明史

列傳第一百四十四 崔景榮 黃克纘 畢自嚴 李長庚 劉之鳳

列傳第一百四十四 崔景榮 黃克纘 畢自嚴 李長庚 劉之鳳

原文列傳第一百四十四 崔景榮 黃克纘 畢自嚴 李長庚 劉之鳳

○崔景榮 黃克纘 畢自嚴 李長庚(王志道) 劉之鳳

原文○崔景榮黃克纘畢自嚴李長庚(王志道)劉之鳳

崔景榮、字あざなは自強、長垣の人。萬曆十一年の進士。平陽府推官に任ぜられる。御史に抜擢され、東廠太監張鯨の罪を弾劾した。甘肅・湖広・河南を巡按し、最後に四川を按じ、御史臺の資歴を十八年積んだ。

原文崔景榮,字自強,長垣人。萬曆十一年進士。授平陽府推官。擢御史,劾東廠太監張鯨罪。巡按甘肅、湖廣、河南,最後按四川,積臺資十八年。

播州の乱に際し、景榮は大帥劉綎・呉広らの軍を監した。劉綎が金帛を馳せて景榮の家に至り、その父の寿としたので、景榮は上疏してこれを弾劾した。播州平定後、或る者が播北を安氏に与えるよう請うたが、景榮は認めなかった。時に総督李化龍が憂いで去り、景榮は蜀の一年の租を免除し、上東五路を恤れみ、鉱使を罷めるよう請うた。化龍が監軍の功を疏で述べたが、景榮には及ばなかった。後に太僕少卿に進んだ。

原文播州亂,景榮監大帥遇劉綎、吳廣輩軍。綎馳金帛至景榮家,為其父壽,景榮上疏劾之。播州平,或請以播北畀安氏,景榮不可。會總督李化龍憂去,景榮為請蠲蜀一歲租,恤上東五路,罷礦使。化龍疏敘監軍功,弗及景榮。已,晉太僕少卿。

三年満ちて、右僉都御史に抜擢され、寧夏を巡撫した。銀定は平素驕慢で、毎年侵入して掠奪した。景榮は自ら督戦してこれを破り、賊を導く諸部への賞与を廃止することを議したので、諸部は恐れて銀定と絶つことを請うた。銀定は導きを失うと、また関を叩いて互市を求めた。寧夏の毎年の互市費用は莫大であったが、景榮はこれを減らすことを議した。在任三年、僅か一度の互市に過ぎなかった。その後、延鎮の吉能らが和議を挟んで互市の補充を求めたが、ついに許さず、毎年十数万の金銭を節減した。

原文三年滿,擢右僉都御史,巡撫寧夏。銀定素驕,歲入掠。景榮親督戰破之,因議革導賊諸部賞,諸部懼,請與銀定絕。銀定既失導,亦叩關求市。寧夏歲市費不貲,景榮議省之。在任三年,僅一市而已。其後延鎮吉能等挾款求補市,卒勿許,歲省金錢十餘萬。

四十一年、召されて兵部右侍郎となり、京営戎政を総べた。吏部に改められたが、病を理由に辞して去った。一年余りして、宣府大同総督に起用された。召還されて兵部尚書に進んだ。時に遼・瀋が失陥し、熊廷弼・王化貞の意見が合わず、廷臣に経略・巡撫の去留を議させたが、景榮はしばしば言官に論ぜられた。御史方震孺が景榮を罷免し、孫承宗を代えるよう請うた。そこで病を理由に帰郷した。

原文四十一年,入為兵部右侍郎,總京營戎政。改吏部,以疾辭去。逾年,起宣府大同總督。召還,晉兵部尚書。會遼、瀋失,熊廷弼、王化貞議不協,命廷臣議經、撫去留,景榮數為言官所論。御史方震孺請罷景榮,以孫承宗代之。遂引疾歸。

天啓四年十一月、特に吏部尚書として起用された。この時、魏忠賢が国柄を盗み、群小が互いに倚り附き、尚書趙南星を逐った。家から景榮を起用し、助けとしようとした。到着すると、忠賢は大邸宅を飾って待ったが、景榮は赴かなかった。錦衣帥田爾耕が来謁したが、また辞して会わなかった。帝が太学に幸すると、忠賢は前日に祭酒の講義を聴こうとし、諸大臣の聴講に賜坐賜茶の礼を裁減することを議し、また考選の員額を減らし、京堂添註官を淘汰することを議した。景榮はいずれも強く行わせず、次第に忠賢の意に逆らった。また魏広微に書を移し、楊漣・左光斗を申し救うよう勧めた。広微は已むなく、その旨の掲示を整えた。やがて景榮の書が証拠とされ、「景榮が私を教えたのだ」と言われた。ここにおいて御史倪文煥・門克新が相次いで景榮が東林を陰に庇い、奸邪に媚びて後福を邀うたと弾劾した。旨を得て、削奪され民とされた。崇禎元年に改元し、原職に復した。四年に卒し、少保を贈られた。

原文天啟四年十一月,特起為吏部尚書。當是時,魏忠賢盜國柄,群小更相倚附,逐尚書趙南星。即家起景榮,欲倚為助。比至,忠賢飾大宅以待,景榮不赴。錦衣帥田爾耕來謁,又辭不見。帝幸太學,忠賢欲先一日聽祭酒講,議裁諸聽講大臣賜坐賜茶禮,又議減考選員額,汰京堂添註官。景榮皆力持不行,浸忤忠賢指。又移書魏廣微,勸其申救楊漣、左光斗。廣微不得已,為具揭。尋以景榮書為徵,曰:「景榮教我也。」於是御史倪文煥、門克新先後劾景榮陰護東林,媚奸邪而邀後福。得旨,削奪為民。崇禎改元,復原職。四年卒,贈少保。

黃克纘、字は紹夫、晉江の人。萬曆八年の進士。寿州知州に任ぜられ、召されて刑部員外郎となった。累官して山東左布政使に至り、そのまま右副都御史に遷り、その地を巡撫した。鉱税停止を請い、税使陳増・馬堂を論劾し、その他の善政も甚だ著しかった。屡々盗賊平定の功により、加官して兵部尚書に至った。四十年、詔により故官のまま南京機務に参贊するが、御史李若星・魏雲中に弾劾され、家に帰って命を待った。三年居て、ようやく任に就いた。四十四年冬、隆徳殿が災いし、上疏して時政を陳べ、言葉は極めて痛切であった。報いられなかった。

原文黃克纘,字紹夫,晉江人。萬曆八年進士。除壽州知州,入為刑部員外郎。累官山東左布政使,就遷右副都御史,巡撫其地。請停礦稅,論劾稅使陳增、馬堂,他惠政甚著。屢以平盜功,加至兵部尚書。四十年,詔以故官參贊南京機務,為御史李若星、魏雲中所劾,還家候命。居三年,始履任。四十四年冬,隆德殿災,上疏陳時政,語極痛切。不報。

召されて京営戎政を理め、刑部尚書に改まり、両朝の顧命に預かった。李選侍が宮を移らんとする時、その内侍王永福・姚進忠ら八人が乾清宮の珠宝を盗んだ罪で官吏に下された。克纘は二人を死刑に擬し、残りは皆軽減した。帝は従わず、六人を死刑にし、残りを戍に遣わすよう命じた。克纘は言う、「姜升・鄭穩山・劉尚理は一物も持たず、劉遜は地上の珠を拾い、選侍に返したのに、永福・進忠と同様に戮されるのは、軽重の倫を失う。況んや選侍の篋中の物が、先朝の賜わったものでないとどうして知れようか」と。この時、諸宦官の罪は重く、脱する謀も無かったので、ただ帝に選侍を厚く遇するよう請うて、獄情を自ら緩めようとした。ここにおいて流言が四方に布き、帝が先朝の妃嬪を薄く遇すると言われ、克纘がまずその言葉に入った。帝は悦ばず、克纘が偏聴したと責め、前の旨の通りにするよう命じた。

原文召理京營戎政,改刑部尚書,預受兩朝顧命。李選侍將移宮,其內侍王永福、姚進忠等八人坐盜乾清宮珠寶下吏。克纘擬二人辟,余俱末減。帝不從,命辟六人,余遣戍。克纘言:「姜升、鄭穩山、劉尚理不持一物,劉遜拾地上珠,還之選侍,而與永福、進忠同戮,輕重失倫。況選侍篋中物,安知非先朝所賜?」當是時,諸珰罪重,謀脫無自,惟請帝厚待選侍,則獄情自緩。於是流言四布,謂帝薄待先朝妃嬪,而克纘首入其言。帝不悅,責克纘偏聽,命如前旨。

後に、楊漣が「移宮」の始末を陳べた。帝は即ち廷臣に宣諭し、選侍が聖母を凌虐した様を詳しく述べた。かつ言う、「大小の臣工は、ただ私的に李党にし、朕が躬を責める」と。克纘は恐惶して上言した、「礼は父母を並びに尊ぶ。事が母を念う誠より出で、跡が或いは父の過ちを顕わすに渉るならば、必ず委曲周全し、渾然として跡無くす、これが大孝である。もし李を党庇し、聖躬を責めるというならば、臣は万死しても敢えて出でない」と。御史焦源溥がその持論の謬りを力駁し、末に言う、「群豎が資百万を持ち、選侍を安んずるを名として、妄りに罪を脱せんと希い、克纘はその術に堕ちて覚えず」と。克纘は奏して弁じ、よって罷免を乞うた。おおよそ言う、「源溥は神宗の時に元子の為にした者を忠とし、福藩の為にした者を忠ならずとする。臣は敢えてこれを広めて言う、神宗が既に先帝を保護し、大位を授けられたならば、神考の為にその貴妃を全うし、その愛子を富貴にすることは、尤も忠の大なる者である。また先帝の時に二后の為にした者を忠とし、選侍の為にした者を忠ならずとする。臣もまた広めて言う、聖母が既に名を正し位を定めたならば、刑於の令徳を光昭し、宮幃の忿争を虚伝せざることは、尤も忠の大なる者である。もし源溥の言う如くならば、必ず先帝はその始めを正し得ず、聖母はその終わりを正し得ず、然る後にこの獄を議すべきである」と。疏が入ると、帝は甚だ怒り、軽肆で忌憚なく、忠孝に諳んじないと責めた。克纘は恐惶して罪を引き、大学士劉一燝らも代わって言ったので、やっと止んだ。間もなく、給事中董承業・孫傑・毛士龍、御史潘雲翼・楊新期、南京御史王允成が並びに克纘が是非を舛謬すると弾劾した。克纘は服せず、かつて李三才を挙げなかったので、諸人に憎まれたと言った。源溥がまた克纘が三才を借りて言官を傾けようとしたと弾劾した。克纘は奏して弁じ、再び休致を乞うたが、帝は問わなかった。

原文已,楊漣陳「移宮」始末。帝即宣諭廷臣,備述選侍淩虐聖母狀。且曰:「大小臣工,惟私李黨,責備朕躬。」克纘皇恐上言:「禮,父母並尊。事有出於念母之誠,跡或涉於彰父之過,必委曲周全,渾然無跡,斯為大孝。若謂黨庇李氏,責備聖躬,臣萬死不敢出。」御史焦源溥力駁其持論之謬,末言:「群豎持貲百萬,借安選侍為名,妄希脫罪,克纘墮其術而不覺。」克纘奏辨,因乞罷。略言:「源溥謂在神宗時為元子者為忠,為福藩者非忠。臣敢廣之曰:神宗既保護先帝,授以大位,則為神考而全其貴妃,富貴其愛子者,尤忠之大也。又謂在先帝時為二後者為忠,為選侍者非忠。臣亦廣之曰:聖母既正名定位,則光昭刑於之令德,勿虛傳宮幃之忿爭,尤忠之大也。若如源溥言,必先帝不得正其始,聖母不得正其終,方可議斯獄耳。」疏入,帝怒甚,責以輕肆無忌,不諳忠孝。克纘皇恐引罪,大學士劉一燝等亦代為言,乃已。無何,給事中董承業、孫傑、毛士龍,御史潘雲翼、楊新期,南京御史王允成並劾克纘是非舛謬。克纘不服,言曩不舉李三才,故為諸人所惡。源溥復劾克纘借三才以傾言官。克纘奏辨,再乞休,帝不問。

天啓元年冬、太子太保を加えられた。まもなくまた兵部尚書として戎政を協理した。廷臣が「紅丸」を議すると、克纘は進薬の始末を述べ、力を尽くして方従哲を弁護した。給事中薛文周がその倫常を滅ぼし、私交に昵れ、大義を昧くすると誹謗した。克纘は憤り、《春秋》が隠公・閔公の弑しいを書かないことを援き、力を尽くして文周を誹謗し、かつ選侍に聖母を毆る事無きを明らかにした。給事中沈惟炳が文周を助けて再び克纘を弾劾した。先に、帝は百官に宣諭し、明らかに選侍が聖母を毆って崩じたと言った。惟炳の疏が上ると、旨を得て、「選侍は向こうから触忤があり、朕が一時に伝諭したのは、過激無きにしも非ず。皇考を追念すれば、豈に恝然とせんや」と。ここにおいて外議紛紜として、皆言う、前のこの上諭は悉く王安の矯托に出で、諸々選侍を安んずるを請う者は、益々これを藉りて言葉と為すに得たりと。蓋しこの時王安は既に死に、魏忠賢が方に柄を窃んでいたので、前後の諭旨がこのように牴牾したのである。

原文天啟元年冬,加太子太保。尋復以兵部尚書協理戎政。廷臣議「紅丸」,克纘述進藥始末,力為方從哲辨。給事中薛文周詆其滅倫常,昵私交,昧大義。克纘憤,援《春秋》不書隱公、閔公之弒,力詆文周,且白選侍無毆聖母事。給事中沈惟炳助文周復劾克纘。先是,帝宣諭百官,明言選侍毆崩聖母。及惟炳疏上,得旨:「選侍向有觸忤,朕一時傳諭,不無過激。追念皇考,豈能恝然?」於是外議紛紜,咸言前此上諭,悉出王安矯托,而諸請安選侍者,益得藉為詞。蓋是時王安已死,魏忠賢方竊柄,故前後諭旨牴牾如此。

克纘は内外の官を歴任し、清強で執持があった。持議は「三案」を争う者と異なり、攻撃が紛然として起こった。ここより群小は東林を排し、《要典》を創るに、率い克纘を首功と推した。時に東林が方に盛んであったので、克纘は病を理由に移った。詔して太子太傅を加え、伝車に乗って帰った。四年十二月、魏忠賢が東林を尽く逐い、克纘を工部尚書として召した。数ヶ月視事し、また病を理由に移って帰った。三殿が完成し、太子太師を加えられた。崇禎元年、南京吏部尚書として起用された。これを弾劾する者があり、就かず、家に卒した。

原文克纘歷官中外,清強有執。持議與爭「三案」者異,攻擊紛起。自是群小排東林,創《要典》,率推克纘為首功。時東林方盛,克纘移疾。詔加太子太傅,乘傳歸。四年十二月,魏忠賢盡逐東林,召克纘為工部尚書。視事數月,復移疾歸。三殿成,加太子太師。崇禎元年,起南京吏部尚書。有劾之者,不就,卒於家。

畢自嚴、字は景曾、淄川の人。萬曆二十年の進士。松江推官に任じられる。年少にして才幹あり、召されて刑部主事を授かる。工部員外郎・郎中を歴任し、淮徐道参議に遷る。母の喪に服し喪明け、冀寧の分守となる。河東副使に改められ、病を理由に辞職する。起用されて洮岷兵備参政となる。按察使として榆林西路の治めに移り、右布政使に進む。泰昌の時、召されて太僕卿となる。

原文畢自嚴,字景曾,淄川人。萬曆二十年進士。除松江推官。年少有才幹,徵授刑部主事。歷工部員外郎中,遷淮徐道參議。內艱闋,分守冀寧。改河東副使,引疾去。起洮岷兵備參政。以按察使徙治榆林西路,進右布政使。泰昌時,召為太僕卿。

天啓元年四月、遼陽が陥落する。朝廷の議論で天津巡撫を設置し、専ら海防を整備することとし、自嚴を右僉都御史に改めてこれに派遣する。水軍を置き、戦艦を修繕し、兵器を備える。熊廷弼が三方布置の策を立てると、天津はその一つに位置し、鎮海などの諸営を増設し、戚継光の遺法を用い、水軍は先ず陸戦を習熟させ、軍はこれによって用いるに足るものとなる。魏忠賢が錦衣千戸劉僑に天津の廃将を逮捕させようとすると、自嚴は駕帖がないことを理由に上疏してこれを論じ、聞き入れられる。四方から募集した兵士が日々逃亡するので、自嚴の建言を用い、その親族を徴発して兵士の欠員を補う。兵部主事来斯行は武略あり、自嚴は監軍とするよう請う。山東で白蓮教の妖賊が蜂起ほうきすると、斯行に五千人を率いて行かせ、功績多く。

原文天啟元年四月,遼陽覆。廷議設天津巡撫,專飭海防,改自嚴右僉都御史以往。置水軍,繕戰艦,備戎器。及熊廷弼建三方布置策,天津居其一,增設鎮海諸營,用戚繼光遺法,水軍先習陸戰,軍由是可用。魏忠賢令錦衣千戶劉僑逮天津廢將,自嚴以無駕帖疏論之,報聞。四方所募兵日逃亡,用自嚴言,攝其親屬補伍。兵部主事來斯行有武略,自嚴請為監軍。山東白蓮妖賊起,令斯行率五千人往,功多。

初め、萬曆四十六年、遼左で戦争が起こり、登州・萊州からの海運を実施することが議論される。翌年二月、特に戸部侍郎一人を設け、右僉都御史を兼ね、出向して遼東の兵糧を監督することとし、詳細は『李長庚伝』にある。この時、長庚が転任したので、自嚴に代わらせることを命じる。以前の賊平定の功績を論じ、右都御史兼戸部左侍郎に進める。当時、天津巡撫を廃止し、督餉侍郎にその職務を兼ねさせる議論があり、すなわち自嚴にこれを委ねる。また朝鮮討伐が議論されると、自嚴は急いで討つべきでなく、貢物を請い誠意を示し、東征に効力を尽くすのを待ち、徐々にその冊封を許すべきであると述べる。京師で地震が頻発したため、内批は慎重にすべきこと、恩沢は節制すべきこと、人材は惜しむべきこと、内操は廃止すべきことを述べ、言葉は甚だ切実で率直であった。自嚴は職に在ること数年、総合的に検核し経費を節約し、公私ともにこれを頼りとした。

原文初,萬曆四十六年,遼左用兵,議行登、萊海運。明年二月,特設戶部侍郎一人,兼右僉都御史,出督遼餉,語詳《李長庚傳》。及是,長庚遷,乃命自嚴代。敘前平賊功,進右都御史兼戶部左侍郎。時議省天津巡撫,令督餉侍郎兼領其事,即以委自嚴。又議討朝鮮,自嚴言不可遽討,當俟請貢輸誠,東征效力,徐許其封耳。京師數地震,因言內批宜慎,恩澤宜節,人才宜惜,內操宜罷,語甚切直。自嚴在事數年,綜核撙節,公私賴之。

五年、右都御史として南京都察院を管掌する。翌年正月、そのまま戸部尚書に改める。忠賢が南京太僕寺の牧馬草場を売却し、宮殿工事を助けると議する。自嚴は認められないと主張し、遂に病を理由に帰郷する。

原文五年,以右都御史掌南京都察院。明年正月,就改戶部尚書。忠賢議鬻南太僕牧馬草場,助殿工。自嚴持不可,遂引疾歸。

崇禎元年、召されて戸部尚書に任じられる。自嚴は財政が大いに不足しているため、滞納租税の調査、屯田の監督、考成法の厳格化、冗兵の淘汰、薊州・密雲・昌平・永平の四鎮で新たに増設された塩菜銀二十二万両の停止を請い、いずれも聞き入れられる。二年三月、上疏して言う。「諸辺境の年例(毎年の定例経費)は、遼餉を除き、銀三百二十七万八千余りである。今、薊州・密雲などの諸鎮で三十三万両を節約したが、尚ほ二百九十四万八千両が必要である。京師と辺境への歳入総計は、田賦百六十九万二千両、塩課百十万三千両、関税十六万一千両、雑税十万三千両、事例銀(捐納による収入)約二十万両、凡そ三百二十六万五千余りである。しかし滞納が相次ぎ、実際の歳入は二百万両に満たず、仮に全て辺境の兵糧に充てても、尚ほ余剰はない。しかるに京師の雑費支出八十四万両、遼東提塘三十余万両、薊州・遼東の撫賞(懐柔費)十四万両、遼東の旧餉を新餉に改める分二十万両、支出が収入を上回ること既に百十三万六千両である。況や内廷への供応・召買(官による買い上げ)、宣府・大同の撫賞、及び一切の臨時の需要は、更に常額を超える支出がある。廷臣に命じて各々所見を陳述させられたい。」ここにおいて廷臣は争って計画を献策する。自嚴はその中で実行可能なものを選び、先ず十二事を列挙して上奏する。曰く、塩引の増発、貨幣鋳造の議論、雑税の徴収、隠田の調査、寺院財産への課税、牙行(仲買業者)の調査、倉庫修繕の停止、官衙修復の中止、南京の馬匹の協力供出、崇文門の舗税(店舗税)、京師への運送の振替、板木の代銀納。その後、更に十二事を列挙して上奏する。曰く、関税の増徴、公費の削減、生祠(魏忠賢を祀る祠)の売却、市場税の適正化、冗役の淘汰、虚偽の支出の調査、贖罪金の増額、班軍(交替で京師に来る軍)の代銀納、吏胥の納銭による勤務免除、河辺の灘蕩(沼沢地)の利用、京東の水田開発、宮殿工事功労者への官位授与。帝は全てこれを実行することを許す。

原文崇禎元年,召拜戶部尚書。自嚴以度支大絀,請核逋賦,督屯田,嚴考成,汰冗卒,停薊、密、昌、永四鎮新增鹽菜銀二十二萬,俱報可。二年三月,疏言:「諸邊年例,自遼餉外,為銀三百二十七萬八千有奇。今薊、密諸鎮節省三十三萬,尚應二百九十四萬八千。統計京邊歲入之數,田賦百六十九萬二千,鹽課百一十萬三千,關稅十六萬一千,雜稅十萬三千,事例約二十萬,凡三百二十六萬五千有奇。而逋負相沿,所入不滿二百萬,即盡充邊餉,尚無贏余。乃京支雜項八十四萬,遼東提塘三十餘萬,薊、遼撫賞十四萬,遼東舊餉改新餉二十萬,出浮於入,已一百十三萬六千。況內供召買,宣、大撫賞,及一切不時之需,又有出常額外者。乞敕下廷臣,各陳所見。」於是廷臣爭效計畫。自嚴擇其可者,先列上十二事,曰增鹽引,議鼓鑄,括雜稅,核隱田,稅寺產,核牙行,停修倉廒,止葺公署,南馬協濟,崇文鋪稅,京運撥兌,板木折價。已,復列上十二事,曰增關稅,捐公費,鬻生祠,酌市稅,汰冗役,核虛冒,加抵贖,班軍折銀,吏胥納班,河濱灘蕩,京東水田,殿工冠帶。帝悉允行。

詔を下して『賦役全書』を編纂させる。自嚴は言う。「『全書』の作成は、一条鞭法の施行から始まり、今より既に四十五年を経ている。一事についてここでは多くあそこでは少ないものがあり、その弊害は混派である。役人が奸吏の言うままに密かに分け前を取るものがあり、その弊害は花派である。大いにこれを戒めるべきである。」ここにおいて八つの様式を条陳して献上する。帝は直ちにこれを天下に頒布することを命じる。

原文詔輯《賦役全書》。自嚴言:「《全書》之作,自行一條鞭始,距今已四十五年。有一事而此多彼少者,其弊為混派;有司聽奸吏暗灑瓜分,其弊為花派。當大為申飭。」因條八式以獻。帝即命頒之天下。

給事中汪始亨が屯田横領による兵糧損耗の弊害を極力論じる。自嚴は言う。「相沿すること久しく、実態を調査するは難しい。軍が耕作するもの民が耕作するものと問わず、一律に民田の基準で課税することを請う。」帝はこの議を是とする。先に、忠賢が政を乱し、辺境の兵糧は多く不足していたが、自嚴は期日通りに支給した。また上疏して言う。「最も財を消耗させるものは客餉に如くはない。諸鎮の年例は合わせて三百二十七万両であるが、客餉がその三分の一を占める。大いに削減すべきである。次に撫賞・召買・修築などの諸費用があり、いずれも節約せざるを得ない。」帝はこれを褒めて受け入れる。その冬、京師が敵兵に攻められ、帝は国事を憂い労し、夜中に幾度も詔勅を発する。自嚴は奏答に滞りなく、安眠せず、頭や目が腫れ上がるほどであったが、事は幸いにも不足なく済んだ。翌年夏、六つの罪を以て自らを弾劾し、罷免を請うが、優れた詔勅で慰留される。先に考満(考課期間満了)により太子少保を加えられ、遵化・永平の克復の功績により叙勲され、再び太子太保に進む。

原文給事中汪始亨極論盜屯損餉之弊。自嚴言:「相沿已久,難於核實。請無論軍種民種,一照民田起科。」帝是其議。先是,忠賢亂政,邊餉多缺,自嚴給發如期。又疏言:「最耗財者無如客餉。諸鎮年例合三百二十七萬,而客餉居三之一,宜大裁省。其次則有撫賞、召買、修築諸費,皆不可不節。」帝褒納之。其冬,京師被兵,帝憂勞國事,旨中夜數發。自嚴奏答無滯,不敢安寢,頭目臃腫,事幸無乏。明年夏,以六罪自劾,乞罷,優旨慰留。先以考滿加太子少保,敘遵、永克復功,再進太子太保。

兵部尚書梁廷棟が天下の田賦増徴を請うが、自嚴はこれを止めることができなかった。ここにおいて旧来の増徴五百二十万両の外に、更に百六十五万両余りを増徴し、天下は益々疲弊した。後に、時務十事を陳述し、その趣旨は民を利することを主とし、帝は全てこれを採り入れる。また兵糧が日増しに増えるため、幾度も調査・整理を請うたが、兵部及び督撫は大抵これを棚上げにした。更に内地の無用の兵士を淘汰することを請うと、帝は直ちに厳しく戒めることを命じたが、全てを実行することはできなかった。

原文兵部尚書梁廷棟請增天下田賦,自嚴不能止。於是舊增五百二十萬之外,更增百六十五萬有奇,天下益耗矣。已,陳時務十事,意主利民,帝悉采納。又以兵餉日增,屢請清核,而兵部及督撫率為寢閣。復乞汰內地無用之兵,帝即令嚴飭,然不能盡行也。

御史余応桂が自嚴を弾劾し、殿試の読巻官として、まず陳於泰を推薦したのは、輔臣周延儒の姻戚であるからだと。自嚴は病を理由に休職を請い、上疏四度に及ぶが、許されない。時に詔があり、行取(地方官から中央官への抜擢)される予定の県令については、戸部が先ずその銭穀(財政実績)を調査することとされた。華亭知県鄭友元は既に御史に抜擢されていたが、先任の青浦県において、金花銀二千九百両を滞納していた。帝が戸部に詰問すると、自嚴は友元が既に十の七分を太倉に納入したと述べる。帝が主庫者に実態調査を命じると、そのような事実はなく、帝は怒って自嚴を責める。自嚴は言葉を飾って弁明し、帝はますます怒り、遂に自嚴を獄に下し、使者を遣わして友元を逮捕させる。御史李若讜が上疏して救うが、受け入れられない。一月余り過ぎ、給事中吳甘来が再び抗疏して論じ救うと、帝はようやく彼を釈放する。八年五月、四川の賊平定の功績により叙勲され、官職に復し、致仕する。更に三年して卒去し、定めに従って恤典を賜る。

原文御史余應桂劾自嚴殿試讀卷,首薦陳於泰,乃輔臣周延儒姻婭。自嚴引疾乞休,疏四上,不允。時有詔,縣令將行取者,戶部先核其錢穀。華亭知縣鄭友元已入為御史,先任青浦,逋金花銀二千九百。帝以詰戶部,自嚴言友元已輸十之七貯太倉。帝令主庫者核實,無有,帝怒責自嚴。自嚴飾詞辨,帝益怒,遂下自嚴獄,遣使逮友元。御史李若讜疏救,不納。逾月,給事中吳甘來復抗疏論救,帝乃釋之。八年五月,敘四川平賊功,復官,致仕。又三年卒,賜恤如制。

李長庚、字は酉卿、麻城の人。萬曆二十三年の進士。戸部主事を授かる。江西左・右布政使を歴任し、任地毎に清廉な節操を励ます。召されて順天府尹となる。右副都御史に改められ、山東巡撫となる。荒政に心を尽くし、民はこれによって蘇る。盗賊が武定などの州県に蔓延ると、その首魁を討ち擒える。

原文李長庚,字酉卿,麻城人。萬曆二十三年進士。授戶部主事。歷江西左、右布政使,所在勵清操。入為順天府尹。改右副都御史,巡撫山東。盡心荒政,民賴以蘇。盜蔓武定諸州縣,討擒其渠魁。

四十六年、遼東で戦争が起こり、登州・萊州からの海運を実施することが議論される。長庚は初め不便であると述べたが、後に言う。「登州より鉄山西北口を望み、羊頭凹に至り、中島・長行島を経て北信口に至り、また兔兒島を経て深井に至り、蓋州に達し、小船に積み替えて運ぶこと一百二十里、娘娘宮に至り、陸路廣寧まで一百八十里、遼陽まで一百六十里、毎石一金の費用がかかる。」部議はこれを便利とし、遂にこれを実行する。

原文四十六年,遼東用兵,議行登、萊海運。長庚初言不便,後言:「自登州望鐵山西北口,至羊頭凹,歷中島、長行島抵北信口,又歷兔兒島至深井,達蓋州,剝運一百二十里,抵娘娘宮,陸行至廣寧一百八十里,至遼陽一百六十里,每石費一金。」部議以為便,遂行之。

翌年二月、特に戸部侍郎一人を設け、右僉都御史を兼ねさせ、出て遼東の兵糧を監督させ、天津に駐在させた。即ち長庚をこれに任じた。長庚は、淮船を造り、津路を通じ、牛車を議し、海道を酌み、幫運を截ち、錢法を議し、按臣を設け、事例を開き、海防を厳にするの九事を奏上して行わせた。当時、毎年米百八十万石、豆九十万石、草二千百六十万束、銀三百二十四万両を運ぶことが議されていた。長庚は金花銀を留め、改折を行い、税課を借りることを請い、言うには、「臣が会計録を考うるに、毎年本色・折色を通計して千四百六十一万有奇である。内府に入る者は六百余万、太倉に入る者は、本色の外、折色四百余万である。内府の六百万は、金花銀・籽粒銀の外、皆絲綿・布帛・蠟・茶・顔料の類であり、歳月を経て皆朽敗している。もし一年改折すれば、上に損なく、下に益がある。その他、陝西の羊絨、江・浙の織造も、一年稍々停止して、軍国の急を済すべきである。」帝は悦ばず、言うには、「金花銀・籽粒銀は本来祖宗の旧制であり、内供の正額及び軍官の月俸に用い、その費は少なくない。どうして借り留めできようか。今年の天津・通州・江西・四川・広西の上供税銀を以て、尽く軍費に充てよ。」そこで戸科給事中官応震が上疏して言うには、「『会典』を考うるに、内庫については云う、金花銀は国初南京に解送して武官の俸禄に供し、諸辺に急ある時も亦その中から取って給した。正統元年、始めて南京から改めて内庫に解送した。その後、武官の俸禄を除き、皆御用となった。これは金花銀が国初常に辺境を済すために用いられ、正統以後方に御用に供したのである。『会典』の太倉庫については云う、嘉靖二十二年、題準して諸処の京運錢糧は、金花銀・籽粒銀に拘わらず、内府に解すべきものは悉く解して太倉庫に貯え、各辺の応用に備える。これは世宗朝に金花銀が尽く兵餉に充てられたのであり、陛下の初年に何故これを内に収めたのか知らない。今各辺が取って給用に応じた先例を考うることなく、却って正供の旧額と云うのは、何ぞ相左することかくの如きや。武官の月俸に至っては、歳に十余万に過ぎず、乃ち費少からずと云うのは何ぞや。且つ原数は百万であり、陛下が始めて二十万を増やしたのである。年深く日久しく、顛末を都て忘れた。臣の計る所では、今年を借りるべきは論ずるまでもなく、即ちその後年年借用すべく、未だ来らざる者を辺境に済すべきは論ずるまでもなく、即ち今内帑にある者を尽く太倉に還すべし。若し物料の改折に至っては、隆慶元年曾てこれを行って部に解し辺境を済し、六年又南京監局に行い、亦辺境を済した。これは則ち祖宗の旧制であり、陛下独り聞かざるか。」帝は遂に聴かなかった。

原文明年二月,特設戶部侍郎一人兼右僉都御史,出督遼餉,駐天津,即以長庚為之。奏行造淮船、通津路、議牛車、酌海道、截幫運、議錢法、設按臣、開事例、嚴海防九事。時議歲運米百八十萬石,豆九十萬石,草二千一百六十萬束,銀三百二十四萬兩,長庚請留金花,行改折,借稅課,言:「臣考會計錄,每歲本色、折色通計千四百六十一萬有奇。入內府者六百餘萬,入太倉者,自本色外,折色四百餘萬。內府六百萬,自金花籽粒外,皆絲綿布帛蠟茶顏料之類,歲久皆朽敗。若改折一年,無損於上,有益於下。他若陜西羊絨,江、浙織造,亦當稍停一年,濟軍國急。」帝不悅,言:「金花籽粒本祖宗舊制,內供正額及軍官月俸,所費不貲,安得借留?其以今年天津、通州、江西、四川、廣西上供稅銀,盡充軍費。」於是戶科給事中官應震上言:「考《會典》,於內庫則云:金花銀,國初解南京供武俸,諸邊或有急,亦取給其中。正統元年,始自南京改解內庫。嗣後除武官俸外,皆為御用。是金花銀國初常以濟邊,而正統後方供御用也。《會典》於太倉庫則云:嘉靖二十二年,題準諸處京運錢糧,不拘金花籽粒,應解內府者悉解貯太倉庫,備各邊應用。是世宗朝金花盡充兵餉,不知陛下初年何故斂之於內也。今不考各邊取給應用之例,而反雲正供舊額,何相左若是?至武官月俸,歲不過十餘萬,乃雲所費不貲哉。且原數一百萬,陛下始增二十萬,年深日久,顛末都忘。以臣計之,毋論今年當借,即嗣後年年借用可也;毋論未來者當濟邊,即見在內帑者盡還太倉可也。若夫物料改折,隆慶元年曾行之以解部濟邊,六年又行於南京監局,亦以濟邊。此則祖宗舊制,陛下獨不聞耶?」帝卒不聽。

当時諸事創始し、百務坌集したが、長庚は悉くこれを辦治した。天啓二年、南京刑部尚書に遷り、就いて戸部に移った。翌年、召されて戸部尚書に拝されたが、未だ任に就かず、憂いにより帰った。

原文時諸事創始,百務坌集,長庚悉辦治。天啟二年,遷南京刑部尚書,就移戶部。明年,召拜戶部尚書,未任,以憂歸。

崇禎元年、工部尚書として起用されたが、また憂いにより去った。久しくして、閔洪学に代わって吏部尚書となった。六年正月、修撰陳於泰が時弊を疏陳し、宣府監視中官王坤が力を以てこれを詆し、首輔周延儒に及んだ。長庚は同列を率いて上疏して言うには、「陛下は古今に博覧し、曾て内臣が輔臣を参論する者あるを見たか。今以後、廷臣は拱手して屏息し、豈に盛朝の宜しく有るべき所ぞ。臣等溺職す、立賜譴黜を祈る。終に内臣が軽く朝政を議する端を開き、禍を流して窮まりなく、万世の口実となることを忍ばず。」帝は悦ばず。次日、平臺に召して対した。時に副都御史王志道が王坤を劾する言葉特に切であり、帝は責めて回奏を命じた。奏上すると、帝は益々怒った。及んで面對し、詰責すること久しく、遂にその籍を削った。

原文崇禎元年,起工部尚書,復以憂去。久之,代閔洪學為吏部尚書。六年正月,修撰陳於泰疏陳時弊,宣府監視中官王坤力詆之,侵及首輔周延儒。長庚率同列上言:「陛下博覽古今,曾見有內臣參論輔臣者否?自今以後,廷臣拱手屏息,豈盛朝所宜有。臣等溺職,祈立賜譴黜,終不忍開內臣輕議朝政之端,流禍無窮,為萬世口實。」帝不懌。次日召對平臺。時副都御史王志道劾坤語尤切,帝責令回奏。奏上,帝益怒。及面對,詰責者久之,竟削其籍。

志道は漳浦の人で、天啓の時給事中であった。「三案」を議して高攀龍に駁され、病を謝して帰った。その後魏忠賢に附き、歴擢して左通政となり、論者はこれを薄しとした。この時、中官に忤って罷免された。

原文志道,漳浦人,天啟時為給事中。議「三案」為高攀龍所駁,謝病歸。其後附魏忠賢,歷擢左通政,論者薄之。及是,以忤中官罷。

長庚は党援を植えず、温体仁と甚だ合わなかった。郎中王茂学を推挙して真定知府としたが、帝は允さなかった。また推挙して順徳知府としたが、帝は怒り、欺蒙を責め、並びに冠帯監生の授職の事を追咎し、回奏を責めて命じた。奏上すると、民に斥かれた。家に居すること十年、国変に遭い、久しくして卒した。

原文長庚不植黨援,與溫體仁不甚合。推郎中王茂學為真定知府,帝不允。復推為順德知府,帝怒,責以欺蒙,並追咎冠帶監生授職事,責令回奏。奏上,斥為民。家居十年,國變,久之卒。

劉之鳳は、字を雍鳴といい、中牟の人である。万暦四十四年進士。歴任して南京御史となった。天啓三年六月、上疏して孫承宗・王象乾・閻鳴泰の本末を別白し、去留を定め、且つ毛文龍の海外の軍を撤し、関内に居らしめることを請うた。また内操を亟に罷めることを請うた。魏忠賢に忤い、旨を伝えて切責し、復た廷臣に宣諭し、再び瀆奏する者は罪を赦さずとした。六年、之鳳は方に江防を視察し、期満して奏報した。忠賢はその職を奪った。

原文劉之鳳,字雍鳴,中牟人。萬曆四十四年進士。歷南京御史。天啟三年六月,上疏別白孫承宗、王象乾、閻鳴泰本末,請定去留,而撤毛文龍海外軍,令居關內。又請亟罷內操。忤魏忠賢,傳旨切責,復宣諭廷臣,再瀆奏者罪無赦。六年,之鳳方視江防,期滿奏報。忠賢奪其職。

崇禎二年、故官として起用された。帝が周延儒を召して燕見し、宵分に始めて出た。之鳳は同官と偕に上疏して言うには、「臣等は陪京に待罪し、延儒の原籍より三百里に去る。その身を立て郷に居るは、齒頰に置くに堪えず。今乃ち特蒙眷註するは、必ずや挙朝尽く欺くと曰い、独り延儒一人が軀を捐てて国為すとし、陛下をして真に廷臣信ずる無きが若くせしめ、而して延儒乃ち忌む所を翦り、私する所を樹て、馮銓・霍維華等の怨を報ずると曰わん。この一召は、国事に纖毫の益無く、而して聖徳に丘山の損有り。」旨に忤い、詰責された。已にして、復た五事を列上し、謀勇を挙げ、援兵を止め、土著を練り、偵探を密にし、守令を選ぶと曰い、俱に采納を見た。

原文崇禎二年,起故官。帝召周延儒燕見,宵分始出。之鳳偕同官上疏曰:「臣等待罪陪京,去延儒原籍三百里,其立身居鄉,不堪置齒頰。今乃特蒙眷註,必將曰舉朝盡欺,獨延儒一人捐軀為國,使陛下真若廷臣無可信,而延儒乃得翦所忌,樹所私,曰為馮銓、霍維華等報怨。此一召也,於國事無纖毫益,而於聖德有丘山之損。」忤旨,詰責。已,復列上五事,曰舉謀勇,止援兵,練土著,密偵探,選守令,俱見采納。

累遷して刑部侍郎となり、遂に鄭三俊に代わって本部尚書となった。之鳳は天下の囚徒は皆五年に一度審録するが、高墻の罪人は独りこれに与らずとし、上疏してこれを言い、報可された。嘗て左侍郎王命璿とともに平臺に召対し、律例及び獄情を論じ、帝は申飭して退いた。時に火星の変有り、之鳳は特に刑を修めることを請い、言うには、「今より獄情の大なる者は一月に奏断し、小なる者は半月とす。贓重の人犯で、結案が数年前の者は、大抵本犯には髓敲く可く無く、戚属にも脂吸う可き無し。悉く宥免し、好生の仁を全うせんことを祈る。」従われた。然し之鳳は此の奏を為したが、その後毎に獄詞を上するに、帝は必ず厳しく駁し、之鳳は甚だ懼れ、諸司の呈稿も、遅疑して敢えて遽に発せず、屡疏して病を謝したが、帝は従わなかった。会うところ尚書範景文が南京給事中荊可棟の貪墨を劾し、下部して訊問し、之鳳は軽き比を予えた。帝は其の賄賂を受けたことを疑い、これを吏に下し、法司は旨に希って絞に坐した。給事中李清が律に未だ合わずと言い、同官葛樞が復た論救した。帝は怒り、樞の級を鐫じ、外に調じた。十三年四月、之鳳は獄中より上書して自ら贓賄無きを白し、情矜むべく原すべきことを言った。亦置いて省みず、竟に瘐死した。

原文累遷刑部侍郎,遂代鄭三俊為本部尚書。之鳳以天下囚徒皆五年一審錄,高墻罪獨不與,上疏言之,報可。嘗與左侍郎王命璿召對平臺,論律例及獄情,帝申飭而退。時有火星之變,之鳳特請修刑,言:「自今獄情大者,一月奏斷,小者半月。贓重人犯,結案在數年前者,大抵本犯無髓可敲,戚屬亦無脂可吸。祈悉宥免,全好生之仁。」從之。然之鳳雖為此奏,其後每上獄詞,帝必嚴駁,之鳳懼甚,諸司呈稿,遲疑不敢遽發,屢疏謝病,帝不從。會尚書範景文劾南京給事中荊可棟貪墨,下部訊,之鳳予輕比。帝疑其受賄,下之吏,法司希旨坐絞。給事中李清言於律未合,同官葛樞復論救。帝怒,鐫樞級,調外。十三年四月,之鳳獄中上書自白無贓賄,情可矜原。亦置不省,竟瘐死。

崇禎朝に刑部尚書を易えること十七人を数える。薛貞は奄党を以て死に抵った。蘇茂相は半歳にして罷めた。王在晋は未だ任に就かず、兵部に改めた。喬允升は逸囚に坐して戍に遣わされた。韓繼思は議獄に坐して名を除かれた。胡応臺は独り善く去るを得た。馮英は劾せられて戍に遣わされた。鄭三俊は議獄に坐して逮系された。之鳳は絞を論ぜられ、獄中に瘐死した。甄淑は賄賂を納れるに坐して詔獄に下り、改めて刑部に系し、瘐死した。李覚斯は議獄に坐して籍を削られた。劉澤深は位に卒した。鄭三俊は再び尚書となり、吏部に改めた。範景文は未だ任に就かず、工部に改めた。徐石麒は議獄に坐し、職を落として閑住した。胡応臺は再び召されたが赴かなかった。その後を継ぐ者張忻は、賊が京師を陥すと、子の庶吉士張端と並び降った。

原文計崇禎朝刑部易尚書十七人。薛貞以奄黨抵死。蘇茂相半歲而罷。王在晉未任,改兵部。喬允升坐逸囚遣戍。韓繼思坐議獄除名。胡應臺獨得善去。馮英被劾遣戍。鄭三俊坐議獄逮系。之鳳論絞,瘐死獄中。甄淑坐納賄下詔獄,改系刑部,瘐死。李覺斯坐議獄削籍。劉澤深卒於位。鄭三俊再為尚書,改吏部。範景文未任,改工部。徐石麒坐議獄,落職閑住。胡應臺再召不赴。繼其後者張忻,賊陷京師,與子庶吉士端並降。

賛に曰く、崔景榮・黄克纘は皆、東林党に与せられざる者なり、然れども特に東林に附せざるのみ。方に東林の勢盛んなりし時、天下の清流を羅致し、士に落然として自ら異なる者有れば、詬誶これに随う。東林を攻むる者は、その己に近きを幸いとし、援けて以て重しと為す。ここにおいて中立の者は類は小人の玷を蒙るを免れず。人品を核する者は、乃ち専ら東林と厚薄を以て軽重と為す、豈に篤論ならんや。畢自厳・李長庚は計臣中の治を弁ずる才ある者なり、然れども自厳の賦を増すの議は、識者これを病む。劉之鳳の獄を議するに当たらず、罪は謫罷に止まるべく、竟に重比を予う、刑罰中ならず、治を求むるを得んや。

原文贊曰:崔景榮、黃克纘皆不為東林所與,然特不附東林耳。方東林勢盛,羅天下清流,士有落然自異者,詬誶隨之矣。攻東林者,幸其近己也,而援以為重。於是中立者類不免蒙小人之玷。核人品者,乃專以與東林厚薄為輕重,豈篤論哉?畢自嚴、李長庚計臣中辦治才,而自嚴增賦之議,識者病焉。劉之鳳議獄不當,罪止謫罷,竟予重比,刑罰不中,欲求治得乎!