明史

本紀第一 太祖一

太祖開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝、諱は元璋、字は國瑞、姓は朱氏。先祖ははいに家し、句容に移り、再び泗州に移る。父は世珍、初めて濠州の鍾離に移る。四子を生み、太祖はその末子なり。母は陳氏。妊娠の際、神が薬一丸を授け、掌中に置くと光り、これを吞んで目覚め、口に香気が残る。産まれると、紅光が室に満つ。この後、夜に幾度も光が起こる。隣里が見て、火事と驚き、駆けつけて救うが、至れば無し。成長すると、姿貌雄傑、奇骨が頂を貫く。志意は廓然として、人測る能わず。

至正四年

至正四年、旱魃と蝗害、大飢饉と疫病。太祖時に年十七、父母兄相次いで歿し、貧しくて葬る能わず。里人劉繼祖が地を与えるにより、乃ち葬るを得、即ち鳳陽陵なり。太祖孤にして依る所無く、乃ち皇覚寺に入り僧となる。一月余りして、合肥に遊食す。道中病み、二紫衣人と共にあり、護視甚だ至れり。病癒え、所在を失う。凡そ光・固・汝・潁諸州を歴ること三年、復た寺に還る。当是の時、元の政綱紀無く、盗賊四方に起こり、劉福通は韓山童を奉じて宋の後裔を仮り潁に起こり、徐壽輝は帝号を僭称し蘄に起こり、李二・彭大・趙均用は徐に起こり、衆各数万、並びに将帥を置き、吏を殺し、郡県を侵略し、而して方國珍は已に先に海上に起こる。他の盗賊は兵を擁し地を据え、寇掠甚だ衆し。天下大乱す。

至正十二年

十二年春二月、定遠の人郭子興が其の党孫德崖等と兵を起こし濠州にす。元の将徹里不花は憚りて攻めず、而して日々良民を俘虜として賞を邀う。太祖時に年二十五、兵を避けんと謀り、神に卜す、去留皆不吉。乃ち曰く「挙大事を当つべきか」と。これを卜して吉、大いに喜び、遂に閏三月甲戌の朔に濠に入り子興に見ゆ。子興其の状貌を奇とし、留めて親兵とす。戦えば輒ち勝つ。遂に撫育したる馬公の女を妻とす、即ち高皇后なり。子興と德崖と齟齬す、太祖屢々これを調護す。

秋九月、元兵復た徐州を攻め、李二は走りて死に、彭大・趙均用は濠に奔り、德崖等これを納る。子興は大を礼し均用を軽んず、均用これ怨む。德崖遂に謀り、子興の出づるを伺い、執えて械し諸孫氏に、将にこれを殺さんとす。太祖方に淮北に在り、難を聞き馳せ至り、彭大に訴う。大いに怒り、兵を呼びて行かしめ、太祖も亦甲を着け盾を擁し、屋を発して子興を出し、械を破り、人をして負わして帰らしめ、遂に免る。

是の冬、元の将賈魯、濠を囲む。太祖と子興力を合わせてこれを拒ぐ。

至正十三年

十三年春、賈魯死し、囲み解く。太祖里中の兵を収めて七百人を得。子興喜び、署して鎮撫とす。時に彭・趙の部は暴横、子興弱し、太祖度るに共に事を為すに足らず、乃ち兵を他将に属し、独り徐達・湯和・費聚等と南略し定遠に至る。驢牌寨の民兵三千を計略して降し、俱に東す。夜に元の将張知院を横澗山に襲い、其の卒二万を収む。道中定遠の人李善長に遇い、語りて大いに悦び、遂に俱に滁州を攻め、これを下す。

是の年、張士誠高郵を据え、自ら誠王と称す。

至正十四年

十四年冬十月、元の丞相脫脫大いに士誠を高郵に破り、兵を分けて六合を囲む。太祖曰く「六合破れれば、滁も将に免れざらん」と。耿再成と軍を瓦梁壘にし、これを救う。力戦し、老弱をえいって滁に還る。元兵間も無く大いに至り、滁を攻む、太祖伏兵を設け誘いてこれを敗る。然れども元兵の勢盛んなるを度り且つ再び至らんことを、乃ち獲たる馬を還し、父老を遣わし牛酒を具えて元将に謝し曰く「城を守るは他盗に備うるのみ、如何ぞ巨寇を捨てて良民を戮する」と。元兵引き去り、城頼り以て完し。脫脫既に士誠を破り、軍声大いに振るうも、讒に中り、遽に兵柄を解かれ、江・淮の乱益々熾んず。

至正十五年

十五年春正月、子興は太祖の計を用い、張天祐らを遣わして和州を抜き、檄を発して太祖にその軍を総べさせた。太祖は諸将が互いに従わぬことを慮り、その檄を秘し、期日を定めて旦日に庁事に会した。時に席は尚右(右を上位とする)であり、諸将は先に入り、皆右に踞ったので、太祖はわざと後から至って左に就いた。事を視るに及んで、剖決流るるが如く、衆は瞠目して一語も発することができず、初めて少しずつ屈した。工事を分けて城を甓(煉瓦)で築くことを議し、三日を期した。太祖の工事は竣わり、諸将は皆後れた。ここにおいて初めて檄を出し、南面して坐して曰く、「命を奉じて諸公の兵を総ぶ。今城を甓するに皆期に後るるは、軍法を如何にせん」と。諸将は皆惶恐して謝した。乃ち軍中に掠めたる婦女を捜し出して家に還し、民大いに悦んだ。元兵十万和州を攻め、拒ぎ守ること三月、食糧尽きんとし、而して太子禿堅・枢密副使絆住馬・民兵元帥陳埜先は新塘・高望・鶏籠山に分屯して餉道を絶つ。太祖は衆を率いてこれを破り、元兵は皆走って江を渡った。

三月、郭子興卒す。時に劉福通は韓山童の子林児を亳に迎え立て、国号を宋とし、元号を龍鳳と建てた。檄を発して子興の子天敍を都元帥とし、張天祐・太祖を左右副元帥とした。太祖は慨然として曰く、「大丈夫豈に人に制せられんや」と。遂に受けず。然れども林児の勢い盛んなるを念い、倚藉すべきを思い、乃ちその年号を用いて軍中に令した。

夏四月、常遇春来帰す。

五月、太祖は江を渡らんと謀りたれども舟無し。会うこと巣湖の帥廖永安・俞通海が水軍千艘を以て来附し、太祖大いに喜び、往きてその衆を撫す。而して元の中丞蛮子海牙は銅城閘・馬場河の諸隘を扼し、巣湖の舟師は出で得ず。忽ち大雨、太祖喜びて曰く、「天我を助く」と。遂に水漲に乗じて小港より舟を縦して還り、因って海牙を峪渓口に撃ち、大いにこれを敗り、遂に計を定めて江を渡る。諸将は直ちに集慶に趨ることを請う。太祖曰く、「集慶を取るは必ず采石より始むべし。采石は重鎮、守り必ず固し。牛渚は前に大江に臨み、彼備え難し、必ず克つべし」と。

六月乙卯、風に乗じて帆を引き、直ちに牛渚に達す。常遇春先登し、これを抜く。采石の兵も亦潰ゆ。江に沿う諸塁悉く附く。諸将は和州の饑えを以て、資糧を争い取りて帰らんと謀る。太祖は徐達に謂いて曰く、「江を渡り幸いに捷つ。若し捨てて帰らば、江東は吾れ有する所に非ざるなり」と。乃ち悉く舟の纜を断ち、急流の中に放ち、諸将に謂いて曰く、「太平は甚だ近し、当に公らとこれを取らん」と。遂に勝に乗じて太平を抜き、万戸納哈出を執る。総管靳義は水に赴きて死す。太祖曰く、「義士なり」と。礼を以てこれを葬る。榜を掲げて剽掠を禁ず。卒に令に違う者有り、斬りて以て徇す。軍中粛然たり。路を改めて府と為す。太平興国翼元帥府を置き、自ら元帥事を領し、陶安を召して幕府事に参じ、李習を知府と為す。時に太平は四面皆元兵なり。右丞阿魯灰・中丞蛮子海牙らは師を厳しくして姑孰口を截ち、陳埜先の水軍帥康茂才は数万の衆を以て城を攻む。太祖は徐達・鄧愈・湯和を遣わして逆戦し、別将をして潜かにその後に出でしめ、挟撃して、埜先を擒え、へいせてその衆を降し、阿魯灰らは引き去る。

秋九月、郭天敘・張天祐は集慶を攻む。埜先叛き、二人は皆戦死し、ここにおいて子興の部将は尽く太祖に帰す。埜先は尋いで民兵に殺され、従子兆先その衆を収め、方山に屯し、海牙と掎角して太平を窺う。

冬十二月壬子、納哈出を釈して北に帰す。

至正十六年

十六年春二月丙子、海牙を采石に大破す。

三月癸未、進みて集慶を攻め、兆先を擒え、その衆三万六千人を降す。皆疑懼して自ら保たず。太祖はぎょう健なる者五百人を択びて入衞せしめ、甲を解きて酣寝して旦に達す。衆の心始めて安んず。庚寅、再び元兵を蔣山に敗る。元の御史大夫福寿は力戦してこれに死し、蛮子海牙は遁れて張士誠に帰し、康茂才は降る。太祖城に入り、悉く官吏父老を召して諭して曰く、「元政瀆擾し、干戈蜂起す。我来たりて民の為に乱を除くのみ。其れ各々故の如く安堵せよ。賢士は吾れ礼を以てこれを用い、旧政の便ならざる者はこれを除く。吏は貪暴して吾が民を殃す毋れ」と。民乃ち大いに喜びて望みに過ぐ。集慶路を改めて応天府と為し、夏煜・孫炎・楊憲ら十余人を辟き、御史大夫福寿を葬りて以てその忠を旌す。当に是の時、元将定定は鎮江を扼し、別不華・楊仲英は寧国に屯し、青衣軍張明鑑は揚州に据え、八思爾不花は徽州に駐し、石抹宜孫は処州を守り、その弟厚孫は婺州を守り、宋伯顔不花は衢州を守る。而して池州は已に徐寿輝の将の据うる所と為り、張士誠は淮東より平江を陥れ、転じて浙西を掠む。太祖は既に集慶を定め、士誠・寿輝の強きを慮り、江左・浙右の諸郡がこれに併せられんことを思い、ここにおいて徐達を遣わして鎮江を攻め、これを抜き、定定は戦死す。

夏六月、鄧愈は広徳を克つ。

秋七月己卯、諸将は太祖を奉じて呉国公と為す。江南行中書省を置き、自ら省事を総べ、僚佐を置く。書を張士誠に貽すも、士誠は報ぜず、兵を引いて鎮江を攻む。徐達これを敗り、進みて常州を囲むも、下さず。

九月戊寅、鎮江に如き、孔子廟を謁す。儒士を遣わして父老に告諭し、農桑を勧め、尋いで応天に還る。

至正十七年

十七年春二月、耿炳文は長興を克つ。

三月、徐達が常州を陥れた。

夏四月丁卯、自ら将兵を率いて寧国を攻め、これを取り、別不華が降った。

五月、上元・寧国・句容より瑞麦を献じた。

六月、趙継祖が江陰を陥れた。

秋七月、徐達が常熟を陥れ、胡大海が徽州を陥れ、八思爾不花は遁走した。

冬十月、常遇春が池州を陥れ、繆大亨が揚州を陥れ、張明鑑が降った。

十二月己丑、囚人を釈放した。

この年、徐寿輝の将明玉珍が重慶路を占拠した。

至正十八年

十八年春二月乙亥、康茂才を営田使に任じた。

三月己酉、囚人を記録した。鄧愈が建徳路を陥れた。

夏四月、徐寿輝の将陳友諒が趙普勝を遣わして池州を陥落させた。この月、友諒が龍興路を占拠した。

五月、劉福通が汴梁を破り、韓林児を迎えてこれを都とした。初め、福通は将を遣わし分道して四方に出撃し、山東を破り、秦・晋を寇し、幽・薊を掠め、中原は大いに乱れた。太祖は故に順次江表を平定することができた。過ぎる所で殺戮せず、才俊を収め召し抱えた。これにより人心は日に日に帰附した。

冬十二月、胡大海が婺州を攻めたが、久しく陥せず、太祖自ら将兵を率いて往きこれを撃った。石抹宜孫が将を遣わし車師を率いて松渓より来援した。太祖曰く、「道狭し、車戦は敗を取るに適うのみ」と。胡徳済に命じて梅花門において迎え戦わせ、これを大いに破り、婺州は降り、厚孫を捕らえた。先立つこと一日、城中の人、城西に五色の雲、車蓋の如きを見る。異なりと以為う。及んで是に至り、乃ち太祖の兵を駐めたる地なるを知る。城に入り、粟を発して貧民を振恤し、州を改めて寧城府と為す。范祖幹・葉儀・許元ら十三人を辟召し、分かれて直ちに経史を講ぜしむ。戊子、使を遣わして方国珍を招諭した。

至正十九年

十九年春正月乙巳、太祖は浙東の未だ下らざる諸路を取らんと謀る。諸将に戒めて曰く、「城を克つには武をもってし、乱を戡むるには仁をもってす。我が比年集慶に入るや、秋毫も犯さず、故に一挙にして定まる。毎に諸将の一城を得て妄りに殺さざるを聞けば、輒ち喜び自ら勝えず。夫れ師の行くは火の如し、戢えざれば将に原を燎かん。将たるもの能く殺さざるを以て武と為すは、豈に惟だ国家の利のみならんや、子孫実に其の福を受く」と。庚申、胡大海諸暨を克つ。是の月、寧越知府王宗顕に命じて郡学を立てしむ。

三月甲午、大逆以下を赦す。丁巳、方国珍、温・台・慶元を以て来たり献じ、其の子関を質と為して遣わすも、受けず。

夏四月、俞通海等池州を復す。時に耿炳文長興を守り、呉良江陰を守り、湯和常州を守る。皆数たび士誠の兵を敗る。太祖以て故に久しく寧越に留まり、浙東を徇う。

六月壬戌、応天に還る。

秋八月、元の察罕帖木児汴梁を復し、福通林児を以て安豊に退き安んず。九月、常遇春衢州を克ち、宋伯顔不花を擒う。

冬十月、夏煜を遣わし方国珍に行省平章を授く。国珍疾を以て辞す。

十一月壬寅、胡大海処州を克つ。石抹宜孫遁ぐ。時に元の守兵単弱にして、且つ中原の乱を聞き、人心離散す。以て故に江左・浙右の諸郡、兵至れば皆下り、遂に西は友諒と隣す。

至正二十年

二十年春二月、元の福建行省参政袁天禄、福寧を以て降る。

三月戊子、劉基・宋濂・章溢・葉琛を徴して至る。

夏五月、徐達・常遇春、池州に於いて陳友諒を敗る。閏月丙辰、友諒太平を陥とす。守将朱文遜、院判花雲・王鼎、知府許瑗之に死す。未だ幾ばくもせず、友諒其の主徐寿輝をしいし、自ら皇帝と称し、国号漢とす。江西・湖広の地を尽く有す。士誠と約して合い応天を攻む。応天大いに震う。諸将議して先ず太平を復して以て之を牽かんとす。太祖曰く、「不可なり。彼は上流に居り、舟師我に十倍す。猝かに復し難し」と。或いは自ら将いて迎え撃たんことを請う。太祖曰く、「不可なり。彼は偏師を以て我を綴り、而して全軍金陵に趨かば、順流半日にして達すべし。吾が歩騎急に難く引還す。百里趨きて戦うは、兵法の忌む所、策に非ざるなり」と。乃ち胡大海に馳せ諭して信州を擣き其の後を牽かしめ、而して康茂才をして書を以て友諒を紿かしめ、速やかに来らしむ。友諒果たして兵を引きて東す。ここにおいて常遇春石灰山に伏し、徐達南門外に陣し、楊璟大勝港に屯し、張徳勝等舟師を以て龍江関より出で、太祖親しく軍を盧龍山に督う。乙丑、友諒龍湾に至る。衆戦わんと欲す。太祖曰く、「天将に雨らんとす。食を趣け、雨に乗じて之を撃て」と。須臾、果たして大雨、士卒競い奮う。雨止みて合戦し、水陸夾撃して、大いに之を破る。友諒別舸に乗じて走る。遂に太平を復し、安慶を下す。而して大海も亦た信州を克つ。初め、太祖茂才に命じて友諒を紿かしむ。李善長以て疑う。太祖曰く、「二寇合すれば、吾首尾敵を受く。惟だ其の来るを速めて而して先ず之を破らば、則ち士誠胆落つるなり」と。已にして士誠の兵竟に出でず。丁卯、儒学提挙司を置き、宋濂を以て提挙と為し、子標を遣わして経学を受けしむ。

六月、耿再成慶元に於いて石抹宜孫を敗る。宜孫戦死す。使いを遣わして之を祭る。

秋九月、徐寿輝の旧将欧普祥、袁州を以て降る。

冬十二月、復た夏煜を遣わし書を以て国珍を諭す。

至正二十一年

二十一年春二月甲申、塩茶課を立てる。己亥、宝源局を置く。

三月丁丑、枢密院を改めて大都督ととく府となす。元の将薛顕、泗州を以て降る。戊寅、国珍、使を遣わして来謝し、金玉の馬鞍を飾りて献ず。これを却けて曰く、「今四方に事有り、需る所は人材、用いる所は粟帛、宝玩は好む所に非ざるなり」と。

秋七月、友諒の将張定辺、安慶を陥とす。

八月、元の平章察罕帖木児に使を遣わす。時に察罕、山東を平らげ、田豊を降し、軍声大いに振るう。故に太祖、通好を為す。会に察罕、方に益都を攻めて未だ下らず、太祖乃ち自ら将として舟師を率い陳友諒を征す。戊戌、安慶を克つ。友諒の将丁普郎・傅友徳、迎えて降る。壬寅、湖口に次ぐ。江州に於いて友諒を追い破り、其の城を克つ。友諒、武昌に奔る。分かち徇いて南康・建昌・饒・蘄・黄・広済、皆下る。

冬十一月己未、撫州を克つ。

至正二十二年

二十二年春正月、友諒の江西行省丞相胡廷瑞、龍興を以て降る。乙卯、龍興に如き、改めて洪都府と為す。孔子廟に謁す。父老に告諭し、陳氏の苛政を除き、諸の軍需を罷め、貧にして告ぐる無き者を存恤す。民大いに悦ぶ。袁・瑞・臨江・吉安、相継いで下る。

二月、応天に還る。鄧愈、洪都に留守す。癸未、降人蔣英、金華の守将胡大海を殺し、郎中王愷之に死す。英、叛きて張士誠に降る。処州の降人李祐之、変を聞き、亦た行枢密院判耿再成を殺して反し、都事孫炎・知府王道同・元帥朱文剛之に死す。

三月癸亥、降人祝宗・康泰、反し、洪都を陥とす。鄧愈、応天に走る。知府葉琛・都事万思誠之に死す。是の月、明玉珍、重慶に帝を称し、国号を夏とす。

夏四月己卯、邵栄、処州を復す。甲午、徐達、洪都を復す。

五月丙午、朱文正・趙徳勝・鄧愈、洪都を鎮む。

六月戊寅、察罕、書を以て来報し、我が使人を留めて遣わさず。察罕、尋ち田豊に為す所の殺さる。

秋七月丙辰、平章邵栄・参政趙継祖、謀逆し、誅に伏す。

冬十二月、元、尚書張昶を遣わし航海して慶元に至らしめ、太祖に江西行省平章政事を授く。受けず。察罕の子拡廓帖木児、書を致して使者を帰す。

至正二十三年

二十三年春正月丙寅、汪河を遣わしてこれに報ず。

二月壬申、将兵に命じて屯田し穀を積む。是の月、友諒の将張定辺、饒州を陥す。士誠の将呂珍、安豊を破り、劉福通を殺す。

三月辛丑、太祖自ら将として安豊を救う。珍敗走し、韓林児を以て滁州に帰し、乃ち応天に還る。

夏四月壬戌、友諒大いに兵を挙げて洪都を囲む。乙丑、諸全の守将謝再興叛き、士誠に附く。

五月、礼賢館を築く。友諒兵を分かちて吉安を陥す。参政劉齊・知府朱叔華これに死す。臨江を陥し、同知趙天麟これに死す。無為州を陥し、知州董曾これに死す。

秋七月癸酉、太祖自ら将として洪都を救う。癸未、湖口に次ぐ。先ず兵を涇江口及び南湖觜に伏せ、友諒の帰路を遏ち、信州の兵に檄して武陽渡を守らしむ。友諒、太祖の至るを聞き、囲みを解き、鄱陽湖に逆戦す。友諒の兵号六十万、巨舟を聯ねて陣と為し、楼櫓高さ十余丈、綿亘数十里、旌旂戈盾、これを望むこと山の如し。丁亥、康郎山に遇う。太祖軍を十一隊に分かちて以てこれを禦ぐ。戊子、合戦す。徐達その前鋒を撃ち、俞通海火礮を以てその舟数十を焚く。殺傷略相当す。友諒の驍将張定辺直ちに太祖の舟を犯す。舟沙に膠して退くを得ず、甚だ危し。常遇春旁より射て定辺に中つ。通海復た来り援く。舟驟に進み水湧く。太祖の舟乃ち脱するを得。己丑、友諒悉く巨艦を出して戦う。諸将の舟小にして、仰ぎ攻めて利あらず、怖色有り。太祖親しくこれを麾すも前まず。退縮する者十余を斬る。人皆殊死して戦う。会うに日晡、大風東北より起こる。乃ち敢死の士に命じて七舟を操らしめ、火薬を蘆葦の中に実し、火を放ちて友諒の舟を焚く。風烈しく火熾んじ、烟焰天に漲り、湖水尽く赤し。友諒の兵大いに乱る。諸将鼓噪してこれを乗ず。二千余級を斬首し、焚溺死する者算無し。友諒気を奪わる。辛卯、復た戦う。友諒復た大いに敗る。ここに舟を斂めて自ら守り、敢えて更に戦わず。壬辰、太祖軍を移して左蠡を扼す。友諒も亦た退き渚磯を保つ。相持すること三日、その左・右二金吾将軍皆降る。友諒の勢い益々蹙り、忿り甚だしく、獲たる所の将士を尽く殺す。而して太祖は則ち俘虜を悉く還し、傷ある者には善薬を傅え、且つその親戚諸将の陣歿する者を祭る。

八月壬戌、友諒食尽き、南湖觜に趨くも、南湖軍に遏たれ、遂に湖口を突く。太祖これを邀え、順流して搏戦し、涇江に及ぶ。涇江軍復た遮撃す。友諒流矢に中りて死す。張定辺その子理を以て武昌に奔る。

九月、応天に還り、功を論じて賞を行なう。是に先立ち、太祖安豊を救うに、劉基諫むも聴かず。是に至りて基に謂いて曰く、「我安豊の行あるべからず。友諒をして虚に乗じ直ちに応天を擣かしめば、大事去らん。乃ち兵を南昌に頓す。亡びざるは何をか待たん。友諒亡びて、天下定め難からず」と。壬午、自ら将として陳理を征す。是の月、張士誠自ら呉王と称す。

冬十月壬寅、武昌を囲み、湖北諸路を分かち徇り、皆下る。

十二月丙申、応天に還る。常遇春留まりて諸軍を督す。

至正二十四年

二十四年春正月丙寅朔、李善長等、群臣を率いて勧進す。允さず。固く請う。乃ち呉王の位に即く。百官を建つ。善長を以て右相国と為し、徐達を左相国と為し、常遇春・俞通海を平章政事と為し、これに諭して曰く、「国を立つるの初め、まさに先ず紀綱を正すべし。元氏闇弱にして、威福下に移り、馴れて乱に至る。今まさにこれを鑑とすべし」と。子標を立てて世子と為す。

二月乙未、復た自ら将として武昌を征す。陳理降る。漢・沔・荊・岳皆下る。

三月乙丑、応天に還る。丁卯、起居注を置く。庚午、諸翼元帥府を罷め、十七衛親軍指揮使司を置き、中書省に命じて文武人材を辟く。

夏四月、祠を建て、死事の丁普郎等を康郎山に、趙徳勝等を南昌に祀る。

秋七月丁丑、徐達が廬州を陥落させる。戊寅、常遇春が江西を巡行する。

八月戊戌、吉安を回復し、ついに贛州を包囲する。徐達が荊・湘の諸路を巡行する。九月甲申、江陵を下し、夷陵・潭・帰が皆降伏する。

冬十二月庚寅、徐達が辰州を陥落させ、別将を派遣して衡州を下す。

至正二十五年

二十五年春正月己巳、徐達が寶慶を下し、湖湘が平定される。常遇春が贛州を陥落させ、熊天瑞が降伏する。ついに南安に向かい、嶺南の諸路を招諭し、韶州・南雄を下す。甲申、南昌に行き、大都督朱文正を捕らえて帰還し、その罪を数え上げ、桐城に安置する。

二月己丑、福建行省平章陳友定が處州を侵し、参軍胡深がこれを撃破し、ついに浦城を下す。丙午、士誠の将李伯昇が諸全の新城を攻め、李文忠がこれを大いに破る。

夏四月庚寅、常遇春が襄・漢の諸路を巡行する。

五月乙亥、安陸を陥落させる。己卯、襄陽を下す。

六月壬子、朱亮祖・胡深が建寧を攻め、城下で戦い、胡深が捕らえられ、これに死す。

秋七月、江を渡った士卒で傷つき廃疾となった者を養い、死んだ者はその妻子を贍うことを命ずる。

九月丙辰、國子學を建てる。

冬十月戊戌、張士誠を討つことを下令する。この時、士誠の占拠するところは、南は紹興に至り、北は通・泰・高郵・淮安・濠・泗を有し、さらに北は濟寧に至る。そこで徐達・常遇春らに命じて先ず淮東を攻略させる。閏月、泰州を包囲し、これを陥落させる。

十一月、張士誠が宜興を寇し、徐達がこれを撃破し、ついに宜興より還って高郵を攻める。

至正二十六年

二十六年春正月癸未、士誠が江陰を窺い、太祖自ら将兵してこれを救い、士誠は逃げ、康茂才が浮子門でこれを追撃して破る。太祖は應天に還る。

二月、明玉珍死す。子の昇自立す。

三月丙申、中書に令して選挙を厳にす。徐達、高郵を克つ。

夏四月乙卯、淮安において士誠の将徐義の水軍を襲い破る。義遁走す。梅思祖、城を以て降る。濠・徐・宿の三州相継いで下る。淮東平ぐ。甲子、濠州に如きて墓を省み、守塚二十家を置き、故人汪文・劉英に粟帛を賜う。酒を置き父老を召し飲み極めて歓ぶ。曰く「吾郷を去ること十有余年、艱難百戦し、乃ち帰りて墳墓を省み、父老子弟と復た相見ゆるを得たり。今久しく留まりて歓聚を楽しむを得ざるを苦しむ。父老幸いに子弟を教えて孝弟力田せしめ、遠く賈うこと毋れ。濱淮の郡県尚ほ寇掠に苦しむ。父老善く自ら愛せよ」と。有司に令して租賦を除かしむ。皆頓首して謝す。辛未、徐達、安豊を克つ。兵を分かちて拡廓を徐州に破る。

夏五月壬午、濠より至る。庚寅、遺書を求む。

秋八月庚戌、応天城を改築し、新宮を鍾山の陽に作る。辛亥、徐達を大将軍と為し、常遇春を副将軍と為し、師二十万を帥いて張士誠を討たしむ。戟門に御して師を誓ひて曰く「城下の日、殺掠する毋れ、廬舎を毀つ毋れ、丘壟を発す毋れ。士誠の母は平江城外に葬る。侵毀する毋れ」と。既にして達・遇春を召して問ふ、兵を用ふるに何をか先とすべき。遇春は直ちに平江を擣かんと欲す。太祖曰く「湖州の張天騏・杭州の潘原明は士誠の臂指たり。平江窮蹙すれば、両人悉く力を赴けて援けん。以て勝を取るに難し。湖州を先に攻むるに若かず。之をして奔命に疲れしめ、羽翼既に披かれば、平江勢孤にして、立破せん」と。甲戌、張天騏を湖州に破る。士誠親しく兵を率ひて来援す。復た之を皂林に破る。

九月乙未、李文忠、杭州を攻む。

冬十月壬子、遇春、士誠の兵を烏鎮に破る。

十一月甲申、張天騏降る。辛卯、李文忠、余杭を下す。潘原明降る。旁郡悉く下る。癸卯、平江を囲む。

十二月、韓林児卒す。明年を以て呉元年と為し、廟社宮室を建て、山川に祭告す。所司宮殿の図を進む。彫琢奇麗なる者を去るを命ず。

是歳、元の拡廓帖木児と李思斉・張良ちょうりょう弼と怨みを搆へ、屡相攻撃す。朝命行はれず。中原の民益々困す。

至正二十七年

二十七年春正月戊戌、中書省に諭して曰く「東南久しく兵革に罹り、民生凋敝す。吾甚だ之を憫む。且つ太平・応天諸郡は、吾が江を渡り開創の地、供億煩労久し。今比戸空虚す。有司急に催科し、重ねて吾が民を困す。将に何を以てか堪へん。其れ太平に田租二年を賜ひ、応天・鎮江・寧国・広徳に各一年を賜へ」と。

二月丁未、傅友徳、拡廓の将李二を徐州に破り、之を執る。

三月丁丑、始めて文武科を設けて士を取る。

夏四月、方国珍陰に人を遣はして拡廓及び陳友定に通じ、書を移して之を責む。

五月己亥、初めて翰林院を設置す。是の月、旱魃のため膳を減じ素食とし、また徐・宿・濠・泗・寿・邳・東海・安東・襄陽・安陸及び新たに帰附した地の田租を三年間免除す。六月戊辰、大雨、群臣膳の復旧を請う。太祖曰く、「雨降れども、禾を損なうこと既に多し。其れ民に今年の田租を賜わん」と。癸酉、朝賀に女楽を用いることを罷むるを命ず。

秋七月丙子、府州県官の赴任費を給し、綺帛を賜い、其の父母・妻・長子に差等有り、令と為す。己丑、雷宮門の獣吻を震わし、罪囚を赦す。庚寅、使いを遣わして方国珍に責め、糧を貢せしむ。

八月癸丑、圜丘・方丘・社稷壇成る。

九月甲戌、太廟成る。朱亮祖師を帥いて国珍を討つ。戊寅、詔して曰く、「先王の政、罪は孥に及ばず。今より大逆不道を除き、連坐すべからず」と。辛巳、徐達平江を克ち、士誠を執る。呉地平定す。戊戌、使いを遣わして元主に書を致し、其の宗室神保大王等を送りて北還せしむ。辛丑、呉平定の功を論じ、李善長を宣国公に封じ、徐達を信国公に封じ、常遇春を鄂国公に封じ、将士に賜賚差等有り。朱亮祖台州を克つ。癸卯、新宮成る。

冬十月甲辰、起居注の呉琳・魏観を遣わし、幣を以て四方に遺賢を求む。丙午、百官の礼儀左を尚ぶことを令す。李善長を左相国に改め、徐達を右相国と為す。辛亥、元の臣余闕を安慶に、李黼を江州に祀る。壬子、御史台を置く。癸丑、湯和を征南将軍と為し、呉禎之を副え、国珍を討つ。甲寅、律令を定む。戊午、郊社・太廟の雅楽を正す。庚申、諸将を召して北征を議す。太祖曰く、「山東には王宣反側し、河南には拡廓跋扈し、関・隴には李思斉・張思道梟張猜忌す。元の祚将に亡び、中原塗炭たり。今北伐せんとし、生民を水火より拯わんとす。何を以てか勝を決せん」と。遇春対えて曰く、「我が百戦の師を以て、彼の久しく逸するの卒に敵し、直ちに元都を擣てば、破竹の勢なり」と。太祖曰く、「元建国百年、守備必ず固し。軍を懸けて深入し、餽餉前へ進まず、援兵四集せば、危き道なり。吾先ず山東を取らんと欲し、彼の屏蔽を撤し、兵を両河に移し、其の籓籬を破り、潼関を抜きて之を守り、其の戸檻を扼せん。天下の形勝我が掌握に入り、然る後に兵を進めば、元都勢孤援絶し、戦わずして自ら克たん。鼓行して西せば、雲中・九原・関・隴は席卷すべし」と。諸将皆曰く「善し」と。甲子、徐達を征虜大将軍と為し、常遇春を副将軍と為し、師二十五万を帥い、淮より河に入り、北して中原を取る。胡廷瑞を征南将軍と為し、何文輝を副将軍と為し、福建を取る。湖広行省平章楊璟・左丞周徳興・参政張彬広西を取る。己巳、朱亮祖温州を克つ。

十一月辛巳、湯和慶元を克ち、方国珍海に遁る。壬午、徐達沂州を克ち、王宣を斬る。己丑、廖永忠を征南副将軍と為し、海道より自ら和に会し国珍を討つ。乙未、大統暦を頒つ。辛丑、徐達益都を克つ。

十二月甲辰、律令を頒つ。丁未、方国珍降る。浙東平定す。張興祖東平を下し、兗東の州県相継ぎて降る。己酉、徐達済南を下す。胡廷瑞邵武を下す。癸丑、李善長百官を帥いて進を勧め、表三たび上る。乃ち許す。甲子、上帝に告ぐ。庚午、湯和・廖永忠海道より福州を克つ。

校勘記