明史

列傳第一百四十二 喬允升 曹于汴 孫居相 曹珖 陳于庭 鄭三俊 李日宣 張瑋

列傳第一百四十二 喬允升 曹于汴 孫居相 曹珖 陳于庭 鄭三俊 李日宣 張瑋

原文列傳第一百四十二 喬允升 曹于汴 孫居相 曹珖 陳于庭 鄭三俊 李日宣 張瑋

○喬允升(易應昌等)曹于汴 孫居相(弟鼎相) 曹珖 陳于廷 鄭三俊 李日宣 張瑋(金光辰)

原文○喬允升(易應昌等)曹于汴孫居相(弟鼎相)曹珖陳于廷鄭三俊李日宣張瑋(金光辰)

喬允升、字あざなは吉甫、洛陽の人。萬曆二十年の進士。太谷知縣に任ぜられる。治績が優等であったため、御史に抜擢された。宣府、大同、山西、畿輔を順次巡察し、いずれも風采を顕著にした。

原文喬允升,字吉甫,洛陽人。萬曆二十年進士。除太谷知縣。以治行高等征授御史。歷按宣、大、山西、畿輔,並著風采。

三十九年、京官の大計が行われた。允升は河南道の協理を務め、非道な輩を力強く排除した。しかし主事の秦聚奎、給事中の朱一桂はいずれも被察者に代わって冤罪を訴えた。察疏がまだ下されないうちに、允升は帝の意思が動揺することを憂い、三度上疏してその理由を弁明し、さらに吏部侍郎の蕭雲挙が考察に加わり私利を図ったことを弾劾したため、事はようやく完了し、雲挙もまた辞任した。まもなく順天府丞に転じ、府尹に進んだ。齊・楚・浙の三党が権力を握ると、病気を理由に帰郷した。

原文三十九年,大計京官。允升協理河南道,力鋤匪類。而主事秦聚奎、給事中朱一桂鹹為被察者訟冤。察疏猶未下,允升慮帝意動搖,三疏別白其故,且劾吏部侍郎蕭雲舉佐察行私,事乃獲竣,雲舉亦引去。尋遷順天府丞,進府尹。齊、楚、浙三黨用事,移疾歸。

天啓初年、起用されて刑部左・右侍郎を歴任した。三年、尚書に進んだ。魏忠賢が吏部尚書趙南星を追放したとき、廷推で允升が後任に推された。忠賢は允升を南星の党とみなし、主議者をも追放したため、允升は再び病気を理由に帰郷した。その後、給事中の薛國觀が允升が邪党の主謀であると弾劾し、詔により職を奪われ閑住を命ぜられた。

原文天啟初,起歷刑部左、右侍郎。三年,進尚書。魏忠賢逐吏部尚書趙南星,廷推允升代。忠賢以允升為南星黨,並逐主議者,允升復移疾歸。既而給事中薛國觀劾允升主謀邪黨,詔落職閑住。

崇禎初年、召されて元の官職に任ぜられた。当時、訴訟はますます煩雑となり、帝は一切を重典で処断した。允升は法を曲げずに執行し、多くを平反した。先に、錢謙益が浙江で典試を務めた。奸人金保元・徐時敏が関節を偽造し、挙子の錢千秋に授けた。千秋はもともと文才があり、推薦されたが、保元・時敏の詐欺に気づき、彼らと争った。事が京師に伝わり、部・科の磨勘者に発覚した。謙益は大いに驚き、二奸の所為を詰問し、上疏して弾劾し、千秋とともに官吏に下された。罪は戍辺に当たったが、二奸は獄死し、千秋は赦免されて釈放された。事はすでに七年を経ていたが、溫體仁が枚卜に与からず、謙益が主導したと疑い、再びこの事を発覚させた。詔により千秋を逮捕し再審した。帝は廷臣が結党していることを深く疑い、怒りを蓄えて待ち、體仁はまた密かに傍らで窺っていたため、廷臣は互いに顔を見合わせて息をひそめた。允升はそこで都御史曹于汴・大理卿康新民らとともに再び審理し、千秋は拷問を受けても異なる供述はなく、允升らは詳細を上奏した。帝は悦ばず、覆勘を命じた。體仁は謙益の事が明らかになれば、自分が譴責を受けることを憂い、再び上疏して法官の六欺を弾劾し、さらに獄詞はすべて謙益の手によるものだと述べた。允升は憤慨し、辞任を求めた。帝は慰留したが、結局體仁の言うとおりにし、謙益の官を奪い閑住を命じた。千秋は枷をはめられて死んだ。

原文崇禎初,召拜故官。時訟獄益繁,帝一切用重典。允升執法不撓,多所平反。先是,錢謙益典試浙江。有奸人金保元、徐時敏偽作關節,授舉子錢千秋,千秋故有文,獲薦,覺保元、時敏詐,與之哄。事傳京師,為部、科磨勘者所發。謙益大駭,詰知二奸所為,疏劾之,並千秋俱下吏。罪當戍,二奸瘐死,千秋更赦釋還。事已七年矣,溫體仁以枚卜不與,疑謙益主之,復發其事。詔逮千秋再訊。帝深疑廷臣結黨,蓄怒以待,而體仁又密伺於旁,廷臣相顧惕息。允升乃會都御史曹于汴、大理卿康新民等讞鞫者再,千秋受拷無異詞,允升等具以聞。帝不悅,命覆勘。體仁慮謙益事白,己且獲譴,再疏劾法官六欺,且言獄詞盡出謙益手。允升憤,求去。帝雖慰留,卒如體仁言,奪謙益官閑住。千秋荷校死。

二年冬、我が大清兵が都城に迫ると、獄囚の劉仲金ら百七十人が枷を破って脱出し、城を越えようとして捕らえられた。帝は震怒し、允升と左侍郎胡世賞・提牢主事敖繼榮を獄に下し、死罪に処そうとした。中書の沈自植が隙に乗じて允升の他の罪を摘発して弾劾し、上奏文はともに下って取り調べられた。副都御史で院事を掌る易應昌は允升らに死罪はないとし、再三執奏したが、帝はますます怒り、應昌をも獄に下し、僉都御史高弘圖・大理寺卿金世俊の官階を下げ、少卿周邦基以下の俸給を奪い、再審を命じた。弘図らはそこで允升を絞罪に処すとし、わずかにその年老いて憐れむべきことを述べた。帝は允升は法により死罪に当たるが、特に高齢で重病であることを理由に死罪を減じ、繼榮とともに辺境に戍らせ、世賞は杖罪を贖って庶民とした。尚書胡應臺らが應昌の罪を上奏したが、帝は軽すぎるとした。郎中徐元嘏を廷で杖打ちし、應臺の官階を下げて職務に就かせ、應昌は死罪と論じられた。四年四月、長く旱魃が続いたため直言を求めると、多くが刑罰を緩めるよう請い、ようやく應昌と工部尚書張鳳翔・御史李長春・給事中杜齊芳・都督李如楨の死罪を免じ、辺衛に戍らせた。允升は戍所に赴いたが、まもなく死んだ。允升は端方で廉直であり、朝廷内外で官歴を重ね、名声と実績があったが、連座して重い譴責を受け、天下はこれを惜しんだ。

原文二年冬,我大清兵薄都城,獄囚劉仲金等百七十人破械出,欲逾城,被獲。帝震怒,下允升及左侍郎胡世賞、提牢主事敖繼榮獄,欲置之死。中書沈自植乘間摭劾允升他罪,章並下按問。副都御史掌院事易應昌以允升等無死罪,執奏再三,帝益怒,並下應昌獄,鐫僉都御史高弘圖、大理寺卿金世俊級,奪少卿周邦基以下俸,令再讞。弘圖等乃坐允升絞,而微言其年老可念。帝謂允升法當死,特高年篤疾減死,與繼榮俱戍邊,世賞贖杖為民。尚書胡應臺等上應昌罪,帝以為輕。杖郎中徐元嘏於廷,鐫應臺秩視事,應昌論死。四年四月,久旱求言,多請緩刑,乃免應昌及工部尚書張鳳翔、御史李長春、給事中杜齊芳、都督李如楨死,遣戍邊衛。允升赴戍所,未幾死。允升端方廉直,揚歷中外,具有聲績,以詿誤獲重譴,天下惜之。

易應昌、字は瑞芝、臨川の人。萬曆四十一年の進士。熹宗の時、御史から累進して大理少卿となった。逆党に東林と弾劾され、官籍を削られた。崇禎二年、左僉都御史に起用され、左副都御史に進み、曹于汴とともに史褷・高捷の起官の事を支持し、当時に重んぜられたが、ここに至って罪を得た。福王の時、召されて元の官職に復し、工部右侍郎に転じた。国変の後に卒した。

原文易應昌,字瑞芝,臨川人。萬曆四十一年進士。熹宗時,由御史累遷大理少卿。逆黨劾為東林,削籍。崇禎二年,起左僉都御史,進左副都御史,與曹于汴持史褷、高捷起官事,為時所重,至是獲罪。福王時,召復故官,遷工部右侍郎。國變後卒。

帝は在位十七年の間、刑部の尚書を十七人も替えた。薛貞は奄党で死罪に当たり、蘇茂相は半年で罷免され、王在晉は未赴任のうちに兵部に改められて去り、允升は戍辺に遣られ、韓繼思は獄議に坐して除名され、胡應臺のみが善く去り、馮英は弾劾されて戍辺に遣られ、鄭三俊は獄議に坐して逮捕・拘禁され、劉之鳳は獄議に坐して絞罪と論じられ獄中で病死し、甄淑は賄賂収受に坐して詔獄に下され、刑部に移されて病死し、李覺斯は獄議に坐して官籍を削られて去り、劉澤深は任上で卒し、鄭三俊は再び尚書となり、吏部に改められ、範景文は未赴任のうちに工部に改められ、徐石麒は獄議に坐して落職閑住を命ぜられ、胡應臺は再び召されたが赴かず、その後を継いだ張忻は、賊が京師を陥落させると、子の庶吉士張端とともに降伏した。

原文帝在位十七年,刑部易尚書十七人。薛貞以奄黨抵死,蘇茂相半歲而罷,王在晉,未任改兵部去,允升遣戍,韓繼思坐議獄除名,胡應臺獨得善去,馮英被劾遣戍,鄭三俊坐議獄逮系,劉之鳳坐議獄論絞,瘐死獄中,甄淑坐納賄下詔獄,改系刑部,瘐死,李覺斯坐議獄削籍去,劉澤深卒於位,鄭三俊再為尚書,改吏部,範景文未任,改工部,徐石麒坐議獄落職閑住,胡應臺再召不赴,繼其後者張忻,賊陷京師,與子庶吉士端並降。

曹于汴、字は自梁、安邑の人。萬曆十九年、郷試で第一に挙げられた。翌年進士となり、淮安推官に任ぜられた。治績が優等であったため、吏科給事中に抜擢された。上疏して両京の兵部尚書田樂・邢玠および雲南巡撫陳用賓を弾劾し、楽・玠はついに辞任した。吏部郎の趙邦清が誣告されたとき、于汴は上疏してその冤罪を晴らした。休暇を取って帰郷し、家を借りて住んだが、風雨も防げなかった。

原文曹于汴,字自梁,安邑人。萬曆十九年舉鄉試第一。明年成進士,授淮安推官。以治行高第,授吏科給事中。疏劾兩京兵部尚書田樂、邢玠及雲南巡撫陳用賓,樂、玠遂引去。吏部郎趙邦清被誣,于汴疏雪之。謁告歸,僦屋以居,不蔽風日。

起用されて刑科左・右給事中を歴任した。朝房が火災に遭い、急いで欠員を補充し、廃れた政務を修復するよう請うた。遼左に警報があり、朝議で増兵が論じられたが、于汴は言った。「国家は三年ごとに使者を辺境に派遣し、盛んに辺臣の功績を褒め称え、蟒衣・金幣の賜与や官秩の増加を惜しんだことはない。今、防備がこれほど廃れているのは、重く按問すべきである。辺道の超擢は、秩満の時にその実績を検証すべきで、ただ資俸に従い、建牙開府の地位を得るのを座して待つべきではない。」吏科都給事中に進んだ。給事中の胡嘉棟が中官陳永壽兄弟の奸悪を発覚させると、永壽は逆に嘉棟を告訴した。于汴は極力永壽の罪を論じた。故事では、章疏は会極門に入り、中官が直接御前に達するが、この時は必ず開封して目を通してから進上していた。于汴は祖制に背き、事機を漏らすものだとして、強くその禁止を請うた。三十八年に外察を主管し、去留はすべて適切であった。翌年、京察を主管し、湯賓尹・劉國縉らを退け、年例によって王紹徽・喬慶甲を外任に出した。その党が群をなして激しく攻撃したが、于汴は堅く主張し、ついにその意見を変えさせることができなかった。長く在任したため太常少卿に抜擢されたが、上疏は留中され、休暇の申請も返答がなく、一年余り待命した後、病気を理由に帰郷した。

原文起歷刑科左、右給事中。朝房災,請急補曠官,修廢政。遼左有警,朝議增兵,于汴言:「國家三歲遣使者閱邊,盛獎邊臣功伐,蟒衣金幣之賜,官秩之增,未嘗或靳。今廢防至此,宜重加按問。邊道超擢,當於秩滿時閱實其績,毋徒循資俸,坐取建牙開府。」進吏科都給事中。給事中胡嘉棟發中官陳永壽兄弟奸,永壽反訐嘉棟。于汴極論永壽罪。故事,章疏入會極門,中官直達之御前,至是必啟視然後進禦。于汴謂乖祖制,泄事機,力請禁之。三十八年典外察,去留悉當。明年,典京察,屏湯賓尹、劉國縉等,而以年例出王紹徽、喬慶甲於外。其黨群起力攻,于汴持之堅,卒不能奪。以久次擢太常少卿,疏寢不下,請告又不報,候命歲餘,移疾歸。

光宗が即位すると、ようやく太常少卿として召された。到着すると大理少卿に改められ、左僉都御史に転じ、趙南星の京察を補佐した。事が完了すると、左副都御史に進んだ。天啓三年秋、吏部に右侍郎が欠け、廷推で馮從吾が推され、于汴が副とされたが、中旨により特に于汴が任用された。于汴は從吾の名声・地位が自分より上であるとして、越えるのは義に合わないとし、四度辞退したが許されず、ついに病気を理由に帰郷した。翌年、南京右都御史に起用されたが、辞退して拝命しなかった。当時、紹徽・應甲は魏忠賢に附いて志を得、必ず于汴を害そうとし、その党の石三畏に命じて東林の領袖として弾劾させ、ついに官職を削奪された。

原文光宗立,始以太常少卿召。至則改大理少卿,遷左僉都御史,佐趙南星京察。事竣,進左副都御史。天啟三年秋,吏部缺右侍郎,廷推馮從吾,以于汴副,中旨特用于汴。于汴以從吾名位先己,義不可越,四辭不得,遂引疾歸。明年,起南京右都御史,辭不拜。時紹徽、應甲附魏忠賢得誌,必欲害于汴,屬其黨石三畏以東林領袖劾之,遂削奪。

崇禎元年、召されて左都御史に拝された。憲規を振興し、僚吏を戒飭し、臺中は粛然とした。翌年の京察において、力をもって匪類を淘汰し、忠賢の余党はほとんど尽き、仕路は清まった。溫體仁が錢謙益を弾劾し、錢千秋を法司に下したが、訊問しても実を得ず、體仁は于汴が謙益の座主であるとして、併せて弾劾した。于汴もまた體仁の欺罔の状を発した。帝は終に體仁を信じ、謙益はついに罪を得た。

原文崇禎元年,召拜左都御史。振舉憲規,約敕僚吏,臺中肅然。明年京察,力汰匪類,忠賢余黨幾盡,仕路為清。溫體仁訐錢謙益,下錢千秋法司,訊不得實,體仁以于汴謙益座主也,並訐之。于汴亦發體仁欺罔狀。帝終信體仁,謙益竟獲罪。

先に、詔して逆案を定めんとす。于汴は大学士韓爌・李標・錢龍錫、刑部尚書喬允升と共に平心して参決し、過酷を為さず、小人はなおこれを憎んだ。故御史高捷・史褷はもとより邪佞にして、清議に擯斥され、吏部尚書王永光が力を込めてこれを推薦した。故事に、御史が起官するには必ず都察院が咨取する。于汴はその人を憎み、久しく咨らなかった。永光は憤り、再び疏を上りて力争した。すでに請いを得たが、于汴はなお故事をもってこれを抑え、両人は遂に牒を投じて自ら乞うた。于汴はますますこれを憎み、終に与えず。両人は遂に部疏をもって起官し、日夜于汴を傾けんと謀った。

原文先是,詔定逆案。于汴與大學士韓爌、李標、錢龍錫,刑部尚書喬允升平心參決,不為已甚,小人猶惡之。故御史高捷、史褷素憸邪,為清議所擯,吏部尚書王永光力薦之。故事,御史起官,必都察院咨取,于汴惡其人,久弗咨。永光憤,再疏力爭。已得請,于汴猶以故事持之,兩人遂投牒自乞,于汴益惡之,卒持不予。兩人竟以部疏起官,遂日夜謀傾于汴。

中書原抱奇なる者は、賈人の子なり。かつて大学士爌を誣劾した。ここに至り再び爌及び于汴を弾劾し、併せて尚書孫居相・侍郎程啟南・府丞魏光緒に及び、「西党」と目し、皆放黜すべしと請うた。五人とも山西の籍を有するためなり。帝は抱奇の言を退けて聴かなかった。しかし工部主事陸澄源がまた于汴が朋党をなして奸を為す六罪を弾劾した。帝は澄源を貶謫したが、于汴はついに職を謝して去った。朝辞に臨み、敦大を以て規を進めた。七年に卒す。七十七歳。太子太保を贈られた。

原文中書原抱奇者,賈人子也,嘗誣劾大學士爌。至是再劾爌及于汴并及尚書孫居相、侍郎程啟南、府丞魏光緒,目為「西黨」,請皆放黜,以五人籍山西也。帝絀抱奇言不聽。而工部主事陸澄源復劾于汴朋奸六罪。帝雖謫澄源,于汴卒謝事去。及辭朝,以敦大進規。七年卒,年七十七。贈太子太保。

于汴は篤く正学に志し、操履は純白であった。朝に立ちては、正色して阿わず、名教を崇め奨励し、古の大臣の風があった。

原文于汴篤誌正學,操履粹白。立朝,正色不阿,崇獎名教,有古大臣風。

孫居相、字は伯輔、沁水の人。萬曆二十年の進士。恩県知県に除された。征召されて南京御史に授けられた。気概に富み敢えて言う。かつて疏を上り時政を陳べ、「今内は宰執より、外は郡守県令に至るまで、一人としてその職を尽くす者なし。政事は日々廃れ、治道は日々乖離し、天変人怨、究むるところ瓦解土崩せんとす。珠玉金宝が地に亘り天に満つとも、何ぞ危乱を救わんや」と言う。帝は省みなかった。誠意伯劉世延は重辟を屡々犯し、庶人に廃され原籍に錮された。詔に奉ぜず、久しく南京に居り、ますます法に背き、星変を妄言し、兵を勒して闕に赴かんとす。居相は疏を上りてその奸を発し、併せて南京の勛臣子弟の暴横の状に及んだ。旨を得て世延を吏に下し、安遠・東寧・忻城の諸侯伯の子弟は悉く按問され、強暴は止んだ。税使楊榮が雲南に変を激し、太和山を守る中官黄勛が道士を嗾けて知府を毆辱せしめしを、居相は皆その罪を極論した。

原文孫居相,字伯輔,沁水人。萬曆二十年進士。除恩縣知縣。征授南京御史。負氣敢言。嘗疏陳時政,謂:「今內自宰執,外至郡守縣令,無一人得盡其職。政事日廢,治道日乖,天變人怨,究且瓦解土崩。縱珠玉金寶亙地彌天,何救危亂!」帝不省。誠意伯劉世延屢犯重辟,廢為庶人,錮原籍。不奉詔,久居南京,益不法,妄言星變,將勒兵赴闕。居相疏發其奸,並及南京勛臣子弟暴橫狀。得旨下世延吏,安遠、東寧、忻城諸侯伯子弟悉按問,強暴為戢。稅使楊榮激變雲南,守太和山中官黃勛嗾道士毆辱知府,居相皆極論其罪。

時に中外に官の欠員多く、居相は七つの差を兼ね摂り、諸道の印を署し、事は皆治められた。大学士沈一貫は数えしばしば人言に遭い、居相は力を込めてその奸貪・党を植えるを詆し、一貫は遂に去り、居相もまた禄を奪われ一年に及んだ。連ねて内外の艱に遭う。服闋し、起官し、漕運を巡視に出で、還って湯賓尹・韓敬の科場の事を発した。廷議は官を褫すに当たるとし、その党が営護し、旨を下して法司に覆勘せしむ。居相はまた敬の賄を通ずる状を発し、敬は遂に振るわず。故事に、御史は年例により外転し、吏部・都察院が協議す。王時熙・魏雲中の去るに、都御史孫瑋は関与せず。居相は再び疏を上り尚書趙煥を劾し、煥は引退した。鄭繼之が煥に代わり、また私意をもって宋槃・潘之祥を外に出さんとし、居相もまた法に拠り力争した。吏部侍郎方從哲は中旨により起官し、中書張光房ら五人は持議が時貴に合わず、擯斥されて科道選に与からず、居相は併せて抗章して論列した。

原文時中外多缺官,居相兼攝七差,署諸道印,事皆辦治。大學士沈一貫數被人言,居相力詆其奸貪植黨,一貫乃去,居相亦奪祿一年。連遭內外艱。服闋,起官,出巡漕運,還發湯賓尹、韓敬科場事。廷議當褫官,其黨為營護,旨下法司覆勘。居相復發敬通賄狀,敬遂不振。故事,御史年例外轉,吏部、都察院協議。王時熙、魏雲中之去,都御史孫瑋不與聞。居相再疏劾尚書趙煥,煥引退。及鄭繼之代煥,復以私意出宋槃、潘之祥於外,居相亦據法力爭。吏部侍郎方從哲由中旨起官,中書張光房等五人以持議不合時貴,擯不與科道選,居相並抗章論列。

この時、朋党の勢い成り、言路の不肖なる者は率ね吏部に附き、以て異己を駆除し、勢い甚だ張り。居相は身を挺してこれに抗し、気少しも沮まず。ここにおいて過庭訓・唐世濟・李征儀・劉光復・趙興邦・周永春・姚宗文・吳亮嗣・汪有功・王萬祚ら群起して難を為し、居相は連疏して搘拄し、諸人ついに害すること能わず。四十五年に至り、また年例をもって居相を江西参政に出し、疾を引いて就かず。

原文當是時,朋黨勢成,言路不肖者率附吏部,以驅除異己,勢張甚。居相挺身與抗,氣不少沮。於是過庭訓、唐世濟、李征儀、劉光復、趙興邦、周永春、姚宗文、吳亮嗣、汪有功、王萬祚輩群起為難,居相連疏搘拄,諸人迄不能害。至四十五年,亦以年例出居相江西參政,引疾不就。

天啓改元、光祿少卿に起用。太僕に改め、右僉都御史に擢げられ、陜西を巡撫。四年春、召されて兵部右侍郎に拝された。その冬、魏忠賢が柄を盗み、また疾を引いて帰る。間もなく、給事中陳序が居相は趙南星の門を出で、楊漣と交好すと謂い、序の同官虞廷陛がまた居相が力を込めて李三才を推薦し、遙かに史記事と結ぶを劾し、遂に削奪された。

原文天啟改元,起光祿少卿。改太僕,擢右僉都御史,巡撫陜西。四年春,召拜兵部右侍郎。其冬,魏忠賢盜柄,復引疾歸。無何,給事中陳序謂居相出趙南星門,與楊漣交好,序同官虞廷陛又劾居相力薦李三才,遙結史記事,遂削奪。

崇禎元年、戸部右侍郎に起用され、専ら鼓鑄を督む。まもなく吏部に改め、左侍郎に進み、戸部尚書として倉場を総督。漕を転ずるに多く民舟を雇い、民は甚だ憊れ、居相の言により蘇るを得た。高平知県喬淳は貪虐にして、給事中楊時化に劾せられ、贓二万有余に坐す。淳は京師に家し、奥援あり、法司に移して覆訊を乞い、かつ時化が請囑して隙を致すを弾劾した。時化は方に憂居し、居相に通書し、報書に「国事日非、邪氛益悪」の語あり、偵事者の得るところとなり、朝に聞こゆ。帝は大いに怒り、居相を獄に下し、辺に戍す。七年、戍所に卒す。

原文崇禎元年,起戶部右侍郎,專督鼓鑄。尋改吏部,進左侍郎,以戶部尚書總督倉場。轉漕多雇民舟,民憊甚,以居相言獲蘇。高平知縣喬淳貪虐,為給事中楊時化所劾,坐贓二萬有奇。淳家京師,有奧援,乞移法司覆訊,且訐時化請囑致隙。時化方憂居,通書居相,報書有「國事日非,邪氛益惡」語,為偵事者所得,聞於朝。帝大怒,下居相獄,謫戍邊。七年,卒於戍所。

弟鼎相、吏部郎中・副都御史を歴任し、湖広を巡撫し、また東林中に名あり。

原文弟鼎相,歷吏部郎中、副都御史,巡撫湖廣,亦有名東林中。

曹珖、字は用韋、益都の人。萬曆二十九年の進士。戸部主事に授けられ、皇城四門を督む。倉衞えいの軍が群璫に子銭を貸し、月餉をもって償う。軍は三年にわたり餉を受けず。餉期に及び、群璫が券を抱えて至る。珖は命じて息を減ぜしめ、璫大いに嘩す。珖曰く、「私券を併せて奏聞し、上処分を聴かん」と。群璫は命の如くせんことを請い、軍の困窮稍々蘇る。憂いにより去る。

原文曹珖,字用韋,益都人。萬曆二十九年進士。授戶部主事,督皇城四門。倉衞軍貸羣璫子錢,償以月餉,軍不支餉者三年。及餉期,羣璫抱券至,光命減息,璫大嘩。珖曰:「并私券奏聞,聽上處分耳。」羣璫請如命,軍困稍蘇。以憂去。

起補されて兵部武選主事、職方郎中を歴任。大璫の私人が大帥を求めしも、珖は不可とす。東廠太監盧受が疏を上り職掌を申す。珖もまた勅して受に部卒を約束し、良民を陥れしめざるを請う。稍々遷りて河東参政、疾を引いて帰る。久しくして南京太常少卿に起用。光宗の驟崩に、馳疏して言う、「先帝春秋鼎盛にして、奄かに群臣を棄つ。道路皆奸党の陰謀、医薬雑進して以て此に至るを知る。天下の弑しい逆に、毒にして鴆にあらず、戕にして刃にあらざる者あり。これと先年の梃撃とは、同一の奸宄なり。輔臣に明詔し、直ちに奸状を窮め、以て先帝の仇を雪がんことを乞う」と。報聞す。

原文起補兵部武選主事,歷職方郎中。大璫私人求大帥,珖不可。東廠太監盧受疏申職掌,珖亦請敕受約束部卒,毋陷良民。稍遷河東參政,引疾歸。久之,起南京太常少卿。光宗驟崩,馳疏言:「先帝春秋鼎盛,奄棄群臣,道路鹹知奸黨陰謀,醫藥雜進,以至於此。天下之弒逆,有毒而非鴆、戕而非刃者,此與先年梃擊,同一奸宄。乞明詔輔臣,直窮奸狀,以雪先帝之仇。」報聞。

天啓初、職方在任時の辺功を叙し、光祿卿を加えられ、太常大理卿に進む。魏忠賢の政を乱し、大獄紛起す。珖は告帰を請う。まもなく給事中潘士聞に劾せられ、落職閑住。御史盧承欽が歴攻して東林を攻め、珖が邪盟に狎主すと詆し、遂に削奪された。

原文天啟初,敘職方時邊功,加光祿卿,進太常大理卿。魏忠賢亂政,大獄紛起,珖請告歸。尋為給事中潘士聞所劾,落職閑住。御史盧承欽歷攻東林,詆光狎主邪盟,遂削奪。

崇禎元年、戸部右侍郎に起用され、銭法を督め、まもなく左侍郎に遷る。三年、工部尚書に拝された。珖は初め珍と名乗り、仁宗の諱いみなを避け、始めて名を改む。五年、陵工成り、太子少保を加えられる。桂王が府第を重建するに、江西・河南・山東・山西の田賦十二万有余を加えるを議し、浙江の逋織造銀十余万を、巡撫陸完学が正額に編入せんことを請う。珖は皆持して不可とす。

原文崇禎元年,起戶部右侍郎,督錢法,尋遷左侍郎。三年,拜工部尚書。珖初名珍,避仁宗諱,始改名。五年,陵工成,加太子少保。桂王重建府第,議加江西、河南、山東、山西田賦十二萬有奇;浙江逋織造銀十餘萬,巡撫陸完學請編入正額。珖皆持不可。

宦官張彜憲が戸部・工部両部の事務を総理し、部堂に座席を設けることを議したが、珖は認めなかった。右侍郎高弘図が着任すると、彜憲は共に公座を設けようとしたが、珖は弘図と約束し、彜憲が到着すると、皆「事務は完了した」と言って座席を撤去したので、彜憲は不満であった。主事金鉉・馮元飏が相次いで上疏して彜憲を弾劾すると、彜憲は珖の指図と疑い、日々その隙を探った。山永巡撫劉宇烈が材料代一万五千両・鉛五万斤を請求した時、工部には銀を支給する先例がなく、鉛の半分を与えたところ、宇烈は怒り、鉛は全て粗悪であると上奏した。彜憲は粗悪な鉛を取って進呈し「庫蔵の鉛は皆このようなものだ」と言い、珖を罪に陥れようとした。厳命により庫蔵の鉛を全て溶解させたところ、司官で毒死した者が三人、内外の官で罪を得る者が多かった。彜憲はさらに巡視科道許国栄ら十一人を糾弾し、珖が上疏して救おうとしたが、上意に逆らい詰責された。彜憲はまた閘門工事の費用不正を指摘して齟齬を生じさせ、珖は累次上疏して骸骨を乞い帰郷を願い、五月に許可を得た。たびたび推薦されたが起用されず、家に居ること十四年で卒した。

原文中官張彜憲總理戶、工兩部事,議設座於部堂,珖不可。右侍郎高弘圖履任,彜憲欲共設公座,珖與弘圖約,比彜憲至,皆曰「事竣矣」,撤座去,彜憲怏怏。及主事金鉉、馮元飏交疏劾彜憲,彜憲疑出珖,日捃摭其隙。會山永巡撫劉宇烈請料價萬五千兩、鉛五萬斤,工部無給銀例,與鉛之半,宇烈怒,奏鉛皆濫惡。彜憲取粗鉛進曰「庫鉛盡然」,欲以罪珖。嚴旨盡熔庫鉛,司官中毒死者三人,內外官多獲罪。彜憲乃糾巡視科道許國榮等十一人,珖疏救,忤旨詰責。彜憲又指閘工冒破齮龁之,珖累疏乞骸骨歸,五月得請。屢薦不起。家居十四年卒。

陳于廷、字は孟諤、宜興の人。万暦二十三年の進士。光山・唐山・秀水の三県の知県を歴任し、召されて御史に任じられた。拝命したばかりで、早くも給事中汪若霖を論救し、大学士朱賡を激しく誹謗し、俸給を一年奪われる罪に坐した。まもなく、職方郎中申用懋・趙拱極・黄克謙が宰相の私的な者であり、要地に処すべきでないと弾劾し、また朱賡及び王錫爵を罷斥すべきと弾劾した。後に、諭徳顧天飐は平素より清議を幹にし、長く詞林を汚すべきでないと上言した。言葉は皆厳しく痛切であった。河東で塩務を視察し、税使張忠が塩政を撓乱することを弾劾した。正陽門が火災に遭った時、時政の欠失を極力陳述した。父の喪で帰郷し、喪が明けて、起用されて江西を按察した。当時、税務はすでに有司に属していたが、宦官潘相が自ら湖口の税を監督しようとしたので、于廷はその詔旨に背き民を虐待することを弾劾した。淮府の庶子常洪が奸悪を行ったので、法に照らして処置するよう論じた。山東按察に改めた。

原文陳于廷,字孟諤,宜興人。萬曆二十三年進士。歷知光山、唐山、秀水三縣,征授御史。甫拜命,即論救給事中汪若霖,詆大學士朱賡甚力,坐奪俸一年。頃之,劾職方郎中申用懋、趙拱極、黃克謙為宰相私人,不宜處要地,又劾賡及王錫爵當斥。已,言諭德顧天飐素幹清議,不宜久玷詞林。語皆峻切。視鹺河東,劾稅使張忠撓鹽政。正陽門災,極陳時政闕失。父喪歸。服除,起按江西。時稅務已屬有司,而中官潘相欲親督湖口稅,于廷劾其背旨虐民。淮府庶子常洪作奸,論置之法。改按山東。

光宗が即位すると、太僕少卿に抜擢され、太常に転じた。「紅丸」の事件を議し、崔文升・李可灼を斬るべきと極言した。尚書王紀が排斥された時、特に上疏して救った。再び進んで大理卿・戸部右侍郎となり、吏部に改め、左侍郎に進んだ。尚書趙南星が既に追放された後、于廷が事務を代行した。大学士魏広微が魏忠賢の意を伝え、その私的な者を用いて南星に代えようとし、かつ于廷を総憲に抜擢することを許したが、于廷は認めず、喬允升・馮従吾・汪応蛟の名を上奏した。忠賢は大いに怒り、推挙した者は依然として南星の遺党であると言い、詔旨を偽って厳しく責め、楊漣・左光斗をも尽く民に貶斥した。文選郎張可前・御史袁化中・房可壮もまた罪に坐して貶黜された。ここに至って清流は尽く追放され、小人が日々政事を執るようになった。

原文光宗立,擢太僕少卿,徙太常。議「紅丸」事,極言崔文升、李可灼當斬。尚書王紀被斥,特疏申救。再進大理卿、戶部右侍郎,改吏部,進左侍郎。尚書趙南星既逐,于廷署事。大學士魏廣微傳魏忠賢意,欲用其私人代南星,且許擢于廷總憲,于廷不可,以喬允升、馮從吾、汪應蛟名上。忠賢大怒,謂所推仍南星遺黨,矯旨切責,並楊漣、左光鬥盡斥為民。文選郎張可前、御史袁化中、房可壯亦坐貶黜。自是清流盡逐,小人日用事矣。

崇禎初年、南京右都御史に起用された。鄭三俊と共に京察を主管し、諸々の不肖なる者を全て罷免した。南京御史の差遣が終わると、先例により北京での考査を聴くことになっていたが、于廷は先ず南京で考査するよう請い、許可された。召されて左都御史に拝された。巡方の責任が重いことを以て、大吏の糾弾・人材の推薦・荒政の修復・屯塩の査核・耗羨の禁止・獄囚の浄化・奸豪の探訪・寇盗の鎮撫の八事を列挙して上奏し、回道の日に実績を査核して功績を評価するよう請うた。優詔で褒められ採用された。給事中馬思理、御史高倬・余文縉が事に坐して吏に下された時、共に抗疏して彼らを救った。任期が満ちて、太子少保を加えられた。三度上疏して休職を乞うたが、許されなかった。

原文崇禎初,起南京右都御史。與鄭三俊典京察,盡去諸不肖者。南御史差竣,例聽北考,于廷請先考於南,報可。召拜左都御史。以巡方責重,列上糾大吏、薦人才、修荒政、核屯鹽、禁耗羨、清獄囚、訪奸豪、弭寇盜八事,請於回道日核實課功。優詔褒納。給事中馬思理,御史高倬、余文縉坐事下吏,並抗疏救之。秩滿,加太子少保。三疏乞休,不允。

両浙巡塩御史祝徽と広西巡按御史畢佐周が共に指揮を擅に鞭打ち、先例にないことであった。事が聞こえると、帝はちょうど疆場に多事を思い、武臣に頼ろうとし、参核するよう旨を下した。于廷らは言った。「軍官は世胄より起り、概ね法度に循わず、一律に弾劾の上奏文に列すれば、擾乱に耐えられないであろう。故に小過には薄く責めて懲らしめるのである。凡そ在外の御史は皆そうであり、二臣に始まったことではない。」帝は指揮の官位が高く、御史が杖打つべきでないとし、兵部と会して典制を稽え上奏するよう命じた。典制には実際に指揮を杖打つ事はなく、于廷らは巡撫の敕書にある四品武職を取り調べるという語を引きいて答えた。帝は比喩が類を同じくしないとし、再び査核するよう責め命じた。于廷らは終に御史を擁護し、援引したことは悉く帝の意に当たらなかった。三度上疏し三度退けられ、遂に官籍を削られて帰郷した。家に居ること二年で卒した。福王の時、少保を追贈された。

原文兩浙巡鹽御史祝徽、廣西巡按御史畢佐周並擅撻指揮,非故事。事聞,帝方念疆場多故,欲倚武臣,旨下參核。于廷等言:「軍官起世胄,率不循法度,概列彈章,將不勝擾,故小過薄責以懲。凡御史在外者盡然,不自二臣始。」帝以指揮秩崇,非御史得杖,令會兵部稽典制以聞,典制實無杖指揮事,乃引巡撫敕書提問四品武職語以對。帝以比擬不倫,責令再核,于廷等終右御史,所援引悉不當帝意。疏三上三卻,竟削籍歸。家居二年卒。福王時,贈少保。

于廷は端直で廉潔な節操を持っていた。周延儒が国政を執った時、于廷はその同郷人であったが、何にも附麗しなかった。温体仁と合わず、故に終に重い譴責を受けて去った。

原文于廷端亮有守。周延儒當國,于廷其裏人,無所附麗。與溫體仁不合,故卒獲重譴去。

鄭三俊、字は用章、池州建徳の人。万暦二十六年の進士。元氏知県に任じられた。累進して南京礼部郎中・帰徳知府・福建提学副使となった。家に居ること七年、元の官に起用され、浙江糧儲を督した。

原文鄭三俊,字用章,池州建德人。萬曆二十六年進士。授元氏知縣。累遷南京禮部郎中、歸德知府、福建提學副使。家居七年,起故官,督浙江糧儲。

天啓初年、召されて光禄少卿となり、太常に改めた。未だ着任せず、宦官の侵冒する六事を陳述した。当時、魏忠賢・客氏が后妃を離間し、帝に会うことを希っていたが、三俊の上疏に「三宮を篤厚にし、妖冶なる者は御前に列せず」との語があった。忠賢は二人の小者を閣中に遣わし、「妖冶」の語を摘出して、その罪を重くするよう命じたが、閣臣が力争し、詔旨を擬するには先朝の故事を以て言い訳とした。三俊は再び上疏して言った。「近日糜爛荼毒すること、宦官に逾るものはない。閣臣は悉くこれを故事と指す。古人が言うには、奄豎の名を聞くは国の福ならず。今、名を聞く者既に人あり、内に連なり外に結び、閣臣が弾圧して抑損するに恃むのに、閣臣は輒ち阿諛して自らその職を溺れさせる。寒心すべきである。」忠賢はますます怒り、言葉が内閣を侵すとして、留中して下さなかった。左僉都御史に抜擢され、兵糧の大計を陳述し、内外の諸司を規諫した。吏部郎中徐大相が事を言って貶謫された時、抗疏して彼を救った。

原文天啟初,召為光祿少卿,改太常。未上,陳中官侵冒六事。時魏忠賢、客氏離間後妃,希得見帝,而三俊疏有「篤厚三宮,妖冶不列於御」語。忠賢遣二豎至閣中,摘「妖冶」語,令重其罪,閣臣力爭,而擬旨則以先朝故事為辭。三俊復疏言:「近日麋爛荼毒,無逾中珰,閣臣悉指為故事。古人言奄豎聞名,非國之福。今聞名者已有人,內連外結,恃閣臣彈壓抑損之,而閣臣輒阿諛自溺其職,可為寒心。」忠賢益怒,以語侵內閣,留中不下。擢左僉都御史,疏陳兵食大計,規切內外諸司。吏部郎中徐大相言事被謫,抗疏救之。

四年正月、左副都御史に遷った。戸部右侍郎楊漣が忠賢を弾劾すると、三俊もまた上疏して極論した。まもなく倉場の事務を代行した。太倉に一年分の蓄えがなく、三俊は蓄えを充足させる数事を奏上して実行した。忠賢が楊漣らを尽く追放すると、三俊は遂に病を理由に去った。翌年、忠賢の党張訥が天下の書院を破毀するよう請い、三俊が鄒元標・馮従吾・孫慎行・余懋衡と合汚同流であると弾劾し、官職を褫奪して閑住させた。

原文四年正月,遷左副都御史。戶部右侍郎楊漣劾忠賢,三俊亦上疏極論。尋署倉場事。太倉無一歲蓄,三俊奏行足儲數事。忠賢盡逐漣等,三俊遂引疾去。明年,忠賢黨張訥請毀天下書院,劾三俊與鄒元標、馮從吾、孫慎行、余懋衡合汙同流,褫職閑住。

崇禎元年、南京戸部尚書に起用され、吏部事務を兼掌した。南京の諸官僚は多く忠賢の遺党であり、この年の京察で、三俊は一掃して淘汰した。京師が兵に襲われると、大臣は大いに譴責を受けた。翌年春、三俊は建儲のため入賀し、力説した。「皇上は憂労して過少であり、人情は鬱結して宣べられず。百官諸司は過ちを救うに暇なく、上下は乖離して孤となり、隠れた憂いとなるに足る。願わくは聖躬を保って天下を保ち、人心を収めて封疆を収められんことを。」帝は褒めて採用した。南京の糧米の年間額は八十二万七千余りであったが、滞納が数百万に積もり、兵部はまた兵を増やして止まなかった。三俊が初めて着任した時、倉庫には一月分の兵糧もなかった。三俊は力をもって宿弊を除去し、特に怠慢な有司数名を糾弾し、たびたび兵部と虚偽の請求を争い、久しくして、兵士は飽食を得た。万暦の時、税使が四方に出て、蕪湖に初めて関が設けられ、年間に税六七万を徴収したが、泰昌の時には既に停止していた。この時、度支が益々窮乏し、科臣解学龍が天下の関税を増やすよう請い、南京宣課司もまた二万を増やした。三俊は民を害すると考え、その半減を請い、その半分を蕪湖の坐賈に徴収するよう求めたが、戸部は遂に蕪湖に三万を割り当て、再び関を設けて商人から徴税した。三俊は徴税を廃止し、併せて工部分司で船ごとに課税を計算し、貨物には課税しないよう請うたが、いずれも従わず、遂に永制となった。蕪湖・淮安・杭州の三関は皆南京戸部に隷属し、派遣された司官李友蘭・霍化鵬・任俶は皆貪欲であったので、三俊は悉く弾劾して罷免した。

原文崇禎元年,起南京戶部尚書兼掌吏部事。南京諸僚多忠賢遺黨,是年京察,三俊澄汰一空。京師被兵,大臣大獲譴。明年春,三俊以建儲入賀,力言:「皇上憂勞少過,人情郁結未宣。百職庶司,救過不贍,上下睽孤,足為隱慮。願保聖躬以保天下,收人心以收封疆。」帝褒納之。南糧歲額八十二萬七千有奇,積逋至數百萬,而兵部又增兵不已。三俊初至,倉庫不足一月餉。三俊力祛宿弊,糾有司尤怠玩者數人,屢與兵部爭虛冒,久之,士得宿飽。萬曆時,稅使四出,蕪湖始設關,歲征稅六七萬,泰昌時已停。至是,度支益絀,科臣解學龍請增天下關稅,南京宣課司亦增二萬。三俊以為病民,請減其半,以其半征之蕪湖坐賈,戶部遂派蕪湖三萬,復設關征商。三俊請罷征,並於工部分司計舟輸課,不稅貨物,皆不從,遂為永制。蕪湖、淮安、杭州三關皆隸南戶部,所遣司官李友蘭、霍化鵬、任俶皆貪,三俊悉劾罷之。

七年を経て、吏部に移る。八年正月、また京察に当たり、七十八人を斥罷し、当時その公正を服した。まもなく官評を議し、請属を杜し、差委を慎むの三事を上奏し、帝はみな採納した。流寇が大いに江北を擾し、南都震動す、三俊はしばしば防禦策を陳ず。礼部侍郎陳子壮が獄に下されると、抗疏してこれを救う。

原文居七年,就移吏部。八年正月,復當京察,斥罷七十八人,時服其公。旋上議官評、杜請屬、慎差委三事,帝皆采納。流寇大擾江北,南都震動,三俊數陳防禦策。禮部侍郎陳子壯下獄,抗疏救之。

考績して都に入り、留められて刑部尚書となり、太子少保を加えられる。帝は陰陽の愆和を以て、司礼中官に命じて囚を録せしめ、流徒以下はみな減等す。三俊は文武諸臣の詿誤により久しく繫がる者衆多なるを以て、外に出て讞を候わしむることを請う。ここにおいて告訐株蔓の弊を論じ、「内外諸臣に惻隱の実政を行わしめよ。内においては五城の訊鞫、重辟にあらざれば必ずしも法司に参送せず、外においては撫按の提追、真犯にあらざれば必ずしも尽く京師に解せず、刑曹の決断は十日を期とす」と乞う。帝はみなこれに従う。代州知州郭正中は天変に因り、寒審の典を挙行することを請う、帝は故事を考うることを命ず。三俊は歴朝の宝訓を稽え、祖宗の冬月録囚の数事を得て、備えて列挙して上奏す、寝して行われず。前尚書馮英は事に坐して戍に遣わされ、その母は年九十有一、三俊は釈放して還り侍養せしむることを乞う、許されず。

原文考績入都,留為刑部尚書,加太子少保。帝以陰陽愆和,命司禮中官錄囚,流徒以下皆減等。三俊以文武諸臣詿誤久系者眾,請令出外候讞。因論告訐株蔓之弊,乞敕「內外諸臣行惻隱實政。內而五城訊鞫,非重辟不必參送法司;外而撫按提追,非真犯不必盡解京師;刑曹決斷,以十日為期。」帝皆從之。代州知州郭正中因天變,請舉寒審之典,帝命考故事。三俊稽歷朝寶訓,得祖宗冬月錄囚數事,備列上奏,寢不行。前尚書馮英坐事遣戍,其母年九十有一,三俊乞釋還侍養,不許。

初め、戸部尚書侯恂は屯豆の事に坐して獄に下され、帝は重く譴せんと欲す。三俊はたびたび讞を上す、旨に称せず。讒する者は恂と三俊はともに東林なり、法を曲げて捨てると謂う。工部銭局に盗がその垣を穴うるあり、主者の罪を按ずることを命ず、三俊もまた軽典を擬す。帝は大いに怒り、その官を褫して吏に下す。応天府丞徐石麒、たまたま京に在り、上疏して力救し、旨に忤いて切責せらる。帝が経筵に御す、講官黄景昉は三俊の至清なるを称し、また黄道周とともに各疏して救う。帝は納れず、三俊の欺罔を切責す。贓私なきを以て、獄を出でて訊を候わしむ。宣大総督盧象升またこれを救い、大学士孔貞運らまた以て言う、ここにおいて配贖を許す。

原文初,戶部尚書侯恂坐屯豆事下獄,帝欲重譴之。三俊屢讞上,不稱旨。讒者謂恂與三俊皆東林,曲法縱舍。工部錢局有盜穴其垣,命按主者罪,三俊亦擬輕典。帝大怒,褫其官下吏。應天府丞徐石麒適在京,上疏力救,忤旨切責。帝御經筵,講官黃景昉稱三俊至清,又偕黃道周各疏救。帝不納,切責三俊欺罔。以無贓私,令出獄候訊。宣大總督盧象升復救之,大學士孔貞運等復以為言,乃許配贖。

十五年正月、召して故官に復す。たまたま吏部尚書李日宣が罪を得、すなわち三俊を以てこれに代うることを命ず。時に考選に値し、外吏多くは繕城・墾荒の名を仮り、俸を減じて行取す、都御史劉宗周疏してこれを論ず。諸人はここにおいて周延儒に夤縁し、兵部尚書張国維に嘱して知兵を以て薦めしむ、帝はすなわち召対して親擢せんと欲す。三俊言う「考選は部・院の事、天子といえども且つ専らにすべからず、況んや樞部においてをや。先ず考定を乞い、乃ち聖裁を請う」と。帝は悦ばず、三俊を召して責む、対して屈せず。宗周また言う「三俊は部・院の考後に俟ち、その優劣純疵を第し、恭しく欽定を請わんと欲す。もし但だ奏対を以て人を取らば、安んぞ真品を得ん」と。帝は従わず、ここより幸進する者衆し。帝は詔を下して賢を求め、三俊は李邦華・劉宗周を挙げて自ら代わり、かつ黄道周・史可法・馮元飏・陳士奇の四人を薦む。姜埰・熊開元は事を言いて獄に下され、及び宗周が厳譴を獲るに及び、三俊はみな懇ろに救う。先後に奏して不職の司官数人を罷め、銓曹は悉く廩廩たり。大僚に官を缺く、三俊はたびたび引薦し、賢士の廢斥せられたる者多く復用せらる。刑部尚書徐石麒が罪を獲るや、同官を率いて合疏して留むることを乞う。

原文十五年正月,召復故官。會吏部尚書李日宣得罪,即命三俊代之。時值考選,外吏多假繕城、墾荒名,減俸行取,都御史劉宗周疏論之。諸人乃夤緣周延儒,囑兵部尚書張國維以知兵薦,帝即欲召對親擢。三俊言:「考選者部、院事,天子且不得專,況樞部乎?乞先考定,乃請聖裁。」帝不悅,召三俊責之,對不屈。宗周復言:「三俊欲俟部、院考後,第其優劣純疵,恭請欽定。若但以奏對取人,安能得真品?」帝不從,由是幸進者眾。帝下詔求賢,三俊舉李邦華、劉宗周自代,且薦黃道周、史可法、馮元飏、陳士奇四人。姜埰、熊開元言事下獄,及宗周獲嚴譴,三俊皆懇救。先後奏罷不職司官數人,銓曹悉廩廩。大僚缺官,三俊數引薦,賢士之廢斥者多復用。刑部尚書徐石麒獲罪,率同官合疏乞留。

三俊は人となり端厳清亮、正色して朝に立つ。ただ呉昌時を引いて属と為すのみ、頗る世に詬病せらる。時に文選に郎中を缺く、儀制郎中呉昌時これを得んと欲す。首輔周延儒、力を帝に薦め、かつ以て三俊に嘱す、他の輔臣及び言官も多くその賢を称す、三俊ここにおいて調補を請う。帝は特召して問う、三俊また衆意に徇いて以て対す。帝はこれを頷き、明日すなわち命下る。他部より選郎を調うるは、これ以前未だあらず。帝は言官の不職を悪み、多くこれを汰さんと欲し、嘗て三俊に語る、三俊は昌時と謀りて給事四人・御史六人を外に出だす。給事・御史大いに嘩し、昌時の制を紊し権を弄すと謂い、連章して力攻し、あわせて三俊を詆す。三俊は懇ろに休致を乞う、詔して乗伝して帰ることを許す。国変の後、家に居ること十余年にして乃ち卒す。

原文三俊為人端嚴清亮,正色立朝。惟引吳昌時為屬,頗為世詬病。時文選缺郎中,儀制郎中吳昌時欲得之。首輔周延儒力薦於帝,且以囑三俊,他輔臣及言官亦多稱其賢,三俊遂請調補。帝特召問,三俊復徇眾意以對。帝頷之,明日即命下。以他部調選郎,前此未有也。帝惡言官不職,欲多汰之,嘗以語三俊,三俊與昌時謀出給事四人、御史六人於外。給事、御史大嘩,謂昌時紊制弄權,連章力攻,並詆三俊。三俊懇乞休致,詔許乘傳歸。國變後,家居十餘年乃卒。

李日宣、字は晦伯、吉水の人。万暦四十一年の進士。中書舎人を授かり、御史に擢でられる。

原文李日宣,字晦伯,吉水人。萬曆四十一年進士。授中書舍人,擢御史。

天啓元年、遼陽破る。帝に時々大僚を召し、面して庶政を決することを請う。まもなく侯震旸を宥して言路を開き、中宮を厚くして名分を粛にすることを請う。旨に忤い、切責せらる。已んで、また丁元薦・鄒維璉・麻僖ら十余りを薦め、朱欽相・劉廷宣らを召還することを乞う、帝は濫りに逐臣を薦むるを以て、俸を停めること三月。まもなく出でて河東塩政を理む。還朝し、族父邦華が兵部を佐くるを以て、嫌を引いて帰る。五年七月、逆党倪文煥、邦華・日宣を劾して東林の邪党と為す、ここにおいて削籍す。

原文天啟元年,遼陽破。請帝時召大僚,面決庶政。尋請宥侯震旸以開言路,厚中宮以肅名分。忤旨,切責。已,又薦丁元薦、鄒維璉、麻僖等十餘人,乞召還朱欽相、劉廷宣等,帝以濫薦逐臣,停俸三月。旋出理河東鹽政。還朝,以族父邦華佐兵部,引嫌歸。五年七月,逆黨倪文煥劾邦華、日宣為東林邪黨,遂削籍。

荘烈帝即位し、故官に復し、邦華が朝に在るを以て、久しく出でず。崇禎三年、故官に起き、河南を巡按す。還朝し、河南道事を掌る。中官王坤、大学士周延儒を訐る、日宣は同官を率いて言う「内臣の兵を監するは、輔臣を侵すべからず、かつ插款の中に疑あり、辺情多故、坤の責もまた逭るべからず」と。報聞せらる。大理丞に遷り、たびたび進みて太常卿となる。九年冬、兵部右侍郎に擢でられ、昌平を鎮守す。久しくして左侍郎に進み、戎政を協理す。まもなく陵を護る功を叙し、兵部尚書を加えらる。十三年九月、吏部尚書に擢でらる。

原文莊烈帝即位,復故官,以邦華在朝,久不出。崇禎三年,起故官,巡按河南。還朝,掌河南道事。中官王坤訐大學士周延儒,日宣率同官言:「內臣監兵,不宜侵輔臣,且插款中疑,邊情多故,坤責亦不可逭。」報聞。遷大理丞,屢進太常卿。九年冬,擢兵部右侍郎,鎮守昌平。久之,進左侍郎,協理戎政。尋敘護陵功,加兵部尚書。十三年九月,擢吏部尚書。

十五年五月、会推して閣臣を推す、日宣らは蔣德璟・黄景昉・姜曰廣・王錫袞・倪元璐・楊汝成・楊觀光・李紹賢・鄭三俊・劉宗周・吳甡・惠世揚・王道直の名を上ぐ。帝は再び数人を推すことを令し、而して副都御史房可壯・工部右侍郎宋玫・大理寺卿張三謨これに関与す。大僚で推されざる者は、流言を内に入れ、かつ二十四気の説を創り、帝は深くこれを惑う。一月を逾え、日宣及び推与せられたる諸臣を召して中左門に入り、輔臣とともに食を賜う。已んで、中極殿に出禦し、諸臣に奏対せしむ。玫は九辺の形勢を陳ずること甚だ辯あり、帝はその幹進を悪み、これを叱し、ここにおいて徳璟・景昉・甡を入閣せしめ、而して徇情濫挙を以て日宣らを責めて回奏せしむ。奏上る、帝の怒り解けず、また中左門に禦し、太子及び定・永の二王侍す。帝は日宣を召し、声甚だ厲し。次に吏科都給事中章正宸・河南道御史張煊、及び玫・可壯・三謨を召し、その妄挙を詰る。日宣は奏して辯ず。帝曰く「汝は嘗て秉公執法と言えり、今何事か私ならざる」と。正宸奏す「日宣は遊移多し、臣等常にこれを劾す。然れども推挙の事は、実に徇る所なし」と。日宣はまた玫ら三人の為に解す。帝は錦衣官に命じて日宣ら六人を提げ下らしめ、あわせて冠帯を褫ぎて就執せしむ。時に帝の怒り甚だ甚だしく、侍臣はみな股栗して色を失う。徳璟・景昉・甡は叩頭して新命を辞し、因りて言う「臣等は並びに会推の中に在り。もし諸臣に罪あらば、臣等安んぞ能く安からん」と。大学士周延儒らもまた優容を乞う。帝はみな許さず、ここにおいて刑部に下す。廷臣は交章して申救す、納れられず、帝はその未だ獄に就かざるを疑い、刑部臣を責めて期を三日に克ちて定讞せしむ。侍郎惠世揚・徐石麒は軽比を与えんと擬す、帝は大いに怒り、世揚の職を革め、石麒の二秩を鐫り、郎中以下罪差あり。御史王漢言う「枚卜の一案、日宣らに私なし。陛下は疑い、その罪を重くし、刑官は執る所を知らず」と。聴かず。獄上る、日宣・正宸・煊は辺に戍し、玫・可壯・三謨は削籍す。久しくして赦されて還り、卒す。

原文十五年五月,會推閣臣,日宣等以蔣德璟、黃景昉、姜曰廣、王錫袞、倪元璐、楊汝成、楊觀光、李紹賢、鄭三俊、劉宗周、吳甡、惠世揚、王道直名上。帝令再推數人,而副都御史房可壯、工部右侍郎宋玫、大理寺卿張三謨與焉。大僚不獲推者,為流言入內,且創二十四氣之說,帝深惑之。逾月,召日宣及與推諸臣入中左門,偕輔臣賜食。已,出禦中極殿,令諸臣奏對。玫陳九邊形勢甚辯,帝惡其幹進,叱之,乃命德璟、景昉、甡入閣,而以徇情濫舉責日宣等回奏。奏上,帝怒不解,復禦中左門,太子及定、永二王侍。帝召日宣,聲甚厲。次召吏科都給事中章正宸、河南道御史張煊,及玫、可壯、三謨,詰其妄舉。日宣奏辯。帝曰:「汝嘗言秉公執法,今何事不私?」正宸奏:「日宣多遊移,臣等常劾之。然推舉事,實無所徇。」日宣復為玫等三人解。帝命錦衣官提下日宣等六人,並褫冠帶就執。時帝怒甚,侍臣皆股栗失色。德璟、景昉、甡叩頭辭新命,因言:「臣等並在會推中。若諸臣有罪,臣等豈能安。」大學士周延儒等亦乞優容。帝皆不許,遂下刑部。廷臣交章申救,不納,帝疑其未就獄,責刑部臣克期三日定讞。侍郎惠世揚、徐石麒擬予輕比,帝大怒,革世揚職,鐫石麒二秩,郎中以下罪有差。御史王漢言:「枚卜一案,日宣等無私。陛下懷疑,重其罪,刑官莫知所執。」不聽。獄上,日宣、正宸、煊戍邊,玫、可壯、三謨削籍。久之,赦還,卒。

張瑋は、字を席之といい、武進の人である。幼くして孤貧となり、糠秕を取って自らを養い、人から一飯をも軽々しく受けず、同里の薛敷教に知られた。東林書院で講学し、孫慎行に師事した。その学は慎獨研幾を宗旨とする。

原文張瑋,字席之,武進人。少孤貧,取糠秕自給,不輕受人一飯,為同里薛敷教所知。講學東林書院,師孫慎行。其學以慎獨研幾為宗。

萬曆四十年、応天郷試で第一に挙げられる。七年を経て、進士となり、戸部主事に任じられる。兵部職方に転じ、郎中を歴任し、外任として広東提学僉事となる。粤の風俗は奢侈華美であり、督学が着任すると、宮室や供応の設備、輿馬や生贄の奉仕は他省に勝り、象牙や犀角、文石、名花、珠玉が積み重なり輝いていたが、瑋はすべて退けて見向きもしなかった。大吏が魏忠賢の祠を建て、瑋に上梁文を求めたが、瑋は即日引退した。瑋は清廉で、帰郷して布袍と草履を着け、家で子弟を教授した。

原文萬曆四十年,舉應天鄉試第一。越七年,成進士,授戶部主事。調兵部職方,歷郎中,出為廣東提學僉事。粵俗奢麗,督學至,宮室供張輿馬餼牽之奉甲他省,象犀文石,名花珠具,磊砢璀璨,瑋悉屏去弗視也。大吏建魏忠賢祠,乞上梁文於瑋,瑋即日引去。瑋廉,歸而布袍草履,授徒於家。

莊烈帝が即位すると、江西参議に起用され、福建・山東副使を歴任した。大学士の吳宗達が「瑋は進み難く退き易い人物である」と吏部に言上し、尚宝卿に召され、太僕少卿に進む。事に坐して南京大理丞に左遷され、病を理由に辞去した。久しくして、応天府丞に起用される。この年、四方大いに旱魃し、瑋は軍糧を憂慮し、奏上して「江西・湖広の穀物買占めを禁じ、応天・常州・鎮江・淮安・揚州の五郡に漕糧を銀納させ、その銀を現地に送って米と交換させよ。そうすれば小民は徴税の苦しみを免れ、太倉も一粒の欠損もない。その他の十庫が収める銅・錫・顔料・皮布で、州県の土産でないものは、すべて折納とし、かつ民による解送をすべて官による解送に改め、民を水火の苦しみから救え」と請うた。担当官庁の多くがこれを実行に移した。

原文莊烈帝即位,起江西參議,歷福建、山東副使。大學士吳宗達謂瑋難進而易退,言之吏部,召為尚寶卿,進太僕少卿。坐事調南京大理丞,引疾去。久之,起應天府丞。是歲,四方大旱,瑋以軍食可虞,奏請:「禁江西、湖廣遏糴,而令應天、常、鎮、淮、揚五郡折輸漕糧銀,赴彼易米,則小民免催科之苦,太倉無顆粒之虧。他十庫所收銅、錫、顏料、皮布,非州縣土產者,悉解折色,且盡改民解為官解,以救民湯火。」所司多議行。

南京光禄卿に転じ、召されて右僉都御史となり、左副都御史に進む。時に劉宗周・金光辰がともに憲紀を総べていたが、瑋は『風励台班疏』を上奏して言う。「過ちを懲らしめてこそ将来を正すことができる。今、極めて貪婪な者は元巡按蘇松御史の王誌挙であり、極めて清廉な者は元南京試御史の成勇である。勇と臣はかつて面識もなかったが、郷里にいて勇が逮捕されると聞き、士民が涙を流して見送る者が万を数え、百里にわたって絶えなかった。後に南都に入り、初めて勇が御史台在任中、一言も濫りに聞き入れず、一銭も軽々しく贖罪させず、属吏から一蔬一果も受け取らず、傑紳や悍吏で民の害となる者は少しも容赦せず、委曲を尽くして民に孝悌を教え導いたことを知った。臣が南中を離れる時、民は車の轅にすがり、成御史を借りて我が南人を恵み給えと願った。かつて厳しい譴責を受けたとはいえ、召し出して諸御史の模範とすべきである」。疏が上ると、一時、人心これを快とした。詔が下り、誌挙は法司に逮捕処分され、成勇は叙用された。

原文遷南京光祿卿,召入為右僉都御史,遷左副都御史。時劉宗周、金光辰並總憲紀,瑋乃上《風勵臺班疏》曰:「懲往正以監來。今極貪則原任巡按蘇松御史王誌舉,極廉則原任南京試御史成勇。勇與臣曾不相知,家居聞勇被逮,士民泣送者萬輩,百里不休。後入南都,始知勇在臺不濫聽一辭,不輕贖一鍰,不受屬吏一蔬一果;傑紳悍吏為民害者,不少假借;委曲開導民以孝弟。臣離南中,輒扳轅願借成御史,惠我南人。雖前奉嚴譴,宜召為諸御史勸。」疏上,一時稱快。詔下誌舉法司逮治,成勇敘用。

瑋はまもなく病を理由に辞して帰郷し、間もなく卒去した。福王の時、左都御史を追贈され、諡は清恵。

原文瑋旋以病謝歸,未幾卒。福王時,贈左都御史,謚清惠。

金光辰は、字を居垣といい、全椒の人である。崇禎元年の進士。行人に任じられる。御史に抜擢され、西城を巡視した。内使の周二が人を殺害し、司礼監に牒を送って逮捕を求めたが、その者はちょうど御前に侍しており、叩頭して哀願した。帝は「これは国家の法であり、朕は私すことができない」と言い、ついに罪に当てられた。外任して河南を巡按し、条奏すること三百余章に及び、権勢を避けず弾劾した。九年、還朝する。京師が戒厳すると、光辰は東直門を分守し、兵部尚書張鳳翼の三つの不可解、一大なる憂いを弾劾した。帝は鳳翼がちょうど軍中にあるとして、その奏を留中した。

原文金光辰,字居垣,全椒人。崇禎元年進士。授行人。擢御史,巡視西城。內使周二殺人,牒司禮監捕之,其人方直御前,叩頭乞哀。帝曰:「此國家法,朕不得私。」卒抵罪。出按河南,條奏至三百餘章,彈劾不避權勢。九年,還朝。京師戒嚴,光辰分守東直門,劾兵部尚書張鳳翼三不可解,一大可憂。帝以鳳翼方在行間,寢其奏。

当時、帝は内臣派遣を久しく廃止していたが、辺境の警報により、諸臣が概して萎靡して任に堪えないため、なお中官の盧維寧らを分遣して通州・天津・臨清・徳州等の兵馬糧餉を総監させ、その意を頗る忌み言っていた。光辰が派遣中止を上疏して請うと、帝は怒り、平台で召対した。風雨が急に至り、侍臣は雨中に立ち、袖で雨だれを防ぐほどであった。久しくして、帝は光辰を召し出して責めた。光辰は答えて「皇上は文武の諸臣が実心を以て事に当たらないため、内臣を委任なさる。臣の愚見では、内臣を任用すれば、諸臣はますます弛緩して責任を負わなくなるでしょう」と言う。帝は大いに怒り、声色ともに厲しく、光辰を重く譴責しようとしたが、迅雷が直ちに御座を震わせ、風雨の声が大いに起こった。光辰はそこで言う。「臣がかつて河南におりました時、皇上が内臣を撤去なさるのを見て喜びました」。言葉が終わらないうちに、帝は沈吟し、すぐに「汝の言うことはもうそれ以上にするな」と言ったが、その意もまた少し和らいだ。人は光辰に天の幸いがあったと言う。時に張元佐が兵部右侍郎として昌平を守るため出向したが、同時に天寿山を提督する内臣は即日に向かった。帝は閣臣を顧みて言う。「内臣は即日に行くのに、侍臣は三日経っても出発しない。朕の内臣任用は過ちか?」。翌日、詔があり、光辰は三階降格の上、外任に左遷された。

原文時帝久罷內遣,然以邊警,諸臣類萎腇不任,仍分遣中官盧維寧等總監通、津、臨、德等處兵馬糧餉,而意頗諱言之。光辰疏請罷遣,帝怒,召對平臺。風雨驟至,侍臣立雨中,至以袖障溜。久之,帝召光辰責之。光辰對曰:「皇上以文武諸臣無實心任事,委任內臣。臣愚以任內臣,諸臣益弛卸不任。」帝大怒,聲色俱厲,將重譴光辰,而迅雷直震禦座,風雨聲大作。光辰因言:「臣往在河南,見皇上撤內臣而喜。」語未終,帝沈吟,即雲「汝言毋復爾」,然意亦稍解。人謂光辰有天幸雲。時張元佐以兵部右侍郎出守昌平,同時內臣提督天壽山者即日往。帝顧閣臣曰:「內臣即日往,侍臣三日未出,朕之用內臣過耶?」翼日有詔,光辰鐫三級調外。

久しくして、浙江按察司照磨から召されて大理寺正となり、太僕丞に進む。十三年五月、再び諸大臣とともに平台で召対され、辺防・救荒・安民の策を諮問される。光辰の班は最後で、時は既に夜となり、光辰のみが燭影の中で対し、娓娓として数百言を述べ、帝は聳然として聞かれた。明日、諸臣に各々疏を繕って進めるよう諭す。まもなく尚宝丞に移る。練総の廃止、換授、私派、僉報の数事を陳上し、聞き届けられる。光禄少卿・左通政を歴任する。十五年五月、再び諸臣とともに徳政殿で召対され、賊の形勢を詳しく陳述する。帝は喜び、左僉都御史に抜擢する。間もなく、劉宗周を救ったため、やはり三階降格の上、外任に左遷され、事は『宗周伝』に詳しい。翌年、父の喪に服す。福王の時、元の官に起用される。赴任せず、国変に遭い、家に居ること二十余年で卒去した。

原文久之,由浙江按察司照磨召為大理寺正,進太僕丞。十三年五月,復偕諸大臣召對平臺,咨以禦邊、救荒、安民之策。光辰班最後,時已夜,光辰獨對燭影中,娓娓數百言,帝為聳然聽。明日諭諸臣各繕疏以進。尋移尚寶丞。陳罷練總、換授、私派、僉報數事,報聞。歷光祿少卿、左通政。十五年五月,復偕諸臣召對德政殿,備陳賊形勢。帝悅,擢左僉都御史。無何,以救劉宗周,仍鐫三級調外,事具《宗周傳》。明年丁父憂。福王時,起故官。未赴,國變,家居二十餘年卒。

賛して言う。明は神宗の後、士大夫は門戸を峻しくし意気を重んじた。その賢者は名節を励まし、官に在っては執って争うところがあり、すなわち清議は一致してこれを称えた。その材識が遠大でなく、耳目に熟習したことに拘泥せざるを得ず、風潮に囚われることはあっても、これもまた一時の良士である。時に遭うこと甚だ急迫し、過ちを救うのに暇あらず、どうして挽回し事業を成し遂げることを責めることができようか。

原文贊曰:明自神宗而後,士大夫峻門戶而重意氣。其賢者敦厲名檢,居官有所執爭,即清議翕然歸之。雖其材識不遠,耳目所熟習,不能不囿於風會,抑亦一時之良也。遭時孔棘,至救過不暇,顧安得責以挽回幹濟之業哉?