舊唐書

巻137

巻137

舊唐書

原文舊唐書

卷一百三十七

原文卷一百三十七

列傳第八十七 徐浩 趙涓 劉太真 李紓 邵說 于邵 崔元翰 于公異 呂渭 鄭雲逵 李益 李賀

原文列傳第八十七 徐浩 趙涓 劉太真 李紓 邵說 于邵 崔元翰 于公異 呂渭 鄭雲逵 李益 李賀

徐浩

原文徐浩

徐浩は字を季海といい、越州の人である。父の嶠は、洛州刺史に至った。浩は若くして明経に挙げられ、草書・隷書に巧みで、文学をもって張説に重んぜられ、魯山主簿に任ぜられた。説が推薦して麗正殿校理と為し、三遷して右拾遺となり、なお校理を兼ねた。幽州節度使張守珪が幕府に在ることを奏上し、監察御史に改めた。父の喪に服し、喪が明けて、京兆司録に任ぜられ、母の喪のため職を去った。数年して、河南司録に任ぜられ、河陽令を歴任し、善政をもって称された。太子司議郎に拝し、金部員外郎に遷り、憲部郎中を歴任した。安禄山が反すると、出て襄陽太守・本郡防禦使となり、金紫の服を賜った。粛宗が即位すると、召して中書舎人に拝し、時に天下の事多く、詔令は多く浩より出づ。浩は文辞を綴るに豊かにして、また楷書・隷書に巧みであったので、粛宗はその能を悦び、尚書左丞を兼ねさせた。玄宗の位を伝える誥冊は、皆浩がこれを為し、両宮の文翰に参じ、寵遇は比ぶるもの稀であった。国子祭酒を除き、事に坐して廬州長史に貶せられた。代宗が征して中書舎人・集賢殿学士に拝し、まもなく工部侍郎・嶺南節度観察使・兼御史大夫に遷り、また吏部侍郎・集賢殿学士となった。妾の弟を冒して選に預からしめ、侍郎薛邕に托して京尉に註授せしめたことを、御史大夫李棲筠に弾劾され、坐して明州別駕に貶せられた。

原文徐浩,字季海,越州人。父嶠,官至洛州刺史。浩少舉明經,工草隸,以文學為張說所器重,調授魯山主簿。說薦為麗正殿校理,三遷右拾遺,仍為校理。幽州節度使張守珪奏在幕府,改監察御史。丁父憂,服除,授京兆司錄,以母憂去職。數年,調授河南司錄,歷河陽令,以善政稱。拜太子司議郎,遷金部員外郎,歷憲部郎中。安祿山反,出為襄陽太守、本郡防禦使,賜以金紫之服。肅宗即位,召拜中書舍人,時天下事殷,詔令多出于浩。浩屬詞贍給,又工楷隸,肅宗悅其能,加兼尚書左丞。玄宗傳位誥冊,皆浩為之,參兩宮文翰,寵遇罕與為比。除國子祭酒,坐事貶廬州長史。代宗征拜中書舍人、集賢殿學士,尋遷工部侍郎、嶺南節度觀察使、兼御史大夫,又為吏部侍郎、集賢殿學士。坐以妾弟冒選,托侍郎薛邕註授京尉,為御史大夫李棲筠所彈,坐貶明州別駕。

徳宗が即位すると、征して彭王傅に拝した。建中三年、疾を以て卒す。年八十。太子少師を贈られた。初め、浩は文雅をもって称せられたが、広州を授けられ、選部を典することに及び、多く貨財を積み、またその妾の侯莫陳氏を寵愛して、頗る政事に干与し、時の論議に貶せられた。

原文德宗即位,征拜彭王傅。建中三年,以疾卒,年八十,贈太子少師。初,浩以文雅稱;及授廣州,典選部,多積貨財,又嬖其妾侯莫陳氏,頗幹政事,為時論所貶。

趙涓

原文趙涓

趙涓は冀州の人である。幼くして文学あり。天宝初め、進士に挙げられ、郾城尉を補し、累遷して監察御史・右司員外郎を授けられた。河南副元帥王縉が判官に充てることを奏し、検校兵部郎中・兼侍御史を授けられ、給事中・太常少卿に遷り、出て衢州刺史となった。

原文趙涓,冀州人也。幼有文學。天寶初,舉進士,補郾城尉,累授監察御史、右司員外郎。河南副元帥王縉奏充判官,授檢校兵部郎中、兼侍御史,遷給事中、太常少卿,出為衢州刺史。

永泰初め、涓は監察御史であった。時に禁中に失火があり、屋室数十間を焼き、火の発した処は東宮に稍近かったので、代宗は深くこれを疑い、涓を巡使と為し、即時に訊問せしめた。涓は周りに廻って囿を巡り、跡状を按拠すると、上直の中官の遺火によるものであることを得て、推鞫明審にして、頗る事情を尽くした。奏上するや、代宗は称賞した。徳宗は時に東宮に在り、常に涓の理を究める詳細なるを感ぜられ、衢州に刺することに及び、年考既に深く、また観察使韓滉と相得ず、滉が涓の官を免ずるを奏したので、徳宗はその名を見て、宰臣に謂いて曰く、「豈に永泰初めの御史趙涓に非ずや」と。対えて曰く、「然り」と。即ち尚書左丞に拝した。間もなく、吏部選を掌り、梁州に扈従した。興元元年卒す。戸部尚書を贈られた。

原文永泰初,涓為監察御史。時禁中失火,燒屋室數十間,火發處與東宮稍近,代宗深疑之,涓為巡使,俾令即訊。涓周歷〓需囿,按據跡狀,乃上直中官遺火所致也,推鞫明審,頗盡事情。既奏,代宗稱賞焉。德宗時在東宮,常感涓之究理詳細,及刺衢州,年考既深,又與觀察使韓滉不相得,滉奏免涓官,德宗見其名,謂宰臣曰:「豈非永泰初御史趙涓乎?」對曰:「然。」即拜尚書左丞。無何,知吏部選,扈從梁州。興元元年卒,贈戶部尚書。

子に博宣あり。

原文子 博宣

子の博宣は進士第に登り、文章は俊抜であったが、性率直にして多く酒を嗜んだ。陳許節度使曲環が従事に辟し、賓筵の間に多く忽略する所あり、環は容れる能わず。朝廷方に淮・蔡を討たんとし、環は誣って博宣が呉少誠の賂を受け反間と為り、また妄りに国家の休咎を説き、軍情を扇動すと奏した。時に博宣は権に舞陽県事を掌り、詔して環に決杖四十をさせ、康州に流す。人皆冤と為す。

原文子博宣,登進士第,文章俊拔,性率多酒。陳許節度使曲環辟為從事,賓筵之間多所忽略,環不能容。朝廷方討淮、蔡,環誣奏博宣受吳少誠賂為反間,又妄說國家休咎,扇惑軍情。時博宣權知舞陽縣事,詔令環決杖四十,流於康州,人皆以為枉。

先に、侍御史盧南史が事に坐して信州員外司馬に貶せられ、郡に至り、例に準じて庁吏一人を得、毎月紙筆銭を請う。前後五年、銭一千貫を計う。南史は官閑冗なるを以て、吏を放ち帰し、その紙筆銭六十余千を納めた。刺史姚驥が南史を劾奏し、贓と為し、また南史が鉛を買い黄丹を焼くことを劾した。徳宗は監察御史鄭楚相・刑部員外郎裴澥・大理評事陳正儀を三司使に充て、同往して按鞫せしめた。将に行かんとし、並びに延英に召して之に謂いて曰く、「卿等必ず詳審にせよ、罪を漏らし冤を銜ますこと無からしめよ」と。三人将に退かんとす、裴澥独り留まり、奏して曰く、「臣、姚驥の奏状を按ずるに、南史が庁吏の紙筆銭を取り、贓六十余貫を計うと称す。公法に違うと雖も、事を量り且つ巨蠹に非ず」と。上曰く、「此の事亦甚だしと為さず、未だ鉛を焼くことを知らざるは如何」と。澥曰く、「鉛を焼きて丹と為すは、格令禁ぜず。天宝十三載の勅に準ずれば、鉛・銅・錫は私家の買賣貨易を許さず。蓋し私に銭を鑄するを防ぐに在り、本より亦鉛を焼きて丹と為すを言わず。南史は勅に違いて鉛を買う、罪無きを得ず。伏して惟うに、陛下宝位に登りてより、及び天宝・大暦以来、未だ嘗て三司使を江南に降さず。今忽ち此の小事を録し、三司使をして往かしむるは、唯だ州県を損耗するのみならず、亦恐らくは遠處之を聞き、各憂懼を懐かん。臣聞く、開元中張九齢が五嶺按察使と為り、録事参軍が齢の非法を告ぐ。朝廷止だ大理評事をして往きて按ぜしむ。大暦中、鄂嶽観察使呉仲孺と転運使判官劉長卿と紛競す。仲孺、長卿が贓二十万貫を犯すと奏す。時に止だ監察御史苗伾を差して就きて推さしむ。今姚驥の奏する所の事状多からず。臣此の行に堪え任ず。即ち請う独り往かん。恐らくは三司並びに行きて使と為すを須いざるべし」と。徳宗忻然として曰く、「卿の言是なり」と。乃ち復た楚相・正儀を召し、澥と俱に坐せしめ、之に謂いて曰く、「朕は理道に懵く、事を処する未だ精ならず。適に裴澥の奏する所を見るに、深く事宜に協う。亦三人総て去るを用いず。但だ行首一人行く可し。卿等使い宰臣に宣付して勅を改めしめよ」と。徳宗は大體を務めず、察を以て明と為す。皆此の類なり。而して博宣・南史は誣枉に坐して擯逐せられ、裴澥の主を悟らすに頼り、南史は深き罪に至らず、後ち召還を得たり。

原文先是,侍御史盧南史坐事貶信州員外司馬,至郡,準例得廳吏一人,每月請紙筆錢,前後五年,計錢一千貫。南史以官閑冗,放吏歸,納其紙筆錢六十余千。刺史姚驥劾奏南史,以為贓,又劾南史買鉛燒黃丹。德宗遣監察御史鄭楚相、刑部員外郎裴澥、大理評事陳正儀充三司使,同往按鞫。將行,並召於延英,謂之曰:「卿等必須詳審,無令漏罪銜冤。」三人將退,裴澥獨留,奏曰:「臣按姚驥奏狀,稱南史取廳吏紙筆錢計贓六十余貫,雖於公法有違,量事且非巨蠹。」上曰:「此事亦未為甚,未知燒鉛何如?」澥曰:「燒鉛為丹,格令不禁。準天寶十三載敕,鉛、銅、錫不許私家買賣貨易,蓋防私鑄錢,本亦不言燒鉛為丹。南史違敕買鉛,不得無罪。伏以陛下自登寶位,及天寶、大歷以來,未曾降三司使至江南;今忽錄此小事,令三司使往,非唯損耗州縣,亦恐遠處聞之,各懷憂懼。臣聞開元中張九齡為五嶺按察使,有錄事參軍告齡非法,朝廷止令大理評事往按。大歷中,鄂嶽觀察使吳仲孺與轉運使判官劉長卿紛競,仲孺奏長卿犯贓二十萬貫,時止差監察御史苗伾就推。今姚驥所奏事狀無多,臣堪任此行,即請獨往,恐不須三司並行為使。」德宗忻然曰:「卿言是矣。」乃復召楚相、正儀與澥俱坐,謂之曰:「朕懵於理道,處事未精,適見裴澥所奏,深協事宜,亦不用三人總去,但行首一人行可也,卿等使宣付宰臣改敕。」德宗不務大體,以察為明,皆此類也。而博宣、南史坐誣枉擯逐,賴裴澥悟主,南史不至深罪,後得召還。

劉太真

原文劉太真

劉太真は宣州の人である。学に渉り、文を属するに善く、少くして詞人蕭穎士に師事す。天宝末、進士に挙げらる。大暦中、淮南節度使陳少遊の掌書記と為り、征されて起居郎に拝す。累ねて臺閣を歴り、中書舎人より工部・刑部の二侍郎に転ず。性怯懦にして詭随なり。礼部侍郎に転じ、貢挙を掌るに及び、宰執の姻族、方鎮の子弟を先に収擢す。又常に少遊の勲績を叙し、之を桓・文に擬す。大いに物論を招く。貞元五年、信州刺史に貶せられ、州に到りて尋いで卒す。

原文劉太真,宣州人。涉學,善屬文,少師事詞人蕭穎士。天寶末,舉進士。大歷中,為淮南節度使陳少遊掌書記,征拜起居郎。累歷臺閣,自中書舍人轉工部、刑部二侍郎。性怯懦詭隨。及轉禮部侍郎,掌貢舉,宰執姻族,方鎮子弟,先收擢之。又常敘少遊勛績,擬之桓、文,大招物論。貞元五年,貶信州刺史,到州尋卒。

太真は尤も詩句に長じ、毎に一篇を出すに、人皆諷誦す。徳宗は文思俊拔にして、毎に御制有れば、即ち朝臣をして畢く和せしむ。貞元四年九月、曲江亭に宴を賜う。帝詩を為し、序して曰く、

原文太真尤長於詩句,每出一篇,人皆諷誦。德宗文思俊拔,每有禦制,即命朝臣畢和。貞元四年九月,賜宴曲江亭,帝為詩,序曰:

朕位に在ること僅かに将に十載、実に忠賢左右に頼り、克く小康を致す。是を以て三令節を択び、茲に宴賞を錫い、大夫・卿士をして同じく歓洽を得しむるなり。其の戚を共にする者は其の休を同じくし、其の初め有る者は其の終を貴ぶ。爾ら群僚に咨るに、朕に暇あらず、楽して能く節し、職を思いて其の憂いを懐い、皆時に若くすれば、庶幾くは理ならん。重陽の会に因り、聊か懐う所を示す。早衣庭燎に対し、躬化勤めて意誠なり。時に此の万樞暇あり、適に佳節と並ぶ。曲池寒流を絜くし、芳菊金英を舒ぶ。乾坤爽気澄み、臺殿秋光清し。朝野年豊を慶び、高会多く欢声あり。永く荒誡無きを懐い、良士同じく斯の情なり。

原文朕在位僅將十載,實賴忠賢左右,克致小康。是以擇三令節,錫茲宴賞,俾大夫、卿士得同歡洽也。夫共其戚者同其休,有其初者貴其終,咨爾群僚,頒朕不暇,樂而能節,職思其憂,鹹若時則,庶乎理矣。因重陽之會,聊示所懷。早衣對庭燎,躬化勤意誠。時此萬樞暇,適與佳節並。曲池絜寒流,芳菊舒金英。乾坤爽氣澄,臺殿秋光清。朝野慶年豐,高會多歡聲。永懷無荒誡,良士同斯情。

詔を下して曰く、「卿等重陽の会宴に、朕は歓洽を想い、欣慰多く、情は中より発し、因りて詩序を制す。今卿等に一本を賜う、中書門下に於いて文詞の士三五十人を簡定し応制せしめ、同じく『清』の字を用い、明日の内に延英門に於いて進め来らしむべし」と。宰臣李泌等は詔を奉じて簡択すと雖も、取捨に難し、是より百僚皆和す。上自ら其の詩を考へ、太真及び李紓等四人を上等と為し、鮑防・于邵等四人を次等と為し、張濛・殷亮等二十三人を下等と為す。而して李晟・馬燧・李泌三宰相の詩は、考第を加へず。

原文因詔曰:「卿等重陽會宴,朕想歡洽,欣慰良多,情發於中,因制詩序。今賜卿等一本,可中書門下簡定文詞士三五十人應制,同用『清』字,明日內於延英門進來。」宰臣李泌等雖奉詔簡擇,難於取舍,由是百僚皆和。上自考其詩,以太真及李紓等四人為上等,鮑防、于邵等四人為次等,張濛、殷亮等二十三人為下等;而李晟、馬燧、李泌三宰相之詩,不加考第。

初め、硃泚・懐光の乱に、関輔饑饉を薦め、貞元三年以後、仍く歳豊稔にして、人始めて生人の楽を復す。徳宗詔して曰く、「比者卿士内外、朝夕公務に従ふ、今方隅事無く、蒸民小康なり、其の正月晦日・三月三日・九月九日の三節日に、宜しく文武百僚に任せ勝地を択び追賞せしむべし。毎節宰相・常参官に共に銭五百貫文を賜ひ、翰林学士に一百貫文を賜ひ、左右神威・神策等十軍に各五百貫を賜ふ。金吾英武・威遠及び諸衛将軍に共に二百貫を賜ひ、客省奏事に共に一百貫を賜ふ、度支に委ね毎節前五日に支給せしめ、永く常制と為す」と。

原文初,硃泚、懷光之亂,關輔薦饑,貞元三年以後,仍歲豐稔,人始復生人之樂。德宗詔曰:「比者卿士內外,朝夕公務,今方隅無事,蒸民小康,其正月晦日、三月三日、九月九日三節日,宜任文武百僚擇勝地追賞。每節宰相、常參官共賜錢五百貫文、翰林學士一百貫文,左右神威、神策等十軍各賜五百貫。金吾英武、威遠及諸衛將軍共賜二百貫,客省奏事共賜一百貫,委度支每節前五日支付,永為常制。」

李紓

原文李紓

李紓は、字は仲舒、礼部侍郎希言の子なり。少くして文学有り。天宝末、秘書省校書郎に拝す。大暦初、吏部侍郎李季卿薦めて左補闕と為し、累遷して司封員外郎・知制誥に至り、中書舎人に改む。尋いで虢州刺史より征へられ礼部侍郎に拝す。徳宗奉天に居す、択まれて同州刺史と為し、尋いで州を棄て梁州行在に詣り、兵部侍郎に拝す。反正し、兼ねて選事を知る。李懐光誅さる、河東節度及び諸軍河中に会す、詔して往きて節度を宣労せしめ、使より還り、敷奏旨に合ひ、礼部侍郎に拝す。

原文李紓,字仲舒,禮部侍郎希言之子。少有文學。天寶末,拜秘書省校書郎。大歷初,吏部侍郎李季卿薦為左補闕,累遷司封員外郎、知制誥,改中書舍人。尋自虢州刺史征拜禮部侍郎。德宗居奉天,擇為同州刺史,尋棄州詣梁州行在,拜兵部侍郎。反正,兼知選事。李懷光誅,河東節度及諸軍會河中,詔往宣勞節度,使還,敷奏合旨,拜禮部侍郎。

紓は通達にして、諧謔を善くし、後進を接するを好み、自ら奉養を厚くし、輿馬を鮮華にし、放達蘊藉を以て称せらる。大官と為ると雖も、而して佚遊して宴を佐け、自ら忘れざるを嘗めず。嘗て武成王を享くるは文宣廟に視すべからざるを議し、奏して云く、「開元十九年の勅に準へば、斉太公たいこう廟を置き、張良ちょうりょうを以て配し、太常卿及び少卿・丞を以て三献官と充つ。又《開元礼》の祝文に云く『皇帝某官を遣して斉太公・漢留侯に昭告す』と。至上元年に至り、勅して太公を追贈して武成王と為し、享祭の典、文宣王に一同し、有司因りて太尉を差し献官と充て、兼ねて御署の祝板と為す。伏して惟ふに、太公は即ち周の太師、張良は即ち漢の少傅、聖朝祀典に列して、已に褒崇極まれり。今礼を至尊に屈し、敬を臣佐に施すは、理或は過当にして、神何ぞ敢て歆かん。伏して惟ふに、文宣は教を垂れ、百代の宗師、五常三綱、其の訓に非ざれば明らかならず、国を有ち家を有つ、其の制に非ざれば立たず、故に孟軻称して『生人已来、一人のみ』と。是に由りて素王の位を正し、先聖の名を加へ、楽は宮懸を用ひ、献は太尉を差し、師を尊び道を崇むるは、政経に雅合せり。且つ太公の述作は《六韜》に止まり、勲業は一代に形はる、豈に諸の盛徳に擬し、其の殊礼を均うすべけんや。其の祝文は請ふらくは進署せず、『敢て昭告す』は請ふらくは『敬して祭る於』に改め、『其れ昭告す』は請ふらくは『致祭す留侯に於いて』に改め、其の献官は請ふらくは旧式に準ひ、太常卿已下を差し充つべし」と。詔して百僚に進議せしむ。文武官上言し、互に異同有り。詔して曰く、「帝徳広運、乃武乃文、文化武功、皇王の二柄、祀礼敬を教へ、国章孔明なり。自今宜しく上将軍以下を以て献官と充つべく、余は紓の奏する所に依れ」と。紓又詔に応じて《興元紀功述》及び郊廟楽章を為し、諸の論著甚だ衆し。官に卒す、年六十二。貞元八年、礼部尚書を贈らる。

原文紓通達,善詼諧,好接後進,厚自奉養,鮮華輿馬,以放達蘊藉稱。雖為大官,而佚遊佐宴,不嘗自忘。嘗議享武成王不當視文宣廟,奏云:「準開元十九年敕,置齊太公廟,以張良配,太常卿及少卿、丞充三獻官。又按《開元禮》祝文雲『皇帝遣某官昭告於齊太公、漢留侯』。至上元年,敕追贈太公為武成王,享祭之典,一同文宣王,有司因差太尉充獻官,兼禦署祝板。伏以太公即周之太師,張良即漢之少傅,聖朝列於祀典,已極褒崇;今屈禮於至尊,施敬於臣佐,理或過當,神何敢歆。伏以文宣垂教,百代宗師,五常三綱,非其訓不明,有國有家,非其制不立,故孟軻稱『生人已來,一人而已』。由是正素王之位,加先聖之名,樂用宮懸,獻差太尉,尊師崇道,雅合政經。且太公述作止於《六韜》,勛業形於一代,豈宜擬諸盛德,均其殊禮!其祝文請不進署,『敢昭告』請改為『敬祭於』,『其昭告』請改為『致祭於留侯』,其獻官請準舊式,差太常卿已下充。」詔百僚進議。文武官上言,互有異同。詔曰:「帝德廣運,乃武乃文,文化武功,皇王之二柄,祀禮教敬,國章孔明。自今宜上將軍以下充獻官,余依紓所奏。」紓又奏詔為《興元紀功述》及郊廟樂章,諸所論著甚眾。卒於官,年六十二。貞元八年,贈禮部尚書。

邵説

原文邵說

邵説は、相州安陽の人なり。進士に挙げられ、史思明の判官と為り、思明・朝義に歴事し、常に兵事を掌る。朝義の敗れに、説は軍前に降り、郭子儀其の才を愛し、幕下に留む。累授して長安ちょうあん令・秘書少監に至り、遷りて吏部侍郎・太子詹事と為り、才幹を以て称せらる。談者或は宰相を以て之を許す、金吾将軍裴儆、諫議大夫柳載に謂ひて曰く、「鄙夫の度る所を以てすれば、説の禍を得るは久しからず。且つ説は史思明父子と君臣の分を定め、劇官に居り、兵柄を掌り、躯を亡くして順を犯し、前後百戦し、賊庭に於いて名家の子女を掠めて婢仆と為す者数十人、宝貨を剽盗し、紀極を知らず。力屈して然る後に降り、朝廷之を宥して死せず。班序に歯せられ、厚顔無く、而して又惶惶として財を求め、第宅を崇飾し、貴幸に附托し、以て大用を求め、愧懼を知らずして得色有り、其れ能く久からんや」と。建中三年、厳郢罪を得、説は郢と厚く善し、硃泚を勧めて疏を抗ひて其の冤を申さしめ、説之が為に其の奏を草す、上之を知り、説を貶して帰州刺史と為し、竟に貶所に卒す。

原文邵說,相州安陽人。舉進士,為史思明判官,歷事思明、朝義,常掌兵事。朝義之敗,說降於軍前,郭子儀愛其才,留於幕下。累授長安令、秘書少監,遷吏部侍郎、太子詹事,以才幹稱。談者或以宰相許之,金吾將軍裴儆謂諫議大夫柳載曰:「以鄙夫所度,說得禍不久矣。且說與史思明父子定君臣之分,居劇官,掌兵柄,亡軀犯順,前後百戰,於賊庭掠名家子女以為婢仆者數十人,剽盜寶貨,不知紀極。力屈然後降,朝廷宥以不死。獲齒班序,無厚顏,而又遑遑求財,崇飾第宅,附托貴幸,以求大用,不知愧懼,而有得色,其能久乎!」建中三年,嚴郢得罪,說與郢厚善,勸硃泚抗疏申其冤,說為草其奏,上知之,貶說歸州刺史,竟卒於貶所。

于邵

原文于邵

于邵は、字は相門、其の先代に家す、今は京兆万年の人なり。曾祖筠は、戸部尚書。邵は天宝末進士に登科し、書判超絶、崇文館校書郎を授かる。累歴して使府に在り、入りて起居郎と為り、再遷して比部郎中に至り、尚二十考第を吏部に於いてし、以て当に称すべし。未だ幾ばくもあらず、出でて道州刺史と為り、道に就かず、転じて巴州と為る。時に歳儉しく、夷獠数千山沢に相聚ひ、州を囲み衆を掠む、邵州兵を励まして以て之を拒ぐ。旬に二日有りて、使を遣はし説喻す、盗邵の面降を邀ふ、邵儒服を以て出城し、盗羅拜して降り、囲解く、節度使李抱玉以て聞こゆ、超遷して梓州と為し、疾を以て至らず、遷りて兵部郎中と為る。西川節度使崔寧請ひて留めて支度副使と為す。尋いで諫議大夫・知制誥に拝し、再遷して礼部侍郎・史館修撰と為り、三司使と為る。上尊号冊を撰するを以て、階三品を賜ひ、当時大詔令は、皆邵に出づ。頃く之、御史中丞袁高・給事中蔣鎮と雑りて左丞薛邕の詔獄を理む。邵は邕の犯す所赦前に在りと為し、奏して之を出だす、旨を失ひ、貶されて桂州長史と為る。貞元初、原王傅を除き、後に太子賓客と為り、宰相陸贄と睦まじからず。八年、出でて杭州刺史と為り、疾を以て告を請ひ、坐して貶され衢州別駕と為り、移して江州別駕と為り、卒す年八十一。

原文于邵,字相門,其先家於代,今為京兆萬年人。曾祖筠,戶部尚書。邵天寶末進士登科,書判超絕,授崇文館校書郎。累歷使府,入為起居郎,再遷比部郎中,尚二十考第於吏部,以當稱。無何,出為道州刺史,未就道,轉巴州。時歲儉,夷獠數千相聚山澤,圍州掠眾,邵勵州兵以拒之。旬有二日,遣使說喻,盜邀邵面降,邵儒服出城,盜羅拜而降,圍解,節度使李抱玉以聞,超遷梓州,以疾不至,遷兵部郎中。西川節度使崔寧請留為支度副使。尋拜諫議大夫、知制誥,再遷禮部侍郎、史館修撰,為三司使。以撰上尊號冊,賜階三品,當時大詔令,皆出於邵。頃之,與御史中丞袁高、給事中蔣鎮雜理左丞薛邕詔獄。邵以為邕犯在赦前,奏出之,失旨,貶桂州長史。貞元初,除原王傅,後為太子賓客,與宰相陸贄不睦。八年,出為杭州刺史,以疾請告,坐貶衢州別駕,移江州別駕,卒年八十一。

邵は性孝悌にして、内行修潔、老いて弥く篤し。初め、樊澤常に賢良方正に挙げらる、邵一たび之を京師に見て曰く、「将相の材なり」と。十五年を経ず、澤は節将と為る。崔元翰年近く五十、始めて進士に挙げらる、邵其の文を異とし、擢第して甲科と為し、且つ曰く、「十五年を経ず、当に詔令を掌らん」と。竟に其の言の如し。独孤授博学宏詞に挙げらる、吏部考へて乙第と為し、中書に於いて覆へし甲科に升る、人其の当るを称す。集四十巻有り。

原文邵性孝悌,內行修潔,老而彌篤。初,樊澤常舉賢良方正,邵一見之於京師,曰:「將相之材也。」不十五年,澤為節將。崔元翰年近五十,始舉進士,邵異其文,擢第甲科,且曰:「不十五年,當掌詔令。」竟如其言。獨孤授舉博學宏詞,吏部考為乙第,在中書覆升甲科,人稱其當。有集四十卷。

崔元翰

原文崔元翰

崔元翰は博陵の人である。進士に及第し、博学宏詞の制科に登り、また賢良方正・直言極諫の科に応じ、三度の挙げられて皆甲第に昇り、年は既に五十余りであった。李汧公(李勉)が滑臺を鎮守する時、彼を辟召して従事とした。後に北平王馬燧が太原に在った時、その名を聞き、礼を致して命じ、また燧の幕府の掌書記となった。朝廷に入って太常博士・礼部員外郎となった。竇參が政を輔ける時、彼を用いて知制誥とし、詔令は温雅で、典謨に合っていた。しかし性質はあまりに剛直で偏狭・簡傲であり、時に取容することができず、発言する毎に少しも阿諛追従せず、執政の旨に忤った。故に誥を掌ること二年にして、官は遷らなかった。遂に知制誥を罷められ、比部郎中を守った。元翰は文章に苦心し、時に年七十余り、学を好んで倦まず。既に介独で耿直であったから、交遊は少なく、ただ一つの操りを秉り、翰墨に伏膺した。その対策及び奏記・碑誌は、班固・蔡伯喈に師法し、思致は精密であった。時に擯斥され、散位に終わった。

原文崔元翰者,博陵人。進士擢第,登博學宏詞制科,又應賢良方正、直言極諫科,三舉皆升甲第,年已五十余。李汧公鎮滑臺,辟為從事。後北平王馬燧在太原,聞其名,致禮命之,又為燧府掌書記。入朝為太常博士、禮部員外郎。竇參輔政,用為知制誥,詔令溫雅,合於典謨。然性太剛褊簡傲,不能取容於時,每發言論,略無阿徇,忤執政旨,故掌誥二年,而官不遷。竟罷知制誥,守比部郎中。元翰苦心文章,時年七十余,好學不倦。既介獨耿直,故少交遊,唯秉一操,伏膺翰墨。其對策及奏記、碑誌、師法班固、蔡伯喈,而致思精密。為時所擯,終於散位。

于公異

原文于公異

于公異は呉の人である。進士に及第し、文章は精抜で、時に称せられた。建中末、李晟の招討府の掌書記となった。興元元年、京城を収める時、公異が行在に上った露布に云う、「臣は既に宮禁を粛清し、謹んで寝園に奏し、鐘虡は移らず、廟貌は旧の如し」。徳宗はこれを見て、涙を流して自ら勝えず、左右これが為に嗚咽した。既にして曰く、「誰がこれを為したか知らぬ」。或る者が対えて曰く、「于公異の詞です」。上は久しく善しと称した。

原文于公異者,吳人。登進士第,文章精拔,為時所稱。建中末,為李晟招討府掌書記。興元元年,收京城,公異為露布上行在云:「臣已肅清宮禁,祗奏寢園,鐘虡不移,廟貌如故。」德宗覽之,泣下不自勝,左右為之嗚咽。既而曰:「不知誰為之?」或對曰:「于公異之詞也。」上稱善久之。

公異が初めて進士に応じた時、挙人陸贄と協わず、この時に至り贄が翰林学士となり、上に称せられるのを聞き、特に悦ばなかった。時に議する者が言うには、公異は少時、後母に容れられず、自ら遊宦して名を成し、郷里に帰らず、貞元中に陸贄が宰相となり、公異に素行無しと奏して、これを黜した。詔に曰く、「祠部員外郎于公異は、頃に才名を以て省闥に昇った。その少き時、父母に容れられず、宜しくその慝を躬に引き、孝行を匱わず、匿名跡を畎畝にし、安否を門閭に候い、その親の過ちを彰さず、その誠の至り必ず感ぜしむべし。棄斥に安んじ、遠方に遊学し、その温凊の恋を忘れ、遂に存亡の隔たりに至る、人子たる者、忍んでここに至るか。宜しく田里に放ち帰し、自ら循省せしむべし。その公異を挙げた官尚書左丞盧邁は、宜しく俸を奪うこと両月とすべし」。時に中書舎人高郢が監察御史元敦義を推薦し、公異の譴逐を見て、累わられることを懼れ、乃ち上疏してまず敦義が礼教に虧けることを陳べ、詔は郢の過ちを知ることを嘉し、敦義を罷め帰らしめた。公異は遂に名位振わず、坎坷にして卒し、人士はその才を惜しみ、贄の褊急を悪んだ。

原文公異初應進士時,與舉人陸贄不協;至是贄為翰林學士,聞上稱與,尤不悅。時議者言之,公異少時不為後母所容,自遊宦成名,不歸鄉里;及貞元中陸贄為宰相,奏公異無素行,黜之。詔曰:「祠部員外郎于公異,頃以才名,升於省闥。其少也,為父母之所不容,宜其引慝在躬,孝行不匱,匿名跡於畎畝,候安否於門閭,俾其親之過不彰,庶其誠之至必感。安於棄斥,遊學遠方,忘其溫凊之戀,竟至存亡之隔,為人子者,忍至是乎!宜放歸田里,俾自循省。其舉公異官尚書左丞盧邁,宜奪俸兩月。」時中書舍人高郢薦監察御史元敦義,及睹公異譴逐,懼為所累,乃上疏首陳敦義虧於禮教,詔嘉郢之知過,俾敦義罷歸。公異竟名位不振,〓感軻而卒,人士惜其才,惡贄之褊急焉。

呂渭

原文呂渭

呂渭は字を君載といい、河中の人である。父は延之、越州刺史・浙江東道節度使。渭は進士に挙げられ、累次授けられて婺州永康令・大理評事となった。浙西観察使李涵が辟召して支使とし、再び遷って殿中侍御史となった。涵が御史大夫から太子少傅に改まった時、渭が上言して、「涵の父の名は少康、今涵が少傅となるは、恐らく朝典に乖かん」。これにより特に渭を司門員外郎に授けた。尋ねて御史臺に劾奏され、「涵が再任して少卿となった時、この時は皆言わず、今少傅となり、散慢を疑い、乃ち不可と為す」。これにより渭を歙州司馬に貶し、涵を改めて検校工部尚書・兼光禄卿とした。

原文呂渭,字君載,河中人。父延之,越州刺史、浙江東道節度使。渭舉進士,累授婺州永康令、大理評事。浙西觀察使李涵辟為支使,再遷殿中侍御史。涵自御史大夫改太子少傅,渭上言:「涵父名少康,今涵為少傅,恐乖朝典。」由是特授渭司門員外郎。尋為御史臺劾奏:「涵再任少卿,此時都不言;今為少傅,疑以散慢,乃為不可。」由是貶渭歙州司馬,改涵檢校工部尚書、兼光祿卿。

渭は累次授けられて舒州刺史・吏部員外・駕部郎中・知制詔・中書舎人となり、母憂で罷まった。服闋し、太子右庶子・礼部侍郎を授かった。中書省に柳樹があり、建中末に枯死したが、興元元年に車駕が京に還った後、その樹が再び栄え、人はこれを瑞柳といった。渭が進士を試みる時、瑞柳を賦題に取り、上聞いてこれを嘉した。渭はまた裴延齢の子操に結附し、進士に挙げたが、文詞は工ならず、渭がこれを擢て登第させたので、正人に嗤鄙された。因って入閣して請托の文記を遺失し、遂に出されて潭州刺史・兼御史中丞・湖南都団練観察使となり、任に在ること三歳、政は甚だ煩碎であった。貞元十六年に卒し、年六十六、贈られて陜州大都督ととく。子に温・恭・儉・讓あり。

原文渭累授舒州刺史、吏部員外、駕部郎中、知制詔、中書舍人,母憂罷。服闋,授太子右庶子、禮部侍郎。中書省有柳樹,建中末枯死,興元元年車駕還京後,其樹再榮,人謂之瑞柳。渭試進士,取瑞柳為賦題,上聞而嘉之。渭又結附裴延齡之子操,舉進士,文詞非工,渭擢之登第,為正人嗤鄙。因入閣遺失請托文記,遂出為潭州刺史、兼御史中丞、湖南都團練觀察使,在任三歲,政甚煩碎。貞元十六年卒,年六十六,贈陜州大都督。子溫、恭、儉、讓。

子 温

原文子 溫

温は字を化光といい、貞元末に進士に及第し、翰林学士韋執誼と善し。順宗が東宮に在った時、侍書王叔文が太子に勧めて時の英俊を招納して自ら輔けしめ、温と執誼は特に叔文に睠われ、起家して再命され左拾遺に拝された。二十年冬、工部侍郎張薦の副として入吐蕃使となり、鳳翔に行き至り、侍御史に転じ、緋袍牙笏を賜った。明年、徳宗晏駕し、順宗即位し、張薦は青海に卒し、吐蕃は中国に喪禍あるを以て、温を留めて経年した。時に王叔文が事を用い、故に温と同しく東宮に遊んだ者は皆不次に任用されたが、温は蕃中に在り、久しく悲嘆した。元和元年、使より還り、戸部員外郎に転じた。時に柳宗元等九人は叔文に坐して貶逐された。唯だ温は奉使を以て免れた。

原文溫,字化光,貞元末登進士第,與翰林學士韋執誼善。順宗在東宮,侍書王叔文勸太子招納時之英俊以自輔,溫與執誼尤為叔文所睠,起家再命拜左拾遺。二十年冬,副工部侍郎張薦為入吐蕃使,行至鳳翔,轉侍御史,賜緋袍牙笏。明年,德宗晏駕,順宗即位,張薦卒於青海,吐蕃以中國喪禍,留溫經年。時王叔文用事,故與溫同遊東宮者,皆不次任用,溫在蕃中,悲嘆久之。元和元年,使還,轉戶部員外郎。時柳宗元等九人坐叔文貶逐。唯溫以奉使免。

温は天才俊抜、文彩贍逸で、時の流れ柳宗元・劉禹錫に称せられた。しかし性質多く険詐、奇を好み利に近く、竇群・羊士諤と趣尚相狎んだ。群は韋夏卿に推薦され、処士より数年に至らずして御史中丞となり、李吉甫は特に奇待した。三年、吉甫が中官に悪まれ、将に揚州に出鎮せんとする時、温はその間に乗じてこれを傾けんとした。温は司封員外郎より転じて刑部郎中となり、竇群は請うて知雑とした。吉甫は疾ありて第に在り、医人陳登を召して診視せしめ、夜は安邑裏の第に宿した。温はこれを伺い知り、詰旦、吏をして登を捕え鞫問せしめ、また奏劾して吉甫が術士と交通することを挙げた。憲宗はこれを異とし、登を召して面訊し、その事皆虚なり、乃ち群を湖南観察使に貶し、羊士諤を資州刺史に、温を均州刺史に貶した。朝議は責むる所軽きを以て、群を再び黔南に貶し、温を道州刺史に貶した。五年、衡州に転じ、秩満して京に帰り、意を得ず、疾を発して卒した。温の文体は富艷で、丘明・班固の風有り、著す所の『淩煙閣功臣銘』・『張始興画賛』・『移博士書』は、頗る文士に賞せられ、文集十巻有り。

原文溫天才俊拔,文彩贍逸,為時流柳宗元、劉禹錫所稱。然性多險詐,好奇近利,與竇群、羊士諤趣尚相狎。群為韋夏卿所薦,自處士不數年至御史中丞,李吉甫尤奇待之。三年,吉甫為中官所惡,將出鎮揚州,溫欲乘其有間傾之。溫自司封員外郎轉刑部郎中,竇群請為知雜。吉甫以疾在第,召醫人陳登診視,夜宿於安邑裏第。溫伺知之,詰旦,令吏捕登鞫問之,又奏劾吉甫交通術士。憲宗異之,召登面訊,其事皆虛,乃貶群為湖南觀察使,羊士諤資州刺史,溫均州刺史。朝議以所責太輕,群再貶黔南,溫貶道州刺史。五年,轉衡州,秩滿歸京,不得意,發疾卒。溫文體富艷,有丘明、班固之風,所著《淩煙閣功臣銘》、《張始興畫贊》、《移博士書》,頗為文士所賞,有文集十卷。

子 恭・儉

原文子 恭、儉

恭・儉は皆侍御史に至り、讓は太子右庶子に至り、皆美才有り。その後吉甫が再び中書に入り、長慶以後、李徳裕の党盛んとなり、呂氏の諸子は達官に至る者無し。

原文恭、儉皆至侍御史,讓至太子右庶子,皆有美才。自後吉甫再入中書,長慶以後,李德裕黨盛,呂氏諸子無至達官者。

鄭雲逵

原文鄭雲逵

鄭雲逵は滎陽けいようの人である。大暦初、進士に挙げられた。性質は果敢で誕敢に言う。客遊して両河し、画を以て硃泚に幹き、泚悦び、乃ち表して節度掌書記・検校祠部員外郎とし、仍て弟滔の女を妻とした。泚が入覲せんとする時、先ず雲逵をして入奏せしめ、泚が京に至り、事を以て雲逵に怒り、奏して莫州参軍に貶した。滔が泚に代わった後、判官を請うた。滔が田悦を助けて逆を為す時、雲逵はこれを諭して従わず、遂に妻子を棄てて馳せて長安に帰り、帝はその来たるを嘉し、客省に留め、超えて諫議大夫に拝した。奉天の難に、雲逵は行在に奔赴し、李晟は行軍司馬とし、戎略多く以てこれを諮った。歴て秘書少監・給事中、尋ねて大理卿を拝し、刑部・兵部二侍郎に遷り、御史中丞に遷り、順宗山陵橋道置頓使を充てた。

原文鄭雲逵,滎陽人。大歷初,舉進士。性果誕敢言。客遊兩河,以畫幹於硃泚,泚悅,乃表為節度掌書記、檢校祠部員外郎,仍以弟滔女妻之。泚將入覲,先令雲逵入奏;及泚至京,以事怒雲逵,奏貶莫州參軍。滔代泚後,請為判官。滔助田悅為逆,雲逵渝之不從,遂棄妻子馳歸長安,帝嘉其來,留於客省,超拜諫議大夫。奉天之難,雲逵奔赴行在,李晟以為行軍司馬,戎略多以咨之。歷秘書少監、給事中,尋拜大理卿,遷刑部、兵部二侍郎、遷御史中丞,充順宗山陵橋道置頓使。

雲逵は初め硃泚の判官となり、常に同幕の蔡庭玉と対立した。庭玉が泚に訴えると、左遷されて莫州録事参軍となった。滔が再び奏上して判官とし、そこで深く庭玉を滔に讒言した。滔が泚の留後事を務めるにあたり、泚に請願する際、庭玉はまたしばしばこれを妨害した。また判官の硃體微もまた泚の親信を得ており、庭玉と共にしばしば泚に言うには、「滔は長者ではなく、兵権を託すべきではない」と。滔は密かにこれを知った。後に滔が南征して功績を立てると、雲逵はたびたび滔を激怒させ、滔はついに上表して庭玉らが骨肉を離間することを論じた。滔が叛くと、帝は泚を召して表を示し、故に庭玉らに罪を帰して滔を喜ばせたが、滔もついに叛いた。三年、雲逵は奏上して、弟の前太僕丞方逵は「性質凶暴で道理を知らず、君主と親をわきまえず、多くの悪事を身に備え、訓戒教化も及ばず、凶悪な徒党を結び、江中で人を掠奪した。臣の亡父先臣昈は杖を百回加えたが、ついに死なせることができなかった。張延賞が揚州に任じていた時も、かつて延賞の法を犯し、死刑を宣告されて蘇生した。常日頃の言葉に至るまで、皆臣の亡父先臣の名を呼び、親戚の知るところであり、教え諭す言葉もない。先ごろ邠・寧・慶等の州で節度使や州県に干謁し物乞いをしたと聞き、今は武功県の南におり、西戎が近くに控えているので、異心を抱く恐れがある。もし死を冒して奏上しなければ、必ずや臣の家族を滅ぼすであろう」と。詔して京兆府に命じ、身柄を拘束して黔州に護送し、李模に付して僻遠の州で使役させ、東西に行き来することを許さない。

原文雲逵初為硃泚判官,常忤同幕蔡庭玉;庭玉白泚,黜為莫州錄事參軍。滔復奏為判官,因深構庭玉於滔;滔為泚留後事,有請於泚,庭玉又輒隳之。又有判官硃體微,亦蒙泚親信,與庭玉常從容言於泚曰:「滔非長者,不可付以兵權。」滔竊知之。後滔南討有功,雲逵數激怒之,滔乃抗表論庭玉等離間骨肉;及滔叛,帝乃召泚以表示之,故歸罪於庭玉等以悅滔,滔亦終叛。三年,雲逵奏:其弟前太仆丞方逵,「受性兇悖,不知君親,眾惡備身,訓教莫及,結聚兇黨,江中劫人。臣亡父先臣昈杖至一百,終不能斃。張延賞任揚州日,亦曾犯延賞法,決殺復蘇。至於常言,皆呼臣亡父先臣名,親戚所知,無可教語。昨聞於邠、寧、慶等州幹謁節度及州縣乞丐,今見在武功縣南,西戎俯近,恐有異謀;若不冒死奏聞,必恐覆臣家族。」詔令京兆府錮身遞送黔州,付李模於僻遠州驅使,勿許東西。

雲逵は元和元年に右金吾衛大將軍に任じられ、その年のうちに京兆尹に改められた。五年五月に卒した。

原文雲逵元和元年拜右金吾衛大將軍,歲中改京兆尹。五年五月卒。

李益

原文李益

李益は、肅宗朝の宰相李揆の族子である。進士第に及第し、歌詩を得意とした。貞元の末、同族の李賀と並び称された。一篇を作るごとに、教坊の楽人が賄賂を贈って求め、供奉歌詞として歌われた。その『征人歌』・『早行篇』は、好事家が屏風に描いた。「回楽峰前沙似雪、受降城外月如霜」の句は、天下に歌詞として広まった。しかし若い頃から癡病があり、猜忌心が強く、妻妾を防閑するのに過度に苛酷で、「散灰扃戸」の話が世に知られたため、当時、嫉妬と癡病を「李益疾」と呼んだ。このため長く昇進せず、同輩は皆顕位に就いた。益は意を得ず、北に河朔を遊歴し、幽州の劉濟が従事に辟召した。常に濟に詩を贈り、「不上望京樓」の句があった。

原文李益,肅宗朝宰相揆之族子。登進士第,長為歌詩。貞元末,與宗人李賀齊名。每作一篇,為教坊樂人以賂求取。唱為供奉歌詞。其《征人歌》、《早行篇》,好事者畫為屏障;「回樂峰前沙似雪,受降城外月如霜」之句,天下以為歌詞。然少有癡病,而多猜忌,防閑妻妾,過為苛酷,而有散灰扃戶之譚聞於時,故時謂妒癡為「李益疾」;以是久之不調,而流輩皆居顯位。益不得意,北遊河朔,幽州劉濟辟為從事,常與濟詩而有「不上望京樓」之句。

憲宗はかねてよりその名を聞き、河北から召還して秘書少監・集賢殿學士に用いた。自ら才地を恃み、多くを軽蔑し、衆に容れられず、諫官がその幽州の詩句を挙げて弾劾したため、散官に降格された。まもなく再び秘書監に用いられ、太子賓客・集賢學士判院事に遷り、右散騎常侍さんきじょうじに転じた。太和の初め、禮部尚書をもって致仕し、卒した。

原文憲宗雅聞其名,自河北召還,用為秘書少監、集賢殿學士。自負才地,多所淩忽,為眾不容,諫官舉其幽州詩句,降居散秩。俄復用為秘書監,遷太子賓客、集賢學士判院事,轉右散騎常侍。太和初,以禮部尚書致仕,卒。

李賀

原文李賀

李賀は、字を長吉といい、宗室の鄭王の後裔である。父の名は晉肅であったため、進士に応じず、韓愈がそのために『諱辨』を作ったが、賀はついに試験を受けなかった。筆が敏捷で、特に歌篇に長じていた。その文思と体勢は、高い巌や切り立った崖のようで、万仞そびえ立ち、当時の文士がこれに倣ったが、似る者はなかった。その楽府詞数十篇は、雲韶の楽工に至るまで、諷誦しない者はなかった。太常寺協律郎に補され、卒した。時に二十四歳。

原文李賀,字長吉,宗室鄭王之後。父名晉肅,以是不應進士,韓愈為之作《諱辨》,賀竟不就試。手筆敏捷,尤長於歌篇。其文思體勢,如崇巖峭壁,萬仞崛起,當時文士從而效之,無能仿佛者。其樂府詞數十篇,至於雲韶樂工,無不諷誦。補太常寺協律郎,卒,時年二十四。

贊

原文贊

史臣が曰く、文学の士は、代々才に乏しくない。永泰・貞元の間、徐浩・趙涓らの諸公は、まさに一時の秀でた者と言えよう。しかし太真は畏懦をもって知られ、邵說は僭侈によって失脚し、于公異・呂渭・李益は皆わずかな過失があった。故にその徳を全うする者は稀であることを知る。

原文史臣曰:文學之士,代不乏才。永泰、貞元之間,如徐浩、趙涓諸公,可謂一時之秀也。然太真以畏懦聞,邵說以僭侈失,于公異、呂渭、李益皆有微累,故知全其德者罕矣。

贊に曰く、名は才によって顕れ、才は徳を兼ねて尊ばれる。徐・趙・劉・李、その名声は遠く聞こえる。邵・于・呂・鄭、その名は久しく存する。全徳に半ば乏しく、後人に愧じる。

原文贊曰:名以才顯,才兼德尊。徐、趙、劉、李,厥聲遠聞。邵、于、呂、鄭,其名久存。半乏全德,愧於後人。