旧唐書 巻一百三十七 列伝第八十七 徐浩 趙涓 劉太真 李紓 邵説 于邵 崔元翰 于公異 呂渭 鄭雲逵 李益 李賀

旧唐書

巻一百三十七 列伝第八十七 徐浩 趙涓 劉太真 李紓 邵説 于邵 崔元翰 于公異 呂渭 鄭雲逵 李益 李賀

徐浩

徐浩は字を季海といい、越州の人である。父の嶠は、洛州刺史に至った。浩は若くして明経に挙げられ、草書・隷書に巧みで、文学をもって張説に重んぜられ、魯山主簿に任ぜられた。説が推薦して麗正殿校理と為し、三遷して右拾遺となり、なお校理を兼ねた。幽州節度使張守珪が幕府に在ることを奏上し、監察御史に改めた。父の喪に服し、喪が明けて、京兆司録に任ぜられ、母の喪のため職を去った。数年して、河南司録に任ぜられ、河陽令を歴任し、善政をもって称された。太子司議郎に拝し、金部員外郎に遷り、憲部郎中を歴任した。安禄山が反すると、出て襄陽太守・本郡防禦使となり、金紫の服を賜った。粛宗が即位すると、召して中書舎人に拝し、時に天下の事多く、詔令は多く浩より出づ。浩は文辞を綴るに豊かにして、また楷書・隷書に巧みであったので、粛宗はその能を悦び、尚書左丞を兼ねさせた。玄宗の位を伝える誥冊は、皆浩がこれを為し、両宮の文翰に参じ、寵遇は比ぶるもの稀であった。国子祭酒を除き、事に坐して廬州長史に貶せられた。代宗が征して中書舎人・集賢殿学士に拝し、まもなく工部侍郎・嶺南節度観察使・兼御史大夫に遷り、また吏部侍郎・集賢殿学士となった。妾の弟を冒して選に預からしめ、侍郎薛邕に托して京尉に註授せしめたことを、御史大夫李棲筠に弾劾され、坐して明州別駕に貶せられた。

徳宗が即位すると、征して彭王傅に拝した。建中三年、疾を以て卒す。年八十。太子少師を贈られた。初め、浩は文雅をもって称せられたが、広州を授けられ、選部を典することに及び、多く貨財を積み、またその妾の侯莫陳氏を寵愛して、頗る政事に干与し、時の論議に貶せられた。

趙涓

趙涓は冀州の人である。幼くして文学あり。天宝初め、進士に挙げられ、郾城尉を補し、累遷して監察御史・右司員外郎を授けられた。河南副元帥王縉が判官に充てることを奏し、検校兵部郎中・兼侍御史を授けられ、給事中・太常少卿に遷り、出て衢州刺史となった。

永泰初め、涓は監察御史であった。時に禁中に失火があり、屋室数十間を焼き、火の発した処は東宮に稍近かったので、代宗は深くこれを疑い、涓を巡使と為し、即時に訊問せしめた。涓は周りに廻って囿を巡り、跡状を按拠すると、上直の中官の遺火によるものであることを得て、推鞫明審にして、頗る事情を尽くした。奏上するや、代宗は称賞した。徳宗は時に東宮に在り、常に涓の理を究める詳細なるを感ぜられ、衢州に刺することに及び、年考既に深く、また観察使韓滉と相得ず、滉が涓の官を免ずるを奏したので、徳宗はその名を見て、宰臣に謂いて曰く、「豈に永泰初めの御史趙涓に非ずや」と。対えて曰く、「然り」と。即ち尚書左丞に拝した。間もなく、吏部選を掌り、梁州に扈従した。興元元年卒す。戸部尚書を贈られた。

子に博宣あり。

子の博宣は進士第に登り、文章は俊抜であったが、性率直にして多く酒を嗜んだ。陳許節度使曲環が従事に辟し、賓筵の間に多く忽略する所あり、環は容れる能わず。朝廷方に淮・蔡を討たんとし、環は誣って博宣が呉少誠の賂を受け反間と為り、また妄りに国家の休咎を説き、軍情を扇動すと奏した。時に博宣は権に舞陽県事を掌り、詔して環に決杖四十をさせ、康州に流す。人皆冤と為す。

先に、侍御史盧南史が事に坐して信州員外司馬に貶せられ、郡に至り、例に準じて庁吏一人を得、毎月紙筆銭を請う。前後五年、銭一千貫を計う。南史は官閑冗なるを以て、吏を放ち帰し、その紙筆銭六十余千を納めた。刺史姚驥が南史を劾奏し、贓と為し、また南史が鉛を買い黄丹を焼くことを劾した。徳宗は監察御史鄭楚相・刑部員外郎裴澥・大理評事陳正儀を三司使に充て、同往して按鞫せしめた。将に行かんとし、並びに延英に召して之に謂いて曰く、「卿等必ず詳審にせよ、罪を漏らし冤を銜ますこと無からしめよ」と。三人将に退かんとす、裴澥独り留まり、奏して曰く、「臣、姚驥の奏状を按ずるに、南史が庁吏の紙筆銭を取り、贓六十余貫を計うと称す。公法に違うと雖も、事を量り且つ巨蠹に非ず」と。上曰く、「此の事亦甚だしと為さず、未だ鉛を焼くことを知らざるは如何」と。澥曰く、「鉛を焼きて丹と為すは、格令禁ぜず。天宝十三載の勅に準ずれば、鉛・銅・錫は私家の買賣貨易を許さず。蓋し私に銭を鑄するを防ぐに在り、本より亦鉛を焼きて丹と為すを言わず。南史は勅に違いて鉛を買う、罪無きを得ず。伏して惟うに、陛下宝位に登りてより、及び天宝・大暦以来、未だ嘗て三司使を江南に降さず。今忽ち此の小事を録し、三司使をして往かしむるは、唯だ州県を損耗するのみならず、亦恐らくは遠處之を聞き、各憂懼を懐かん。臣聞く、開元中張九齢が五嶺按察使と為り、録事参軍が齢の非法を告ぐ。朝廷止だ大理評事をして往きて按ぜしむ。大暦中、鄂嶽観察使呉仲孺と転運使判官劉長卿と紛競す。仲孺、長卿が贓二十万貫を犯すと奏す。時に止だ監察御史苗伾を差して就きて推さしむ。今姚驥の奏する所の事状多からず。臣此の行に堪え任ず。即ち請う独り往かん。恐らくは三司並びに行きて使と為すを須いざるべし」と。徳宗忻然として曰く、「卿の言是なり」と。乃ち復た楚相・正儀を召し、澥と俱に坐せしめ、之に謂いて曰く、「朕は理道に懵く、事を処する未だ精ならず。適に裴澥の奏する所を見るに、深く事宜に協う。亦三人総て去るを用いず。但だ行首一人行く可し。卿等使い宰臣に宣付して勅を改めしめよ」と。徳宗は大體を務めず、察を以て明と為す。皆此の類なり。而して博宣・南史は誣枉に坐して擯逐せられ、裴澥の主を悟らすに頼り、南史は深き罪に至らず、後ち召還を得たり。

劉太真

劉太真は宣州の人である。学に渉り、文を属するに善く、少くして詞人蕭穎士に師事す。天宝末、進士に挙げらる。大暦中、淮南節度使陳少遊の掌書記と為り、征されて起居郎に拝す。累ねて臺閣を歴り、中書舎人より工部・刑部の二侍郎に転ず。性怯懦にして詭随なり。礼部侍郎に転じ、貢挙を掌るに及び、宰執の姻族、方鎮の子弟を先に収擢す。又常に少遊の勲績を叙し、之を桓・文に擬す。大いに物論を招く。貞元五年、信州刺史に貶せられ、州に到りて尋いで卒す。

太真は尤も詩句に長じ、毎に一篇を出すに、人皆諷誦す。徳宗は文思俊拔にして、毎に御制有れば、即ち朝臣をして畢く和せしむ。貞元四年九月、曲江亭に宴を賜う。帝詩を為し、序して曰く、

朕位に在ること僅かに将に十載、実に忠賢左右に頼り、克く小康を致す。是を以て三令節を択び、茲に宴賞を錫い、大夫・卿士をして同じく歓洽を得しむるなり。其の戚を共にする者は其の休を同じくし、其の初め有る者は其の終を貴ぶ。爾ら群僚に咨るに、朕に暇あらず、楽して能く節し、職を思いて其の憂いを懐い、皆時に若くすれば、庶幾くは理ならん。重陽の会に因り、聊か懐う所を示す。早衣庭燎に対し、躬化勤めて意誠なり。時に此の万樞暇あり、適に佳節と並ぶ。曲池寒流を絜くし、芳菊金英を舒ぶ。乾坤爽気澄み、臺殿秋光清し。朝野年豊を慶び、高会多く欢声あり。永く荒誡無きを懐い、良士同じく斯の情なり。

詔を下して曰く、「卿等重陽の会宴に、朕は歓洽を想い、欣慰多く、情は中より発し、因りて詩序を制す。今卿等に一本を賜う、中書門下に於いて文詞の士三五十人を簡定し応制せしめ、同じく『清』の字を用い、明日の内に延英門に於いて進め来らしむべし」と。宰臣李泌等は詔を奉じて簡択すと雖も、取捨に難し、是より百僚皆和す。上自ら其の詩を考へ、太真及び李紓等四人を上等と為し、鮑防・于邵等四人を次等と為し、張濛・殷亮等二十三人を下等と為す。而して李晟・馬燧・李泌三宰相の詩は、考第を加へず。

初め、硃泚・懐光の乱に、関輔饑饉を薦め、貞元三年以後、仍く歳豊稔にして、人始めて生人の楽を復す。徳宗詔して曰く、「比者卿士内外、朝夕公務に従ふ、今方隅事無く、蒸民小康なり、其の正月晦日・三月三日・九月九日の三節日に、宜しく文武百僚に任せ勝地を択び追賞せしむべし。毎節宰相・常参官に共に銭五百貫文を賜ひ、翰林学士に一百貫文を賜ひ、左右神威・神策等十軍に各五百貫を賜ふ。金吾英武・威遠及び諸衛将軍に共に二百貫を賜ひ、客省奏事に共に一百貫を賜ふ、度支に委ね毎節前五日に支給せしめ、永く常制と為す」と。

李紓

李紓は、字は仲舒、礼部侍郎希言の子なり。少くして文学有り。天宝末、秘書省校書郎に拝す。大暦初、吏部侍郎李季卿薦めて左補闕と為し、累遷して司封員外郎・知制誥に至り、中書舎人に改む。尋いで虢州刺史より征へられ礼部侍郎に拝す。徳宗奉天に居す、択まれて同州刺史と為し、尋いで州を棄て梁州行在に詣り、兵部侍郎に拝す。反正し、兼ねて選事を知る。李懐光誅さる、河東節度及び諸軍河中に会す、詔して往きて節度を宣労せしめ、使より還り、敷奏旨に合ひ、礼部侍郎に拝す。

紓は通達にして、諧謔を善くし、後進を接するを好み、自ら奉養を厚くし、輿馬を鮮華にし、放達蘊藉を以て称せらる。大官と為ると雖も、而して佚遊して宴を佐け、自ら忘れざるを嘗めず。嘗て武成王を享くるは文宣廟に視すべからざるを議し、奏して云く、「開元十九年の勅に準へば、斉太公廟を置き、張良を以て配し、太常卿及び少卿・丞を以て三献官と充つ。又《開元礼》の祝文に云く『皇帝某官を遣して斉太公・漢留侯に昭告す』と。至上元年に至り、勅して太公を追贈して武成王と為し、享祭の典、文宣王に一同し、有司因りて太尉を差し献官と充て、兼ねて御署の祝板と為す。伏して惟ふに、太公は即ち周の太師、張良は即ち漢の少傅、聖朝祀典に列して、已に褒崇極まれり。今礼を至尊に屈し、敬を臣佐に施すは、理或は過当にして、神何ぞ敢て歆かん。伏して惟ふに、文宣は教を垂れ、百代の宗師、五常三綱、其の訓に非ざれば明らかならず、国を有ち家を有つ、其の制に非ざれば立たず、故に孟軻称して『生人已来、一人のみ』と。是に由りて素王の位を正し、先聖の名を加へ、楽は宮懸を用ひ、献は太尉を差し、師を尊び道を崇むるは、政経に雅合せり。且つ太公の述作は《六韜》に止まり、勲業は一代に形はる、豈に諸の盛徳に擬し、其の殊礼を均うすべけんや。其の祝文は請ふらくは進署せず、『敢て昭告す』は請ふらくは『敬して祭る於』に改め、『其れ昭告す』は請ふらくは『致祭す留侯に於いて』に改め、其の献官は請ふらくは旧式に準ひ、太常卿已下を差し充つべし」と。詔して百僚に進議せしむ。文武官上言し、互に異同有り。詔して曰く、「帝徳広運、乃武乃文、文化武功、皇王の二柄、祀礼敬を教へ、国章孔明なり。自今宜しく上将軍以下を以て献官と充つべく、余は紓の奏する所に依れ」と。紓又詔に応じて《興元紀功述》及び郊廟楽章を為し、諸の論著甚だ衆し。官に卒す、年六十二。貞元八年、礼部尚書を贈らる。

邵説

邵説は、相州安陽の人なり。進士に挙げられ、史思明の判官と為り、思明・朝義に歴事し、常に兵事を掌る。朝義の敗れに、説は軍前に降り、郭子儀其の才を愛し、幕下に留む。累授して長安令・秘書少監に至り、遷りて吏部侍郎・太子詹事と為り、才幹を以て称せらる。談者或は宰相を以て之を許す、金吾将軍裴儆、諫議大夫柳載に謂ひて曰く、「鄙夫の度る所を以てすれば、説の禍を得るは久しからず。且つ説は史思明父子と君臣の分を定め、劇官に居り、兵柄を掌り、躯を亡くして順を犯し、前後百戦し、賊庭に於いて名家の子女を掠めて婢仆と為す者数十人、宝貨を剽盗し、紀極を知らず。力屈して然る後に降り、朝廷之を宥して死せず。班序に歯せられ、厚顔無く、而して又惶惶として財を求め、第宅を崇飾し、貴幸に附托し、以て大用を求め、愧懼を知らずして得色有り、其れ能く久からんや」と。建中三年、厳郢罪を得、説は郢と厚く善し、硃泚を勧めて疏を抗ひて其の冤を申さしめ、説之が為に其の奏を草す、上之を知り、説を貶して帰州刺史と為し、竟に貶所に卒す。

于邵

于邵は、字は相門、其の先代に家す、今は京兆万年の人なり。曾祖筠は、戸部尚書。邵は天宝末進士に登科し、書判超絶、崇文館校書郎を授かる。累歴して使府に在り、入りて起居郎と為り、再遷して比部郎中に至り、尚二十考第を吏部に於いてし、以て当に称すべし。未だ幾ばくもあらず、出でて道州刺史と為り、道に就かず、転じて巴州と為る。時に歳儉しく、夷獠数千山沢に相聚ひ、州を囲み衆を掠む、邵州兵を励まして以て之を拒ぐ。旬に二日有りて、使を遣はし説喻す、盗邵の面降を邀ふ、邵儒服を以て出城し、盗羅拜して降り、囲解く、節度使李抱玉以て聞こゆ、超遷して梓州と為し、疾を以て至らず、遷りて兵部郎中と為る。西川節度使崔寧請ひて留めて支度副使と為す。尋いで諫議大夫・知制誥に拝し、再遷して礼部侍郎・史館修撰と為り、三司使と為る。上尊号冊を撰するを以て、階三品を賜ひ、当時大詔令は、皆邵に出づ。頃く之、御史中丞袁高・給事中蔣鎮と雑りて左丞薛邕の詔獄を理む。邵は邕の犯す所赦前に在りと為し、奏して之を出だす、旨を失ひ、貶されて桂州長史と為る。貞元初、原王傅を除き、後に太子賓客と為り、宰相陸贄と睦まじからず。八年、出でて杭州刺史と為り、疾を以て告を請ひ、坐して貶され衢州別駕と為り、移して江州別駕と為り、卒す年八十一。

邵は性孝悌にして、内行修潔、老いて弥く篤し。初め、樊澤常に賢良方正に挙げらる、邵一たび之を京師に見て曰く、「将相の材なり」と。十五年を経ず、澤は節将と為る。崔元翰年近く五十、始めて進士に挙げらる、邵其の文を異とし、擢第して甲科と為し、且つ曰く、「十五年を経ず、当に詔令を掌らん」と。竟に其の言の如し。独孤授博学宏詞に挙げらる、吏部考へて乙第と為し、中書に於いて覆へし甲科に升る、人其の当るを称す。集四十巻有り。

崔元翰

崔元翰は博陵の人である。進士に及第し、博学宏詞の制科に登り、また賢良方正・直言極諫の科に応じ、三度の挙げられて皆甲第に昇り、年は既に五十余りであった。李汧公(李勉)が滑臺を鎮守する時、彼を辟召して従事とした。後に北平王馬燧が太原に在った時、その名を聞き、礼を致して命じ、また燧の幕府の掌書記となった。朝廷に入って太常博士・礼部員外郎となった。竇參が政を輔ける時、彼を用いて知制誥とし、詔令は温雅で、典謨に合っていた。しかし性質はあまりに剛直で偏狭・簡傲であり、時に取容することができず、発言する毎に少しも阿諛追従せず、執政の旨に忤った。故に誥を掌ること二年にして、官は遷らなかった。遂に知制誥を罷められ、比部郎中を守った。元翰は文章に苦心し、時に年七十余り、学を好んで倦まず。既に介独で耿直であったから、交遊は少なく、ただ一つの操りを秉り、翰墨に伏膺した。その対策及び奏記・碑誌は、班固・蔡伯喈に師法し、思致は精密であった。時に擯斥され、散位に終わった。

于公異

于公異は呉の人である。進士に及第し、文章は精抜で、時に称せられた。建中末、李晟の招討府の掌書記となった。興元元年、京城を収める時、公異が行在に上った露布に云う、「臣は既に宮禁を粛清し、謹んで寝園に奏し、鐘虡は移らず、廟貌は旧の如し」。徳宗はこれを見て、涙を流して自ら勝えず、左右これが為に嗚咽した。既にして曰く、「誰がこれを為したか知らぬ」。或る者が対えて曰く、「于公異の詞です」。上は久しく善しと称した。

公異が初めて進士に応じた時、挙人陸贄と協わず、この時に至り贄が翰林学士となり、上に称せられるのを聞き、特に悦ばなかった。時に議する者が言うには、公異は少時、後母に容れられず、自ら遊宦して名を成し、郷里に帰らず、貞元中に陸贄が宰相となり、公異に素行無しと奏して、これを黜した。詔に曰く、「祠部員外郎于公異は、頃に才名を以て省闥に昇った。その少き時、父母に容れられず、宜しくその慝を躬に引き、孝行を匱わず、匿名跡を畎畝にし、安否を門閭に候い、その親の過ちを彰さず、その誠の至り必ず感ぜしむべし。棄斥に安んじ、遠方に遊学し、その温凊の恋を忘れ、遂に存亡の隔たりに至る、人子たる者、忍んでここに至るか。宜しく田里に放ち帰し、自ら循省せしむべし。その公異を挙げた官尚書左丞盧邁は、宜しく俸を奪うこと両月とすべし」。時に中書舎人高郢が監察御史元敦義を推薦し、公異の譴逐を見て、累わられることを懼れ、乃ち上疏してまず敦義が礼教に虧けることを陳べ、詔は郢の過ちを知ることを嘉し、敦義を罷め帰らしめた。公異は遂に名位振わず、坎坷にして卒し、人士はその才を惜しみ、贄の褊急を悪んだ。

呂渭

呂渭は字を君載といい、河中の人である。父は延之、越州刺史・浙江東道節度使。渭は進士に挙げられ、累次授けられて婺州永康令・大理評事となった。浙西観察使李涵が辟召して支使とし、再び遷って殿中侍御史となった。涵が御史大夫から太子少傅に改まった時、渭が上言して、「涵の父の名は少康、今涵が少傅となるは、恐らく朝典に乖かん」。これにより特に渭を司門員外郎に授けた。尋ねて御史臺に劾奏され、「涵が再任して少卿となった時、この時は皆言わず、今少傅となり、散慢を疑い、乃ち不可と為す」。これにより渭を歙州司馬に貶し、涵を改めて検校工部尚書・兼光禄卿とした。

渭は累次授けられて舒州刺史・吏部員外・駕部郎中・知制詔・中書舎人となり、母憂で罷まった。服闋し、太子右庶子・礼部侍郎を授かった。中書省に柳樹があり、建中末に枯死したが、興元元年に車駕が京に還った後、その樹が再び栄え、人はこれを瑞柳といった。渭が進士を試みる時、瑞柳を賦題に取り、上聞いてこれを嘉した。渭はまた裴延齢の子操に結附し、進士に挙げたが、文詞は工ならず、渭がこれを擢て登第させたので、正人に嗤鄙された。因って入閣して請托の文記を遺失し、遂に出されて潭州刺史・兼御史中丞・湖南都団練観察使となり、任に在ること三歳、政は甚だ煩碎であった。貞元十六年に卒し、年六十六、贈られて陜州大都督。子に温・恭・儉・讓あり。

子 温

温は字を化光といい、貞元末に進士に及第し、翰林学士韋執誼と善し。順宗が東宮に在った時、侍書王叔文が太子に勧めて時の英俊を招納して自ら輔けしめ、温と執誼は特に叔文に睠われ、起家して再命され左拾遺に拝された。二十年冬、工部侍郎張薦の副として入吐蕃使となり、鳳翔に行き至り、侍御史に転じ、緋袍牙笏を賜った。明年、徳宗晏駕し、順宗即位し、張薦は青海に卒し、吐蕃は中国に喪禍あるを以て、温を留めて経年した。時に王叔文が事を用い、故に温と同しく東宮に遊んだ者は皆不次に任用されたが、温は蕃中に在り、久しく悲嘆した。元和元年、使より還り、戸部員外郎に転じた。時に柳宗元等九人は叔文に坐して貶逐された。唯だ温は奉使を以て免れた。

温は天才俊抜、文彩贍逸で、時の流れ柳宗元・劉禹錫に称せられた。しかし性質多く険詐、奇を好み利に近く、竇群・羊士諤と趣尚相狎んだ。群は韋夏卿に推薦され、処士より数年に至らずして御史中丞となり、李吉甫は特に奇待した。三年、吉甫が中官に悪まれ、将に揚州に出鎮せんとする時、温はその間に乗じてこれを傾けんとした。温は司封員外郎より転じて刑部郎中となり、竇群は請うて知雑とした。吉甫は疾ありて第に在り、医人陳登を召して診視せしめ、夜は安邑裏の第に宿した。温はこれを伺い知り、詰旦、吏をして登を捕え鞫問せしめ、また奏劾して吉甫が術士と交通することを挙げた。憲宗はこれを異とし、登を召して面訊し、その事皆虚なり、乃ち群を湖南観察使に貶し、羊士諤を資州刺史に、温を均州刺史に貶した。朝議は責むる所軽きを以て、群を再び黔南に貶し、温を道州刺史に貶した。五年、衡州に転じ、秩満して京に帰り、意を得ず、疾を発して卒した。温の文体は富艷で、丘明・班固の風有り、著す所の『淩煙閣功臣銘』・『張始興画賛』・『移博士書』は、頗る文士に賞せられ、文集十巻有り。

子 恭・儉

恭・儉は皆侍御史に至り、讓は太子右庶子に至り、皆美才有り。その後吉甫が再び中書に入り、長慶以後、李徳裕の党盛んとなり、呂氏の諸子は達官に至る者無し。

鄭雲逵

鄭雲逵は滎陽けいようの人である。大暦初、進士に挙げられた。性質は果敢で誕敢に言う。客遊して両河し、画を以て硃泚に幹き、泚悦び、乃ち表して節度掌書記・検校祠部員外郎とし、仍て弟滔の女を妻とした。泚が入覲せんとする時、先ず雲逵をして入奏せしめ、泚が京に至り、事を以て雲逵に怒り、奏して莫州参軍に貶した。滔が泚に代わった後、判官を請うた。滔が田悦を助けて逆を為す時、雲逵はこれを諭して従わず、遂に妻子を棄てて馳せて長安に帰り、帝はその来たるを嘉し、客省に留め、超えて諫議大夫に拝した。奉天の難に、雲逵は行在に奔赴し、李晟は行軍司馬とし、戎略多く以てこれを諮った。歴て秘書少監・給事中、尋ねて大理卿を拝し、刑部・兵部二侍郎に遷り、御史中丞に遷り、順宗山陵橋道置頓使を充てた。

雲逵は初め硃泚の判官となり、常に同幕の蔡庭玉と対立した。庭玉が泚に訴えると、左遷されて莫州録事参軍となった。滔が再び奏上して判官とし、そこで深く庭玉を滔に讒言した。滔が泚の留後事を務めるにあたり、泚に請願する際、庭玉はまたしばしばこれを妨害した。また判官の硃體微もまた泚の親信を得ており、庭玉と共にしばしば泚に言うには、「滔は長者ではなく、兵権を託すべきではない」と。滔は密かにこれを知った。後に滔が南征して功績を立てると、雲逵はたびたび滔を激怒させ、滔はついに上表して庭玉らが骨肉を離間することを論じた。滔が叛くと、帝は泚を召して表を示し、故に庭玉らに罪を帰して滔を喜ばせたが、滔もついに叛いた。三年、雲逵は奏上して、弟の前太僕丞方逵は「性質凶暴で道理を知らず、君主と親をわきまえず、多くの悪事を身に備え、訓戒教化も及ばず、凶悪な徒党を結び、江中で人を掠奪した。臣の亡父先臣昈は杖を百回加えたが、ついに死なせることができなかった。張延賞が揚州に任じていた時も、かつて延賞の法を犯し、死刑を宣告されて蘇生した。常日頃の言葉に至るまで、皆臣の亡父先臣の名を呼び、親戚の知るところであり、教え諭す言葉もない。先ごろ邠・寧・慶等の州で節度使や州県に干謁し物乞いをしたと聞き、今は武功県の南におり、西戎が近くに控えているので、異心を抱く恐れがある。もし死を冒して奏上しなければ、必ずや臣の家族を滅ぼすであろう」と。詔して京兆府に命じ、身柄を拘束して黔州に護送し、李模に付して僻遠の州で使役させ、東西に行き来することを許さない。

雲逵は元和元年に右金吾衛大將軍に任じられ、その年のうちに京兆尹に改められた。五年五月に卒した。

李益

李益は、肅宗朝の宰相李揆の族子である。進士第に及第し、歌詩を得意とした。貞元の末、同族の李賀と並び称された。一篇を作るごとに、教坊の楽人が賄賂を贈って求め、供奉歌詞として歌われた。その『征人歌』・『早行篇』は、好事家が屏風に描いた。「回楽峰前沙似雪、受降城外月如霜」の句は、天下に歌詞として広まった。しかし若い頃から癡病があり、猜忌心が強く、妻妾を防閑するのに過度に苛酷で、「散灰扃戸」の話が世に知られたため、当時、嫉妬と癡病を「李益疾」と呼んだ。このため長く昇進せず、同輩は皆顕位に就いた。益は意を得ず、北に河朔を遊歴し、幽州の劉濟が従事に辟召した。常に濟に詩を贈り、「不上望京樓」の句があった。

憲宗はかねてよりその名を聞き、河北から召還して秘書少監・集賢殿學士に用いた。自ら才地を恃み、多くを軽蔑し、衆に容れられず、諫官がその幽州の詩句を挙げて弾劾したため、散官に降格された。まもなく再び秘書監に用いられ、太子賓客・集賢學士判院事に遷り、右散騎常侍に転じた。太和の初め、禮部尚書をもって致仕し、卒した。

李賀

李賀は、字を長吉といい、宗室の鄭王の後裔である。父の名は晉肅であったため、進士に応じず、韓愈がそのために『諱辨』を作ったが、賀はついに試験を受けなかった。筆が敏捷で、特に歌篇に長じていた。その文思と体勢は、高い巌や切り立った崖のようで、万仞そびえ立ち、当時の文士がこれに倣ったが、似る者はなかった。その楽府詞数十篇は、雲韶の楽工に至るまで、諷誦しない者はなかった。太常寺協律郎に補され、卒した。時に二十四歳。

史臣が曰く、文学の士は、代々才に乏しくない。永泰・貞元の間、徐浩・趙涓らの諸公は、まさに一時の秀でた者と言えよう。しかし太真は畏懦をもって知られ、邵說は僭侈によって失脚し、于公異・呂渭・李益は皆わずかな過失があった。故にその徳を全うする者は稀であることを知る。

贊に曰く、名は才によって顕れ、才は徳を兼ねて尊ばれる。徐・趙・劉・李、その名声は遠く聞こえる。邵・于・呂・鄭、その名は久しく存する。全徳に半ば乏しく、後人に愧じる。