明史

列傳第五十五 曹鼐 鄺埜 王佐 孫祥 袁彬

列傳第五十五 曹鼐 鄺埜 王佐 孫祥 袁彬

原文列傳第五十五 曹鼐 鄺埜 王佐 孫祥 袁彬

○曹鼐(張益 鄺埜) 王佐(丁鉉等) 孫祥(謝澤) 袁彬(哈銘 袁敏)

原文○曹鼐(張益鄺埜)王佐(丁鉉等)孫祥(謝澤)袁彬(哈銘袁敏)

曹鼐、字あざなは萬鐘、寧晉の人。若くして豪放で大志あり、継母に仕えて孝行をもって知られた。宣徳初年、郷挙により代州訓導に任じられたが、別の職を望み、泰和県典史に改められた。七年、工匠を監督して京師に至り、上疏して試験を受けることを請い、再び順天郷試に合格した。翌年、進士一甲第一に挙げられ、礼部にて賜宴された。進士が礼部で宴を受けるのは、曹鼐より始まる。翰林に入り、修撰となった。

原文曹鼐,字萬鐘,寧晉人。少伉爽有大誌,事繼母以孝聞。宣德初,由鄉舉授代州訓導,願授別職,改泰和縣典史。七年督工匠至京師,疏乞入試,復中順天鄉試。明年舉進士一甲第一,賜宴禮部。進士宴禮部,自鼐始。入翰林,為修撰。

正統元年、経筵講官を充てられた。『宣宗実録』が完成し、侍講に進み、三品の章服を賜った。五年、楊栄・楊士奇の推薦により、文淵閣に入り直し、機務に参与した。曹鼐は人となり内に剛直、外に温和で、政体に通達していた。楊栄が没した後、楊士奇は常に病み事を視ず、閣務は多く曹鼐によって決せられた。帝は賢しとし、翰林学士に進めた。十年、吏部左侍郎兼学士に進んだ。

原文正統元年,充經筵講官。《宣宗實錄》成,進侍講,錫三品章服。五年,以楊榮、楊士奇薦,入直文淵閣,參預機務。鼐為人內剛外和,通達政體。榮既歿,士奇常病不視事,閣務多決於鼐。帝以為賢,進翰林學士。十年進吏部左侍郎兼學士。

十四年七月、也先が侵入し、宦官王振が帝を擁して親征した。朝臣が相次いで上奏して諫めたが、聞き入れられなかった。曹鼐と張益は閣臣として扈従した。大同に至らぬうちに、士卒は既に糧食を欠いていた。宋瑛・朱冕は全軍覆没した。諸臣が班師を請うたが、王振は許さず、諸軍に進むよう促した。大将朱勇は膝行して命令を聴き、尚書鄺埜・王佐は草むらに跪き、日暮れまで請いを得られなかった。欽天監正彭徳清が天象が警めを示すと述べ、もし進めば、恐らく乗輿が危うくなると言った。王振は罵って言った、「お前が何を知るか!もしそうなっても、これまた天命だ」。曹鼐は言った、「臣下は惜しむに足りませんが、主上は天下の安危にかかわります。どうして軽々しく進むことができましょうか」。王振は終に従わなかった。先鋒の敗報が次々と至り、初めて恐れ、還ろうとした。定襄侯郭登が曹鼐・張益に言った、「ここから紫荊に向かえば、わずか四十余里です。車駕は紫荊から入るべきです」。王振は帝を蔚州に招き、その邸宅に幸せんと欲したが、聞き入れられず、再び東に折れて居庸に向かった。

原文十四年七月,也先入寇,中官王振挾帝親征。朝臣交章諫,不聽。鼐與張益以閣臣扈從。未至大同,士卒已乏糧。宋瑛、朱冕全軍沒。諸臣請班師,振不許,趣諸軍進。大將朱勇膝行聽命,尚書鄺埜、王佐跪草中,至暮不得請。欽天監正彭德清言天象示警,若前,恐危乘輿。振詈曰:「爾何知!若有此,亦天命也。」鼐曰:「臣子固不足惜,主上系天下安危,豈可輕進?」振終不從。前驅敗報踵至,始懼,欲還。定襄侯郭登言於鼐、益曰:「自此趨紫荊,裁四十餘里,駕宜從紫荊入。」振欲邀帝至蔚州幸其第,不聽,復折而東,趨居庸。

八月辛酉、土木に駐屯した。地が高く、地を二丈掘っても水に及ばなかった。瓦剌の大軍が至り、南河を占拠した。翌日、偽って退き、かつ使者を遣わして和を通じた。帝は曹鼐を召して詔を草させ、これに答えた。王振は急いで営を移して水に就くよう命じ、行軍は乱れた。敵騎が陣を蹂躙して入り、帝は包囲を突破して出ることができず、擁し去られた。曹鼐・張益らは皆難に及んだ。景帝が立つと、曹鼐に少傅・吏部尚書・文淵閣大学士を追贈し、文襄と諡し、その子曹恩を大理評事に任じた。英宗が復位すると、太傅を加贈し、諡を文忠に改め、その孫曹栄を錦衣百戸に任じた。曹鼐の弟曹鼎は進士で、吏科都給事中を歴任した。

原文八月辛酉次土木。地高,掘地二丈不及水。瓦剌大至,據南河。明日佯卻,且遣使通和。帝召鼐草詔答之。振遽令移營就水,行亂。寇騎蹂陣入,帝突圍不得出,擁以去。鼐、益等俱及於難。景帝立,贈鼐少傅、吏部尚書、文淵閣大學士,謚文襄,官其子恩大理評事。英宗復位,加贈太傅,改謚文忠,復官其孫榮錦衣百戶。鼐弟鼎進士,歷吏科都給事中。

張益、字は士謙、江寧の人。永楽十三年の進士。庶吉士より中書舎人に任じられ、大理評事に改められた。『宣宗実録』の編修に参与して完成し、修撰に改められた。博学強記で、詩文は筆を執ればたちまち完成し、三楊(楊士奇・楊栄・楊溥)は大いにこれを重んじた。まもなく侍読学士に進み、正統十四年に文淵閣に入った。三ヶ月も経たぬうちに、急に難に遭って没した。景帝が立つと、学士を追贈し、文僖と諡した。曾孫の張琮は進士。嘉靖初年、南京右都御史を歴任した。

原文張益,字士謙,江寧人。永樂十三年進士。由庶吉士授中書舍人,改大理評事。與修《宣宗實錄》成,改修撰。博學強記,詩文操筆立就,三楊雅重之。尋進侍讀學士,正統十四年入文淵閣。未三月,遽蒙難以歿。景帝立,贈學士,謚文僖。曾孫琮進士。嘉靖初歷官南京右都御史。

鄺埜、字は孟質、宜章の人。永楽九年の進士、監察御史に任じられた。成祖が北京におられた時、ある者が南京の鈔法が豪民によって阻害破壊されていると奏上した。帝は鄺埜を遣わして視察させた。人々は大獄が起こるだろうと言ったが、鄺埜は一、二の市井の豪商を捕えて帰った。奏上して言った、「市人は命令を聞いて震え恐れ、鈔法は流通しました」。事はそこで終わった。倭が遼東を侵犯し、戍守の規律を失った者百余人は、皆死に応ずるべきであった。命により鄺埜が審問したところ、詳しく哀れむべき状況を述べ、帝は彼らを赦した。北京を営造する際、役務に就く者は巨万に上り、命により鄺埜が検査したところ、病む者も多く死ななかった。

原文鄺埜,字孟質,宜章人。永樂九年進士,授監察御史。成祖在北京,或奏南京鈔法為豪民沮壞,帝遣埜廉視。眾謂將起大獄,埜執一二市豪歸。奏曰:「市人聞令震懼,鈔法通矣。」事遂已。倭犯遼東,戍守失律者百餘人,皆應死。命埜按問,具言可矜狀,帝為宥之。營造北京,執役者鉅萬,命埜稽省,病者多不死。

十六年、秦の民が群聚して謀反を企てているという言があり、鄺埜は陝西按察副使に抜擢され、便宜により兵を調べて剿捕するよう勅された。鄺埜はその誣告であることを訴え、詔により妄言した者を誅した。宣徳四年、関中の飢饉を救済した。陝西に長く在任し、刑政は清廉簡素であった。父の喪に服し、喪が明けると、応天府尹に抜擢された。苛酷で急迫した政令を免じ、市税や田税は皆その公平を斟酌した。

原文十六年有言秦民群聚謀不軌者,擢埜陜西按察副使,敕以便宜調兵剿捕。埜白其誣,詔誅妄言者。宣德四年振關中饑。在陜久,刑政清簡。父憂服除,擢應天府尹。蠲苛急政,市征田稅皆酌其平。

正統元年、兵部右侍郎に進んだ。翌年、尚書王驥が軍を督して出ると、鄺埜が単独で部の事務を担当した。当時、辺境に警報多く、将帥に人材乏しく、鄺埜は内外に広く謀略・武勇の士を挙げるよう請い、任用に備えさせた。六年、山東に災害があった。鄺埜は民間の孳牧馬の賠償の令を寛大にするよう請い、その力を蘇らせた。

原文正統元年進兵部右侍郎。明年,尚書王驥出督軍,埜獨任部事。時邊陲多警,將帥乏人,埜請令中外博舉謀略材武士,以備任使。六年,山東災。埜請寬民間孳牧馬賠償之令,以蘇其力。

十年、尚書に進んだ。旧例では、諸衛の百戸以下で交代すべき者は、必ず京師で試験を受けねばならず、道遠く資力なき者は、終身交代できなかった。鄺埜は各都司で試験を受けさせるよう請い、人々は便利とした。瓦剌の也先が勢い盛んであったので、鄺埜は備えを請い、また廷臣と議して方策を上奏し、大同の兵を増やし、智謀の大臣を選んで西北辺務を巡視するよう請うた。まもなくまた京営兵の城修築の役務を罷め、休息させて緩急に備えるよう請うた。当時は用いられなかった。

原文十年進尚書。舊例諸衛自百戶以下當代者,必就試京師,道遠無資者,終身不得代。埜請就令各都司試之,人以為便。瓦剌也先勢盛,埜請為備,又與廷臣議上方略,請增大同兵,擇智謀大臣巡視西北邊務。尋又請罷京營兵修城之役,令休息以備緩急。時不能用。

也先が侵入した時、王振が親征を主張し、外廷と可否を議しなかった。詔が下ると、鄺埜は上疏して言った、「也先の侵犯は、一辺将で十分に制することができます。陛下は宗廟社稷の主であらせられます。どうしてご自愛なさらないのですか」。聞き入れられなかった。既に車駕に扈従して関を出ると、力を尽くして回鑾を請うた。王振は怒り、戸部尚書王佐と共に皆大営に随うよう命じた。鄺埜は落馬して危うく死にかけ、ある者が懐来城に留まり医者にかかるよう勧めた。鄺埜は言った、「至尊が行在にあるのに、どうして病気を口実に安んじることができようか」。車駕が宣府に駐屯すると、朱勇が敗没した。鄺埜は急いで関に入り、厳重な兵をもって殿とすべきと請うた。返答がなかった。また行在所に赴いて申請した。王振は怒って言った、「腐儒がどうして兵事を知ろうか、再び言う者は死だ!」。鄺埜は言った、「私は社稷と生民のために言うのです。何を恐れましょう」。王振は左右を叱って扶け出させた。鄺埜と王佐は帳中で向かい合って泣いた。翌日、軍は覆没し、鄺埜は死んだ。六十五歳。

原文也先入寇,王振主親征,不與外廷議可否。詔下,埜上疏言:「也先入犯,一邊將足制之。陛下為宗廟社稷主,奈何不自重。」不聽。既扈駕出關,力請回鑾。振怒,令與戶部尚書王佐皆隨大營。埜墮馬幾殆,或勸留懷來城就醫。埜曰:「至尊在行,敢托疾自便乎?」車駕次宣府,朱勇敗沒。埜請疾驅入關,嚴兵為殿。不報。又詣行在申請。振怒曰:「腐儒安知兵事,再言者死!」埜曰:「我為社稷生靈言,何懼?」振叱左右扶出。埜與佐對泣帳中。明日,師覆,埜死,年六十五。

鄺埜は人となり勤勉廉潔で端正謹厳、性は至孝であった。父の鄺子輔は句容の教官で、鄺埜を非常に厳しく教えた。鄺埜が陝西に長くいた時、一度父に会いたいと思い、父を郷試の考官に招聘しようと図った。父は怒って言った、「子が憲司に居て、父が考官となる。どうして嫌疑を防ごうか」。早馬で書を送って責めた。鄺埜はまたかつて父に粗衣を送ったが、再び書を送って責めて言った、「汝は刑名を掌り、冤罪を洗い滞りを解き、任使に辱じないようにすべきである。どうしてこの粗衣を得たのか、私を汚すとは」。封をして返送した。鄺埜は書を奉じて跪いて誦し、泣いて教えを受けた。景泰初年、鄺埜に少保を追贈し、その子鄺儀を主事に任じた。成化初年、忠肅と諡した。

原文埜為人勤廉端謹,性至孝。父子輔為句容教官,教埜甚嚴。埜在陜久,思一見父,乃謀聘父為鄉試考官。父怒曰:「子居憲司,而父為考官,何以防閑?」馳書責之。埜又嘗寄父褐,復貽書責曰:「汝掌刑名,當洗冤釋滯,以無忝任使,何從得此褐,乃以汙我。」封還之。埜奉書跪誦,泣受教。景泰初,贈埜少保,官其子儀為主事。成化初,謚忠肅。

王佐、海豊の人。永楽年間に郷挙に挙げられた。太学を卒業し、学行をもって知られ、吏科給事中に抜擢された。器宇は重厚で、奏対は詳雅であり、宣宗に簡抜注目された。

原文王佐,海豐人。永樂中舉於鄉。卒業太學,以學行聞,擢吏科給事中。器宇凝重,奏對詳雅,為宣宗所簡註。

宣徳二年、超えて戸部右侍郎に拝された。太倉・臨清・德州・淮・徐の諸倉に積弊多きを以て、巡視を補佐するよう勅命を受けた。平江伯陳瑄が言うには、漕卒十二万人、歳漕は艱苦を極め、南方の民を軍数と同様に徴発し、交代で転運させてほしいと乞うた。詔して佐に瑄及び黄福とこれを議させた。佐が還って奏上し、東南の民力は既に困窮していると、議は遂に止んだ。通州より直沽に至る河道を治める命を受け、後に宣府に赴き屯田の事宜を議した。

原文宣德二年,超拜戶部右侍郎。以太倉、臨清、德州、淮、徐諸倉多積弊,敕佐巡視。平江伯陳瑄言,漕卒十二萬人,歲漕艱苦,乞僉南方民如軍數,更番轉運。詔佐就瑄及黃福議之。佐還奏,東南民力已困,議遂寢。受命治通州至直沽河道。已,赴宣府議屯田事宜。

英宗が初めて即位すると、出て河南を鎮守した。軍衛が税糧を収納するに当たり、奸弊百出することを奏上し、その制度を改めるよう請うた。廷議により辺衛を除き、皆改めて有司に隷属させることとなった。間もなく召還され、甘粛の軍餉を督理する命を受けた。正統元年に長蘆の塩課を管理し、三年には京師及び通州の倉場を提督し、赴く所事として成さざるはなかった。

原文英宗初立,出鎮河南。奏言軍衛收納稅糧,奸弊百出,請變其制。廷議自邊衛外,皆改隸有司。尋召還,命督理甘肅軍餉。正統元年理長蘆鹽課,三年提督京師及通州倉場,所至事無不辦。

六年、尚書劉中敷が罪を得ると、召されて部事を管理し、間もなく尚書に進んだ。十一年、詔を承り安郷伯張安兄弟の禄を争う事を訊問し、法司と互いに委ね合った罪に坐し、弾劾されて吏に下され、釈放された。時に軍旅が四方に出て、費消は動もすれば巨万に及び、府庫は空虚であった。佐は従容として調剤し、節縮に方策があった。戸部に久しく在り、赫々たる名声はなくとも、寛厚にして度があり、政務が紛糾しても、未だ学を廃したことはなく、人はその君子と称した。

原文六年,尚書劉中敷得罪,召理部事,尋進尚書。十一年承詔訊安鄉伯張安兄弟爭祿事,坐與法司相諉,被劾下吏,獲釋。時軍旅四出,耗費動以鉅萬,府庫空虛。佐從容調劑,節縮有方。在戶部久,不為赫赫名,而寬厚有度,政務糾紛,未嘗廢學,人稱其君子。

土木の変に、鄺埜・丁鉉・王永和・鄧棨と共に死難した。少保を贈られ、その子道を戸部主事に官した。成化初年、忠簡と諡された。

原文土木之變,與鄺埜、丁鉉、王永和、鄧棨同死難。贈少保,官其子道戶部主事。成化初,謚忠簡。

丁鉉、字は用済、豊城の人。永楽年間の進士。太常博士を授けられた。工・刑・吏の三部員外郎を歴任し、刑部郎中に進んだ。正統三年に超えて刑部侍郎に拝された。九年に出て四川の茶課を管理し、その常額を減らし、豊年を待つよう奏上した。江淮及び山東・河南の飢饉を救済し、民は皆これに頼った。平素は恂々として無能の如く、事に臨めば悉く治め処理した。従征して歿し、刑部尚書を贈られ、その子琥を大理評事に官した。後に襄湣と諡された。

原文丁鉉,字用濟,豐城人。永樂中進士。授太常博士。歷工、刑、吏三部員外郎,進刑部郎中。正統三年超拜刑部侍郎。九年出理四川茶課,奏減其常數,以俟豐歲。振饑江淮及山東、河南,民鹹賴之。平居恂恂若無能,臨事悉治辦。從征歿,贈刑部尚書,官其子琥大理評事。後謚襄湣。

王永和、字は以正、昆山の人。幼少より至孝であった。父が病み伏枕十八年、湯薬を侍り少しも懈がなかった。永楽年間に郷挙され、厳州・饒州の訓導を歴任した。蹇義の推薦により、兵科給事中となった。嘗て都督王彧が薊州を鎮守して寇を縱し、及び錦衣馬順の不法事を弾劾した。節を持ち韓世子妃を冊立し、中官の驕傲の罪を糾弾した。勁直を以て聞こえた。正統六年に都給事中に進み、八年に工部右侍郎に擢られた。従征して歿し、工部尚書を贈られ、その子汝賢を大理評事に官した。後に襄敏と諡された。

原文王永和,字以正,昆山人。少至孝。父病伏枕十八年,侍湯藥無少懈。永樂中舉於鄉,歷嚴州、饒州訓導。以蹇義薦,為兵科給事中。嘗劾都督王彧鎮薊州縱寇,及錦衣馬順不法事。持節冊韓世子妃,糾中官蹇傲罪。以勁直聞。正統六年進都給事中。八年擢工部右侍郎。從征歿,贈工部尚書,官其子汝賢大理評事。後謚襄敏。

鄧棨、字は孟擴、南城の人。永楽末年の進士。監察御史を授けられ、勅を奉じて蘇・松諸府を巡按した。任期満了に代わらんとするに、父老が闕に赴き留まるよう乞い、許しを得た。間もなく憂いにより去った。宣徳十年、陝西に按察使が欠員し、詔して廷臣に清慎にして威望ある者を挙げさせた。楊士奇が棨を推薦し、遂にこれを命じられた。正統十年に入り右副都御史となった。北征に扈従し、師が居庸関を出ると、疏を上して回鑾を請い、兵事を専ら大将に属すべきと述べた。宣府・大同に至り、再び章を上した。皆報いられなかった。変に遇うと、同行の者が言うには「我々は自ら脱出すべきである」と。棨は曰く「鑾輿が所を失うに、我何に帰らんや。主辱しめば臣死す、分なり」と。遂に死した。右都御史を贈られ、その子常を大理評事に官した。後に襄敏と諡された。

原文鄧棨,字孟擴,南城人。永樂末年進士。授監察御史,奉敕巡按蘇、松諸府。期滿將代去,父老赴闕乞留,得請。旋以憂去。宣德十年,陜西闕按察使,詔廷臣舉清慎有威望者。楊士奇薦棨,遂以命之。正統十年入為右副都御史。北征扈從,師出居庸關,疏請回鑾,以兵事專屬大將。至宣府、大同,復再上章。皆不報。及遇變,同行者語曰:「吾輩可自脫去。」棨曰:「鑾輿失所,我尚何歸!主辱臣死,分也。」遂死。贈右都御史,官其子常大理評事。後謚襄敏。

英宗の出御に際し、文武百官を備えて従った。六師が土木に覆えり、将相大臣及び従官の死者は数え切れなかった。英国公張輔及び諸侯伯は自ら伝がある。その余の姓氏の考うべき者は、卿寺では龔全安・黄養正・戴慶祖・王一居・劉容・淩寿。給事・御史では包良佐・姚銑・鮑輝・張洪・黄裳・魏貞・夏誠・申祐・尹竑・童存徳・孫慶・林祥鳳。庶僚では齊汪・馮学明・王健・程思温・程式・逯端・俞鑒・張瑭・鄭瑄・俞拱・潘澄・錢昺・馬預・尹昌・羅如墉・劉信・李恭・石玉。景帝が立つと、既に諸大臣を贈恤し、給事・御史以下は皆勅を降して褒め称え、その子を国子生に録し、一時の恤典は極めて備わったという。

原文英宗之出也,備文武百官以行。六師覆於土木,將相大臣及從官死者不可勝數。英國公張輔及諸侯伯自有傳。其餘姓氏可考者,卿寺則龔全安、黃養正、戴慶祖、王一居、劉容、淩壽;給事、御史則包良佐、姚銑、鮑輝、張洪、黃裳、魏貞、夏誠、申祐、尹竑、童存德、孫慶、林祥鳳;庶寮則齊汪、馮學明、王健、程思溫、程式、逯端、俞鑒、張瑭、鄭瑄、俞拱、潘澄、錢昺、馬預、尹昌、羅如墉、劉信、李恭、石玉。景帝立,既贈恤諸大臣,自給事、御史以下,皆降敕褒美,錄其子為國子生,一時恤典綦備雲。

龔全安は蘭溪の人。進士、工科給事中を授けられ、累進して左通政となった。歿して通政使を贈られた。黄養正は名を蒙といい、字をもって行い、瑞安の人。善書を以て中書舎人を授けられ、累官して太常少卿となった。歿して太常卿を贈られた。戴慶祖は溧陽の人、王一居は上元の人。共に楽舞生より、累官して太常少卿となった。歿し、共に太常卿を贈られた。包良佐、字は克忠。慈渓の人。進士、吏科給事中を授けられた。鮑輝、字は淑大、浙江平陽の人。進士、工科給事中を授けられ、数度建言があった。張洪は安福の人。黄裳、字は元吉、曲江の人。共に進士、御史を授けられた。裳は嘗て寧・紹・台三府で疫病により三万人が死に、死者には租を免じ、生存者には振恤すべきと上言した。両浙の塩政を巡視し、水害の恤みを請うた。報可された。魏貞は懐遠の人。進士、御史を官とした。申祐、字は天錫、貴州婺川の人。父が虎に噛まれた。祐が棒を持ち奮撃し、免れた。郷挙され、国学に入り、諸生を率いて祭酒李時勉を救った。間もなく進士に登り、四川道御史を拝し、謇諤を以て聞こえた。尹竑、字は太和、巴の人。童存徳、字は居敬、蘭渓の人。共に進士、御史を官とした。林祥鳳、字は鳴皐、莆田の人。郷挙より訓導を授けられ、御史に擢られた。齊汪、字は源澄、天臺の人。進士より兵部車駕司郎中を歴任した。程思温は婺源の人。程式は常熟の人。逯端は仁和の人。共に進士、員外郎を官とした。俞鑒、字は元吉、桐廬の人。進士より兵部職方司主事を授けられた。駕が北征するに、郎中胡寧が従うべきところ、病を以て代わりを求め、鑒は慷慨として承諾した。或る人が「家遠く子幼し、如何せん」と言うと、鑒は「国の為に、臣子敢えて身家を計らんや」と言った。尚書鄺埜はその賢を知り、数度事を計ったが、鑒は「ただ力を尽くして班師を勧めるのみ」と言った。時に用いられなかった。張瑭、字は廷玉、慈渓の人。進士、刑部主事を授けられた。尹昌は吉永の人。進士、行人司正を官とした。羅如墉、字は本崇、廬陵の人。進士、行人を授けられた。北征に従い、行に臨み、妻子に訣別し、死を以て国に報いんと誓い、翰林劉儼にその墓の銘を頼んだ。儼は驚いて拒んだが、如墉は笑って「行くに当たり験あらん」と言った。後数日にして果たして死した。劉容は太僕少卿。淩寿は尚宝少卿。夏誠・孫慶は皆御史。馮学明は郎中。王健は員外郎。俞拱・潘澄・錢昺は皆中書舎人。馬預は大理寺副。劉信は夏官正。李恭・石玉は序班。郷里の居所は皆考うるに無し。

原文龔全安,蘭溪人。進士,授工科給事中,累遷左通政。歿贈通政使。黃養正,名蒙,以字行,瑞安人。以善書授中書舍人,累官太常少卿。歿贈太常卿。戴慶祖,溧陽人,王一居,上元人。俱樂舞生,累官太常少卿。歿,俱贈太常卿。包良佐,字克忠。慈溪人。進士,授吏科給事中。鮑輝,字淑大,浙江平陽人。進士,授工科給事中,數有建白。張洪,安福人;黃裳,字元吉,曲江人。俱進士,授御史。裳嘗言寧、紹、臺三府疫死三萬人,死者宜蠲租,存者宜振恤。巡視兩浙鹽政,請恤水災。報可。魏貞,懷遠人。進士,官御史。申祐。字天錫,貴州婺川人。父為虎嚙。祐持梃奮擊之,得免。舉於鄉,入國學,帥諸生救祭酒李時勉。旋登進士,拜四川道御史,以謇諤聞。尹竑,字太和,巴人;童存德,字居敬,蘭溪人。俱進士,官御史。林祥鳳,字鳴臯,莆田人。由鄉舉授訓導,擢御史。齊汪,字源澄,天臺人。以進士歷兵部車駕司郎中。程思溫,婺源人;程式,常熟人;逯端,仁和人。俱進士,官員外郎。俞鑒,字元吉,桐廬人。以進士授兵部職方司主事。駕北征,郎中胡寧當從,以病求代,鑒慷慨許諾。或曰:「家遠子幼奈何?」鑒曰:「為國,臣子敢計身家!」尚書鄺埜知其賢,數與計事,鑒曰:「惟力勸班師耳。」時不能用。張瑭,字廷玉,慈溪人。進士,授刑部主事。尹昌,吉永人。進士,官行人司正。羅如墉,字本崇,廬陵人。進士,授行人。從北征,瀕行,訣妻子,誓以死報國,屬翰林劉儼銘其墓。儼驚拒之,如墉笑曰:「行當驗耳。」後數日果死。劉容,太僕少卿。淩壽,尚寶少卿。夏誠、孫慶皆御史。馮學明,郎中。王健,員外郎。俞拱、潘澄、錢昺,皆中書舍人。馬預,大理寺副。劉信,夏官正。李恭,石玉,序班。裏居悉無考。

孫祥は大同の人である。正統十年の進士となり、兵科給事中に任ぜられた。右副都御史に抜擢され、紫荊関の守備に当たった。也先が関に迫ると、都指揮の韓青は戦死したが、孫祥は四日間堅守した。也先が間道より侵入し、挟撃したため、関は陥落した。孫祥は兵を督して巷戦したが、兵は潰走し、彼は殺された。言官が誤って孫祥が城を棄てて遁走したと弾劾した。寇が退いた後、役人が関を修復した際、その屍を戦地で発見し、焼いて埋葬したが、上聞には達しなかった。孫祥の弟の孫祺が朝廷に赴き冤罪を訴えたため、詔してその家を恤れた。成化に改元すると、その子の孫紳を大理寺右評事に登用した。

原文孫祥,大同人。正統十年進士。授兵科給事中。擢右副都御史,守備紫荊關。也先逼關,都指揮韓青戰死,祥堅守四日。也先由間道入,夾攻之,關破。祥督兵巷戰,兵潰被殺,言官誤劾祥棄城遁。寇退,有司修關,得其屍戰地,焚而瘞之,不以聞。祥弟祺詣闕言冤,詔恤其家。成化改元,錄其子紳為大理寺右評事。

また謝澤という者は、上虞の人である。永楽十六年の進士となった。南京刑部主事より出て広西参政となった。正統末、通政使に抜擢され、白羊口を守備した。王師が土木で敗れると、辺境を守る者に固守の志がなく、謝澤はその子の謝儼と決別して赴任した。職務について数日も経たぬうちに、也先の兵が大挙侵入し、守将の呂鐸は遁走した。謝澤は兵を督して山口を扼したが、大風が砂を舞い上げ、人馬の見分けもつかぬ状況となった。或る者が他の関に移って敵を避けるよう請うたが、謝澤は許さなかった。寇が至ると、兵衆は潰走し、謝澤は剣を按じ厲声で賊を叱したが、遂に殺された。事が上聞され、官を遣わして葬祭を行い、謝儼を大理評事に登用した。

原文又謝澤者,上虞人。永樂十六年進士。由南京刑部主事出為廣西參政。正統末,擢通政使,守備白羊口。王師敗於土木,守邊者無固誌,澤與其子儼訣而行。受事未數日,也先兵大入,守將呂鐸遁。澤督兵扼山口,大風揚沙,不辨人馬。或請移他關避敵,澤不可。寇至,眾潰,澤按劍厲聲叱賊,遂被殺。事聞,遣官葬祭,錄儼為大理評事。

袁彬は字を文質といい、江西新昌の人である。正統末、錦衣校尉として帝の北征に扈従した。土木の変に際し、也先が帝を擁して北去すると、従官は悉く奔散したが、袁彬ひとりが随従し、左右を離れなかった。也先が大同・宣府を犯し、京師に迫るに及んでも、皆帝を奉じて行動した。上下の山坂を越え、渓澗を渡り、危険を冒す中で、袁彬は擁護して少しも懈らなかった。帝が土城に駐蹕した時、皇太后に奉書して景帝に伝え、群臣を諭そうとされ、袁彬が文書に通じているので代わりに草稿を書かせた。帝が沙漠に入ってからは、住まいは毳帳と敝幃のみで、傍らに一車一馬を列ね、転徙に備えるだけであった。袁彬は患難の中を周旋し、一度も帝に逆らわなかった。夜は帝と同寝し、寒さが甚だしい時は、常に脇で帝の足を温めた。

原文袁彬,字文質,江西新昌人。正統末,以錦衣校尉扈帝北征。土木之變,也先擁帝北去,從官悉奔散,獨彬隨侍,不離左右。也先之犯大同、宣府,逼京師,皆奉帝以行。上下山阪,涉溪澗,冒危險,彬擁護不少懈。帝駐蹕土城,欲奉書皇太后貽景帝及諭群臣,以彬知書令代草。帝既入沙漠,所居止毳帳敝幃,旁列一車一馬,以備轉徙而已。彬周旋患難,未嘗違忤。夜則與帝同寢,天寒甚,恒以脅溫帝足。

哈銘という者がいた。蒙古人である。幼くしてその父に従って通事となり、この時もまた帝に侍った。帝が也先やその部下に宣諭する時、しばしば哈銘を使わされた。也先らが何か陳請する時も、哈銘が伝達した。帝が独り氈廬に居て、南を望んで鬱々としていると、二人は時に諧謔を進めて帝を慰め、帝もまた顔をほころばせた。

原文有哈銘者,蒙古人。幼從其父為通事,至是亦侍帝。帝宣諭也先及其部下,嘗使銘。也先輩有所陳請,亦銘為轉達。帝獨居氈廬,南望悒郁。二人時進諧語慰帝,帝亦為解顏。

宦官の喜寧は也先の腹心であった。也先がかつて帝に言った。「中朝が使節を遣わして来れば、皇帝は帰還できます。」帝は言われた。「汝が自ら朕を送ればよい。中朝に使節を遣わさせようとしても、徒らに往復を費やすだけである。」喜寧はこれを聞いて怒り、「急ぎ帰還を望むのは袁彬である。必ず殺さねばならぬ。」と言った。喜寧は也先を勧めて西の寧夏を犯し、その馬を掠め、直ちに江表に趨り、帝を南京に居らせようとした。袁彬と哈銘は帝に言った。「天寒く道遠く、陛下はまた騎乗もできませぬ。空しく凍え飢えるだけです。かつて彼の地に至っても諸将が受け入れなければ、どうなさいますか。」帝は喜寧の計を止められた。喜寧はまた二人を殺そうとしたが、いずれも帝が力を尽くして解き止められた。也先が妹を帝に献上しようとした時、袁彬は車駕が還ってから後に聘礼をと請い、帝は遂にこれを辞された。也先は袁彬・哈銘の二人を憎み、殺そうとしたことは屡々であった。ある日、袁彬を縛って曠野に至らせ、支解しようとした。帝はこれを聞き、左右の手を失うが如く、急ぎ救いに趨り、ようやく免れた。袁彬が寒気に中った時、帝は大いに憂い、自らの身をもってその背を圧し、汗が遍く出て癒えた。帝が漠北に居ること一年、袁彬を見ること猶お骨肉の如くであった。

原文中官喜寧為也先腹心。也先嘗謂帝曰:「中朝若遣使來,皇帝歸矣。」帝曰:「汝自送我則可,欲中朝遣使,徒費往返爾。」寧聞,怒曰:「欲急歸者彬也,必殺之。」寧勸也先西犯寧夏,掠其馬,直趨江表,居帝南京。彬、銘謂帝曰:「天寒道遠,陛下又不能騎,空取凍饑。且至彼而諸將不納,奈何?」帝止寧計。寧又欲殺二人,皆帝力解而止。也先將獻妹於帝,彬請駕旋而後聘,帝竟辭之。也先惡彬、銘二人,欲殺者屢矣。一日縛彬至曠埜,將支解之。帝聞,如失左右手,急趨救,乃免。彬嘗中寒,帝憂甚,以身壓其背,汗浹而愈。帝居漠北期年,視彬猶骨肉也。

帝が京師に還ると、景帝は僅かに袁彬を錦衣試百戸に任じた。天順に復辟すると、指揮僉事に抜擢した。間もなく同知に進めた。帝の袁彬への眷顧は甚だしく、奏請して従わぬことはなかった。内閣の商輅が罷免されると、袁彬はその邸宅を賜わるよう乞い、得た。既にしてまた狭小であるとして、官に別に建てさせるよう乞うと、帝もまた報いて従った。袁彬が妻を娶る時は、外戚の孫顕宗に主婚させ、賜与は優渥であった。時に召し入れて曲宴を開き、患難の時の事を語り合うと、歓洽すること旧時の如くであった。その年の十二月に指揮使に進め、都指揮僉事の王喜と共に衛事を掌った。二人はかつて宦官の夏時の嘱託を受け、密かに百戸の季福を江西に遣わして偵察させた。季福は、帝の乳母の夫であった。詔して誰が遣わしたかを問うと、二人は罪を請うた。帝は言われた。「これには必ず主使者がいる。」遂に季福を吏に下し、二人が嘱託を受けた状況を得た。所司が夏時及び二人の罪を治めるよう請うた。帝は夏時を赦し、二人は徒刑を贖って職に還り、詔して今後嘱託を受けて官を遣わす者は、必ず殺して赦さない、とした。後に囚人を失った罪に坐し、王喜は解職され、袁彬は遂に衛事を掌った。五年の秋、曹欽平定の功により、都指揮僉事に進んだ。

原文及帝還京,景帝僅授彬錦衣試百戶。天順復辟,擢指揮僉事。尋進同知。帝眷彬甚,奏請無不從。內閣商輅既罷,彬乞得其居第。既又以湫隘,乞官為別建,帝亦報從。彬娶妻,命外戚孫顯宗主之,賜予優渥。時召入曲宴,敘患難時事,歡洽如故時。其年十二月進指揮使,與都指揮僉事王喜同掌衛事。二人嘗受中官夏時囑,私遣百戶季福偵事江西。福者,帝乳媼夫也。詔問誰所遣,二人請罪。帝曰:「此必有主使者。」遂下福吏,得二人受囑狀。所司請治時及二人罪。帝宥時,二人贖徒還職,而詔自今受囑遣官者,必殺無赦。已而坐失囚,喜解職,彬遂掌衛事。五年秋,以平曹欽功,進都指揮僉事。

時に門達は帝の寵を恃み、その勢いは朝野を傾けた。廷臣は多く彼に下ったが、袁彬のみは屈しなかった。門達は罪を誣いて、逮捕して治めるよう請うた。帝は法を行わんとし、彼に告げて言われた。「汝の往きて治めるに任せよ。ただ生きている袁彬を我に還せよ。」門達は遂に鍛錬して獄を成した。漆工の楊塤が冤罪を訟えたおかげで、獄は解かれた。しかしなお南京錦衣衛に転じ、帯俸のまま閑住させられた。詳細は『門達伝』にある。

原文時門達恃帝寵,勢傾朝野。廷臣多下之,彬獨不為屈。達誣以罪,請逮治。帝欲法行,語之曰:「任汝往治,但以活袁彬還我。」達遂鍛煉成獄。賴漆工楊塤訟冤,獄得解。然猶調南京錦衣衛,帶俸閑住。語詳《達傳》。

二月を過ぎ、英宗が崩御し、門達は罪を得て、都勻に貶官された。袁彬を召して原職に復し、依然として衛事を掌らせた。間もなく、門達は捕らえられて獄に下り、南丹に充軍された。袁彬は郊外で彼を見送り、餞別の礼を贈った。成化初め、都指揮同知に進んだ。久しくして、都指揮使に進んだ。先に、錦衣衛を掌る者は、概ね権勢を張り、財賄を貪った。袁彬は職に在ること久しく、行う事は安静であった。

原文越二月,英宗崩,達得罪,貶官都勻。召彬復原職,仍掌衛事。未幾,達征下獄,充軍南丹。彬餞之於郊,饋以贐。成化初,進都指揮同知。久之,進都指揮使。先是,掌錦衣衛者,率張權勢,罔財賄。彬任職久,行事安靜。

十三年に都督僉事に抜擢され、前軍都督府に蒞った。官に在るまま卒した。世襲で錦衣僉事となった。

原文十三年擢都督僉事,蒞前軍都督府。卒於官。世襲錦衣僉事。

哈銘は帝に従って還り、楊銘の姓名を賜った。錦衣指揮使の官を歴任し、数度外蕃に奉使して通事を務めた。孝宗が嗣位すると、伝奉官を淘汰したが、哈銘は塞外での侍衛の功により、独り旧の如くであった。長寿を保ち官に在るまま卒した。

原文哈銘從帝還,賜姓名楊銘,歷官錦衣指揮使,數奉使外蕃為通事。孝宗嗣位,汰傳奉官,銘以塞外侍衛功,獨如故。以壽卒於官。

袁敏という者は、金歯衛の知事であった。英宗の北征に応募して従い、大同に至った。車駕が還るに及び、万全左衛に駐った。袁敏は敵騎が迫るのを見て、精兵三四万人を留めてその要衝を扼し、車駕は疾駆して関に入るよう請うた。王振は受け入れず、六師は遂に覆った。袁敏は跳ね返って還り、景帝に上書して言った。「上皇は曩に九重に居られ、服されるは袞繡、食されるは珍羞、居られるは瓊宮瑤室でございました。今、車駕は沙漠に陷り、袞繡の服がありましょうか。珍羞の食がありましょうか。宮室の居所がありましょうか。臣聞きます、主辱しむれば臣死す、と。上皇の辱めここに至る、臣子として何を以て心と為しましょう。臣は首を砕き心を刳るを惜しみません。官一人を遣わすか、或いは就て臣に書及び服御の物を賫たせ、塞外に問安させ、臣子の義を尽くさせてください。臣たとえ万死すとも、心実にこれを甘んじます。」礼部に議させたが、結局沙汰止みとなった。

原文袁敏者,金齒衛知事也。英宗北征,應募從至大同。及駕還,駐萬全左衛。敏見敵騎逼,請留精兵三四萬人扼其沖,而車駕疾驅入關。王振不納,六師遂覆。敏跳還,上書景帝曰:「上皇曩居九重,所服者袞繡,所食者珍羞,所居者瓊宮瑤室。今駕陷沙漠,服有袞繡乎?食有珍羞乎?居有宮室乎?臣聞之,主辱臣死。上皇辱至此,臣子何以為心,臣不惜碎首刳心。乞遣官一人,或就令臣賫書及服御物問安塞外,以盡臣子之義。臣雖萬死,心實甘之。」命禮部議,竟報寢。

賛して言う。異なるかな、土木の敗である。寇は深入りの師ではなく、国は積弱の勢いでもなかった。徒らに宦官が柄を窃み、寇を狎び兵を弄び、衆心に逆らって之を死地に駆り立てたため、遂に六師を撓敗させ、乗輿を播遷させ、大臣百官の身を草野に膏せしめた。始めにその出でざるを制することができず、出でて早く還らしめることもできず、疆場に枕藉して、敗に益する所無し。然れども倉皇奔潰の時に値し、主辱しみて臣死し、志を異にして偷生するに比べれば、傷勇を以て譏るも亦た可なり、と言えよう。

原文贊曰:異哉,土木之敗也。寇非深入之師,國非積弱之勢,徒以宦豎竊柄,狎寇弄兵,逆眾心而驅之死地,遂致六師撓敗,乘輿播遷,大臣百官身膏草野。夫始之不能制其不出,出不能使之早旋,枕藉疆場,無益於敗。然值倉皇奔潰之時,主辱臣死,誌異偷生,亦可無譏於傷勇矣。