卷二百下
朱泚・黄巢・秦宗権
朱泚
朱泚は父の資蔭により軍に従い、幼少より壮偉で、腰帯十囲、騎射武術も人に優れぬほどではなかった。外見は寛和のようであるが、内心は甚だ残忍であった。しかし財を軽んじ施しを好み、征戦のたびに得た賞賜の品は、直ちに麾下の将士に分け与えたので、これにより衆に推され、故にその凶謀を成し遂げることができた。初め李懐仙に隷属して部将となり、経略副使に改めた。朱希彩が李懐仙を殺害し、自ら節度使となると、朱泚が同姓であることを以て、甚だ委任信任した。朱希彩は政事に苛酷で、人々はその命に堪えられなかった。
九年、就いて検校戸部尚書を加えられ、実封百戸を賜った。幽州及び河北諸鎮は、天宝末より逆乱の地となり、李懐仙・朱希彩と境を接する三節度使は、名こそ順向しているが、未だ朝謁したことがなかった。この時朱泚が率先して上表し、自ら歩騎三千人を率いて入朝することを請うた。詔して甲第を修造してこれを待たしめた。九月、朱泚は京師に至り、代宗は内殿に御して引見し、御馬二匹・戦馬十匹・金銀錦彩を甚だ厚く賜った。また器物十床・馬四十匹・絹二万匹・衣一千七百襲をその将士に賜い、宴犒の盛んなことは近時未だなかった。朱泚はまた上表し、京師に留まることを請い、これに従った。よってその弟の滔に御史大夫・幽州節度留後を兼ねさせた。なお河陽永平軍の防秋兵は、郭子儀がこれを統べ、決勝軍楊猷の兵は、李抱玉がこれを統べ、淮西鳳翔の兵は、馬璘がこれを統べ、汴宋・淄青の兵は、朱泚に統べさせた。
四年十月、涇原の兵が叛き、鑾駕は奉天に幸した。叛卒らは朱泚がかつて涇州を統べたことを以て、その権を失い閑居していることを知り、怏怏として乱を思った。群寇に帥なく、朱泚の政が寛大であることを幸い、乃ち相与に謀って曰く、「朱太尉久しく空宅に囚われたり、もし迎えて主と為せば、事必ず済まん」。姚令言は乃ち百余騎を率いて晋昌里の邸に朱泚を迎えた。朱泚は馬に乗り従を擁して北に向かい、燭炬星羅のごとく、観る者万計、含元殿に入居した。明日、白華殿に移り処し、ただ太尉と称した。朝官で朱泚に謁する者は、皆鑾駕を奉迎するよう勧めたが、既に朱泚の意に合わず、皆逡巡して退いた。源休が至ると、遂に人を屏いて時を移し、言多く悖逆であった。また盛んに成敗を陳べ、符命を称述し、その僭偽を勧めたので、朱泚は甚だこれを悦んだ。また李忠臣・張光晟が相次いで至り、皆官閑に積憤し、禍乱を楽んだ。鳳翔涇原の大将張廷芝・段誠諫は潰卒三千余を率いて襄城より至った。賊朱泚は自ら衆望の集まるところと謂い、僭窃の心、ここより定まった。乃ち源休を京兆尹・判度支とし、李忠臣を皇城使とした。段秀実は久しく兵権を失っていたので、推心してこれを委ねた。遂に鋭師三千を発し、乗輿を奉迎すると言いながら、実は密かに逆謀を有していた。段秀実は劉海賓と謀りて朱泚を誅せんとし、かつ叛卒の法駕を震驚するを虞れ、乃ち潜かに賊の兵符を為し、発した兵を追い返した。六日、兵は駱驛として還った。よって劉海賓とともに朱泚に謁見し、逆順の理を陳べたが、劉海賓が靴中より匕首を取ったところ、その覚めるところとなり、遂に前に進むことができなかった。段秀実は義をもって動かしがたいことを知り、急ぎ源休の象笏を奪い、挺てて朱泚を撃ち、仍って大呼して曰く、「反虜万段すべし」。朱泚は臂を挙げて首を衛い、段秀実が格闘するに、忷々然たり。李忠臣は馳せて朱泚を助け、朱泚は元来力多く、ただその面を破ったのみで、逆徒が噪ぎ集まり、段秀実・劉海賓は遂に並びに害された。
十日、朱泚は自ら兵を率いて奉天を侵逼し、窃んだ威儀輦輅は道途に闐溢し、蟻聚の衆軍勢頗る盛んたり。姚令言を元帥とし、張光晟を副とし、李忠臣を京兆尹・皇城留守とし、中書省に居中させた。尋いで蒋鎮を門下侍郎とし、李子平を諫議大夫兼平章事とした。朱泚の軍は城下に合し、渾瑊・韓遊瑰がこれを防ぎ、朱泚の衆は大敗し、死者万計に及んだ。朱泚は軍を収めて奉天の東三里に下営し、大いに攻具を修めた。明日、朱泚はまた兵を分けて乾陵に営し下瞰すると、城内大いに震動した。
十一月三日、杜希全が朱泚の軍勢と漠穀で戦い、官軍は不利となり、これより朱泚はますます驕慢で大規模となった。王師は城壁に乗って戦い、人は百倍の勇気を奮い、賊軍は多く敗れて損害を受けた。あるいは野外に出て戦えば、官軍はまた利益を得た。朱泚はそこで大いに百姓を駆り立てて塹壕を埋めさせ、夜に攻城し、城中は奇計を設けてこれに応じたので、賊軍は退却縮小した。西明寺の僧法堅は巧妙な思慮があり、朱泚のために雲梯を造った。十五日の辰の刻、雲梯が城の東北隅に臨むと、城内は震駭した。渾瑊は侯仲莊に命じて大坑を設け、地道でこれを陥落させた。また火を放ってその雲梯を焼き、東風が起こり、我が軍を吹き、衆は甚だ危うかった。やがて風が戻り、賊軍を吹き、渾瑊は薪を増やし油を注ぎ、万の鼓が一斉に鳴り響き、風に吹かれて共に燃え盛り、須臾にして雲梯は凶徒どもと共に灰燼と化した。城中の三つの門から悉く兵を出し、王師はまた勝利し、その夜兵は再び出て攻撃し、朱泚の軍勢は大敗した。李懐光が五万人を率いて来援し、河北より至ると、朱泚の軍勢は惶恐し、ここにおいて大いに潰え、長い包囲は遂に解かれた。衆庶は、李懐光が三日遅ければ城は危うかったであろうと言った。
三十日の夜、朱泚は京城に逃げ至った。時に姚令言は城中に戦格と拋楼を造り、各坊ごとに団結させ、人心は大いに異なっていた。朱泚が奉天より戻ると、これを悉く撤去させ、言うには「攻戦は我に計略がある」と。これ以前は毎三五日ごとに、すなわち人を偽って城外より来たるようにさせ、周りを走り回って号令して言うには「奉天は既に陥落した!」と。百姓これを聞き、涙を流さぬ者はなく、道路は寂として物音がしなかった。時に台省の吏人が入るも、十数人に過ぎず、郎官は六七人であったが、また例年通りに挙選を行わせ、初めは数十人が状を陳べたが、旬日で皆退けられた。朱泚は自らその宅を潜龍宮と号し、内庫の珍貨瑰宝を悉く移してこれを満たした。識者は言う「『易』に『潜龍用いる勿れ』と称する。これは敗亡の兆しである」と。間もなく、百姓がその珍宝を掠奪し、朱泚はこれを禁止できなかった。
三月、李晟・駱元光・尚可孤の軍勢は、悉く城東において累次朱泚の軍勢を破った。四月、朱泚は韓旻・宋帰朝・張庭芝らを遣わして武功を寇し、渾瑊が衆及び吐蕃の論莽羅と共に宋帰朝を大破し、逆党一万余人を武亭川にて殺した。
五月、朱泚はまた仇敬忠を遣わして藍田を寇し、尚可孤がこれを撃ち、朱泚の軍勢を大破し、敬忠を擒えて斬った。李晟・駱元光・尚可孤は遂に全軍を挙げて斉しく進み、李晟は光泰門に屯し、逆徒が官軍を拒ぐも、王師は累次勝利した。二十八日、官軍は禁苑に入り、京師を収復し、逆党は大いに潰えた。
朱泚は姚令言・張庭芝・源休・李子平・朱遂と共に数千人を率いて西に逃走し、その余党は或いは奔り竄り、或いは来降した。朱泚の軍勢は路に沿って潰散し、遂に涇州に奔り、僅か百余騎となった。田希鑒は門を閉ざし城壁に登り、朱泚は人を遣わして田希鑒に謂うには「我は汝に節度使を与えた。何故恩に背くのか」と。田希鑒はそこで人をして城上より朱泚の送った旌節を外に投げ捨てさせ、続いて火に投じて焼かせた。朱泚はそこで数里を過ぎ、旅舎にて休息した。朱泚の将梁庭芬が涇州に入り田希鑒を説いて言うには「公は先日馮河清を殺して背叛した。今は帰順したとはいえ、国家は必ず久しく容れず、公は他日禍を受けることを免れぬ。如何なることか門を開いて朱公を迎え入れ、共に大事を成さん」と。田希鑒はこれを然りとす。梁庭芬はそこで追い及んで朱泚にこれを言うと、朱泚は大いに喜び、梁庭芬をして却って涇州に往かせた。梁庭芬は自らに尚書・平章事を授けるよう請うたが、朱泚は従わなかった。梁庭芬は既に宰相を求めて得られず、再び涇州には往かず、朱泚に従って甯州彭原県西城屯に至り、再び朱泚の腹心朱惟孝と共に朱泚を射た。朱泚は逃走し、古い窖の中に墜ちた。朱泚の左右の韓旻・薛綸・高幽嵓・武震・朱進卿・董希芝が共に朱泚を斬り、宋膺に首を伝えて献上させた。朱泚の死時の年は四十三。姚令言は涇州に投じ、源休・李子平は鳳翔に逃走し、尋ねて共に斬り獲られた。宋帰朝は武功に敗れ、李懐光に降り、興元に送られて斬られた。ただ朱遂は獲られず、伝えられるところでは野人に殺されたという。或いは朱泚の婿の偽金吾将軍馬悦と共に党項部落に潜走し、数月にして幽州に達したという。
朱泚の僭逆において、宦官の朱重曜は甚だ親密に用いられ事を為し、朱泚は毎度これを兄と呼んだ。時に賊中において臘月に大雨があり、偽星官が朱泚に謂うには「宗中の年長者を以ってその災変を禳うべし」と。朱泚はそこで朱重曜を毒殺し、王礼を以って葬った。京師が平定されると、またその屍を出して斬った。姚令言は自ら伝がある。
黄巢
先に、尚君長の弟尚譲は兄が使を奉じて誅殺されたのを見て、部衆を率いて嵖岈山に入った。黄巢・黄揆の兄弟八人は、盗賊数千を率いて尚譲に依った。一月余りで、衆は数万に至った。汝州を陥とし、刺史王鐐を虜にし、また関東を掠めた。官軍が討伐を加えるも、屡々これに敗れ、その衆は十余万となった。尚譲はそこで群盗と共に黄巢を推して王とし、沖天大将軍と号し、なお官属を置き、藩鎮はこれを制することができなかった。時に天下は承平の日が久しく、人は兵を知らなかった。僖宗は幼主として臨朝し、号令は臣下より出た。南衙北司は互いに矛盾し、以って九流は濁乱し、時に朋党多く、小人の才が勝ち、君子の道は消え、賢豪は忌み憤み、草沢に退いた。一朝変有るや、天下は離心した。黄巢の起こりに、人士はこれに従って附いた。或いは黄巢が四方に檄を馳せ、章奏を論列するに、皆朝政の弊を指目し、蓋し士の不逞の者の言辞であった。黄巢の徒党は既に盛んとなり、王仙芝と形援を為した。王仙芝が敗れると、東に亳州を攻めて下さず、乃ち沂州を襲い破ってこれを拠った。王仙芝の余党は悉くこれに附いた。
時に王鐸は招討の権を帯びながらも、攻取に緩やかであった。時に高駢は淮南に鎮し、表を奉って賊の招討を請い、これを許され、都統を加える議があった。黄巢は淮を渡り、偽って高駢に降った。高駢は将張璘を遣わし、兵を率いて天長鎮で降を受けた。黄巢は張璘を擒らえて殺し、その衆を虜にした。やがて南に湖・湘を陥し、遂に交・広を占拠した。越州観察使崔璆に託して奏し、天平軍節度を乞うたが、朝議は允さなかった。また官を除くことを乞うた。時に宰臣鄭畋と枢密使楊復恭が奏し、同正員将軍を授けんことを請わんとした。盧携がその議を駁し、率府率を授け、もし受けざれば、高駢をして討たしめんことを請うた。黄巢が詔を見て、大いに執政を詬り、また自ら表して安南都護・広州節度を乞うたが、これも允されなかった。然れども黄巢は士衆が烏合であるを以て、南海の地を拠り、永く窠穴と為し、坐して朝命を邀わんと欲した。
十二月三日、僖宗は夜に開遠門より出で、駱谷に趨き、諸王官属相次いで奔命した。観軍容使田令孜・王若儔が禁軍を収合し扈従した。四日、賊は昭応に至り、金吾大将軍張直方が在京の両班を率いて賊を灞上に迎えた。五日、賊は京師を陥した。
時に黄巢の衆は累年盗を為し、行伍その富に勝えず、路に窮民に遇えば、争って行き施し遺した。春明門に入るや、坊市聚りて観、尚譲が市人を慰暁して曰く「黄王は生霊の為に、李家の汝輩を恤わざるに似ず、ただ各々家を安んぜよ」と。黄巢の賊衆は競って物を投げて人に遺した。十三日、賊の黄巢は位を僭し、国号を大斉とし、年号を金統と称し、仍って楼に御して赦を宣し、且つ符命を陳べて曰く「唐帝朕の起義を知り、元を改めて広明と為す。文字を以てこれを言えば、唐は已に天分無し。『唐』の『醜』『口』を去りて『黄』を安ずるは、天意黄を唐の下に令す、乃ち黄家の日月なり。土徳は金を生ず、予は金を以て王と為す、宜しく年を改めて金統と為すべし」と。賊は旧宰相を捜訪して獲ず、以前の浙東観察使崔璆・楊希古・尚譲・趙章を四相と為し、孟楷・蓋洪を左右軍中尉と為し、費伝古を枢密使と為し、王璠を京兆尹と為し、許建・朱実・劉塘を軍庫使と為し、朱温・張言・彭攢・季逵を諸衛大将軍・四面游奕使と為した。また驍勇にして形体魁梧なる者五百人を選び、功臣と曰う。その甥林言を軍使と為し、控鶴に比した。
時に京畿の百姓は皆山谷に砦し、累年耕耘を廃し、賊は空城に坐し、賦輸入る所無く、穀食騰踴し、米一斗三十千。官軍は皆山砦の百姓を執り、賊に鬻いで食と為し、人数十万を獲た。朝士は皆往来して同・華に至り、或いは餅を売るを業と為し、因って河中に奔った。宰相崔沆・豆盧瓚は扈従に及ばず、別墅に匿れたが、所由の搜索厳急なるを以て、乃ち微行して永寧里の張直方の家に入った。朝貴は張直方の豪を恃み、多くこれに依った。既にして或る者賊に告げて云く「直方謀反し、亡命を納る」と。賊はその第を攻め、張直方は族誅され、崔沆・豆盧瓚数百人皆害に遇った。ここより賊は始めて酷虐となり、居人を族滅した。使を遣わして命を伝え、故相駙馬都尉于琮をその第に召した。于琮曰く「吾は唐室の大臣、黄家の草昧を佐うべからず、加之老疾なり」と。賊怒り、誅すを令した。広徳公主は賊と号咷して謂いて曰く「予は即ち天子の女、復た存すべからず、相公と俱に死すべし」と。この日並びに害に遇った。
近ごろ妖賊が霧の市に起こり、盗賊が叢祠に嘯き、而るに岳牧藩侯は、盗賊を備えるに謹まず。大同の運は常に奸を容るべしと謂い、無事の秋は其の悪を長ずるに縦すと謂う。賊首黄巢は、因って窟穴を充盈し、萑蒲に蔓延し、我が蒸黎を駆り、其の凶逆に徇う。鉏鶴を展べて鋒刃と成し、耕牛を殺して燔砲を恣にし、魑魅は昼に行き、虺蜴は夜に噬む。南海失守より以来、湖外喪師し、虎を養いて災深く、梟を馴らして逆大なり、物害さざる無く、悪為さざる無し、豺狼は朝市の憂を貽し、瘡磐は腹心の痛に及ぶ。遂に毒万姓に流れ、盗両京を汚すに至る。衣冠は塗炭の悲を銜み、郡邑は丘墟の歎を起こす。万方共に怒り、十道斉に攻め、九廟の威霊に伏し、積年の凶醜を殄する。
河中節度使王重栄は神に壮烈の資を授かり、天に機謀を付され、功名を立てんことを誓い、家国を安んぜんことを志す。屯田して敵を待ち、率土当たりて衝に当たり、百姓十万余りを収め、賊党三万余人を降すに至る。法は持重に当たり、功遂に晩成し、久しく原野の刑を稽え、未だ雷霆の怒りを快くせず。同・華を収むるより以来、京師に逼近し、夕烽は国門に高く照り、遊騎は灞岸に俯臨す。既に四隅断絶し、百計奔衝するを知るや、窮鳥籠に触るるが如く、飛蛾燭に赴くに似たり。
雁門節度使李克用は神に将略を伝え、天に忠貞を付され、機謀と武藝と皆優れ、臣節と本心と相称す。賊を殺すは手刃に非ざる無く、陣に入るは率い以身を先にす、雄才と謂うべく、飛将の名を得たり。本軍を統べて南下し、臣と力を同じくして前駆し、寝餐に在りと雖も、寇孽を忘れず。
今月八日、衙隊前鋒楊守宗・河中騎将白志遷・横野軍使満存・躡雲都將丁行存・朝邑鎮将康師貞・忠武黄頭軍使龐從等三十都を遣わし、李克用に随い光泰門より先ず京師に入り、凶寇を力摧す。又、河中將劉讓・王環・冀君武・孫珙、忠武将喬從遇、鄭滑将韓從威、荊南将申屠悰、滄州将賈滔、易定将張仲慶、寿州将張行方、天徳将顧彦朗、左神策弩手甄君楚・公孫佐、横衝軍使楊守亮、躡雲都將高周彝、忠順都將胡真、絳州監軍毛宣伯・聶弘裕等七十都を遣わして継進せしむ。賊尚ほ堅陣を為し、来たりて官軍に抗す。雁門李克用は驍雄を率励し、金革を整斉し、叫噪して声将に瓦を動かし、喑嗚して気沙を吞まんと欲し、戈矛を寛く列ね、羅網を密に張る。ここに於いて軍を麾して背撃し、騎を分かち横衝し、日明らかにして剣躍り飛輪し、風急にして旗開き走電す。賊を浪の如くせば便ち流を塞ぐべく、賊を山の如くせば亦た角を折るを須いん。蹂踐すれば則ち横屍地に入り、騰淩すれば則ち積血塵と成る。即墨の牛を煩わさず、昆陽の象を駕するが若し。楊守宗等は斉に駆けて直入し、勢を合して夾攻し、卯より申に至り、群凶大いに潰る。望春宮前より蹙殺し、昇陽殿下に至り攻囲し、戈濫りに揮わず、矢虚しく発すること無し。其の賊一時に奔走し、南に商山に入る。徒らに漏刃の生を延ばし、佇みて飲頭の器と作らんとす。
京闕を平らげて収むるより以来、二面皆大功を立て、若し敵を破り凶を摧くは、李克用実に其の首に居る。其の余の将佐は、同じく馳駆に效す。兼ねて臣の部領する万余人は、数歳風を櫛り雨を沐う。既に茲に平蕩し、並びに録して聞かしむ。
五月、巢賊の先鋒将孟楷、蔡州を攻む。節度使秦宗権、兵を以て逆戦すも、賊に敗れらる。城を攻むること急なり、宗権乃ち賊に臣を称す。遂に陳・許を攻め、溵水に営す。陳州刺史趙犨、迎戦して賊の先鋒を敗り、孟楷を生擒し、之を斬る。黄巢素より楷を寵し、之を悲惜す。乃ち衆を悉くして陳州を攻め、城北五里に営し、宮闕の制を為し、八仙営と曰う。ここに於いて唐・鄧・許・汝・孟・洛・鄭・汴・曹・濮・徐・兗数十州より、畢く其の毒に罹る。賊陳郡を囲むこと百日、関東仍歳耕稼無く、人餓えて牆壁の間に倚り、賊人を俘えて食い、日に数千を殺す。賊に舂磨砦有り、巨碓数百を為し、生きたる人を臼に納れて之を砕き、骨を合して食らう。其の流毒是の如し。
趙犨、太原に援を求む。四年二月、李克用、山西諸軍を率い、蒲・陝より河を済い、関東諸侯と会し、陳州に赴援す。三月、諸侯の師復た集う。四月、官軍、賊を太康に敗り、俘斬万計、其の四壁を抜く。又、賊将黄鄴を西華に敗り、其の壁を抜く。巢賊大いに恐れ、軍を収めて故陽里に営す。官軍進みて之を攻む。五月、大雨震雷有り、平地水深さ三尺、賊の壘を壊し、賊自ら離散し、復た尉氏に聚まり、中牟を逼る。翌日、汴水の北に営す。是の日、復た大雨震電有り、溝塍漲流す。賊分かれて汴州を寇す。李克用、鄭州より軍を引き襲撃し、之を大いに敗る。賊将李用・楊景を獲る。残衆は胙県・冤句に保つ。官軍追討すれども、賊保つ所無し。其の将李讜・楊能・霍存・葛従周・張帰厚・張帰霸、各々部下を率いて大梁に降る。尚譲は部下万人を率いて時溥に帰す。賊自ら猜間し、相い営中に殺し、残る所千人、中夜遁去す。克用、追撃して済陰に至りて還る。賊は兗・鄆の界に散ず。黄巢、泰山に入る。徐帥時溥、将張友を遣わし尚譲の衆と之を掩捕せしむ。狼虎谷に至り、巢の将林言、巢及び二弟鄴・揆等七人の首を斬り、並びに妻子を皆徐州に送る。是の月賊平ぐ。
秦宗権
【評論】
史臣曰く、我が唐の命を受くるや、器を安きに置き、千年惟だ永く、百蛮響化し、万国来王す。但だ否泰の恒無きを以て、故に夷険の一ならず。三百算祀、二十帝王。時に竊邑叛君の臣、危きに乗じて徼幸の輩有りと雖も、才を興して兵革すれば、即ち誅夷に就く。其の間沸騰し、大盗三たび発す。安禄山・朱泚・黄巢是れなり。
夫れ社稷を謀りて危うくし、将に君親を害せんとす。轘裂瀦宮も、未だ其の罪を塞がず。故に多談を俟たず。然れども盗の起こる所は、必ず其の来る有り。且つ天時に問う無く、宜しく人事に之を決すべし。
禄山の母は巫者たり、身は牙郎たり。偶々微かなる辺功を立てるに縁り、遂に大いに寵用を加えられ、馬牧を総知し、特く兵権を委ぬ。天子の独尊を愛し、国忠の相忌むと与にす。故に義を以て事を制し、礼を以て心を制する能わず。遂に闕に向かうの兵を称し、非望の福を期す。此れ乱を為す所以なり。
朱泚の家は本来漁陽にあり、性質は凶悪狡猾にして、耳には簒奪のことを常に聞き、心には忠貞のことを本としていた。弟が乱の端を開き、身は京邑に留まるや、少しでも意にかなわぬことがあれば、別に異図を抱いた。ただ荒鶏の鳴くのを喜び、和鑾の動くのを幸いとし、幽州の帥がかつて乱によって得たことを縁として、神器は徼求すべきものと謂ったのである。
黄巢は亹茸たる微賤の人、萑蒲たる賤類にして、饑饉の歳に因り、王仙芝・尚譲の跡を踏み、志は奪攘に在り、謀は遠大にあらず。一旦江表に長駆し、径に関中に入り、五輅の塵を蒙るを見て、宝命は我に在りと謂ったのである。
もし玄宗が九齢(張九齢)の言葉を採り、三令の威を行い、さもなくば安禄山の名位を高からず、委任を適所に得させたならば、群黎は必ずしも塗炭に陥らず、万乗(天子)も必ずしも岷・峨を越えなかったであろう。
徳宗が垢を含み瑕を匿し、兵を佳とせず勇を尚ばず、さもなくば李承の言を取り、希烈に叛を伐たせることを委ねず、さもなくば公輔(姜公輔)の諫を取り、早く朱泚を行かせたならば、このようにすれば必ずしも涇原の乱兵あり、必ずしも奉天の危急あるには及ばなかったであろう。
僖宗が人の疾苦を知り、彼の困窮を恵み、さもなくば鄭畋の謀に従い、群偷の罪を赦したならば、このようにすれば黄巢は必ずしも順を犯す能わず、鑾禦は必ずしも省方を須いなかったであろう。
毫釐を差せば、千里を失う。蛇に螫されても腕を断たず、蟻の穴によって堤を壊す。後の帝王、以て殷鑒と足る。
史朝義・秦宗権は彼の乱離に乗じ、暴虐を肆に行い、我が郡邑を虔劉し、我が衣裳を僭窃し、終には滅亡したが、害を為すこと斯くの如く甚だしく、これもまた沴気の余りである。
賛に曰く、天地否閉し、反逆常を乱る。禄山闕を犯し、朱泚皇を称す。賊巢陵突し、群豎披攘す。其の所以を征するは、慢蔵に存す。