○毛澄、汪俊(弟偉)、呉一鵬、朱希周、何孟春、豊熙(子坊)、徐文華、薛蕙(胡侍、王禄、侯廷訓)
宸濠が江西で反乱を起こすと、帝は南征して威武を示し、留都に駐蹕すること一年を過ぎた。毛澄はたびたび回鑾を請うた。車駕が通州に返ると、江彬の言を用いて、すぐに宸濠を賜死しようとした。毛澄は漢の庶人の故事に拠り、京に還って郊廟に告げ、俘虜を献じて刑戮を行うよう請うた。従わなかった。宦官の王堂が浙江を鎮め、生祠の建立を請うた。西番の闡化王の使者が額外に茶九万斤を賜ることを乞うた。毛澄は皆力爭したが、聞き入れられなかった。王瓊が彭沢を陥れようとしたが、毛澄は独りその無罪を明らかにした。
その月二十四日乙亥、毛澄は再び廷臣を会して上議して曰く、「『礼』に為人後者は之が子と為すとあり、天子より庶人に至るまで一なり。興献王の子は惟だ陛下一人のみ、既に大統を継ぎ、宗廟を奉祀す。是を以て臣等前議に崇仁王厚炫をして興献王の祀を主たしめんと欲す。称号に至りては、陛下宜しく『皇叔父興献大王』と称し、自ら『侄皇帝』名と称すべし。宋の程頤の説を以て拠とすべきなり。本朝の制、皇帝宗藩の尊行に於いては、止だ伯父・叔父と称し、自ら皇帝と称して名を挙げず。今興献王を『皇叔父大王』と称し、又自ら名を称するは、尊崇の典已に至れり。臣等敢えて復た議する所有らず」と。因りて程頤の『代彭思永議濮王禮疏』を録して進覧す。帝従わず、命じて前代の典礼を博く考へ、再議して以て聞かしむ。澄乃ち復た廷臣を会して上議して曰く、「臣等会議すること再び、興献王を改めて叔父と称せんことを請ふは、大統の尊二無きを明らかにするなり。然れども『皇』の字を『叔父』の上に加ふれば、則ち凡そ陛下の伯・叔諸父皆之と斉しくする能はざるなり。『大』の字を『王』の上に加ふれば、則ち天下の諸王皆得て之と並ぶこと能はざるなり。興献王の称号既に定まれば、則ち王妃の称号亦之に随ふ、天下の王妃亦以て其の尊に同じきこと無からん。況んや陛下天下を以て養ふ、其の心を楽しましめ、其の志に違はざらしむる所以は、豈一家一国の養ひと同日に語すべきや。此れ孔子の所謂礼を以て之に事ふる者なり。其の他の推尊の説、称親の議は、礼に非ざるに似たり。推尊の非は、魏の明帝の詔に詳なるより詳ならず。称親の非は、宋の程頤の議に詳なるより詳ならず。至当の礼は、要は此に出でざるなり」と。並びに魏の明帝の詔書を録して上る。是の時に当たり、帝鋭く意として生みし所を推尊せんと欲し、進士張璁復た疏を抗して極めて礼官の謬を言ふ。帝心動き、澄等の疏を久しく下さず。八月庚辰朔に至り、再び命じて集議せしむ。澄等乃ち復た上議して曰く、「先王礼を制するは、人情に本づく。武宗既に子嗣無く、又兄弟鮮なし、陛下を憲廟諸孫の中より援きて立てしむ。是れ武宗陛下を以て同堂の弟と為し、孝宗を考とし、慈寿を母とす、疑ふべき無きなり、復た顧みて私親を顧みんや」と。疏入り、帝懌ばず、復た中に留む。
時に給事中邢寰憲廟皇妃邵氏の徽号を議せんことを請ふ有り、澄上言して曰く、「王妃献王を誕生し、実に陛下の自ら出づる所なり。但し既に大統を承くれば、則ち宜しく孝宗を考とし、而して慈寿太后を母とすべし。孝宗憲廟皇妃に於いては宜しく皇太妃と称すべく、則ち陛下に於いては宜しく太皇太妃と称すべし。此くの如くすれば、則ち彜倫既に正しく、恩義亦篤し」と。疏入り、聞くに報ゆ。其の月、帝母妃将に至らんとす、礼官を下して其の儀を議せしむ。澄等崇文門より入り東安門に至らんことを請ふ、帝可とせず。乃ち正陽左門より入り大明東門に至らんことを議す、帝又可とせず。澄等初めの如く議を執す。帝乃ち自ら其の儀を定め、悉く中門より入らしむ。
時に尊崇の礼猶未だ定まらず、張璁復た『大礼或問』を進む、帝益々之に向ふ。九月末に至り、乃ち澄等の前疏を下し、更に命じて輿論を博く采りて以て聞かしむ。澄等勢已む可からざるを知り、内閣に謀り、興王に『帝』と称するを加へ、妃を「后」と為し、而して皇太后の懿旨を以て之を行はしむ。乃ち疏を上りて言ふ、「臣等一得の愚、已に前議に尽くす。茲に聖心を仰ぎ慰め、今に宜しくして情に戾ること無く、古に合して義に悖ること無からしめんと欲すれば、則ち密勿股肱有り。臣等有司、未だ敢えて擅に任せず」と。帝遂に十月二日庚辰、慈寿皇太后の旨を以て興献王の号を加へて曰く「興献帝」、妃を曰く「興国太后」、皇妃邵氏亦尊びて「皇太后」と為し、中外に宣示す。顧みるに帝雖も勉めて廷議に従ふも、意猶之を慊とす。十二月十一日己丑、復た諭を伝へて皇帝と称するを加へんとす。内閣楊廷和等御批を封じて還す、澄疏を抗して力爭し、又九卿喬宇等に偕ひて合諫す、帝皆允さず。明年、嘉靖改元正月、清寧宮後三小宮災有り。澄復た以て言ひ、朝臣亦諫むる者多きに会し、事止まるを得たり。
先きに、定策の功を論じて、澄に太子太傅を加へ、錦衣世指揮同知を蔭しむ、力を辞して受けず。帝雅く澄を敬憚し、数たび旨に忤へども、恩礼衰へず。既に疾を得て、医を遣はして診視せしめ、薬物の賜ひ時に至る。其の卒するや、深く悼惜す。少傅を贈り、謚して文簡と曰ふ。
議上る、中に留む。而して特旨を以て桂萼・張璁・席書を南京に召す。旬を越えること十有五日にして、乃ち諭を下して曰く、「朕宗廟の正統を奉承し、大義豈に違うこと有らんや。第に本生の至情も亦た兼ねて尽くすべし。其れ再び議を集めて以て聞かしめよ。」俊已むを得ず、乃ち群臣を集めて「皇」の字を加え、以て徽称を全うせんことを請う。議上る、復た十余日留む。三月の朔に至り、乃ち礼官に詔し、興献帝を称して「本生皇考恭穆献皇帝」と為し、興国太后を「本生母章聖皇太后」と為す。日を択びて郊廟に祭告し、詔を天下に頒つ。而して別に諭して室を奉先殿の側に建て、献皇を恭祀せしむ。俊等復た争いて曰く、「陛下大宗に入り奉ず、小宗を祭ることを得ず、亦た猶お小宗の大宗を祭ることを得ざるが如し。昔興献帝安陸に藩を奉ずれば、則ち憲宗を祭ることを得ず。今陛下大統に入り継ぐも、亦た興献帝を祭ることを得ず。是れ皆礼を以て情を抑うる者なり。然れども興献帝は寿安皇太后を藩邸に迎え養うことを得ず、陛下は興国太后を大内に迎え、天下の養いを受け、而して興献帝を尊祀すること天子の礼楽を以てすれば、則ち人子の情自ら尽くすことを獲ん。乃ち今聖心窮まり無し、臣等敢へて将順せざらんや、但だ正統に嫌い無きに於いて、乃ち礼に合す。」帝曰く、「朕但だ奉先殿の側に別に一室を建て、以て追慕の情を伸ばさんと欲するのみ。藩邸に迎え養うは、祖宗の朝に此の例無し、何ぞ飾りて以て詞と為さんを容れん。其れ状を陳せしめよ。」俊疏を具して罪を引く。厳旨を以て切責し、而して廟を立つるを益々急がしむ。俊等乃ち議を上りて曰く、「廟を大内に立つるは、正統に干ること有り。臣実に愚昧、敢へて詔を奉ぜず。」帝納れず、而して廷臣を集めて大議せしむ。俊等復た議を上りて曰く、「謹みて按ずるに先朝奉慈別殿は、蓋し孝宗皇帝孝穆皇太后の附葬初めて畢り、神主薦享の所無きを為して設くるなり。当時の議者は、皆周の制に拠りて姜原を特祀するを以て言う。本生の為に廟を大内に立つるに至りては、則ち古より未だ聞かず。惟だ漢の哀帝定陶恭王の為に廟を京師に立つ。師丹以て不可と為し、哀帝聴かず、卒に後世の譏りを遺す。陛下堯・舜の資を為すべき有り、臣等敢へて衰世の事を以て導かず。安陸に於いて特た献帝の百世遷さざるの廟を建て、他日を俟ちて興王の子孫を襲封し世世献饗せしめ、陛下歳時に官を遣わし節を持ちて奉祀せしむるも、亦た足ら以て陛下の窮まり無き至情を伸ばすべし。」帝仍た前旨に遵いて再議せしむるを命じ、俊遂に疏を抗して休を乞う。再び請うこと益々力く、帝怒り、以て肆慢を責め、其の去るを允す。席書を召して未だ至らず、呉一鵬に事を署せしむ。《明倫大典》成り、俊の職を落とし、家に卒す。隆慶初、少保を贈り、文莊と謚す。
俊の行誼修潔にして、朝に立ちて光明端介なり。学は洛・閩に宗とす。王守仁と交わり好むも、而して其の説を同じくせず。学者「石潭先生」と称す。
弟偉、字は器之。庶吉士より検討を授かる。俊と皆劉瑾に忤い、南京礼部主事に調ず。瑾誅され、故官に復す。屡遷して南京国子祭酒と為る。武宗巡幸を以て至り、諸生を率いて幸学を請う、従わず。江彬旨を矯めて玉硯を取る、偉曰く、「秀才の時の故硯有り、持ち去るべし。」俊官を罷むるの歳、偉亦た吏部右侍郎に至り、廷臣に偕なって数「大礼」を争い、又た闕に伏して力を争う。席書・張璁等の議行わるるに及び、猶た前説を持して変ぜず。官を転じて左侍郎と為り、陳洸に劾まれて罷められ、家に卒す。
呉一鵬、字は南夫、長洲の人。弘治六年進士。庶吉士に遷り、編修を授かる。戸部尚書周経讒を以て去る、上疏して之を留めんことを乞う。正徳初、侍講に進み、経筵講官を充つ。劉瑾諸翰林を出して部曹と為し、一鵬は南京刑部員外郎を得る。礼部郎中に遷る。瑾誅され、復た侍講と為る。侍講学士に進み、歴て国子祭酒・太常卿と為る。並びに南京に在り。母喪除き、故官に起つ。
まもなく、一鵬は四方の災異を極力陳述し、言った。「去年六月より今の二月に至るまで、その間に天鳴が三度、地震が三十八度、秋冬の雷電雨雹が十八度、暴風・白気・地裂・山崩・妖物の産出が各一度、民が飢えて人肉を食うことが二度あった。尋常でない変異が、往時に倍している。願わくは陛下が群臣の先頭に立ち、疾苦を救い、営繕を罷め、大臣を信じ、忠諫を納れて、天意を翻回させられんことを。」帝は優れた詔でこれに答えた。一ヶ月余りして、手勅で奉先殿西室に観徳殿と名付け、遂に一鵬に命じて中官の頼義・京山侯の崔元とともに安陸から献帝の神主を迎えさせた。一鵬らは再び上言した。「歴代の歴史を考察しても、寝園から神主を迎えて大内に入れた例はない。これは天下後世の観瞻に関わることであり、些細な事柄ではない。かつ安陸は恭穆(献帝)が封を開いた地であり、神霊の恋慕する所であり、また陛下の龍興の地であり、王気の集まる所である。故に我が太祖は中都を重んじ、太宗は留都を重んじたが、皆、王業の基づく所として、永く世祀を修めたのである。伏して陛下が群言を聞き入れ、神主の題号を改め、故宮に奉安して、百世遷さざるものとされんことを乞う。観徳殿の中には別に神位と香机を設けて孝思を慰められれば、本生の情も既に隆く、正統の義もまた尽きるであろう。」奏上されたが、採用されなかった。一鵬はそこで出発した。使者が道中の患いとなることを慮り、上疏して禁約を請うと、帝はその言葉を良しとして戒めさせた。
その翌年、左侍郎より南京吏部尚書に遷る。嘉靖六年、京官の大計あり、南六科に罷黜する者なし。桂萼は素より議礼を以て希周を嗛み、且つ両京の言官が嘗て己を劾したるを悪み、因りて希周が勢を畏れて曲く庇うと云う。希周言う、「南京六科は止むこと七人、実に去るべき者無し。臣が言路を以て私するは固より不可なり、言路の嫌を避くるが如く、誅責するは尤も不可なり。且つ挙曹皆賢ならば、必ず一二人を去りて公を示すとせんか、設い挙曹皆不肖なりとも、亦た但だ一二人を去りて責を塞がんや」と。因りて力めて疾を称し休を乞う。温旨之を許し、仍ち有司に勅して歳に夫廩を給せしむ。
林居すること三十年、中外の論薦する者三十余疏、竟に復た起たず。性恭謹、妄りに取予せず。卒す年八十有四。太子少保を贈る。瀕に歿するに、諸子に属して曰く、「他日倘い易名の典を蒙らば、我家の諱を犯すこと勿れ」と。乃ち「文」を避け、謚して恭靖とす。
何孟春、字は子元、郴州の人。祖俊、雲南按察司僉事。父説、刑部郎中。孟春少くして李東陽の門に遊び、学問該博。弘治六年の進士に第し、兵部主事を授かる。言官龐泮等獄に下る、疏を上げて之を救う。詔して萬歳山毓秀亭・乾清宮西室を修せしむ、軍九千人を役し、費を計ること百余萬。抗疏極諫す。清寧宮災あり、八事を陳べ、疏萬余言。員外郎・郎中に進み、出でて陝西の馬政を理む、条目畢く張る。還り、弊を厘むる五事を上ぐ、並びに撫臣の職せざるを劾す。正德初、孔廟の祀典を厘正せんことを請う、果たして行はれず。出でて河南参政と為り、廉公にして威あり。太僕少卿に擢げ、卿に進む。駕宣府に幸す、馳疏して諫む。尋いで右副都御史を以て雲南を巡撫す。十八寨の叛蠻阿勿・阿寺等を討平し、永昌府を設くるを奏し、五長官司・五守禦所を増す。功を録し、一子を蔭す、辞して受けず。
世宗即位し、南京兵部右侍郎に遷り、半道に召されて吏部右侍郎と為る。会うに蘇・松諸府旱潦相継ぎ、而して江・淮北河水大いに溢れ、田廬人畜を漂没すること算無し。孟春漢の魏相に倣い八事を条奏す、帝嘉して之を納る。尋いで左侍郎に進む。尚書喬宇罷む、代わりて部事を署す。
先づ是れ、「大礼」の議起こる。孟春雲南に在りて之を聞き、上疏して言う。
臣邸報を閲し、進士屈儒の奏中に聖父を「皇叔考興獻大王」と尊び、聖母を「皇叔母興獻大王妃」とせんことを請うを見る。旨を得て部に下る、未だ俞命を奉ぜざるを知る。
今者廷臣詳議し、事獄未だ決せず、豈に皇叔考の称未だ当たらずとする者有らざるか?抑も臣愚亦た疑無き能はざるなり。『礼』、生をば「父母」と曰ひ、死をば「考妣」と曰ひ、「世父母」「叔父母」の文有りて、而して世叔考・世叔妣の説無し。今興獻王を皇叔考と称せんと欲す、古典何に据る?宋英宗の時に濮王に皇伯考を加へんと請ふ者有り、宋敏求力めて其の謬を斥く。然らば則ち皇叔考の称、豈に興獻王に加ふべけんや?即ち皇叔父と称すとも、義に於いて亦た未だ安からず。経書伯父・叔父と称するは皆生時に相呼ぶ、其の既に歿するに及びては、従て親属を爵位の上に冠する者無し。然らば則ち皇叔父の称、其れ復た先朝已に謚する親王に加ふべけんや?臣伏して前詔を睹す、陛下先皇帝を皇兄と称し、誠に献王を皇叔と称せば、宋の王珪・司馬光の云ふが如く、亦た已に愜なり。而るに議者或は然らず、何ぞや?天下は、太祖の天下なり。太祖より孝宗に伝へ、孝宗之を先皇帝に伝へ、特簡に陛下を以て、大業を授く。献王は陛下の天性至親と雖も、然れども以て九重に光臨し、四海に富有し、子子孫孫萬世南面する所以の者は、皆先皇帝の徳、孝宗の貽れる所なり。臣故に漢の宣・光武・晉の元の三帝を法とせんことを願ふ、若し古の名に非ざる、正しからざるの号は、臣の陛下に願ふ所に非ざるなり。
及び孟春吏部に官すときは、則ち已に本生父母を「興献帝」「興国太后」と尊む。継いで又た改めて「本生皇考恭穆献皇帝」「本生聖母章聖皇太后」と称す。孟春三たび疏を上し初詔に従はんことを乞ふ、皆省みず。ここに於いて帝益々張璁・桂萼等の言に入り、復た本生の二字を去らんと欲す。璁方に盛気にして、礼官の欺妄十三事を列上し、且つ朋党と為して斥く。孟春九卿秦金等に偕なひ疏を具し、略して曰く、「伊尹謂ふ『言有りて心に逆らふは、必ず諸れを道に求む。言有りて志に遜ふは、必ず諸れを非道に求む』と。邇者、大礼の議、邪正同じからず。若し諸臣匡拂する、累千萬言、此れ所謂く心に逆らふの言なり、陛下亦た嘗て諸れを道に求むるか否や?一二の小人、敢へて将順の説を托し、罷閑不学無恥の徒を招徠し、聖聴を熒惑す、此れ所謂く志に遜ふの言なり、陛下亦た嘗て諸れを非道に求むるか否や?何ぞ彼の言の行はれ易くして、此の言の入り難きや」と。遂に十三難を発して璁を辨折し、疏入りて中に留む。
その時、詹事・翰林・給事・御史及び六部諸司・大理・行人の諸臣がそれぞれ上疏して争い、すべて留中して下さず、群情はますます騒然とした。ちょうど朝議が終わったところで、孟春は大衆に向かって提言して言った、「憲宗朝に、百官が文華門で泣き、慈懿皇太后の葬儀を争い、憲宗はこれに従われた。これは国朝の故事である」と。修撰の楊慎は言った、「国家が士を養うこと百五十年、節義を守って死ぬのは、まさに今日である」と。編修の王元正・給事中の張翀らはそこで群臣を金水橋の南で遮って引き留め、今日力強く争わない者がいれば、必ず共にこれを撃つと言った。孟春・金献民・徐文華がまた互いに呼びかけた。そこで九卿では尚書の献民及び秦金・趙鑒・趙璜・俞琳、侍郎の孟春及び朱希周・劉玉、都御史の王時中・張潤、寺卿の汪挙・潘希曾・張九敘・呉祺、通政の張瓚・陳霑、少卿の徐文華及び張縉・蘇民・金瓚、府丞の張仲賢、通政参議の葛禬、寺丞の袁宗儒、合わせて二十三人。翰林では掌詹事府侍郎の賈詠、学士の豊熙、侍講の張璧、修撰の舒芬・楊維聡・姚淶・張衍慶、編修の許成名・劉棟・張潮・崔桐・葉桂章・王三錫・余承勛・陸釴・王相・応良・王思、検討の金臯・林時及び慎・元正、合わせて二十二人。給事中では張翀・劉済・安磐・張漢卿・張原・謝蕡・毛玉・曹懷・張嵩・王瑄・張𦐿・鄭一鵬・黄重・李錫・趙漢・陳時明・鄭自璧・裴紹宗・韓楷・黄臣・胡納、合わせて二十一人。御史では王時柯・余翺・葉奇・鄭本公・楊枢・劉潁・祁杲・杜民表・楊瑞・張英・劉謙亨・許中・陳克宅・譚纘・劉翀・張録・郭希愈・蕭一中・張恂・倪宗枿・王璜・沈教・鐘卿密・胡瓊・張濂・何鰲・張曰韜・藍田・張鵬翰・林有孚、合わせて三十人。諸司の郎官では、吏部では郎中の余寛・党承誌・劉天民、員外郎の馬理・徐一鳴・劉勛、主事の応大猷・李舜臣・馬冕・彭沢・張鹍、司務の洪伊、合わせて十二人。戸部では郎中の黄待顕・唐昇・賈継之・楊易・楊淮・胡宗明・栗登・党以平・何巌・馬朝卿、員外郎の申良・鄭漳・顧可久・婁誌徳、主事の徐嵩・張庠・高奎・安璽・王尚誌・朱藻・黄一道・陳儒・陳騰鸞・高登・程旦・尹嗣忠・郭日休・李録・周詔・戴亢・繆宗周・邱其仁・俎琚・張希尹、司務の金中夫、検校の丁律、合わせて三十六人。礼部では郎中の余才・汪必東・張𦒎・張懐、員外郎の翁磐・李文中・張澯、主事の張鏜・豊坊・仵瑜・丁汝夔・臧応奎、合わせて十二人。兵部では郎中の陶滋・賀縉・姚汝臯・劉淑相・万潮、員外郎の劉漳・楊儀・王徳明、主事の汪溱・黄嘉賓・李春芳・盧襄・華鑰・鄭暁・劉一正・郭持平・余禎・陳賞、司務の李可登・劉従学、合わせて二十人。刑部では郎中の相世芳・張峨・詹潮・胡璉・範録・陳力・張大輪・葉応驄・白轍・許路、員外郎の戴欽・張儉・劉士奇、主事の祁敕・趙廷松・熊宇・何鰲・楊濂・劉仕・蕭樟・顧鐸・王国光・汪嘉会・殷承敘・陸銓・錢鐸・方一蘭、合わせて二十七人。工部では郎中の趙儒・葉寛・張子衷・汪登・劉璣・江珊、員外郎の金廷瑞・範钅・龐淳、主事の伍余福・張鳳来・張羽・車純・蔣珙・鄭騮、合わせて十五人。大理寺の属官では寺正の母徳純・蔣同仁、寺副の王暐・劉道、評事の陳大綱・鐘雲瑞・王光済・張徽・王天民・鄭重・杜鸞、合わせて十一人。皆、左順門に跪いて伏した。帝は司礼の中官に命じて退くよう諭させたが、衆は皆言った、「必ず俞旨を得てこそ敢えて退く」と。辰の刻から午の刻まで、合わせて二度諭旨が伝えられたが、なお跪いて伏して起き上がらなかった。
帝は大いに怒り、錦衣衛に先ず首謀者を捕らえさせた。そこで豊熙・張翀・余翺・余寛・黄待顕・陶滋・相世芳・母徳純の八人は、共に詔獄に繋がれた。楊慎・王元正はそこで門を揺すって大声で泣き、衆も皆泣き、声は宮廷に震えた。帝はますます怒り、五品以下の官若干人を収監するよう命じ、孟春らには待罪するよう命じた。翌日、編修の王相ら十八人は皆、杖刑で死に、熙ら及び慎・元正は皆、流罪に処せられ、初めて孟春らの前の上疏を下し、責めて言った、「朕は大統を継承し、宗廟を敬い奉り、大礼を尊崇するのは、自ら朕の心より出るものである。孟春らは君を毀り政を害し、是非を変乱させた。かつ張璁らの上した十三条はなお留中して発していないのに、どうして先に知ることができようか。実を以て答えよ」と。そこで孟春らは上疏して罪を認め、言った、「璁らの条陳したものは、未だ進上しない日に先ず私稿を人に示し、かつ副本が通政司に存したので、故に臣らはこれを知ったのである。臣らは大臣の後に辱くも列し、礼の議論の末席に与ることができた。ひそかに璁らの欺罔を思い、故に大いに言論を張って弁じ、天聴を瀆した。罪は万死に応える。ただ聖明が加えて察し、その孰れが正しく孰れが邪なるかを弁別されることを望む。そうすれば臣らは死んでもまた幸いである」と。帝の怒りは止まず、孟春を責めて衆を率いて憤りを逞しくしたのは、大臣が君に事える道ではなく、法に照らして重く治めるべきであるが、姑く軽くして俸給を一月奪うとした。まもなく南京工部左侍郎として出された。故事では、南京部には侍郎一人のみであったが、時に既に右侍郎の張琮がおり、また孟春を左としたのは、余剰の員であった。
孟春はたびたび上疏して病を理由に辞職を請い、六年の春にようやく許しを得た。『明倫大典』が完成すると、その官籍を削られた。久しくして、家で卒した。隆慶初年、礼部尚書を追贈され、文簡と諡された。孟春の居所には泉があり、燕の去来する時に盈ち涸れることから名を得て、遂に「燕泉先生」と称されたという。
江西副使胡世寧が寧王宸濠を論じて詔獄に繋がれると、文華は抗疏して救い、言った、「世寧は上は聖朝のため、下は宗室のために、誠を尽くし憤りを発し、言葉が口を脱したやいなや、禍患がこれに随った。まことに哀れむべきである。寧王の威勢は日増しに張り、隠患は日増しに甚だしい。今これを止めなければ、どうして極まりがあろうか。顧みてまた世寧に重法を置き、天下の口を杜ぎ、忠鯁の気を奪い、朝廷の勢いを弱め、宗藩の心を啓き、意外の変を招くこと、皆今日から始まるのである」と。聞き入れられなかった。
帝が宦官劉允を遣わして烏斯蔵から仏を迎えようとすると、文華は力強く諫めた。回答がなかった。馬昂が妊娠した妹を帝に納れると、また疏を奉って諫めて言った、「中流の家でも再醮の婦を娶らない。陛下は万乗の至尊であられながら、このような挙に出られる。心に返せば不安であり、口に宣べれば順わず、天下後世に伝えれば醜いことである。誰が陛下にこれを進めたのか、その罪は族滅に値する。万一、防閑が疎かになり、不幸にも李園・呂不韋の徒が隙に乗じて投じるようなことがあれば、これは細事であろうか。今、昂の兄弟子侄が禁闥に出入りし、陛下は等威を降格され、彼らと乱服で雑座し、あるいは共に臥起される。祖宗の法を壊すことは、これより甚だしいものはない。馬姫は内で専寵し、昂らは外で権を弄ぶ。禍機がひそかに発すれば、言い尽くせないものがある。早く誅して禍源を絶たれることを乞う」と。これも回答がなかった。文華はすでに数度直言を進めたため、帝および諸近幸は皆これを恨んだ。ちょうど文華が宗廟の礼儀について条上し、祧廟・禘祫・特享・出主・祔食の五事を論じた。経義を考証し、全て施行可能であった。帝は怒り、その出位妄言を責め、章を所司に下した。礼官は経術に暗く、また帝の意に阿ったため、遂に文華の言は正しくないと奏した。命により詔獄に下し、民に貶された。時は正徳十一年十月であった。
六年の秋、李福達の獄が起こった。獄を主る者は璁・萼・献夫であり、議礼のことで文華らを恨んでいたため、獄詞をことごとく覆し、文華と諸法官を獄に下した。獄が決すると、文華を御史に阿附して人を殺したと責め、遼陽に遣戍した。赦令に遇ったが、途中で卒した。隆慶初年、左僉都御史を追贈された。
大学士毛紀・侍郎何孟春が去って以来、以前に「大礼」を争った諸大臣は、あるいは依違して旨に順ったりしたが、文華はかえって前議を堅く守って変えなかった。その譴責は罪によるものではなく、士論は深くこれを惜しんだ。
薛蕙は、字を君采といい、亳州の人である。十二歳で詩を作ることができた。正徳九年の進士に挙げられ、刑部主事に任じられた。武宗の南巡を諫めて、杖刑を受け俸給を奪われた。まもなく病を理由に帰郷した。元の官に起用され、吏部に改められ、考功郎中を歴任した。
陛下は祖の体を継ぎ嫡統を承け、人の後となる義に合い、坦然として疑うところがない。ところが二三の臣がおり、経に詭り礼に畔き、上って聖聡を惑わしている。経伝の細やかな指摘は、彼らはその十分の一も見ることができず、いきなり小慧を恃み誇詞を騁せようとする。知らずして作る者と言うべきである。
その言うところに「陛下は献帝の奪うべからざる適嗣である」とある。漢の『石渠議』を按ずるに、「大宗に後なく、族に庶子がなく、己に一適子がある場合、父の嗣を絶って大宗に後すべきか否か」と。戴聖が云う、「大宗は絶つべからず。『礼』に適子は後と為さずと言うのは、庶子に先んじることができないだけである。族に庶子がなければ、則ち父を絶って大宗に後すべきである」と。晋の範汪が曰く、「小宗を廃すれば、昭穆は乱れない。大宗を廃すれば、昭穆は乱れる。先王が大宗を重んじる所以である。どうして小宗を廃して大宗を継がざるを得ようか」と。人の子には適庶があるが、その親を親しむ心は一つである。ところが『礼』に適子は後と為さず、庶子は後と為し得るのは、これはその父母に対する親愛に厚薄があるのではなく、ただ伝重と収族の違いによるのである。今の言う者は、祖禰に推本することを知らず、ただその父母に及んで止まる。これはその親を薄くするに忍びず、その祖を遺するに忍ぶのである。
そもそも『礼』が大宗に後を立てるのは、その統を重んずるからである。その統を重んずれば絶つべからず、乃ちこれがために後を立てる。小宗の為に後を為さないに至っては、統は絶つべく、則ち嗣は継がずともよいのである。これは則ち統を継ぐが故に嗣を継ぎ、嗣を継ぐのは統を継ぐためである。故に『礼』の『人の後を為す』とは、嗣を継ぐことを言い、『大宗に後す』とは、統を継ぐことを言う。統と嗣とは、二つあるにあらず、何の違いがあろうか。古より帝王入継する者は、必ず人の後を為すの義を明らかにし、而る後に統を継ぐことができる。蓋し後を為さざれば則ち子を成さず。もし子を成さずんば、どうして統を得てこれを継ぐことができようか。故に後を為すというのは、子を成すことであり、子を成して而る後に統を継ぎ、又將に同宗の覬覦の心を絶たんとするのである。聖人の礼を制するや、亦善からずや。あるいは子を成して而る後に統を継ぐのは、人の後を為す者のみに限るものではない。『礼』に生まれながら貴き者は無し。たとえ天子・諸侯の子といえども、苟も君父の命を受けざれば、亦敢えて自ら尊を成さない。『春秋』は授受の義を重んじ、子として父より受け、臣として君より受くことを以てする。故に穀梁子曰く『臣子は必ず君父の命を受く』と。この義は、直ちに君父を尊ぶのみならず、亦自ら尊ぶ所以でもある。蓋しその君父を尊ぶは、亦人をして己を尊ばしめんとするのである。かくの如くすれば則ち義礼明らかにして禍乱亡ぶ。今、説く者『倫序当に立つべく斯に立つ』と言うは、どうして『礼』と『春秋』の意を知ることができようか。
もし前代の君において、間に弟終りて兄継ぎ、姪終りて伯叔父継ぐ者あれば、これは変に遭いて正しからざるものである。然れども多くは先君の嗣である。先君は己にとっては則ち考であり、己は先君にとっては則ち子である。故に後君を考とすることはできず、而も亦両統二父の嫌い無し。晋の哀帝、唐の宣宗の如きがこれである。あるいは諸王入嗣するも、則ち未だ諸王を仍って考とし、天子を考とせざる者は無い。陛下の天倫は武宗に先んぜず、正統は献帝より出ず。是非予奪、至って弁え易し。而るに二、三の臣者猥りに変に遭いて正しからざる挙に比せんと欲する。故に礼に悖ること尤も甚だしい者と言う。
その他の弁ずる七事も、亦率ねこれに倣う。
書が奏上されると、天子大いに怒り、鎮撫司に下して考訊させた。已にして、これを赦し出し、俸を奪うこと三月。時に給事中陳洸が外転し、事は文選郎夏良勝及び蕙によるものと疑った。良勝は既に訐られて斥けられていたが、蕙は故に在職していた。時に亳州知州顔木が方に罪に坐し、乃ち蕙と木が同年に関通し、奸利有りと疑うと誣う。章は所司に下り、蕙も亦奏して弁じた。帝は聴かず、解任して勘を聴かしむと令した。蕙は遂に南帰した。既にして事白く、吏部数たび文を移して蕙の起つを促した。蕙は璁・萼等の用いられるを見て、堅く臥して肯て起たず。十八年、詔して宮僚を選び、蕙を春坊司直兼翰林検討に擬した。帝は猶以前憾の故に、罷むと報じた。而して蕙も亦卒した。
蕙は貌臒げて気清く、己を持すること峻潔、書に読まざる無し。学者その学行を重んじ、「西原先生」と称した。
当の時、廷臣力を持って「大礼」を主張し、而して璁・萼は異議を建て、挙朝これを非とした。その廷議に与からず、而して璁・萼のために罪を得た者に、又胡侍・王祿・侯廷訓がいる。
胡侍は寧夏の人。進士に挙げられる。歴官して鴻臚少卿。張璁・桂萼既に学士に擢げられると、侍は二人が礼を越え経に背くことを劾した。因りてその奏する所に拠り、反復論弁し、凡そ千余言。帝怒り、命じて逮治せしむ。言官論救し、潞州同知に謫す。沈府宗室勛註、事を以てこれを憾み、侍が諸生を試す題が譏刺し、且つ「大礼」を謗ると奏す。京に逮至り、訊じて民と為すことを斥く。
王祿は新城の人。郷に挙げられ、福建平和知県と為る。嘉靖九年、疏を上して献帝廟を安陸に建て、崇仁王を封じて以てその祀を主たしめ、献帝を考とすべからず、孝宗を伯とし、二本の嫌いに渉るべからずと請う。宗藩の子に幼くして岐嶷なる者あれば、当にこれを宮中に養い、儲貳の選に備うべし。疏奏するや、即ち官を棄てて帰る。命じて按臣に逮治せしめ、亦民と為すことを斥く。
賛して曰く、「大礼」の議は、楊廷和これを倡え、挙朝翕然として声を同じくし、大抵宋の司馬光・程頤の『濮園議』に本づく。然れども英宗は宮中に長育され、名称素より定まる。而して世宗は詔を奉じて嗣位し、武宗の後を承け、事勢各々殊なり。諸臣徒らに先賢大儒の成説の拠るべきを見て、天下後世に罪を得ざるを求め、未だ世宗の為に熟計審処し、情理を準酌して以て至当を求むるに暇あらず。争うこと愈力く、失うこと愈深し。惜しいかな。