舊唐書

巻102

巻102

舊唐書

原文舊唐書

卷一百二

原文卷一百二

列傳第五十二 馬懷素 褚無量 劉子玄 徐堅 元行-{沖}- 吳兢 韋述

原文列傳第五十二 馬懷素 褚無量 劉子玄 徐堅 元行-{沖}- 吳兢 韋述

馬懐素

原文馬懷素

馬懐素は、潤州丹徒の人である。江都に寓居し、若くして李善に師事した。家は貧しく灯燭がなく、昼は薪を採り、夜はそれを燃やして読書し、ついに経史を博覧し、文章をよくした。進士に挙げられ、また制挙に応じ、文学優贍科に登第し、郿尉に拝され、四転して左台監察御史となった。

原文馬懷素,潤州丹徒人也。寓居江都,少師事李善。家貧無燈燭,晝采薪蘇,夜燃讀書,遂博覽經史,善屬文。舉進士,又應制舉,登文學優贍科,拜郿尉,四遷左臺監察御史。

長安ちょうあん年間、御史大夫魏元忠が張易之に陥れられ、嶺表に配流されることとなり、太子僕崔貞慎・東宮率独孤禕之が郊外で餞別した。易之は怒り、人を使い貞慎らが元忠と共謀したと誣告させた。則天武后は懐素に審理を命じ、中使を遣わして催促し、この事をでっち上げるようほのめかしたが、懐素は公正を守り命令を受けなかった。則天は怒り、懐素を召し出して自ら詰問した。懐素が奏上して言うには、「元忠は罪を犯して配流となり、貞慎らは親しい故に送別したのであり、確かに責められるべきではありますが、謀反と見なすならば、臣がどうして神明を欺くことができましょうか。昔、彭越は反逆の罪で誅殺され、欒布がその屍の下で奏事したが、漢朝は罪に問いませんでした。まして元忠の罪は彭越のようではなく、陛下はどうして追送の罪をお加えになられましょう。陛下は生殺の権をお持ちで、罪を加えようとなされば、聖なるお心で決められればよいのです。もし臣に推問をお任せになるなら、臣は敢えて陛下の法を守らぬことがありましょうか」。則天の怒りは解け、貞慎らはこれによって免罪となった。当時、夏官侍郎李迥秀は張易之の権勢を頼みに賄賂を受け取っていたが、懐素が弾劾したので、迥秀は遂に政事を罷めさせられた。懐素は累転して礼部員外郎となり、源乾曜・盧懐慎・李傑らと共に十道黜陟使を充てられた。懐素は事を処するに公平で寛大であり、当時に称えられた。使いから戻り、考功員外郎に遷った。当時、貴戚はほしいままに振る舞い、私的な依頼が公然と行われていたが、懐素は誰にもへつらわず、科挙の選挙を公平に行い、中書舎人に抜擢された。開元初め、戸部侍郎となり、銀青光禄大夫を加えられ、累封して常山県公となり、三転して秘書監となり、昭文館学士を兼ねた。

原文長安中,御史大夫魏元忠為張易之所構,配徙嶺表,太子仆崔貞慎、東宮率獨孤祎之餞於郊外。易之怒,使人誣告貞慎等與元忠同謀,則天令懷素按鞫,遣中使促迫,諷令構成其事,懷素執正不受命。則天怒,召懷素親加詰問,懷素奏曰:「元忠犯罪配流,貞慎等以親故相送,誠為可責,若以為謀反,臣豈誣罔神明?昔彭越以反伏誅,欒布奏事於其屍下,漢朝不坐,況元忠罪非彭越,陛下豈加追送之罪。陛下當生殺之柄,欲加之罪,取決聖衷可矣。若付臣推鞫,臣敢不守陛下之法?」則天意解,貞慎等由是獲免。時夏官侍郎李迥秀恃張易之之勢,受納貨賄,懷素奏劾之,迥秀遂罷知政事。懷素累轉禮部員外郎,與源乾曜、盧懷慎、李傑等充十道黜陟使。懷素處事平恕,當時稱之。使還,遷考功員外郎。時貴戚縱恣,請托公行,懷素無所阿順,典舉平允,擢拜中書舍人。開元初,為戶部侍郎,加銀青光祿大夫,累封常山縣公,三遷秘書監,兼昭文館學士。

懐素は吏職にありながら篤学で、手から書物を離さず、謙虚で恭しく慎み深く、深く玄宗に礼遇され、左散騎常侍さんきじょうじ褚無量と共に侍読とされた。毎回、閣門に至ると、肩輿に乗って進むことを許された。上(玄宗)が別館におられる時は、道が遠いため、宮中で馬に乗ることを命じ、あるいは自ら送迎して、師としての礼を表された。この時、秘書省の典籍は散逸し、整理されていなかったので、懐素は上疏して言うには、「南斉以前の書籍は、かつて王儉の『七志』に編まれました。以後の著述はその数が多く、『隋志』に記されたものも詳しくはありません。あるいは古書が近くに出て、前の志に欠けて編まれていないものがあり、あるいは近人の伝えるところで、浮ついた言葉や卑しいものでもなお記されているものがあります。もし編録がなければ、淄水と澠水の区別が難しいでしょう。近くの書物の篇目を網羅して検討し、併せて前の志に遺漏したものを、王儉の『七志』に続けて編纂し、秘府に蔵することを望みます」。上はそこで学識に通じた者である国子博士尹知章らを召し、部門を分けて撰録させ、併せて経史を刊正し、おおよその首尾を創り始めた。折しも懐素が病没した。六十歳であった。上は特にそのために哀悼の意を示し、一日朝政を止め、潤州刺史を追贈し、諡して文といった。

原文懷素雖居吏職,而篤學,手不釋卷,謙恭謹慎,深為玄宗所禮,令與左散騎常侍褚無量同為侍讀。每次閣門,則令乘肩輿以進。上居別館,以路遠,則命宮中乘馬,或親自送迎,以申師資之禮。是時秘書省典籍散落,條疏無敘,懷素上疏曰:「南齊已前墳籍,舊編王儉《七志》。已後著述,其數盈多,《隋志》所書,亦未詳悉。或古書近出,前誌闕而未編;或近人相傳,浮詞鄙而猶記。若無編錄,難辯淄、澠。望括檢近書篇目,並前誌所遺者,續王儉《七志》,藏之秘府。」上於是召學涉之士國子博士尹知章等,分部撰錄,並刊正經史,粗創首尾。會懷素病卒,年六十,上特為之舉哀,廢朝一日,贈潤州刺史,謚曰文。

褚無量

原文褚無量

褚無量は、字を弘度といい、杭州塩官の人である。幼くして孤貧であったが、志を励まして好学であった。家は臨平湖に近く、時に湖中で龍が闘い、里中の人が皆見物に行ったが、無量は当時十二歳で、読書していて平然として動じなかった。成長してからは、特に『三礼』と『史記しき』に精通し、明経に挙げられ、累除して国子博士となった。景龍三年、国子司業に遷り、修文館学士を兼ねた。この年、中宗が自ら南郊で祭祀を行おうとされ、詔して礼官・学士に儀注の修定を命じた。国子祭酒祝欽明・司業郭山惲は皆、上意を迎え、皇后を亜献とするよう請うたが、無量はただ一人、太常博士唐紹・蒋欽緒と共に固く争い、不可であるとした。無量は建議して言うには、

原文褚無量,字弘度,杭州鹽官人也。幼孤貧,勵誌好學。家近臨平湖,時湖中有龍鬥,傾裏闬就觀之,無量時年十二,讀書晏然不動。及長,尤精《三禮》及《史記》,舉明經,累除國子博士。景龍三年,遷國子司業,兼修文館學士。是歲,中宗將親祀南郊,詔禮官學士修定儀註。國子祭酒祝欽明、司業郭山惲皆希旨,請以皇后為亞獻,無量獨與太常博士唐紹、蔣欽緒固爭,以為不可。無量建議曰:

郊祀とは、明王の盛んな事績であり、国家の大礼である。その礼を行う者は、臆断してはならず、私情で求めてはならず、皆上は天の心に順い、下は人の事に合い、古えを敬って考察し、旧章に従ってこそ、神明と交わり、福祐を受けることができる。しかし礼の条文は多いといえども、『周礼』に及ぶものはない。『周礼』とは、周公が太平を致した書であり、先聖が極めて衷心を尽くした典であり、天地に法って教化を行い、方位を弁えて人倫を秩序立てる。その義は神明を幽かに助けることができ、その文は邦国を経緯することができ、物を備えて用に致す。どうして軽んじることができようか。冬至の円丘の祭りは、祭祀の中で最も大きく、皇后は内の主であり、礼の位は甚だ尊い。もし天を郊で祀るのを助祭するならば、礼典に具に著されるべきである。今、『周官』を遍く検するも、この儀制はない。それは、天を南郊で祭るには、地を配せず、ただ始祖を主とし、祖妣を天に配さないため、ただ皇帝が自らその礼を行い、皇后は参与すべきではないからである。謹んで『大宗伯』の職に云う、「若し王祭祀せずば、則ち位を摂す」と。『注』に云う、「王に故あり、其の祭事を行ふに代はる」と。下文に云う、「凡そ大祭祀、王后与からずば、則ち摂して豆籩を薦め、徹す」と。もし皇后が助祭すべきならば、この下文を受けて、即ち当に「若し祭祀せずば、則ち摂して豆籩を薦む」と云うべきである。今、文の上に更に「凡そ」を起こしているのは、則ち別に余事を生じているのである。事が上と異なれば、則ち別に「凡そ」を起こす。「凡そ」とは、上を生じ下を起こす名であって、本職に専ら係わるものではない。『周礼』一部の内、この例は極めて多く、文中に備わっており、具に録することはできない。また、王后が助祭する時は、自ら豆籩を薦めて徹さない。『九嬪』の職に云う、「凡そ祭、後を賛して薦め、豆籩を徹す」と。『注』に云う、「後進むるも徹さず」と。則ち知る、中で徹すというのは、宗伯のために文を生じたのである。もし宗伯が祭祀を摂るならば、宗伯が自ら徹し、別に人を使わない。また、「外宗は宗廟の祀を掌り、王后与からずば、則ち宗伯を賛す」とある。この一文は、上の文と互いに証し合う。どうして明らかにするか。外宗はただ宗廟の祭祀を掌り、郊天を掌らない。これによって、この文は宗廟の祭であることが十分に明らかである。王后が行事することは、総じて『内宰』の職の中にある。その職文を検するに、ただ云う、「大祭祀、後が稞献すれば則ち賛し、瑤爵も亦た之の如し」と。『鄭注』に云う、「宗廟を祭るを謂ふ」と。『注』が知る所以は、文に「稞献」と云い、天を祭るには稞がないことによって、これを知ったのである。また、天を祭る器は陶匏を用い、瑤爵もない。『注』はこれによって宗廟であることを知ったのである。また、内司服は王后の六服を掌るが、天を祭る服はない。而して巾車の職は王后の五輅を掌るが、また后が天を祭る輅はない。天を祭るのは七献であるが、后の亜献はない。これらの諸文を参酌すれば、故に后は天を助祭すべきではないと知る。ただ『漢書かんじょ』『郊祀志』には天地合祭し、皇后が預かって享ける事がある。これは西漢の末代、強臣が朝政を擅にし、彝倫に悖り乱れ、神を汚して祭りを諂い、経典に合わぬことで、事は神を誣いることに及んでいる。故に『易伝』に曰く、「神を誣る者は、殃三代に及ぶ」と。『太誓』に曰く、「古を正しく稽へ功を立て事を立てば、以て永年を保ち、天の大律を承くべし」と。これらは史策の良き誡めであり、どうして知らぬことがあろうか。今、南郊の礼儀は、事が古えを稽えず、経術を守る者として、黙しているわけにはまいりません。どうか広く碩儒に尋ね、旧典を拾い、曲台の故事を採り、円丘の正儀を行い、聖朝が昭かで広大な道に叶い、天下が文物の盛んなることを知らしめられれば、豈に幸いでないことがありましょうか。

原文夫郊祀者,明王之盛事,國家之大禮。行其禮者,不可以臆斷,不可以情求,皆上順天心,下符人事,欽若稽古,率由舊章,然後可以交神明,可以膺福祐。然禮文雖眾,莫如《周禮》。《周禮》者,周公致太平之書,先聖極由衷之典,法天地而行教化,辯方位而敘人倫。其義可以幽贊神明,其文可以經緯邦國,備物致用,其可忽乎!至如冬至圓丘,祭中最大,皇后內主,禮位甚尊。若合郊天助祭,則當具著禮典。今遍檢《周官》,無此儀制。蓋由祭天南郊,不以地配,唯將始祖為主,不以祖妣配天,故唯皇帝親行其禮,皇后不合預也。謹按《大宗伯》職云:「若王不祭祀,則攝位。」《註》云:「王有故,代行其祭事。」下文云:「凡大祭祀,王後不與,則攝而薦豆籩,徹。」若皇后合助祭,承此下文,即當云「若不祭祀,則攝而薦豆籩。」今於文上更起凡,則是別生餘事。夫事與上異,則別起凡。凡者,生上起下之名,不專系於本職。《周禮》一部之內,此例極多,備在文中,不可具錄。又王後助祭,親薦豆籩而不徹。案《九嬪》職云:「凡祭,贊後薦,徹豆籩。」《註》云:「後進之而不徹。」則知中徹者,為宗伯生文。若宗伯攝祭,則宗伯親徹,不別使人。又案「外宗掌宗廟之祀,王後不與,則贊宗伯」。此之一文,與上相證。何以明之?案外宗唯掌宗廟祭祀,不掌郊天,足明此文是宗廟祭也。案王後行事,總在《內宰》職中。檢其職文,唯云:「大祭祀,後稞獻則贊,瑤爵亦如之。」《鄭註》云:「謂祭宗廟也。」《註》所以知者,以文雲「稞獻」,祭天無稞,以此得知。又祭天之器,則用陶匏,亦無瑤爵,《註》以此得知是宗廟也。又內司服掌王後六服,無祭天之服;而巾車職掌王後之五輅,亦無後祭天之輅;祭天七獻,無後亞獻。以此諸文參之,故知後不合助祭天也。唯《漢書》《郊祀志》則有天地合祭,皇后預享之事,此則西漢末代,強臣擅朝,悖亂彜倫,黷神諂祭,不經之典,事涉誣神。故《易傳》曰:「誣神者,殃及三代。」《太誓》曰:「正稽古立功立事,可以永年,承天之大律。」斯史策之良誡,豈可不知。今南郊禮儀,事不稽古,忝守經術,不敢默然。請旁詢碩儒,俯摭舊典,采曲臺之故事,行圓丘之正儀,使聖朝葉昭曠之塗,天下知文物之盛,豈不幸甚。

当時、左僕射韋巨源らは上意に阿り、欽明の議に同調し、遂に無量の上奏は聞き入れられなかった。

原文時左僕射韋巨源等阿旨,葉同欽明之議,竟不從無量所奏。

まもなく母が老齢であることを理由に官を停めて帰郷し侍養することを請うた。景雲の初め、玄宗が春宮(皇太子)に在った時、召されて国子司業に拝され、兼ねて皇太子侍読を務め、かつて『翼善記』を撰してこれを進上したところ、皇太子は書を降して嘉労し、絹四十匹を賜った。太極元年、皇太子が国子学において親しく釈奠の礼を行い、褚無量に『老子』『礼記』を講ぜしめたところ、それぞれ端緒に随って義を立て、博くしかも弁明に富み、観覧者は嘆服した。終わると、銀青光禄大夫を進授され、兼ねて章服を賜い、併せて彩絹百段を賜った。玄宗が即位すると、郯王傅に遷り、兼ねて国子祭酒を務めた。まもなく師傅の恩により左散騎常侍に遷り、なお兼ねて国子祭酒を務め、舒国公に封ぜられ、実封二百戸を賜った。間もなく、丁憂(父母の喪)により職を解き、墓の側に廬を結んだ。その植えた松柏を、時に鹿が犯すことがあった。無量は泣いて言うには、「山中には多くの草があるのに、どうして忍んで我が先祖の塋域の樹を犯すのか」と。そこで一晩中守護した。やがて一群の鹿が馴れ親しみ、再び侵害しなくなった。無量はこのため終生鹿肉を食さなかった。服闋(喪明け)すると、召されて左散騎常侍に拝され、再び侍読となった。その年老いているため、毎回仗衛に随って出入りする際、特に緩行を許され、また腰輿を造らせ、内給使に命じて内殿まで輿させた。無量は頻りに上書して時政の得失を陳べ、多くは採用された。またかつて手勅を以て褒美され、物二百段を賜った。

原文尋以母老請停官歸侍。景雲初,玄宗在春宮,召拜國子司業,兼皇太子侍讀,嘗撰《翼善記》以進之,皇太子降書嘉勞,賫絹四十匹。太極元年,皇太子國學親釋奠,令無量講《老經》、《禮記》,各隨端立義,博而且辯,觀者嘆服焉。既畢,進授銀青光祿大夫,兼賜以章服,並彩絹百段。玄宗即位,遷郯王傅,兼國子祭酒。尋以師傅恩遷左散騎常侍,仍兼國子祭酒,封舒國公,實封二百戶。未幾,丁憂解職,廬於墓側。其所植松柏,時有鹿犯之,無量泣而言曰:「山中眾草不少,何忍犯吾先塋樹哉!」因通夕守護。俄有群鹿馴狎,不復侵害,無量因此終身不食鹿肉。服闋,召拜左散騎常侍,復為侍讀。以其年老,每隨仗出入,特許緩行,又為造腰輿,令內給使輿於內殿。無量頻上書陳時政得失,多見納用。又嘗手敕褒美,賜物二百段。

無量は内庫の旧書が、高宗の代からすでに宮中に蔵されていたが、次第に散逸しつつあることを以て、繕写・刊校を奏請し、経籍の道を弘めることを求めた。玄宗は東都の乾元殿前に架を施して排列させ、大いに捜集・書写を加え、広く天下の異本を採ることを命じた。数年の間に、四部の書が充実完備し、引き続き公卿以下を殿前に引き入れ、自由に観覧させた。開元六年、車駕が還都すると、また勅して無量に麗正殿において前の功績を継続させた。皇太子及び郯王嗣直ら五人、年齢が十歳に近いが、まだ就学していなかったので、無量は『論語』『孝経』をそれぞれ五部ずつ繕写して献上した。上(玄宗)はこれを見て言うには、「我は無量の意を知る、無量(限りない)なり」と。直ちに経に明るく篤行の士、国子博士郤恆通・郭謙光、左拾遺潘元祚らを選び、太子及び郯王以下の侍読とした。七年、詔して太子に国子監において歯冑の礼を行わせ、無量は座に登って経を説き、百官が集まって観覧し、礼が終わると、賞賜は甚だ厚かった。翌年、無量は病没した。享年七十五。臨終に遺言して、麗正殿での写書が未だ完了していないことを恨みとした。上は哀悼の礼を挙げ、朝を廃すること二日、礼部尚書を追贈し、諡して文といった。

原文無量以內庫舊書,自高宗代即藏在宮中,漸致遺逸,奏請繕寫刊校,以弘經籍之道。玄宗令於東都乾元殿前施架排次,大加搜寫,廣采天下異本。數年間,四部充備,仍引公卿已下入殿前,令縱觀焉。開元六年駕還,又敕無量於麗正殿以續前功。皇太子及郯王嗣直等五人,年近十歲,尚未就學,無量繕寫《論語》、《孝經》各五本以獻。上覽之曰:「吾知無量意無量。」遽令選經明篤行之士國子博士郤恆通郭謙光、左拾遺潘元祚等,為太子及郯王已下侍讀。七年,詔太子就國子監行齒胄之禮,無量登座說經,百僚集觀,禮畢,賞賜甚厚。明年,無量病卒,年七十五。臨終遺言以麗正寫書未畢為恨。上為舉哀,廢朝兩日,贈禮部尚書,謚曰文。

初め、褚無量と馬懷素はともに侍読であり、顧み待遇は甚だ厚かった。及んで無量らが卒した後、秘書少監康子原、国子博士侯行果らがまた入って侍講となったが、たびたび賞賜を加えられたものの、礼遇は褚無量には及ばなかった。

原文初,無量與馬懷素俱為侍讀,顧待甚厚;及無量等卒後,秘書少監康子原、國子博士侯行果等又入侍講,雖屢加賞賜,而禮遇不逮褚焉。

劉子玄

原文劉子玄

劉子玄、本名は知幾、楚州刺史劉胤之の族孫である。若くして兄の知柔とともに詞学をもって知名となり、弱冠にして進士に挙げられ、獲嘉主簿を授かった。証聖年間、制があり文武九品以上の者は各々時政の得失を言上せよとのこと、知幾は上表して四事を陳べ、言葉は甚だ切直であった。この時、官爵は僭濫し、法網は厳密で、士類は競って進取を図り多く刑戮に陥った。知幾はそこで『思慎賦』を著して時勢を諷刺し、かつ己の意を表した。鳳閣侍郎蘇味道・李嶠はこれを見て嘆じて言うには、「陸機の『豪士賦』の及ぶところではない」と。

原文劉子玄,本名知幾,楚州刺史胤之族孫也。少與兄知柔俱以詞學知名,弱冠舉進士,授獲嘉主簿。證聖年,有制文武九品已上各言時政得失,知幾上表陳四事,詞甚切直。是時官爵僭濫而法網嚴密,士類競為趨進而多陷刑戮,知幾乃著《思慎賦》以刺時,且以見意。鳳閣侍郎蘇味道、李嶠見而嘆曰:「陸機《豪士》所不及也。」

知幾は長安年間に累遷して左史となり、兼ねて国史を修めた。擢て鳳閣舎人に拝され、修史は従前の通りであった。景龍の初め、再び転じて太子中允となり、依然として国史を修めた。時に侍中韋巨源・紀処訥、中書令楊再思、兵部尚書宗楚客、中書侍郎蕭至忠が並んで国史を監修していた。知幾は監修者が多いことを以て、甚だ国史の弊害となると考えた。蕭至忠はまたかつて知幾に著述の実績がないと責めた。知幾はそこで史職を罷めることを求め、至忠に奏記して言うには、

原文知幾長安中累遷左史,兼修國史。擢拜鳳閣舍人,修史如故。景龍初,再轉太子中允,依舊修國史。時侍中韋巨源紀處訥、中書令楊再思、兵部尚書宗楚客、中書侍郎蕭至忠並監修國史,知幾以監修者多,甚為國史之弊。蕭至忠又嘗責知幾著述無課,知幾於是求罷史任,奏記於至忠曰:

私は自ら名を策して士伍に列し、朝列に待罪し、三たび史臣となり、再び東観に入ったが、ついに国典を勒成し、後来の者に貽すことができなかった。なぜか。静かにこれを思うに、その不可なること五つがある。何ぞや。古の国史は、皆一家より出ず。魯・漢の丘明・子長、晋・齊の董狐・南史のごときは、皆能く立言して朽ちず、名山に蔵す。未だ衆功を藉りて、方に絶筆を雲うを聞かず。ただ後漢の東観においては、大いに群儒を集むるも、著述に主なく、条章立たず。ここにおいて伯度はその不実を譏り、公理は焚くべしと為し、張・蔡の二子はこれを当代に紀し、傅・范の両家はこれを後葉に嗤う。今、史司は士を取るに、東京に倍し、人は自ら荀・袁と為し、家は自ら政・駿と称す。毎に一事を記し、一言を載せんと欲すれば、皆筆を閣きて相視、毫を含みて断たず。故に首白は期すべくも、汗青は日無し。その不可なること一なり。前漢の郡国計書は、先ず太史に上り、副えて丞相に上る。後漢の公卿の撰する所は、始めて公府に集まり、乃ち蘭臺に上る。ここにおいて史官の修むる所、事を載するに博なり。元より近古より、この道行われず、史臣の編録する所、ただ自ら詢采するのみ。而して左右二史は、起居を註するを闕き、衣冠百家は、行状を通ずることを罕にす。風俗を州郡に求めれば、視聴該からず、沿革を臺閣に討つれば、簿籍見難し。たとえ尼父再出するも、なおその管窺を成すべく、況や中才を限りとし、安んぞ能くその博物を遂げんや。その不可なること二なり。昔、董狐の書法は、朝に示し、南史の書弒は、簡を執いて往く。而るに近代の史局は、皆籍を通じて禁門にし、九重に幽居し、人に見られざらんと欲す。その義を尋ぬれば、かの顔面を杜ぎ、諸の請謁を防ぐ故なり。然れども今、館中の作者は、多士林の如く、皆長喙を願い、舌を聞かず。もし五始初めて成り、一字加えて貶せば、言未だ口を絶たざるに朝野具に知り、筆未だ毫を棲めざるに搢紳咸に誦す。夫れ孫盛の実録は、権門に嫉まれ、王韶の直書は、貴族に讎せらる。人の情なり、畏れ無からんや。その不可なること三なり。古は一史を刊定し、一家を纂成するに、体統各々殊なり、指帰咸く別なり。夫れ『尚書』の教えは、疏通して遠きを知るを主とし、『春秋』の義は、悪を懲め善を勧むるを先とす。『史記』は則ち処士を退け奸雄を進め、『漢書』は則ち忠臣を抑え主闕を飾る。これ並びに曩賢得失の例、良史是非の準なり、作者これを詳かに言う。頃、史官の註記は、多く監修に稟取り、楊令公は則ち「必ず直詞を須うべし」と雲い、宗尚書は則ち「宜しく多く悪を隠すべし」と雲う。十羊九牧、その事行い難く、一国三公、適従焉にか在る。その不可なること四なり。窃かに史に監修を置くは、古式無きも、その名号を尋ぬれば、言うを得べし。夫れ監と雲うは、蓋し総領の義なり。紀を創めて年を編むれば、則ち年は断限有り、伝を草して事を叙すれば、則ち事は豊約有り。或いは略すべくして略さず、或いは書くべくして書かず、これ刊削の例を失うなり。詞を属し事を比するに、労逸宜しく均しくすべく、鉛を揮い墨を奮うに、勤惰須らく等しからん。某の帙某の篇は、この職に付し、某の紀某の伝は、この官に帰す。これ銓配の理なり。これ並びに宜しく科条を明らかに立て、区域を審かに定むべし。もし人思いて自ら勉むれば、則ち書立成すべし。今、監する者は既に指授せず、修むる者は又遵奉無し。用いて争いて苟且を学び、務めて相推避し、坐して炎涼を変じ、徒らに歳月を延ばす。その不可なること五なり。凡そこの不可、その流れ実に多し、一言以て蔽えば、三隅自ずから反す。而して時談物議、焉んぞ笑わんや、仆の編次聞こえ無きを。比者、伏して明公の毎に汲汲として勧誘に、勤勤として課績に在るを見る。或いは雲う、墳籍の事重し、努力して心を用いよ、或いは雲う、歳序已に淹りたり、何時にか手を輟まん。窃かに思うに、綱維挙がらずして、督課徒らに勤む。たとえ次骨の刑を以て威し、懸金の賞を以て勧むとも、終に得べからず。語に曰く、「力を陳べて列に就く、能わざれば則ち止む。」仆の比者、知己に懐を布き、歴に群公を詆し、屡に載筆の官を辞し、記言の職を罷めんと願う所以のもの、正にこの為なり。当今、朝は人を得たりと号し、国は多士と称す。蓬山の下には、良直差肩し、蕓閣の中には、英奇接武す。仆は既に功を刻鵠に虧き、筆麟を獲ず、徒らに太官の膳を殫くし、虚しく長安の米を索む。本職を以て乞い、その旧居に還り、多く簡書に謝し、賢路を避けんことを請う。惟れ明公足下、哀みてこれを許したまえ。

原文僕自策名士伍,待罪朝列,三為史臣,再入東觀,竟不能勒成國典,貽彼後來者,何哉?靜言思之,其不可者五也。何者?古之國史,皆出自一家,如魯、漢之丘明、子長,晉、齊之董狐、南史,鹹能立言不朽,藏諸名山,未聞藉以眾功,方雲絕筆。唯後漢東觀,大集群儒,而著述無主,條章靡立。由是伯度譏其不實,公理以為可焚,張、蔡二子紀之於當代,傅、范兩家嗤之於後葉。今史司取士,有倍東京,人自以為荀、袁,家自稱為政、駿。每欲記一事,載一言,皆閣筆相視,含毫不斷。故首白可期,而汗青無日。其不可一也。前漢郡國計書,先上太史,副上丞相;後漢公卿所撰,始集公府,乃上蘭臺。由是史官所修,載事為博。原自近古,此道不行,史臣編錄,唯自詢采。而左右二史,闕註起居;衣冠百家,罕通行狀。求風俗於州郡,視聽不該;討沿革於臺閣,簿籍難見。雖使尼父再出,猶且成其管窺,況限以中才,安能遂其博物。其不可二也。昔董狐之書法也,以示於朝;南史之書弒也,執簡以往。而近代史局,皆通籍禁門,幽居九重,欲人不見。尋其義者,由杜彼顏面,防諸請謁故也。然今館中作者,多士如林,皆願長喙,無聞舌。倘有五始初成,一字加貶,言未絕口而朝野具知,筆未棲毫而搢紳鹹誦。夫孫盛實錄,取嫉權門;王韶直書,見讎貴族。人之情也,能無畏乎!其不可三也。古者刊定一史,纂成一家,體統各殊,指歸鹹別。夫《尚書》之教也,以疏通知遠為主;《春秋》之義也,以懲惡勸善為先。《史記》則退處士而進奸雄,《漢書》則抑忠臣而飾主闕。斯並曩賢得失之例,良史是非之準,作者言之詳矣。頃史官註記,多取稟監修,楊令公則雲「必須直詞」,宗尚書則雲「宜多隱惡」。十羊九牧,其事難行;一國三公,適從焉在?其不可四也。竊以史置監修,雖無古式,尋其名號,可得而言。夫言監者,蓋總領之義耳。如創紀編年,則年有斷限;草傳敘事,則事有豐約。或可略而不略,或應書而不書,此失刊削之例也。屬詞比事,勞逸宜均;揮鉛奮墨,勤惰須等。某帙某篇,付之此職;某紀某傳,歸之此官。此銓配之理也。斯並宜明立科條,審定區域,倘人思自勉,則書可立成。今監之者既不指授,修之者又無遵奉。用使爭學茍且,務相推避,坐變炎涼,徒延歲月。其不可五也。凡此不可,其流實多,一言以蔽,三隅自反。而時談物議,焉得笑仆編次無聞者哉!比者伏見明公每汲汲於勸誘,勤勤於課績。或云墳籍事重,努力用心;或云歲序已淹,何時輟手?竊以綱維不舉,而督課徒勤,雖威以次骨之刑,勖以懸金之賞,終不可得也。語曰:「陳力就列,不能則止。」仆所以比者布懷知己,歷詆群公,屢辭載筆之官,願罷記言之職者,正為此耳。當今朝號得人,國稱多士。蓬山之下,良直差肩;蕓閣之中,英奇接武。仆既功虧刻鵠,筆未獲麟,徒殫太官之膳,虛索長安之米,乞以本職,還其舊居,多謝簡書,請避賢路。惟明公足下哀而許之。

至忠はその才を惜しみ、史任を解くことを許さず。宗楚客はその正直を嫉み、諸の史官に謂いて曰く、「この人の作する書かくの如し、我を何の地に置かんと欲するか」と。

原文至忠惜其才,不許解史任。宗楚客嫉其正直,謂諸史官曰:「此人作書如是,欲置我何地!」

時に知幾は又『史通子』二十巻を著し、史策の体を備え論ず。太子右庶子徐堅は深くその書を重んじ、嘗て雲う、「史職に居る者は、宜しくこの書を座右に置くべし」と。知幾は自ら史才を負い、常に時に知己無きを慨き、乃ち国史を著作郎呉兢に委ね、別に『劉氏家史』十五巻・『譜考』三巻を撰す。漢氏を推して陸終の苗裔と為し、堯の後ならずとす。彭城叢亭裏の諸劉は、宣帝の子楚孝王囂の曾孫、司徒しと居巢侯劉愷の後より出で、楚元王交を承けず。皆按拠明白にして、前代の誤れる所を正す。流俗に譏らるるも、学者その該博に服す。初め、知幾は毎に雲う、もし封を受くれば、必ず居巢を以て名と為し、司徒の旧邑を紹がんと。後に『則天実録』を修むる功を以て、果たして居巢県子に封ぜらる。又、郷人は知幾兄弟六人進士及第し、文学に知名なるを以て、その郷里を高陽郷居巢里と改む。

原文時知幾又著《史通子》二十卷,備論史策之體。太子右庶子徐堅深重其書,嘗云:「居史職者,宜置此書於座右。」知幾自負史才,常慨時無知己,乃委國史於著作郎吳兢,別撰《劉氏家史》十五卷、《譜考》三卷。推漢氏為陸終苗裔,非堯之後。彭城叢亭裏諸劉,出自宣帝子楚孝王囂曾孫司徒居巢侯劉愷之後,不承楚元王交。皆按據明白,正前代所誤,雖為流俗所譏,學者服其該博。初,知幾每雲若得受封,必以居巢為名,以紹司徒舊邑;後以修《則天實錄》功,果封居巢縣子。又鄉人以知幾兄弟六人進士及第,文學知名,改其鄉里為高陽鄉居巢里。

景雲中、累遷して太子左庶子となり、崇文館学士を兼ね、仍って旧く国史を修め、銀青光禄大夫を加う。時に玄宗東宮に在り、知幾は名音上名に類するを以て、乃ち子玄と改む。二年、皇太子将に親しく国学に釈奠せんとす。有司儀註を草し、従塵を令して皆馬に乗り衣冠を著けしむ。子玄進みて議して曰く、

原文景雲中,累遷太子左庶子,兼崇文館學士,仍依舊修國史,加銀青光祿大夫。時玄宗在東宮,知幾以名音類上名,乃改子玄。二年,皇太子將親釋奠於國學,有司草儀註,令從塵皆乘馬著衣冠。子玄進議曰:

古くは大夫以上の者は皆、車に乗り、馬を驂服そえうまとした。魏・晋以降、隋の時代に至るまで、朝士はまた牛車を駕し、歴代の経史には、いずれもその事があり、一々言うことはできない。例えば李広が北征した際には鞍を解いて休息し、馬援が南伐した際には鞍に寄りかかって顧みた。これらは鞍馬の設けが軍旅において行われ、戎服を着て乗るものは、便習を貴んだのである。按ずるに、江左では官が尚書郎に至って軽々しく馬に乗れば、御史に弾劾された。また顔延之は官を罷めた後、好んで馬に乗って閭裏に出入りし、当時はその放誕を称した。これは専車に憑軾するには朝衣を着け、単馬に鞍を御するには褻服に従うべきで、近古に求めれば、明らかな証拠である。皇家が運を撫でて以来、沿革は時に従う。陵廟の巡謁や王公の冊命には、盛服に冠履し、輅車に乗る。士庶で衣冠を着て親迎する者も、時に服箱を以て充馭とする。他の事柄では、もはや車に乗らず、貴賤の行うところ、通用するのは鞍馬のみである。臣が拝見するに、近ごろ鑾輿が出幸し、法駕が途に就くとき、左右の侍臣は皆、朝服を着て馬に乗っている。冠履を着けて出るのは、ただ車に配して行うべきであり、今や乗車は既に停まり、冠履は変わらない。これはただその一を知りてその二を知らざるというべきである。なぜなら、褒衣博帯、革履高冠は、本来馬上に施すべきではなく、自ずから車中の服である。必ずや襪を履いて鐙に昇り、跣足で鞍に乗れば、古道に師せざるのみならず、自ら今俗を驚かすこととなる。折衷を求めれば、進退ともに適わない。かつ長裾広袖は襜如として翼の如く、鳴珮行組は鏘鏘として奕奕たり、風塵の内に馳驟し、旌棨の間に出入りする。もし馬が驚逸し、人が顛墜すれば、遂に属車の右に履を遺して収めず、清道の傍に驂を絓けて相続くこととなり、固より行路に嗤われ、威儀を損なう。今、議者は皆、秘閣に『梁武帝南郊図』があり、危冠を戴いて馬に乗る者が多い、これは近代の故事であり、その文なしとは謂えないと言う。臣が案ずるに、この図は後人の為したもので、当時の撰ではない。かつ世間に古今の図画があることは多い。例えば張僧繇が『群公祖二疏』を画けば、兵士に芒屩を履く者があり、閻立本が『明君入匈奴』を画けば、婦人に帷帽を着ける者がある。芒屩は水郷に出で、京華の所有する所ではなく、帷帽は隋代に創まり、漢官の作った所ではない。議者はどうしてこの二画を徴して故実と為すことができようか。これによって言えば、『梁氏南郊之図』の義もこれと同じである。また傅に俗に因ると称し、礼は情に縁るを貴ぶ。殷の輅、周の冕は規模一ならず、秦の冠、漢の佩は用捨常ならず。況んや我が国家は道百王を軼し、功万古に高く、事に不便あれば、理変通に資す。その乗馬衣冠は、窃かに省廃に従うべしと謂う。臣がこの異議を懐くこと、その来ること久しく、日暇あらずして、未だ搉楊に及ばず。今、殿下が親しく歯胄に従い、将に国学に臨まんとし、凡そ衣冠を着て馬に乗る者は、皆この行を憚る。故に輒ち狂言を進め、鄙見を申す。

原文古者自大夫已上,皆乘車而以馬為騑服。魏、晉已降,迄乎隋代,朝士又駕牛車,歷代經史,具有其事,不可一二言也。至如李廣北征,解鞍憩息;馬援南伐,據鞍顧盼。斯則鞍馬之設,行於軍旅;戎服所乘,貴於便習者也。按江左官至尚書郎而輒輕乘馬,則為御史所彈。又顏延之罷官後,好騎馬出入閭裏,當代稱其放誕。此則專車憑軾,可擐朝衣;單馬禦鞍,宜從褻服。求之近古,灼然之明驗也。自皇家撫運,沿革隨時。至如陵廟巡謁,王公冊命,則盛服冠履,乘彼輅車。其士庶有衣冠親迎者,亦時以服箱充馭。在於他事,無復乘車,貴賤所行,通用鞍馬而已。臣伏見比者鑾輿出幸,法駕首途,左右侍臣,皆以朝服乘馬。夫冠履而出,只可配車而行,今乘車既停,而冠履不易,可謂唯知其一而未知其二也。何者?褒衣博帶,革履高冠,本非馬上所施,自是車中之服。必也韈而升鐙,跣以乘鞍,非唯不師古道,亦自取驚今俗。求諸折中,進退無可。且長裾廣袖,襜如翼如,鳴珮行組,鏘鏘奕奕,馳驟於風塵之內,出入於旌棨之間,倘馬有驚逸,人從顛墜,遂使屬車之右,遣履不收,清道之傍,絓驂相續,固以受嗤行路,有損威儀。今議者皆云秘閣有《梁武帝南郊圖》,多有危冠乘馬者,此則近代故事,不得謂無其文。臣案此圖是後人所為,非當時所撰。且觀代間有古今圖畫者多矣,如張僧繇畫《群公祖二疏》,而兵士有著芒屩者;閻立本畫《明君入匈奴》,而歸人有著帷帽者。夫芒屩出於水鄉,非京華所有;帷帽創於隋代,非漢官所作。議者豈可征此二畫,以為故實者乎?由斯而言,則《梁氏南郊之圖》,義同於此。又傅稱因俗,禮貴緣情。殷輅周冕,規模不一;秦冠漢佩,用舍無常。況我國家道軼百王,功高萬古,事有不便,理資變通,其乘馬衣冠,竊謂宜從省廢。臣懷此異議,其來自久,日不暇給,未及搉楊。今屬殿下親從齒胄,將臨國學,凡有衣冠乘馬,皆憚此行,所以輒進狂言,用申鄙見。

皇太子の手令を外に付して宣行せしめ、仍って令に編入し、常式と為す。

原文皇太子手令付外宣行,仍編入令,以為常式。

開元初年、左散騎常侍に遷り、修史は従前の如し。九年、長子の貺が太楽令として、事を犯して配流された。子玄が執政に訴えて理を訴えると、上聞いてこれを怒り、これにより安州都督ととく府別駕に貶授された。子玄は国史を掌知し、首尾二十余年、多く撰述し、甚だ当時に称せられた。礼部尚書鄭惟忠が嘗て子玄に問うて曰く、「古より以来、文士多くして史才少なし、何ぞや」と。対えて曰く、「史才には須らく三長有り、世に其人無きを以て、故に史才少なし。三長とは、才なり、学なり、識なり。学有りて才無きは、亦た猶お良田百頃、黄金満籝有りて、愚者をして営生せしめ、終に貨殖に致ること能わざる者と同し。才有りて学無きは、亦た猶お匠石を兼ねて思ひ、巧みこと公輸の若くして、家に楩楠斧斤無くば、終に其の宮室を成すことを果たさざる者と同し。猶お須らく是を好みて正直にし、善悪必ず書き、驕主賊臣をして懼るる所以を知らしむ。此れ則ち虎に翼を傅え、善を知る無く、向かう所敵無き者なり。脱しくも其の才に非ざれば、史任に叨るべからず。夐古より以来、能く斯の目に応ずる者は、其の人を罕にす」と。時人、知言と為す。子玄は安州に至り、幾ばくも無くして卒す。年六十一。幼少より長ずるまで、述作に倦まず、朝に論著有れば、必ず其の職に居る。『三教珠英』『文館詞林』『姓族系録』の撰修に預かり、『孝経』は鄭玄の註に非ず、『老子』は河上公の註に非ずと論じ、『唐書実録』を修す。皆、代に行わる。集三十巻有り。後数年、玄宗は河南府に勅して家に就き『史通』を写して進めしむ。読んで之を善とし、汲郡太守を追贈す。尋いで又、工部尚書を贈り、謚して文と曰う。

原文開元初,遷左散騎常侍,修史如故。九年,長子貺為太樂令,犯事配流。子玄詣執政訴理,上聞而怒之,由是貶授安州都督府別駕。子玄掌知國史,首尾二十餘年,多所撰述,甚為當時所稱。禮部尚書鄭惟忠嘗問子玄曰:「自古已來,文士多而史才少,何也?」對曰:「史才須有三長,世無其人,故史才少也。三長:謂才也,學也,識也。夫有學而無才,亦猶有良田百頃,黃金滿籝,而使愚者營生,終不能致於貨殖者矣。如有才而無學,亦猶思兼匠石,巧若公輸,而家無楩楠斧斤,終不果成其宮室者矣。猶須好是正直,善惡必書,使驕主賊臣,所以知懼,此則為虎傅翼,善無可知,所向無敵者矣。脫茍非其才,不可叨居史任。自夐古已來,能應斯目者,罕見其人。」時人以為知言。子玄至安州,無幾而卒,年六十一。自幼及長,述作不倦,朝有論著,必居其職。預修《三教珠英》、《文館詞林》、《姓族系錄》,論《孝經》非鄭玄註、《老子》河上公註,修《唐書實錄》,皆行於代,有集三十卷。後數年,玄宗敕河南府就家寫《史通》以進,讀而善之,追贈汲郡太守;尋又贈工部尚書,謚曰文。

兄の知柔は、少より文学政事を以て、荊・揚・曹・益・宋・海・唐等州の長史刺史、戸部侍郎、国子司業、鴻臚卿、尚書右丞、工部尚書、東都留守を歴任す。卒して、太子少保を贈られ、謚して文と曰う。代々儒学の業を伝え、時人は述作を以て其の家を名づく。

原文兄知柔,少以文學政事,歷荊揚曹益宋海唐等州長史刺史、戶部侍郎、國子司業、鴻臚卿、尚書右丞、工部尚書、東都留守。卒,贈太子少保,謚曰文。代傳儒學之業,時人以述作名其家。

子玄の子、貺・餗・匯・秩・迅・迥は、皆、時に知名なり。

原文子玄子貺、餗、匯、秩、迅、迥,皆知名於時。

子玄の子 貺

原文子玄子 貺

貺は、経史に博通し、天文・律暦・音楽・医算の術に明るく、終に起居郎・修国史に至る。『六経外伝』三十七巻、『続説苑』十巻、『太楽令壁記』三巻、『真人肘後方』三巻、『天宮旧事』一巻を撰す。

原文貺,博通經史,明天文、律歷、音樂、醫算之術,終於起居郎、修國史。撰《六經外傳》三十七卷、《續說苑》十卷、《太樂令壁記》三卷、《真人肘後方》三卷、《天宮舊事》一卷。

子玄の子 餗

原文子玄子 餗

餗は、右補闕・集賢殿学士・修国史。『史例』三巻、『伝記』三巻、『楽府古題解』一巻を著す。

原文餗,右補闕、集賢殿學士、修國史。著《史例》三卷、《傳記》三卷、《樂府古題解》一卷。

子玄の子 匯

原文子玄子 匯

匯は、給事中・尚書右丞・左散騎常侍・荊南長沙節度使。集三巻有り。

原文匯,給事中、尚書右丞、左散騎常侍、荊南長沙節度,有集三卷。

子玄の子 秩

原文子玄子 秩

秩は、給事中・尚書右丞・国子祭酒。『政典』三十五巻、『止戈記』七巻、『至徳新議』十二巻、『指要』三巻を撰す。喪紀制度に加籩豆すること、私鋳銭を許すこと、国学を改制することについて論じ、事は各々本志に在り。

原文秩,給事中、尚書右丞、國子祭酒。撰《政典》三十五卷、《止戈記》七卷、《至德新議》十二卷、《指要》三卷。論喪紀制度加籩豆,許私鑄錢,改制國學,事各在本志。

子玄の子 迅

原文子玄子 迅

迅は、右補闕。『六説』五巻を撰す。

原文迅,右補闕,撰《六說》五卷。

子玄の子に迥がいる。

原文子玄子 迥

迥は、諫議大夫・給事中となり、文集五巻がある。

原文迥,諫議大夫、給事中,有集五卷。

子玄の諸孫。

原文子玄諸孫

貺の子に浹・滋がおり、匯の子に贊がいる。滋は貞元中に宰輔の位に至った。贊は観察使となり、独自に伝がある。

原文貺子浹、滋,匯子贊。滋,貞元中位至宰輔。贊,觀察使,自有傳。

徐堅。

原文徐堅

徐堅は、西台舎人斉聃の子である。若くして学問を好み、経史を遍く読み、性質は寛厚で長者の風があった。進士に挙げられ、累進して太学を授けられた。聖暦年中、車駕が三陽宮にあった時、御史大夫楊再思・太子左庶子王方慶が東都留守となり、堅を判官に引き立て、表奏を専ら彼に委ねた。方慶は『三礼』の学に詳しく、疑義があると常に堅に質問したが、堅は必ず旧説を徴引し、訓釈を詳しく明らかにしたので、方慶は大いにこれを良しとした。またその文章が典実であることを賞賛し、常に「綸誥を掌る選なり」と称した。再思もまた「これは鳳閣舎人の模範であり、このような才識は逃れ得ない」と言った。堅はまた給事中徐彦伯・定王府倉曹劉知幾・右補闕張説と共に『三教珠英』を編修した。当時、麟台監張昌宗及び成均祭酒李嶠がその事を総領し、広く文詞の士を引き入れ、日夜談論し、詩を賦し会合したが、数年を経ても筆を下すことができなかった。堅はただ一人で説と構想を練って撰録し、『文思博要』を基本とし、さらに『姓氏』・『親族』の二部を加え、次第に条理がまとまった。諸人は堅らの規制に従い、間もなく書は完成し、堅は司封員外郎に遷った。則天はまた堅に『唐史』を刪改するよう命じたが、則天が位を譲ったため中止となった。

原文徐堅,西臺舍人齊聃子也。少好學,遍覽經史,性寬厚長者。進士舉,累授太學。聖歷中,車駕在三陽宮,御史大夫楊再思、太子左庶子王方慶為東都留守,引堅為判官,表奏專以委之。方慶善《三禮》之學,每有疑滯,常就堅質問,堅必能征舊說,訓釋詳明,方慶深善之。又賞其文章典實,常稱曰:「掌綸誥之選也。」再思亦曰:「此鳳閣舍人樣,如此才識,走避不得。」堅又與給事中徐彥伯、定王府倉曹劉知幾、右補闕張說同修《三教珠英》。時麟臺監張昌宗及成均祭酒李嶠總領其事,廣引文詞之士,日夕談論,賦詩聚會,歷年未能下筆。堅獨與說構意撰錄,以《文思博要》為本,更加《姓氏》、《親族》二部,漸有條匯。諸人依堅等規制,俄而書成,遷司封員外郎。則天又令堅刪改《唐史》,會則天遜位而止。

神龍初め、再び給事中に遷った。時に雍州の人韋月将が上書して武三思の臣に非ざる行跡を告げたが、逆に三思に陥れられ、中宗は即座に彼を殺すよう命じた。時は盛夏であった。堅は上表して言った。「月将は良善を誣構し、故意に制命に違ったので、その情状に照らせば、厳誅に処すのが誠に相応しい。しかし今は朱夏の時節であり、天道は生長を主とする。即座に明らかな刑戮を行うのは、時令に背きます。謹んで『月令』を按ずるに、『夏に秋の令を行えば、丘隰に水潦が起こり、禾稼は熟さず』とあります。陛下は霊命を誕膺され、聖図を中興され、義・軒の風を弘め、史策の美を光らせようとされているのに、どうして時に非ずして刑戮を行い、和気を傷つけることがありましょうか。君の挙動は必ず記録され、何をもって訓戒とすべきでしょうか。伏して国典に詳らかに依り、秋分まで許されることを願います。そうすれば、刑を恤しむ規矩が千載に冠たり、哀れみ憐れむ恵みが四海に洽うことを知るでしょう。」中宗は堅の上奏を容れ、遂に決杖とし、嶺表に配流するよう命じた。

原文神龍初,再遷給事中。時雍州人韋月將上書告武三思不臣之跡,反為三思所陷,中宗即令殺之。時方盛夏,堅上表曰:「月將誣構良善,故違制命,準其情狀,誠合嚴誅。但今硃夏在辰,天道生長,即從明戮,有乖時令。謹按《月令》:『夏行秋令,則丘隰水潦,禾稼不熟。』陛下誕膺靈命,中興聖圖,將弘義、軒之風,以光史策之美,豈可非時行戮,致傷和氣哉!君舉必書,將何以訓?伏願詳依國典,許至秋分,則知恤刑之規,冠於千載;哀矜之惠,洽乎四海。」中宗納堅所奏,遂令決杖,配流嶺表。

睿宗が即位すると、堅は刑部侍郎から銀青光禄大夫を加えられ、左散騎常侍に拝され、間もなく黄門侍郎に転じた。時に監察御史李知古が兵を請うて姚州西貳河の蛮を撃ち、降伏させた後、また城を築き、重く税を課すことを請うた。堅は蛮夷は生梗であり、羈縻して属させることはできても、華夏の制と同じにはできず、師を労して遠くに渉り、損うところが獲るところを補わないとして、独り不便と建議した。睿宗は従わず、知古に剣南の兵を発して城を築かせ、州県を設置しようとした。知古はこれによりその豪傑を誅し、子女を没して奴婢としようとした。蛮衆は恐懼し、乃ち知古を殺し、相率いて反叛したため、役徒は奔潰し、姚・巂の路はこれにより数年不通となった。

原文睿宗即位,堅自刑部侍郎加銀青光祿大夫,拜左散騎常侍,俄轉黃門侍郎。時監察御史李知古請兵以擊姚州西貳河蠻,既降附,又請築城,重征稅之。堅以蠻夷生梗,可以羈縻屬之,未得同華夏之制,勞師涉遠,所損不補所獲,獨建議以為不便。睿宗不從,令知古發劍南兵往築城,將以列置州縣。知古因是欲誅其豪傑,沒子女以為奴婢。蠻眾恐懼,乃殺知古,相率反叛,役徒奔潰,姚、巂路由是歷年不通。

堅の妻は侍中岑羲の妹である。堅は羲と近親であることを理由に、固く機密の職を辞し、乃ち太子詹事に転じ、人に「敢えて高位を求めるのではなく、難を避けるためである」と言った。羲が誅された時、堅はついに連座を免れた。絳州刺史として出向し、五転して再び秘書監に入った。開元十三年、再び左散騎常侍に遷った。その年、玄宗が麗正書院を集賢院と改め、堅を学士とし、張説に副えて院事を知らせ、累進して東海郡公に封じられた。東封の儀注を修め、及び太山に昇った功績により、特旨をもって光禄大夫を加えられた。堅は典故に多く通じ、前後して格式・氏族及び国史などを修撰し、凡そ七度書府に入ったので、当時の論はこれを称えた。十七年に卒し、年七十余であった。上は深く悼惜し、中使を遣わして家に弔問させ、内より絹布を出して賻し、太子少保を贈り、諡して文といった。堅の長姑は太宗の充容となり、次姑は高宗の婕妤となり、共に文藻があった。堅父子は詞学をもって著聞し、議者はこれを漢代の班氏に比した。

原文堅妻即侍中岑羲之妹,堅以與羲近親,固辭機密,乃轉太子詹事,謂人曰:「非敢求高,蓋避難也。」及羲誅,堅竟免坐累。出為絳州刺史,五轉復入為秘書監。開元十三年,再遷左散騎常侍。其年,玄宗改麗正書院為集賢院,以堅為學士,副張說知院事,累封東海郡公。以修東封儀註及從升太山之功,特加光祿大夫。堅多識典故,前後修撰格式、氏族及國史等,凡七入書府,時論美之。十七年卒,年七十餘。上深悼惜之,遣中使就家吊,內出絹布以賻,贈太子少保,謚曰文。堅長姑為太宗充容,次姑為高宗婕妤,並有文藻。堅父子以詞學著聞,議者方之漢世班氏。

元行沖。

原文元行沖

元行沖は、河南の人で、後魏の常山王素連の後裔である。幼くして孤となり、外祖父の司農卿韋機に養われた。博学で多くのことに通じ、特に音律及び詁訓の書に詳しかった。進士に挙げられ、累転して通事舎人となり、納言狄仁傑は大いに彼を重んじた。行沖は性質として阿順せず、多く規誡を進め、かつて仁傑に言った。「下が上に仕えるのは、蓄積して自らを資するのと同じです。譬えば貴家が儲積すれば、脯臘膎胰を以て滋膳を供え、参術芝桂を以て屙疾を防ぎます。伏して門下の賓客で、旨味に堪えうる者は多いと存じますが、願わくは小人を以て一つの薬物を備えさせてください。」仁傑は笑って人に言った。「これは我が薬籠中の物であり、どうして一日も欠くことができようか。」九遷して陜州刺史となり、隴右・関内両道按察使を兼ねたが、赴任せず、太常少卿に拝された。

原文元行沖,河南人,後魏常山王素連之後也。少孤,為外祖司農卿韋機所養。博學多通,尤善音律及詁訓之書。舉進士,累轉通事舍人,納言狄仁傑甚重之。行沖性不阿順,多進規誡,嘗謂仁傑曰:「下之事上,亦猶蓄聚以自資也。譬貴家儲積,則脯臘膎胰以供滋膳,參術芝桂以防屙疾。伏想門下賓客,堪充旨味者多,願以小人備一藥物。」仁傑笑而謂人曰:「此吾藥籠中物,何可一日無也!」九遷至陜州刺史,兼隴右、關內兩道按察使,未行,拜太常少卿。

行沖は、本族が後魏より出ているのに編年の史がないとして、『魏典』三十巻を撰した。事は詳しく文は簡潔で、学者に称えられた。初め魏の明帝の時、河西の柳谷の瑞石に牛が馬の後に継ぐ象があり、魏収の旧史は晋の元帝は牛氏の子で、司馬姓を冒して石文に応じたとしていた。行沖は事跡を推尋し、後魏の昭成帝の名が犍であり、晋に継いで天命を受けたことを以て、謡讖を考校し、論を著してこれを明らかにした。

原文行沖以本族出於後魏,而未有編年之史,乃撰《魏典》三十卷,事詳文簡,為學者所稱。初魏明帝時,河西柳谷瑞石有牛繼馬後之象,魏收舊史以為晉元帝是牛氏之子,冒姓司馬,以應石文。行沖推尋事跡,以後魏昭成帝名犍,繼晉受命,考校謠讖,著論以明之。

開元初め、太子詹事より岐州刺史として出向し、また関内道按察使を充てた。行沖は自ら書生として博撃の任に堪えられないとし、固く按察を辞したので、乃ち寧州刺史崔琬を代わりとした。間もなく再び右散騎常侍・東都副留守に入った。時に嗣彭王誌暕の庶兄誌謙が人に誣告されて謀反を企てたとされ、拷訊により自ら誣伏し、獄に繋がれて報を待ち、連座する者十数人に及んだが、行沖はその冤濫を察し、共に奏してこれを赦した。四遷して大理卿となった。時に揚州長史李傑が侍御史王旭に陥れられ、詔が下って大理に罪を結ばせたが、行沖は傑が歴政清貞であるとして、讒邪に枉げて構えられるべきでないとし、また奏請して軽い条によりこれを出そうとした。当時は従われなかったが、深く時の論に称えられた。間もなくまた固く刑獄の官を辞し、散職を求めた。七年、再び左散騎常侍に転じた。九遷して国子祭酒となり、一ヶ月余りで太子賓客・弘文館学士に拝された。累進して常山郡公に封じられた。

原文開元初,自太子詹事出為岐州刺史,又充關內道按察使。行沖自以書生不堪博擊之任,固辭按察,乃以寧州刺史崔琬代焉。俄復入為右散騎常侍、東都副留守。時嗣彭王誌暕庶兄誌謙被人誣告謀反,考訊自誣,繫獄待報,連坐十數人,行沖察其冤濫,並奏原之。四遷大理卿。時揚州長史李傑為侍御史王旭所陷,詔下大理結罪,行沖以傑歷政清貞,不宜枉為讒邪所構,又奏請從輕條出之。當時雖不見從,深為時論所美。俄又固辭刑獄之官,求為散職。七年,復轉左散騎常侍。九遷國子祭酒,月餘,拜太子賓客、弘文館學士。累封常山郡公。

先に、秘書監馬懐素が学者を集めて王儉の『今書七志』を継ぎ、左散騎常侍褚無量が麗正殿で四部書を校写していたが、事が未だ成就せずに懐素・無量が卒したので、詔して行沖に総代してその職を執らせた。ここにおいて行沖は表を上って古今の書目を通撰することを請い、名を『群書四録』とし、学士鄠県尉毋煚・櫟陽尉韋述・曹州司法参軍殷踐猷・太学助教余欽らに命じて分部して修検させ、一年余りで書が完成し、奏上すると、上はこれを嘉した。また特に行沖に命じて御所注の『孝経』の疏義を撰させ、学官に列した。間もなく衰老を理由に麗正殿校写書事の知を罷めた。

原文先是,秘書監馬懷素集學者續王儉《今書七志》,左散騎常侍褚無量於麗正殿校寫四部書,事未就而懷素、無量卒,詔行沖總代其職。於是行沖表請通撰古今書目,名為《群書四錄》,命學士鄠縣尉毋煚、櫟陽尉韋述、曹州司法參軍殷踐猷、太學助教余欽等分部修檢,歲餘書成,奏上,上嘉之。又特令行沖撰禦所註《孝經》疏義,列於學官。尋以衰老罷知麗正殿校寫書事。

初めに、左衛率府長史魏光乗が奏上して、魏徴の注した『類礼』を行用することを請うたので、上は直ちに行沖に命じて学者を集めて『義疏』を撰せしめ、学官に立てんとせしめた。行沖はここにおいて国子博士範行恭・四門助教施敬本を引きいて検討刊削せしめ、五十巻を勒成し、十四年八月に奏上した。尚書左丞相張説が駁奏して曰く、「今の『礼記』は、前漢の戴徳・戴聖の編録したところにして、歴代伝習し、既に千年に近く、経教として著され、刊削すべからず。魏の孫炎に至りて初めて旧本を改め、類を以て相ひ比し、抄書と同じきあり、先儒の非とするところとなり、竟に行用せられざりき。貞観中、魏徴、孫炎の修したるに因り、更に整比を加え、兼ねて之に注せり。先朝は厚く賞錫を加えしも、其の書竟に行用せられざりき。今行沖等、征の注したるを解し、一家を勒成す。然れども先儒と乖違し、章句隔絶せり。若し行用せんと欲せば、窃かに未だ可ならざるを恐る」と。上、其の奏を然りとし、ここにおいて行沖等に絹二百匹を賜ひ、其の書を内府に貯へ留め、竟に学官に立つることを得ず。行沖、諸儒の己を排するを恚り、退きて論を著して自ら釈し、名づけて『釈疑』と曰ふ。其の詞に曰く、

原文初,有左衛率府長史魏光乘奏請行用魏征所註《類禮》,上遽令行沖集學者撰《義疏》,將立學官。行沖於是引國子博士範行恭、四門助教施敬本檢討刊削,勒成五十卷,十四年八月奏上之。尚書左丞相張說駁奏曰:「今之《禮記》,是前漢戴德、戴聖所編錄,歷代傳習,已向千年,著為經教,不可刊削。至魏孫炎始改舊本,以類相比,有同抄書,先儒所非,竟不行用。貞觀中,魏征因孫炎所修,更加整比,兼為之註,先朝雖厚加賞錫,其書竟亦不行。今行沖等解征所註,勒成一家,然與先儒第乖,章句隔絕,若欲行用,竊恐未可。」上然其奏,於是賜行沖等絹二百匹,留其書貯於內府,竟不得立於學官。行沖恚諸儒排己,退而著論以自釋,名曰《釋疑》。其詞曰:

客が主人に問うて曰く、「小戴の学は、行わるること既に久し。康成の銓註は、学官に見列す。伝聞するに魏公、乃ち刊易有りと。又制旨を承け、疏を造りて将に頒たんとす。未だ二経の孰れか優劣たるを悉さず」と。主人答えて曰く、「小戴の礼は、漢末に行わる。馬融之に註す、時に未だ睹ざる所なり。盧植二十九篇を分合して説解を為し、代に伝習せず。鄭絪子幹、季長に師す。党錮の獄起こるに属し、師門の道喪え、康成竄伏の中に於いて、紛拿の典を理め、志は探究に存し、諮謀する所靡し。而れども猶緝述して疲れを忘れ、義を聞きて能く徙うこと、『鄭志』に具わり、向に百科有り。章句の徒、曾て窺覧せず、猶覆轍に遵い、頗る刻舟に類す。王肅之に因り、重ねて茲に開釈し、或は多く改駁し、仍本篇に按ず。又鄭学の徒に、孫炎なる者有り、玄義を扶くるも、乃ち前編を易う。自後条例支分し、箴石間より起こる。馬伷増革し、向に百篇を逾え、葉遵刪修し、僅に十二を全うす。魏公群言の錯雑を病み、衆説の精深を䌷う。経文同じからず、未だ刊正を敢えず。註理睽誤す、寧くも芟礱せざらんや。成り畢りて上聞す、太宗嘉賞し、縑千匹を賫し、儲籓に録賜す。将に頒宣せんと期し、未だ疏義有らず。聖皇業を纂ぎ、古に耽り儒を崇ぶ。高曾の規矩、宜しく修襲すべき所、乃ち昏愚に制し、旧義を甄分す。其れ往説を註遺し、理新文に変ずる有らば、務めて搜窮を加え、積稔にして方に畢る。具に録して呈進し、勅して群儒に付す。庶くは能く斟詳して、以て疏密を課せん。豈悟らんや章句の士、昔言を堅持し、特ち知新を嫌い、旧貫に仍らんと欲し、沈疑多月、擯圧して申さず。優劣短長、通識に定まり、手成口答、安んぞ銓量を敢えんや」と。

原文客問主人曰:「小戴之學,行之已久;康成銓註,見列學官。傳聞魏公,乃有刊易;又承制旨,造疏將頒。未悉二經,孰為優劣?」主人答曰:「小戴之禮,行於漢末,馬融註之,時所未睹。盧植分合二十九篇而為說解,代不傳習。鄭絪子幹,師於季長。屬黨錮獄起,師門道喪,康成於竄伏之中,理紛拿之典,誌存探究,靡所咨謀。而猶緝述忘疲,聞義能徙,具於《鄭志》,向有百科。章句之徒,曾不窺覽,猶遵覆轍,頗類刻舟。王肅因之,重茲開釋,或多改駁,仍按本篇。又鄭學之徒,有孫炎者,雖扶玄義,乃易前編。自後條例支分,箴石間起。馬伷增革,向逾百篇;葉遵刪修,僅全十二。魏公病群言之錯雜,䌷眾說之精深。經文不同,未敢刊正;註理睽誤,寧不芟礱。成畢上聞,太宗嘉賞,賫縑千匹,錄賜儲籓。將期頒宣,未有疏義。聖皇纂業,耽古崇儒,高曾規矩,宜所修襲,乃制昏愚,甄分舊義。其有註遺往說,理變新文,務加搜窮,積稔方畢。具錄呈進,敕付群儒,庶能斟詳,以課疏密。豈悟章句之士,堅持昔言,特嫌知新,欲仍舊貫,沈疑多月,擯壓不申,優劣短長,定於通識,手成口答,安敢銓量。」客曰:「當局稱迷,傍觀見審,累朝銓定,故是周詳,何所為疑,不為申列?」答曰:「是何言歟?談豈容易!昔孔安國註壁中書,會巫蠱事,經籍道息。族兄臧與之書曰:『相如常忿俗儒淫詞冒義,欲撥亂反正而未能果。然雅達通博,不代而生;浮學宋株,比肩皆是。眾非難正,自古而然。誠恐此道未申,而以獨智為議也。』則知變易章句,其難一矣。「漢有孔季產者,專於古學;有孔扶者,隨俗浮沈。扶謂產云:『今朝廷皆為章句內學,而君獨修古義,修古義則非章句內學,非章句內學則危身之道也。獨善不容於代,必將貽患禍乎!」則知變易章句,其難二矣。「劉歆以通書屬文,待詔官署,見《左氏傳》而大好之,後蒙親近,欲建斯業。哀帝欣納,令其討論,各遷延推辭,不肯置對。劉歆移書責讓,其言甚切,諸博士等皆忿恨之。名儒龔勝,時為光祿,見歆此議,乃乞骸骨;司空師丹,因大發怒,奏歆改亂前誌,非毀先朝所立。帝曰:「此廣道術,何為毀耶?」由是犯忤大臣,懼誅,求出為河南太守,宗室不典三河,又徙五原太守。以君實之著名好學,公仲之深博守道,猶迫同門朋黨之議,卒令子駿負謗於時。則知變易章句,其難三矣。「子雍規玄數十百件,守鄭學者,時有中郎馬昭,上書以為肅繆。詔王學之輩,占答以聞。又遣博士張融案經論詰,融登召集,分別推處,理之是非,具《呈證論》。王肅酬對,疲於歲時。則知變易章句,其難四矣。「卜商疑聖,納誚於曾輿;木賜近賢,貽嗤於武叔。自此之後,唯推鄭公。王粲稱伊、洛已東,淮、漢之北,一人而已,莫不宗焉。咸云先儒多闕,鄭氏道備,粲竊嗟怪,因求其學。得《尚書註》,退而思之,以盡其意,意皆盡矣。所疑之者,猶未喻焉。凡有兩卷,列於其集。又王肅改鄭六十八條,張融核之,將定臧否。融稱玄註泉深廣博,兩漢四百餘年,未有偉於玄者。然二郊之祭,殊天之祀,此玄誤也。其如皇天祖所自出之帝,亦玄慮之失也。及服虔釋《傳》,未免差違,後代言之,思弘聖意,非謂揚己之善,掩人之名也。何者?君子用心,願聞其過,故仲尼曰:『過也人皆見之,更也人皆仰之』是也。而專門之徒,恕己及物,或攻先師之誤,如聞父母之名,將謂亡者之德言而見壓於重壤也。故王劭《史論》曰:『魏、晉浮華,古道夷替,洎王肅、杜預,更開門戶。歷載三百,士大夫恥為章句。唯草野生以專經自許,不能究覽異義,擇從其善。徒欲父康成,兄子慎,寧道孔聖誤,諱聞鄭、服非。然於鄭、服甚憒憒,鄭、服之外皆仇也。』則知變易章句,其難五也。「伏以安國《尚書》、劉歆《左傳》,悉遭擯於曩葉,見重於來今。故知二人之鑒,高於漢廷遠矣。孔秀產云:『物極則變。比及百年外,當有明直君子,恨不與吾同代者。』於戲!道之行廢,必有其時者歟!仆非專經,罕習章句,高名不著,易受經誣。頃者修撰,殆淹年月,賴諸賢輩能左右之,免致愆尤,仍叨賞賫,內省昏朽,其榮已多。何遽持一己之區區,抗群情之噂〓沓褷,舍勿矜之美,成自我之私,觸近名之誡,興犯眾之禍?一舉四失,中材不為,是用韜聲,甘此沈默也。」

客曰く、「当局は迷いと称し、傍観は審らかなりを見る。累朝銓定す、故に是れ周詳なり。何を為す所の疑いか、申列せざる」と。答えて曰く、「是れ何の言や。談豈容易ならんや。昔し孔安国壁中の書に註し、巫蠱の事に会い、経籍の道息む。族兄の臧之に書して曰く、『相如常に俗儒の淫詞義を冒すを忿り、乱を撥き正に反さんと欲して而も能く果たさず。然れども雅達通博、代を待たずして生ず。浮学宋株、比肩皆是り。衆は非を正し難し、古より然り。誠に恐るらくは此の道未だ申さずして、以て独智を以て議せらるるを』と。則ち知る、章句を変易すること、其の難き一なり。

原文行沖俄又累表請致仕,制許之。十七年卒,年七十七,贈禮部尚書,謚曰獻。

漢に孔季産なる者あり、古学に専らす。孔扶なる者あり、俗に随いて浮沈す。扶産に謂いて云く、『今朝廷皆章句内学を為す。而るに君独り古義を修む。古義を修むれば則ち章句内学に非ず。章句内学に非ざれば則ち身を危うくするの道なり。独り善くするは代に容れられず、必ず将に患禍を貽さんか』と。則ち知る、章句を変易すること、其の難き二なり。

原文吳兢

吳兢は汴州浚儀の人である。志を勵まし勤學し、經史に博通した。宋州の人魏元忠・亳州の人朱敬則は深く器重し、宰相の位に居るに及んで、兢に史才あり、近侍に居るに堪えると薦め、因って史館に直らせ、國史を修めしむ。累月して、右拾遺内供奉を拝す。神龍年中、右補闕に遷り、韋承慶・崔融・劉子玄と『則天實錄』を撰して成り、起居郎に轉ず。俄かに水部郎中に遷り、丁憂して郷里に還る。開元三年に服闋し、疏を抗して言う、「臣が史を修むること已に數十卷成れり。職を停めて家に還りてより、紙札を忘れず、餘功を終へんことを乞ふ」と。乃ち諫議大夫を拝し、前の如く史を修む。俄かに修文館學士を兼ね、衛少卿・右庶子を歷任す。職に居ること殆ど三十年、敘事簡要にして、人用ひて之を稱す。末年は太簡に傷つく。『國史』未だ成らず、十七年、荊州司馬に出で、制して史稿を以て自ら隨ふことを許す。中書令蕭嵩國史を監修し、兢の撰する所の『國史』を取ることを奏し、六十五卷を得たり。累遷して臺・洪・饒・蘄四州刺史、銀青光祿大夫を加へ、相州長垣縣子に遷る。天寶初め官名を改め、鄴郡太守と爲り、入りて恆王傅と爲る。

原文吳兢,汴州浚儀人也。勵誌勤學,博通經史。宋州人魏元忠、亳州人硃敬則深器重之,及居相輔,薦兢有史才,堪居近侍,因令直史館,修國史。累月,拜右拾遺內供奉。神龍中,遷右補闕,與韋承慶、崔融、劉子玄撰《則天實錄》成,轉起居郎。俄遷水部郎中,丁憂還鄉里。開元三年服闋,抗疏言曰:「臣修史已成數十卷,自停職還家,匪忘紙劄,乞終餘功。」乃拜諫議大夫,依前修史。俄兼修文館學士,歷衛少卿、右庶子。居職殆三十年,敘事簡要,人用稱之。末年傷於太簡。《國史》未成,十七年,出為荊州司馬,制許以史稿自隨。中書令蕭嵩監修國史,奏取兢所撰《國史》,得六十五卷。累遷臺、洪、饒、蘄四州刺史,加銀青光祿大夫,遷相州長垣縣子。天寶初改官名,為鄴郡太守,入為恆王傅。

兢嘗て梁・陳・齊・周・隋五代史繁雜なるを以て、乃ち別に『梁』『齊』『周史』各十卷・『陳史』五卷・『隋史』二十卷を撰す。又疏略に傷つく。兢衰耗すと雖も、猶史職を希ふ。而して行步傴僂す。李林甫其の年老を以て用ひず。天寶八年、家に卒す。時に年八十餘。兢卒する後、其の子兢の撰する所の『唐史』八十餘卷を進む。事多く紕繆し、壯年に逮ばず。兢家聚書頗る多く、嘗て其の卷第を目錄し、號して『吳氏西齋書目』とす。

原文兢嘗以梁、陳、齊、周、隋五代史繁雜,乃別撰《梁》、《齊》、《周史》各十卷、《陳史》五卷、《隋史》二十卷,又傷疏略。兢雖衰耗,猶希史職,而行步傴僂,李林甫以其年老不用。天寶八年,卒於家,時年八十餘。兢卒後,其子進兢所撰《唐史》八十餘卷,事多紕繆,不逮於壯年。兢家聚書頗多,嘗目錄其卷第,號《吳氏西齋書目》。

韋述

原文韋述

韋述は司農卿弘機の曾孫なり。父は景駿、房州刺史。述少くして聰敏、文學に志篤し。家に書二千卷有り、述兒童の時、記覽皆遍くす。人駭異す。景龍中、景駿肥鄉令と爲り、述父に從ひて任に至る。洺州刺史元行沖は景駿の姑子、時に大儒と爲り、常に書數車を載せて自ら隨ふ。述其の書齋に入り、寢と食とを忘る。行沖之を異とし、引いて之と談じ、經史を貫穿し、事指掌の如く、賾奧の旨を探る、師資に遇ふが如し。又綴文を試みるに、牘を操りて便ち就く。行沖大いに悅び、之を引いて同榻して曰く、「此れ吾が外家の寶なり」と。進士を舉げ、西に関に入る。時に述甚だ少く、儀形眇小なり。考功員外郎宋之問曰く、「韋學士童年に何の事業か有る」と。述對へて曰く、「性書を著するを好む。述撰する所の『唐春秋』三十卷有り、恨むらくは未だ篇を終へず。至りて詞策に如ては、仰ぎて明試を待つ」と。之問曰く、「本より異才を求む、果たして遷・固を得たり」と。是歲科に登る。

原文韋述,司農卿弘機曾孫也。父景駿,房州刺史。述少聰敏,篤誌文學。家有書二千卷,述為兒童時,記覽皆遍。人駭異之。景龍中,景駿為肥鄉令,述從父至任。洺州刺史元行沖,景駿之姑子,為時大儒,常載書數車自隨。述入其書齋,忘寢與食。行沖異之,引與之談,貫穿經史,事如指掌,探賾奧旨,如遇師資。又試以綴文,操牘便就。行沖大悅,引之同榻曰:「此吾外家之寶也。」舉進士,西入關,時述甚少,儀形眇小。考功員外郎宋之問曰:「韋學士童年有何事業?」述對曰:「性好著書。述有所撰《唐春秋》三十卷,恨未終篇。至如詞策,仰待明試。」之問曰:「本求異才,果得遷、固。」是歲登科。

開元五年、櫟陽尉と爲る。秘書監馬懷素詔を受けて圖書を編次す。乃ち左散騎常侍元行沖・左庶子齊澣・秘書少監王珣・衛尉少卿吳兢並びに述等二十六人を用ふることを奏し、同く秘閣に於て四部書を詳錄す。懷素尋で卒す。行沖代はりて其の事を掌り、五年にして成る。其の總目二百卷。述譜學を好む。秘閣中に常侍柳沖先づ撰する所の『姓族系錄』二百卷を見る。述分課の外に手自ら抄錄し、暮れば則ち懷ひて歸る。是の如く周歲して、寫錄皆畢る。百氏の源流、轉た益々詳悉なり。乃ち『柳錄』の中に於て、別に『開元譜』二十卷を撰成す。其の志篤くして倦みを忘るる、皆此の類なり。

原文開元五年,為櫟陽尉。秘書監馬懷素受詔編次圖書,乃奏用左散騎常侍元行沖、左庶子齊澣、秘書少監王珣、衛尉少卿吳兢並述等二十六人,同於秘閣詳錄四部書。懷素尋卒,行沖代掌其事,五年而成,其總目二百卷。述好譜學,秘閣中見常侍柳沖先撰《姓族系錄》二百卷,述於分課之外手自抄錄,暮則懷歸。如是周歲,寫錄皆畢,百氏源流,轉益詳悉。乃於《柳錄》之中,別撰成《開元譜》二十卷。其篤誌忘倦,皆此類也。

右補闕に轉ず。中書令張說專ら集賢院の事に、述を引いて直學士と爲し、起居舍人に遷す。說詞學の士を重んず。述と張九齡・許景先・袁暉・趙冬曦・孫逖・王幹常に其の門に遊ぶ。趙冬曦の兄冬日、弟知壁・居貞・安貞・頤貞等六人、述の弟迪・逌・迥・起・巡亦六人、並びに詞學にて科に登る。說曰く、「趙・韋の昆季、今の杞梓なり」と。十八年、史官の事を知るを兼ね、屯田員外郎・職方吏部二郎中に轉じ、學士・史官の事を知るは故の如し。及て張九齡中書令と爲るや、即ち集賢の同職、裴耀卿侍中と爲るや、即ち述の舅、皆相推重し、語必ず晷きを移す。二十七年、國子司業に轉じ、史事を知るを停む。俄にして復た史職を兼ね、集賢學士を充つ。天寶初め、左右庶子を歷任し、銀青光祿大夫を加ふ。九載、禮儀使を兼ねて充つ。其の載尚書工部侍郎に遷り、方城縣侯に封ぜらる。

原文轉右補闕,中書令張說專集賢院事,引述為直學士,遷起居舍人。說重詞學之士,述與張九齡、許景先、袁暉、趙冬曦、孫逖、王幹常遊其門。趙冬曦兄冬日,弟知壁、居貞、安貞、頤貞等六人,述弟迪、逌、迥、起、巡亦六人,並詞學登科。說曰:「趙、韋昆季,令之杞梓也。」十八年,兼知史官事,轉屯田員外郎、職方吏部二郎中,學士、知史官事如故。及張九齡為中書令,即集賢之同職,裴耀卿為侍中,即述之舅,皆相推重,語必移晷。二十七年,轉國子司業,停知史事。俄而復兼史職,充集賢學士。天寶初,歷左右庶子,加銀青光祿大夫。九載,兼充禮儀使。其載遷尚書工部侍郎,封方城縣侯。

述書府に在ること四十年、史職に居ること二十年、學を嗜み書を著し、手卷を釋かず。國史は令狐德棻より吳兢に至るまで、累ね修撰すと雖も、竟に一家の言を成さず。述に至りて始めて類例を定め、遺を補ひ闕を續け、勒して『國史』一百十二卷並びに『史例』一卷を成す。事簡にして記詳なり。雅に良史の才有り、蘭陵蕭穎士以爲く譙周・陳壽の流なりと。述早く儒術を以て進み、當代宗仰せらる。而して純厚なる長者、勢利に淡く、道の同じき者は、貴賤を間はず、皆禮を以て之に接す。家に聚書二萬卷、皆自ら校定し鉛槧す。禦府も逮ばざるなり。古今の朝臣圖を兼ね、歷代の知名人畫、魏・晉已來の草隸眞跡數百卷、古碑・古器・藥方・格式・錢譜・璽譜の類、當代名公の尺題、畢備せざる無し。及て祿山の亂に、兩京賊に陷り、玄宗蜀しょくに幸す。述『國史』を抱きて南山に藏す。經籍資產、焚剽殆ど盡きる。述亦賊庭に陷り、偽官を授く。至德二年、兩京を收む。三司罪を議し、渝州に流す。刺史薛舒に困辱せられ、食はずして卒す。其の甥蕭直太尉李光弼の判官と爲る。廣德二年、直因りて入り奏し事を言ひて旨に稱ふ。乃ち疏を上して述を理す。蒼黃の際に、能く『國史』を存し、聖朝の大典を致して遺逸無からしむ。功を以て過を補ひ、恩宥に霑ふに合すと。乃ち右散騎常侍を贈る。

原文述在書府四十年,居史職二十年,嗜學著書,手不釋卷。國史自令狐德棻至於吳兢,雖累修撰,竟未成一家之言。至述始定類例,補遺續闕,勒成《國史》一百一十二卷,並《史例》一卷,事簡而記詳,雅有良史之才,蘭陵蕭穎士以為譙周、陳壽之流。述早以儒術進,當代宗仰,而純厚長者,淡於勢利,道之同者,無間貴賤,皆禮接之。家聚書二萬卷,皆自校定鉛槧,雖禦府不逮也。兼古今朝臣圖,歷代知名人畫,魏、晉已來草隸真跡數百卷,古碑、古器、藥方、格式、錢譜、璽譜之類,當代名公尺題,無不畢備。及祿山之亂,兩京陷賊,玄宗幸蜀,述抱《國史》藏於南山,經籍資產,焚剽殆盡。述亦陷於賊庭,授偽官。至德二年,收兩京,三司議罪,流於渝州,為刺史薛舒困辱,不食而卒。其甥蕭直為太尉李光弼判官,廣德二年,直因入奏言事稱旨,乃上疏理述於蒼黃之際,能存《國史》,致聖朝大典,得無遺逸,以功補過,合霑恩宥。乃贈右散騎常侍。

議ふ者云ふ、唐已來、氏族の盛なる、韋氏に逾ふる無しと。其の孝友詞學は、承慶・嗣立を最とす。音律に明るきは、則ち萬石を最とす。禮義に達するは、則ち叔夏を最とす。史才博識は、述を以て最とす。撰する所の『唐職儀』三十卷・『高宗實錄』三十卷・『御史臺記』十卷・『兩京新記』五卷、凡そ著書二百餘卷、皆代に行はる。

原文議者云自唐已來,氏族之盛,無逾於韋氏。其孝友詞學,承慶、嗣立為最;明於音律,則萬石為最;達於禮義,則叔夏為最;史才博識,以述為最。所撰《唐職儀》三十卷、《高宗實錄》三十卷、《御史臺記》十卷、《兩京新記》五卷,凡著書二百餘卷;皆行於代。

述の弟 逌

原文述弟 逌

逌、學業亦た述に亞ぐ。尤も『三禮』に精し、述と對して學士と爲る。

原文逌,學業亦亞於述,尤精《三禮》,與述對為學士。

述の弟 迪

原文述弟 迪

迪、同く禮官と爲り、時人之を榮しむ。累遷して考功員外郎・國子司業、風疾に以て卒す。

原文迪,同為禮官,時人榮之。累遷考功員外郎、國子司業,以風疾卒。

蕭穎士

原文蕭穎士

蕭穎士は聰儁人に過ぎ、詞學に富み、時に名有り。賈曾・席豫よ・張垍及び述皆引いて談客と爲す。開元二十三年進士第に登る。考功員外郎孫逖朝に於て之を稱す。褊躁にして威儀無く、時に偶はず。前後五たび官を授けらるるも、旋ち駁落す。乾元初め、終に揚府功曹に終於る。

原文蕭穎士者,聰儁過人,富詞學,有名於時,賈曾、席豫、張垍及述皆引為談客。開元二十三年登進士第,考功員外郎孫逖稱之於朝。褊躁無威儀,與時不偶,前後五授官,旋即駁落。乾元初,終於揚府功曹。

述が秘閣に在った時、鄠県尉の母煚、曹州司法の殷踐猷と並びに親しく交わり、二人は相次いで卒した。踐猷は、申州刺史仲容の從子にして、『班史』に明るく、族姓に通じていた。子の寅は、至性有り、早く孤となり、母に事えて孝を以て聞こえた。宏詞挙に応じ、永寧尉となった。

原文述在秘閣時,與鄠縣尉母煚、曹州司法殷踐猷並友善,二人相次卒。踐猷,申州刺史仲容從子,明《班史》,通於族姓。子寅,有至性,早孤,事母以孝聞。應宏詞舉,為永寧尉。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、前代の文學の士は、氣は一なり、然れども道義に偶たまたま乖そむき、斯の難に遭遇す。馬懷素・褚無量は古を好み學を嗜み、博識多聞にして、文を好むの君に遇い、師資の禮を隆くし、儒者の榮、際會と謂うべし。劉・徐等の五公は、學は天人に際し、才は文史を兼ね、西垣・東觀を俾して、一代粲然たり、蓋し諸公の用心する所なり。然れども子玄は當年に郁結し、行沖は極筆に仿徨し、官は俗吏を過ぎず、寵は常才に逮ばず、過ちして然らしむるに非ず、蓋し此の道は時を趨おもむくの具に非ざればなり、其の窮するや宜なるかな。

原文史臣曰:前代文學之士,氣壹矣,然以道義偶乖,遭遇斯難。馬懷素、褚無量好古嗜學,博識多聞,遇好文之君,隆師資之禮,儒者之榮,可謂際會矣。劉、徐等五公,學際天人,才兼文史,俾西垣、東觀,一代粲然,蓋諸公之用心也。然而子玄郁結於當年,行沖仿徨於極筆,官不過俗吏,寵不逮常才,非過使然,蓋此道非趨時之具也,其窮也宜哉!

贊

原文贊

贊に曰く、學者は市の如く、博通は甚だ難し;文士は翰を措とり、典麗は惟これ艱し。馬・褚・兢・術、徐・元・子玄、文學の書、胡ぞ寧なんぞ比ならばんや。

原文贊曰:學者如市,博通甚難;文士措翰,典麗惟艱。馬、褚、兢、術,徐、元、子玄,文學之書,胡寧比焉!