舊唐書

巻184

巻184

舊唐書

原文舊唐書

卷一百八十四

原文卷一百八十四

列傳第一百三十四 宦官

原文列傳第一百三十四 宦官

唐の制度に内侍省があり、その官員は、内侍四人、内常侍六人、内謁者監六人、内給事八人、謁者十二人、典引十八人、寺伯二人、寺人六人である。別に五局がある。掖廷局は宮人の簿籍を掌り、宮闈局は宮内の門禁を掌り、その属に掌扇・給使などの員がある。奚官局は宮人の疾病死喪を掌り、内僕局は宮中の供帳燈燭を掌り、内府局は中蔵の給納を主る。五局には令・丞があり、皆内官がこれに任じる。

原文唐制有內侍省,其官員:內侍四人;內常侍六人;內謁者監六人;內給事八人;謁者十二人;典引十八人;寺伯二人;寺人六人。別有五局:掖廷局掌宮人簿籍;宮闈局掌宮內門禁,其屬有掌扇、給使等員;奚官局掌宮人疾病死喪;內僕局掌宮中供帳燈燭;內府局主中藏給納。五局有令丞,皆內官為之。

貞観年間、太宗は制度を定め、内侍省に三品官を置かず、内侍が長官で、階は四品とした。永淳の末に至るまで、およそ七十年、権は内官に仮さず、ただ閣門を守り防禦し、黄衣で廩食するのみであった。則天が称制すると、二十年の間に、員位をやや増した。中宗は性質が慈しみ深く、恩貸を崇めることに務めたので、神龍年間、宦官三千余人、七品以上の員外官を超授された者が千余人いたが、しかし朱紫を衣る者はなお少なかった。

原文貞觀中,太宗定制,內侍省不置三品官,內侍是長官,階四品。至永淳末,向七十年,權未假於內官,但在閣門守禦,黃衣廩食而已。則天稱制,二十年間,差增員位。中宗性慈,務崇恩貸,神龍中,宦官三千餘人,超授七品以上員外官者千餘人,然衣硃紫者尚寡。

玄宗は在位すること久しく、宮禁を崇重し、中官で少しも旨にかなう者は、ただちに三品・左右監門将軍を授け、門に棨戟を施くことを得た。開元・天宝年間、長安ちょうあんの大内・大明・興慶の三宮、皇子十宅院、皇孫百孫院、東都の大内・上陽の両宮、おおよそ宮女四万人、品官黄衣以上三千人、朱紫を衣る者千余人であった。後に李輔国が霊武への行幸に従い、程元振が代宗を翼衛し、寵を恃んで君に邀い、ついには三公を守り、王爵を封ぜられ、国政に干預したが、なお兵権を全く握ってはいなかった。代宗の時、子儀が北伐し、親王が東討したので、特に観軍容宣慰使を立て、魚朝恩をこれに命じたが、しかしもとより統帥があり、また監領するのみであった。

原文玄宗在位既久,崇重宮禁,中官稍稱旨者,即授三品、左右監門將軍,得門施棨戟。開元、天寶中,長安大內、大明、興慶三宮,皇子十宅院,皇孫百孫院。東都大內、上陽兩宮,大率宮女四萬人,品官黃衣已上三千人,衣硃紫者千餘人。後李輔國從幸靈武,程元振翼衛代宗,怙寵邀君,乃至守三公,封王爵,干預國政,亦未全握兵權。代宗時,子儀北伐,親王東討,遂特立觀軍容宣慰使,命魚朝恩為之,然自有統帥,亦監領而已。

徳宗は涇原の師の難を避け、山南に行幸し、内官竇文場・霍仙鳴が擁従した。賊が平定された後、武臣に重兵を典せしめたくないので、その左右神策・天威等の軍を、宦者に主らせようとした。そこで護軍中尉二員・中護軍二員を置き、禁兵を分掌させ、文場・仙鳴を両中尉とした。ここに至って神策親軍の権は、全く宦者に帰したのである。貞元以後より、威権は日々熾んになり、蘭錡の将臣は、おおよそ子のように蓄えられ、藩方の戎帥は必ず賄によって成り、万機の与奪は情に任せ、九重の廃立は己から出た。元和の末には、毒は乗輿に被り、長慶が纘隆しても、徒らに枕幹の憤りを鬱積させ、臨軒の暇逸に、旋って塗地の冤を忘れた。而易月の喪が除かれず、滔天の怒りは尽きた。甲第名園の賜は、伶官でないものはなく、朱袍紫綬の栄は、巷伯でないものはなかった。この時、高品白身の数は四千六百十八人、内にあっては戎権に参秉し、外にあっては藩嶽に臨監した。文宗は祖宗の恥を包み、肘腋の仇を痛み、厲階を翦らんと思い、その甚だしきを去ろうとした。宋申錫の言は未だ口に出さず、尋いで破家し、李仲言の謀は臧らず、ほとんど国を敗らんとした。何・竇の徒は転じて蹙き、譲・珪の勢いは特に狂い、五十余年、禍胎はますます煽り、昭宗の季には、聞くに忍びないところである。

原文德宗避涇師之難,幸山南,內官竇文場、霍仙鳴擁從。賊平之後,不欲武臣典重兵,其左右神策、天威等軍,欲委宦者主之。乃置護軍中尉兩員、中護軍兩員,分掌禁兵,以文場、仙鳴為兩中尉,自是神策親軍之權,全歸於宦者矣。自貞元之後,威權日熾,蘭锜將臣,率皆子蓄;籓方戎帥,必以賄成;萬機之與奪任情,九重之廢立由己。元和之季,毒被乘輿。長慶纘隆,徒郁枕幹之憤;臨軒暇逸,旋忘塗地之冤。而易月未除,滔天盡怒。甲第名園之賜,莫匪伶官;硃袍紫綬之榮,無非巷伯。是時高品白身之數,四千六百一十八人,內則參秉戎權,外則臨監籓嶽。文宗包祖宗之恥,痛肘腋之仇,思翦厲階,去其太甚。宋申錫言未出口,尋以破家;李仲言謀之不臧,幾乎敗國。何、竇之徒轉蹙,讓、珪之勢尤狂,五十餘年,禍胎逾煽,昭宗之季,所不忍聞。

臣は前書を遍く覧め、この覆轍を考へ、大較を言ひ試み、その源を竭くさんことを庶幾ふ。何となれば、書契以来、閽寺なきことなく、況んや天象に垂れ、職官に備はる。すなはち秦皇・漢武のごときも、宮闈の内に、宦官を以て宴遊に侍らしむ。但だ英睿の君は措置ここを得、及び荒僻の主は奢蕩を是れ求む。番・棸・蹶・楀の徒を委ね、姫姜狗馬の玩を飾り、外言は入らず、惟だ欲に従ふ。併せて五侯を列ねるも、猶ほ賞薄しと為し、遍く万戸を封ずるも、尚ほ恩疏しと嫌ふ。苟くも捧日の勤を思へば、遂に回天の勢に據る。三綱錯乱し、四海崩離するに及びて、袁本初の北宮に入るに、須無きは殆んど尽き、石冉閔の鄴下を攻むるに、内豎は咸く誅せらる。旋って邦家を殄瘁するに至り、独り和気を感傷するのみならず、淫刑此れ逞はり、傷心と為すべし。向ひ使ひ威権を假さず、帷扆に趨くのみならば、何ぞ四星終に吉なるに止まらん、抑も亦万乗延洪せんや。昔の賢人の社鼠の喩、其れ然らざらんや。

原文臣遍覽前書,考茲覆轍,試言大較,庶竭其源。何者?自書契已來,不無閽寺,況垂之天象,備見職官。即如秦皇、漢武,宮闈之內,宦官以侍宴遊。但英睿之君,措置斯得;及荒僻之主,奢蕩是求。委番、棸、蹶、楀之徒,飾姬姜狗馬之玩,外言不入,惟欲是從。雖並列五侯,猶為賞薄;遍封萬戶,尚嫌恩疏。茍思捧日之勤,遂據回天之勢。及三綱錯亂,四海崩離。袁本初之入北宮,無須殆盡;石冉閔之攻鄴下,內豎咸誅。旋至殄瘁邦家,不獨感傷和氣,淫刑斯逞,可為傷心。向使不假威權,但趨帷扆,何止四星終吉,抑亦萬乘延洪!昔賢為社鼠之喻,不其然乎?

今、楊思勖以下の行ひし事を録し、以て鑒誡と為す。

原文今錄楊思勖已下所行事,以為鑒誡云。

楊思勖

原文楊思勖

楊思勖は、本姓は蘇、羅州石城の人である。内官楊氏に養はれ、閹割されて内侍省に事へた。李多祚討伐の功に預かり、超拜して銀青光禄大夫、行内常侍となった。思勖は膂力有り、残忍で殺戮を好んだ。臨淄王に従ひ韋氏を誅し、遂に王に従ひて爪士となり、累遷して右監門衛将軍となった。

原文楊思勖,本姓蘇,羅州,石城人。為內官楊氏所養,以閹,從事內侍省。預討李多祚功,超拜銀青光祿大夫,行內常侍。思勖有膂力,殘忍好殺。從臨淄王誅韋氏,遂從王為爪士,累遷右監門衛將軍。

開元初め、安南首領梅玄成が叛き、自ら「黒帝」と称した。林邑・真臘国と通謀し、安南府を陥とした。詔して思勖に兵を将ひて討たしむ。思勖は嶺表に至り、首領子弟の兵馬十余万を鳩募し、伏波の故道を取って進み、其の不意に出づ。玄成は遽かに兵の至るを聞き、惶惑して計る所無く、竟に官軍に擒へられ、陣前に斬られ、其の党与を尽く誅し、屍を積みて京観と為して還った。

原文開元初,安南首領梅玄成叛,自稱「黑帝」。與林邑、真臘國通謀,陷安南府。詔思勖將兵討之。思勖至嶺表,鳩募首領子弟兵馬十餘萬,取伏波故道以進,出其不意。玄成遽聞兵至,惶惑計無所出,竟為官軍所擒,臨陣斬之,盡誅其黨與,積屍為京觀而還。

十二年、五溪首領覃行璋が乱を為す。思勖は復た詔を受けて兵を率ひて討ち、行璋を生擒し、其の党三万余級を斬った。軍功により累加して輔国大将軍となった。後に東封に従ひ、又た驃騎大将軍を加へられ、虢国公に封ぜられた。

原文十二年,五溪首領覃行璋作亂,思勖復受詔率兵討之,生擒行璋,斬其黨三萬餘級。以軍功累加輔國大將軍。後從東封,又加驃騎大將軍,封虢國公。

十四年、邕州の賊帥梁大海が賓・横等数州を擁して反叛す。思勖は又た兵を統べて討ち、梁大海等三千余人を生擒し、余党二万余級を斬り、復た屍を積みて京観と為した。

原文十四年,邕州賊帥梁大海擁賓、橫等數州反叛。思勖又統兵討之,生擒梁大海等三千餘人,斬餘黨二萬餘級,復積屍為京觀。

十六年、瀧州首領陳行範・何遊魯・馮璘等が徒を聚めて乱を為し、四十余城を陥とした。行範は自ら帝を称し、遊魯は定国大将軍と称し、璘は南越王と称し、嶺表に割拠した。詔して思勖に永・連・道等の兵及び淮南弩手十万人を率ひて進討せしむ。兵、瀧州に至り、陣前に遊魯・馮璘を擒へて斬る。行範は深州に潜竄し、雲際・盤遼の二洞に投ず。思勖は衆を悉くして之を攻め、行範を生擒して斬った。其の党六万級を斬り、口馬金玉巨万を獲たり。思勖は性質剛決にして、得たる俘囚は多く其の面を生剝ぎ、或は髪際を剺ぎ、頭皮を掣去す。将士已下は風を望みて憚り、敢へて仰ぎ視る者無く、故に至る所に功を立てた。内給事牛仙童が幽州に使いし、張守珪の厚賂を受けたり。玄宗怒り、思勖に命じて之を殺さしむ。思勖は之を縛架すること数日、乃ち其の心を探り取り、手足を截ち去り、肉を割いて啖ひたり。其の残酷此の如し。二十八年卒す。時に年八十余。

原文十六年,瀧州首領陳行範、何遊魯、馮璘等聚徒作亂,陷四十餘城。行範自稱帝,遊魯稱定國大將軍,璘稱南越王,割據嶺表。詔思勖率永、連、道等兵及淮南弩手十萬人進討。兵至瀧州,臨陣擒遊魯、馮璘,斬之。行範潛竄深州,投雲際、盤遼二洞。思勖悉眾攻之,生擒行範,斬之。斬其黨六萬級,獲口馬金玉巨萬計。思勖性剛決,所得俘囚,多生剝其面,或剺發際,掣去頭皮;將士已下,望風懾憚,莫敢仰視,故所至立功。內給事牛仙童使幽州,受張守珪厚賂。玄宗怒,命思勖殺之。思勖縛架之數日,乃探取其心,截去手足,割肉而啖之,其殘酷如此。二十八年卒,時年八十餘。

高力士

原文高力士

高力士は、潘州の人、本姓は馮である。少くして閹割され、同類の金剛二人と、聖暦元年に嶺南討撃使李千里に進められて宮に入る。則天は其の黠恵を嘉し、総角修整なるを以て、左右に給事せしむ。後に小過に因り、撻ちて逐ふ。内官高延福が収めて仮子と為す。延福は武三思の家より出づ。力士は遂に三思の第に往来す。歳余りして、則天復た禁中に召し入れ、司宮台に隷し、廩食す。長さ六尺五寸、性質謹密にして、詔勅を伝ふる能く、宮闈丞を授けらる。

原文高力士,潘州人,本姓馮。少閹,與同類金剛二人,聖歷元年嶺南討擊使李千里進入宮。則天嘉其黠惠,總角修整,令給事左右。後因小過,撻而逐之。內官高延福收為假子。延福出自武三思家,力士遂往來三思第。歲餘,則天復召入禁中,隸司宮臺,廩食之。長六尺五寸,性謹密,能傳詔敕,授宮闈丞。

景龍年間、玄宗が藩王であった頃、高力士は心を傾けてこれに仕え、恩顧をもって遇された。唐隆の変で内難を平定し、皇太子に昇ると、力士を内坊に属させ、日々左右に侍らせ、朝散大夫・内給事に抜擢した。先天年間、蕭至忠・岑羲らを誅殺する功績に預かり、銀青光禄大夫・行内侍同正員に超拜された。開元初年、右監門衛将軍を加えられ、内侍省事を掌った。

原文景龍中,玄宗在籓,力士傾心奉之,接以恩顧。及唐隆平內難,升儲位,奏力士屬內坊,日侍左右,擢授朝散大夫、內給事。先天中,預誅蕭、岑等功,超拜銀青光祿大夫,行內侍同正員。開元初,加右監門衛將軍,知內侍省事。

玄宗は宮闈を尊重し、宦官が少しでも意にかなえば、ただちに三品将軍を授け、門に棨戟を立てさせた。ゆえに楊思勗・黎敬仁・林招隠・尹鳳祥らは、貴寵において力士と等しかった。楊は節を持って討伐し、黎・林は使節として宣伝し、尹は書院を主管した。そのほか孫六・韓荘・楊八・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・辺令誠らは、殿頭供奉・監軍・入蕃・教坊・功德主当など、いずれも委任された職務であった。監軍は節度使の権力を超え、出使すれば諸郡は辟易した。郡県が豊かであれば、宦官が一度軍に至れば、期待する所は千万を数え、功德を修め、鳥獣を買い求め、一箇所に詣でれば、千貫に止まらず、すべて力士の可否にあった。ゆえに帝城の甲第、畿甸の上田・果樹園・池沼は、宦官がその半ばを占めたのである。

原文玄宗尊重宮闈,中官稍稱旨,即授三品將軍,門施棨戟,故楊思勖、黎敬仁、林招隱、尹鳳祥等,貴寵與力士等。楊則持節討伐,黎、林則奉使宣傳,尹則主書院。其餘孫六、韓莊、楊八、牛仙童、劉奉廷、王承恩、張道斌、李大宜、硃光輝、郭全、邊令誠等,殿頭供奉、監軍、入蕃、教坊、功德主當,皆為委任之務。監軍則權過節度,出使則列郡辟易。其郡縣豐贍,中官一至軍,則所冀千萬計,修功德,市鳥獸,詣一處,則不啻千貫,皆在力士可否。故帝城中甲第,畿甸上田、果園池沼,中官參半於其間矣。

四方から進奏文表があるたび、必ずまず力士に呈し、その後で皇帝に進め、小事はその場で決裁した。玄宗は常に言った、「力士が上に当直していると、私は寝ても安らかだ」。ゆえに常に宮中に止まり、外宅に出ることは稀であった。もし付和雷同する者は、その風采を望み見て、吹聴を期待し、肝胆を竭くす者は多かった。宇文融・李林甫・李適之・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝はこれによって将相の高位を取った。そのほかの官職は数え切れない。粛宗が東宮にいた時、二兄と呼び、諸王・公主は皆「阿翁」と呼び、駙馬の輩は「爺」と呼んだ。力士は寝殿の側の簾帷の中で休息し、殿側にも一院があり、中に功德を修める場所があり、彫琢して璀璨とし、精妙を窮めていた。力士は謹慎して大過はなかったが、しかし宇文融以下、権力を用いて互いに喰い合い、朝綱を乱したのは、皆力士に由来する。また時勢に応じて消長し、その勢いと兆候を観察し、たとえ至親愛する者であっても、臨んで覆敗する時には皆これを救わなかった。

原文每四方進奏文表,必先呈力士,然後進御,小事便決之。玄宗常曰:「力士當上,我寢則穩。」故常止於宮中,稀出外宅。若附會者,想望風彩,以冀吹噓,竭肝膽者多矣。宇文融、李林甫、李適之、蓋嘉運、韋堅、楊慎矜、王鉷、楊國忠、安祿山、安思順、高仙芝因之而取將相高位,其餘職不可勝紀。肅宗在春宮,呼為二兄,諸王公主皆呼「阿翁」,駙馬輩呼為「爺」。力士於寢殿側簾帷中休息,殿側亦有一院,中有修功德處,雕瑩璀璨,窮極精妙。力士謹慎無大過,然自宇文融已下,用權相噬,以紊朝綱,皆力士之由。又與時消息,觀其勢候,雖至親愛,臨覆敗皆不之救。

力士の義父高延福夫妻は、正規に供奉に任じられた。嶺南節度使が潘州でその実母麦氏を求めて長安に送り、二人の老女を堂に置き、甘脆な食物を備えさせた。金吾大将軍程伯献は力士と兄弟の契りを結び、麦氏が亡くなると、伯献は霊筵で髪を振り乱し、縗絰を具え、賓客の弔いを受け答えた。十七年、力士の父に広州大都督ととくを追贈し、麦氏に越国夫人を追贈した。

原文力士義父高延福夫妻,正授供奉。嶺南節度使於潘州求其本母麥氏送長安,令兩媼在堂,備於甘脆。金吾大將軍程伯獻與力士結為兄弟,麥氏亡,伯獻於靈筵散發,具缞绖,受賓吊答。十七年,贈力士父廣州大都督,麥氏越國夫人。

開元初年、瀛州の呂玄晤が京師で吏となり、娘に容色があったので、力士がこれを娶って妻とし、玄晤を少卿・刺史に抜擢し、子弟は皆王傅となった。呂夫人が卒去し、城東に葬ると、葬儀は盛大であった。中外が争って祭贈を致し、衢路に充溢し、邸宅から墓まで、車馬が絶えなかった。

原文開元初,瀛州呂玄晤作吏京師,女有姿色,力士娶之為婦,擢玄晤為少卿、刺史,子弟皆為王傅。呂夫人卒,葬城東,葬禮甚盛。中外爭致祭贈,充溢衢路;自第至墓,車馬不絕。

天宝初年、力士に冠軍大将軍・右監門衛大将軍を加え、渤海郡公に進封した。七載、驃騎大将軍を加えた。力士の資産は殷厚で、王侯も比べられなかった。来庭坊に宝寿仏寺を造り、興寧坊に華封道士観を造り、宝殿珍台は国力に匹敵した。京城西北で澧水を堰き止めて水車を造り、五輪を回転させ、一日に麦三百斛を挽いた。初め、宝寿寺の鐘が完成すると、力士は斎を設けてこれを慶賀し、朝廷の者すべてが参集した。凡そ鐘を撞く者は、一撞きで百千、その意を窺う者は、二十杵まで撞き、少なくとも十杵は撞いた。

原文天寶初,加力士冠軍大將軍、右監門衛大將軍,進封渤海郡公。七載,加驃騎大將軍。力士資產殷厚,非王侯能擬。於來庭坊造寶壽佛寺、興寧坊造華封道士觀,寶殿珍臺,侔於國力。於京城西北截澧水作碾,並轉五輪,日破麥三百斛。初,寶壽寺鐘成,力士齋慶之,舉朝畢至。凡擊鐘者,一擊百千;有規其意者,擊至二十杵,少尚十杵。

その後また華州の袁思芸が特に恩顧を受けた。しかし力士は巧みで密やかで、人々はこれを喜んだ。思芸は驕慢で倨傲で、人士はこれを疎んじ恐れた。十四載、内侍省内侍監二員を置き、秩は正三品とし、力士と思芸を対任させた。玄宗が蜀しょくに幸すると、思芸は逃げ出して禄山に投じ、力士は従って成都に幸し、斉国公に進封した。上皇に従って京に還り、開府儀同三司を加えられ、実封五百戸を賜った。

原文其後又有華州袁思藝,特承恩顧。然力士巧密,人悅之;思藝驕倨,人士疏懼之。十四載,置內侍省內侍監兩員,秩正三品,以力士、思藝對任之。玄宗幸蜀,思藝走投祿山,力士從幸成都,進封齊國公。從上皇還京,加開府儀同三司,賜實封五百戶。

宝応元年三月、赦令に会って帰還し、朗州に至り、流人から京国の事を聞き、初めて上皇が崩御されたことを知った。力士は北を望んで号慟し、嘔血して卒去した。代宗はその耆宿として、先朝を保護した功により、揚州大都督を追贈し、泰陵に陪葬させた。

原文寶應元年三月,會赦歸,至朗州,遇流人言京國事,始知上皇厭代。力士北望號慟,嘔血而卒。代宗以其耆宿,保護先朝,贈揚州大都督,陪葬泰陵。

李輔国

原文李輔國

李輔国、本名は静忠、閑厩の馬丁の子である。幼くして去勢され、容貌は醜く、粗く書計を知った。僕として高力士に仕え、年四十余りで、厩中の簿籍を掌らせた。天宝年間、閑厩使五鉷がその畜牧の能力を嘉し、東宮に推薦した。禄山の乱、玄宗が蜀に幸すると、輔国は太子に侍従して扈従し、馬嵬に至り、楊国忠を誅殺した。輔国は太子に献策し、玄宗麾下の兵を分け、北に向かって朔方に趨り、興復を図るよう請うた。輔国は霊武に従い至り、太子に帝位に即くよう勧め、人心を繋いだ。粛宗が即位すると、太子家令に抜擢し、元帥府行軍司馬事を判じ、心腹としてこれを委ねた。なお名を護国と賜い、四方の奏事、御前の符印軍号を、一切これに委ねた。輔国は葷血を食まず、常に僧の行いをし、政務の隙に、手に念珠を持ち、人々は皆これを善と信じた。鳳翔に幸従し、太子詹事を授けられ、名を輔国と改めた。

原文李輔國,本名靜忠,閑廄馬家小兒。少為閹,貌陋,粗知書計。為僕,事高力士,年且四十餘,令掌廄中簿籍。天寶中,閑廄使五鉷嘉其畜牧之能,薦入東宮。祿山之亂,玄宗幸蜀;輔國侍太子扈從,至馬嵬,誅楊國忠。輔國獻計太子,請分玄宗麾下兵,北趨朔方,以圖興復。輔國從至靈武,勸太子即帝位,以系人心。肅宗即位,擢為太子家令,判元帥府行軍司馬事,以心腹委之。仍賜名護國,四方奏事,御前符印軍號,一以委之。輔國不茹葷血,常為僧行,視事之隙,手持念珠,人皆信以為善。從幸鳳翔,授太子詹事,改名輔國。

粛宗が京に還ると、殿中監を拝し、閑厩・五坊・宮苑・営田・栽接・総監等使を兼ねた。また隴右群牧・京畿鋳銭・長春宮等使を兼ね、少府・殿中二監都使を勾当した。至徳二年十二月、開府儀同三司を加えられ、郕国公に進封し、食実封五百戸を賜った。

原文肅宗還京,拜殿中監,閑廄、五坊、宮苑、營田、栽接、總監等使。又兼隴右群牧、京畿鑄錢、長春宮等使,勾當少府、殿中二監都使。至德二年十二月,加開府儀同三司,進封郕國公,食實封五百戶。

宰臣百官は、時を定めず奏事するも、皆輔国を通じて上決した。常に銀台門で事を受け、察事廳子数十人を置き、官吏に小過があれば、伺い知らないことはなく、ただちに推問を加えた。府県の按鞫、三司の制獄は、必ず輔国に詣でて決を取ることを求め、随意に区分し、皆制勅と称し、敢えて異議を唱える者はいなかった。毎回外出すれば甲士数百人が衛従した。中貴人もその官を呼ばず、ただ五郎と呼んだ。宰相李揆は山東の甲族で、台輔の位にあったが、輔国に会えば子弟の礼を執り、これを五父と呼んだ。粛宗はまた輔国のために故吏部侍郎元希声の甥擢の娘を娶らせて妻とした。擢の弟挹は、時に共に台省に引き入れられ、擢は梁州長史となった。輔国は元帥行軍司馬を判じ、専ら禁兵を掌り、内宅に居住することを賜った。

原文宰臣百司,不時奏事,皆因輔國上決。常在銀臺門受事,置察事廳子數十人,官吏有小過,無不伺知,即加推訊。府縣按鞫,三司制獄,必詣輔國取決,隨意區分,皆稱制敕,無敢異議者。每出則甲士數百人衛從。中貴人不敢呼其官,但呼五郎。宰相李揆,山東甲族,位居臺輔,見輔國執子弟之禮,謂之五父。肅宗又為輔國娶故吏部侍郎元希聲侄擢女為妻。擢弟挹,時並引入臺省,擢為梁州長史。輔國判元帥行軍司馬,專掌禁兵,賜內宅居止。

上皇が蜀より京に還り、興慶宮に居し、粛宗は夾城から起居した。上皇は時に伶官を召して楽を奏させ、持盈公主が宮中を往来したが、輔国は常に陰にその隙を窺って離間した。上元元年、上皇が嘗て長慶楼に登り、公主と語った。剣南奏事官が朝謁に過ぎると、上皇は公主及び如仙媛に主人役をさせた。

原文上皇自蜀還京,居興慶宮,肅宗自夾城中起居。上皇時召伶官奏樂,持盈公主往來宮中,輔國常陰候其隙而間之。上元元年,上皇嘗登長慶樓,與公主語。劍南奏事官過朝謁,上皇令公主及如仙媛作主人。

輔国は微賤より起り、貴達する日が近づくにつれ、上皇の左右から礼遇されず、恩顧が衰えることを慮り、ひそかに奇謀を画策して自らを固めた。持盈が客をもてなす機会に乗じ、奏上して云う、「南内に異謀あり」。詔を矯って上皇を西内に移し、持盈を玉真観に送り、高力士らは皆流竄に坐した。

原文輔國起微賤,貴達日近,不為上皇左右所禮,慮恩顧或衰,乃潛畫奇謀以自固。因持盈待客,乃奏云:「南內有異謀。」矯詔移上皇居西內,送持盈於玉真觀,高力士等皆坐流竄。

二年八月、兵部尚書を拝し、その他の官はもとのままである。詔して群臣に尚書省において送り上らせ、御府の酒饌・太常の楽を賜い、武士は戎服を着て道を夾し、朝列ことごとく会す。輔国の驕恣日を追って甚だしく、宰臣たらんことを求め、肅宗曰く「公の勲力をもってすれば、何の官ならざるもあらんや、ただ未だ朝望に允わざるのみ、いかん」と。輔国は僕射裴冕に諷して章を聯ねて己を薦めしむ。肅宗密かに宰臣蕭華に謂いて曰く「輔国は平章事を帯びんと欲す、卿等章を薦めんと欲するや、信ずるか」と。華対せず。裴冕に問うに、曰く「初めよりこの事無し、吾が臂は截つべし、宰相は得べからず」と。華復た入りて奏す、上喜びて曰く「冕は固より大用に堪えたり」と。輔国これを銜む。宝応元年四月、肅宗疾に臥し、宰臣等謁見すべからず、輔国は華の権を専にするを誣奏し、これを黜くことを請う。上許さず、輔国固より請うて已まず。乃ち華を罷めて政事を知らしめ、礼部尚書を守らしむ。及び帝崩じ、華竟に斥逐せらる。

原文二年八月,拜兵部尚書,餘官如故。詔群臣於尚書省送上,賜御府酒饌、太常樂,武士戎服夾道,朝列畢會。輔國驕恣日甚,求為宰臣,肅宗曰:「以公勛力,何官不可,但未允朝望,如何?」輔國諷僕射裴冕聯章薦己。肅宗密謂宰臣蕭華曰:「輔國欲帶平章事,卿等欲有章薦,信乎?」華不對。問裴冕,曰:「初無此事,吾臂可截,宰相不可得也。」華復入奏,上喜曰:「冕固堪大用。」輔國銜之。寶應元年四月,肅宗寢疾,宰臣等不可謁見,輔國誣奏華專權,請黜之。上不許,輔國固請不已。乃罷華知政事,守禮部尚書。及帝崩,華竟被斥逐。

代宗即位す、輔国と程元振とは定策の功有り、愈よ恣横なり。私に奏して曰く「大家はただ内裏に坐し、外事は老奴の処置を聴かん」と。代宗その不遜を怒るも、方に禁軍を握るを以て、遽しく責めんと欲せず。乃ち尚父と尊び、政事巨細無く、皆委ねて参決せしむ。五月、司空しくう・中書令を加え、実封八百戸を食む。程元振その権を奪わんと欲し、上に請うて漸く禁制を加え、その間に乗じ、乃ち輔国の元帥行軍の事を判ずるを罷め、その閑廄以下の使名は、並びに諸貴に分授し、仍って外に移居せしむ。輔国始めて懼れ、茫然として拠る所を失う。詔して博陸王に進封し、中書令を罷め、朔望に朝するを許す。輔国中書に入りて謝表を修めんと欲す、閽吏これを止めて曰く「尚父相を罷む、復たこの門に入るに合わず」と。乃ち気憤して言うに「老奴死罪、朗君に事えて了せず、地下に於いて先帝に事えんことを請う」と。上猶お優詔を以てこれに答う。十月十八日夜、盗輔国の第に入り、輔国を殺し、首と臂を携えて去る。詔して木の首を刻みてこれを葬り、仍って太傅を贈る。

原文代宗即位,輔國與程元振有定策功,愈恣橫。私奏曰:「大家但內裏坐,外事聽老奴處置。」代宗怒其不遜,以方握禁軍,不欲遽責。乃尊為尚父,政無巨細,皆委參決。五月,加司空、中書令,食實封八百戶。程元振欲奪其權,請上漸加禁制,乘其有間,乃罷輔國判元帥行軍事,其閑廄已下使名,並分授諸貴,仍移居外。輔國始懼,茫然失據。詔進封博陸王,罷中書令,許朝朔望。輔國欲入中書修謝表,閽吏止之曰:「尚父罷相,不合復入此門。」乃氣憤而言曰:「老奴死罪,事朗君不了,請於地下事先帝。」上猶優詔答之。十月十八日夜,盜入輔國第,殺輔國,攜首臂而去。詔刻木首葬之,仍贈太傅。

程元振

原文程元振

程元振は、宦者として内侍省に直し、累遷して内射生使に至る。宝応末、肅宗晏駕す、張皇后は太子と怨み有り、己に附かざるを恐れ、越王系を引きて宮中に入れ、監国せしめんと欲す。元振その謀を知り、密かに李輔国に告ぐ、乃ち太子を挟み、越王並びにその党与を誅す。代宗即位す、功を以て飛龍副使・右監門将軍・上柱国を拝し、内侍省事を知る。尋いで輔国に代わりて元帥行軍司馬を判じ、禁兵を専制し、鎮軍大将軍・右監門衛大将軍を加え、保定県侯に封じ、宝応軍使を充つ。九月、驃騎大将軍を加え、邠国公に封じ、その父元貞に司空を贈る。母郤氏は、趙国夫人。是の時元振の権は、輔国に甚だしく、軍中これを「十郎」と呼ぶ。

原文程元振,以宦者直內侍省,累遷至內射生使。寶應末,肅宗晏駕,張皇后與太子有怨,恐不附己,引越王系入宮,欲令監國。元振知其謀,密告李輔國,乃挾太子,誅越王並其黨與。代宗即位,以功拜飛龍副使、右監門將軍、上柱國,知內侍省事。尋代輔國判元帥行軍司馬,專制禁兵,加鎮軍大將軍、右監門衛大將軍,封保定縣侯,充寶應軍使。九月,加驃騎大將軍,封邠國公,贈其父元貞司空。母郤氏,趙國夫人。是時元振之權,甚於輔國,軍中呼為「十郎」。

元振常に襄陽節度使来瑱に請托す、瑱従わず。及び元振権を握り、瑱を征して朝に入らしむ。瑱遷延して至らず。広徳元年、裴茙を破り、遂に朝に入り、兵部尚書を拝す。元振私憾を報ぜんと欲し、瑱の罪を誣う、竟に坐して誅せらる。宰臣裴冕は肅宗の山陵使たり、事有りて元振と相違す、乃ち小吏の贓私を発し、冕を施州刺史に貶す。来瑱は名将、裴冕は元勲、二人既に誣陷せられ、天下の方鎮皆解体す。元振猶お驕豪を以て自ら処し、物議を顧みず。

原文元振常請托於襄陽節度使來瑱,瑱不從。及元振握權,征瑱入朝。瑱遷延不至。廣德元年,破裴茙,遂入朝,拜兵部尚書。元振欲報私憾,誣瑱之罪,竟坐誅。宰臣裴冕為肅宗山陵使,有事與元振相違,乃發小吏贓私,貶冕施州刺史。來瑱名將,裴冕元勛,二人既被誣陷,天下方鎮皆解體。元振猶以驕豪自處,不顧物議。

九月、吐蕃・党項京畿に入り犯す、詔を下して兵を徴す、諸道の卒至る者無し。十月、蕃軍便橋に至る、代宗蒼黄として出でて陜州に幸す。賊京師を陥し、府庫蕩尽す。及び行在に至り、太常博士柳伉上疏切に諫めて元振を誅し以て天下に謝せんことを請う、代宗人情の帰咎するを顧み、乃ち元振の官を罷め、田里に放ち帰す、家は三原に在り。

原文九月,吐蕃、党項入犯京畿,下詔征兵,諸道卒無至者。十月,蕃軍至便橋,代宗蒼黃出幸陜州;賊陷京師,府庫蕩盡。及至行在,太常博士柳伉上疏切諫誅元振以謝天下,代宗顧人情歸咎,乃罷元振官,放歸田裏,家在三原。

十二月、車駕京に還る。元振は車中に缞麻を服し、京城に入り、以て任用を窺う。御史大夫王昇と飲酒し、御史の弾する所と為る。詔に曰く、

原文十二月,車駕還京。元振服缞麻於車中,入京城,以規任用。與御史大夫王昇飲酒,為御史所彈。詔曰:

族談錯立するは、法尚お容れず。同悪陰謀するは、議当に重きに従うべし。一つ此に在るも、情実に原むるに難し。程元振の性は惟だ兇愎、質は本より庸愚、蕞爾の身、まさに万死に当たるべし。頃に已にその厳典を寛くし、その微労を念い、法を屈して恩を伸べ、田里に放ち帰す。仍って克己に乖き、未だ非を知らず。既に含煦の仁を忘れ、別に覬覦の望を貯う。敢えて嘯聚を為し、仍って動揺せんと欲し、不令の臣、共に睥睨を為す。妄りに休咎を談じ、仍って怨望を懐く。兵を束ね甲を裹み、服を変え潜行し、君親を顧みず、将に不軌を図らんとす。按験皆是れ、刑を逃るる所無し。首足異門、未だ責を塞ぐと云わず。朕猶お薄効を忘れず、再び罪人を捨つ。特ち斧鉞の誅を寛くし、俾ち投荒の典を正さしむ。宜しく長流榛州百姓とし、京兆府に委ねて綱を差し遞送せしめ、路次の州県は人を差し防援し、彼に至り捉え拘え、東西を許すなかれ。縦い非常の赦有るとも、会恩の限に在らず。凡そ百僚庶、宜しく朕が懐を体すべし。

原文族談錯立,法尚不容;同惡陰謀,議當從重。有一於此,情實難原。程元振性惟兇愎,質本庸愚,蕞爾之身,合當萬死。頃已寬其嚴典,念其微勞,屈法伸恩,放歸田裏。仍乖克己,尚未知非;既忘含煦之仁,別貯覬覦之望。敢為嘯聚,仍欲動搖,不令之臣,共為睥睨;妄談休咎,仍懷怨望。束兵裹甲,變服潛行,無顧君親,將圖不軌。按驗皆是,無所逃刑,首足異門,未雲塞責。朕猶不忘薄效,再舍罪人;特寬斧鉞之誅,俾正投荒之典。宜長流榛州百姓,委京兆府差綱遞送;路次州縣,差人防援,至彼捉拘,勿許東西。縱有非常之赦,不在會恩之限。凡百僚庶,宜體朕懷。

魚朝恩(劉希暹・賈明観)

原文魚朝恩 劉希暹、賈明觀

魚朝恩は、天宝末に宦者として内侍省に入り、初め品官と為り、黄門に給事す。性黠恵にして、宣答に善く、書計に通ず。至徳中、常に軍事を監せしむ。九節度相州において安慶緒を討つも、統帥を立てず、朝恩を以て観軍容宣慰処置使と為す。観軍容使の名は、朝恩より始まる。功を以て累ねて左監門衛大将軍を加う。時に郭子儀頻りに大功を立て、当代その右に出づる者無し。朝恩その功高きを妬み、屡々間諜を行なう。子儀は心を悉くして上に奉じ、殊に意に介せず。肅宗英悟にして、特ちその心を察す、故に朝恩の間行なわれず。相州の敗より、史思明再び河洛を陥す、朝恩は常に禁軍を統べて陜に鎮し、以て東夏に殿す。広徳元年、西蕃京畿に入り犯す、代宗陜に幸す。時に禁軍集まらず、征召離散す、華陰に比するに、朝恩の大軍遽かに至り迎奉し、六師方に振う。これにより深く寵異を加え、天下観軍容宣慰処置使と改む。時に四方未だ寧かならず、万務事殷なり、上方勲臣に注意す、朝恩は専ら神策軍を典し、禁中に出入し、賞賜算無し。

原文魚朝恩,天寶末以宦者入內侍省,初為品官,給事黃門。性黠惠,善宣答,通書計。至德中,常令監軍事。九節度討安慶緒於相州,不立統帥,以朝恩為觀軍容宣慰處置使。觀軍容使名,自朝恩始也。以功累加左監門衛大將軍。時郭子儀頻立大功,當代無出其右;朝恩妒其功高,屢行間諜;子儀悉心奉上,殊不介意。肅宗英悟,特察其心,故朝恩之間不行。自相州之敗,史思明再陷河洛,朝恩常統禁軍鎮陜,以殿東夏。廣德元年,西蕃入犯京畿,代宗幸陜。時禁軍不集,征召離散,比至華陰,朝恩大軍遽至迎奉,六師方振。由是深加寵異,改為天下觀軍容宣慰處置使。時四方未寧,萬務事殷,上方註意勛臣,朝恩專典神策軍,出入禁中,賞賜無算。

朝恩の性は本より凡劣なり、勲を恃み自ら伐り、忌憚する所無し。時に腐儒及び軽薄の文士を門下に引き、経籍を講授し、文章を作し、粗く筆を把り義を釈する能くするに及び、乃ち朝士の中に大言し、自ら文武の才幹有りと謂い、以て恩寵を邀う。上これを優遇し、国子監事を判ずるを加え、光禄・鴻臚・礼賓・内飛龍・閑廄等の使と為す。国子監に赴きて事を視るに、特ち詔して宰臣・百僚・六軍将軍に送上せしめ、京兆府に食を造らしめ、教坊に楽を賜う。大臣群官二百余人、皆本官を以て章服を備え附学生に充て、監の廊下に列し、詔に侍して銭万貫を給し食本に充て、以て学生の厨料を供す。朝恩恣横にして、求取厭くこと無く、凡そ奏請有るは、先ず允するを度と為し、幸臣その比無し。

原文朝恩性本凡劣,恃勛自伐,靡所忌憚。時引腐儒及輕薄文士於門下,講授經籍,作為文章,粗能把筆釋義,乃大言於朝士之中,自謂有文武才幹,以邀恩寵。上優遇之,加判國子監事,光祿、鴻臚、禮賓、內飛龍、閑廄等使。赴國子監視事,特詔宰臣、百僚、六軍將軍送上,京兆府造食,教坊賜樂。大臣群官二百餘人,皆以本官備章服充附學生,列於監之廊下,侍詔給錢萬貫充食本,以供學生廚料。朝恩恣橫,求取無厭,凡有奏請,以先允為度,幸臣未有其比。

章敬太后の忌日、百僚興唐寺において行香す、朝恩は寺外の車坊に齋饌を置き、宰臣百僚を延いて就食せしむ。朝恩は恣に口を放ち時政を談じ、公卿惕息す。戸部郎中相裏造・殿中侍御史李衎は正言を以てこれを折る。朝恩悦ばず、乃ち会を罷む。

原文章敬太后忌日,百僚於興唐寺行香,朝恩置齋饌於寺外之車坊,延宰臣百僚就食。朝恩恣口談時政,公卿惕息。戶部郎中相裏造、殿中侍御史李衎以正言折之。朝恩不悅,乃罷會。

後に嘗て国子監にて釈奠を行い、宰臣百官皆会し、朝恩が『易経』を講じ、『鼎卦』の「覆餗」の義を引き、以て元載を讒謗した。載は心にこれを恨み、密かにこれを除き去らんと図った。上は朝恩の甚だ横暴なるを以て、またこれを憎んだ。載はその隙を窺い、巧みに中傷せんと欲し、乃ち腹心の崔昭を用いて京兆尹と為し、朝恩の出処を窺わせた。昭は財貨を惜しまず、密かに朝恩の党である陝州観察使皇甫温と結び、温は昭と協力した。ここより朝恩の動静は、載皆これを知り、巨細悉く以て上聞した。上益々怒り、朝恩は未だこれを察せず、日に驕横を加えた。載は朝恩の実封を加えることを奏し、また皇甫温の権位を加え、以てその欲を恣にせしめた。

原文後嘗釋奠於國子監。宰臣百僚皆會,朝恩講《易》,征《鼎卦》「覆餗」之義,以譏元載。載心銜之,陰圖除去之。上以朝恩太橫,亦惡之。載欲伺其便,巧中傷之;乃用腹心崔昭為京兆尹,伺朝恩出處。昭不吝財賂,潛與朝恩黨陜州觀察使皇甫溫相結,溫與昭協。自是朝恩動靜,載皆知之,巨細悉以聞。上益怒,朝恩未之察,日以驕橫。載奏加朝恩實封,又加皇甫溫權位,以肆其欲。

五年、朝恩の昵近くする武将劉希暹が微かに過ち忤る所あり、上これを諷した。詔して朝恩の観軍容使を罷め、実封を通じて前後一千戸を加えた。朝恩始めて疑い、然れども毎朝謁するに、恩顧は常の如く、また載を意に介さなかった。寒食の宴に近臣を会するに当たり、朝恩入って謁した。先ず是れ、毎宴罷むるに、必ず出でて還営するを例としたが、この日は詔してこれを留めた。朝恩始めて懼れ、言頗る悖慢に及び、上もまた旧恩を以てこれを責めなかった。この日朝恩第に還り、自経して卒した。劉希暹もまた獄に下され賜死した。

原文五年,朝恩所昵武將劉希暹微有過忤,上諷之。詔罷朝恩觀軍容使,加實封通前一千戶。朝恩始疑,然每朝謁,恩顧如常,亦不以載為意。會寒食宴近臣,朝恩入謁。先是,每宴罷,必出還營,是日有詔留之。朝恩始懼,言頗悖慢,上亦以舊恩不之責。是日朝恩還第,自經而卒。劉希暹亦下獄賜死。

希暹は、戎伍より出で、膂力有り、形貌光偉にして、騎射を以て聞こえた。朝恩これを用いて神策都虞候と為し、交河郡王に封ぜられた。朝恩の意旨を善く窺い、深く委信された。累遷して太僕卿に至り、兵馬使王駕鶴と共に禁兵を掌り、為す所不法であった。朝恩を諷して北軍に獄を置き、坊市の兇悪なる少年を召し、城内の富人を羅織し、違法を誣えて、捕えて獄中に置き、忍酷に考訊し、その家産を録して、並びに軍に没収した。或いは挙選の士で、財貨稍々殷かなりし者が、旅舎に客たりて、横死するに遇う者、一に非ず。坊市これを苦しみ、「地牢に入る」と謂った。捕賊吏に賈明観という者あり、特に兇蠹にして、屡々大獄を置き、家産巨万に及んだ。希暹これに党し、地は禁密に在り、人敢えて言う者無し。朝恩死して後、上これを寛宥した。素志順ならざるを以て、容れられざるを慮り、常に自ら疑懼した。王駕鶴と職を聯ね、希暹の言辞多く不遜であった。駕鶴は純謹にして、上これを信任し、ここに至り希暹の語を上聞し、乃ちこれを誅した。

原文希暹,出自戎伍,有膂力,形貌光偉,以騎射聞。朝恩用之為神策都虞候,封交河郡王。善候朝恩意旨,深被委信。累遷至太僕卿,與兵馬使王駕鶴同掌禁兵,所為不法。諷朝恩於北軍置獄,召坊市兇惡少年,羅織城內富人,誣以違法,捕置獄中,忍酷考訊,錄其家產,並沒於軍。或有舉選之士,財貨稍殷,客於旅舍,遇橫死者非一。坊市苦之,謂之「入地牢」。捕賊吏有賈明觀者,尤兇蠹,以屢置大獄,家產巨萬。希暹黨之,地在禁密,人無敢言者。朝恩死,上寬宥之。以素志非順,慮不見容,常自疑懼。與王駕鶴聯職,希暹辭多不遜。駕鶴純謹,上信任之,至是以希暹語上聞,乃誅之。

賈明観という者は、本は万年県の捕賊吏であった。希暹に事え、恣に兇悪を為し、毒は豺狼に甚だしかった。朝恩・希暹既に死し、元載また明観の奸謀を受け、密かにこれを容れ、特に関東に奏して江西に効力せしめた。明観城を出でんとするに、百姓数万人、磚石を懐いてこれを待ち、載は市吏をして止め約束せしめた。明観は洪州に二年在り、観察使魏少遊これを容れた。路嗣恭少遊に代わるに及び、郡に至る日、明観を召し笞殺した。識者は魏の名を減じ、路の正を多とした。

原文賈明觀者,本萬年縣捕賊吏。事希暹,恣為兇惡,毒甚豺狼。朝恩、希暹既死,元載復受明觀奸謀,潛容之,特奏令江西效力。明觀將出城,百姓數萬人懷磚石候之,載令市吏止約。明觀在洪州二年,觀察使魏少遊容之。及路嗣恭代少遊,至郡之日,召明觀笞殺之。識者減魏之名,多路之正。

朝恩は素より礼部尚書裴士淹、戸部侍郎・判度支第五琦を礼待し、二人もまた坐して官を貶せられた。

原文朝恩素待禮部尚書裴士淹,戶部侍郎、判度支第五琦,二人亦坐貶官。

竇文場、霍仙鳴。

原文竇文場、霍仙鳴

竇文場、霍仙鳴という者は、始め東宮に在りて徳宗に事えた。初め魚朝恩誅された後、内官は復た兵を典せず、徳宗は親軍を白志貞に委ねた。志貞は多く豪民の賂を受け、補して軍士と為し、その傭直を取り、身は軍に在る者無く、ただ名籍を以て請給するのみであった。涇師の乱に、帝は禁軍を召して賊を禦がしむるに、志貞は召集に素より備えず、この時並びに至る者無く、唯だ文場・仙鳴が諸宦者及び親王の左右を率いて従駕した。志貞は官を貶せられ、左右の禁旅は悉く文場に委ねてこれを主とせしめた。山南に幸するに従い、両軍漸く集まった。

原文竇文場、霍仙鳴者,始在東宮事德宗。初魚朝恩誅後,內官不復典兵,德宗以親軍委白志貞。志貞多納豪民賂,補為軍士,取其傭直,身無在軍者,但以名籍請給而已。涇師之亂,帝召禁軍禦賊,志貞召集無素,是時並無至者,唯文場、仙鳴率諸宦者及親王左右從行。志貞貶官,左右禁旅,悉委文場主之。從幸山南,兩軍漸集。

徳宗京に還り、頗る宿将を忌み、凡そ兵を握る多き者は、悉くこれを罷めた。禁旅は文場・仙鳴分かち統べた。貞元十二年六月、特に関東に護軍中尉両員・中護軍両員を立て、以て禁軍を帥いしむ。乃ち文場を以て左神策護軍中尉と為し、仙鳴を右神策護軍中尉と為し、右神威軍使張尚進を右神策中護軍と為し、内謁者監焦希望を左神策中護軍と為し、文場等より始まった。

原文德宗還京,頗忌宿將,凡握兵多者,悉罷之。禁旅文場、仙鳴分統焉。貞元十二年六月,特立護軍中尉兩員、中護軍兩員,以帥禁軍。乃以文場為左神策護軍中尉,仙鳴為右神策護軍中尉,右神威軍使張尚進為右神策中護軍,內謁者監焦希望為左神策中護軍,自文場等始也。

時に竇・霍の権は、天下に振るい、藩鎮の節将は、多く禁軍より出で、台省の清要は、時にその門より出づ。文場は累加して驃騎大将軍に至った。この年仙鳴病み、帝は馬十匹を賜い、諸寺に於いて僧齋を行い以て福を祈らしめた。久しく病癒えず、十四年、倉卒として卒した。上は左右の小使正将が食中に毒を加えたるを疑い、配流する者数十人。仙鳴死した後、開府内常侍第五守亮を以て右軍中尉と為した。文場は連表して致仕を請い、許された。

原文時竇、霍之權,振於天下,籓鎮節將,多出禁軍,臺省清要,時出其門。文場累加驃騎大將軍。是歲仙鳴病,帝賜馬十匹,令於諸寺為僧齋以祈福。久病不愈,十四年,倉卒而卒。上疑左右小使正將食中加毒,配流者數十人。仙鳴死後,以開府內常侍第五守亮為右軍中尉。文場連表請致仕,許之。

十五年已後、楊志廉・孫榮義が左右軍中尉と為り、また竇・霍の事に踵き、寵に怙って驕恣した。貪利冒寵の徒は、その賄を受け納るるを利とし、多くこれに附麗した。貞元末に至り、宦官復た盛んとなる。順宗即位し、王叔文用事し、韋執誼と謀りて神策軍の権を奪わんとし、乃ち宿将範希朝を用いて京西北禁軍都將と為した。事未だ行わざるに、内官俱文珍等に排せられ、叔文貶せられて止んだ。

原文十五年已後,楊志廉、孫榮義為左右軍中尉,亦踵竇、霍之事,怙寵驕恣。貪利冒寵之徒,利其納賄,多附麗之。至於貞元末,宦官復盛。順宗即位,王叔文用事,與韋執誼謀奪神策軍權,乃用宿將範希朝為京西北禁軍都將。事未行,為內官俱文珍等所排,叔文貶而止。

俱文珍。

原文俱文珍

俱文珍は、貞元末の宦官、後に義父の姓に従い、劉貞亮と曰う。性忠正にして、剛にして義を蹈む。順宗即位し、風疾にて朝政を視ること能わず、而して宦官李忠言と牛美人病に侍る。美人は旨を帝に受け、復たこれを忠言に宣べ、忠言はこれを王叔文に授けた。叔文は朝士柳宗元・劉禹錫・韓日華と図議し、然る後に中書に下し、韋執誼をして施行せしむ、故に王の権は天下に振るう。叔文は宦者の兵権を奪わんと欲し、忠言が命を宣ぶる毎に、内臣敢えて言う者無く、唯だ貞亮建議してこれと争う。その朋徒の熾んなるを知り、朝政の隳るるを慮り、乃ち中官劉光琦・薛文珍・尚衍・解玉等と謀り、奏して広陵王を立てて皇太子と為し、軍国大事を勾当せしむることを請う。順宗これを可とした。貞亮は遂に学士衛次公・鄭絪・李程・王涯を召して金鑾殿に入り、儲君を立てる詔を草せしめた。太子内禅を受くるに及び、叔文の党を尽く逐い、政事は悉く旧臣に委ね、時議は貞亮の忠藎を嘉した。累遷して右衛大将軍に至り、内侍省事を知る。元和八年卒し、憲宗はその翊戴の功を思い、開府儀同三司を贈った。

原文俱文珍,貞元末宦官,後從義父姓,曰劉貞亮。性忠正,剛而蹈義。順宗即位,風疾不能視朝政,而宦官李忠言與牛美人侍病。美人受旨於帝,復宣之於忠言;忠言授之王叔文。叔文與朝士柳宗元、劉禹錫、韓日華圖議,然後下中書,俾韋執誼施行,故王之權振天下。叔文欲奪宦者兵權,每忠言宣命,內臣無敢言者,唯貞亮建議與之爭。知其朋徒熾,慮隳朝政,乃與中官劉光琦、薛文珍、尚衍、解玉等謀,奏請立廣陵王為皇太子,勾當軍國大事。順宗可之。貞亮遂召學士衛次公、鄭絪、李程、王涯入金鑾殿,草立儲君詔。及太子受內禪,盡逐叔文之黨,政事悉委舊臣,時議嘉貞亮之忠藎。累遷至右衛大將軍,知內侍省事。元和八年卒,憲宗思其翊戴之功,贈開府儀同三司。

吐突承璀。

原文吐突承璀

吐突承璀は、幼くして小黄門として東宮に仕え、性質は聡明で才幹があった。憲宗が即位すると、内常侍を授けられ、内省の事を知り、左監門将軍となった。まもなく左軍中尉・功徳使に任じられた。四年、王承宗が叛くと、詔して承璀を河中・河南・浙西・宣歙等道赴鎮州行営兵馬招討等使とし、内侍省常侍宋惟澄を河南・陜州・河陽以東館駅使とし、内官曹淮玉・劉国珍・馬江朝等を分かって河北行営糧料館駅等使とした。諫官・御史が上疏を相次いで行い、皆、古来より中貴人が兵馬の統帥となった例はないと言い、補闕の独狐郁・段平仲が特に激しく切言した。憲宗はやむなく、鎮州以東招撫処置等使に改めて充てた。承璀が禁軍を率いて出発する際、帝は通化門楼に臨み、慰めてこれを送った。出師して一年経っても功績がなく、密かに人を遣わして王承宗に告げ、上疏して罪を待つよう命じ、兵を罷めることを条件に和解を許した。また、昭義節度使盧従史が平素より賊と通じ、承宗のために節鉞を求めることを許していたと奏上した。そこで潞州の牙将烏重胤を誘って謀り、従史を捕らえて京師に送らせた。承宗の上表が届くと、朝廷は兵を罷めることを議し、承璀は軍を返し、依然として禁軍中尉となった。段平仲が抗疏して承璀が軽率に謀り、賦役を弊することを極論し、斬って天下に謝するよう請うたが、憲宗はやむなく、軍器使に降格した。まもなく左衛上将軍に復し、内侍省の事を知った。

原文吐突承璀,幼以小黃門直東宮,性敏慧,有才幹。憲宗即位,授內常侍,知內省事,左監門將軍。俄授左軍中尉、功德使。四年,王承宗叛,詔以承璀為河中、河南、浙西、宣歙等道赴鎮州行營兵馬招討等使,內侍省常侍宋惟澄為河南、陜州、河陽已來館驛使,內官曹淮玉、劉國珍、馬江朝等分為河北行營糧料館驛等使。諫官、御史上疏相屬,皆言自古無中貴人為兵馬統帥者,補闕獨孤郁、段平仲尤激切。憲宗不獲已,改為充鎮州已來招撫處置等使。及承璀率禁軍上路,帝御通化門樓,慰諭遣之。出師經年無功,乃遣密人告王承宗,令上疏待罪,許以罷兵為解。仍奏昭義節度使盧從史素與賊通,許為承宗求節鉞。乃誘潞州牙將烏重胤謀執從史送京師。及承宗表至,朝廷議罷兵,承璀班師,仍為禁軍中尉。段平仲抗疏極論承璀輕謀弊賦,請斬之以謝天下,憲宗不獲已,降為軍器使。俄復為左衛上將軍,知內侍省事。

時に弓箭庫使劉希先が羽林大将軍孫璹から銭二十万を取って方鎮を求め、事が発覚して賜死となり、供述が互いに告発し合い、事が承璀に連座したため、出して淮南節度監軍使とした。

原文時弓箭庫使劉希先取羽林大將軍孫璹錢二十萬,以求方鎮,事發賜死,辭相告訐,事連承璀,乃出為淮南節度監軍使。

太子通事舎人李渉は、性質が狂険で、投匭して上書し、希先・承璀に罪がなく、貶戮すべきでないと論じた。諫議大夫・知匭事の孔戣は、渉の上疏の副本を見て、その章を受け付けなかった。渉は上疏を持って光順門で進めようとしたが、戣は上疏してその奸邪を論じ、渉を硤州司倉に貶した。上は承璀に対する意向がまだ尽きておらず、宰相の李絳が翰林に在って、しばしば承璀の過失を論じたため、これを出したのである。八年、承璀を召還しようとして、絳の宰相の位を罷めた。承璀が還ると、再び神策中尉となった。恵昭太子が薨じると、承璀は建議して澧王寛を立てて太子とするよう請うたが、憲宗は受け入れず、遂王宥を立てた。穆宗が即位すると、承璀が己を助けなかったことを恨み、これを誅した。敬宗の時、中尉の馬存亮が承璀の冤罪を論じ、詔してこれを雪ぎ、さらに仮子の士曄に礼をもって収葬させた。

原文太子通事舍人李涉,性狂險,投匭上書,論希先、承璀無罪,不宜貶戮。諫議大夫、知匭事孔戣,見涉疏之副本,不受其章。涉持疏於光順門欲進之,戣上疏論其纖邪,貶涉硤州司倉。上待承璀之意未已,而宰相李絳在翰林,時數論承璀之過,故出之。八年,欲召承璀還,乃罷絳相位。承璀還,復為神策中尉。惠昭太子薨,承璀建議請立澧王寬為太子,憲宗不納,立遂王宥。穆宗即位,銜承璀不佑己,誅之。敬宗時,中尉馬存亮論承璀之冤,詔雪之,仍令假子士曄以禮收葬。

王守澄

原文王守澄

王守澄は、元和末の宦官である。憲宗の病が重篤となった時、内官の陳弘慶等が弑しい逆しいぎゃくした。憲宗は英武で、威徳が人にあり、内官はこれを秘し、討つことを敢えてせず、ただ薬が発して暴崩したと云うのみであった。時に守澄は中尉の馬進潭・梁守謙・劉承偕・韋元素等と謀り、冊を定めて穆宗皇帝を立てた。長慶中、守澄は枢密の事を知った。

原文王守澄,元和末宦者。憲宗疾大漸,內官陳弘慶等弒逆。憲宗英武,威德在人,內官秘之,不敢除討,但云藥發暴崩。時守澄與中尉馬進潭、梁守謙、劉承偕、韋元素等定冊立穆宗皇帝。長慶中,守澄知樞密事。

初め、元和中、守澄は徐州監軍として、翼城の医者鄭注に遇い、節度使李醖の家に出入りした。注は聡悟にして人に過ぎ、典芸に博通し、棋奕・医卜は特に妙を極め、これを見る者は皆歓喜した。注はかつて李醖のために黄金を煮て、一刀圭を服用すれば、痿弱重膇の疾を癒し、また老いを反して童となることができるとし、醖と守澄がこれを服用すると、かなり効験があった。守澄が枢密を知ると、推薦して禁中に引き入れ、穆宗もこれを厚く遇した。注は奇詭多く、守澄と語る時は必ず夜通しであった。

原文初,元和中,守澄為徐州監軍,遇翼城醫人鄭註,出入節度使李醖家。註敏悟過人,博通典藝,棋奕醫卜,尤臻於妙,人見之者,無不歡然。註嘗為李醖煮黃金,服一刀圭,可愈痿弱重膇之疾,復能反老成童。醖與守澄服之,頗效。守澄知樞密,薦引入禁中,穆宗待之亦厚。註多奇詭,每與守澄言必通夕。

文宗が即位すると、守澄は驃騎大将軍となり、右軍中尉を充てた。注は再び文宗に寵愛され、後に守澄に依拠して、大いに奸弊をなした。文宗は元和の逆党が尚在し、その党が大いに盛んであることを以て、心常に憤惋し、端居して怡ばなかった。翰林学士の宋申錫が独り対してこれを探知し、上はその意を略言すると、申錫は漸くその逼迫を除くよう請うた。帝も申錫が沈厚にして方略あり、その事が成る可きとし、これを用いて宰相とした。申錫の謀は未だ果たさず、注に察知され、守澄は軍吏の豆盧著に命じて申錫が漳王と謀逆したと誣告させ、申錫は坐して貶された。

原文文宗即位,守澄為驃騎大將軍,充右軍中尉。註復得幸於文宗,後依倚守澄,大為奸弊。文宗以元和逆黨尚在,其黨大盛,心常憤惋,端居不怡。翰林學士宋申錫嘗獨對探知,上略言其意,申錫請漸除其逼。帝亦以申錫沈厚有方略,為其事可成,乃用為宰相。申錫謀未果,為註所察,守澄乃令軍吏豆盧著誣告申錫與漳王謀逆,申錫坐貶。

宰相李逢吉の従子の李訓は、注と交わり、訓もまた機詭万端で、二人は情義相得、共に守澄に重んじられた。また訓を禁中に引き入れ、上に『周易』を講じさせた。寵愛を得て、また帝の旨を探知し、さらに宦官を除く謀りが帝の意に中った。帝は訓の才弁縦横を以て、その事必ず捷つと思い、殊寵をもって待ち、流人の中から用いて学官とし、侍進学士を充てた。時に仇士良は翌上の功があり、守澄に抑えられて位が通顕しなかった。訓は士良を用いて守澄の権を分かつよう奏し、士良を左軍中尉とした。守澄は悦ばず、両者は矛盾した。訓はその悪を利用した。

原文宰相李逢吉從子訓,與註交通,訓亦機詭萬端,二人情義相得,俱為守澄所重。復引訓入禁中,為上講《周易》。既得幸,又探知帝旨,復以除宦官謀中帝意。帝以訓才辯縱橫,以為其事必捷,待以殊寵,自流人中用為學官,充侍進學士。時仇士良有翌上之功,為守澄所抑,位未通顯。訓奏用士良分守澄之權,乃以士良為左軍中尉;守澄不悅,兩相矛盾。訓因其惡。

李訓は守澄を殺した後、また鄭注を憎み、注を鳳翔節度使に用いるよう奏した。訓は宦官を尽く誅さんとし、金吾将軍韓約・新たに太原節度使となった王璠・新たに邠寧節度使となった郭行余・権御史中丞李孝本・権京兆尹羅立言と謀った。その年十一月二十一日、上は宣政殿に臨み、百官が班を定めた時、韓約は平安を奏せず、乃ち奏して言うには、「臣が当たる仗舎内の石榴樹に、夜来甘露が降りました。請う、陛下に仗舎に幸してこれをご覧ください。」帝は輦に乗って金吾仗に急いだ。中尉の仇士良と諸官は先に石榴樹を見に行き、その詐りを知り、また幕下の兵仗の声を聞き、蒼黄として還り、奏して言うには、「南衙に変あり。」遂に帝の輦を扶けて閣門に入れた。李訓は輦に従って大呼して言うには、「邠寧・太原の兵、何ぞ難に赴かざる。乗輿を衛う者、人に賞して百千を賜う。」ここに誰何の卒、及び御史台の従人が、兵を持って宣政殿院に入り、宦官の死者甚だ衆かった。輦が既に閣門に入ると、内官が万歳を呼んだ。やがて士良等が禁兵五百余人を率い、露刃して東上閣より出て人に逢えば即ち殺し、王涯・賈餗・舒元輿・李訓等四人の宰相及び王璠・郭行余等十一人、屍は闕下に横たわった。ここより権は士良と魚弘志に帰した。宣宗が即位するに至り、またその甚だしき者を誅したが、閽寺の勢は、依然として軍権の重きを握っていた。

原文李訓既殺守澄,復惡鄭註,乃奏用註為鳳翔節度使。訓欲盡誅宦官,乃與金吾將軍韓約、新除太原節度使王璠、新除邠寧節度使郭行餘、權御史中丞李孝本、權京兆尹羅立言謀。其年十一月二十一日,上御宣政殿,百僚班定,韓約不奏平安,乃奏曰:「臣當仗廨內石榴樹,夜來降甘露,請陛下幸仗舍觀之。」帝乘輦趨金吾仗。中尉仇士良與諸官先往石榴樹觀之,伺知其詐;又聞幕下兵仗聲,蒼黃而還,奏曰:「南衙有變。」遂扶帝輦入閣門。李訓從輦大呼曰:「邠寧、太原之兵,何不赴難?衛乘輿者,人賞百千!」於是誰何之卒,及御史臺從人,持兵入宣政殿院,宦官死者甚眾。輦既入閣門,內官呼萬歲。俄而士良等率禁兵五百餘人,露刃出東上閣逢人即殺,王涯、賈餗、舒元輿、李訓等四人宰相及王璠、郭行餘等十一人,屍橫闕下。自是權歸士良與魚弘志。至宣宗即位,復誅其太甚者,而閽寺之勢,仍握軍權之重焉。

田令孜

原文田令孜

田令孜は、本姓は陳である。咸通中、義父に従って内侍省に入り宦官となった。頗る書を知り、謀略あり、諸司の小使から諸鎮の用兵を監し、累遷して神策中尉・左監門衛大将軍となった。乾符中、盗賊が関東に起こった。諸軍が盗賊を誅するに当たり、令孜を観軍容・制置左右神策・護駕十軍等使とした。京師が守られず、僖宗に従って蜀に幸した。鸞輿が返正すると、令孜は頗る匡佐の功があり、時に令孜の威権は天下に振るった。

原文田令孜,本姓陳。咸通中,從義父入內侍省為宦者。頗知書,有謀略,自諸司小使監諸鎮用兵,累遷神策中尉、左監門衛大將軍。乾符中,盜起關東。諸軍誅盜,以令孜為觀軍容、制置左右神策、護駕十軍等使。京師不守,從僖宗幸蜀。鸞輿返正,令孜頗有匡佐之功,時令孜威權振天下。

時に関中の寇乱が初めて平定され、国用は虚竭し、諸軍に給せず。令孜は安邑・解県の両池の榷塩課利を、全て神策軍に隷属させるよう請うた。詔が下ると、河中の王重栄が抗章して論列し、使名は久しく例によって当道に隷し、省賦には自ら常規があると述べた。令孜は怒り、王処存を用いて河中節度使とし、重栄は詔を奉じなかった。令孜は禁兵を率いてこれを討った。重栄は太原軍を援けとして引き入れ、沙苑で戦い、禁軍は大敗した。京師は再び乱れ、僖宗は宝鶏に出幸し、また山南に移幸し、方鎮は皆、令孜が事を生ずるを憾んだ。令孜は懼れ、前枢密の楊復恭を引きいて己に代えさせ、梁州に幸するに従い、西川監軍を求めた。西川節度使の陳敬瑄は、即ち令孜の弟である。

原文時關中寇亂初平,國用虛竭,諸軍不給。令孜請以安邑、解縣兩池榷鹽課利,全隸神策軍。詔下,河中王重榮抗章論列,言使名久例隸當道,省賦自有常規。令孜怒,用王處存為河中節度使,重榮不奉詔。令孜率禁兵討之。重榮引太原軍為援,戰於沙苑,禁軍大敗。京師復亂,僖宗出幸寶雞,又移幸山南,方鎮皆憾令孜生事。令孜懼,引前樞密楊復恭代己,從幸梁州,求為西川監軍。西川節度使陳敬瑄,即令孜之弟也。

昭宗が即位すると、三川は大いに乱れた。詔を下して宰相韋昭度を西川に鎮めさせたが、陳敬瑄は交代を受け入れなかった。田令孜は閬州刺史王建を援けとして引き入れ、王建は平素より父として令孜に仕えていた。時に王建は東川を乱していたが、その召しを聞き、西蜀を図るべしと、欣然としてこれに赴いた。王建は率いる千余りの兵を以て漢州に至ると、陳敬瑄は王建が雄豪で制し難いとして、辞してこれを遣わした。王建は言う、「十軍の阿父(令孜)が私を召したのに、門に及んで拒むとは、隣藩がこれを聞いて、誰が肯って相容れようか。私に代わって令公に報ぜよ、建ここに至り、帰る所なしと。」遂に使者を遣わして上表し、陳敬瑄を討って自らの効力を示さんことを請うた。朝廷はこれを嘉し、即ち韋昭度を招討使に命じ、蜀に入って兵を加えたが、一年を経ても功なく、昭度は京に還った。王建は遂に棧道を断ち、詔使を通じさせなかった。年中に急ぎ成都を撃ち、陳敬瑄は計窮まり、令孜を城から出して、王建と通和させた。王建は竟に自ら蜀の帥となり、令孜は義父の故をもって、依倚して旧に仍り軍事を監した。既にして陳敬瑄は鴆に遇い、令孜もまた王建に殺された。

原文昭宗即位,三川大亂。詔宰相韋昭度鎮西川,陳敬瑄不受代。令孜引閬州刺史王建為援,建素以父事令孜。時建方亂東川,聞其召也,以西蜀可圖,欣然赴之。建以所領千餘兵至漢州,陳敬瑄以建雄豪難制,辭而遣之。建曰:「十軍阿父召予,及門而拒,鄰籓聞之,孰肯相容?為予報令公,建至此,無所歸也。」遂遣使上表,請討陳敬瑄以自效。朝廷嘉之,即命昭度為招討,入蜀加兵,經年無功,昭度還京。建遂絕棧道,不通詔使。歲中急擊成都,陳敬瑄計窘,遣令孜出城,與建通和。建竟自為蜀帥,令孜以義父之故,依倚仍舊監軍事。既而陳敬瑄遇鴆,令孜亦為建所殺。

楊復光

原文楊復光

楊復光は、内常侍楊玄価の養子である。幼くして宦官として内侍省に入り、慷慨として節義を負い、籌略有り、小黄門となり、鎮兵を監して征討した。乾符年中、賊の渠魁黄巢が江西を犯すと、復光は排陣使となり、判官吳彥弘を遣わして城中に入り朝旨を諭させた。黄巢は即ちその将尚君長に命じて表を奉じて帰国させた。招討使宋威はその功を害し、兵を併せて賊を撃ったので、黄巢は怒り、再び剽掠をなした。朝廷が尚君長を誅すると、怨怒愈々深くなった。宋威が戦いに敗れると、復光はその兵権を総べ、洪州を攻め、賊将徐唐莒を擒にした。詔して荊南節度使王鐸を招討使とし、宋威に代えさせた。復光は忠武軍を監し、鄧州に屯して、賊の衝を遏した。

原文楊復光,內常侍楊玄價之養子也。幼以宦者入內侍省,慷慨負節義,有籌略,為小黃門,監鎮兵征討。乾符中,賊渠黃巢之犯江西,復光為排陣使,遣判官吳彥弘入城喻朝旨,巢即令其將尚君長奉表歸國。招討使宋威害其功,並兵擊賊,巢怒,復作剽。朝廷誅尚君長,怨怒愈深。宋威戰敗,復光總其兵權,進攻洪州,擒賊將徐唐莒。詔以荊南節度使王鐸為招討,代宋威。復光監忠武軍,屯於鄧州,以遏賊沖。

京師が賊に陥ると、節度使周岌は偽命を受け、賊の使者が往来頻繁であった。周岌が嘗て夜宴を開き、急ぎ復光を召した。左右の者は言う、「周公は賊に帰順したので、必ずや内侍を謀害せんとす。往かざるが如し。」復光は言う、「事勢この如し、義として全きを図るべからず。」即ちこれに赴いた。酒酣のとき、周岌が本朝の事を言うと、復光は因って涙を流した。良久くして言う、「丈夫の感ずる所は恩義なり。而して利害を規るは、丈夫に非ず。公は匹夫より公侯の貴きを享け、豈に十八葉の天子を捨てて北面して賊に臣すべけんや、何の恩義利害を言わんや。」声と涙ともに発し、周岌も亦これが為に流涕した。周岌は言う、「吾は独力をもって賊を拒ぐ能わず、貌は奉じて心はこれを図る。故に公を召す。」酒を瀝して盟を為した。この夜、復光はその養子守亮を遣わして賊の使者を伝舎にて殺させた。

原文京師陷賊,節度使周岌受偽命,賊使往來旁午。岌嘗夜宴,急召復光。左右曰:「周公歸賊,必謀害內侍,不如勿往。」復光曰:「事勢如此,義不圖全。」即赴之。酒酣,岌言本朝事,復光因泣下。良久曰:「丈夫所感者恩義,而規利害,非丈夫也。公自匹夫享公侯之貴,豈舍十八葉天子而北面臣賊,何恩義利害之可言乎!」聲淚俱發,岌亦為之流涕。岌曰:「吾不能獨力拒賊,貌奉而心圖之,故召公。」瀝酒為盟。是夜,復光遣其養子守亮殺賊使於傳舍。

時に秦宗権が周岌に叛き、蔡州を拠えた。復光は忠武の師三千を得て蔡州に入り、宗権を説き、同じく義挙をなさしめた。宗権は将王淑を遣わして衆万人を率いさせ、復光に従って荊襄を収めさせた。鄧州に次ぐと、王淑は逗留して進まず、復光はこれを斬り、その軍を併せ、八都に分けた。鹿晏弘、晉暉、李師泰、王建、韓建等は、皆八都の大将である。南陽を攻め、賊将硃温、何勤が来て逆戦した。復光はこれを破り、進んで鄧州を収め、捷を行在に献じた。これは中和元年五月である。復光は勝に乗じて賊を追い、藍橋に至り、母の憂いに遭って還った。尋いで起復し、詔を受けて天下兵馬都監を充て、諸軍を押して関輔を定めに入った。王重榮が東面招討使となり、復光は兵を以てこれと会した。

原文時秦宗權叛岌,據蔡州。復光得忠武之師三千入蔡州,說宗權,俾同義舉。宗權遣將王淑率眾萬人從復光收荊襄。次鄧州,王淑逗留不進,復光斬之,並其軍,分為八都。鹿晏弘、晉暉、李師泰、王建、韓建等,皆八都之大將也。進攻南陽,賊將硃溫、何勤來逆戰。復光敗之,進收鄧州,獻捷行在,中和元年五月也。復光乘勝追賊,至藍橋,丁母憂還。尋起復,受詔充天下兵馬都監,押諸軍入定關輔。王重榮為東面招討使,復光以兵會之。

二年七月、河中に至る。賊将硃温が同州を守ると、復光は使者を遣わしてこれを諭した。九月、硃温は率いる所の部衆を以て来降した。時に賊将李翔が華州を守り、黄巢の寇は益々盛んとなり、王重榮はこれを憂えた。復光に謂って言う、「賊に臣すは則ち国に負く、拒戦すは則ち兵微し。今日の成敗は、未だ知るべからず。公其れこれを図れ。」復光は言う、「雁門の李僕射(李克用)は雄武を以て北陲を振るい、その家の尊(父)は吾が先世と同しく患難を共にした。李雁門は身を顧みず奮い、播遷已来、征兵未だ至らざるは、蓋し太原路を阻むによる。もし朝旨を以て鄭公(鄭従讜)に諭し、詔到れば、その軍必ず至らん。」重榮は言う、「善し。」王鐸は使者を遣わして墨詔を太原に奉じさせ、太原は兵を以てこれに従った。及んで京城を収め、三たび黄巢の賊を破るに、復光はその子守亮、守宗等と身先だって難を犯し、功烈多くを占めた。その年六月、河中にて卒す。時に年四十二。

原文二年七月,至河中。賊將硃溫守同州,復光遣使諭之。九月,溫以所部來降。時賊將李翔守華州,巢寇益盛,王重榮憂之。謂復光曰:「臣賊則負國,拒戰則兵微,今日成敗,未可知也,公其圖之。」復光曰:「雁門李僕射以雄武振北陲,其家尊與吾先世同患難。李雁門奮不顧身,自播遷已來,征兵未至者,蓋太原阻路也。如以朝旨諭鄭公,詔到,其軍必至。」重榮曰:「善!」王鐸遣使奉墨詔之太原,太原以兵從之。及收京城,三敗巢賊,復光與其子守亮、守宗等身先犯難,功烈居多。其年六月,卒於河中,時年四十二。

復光は黄門の近幸と雖も、然れども慷慨として大志有り、士卒を撫するに善く、死するの日に至っては、軍中累日慟哭した。身後に賊を平げ功を立てた者は、多くは復光の部下の門人故将である。

原文復光雖黃門近幸,然慷慨有大志,善撫士卒;及死之日,軍中慟哭累日。身後平賊立功者,多是復光部下門人故將也。

諸仮子:守亮は興元節度使、守宗は忠武節度使、守信は商州防禦使、守忠は洋州節度使、その余り守を以て名とする者数十人、皆牧守将帥となる。

原文諸假子:守亮,興元節度使;守宗,忠武節度使:守信,商州防禦使;守忠,洋州節度使;其餘以守為名者數十人,皆為牧守將帥。

楊復恭

原文楊復恭

楊復恭は、貞元末の中尉楊志廉の後である。志廉の子欽義は、大中朝に神策中尉となった。欽義の子三人:玄翼、玄価、玄寔。

原文楊復恭,貞元末中尉楊志廉之後。志廉子欽義,大中朝為神策中尉。欽義子三人:玄翼、玄價、玄寔。

玄翼は咸通中に枢密を掌り、玄寔は乾符中に右軍中尉となり、玄価は河陽監軍となった。

原文玄翼,咸通中掌樞密;玄寔乾符中為右軍中尉;玄價,河陽監軍。

復恭は即ち玄翼の子である。父の故をもって、幼くして宦官となり、内侍省に入った。書を知り、学術有り、毎に諸鎮の兵を監した。龐勛の乱に、陣を監して功有り、河陽監軍より入って宣徽使となった。咸通十年、玄翼卒すと、起復して枢密使となった。時に黄巢が闕を犯すと、左軍中尉田令孜が天下観軍容制置使となり、中外を専制した。復恭は毎事力争して得失を論じ、令孜は怒り、復恭を左授して飛龍使とし、乃ち疾を称して藍田に退いた。

原文復恭,即玄翼子也。以父,幼為宦者,入內侍省。知書,有學術,每監諸鎮兵。龐勛之亂,監陣有功,自河陽監軍入為宣徽使。咸通十年,玄翼卒,起復為樞密使。時黃巢犯闕,左軍中尉田令孜為天下觀軍容制置使,專制中外。復恭每事力爭得失,令孜怒,左授復恭飛龍使,乃稱疾退於藍田。

僖宗が蜀より京に還ると、田令孜は出師して律を失い、車駕再び山南に幸す。復た復恭を用いて枢密使とし、尋いで令孜に代わって右軍中尉となった。時に行在の制置、内外の経略は、皆復恭より出づ。車駕京に還り、観軍容使を授けられ、魏国公に封ぜられた。

原文僖宗自蜀還京,田令孜出師失律,車駕再幸山南,復用復恭為樞密使,尋代令孜為右軍中尉。時行在制置,內外經略,皆出於復恭。車駕還京,授觀軍容使,封魏國公。

僖宗晏駕し、寿王を迎えて践祚せしむ。文德元年、開府・金吾上將軍を加えられ、専ら禁兵を典し、既に軍権を手にすると、頗る朝政を擅にした。昭宗これを悪み、政事多く宰臣に訪う。故に韋昭度、張浚、杜譲能の毎に陳奏有るや、即ち大中の故事を挙げて、稍々宦者の権を抑えた。上性明察、ここより偏聴の釁生ず。国舅王瑰は、頗る中に居て事を任じ、復恭これを悪み、奏して黔南節度に授けさせた。吉柏江に至り、舟覆えて没す。物議復恭に帰咎し、上毎に切歯して復恭を道う。復恭の仮子天威軍使守立は、権勇六軍に冠たり、人皆これを避く。上復恭を罪せんと欲し、守立の乱を為すを懼れ、乃ち復恭に謂って言う、「吾卿が家の守立を左右に要す。進め来たるべし。」乃ち姓を賜い李とし、名を順節とす。恩寵特に異なり、勢枢要に侔る。乃ち復恭と権を争い、毎にその陰事を中傷し、順節を鎮海軍節度使・同平章事に授けた。

原文僖宗晏駕,迎壽王踐祚。文德元年,加開府、金吾上將軍,專典禁兵,既軍權在手,頗擅朝政。昭宗惡之,政事多訪於宰臣。故韋昭度、張浚、杜讓能每有陳奏,即舉大中故事,稍抑宦者之權。上性明察,由是偏聽之釁生焉。國舅王瑰,頗居中任事,復恭惡之,奏授黔南節度。至吉柏江,覆舟而沒,物議歸咎於復恭,上每切齒道復恭。復恭假子天威軍使守立,權勇冠於六軍,人皆避之。上欲罪復恭,懼守立為亂,乃謂復恭曰:「吾要卿家守立在左右,可進來。」乃賜姓李,名順節,恩寵特異,勢侔樞要。乃與復恭爭權,每中傷其陰事,授順節鎮海軍節度使、同平章事。

翌年、守亮は兵に敗れ、復恭は守亮と共にその一族を連れて、太原に奔らんとし、商山に入った。乾元県に至り、華州の兵に捕らえられ、捕縛されて京師に送られ、皆市で梟首された。李茂貞は興元を収め、復恭が前後して守亮に与えた私信六十通を進呈した。その中には致仕の理由を訴えて云うには、「承天は隋家の旧業である。大姪(守亮)はただ粟を積み兵を訓え、進奉するな。吾は荊榛の中より寿王を援け立てた。かくの如き負心、門生天子、尊位を得たる後、定策の国老を廃す。」その不遜はかくの如し。後に復恭の仮子彦博は太原に奔り、復恭の骸骨を収め、介休県の抱腹山に葬った。

原文明年,守亮兵敗,復恭與守亮挈其族,將奔太原,入商山。至乾元縣,為華州兵所獲,執送京師,皆梟首於市。李茂貞收興元,進復恭前後與守亮私書六十紙,內訴致仕之由云:「承天是隋家舊業,大侄但積粟訓兵,不要進奉。吾於荊榛中援立壽王,有如此負心,門生天子,既得尊位,乃廢定策國老。」其不遜如是。後復恭假子彥博奔太原,收復恭骸骨,葬於介休縣之抱腹山。

復恭の後、宦官の西門重遂が右軍中尉となった。李茂貞が初めて山南を併せ、兵衆強盛となり、朝政に干渉した。宰相杜譲能が重遂らと謀りこれを誅さんとした。師を興すや、茂貞に敗れ、重遂は誅せられ、内官の駱全瓘・劉景宣を左右軍中尉とした。

原文復恭之後,宦者西門重遂為右軍中尉。李茂貞初並山南,兵眾強盛,干預朝政,宰相杜讓能與重遂等謀誅之。師興,為茂貞所敗,重遂被誅,乃以內官駱全瓘、劉景宣為左右軍中尉。

光化の時に還宮するに及び、内官の景務修・宋道弼が再び国政を専らにし、宰相崔胤はこれを深く憎んだ。中外和睦せず。宰相徐彦若・王搏は度量あり、その陰険にして相傾くを見て、時事の危うきを懼れ、嘗て奏して曰く、「人君は大なる体を務め、心を平らかにして物を御し、偏私あることなかれ。偏任偏聴は、古人の患うところなり。今、中官は寵に怙り、道路これを目して、皆この弊を知る。然れども卒に改むること能わず。多難漸く平らぐを俟ち、以て道をもってこれを消息すべし。陛下は聖謨を泄らすことなく、その奸詐を啓くことなかれ。」崔胤は搏の奏したることを知り、頗るこれを銜んだ。他日、上に見えて曰く、「王搏は奸邪にして、既に敕使の外応と為り、相位に在るべからず。」二年六月、搏を貶官し、藍田にて死を賜う。道弼・務修もまた死を賜う。枢密使劉季述・王奉先を以て両軍中尉と為し、徐彦若を出して南海に鎮せしむ。

原文及光化還宮,內官景務修、宋道弼復專國政,宰相崔胤深惡之,中外不睦。宰相徐彥若、王搏有度量,見其陰險相傾,懼危時事,嘗奏曰:「人君當務大體,平心御物,無有偏私。偏任偏聽,古人所患。今中官怙寵,道路目之,皆知此弊,然未能卒改。俟多難漸平,以道消息之。陛下勿泄聖謨,啟其奸詐。」崔胤知搏所奏,頗銜之,他日見上,曰:「王搏奸邪,已為敕使外應,不可在相位。」二年六月,貶搏官,賜死於藍田。道弼、務修亦賜死。以樞密使劉季述、王奉先為兩軍中尉,出徐彥若鎮南海。

崔胤は政を執りて宦官を排擯す。季述らは外に藩侯と結び、以て党援と為す。十一月六日、季述は詔を矯りて皇太子を以て国を監せしめ、遂に昭宗を廃す。東内に居し、伝国宝を奪いて太子に授く。昭宗は何皇后の宮にす。数人随行し、東宮に幽せらる。季述は手に銀の杖を持ち、上前に於いて杖を以て地に画きて数え上る罪状、云く、「某時の某の事、汝我が言に従わず、その罪一なり。」その悖逆かくの如し。乃ち李師虔に兵を以てこれを囲ましむ。錫を鎔かしてその扃鐍を錮す。時に方に凝冽たり、嬪御に被なく、哭声外に聞こゆ。墻に穴を通して食を通ずること両月。十二月晦、崔胤ら謀りて反正し、季述・奉先を誅し、再び昭宗を迎えて即位せしめ、元を改めて天復元年とす。

原文崔胤秉政而排擯宦官,季述等外結籓侯,以為黨援。十一月六日,季述矯詔以皇太子監國,遂廢昭宗。居東內,奪傳國寶授太子。昭宗以何皇后宮。數人隨行,幽於東宮。季述手持銀禋,於上前以禋畫地數上罪狀,云:「某時某事,你不從我言,其罪一也。」其悖逆如此。乃令李師虔以兵圍之。鎔錫錮其扃镕鐍。時方凝冽,嬪御無被,哭聲聞於外。穴墻通食者兩月。十二月晦,崔胤等謀反正,誅季述、奉先,復迎昭宗即位,改元天復元年。

その歳十一月、朱全忠、河中・華州を寇し、これを陥す。京師震恐す。中尉韓全誨、上に請うて且つ鳳翔に幸せんことを。全忠は乗輿を追逼し、兵鳳翔を囲むこと累年。三年正月、茂貞は両軍中尉韓全誨・張弘彦、枢密使袁易簡・周敬容ら二十二人を殺し、皆斬首し、布囊にこれを貯え、学士薛貽矩をして全忠に送らしめて和を求む。この月、全忠は駕を迎えて長安に還り、詔して崔胤を以て宰相と為し、兼ねて六軍諸衛を判せしむ。

原文其歲十一月,硃全忠寇河中華州,陷之;京師震恐。中尉韓全誨請上且幸鳳翔。全忠追逼乘輿,兵圍鳳翔者累年。三年正月,茂貞殺兩軍中尉韓全誨、張弘彥、樞密使袁易簡、周敬容等二十二人,皆斬首,以布囊貯之,令學士薛貽矩送於全忠求和。是月,全忠迎駕還長安,詔以崔胤為宰相,兼判六軍諸衛。

胤奏して曰く、「高祖こうそ・太宗の承平の時、内官軍旅を典ること無し。天宝以後より、宦官漸く盛ん。貞元・元和、羽林衛を分かちて左・右神策軍と為し、衛従せしめ、宦官をしてこれを主らしめ、唯だ二千人を以て定制と為す。是より枢密に参掌す。ここにより内務百司、皆宦者に帰し、上下弥縫し、共に不法を為す。大なるは則ち朝政を傾覆し、小なるは則ち藩方を構扇す。車駕頻りに播遷を致し、朝廷漸く微弱を加う。その禍の作るを原れば、始めより中人よりす。先帝の臨御より以来、陛下の纂承する後に、朋儕日熾え、交乱して朝綱を乱す。これその本根を翦かずんば、終に国の蟊賊と為らん。内諸司使務の宦官主る者、一切これを罷めんことを望む。諸道の監軍使、並びに闕廷に赴かしめ追い、即ち国家万世の便なり。」詔して曰く、

原文胤奏曰:「高祖、太宗承平時,無內官典軍旅。自天寶以後,宦官浸盛。貞元、元和,分羽林衛為左、右神策軍,使衛從,令宦官主之,唯以二千人為定制。自是參掌樞密。由是內務百司,皆歸宦者,上下彌縫,共為不法:大則傾覆朝政,小則構扇籓方。車駕頻致播遷,朝廷漸加微弱,原其禍作,始自中人。自先帝臨御已來,陛下纂承之後,朋儕日熾,交亂朝綱,此不翦其本根,終為國之蟊賊。內諸司使務宦官主者,望一切罷之,諸道監軍使,並追赴闕廷,即國家萬世之便也。」詔曰:

宦官の興りは、秦・漢に肇る。趙高・閻楽、竟に嬴宗を滅ぼし、張譲・段珪、遂に劉祚を傾く。その志を肆にすれば則ち国必ず禍を受け、その事を悟れば則ち運延長すべし。朕の断ずる所以に疑わず、天に祈りて永く命を保たんとする者なり。

原文宦官之興,肇於秦、漢。趙高、閻樂,竟滅嬴宗;張讓、段珪,遂傾劉祚。肆其志則國必受禍,悟其事則運可延長。朕所以斷在不疑,祈天永命者也。

先皇帝の嗣位の始め、年幼沖に在り、群豎相推し、奄として大政を専らにす。ここにおいて毒宇内に流れ、兵山東に起り、三川に遷幸し、幾くんか神器を淪ぶ。回鑾の始め、率土安んずるを思う。而るに田令孜は能を妬み功を忌み、近鎮を遷搖し、陳倉に播越し、患難相仍る。朕の纂承に及び、益々侮慢を相い、復恭・重遂はその禍を逞しうし、道弼・季述はその兇を継ぐ。朕が躬を幽辱し、孺子を凌脅す。天復返正し、己を罪して安んずるを求め、両軍内枢、一切仮借す。韓全誨らは毎に憤惋を懐き、曾て務めて仇を報いんとす。将相を血仇の若く視、君上を木偶の如く軽んず。星歳周らざるに、竟に播遷を致す。及び岐陽に在りては、羈紲に過ぐ。上は宗社の傾墜を憂い、下は民庶の流離を痛み、茫然として孤居し、控告する所無し。

原文先皇帝嗣位之始,年在幼沖,群豎相推,奄專大政。於是毒流宇內,兵起山東,遷幸三川,幾淪神器。回鑾之始,率土思安,而田令孜妒能忌功,遷搖近鎮,陳倉播越,患難相仍。洎朕纂承,益相侮慢,復恭、重遂逞其禍,道弼、季述繼其兇;幽辱朕躬,淩脅孺子。天復返正,罪己求安,兩軍內樞,一切假借。韓全誨等每懷憤惋,曾務報仇;視將相若血仇,輕君上如木偶。未周星歲,竟致播遷;及在岐陽,過於羈紲。上憂宗社傾墜,下痛民庶流離,茫然孤居,無所控告。

全忠は位二柄を兼ね、深く朕が心を識る。兵を駐めて近く三年に及び、独断方に元悪を誅す。今、郊廟に謝罪し、即ち宮闈に宅す。正刑は当に事初に在るべく、悪を除くは宜しくその根本を絶つべし。先朝及び朕、五たび播遷を致す。王畿の氓、減耗大半。父は子を庇うこと能わず、夫は妻を室うること能わず。言いてこれを念えば、痛み骨髓に深し。その誰が罪ぞ。爾輩の由なり。

原文全忠位兼二柄,深識朕心,駐兵近及於三年,獨斷方誅於元惡。今謝罪郊廟,即宅宮闈,正刑當在於事初,除惡宜絕其根本。先朝及朕,五致播遷,王畿之氓,減耗大半;父不能庇子,夫不能室妻。言念於茲,痛深骨髓,其誰之罪?爾輩之由!

帝王の治を為すや、内に宰輔卿士有り、外に藩翰大臣有り。豈に刑余の人をして大政に参預せしむべけんや。況んやこの輩は皆朕が家臣なり。人臣の家に比すれば、則ち奴隷の流なり。恣横かくの如く、罪悪貫盈す。天命これを誅す。罪豈に能く捨つべけんや。横屍して法に伏すは、固より矜むに足らず。含容久しきも、亦た多愧するところなり。その第五可範已下、並びに宜しく死を賜うべし。その畿甸同華・河中に在る者は、並びに尽く底処置を訖えたり。諸道監軍使已下、及び管内を経過し並びに居停する内使は、敕到り並びに仰せらく、随処に誅夷し訖えて聞奏せよ。已に国朝の故事に準じ、量りて三十人を留め、各黄絹衫一領を賜い、以て宮内の指使に備え、仍って輒ち養男有るべからず。その左右神策軍は、並びに停廃せしむ。

原文帝王之為治也,內有宰輔卿士,外有籓翰大臣,豈可令刑餘之人,參預大政?況此輩皆朕之家臣也,比於人臣之家,則奴隸之流。恣橫如此,罪惡貫盈,天命誅之,罪豈能舍?橫屍伏法,固不足矜,含容久之,亦所多愧。其第五可範已下,並宜賜死。其在畿甸同華、河中,並盡底處置訖。諸道監軍使已下,及管內經過並居停內使,敕到並仰隨處誅夷訖聞奏。已令準國朝故事,量留三十人,各賜黃絹衫一領,以備宮內指使,仍不得輒有養男。其左右神策軍,並令停廢。

この日、諸司の宦官百余り、及び駕に随う鳳翔の群小また二百余人、一時に内侍省に於いて斬首され、血流れて地を塗る。及び宮人宋柔ら十一人、両街の僧道で内官と相善しき者二十余人、並びに京兆府に於いて笞死す。内諸司一切罷め、皆省寺に帰す。是より京城並びに宦官無し。天子毎に詔命を宣伝するは、即ち宮人をして出入せしむ。崔胤は復仇して志を快くすと雖も、国祚旋ち亦た覆亡す。悲しいかな。

原文是日,諸司宦官百餘人,及隨駕鳳翔群小又二百餘人,一時斬首於內侍省,血流塗地。及宮人宋柔等十一人,兩街僧道與內官相善者二十餘人,並笞死於京兆府。內諸司一切罷之,皆歸省寺。自是京城並無宦宮,天子每宣傳詔命,即令宮人出入。崔胤雖復仇快志,國祚旋亦覆亡,悲夫!

賛して曰く、崇墉の大厦、その楹磶を壮にす。殿邦して侮を禦ぐも、亦た明徳を俟つ。宵人の意褊く、動もすれば力を量らず。鼠に投じて器を敗る。良く太息に堪えたり。

原文贊曰:崇墉大廈,壯其楹磶。殿邦禦侮,亦俟明德。宵人意褊,動不量力。投鼠敗器,良堪太息。