積んだ。

播州の乱に際し、景榮は大帥劉綎・呉広らの軍を監した。劉綎が金帛を馳せて景榮の家に至り、その父の寿としたので、景榮は上疏してこれを弾劾した。播州平定後、或る者が播北を安氏に与えるよう請うたが、景榮は認めなかった。時に総督李化龍が憂いで去り、景榮はしょくの一年の租を免除し、上東五路を恤れみ、鉱使を罷めるよう請うた。化龍が監軍の功を疏で述べたが、景榮には及ばなかった。後に太僕少卿に進んだ。

三年満ちて、右僉都御史に抜擢され、寧夏を巡撫した。銀定は平素驕慢で、毎年侵入して掠奪した。景榮は自ら督戦してこれを破り、賊を導く諸部への賞与を廃止することを議したので、諸部は恐れて銀定と絶つことを請うた。銀定は導きを失うと、また関を叩いて互市を求めた。寧夏の毎年の互市費用は莫大であったが、景榮はこれを減らすことを議した。在任三年、僅か一度の互市に過ぎなかった。その後、延鎮の吉能らが和議を挟んで互市の補充を求めたが、ついに許さず、毎年十数万の金銭を節減した。

四十一年、召されて兵部右侍郎となり、京営戎政を総べた。吏部に改められたが、病を理由に辞して去った。一年余りして、宣府大同総督に起用された。召還されて兵部尚書に進んだ。時に遼・瀋が失陥し、熊廷弼・王化貞の意見が合わず、廷臣に経略・巡撫の去留を議させたが、景榮はしばしば言官に論ぜられた。御史方震孺が景榮を罷免し、孫承宗を代えるよう請うた。そこで病を理由に帰郷した。

天啓四年十一月、特に吏部尚書として起用された。この時、魏忠賢が国柄を盗み、群小が互いに倚り附き、尚書趙南星を逐った。家から景榮を起用し、助けとしようとした。到着すると、忠賢は大邸宅を飾って待ったが、景榮は赴かなかった。錦衣帥田爾耕が来謁したが、また辞して会わなかった。帝が太学に幸すると、忠賢は前日に祭酒の講義を聴こうとし、諸大臣の聴講に賜坐賜茶の礼を裁減することを議し、また考選の員額を減らし、京堂添註官を淘汰することを議した。景榮はいずれも強く行わせず、次第に忠賢の意に逆らった。また魏広微に書を移し、楊漣・左光斗を申し救うよう勧めた。広微は已むなく、その旨の掲示を整えた。やがて景榮の書が証拠とされ、「景榮が私を教えたのだ」と言われた。ここにおいて御史倪文煥・門克新が相次いで景榮が東林を陰に庇い、奸邪に媚びて後福を邀うたと弾劾した。旨を得て、削奪され民とされた。崇禎元年に改元し、原職に復した。四年に卒し、少保を贈られた。

黃克纘、字は紹夫、晉江の人。萬曆八年の進士。寿州知州に任ぜられ、召されて刑部員外郎となった。累官して山東左布政使に至り、そのまま右副都御史に遷り、その地を巡撫した。鉱税停止を請い、税使陳増・馬堂を論劾し、その他の善政も甚だ著しかった。屡々盗賊平定の功により、加官して兵部尚書に至った。四十年、詔により故官のまま南京機務に参贊するが、御史李若星・魏雲中に弾劾され、家に帰って命を待った。三年居て、ようやく任に就いた。四十四年冬、隆徳殿が災いし、上疏して時政を陳べ、言葉は極めて痛切であった。報いられなかった。

召されて京営戎政を理め、刑部尚書に改まり、両朝の顧命に預かった。李選侍が宮を移らんとする時、その内侍王永福・姚進忠ら八人が乾清宮の珠宝を盗んだ罪で官吏に下された。克纘は二人を死刑に擬し、残りは皆軽減した。帝は従わず、六人を死刑にし、残りを戍に遣わすよう命じた。克纘は言う、「姜升・鄭穩山・劉尚理は一物も持たず、劉遜は地上の珠を拾い、選侍に返したのに、永福・進忠と同様に戮されるのは、軽重の倫を失う。況んや選侍の篋中の物が、先朝の賜わったものでないとどうして知れようか」と。この時、諸宦官の罪は重く、脱する謀も無かったので、ただ帝に選侍を厚く遇するよう請うて、獄情を自ら緩めようとした。ここにおいて流言が四方に布き、帝が先朝の妃嬪を薄く遇すると言われ、克纘がまずその言葉に入った。帝は悦ばず、克纘が偏聴したと責め、前の旨の通りにするよう命じた。

後に、楊漣が「移宮」の始末を陳べた。帝は即ち廷臣に宣諭し、選侍が聖母を凌虐した様を詳しく述べた。かつ言う、「大小の臣工は、ただ私的に李党にし、朕が躬を責める」と。克纘は恐惶して上言した、「礼は父母を並びに尊ぶ。事が母を念う誠より出で、跡が或いは父の過ちを顕わすに渉るならば、必ず委曲周全し、渾然として跡無くす、これが大孝である。もし李を党庇し、聖躬を責めるというならば、臣は万死しても敢えて出でない」と。御史焦源溥がその持論の謬りを力駁し、末に言う、「群豎が資百万を持ち、選侍を安んずるを名として、妄りに罪を脱せんと希い、克纘はその術に堕ちて覚えず」と。克纘は奏して弁じ、よって罷免を乞うた。おおよそ言う、「源溥は神宗の時に元子の為にした者を忠とし、福藩の為にした者を忠ならずとする。臣は敢えてこれを広めて言う、神宗が既に先帝を保護し、大位を授けられたならば、神考の為にその貴妃を全うし、その愛子を富貴にすることは、尤も忠の大なる者である。また先帝の時に二后の為にした者を忠とし、選侍の為にした者を忠ならずとする。臣もまた広めて言う、聖母が既に名を正し位を定めたならば、刑於の令徳を光昭し、宮幃の忿争を虚伝せざることは、尤も忠の大なる者である。もし源溥の言う如くならば、必ず先帝はその始めを正し得ず、聖母はその終わりを正し得ず、然る後にこの獄を議すべきである」と。疏が入ると、帝は甚だ怒り、軽肆で忌憚なく、忠孝に諳んじないと責めた。克纘は恐惶して罪を引き、大学士劉一燝らも代わって言ったので、やっと止んだ。間もなく、給事中董承業・孫傑・毛士龍、御史潘雲翼・楊新期、南京御史王允成が並びに克纘が是非を舛謬すると弾劾した。克纘は服せず、かつて李三才を挙げなかったので、諸人に憎まれたと言った。源溥がまた克纘が三才を借りて言官を傾けようとしたと弾劾した。克纘は奏して弁じ、再び休致を乞うたが、帝は問わなかった。

天啓元年冬、太子太保を加えられた。まもなくまた兵部尚書として戎政を協理した。廷臣が「紅丸」を議すると、克纘は進薬の始末を述べ、力を尽くして方従哲を弁護した。給事中薛文周がその倫常を滅ぼし、私交に昵れ、大義を昧くすると誹謗した。克纘は憤り、《春秋》が隠公・閔公のしいを書かないことを援き、力を尽くして文周を誹謗し、かつ選侍に聖母を毆る事無きを明らかにした。給事中沈惟炳が文周を助けて再び克纘を弾劾した。先に、帝は百官に宣諭し、明らかに選侍が聖母を毆って崩じたと言った。惟炳の疏が上ると、旨を得て、「選侍は向こうから触忤があり、朕が一時に伝諭したのは、過激無きにしも非ず。皇考を追念すれば、豈に恝然とせんや」と。ここにおいて外議紛紜として、皆言う、前のこの上諭は悉く王安の矯托に出で、諸々選侍を安んずるを請う者は、益々これを藉りて言葉と為すに得たりと。蓋しこの時王安は既に死に、魏忠賢が方に柄を窃んでいたので、前後の諭旨がこのように牴牾したのである。

克纘は内外の官を歴任し、清強で執持があった。持議は「三案」を争う者と異なり、攻撃が紛然として起こった。ここより群小は東林を排し、《要典》を創るに、率い克纘を首功と推した。時に東林が方に盛んであったので、克纘は病を理由に移った。詔して太子太傅を加え、伝車に乗って帰った。四年十二月、魏忠賢が東林を尽く逐い、克纘を工部尚書として召した。数ヶ月視事し、また病を理由に移って帰った。三殿が完成し、太子太師を加えられた。崇禎元年、南京吏部尚書として起用された。これを弾劾する者があり、就かず、家に卒した。

畢自嚴、字は景曾、淄川の人。萬曆二十年の進士。松江推官に任じられる。年少にして才幹あり、召されて刑部主事を授かる。工部員外郎・郎中を歴任し、淮徐道参議に遷る。母の喪に服し喪明け、冀寧の分守となる。河東副使に改められ、病を理由に辞職する。起用されて洮岷兵備参政となる。按察使として榆林西路の治めに移り、右布政使に進む。泰昌の時、召されて太僕卿となる。

天啓元年四月、遼陽が陥落する。朝廷の議論で天津巡撫を設置し、専ら海防を整備することとし、自嚴を右僉都御史に改めてこれに派遣する。水軍を置き、戦艦を修繕し、兵器を備える。熊廷弼が三方布置の策を立てると、天津はその一つに位置し、鎮海などの諸営を増設し、戚継光の遺法を用い、水軍は先ず陸戦を習熟させ、軍はこれによって用いるに足るものとなる。魏忠賢が錦衣千戸劉僑に天津の廃将を逮捕させようとすると、自嚴は駕帖がないことを理由に上疏してこれを論じ、聞き入れられる。四方から募集した兵士が日々逃亡するので、自嚴の建言を用い、その親族を徴発して兵士の欠員を補う。兵部主事来斯行は武略あり、自嚴は監軍とするよう請う。山東で白蓮教の妖賊が蜂起すると、斯行に五千人を率いて行かせ、功績多く。

初め、萬曆四十六年、遼左で戦争が起こり、登州・萊州からの海運を実施することが議論される。翌年二月、特に戸部侍郎一人を設け、右僉都御史を兼ね、出向して遼東の兵糧を監督することとし、詳細は『李長庚伝』にある。この時、長庚が転任したので、自嚴に代わらせることを命じる。以前の賊平定の功績を論じ、右都御史兼戸部左侍郎に進める。当時、天津巡撫を廃止し、督餉侍郎にその職務を兼ねさせる議論があり、すなわち自嚴にこれを委ねる。また朝鮮討伐が議論されると、自嚴は急いで討つべきでなく、貢物を請い誠意を示し、東征に効力を尽くすのを待ち、徐々にその冊封を許すべきであると述べる。京師で地震が頻発したため、内批は慎重にすべきこと、恩沢は節制すべきこと、人材は惜しむべきこと、内操は廃止すべきことを述べ、言葉は甚だ切実で率直であった。自嚴は職に在ること数年、総合的に検核し経費を節約し、公私ともにこれを頼りとした。

五年、右都御史として南京都察院を管掌する。翌年正月、そのまま戸部尚書に改める。忠賢が南京太僕寺の牧馬草場を売却し、宮殿工事を助けると議する。自嚴は認められないと主張し、遂に病を理由に帰郷する。

崇禎元年、召されて戸部尚書に任じられる。自嚴は財政が大いに不足しているため、滞納租税の調査、屯田の監督、考成法の厳格化、冗兵の淘汰、薊州・密雲・昌平・永平の四鎮で新たに増設された塩菜銀二十二万両の停止を請い、いずれも聞き入れられる。二年三月、上疏して言う。「諸辺境の年例(毎年の定例経費)は、遼餉を除き、銀三百二十七万八千余りである。今、薊州・密雲などの諸鎮で三十三万両を節約したが、尚ほ二百九十四万八千両が必要である。京師と辺境への歳入総計は、田賦百六十九万二千両、塩課百十万三千両、関税十六万一千両、雑税十万三千両、事例銀(捐納による収入)約二十万両、凡そ三百二十六万五千余りである。しかし滞納が相次ぎ、実際の歳入は二百万両に満たず、仮に全て辺境の兵糧に充てても、尚ほ余剰はない。しかるに京師の雑費支出八十四万両、遼東提塘三十余万両、薊州・遼東の撫賞(懐柔費)十四万両、遼東の旧餉を新餉に改める分二十万両、支出が収入を上回ること既に百十三万六千両である。況や内廷への供応・召買(官による買い上げ)、宣府・大同の撫賞、及び一切の臨時の需要は、更に常額を超える支出がある。廷臣に命じて各々所見を陳述させられたい。」ここにおいて廷臣は争って計画を献策する。自嚴はその中で実行可能なものを選び、先ず十二事を列挙して上奏する。曰く、塩引の増発、貨幣鋳造の議論、雑税の徴収、隠田の調査、寺院財産への課税、牙行(仲買業者)の調査、倉庫修繕の停止、官衙修復の中止、南京の馬匹の協力供出、崇文門の舗税(店舗税)、京師への運送の振替、板木の代銀納。その後、更に十二事を列挙して上奏する。曰く、関税の増徴、公費の削減、生祠(魏忠賢を祀る祠)の売却、市場税の適正化、冗役の淘汰、虚偽の支出の調査、贖罪金の増額、班軍(交替で京師に来る軍)の代銀納、吏胥の納銭による勤務免除、河辺の灘蕩(沼沢地)の利用、京東の水田開発、宮殿工事功労者への官位授与。帝は全てこれを実行することを許す。

詔を下して『賦役全書』を編纂させる。自嚴は言う。「『全書』の作成は、一条鞭法の施行から始まり、今より既に四十五年を経ている。一事についてここでは多くあそこでは少ないものがあり、その弊害は混派である。役人が奸吏の言うままに密かに分け前を取るものがあり、その弊害は花派である。大いにこれを戒めるべきである。」ここにおいて八つの様式を条陳して献上する。帝は直ちにこれを天下に頒布することを命じる。

給事中汪始亨が屯田横領による兵糧損耗の弊害を極力論じる。自嚴は言う。「相沿すること久しく、実態を調査するは難しい。軍が耕作するもの民が耕作するものと問わず、一律に民田の基準で課税することを請う。」帝はこの議を是とする。先に、忠賢が政を乱し、辺境の兵糧は多く不足していたが、自嚴は期日通りに支給した。また上疏して言う。「最も財を消耗させるものは客餉に如くはない。諸鎮の年例は合わせて三百二十七万両であるが、客餉がその三分の一を占める。大いに削減すべきである。次に撫賞・召買・修築などの諸費用があり、いずれも節約せざるを得ない。」帝はこれを褒めて受け入れる。その冬、京師が敵兵に攻められ、帝は国事を憂い労し、夜中に幾度も詔勅を発する。自嚴は奏答に滞りなく、安眠せず、頭や目が腫れ上がるほどであったが、事は幸いにも不足なく済んだ。翌年夏、六つの罪を以て自らを弾劾し、罷免を請うが、優れた詔勅で慰留される。先に考満(考課期間満了)により太子少保を加えられ、遵化・永平の克復の功績により叙勲され、再び太子太保に進む。

兵部尚書梁廷棟が天下の田賦増徴を請うが、自嚴はこれを止めることができなかった。ここにおいて旧来の増徴五百二十万両の外に、更に百六十五万両余りを増徴し、天下は益々疲弊した。後に、時務十事を陳述し、その趣旨は民を利することを主とし、帝は全てこれを採り入れる。また兵糧が日増しに増えるため、幾度も調査・整理を請うたが、兵部及び督撫は大抵これを棚上げにした。更に内地の無用の兵士を淘汰することを請うと、帝は直ちに厳しく戒めることを命じたが、全てを実行することはできなかった。

御史余応桂が自嚴を弾劾し、殿試の読巻官として、まず陳於泰を推薦したのは、輔臣周延儒の姻戚であるからだと。自嚴は病を理由に休職を請い、上疏四度に及ぶが、許されない。時に詔があり、行取(地方官から中央官への抜擢)される予定の県令については、戸部が先ずその銭穀(財政実績)を調査することとされた。華亭知県鄭友元は既に御史に抜擢されていたが、先任の青浦県において、金花銀二千九百両を滞納していた。帝が戸部に詰問すると、自嚴は友元が既に十の七分を太倉に納入したと述べる。帝が主庫者に実態調査を命じると、そのような事実はなく、帝は怒って自嚴を責める。自嚴は言葉を飾って弁明し、帝はますます怒り、遂に自嚴を獄に下し、使者を遣わして友元を逮捕させる。御史李若讜が上疏して救うが、受け入れられない。一月余り過ぎ、給事中吳甘来が再び抗疏して論じ救うと、帝はようやく彼を釈放する。八年五月、四川の賊平定の功績により叙勲され、官職に復し、致仕する。更に三年して卒去し、定めに従って恤典を賜る。

李長庚、字は酉卿、麻城の人。萬曆二十三年の進士。戸部主事を授かる。江西左・右布政使を歴任し、任地毎に清廉な節操を励ます。召されて順天府尹となる。右副都御史に改められ、山東巡撫となる。荒政に心を尽くし、民はこれによって蘇る。盗賊が武定などの州県に蔓延ると、その首魁を討ち擒える。

四十六年、遼東で戦争が起こり、登州・萊州からの海運を実施することが議論される。長庚は初め不便であると述べたが、後に言う。「登州より鉄山西北口を望み、羊頭凹に至り、中島・長行島を経て北信口に至り、また兔兒島を経て深井に至り、蓋州に達し、小船に積み替えて運ぶこと一百二十里、娘娘宮に至り、陸路廣寧まで一百八十里、遼陽まで一百六十里、毎石一金の費用がかかる。」部議はこれを便利とし、遂にこれを実行する。

翌年二月、特に戸部侍郎一人を設け、右僉都御史を兼ねさせ、出て遼東の兵糧を監督させ、天津に駐在させた。即ち長庚をこれに任じた。長庚は、淮船を造り、津路を通じ、牛車を議し、海道を酌み、幫運を截ち、錢法を議し、按臣を設け、事例を開き、海防を厳にするの九事を奏上して行わせた。当時、毎年米百八十万石、豆九十万石、草二千百六十万束、銀三百二十四万両を運ぶことが議されていた。長庚は金花銀を留め、改折を行い、税課を借りることを請い、言うには、「臣が会計録を考うるに、毎年本色・折色を通計して千四百六十一万有奇である。内府に入る者は六百余万、太倉に入る者は、本色の外、折色四百余万である。内府の六百万は、金花銀・籽粒銀の外、皆絲綿・布帛・蠟・茶・顔料の類であり、歳月を経て皆朽敗している。もし一年改折すれば、上に損なく、下に益がある。その他、陝西の羊絨、江・浙の織造も、一年稍々停止して、軍国の急を済すべきである。」帝は悦ばず、言うには、「金花銀・籽粒銀は本来祖宗の旧制であり、内供の正額及び軍官の月俸に用い、その費は少なくない。どうして借り留めできようか。今年の天津・通州・江西・四川・広西の上供税銀を以て、尽く軍費に充てよ。」そこで戸科給事中官応震が上疏して言うには、「『会典』を考うるに、内庫については云う、金花銀は国初南京に解送して武官の俸禄に供し、諸辺に急ある時も亦その中から取って給した。正統元年、始めて南京から改めて内庫に解送した。その後、武官の俸禄を除き、皆御用となった。これは金花銀が国初常に辺境を済すために用いられ、正統以後方に御用に供したのである。『会典』の太倉庫については云う、嘉靖二十二年、題準して諸処の京運錢糧は、金花銀・籽粒銀に拘わらず、内府に解すべきものは悉く解して太倉庫に貯え、各辺の応用に備える。これは世宗朝に金花銀が尽く兵餉に充てられたのであり、陛下の初年に何故これを内に収めたのか知らない。今各辺が取って給用に応じた先例を考うることなく、却って正供の旧額と云うのは、何ぞ相左することかくの如きや。武官の月俸に至っては、歳に十余万に過ぎず、乃ち費少からずと云うのは何ぞや。且つ原数は百万であり、陛下が始めて二十万を増やしたのである。年深く日久しく、顛末を都て忘れた。臣の計る所では、今年を借りるべきは論ずるまでもなく、即ちその後年年借用すべく、未だ来らざる者を辺境に済すべきは論ずるまでもなく、即ち今内帑にある者を尽く太倉に還すべし。若し物料の改折に至っては、隆慶元年曾てこれを行って部に解し辺境を済し、六年又南京監局に行い、亦辺境を済した。これは則ち祖宗の旧制であり、陛下独り聞かざるか。」帝は遂に聴かなかった。

当時諸事創始し、百務坌集したが、長庚は悉くこれを辦治した。天啓二年、南京刑部尚書に遷り、就いて戸部に移った。翌年、召されて戸部尚書に拝されたが、未だ任に就かず、憂いにより帰った。

崇禎元年、工部尚書として起用されたが、また憂いにより去った。久しくして、閔洪学に代わって吏部尚書となった。六年正月、修撰陳於泰が時弊を疏陳し、宣府監視中官王坤が力を以てこれを詆し、首輔周延儒に及んだ。長庚は同列を率いて上疏して言うには、「陛下は古今に博覧し、曾て内臣が輔臣を参論する者あるを見たか。今以後、廷臣は拱手して屏息し、豈に盛朝の宜しく有るべき所ぞ。臣等溺職す、立賜譴黜を祈る。終に内臣が軽く朝政を議する端を開き、禍を流して窮まりなく、万世の口実となることを忍ばず。」帝は悦ばず。次日、平臺に召して対した。時に副都御史王志道が王坤を劾する言葉特に切であり、帝は責めて回奏を命じた。奏上すると、帝は益々怒った。及んで面對し、詰責すること久しく、遂にその籍を削った。

志道は漳浦の人で、天啓の時給事中であった。「三案」を議して高攀龍に駁され、病を謝して帰った。その後魏忠賢に附き、歴擢して左通政となり、論者はこれを薄しとした。この時、中官に忤って罷免された。

長庚は党援を植えず、温体仁と甚だ合わなかった。郎中王茂学を推挙して真定知府としたが、帝は允さなかった。また推挙して順徳知府としたが、帝は怒り、欺蒙を責め、並びに冠帯監生の授職の事を追咎し、回奏を責めて命じた。奏上すると、民に斥かれた。家に居すること十年、国変に遭い、久しくして卒した。

劉之鳳は、字を雍鳴といい、中牟の人である。万暦四十四年進士。歴任して南京御史となった。天啓三年六月、上疏して孫承宗・王象乾・閻鳴泰の本末を別白し、去留を定め、且つ毛文龍の海外の軍を撤し、関内に居らしめることを請うた。また内操を亟に罷めることを請うた。魏忠賢に忤い、旨を伝えて切責し、復た廷臣に宣諭し、再び瀆奏する者は罪を赦さずとした。六年、之鳳は方に江防を視察し、期満して奏報した。忠賢はその職を奪った。

崇禎二年、故官として起用された。帝が周延儒を召して燕見し、宵分に始めて出た。之鳳は同官と偕に上疏して言うには、「臣等は陪京に待罪し、延儒の原籍より三百里に去る。その身を立て郷に居るは、齒頰に置くに堪えず。今乃ち特蒙眷註するは、必ずや挙朝尽く欺くと曰い、独り延儒一人が軀を捐てて国為すとし、陛下をして真に廷臣信ずる無きが若くせしめ、而して延儒乃ち忌む所を翦り、私する所を樹て、馮銓・霍維華等の怨を報ずると曰わん。この一召は、国事に纖毫の益無く、而して聖徳に丘山の損有り。」旨に忤い、詰責された。已にして、復た五事を列上し、謀勇を挙げ、援兵を止め、土著を練り、偵探を密にし、守令を選ぶと曰い、俱に采納を見た。

累遷して刑部侍郎となり、遂に鄭三俊に代わって本部尚書となった。之鳳は天下の囚徒は皆五年に一度審録するが、高墻の罪人は独りこれに与らずとし、上疏してこれを言い、報可された。嘗て左侍郎王命璿とともに平臺に召対し、律例及び獄情を論じ、帝は申飭して退いた。時に火星の変有り、之鳳は特に刑を修めることを請い、言うには、「今より獄情の大なる者は一月に奏断し、小なる者は半月とす。贓重の人犯で、結案が数年前の者は、大抵本犯には髓敲く可く無く、戚属にも脂吸う可き無し。悉く宥免し、好生の仁を全うせんことを祈る。」従われた。然し之鳳は此の奏を為したが、その後毎に獄詞を上するに、帝は必ず厳しく駁し、之鳳は甚だ懼れ、諸司の呈稿も、遅疑して敢えて遽に発せず、屡疏して病を謝したが、帝は従わなかった。会うところ尚書範景文が南京給事中荊可棟の貪墨を劾し、下部して訊問し、之鳳は軽き比を予えた。帝は其の賄賂を受けたことを疑い、これを吏に下し、法司は旨に希って絞に坐した。給事中李清が律に未だ合わずと言い、同官葛樞が復た論救した。帝は怒り、樞の級を鐫じ、外に調じた。十三年四月、之鳳は獄中より上書して自ら贓賄無きを白し、情矜むべく原すべきことを言った。亦置いて省みず、竟に瘐死した。

崇禎朝に刑部尚書を易えること十七人を数える。薛貞は奄党を以て死に抵った。蘇茂相は半歳にして罷めた。王在晋は未だ任に就かず、兵部に改めた。喬允升は逸囚に坐して戍に遣わされた。韓繼思は議獄に坐して名を除かれた。胡応臺は独り善く去るを得た。馮英は劾せられて戍に遣わされた。鄭三俊は議獄に坐して逮系された。之鳳は絞を論ぜられ、獄中に瘐死した。甄淑は賄賂を納れるに坐して詔獄に下り、改めて刑部に系し、瘐死した。李覚斯は議獄に坐して籍を削られた。劉澤深は位に卒した。鄭三俊は再び尚書となり、吏部に改めた。範景文は未だ任に就かず、工部に改めた。徐石麒は議獄に坐し、職を落として閑住した。胡応臺は再び召されたが赴かなかった。その後を継ぐ者張忻は、賊が京師を陥すと、子の庶吉士張端と並び降った。

賛に曰く、崔景榮・黄克纘は皆、東林党に与せられざる者なり、然れども特に東林に附せざるのみ。方に東林の勢盛んなりし時、天下の清流を羅致し、士に落然として自ら異なる者有れば、詬誶これに随う。東林を攻むる者は、その己に近きを幸いとし、援けて以て重しと為す。ここにおいて中立の者は類は小人の玷を蒙るを免れず。人品を核する者は、乃ち専ら東林と厚薄を以て軽重と為す、豈に篤論ならんや。畢自厳・李長庚は計臣中の治を弁ずる才ある者なり、然れども自厳の賦を増すの議は、識者これを病む。劉之鳳の獄を議するに当たらず、罪は謫罷に止まるべく、竟に重比を予う、刑罰中ならず、治を求むるを得んや。