旧唐書
唐の制度に内侍省があり、その官員は、内侍四人、内常侍六人、内謁者監六人、内給事八人、謁者十二人、典引十八人、寺伯二人、寺人六人である。別に五局がある。掖廷局は宮人の簿籍を掌り、宮闈局は宮内の門禁を掌り、その属に掌扇・給使などの員がある。奚官局は宮人の疾病死喪を掌り、内僕局は宮中の供帳燈燭を掌り、内府局は中蔵の給納を主る。五局には令・丞があり、皆内官がこれに任じる。
貞観年間、太宗は制度を定め、内侍省に三品官を置かず、内侍が長官で、階は四品とした。永淳の末に至るまで、およそ七十年、権は内官に仮さず、ただ閣門を守り防禦し、黄衣で廩食するのみであった。則天が称制すると、二十年の間に、員位をやや増した。中宗は性質が慈しみ深く、恩貸を崇めることに務めたので、神龍年間、宦官三千余人、七品以上の員外官を超授された者が千余人いたが、しかし朱紫を衣る者はなお少なかった。
玄宗は在位すること久しく、宮禁を崇重し、中官で少しも旨にかなう者は、ただちに三品・左右監門将軍を授け、門に棨戟を施くことを得た。開元・天宝年間、長安の大内・大明・興慶の三宮、皇子十宅院、皇孫百孫院、東都の大内・上陽の両宮、おおよそ宮女四万人、品官黄衣以上三千人、朱紫を衣る者千余人であった。後に李輔国が霊武への行幸に従い、程元振が代宗を翼衛し、寵を恃んで君に邀い、ついには三公を守り、王爵を封ぜられ、国政に干預したが、なお兵権を全く握ってはいなかった。代宗の時、子儀が北伐し、親王が東討したので、特に観軍容宣慰使を立て、魚朝恩をこれに命じたが、しかしもとより統帥があり、また監領するのみであった。
徳宗は涇原の師の難を避け、山南に行幸し、内官竇文場・霍仙鳴が擁従した。賊が平定された後、武臣に重兵を典せしめたくないので、その左右神策・天威等の軍を、宦者に主らせようとした。そこで護軍中尉二員・中護軍二員を置き、禁兵を分掌させ、文場・仙鳴を両中尉とした。ここに至って神策親軍の権は、全く宦者に帰したのである。貞元以後より、威権は日々熾んになり、蘭錡の将臣は、おおよそ子のように蓄えられ、藩方の戎帥は必ず賄によって成り、万機の与奪は情に任せ、九重の廃立は己から出た。元和の末には、毒は乗輿に被り、長慶が纘隆しても、徒らに枕幹の憤りを鬱積させ、臨軒の暇逸に、旋って塗地の冤を忘れた。而易月の喪が除かれず、滔天の怒りは尽きた。甲第名園の賜は、伶官でないものはなく、朱袍紫綬の栄は、巷伯でないものはなかった。この時、高品白身の数は四千六百十八人、内にあっては戎権に参秉し、外にあっては藩嶽に臨監した。文宗は祖宗の恥を包み、肘腋の仇を痛み、厲階を翦らんと思い、その甚だしきを去ろうとした。宋申錫の言は未だ口に出さず、尋いで破家し、李仲言の謀は臧らず、ほとんど国を敗らんとした。何・竇の徒は転じて蹙き、譲・珪の勢いは特に狂い、五十余年、禍胎はますます煽り、昭宗の季には、聞くに忍びないところである。
臣は前書を遍く覧め、この覆轍を考へ、大較を言ひ試み、その源を竭くさんことを庶幾ふ。何となれば、書契以来、閽寺なきことなく、況んや天象に垂れ、職官に備はる。すなはち秦皇・漢武のごときも、宮闈の内に、宦官を以て宴遊に侍らしむ。但だ英睿の君は措置ここを得、及び荒僻の主は奢蕩を是れ求む。番・棸・蹶・楀の徒を委ね、姫姜狗馬の玩を飾り、外言は入らず、惟だ欲に従ふ。併せて五侯を列ねるも、猶ほ賞薄しと為し、遍く万戸を封ずるも、尚ほ恩疏しと嫌ふ。苟くも捧日の勤を思へば、遂に回天の勢に據る。三綱錯乱し、四海崩離するに及びて、袁本初の北宮に入るに、須無きは殆んど尽き、石冉閔の鄴下を攻むるに、内豎は咸く誅せらる。旋って邦家を殄瘁するに至り、独り和気を感傷するのみならず、淫刑此れ逞はり、傷心と為すべし。向ひ使ひ威権を假さず、帷扆に趨くのみならば、何ぞ四星終に吉なるに止まらん、抑も亦万乗延洪せんや。昔の賢人の社鼠の喩、其れ然らざらんや。
今、楊思勖以下の行ひし事を録し、以て鑒誡と為す。
楊思勖
楊思勖は、本姓は蘇、羅州石城の人である。内官楊氏に養はれ、閹割されて内侍省に事へた。李多祚討伐の功に預かり、超拜して銀青光禄大夫、行内常侍となった。思勖は膂力有り、残忍で殺戮を好んだ。臨淄王に従ひ韋氏を誅し、遂に王に従ひて爪士となり、累遷して右監門衛将軍となった。
開元初め、安南首領梅玄成が叛き、自ら「黒帝」と称した。林邑・真臘国と通謀し、安南府を陥とした。詔して思勖に兵を将ひて討たしむ。思勖は嶺表に至り、首領子弟の兵馬十余万を鳩募し、伏波の故道を取って進み、其の不意に出づ。玄成は遽かに兵の至るを聞き、惶惑して計る所無く、竟に官軍に擒へられ、陣前に斬られ、其の党与を尽く誅し、屍を積みて京観と為して還った。
十二年、五溪首領覃行璋が乱を為す。思勖は復た詔を受けて兵を率ひて討ち、行璋を生擒し、其の党三万余級を斬った。軍功により累加して輔国大将軍となった。後に東封に従ひ、又た驃騎大将軍を加へられ、虢国公に封ぜられた。
十四年、邕州の賊帥梁大海が賓・横等数州を擁して反叛す。思勖は又た兵を統べて討ち、梁大海等三千余人を生擒し、余党二万余級を斬り、復た屍を積みて京観と為した。
十六年、瀧州首領陳行範・何遊魯・馮璘等が徒を聚めて乱を為し、四十余城を陥とした。行範は自ら帝を称し、遊魯は定国大将軍と称し、璘は南越王と称し、嶺表に割拠した。詔して思勖に永・連・道等の兵及び淮南弩手十万人を率ひて進討せしむ。兵、瀧州に至り、陣前に遊魯・馮璘を擒へて斬る。行範は深州に潜竄し、雲際・盤遼の二洞に投ず。思勖は衆を悉くして之を攻め、行範を生擒して斬った。其の党六万級を斬り、口馬金玉巨万を獲たり。思勖は性質剛決にして、得たる俘囚は多く其の面を生剝ぎ、或は髪際を剺ぎ、頭皮を掣去す。将士已下は風を望みて憚り、敢へて仰ぎ視る者無く、故に至る所に功を立てた。内給事牛仙童が幽州に使いし、張守珪の厚賂を受けたり。玄宗怒り、思勖に命じて之を殺さしむ。思勖は之を縛架すること数日、乃ち其の心を探り取り、手足を截ち去り、肉を割いて啖ひたり。其の残酷此の如し。二十八年卒す。時に年八十余。
高力士
高力士は、潘州の人、本姓は馮である。少くして閹割され、同類の金剛二人と、聖暦元年に嶺南討撃使李千里に進められて宮に入る。則天は其の黠恵を嘉し、総角修整なるを以て、左右に給事せしむ。後に小過に因り、撻ちて逐ふ。内官高延福が収めて仮子と為す。延福は武三思の家より出づ。力士は遂に三思の第に往来す。歳余りして、則天復た禁中に召し入れ、司宮台に隷し、廩食す。長さ六尺五寸、性質謹密にして、詔勅を伝ふる能く、宮闈丞を授けらる。
景龍年間、玄宗が藩王であった頃、高力士は心を傾けてこれに仕え、恩顧をもって遇された。唐隆の変で内難を平定し、皇太子に昇ると、力士を内坊に属させ、日々左右に侍らせ、朝散大夫・内給事に抜擢した。先天年間、蕭至忠・岑羲らを誅殺する功績に預かり、銀青光禄大夫・行内侍同正員に超拜された。開元初年、右監門衛将軍を加えられ、内侍省事を掌った。
玄宗は宮闈を尊重し、宦官が少しでも意にかなえば、ただちに三品将軍を授け、門に棨戟を立てさせた。ゆえに楊思勗・黎敬仁・林招隠・尹鳳祥らは、貴寵において力士と等しかった。楊は節を持って討伐し、黎・林は使節として宣伝し、尹は書院を主管した。そのほか孫六・韓荘・楊八・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・辺令誠らは、殿頭供奉・監軍・入蕃・教坊・功德主当など、いずれも委任された職務であった。監軍は節度使の権力を超え、出使すれば諸郡は辟易した。郡県が豊かであれば、宦官が一度軍に至れば、期待する所は千万を数え、功德を修め、鳥獣を買い求め、一箇所に詣でれば、千貫に止まらず、すべて力士の可否にあった。ゆえに帝城の甲第、畿甸の上田・果樹園・池沼は、宦官がその半ばを占めたのである。
四方から進奏文表があるたび、必ずまず力士に呈し、その後で皇帝に進め、小事はその場で決裁した。玄宗は常に言った、「力士が上に当直していると、私は寝ても安らかだ」。ゆえに常に宮中に止まり、外宅に出ることは稀であった。もし付和雷同する者は、その風采を望み見て、吹聴を期待し、肝胆を竭くす者は多かった。宇文融・李林甫・李適之・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝はこれによって将相の高位を取った。そのほかの官職は数え切れない。粛宗が東宮にいた時、二兄と呼び、諸王・公主は皆「阿翁」と呼び、駙馬の輩は「爺」と呼んだ。力士は寝殿の側の簾帷の中で休息し、殿側にも一院があり、中に功德を修める場所があり、彫琢して璀璨とし、精妙を窮めていた。力士は謹慎して大過はなかったが、しかし宇文融以下、権力を用いて互いに喰い合い、朝綱を乱したのは、皆力士に由来する。また時勢に応じて消長し、その勢いと兆候を観察し、たとえ至親愛する者であっても、臨んで覆敗する時には皆これを救わなかった。
力士の義父高延福夫妻は、正規に供奉に任じられた。嶺南節度使が潘州でその実母麦氏を求めて長安に送り、二人の老女を堂に置き、甘脆な食物を備えさせた。金吾大将軍程伯献は力士と兄弟の契りを結び、麦氏が亡くなると、伯献は霊筵で髪を振り乱し、縗絰を具え、賓客の弔いを受け答えた。十七年、力士の父に広州大都督を追贈し、麦氏に越国夫人を追贈した。
開元初年、瀛州の呂玄晤が京師で吏となり、娘に容色があったので、力士がこれを娶って妻とし、玄晤を少卿・刺史に抜擢し、子弟は皆王傅となった。呂夫人が卒去し、城東に葬ると、葬儀は盛大であった。中外が争って祭贈を致し、衢路に充溢し、邸宅から墓まで、車馬が絶えなかった。
天宝初年、力士に冠軍大将軍・右監門衛大将軍を加え、渤海郡公に進封した。七載、驃騎大将軍を加えた。力士の資産は殷厚で、王侯も比べられなかった。来庭坊に宝寿仏寺を造り、興寧坊に華封道士観を造り、宝殿珍台は国力に匹敵した。京城西北で澧水を堰き止めて水車を造り、五輪を回転させ、一日に麦三百斛を挽いた。初め、宝寿寺の鐘が完成すると、力士は斎を設けてこれを慶賀し、朝廷の者すべてが参集した。凡そ鐘を撞く者は、一撞きで百千、その意を窺う者は、二十杵まで撞き、少なくとも十杵は撞いた。
その後また華州の袁思芸が特に恩顧を受けた。しかし力士は巧みで密やかで、人々はこれを喜んだ。思芸は驕慢で倨傲で、人士はこれを疎んじ恐れた。十四載、内侍省内侍監二員を置き、秩は正三品とし、力士と思芸を対任させた。玄宗が蜀に幸すると、思芸は逃げ出して禄山に投じ、力士は従って成都に幸し、斉国公に進封した。上皇に従って京に還り、開府儀同三司を加えられ、実封五百戸を賜った。
宝応元年三月、赦令に会って帰還し、朗州に至り、流人から京国の事を聞き、初めて上皇が崩御されたことを知った。力士は北を望んで号慟し、嘔血して卒去した。代宗はその耆宿として、先朝を保護した功により、揚州大都督を追贈し、泰陵に陪葬させた。
李輔国
李輔国、本名は静忠、閑厩の馬丁の子である。幼くして去勢され、容貌は醜く、粗く書計を知った。僕として高力士に仕え、年四十余りで、厩中の簿籍を掌らせた。天宝年間、閑厩使五鉷がその畜牧の能力を嘉し、東宮に推薦した。禄山の乱、玄宗が蜀に幸すると、輔国は太子に侍従して扈従し、馬嵬に至り、楊国忠を誅殺した。輔国は太子に献策し、玄宗麾下の兵を分け、北に向かって朔方に趨り、興復を図るよう請うた。輔国は霊武に従い至り、太子に帝位に即くよう勧め、人心を繋いだ。粛宗が即位すると、太子家令に抜擢し、元帥府行軍司馬事を判じ、心腹としてこれを委ねた。なお名を護国と賜い、四方の奏事、御前の符印軍号を、一切これに委ねた。輔国は葷血を食まず、常に僧の行いをし、政務の隙に、手に念珠を持ち、人々は皆これを善と信じた。鳳翔に幸従し、太子詹事を授けられ、名を輔国と改めた。
粛宗が京に還ると、殿中監を拝し、閑厩・五坊・宮苑・営田・栽接・総監等使を兼ねた。また隴右群牧・京畿鋳銭・長春宮等使を兼ね、少府・殿中二監都使を勾当した。至徳二年十二月、開府儀同三司を加えられ、郕国公に進封し、食実封五百戸を賜った。
宰臣百官は、時を定めず奏事するも、皆輔国を通じて上決した。常に銀台門で事を受け、察事廳子数十人を置き、官吏に小過があれば、伺い知らないことはなく、ただちに推問を加えた。府県の按鞫、三司の制獄は、必ず輔国に詣でて決を取ることを求め、随意に区分し、皆制勅と称し、敢えて異議を唱える者はいなかった。毎回外出すれば甲士数百人が衛従した。中貴人もその官を呼ばず、ただ五郎と呼んだ。宰相李揆は山東の甲族で、台輔の位にあったが、輔国に会えば子弟の礼を執り、これを五父と呼んだ。粛宗はまた輔国のために故吏部侍郎元希声の甥擢の娘を娶らせて妻とした。擢の弟挹は、時に共に台省に引き入れられ、擢は梁州長史となった。輔国は元帥行軍司馬を判じ、専ら禁兵を掌り、内宅に居住することを賜った。
上皇が蜀より京に還り、興慶宮に居し、粛宗は夾城から起居した。上皇は時に伶官を召して楽を奏させ、持盈公主が宮中を往来したが、輔国は常に陰にその隙を窺って離間した。上元元年、上皇が嘗て長慶楼に登り、公主と語った。剣南奏事官が朝謁に過ぎると、上皇は公主及び如仙媛に主人役をさせた。
輔国は微賤より起り、貴達する日が近づくにつれ、上皇の左右から礼遇されず、恩顧が衰えることを慮り、ひそかに奇謀を画策して自らを固めた。持盈が客をもてなす機会に乗じ、奏上して云う、「南内に異謀あり」。詔を矯って上皇を西内に移し、持盈を玉真観に送り、高力士らは皆流竄に坐した。
二年八月、兵部尚書を拝し、その他の官はもとのままである。詔して群臣に尚書省において送り上らせ、御府の酒饌・太常の楽を賜い、武士は戎服を着て道を夾し、朝列ことごとく会す。輔国の驕恣日を追って甚だしく、宰臣たらんことを求め、肅宗曰く「公の勲力をもってすれば、何の官ならざるもあらんや、ただ未だ朝望に允わざるのみ、いかん」と。輔国は僕射裴冕に諷して章を聯ねて己を薦めしむ。肅宗密かに宰臣蕭華に謂いて曰く「輔国は平章事を帯びんと欲す、卿等章を薦めんと欲するや、信ずるか」と。華対せず。裴冕に問うに、曰く「初めよりこの事無し、吾が臂は截つべし、宰相は得べからず」と。華復た入りて奏す、上喜びて曰く「冕は固より大用に堪えたり」と。輔国これを銜む。宝応元年四月、肅宗疾に臥し、宰臣等謁見すべからず、輔国は華の権を専にするを誣奏し、これを黜くことを請う。上許さず、輔国固より請うて已まず。乃ち華を罷めて政事を知らしめ、礼部尚書を守らしむ。及び帝崩じ、華竟に斥逐せらる。
代宗即位す、輔国と程元振とは定策の功有り、愈よ恣横なり。私に奏して曰く「大家はただ内裏に坐し、外事は老奴の処置を聴かん」と。代宗その不遜を怒るも、方に禁軍を握るを以て、遽しく責めんと欲せず。乃ち尚父と尊び、政事巨細無く、皆委ねて参決せしむ。五月、司空・中書令を加え、実封八百戸を食む。程元振その権を奪わんと欲し、上に請うて漸く禁制を加え、その間に乗じ、乃ち輔国の元帥行軍の事を判ずるを罷め、その閑廄以下の使名は、並びに諸貴に分授し、仍って外に移居せしむ。輔国始めて懼れ、茫然として拠る所を失う。詔して博陸王に進封し、中書令を罷め、朔望に朝するを許す。輔国中書に入りて謝表を修めんと欲す、閽吏これを止めて曰く「尚父相を罷む、復たこの門に入るに合わず」と。乃ち気憤して言うに「老奴死罪、朗君に事えて了せず、地下に於いて先帝に事えんことを請う」と。上猶お優詔を以てこれに答う。十月十八日夜、盗輔国の第に入り、輔国を殺し、首と臂を携えて去る。詔して木の首を刻みてこれを葬り、仍って太傅を贈る。
程元振
程元振は、宦者として内侍省に直し、累遷して内射生使に至る。宝応末、肅宗晏駕す、張皇后は太子と怨み有り、己に附かざるを恐れ、越王系を引きて宮中に入れ、監国せしめんと欲す。元振その謀を知り、密かに李輔国に告ぐ、乃ち太子を挟み、越王並びにその党与を誅す。代宗即位す、功を以て飛龍副使・右監門将軍・上柱国を拝し、内侍省事を知る。尋いで輔国に代わりて元帥行軍司馬を判じ、禁兵を専制し、鎮軍大将軍・右監門衛大将軍を加え、保定県侯に封じ、宝応軍使を充つ。九月、驃騎大将軍を加え、邠国公に封じ、その父元貞に司空を贈る。母郤氏は、趙国夫人。是の時元振の権は、輔国に甚だしく、軍中これを「十郎」と呼ぶ。
元振常に襄陽節度使来瑱に請托す、瑱従わず。及び元振権を握り、瑱を征して朝に入らしむ。瑱遷延して至らず。広徳元年、裴茙を破り、遂に朝に入り、兵部尚書を拝す。元振私憾を報ぜんと欲し、瑱の罪を誣う、竟に坐して誅せらる。宰臣裴冕は肅宗の山陵使たり、事有りて元振と相違す、乃ち小吏の贓私を発し、冕を施州刺史に貶す。来瑱は名将、裴冕は元勲、二人既に誣陷せられ、天下の方鎮皆解体す。元振猶お驕豪を以て自ら処し、物議を顧みず。
九月、吐蕃・党項京畿に入り犯す、詔を下して兵を徴す、諸道の卒至る者無し。十月、蕃軍便橋に至る、代宗蒼黄として出でて陜州に幸す。賊京師を陥し、府庫蕩尽す。及び行在に至り、太常博士柳伉上疏切に諫めて元振を誅し以て天下に謝せんことを請う、代宗人情の帰咎するを顧み、乃ち元振の官を罷め、田里に放ち帰す、家は三原に在り。
十二月、車駕京に還る。元振は車中に缞麻を服し、京城に入り、以て任用を窺う。御史大夫王昇と飲酒し、御史の弾する所と為る。詔に曰く、
族談錯立するは、法尚お容れず。同悪陰謀するは、議当に重きに従うべし。一つ此に在るも、情実に原むるに難し。程元振の性は惟だ兇愎、質は本より庸愚、蕞爾の身、まさに万死に当たるべし。頃に已にその厳典を寛くし、その微労を念い、法を屈して恩を伸べ、田里に放ち帰す。仍って克己に乖き、未だ非を知らず。既に含煦の仁を忘れ、別に覬覦の望を貯う。敢えて嘯聚を為し、仍って動揺せんと欲し、不令の臣、共に睥睨を為す。妄りに休咎を談じ、仍って怨望を懐く。兵を束ね甲を裹み、服を変え潜行し、君親を顧みず、将に不軌を図らんとす。按験皆是れ、刑を逃るる所無し。首足異門、未だ責を塞ぐと云わず。朕猶お薄効を忘れず、再び罪人を捨つ。特ち斧鉞の誅を寛くし、俾ち投荒の典を正さしむ。宜しく長流榛州百姓とし、京兆府に委ねて綱を差し遞送せしめ、路次の州県は人を差し防援し、彼に至り捉え拘え、東西を許すなかれ。縦い非常の赦有るとも、会恩の限に在らず。凡そ百僚庶、宜しく朕が懐を体すべし。
魚朝恩(劉希暹・賈明観)
魚朝恩は、天宝末に宦者として内侍省に入り、初め品官と為り、黄門に給事す。性黠恵にして、宣答に善く、書計に通ず。至徳中、常に軍事を監せしむ。九節度相州において安慶緒を討つも、統帥を立てず、朝恩を以て観軍容宣慰処置使と為す。観軍容使の名は、朝恩より始まる。功を以て累ねて左監門衛大将軍を加う。時に郭子儀頻りに大功を立て、当代その右に出づる者無し。朝恩その功高きを妬み、屡々間諜を行なう。子儀は心を悉くして上に奉じ、殊に意に介せず。肅宗英悟にして、特ちその心を察す、故に朝恩の間行なわれず。相州の敗より、史思明再び河洛を陥す、朝恩は常に禁軍を統べて陜に鎮し、以て東夏に殿す。広徳元年、西蕃京畿に入り犯す、代宗陜に幸す。時に禁軍集まらず、征召離散す、華陰に比するに、朝恩の大軍遽かに至り迎奉し、六師方に振う。これにより深く寵異を加え、天下観軍容宣慰処置使と改む。時に四方未だ寧かならず、万務事殷なり、上方勲臣に注意す、朝恩は専ら神策軍を典し、禁中に出入し、賞賜算無し。
朝恩の性は本より凡劣なり、勲を恃み自ら伐り、忌憚する所無し。時に腐儒及び軽薄の文士を門下に引き、経籍を講授し、文章を作し、粗く筆を把り義を釈する能くするに及び、乃ち朝士の中に大言し、自ら文武の才幹有りと謂い、以て恩寵を邀う。上これを優遇し、国子監事を判ずるを加え、光禄・鴻臚・礼賓・内飛龍・閑廄等の使と為す。国子監に赴きて事を視るに、特ち詔して宰臣・百僚・六軍将軍に送上せしめ、京兆府に食を造らしめ、教坊に楽を賜う。大臣群官二百余人、皆本官を以て章服を備え附学生に充て、監の廊下に列し、詔に侍して銭万貫を給し食本に充て、以て学生の厨料を供す。朝恩恣横にして、求取厭くこと無く、凡そ奏請有るは、先ず允するを度と為し、幸臣その比無し。
章敬太后の忌日、百僚興唐寺において行香す、朝恩は寺外の車坊に齋饌を置き、宰臣百僚を延いて就食せしむ。朝恩は恣に口を放ち時政を談じ、公卿惕息す。戸部郎中相裏造・殿中侍御史李衎は正言を以てこれを折る。朝恩悦ばず、乃ち会を罷む。
後に嘗て国子監にて釈奠を行い、宰臣百官皆会し、朝恩が『易経』を講じ、『鼎卦』の「覆餗」の義を引き、以て元載を讒謗した。載は心にこれを恨み、密かにこれを除き去らんと図った。上は朝恩の甚だ横暴なるを以て、またこれを憎んだ。載はその隙を窺い、巧みに中傷せんと欲し、乃ち腹心の崔昭を用いて京兆尹と為し、朝恩の出処を窺わせた。昭は財貨を惜しまず、密かに朝恩の党である陝州観察使皇甫温と結び、温は昭と協力した。ここより朝恩の動静は、載皆これを知り、巨細悉く以て上聞した。上益々怒り、朝恩は未だこれを察せず、日に驕横を加えた。載は朝恩の実封を加えることを奏し、また皇甫温の権位を加え、以てその欲を恣にせしめた。
五年、朝恩の昵近くする武将劉希暹が微かに過ち忤る所あり、上これを諷した。詔して朝恩の観軍容使を罷め、実封を通じて前後一千戸を加えた。朝恩始めて疑い、然れども毎朝謁するに、恩顧は常の如く、また載を意に介さなかった。寒食の宴に近臣を会するに当たり、朝恩入って謁した。先ず是れ、毎宴罷むるに、必ず出でて還営するを例としたが、この日は詔してこれを留めた。朝恩始めて懼れ、言頗る悖慢に及び、上もまた旧恩を以てこれを責めなかった。この日朝恩第に還り、自経して卒した。劉希暹もまた獄に下され賜死した。
希暹は、戎伍より出で、膂力有り、形貌光偉にして、騎射を以て聞こえた。朝恩これを用いて神策都虞候と為し、交河郡王に封ぜられた。朝恩の意旨を善く窺い、深く委信された。累遷して太僕卿に至り、兵馬使王駕鶴と共に禁兵を掌り、為す所不法であった。朝恩を諷して北軍に獄を置き、坊市の兇悪なる少年を召し、城内の富人を羅織し、違法を誣えて、捕えて獄中に置き、忍酷に考訊し、その家産を録して、並びに軍に没収した。或いは挙選の士で、財貨稍々殷かなりし者が、旅舎に客たりて、横死するに遇う者、一に非ず。坊市これを苦しみ、「地牢に入る」と謂った。捕賊吏に賈明観という者あり、特に兇蠹にして、屡々大獄を置き、家産巨万に及んだ。希暹これに党し、地は禁密に在り、人敢えて言う者無し。朝恩死して後、上これを寛宥した。素志順ならざるを以て、容れられざるを慮り、常に自ら疑懼した。王駕鶴と職を聯ね、希暹の言辞多く不遜であった。駕鶴は純謹にして、上これを信任し、ここに至り希暹の語を上聞し、乃ちこれを誅した。
賈明観という者は、本は万年県の捕賊吏であった。希暹に事え、恣に兇悪を為し、毒は豺狼に甚だしかった。朝恩・希暹既に死し、元載また明観の奸謀を受け、密かにこれを容れ、特に関東に奏して江西に効力せしめた。明観城を出でんとするに、百姓数万人、磚石を懐いてこれを待ち、載は市吏をして止め約束せしめた。明観は洪州に二年在り、観察使魏少遊これを容れた。路嗣恭少遊に代わるに及び、郡に至る日、明観を召し笞殺した。識者は魏の名を減じ、路の正を多とした。
朝恩は素より礼部尚書裴士淹、戸部侍郎・判度支第五琦を礼待し、二人もまた坐して官を貶せられた。
竇文場、霍仙鳴。
竇文場、霍仙鳴という者は、始め東宮に在りて徳宗に事えた。初め魚朝恩誅された後、内官は復た兵を典せず、徳宗は親軍を白志貞に委ねた。志貞は多く豪民の賂を受け、補して軍士と為し、その傭直を取り、身は軍に在る者無く、ただ名籍を以て請給するのみであった。涇師の乱に、帝は禁軍を召して賊を禦がしむるに、志貞は召集に素より備えず、この時並びに至る者無く、唯だ文場・仙鳴が諸宦者及び親王の左右を率いて従駕した。志貞は官を貶せられ、左右の禁旅は悉く文場に委ねてこれを主とせしめた。山南に幸するに従い、両軍漸く集まった。
徳宗京に還り、頗る宿将を忌み、凡そ兵を握る多き者は、悉くこれを罷めた。禁旅は文場・仙鳴分かち統べた。貞元十二年六月、特に関東に護軍中尉両員・中護軍両員を立て、以て禁軍を帥いしむ。乃ち文場を以て左神策護軍中尉と為し、仙鳴を右神策護軍中尉と為し、右神威軍使張尚進を右神策中護軍と為し、内謁者監焦希望を左神策中護軍と為し、文場等より始まった。
時に竇・霍の権は、天下に振るい、藩鎮の節将は、多く禁軍より出で、台省の清要は、時にその門より出づ。文場は累加して驃騎大将軍に至った。この年仙鳴病み、帝は馬十匹を賜い、諸寺に於いて僧齋を行い以て福を祈らしめた。久しく病癒えず、十四年、倉卒として卒した。上は左右の小使正将が食中に毒を加えたるを疑い、配流する者数十人。仙鳴死した後、開府内常侍第五守亮を以て右軍中尉と為した。文場は連表して致仕を請い、許された。
十五年已後、楊志廉・孫榮義が左右軍中尉と為り、また竇・霍の事に踵き、寵に怙って驕恣した。貪利冒寵の徒は、その賄を受け納るるを利とし、多くこれに附麗した。貞元末に至り、宦官復た盛んとなる。順宗即位し、王叔文用事し、韋執誼と謀りて神策軍の権を奪わんとし、乃ち宿将範希朝を用いて京西北禁軍都將と為した。事未だ行わざるに、内官俱文珍等に排せられ、叔文貶せられて止んだ。
俱文珍。
俱文珍は、貞元末の宦官、後に義父の姓に従い、劉貞亮と曰う。性忠正にして、剛にして義を蹈む。順宗即位し、風疾にて朝政を視ること能わず、而して宦官李忠言と牛美人病に侍る。美人は旨を帝に受け、復たこれを忠言に宣べ、忠言はこれを王叔文に授けた。叔文は朝士柳宗元・劉禹錫・韓日華と図議し、然る後に中書に下し、韋執誼をして施行せしむ、故に王の権は天下に振るう。叔文は宦者の兵権を奪わんと欲し、忠言が命を宣ぶる毎に、内臣敢えて言う者無く、唯だ貞亮建議してこれと争う。その朋徒の熾んなるを知り、朝政の隳るるを慮り、乃ち中官劉光琦・薛文珍・尚衍・解玉等と謀り、奏して広陵王を立てて皇太子と為し、軍国大事を勾当せしむることを請う。順宗これを可とした。貞亮は遂に学士衛次公・鄭絪・李程・王涯を召して金鑾殿に入り、儲君を立てる詔を草せしめた。太子内禅を受くるに及び、叔文の党を尽く逐い、政事は悉く旧臣に委ね、時議は貞亮の忠藎を嘉した。累遷して右衛大将軍に至り、内侍省事を知る。元和八年卒し、憲宗はその翊戴の功を思い、開府儀同三司を贈った。
吐突承璀。
吐突承璀は、幼くして小黄門として東宮に仕え、性質は聡明で才幹があった。憲宗が即位すると、内常侍を授けられ、内省の事を知り、左監門将軍となった。まもなく左軍中尉・功徳使に任じられた。四年、王承宗が叛くと、詔して承璀を河中・河南・浙西・宣歙等道赴鎮州行営兵馬招討等使とし、内侍省常侍宋惟澄を河南・陜州・河陽以東館駅使とし、内官曹淮玉・劉国珍・馬江朝等を分かって河北行営糧料館駅等使とした。諫官・御史が上疏を相次いで行い、皆、古来より中貴人が兵馬の統帥となった例はないと言い、補闕の独狐郁・段平仲が特に激しく切言した。憲宗はやむなく、鎮州以東招撫処置等使に改めて充てた。承璀が禁軍を率いて出発する際、帝は通化門楼に臨み、慰めてこれを送った。出師して一年経っても功績がなく、密かに人を遣わして王承宗に告げ、上疏して罪を待つよう命じ、兵を罷めることを条件に和解を許した。また、昭義節度使盧従史が平素より賊と通じ、承宗のために節鉞を求めることを許していたと奏上した。そこで潞州の牙将烏重胤を誘って謀り、従史を捕らえて京師に送らせた。承宗の上表が届くと、朝廷は兵を罷めることを議し、承璀は軍を返し、依然として禁軍中尉となった。段平仲が抗疏して承璀が軽率に謀り、賦役を弊することを極論し、斬って天下に謝するよう請うたが、憲宗はやむなく、軍器使に降格した。まもなく左衛上将軍に復し、内侍省の事を知った。
時に弓箭庫使劉希先が羽林大将軍孫璹から銭二十万を取って方鎮を求め、事が発覚して賜死となり、供述が互いに告発し合い、事が承璀に連座したため、出して淮南節度監軍使とした。
太子通事舎人李渉は、性質が狂険で、投匭して上書し、希先・承璀に罪がなく、貶戮すべきでないと論じた。諫議大夫・知匭事の孔戣は、渉の上疏の副本を見て、その章を受け付けなかった。渉は上疏を持って光順門で進めようとしたが、戣は上疏してその奸邪を論じ、渉を硤州司倉に貶した。上は承璀に対する意向がまだ尽きておらず、宰相の李絳が翰林に在って、しばしば承璀の過失を論じたため、これを出したのである。八年、承璀を召還しようとして、絳の宰相の位を罷めた。承璀が還ると、再び神策中尉となった。恵昭太子が薨じると、承璀は建議して澧王寛を立てて太子とするよう請うたが、憲宗は受け入れず、遂王宥を立てた。穆宗が即位すると、承璀が己を助けなかったことを恨み、これを誅した。敬宗の時、中尉の馬存亮が承璀の冤罪を論じ、詔してこれを雪ぎ、さらに仮子の士曄に礼をもって収葬させた。
王守澄
王守澄は、元和末の宦官である。憲宗の病が重篤となった時、内官の陳弘慶等が弑逆した。憲宗は英武で、威徳が人にあり、内官はこれを秘し、討つことを敢えてせず、ただ薬が発して暴崩したと云うのみであった。時に守澄は中尉の馬進潭・梁守謙・劉承偕・韋元素等と謀り、冊を定めて穆宗皇帝を立てた。長慶中、守澄は枢密の事を知った。
初め、元和中、守澄は徐州監軍として、翼城の医者鄭注に遇い、節度使李醖の家に出入りした。注は聡悟にして人に過ぎ、典芸に博通し、棋奕・医卜は特に妙を極め、これを見る者は皆歓喜した。注はかつて李醖のために黄金を煮て、一刀圭を服用すれば、痿弱重膇の疾を癒し、また老いを反して童となることができるとし、醖と守澄がこれを服用すると、かなり効験があった。守澄が枢密を知ると、推薦して禁中に引き入れ、穆宗もこれを厚く遇した。注は奇詭多く、守澄と語る時は必ず夜通しであった。
文宗が即位すると、守澄は驃騎大将軍となり、右軍中尉を充てた。注は再び文宗に寵愛され、後に守澄に依拠して、大いに奸弊をなした。文宗は元和の逆党が尚在し、その党が大いに盛んであることを以て、心常に憤惋し、端居して怡ばなかった。翰林学士の宋申錫が独り対してこれを探知し、上はその意を略言すると、申錫は漸くその逼迫を除くよう請うた。帝も申錫が沈厚にして方略あり、その事が成る可きとし、これを用いて宰相とした。申錫の謀は未だ果たさず、注に察知され、守澄は軍吏の豆盧著に命じて申錫が漳王と謀逆したと誣告させ、申錫は坐して貶された。
宰相李逢吉の従子の李訓は、注と交わり、訓もまた機詭万端で、二人は情義相得、共に守澄に重んじられた。また訓を禁中に引き入れ、上に『周易』を講じさせた。寵愛を得て、また帝の旨を探知し、さらに宦官を除く謀りが帝の意に中った。帝は訓の才弁縦横を以て、その事必ず捷つと思い、殊寵をもって待ち、流人の中から用いて学官とし、侍進学士を充てた。時に仇士良は翌上の功があり、守澄に抑えられて位が通顕しなかった。訓は士良を用いて守澄の権を分かつよう奏し、士良を左軍中尉とした。守澄は悦ばず、両者は矛盾した。訓はその悪を利用した。
李訓は守澄を殺した後、また鄭注を憎み、注を鳳翔節度使に用いるよう奏した。訓は宦官を尽く誅さんとし、金吾将軍韓約・新たに太原節度使となった王璠・新たに邠寧節度使となった郭行余・権御史中丞李孝本・権京兆尹羅立言と謀った。その年十一月二十一日、上は宣政殿に臨み、百官が班を定めた時、韓約は平安を奏せず、乃ち奏して言うには、「臣が当たる仗舎内の石榴樹に、夜来甘露が降りました。請う、陛下に仗舎に幸してこれをご覧ください。」帝は輦に乗って金吾仗に急いだ。中尉の仇士良と諸官は先に石榴樹を見に行き、その詐りを知り、また幕下の兵仗の声を聞き、蒼黄として還り、奏して言うには、「南衙に変あり。」遂に帝の輦を扶けて閣門に入れた。李訓は輦に従って大呼して言うには、「邠寧・太原の兵、何ぞ難に赴かざる。乗輿を衛う者、人に賞して百千を賜う。」ここに誰何の卒、及び御史台の従人が、兵を持って宣政殿院に入り、宦官の死者甚だ衆かった。輦が既に閣門に入ると、内官が万歳を呼んだ。やがて士良等が禁兵五百余人を率い、露刃して東上閣より出て人に逢えば即ち殺し、王涯・賈餗・舒元輿・李訓等四人の宰相及び王璠・郭行余等十一人、屍は闕下に横たわった。ここより権は士良と魚弘志に帰した。宣宗が即位するに至り、またその甚だしき者を誅したが、閽寺の勢は、依然として軍権の重きを握っていた。
田令孜
田令孜は、本姓は陳である。咸通中、義父に従って内侍省に入り宦官となった。頗る書を知り、謀略あり、諸司の小使から諸鎮の用兵を監し、累遷して神策中尉・左監門衛大将軍となった。乾符中、盗賊が関東に起こった。諸軍が盗賊を誅するに当たり、令孜を観軍容・制置左右神策・護駕十軍等使とした。京師が守られず、僖宗に従って蜀に幸した。鸞輿が返正すると、令孜は頗る匡佐の功があり、時に令孜の威権は天下に振るった。
時に関中の寇乱が初めて平定され、国用は虚竭し、諸軍に給せず。令孜は安邑・解県の両池の榷塩課利を、全て神策軍に隷属させるよう請うた。詔が下ると、河中の王重栄が抗章して論列し、使名は久しく例によって当道に隷し、省賦には自ら常規があると述べた。令孜は怒り、王処存を用いて河中節度使とし、重栄は詔を奉じなかった。令孜は禁兵を率いてこれを討った。重栄は太原軍を援けとして引き入れ、沙苑で戦い、禁軍は大敗した。京師は再び乱れ、僖宗は宝鶏に出幸し、また山南に移幸し、方鎮は皆、令孜が事を生ずるを憾んだ。令孜は懼れ、前枢密の楊復恭を引きいて己に代えさせ、梁州に幸するに従い、西川監軍を求めた。西川節度使の陳敬瑄は、即ち令孜の弟である。
昭宗が即位すると、三川は大いに乱れた。詔を下して宰相韋昭度を西川に鎮めさせたが、陳敬瑄は交代を受け入れなかった。田令孜は閬州刺史王建を援けとして引き入れ、王建は平素より父として令孜に仕えていた。時に王建は東川を乱していたが、その召しを聞き、西蜀を図るべしと、欣然としてこれに赴いた。王建は率いる千余りの兵を以て漢州に至ると、陳敬瑄は王建が雄豪で制し難いとして、辞してこれを遣わした。王建は言う、「十軍の阿父(令孜)が私を召したのに、門に及んで拒むとは、隣藩がこれを聞いて、誰が肯って相容れようか。私に代わって令公に報ぜよ、建ここに至り、帰る所なしと。」遂に使者を遣わして上表し、陳敬瑄を討って自らの効力を示さんことを請うた。朝廷はこれを嘉し、即ち韋昭度を招討使に命じ、蜀に入って兵を加えたが、一年を経ても功なく、昭度は京に還った。王建は遂に棧道を断ち、詔使を通じさせなかった。年中に急ぎ成都を撃ち、陳敬瑄は計窮まり、令孜を城から出して、王建と通和させた。王建は竟に自ら蜀の帥となり、令孜は義父の故をもって、依倚して旧に仍り軍事を監した。既にして陳敬瑄は鴆に遇い、令孜もまた王建に殺された。
楊復光
楊復光は、内常侍楊玄価の養子である。幼くして宦官として内侍省に入り、慷慨として節義を負い、籌略有り、小黄門となり、鎮兵を監して征討した。乾符年中、賊の渠魁黄巢が江西を犯すと、復光は排陣使となり、判官吳彥弘を遣わして城中に入り朝旨を諭させた。黄巢は即ちその将尚君長に命じて表を奉じて帰国させた。招討使宋威はその功を害し、兵を併せて賊を撃ったので、黄巢は怒り、再び剽掠をなした。朝廷が尚君長を誅すると、怨怒愈々深くなった。宋威が戦いに敗れると、復光はその兵権を総べ、洪州を攻め、賊将徐唐莒を擒にした。詔して荊南節度使王鐸を招討使とし、宋威に代えさせた。復光は忠武軍を監し、鄧州に屯して、賊の衝を遏した。
京師が賊に陥ると、節度使周岌は偽命を受け、賊の使者が往来頻繁であった。周岌が嘗て夜宴を開き、急ぎ復光を召した。左右の者は言う、「周公は賊に帰順したので、必ずや内侍を謀害せんとす。往かざるが如し。」復光は言う、「事勢この如し、義として全きを図るべからず。」即ちこれに赴いた。酒酣のとき、周岌が本朝の事を言うと、復光は因って涙を流した。良久くして言う、「丈夫の感ずる所は恩義なり。而して利害を規るは、丈夫に非ず。公は匹夫より公侯の貴きを享け、豈に十八葉の天子を捨てて北面して賊に臣すべけんや、何の恩義利害を言わんや。」声と涙ともに発し、周岌も亦これが為に流涕した。周岌は言う、「吾は独力をもって賊を拒ぐ能わず、貌は奉じて心はこれを図る。故に公を召す。」酒を瀝して盟を為した。この夜、復光はその養子守亮を遣わして賊の使者を伝舎にて殺させた。
時に秦宗権が周岌に叛き、蔡州を拠えた。復光は忠武の師三千を得て蔡州に入り、宗権を説き、同じく義挙をなさしめた。宗権は将王淑を遣わして衆万人を率いさせ、復光に従って荊襄を収めさせた。鄧州に次ぐと、王淑は逗留して進まず、復光はこれを斬り、その軍を併せ、八都に分けた。鹿晏弘、晉暉、李師泰、王建、韓建等は、皆八都の大将である。南陽を攻め、賊将硃温、何勤が来て逆戦した。復光はこれを破り、進んで鄧州を収め、捷を行在に献じた。これは中和元年五月である。復光は勝に乗じて賊を追い、藍橋に至り、母の憂いに遭って還った。尋いで起復し、詔を受けて天下兵馬都監を充て、諸軍を押して関輔を定めに入った。王重榮が東面招討使となり、復光は兵を以てこれと会した。
二年七月、河中に至る。賊将硃温が同州を守ると、復光は使者を遣わしてこれを諭した。九月、硃温は率いる所の部衆を以て来降した。時に賊将李翔が華州を守り、黄巢の寇は益々盛んとなり、王重榮はこれを憂えた。復光に謂って言う、「賊に臣すは則ち国に負く、拒戦すは則ち兵微し。今日の成敗は、未だ知るべからず。公其れこれを図れ。」復光は言う、「雁門の李僕射(李克用)は雄武を以て北陲を振るい、その家の尊(父)は吾が先世と同しく患難を共にした。李雁門は身を顧みず奮い、播遷已来、征兵未だ至らざるは、蓋し太原路を阻むによる。もし朝旨を以て鄭公(鄭従讜)に諭し、詔到れば、その軍必ず至らん。」重榮は言う、「善し。」王鐸は使者を遣わして墨詔を太原に奉じさせ、太原は兵を以てこれに従った。及んで京城を収め、三たび黄巢の賊を破るに、復光はその子守亮、守宗等と身先だって難を犯し、功烈多くを占めた。その年六月、河中にて卒す。時に年四十二。
復光は黄門の近幸と雖も、然れども慷慨として大志有り、士卒を撫するに善く、死するの日に至っては、軍中累日慟哭した。身後に賊を平げ功を立てた者は、多くは復光の部下の門人故将である。
諸仮子:守亮は興元節度使、守宗は忠武節度使、守信は商州防禦使、守忠は洋州節度使、その余り守を以て名とする者数十人、皆牧守将帥となる。
楊復恭
楊復恭は、貞元末の中尉楊志廉の後である。志廉の子欽義は、大中朝に神策中尉となった。欽義の子三人:玄翼、玄価、玄寔。
玄翼は咸通中に枢密を掌り、玄寔は乾符中に右軍中尉となり、玄価は河陽監軍となった。
復恭は即ち玄翼の子である。父の故をもって、幼くして宦官となり、内侍省に入った。書を知り、学術有り、毎に諸鎮の兵を監した。龐勛の乱に、陣を監して功有り、河陽監軍より入って宣徽使となった。咸通十年、玄翼卒すと、起復して枢密使となった。時に黄巢が闕を犯すと、左軍中尉田令孜が天下観軍容制置使となり、中外を専制した。復恭は毎事力争して得失を論じ、令孜は怒り、復恭を左授して飛龍使とし、乃ち疾を称して藍田に退いた。
僖宗が蜀より京に還ると、田令孜は出師して律を失い、車駕再び山南に幸す。復た復恭を用いて枢密使とし、尋いで令孜に代わって右軍中尉となった。時に行在の制置、内外の経略は、皆復恭より出づ。車駕京に還り、観軍容使を授けられ、魏国公に封ぜられた。
僖宗晏駕し、寿王を迎えて践祚せしむ。文德元年、開府・金吾上將軍を加えられ、専ら禁兵を典し、既に軍権を手にすると、頗る朝政を擅にした。昭宗これを悪み、政事多く宰臣に訪う。故に韋昭度、張浚、杜譲能の毎に陳奏有るや、即ち大中の故事を挙げて、稍々宦者の権を抑えた。上性明察、ここより偏聴の釁生ず。国舅王瑰は、頗る中に居て事を任じ、復恭これを悪み、奏して黔南節度に授けさせた。吉柏江に至り、舟覆えて没す。物議復恭に帰咎し、上毎に切歯して復恭を道う。復恭の仮子天威軍使守立は、権勇六軍に冠たり、人皆これを避く。上復恭を罪せんと欲し、守立の乱を為すを懼れ、乃ち復恭に謂って言う、「吾卿が家の守立を左右に要す。進め来たるべし。」乃ち姓を賜い李とし、名を順節とす。恩寵特に異なり、勢枢要に侔る。乃ち復恭と権を争い、毎にその陰事を中傷し、順節を鎮海軍節度使・同平章事に授けた。
翌年、守亮は兵に敗れ、復恭は守亮と共にその一族を連れて、太原に奔らんとし、商山に入った。乾元県に至り、華州の兵に捕らえられ、捕縛されて京師に送られ、皆市で梟首された。李茂貞は興元を収め、復恭が前後して守亮に与えた私信六十通を進呈した。その中には致仕の理由を訴えて云うには、「承天は隋家の旧業である。大姪(守亮)はただ粟を積み兵を訓え、進奉するな。吾は荊榛の中より寿王を援け立てた。かくの如き負心、門生天子、尊位を得たる後、定策の国老を廃す。」その不遜はかくの如し。後に復恭の仮子彦博は太原に奔り、復恭の骸骨を収め、介休県の抱腹山に葬った。
復恭の後、宦官の西門重遂が右軍中尉となった。李茂貞が初めて山南を併せ、兵衆強盛となり、朝政に干渉した。宰相杜譲能が重遂らと謀りこれを誅さんとした。師を興すや、茂貞に敗れ、重遂は誅せられ、内官の駱全瓘・劉景宣を左右軍中尉とした。
光化の時に還宮するに及び、内官の景務修・宋道弼が再び国政を専らにし、宰相崔胤はこれを深く憎んだ。中外和睦せず。宰相徐彦若・王搏は度量あり、その陰険にして相傾くを見て、時事の危うきを懼れ、嘗て奏して曰く、「人君は大なる体を務め、心を平らかにして物を御し、偏私あることなかれ。偏任偏聴は、古人の患うところなり。今、中官は寵に怙り、道路これを目して、皆この弊を知る。然れども卒に改むること能わず。多難漸く平らぐを俟ち、以て道をもってこれを消息すべし。陛下は聖謨を泄らすことなく、その奸詐を啓くことなかれ。」崔胤は搏の奏したることを知り、頗るこれを銜んだ。他日、上に見えて曰く、「王搏は奸邪にして、既に敕使の外応と為り、相位に在るべからず。」二年六月、搏を貶官し、藍田にて死を賜う。道弼・務修もまた死を賜う。枢密使劉季述・王奉先を以て両軍中尉と為し、徐彦若を出して南海に鎮せしむ。
崔胤は政を執りて宦官を排擯す。季述らは外に藩侯と結び、以て党援と為す。十一月六日、季述は詔を矯りて皇太子を以て国を監せしめ、遂に昭宗を廃す。東内に居し、伝国宝を奪いて太子に授く。昭宗は何皇后の宮にす。数人随行し、東宮に幽せらる。季述は手に銀の杖を持ち、上前に於いて杖を以て地に画きて数え上る罪状、云く、「某時の某の事、汝我が言に従わず、その罪一なり。」その悖逆かくの如し。乃ち李師虔に兵を以てこれを囲ましむ。錫を鎔かしてその扃鐍を錮す。時に方に凝冽たり、嬪御に被なく、哭声外に聞こゆ。墻に穴を通して食を通ずること両月。十二月晦、崔胤ら謀りて反正し、季述・奉先を誅し、再び昭宗を迎えて即位せしめ、元を改めて天復元年とす。
その歳十一月、朱全忠、河中・華州を寇し、これを陥す。京師震恐す。中尉韓全誨、上に請うて且つ鳳翔に幸せんことを。全忠は乗輿を追逼し、兵鳳翔を囲むこと累年。三年正月、茂貞は両軍中尉韓全誨・張弘彦、枢密使袁易簡・周敬容ら二十二人を殺し、皆斬首し、布囊にこれを貯え、学士薛貽矩をして全忠に送らしめて和を求む。この月、全忠は駕を迎えて長安に還り、詔して崔胤を以て宰相と為し、兼ねて六軍諸衛を判せしむ。
胤奏して曰く、「高祖・太宗の承平の時、内官軍旅を典ること無し。天宝以後より、宦官漸く盛ん。貞元・元和、羽林衛を分かちて左・右神策軍と為し、衛従せしめ、宦官をしてこれを主らしめ、唯だ二千人を以て定制と為す。是より枢密に参掌す。ここにより内務百司、皆宦者に帰し、上下弥縫し、共に不法を為す。大なるは則ち朝政を傾覆し、小なるは則ち藩方を構扇す。車駕頻りに播遷を致し、朝廷漸く微弱を加う。その禍の作るを原れば、始めより中人よりす。先帝の臨御より以来、陛下の纂承する後に、朋儕日熾え、交乱して朝綱を乱す。これその本根を翦かずんば、終に国の蟊賊と為らん。内諸司使務の宦官主る者、一切これを罷めんことを望む。諸道の監軍使、並びに闕廷に赴かしめ追い、即ち国家万世の便なり。」詔して曰く、
宦官の興りは、秦・漢に肇る。趙高・閻楽、竟に嬴宗を滅ぼし、張譲・段珪、遂に劉祚を傾く。その志を肆にすれば則ち国必ず禍を受け、その事を悟れば則ち運延長すべし。朕の断ずる所以に疑わず、天に祈りて永く命を保たんとする者なり。
先皇帝の嗣位の始め、年幼沖に在り、群豎相推し、奄として大政を専らにす。ここにおいて毒宇内に流れ、兵山東に起り、三川に遷幸し、幾くんか神器を淪ぶ。回鑾の始め、率土安んずるを思う。而るに田令孜は能を妬み功を忌み、近鎮を遷搖し、陳倉に播越し、患難相仍る。朕の纂承に及び、益々侮慢を相い、復恭・重遂はその禍を逞しうし、道弼・季述はその兇を継ぐ。朕が躬を幽辱し、孺子を凌脅す。天復返正し、己を罪して安んずるを求め、両軍内枢、一切仮借す。韓全誨らは毎に憤惋を懐き、曾て務めて仇を報いんとす。将相を血仇の若く視、君上を木偶の如く軽んず。星歳周らざるに、竟に播遷を致す。及び岐陽に在りては、羈紲に過ぐ。上は宗社の傾墜を憂い、下は民庶の流離を痛み、茫然として孤居し、控告する所無し。
全忠は位二柄を兼ね、深く朕が心を識る。兵を駐めて近く三年に及び、独断方に元悪を誅す。今、郊廟に謝罪し、即ち宮闈に宅す。正刑は当に事初に在るべく、悪を除くは宜しくその根本を絶つべし。先朝及び朕、五たび播遷を致す。王畿の氓、減耗大半。父は子を庇うこと能わず、夫は妻を室うること能わず。言いてこれを念えば、痛み骨髓に深し。その誰が罪ぞ。爾輩の由なり。
帝王の治を為すや、内に宰輔卿士有り、外に藩翰大臣有り。豈に刑余の人をして大政に参預せしむべけんや。況んやこの輩は皆朕が家臣なり。人臣の家に比すれば、則ち奴隷の流なり。恣横かくの如く、罪悪貫盈す。天命これを誅す。罪豈に能く捨つべけんや。横屍して法に伏すは、固より矜むに足らず。含容久しきも、亦た多愧するところなり。その第五可範已下、並びに宜しく死を賜うべし。その畿甸同華・河中に在る者は、並びに尽く底処置を訖えたり。諸道監軍使已下、及び管内を経過し並びに居停する内使は、敕到り並びに仰せらく、随処に誅夷し訖えて聞奏せよ。已に国朝の故事に準じ、量りて三十人を留め、各黄絹衫一領を賜い、以て宮内の指使に備え、仍って輒ち養男有るべからず。その左右神策軍は、並びに停廃せしむ。
この日、諸司の宦官百余り、及び駕に随う鳳翔の群小また二百余人、一時に内侍省に於いて斬首され、血流れて地を塗る。及び宮人宋柔ら十一人、両街の僧道で内官と相善しき者二十余人、並びに京兆府に於いて笞死す。内諸司一切罷め、皆省寺に帰す。是より京城並びに宦官無し。天子毎に詔命を宣伝するは、即ち宮人をして出入せしむ。崔胤は復仇して志を快くすと雖も、国祚旋ち亦た覆亡す。悲しいかな。
賛して曰く、崇墉の大厦、その楹磶を壮にす。殿邦して侮を禦ぐも、亦た明徳を俟つ。宵人の意褊く、動もすれば力を量らず。鼠に投じて器を敗る。良く太息に堪えたり。