旧唐書 巻一百二 列伝第五十二 馬懐素 褚無量 劉子玄 徐堅 元行沖 呉兢 韋述

旧唐書

巻一百二 列伝第五十二 馬懐素 褚無量 劉子玄 徐堅 元行沖 呉兢 韋述

馬懐素

馬懐素は、潤州丹徒の人である。江都に寓居し、若くして李善に師事した。家は貧しく灯燭がなく、昼は薪を採り、夜はそれを燃やして読書し、ついに経史を博覧し、文章をよくした。進士に挙げられ、また制挙に応じ、文学優贍科に登第し、郿尉に拝され、四転して左台監察御史となった。

長安年間、御史大夫魏元忠が張易之に陥れられ、嶺表に配流されることとなり、太子僕崔貞慎・東宮率独孤禕之が郊外で餞別した。易之は怒り、人を使い貞慎らが元忠と共謀したと誣告させた。則天武后は懐素に審理を命じ、中使を遣わして催促し、この事をでっち上げるようほのめかしたが、懐素は公正を守り命令を受けなかった。則天は怒り、懐素を召し出して自ら詰問した。懐素が奏上して言うには、「元忠は罪を犯して配流となり、貞慎らは親しい故に送別したのであり、確かに責められるべきではありますが、謀反と見なすならば、臣がどうして神明を欺くことができましょうか。昔、彭越は反逆の罪で誅殺され、欒布がその屍の下で奏事したが、漢朝は罪に問いませんでした。まして元忠の罪は彭越のようではなく、陛下はどうして追送の罪をお加えになられましょう。陛下は生殺の権をお持ちで、罪を加えようとなされば、聖なるお心で決められればよいのです。もし臣に推問をお任せになるなら、臣は敢えて陛下の法を守らぬことがありましょうか」。則天の怒りは解け、貞慎らはこれによって免罪となった。当時、夏官侍郎李迥秀は張易之の権勢を頼みに賄賂を受け取っていたが、懐素が弾劾したので、迥秀は遂に政事を罷めさせられた。懐素は累転して礼部員外郎となり、源乾曜・盧懐慎・李傑らと共に十道黜陟使を充てられた。懐素は事を処するに公平で寛大であり、当時に称えられた。使いから戻り、考功員外郎に遷った。当時、貴戚はほしいままに振る舞い、私的な依頼が公然と行われていたが、懐素は誰にもへつらわず、科挙の選挙を公平に行い、中書舎人に抜擢された。開元初め、戸部侍郎となり、銀青光禄大夫を加えられ、累封して常山県公となり、三転して秘書監となり、昭文館学士を兼ねた。

懐素は吏職にありながら篤学で、手から書物を離さず、謙虚で恭しく慎み深く、深く玄宗に礼遇され、左散騎常侍褚無量と共に侍読とされた。毎回、閣門に至ると、肩輿に乗って進むことを許された。上(玄宗)が別館におられる時は、道が遠いため、宮中で馬に乗ることを命じ、あるいは自ら送迎して、師としての礼を表された。この時、秘書省の典籍は散逸し、整理されていなかったので、懐素は上疏して言うには、「南斉以前の書籍は、かつて王儉の『七志』に編まれました。以後の著述はその数が多く、『隋志』に記されたものも詳しくはありません。あるいは古書が近くに出て、前の志に欠けて編まれていないものがあり、あるいは近人の伝えるところで、浮ついた言葉や卑しいものでもなお記されているものがあります。もし編録がなければ、淄水と澠水の区別が難しいでしょう。近くの書物の篇目を網羅して検討し、併せて前の志に遺漏したものを、王儉の『七志』に続けて編纂し、秘府に蔵することを望みます」。上はそこで学識に通じた者である国子博士尹知章らを召し、部門を分けて撰録させ、併せて経史を刊正し、おおよその首尾を創り始めた。折しも懐素が病没した。六十歳であった。上は特にそのために哀悼の意を示し、一日朝政を止め、潤州刺史を追贈し、諡して文といった。

褚無量

褚無量は、字を弘度といい、杭州塩官の人である。幼くして孤貧であったが、志を励まして好学であった。家は臨平湖に近く、時に湖中で龍が闘い、里中の人が皆見物に行ったが、無量は当時十二歳で、読書していて平然として動じなかった。成長してからは、特に『三礼』と『史記』に精通し、明経に挙げられ、累除して国子博士となった。景龍三年、国子司業に遷り、修文館学士を兼ねた。この年、中宗が自ら南郊で祭祀を行おうとされ、詔して礼官・学士に儀注の修定を命じた。国子祭酒祝欽明・司業郭山惲は皆、上意を迎え、皇后を亜献とするよう請うたが、無量はただ一人、太常博士唐紹・蒋欽緒と共に固く争い、不可であるとした。無量は建議して言うには、

郊祀とは、明王の盛んな事績であり、国家の大礼である。その礼を行う者は、臆断してはならず、私情で求めてはならず、皆上は天の心に順い、下は人の事に合い、古えを敬って考察し、旧章に従ってこそ、神明と交わり、福祐を受けることができる。しかし礼の条文は多いといえども、『周礼』に及ぶものはない。『周礼』とは、周公が太平を致した書であり、先聖が極めて衷心を尽くした典であり、天地に法って教化を行い、方位を弁えて人倫を秩序立てる。その義は神明を幽かに助けることができ、その文は邦国を経緯することができ、物を備えて用に致す。どうして軽んじることができようか。冬至の円丘の祭りは、祭祀の中で最も大きく、皇后は内の主であり、礼の位は甚だ尊い。もし天を郊で祀るのを助祭するならば、礼典に具に著されるべきである。今、『周官』を遍く検するも、この儀制はない。それは、天を南郊で祭るには、地を配せず、ただ始祖を主とし、祖妣を天に配さないため、ただ皇帝が自らその礼を行い、皇后は参与すべきではないからである。謹んで『大宗伯』の職に云う、「若し王祭祀せずば、則ち位を摂す」と。『注』に云う、「王に故あり、其の祭事を行ふに代はる」と。下文に云う、「凡そ大祭祀、王后与からずば、則ち摂して豆籩を薦め、徹す」と。もし皇后が助祭すべきならば、この下文を受けて、即ち当に「若し祭祀せずば、則ち摂して豆籩を薦む」と云うべきである。今、文の上に更に「凡そ」を起こしているのは、則ち別に余事を生じているのである。事が上と異なれば、則ち別に「凡そ」を起こす。「凡そ」とは、上を生じ下を起こす名であって、本職に専ら係わるものではない。『周礼』一部の内、この例は極めて多く、文中に備わっており、具に録することはできない。また、王后が助祭する時は、自ら豆籩を薦めて徹さない。『九嬪』の職に云う、「凡そ祭、後を賛して薦め、豆籩を徹す」と。『注』に云う、「後進むるも徹さず」と。則ち知る、中で徹すというのは、宗伯のために文を生じたのである。もし宗伯が祭祀を摂るならば、宗伯が自ら徹し、別に人を使わない。また、「外宗は宗廟の祀を掌り、王后与からずば、則ち宗伯を賛す」とある。この一文は、上の文と互いに証し合う。どうして明らかにするか。外宗はただ宗廟の祭祀を掌り、郊天を掌らない。これによって、この文は宗廟の祭であることが十分に明らかである。王后が行事することは、総じて『内宰』の職の中にある。その職文を検するに、ただ云う、「大祭祀、後が稞献すれば則ち賛し、瑤爵も亦た之の如し」と。『鄭注』に云う、「宗廟を祭るを謂ふ」と。『注』が知る所以は、文に「稞献」と云い、天を祭るには稞がないことによって、これを知ったのである。また、天を祭る器は陶匏を用い、瑤爵もない。『注』はこれによって宗廟であることを知ったのである。また、内司服は王后の六服を掌るが、天を祭る服はない。而して巾車の職は王后の五輅を掌るが、また后が天を祭る輅はない。天を祭るのは七献であるが、后の亜献はない。これらの諸文を参酌すれば、故に后は天を助祭すべきではないと知る。ただ『漢書』『郊祀志』には天地合祭し、皇后が預かって享ける事がある。これは西漢の末代、強臣が朝政を擅にし、彝倫に悖り乱れ、神を汚して祭りを諂い、経典に合わぬことで、事は神を誣いることに及んでいる。故に『易伝』に曰く、「神を誣る者は、殃三代に及ぶ」と。『太誓』に曰く、「古を正しく稽へ功を立て事を立てば、以て永年を保ち、天の大律を承くべし」と。これらは史策の良き誡めであり、どうして知らぬことがあろうか。今、南郊の礼儀は、事が古えを稽えず、経術を守る者として、黙しているわけにはまいりません。どうか広く碩儒に尋ね、旧典を拾い、曲台の故事を採り、円丘の正儀を行い、聖朝が昭かで広大な道に叶い、天下が文物の盛んなることを知らしめられれば、豈に幸いでないことがありましょうか。

当時、左僕射韋巨源らは上意に阿り、欽明の議に同調し、遂に無量の上奏は聞き入れられなかった。

まもなく母が老齢であることを理由に官を停めて帰郷し侍養することを請うた。景雲の初め、玄宗が春宮(皇太子)に在った時、召されて国子司業に拝され、兼ねて皇太子侍読を務め、かつて『翼善記』を撰してこれを進上したところ、皇太子は書を降して嘉労し、絹四十匹を賜った。太極元年、皇太子が国子学において親しく釈奠の礼を行い、褚無量に『老子』『礼記』を講ぜしめたところ、それぞれ端緒に随って義を立て、博くしかも弁明に富み、観覧者は嘆服した。終わると、銀青光禄大夫を進授され、兼ねて章服を賜い、併せて彩絹百段を賜った。玄宗が即位すると、郯王傅に遷り、兼ねて国子祭酒を務めた。まもなく師傅の恩により左散騎常侍に遷り、なお兼ねて国子祭酒を務め、舒国公に封ぜられ、実封二百戸を賜った。間もなく、丁憂(父母の喪)により職を解き、墓の側に廬を結んだ。その植えた松柏を、時に鹿が犯すことがあった。無量は泣いて言うには、「山中には多くの草があるのに、どうして忍んで我が先祖の塋域の樹を犯すのか」と。そこで一晩中守護した。やがて一群の鹿が馴れ親しみ、再び侵害しなくなった。無量はこのため終生鹿肉を食さなかった。服闋(喪明け)すると、召されて左散騎常侍に拝され、再び侍読となった。その年老いているため、毎回仗衛に随って出入りする際、特に緩行を許され、また腰輿を造らせ、内給使に命じて内殿まで輿させた。無量は頻りに上書して時政の得失を陳べ、多くは採用された。またかつて手勅を以て褒美され、物二百段を賜った。

無量は内庫の旧書が、高宗の代からすでに宮中に蔵されていたが、次第に散逸しつつあることを以て、繕写・刊校を奏請し、経籍の道を弘めることを求めた。玄宗は東都の乾元殿前に架を施して排列させ、大いに捜集・書写を加え、広く天下の異本を採ることを命じた。数年の間に、四部の書が充実完備し、引き続き公卿以下を殿前に引き入れ、自由に観覧させた。開元六年、車駕が還都すると、また勅して無量に麗正殿において前の功績を継続させた。皇太子及び郯王嗣直ら五人、年齢が十歳に近いが、まだ就学していなかったので、無量は『論語』『孝経』をそれぞれ五部ずつ繕写して献上した。上(玄宗)はこれを見て言うには、「我は無量の意を知る、無量(限りない)なり」と。直ちに経に明るく篤行の士、国子博士郤恆通・郭謙光、左拾遺潘元祚らを選び、太子及び郯王以下の侍読とした。七年、詔して太子に国子監において歯冑の礼を行わせ、無量は座に登って経を説き、百官が集まって観覧し、礼が終わると、賞賜は甚だ厚かった。翌年、無量は病没した。享年七十五。臨終に遺言して、麗正殿での写書が未だ完了していないことを恨みとした。上は哀悼の礼を挙げ、朝を廃すること二日、礼部尚書を追贈し、諡して文といった。

初め、褚無量と馬懷素はともに侍読であり、顧み待遇は甚だ厚かった。及んで無量らが卒した後、秘書少監康子原、国子博士侯行果らがまた入って侍講となったが、たびたび賞賜を加えられたものの、礼遇は褚無量には及ばなかった。

劉子玄

劉子玄、本名は知幾、楚州刺史劉胤之の族孫である。若くして兄の知柔とともに詞学をもって知名となり、弱冠にして進士に挙げられ、獲嘉主簿を授かった。証聖年間、制があり文武九品以上の者は各々時政の得失を言上せよとのこと、知幾は上表して四事を陳べ、言葉は甚だ切直であった。この時、官爵は僭濫し、法網は厳密で、士類は競って進取を図り多く刑戮に陥った。知幾はそこで『思慎賦』を著して時勢を諷刺し、かつ己の意を表した。鳳閣侍郎蘇味道・李嶠はこれを見て嘆じて言うには、「陸機の『豪士賦』の及ぶところではない」と。

知幾は長安年間に累遷して左史となり、兼ねて国史を修めた。擢て鳳閣舎人に拝され、修史は従前の通りであった。景龍の初め、再び転じて太子中允となり、依然として国史を修めた。時に侍中韋巨源・紀処訥、中書令楊再思、兵部尚書宗楚客、中書侍郎蕭至忠が並んで国史を監修していた。知幾は監修者が多いことを以て、甚だ国史の弊害となると考えた。蕭至忠はまたかつて知幾に著述の実績がないと責めた。知幾はそこで史職を罷めることを求め、至忠に奏記して言うには、

私は自ら名を策して士伍に列し、朝列に待罪し、三たび史臣となり、再び東観に入ったが、ついに国典を勒成し、後来の者に貽すことができなかった。なぜか。静かにこれを思うに、その不可なること五つがある。何ぞや。古の国史は、皆一家より出ず。魯・漢の丘明・子長、晋・齊の董狐・南史のごときは、皆能く立言して朽ちず、名山に蔵す。未だ衆功を藉りて、方に絶筆を雲うを聞かず。ただ後漢の東観においては、大いに群儒を集むるも、著述に主なく、条章立たず。ここにおいて伯度はその不実を譏り、公理は焚くべしと為し、張・蔡の二子はこれを当代に紀し、傅・范の両家はこれを後葉に嗤う。今、史司は士を取るに、東京に倍し、人は自ら荀・袁と為し、家は自ら政・駿と称す。毎に一事を記し、一言を載せんと欲すれば、皆筆を閣きて相視、毫を含みて断たず。故に首白は期すべくも、汗青は日無し。その不可なること一なり。前漢の郡国計書は、先ず太史に上り、副えて丞相に上る。後漢の公卿の撰する所は、始めて公府に集まり、乃ち蘭臺に上る。ここにおいて史官の修むる所、事を載するに博なり。元より近古より、この道行われず、史臣の編録する所、ただ自ら詢采するのみ。而して左右二史は、起居を註するを闕き、衣冠百家は、行状を通ずることを罕にす。風俗を州郡に求めれば、視聴該からず、沿革を臺閣に討つれば、簿籍見難し。たとえ尼父再出するも、なおその管窺を成すべく、況や中才を限りとし、安んぞ能くその博物を遂げんや。その不可なること二なり。昔、董狐の書法は、朝に示し、南史の書弒は、簡を執いて往く。而るに近代の史局は、皆籍を通じて禁門にし、九重に幽居し、人に見られざらんと欲す。その義を尋ぬれば、かの顔面を杜ぎ、諸の請謁を防ぐ故なり。然れども今、館中の作者は、多士林の如く、皆長喙を願い、舌を聞かず。もし五始初めて成り、一字加えて貶せば、言未だ口を絶たざるに朝野具に知り、筆未だ毫を棲めざるに搢紳咸に誦す。夫れ孫盛の実録は、権門に嫉まれ、王韶の直書は、貴族に讎せらる。人の情なり、畏れ無からんや。その不可なること三なり。古は一史を刊定し、一家を纂成するに、体統各々殊なり、指帰咸く別なり。夫れ『尚書』の教えは、疏通して遠きを知るを主とし、『春秋』の義は、悪を懲め善を勧むるを先とす。『史記』は則ち処士を退け奸雄を進め、『漢書』は則ち忠臣を抑え主闕を飾る。これ並びに曩賢得失の例、良史是非の準なり、作者これを詳かに言う。頃、史官の註記は、多く監修に稟取り、楊令公は則ち「必ず直詞を須うべし」と雲い、宗尚書は則ち「宜しく多く悪を隠すべし」と雲う。十羊九牧、その事行い難く、一国三公、適従焉にか在る。その不可なること四なり。窃かに史に監修を置くは、古式無きも、その名号を尋ぬれば、言うを得べし。夫れ監と雲うは、蓋し総領の義なり。紀を創めて年を編むれば、則ち年は断限有り、伝を草して事を叙すれば、則ち事は豊約有り。或いは略すべくして略さず、或いは書くべくして書かず、これ刊削の例を失うなり。詞を属し事をならするに、労逸宜しく均しくすべく、鉛を揮い墨を奮うに、勤惰須らく等しからん。某の帙某の篇は、この職に付し、某の紀某の伝は、この官に帰す。これ銓配の理なり。これ並びに宜しく科条を明らかに立て、区域を審かに定むべし。もし人思いて自ら勉むれば、則ち書立成すべし。今、監する者は既に指授せず、修むる者は又遵奉無し。用いて争いて苟且を学び、務めて相推避し、坐して炎涼を変じ、徒らに歳月を延ばす。その不可なること五なり。凡そこの不可、その流れ実に多し、一言以て蔽えば、三隅自ずから反す。而して時談物議、焉んぞ笑わんや、仆の編次聞こえ無きを。比者、伏して明公の毎に汲汲として勧誘に、勤勤として課績に在るを見る。或いは雲う、墳籍の事重し、努力して心を用いよ、或いは雲う、歳序已に淹りたり、何時にか手を輟まん。窃かに思うに、綱維挙がらずして、督課徒らに勤む。たとえ次骨の刑を以て威し、懸金の賞を以て勧むとも、終に得べからず。語に曰く、「力を陳べて列に就く、能わざれば則ち止む。」仆の比者、知己に懐を布き、歴に群公を詆し、屡に載筆の官を辞し、記言の職を罷めんと願う所以のもの、正にこの為なり。当今、朝は人を得たりと号し、国は多士と称す。蓬山の下には、良直差肩し、蕓閣の中には、英奇接武す。仆は既に功を刻鵠に虧き、筆麟を獲ず、徒らに太官の膳を殫くし、虚しく長安の米を索む。本職を以て乞い、その旧居に還り、多く簡書に謝し、賢路を避けんことを請う。れ明公足下、哀みてこれを許したまえ。

至忠はその才を惜しみ、史任を解くことを許さず。宗楚客はその正直を嫉み、諸の史官に謂いて曰く、「この人の作する書かくの如し、我を何の地に置かんと欲するか」と。

時に知幾は又『史通子』二十巻を著し、史策の体を備え論ず。太子右庶子徐堅は深くその書を重んじ、嘗て雲う、「史職に居る者は、宜しくこの書を座右に置くべし」と。知幾は自ら史才を負い、常に時に知己無きを慨き、乃ち国史を著作郎呉兢に委ね、別に『劉氏家史』十五巻・『譜考』三巻を撰す。漢氏を推して陸終の苗裔と為し、堯の後ならずとす。彭城叢亭裏の諸劉は、宣帝の子楚孝王囂の曾孫、司徒居巢侯劉愷の後より出で、楚元王交を承けず。皆按拠明白にして、前代の誤れる所を正す。流俗に譏らるるも、学者その該博に服す。初め、知幾は毎に雲う、もし封を受くれば、必ず居巢を以て名と為し、司徒の旧邑を紹がんと。後に『則天実録』を修むる功を以て、果たして居巢県子に封ぜらる。又、郷人は知幾兄弟六人進士及第し、文学に知名なるを以て、その郷里を高陽郷居巢里と改む。

景雲中、累遷して太子左庶子となり、崇文館学士を兼ね、仍って旧く国史を修め、銀青光禄大夫を加う。時に玄宗東宮に在り、知幾は名音上名に類するを以て、乃ち子玄と改む。二年、皇太子将に親しく国学に釈奠せんとす。有司儀註を草し、従塵を令して皆馬に乗り衣冠を著けしむ。子玄進みて議して曰く、

古くは大夫以上の者は皆、車に乗り、馬を驂服そえうまとした。魏・晋以降、隋の時代に至るまで、朝士はまた牛車を駕し、歴代の経史には、いずれもその事があり、一々言うことはできない。例えば李広が北征した際には鞍を解いて休息し、馬援が南伐した際には鞍に寄りかかって顧みた。これらは鞍馬の設けが軍旅において行われ、戎服を着て乗るものは、便習を貴んだのである。按ずるに、江左では官が尚書郎に至って軽々しく馬に乗れば、御史に弾劾された。また顔延之は官を罷めた後、好んで馬に乗って閭裏に出入りし、当時はその放誕を称した。これは専車に憑軾するには朝衣を着け、単馬に鞍を御するには褻服に従うべきで、近古に求めれば、明らかな証拠である。皇家が運を撫でて以来、沿革は時に従う。陵廟の巡謁や王公の冊命には、盛服に冠履し、輅車に乗る。士庶で衣冠を着て親迎する者も、時に服箱を以て充馭とする。他の事柄では、もはや車に乗らず、貴賤の行うところ、通用するのは鞍馬のみである。臣が拝見するに、近ごろ鑾輿が出幸し、法駕が途に就くとき、左右の侍臣は皆、朝服を着て馬に乗っている。冠履を着けて出るのは、ただ車に配して行うべきであり、今や乗車は既に停まり、冠履は変わらない。これはただその一を知りてその二を知らざるというべきである。なぜなら、褒衣博帯、革履高冠は、本来馬上に施すべきではなく、自ずから車中の服である。必ずや襪を履いて鐙に昇り、跣足で鞍に乗れば、古道に師せざるのみならず、自ら今俗を驚かすこととなる。折衷を求めれば、進退ともに適わない。かつ長裾広袖は襜如として翼の如く、鳴珮行組は鏘鏘として奕奕たり、風塵の内に馳驟し、旌棨の間に出入りする。もし馬が驚逸し、人が顛墜すれば、遂に属車の右に履を遺して収めず、清道の傍に驂を絓けて相続くこととなり、固より行路に嗤われ、威儀を損なう。今、議者は皆、秘閣に『梁武帝南郊図』があり、危冠を戴いて馬に乗る者が多い、これは近代の故事であり、その文なしとは謂えないと言う。臣が案ずるに、この図は後人の為したもので、当時の撰ではない。かつ世間に古今の図画があることは多い。例えば張僧繇が『群公祖二疏』を画けば、兵士に芒屩を履く者があり、閻立本が『明君入匈奴』を画けば、婦人に帷帽を着ける者がある。芒屩は水郷に出で、京華の所有する所ではなく、帷帽は隋代に創まり、漢官の作った所ではない。議者はどうしてこの二画を徴して故実と為すことができようか。これによって言えば、『梁氏南郊之図』の義もこれと同じである。また傅に俗に因ると称し、礼は情に縁るを貴ぶ。殷の輅、周の冕は規模一ならず、秦の冠、漢の佩は用捨常ならず。況んや我が国家は道百王を軼し、功万古に高く、事に不便あれば、理変通に資す。その乗馬衣冠は、窃かに省廃に従うべしと謂う。臣がこの異議を懐くこと、その来ること久しく、日暇あらずして、未だ搉楊に及ばず。今、殿下が親しく歯胄に従い、将に国学に臨まんとし、凡そ衣冠を着て馬に乗る者は、皆この行を憚る。故に輒ち狂言を進め、鄙見を申す。

皇太子の手令を外に付して宣行せしめ、仍って令に編入し、常式と為す。

開元初年、左散騎常侍に遷り、修史は従前の如し。九年、長子の貺が太楽令として、事を犯して配流された。子玄が執政に訴えて理を訴えると、上聞いてこれを怒り、これにより安州都督府別駕に貶授された。子玄は国史を掌知し、首尾二十余年、多く撰述し、甚だ当時に称せられた。礼部尚書鄭惟忠が嘗て子玄に問うて曰く、「古より以来、文士多くして史才少なし、何ぞや」と。対えて曰く、「史才には須らく三長有り、世に其人無きを以て、故に史才少なし。三長とは、才なり、学なり、識なり。学有りて才無きは、亦た猶お良田百頃、黄金満籝有りて、愚者をして営生せしめ、終に貨殖に致ること能わざる者と同し。才有りて学無きは、亦た猶お匠石を兼ねて思ひ、巧みこと公輸の若くして、家に楩楠斧斤無くば、終に其の宮室を成すことを果たさざる者と同し。猶お須らく是を好みて正直にし、善悪必ず書き、驕主賊臣をして懼るる所以を知らしむ。此れ則ち虎に翼を傅え、善を知る無く、向かう所敵無き者なり。脱しくも其の才に非ざれば、史任に叨るべからず。夐古より以来、能く斯の目に応ずる者は、其の人を罕にす」と。時人、知言と為す。子玄は安州に至り、幾ばくも無くして卒す。年六十一。幼少より長ずるまで、述作に倦まず、朝に論著有れば、必ず其の職に居る。『三教珠英』『文館詞林』『姓族系録』の撰修に預かり、『孝経』は鄭玄の註に非ず、『老子』は河上公の註に非ずと論じ、『唐書実録』を修す。皆、代に行わる。集三十巻有り。後数年、玄宗は河南府に勅して家に就き『史通』を写して進めしむ。読んで之を善とし、汲郡太守を追贈す。尋いで又、工部尚書を贈り、謚して文と曰う。

兄の知柔は、少より文学政事を以て、荊・揚・曹・益・宋・海・唐等州の長史刺史、戸部侍郎、国子司業、鴻臚卿、尚書右丞、工部尚書、東都留守を歴任す。卒して、太子少保を贈られ、謚して文と曰う。代々儒学の業を伝え、時人は述作を以て其の家を名づく。

子玄の子、貺・餗・匯・秩・迅・迥は、皆、時に知名なり。

子玄の子 貺

貺は、経史に博通し、天文・律暦・音楽・医算の術に明るく、終に起居郎・修国史に至る。『六経外伝』三十七巻、『続説苑』十巻、『太楽令壁記』三巻、『真人肘後方』三巻、『天宮旧事』一巻を撰す。

子玄の子 餗

餗は、右補闕・集賢殿学士・修国史。『史例』三巻、『伝記』三巻、『楽府古題解』一巻を著す。

子玄の子 匯

匯は、給事中・尚書右丞・左散騎常侍・荊南長沙節度使。集三巻有り。

子玄の子 秩

秩は、給事中・尚書右丞・国子祭酒。『政典』三十五巻、『止戈記』七巻、『至徳新議』十二巻、『指要』三巻を撰す。喪紀制度に加籩豆すること、私鋳銭を許すこと、国学を改制することについて論じ、事は各々本志に在り。

子玄の子 迅

迅は、右補闕。『六説』五巻を撰す。

子玄の子に迥がいる。

迥は、諫議大夫・給事中となり、文集五巻がある。

子玄の諸孫。

貺の子に浹・滋がおり、匯の子に贊がいる。滋は貞元中に宰輔の位に至った。贊は観察使となり、独自に伝がある。

徐堅。

徐堅は、西台舎人斉聃の子である。若くして学問を好み、経史を遍く読み、性質は寛厚で長者の風があった。進士に挙げられ、累進して太学を授けられた。聖暦年中、車駕が三陽宮にあった時、御史大夫楊再思・太子左庶子王方慶が東都留守となり、堅を判官に引き立て、表奏を専ら彼に委ねた。方慶は『三礼』の学に詳しく、疑義があると常に堅に質問したが、堅は必ず旧説を徴引し、訓釈を詳しく明らかにしたので、方慶は大いにこれを良しとした。またその文章が典実であることを賞賛し、常に「綸誥を掌る選なり」と称した。再思もまた「これは鳳閣舎人の模範であり、このような才識は逃れ得ない」と言った。堅はまた給事中徐彦伯・定王府倉曹劉知幾・右補闕張説と共に『三教珠英』を編修した。当時、麟台監張昌宗及び成均祭酒李嶠がその事を総領し、広く文詞の士を引き入れ、日夜談論し、詩を賦し会合したが、数年を経ても筆を下すことができなかった。堅はただ一人で説と構想を練って撰録し、『文思博要』を基本とし、さらに『姓氏』・『親族』の二部を加え、次第に条理がまとまった。諸人は堅らの規制に従い、間もなく書は完成し、堅は司封員外郎に遷った。則天はまた堅に『唐史』を刪改するよう命じたが、則天が位を譲ったため中止となった。

神龍初め、再び給事中に遷った。時に雍州の人韋月将が上書して武三思の臣に非ざる行跡を告げたが、逆に三思に陥れられ、中宗は即座に彼を殺すよう命じた。時は盛夏であった。堅は上表して言った。「月将は良善を誣構し、故意に制命に違ったので、その情状に照らせば、厳誅に処すのが誠に相応しい。しかし今は朱夏の時節であり、天道は生長を主とする。即座に明らかな刑戮を行うのは、時令に背きます。謹んで『月令』を按ずるに、『夏に秋の令を行えば、丘隰に水潦が起こり、禾稼は熟さず』とあります。陛下は霊命を誕膺され、聖図を中興され、義・軒の風を弘め、史策の美を光らせようとされているのに、どうして時に非ずして刑戮を行い、和気を傷つけることがありましょうか。君の挙動は必ず記録され、何をもって訓戒とすべきでしょうか。伏して国典に詳らかに依り、秋分まで許されることを願います。そうすれば、刑を恤しむ規矩が千載に冠たり、哀れみ憐れむ恵みが四海に洽うことを知るでしょう。」中宗は堅の上奏を容れ、遂に決杖とし、嶺表に配流するよう命じた。

えい宗が即位すると、堅は刑部侍郎から銀青光禄大夫を加えられ、左散騎常侍に拝され、間もなく黄門侍郎に転じた。時に監察御史李知古が兵を請うて姚州西貳河の蛮を撃ち、降伏させた後、また城を築き、重く税を課すことを請うた。堅は蛮夷は生梗であり、羈縻して属させることはできても、華夏の制と同じにはできず、師を労して遠くに渉り、損うところが獲るところを補わないとして、独り不便と建議した。睿宗は従わず、知古に剣南の兵を発して城を築かせ、州県を設置しようとした。知古はこれによりその豪傑を誅し、子女を没して奴婢としようとした。蛮衆は恐懼し、乃ち知古を殺し、相率いて反叛したため、役徒は奔潰し、姚・巂の路はこれにより数年不通となった。

堅の妻は侍中岑羲の妹である。堅は羲と近親であることを理由に、固く機密の職を辞し、乃ち太子詹事に転じ、人に「敢えて高位を求めるのではなく、難を避けるためである」と言った。羲が誅された時、堅はついに連座を免れた。絳州刺史として出向し、五転して再び秘書監に入った。開元十三年、再び左散騎常侍に遷った。その年、玄宗が麗正書院を集賢院と改め、堅を学士とし、張説に副えて院事を知らせ、累進して東海郡公に封じられた。東封の儀注を修め、及び太山に昇った功績により、特旨をもって光禄大夫を加えられた。堅は典故に多く通じ、前後して格式・氏族及び国史などを修撰し、凡そ七度書府に入ったので、当時の論はこれを称えた。十七年に卒し、年七十余であった。上は深く悼惜し、中使を遣わして家に弔問させ、内より絹布を出して賻し、太子少保を贈り、諡して文といった。堅の長姑は太宗の充容となり、次姑は高宗の婕妤となり、共に文藻があった。堅父子は詞学をもって著聞し、議者はこれを漢代の班氏に比した。

元行沖。

元行沖は、河南の人で、後魏の常山王素連の後裔である。幼くして孤となり、外祖父の司農卿韋機に養われた。博学で多くのことに通じ、特に音律及び詁訓の書に詳しかった。進士に挙げられ、累転して通事舎人となり、納言狄仁傑は大いに彼を重んじた。行沖は性質として阿順せず、多く規誡を進め、かつて仁傑に言った。「下が上に仕えるのは、蓄積して自らを資するのと同じです。譬えば貴家が儲積すれば、脯臘膎胰を以て滋膳を供え、参術芝桂を以て屙疾を防ぎます。伏して門下の賓客で、旨味に堪えうる者は多いと存じますが、願わくは小人を以て一つの薬物を備えさせてください。」仁傑は笑って人に言った。「これは我が薬籠中の物であり、どうして一日も欠くことができようか。」九遷して陜州刺史となり、隴右・関内両道按察使を兼ねたが、赴任せず、太常少卿に拝された。

行沖は、本族が後魏より出ているのに編年の史がないとして、『魏典』三十巻を撰した。事は詳しく文は簡潔で、学者に称えられた。初め魏の明帝の時、河西の柳谷の瑞石に牛が馬の後に継ぐ象があり、魏収の旧史は晋の元帝は牛氏の子で、司馬姓を冒して石文に応じたとしていた。行沖は事跡を推尋し、後魏の昭成帝の名が犍であり、晋に継いで天命を受けたことを以て、謡讖を考校し、論を著してこれを明らかにした。

開元初め、太子詹事より岐州刺史として出向し、また関内道按察使を充てた。行沖は自ら書生として博撃の任に堪えられないとし、固く按察を辞したので、乃ちなん州刺史崔琬を代わりとした。間もなく再び右散騎常侍・東都副留守に入った。時に嗣彭王誌暕の庶兄誌謙が人に誣告されて謀反を企てたとされ、拷訊により自ら誣伏し、獄に繋がれて報を待ち、連座する者十数人に及んだが、行沖はその冤濫を察し、共に奏してこれを赦した。四遷して大理卿となった。時に揚州長史李傑が侍御史王旭に陥れられ、詔が下って大理に罪を結ばせたが、行沖は傑が歴政清貞であるとして、讒邪に枉げて構えられるべきでないとし、また奏請して軽い条によりこれを出そうとした。当時は従われなかったが、深く時の論に称えられた。間もなくまた固く刑獄の官を辞し、散職を求めた。七年、再び左散騎常侍に転じた。九遷して国子祭酒となり、一ヶ月余りで太子賓客・弘文館学士に拝された。累進して常山郡公に封じられた。

先に、秘書監馬懐素が学者を集めて王儉の『今書七志』を継ぎ、左散騎常侍褚無量が麗正殿で四部書を校写していたが、事が未だ成就せずに懐素・無量が卒したので、詔して行沖に総代してその職を執らせた。ここにおいて行沖は表を上って古今の書目を通撰することを請い、名を『群書四録』とし、学士鄠県尉毋煚・櫟陽尉韋述・曹州司法参軍殷踐猷・太学助教余欽らに命じて分部して修検させ、一年余りで書が完成し、奏上すると、上はこれを嘉した。また特に行沖に命じて御所注の『孝経』の疏義を撰させ、学官に列した。間もなく衰老を理由に麗正殿校写書事の知を罷めた。

初めに、左衛率府長史魏光乗が奏上して、魏徴の注した『類礼』を行用することを請うたので、上は直ちに行沖に命じて学者を集めて『義疏』を撰せしめ、学官に立てんとせしめた。行沖はここにおいて国子博士範行恭・四門助教施敬本を引きいて検討刊削せしめ、五十巻を勒成し、十四年八月に奏上した。尚書左丞相張説が駁奏して曰く、「今の『礼記』は、前漢の戴徳・戴聖の編録したところにして、歴代伝習し、既に千年に近く、経教として著され、刊削すべからず。魏の孫炎に至りて初めて旧本を改め、類を以て相ひ比し、抄書と同じきあり、先儒の非とするところとなり、竟に行用せられざりき。貞観中、魏徴、孫炎の修したるに因り、更に整比を加え、兼ねて之に注せり。先朝は厚く賞錫を加えしも、其の書竟に行用せられざりき。今行沖等、征の注したるを解し、一家を勒成す。然れども先儒とそむ違し、章句隔絶せり。若し行用せんと欲せば、窃かに未だ可ならざるを恐る」と。上、其の奏を然りとし、ここにおいて行沖等に絹二百匹を賜ひ、其の書を内府に貯へ留め、竟に学官に立つることを得ず。行沖、諸儒の己を排するを恚り、退きて論を著して自ら釈し、名づけて『釈疑』と曰ふ。其の詞に曰く、

客が主人に問うて曰く、「小戴の学は、行わるること既に久し。康成の銓註は、学官に見列す。伝聞するに魏公、乃ち刊易有りと。又制旨を承け、疏を造りて将に頒たんとす。未だ二経の孰れか優劣たるを悉さず」と。主人答えて曰く、「小戴の礼は、漢末に行わる。馬融之に註す、時に未だ睹ざる所なり。盧植二十九篇を分合して説解を為し、代に伝習せず。鄭絪子幹、季長に師す。党錮の獄起こるに属し、師門の道喪え、康成竄伏の中に於いて、紛拿の典を理め、志は探究に存し、諮謀する所靡し。而れども猶緝述して疲れを忘れ、義を聞きて能く徙うこと、『鄭志』に具わり、向に百科有り。章句の徒、曾て窺覧せず、猶覆轍に遵い、頗る刻舟に類す。王肅之に因り、重ねて茲に開釈し、或は多く改駁し、仍本篇に按ず。又鄭学の徒に、孫炎なる者有り、玄義を扶くるも、乃ち前編を易う。自後条例支分し、箴石間より起こる。馬伷増革し、向に百篇を逾え、葉遵刪修し、僅に十二を全うす。魏公群言の錯雑を病み、衆説の精深を䌷う。経文同じからず、未だ刊正を敢えず。註理睽誤す、寧くも芟礱せざらんや。成り畢りて上聞す、太宗嘉賞し、縑千匹を賫し、儲籓に録賜す。将に頒宣せんと期し、未だ疏義有らず。聖皇業を纂ぎ、古に耽り儒を崇ぶ。高曾の規矩、宜しく修襲すべき所、乃ち昏愚に制し、旧義を甄分す。其れ往説を註遺し、理新文に変ずる有らば、務めて搜窮を加え、積稔にして方に畢る。具に録して呈進し、勅して群儒に付す。庶くは能く斟詳して、以て疏密を課せん。豈悟らんや章句の士、昔言を堅持し、特ち知新を嫌い、旧貫に仍らんと欲し、沈疑多月、擯圧して申さず。優劣短長、通識に定まり、手成口答、安んぞ銓量を敢えんや」と。

客曰く、「当局は迷いと称し、傍観は審らかなりを見る。累朝銓定す、故に是れ周詳なり。何を為す所の疑いか、申列せざる」と。答えて曰く、「是れ何の言や。談豈容易ならんや。昔し孔安国壁中の書に註し、巫蠱の事に会い、経籍の道息む。族兄の臧之に書して曰く、『相如常に俗儒の淫詞義を冒すを忿り、乱を撥き正に反さんと欲して而も能く果たさず。然れども雅達通博、代を待たずして生ず。浮学宋株、比肩皆是り。衆は非を正し難し、古より然り。誠に恐るらくは此の道未だ申さずして、以て独智を以て議せらるるを』と。則ち知る、章句を変易すること、其の難き一なり。

漢に孔季産なる者あり、古学に専らす。孔扶なる者あり、俗に随いて浮沈す。扶産に謂いて云く、『今朝廷皆章句内学を為す。而るに君独り古義を修む。古義を修むれば則ち章句内学に非ず。章句内学に非ざれば則ち身を危うくするの道なり。独り善くするは代に容れられず、必ず将に患禍を貽さんか』と。則ち知る、章句を変易すること、其の難き二なり。

吳兢は汴州浚儀の人である。志を勵まし勤學し、經史に博通した。宋州の人魏元忠・亳州の人朱敬則は深く器重し、宰相の位に居るに及んで、兢に史才あり、近侍に居るに堪えると薦め、因って史館に直らせ、國史を修めしむ。累月して、右拾遺内供奉を拝す。神龍年中、右補闕に遷り、韋承慶・崔融・劉子玄と『則天實錄』を撰して成り、起居郎に轉ず。俄かに水部郎中に遷り、丁憂して郷里に還る。開元三年に服闋し、疏を抗して言う、「臣が史を修むること已に數十卷成れり。職を停めて家に還りてより、紙札を忘れず、餘功を終へんことを乞ふ」と。乃ち諫議大夫を拝し、前の如く史を修む。俄かに修文館學士を兼ね、衛少卿・右庶子を歷任す。職に居ること殆ど三十年、敘事簡要にして、人用ひて之を稱す。末年は太簡に傷つく。『國史』未だ成らず、十七年、荊州司馬に出で、制して史稿を以て自ら隨ふことを許す。中書令蕭すう國史を監修し、兢の撰する所の『國史』を取ることを奏し、六十五卷を得たり。累遷して臺・洪・饒・蘄四州刺史、銀青光祿大夫を加へ、相州長垣縣子に遷る。天寶初め官名を改め、鄴郡太守と爲り、入りて恆王傅と爲る。

兢嘗て梁・陳・齊・周・隋五代史繁雜なるを以て、乃ち別に『梁』『齊』『周史』各十卷・『陳史』五卷・『隋史』二十卷を撰す。又疏略に傷つく。兢衰耗すと雖も、猶史職を希ふ。而して行步傴僂す。李林甫其の年老を以て用ひず。天寶八年、家に卒す。時に年八十餘。兢卒する後、其の子兢の撰する所の『唐史』八十餘卷を進む。事多く紕繆し、壯年に逮ばず。兢家聚書頗る多く、嘗て其の卷第を目錄し、號して『吳氏西齋書目』とす。

韋述

韋述は司農卿弘機の曾孫なり。父は景駿、房州刺史。述少くして聰敏、文學に志篤し。家に書二千卷有り、述兒童の時、記覽皆遍くす。人駭異す。景龍中、景駿肥鄉令と爲り、述父に從ひて任に至る。洺州刺史元行沖は景駿の姑子、時に大儒と爲り、常に書數車を載せて自ら隨ふ。述其の書齋に入り、寢と食とを忘る。行沖之を異とし、引いて之と談じ、經史を貫穿し、事指掌の如く、賾奧の旨を探る、師資に遇ふが如し。又綴文を試みるに、牘を操りて便ち就く。行沖大いに悅び、之を引いて同榻して曰く、「此れ吾が外家の寶なり」と。進士を舉げ、西に関に入る。時に述甚だ少く、儀形眇小なり。考功員外郎宋之問曰く、「韋學士童年に何の事業か有る」と。述對へて曰く、「性書を著するを好む。述撰する所の『唐春秋』三十卷有り、恨むらくは未だ篇を終へず。至りて詞策に如ては、仰ぎて明試を待つ」と。之問曰く、「本より異才を求む、果たして遷・固を得たり」と。是歲科に登る。

開元五年、櫟陽尉と爲る。秘書監馬懷素詔を受けて圖書を編次す。乃ち左散騎常侍元行沖・左庶子齊澣・秘書少監王珣・衛尉少卿吳兢並びに述等二十六人を用ふることを奏し、同く秘閣に於て四部書を詳錄す。懷素尋で卒す。行沖代はりて其の事を掌り、五年にして成る。其の總目二百卷。述譜學を好む。秘閣中に常侍柳沖先づ撰する所の『姓族系錄』二百卷を見る。述分課の外に手自ら抄錄し、暮れば則ち懷ひて歸る。是の如く周歲して、寫錄皆畢る。百氏の源流、轉た益々詳悉なり。乃ち『柳錄』の中に於て、別に『開元譜』二十卷を撰成す。其の志篤くして倦みを忘るる、皆此の類なり。

右補闕に轉ず。中書令張說專ら集賢院の事に、述を引いて直學士と爲し、起居舍人に遷す。說詞學の士を重んず。述と張九齡・許景先・袁暉・趙冬曦・孫逖・王幹常に其の門に遊ぶ。趙冬曦の兄冬日、弟知壁・居貞・安貞・頤貞等六人、述の弟迪・逌・迥・起・巡亦六人、並びに詞學にて科に登る。說曰く、「趙・韋の昆季、今の杞梓なり」と。十八年、史官の事を知るを兼ね、屯田員外郎・職方吏部二郎中に轉じ、學士・史官の事を知るは故の如し。及て張九齡中書令と爲るや、即ち集賢の同職、裴耀卿侍中と爲るや、即ち述の舅、皆相推重し、語必ず晷を移す。二十七年、國子司業に轉じ、史事を知るを停む。俄にして復た史職を兼ね、集賢學士を充つ。天寶初め、左右庶子を歷任し、銀青光祿大夫を加ふ。九載、禮儀使を兼ねて充つ。其の載尚書工部侍郎に遷り、方城縣侯に封ぜらる。

述書府に在ること四十年、史職に居ること二十年、學を嗜み書を著し、手卷を釋かず。國史は令狐德棻より吳兢に至るまで、累ね修撰すと雖も、竟に一家の言を成さず。述に至りて始めて類例を定め、遺を補ひ闕を續け、勒して『國史』一百十二卷並びに『史例』一卷を成す。事簡にして記詳なり。雅に良史の才有り、蘭陵蕭穎士以爲く譙周・陳壽の流なりと。述早く儒術を以て進み、當代宗仰せらる。而して純厚なる長者、勢利に淡く、道の同じき者は、貴賤を間はず、皆禮を以て之に接す。家に聚書二萬卷、皆自ら校定し鉛槧す。禦府も逮ばざるなり。古今の朝臣圖を兼ね、歷代の知名人畫、魏・晉已來の草隸眞跡數百卷、古碑・古器・藥方・格式・錢譜・璽譜の類、當代名公の尺題、畢備せざる無し。及て祿山の亂に、兩京賊に陷り、玄宗蜀に幸す。述『國史』を抱きて南山に藏す。經籍資產、焚剽殆ど盡きる。述亦賊庭に陷り、偽官を授く。至德二年、兩京を收む。三司罪を議し、渝州に流す。刺史薛舒に困辱せられ、食はずして卒す。其の甥蕭直太尉李光弼の判官と爲る。廣德二年、直因りて入り奏し事を言ひて旨に稱ふ。乃ち疏を上して述を理す。蒼黃の際に、能く『國史』を存し、聖朝の大典を致して遺逸無からしむ。功を以て過を補ひ、恩宥に霑ふに合すと。乃ち右散騎常侍を贈る。

議ふ者云ふ、唐已來、氏族の盛なる、韋氏に逾ふる無しと。其の孝友詞學は、承慶・嗣立を最とす。音律に明るきは、則ち萬石を最とす。禮義に達するは、則ち叔夏を最とす。史才博識は、述を以て最とす。撰する所の『唐職儀』三十卷・『高宗實錄』三十卷・『御史臺記』十卷・『兩京新記』五卷、凡そ著書二百餘卷、皆代に行はる。

述の弟 逌

逌、學業亦た述に亞ぐ。尤も『三禮』に精し、述と對して學士と爲る。

述の弟 迪

迪、同く禮官と爲り、時人之を榮しむ。累遷して考功員外郎・國子司業、風疾に以て卒す。

蕭穎士

蕭穎士は聰儁人に過ぎ、詞學に富み、時に名有り。賈曾・席豫・張垍及び述皆引いて談客と爲す。開元二十三年進士第に登る。考功員外郎孫逖朝に於て之を稱す。褊躁にして威儀無く、時にたまたまはず。前後五たび官を授けらるるも、旋ち駁落す。乾元初め、終に揚府功曹に終於る。

述が秘閣に在った時、鄠県尉の母煚、曹州司法の殷踐猷と並びに親しく交わり、二人は相次いで卒した。踐猷は、申州刺史仲容の從子にして、『班史』に明るく、族姓に通じていた。子の寅は、至性有り、早く孤となり、母に事えて孝を以て聞こえた。宏詞挙に応じ、永寧尉となった。

史臣曰く

史臣曰く、前代の文學の士は、氣は一なり、然れども道義に偶(たまたま)乖(そむ)き、斯の難に遭遇す。馬懷素・褚無量は古を好み學を嗜み、博識多聞にして、文を好むの君に遇い、師資の禮を隆くし、儒者の榮、際會と謂うべし。劉・徐等の五公は、學は天人に際し、才は文史を兼ね、西垣・東觀を(し)て、一代粲然たり、蓋し諸公の用心する所なり。然れども子玄は當年に郁結し、行沖は極筆に仿徨し、官は俗吏を過ぎず、寵は常才に逮ばず、過ちして然らしむるに非ず、蓋し此の道は時を趨(おもむ)くの具に非ざればなり、其の窮するや宜なるかな。

贊に曰く、學者は市の如く、博通は甚だ難し;文士は翰を(と)り、典麗は惟(こ)れ艱し。馬・褚・兢・術、徐・元・子玄、文學の書、胡ぞ寧(なん)ぞ比(なら)ばんや。