昔から帝王が天命を受けると、群雄を駆使して天下を有した。天下が平定されると、功績を論じて爵位を列ね、報酬を崇め、一時に龍鱗に攀じ翼に附く士は兜牟の中から奮起し、符を剖き珪を析き、その子孫にまで及んだ。その恩徳の意は厚かった。唐・宋以来、旧制とは少し異なる。房玄齢・喬遠は勢力を遠ざけ、まず世襲封爵を譲ったので、英・衛の子孫は平民と同列になった。宋代の勲階は虚号のみを崇め、祖・父・子がそれぞれ名邦を擬したが、初めから世襲の規定はなく、家を継ぐ旧制ではなかった。明の太祖が基を開くと、広く復古した。熊罴の宿将、帷幄の謀臣は、生前に称号を著し、死後に封爵を襲い、茅土の頒布は百数を超えた。末世に至り、党獄が蔓延し、削除・除去され、存する者は三四に及ばなかった。しかし鉄榜に列挙された訓誡の言葉を見ると、河山の誓い、白馬の盟約の初意は本来そうではなかった。高く危うく満ち溢れるのも、自ら招いたのである。文皇が「靖難」の労を差し、英宗が「奪門」の賞を懋くのは、佐命の迹に参じ、元功の籍に次ぎ、開国諸臣と比べれば、同年に語ることはできない。世宗の中葉、冊府の旧蔵を開き、継絶の墜典を修め、鄂・曹・衛・信の裔が再び徹侯に列し、その世緒を延ばし、天下は厚みに帰した。宋・颍・韓・泣は終に剿絶したが、その他推誠宣力・名が丹書に載る者は、奕葉貂蟬として禄位を保守し、宿衛を典し、京営を領し、陪京を鎮め、漕運を督し、方嶽に寄隆し、公孤に階進し、家は典瑞の栄を分け、朝に酎金の罰なく、西京世胄に較べれば、殆ど過ぎるほどである。今その襲替の歳月を実録に見えるものを考し、功臣表を作り、紀伝と相表裏する。或いは矛盾散佚し、時世に考稽すべきものなければ、略して書かず、固より史氏の闕文の義である。
| 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 五世 | 六世 | 七世 | 八世 | 九世 | 十世 | 十一世 | 十二世 | 十三世 |
| 魏國公 徐達 吳元年九月辛丑に平吳の功績により、信國公に封じられる。洪武三年十一月丙申に功臣を大封し、奉天開國推誠宣力武臣魏國公に進封、禄五千石、世襲。十八年二月己未に卒す。追封して中山王、諡は武寧。達は初め公に封じられ、位次は第二。李善長が罪を得て、進位第一となる。 | 輝祖 洪武二十一年十月丙寅に襲封、中軍都督府を領す。建文初め、太子太傅を加えられる。文帝即位、爵位を削られる。永樂五年に卒す。 | 欽 永樂五年七月辛巳に襲封。十九年正月壬辰に爵位を削られる。二十二年十月乙巳に復爵。同年十一月庚子に卒す。 | 顯宗 洪熙元年三月戊寅に襲封。正統十三年に卒す。 承宗 正統十三年七月戊子に襲封、前府を領す。天順七年十二月庚寅に卒す。 | 俌 成化元年に襲封。弘治9年に南京守備。正徳5年7月に太子太傅を加授。12年7月丙戌に卒去。諡は荘靖。 | 鵬挙 正徳13年11月癸亥に襲封し、南京守備兼中府僉書。嘉靖4年に太子太保を加授し、中府を領す。17年4月壬戌に南京守備。隆慶5年2月辛丑に卒去。 | 邦瑞 隆慶6年4月丙寅に襲封。万暦2年、南京中府僉書。17年に卒去。 | 維志 一説に継志、万暦17年9月丙寅に襲封。19年正月己酉に南京協守兼後府を領す。21年8月癸未に卒去。 | 弘基 万暦23年7月己亥に襲封し、南京軍府僉書。35年に南京協守し、後府を領す。37年4月に操江提督。天啓元年、病により辞任し、太子太保を加授。崇禎14年に再び南京守備し、太傅を加授。卒去し諡は荘武。 | 文爵 崇禎末に襲封。 | |||
| 鄂国公 常遇春 呉元年9月辛丑に封じられる。洪武2年7月己亥に軍中で卒去。10月庚午に奉天翊運推誠宣徳靖遠功臣開平王を追封され、諡は忠武。 | 茂 洪武3年11月の大封功臣で第三位、鄭国公に封じられ、禄三千石、世襲。20年9月丁酉に罪あり、龍州に安置。24年に卒去。昇 洪武21年10月丙寅に開国公に改封され、太子太保を加授。永楽初年に死去。 | 継祖 永楽元年に雲南に安置。 | 寧 | 復 弘治五年に世襲の南京錦衣衛指揮使を授かる。 | 経 | 鳳 | 懐遠侯 玄振 嘉靖十一年四月辛卯に懐遠侯を継ぎ、禄千石、世襲。十四年に南京後府を領す。二十八年に卒す。 | 文済 一に文清と作す、嘉靖二十八年十月丙午に襲ぐ。嘉靖三十四年に南京前府を領す。隆慶二年二月に中府の僉事となる。万暦八年に卒す。 | 胤緒 万暦九年八月壬寅に襲ぎ、累ねて南京軍府を領す。崇禎三年十月に太子太師を加えられる。十三年五月に卒す。 | 明良 | 延齢 崇禎末に襲ぐ。 | |
| 韓国公 李善長 呉元年九月辛丑に宣国公に封ぜられる。洪武三年十一月丙申に功臣を大封し、第一、開国輔運推誠守正文臣韓国公に封ぜられ、禄四千石、世襲。二十三年五月乙卯に胡党に坐して死し、爵除く。崇禎二年七月癸巳、裔孫世選が太祖の手敕を進め、「二百六十春、応期来奏」の語あり。大学士韓爌がその誣りを劾し、獄に下し死を論ず、已にして釈放される。 | ||||||||||||
| 曹国公 李文忠 洪武三年に功臣を大封し、第四、奉天開国輔運推誠宣力武臣曹国公に封ぜられ、禄三千石、世襲。十七年三月戊戌に譴責を受け、卒す。岐陽王を追封し、諡は武靖。 | 景隆は洪武19年4月丁酉に襲封。恵帝の時に燕を征討し、大将軍となる。文帝即位後、9月に降伏功により禄千石を加増。永楽2年に爵位を削られ禁錮。 | 璿は弘治5年に南京錦衣衛指揮使を授かり、世襲。 | 濂は沂で嘉靖13年に襲封し、南京軍府の僉書を務める。15年に卒去。 | 臨淮侯の性は嘉靖11年4月辛卯に臨淮侯を継封し、禄千石、世襲。13年閏2月乙巳に卒去、子なく、叔の沂が襲封。庭竹は嘉靖15年12月丙申に襲封。18年に湖広を鎮守。28年3月己丑に操江を提督し、しばしば南京軍府を統領。隆慶5年2月に南京守備。万暦3年に卒去。 | 言恭は万暦3年10月甲午に襲封。4年、中府僉書となり、少傅を加増。14年2月戊寅に京営総督。20年7月庚午に少保を加増。27年に卒去。 | 宗城は朝鮮への使者として逃亡し帰還、死罪に論じられ、襲封できず。 | 邦鎮は万暦38年4月甲申に襲封。40年12月甲辰に府軍前衛を掌る。天啓2年に卒去。 | 弘済は崇禎12年7月甲戌に臨淮侯として代わりに祭祀を遣わす、他は記録なし。 | ||||
| 宋国公の馮勝は洪武3年の功臣大封で第5位、宋国公に封じられ、禄三千石、世襲。28年2月丁卯に賜死、爵位廃止。 | ||||||||||||
| 衛国公の鄧愈は洪武3年の功臣大封で第6位、衛国公に封じられ、禄三千石、世襲。10年11月癸未に卒去、寧河王を追封、諡は武順。 | 鎮は洪武十三年三月丙申に襲封し、申国公に改封されたが、李善長の親党に連座して死罪となった。 | 源は鎮の弟銘の子で、鎮の後を継いだ。 | 梃 | 炳は弘治五年に錦衣衛指揮使を授かり、世襲された。 | 定遠侯継坤は嘉靖十一年四月辛卯に定遠侯を継封し、禄千石、世襲。十五年六月に後府を領した。三十五年に卒した。 | 祖錫は嘉靖三十六年三月壬午に襲封した。三十八年四月癸亥に卒した。 | 世棟は隆慶六年三月戊戌に襲封した。万暦二年四月に紅盔将軍を管し、四年に後府僉書となった。十六年に卒した。 | 紹煜は一説に遠煜ともいう。万暦二十五年十二月辛酉に襲封し、南京軍府僉書となった。天啓七年に卒した。 | 文明は崇禎元年二月庚子に襲封した。十七年三月、城が陥落し、賊に殺された。 | |||
| 信国公湯和は洪武三年の功臣大封で第七位となり、開国輔運推誠宣力武臣中山侯に封じられ、禄一千五百石。七年八月乙卯に禄千石を加増。十一年正月己卯に信国公に進封し、禄三千石、世襲。二十八年八月戊辰に卒した。東甌王を追封され、諡は襄武。 | 鼎 早くに死去し、信世子を追贈された。 | 晟 | 文瑜 | 倫 | 霊璧侯 紹宗 弘治五年に南京錦衣衛指揮使を授かり、世襲。嘉靖十一年四月辛卯に霊璧侯を継続封じられ、禄千石、世襲。 | 佑賢 嘉靖十四年七月に襲封し、たびたび南京軍府を兼務。二十九年八月癸亥に死去。 | 世隆 嘉靖三十九年十月己亥に襲封。隆慶年間、南京を協守し、後府を領し、漕運提督に改められ、累進して少保に至る。万暦十四年に死去。諡は僖敏。 | 之誥 万暦十五年二月庚辰に襲封し、前府を領す。三十五年九月己亥に死去。 | 国祚 万暦四十年八月壬戌に襲封。崇禎三年九月甲辰に太子太保を加えられる。 国祥 | 文瓊 以上の二世、襲封の年は考証できない。崇禎年間にいずれも侯として祭祀に遣わされた。 | ||
| 延安侯 唐勝宗 洪武三年十一月に封じられ、第八位、勲禄は前と同じ。七年八月乙卯に禄千石を加えられ、事に坐して爵を削られる。久しくして爵を還される。二十三年に胡党に坐して誅され、爵を除かれる。 | ||||||||||||
| 吉安侯 陸仲亨 洪武三年十一月に封じられ、第九位、勲禄は前と同じ。七年八月に禄千石を加えられ、唐勝宗と共に爵を削られ、後に共に復される。二十三年に党に坐して誅され、爵を除かれる。 | ||||||||||||
| 江夏侯 周德興 洪武三年十一月に封じられ、第十位、勲禄は前と同じ。七年八月に禄千石を加えられる。二十五年八月己未に罪により誅され、爵を除かれる。 | ||||||||||||
| 淮安侯 華雲龍 洪武三年十一月に封じられ、第十一位、勲禄は前と同じ。七年六月癸亥に北平から召還され、道中で卒す。 | 中 洪武九年十一月庚寅に襲ぐ。坐して貶され死に、胡党を追論され、除かれる。 | |||||||||||
| 濟寧侯 顧時 洪武三年十一月に封じられ、第十二位、勲禄は前と同じ。七年八月に禄千石を加えられる。十二年十一月甲寅に卒す。滕国公を追封され、諡は襄靖。 | 敬 洪武十二年に襲ぎ、後に除かれる。 | |||||||||||
| 長興侯 耿炳文 洪武三年十一月に封じられ、第十三位、勲禄は前と同じ。七年八月に禄千石を加えられる。永楽二年に嫌により自殺し、除かれる。 | ||||||||||||
| 臨江侯 陳德 洪武三年十一月に封じられ、第十四位、勲禄は前と同じ。七年八月に禄千石を加えられる。十一年十一月壬辰に卒す。??国公を追封され、諡は定襄。 | 鏞 洪武十四年五月壬子に襲ぐ。二十年六月庚子に納哈出を征しに従い、軍中で卒す。後に胡党に坐して除かれる。 | |||||||||||
| 鞏昌侯 郭興 別名子興、洪武三年十一月に封じられる。第十五位、勲禄は前と同じ。七年八月に禄千石を加増。十七年十一月癸酉に死去。陝国公を追封、諡は宣武。 | 振 洪武二十二年十月辛酉に襲封、胡党に連座して除封。 | |||||||||||
| 六安侯 王志 洪武三年十一月に封じられる。第十六位、勲号は前と同じ、禄九百石。七年八月に禄を二千五百石に加増。十九年八月己亥に死去。許国公を追封、諡は襄簡。 | 威 洪武二十二年十月辛酉に襲封。二十三年に事に坐して指揮使に左遷。死去後、胡党に追坐して除封。 | |||||||||||
| 滎陽侯 鄭遇春 洪武三年十一月に封じられる。第十七位、勲禄・加禄は全て王志と同じ。二十三年に胡党に坐して死罪、除封。 | ||||||||||||
| 平涼侯 費聚 洪武三年十一月に封じられる。第十八位、勲号は前と同じ、禄一千五百石。七年八月に禄千石を加増。 | ||||||||||||
| 江陰侯 吳良 洪武三年十一月に封じられる。第十九位、勲号は前と同じ、禄一千五百石。七年八月に禄千石を加増。十四年十一月丁未に死去。江国公を追封、諡は襄烈。 | 高 洪武十七年五月辛酉に襲封。二十八年に事に坐して広西に左遷、後に召還。建文時、讒言により再び左遷。文帝即位後、大同を守るために召還。永楽十二年十月に罪により免官、死去後除封。 | |||||||||||
| 靖海侯 吳禎 洪武三年十一月に封じられる。第二十位、勲禄・加禄は吳良と同じ。十二年に死去。海国公を追封、諡は襄毅。 | 忠 洪武十七年五月に襲封。二十三年に禎が胡党と追論され、死罪、除封。 | |||||||||||
| 南雄侯 趙庸 洪武三年十一月に封じられ、位次第二十一、勲禄・加禄は前と同じ。二十三年に胡党に連座して死罪、爵位を除かれる。 | ||||||||||||
| 德慶侯 廖永忠 洪武三年十一月に封じられ、位次第二十二、勲禄・加禄は前と同じ。八年三月甲申に卒す。 | 權 洪武十三年四月庚寅に襲封。十七年四月癸巳に卒す。 | |||||||||||
| 南安侯 俞通源 洪武三年十一月に封じられ、位次第二十三、勲禄・加禄は前と同じ。二十二年三月戊戌に卒す。翌年、党事が発覚するも、死後ゆえに問わず、爵位を除かれる。 | ||||||||||||
| 廣德侯 華高 洪武三年十一月に封じられ、位次第二十四、勲号は前と同じ、禄六百石。四年四月乙未に卒す。追封して巢國公、諡は武莊。子なく、爵位を除かれる。 | ||||||||||||
| 營陽侯 楊璟 洪武三年十一月に封じられ、位次第二十五、勲号は前と同じ、禄一千五百石。七年に禄千石を加える。十五年八月乙巳に卒す。追封して芮國公、諡は武信。 | 通 洪武十七年十一月丁酉に襲封。二十年に指揮使に降格、後に楊璟の胡党連座を追及され、爵位を除かれる。 | |||||||||||
| 蘄國公 康茂才 洪武三年八月己未に軍中で卒す。推忠翊運宣力懷遠功臣蘄國公を追封、諡は武康。 | 鐸 洪武三年十一月に蘄春侯に封じられ、位次第二十六、勲禄・加禄は楊璟と同じ。十五年七月丙子に卒す。蘄國公を贈られ、諡は忠愍。子の淵は幼く、優遇給付を受けるも、後に譴責を受けて卒し、爵位を除かれる。 | |||||||||||
| 永嘉侯 朱亮祖 洪武三年十一月に封じられ、位次第二十七、勲禄・加禄は楊璟と同じ。十三年九月庚寅に罪に坐して死罪、爵位を除かれる。 | ||||||||||||
| 潁国公 傅友德 洪武3年11月に潁川侯に封じられ、位次は第28位、勲禄は前例に同じ。17年4月辛卯に潁国公に進封され、禄は3000石、世襲。27年11月乙丑に賜死され、爵位は除かれた。 | ||||||||||||
| 臨川侯 胡美 洪武3年11月に豫章侯に封じられ、第29位、勲禄・加禄は楊璟と同じ。13年4月乙丑に臨川に改封。17年に罪により賜死され、爵位は除かれた。 | ||||||||||||
| 東平侯 韓政 洪武3年11月に封じられ、第30位、勲禄・加禄は前例に同じ。11年2月癸亥に卒去。追封されて鄆国公となった。 | 勳 洪武19年11月甲子に襲封。26年に藍党に連座して死に、爵位は除かれた。 | |||||||||||
| 宜春侯 黃彬 洪武3年11月に封じられ、第31位、勲禄・加禄は王志と同じ。23年に胡党に連座して死に、爵位は除かれた。 | ||||||||||||
| 宣寧侯 曹良臣 洪武3年11月に封じられ、第32位、勲禄は王志と同じ。5年6月甲辰に陣中で没す。23年10月甲申に追封されて安国公となり、諡は忠壮。 | 泰 洪武6年5月乙巳に襲封。7年8月に加禄されて2500石となる。26年に藍党に連座して死に、爵位は除かれた。 | |||||||||||
| 汝南侯 梅思祖 洪武3年11月に封じられ、第33位、勲禄・加禄は王志と同じ。15年10月壬午に卒去。後に胡党に連座して除かれた。 | ||||||||||||
| 河南侯 陸聚 洪武3年11月に封じられ、第34位、勲禄・加禄は前例に同じ。後に胡党に連座して死に、除かれた。 | ||||||||||||
| 忠勤伯 汪廣洋 洪武3年11月に文臣として封じられ、禄は360石。7年8月に加禄されて1900石となる。12年に貶死した。 | ||||||||||||
| 誠意伯 劉基 洪武三年十一月に開国翊運守正文臣誠意伯に封じられ、禄は二百四十石。八年四月丁巳に死去。二十三年に世襲を許可。正徳八年十二月に太師を追贈され、諡は文成。 | 璉 | 廌 洪武二十四年三月辛丑に襲封し、禄を五百石に増加。二十五年に流刑となり、赦免されて帰還。永楽年間に死去。 | 法 | 柜 | 曇 | 祿 景泰三年に世襲五経博士を授かる。 | 瑜 弘治十三年に処州衞指揮使を詔授。嘉靖十一年六月甲申に誠意伯を継封し、禄は七百石。十二年四月に中軍都督府僉書。十三年に南京前府を管轄。十五年に操江を提督。二十年七月に死去。 | 世延 嘉靖二十八年二月癸丑に襲封し、南京軍府を繰り返し管轄したが、後に罪で廃止。隆慶二年に復帰。万暦三十四年に罪で死刑判決を受け、死去。 | 藎臣 万暦三十六年五月乙卯に襲封。天啓元年甲申に南京右府を管轄。 | 孔昭 天啓3年7月辛亥に襲封。6年3月に右府僉書。崇禎年間に少保に累進。11年に南京右府提督操江兼巡江防を領す。 | ||
| 永城侯 薛顯 洪武3年12月戊辰に封じられる。罪により海南に安置。後に召還され、禄1500石を給される。20年9月癸巳に軍中で卒去。永国公を追封、諡は桓襄。子無し。後に胡党と追論されるが、死により追究せず、除封。 | ||||||||||||
| 西平侯 沐英 洪武10年10月戊午に封じられ、禄2500石、世襲。25年6月丁卯に雲南で卒去。10月己巳に黔寧王を追封、諡は昭靖。 | 春 洪武25年10月乙亥に襲封、雲南を鎮守。31年に卒去。諡は惠襄。 昂 景泰年間に定辺伯を贈られる。 黔国公 晟 洪武31年に侯を襲封。永楽6年7月に安南征討の功により公に進封、禄3000石、世襲、世鎮雲南。仁宗即位時に太傅を加えられ、二俸を支給。正統4年3月丁卯に卒去。定遠王を追封、諡は忠敬。 | 斌 正統5年に襲封。景泰元年10月に卒去。諡は榮康。 | 琮 成化元年8月己亥に襲封。19年に太子太傅を加えられる。弘治9年9月庚戌に卒去。諡は武僖。子無し。 | 誠 | 崑 誠の子。弘治10年10月己卯に襲封。正徳7年に太子太傅を加えられる。14年6月に卒去。太師を追贈、諡は莊襄。 | 紹勛 正徳16年2月甲午に襲封。嘉靖7年に太子太傅を加えられる。15年に卒去。太師を贈られ、諡は敏靖。 | 朝輔 嘉靖15年12月乙亥に襲封、太子太保を加えられる。26年6月庚子に卒去。諡は恭僖。 朝弼 嘉靖33年3月癸丑に襲封。隆慶4年に爵位を削られ、死罪と論じられる。 | 融:嘉靖二十六年閏九月甲辰に襲封。二十八年に死去。 鞏:嘉靖二十八年十月庚辰に襲封。夭折し、叔父の朝弼が襲封。 昌祚:隆慶五年二月丁酉に襲封。萬曆十二年九月戊寅に太子太保を加えられる。二十三年八月に病気で免職、子の叡が襲封。三十七年、叡が罪で廃され、再び爵位を襲封。天啓五年に死去。 | 叡:萬曆二十三年に襲封。三十七年九月丁酉に獄中で死去。 | 啓元:天啓五年三月丁卯に襲封。崇禎元年六月己亥に死去。 | 天波:崇禎元年十二月甲辰に襲封。七年八月甲寅に太子太保を加えられる。明滅亡後、永明王に従い緬甸に入り、難に死す。 | |
| 安慶侯 仇成:洪武十二年十一月甲午に封じられ、禄二千石、世襲指揮使。十七年四月壬午に世侯を許され、禄五百石を加えられる。二十一年七月辛巳に死去。皖国公を追封され、諡は荘襄。 | 正:洪武二十三年閏四月丙戌に襲封、事により除名。 | |||||||||||
| 涼国公 藍玉:洪武十二年十一月甲午に永昌侯に封じられ、禄は前例に同じ。十七年四月壬午に世侯を許され、禄五百石を加えられる。二十一年十二月壬戌に公に進封、禄五百石を加えられる。二十六年二月乙酉に謀反、誅殺される。 | ||||||||||||
| 永平侯 謝成:洪武十二年十一月に封じられ、禄は仇成に同じ。二十六年に連座して死去。 | ||||||||||||
| 鳳翔侯 張龍:洪武十二年に封じられ、禄は前例に同じ。後に世襲を許され、禄五百石を加えられる。三十年に死去。 | 傑:建文時に襲封。永楽初年に除名。 | |||||||||||
| 安陸侯 呉復 洪武12年に封じられ、禄と世襲は前と同じ。16年10月己亥に死去。黔国公を追封され、諡は武毅、禄500石を加増、世襲。 | 傑 洪武19年4月に襲封。建文中に南寧衛指揮使に左遷され、爵位を除かれる。 | |||||||||||
| 宣徳侯 金朝興 洪武12年11月に封じられ、禄と世襲は前と同じ。15年7月丙子に死去。翌年沂国公を追封され、諡は武毅。17年に世襲を許され、禄500石を加増。 | 鎮 洪武19年4月に襲封、父朝興が胡党に連座して追及され、除封。 | |||||||||||
| 懐遠侯 曹興 洪武12年11月に封じられ、禄と世襲は前と同じ。26年に藍党に連座して処刑され、除封。 | ||||||||||||
| 靖寧侯 葉昇 洪武12年11月に封じられ、禄と世襲は前と同じ。25年8月丙子に胡党に連座して誅殺される。 | ||||||||||||
| 景川侯 曹震 洪武12年11月に封じられ、禄と世襲は前と同じ。26年に藍党に連座して誅殺される。 | ||||||||||||
| 会寧侯 張温 洪武12年11月に封じられ、禄と世襲は前と同じ。26年に藍党に連座して誅殺される。 | ||||||||||||
| 雄武侯 周武 洪武12年11月に封じられ、禄と世襲は前と同じ。23年3月庚午に死去。汝国公を追封され、諡は勇襄。子の興が指揮同知を襲封。 | ||||||||||||
| 定遠侯 王弼 洪武12年11月に封じられ、禄と世襲は前と同じ。17年4月に禄を2,500石に加増。27年12月乙亥に死去。 | ||||||||||||
| 崇山侯 李新 洪武15年12月己卯に封じられ、禄は1500石。28年9月戊戌に罪により誅殺。 | ||||||||||||
| 普定侯 陳桓 洪武17年4月壬午に封じられ、禄は2500石、世襲。26年藍党に連座して死に、除封。 | ||||||||||||
| 東川侯 胡海 別名海洋、洪武17年4月に封じられ、禄は前同。24年7月丁亥に卒去、子に指揮使を授ける。 | ||||||||||||
| 武定侯 郭英 興の弟。洪武17年4月に封じられ、禄は2500石、世襲。永楽元年2月甲子に卒去。追封して営国公、諡は威襄。 | 銘 | 玹 永楽22年11月に襲封。正統9年8月に宣府を鎮守。12年7月丙午に卒去。諸子が襲封を争い、停止。 | 昌 天順3年5月丁未に襲封。 | 良 弘治15年4月癸丑に襲封。11月に効勇営管操に就く。正徳2年6月戊子に卒去。 | 勛 正徳3年3月丙寅に襲封、両広を鎮守、しばしば軍府を兼務。4年8月、神機営管操。嘉靖18年に翊国公に進封、太師を加え、前後して禄400石を増加。20年9月に罪ありて獄に下り、翌年獄中で卒去。 | 守乾 嘉靖29年3月壬辰に襲封、しばしば軍府を統領。39年4月丁酉に卒去。 | 大誠 嘉靖44年3月庚戌に襲封。45年5月に紅盔将軍を管轄。萬曆4年に南京右府を領す。44年6月癸亥に卒。 | 應麒 萬曆45年2月壬子に襲封、まもなく卒。應麟 萬曆45年11月甲戌に襲封。崇禎元年に卒。 | 培民 崇禎初年に襲封。3年9月甲辰に太子太保を加授。17年3月、城陥落時に戦死。 | |||
| 鶴慶侯 張翼 洪武17年4月に封じられ、禄は前例に同じ。26年に藍党に連座して誅殺。 | ||||||||||||
| 航海侯 張赫 洪武20年10月戊申に封じられ、禄二千石、世襲。23年8月甲子に卒。恩国公を追封、諡は莊簡。子は襲封を停止。 | ||||||||||||
| 舳艫侯 朱寿 洪武20年10月に封じられ、禄は前例に同じ。26年に藍党に連座して誅殺、除封。 | ||||||||||||
| 海西侯 納哈出 洪武20年9月に元の降将として封じられる。21年7月辛丑に軍中で卒。 | 察罕 洪武21年8月に襲封、瀋陽侯に改封。26年4月壬午に藍党に連座して誅殺、除封。 | |||||||||||
| 東莞伯 何真 洪武20年7月に封じられ、禄一千五百石、世襲。21年3月己卯に卒。 | 栄 洪武21年4月乙巳に襲封。26年に藍党に連座して誅殺、除封。 | |||||||||||
| 全寧侯 孫恪 興祖の子。洪武二十一年八月戊辰に封じられ、禄二千石、世襲。藍党に連座して死に、除封。 | ||||||||||||
| 楽浪公 濮英 洪武二十年閏六月庚申に金山で戦死。追封して金山侯、諡は忠襄。二十一年七月に公に進封。 | 璵 洪武二十一年九月丙戌に西涼侯に封じられ、禄二千五百石、世襲。二十六年に英藍党に追坐し、流刑に処され、除封。 | |||||||||||
| 徽先伯 桑敬 世傑の子。洪武二十三年九月壬寅に封じられ、禄一千七百石、世襲。後に藍党に連座して誅殺され、除封。 | ||||||||||||
| 永定侯 張銓 洪武二十三年十月甲申に封じられ、禄一千五百石、世襲指揮使。 | ||||||||||||
| 越巂侯 俞淵 洪武二十五年六月戊午に封じられ、禄二千五百石、世襲。翌年五月戊辰に爵位を削られ、郷里に放還。建文初年に召還され、白溝河で戦死。永楽初年に除封。 |
以上は皆自身が封を受け、或いは封を受けずに子孫が封を受けた者である。追贈封爵で世系を譜すべきものなく、別に五等を以て次とし、左に具列する。
| 公 | 侯 | 伯 | 子 | 男 |
| 越国公胡大海 壬寅年二月,金華で殉職。甲辰年三月に追封され、諡号は武莊。 | 東丘郡侯花雲 庚子年閏五月,太平で殉職。 | 天水郡伯趙天麟 癸卯年,臨江で殉職。 | 盱眙県子王清 鄱陽湖の戦いで戦死。 | 当塗県男王愷 金華で殉職。 |
| 泗国公耿再成 壬寅年二月,処州で殉職。初めは高陽郡公に封じられ、諡号は武壯。洪武十年四月に改封。 | 高陽郡侯王鼎 同上。 | 隴西郡伯牛海龍 南昌の戦いで戦死。 | 羅山県子王鳳顯 同上。 | 丹陽縣男孫炎は処州で殉職した。 |
| 蔡國公張德勝は龍江の戦いで戦死した。癸卯十月に追封され、諡は忠毅。 | 太原郡侯許瑗は同様に。 | 安定郡伯程國勝は鄱陽湖の戦いで戦死した。 | 定遠縣子姜潤は同様に。 | 合肥縣男徐明は南昌の戦いで戦死した。 |
| 梁國公趙德勝は南昌で殉職した。癸卯十月に追封され、諡は武桓。 | 太原郡侯王道同は処州で殉職した。 | 太原郡伯王咬住は同様に。 | 梁縣子石明は同様に。 | 五河県男 王理 鄱陽湖で戦死。 |
| 済陽郡公 丁普郎 鄱陽湖で戦死。 | 南陽郡侯 葉琛 壬寅年三月、祝康宗の難で死去。 | 縉雲郡伯 胡深 呉元年、閩を攻め戦死。洪武元年四月に追封。 | 合肥県子 王德 同上。 | 舒城県男 王仁 同上。 |
| 河間郡公 俞廷玉 甲辰年十一月に追封。 | 忠節侯 張子明 癸卯年六月、南昌で殉職。 | 康安郡伯 孫虎 落馬河で戦死。 | 懐遠県子 常徳勝 同上。 | 定遠県男史徳勝 同前。 |
| 鄖国公廖永安 乙巳十月に呉に使いして屈せず、遥かに楚国公に封ぜられる。丙午七月に呉で卒す。諡は武閔。洪武十三年四月に改封。 | 高陽郡侯韓成 癸卯七月、鄱陽湖で戦没。 | 譙郡伯戴徳 洪武四年二月卒。追封、世襲指揮僉事。 | 含山県子丁宇 同前。 | 万春県男常惟徳 同前。 |
| 東海郡公茅成 丙午十一月に呉を伐ち戦没。 | 潁上郡侯陳兆先 同前。 | 廬江県子汪沢 同前。 | 含山県男曹信 同前。 | |
| 虢国公俞通海 廷玉の子。呉元年四月に平江軍で死去。豫国公を追封。洪武三年に改封、諡は忠烈。 | 下邳郡侯余昶 同上。 | 巣県子陳沖 同上。 | 虹県男鄭興 同上。 | |
| 済国公丁徳興 呉元年に平江軍で死去。洪武元年に追封。 | 潁川郡侯陳弼 同上。 | 定遠県子王喜仙 同上。 | 隋県男羅世榮 同上。 | |
| 天水郡公厳徳 呉元年九月に方国珍討伐で戦死。洪武二年六月に追封。 | 東海郡侯徐公輔 同上。 | 汝陽県子の逯徳山、同前。 | 洪武実録に記載された南昌での戦死者には許圭、朱潜、張徳山、夏茂成、葉思誠の五人がおり、鄱陽湖での戦死者には張志雄、劉義、朱鼎、袁華の四人がおり、合計九人で、封爵は不明。 | |
| 姑孰郡公の陶安、洪武元年に追封。 | 京兆郡侯の宋貴、同前。 | 宣遠県子の裴軫、同前。 | ||
| 汝南郡侯の昌文貴、同前。 | ||||
| 隴西郡侯の李信、同前。 | ||||
| 太原郡侯の王勝、同前。 | ||||
| 清河郡侯の李志高、同前。 | ||||
| 隴西郡侯の李継先、南昌で戦死。 | ||||
| 彭城郡侯劉齊 同前。 | ||||
| 天水郡侯趙國旺 同前。 | ||||
| 永義侯桑世傑 呉討伐で戦死。癸卯十月に追封。 | ||||
| 燕山侯孫興祖 洪武三年の北征で戦死。諡は忠愍。 | ||||
| 安遠侯蔡僊 洪武三年九月に追封。諡は武襄。 | ||||
| 東勝侯汪興祖 洪武四年四月の蜀討伐で戦死。十二月に追封、世券を授与。子が幼いため襲爵停止。 | ||||
| 廬江侯何德 洪武十四年七月に死去。追封、諡は壯敏。 | ||||
| 霍山侯王簡 洪武十三年五月に死去。追封。 | ||||
| 臨沂侯王真 洪武十三年七月に死去。追封、諡は桓義。 | ||||
| 汝陰侯高顯 洪武十三年九月に死去。追封、諡は武肅。 | ||||
| 富春侯孫世 洪武14年12月に死去。追封され、諡は忠勇。 | ||||
| 合浦侯陳清 洪武15年3月に死去。追封され、諡は崇武。 | ||||
| 東海侯陳文 洪武17年10月に死去。追封され、諡は孝勇。 | ||||
| 英山侯於顯 洪武20年12月に死去。追封され、諡は襄武。 | ||||
| 昌楽侯丘広 洪武11年5月に死去。文臣として追封され、諡は景成。 |
右は洪武朝。洪武中に封じられた者に、帰徳侯陳理・帰義侯明昇・崇礼侯買的里八剌の三人あり、功臣に非ざるを以て、故に載せず。
| 灤城侯 李堅 太祖の娘大名公主を娶る。建文初年、燕討伐に従軍し、功により封じられる。後に戦いに敗れ捕らえられ、まもなく死去。 | 莊 建文中に襲封。永楽初年に除封。 | |||||||||||
| 歴城侯 盛庸 建文中に燕討伐により封じられる。永楽元年に除封。 |
右建文朝。